Author Archives: aquacompass7

中国の外縁を一周して 54: 私にとっての中国旅行


bsh

*1

これから中国旅行を通して感じたことを記します。

これまでの海外旅行と中国旅行の関わりから始めます。

< 2. 私の海外旅行 >

私は、60歳定年を機に、夫婦で海外旅行を始め、10数年が経ちました。

私は、会社勤めの時も会社からの視察や慰安旅行などで海外に行ったことはありましたが、多くは定年後です。

訪問した国は、約30年間で35ヵ国ぐらいです。

地図に訪問地を表しました。

多くは緑枠の西ヨーロッパ(ドイツ、フランス、スペインなど)と茶色枠の東アジア(中国、台湾、韓国)です。

他にピンク枠の東欧(チェコ、ハンガリーなど)、バルト三国、バルカン半島、ロシア、中東・アフリカ(トルコ、エジプト、モロッコ)、東南アジア(ベトナム、タイ)に行きました。

私にとって旅行は無くてはならないものになりました。

海外旅行は年1~2回、国内の宿泊旅行は2回ほどと、けっして数は多くありません。

しかし、2週間ほど宙に舞うほどの高揚感を味わわせてくれ、さらには好奇心と探求心を十二分に満足させてくれるものとしては、旅行に勝るものはありません。

特にヨーロッパを巡る旅、中世の街並みや景観、美術品、食事を味わい、そしてちょっとした人々のふれあいは何物にも代えがたいものでした。

東欧や東南アジア、東アジア、中東・アフリカの旅も、それぞれ刺激的でしたし、満足出来るものでした。

しかし数年前から、旅行会社のツアーでは満足できなくなりました。

旅慣れして、世界各地の観光地だけでなく、市民の暮らしぶりにも目が行くようになればなるほど、日本の沈滞と心にゆとりのない暮らしぶりを痛感するようになりました。

そして3年前、ある決心をしました。

それは世界で最も物心共に豊かな国、隣国であり最も成長著しい大国、そして日本に最も影響力がありながら病める大国を直に見ることでした。

最初に紺色枠の北欧(スカンジナビア三国のスウェーデン、ノルウェー、デンマーク)を選び、一人で旅行し、既に紀行文を載せました。

私は30年ほど前に一度視察で訪れ、豊かな自然と落ち着いた町並みだけでなく、企業の経営姿勢と人々の暮らしぶりに大きなカルチャーショックを受けていました。

< 3. 北欧の旅で >

次いで、茶色枠内の中国を夫婦で旅し、現在連載中です。

< 4. 中国の旅で >

実は、今年、赤枠のカナダと米国(ハワイも)を3週間かけて夫婦で回る予定でしたが、コロナで行けなくなりました。

来年は一人で旅行する予定です。

< 5. 米国のイメージ >

つまり、この三つの地域を旅することで、日本の将来が如何にあるべきかが見えてくるように思えるのです。

結論から言えば、北欧の経済と社会、暮らしぶりは予想通りすばらしいものでした。

さらに豊かで多様で持続可能な社会へと変化を遂げているのに脅かされた。

日本が北欧を真似るべきかは別にして、北欧が大戦後の社会変革で、世界トップレベルの国民の幸福を実現したことを知れば、日本国民は改革に向かう必要性と方向性を理解出来るはずです。

一言で言えば中国は脱皮し続け、豊かさを享受し始めているように見える。

中国の経済躍進が、けっして統制経済のような押し付けではなく、活力みなぎる全員参加によるものだと知れば、腰砕けになる可能性が少ないことがわかるはずです。

また国民の暮らしの向上や、大多数の少数民族に不満や問題が無いことを知れば、中国への不安も減るでしょう(北欧に似たものを感じた)。

一方、まだ見ぬ米国を調べれば調べるほど荒れていることに驚く。

巷に溢れるホームレスや頻発する凶悪犯罪を知れば、怖くて旅を躊躇してしまう。

さらにトランプ大統領によって社会の分断と民主主義の破壊も進んでいる。

これらが著しい格差拡大と人種や移民への差別の結果だとしたら、根は深く、米国に未来は無いかもしれない。

やはり、この目で確認しなければ、今後の日米関係を語れない。

ところが隣り合い同じ経済圏・英語圏でもあるカナダは、不思議な事に米国とは違い、国民の幸福度など社会指標はすこぶる良い。

この理由が分かれば、さらに米国の真実に近づけるかもしれない。

私が今望んでいることは海外を旅し、世界を知り、日本を振り返ることです。

< 6. 中華圏の旅 >

私は、会社と個人の旅行を含めて10回ほど中華圏を訪れています。

最初に訪れたのは1980年代だったでしょう。

従って、社会と経済の変化を身をもって知ることが出来ました。

今回の旅行を赤色と水色で示し、赤線は新幹線、赤丸は訪問都市、水色線は空路を示します。

ピンク色は過去の訪問地で、直線は列車と車で、丸は訪問地です。

訪問した都市は、中国で2回行ったのが北京、上海、廈門(客家土楼も)、1回行ったのが桂林、洛陽、西安、蘭州、成都、麗江、昆明、香港、広州です。

台湾は、台北と台湾一周の2回行っています。

訪れた間隔は10年から30年ほど空いているので、生活水準や町の景観の変化がよくわかりました。

最も古い訪問は、香港、広州、廈門、台北です。

20年以上経ってから再訪した台北と廈門の著しい発展に目を見張った。

私にとって中国は、日本に多大な宗教的・文化的影響を与えた国であり、その歴史を知ることは、日本の精神文化を知る手掛かりとなる。

また中国の歴史は多様で始原的で、興味深いものがある。

またここ30年ほどの中国の大躍進は目を見張るものがあり、冷戦後、地に落ちた感がある共産主義にも、何か経済改革のヒントがあるように思えて来た(漠然としているが)。

おそらく20年以内に、GDPで米国を抜き、その後米国を引き離すだろう(韓国も日本を抜くことになる)。

こうなると中国は、日本にとって再重要な経済パートナーになるはずだ。

そうは言っても中国の軍事膨張には不安が残る。

この問題を冷静に判断するには、独裁化し軍事行動を頻発している大国との比較が重要です。

また中国の軍事行動の歴史を知る必要もある。

私達日本人は、どうしても島に閉じ籠りがちで、小さく自己満足に陥り、納得し、洗脳されしてしまい易い。

これを打破しない限り、世界から取り残され、偏向していることすら気付けず、当然、本当に必要な改革論議は掻き消されてしまう。

これこそ日本衰退の遠因だろう。

私が薦める「海外旅行」とは、日本の閉塞状態に気付く旅なのです。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | 2 Comments

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 9: 剣山登山 2


*1

今回は、剣山の頂上と峰歩きを紹介します。

< 2. 剣山の衛星写真>

上: 剣山を南側から見ている

アドバルーンAが剣山頂上(標高1955m)です。

赤矢印が次郎岌(ジロウギュウ)、標高1929mです。

白矢印は私が下山で歩いた遊歩道コースの分岐点です。

写真上部で左右の帯状に見えるのが吉野川で、右方向(東)に徳島市内があります。

剣山山頂から、はぼ真直ぐ北に延びる渓谷が貞光川で、吉野川に注ぐ所が、二層うだつの町並みで紹介した貞光です。

中央: 逆に剣山を北側から見ている

黄色の矢印は、登山リフトの西島駅(上の駅)で、私が登山を始めた場所です。

青矢印は、登山中に見た大きな御塔石と大劔神社の位置です。

茶色の矢印は、「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」です。

ここには設備の整ったトイレがあり、Wi-Fiが使え、避難場所にもなるようです。

使用には一人100円の協力金が必要です。

他の印は上と同じ。

下: 剣山を南側から見て、拡大している

以下に紹介する写真は、茶色の矢印周辺から、剣山山頂を経て、次郎岌への稜線を下り、白矢印の遊歩道コース分岐点までを示します。

< 3. 最後の一息 >

もうすぐで山頂に着きます。

上: 東北方向を望むと深い渓谷が見え、これが穴吹川のようです。

下: 今登って来た道を振り返った

写真には鳥居とヒュッテなどの屋根が写っている。

< 4. 頂上東テラスへの木道 >

山頂エリアはなだらかで植物に覆われている。

そして二つのテラスと山頂の間を木道が繋いでいる。

上: 東テラスに向かう木道

下: 東テラスの端から東を望む

< 5. 頂上に向かう木道から 1 >

上: かまぼこのような建物が「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」

下: 右下に、通って来た「剣山頂上ヒュッテ」が見える

< 6. 頂上に向かう木道から 2 >

上: 来た道を振り返る。

右端に頂上東テラス、その左に「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」の建物、左端に頂上西テラスが見える。

下: 進行方向、左(南)に目をやれば、次郎岌(ジロウギュウ)が見える

< 7. 頂上 >

これが頂上です。

この日は快晴で、風が心地良く、汗ばんだ体を冷やしてくれた。

< 8. いよいよ下山 >

前日に泊まった宿「ラ・フォーレつるぎ山」の主人に、お薦めコースを訪ねると、次郎岌(ジロウギュウ)を見るコースを勧められた。

上: 確かに次郎岌の容姿は絵になる。

これから峰伝いに下ります。

足腰に一抹の不安がよぎる。

下: 下りで、左を見る

右は草木に覆われ、視界は閉ざされている。

< 9. 次郎岌への峰伝いの道 >

なかなか足に堪えるが、ほぼ40年ぶりの登山の醍醐味を味わった。

若い頃に、大山の稜線や、上高地から槍ヶ岳に登った記憶が蘇った。

70数歳にして、登山出来たことに感謝した。

< 10. 途中の道から >

上: 剣山を振り返り、仰ぎ見た

下: 上から稜線を拡大して撮影

< 11. 遊歩道コースの分岐に来た >

上: 前方に次郎岌

直ぐ手前に見える看板で、右に折れて遊歩道コースを進む

下: 遊歩道コースに少し入って、剣山を振り返った

これで剣山の頂上を見ることは出来なくなる。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | Leave a comment

中国の外縁を一周して 53: 雲南省博物館、そして中国を去る


bsh

*1

今回は、雲南省博物館の展示を紹介し、簡単に雲南の歴史も見ます。

今回で、中国の訪問地の紹介を終えます。

ちょうど旅行から1年が経ちました。

< 2. 雲南省博物館 >

上: 外観

中国の革新的な姿勢を感じます。

下: 中に入り、2階から入り口側を望む。

1階フロアの右端に見える青銅器は「战国牛虎铜案」の巨大なレプリカです。

戦国時代(紀元前5~3世紀)の副葬品。

親子の牛と虎が巧みに組み合わされた高い技術を擁する青銅器です。

< 3.展示品、銅鼓など >

左上: 銅鼓

多くは直径1mほどあり、鼓型の青銅器で、儀礼の際具として使用された。

当時は表面が金色燦然(青銅器は皆)と輝き、人々はそれを叩いた時に発する音に神秘性を感じたことだろう。

日本の銅鐸に似た役割を持っていたのかもしれない。

これは紀元前5世紀頃、この昆明地方から始まり、北部ベトナムから東南アジア全域に広がった。

古くから高い青銅器製作技術があった。

私は日本を発った時は、この博物館で銅鼓を見るのが楽しみだった。

しかし麗江の木府内でさり気無く展示されている多くの銅鼓を見ていたので、興味は半減していた。

一方、雲南省博物館は銅鼓の展示を重要視していないようだ。

右上: 前漢時代の地図のようだ

赤矢印に滇池が見え、そこには益州郡と記されている。

当時、中心都市(昆明)は滇池と呼ばれていたようだ。

左下: 時代は不明だが、この地の王が中央政権の特使から何か御下命を受けているシーンのようだ。

例えば8世紀、唐の官吏と南詔の王かもしれない。

右下: 茶葉古道の再現

雲南は辺境ではあったが、東南アジアやインド・チベットへと通じる西南シルクロードの要衝でした。

このことが古くはインド文明を中国に伝え、太平洋戦争では連合軍から中国への補給路となった。

< 4. 石窟と鄭和 >

上:  八大明王窟の実寸大レプリカ

この石窟は大理にあり、南詔王朝末期に始まり、唐後期から南宋の時代にかけて造られた仏教遺跡。

16の洞窟に140体ほどの彫像がある。

下: 鄭和が使った船のレプリカ

鄭和は明の時代、総員3万人、60艘の大船団をもって東南アジアを経てアフリカまでの大航海を7度も果たしている。

彼は昆明にムスリムの子として生まれた。

彼の祖先は、この地にモンゴル帝国が侵攻した折、チンギス・ハーンに従って来た。

この祖先達は重要な官職を得て、ここに定住していた。

彼が活躍した14~15世紀、彼が航海したインド洋と接するアフリカ、アラビア半島、インドと東南アジアの島嶼(マラッカ海峡)はほとんどがイスラム圏になっていた。

これも彼が抜擢された一因になったのだろう。

< 5. 古地図と銅像 >

上: 昆明の城郭地図

地図の城郭内に「昆明県」の文字が見えることから、この地図は元朝以降、おそらくは明朝のものと思われる。

下: 宋代の大理で造られた像

小さな像だが精巧に造られている。

左下の明王像にはチベットの明王像を連想させるものがある。

雲南は、永らくチベット(吐蕃など)と交戦し、また交易や同盟を結ぶ関係にあった。

< 6. 少数民族の楽器と仮面 >

右上: 楽器

下: 仮面

目や口、色彩はバリ島の仮面と似ているが、冠はチベットの仏像に似ている。

この地は、インドや東南アジアの文化が強く影響している。

< 7. 小さな像 >

上: ナシ族の祭祀用で泥偶

下: 清末の石細工

< 8. 民族衣装と新石器時代の村 >

上: 民族衣装

下: 新石器時代の村の様子

雲南の地に、新石器時代の中国の古代文化に類するものがあったとは知らなかった。

しかし、この展示の説明には、この地に仰韶文化(紀元前5000年前~)に一致する文化圏があったと記されている。

その当時の村を再現しているようです。

中国で稲作が始まったのは1万年前の長江中流域だとされている。

そして、その長江上流には雲南がある。

一時、稲作は北東インド(アッサム地方)から長江沿いに伝わっと考えられていた。

そうとすれば、雲南に最古層の定住村があっても当然かもしれない。

今でも、この地には野生種の稲があるそうです。

< 9. 第二次世界大戦の痕跡 >

上: 大戦末期、中国軍がビルマを北上してくる日本軍と国境近くで戦ったと言う展示らしい。

日中戦争で、日本軍は援蒋ルートを断つために、桂林を越えて南下していた。

しかし、戦線が延び切って苦戦を強いられ雲南には至らなかった。

このことを以前、桂林を旅行して始めて知った。

しかし、太平洋戦争で、日本軍が援蒋ルートを断つために、南方から雲南に侵攻していたとも知らなかった。

こんな隔絶された高原の地が、激しい戦いの要因になっていたとは。

旅行で世界各地を訪れると、このようなハットするような歴史を知ることがある。

下: 連合軍が中国を支援する為の軍需物資の運輸ルート(援蒋ルート)四つの内二つを示す。

赤い矢印が昆明、緑の矢印が大理です。

実線の援蒋ルートが最も重要で、ミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(ラング―ン)から昆明、雲南に至る道でした。

ビルマを中心にしたこの一帯で、史上最悪の作戦と言われたインパール作戦(インド)や、映画「戦場にかける橋」になった泰緬鉄道建設(タイ)が行われた。

この博物館には他にも色々見所はあるのでしょうが、私は胃腸の調子が急に悪くなり、存分に楽しむ事が出来なかった。

例えば、青銅製の貯貝器があります。

貨幣として使われたインド洋産の貝殻が貯えられていた。

特に、その容器の蓋に付けられた青銅製の造形物(人や馬・牛など)が面白い。

当時の生活が見えてくるようです。

< 10. 博物館近くの町並み >

博物館を出て、バスでホテルに戻る予定だった。

しかし、路線番号を間違えて乗ってしまった。

途中で気付き、行き過ぎたバス停で下車し、本来のルートまで徒歩で戻り、乗り継いでホテルに着いた。

この時、スマホで百度地図による位置の確認が出来て良かった。

お陰で時間に間に合った。

次いでホテルに預けておいたスーツケースを引取り、ホテルのすぐ前から発車するリムジンバスに乗り、昆明空港に向かった。

昆明空港からは直行便で関空に無事着いた。

こうして15日間の中国旅行は、大したトラブルも無しに終えました。

次回からは、中国旅行で感じた事などを記します。

Categories: uncategorized | 1 Comment

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 8: 剣山登山 1


*1

これから数回に分けて、四国の剣山を紹介します。

今回は、登頂までの道のりです。

登頂したのは、2020年6月8日、快晴でした。

< 2. 剣山登山ルート >

上: 剣山を北側から見た図

北側、見ノ越の剣山登山口から頂上に至るルートは概ね4本あります。

私が登ったルートは太い二本の赤線の右側で、大剣神社経由です。

登山口から歩いて頂上を目指すことも出来ますが、多くは登山リフトに乗り、登山道を途中から歩くことになるようです。

私もそのようにしました。

下: 北を上にした登山ルート

私が登ったルートは赤線で、登り約60分、中程度の道です。

下山ルートは異なる道を選びました。

*剣山について

この山は西日本では、同じ四国の石鎚山に次いで二番目に高く、1955mあります。

この山は徳島県にあり、吉野川沿いに行くことが出来るので、近畿から近くて便利です。

また見ノ越の登山口、標高1420mから15分間リフトに乗り、降りた西島駅の標高は1750mで、頂上までは標高差200m足らずなので、登り易い。

登山道はそれぞれ異なる景色を楽しめる、登り易いルートがあるので、簡単に高山を楽しめます。

私は約30年ぶりに登りましたが、充分に楽しめました。

< 3. 登山リフト 1 >

このリフトの距離は830mあり、そよ風に吹かれながら進行方向右側の景色を存分に楽しめます。

< 4. 登山リフト 2 >

上: 剣山頂上が見えます

< 5. 登山リフト 3 >

上: 谷間は祖谷渓でしょう。

下: 西島駅です

< 6. 西島江を降りた所 >

上: 登山道を示す、鳥居と看板が見える

下: 同じ場所から右側を振り返った

< 7. いよいよスタート >

私はこの鳥居の道を進みました。

下山時は右側の道を戻って来ました。

< 8. 最初は林間を進む >

比較的、緩い坂道が続きます。

時折、右手の視界が開けます。

*9

< 10. 大剣神社を目指す >

左上方に大きな岩が見えます。

途中で道が分かれており、左手を進みます。

ここからは道が急峻になり、低い笹で覆われた開けた景色に変わります。

やがて大剣神社が見えます。

< 11. さらに進みます >

< 12.やがて頂上ヒュッテが見える >

この時、登山道の階段として置かれていた石を叩きながら整備している老人を見ました。

有難いことをする人が居るものだと感心した。

後に、テレビでこの老人がヒュッテの主人だと知ることになった。

< 13. 眼下の眺め >

上: 霞んではいるが、吉野川と両岸の街並みが見える。

下: 登山道を振り返った

< 14. 剣山本宮剣神社の鳥居が見えた >

これでほぼ登頂したことになる。

この歳で登れたことに感謝した。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | Leave a comment

中国の外縁を一周して 52: 昆明、二度目の繁華街


*1

今回は、二度目の繫華街、南屏街を紹介します。

次いで、翌日の雲南省博物館までのバスからの眺めを紹介します。

この日が、中国旅行最後の日になります。

< 2. ルート図、上が北 >

上: 赤線が西山龍門石窟観光後、地下鉄に乗り南屏街まで行ったルートです。

青線は、南屏街で夕食とショッピング後、ホテルまで帰ったバスのルートです。

星印がバス乗り場であり、ショッピングしたところです。

下: 上記の星印の位置を拡大した

< 3. 南屏街 1 >

< 4. 南屏街 2 >

ここはデパート、世纪广场の前で、2階と3階にスーパーマーケットのCarrefour(家乐福)が有ります。

私はこのデパートで土産物を買い、夕食をとりました。

< 5. 夕食のレストラン >

ここは牛肉ステーキを注文すると、食べ放題のバイキングが可能になります。

当初、私はバイキング形式の食事をしたかったのですが、小さめのステーキを頼むことになった。

もうこれで腹八分目になってしまい、バイキングはをあまり楽しめなかった。

それでもセットの価格が安いのには驚いた。

客は若い人や家族連れで一杯でした。

今回のフリーの旅行で強く印象を受けた一つは、食の多様化でした。

ツアーで行くと、どうしても定番の中華料理なってしまっていた。

それはそれで良かったのですが、現実は、様々な地域や国の料理が取り入れられ、かつ安く提供されていることに気付かされた。

中国の進取の気質がここでも遺憾なく発揮されている。

< 6. 翌朝、雲南省博物館を目指して >

上: バスのルート、上が北

バスは40分ぐらい乗っていたでしょうか。

下: バスターミナル、昆明汽车客运站

ここはホテルと雲南駅(鉄道)の中間にあました。

少し奥まった所にあるので、分かり難いかもしれません。

到着してどのバスに乗って良いが分からないでいた時、年配の人が寄って来て、行先を聞き、乗るバスを教えてくれた。

旅先での親切は有難いものです。

< 7. 乗ったバス >

上: 私が乗ったバスと同型の二階建てです。

下: 私は二階の先頭に座りました。

< 8. 昆明の朝の様子 >

バスの車窓からの景色は、2019年10月19日(火)、8時半前後に撮影したものです。

*9

*10

雲南省昆明は中国の端にあるが、けっして地方都市ではなく、大都会でした。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | Leave a comment

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 7: 剣山へ


*1

今回は、貞光川沿いに剣山へ向かいます。

ドライブしたのは2020年6月7日14時頃からでした。

< 2. 地図、上が北 >

上: 今回3日間で巡ったルート全体

黒矢印が走行ルートと向きを示す。

赤矢印が今回紹介するルート。

Mが剣山。

下: 今回紹介するルート

赤矢印が今回紹介するルート。

Hが一泊するラ・フォーレつるぎ山。

Mが剣山の山頂。

< 3. 貞光川沿いの道と民家 >

下: 下流側を望む

左側の急斜面に畑が見える。

かつてこのような所でタバコの葉が栽培されていたのだろうか?

< 4.貞光川 >

上下の写真はほぼ同じ位置から撮影。

上: 下流側

下: 上流側

< 5. さらに登ると >

やがて貞光川から離れ、深い樹林を抜けるようになった。

< 6. 時折、眺望が開ける >

< 7. ホテルに到着 >

下: ホテルの前から剣山の頂上が見えた。

このホテルは元々、剣山が眺望できるように建てられた。

しかしその前の木々が伸びてしまって、見づらくなった。

ホテルの三階まで上がると良く見えるようになる。

< 8. ホテル周辺を散策 >

< 9. 剣山山頂 >

上: 剣山山頂のロッジの青い屋根が見える

下: ホテルの庭から北側を望む

夕焼けだ!

明日は快晴だぞ!

30年ぶりの剣山登山だ!

< 10. 早朝の散歩 >

上: 山頂には雲一つない

下: お地蔵さんが微笑んでいるようでした。

清々しい冷気の中、温かい陽射しが周りを包んでいた。

< 11.剣山登山口を目指して出発 >

上: 昨晩、この道を散策していると、親子鹿が横断しているのを見かけた。

薄ぐら闇の中、鹿が声を発し、こちらを見た親鹿の目が光っていた。

どっきとした一瞬でした。

下: 下山後、この祖谷渓に沿って下って行く

< 12。 剣山のリフト乗り場へ >

登山口のすぐ近くにリフトがあり、私はリフトで中腹に向かいます。

上: 目の前の山の中央にリフトが通っている

下: 登山口周辺の建物が見えて来た

次回から、剣山登山を紹介します。

Categories: uncategorized | Leave a comment

中国の外縁を一周して 51: 西山龍門石窟 2


*1

前回に続いて、西山森林公園にある龍門石窟を紹介します。

絶景を堪能しました。

龍門石窟の後半を見た後、昆明中心街に向かいました。

この日が中国旅行最後の宿泊日になりました。

< 2. 恐ろしい程の絶壁 >

中国人は、よほど絶壁が好きなようです。

道教のイメージが根付いているのでしょうか。

古来より、中国では高山や岩山、絶壁が仙人や道教の修行者の舞台になっていました。

後に日本でも、役行者や山伏、修験者が道教や仏教を取り入れて、険しいく奥深い山を修行の場として来ました。

私は、高所恐怖症気味なのですが、他の多くの観光客と一緒に歩いていると怖さを忘れることが出来ました。

*3

< 4. よく紹介されている「龍門」の門 >

< 5. ご苦労様! >

かつての命がけで行われた掘削工事に感謝しました。

*6

< 7. これから向かう先 >

下: 石窟から北側を望む

滇池が細長く北に延びている。

ここを下ってから、湖畔の左側を地下鉄で昆明中心街へと向かうことになる。

< 8. 道教の寺 >

< 9. これが最後の階段 >

龍門石窟の下りは楽でした。

逆はかなりきついでしょう。

ほとんどの観光客は下っていました。

< 10. バッテリーカーで >

上: 龍門石窟を終えると、バッテリーカーでバス停まで行きます。

この乗車券は事前に購入していました。

バスは地下鉄駅「西山公園」の近くまで行きます。

そこで3号線の地下鉄に乗りました。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | 2 Comments

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 6: 貞光、二層うだつの街並み


*1

今回も、前回に続いて旧庄屋家、また別に国の文化財の商家を紹介します。

< 2. 旧永井家庄屋屋敷の見取り図 >

下 : 雪隠の望む

上 : 全体の見取り図

中央: 母屋の平面図

< 3. 隠し部屋と古地図 >

左上: 仏間

右上: 仏間から台所側を望む

この裏に隠し部屋があり、武器庫になっている。

この部屋に武器を持った人が待機することもあったそうです。

左下: 上記の隠し部屋

右下: 仏間に置いてあった地図、貞光を示しているようだ。

上が北で、東西に流れる吉野川が見える。

また南北に流れる貞光川と左に並行している貞光の街並みが見える。

下(南)に行くと剣山に至る。

< 4. 台所 >

< 5.次の建物へ >

上: 母屋を出て、向かいにある藍の作業場へ

下: 振り返って母屋を見る

< 6. 藍の作業場の中へ >

上: 作業場の左手に、私が入ったのとは別の門が見える。

下: 作業場の二階

実は作業場に入っても、土間があるだけで何の変哲もなかったので写真を撮りませんでした。

後で知ったのですが、この土間で刈り取った藍の葉を約100日間発行させていた。

つまり藍の生産工場だったのです。

二階は作業員の宿舎だったようです。

*藍染めについて

既に室町時代、阿波藍は製造され流通していたと考えられます。

製造量は、江戸時代から明治にかけて増加し、全国市場を支配するようになった。

現在、徳島県の藍の生産量は全国シェアの大半を占めている。

なぜ、徳島で盛んになったのか?

堤防が築かれていなかった吉野川は、毎年、台風の時期に川は氾濫し、大洪水が起きていました。

台風は稲刈りの時期の前に来ることが多かったで、大きな損害を被る危険性があり稲作には適さなかった。

その点、台風の前に刈り取りが終わってしまう藍作は、徳島県に適した産業でした。

また、藍の収穫後の藍畑に肥沃な土を流入させ、同じ土地に続けて植えることの難しい藍の連作を可能にしたことも幸いした。

この貞光の町は、剣山に至る一宇街道の交易で発展したのですが、その交易品は山岳部の産であったたばこの葉と、貞光の藍(染料)が重要だった。

< 7. 二階からの眺め >

上: 二階にあった展示品を望む

< 8. 街道に戻る >

左上: 二層うだつ

右上: 鏝(コテ)で描かれた鯉の滝登り

共に貞光の特色ある造り。

下: 街並みの南側を望む

剣山は見えないが剣山の方向になる。

< 9. 織本家 >

明治時代、酒造業を営む商家として再建された。

国の登録文化財。

ここも無料で入場可能でした。

事前に庄屋屋敷の管理人が、織本家の管理人は留守だが、入れることを電話で確認してくれていた、

親切な対応は本当にありがたい。

< 10.部屋を見て回る >

広い土間はあったが、酒造業の名残りを感じさせるものはほとんどなかった。

しかし、立派な家屋でした。

< 11. 二階に上がる階段 >

下: 二階に上がる階段があった。

冒険心をくすぐるような造りでした。

ここから二階に行きました。

< 12. 二階の様子 1 >

< 13. 二階の様子 2 >

大きいが板敷で居住用と言うよりは、物置のようです。

造りも複雑で、段差がありました。

1階への降り口は、別にもう一つありました。

次回は、剣山手前にあるホテルまで山道を走ります。

Categories: uncategorized | Leave a comment

中国の外縁を一周して 50: 西山龍門石窟 1


*1

これから、西山森林公園にある龍門石窟を二回にわけて紹介します。

この龍門石窟は昆明観光の人気ナンバーワンです。

中国らしい絶景が楽しめるスポットです。

< 2. 観光地図 >

上: 西山森林公園内の龍門石窟部分を切り出した地図

赤矢印: 雲南民俗村近くと西山森林公園を結ぶロープウェイ

黒矢印: 龍門石窟の上部入口まで結ぶリフト

黄矢印: 徒歩で下る龍門石窟のルート

ピンク矢印: 龍門石窟出口からバス乗り場間の電動カー

茶矢印: 地下鉄駅の西山公園に向かうバス

ロープウェイとリフト駅の周辺に電動カーとバス停、車の駐車場が集まっています。

私は矢印の順に進みました。

海埂公园側からロープウェイに乗ったのが13:30頃で、歩いて龍門石窟を下り、電動カーでバス停に着いたのが15:30頃でした。

そこからはバスに乗って西山森林公園を縦断し、地下鉄で昆明中心部に向かいました。

下: 龍門石窟に点在する寺院が幾つか断崖の緑の中に見えます。

この範囲は上の地図の左側に相当します。

< 3. ロープウェイから 1 >

上: ほぼ西山森林公園の全容が見えます。

下: 進行方向右側、北側を望む。

滇池の入り江部分が奥に延びている。

< 4.ロープウェイから 2 >

左上: ロープウェイ乗場の方を振り返る

右上: 龍門石窟がある絶壁

下: 滇池を越えると、ロープウェイは一気に高度を上げる。

< 5. リフト乗場へ >

上: 対岸手前側の緑が多い範囲が雲南民俗村辺りです。

その左手奥が昆明の中心部です。

下: リフトに乗り、振り返ったところ

*料金と利用順序について

先ず下のロープウェイ乗り場でロープウェイだけの料金を払います。

ロープウェイを降りると、直ぐに切符売り場があります。

そこでまとめて切符を購入します。

龍門石窟門票(入場料30元)、龍門索道票(リフト片道運賃25元)、电瓶车票(電動カー片道運賃10元)、环保大巴票(バス片道運賃12.5元)がすべて必要です。

料金は一人分で、龍門石窟門票だけは60~70歳半額、70歳以上無料です。

お薦めの順序は、先ずリフトに乗り、上から下に龍門石窟を巡ることです。

逆はかなりきついです。

< 6. リフト 1 >

上: 進行方向左

滇池が眼下に広がる。

下: 山頂の寺院が微かに見える。

< 7. リフト 2 >

上: 実はこの眼下の山肌に小石林が広がっているはずでしたが、木々が鬱蒼としていてほとんど隠れていました。

世界遺産で有名な雲南の石林は昆明から120kmも離れています。

下: 振り返ったところ

昆明の中心部が見えます。

< 8. いよいよ龍門石窟へ >

*9

*10

先ずは、急な石段を降ります。

手摺りの直ぐ外は、真っ逆さまの墜落を連想させます。

興味津々、やがて聞きしに勝る絶景が広がります。

*  西山龍門石窟について

龍門石窟と言えば、唐代に遡る洛陽の仏教遺跡が有名ですが、昆明ではここです。

これは断崖絶壁に開削された雲南省最大規模の道教石窟群です。

古くは、明の時代、16世紀初めに道士が掘削した石室に始まります。

それ以降、螺旋道や洞(石室)が断崖絶壁に彫り込まれて行きました。

今は5ヶ所の道教寺院(石室)を全長67mの階段が結んでいます。

次回に続きます。

Categories: uncategorized | Tags: | 2 Comments

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 5: 吉野川から貞光へ 


1DSC03680-1

*1

 

これから剣山に向かってドライブします。

途中、吉野川の潜水橋と二層うだつの町並みで知られる貞光を訪れます。

今回は、脇町潜水橋と貞光にある旧庄屋屋敷を紹介します。

 

2

< 2. 訪問地マップ、上が北 >

 

上: 全体図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

地図中央下部の赤字: 剣山

 

下: 拡大図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

赤い矢印: 剣山に向かう道路

 

 

3

< 3.脇町潜水橋 >

 

上: 南側から潜水橋を望む

私が立っているのは大きな中洲の舞中島です。

この橋の幅は車1台分しかありません。

昭和の初めまで、ここは渡しで行き来したそうです。

 

下: 対岸の右手がうだつの町並みがある脇町

 

 

 

4

< 4. 下流側を望む >

 

川幅は広く、底は浅い。

30年ほど前、子供を連れて、この上流の貞光辺りから下流の穴吹辺りまでの吉野川で泳ぎました。

当時、水は透き通り、美しい自然の中で遊ぶことが出来ました。

 

 

5

< 5. 上流側 >

 

 

6

< 6. 貞光に到着 >

 

私は昼食を、直ぐ近くの「道の駅 貞光ゆうゆう館」でとりました。

コロナ騒動の時でしたが、レストランは開いていました。

眺めも良く、居心地の良いレストランでした。

 

街並みを見るのに駐車場が見当たらなかったので、つるぎ町役場に停めました。

 

上: 松尾神社が見える。

役場の駐車場から出て、松尾神社の前で交差点を左に折れると、二層うだつの町並みが見えるはずです。

 

下: 古い商店街は続くが、うだつは見えない。

 

 

7

< 7. やがてうだつが見えて来た >

 

確かに、こちらはうだつが二層になっている。

しかし脇町に比べると、何か雰囲気が違うと言うか、伝統家屋の町並みと言うより寂れた街並みにしか見えない。

 

何が違うのか?

多くの古い家屋がここ半世紀の間に現代の商店に改修されているようだが、既に古くなっている。

この通りは統一された伝統的家屋の保存が出来ていないのか?

 

さらに見て行くとある違いに気が付いた。

通りが広く、通りの向きが吉野川に直行している。

つまり貞光川に並行し、山に向かっている通りと言える。

また家屋の二階の高さが高く、二階は住居として供され普通の窓が見られる。

一方、脇町では二階の天井が低く、漆喰壁に虫籠窓があるのがほとんどでした。

 

この違いは、この通りの出来た由来と時期が、脇町と異なる事が大きい。

 

一宇から剣山に通じる一宇街道(旧街道)がここ貞光から始まった。

ここは山の産物と平野の産物の交易で発展し、その街道沿いに商家が並んだ。

一方脇町は、城下町と撫養街道が交わった近くの川湊に沿って商家が並んだ。

貞光と脇町は、ほぼ同時期(江戸時代、蜂須賀家)から発展したが、貞光の町並みづくりが少し遅れたことにより、貞光の商家は防火目的よりは豪華さを競って二層のうだつにしたようです。

 

 

 

 

 

8

< 8. 通りを右に折れて入る >

 

下:  旧永井家庄屋屋敷が見えた。

江戸中期に建築された庄屋屋敷です。

左手に無料の駐車場(7台ぐらい)があった。

 

 

9

< 9. 門の前に来た >

 

上: 駐車場から写真を撮っている。

 

 

 

10

< 10. 門を入る >

 

上: 入ると、右手に立派な庭園がある。

 

下: 少し進むと正面に玄関らしいものが見えたが、入口は左らしい。

平屋の屋根は茅葺だ。

 

 

 

11

< 11. 倉庫らしき物が見える >

 

上: 左に曲がると、中庭を隔て二階建ての倉庫らしきものが見えた。

 

下: 右手直ぐに平屋建物への入口があった。

そこを入ると、大きな土間のある台所だった。

私が、この土間に入ると、直ぐに女性が出て来て、どうぞ見てく下さいと促された。

ここの入場料は無料でした。

観光客をまったく見なかったが、管理人が居ながら無料とは、少し悪い気がした。

 

写真はこれから座敷に上がる入口を示している。

 

 

 

12

< 12. 座敷に上がる >

 

上: 先ほど紹介した玄関らしき所に、花が生けられていた。

 

下: 立派な庭が見える。

 

 

13

< 13. 立派な構え >

 

槍が掛けられている。

名字帯刀が許されていた。

建物の説明は音声案内で流された。

 

 

14

*14

 

 

15

< 15.一番奥から振り返った >

 

下: 天井の写真

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 4 Comments

中国の外縁を一周して 49: 雲南民俗村を楽しむ 3


1DSC01000-1

*1

 

 

今回で、雲南民俗村の紹介は最後になります。

最後に、巨大な湖、滇池に面した海埂公园を紹介します。

 

 

2a

< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 雲南民俗村と海埂公园

3回にわたって紹介した散策ルートを赤、茶、黒、橙色の線で示します。

右上から始め、中央の下で終わります。

 

下: 今回の雲南民俗村の散策ルート

前回に続いてSから始め、Rで昼食をとり、出口Eで場外に出ます。

 

 

3

< 3. 今回紹介する少数民族の衣装 >

 

Hui= 回族(カイ族)、man=满族(マン族)、bai=白族(ペイ族)

Naxi=纳西族(ナシ族)、meng=蒙古族

 

これらの衣装は、何処までが正式な伝統衣装かは不明です。

今、中国の若い人は民族衣装をコスプレとして楽しみ、ネットで様々にアレンジされたものが多く販売されている。

 

man=满族(マン族)の冠は、清朝の皇女の大きなカツラを連想させる。

 

bai=白族(ペイ族)の冠には白い羽飾りが付いている。

これは未婚女性のもので、民族名の由来だそうです。

 

Naxi=纳西族(ナシ族)の装束では、タスキがどうやら特徴のようです。

 

meng=蒙古族は人口が多く、部族が異なると衣装もかなり異なる。

 

 

 

4DSC00980-1

< 4.回族のモスク(清真寺) >

 

蘭州で、立派なモスクを見ました。

 

 

* 回族について

 

中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団で、言語・形質等は漢民族と同じです。

中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

 

回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。

 

同じイスラム教徒でも、問題になっているウイグル族との違いは何か?

 

彼らは、遊牧民のテュルク系遊牧民族(トルコ系)でウイグル語を話す。

彼らは新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに暮らし、人口約1千万人です。

彼らの宗派はイスラム教スンナ派です。

 

一方、回族の宗派もスンナ派だが古いタイプのHanafi派です。

恐らくは、イスラム教では宗派が異なると交流が進まないので、言語・形質も異なる回族ではウイグル族の影響を受けないのだろう。

 

成都や蘭州で回族を多く見ました。

 

 

5

< 5. 満族の家 1 >

 

* 満族(満洲族)について

 

ツングース系民族で、古くは女真族と呼ばれ、狩猟と簡単な遊牧・農耕も行っていた。

17世紀に清朝を興した。

現在、中国全土に1000万人、雲南に1万人程いるが、これは清の時代に来た人々です。

漢人との交流が長いので、漢民族に同化してしまっているようだ。

どこまで生活や住まいに、満州民族の伝統を残しているかは分からない。

 

面白い現象がある。

ここ十年ほどで満族の人口が3.5倍に増加している。

これは中国が少数民族を優遇しているので、優遇措置を受ける為だそうです。

 

* 中国の少数民族の優遇政策について

 

漢民族に適用されていた「一人っ子政策」は少数民族には適用されていなかった(現在、中国全体で廃止)。

少数民族の学生は進学で優遇され、例えば学費減免や奨学金、入学試験の加点などがある。

少数民族の家庭に支給される一人っ子手当てが漢民族家庭の2倍であったり、職場内で昇進しやすいこともあるようです。

 

実は、このような少数者の立場向上を図る優遇政策は他でも見られる。

例えば、共産党以外の政党が認められているが、共産党以外の党に属している者には官吏採用の優先枠がある。

米国やインドのアファーマティブ・アクションに似た事が行われている。

 

私達、日本人は、マスコミから中国の悪い面だけを印象付けれているが、実は内部では、様々な融和策や弱者対策が広く行われている。

 

日本はこれに比べてどうでしょうか?

国連からも非難されていたアイヌの旧土人保護法が廃止されたのは、やっと1997年でした。

 

 

6

< 6. 満族の家 2 >

 

 

 

7

< 7. 満族の家 3 >

 

 

8

< 8. 昼食のレストラン 1 >

 

ここは民族餐厅(民族村北路店)で、最も大きくて、ほぼ中央にあります。

ビュフェ形式の食事があり、写真奥の方でやっています。

私は単品料理を注文しました。

品数は多く無く、料理は手軽なものが多いようでした。

 

上: 店内

 

下: 写真に見えるレジで注文します。

 

 

9

< 9. レストラン 2 >

 

上: 厨房です。

 

下: 注文した料理。

特段に美味しいわけではないが、日頃食べない味を楽しめた。

 

 

10

< 10. 白族の村 >

 

上: 大理のシンボルと言われる崇聖寺の三塔のレプリカ。

そこそこの大きさがあります。

これで大理に行かずとも見ることが出来た。

 

下: 白族の村

立派な造りの家が並ぶ。

さすが一時、今の雲南の領域に大理国を建国しただけはある。

残念ながら13世紀に元(モンゴル帝国)に滅ぼされた。

 

* 白族について

 

雲南省大理を中心に住むチベット系民族。

約人口190万人の内、約120万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、漢語をペー語に取り入れている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、中国語で乳扇と呼ばれているチーズが知られている。

漢族の雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。

米を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

 

以前、福建省で客家料理を食べた時、日本の醤油味に似ており、美味しく食べたことがある。

 

 

11

< 11. 纳西族の家  >

 

麗江で宿泊したホテルがこのような造りだったので驚きはなかった。

しかし他の少数民族の家屋に比べると立派な事に気が付いた。

これも茶葉古道の要衝として栄えたからだろう。

 

 

12

< 12.麻栏式民居 >

 

この建物は中国南部(雲南など)に多い様式で、木や竹で造られた2階建です。

2階に人が住み、1階は動物小屋になる。

桂林の山岳民族にも似た家屋があった。

恐らくは湿気を避けるための工夫でしょう。

 

纳西族については「中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで」などで紹介しています。

 

 

* 蒙古族について

 

四川省・雲南省のモンゴル族は、元朝以降に移住した人々です。

遊牧民から稲作を中心にした農業に転換した一方で、習俗などはモンゴル族のものを残している。

蒙古族の人口は約600万あり、モンゴル国の人口が約300万人なので、中国国内の方が多い。

 

 

* 中国旅行の少数民族について感じたこと

 

今回の「中国の外縁を一周して」の旅で、知りたかったことの一つが、中国の少数民族の今の暮らしと歴史でした。

 

中国政府は、チベットとウイグル族の扱いで、世界から人権蹂躙を非難されている。

また今回、私が旅行しようとしたら、突如として香港が騒乱状態となり、迂回しなけらばならなくなった。

中国は、香港や台湾に対しても高圧的な態度をとり続けている。

 

これらは、いつか暴発する可能性があり、内乱から経済混乱へと至り、日本などに多大な影響を与えるかもしれない。

この事が気になり、少数民族問題が起きそうな「中国の外縁近辺」を旅先に選んだ。

そして新疆ウイグル自治区に近く回族が多い蘭州、多くの少数民族が暮らす麗江と昆明を旅した(歴史的・文化的な興味もあり)。

 

今、私が感じている事は、中国は想像以上に弱者(少数民族など)に配慮し優遇政策を行い、融和を図っていることです。

そして、困難な少数民族の生活向上と意識向上を上手くやり遂げているようでした。

世界の多くの国では、少数民族の扱いに苦労している。

 

翠湖公園で見た、様々な少数民族衣装を身にまとい楽しく踊っている人々の表情を見て、私の懸念は雲散霧消した。

むしろ満足な暮らしぶりと言えるでしょう。

 

中国では少数民族だけでなく共産党以外の党人、高齢者への優遇政策が進んでいる。

 

あらゆる都市で出会った高齢者(50から60歳で退職)は男女の区別なくたくさん旅行しており、公園では日長、孫や友人と寛ぎ、趣味を楽しんでいた。

彼らは年金や退職金でのんびりと暮らしている(その額は企業規模や都市戸籍と農民戸籍で差はあるだろうが)。

 

この様子は北欧三ヵ国を歩いて感じた、勤労世代からリタイア後の余裕ある暮らしを彷彿とさせた。

60歳過ぎてもあくせくと働かなければならない日本と比べれば優雅でした。

また多くの中国の観光施設や公共施設の入場料が60歳から70歳で、半額から無料となっている。

 

米国の黒人や移民への扱いは、今の大統領になってから一層酷くはなっているが、長年の人種差別や融和政策の欠如が亀裂と混迷を深めている。

日本も、益々弱者に対して苛烈になっている。

 

中国は懸命に問題解決に取り組んでおり、北欧が成し遂げた移民や少数民族との融和を成し遂げる時が来るかもしれない。

中国は後進的な経済から急激な経済発展を成し遂げつつあるので、舵取りは難しいだろう。

北欧も、今の素晴らしい経済力と社会・政治力は、ほぼ大戦後に成し遂げた。

中国は強権をもって改革を断行出来るが、良い場合もあり、悪い場合もある。

 

日本人は、隣国の言語を理解出来ず、隣国に友人や知人もいないので、甚だ情報が偏りがちで、ステレオタイプの見方に陥りやすい。

 

 

今回、外縁を見て回ったことにより、中国の民族移動の歴史を理解する切っ掛けになった。

雲南省と四川省は、民族的にもチベットと深い関係があることがわかった。

やはり現地を訪れて初めて実感できるものがあり、成果に満足している。

 

 

13

< 13. 蒙古族の村 >

 

上: モンゴルの家、ゲル。

かなり痛んでおり、中に入ることは出来なかった。

 

下: 雲南民俗村を出て、湖岸に出た。

そこは海埂公园で、右手にこれから行く巨大な崖が見える。

あの崖に岩窟の寺がある。

 

 

14

< 14.海埂公园 >

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: culture+society, essay, 連載 中国の外縁を一周して, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 6 Comments

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 4: 脇町うだつの街並み 後半


1DSC03587-1

*1

 

前回に続いて、脇町巡りの後半を紹介します。

伝統的建築物が並ぶ南町以外も歩きました。

 

 

2aq

< 2.街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

 

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

青枠は道の駅の駐車場です。

ピンク線が今回紹介する街並みの散策ルートで、Sから始まり、ABCDEFと進みました。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

3

< 3. 南北に延びる通りへ >

 

うだつの町並み(南町)の西端から北に歩く。

 

上: 南を向くと吉野川の堤が路の奥に見える。

見えている四辻を左側に折れると、うだつの町並み(南町)です。

 

下: 同じ路で北を望む。

奥左の小山に脇城跡があるはずですが、城下町がどこまで延びていたかは分からない。

山門が見えるのは安楽寺ですが、この辺りにはお寺が三ヵ所も並んでいる。

 

 

4

< 4. 撫養街道(川北街道) >

 

これが昔の撫養街道です。

撫養街道を東に進む。

 

 

5

< 5.大谷川の橋から >

 

地図のA辺りです。

 

上: 下流を望む

大谷川は吉野川に注ぐ。

 

下: 上流を望む。

 

ここから下流に向かう。

 

 

6

< 6. 脇町劇場(オデオン座) >

 

上: 対岸から東側の脇町劇場を望む

 

下: 劇場内部(借用した写真)

この劇場は昭和9年に芝居小屋として建てられ、戦後は映画館となった。

西田敏行主演「虹をつかむ男」の舞台となった。

 

 

7

< 7. 中町を行く >

 

川沿いの道から右に折れ、中町を歩く。

 

上: 中町を歩く

 

下: 元美馬市立図書館

中町を歩くと左に漆喰の壁の建物があり、門をくぐると、奥に図書館があった。

左の方に進むと、倉庫があり、そこに屋台とうだつの模型があった。

 

 

8

< 8. 屋台とうだつの模型 >

 

左上: 祭礼で使われるだんじりのようです。

 

右上: うだつの模型

けっこう大きくて、手間の掛かる造りになっている。

 

下: 白い二階建ての建物がうだつの模型がある倉庫

ここで南町に戻った。

 

その右横が呉服屋「大一」で江戸時代末期の建物です。

二階の窓は「虫籠窓」で、防火と盗難防止の為に漆喰で造られています。

よく保存されているので、江戸時代の雰囲気が味わえる。

 

 

* うだつの街並みについて

 

前回、1585年に稲田種元が蜂須賀家の家老として、この脇城に来て、城下町の整備と商業の発展に力を入れたことを紹介しました。

また街道と川湊が接する地の利に加えて、蜂須賀家が藍を奨励したことにより、脇町は藍商の中心地となった。

 

そして町は発展していたのですが、江戸後期に2回、大火に遭いました。

稲田家は、防火対策として「袖壁うだつ」を奨励しました。

その後、明治時代には装飾としての役割を担うようになった。

 

この伝統的家屋には、他にも様々な特徴的な工夫が見られます。

屋根の上から下って、「鳥ぶすま」「鬼瓦」「むくり屋根」「虫籠窓」「暖簾掛け」「出格子」「持ち送り」などがあります。

歩いていると大きな表札が道路脇に立っており、上記の説明がされています。

 

昔の暮らしの知恵に触れることが出来ます。

 

 

9

< 9.通りの端を望む >

 

上: 東側を望む

奥に大谷川の橋が見える。

 

下: 端まで行って西側を望む。

地図のC辺り。

 

 

10

< 10.呉服屋「のざき」1 >

 

下: 呉服屋としては一番古い

江戸時代末期の建築。

 

 

11

< 11.呉服屋「のざき」2 >

 

上: 呉服屋「のざき」

 

下: 左の倉庫の手前にトイレがあります

 

 

12

< 12. 共同井戸 >

 

上: 井戸にはつるべ式の滑車が見える

 

下: 左奥に明治末期建築の薬種商家

 

13

< 13.戻って来た >

 

上: 南町の通りで西側を望む。

これで一周したことになる。

地図のD辺り。

 

下: 昔の船着場の護岸の上

この周辺に観光交流センターが揃っている。

道の駅の駐車場、その向こうに吉野川の堤が見える。

 

14

< 14.船着場公園に降りる階段 >

 

上: 船着場の風情がある。

この門は吉田家の裏門だったようです。

この門の左に石碑が見える。

 

下: 石碑

この石碑の赤線は、吉田家に裏門に記されていた洪水時の水位を示している。

これは国交省が明治17年に測量を始めて以降、最高水位だそうです。

 

徳島の海岸・河岸を旅行して、思い知らされたのは、何処も災害から逃れられないことでした。

 

 

15

< 15.吉野川 >

 

上: 下流を望む

 

下: 堤から脇町を望む

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, travel+photo | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 48: 雲南民俗村を楽しむ 2


1

*1

 

 

今回も、主に雲南省で暮らす少数民族を紹介します。

少数民族の祝祭の踊り、ショーも紹介します。

 

 

2a

< 2.散策ルート、上が北 >

 

Sから始めて、赤線に沿って見学し、Eまで行き、Eの茶色の広場で20分のショーを見ました。

この間の所要時間は約1時間でした。

通った少数民族の村は、傈僳族(リス族)、普米族(プミ族)、独龙族(トールン族)、苗族(ミャオ族)、拉祜族(ラフ族)、基諾族(ジーヌオ族)の順です。

家屋を見たのは独龙族(トールン族)、基諾族(ジーヌオ族)だけです。

 

 

3

< 3. 少数民族が暮らす地域。上が北 >

 

茶色枠が雲南省、赤丸は麗江と昆明で、黄色線が新幹線です。

Li=傈僳族(リス族)、Pu=普米族(プミ族)、Du=独龙族(トールン族)は麗江の西側に集中しています。

Mi=苗族(ミャオ族)は雲南省東南部に広く分布しているが、むしろ他の省や中国外にも多く住んでいます。

La=拉祜族(ラフ族)、Ji=は基諾族(ジーヌオ族)は南部で、プーアル茶の産地よりもさらに南です。

 

 

4

< 4. 六つの民族の服 >

 

略語は地図の表記と同じです。

これらは祝祭儀礼の時に見つける装束でしょう。

当然、老若男女の装束があるのですが、写真は若い女性の姿を選んでいます。

普米族(プミ族)の服は麗江のナシ族の服と似ています。

苗族(ミャオ族)は人口が多く、各地に分散しているので、部族によって祝祭の装束が異なるようなので2種類掲載しました。

 

東南アジアや中国辺境の地で出会う人々の顔を見ていると、時折、日本の役者や芸能人の顔に似ていることに驚かされる。

 

 

5

< 5. 広い通りと大きな池 >

 

 

6

< 6. 傈僳族(リス族)の村 >

 

*傈僳族(リス族)について

 

リス族は中国、ミャンマー、タイ、インドの国境にまたがって分布し、移動しながら焼畑農業を生業とする山地民でした。

総人口は120万人だが、中国では60万人ほどです。

言語はチベット・ビルマ語派に属し、文字を持っていたが、一部でしか使用されていなかった。

唐の時代は四川省南部から麗江に暮らしていたが、ナシ族の支配を逃れて西方に移動した。

宗教は、霊魂不滅と多神教、トーテム崇拝が特徴で、祭祀は村のシャーマンが主宰した。

 

 

 

7

< 7. 刀杆广场 >

 

上: 刀杆广场

 

下: どの民族の住居は不明(失念)

傈僳族と普米族の可能性もあるが、独龙族のものだろう。

 

* 普米族(プミ族)について

 

プミ族は人口3万人ほどで、ほとんど雲南の限られた地域で、農業を主にし、牧畜業を副業として暮らしていた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

社会経済の発展は様々で、宗教は祖先崇拝とアニミズムが主で、一部でチベット族との交流によりラマ教が信仰されている。

 

 

8

< 8. 独龙族(トールン族)の樹上家 >

 

* 独龙族(トールン族)について

 

トールン族は人口7000人ほどと少なく、雲南の限られた地域で、農業を主に、採集や漁労も兼ねた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

かつては木を刻み結縄して、事柄を記録し、便りとした。

社会経済の発展は遅れていて貧しく、原始共同体の名残りがあり、氏族間の結婚を禁止していた。

かつて顔に刺青を入れる風習があった。

宗教は精霊信仰(アニミズム)です。

シューマンは祭祀儀礼を執り行うだけでなく、病を治癒する為、引き起こしている様々な鬼を調べた。

 

 

 

9

< 9. 独龙族(トールン族)2 >

 

外壁は丸太を組んでいるが、内壁は編んだ樹皮で覆われている。

二階の窓から覗くと、家屋の屋根が板で葺かれていることがわかる。

 

 

 

10

< 10. 苗族(ミャオ族) >

 

上: 苗族の村の入り口

ここには入らなかった。

 

下: 後に訪れる西山風景区の山並みが見える

 

* 苗族(ミャオ族)について

 

ミャオ族は総人口1100万人で、中国国内890万人の内、貴州省に多い。

また東南アジアにも分布し、ラオスから移住し米国(Hmongと称す)に17万人が暮らす。

言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ(瑶)語派に属し、三種類の方言があり、互いに通じない。

山間盆地や斜面に暮らす山地民で、焼畑で陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

多くの地区では封建地主制経済段階にあった。

自民族だけで集居するほか、漢民族や他民族と雑居して来た。

宗教は、主に自然崇拝、鬼神崇拝と祖先崇拝で、シャーマンが宗教儀礼を執行した。

 

ミャオ族の歴史は古く、紀元前5千年紀に始まる長江中流域の新石器時代の大渓文化の人骨の多くがミャオ・ヤオ語族に関連されるとしている。

歴史的に確かなのは宋代以降、漢民族の南下に伴って、長江流域から山岳内陸部に移動したと考えられる。

 

 

 

11

< 11. 拉祜族(ラフ族) >

 

上: 拉祜族(ラフ族)の村への入り口

 

下: 入口を入った広場

 

12

< 12. 拉祜族(ラフ族)2 >

 

上: 入口を入った広場

 

下: 家屋

 

* 拉祜族(ラフ族)について

 

ラフ族の総人口は100万人で、多くは雲南省45万人、他は中国と東南アジアに暮らす山岳民族です。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属す。

主に焼畑農業を生活を続けて来ており、封建地主制経済の発展段階に入っていた。

宗教は、原始的な自然崇拝と祖先崇拝です。

 

 

 

13

< 13. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー1 >

 

上: 開幕の挨拶

すべての説明は中国語です。

 

14

< 14. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー2 >

 

上: 新婚に扮した男女が素早く動く竹の棒をかわしながら軽快なステップを行う。

以前、テレビで見たことがある踊りでした。

多くは男女の集団の踊りで、幾つかの踊りや祝祭儀礼のシーンが組み込まれているようです。

ショーは拉祜族のものとは限らないような気がします。

後に、観客から一組の男女が選ばれ、同じように踊らされ、爆笑を誘った。

演者達は表情豊かに一生懸命に踊っていた。

 

言葉が分からなくても楽しいひと時でした。

 

 

* このショーのビデオ映像

12秒と17秒の踊りの映像です。

ショー1

ショー2

 

 

15

< 15. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 1 >

 

上: この部屋は長男のものだろう。

入口の上にある木彫りの面が面白い。

他の家族は雑魚寝になるのだろう。

 

下: 大きな広間の真ん中に囲炉裏がある。

囲炉裏は生活の中心のようだ。

 

* 基諾族(ジーヌオ族)について

 

ジーヌオ族の総人口は2万人と少なく、雲南省の山間部にだけ住む。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、文字はない。

かつて、竹や木を刻んだり、トウモロコシの粒を数えて事柄や数を記録した。

かつては粗末な農具しか持たない焼畑農耕を行い農村共同体を営んでいた。

宗教は、原始宗教の段階に留まっていた。

各村には二種類の異なる役割を担ったシャーマンがいた。

 

 

16

< 16. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 2 >

 

上: 額の写真は竹製の打楽器だが、下の壁に見える竹製の物は口琴のようだ。

 

下: 水を貯める木桶のようだ。

 

 

17

< 17. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 3 >

 

上: これが部屋を見た家の外観です。

 

下: 庭にトーテムポールが並んでいる。

 

 

* 補足説明

 

民俗村では少数民族の原始的な暮らしを見ているが、現在の暮らしとは異なる。

展示されている暮らしや家屋、家具や道具などは中国の解放政策以前の姿だと思われる。

中国は1950年代から、少数民族の近代化を進め、各民族の自治区を設け、かつ中国政府と一体になる政策を進めて来た。

私の各民族の説明も、開放以前の古い状況だと思ってください。

 

日本にも先住のアイヌ民族がいるが、小国ベトナムでも30を超える少数民族がおり、アジア各国は多くの少数民族を抱えている。

少数民族の文化には興味深いものがあるが、政治的には困難が付き纏う。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 3: 脇町うだつの街並み 前半


1DSC03499-1

< 1. うだつ、矢印 >

 

これから吉野川沿いに発展した「うだつの町並み」を紹介します。

「うだつがあがらない」の「うだつ」です。

今回は脇町南町巡りの前半です。

 

 

2aq

< 2. 街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

紺色が伝統的建物で多くは商家です。

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

 

青枠は道の駅の駐車場で、赤線が今回紹介する街並みの散策ルートです。

ピンク線は次回紹介するところです。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

3

< 3. 道の駅 藍ランドうだつ >

 

上: 駐車場内から道の駅、町の方を見る

 

下: 少し進んで振り返る

駐車場の先に吉野川の堤防が見える。

 

 

4

< 4. かつての吉野川の護岸 >

 

写真は共に西側を望む。

かつての護岸は現在、堤防沿いの国道と伝統的な街並みの間を流れる小川の片面になっているようだ。

それでもかつての石積みの様子を伺うことが出来る。

通りの南側の商家は表通りから敷地内で裏側の川湊に繋がっていた。

再現されている白塗りの蔵が見える。

 

 

5

< 5.観光交流センター >

 

駐車場から坂道を少し昇ると観光交流センターに出た。

ここにインフォメーションセンターや工房、茶房などがある。

 

 

6

< 6.南町の通りに出た >

 

ここがメインのうだつの町並みです。

ここを訪れたのは6月7日で、コロナ禍が少し収まった時期です。

歩き始めたは10時半頃でしたが、日曜日なのに人出は少なく、店によっては閉まっている所もあった。

 

上: 東側を望む

 

下: 西側を望む

ここから通りの端まで真直ぐ230mです。

 

 

7

< 7. 格子と蔀戸 >

 

下: 看板に蔀戸(しとみど)の説明があった。

上下の二枚の戸の内、上の戸は内側に跳ね上げて吊り下げ、下の戸は上に引き抜いて外して別置きにしたのだろう。

こうして昼には、内側にある格子戸で通気を行った。

夜と雨の時は元に戻して雨戸とした。

おそらく民家ではここまでの建具を造らなかっただろう。

 

 

8

< 8. 吉田家 >

 

ここは脇町一の豪商、染料藍の商家の吉田屋です。

1792年創業で、1835年と1865年の増築された(江戸中期から後期)。

当時、使用人50人を雇い、部屋数25室と三つの蔵を備えた屋敷で、表から裏の船着場までの奥行きは70mはあるだろう。

ここは入場が有料ですが店の間までは入れて、土産物を販売しています。

 

上: 表、「店の間」への入り口が見える

 

下: 裏、船着場側から見た

右に二つの蔵が見え、左にも藍蔵がある。

 

 

9

< 9. 吉田屋の玄関、店の間に入った >

 

 

10

< 10. 吉田屋 2 >

 

表通りから吉田屋を見る。

 

下: 白壁に沿って右に行くと藍蔵(土産屋)がある

 

 

11

< 11. 森家と将棋名人の家 >

 

上: 森家

ここは18世紀半ばから味噌・醤油卸を営んでいた。

明治13年に建て替えられ郵便局として、大正には医院として使われた。

 

 

下: 将棋名人の家

ここは旅籠だった。

ここで生まれた子が泊り客の将棋を見て育ち、後に江戸に出て、明治23年、四国では唯一の将棋名人となった。

 

 

12

< 12. 通りの西の端 >

 

上: ばったり床几

通りの方に倒して足を出すと縁台になる。

 

下: 通りの西の端

 

ここに来るまでに幾つもの伝統家屋があり、最も古い建物では1707年、徳川綱吉の時代のものもあります。

かつての店舗も様々で、紹介した以外に飴屋、繭問屋、船頭屋、瀬戸物屋、呉服屋、家具屋、反物屋、お茶道具屋があります。

 

次回は、反対方向から通りを紹介します。

 

 

* なぜここに立派な商家通りが出来たのか?

 

「うだつ」は本来、ここだけのもではなく歴史も古いはずだが、またなぜここに大量に残り、有名なのか?

 

幾つかの面白い経緯が重なったようです。

 

 

 

 

13

< 13. 脇町の位置、上が北 >

上: 赤矢印の脇町は東西に池田から鳴門までの撫養街道が吉野川に沿って通っていた。

また渓流に沿って山を越えると瀬戸内海に出る曽江谷越えもあった。

四国の各地域から陸路で関西に向かうには、吉野川沿いの街道が便利であったろう。

 

更に、吉野川も流通の要で、上は池田から辻、半田、貞光、脇町、岩津、川島、第十に川湊があった。

下流からの荷は、米や麦などの穀物をはじめ、肥料、味噌、醤油、塩、海産物、手工芸品、雑貨、生活用品・・・・・。

上流からは藍玉 、薪、木炭、たばこ、木材、繭、和紙などの特産物を乗せて舟が下ってきました。

輸送に使われた舟は、帆を張った、浅瀬でも航行出来るように喫水を浅くした平田舟でした。

 

これで脇町が二つの街道と川湊が交差する絶好の地であることが分かった。

 

 

下: 阿波九城

実はもう一つ重要な事がありました。

それは脇城の存在でした。

 

今は、城址しかない山城ですが、天下布武を成し遂げるまで行きかけた三好長慶が1533年にここに城を造ったのが始まりでした。

戦国時代末期、この阿波の地は三好家の本拠地で、土佐の長曾我部と激しく争っており、築城が進んでいた。

この状況は前の連載「徳島の海岸と漁村を巡って」の海部城(鞆城)も同様でした。

 

やがて秀吉が西国を平定した安土桃山時代末期になると、蜂須賀家が阿波を拝領することになり、廃城が再建され阿波九城が設けられた。

この一つが脇城だった。

 

この時、秀吉から拝命を受けた蜂須賀小六は子に阿波を任せ、まだ治まっていない領地であればこそ、要の脇城に家臣団筆頭の稲田植元を城代に置いた。

 

この稲田植元が、城下町の復興を命じた。

また、この町へ来て商業を営む者には、生国を問わず税や諸役も免除した。

こうしてこの町は一大発展を遂げた。

 

 

 

14

< 14.NHK大河ドラマ >

 

脇町に関わる人物のイメージを掴みやすいようにドラマの登場人物を紹介します。

 

上: 「麒麟が来る」の人物相関図

これは京都での覇権争いの様子を示す。

下剋上にあって、足利将軍家を蔑ろにする細川管領家、さらにそれを凌ぐ三好長慶がドラマで悪役に描かれている。

事実は、新しいことに取り組み急速に独自で軍事力を備えた三好長慶でした。

早死にするので、天下布武は叶わなかったが。

 

下: 蜂須賀小六と秀吉のシーン

蜂須賀小六は阿波を拝領する前は、西国四国攻めの過程で龍野城を拝領した。

この時、稲田植元にエピソードがある。

秀吉が戦の功により、小六に龍野、植元に別の領地を与えようとしたが、植元はこれを断った。

植元は以前、小六と義兄弟の契りを結んでいたので、小六の下で仕えたいと望んだ。

これが受け入れられ、後に家老職としての地位を得、脇城拝領に繋がった。

 

 

 

 

15

< 15. さらに不思議な縁 >

 

上: 龍野城

以前、龍野城の櫻を紹介しましたが、安土桃山時代に蜂須賀小六が城主だとは知らなかった。

当時は、平城では無く山城だったのだろう。

 

中央: 淡路島の洲本城

江戸時代、植元の稲田家が淡路島を領有し、洲本に城を造った。

しかし、明治になると稲田騒動が起きて、運命の歯車は逆転する。

 

下: 映画「北の零年」

これは稲田騒動後、士族としての配置という名目で、稲田家が北海道静内と色丹島に移住開拓を命じられ、荒野の広がる北の大地で悪戦苦闘する姿が描かれている。

 

この稲田騒動は、一言で言うと版籍奉還で稲田家の扱いが徳島藩より劣っていたことが始まりでした。

徳島藩は佐幕派であったが、稲田家は尊王派で明治維新では討幕運動で貢献していたが、版籍奉還で徳島藩と同じ士族扱いでなく低かった。

こうして両家で争いが生じ、政府はこれを収めるために、稲田家を士族扱いで荒地の北海道に送った。

 

私は今年になってから近場の旅行をするようになったが、色々な場所が、歴史的繋がっていることを知り驚いている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <japanese language, travel+photo | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 47: 雲南民俗村を楽しむ 1


1DSC00859-1

*1

 

これから数回に分けて、雲南民俗村を紹介します。

ここには雲南に暮らす25の少数民族の家屋、暮らし、衣装、祭事などが再現されています。

民族学や異文化に興味がある人には垂涎ものでしょう。

 

 

2

< 2. 先ずは門をくぐって >

 

売店が並ぶ通りを抜けて、チケット売り場に向かいます。

 

 

3

< 3.チケット売り場 >

 

上: チケット売り場

写真は各民族衣装を着た女性達がお出迎えしてくれた。

 

下: チケット確認の入場門

 

入場料は大人90元ですが、70歳以上だったので45元でした。

中国は、他国に比べ高齢者の割引が大きく、優遇している。

 

 

* 雲南民俗村について *

 

少数民族の博物館としては中国最大規模です。

この直ぐ隣に一般的な雲南民族博物館がありますが、妻も楽しめるだろと思い、この雲南民俗村を選びました。

 

特に良かった点

A 敷地内ではこの日、9:30から16:10の間に、23もの各民族の20分間の演舞が行われていました。

すべて無料で、他に有料のショーもいくつかあります。

入場時に演舞時間表をくれます。

 

B 敷地内には民族衣装を来た多くのスタッフがおり、案内や暮らしの再現を行っている。但し中国語。

 

C 建物や衣装、民具、祭事場と家屋周辺の自然環境の再現が丁寧に行われているように思える。

 

 

残念な点

D 案内や説明に日本語表記がほとんどなく、見るだけで終わった。

 

E 敷地が広大すぎて、見学と昼食に3時間半かけても半数ほどの村を素通りしただけでした。

また演舞も初めから終わりまで見たのは20分間の1本だけでした。

演舞の場所を探し、最前列に座って待つだけでも時間が掛かる。

もっとも時季外れなのか、観客は多く無かった。

演舞の時間が、重なっている場合もある。

 

全体としては、私にとって素晴らしいテーマパークでした。

 

 

4

< 4. 中国の少数民族 >

 

中国には56の少数民族が暮らし、その合計人口は8%を占める。

漢民族が大陸の中心部を占め、多くの少数民族は外縁部に暮らす。

最大なのはチワン族1700万人だが、紛争があるウイグル族は990万人、チベット族は540万人で、これに匹敵する規模の少数民族は他にも幾つかある。

 

今回、旅行して気付いたのは回族、1060万人を各地、特に開封、蘭州、麗江で見たことでした。

彼らはイスラム教徒なので、てっきりシルクロード沿いの西側、西安以西にだけ集中していると思っていたのですが。

回族の料理は、各地で不可欠となっていた。

 

元々、私は世界の文化人類学や民族学に興味がありました。

それは文化や宗教、社会の発展、そして他との交流の過程を理解するヒントが得られるからでした。

 

今回の中国旅行で最も知りたい内の一つが少数民族でした。

主に二つの理由がありました。

 

  •  中国政府が少数民族をどのように扱い、少数民族自身が意気揚々と暮らしているか?

 

中国政府は、ウイグル族やチベット族への強権的な対応で、世界から非難されている。

この政策が失敗すると、これらを含めた少数民族の不満が暴発し、中国の内乱要因になるかもしれない。

このことはやがて日本にも影響することになるだろう。

 

  •  中国南西部の山岳地帯、雲南地方の少数民族は文化的歴史的に見て興味深い。

 

紀元前一千年紀から漢民族が勢力を広げ、少数民族はその圧力に押されて辺境の地に散らばっていた、多くは南下し山岳地を転々とした。

福建省の客家、タイのタイ人、桂林のヤオ族、金沙遺址(成都)の蜀人は千年から二千年の時を経て移動した。

雲南省の各少数民族にも同様に歴史があるだろう。

雲南の地は西にチベットからインド、南に東南アジアへと交流し続けた歴史がある。

この地の少数民族の衣装や装飾品は素晴らしく、文字や神話も面白い。

 

 

これから速足で見学していきます。

 

 

5

< 5. 今回紹介する少数民族、上が北 >

 

上: 雲南民俗村の全景

敷地は東西1.2km、南北800mある。

赤枠が今回紹介する三つの民族展示場。

 

下: 上記の赤枠を拡大

今回紹介する三つの民族展示場。

赤線が主な見学ルート。

右の改札ゲートから入って、左下で終わりです。

 

 

6

< 6. 三つの少数民族 >

 

上: 黄色枠が三つの少数民族が暮らしている地域。

雲南省の西部、徳宏タイ族チンポー族自治州相当する。

盆地の標高は1000mまでだが、2000mほどの山脈に囲まれている。

彼らは亜熱帯の山間地で農業を営んでいた。

 

赤点は左から麗江、大理、昆明で、白線は新幹線のルートです。

 

 

下: 民族衣装

左は阿昌族(アチャン族)

中央は景颇族(チンポウ族)

右は德昂族(デアン族)

 

7

< 7. 阿昌族 >

 

阿昌族について

人口は3万人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

言語はシナ・チベット語系チベット・ビルマ語派ビルマ語系に属する。

自民族の文字は無く、漢字などを使用。

かつては漢民族の地主による封建的な領主経済でした。

農業が主でしたが、手工業も発達していた。

辺境を守る駐屯兵から学んで作られるようになった阿昌刀が有名。

 

下: 民家

一階は土間で家事を行うところのようです。

 

 

8

< 8. 阿昌刀 >

 

上: 阿昌刀のようです。

 

下: 織物の実演。

 

9

< 9. 宗教的な部屋でしょうか >

 

宗教は主に小乗仏教のようです。

 

下: 台所でしょうか。

 

 

10

< 10. 景颇族 >

 

景颇族について

チベット・ビルマ語属で水田耕作、焼畑耕作を主とし、ミャンマー、雲南省、インドのアッサムに分布する。

総人口100万人と多いが、分散して暮らしているので言語も複数に別れ、生活水準や経済段階も様々。

雲南省には15万人が暮らす。

宗教は原始的でシャーマンが重用されていた。

 

上: 説明板

上から三行目に日本語表記があります。

 

中央: 広場に大きな柱が立っていた。

景颇族が毎年正月の15日から始める巨大な歌の祭典、目瑙纵歌节(ムゥナウゾング)があります。

この柱群はこの祭りの会場に立つ柱のようです。

数万人が打ち鳴らす長い太鼓に合わせて唄うようです。

 

下: 目瑙纵歌节の様子。

他のサイトから拝借。

 

 

11

< 11. 景颇族の長老の家 >

 

上: 池の端の祭祀場か

 

下: 長老の家。

立派でしっかりした大きな木造建築です。

どうやら首長が村を治めたのかもしれない。

 

 

 

12

< 12. 長老の家に入る >

 

上: 二階に上がる階段の壁にある不思議な飾り。

どうやら女性の乳房を模したものらしい。

私は卑猥に感じてしまったので、きっと何かの道具に違いないと、考えを巡らしたが、わからなかった。

 

後で調べると、これは階段の昇降に手摺りとして使われ、母親の偉大さに想いを馳せなさいということらしい。

 

中央と下: 家屋のすぐ横にある祭祀場

霊魂・精霊など崇めるアニミズムのようだ。

 

13

 

< 13. 2階の様子 >

 

仕切られた部屋は一部屋だけ設けられていたが、他は巨大なロングハウス(共用空間)で、おそらく家長が一部屋を使って寝るが、他は仕切りなしで寝るのだろう。

囲炉裏が二階にある。

 

 

14

 

< 14. 德昂族 >

 

上: 行先案内

 

德昂族について

雲南省とミャンマーに分布し、中国側の人口は2万人です。

言語は南アジア語系モン・クメール語族に属する。

自民族の文字は無い。

解放前までは長らく傣族(タイ族=タイ人と同じ語族)やチンポー族(景颇族)の統治と搾取を受け、社会経済は未発達でした。

宗教はタイ族の影響を受けて小乗仏教。

 

 

 

15

< 15. 德昂族の家屋 >

 

中央の写真に長い太鼓が見える。

これが景颇族の祭りで使われる楽器と同じなのだろう。

 

 

 

16

< 16. 寺院らしい >

 

おそらく德昂族のお寺と祭祀場なのだろう。

 

下: どことなくタイの寺院、チャオプラヤ川沿いにある「暁の寺」の小型版に見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 2: 川辺の街と村


1DSC03479-1

< 1.うだつ >

 

今回は、この地方の街並みと山村を概観します。

街道や川湊沿いに発展したかつての街並み、

険しい渓谷や急峻な山で営み続ける山村、

そこにある生活と歴史を追います。

 

 

2

< 2. 訪問地の地図、上が北 >

 

詳しいは説明は前回の記事を参考にして下さい。

 

 

3

< 3. 脇町うだつの町並み >

 

地図のAにある街並み。

ここにはかつて吉野川の川湊があり、さらに二つの街道が交差していた。

また脇城の城下町として、藍染めの藍の集散地として発展した。

この街並みは軒から突き出した「うだつ」で有名です。

 

 

4

< 4. 貞光の旧家 >

 

地図のBの街中にある。

かっての庄屋の家屋を見学しました。

 

上: 塀越しの外観。

下: 台所と兼用の玄関。

 

 

5

< 5. 貞町うだつの町並み >

 

地図のBにある街並み。

ここは二層うだつの町並みで知られています。

ここの街並みは、脇町や池田町の古い町並みと異なり、吉野川と直角に延びていました。

ここは川湊に恵まれなかったが、剣山に至る貞光川が吉野川に注いでいる。

この通りは貞光の町と剣山の山村の暮らしを繋いでいた。

 

 

6

< 6. 渓谷沿いの家 >

 

地図のB~C、C~Dの景観。

険しい河谷に張り付くように建つ家々。

 

上: 貞光川

下: 祖谷川

 

 

7

< 7. 急峻な斜面の山村 >

 

地図のC~Dの景観。

祖谷川沿いの斜面には山村がかなり高い所まで広がっている。

人々は、今も暮らしている。

ここの暮らしには、幾つもの不思議がある。

なぜこのような不便な所に済まなければならなかったのか?

かつて生計は何に頼っていたのか?

平家の落人伝説との関りは?

 

 

8

< 8. 急峻な斜面にある家 >

 

平家の落人伝説を追って走っている間に、見かけた家々。

 

 

9

< 9.阿波池田うだつの町並み >

 

地図のFにある街並み。

ここは吉野川沿いの旧街道に発展した街並みです。

かつてたばこ等の集散地として発展した。

 

 

 

前回の旅では、日本の漁業を担う漁村と漁港を見て来ました。

そこは私達にとってはかけがえのない食の源です。

しかし、高齢化、漁家高の減少が相まって今や風前の灯火でした。

さらに東海大地震の津波が襲うことも確実です。

 

一部の人々は町の再生に尽力しているが、私の見た所、衰退を免れないだろう。

「持続可能な社会」「自然と穏やかに暮らす」「リモートワーク」などが定着しない限り、社会と政治が変わらなければ、未来は暗いものになるだろう。

 

今回は、川と山に育まれた街並みと村を見て行きます。

そこには、また違った気付きがあることでしょう。

 

 

 

次回に続きます。

 

Categories: culture+society, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 46: 昆明を訪ねて 2


1DSC00836-1

*1

 

今回は、バスの車窓から見た昆明市内を紹介します。

公共のバスで昆明駅から雲南民俗村まで行きました。

まさに大都会でした。 

 

 

2

< 2. 昆明の衛星写真、上が北 >

 

青線がバスのルートで、「起」から乗って「終」で下車です。

各バス停に停車しながら45分ほどかけて到着しました。

衛星写真の下にびわ湖の3倍もある滇池が見えます。

 

下: 上を拡大

ホテルを8時20分頃出て、昆明駅の北側まで歩き、バスに乗った。

そしてバスは中心部を抜けて、やがて郊外にある滇池沿いに造られた雲南民俗村の前で私は降車した。

 

 

3

< 3. ホテル最上階の展望レストランから 1 >

 

朝食のレストランから昆明市内の360度眺望が楽しめた。

 

上: 西側

下: 北側

 

 

4

< 4. ホテル最上階の展望レストランから 2 >

 

上: 東側

下: 南側

写真中央、大通りの突当りに昆明駅の左半分が見える。

 

 

5

< 5. 朝食レストラン >

 

上: 朝食のレストラン

 

下: 大通りに出たら、朝食の屋台があった。

 

 

6

< 6. ホテルの前 >

 

上: 北側

下: 南側、昆明駅が見える

 

 

7

< 7. 昆明駅に近づいた >

 

前日、この駅で新幹線を降りた。

 

上: 北側

大通りの左手にホテルが見える。

 

下: 昆明駅

 

 

8

< 8. 昆明駅の前 >

 

上: 多くの人が立っている大通り沿いに、いくつかのバス停が並んでいる。

ここは昆明駅から道路一つ離れている。

 

 

9

< 9. バスは出発した >

 

バスは2階建てで、私は2階の最前列に陣取り、思う存分に町の眺めを楽しんだ。

朝の通勤ラッシュで、ここではまだ車に混じってバイクも多かった。

 

 

10

*10

 

 

11

*11

 

 

12

*12

 

郊外に来たようです。

バスに乗ってから35分ぐらい経った。

 

 

13

*13

 

下: 高級住宅街のようですが道路脇に、多くのレンタル自転車が見えます。

 

 

14

< 14. 雲南民俗村の前に到着 >

 

下: 乗って来たバスです。

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 1: はじめに


1DSC04359-1

*1

 

これから、徳島県の山河を巡る二泊三日の旅を紹介します。

旅したのは2020年6月7日~9日で、概ね快晴でした。

今回は、山と川が生み出した景色、街並み、歴史を探ります。

大きく三つあり、吉野川中流域のかつての街並み、剣山登山、平家落人伝説の祖谷渓です。

 

 

2

< 2. 訪問地、上が北 >

 

上: 四国全体と旅行地

赤枠が今回の訪問地で、オレンジ枠が前回紹介した海部郡です。

 

下: 今回の訪問地

青線が今回紹介する主なドライブコースです。

Aから始め、途中二泊し、Fで終わります。

 

A: 脇町うだつの町並み

B: 貞光二層うだつの町並み

F: 阿波池田うだつの町並み

この三つは、かつて豪商が軒を連ねた町並みです。

川と山を繋ぐ街道が、かつて繁栄をもたらしました。

 

C: 西日本で二番目に高い剣山

登山道と山頂を紹介します。

登山道近くに一泊目のホテルをとった。

 

D: 祖谷のかずら橋

ここに二泊目の宿をとった。

 

CからDの間には様々な観光スポットがあります。

奥祖谷二重かずら橋、落合集落、東祖谷歴史民俗資料館が主です。

しかし平家落人や安徳天皇の伝説に纏わる屋敷、神社、杉の大木が山深い急斜面にひっそりと佇んでいます。

 

E: 平家屋敷民俗資料館

 

EからFの間は、大歩危小歩危の渓流で有名です。

 

 

 

 

 

 

3

< 3. 脇町うだつの町並み >

 

上: 脇町うだつの町並み

下: 吉野川

 

 

4

< 4. 貞光の旧庄屋家 >

 

上: 貞光の旧庄屋家

下: 貞光川の上流

 

 

5

< 5. 剣山の山頂近く >

 

上: 宿泊地から見た夕焼け

下: 剣山の登山リフトからの眺め

 

 

6

< 6. 剣山山頂からの眺め >

 

上: 剣山山頂からの眺め

下: 登山リフト下駅近くから、祖谷渓谷を見下ろす

 

 

7

< 7. 奥祖谷二重かずら橋 >

 

上: 奥祖谷二重かずら橋の一つ

下: 落合集落

 

 

8DSC04359-11

< 8. 祖谷渓  >

 

中流の橋の上から上流を望む。

 

 

9

< 9. 祖谷のかずら橋 >

 

上: 祖谷のかずら橋

下: 祖谷のかずら橋の川原に降りて、上流を望む

 

 

 

10

< 10. 喜多家の武家屋敷 >

 

上:  喜多家の武家屋敷

下: 落人伝説が眠る地に向かう急斜な細い道

 

 

11DSC04593-17

< 11. 栗枝渡八幡神社 >

 

ここにもいつかの安徳天皇伝説がある。

 

 

 

12

< 12. 東祖谷歴史民俗資料館 >

 

上: 落合集落を横から眺める

下: 東祖谷歴史民俗資料館

 

 

13

< 13. 平家屋敷民俗資料館 >

 

上: 外観

下: 内部

 

 

14

< 14. 阿波池田たばこ資料館 >

 

上: 道の駅大歩危からの眺め

下: 阿波池田たばこ資料館

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , , | 1 Comment

中国の外縁を一周して 45: 昆明を訪ねて 1


1DSC00778-1

*1

 

 

最後の訪問地、昆明を2泊3日で巡ります。

訪れたのは2019年10月27日(日)~29日(火)でした。

今回は、昆明中心部の翠湖公園と飲食街・ショッピング街(昆明老街。南屏街)を紹介します。

 

 

2map

< 2. 昆明の訪問地、上が北 >

 

上: 私が訪れた所

赤枠A:翠湖公園と昆明老街・南屏街、赤四角B:雲南省博物館、赤枠C:雲南省民俗村と滇池海埂公园、赤枠D:西山風景区の龍門石窟、

S:列車の昆明駅、H:ホテル、黒矢印:昆明空港(ここから直行便で帰国)

昆明へは新幹線(黒線)で来ました。

空港へはホテルの前からのリムジンバス(茶色線)で直行出来ました。

 

昆明内の移動は全て公共機関のバスと地下鉄を利用しました。

昆明の観光では、一切通訳ガイドを付けず、自ら全てを行うようにしました。

北京もそうでしたが、北京は2回目であったし、開封は狭い範囲の移動でしたので、ほぼ問題無く観光出来ました。

昆明で、帰国日、一度バスを乗り間違いしたが、無事リカバリー出来ました。

 

 

下:上記の赤枠Aの部分を拡大

赤枠E:翠湖公園、赤枠F:昆明老街、赤枠G:南屏街

黒矢印:昆明駅、H:ホテル、昆明锦江大酒店

 

 

3

< 3. 翠湖公園に向かう >

 

27日(日曜日)、16時過ぎにホテル近くからバスに乗り、公園の近くの通りで降車した。

高層ビルの住宅街を抜けると、公園の門が見えて来た。

 

 

4

< 4. 翠湖公園に入る >

 

公園の門の周辺には多くの市民がおり、さらに公園から多くの人が出て来た。

ここに来ると急に民族衣装が増えて来た。

 

私がここを訪問したいと思ったのは、この公園が市民の憩いの場であると知ったからです。

訪れてみると予想以上の光景を見て、得るものがありました。

 

上: 公園から一団が揃って出て来た。

何かが行われている予感がした。

 

下: 門を抜けて真直ぐ進む。

 

 

5

< 5. 広い公園内は踊り手で一杯でした >

 

様々な少数民族の衣装を身に纏った人々が、集団で踊りに興じていた。

それを見入る多くの市民が彼らを取り囲んでいた。

 

衣装の識別が分からないのですが、概ね5から6組の少数民族の違いがあるようでした。

遊牧民族系のシンプルな衣装から、山岳民族の刺繍が凝らされた極彩色の衣装までありました。

 

 

6

< 6. イ族のグループ >

 

頭の冠にぼんぼりを付けたのはイ族と思われます。

このグループは幾つにも分かれて大きな輪になって踊っていた。

 

私が感動を覚えたのは、老若男女が共に民族衣装に身を正し、公然と誇らしく踊っていることでした。

けっして見世物では無く、自らの出自を恥じることなく、和気あいあいと行っている。

 

私が中国に「民族差別が中国崩壊の導火線にならないか?」との疑念を抱いてやって来たが、ここには答えが明瞭に示されていた。

開封や蘭州の回族についても、見た限りでは問題を見つけることは出来なかった。

中国政府は少数民族の扱いをうまくやっていると感じた。

もっとも蘭州の西隣り、新疆ウイグル自治区のウイグル族やチベット族については分からなかったが。

 

 

イ族は中国全体で7番目に人口が多く、雲南省最大の少数民族で、雲南省の11%を占める。

もともと雲南省で、漢民族が占めるのは67%にしかすぎず、残りを27%を7つの少数民族で占めている。

 

彝族(イ族)は、かつて蔑称の「夷」が通称であった。

「夷」は漢民族の中原からみれば古来より蛮族の一つでした。

イ族は中国西部のチベット族、納西族、羌族の先祖古羌の子孫ともいわれる。

彼らは南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。

「羌」は成都で紹介した紀元前1千年紀の金沙遺址や三星堆遺跡の住民でした。

 

 

 

7

< 7. 公園内の中央の通りに出た >

 

 

8

< 8. 通りを進み橋に出た >

 

これで公園の中心を南から北にほぼ抜けた。

この公園には幾つもの池があり、幾つもの島を橋と道で結んでいる。

 

 

9

< 9. 橋の上から >

 

周囲は高級住宅街でしょうか。

 

 

10

< 10. 公園の北門を出て >

 

バスに乗るために雲南大学の前の通りに向かう。

 

上: 公衆トイレ

今回の旅行で始めて使った街中の公衆トイレ、駅や観光施設内のトイレは使っていたが。

事前に日本で、散策ルート上のトイレをチェックしていて、中国のトイレは急速に整備が進んでいることを知ってはいたが、良くなっている。

綺麗で、無料で、数も沢山あるようだ。

 

昔、奥地の桂林や客家土楼の観光で経験した酷いトイレは今回の旅行ではなかった。

 

 

11

< 11. バスに乗って >

 

繁華街に向かう。

 

 

12

<  12.昆明老街周辺 >

 

昆明老街の一つを北から南に向かって歩いた。

数本ある中で、ここが最も古い佇まいが残っているようでした。

ここで夕食をとることにした。

 

上: 通り

 

中央: この店に入る

 

下: 店の中のテーブル席

開放的で凝った店内でした。

 

 

13

< 13. 店の中 >

 

上: 厨房の様子

 

中央と下: 頼んだ料理

中華料理と言っても、今回の旅行では私が日本でよく食べる中華料理にはほとんど出くわすことはなかった。

味も見栄えも様々で、けっこう楽しめた。

 

 

 

14

< 14. 店を出ると >

 

店を出たのは19時前、辺りはもう暗くなっていた。

1kmほど歩いて南屏街まで行く。

 

下: 繫華街の中心、南屏街。

幾つかのショッピングセンターやデパートを覗く。

出たのは20時頃でした。

 

ここは歩行者天国になっており、近くのバス停でバスを待つ。

バスは頻繁に来るのですが、思う行先のバスがなかなか来ない。

さすが大都会です。

 

 

15

< 15.バスに乗ってホテルへ >

 

やっとバスに乗り、ホテルに近いバス停を降りて、ホテルに向かう。

ホテルに到着したのは21時頃でした。

 

下: ホテル

便利で居心地が良く、高くないホテルでした。

 

 

公園の踊りのビデオで、約10秒間ほどです。

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 1 Comment

徳島の海岸と漁村を巡って 10: 日和佐城と遊歩道


 

1DSC03392-1

*1

 

 

今回は、既に訪問した日和佐の町を見下ろす日和佐城を目指しました。

今回で、徳島海部郡の漁村と海岸の旅は終わります。

訪問したのは2020年4月23日と24日、快晴に恵まれました。

 

2

< 2.大砂海水浴場 >

 

鞆浦から北に一つ大きな岬を越えると、大きな浜が見えました。

ここは海水浴場です。

 

上: 砂浜の全景。

下: 砂浜の東端。

遠方に見えるのが越えて来た岬です。

 

 

3

< 3. 大砂海水浴場の東側に続く海岸 >

 

下: 沖の島は手羽島です。

これからこの島に渡るために、牟岐港に向かいます。

 

 

4

< 4.牟岐町 >

 

牟岐川の河口に牟岐漁港があります。

河口の右岸に、手羽島との連絡船乗り場があります。

乗り場に行くと、残念ながら渡れないことがわかりました。

一日の船便も少ないのですが、コロナ対策の為に、よそ者は年寄りの多い手羽島への渡航は出来ないとのことでした。

私も年寄りだが、行こうとした自分の愚かさに恥じ入りました。

 

上: 牟岐川の左岸。

 

 

5

< 5. 牟岐駅 >

 

日和佐までは一度海岸を離れて山間を走ります。

 

上: 牟岐駅

 

 

6

< 6. 日和佐城 >

 

上: 手前の奥潟川が奥の北河内谷川に合流し、日和佐漁港に至る。

これを見下ろすように右手の山頂に日和佐城が見える。

 

下: 山頂に来てみると大規模な改修工事中でした。

 

日和佐城は、かつて山頂にはあったようですが、この写真の物は再現されたものではない。

本当の城の築城時期は、既に紹介した海部城とほぼ重なるようです。

室町時代末期、この地域(宍喰、鞆浦、日和佐)は阿波の三好勢と土佐の長曾我部が衝突する最前線でした。

この緊張した状況が築城に向かわせたのでしょう。

後に長曾我部がこの地を攻略するが、戦国時代を経て阿波は蜂須賀家、土佐は山内家に支配された。

 

 

7

< 7. 海岸沿いの遊歩道 >

 

上: 日和佐城の横を通る遊歩道

全長12kmもあります。

 

下: 私は番号1から2までの途中を往復しました。

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

8

*8

 

9

< 9. 日和佐の町を見下ろす >

 

上: 中央に北河内谷川、左に厄除けで有名な薬王寺の朱色の塔が見える。

 

下: 手前に北河内谷川が左から右に流れている。

眼下の町が日和佐の中心部です。

 

 

10

< 10. 大浜海岸 >

 

上: ウミガメが来ることで知らている大浜海岸。

 

下: 大きな洞穴は恵比須洞です。

 

 

11

< 11. 遊歩道から大海原を望む >

 

 

これで今回の旅行記を終わります。

 

次回から、吉野川沿いのかつての商家の町並み、剣山登山、祖谷渓のかずら橋と平家落人の里を紹介します。

 

 

 

Categories: <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

Create a free website or blog at WordPress.com.

Planeta NSTM

Página web basada en el arte conceptual, poesía, noticias destacadas, análisis de múltiples temas sociales, económicos y políticos.

Rtistic

I speak my heart out.

MiddleMe

Becoming Unstuck

COREspot

【コアスポ】北海道の絶景をご紹介‼︎

NABE猫ブログ

NABE猫です。経済学、経営学、マーケティングを始めとした科学的な知識を総動員して、オリジナルのアイデアを提供していきます。アイデアの課題は、お金を稼ぐことです。稼げるアイデアを皆さんに!

The Eternal Words

An opinionated girl penning down her thoughts.🌸❤

胡蝶蘭と大学職員

あなたの大学にいる職員さんってこんな人かもしれません。

A.&V.travel

WHEREVER YOU GO, GO WITH ALL YOUR HEART.

SoundEagle 🦅ೋღஜஇ

Where The Eagles Fly . . . . Art Science Poetry Music & Ideas

人生を最幸に生きる強みと癒しの大先達

サハラアンコールワットペトラエルサレムシチリアニューヨーク30年約30カ国旅し🍀25年のテレビ撮影で47都道府県を走り🚘お遍路等9回巡礼🙏3000メートルの北アルプス冬山雪洞からの脱出など5回死にかけたどこにでもいる普通の瞑想歴40年の社労士でありダイハードなストレングスコーチのサイトです。

Mustafa Güçlü

Edebiyat · Fotoğraf

art gallery

ご訪問ありがとうございます。ヒロ

Rain Coast Review

Thoughts on life... by Donald B. Wilson