連載 中国の外縁を一周して

中国の外縁を一周して 49: 雲南民俗村を楽しむ 3


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今回で、雲南民俗村の紹介は最後になります。

最後に、巨大な湖、滇池に面した海埂公园を紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 雲南民俗村と海埂公园

3回にわたって紹介した散策ルートを赤、茶、黒、橙色の線で示します。

右上から始め、中央の下で終わります。

 

下: 今回の雲南民俗村の散策ルート

前回に続いてSから始め、Rで昼食をとり、出口Eで場外に出ます。

 

 

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< 3. 今回紹介する少数民族の衣装 >

 

Hui= 回族(カイ族)、man=满族(マン族)、bai=白族(ペイ族)

Naxi=纳西族(ナシ族)、meng=蒙古族

 

これらの衣装は、何処までが正式な伝統衣装かは不明です。

今、中国の若い人は民族衣装をコスプレとして楽しみ、ネットで様々にアレンジされたものが多く販売されている。

 

man=满族(マン族)の冠は、清朝の皇女の大きなカツラを連想させる。

 

bai=白族(ペイ族)の冠には白い羽飾りが付いている。

これは未婚女性のもので、民族名の由来だそうです。

 

Naxi=纳西族(ナシ族)の装束では、タスキがどうやら特徴のようです。

 

meng=蒙古族は人口が多く、部族が異なると衣装もかなり異なる。

 

 

 

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< 4.回族のモスク(清真寺) >

 

蘭州で、立派なモスクを見ました。

 

 

* 回族について

 

中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団で、言語・形質等は漢民族と同じです。

中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

 

回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。

 

同じイスラム教徒でも、問題になっているウイグル族との違いは何か?

 

彼らは、遊牧民のテュルク系遊牧民族(トルコ系)でウイグル語を話す。

彼らは新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに暮らし、人口約1千万人です。

彼らの宗派はイスラム教スンナ派です。

 

一方、回族の宗派もスンナ派だが古いタイプのHanafi派です。

恐らくは、イスラム教では宗派が異なると交流が進まないので、言語・形質も異なる回族ではウイグル族の影響を受けないのだろう。

 

成都や蘭州で回族を多く見ました。

 

 

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< 5. 満族の家 1 >

 

* 満族(満洲族)について

 

ツングース系民族で、古くは女真族と呼ばれ、狩猟と簡単な遊牧・農耕も行っていた。

17世紀に清朝を興した。

現在、中国全土に1000万人、雲南に1万人程いるが、これは清の時代に来た人々です。

漢人との交流が長いので、漢民族に同化してしまっているようだ。

どこまで生活や住まいに、満州民族の伝統を残しているかは分からない。

 

面白い現象がある。

ここ十年ほどで満族の人口が3.5倍に増加している。

これは中国が少数民族を優遇しているので、優遇措置を受ける為だそうです。

 

* 中国の少数民族の優遇政策について

 

漢民族に適用されていた「一人っ子政策」は少数民族には適用されていなかった(現在、中国全体で廃止)。

少数民族の学生は進学で優遇され、例えば学費減免や奨学金、入学試験の加点などがある。

少数民族の家庭に支給される一人っ子手当てが漢民族家庭の2倍であったり、職場内で昇進しやすいこともあるようです。

 

実は、このような少数者の立場向上を図る優遇政策は他でも見られる。

例えば、共産党以外の政党が認められているが、共産党以外の党に属している者には官吏採用の優先枠がある。

米国やインドのアファーマティブ・アクションに似た事が行われている。

 

私達、日本人は、マスコミから中国の悪い面だけを印象付けれているが、実は内部では、様々な融和策や弱者対策が広く行われている。

 

日本はこれに比べてどうでしょうか?

国連からも非難されていたアイヌの旧土人保護法が廃止されたのは、やっと1997年でした。

 

 

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< 6. 満族の家 2 >

 

 

 

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< 7. 満族の家 3 >

 

 

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< 8. 昼食のレストラン 1 >

 

ここは民族餐厅(民族村北路店)で、最も大きくて、ほぼ中央にあります。

ビュフェ形式の食事があり、写真奥の方でやっています。

私は単品料理を注文しました。

品数は多く無く、料理は手軽なものが多いようでした。

 

上: 店内

 

下: 写真に見えるレジで注文します。

 

 

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< 9. レストラン 2 >

 

上: 厨房です。

 

下: 注文した料理。

特段に美味しいわけではないが、日頃食べない味を楽しめた。

 

 

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< 10. 白族の村 >

 

上: 大理のシンボルと言われる崇聖寺の三塔のレプリカ。

そこそこの大きさがあります。

これで大理に行かずとも見ることが出来た。

 

下: 白族の村

立派な造りの家が並ぶ。

さすが一時、今の雲南の領域に大理国を建国しただけはある。

残念ながら13世紀に元(モンゴル帝国)に滅ぼされた。

 

* 白族について

 

雲南省大理を中心に住むチベット系民族。

約人口190万人の内、約120万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、漢語をペー語に取り入れている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、中国語で乳扇と呼ばれているチーズが知られている。

漢族の雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。

米を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

 

以前、福建省で客家料理を食べた時、日本の醤油味に似ており、美味しく食べたことがある。

 

 

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< 11. 纳西族の家  >

 

麗江で宿泊したホテルがこのような造りだったので驚きはなかった。

しかし他の少数民族の家屋に比べると立派な事に気が付いた。

これも茶葉古道の要衝として栄えたからだろう。

 

 

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< 12.麻栏式民居 >

 

この建物は中国南部(雲南など)に多い様式で、木や竹で造られた2階建です。

2階に人が住み、1階は動物小屋になる。

桂林の山岳民族にも似た家屋があった。

恐らくは湿気を避けるための工夫でしょう。

 

纳西族については「中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで」などで紹介しています。

 

 

* 蒙古族について

 

四川省・雲南省のモンゴル族は、元朝以降に移住した人々です。

遊牧民から稲作を中心にした農業に転換した一方で、習俗などはモンゴル族のものを残している。

蒙古族の人口は約600万あり、モンゴル国の人口が約300万人なので、中国国内の方が多い。

 

 

* 中国旅行の少数民族について感じたこと

 

今回の「中国の外縁を一周して」の旅で、知りたかったことの一つが、中国の少数民族の今の暮らしと歴史でした。

 

中国政府は、チベットとウイグル族の扱いで、世界から人権蹂躙を非難されている。

また今回、私が旅行しようとしたら、突如として香港が騒乱状態となり、迂回しなけらばならなくなった。

中国は、香港や台湾に対しても高圧的な態度をとり続けている。

 

これらは、いつか暴発する可能性があり、内乱から経済混乱へと至り、日本などに多大な影響を与えるかもしれない。

この事が気になり、少数民族問題が起きそうな「中国の外縁近辺」を旅先に選んだ。

そして新疆ウイグル自治区に近く回族が多い蘭州、多くの少数民族が暮らす麗江と昆明を旅した(歴史的・文化的な興味もあり)。

 

今、私が感じている事は、中国は想像以上に弱者(少数民族など)に配慮し優遇政策を行い、融和を図っていることです。

そして、困難な少数民族の生活向上と意識向上を上手くやり遂げているようでした。

世界の多くの国では、少数民族の扱いに苦労している。

 

翠湖公園で見た、様々な少数民族衣装を身にまとい楽しく踊っている人々の表情を見て、私の懸念は雲散霧消した。

むしろ満足な暮らしぶりと言えるでしょう。

 

中国では少数民族だけでなく共産党以外の党人、高齢者への優遇政策が進んでいる。

 

あらゆる都市で出会った高齢者(50から60歳で退職)は男女の区別なくたくさん旅行しており、公園では日長、孫や友人と寛ぎ、趣味を楽しんでいた。

彼らは年金や退職金でのんびりと暮らしている(その額は企業規模や都市戸籍と農民戸籍で差はあるだろうが)。

 

この様子は北欧三ヵ国を歩いて感じた、勤労世代からリタイア後の余裕ある暮らしを彷彿とさせた。

60歳過ぎてもあくせくと働かなければならない日本と比べれば優雅でした。

また多くの中国の観光施設や公共施設の入場料が60歳から70歳で、半額から無料となっている。

 

米国の黒人や移民への扱いは、今の大統領になってから一層酷くはなっているが、長年の人種差別や融和政策の欠如が亀裂と混迷を深めている。

日本も、益々弱者に対して苛烈になっている。

 

中国は懸命に問題解決に取り組んでおり、北欧が成し遂げた移民や少数民族との融和を成し遂げる時が来るかもしれない。

中国は後進的な経済から急激な経済発展を成し遂げつつあるので、舵取りは難しいだろう。

北欧も、今の素晴らしい経済力と社会・政治力は、ほぼ大戦後に成し遂げた。

中国は強権をもって改革を断行出来るが、良い場合もあり、悪い場合もある。

 

日本人は、隣国の言語を理解出来ず、隣国に友人や知人もいないので、甚だ情報が偏りがちで、ステレオタイプの見方に陥りやすい。

 

 

今回、外縁を見て回ったことにより、中国の民族移動の歴史を理解する切っ掛けになった。

雲南省と四川省は、民族的にもチベットと深い関係があることがわかった。

やはり現地を訪れて初めて実感できるものがあり、成果に満足している。

 

 

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< 13. 蒙古族の村 >

 

上: モンゴルの家、ゲル。

かなり痛んでおり、中に入ることは出来なかった。

 

下: 雲南民俗村を出て、湖岸に出た。

そこは海埂公园で、右手にこれから行く巨大な崖が見える。

あの崖に岩窟の寺がある。

 

 

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< 14.海埂公园 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 48: 雲南民俗村を楽しむ 2


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今回も、主に雲南省で暮らす少数民族を紹介します。

少数民族の祝祭の踊り、ショーも紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

Sから始めて、赤線に沿って見学し、Eまで行き、Eの茶色の広場で20分のショーを見ました。

この間の所要時間は約1時間でした。

通った少数民族の村は、傈僳族(リス族)、普米族(プミ族)、独龙族(トールン族)、苗族(ミャオ族)、拉祜族(ラフ族)、基諾族(ジーヌオ族)の順です。

家屋を見たのは独龙族(トールン族)、基諾族(ジーヌオ族)だけです。

 

 

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< 3. 少数民族が暮らす地域。上が北 >

 

茶色枠が雲南省、赤丸は麗江と昆明で、黄色線が新幹線です。

Li=傈僳族(リス族)、Pu=普米族(プミ族)、Du=独龙族(トールン族)は麗江の西側に集中しています。

Mi=苗族(ミャオ族)は雲南省東南部に広く分布しているが、むしろ他の省や中国外にも多く住んでいます。

La=拉祜族(ラフ族)、Ji=は基諾族(ジーヌオ族)は南部で、プーアル茶の産地よりもさらに南です。

 

 

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< 4. 六つの民族の服 >

 

略語は地図の表記と同じです。

これらは祝祭儀礼の時に見つける装束でしょう。

当然、老若男女の装束があるのですが、写真は若い女性の姿を選んでいます。

普米族(プミ族)の服は麗江のナシ族の服と似ています。

苗族(ミャオ族)は人口が多く、各地に分散しているので、部族によって祝祭の装束が異なるようなので2種類掲載しました。

 

東南アジアや中国辺境の地で出会う人々の顔を見ていると、時折、日本の役者や芸能人の顔に似ていることに驚かされる。

 

 

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< 5. 広い通りと大きな池 >

 

 

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< 6. 傈僳族(リス族)の村 >

 

*傈僳族(リス族)について

 

リス族は中国、ミャンマー、タイ、インドの国境にまたがって分布し、移動しながら焼畑農業を生業とする山地民でした。

総人口は120万人だが、中国では60万人ほどです。

言語はチベット・ビルマ語派に属し、文字を持っていたが、一部でしか使用されていなかった。

唐の時代は四川省南部から麗江に暮らしていたが、ナシ族の支配を逃れて西方に移動した。

宗教は、霊魂不滅と多神教、トーテム崇拝が特徴で、祭祀は村のシャーマンが主宰した。

 

 

 

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< 7. 刀杆广场 >

 

上: 刀杆广场

 

下: どの民族の住居は不明(失念)

傈僳族と普米族の可能性もあるが、独龙族のものだろう。

 

* 普米族(プミ族)について

 

プミ族は人口3万人ほどで、ほとんど雲南の限られた地域で、農業を主にし、牧畜業を副業として暮らしていた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

社会経済の発展は様々で、宗教は祖先崇拝とアニミズムが主で、一部でチベット族との交流によりラマ教が信仰されている。

 

 

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< 8. 独龙族(トールン族)の樹上家 >

 

* 独龙族(トールン族)について

 

トールン族は人口7000人ほどと少なく、雲南の限られた地域で、農業を主に、採集や漁労も兼ねた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

かつては木を刻み結縄して、事柄を記録し、便りとした。

社会経済の発展は遅れていて貧しく、原始共同体の名残りがあり、氏族間の結婚を禁止していた。

かつて顔に刺青を入れる風習があった。

宗教は精霊信仰(アニミズム)です。

シューマンは祭祀儀礼を執り行うだけでなく、病を治癒する為、引き起こしている様々な鬼を調べた。

 

 

 

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< 9. 独龙族(トールン族)2 >

 

外壁は丸太を組んでいるが、内壁は編んだ樹皮で覆われている。

二階の窓から覗くと、家屋の屋根が板で葺かれていることがわかる。

 

 

 

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< 10. 苗族(ミャオ族) >

 

上: 苗族の村の入り口

ここには入らなかった。

 

下: 後に訪れる西山風景区の山並みが見える

 

* 苗族(ミャオ族)について

 

ミャオ族は総人口1100万人で、中国国内890万人の内、貴州省に多い。

また東南アジアにも分布し、ラオスから移住し米国(Hmongと称す)に17万人が暮らす。

言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ(瑶)語派に属し、三種類の方言があり、互いに通じない。

山間盆地や斜面に暮らす山地民で、焼畑で陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

多くの地区では封建地主制経済段階にあった。

自民族だけで集居するほか、漢民族や他民族と雑居して来た。

宗教は、主に自然崇拝、鬼神崇拝と祖先崇拝で、シャーマンが宗教儀礼を執行した。

 

ミャオ族の歴史は古く、紀元前5千年紀に始まる長江中流域の新石器時代の大渓文化の人骨の多くがミャオ・ヤオ語族に関連されるとしている。

歴史的に確かなのは宋代以降、漢民族の南下に伴って、長江流域から山岳内陸部に移動したと考えられる。

 

 

 

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< 11. 拉祜族(ラフ族) >

 

上: 拉祜族(ラフ族)の村への入り口

 

下: 入口を入った広場

 

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< 12. 拉祜族(ラフ族)2 >

 

上: 入口を入った広場

 

下: 家屋

 

* 拉祜族(ラフ族)について

 

ラフ族の総人口は100万人で、多くは雲南省45万人、他は中国と東南アジアに暮らす山岳民族です。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属す。

主に焼畑農業を生活を続けて来ており、封建地主制経済の発展段階に入っていた。

宗教は、原始的な自然崇拝と祖先崇拝です。

 

 

 

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< 13. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー1 >

 

上: 開幕の挨拶

すべての説明は中国語です。

 

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< 14. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー2 >

 

上: 新婚に扮した男女が素早く動く竹の棒をかわしながら軽快なステップを行う。

以前、テレビで見たことがある踊りでした。

多くは男女の集団の踊りで、幾つかの踊りや祝祭儀礼のシーンが組み込まれているようです。

ショーは拉祜族のものとは限らないような気がします。

後に、観客から一組の男女が選ばれ、同じように踊らされ、爆笑を誘った。

演者達は表情豊かに一生懸命に踊っていた。

 

言葉が分からなくても楽しいひと時でした。

 

 

* このショーのビデオ映像

12秒と17秒の踊りの映像です。

ショー1

ショー2

 

 

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< 15. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 1 >

 

上: この部屋は長男のものだろう。

入口の上にある木彫りの面が面白い。

他の家族は雑魚寝になるのだろう。

 

下: 大きな広間の真ん中に囲炉裏がある。

囲炉裏は生活の中心のようだ。

 

* 基諾族(ジーヌオ族)について

 

ジーヌオ族の総人口は2万人と少なく、雲南省の山間部にだけ住む。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、文字はない。

かつて、竹や木を刻んだり、トウモロコシの粒を数えて事柄や数を記録した。

かつては粗末な農具しか持たない焼畑農耕を行い農村共同体を営んでいた。

宗教は、原始宗教の段階に留まっていた。

各村には二種類の異なる役割を担ったシャーマンがいた。

 

 

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< 16. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 2 >

 

上: 額の写真は竹製の打楽器だが、下の壁に見える竹製の物は口琴のようだ。

 

下: 水を貯める木桶のようだ。

 

 

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< 17. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 3 >

 

上: これが部屋を見た家の外観です。

 

下: 庭にトーテムポールが並んでいる。

 

 

* 補足説明

 

民俗村では少数民族の原始的な暮らしを見ているが、現在の暮らしとは異なる。

展示されている暮らしや家屋、家具や道具などは中国の解放政策以前の姿だと思われる。

中国は1950年代から、少数民族の近代化を進め、各民族の自治区を設け、かつ中国政府と一体になる政策を進めて来た。

私の各民族の説明も、開放以前の古い状況だと思ってください。

 

日本にも先住のアイヌ民族がいるが、小国ベトナムでも30を超える少数民族がおり、アジア各国は多くの少数民族を抱えている。

少数民族の文化には興味深いものがあるが、政治的には困難が付き纏う。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 47: 雲南民俗村を楽しむ 1


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これから数回に分けて、雲南民俗村を紹介します。

ここには雲南に暮らす25の少数民族の家屋、暮らし、衣装、祭事などが再現されています。

民族学や異文化に興味がある人には垂涎ものでしょう。

 

 

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< 2. 先ずは門をくぐって >

 

売店が並ぶ通りを抜けて、チケット売り場に向かいます。

 

 

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< 3.チケット売り場 >

 

上: チケット売り場

写真は各民族衣装を着た女性達がお出迎えしてくれた。

 

下: チケット確認の入場門

 

入場料は大人90元ですが、70歳以上だったので45元でした。

中国は、他国に比べ高齢者の割引が大きく、優遇している。

 

 

* 雲南民俗村について *

 

少数民族の博物館としては中国最大規模です。

この直ぐ隣に一般的な雲南民族博物館がありますが、妻も楽しめるだろと思い、この雲南民俗村を選びました。

 

特に良かった点

A 敷地内ではこの日、9:30から16:10の間に、23もの各民族の20分間の演舞が行われていました。

すべて無料で、他に有料のショーもいくつかあります。

入場時に演舞時間表をくれます。

 

B 敷地内には民族衣装を来た多くのスタッフがおり、案内や暮らしの再現を行っている。但し中国語。

 

C 建物や衣装、民具、祭事場と家屋周辺の自然環境の再現が丁寧に行われているように思える。

 

 

残念な点

D 案内や説明に日本語表記がほとんどなく、見るだけで終わった。

 

E 敷地が広大すぎて、見学と昼食に3時間半かけても半数ほどの村を素通りしただけでした。

また演舞も初めから終わりまで見たのは20分間の1本だけでした。

演舞の場所を探し、最前列に座って待つだけでも時間が掛かる。

もっとも時季外れなのか、観客は多く無かった。

演舞の時間が、重なっている場合もある。

 

全体としては、私にとって素晴らしいテーマパークでした。

 

 

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< 4. 中国の少数民族 >

 

中国には56の少数民族が暮らし、その合計人口は8%を占める。

漢民族が大陸の中心部を占め、多くの少数民族は外縁部に暮らす。

最大なのはチワン族1700万人だが、紛争があるウイグル族は990万人、チベット族は540万人で、これに匹敵する規模の少数民族は他にも幾つかある。

 

今回、旅行して気付いたのは回族、1060万人を各地、特に開封、蘭州、麗江で見たことでした。

彼らはイスラム教徒なので、てっきりシルクロード沿いの西側、西安以西にだけ集中していると思っていたのですが。

回族の料理は、各地で不可欠となっていた。

 

元々、私は世界の文化人類学や民族学に興味がありました。

それは文化や宗教、社会の発展、そして他との交流の過程を理解するヒントが得られるからでした。

 

今回の中国旅行で最も知りたい内の一つが少数民族でした。

主に二つの理由がありました。

 

  •  中国政府が少数民族をどのように扱い、少数民族自身が意気揚々と暮らしているか?

 

中国政府は、ウイグル族やチベット族への強権的な対応で、世界から非難されている。

この政策が失敗すると、これらを含めた少数民族の不満が暴発し、中国の内乱要因になるかもしれない。

このことはやがて日本にも影響することになるだろう。

 

  •  中国南西部の山岳地帯、雲南地方の少数民族は文化的歴史的に見て興味深い。

 

紀元前一千年紀から漢民族が勢力を広げ、少数民族はその圧力に押されて辺境の地に散らばっていた、多くは南下し山岳地を転々とした。

福建省の客家、タイのタイ人、桂林のヤオ族、金沙遺址(成都)の蜀人は千年から二千年の時を経て移動した。

雲南省の各少数民族にも同様に歴史があるだろう。

雲南の地は西にチベットからインド、南に東南アジアへと交流し続けた歴史がある。

この地の少数民族の衣装や装飾品は素晴らしく、文字や神話も面白い。

 

 

これから速足で見学していきます。

 

 

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< 5. 今回紹介する少数民族、上が北 >

 

上: 雲南民俗村の全景

敷地は東西1.2km、南北800mある。

赤枠が今回紹介する三つの民族展示場。

 

下: 上記の赤枠を拡大

今回紹介する三つの民族展示場。

赤線が主な見学ルート。

右の改札ゲートから入って、左下で終わりです。

 

 

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< 6. 三つの少数民族 >

 

上: 黄色枠が三つの少数民族が暮らしている地域。

雲南省の西部、徳宏タイ族チンポー族自治州相当する。

盆地の標高は1000mまでだが、2000mほどの山脈に囲まれている。

彼らは亜熱帯の山間地で農業を営んでいた。

 

赤点は左から麗江、大理、昆明で、白線は新幹線のルートです。

 

 

下: 民族衣装

左は阿昌族(アチャン族)

中央は景颇族(チンポウ族)

右は德昂族(デアン族)

 

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< 7. 阿昌族 >

 

阿昌族について

人口は3万人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

言語はシナ・チベット語系チベット・ビルマ語派ビルマ語系に属する。

自民族の文字は無く、漢字などを使用。

かつては漢民族の地主による封建的な領主経済でした。

農業が主でしたが、手工業も発達していた。

辺境を守る駐屯兵から学んで作られるようになった阿昌刀が有名。

 

下: 民家

一階は土間で家事を行うところのようです。

 

 

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< 8. 阿昌刀 >

 

上: 阿昌刀のようです。

 

下: 織物の実演。

 

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< 9. 宗教的な部屋でしょうか >

 

宗教は主に小乗仏教のようです。

 

下: 台所でしょうか。

 

 

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< 10. 景颇族 >

 

景颇族について

チベット・ビルマ語属で水田耕作、焼畑耕作を主とし、ミャンマー、雲南省、インドのアッサムに分布する。

総人口100万人と多いが、分散して暮らしているので言語も複数に別れ、生活水準や経済段階も様々。

雲南省には15万人が暮らす。

宗教は原始的でシャーマンが重用されていた。

 

上: 説明板

上から三行目に日本語表記があります。

 

中央: 広場に大きな柱が立っていた。

景颇族が毎年正月の15日から始める巨大な歌の祭典、目瑙纵歌节(ムゥナウゾング)があります。

この柱群はこの祭りの会場に立つ柱のようです。

数万人が打ち鳴らす長い太鼓に合わせて唄うようです。

 

下: 目瑙纵歌节の様子。

他のサイトから拝借。

 

 

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< 11. 景颇族の長老の家 >

 

上: 池の端の祭祀場か

 

下: 長老の家。

立派でしっかりした大きな木造建築です。

どうやら首長が村を治めたのかもしれない。

 

 

 

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< 12. 長老の家に入る >

 

上: 二階に上がる階段の壁にある不思議な飾り。

どうやら女性の乳房を模したものらしい。

私は卑猥に感じてしまったので、きっと何かの道具に違いないと、考えを巡らしたが、わからなかった。

 

後で調べると、これは階段の昇降に手摺りとして使われ、母親の偉大さに想いを馳せなさいということらしい。

 

中央と下: 家屋のすぐ横にある祭祀場

霊魂・精霊など崇めるアニミズムのようだ。

 

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< 13. 2階の様子 >

 

仕切られた部屋は一部屋だけ設けられていたが、他は巨大なロングハウス(共用空間)で、おそらく家長が一部屋を使って寝るが、他は仕切りなしで寝るのだろう。

囲炉裏が二階にある。

 

 

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< 14. 德昂族 >

 

上: 行先案内

 

德昂族について

雲南省とミャンマーに分布し、中国側の人口は2万人です。

言語は南アジア語系モン・クメール語族に属する。

自民族の文字は無い。

解放前までは長らく傣族(タイ族=タイ人と同じ語族)やチンポー族(景颇族)の統治と搾取を受け、社会経済は未発達でした。

宗教はタイ族の影響を受けて小乗仏教。

 

 

 

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< 15. 德昂族の家屋 >

 

中央の写真に長い太鼓が見える。

これが景颇族の祭りで使われる楽器と同じなのだろう。

 

 

 

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< 16. 寺院らしい >

 

おそらく德昂族のお寺と祭祀場なのだろう。

 

下: どことなくタイの寺院、チャオプラヤ川沿いにある「暁の寺」の小型版に見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 46: 昆明を訪ねて 2


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今回は、バスの車窓から見た昆明市内を紹介します。

公共のバスで昆明駅から雲南民俗村まで行きました。

まさに大都会でした。 

 

 

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< 2. 昆明の衛星写真、上が北 >

 

青線がバスのルートで、「起」から乗って「終」で下車です。

各バス停に停車しながら45分ほどかけて到着しました。

衛星写真の下にびわ湖の3倍もある滇池が見えます。

 

下: 上を拡大

ホテルを8時20分頃出て、昆明駅の北側まで歩き、バスに乗った。

そしてバスは中心部を抜けて、やがて郊外にある滇池沿いに造られた雲南民俗村の前で私は降車した。

 

 

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< 3. ホテル最上階の展望レストランから 1 >

 

朝食のレストランから昆明市内の360度眺望が楽しめた。

 

上: 西側

下: 北側

 

 

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< 4. ホテル最上階の展望レストランから 2 >

 

上: 東側

下: 南側

写真中央、大通りの突当りに昆明駅の左半分が見える。

 

 

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< 5. 朝食レストラン >

 

上: 朝食のレストラン

 

下: 大通りに出たら、朝食の屋台があった。

 

 

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< 6. ホテルの前 >

 

上: 北側

下: 南側、昆明駅が見える

 

 

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< 7. 昆明駅に近づいた >

 

前日、この駅で新幹線を降りた。

 

上: 北側

大通りの左手にホテルが見える。

 

下: 昆明駅

 

 

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< 8. 昆明駅の前 >

 

上: 多くの人が立っている大通り沿いに、いくつかのバス停が並んでいる。

ここは昆明駅から道路一つ離れている。

 

 

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< 9. バスは出発した >

 

バスは2階建てで、私は2階の最前列に陣取り、思う存分に町の眺めを楽しんだ。

朝の通勤ラッシュで、ここではまだ車に混じってバイクも多かった。

 

 

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*10

 

 

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*12

 

郊外に来たようです。

バスに乗ってから35分ぐらい経った。

 

 

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下: 高級住宅街のようですが道路脇に、多くのレンタル自転車が見えます。

 

 

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< 14. 雲南民俗村の前に到着 >

 

下: 乗って来たバスです。

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 45: 昆明を訪ねて 1


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最後の訪問地、昆明を2泊3日で巡ります。

訪れたのは2019年10月27日(日)~29日(火)でした。

今回は、昆明中心部の翠湖公園と飲食街・ショッピング街(昆明老街。南屏街)を紹介します。

 

 

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< 2. 昆明の訪問地、上が北 >

 

上: 私が訪れた所

赤枠A:翠湖公園と昆明老街・南屏街、赤四角B:雲南省博物館、赤枠C:雲南省民俗村と滇池海埂公园、赤枠D:西山風景区の龍門石窟、

S:列車の昆明駅、H:ホテル、黒矢印:昆明空港(ここから直行便で帰国)

昆明へは新幹線(黒線)で来ました。

空港へはホテルの前からのリムジンバス(茶色線)で直行出来ました。

 

昆明内の移動は全て公共機関のバスと地下鉄を利用しました。

昆明の観光では、一切通訳ガイドを付けず、自ら全てを行うようにしました。

北京もそうでしたが、北京は2回目であったし、開封は狭い範囲の移動でしたので、ほぼ問題無く観光出来ました。

昆明で、帰国日、一度バスを乗り間違いしたが、無事リカバリー出来ました。

 

 

下:上記の赤枠Aの部分を拡大

赤枠E:翠湖公園、赤枠F:昆明老街、赤枠G:南屏街

黒矢印:昆明駅、H:ホテル、昆明锦江大酒店

 

 

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< 3. 翠湖公園に向かう >

 

27日(日曜日)、16時過ぎにホテル近くからバスに乗り、公園の近くの通りで降車した。

高層ビルの住宅街を抜けると、公園の門が見えて来た。

 

 

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< 4. 翠湖公園に入る >

 

公園の門の周辺には多くの市民がおり、さらに公園から多くの人が出て来た。

ここに来ると急に民族衣装が増えて来た。

 

私がここを訪問したいと思ったのは、この公園が市民の憩いの場であると知ったからです。

訪れてみると予想以上の光景を見て、得るものがありました。

 

上: 公園から一団が揃って出て来た。

何かが行われている予感がした。

 

下: 門を抜けて真直ぐ進む。

 

 

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< 5. 広い公園内は踊り手で一杯でした >

 

様々な少数民族の衣装を身に纏った人々が、集団で踊りに興じていた。

それを見入る多くの市民が彼らを取り囲んでいた。

 

衣装の識別が分からないのですが、概ね5から6組の少数民族の違いがあるようでした。

遊牧民族系のシンプルな衣装から、山岳民族の刺繍が凝らされた極彩色の衣装までありました。

 

 

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< 6. イ族のグループ >

 

頭の冠にぼんぼりを付けたのはイ族と思われます。

このグループは幾つにも分かれて大きな輪になって踊っていた。

 

私が感動を覚えたのは、老若男女が共に民族衣装に身を正し、公然と誇らしく踊っていることでした。

けっして見世物では無く、自らの出自を恥じることなく、和気あいあいと行っている。

 

私が中国に「民族差別が中国崩壊の導火線にならないか?」との疑念を抱いてやって来たが、ここには答えが明瞭に示されていた。

開封や蘭州の回族についても、見た限りでは問題を見つけることは出来なかった。

中国政府は少数民族の扱いをうまくやっていると感じた。

もっとも蘭州の西隣り、新疆ウイグル自治区のウイグル族やチベット族については分からなかったが。

 

 

イ族は中国全体で7番目に人口が多く、雲南省最大の少数民族で、雲南省の11%を占める。

もともと雲南省で、漢民族が占めるのは67%にしかすぎず、残りを27%を7つの少数民族で占めている。

 

彝族(イ族)は、かつて蔑称の「夷」が通称であった。

「夷」は漢民族の中原からみれば古来より蛮族の一つでした。

イ族は中国西部のチベット族、納西族、羌族の先祖古羌の子孫ともいわれる。

彼らは南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。

「羌」は成都で紹介した紀元前1千年紀の金沙遺址や三星堆遺跡の住民でした。

 

 

 

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< 7. 公園内の中央の通りに出た >

 

 

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< 8. 通りを進み橋に出た >

 

これで公園の中心を南から北にほぼ抜けた。

この公園には幾つもの池があり、幾つもの島を橋と道で結んでいる。

 

 

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< 9. 橋の上から >

 

周囲は高級住宅街でしょうか。

 

 

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< 10. 公園の北門を出て >

 

バスに乗るために雲南大学の前の通りに向かう。

 

上: 公衆トイレ

今回の旅行で始めて使った街中の公衆トイレ、駅や観光施設内のトイレは使っていたが。

事前に日本で、散策ルート上のトイレをチェックしていて、中国のトイレは急速に整備が進んでいることを知ってはいたが、良くなっている。

綺麗で、無料で、数も沢山あるようだ。

 

昔、奥地の桂林や客家土楼の観光で経験した酷いトイレは今回の旅行ではなかった。

 

 

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< 11. バスに乗って >

 

繁華街に向かう。

 

 

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<  12.昆明老街周辺 >

 

昆明老街の一つを北から南に向かって歩いた。

数本ある中で、ここが最も古い佇まいが残っているようでした。

ここで夕食をとることにした。

 

上: 通り

 

中央: この店に入る

 

下: 店の中のテーブル席

開放的で凝った店内でした。

 

 

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< 13. 店の中 >

 

上: 厨房の様子

 

中央と下: 頼んだ料理

中華料理と言っても、今回の旅行では私が日本でよく食べる中華料理にはほとんど出くわすことはなかった。

味も見栄えも様々で、けっこう楽しめた。

 

 

 

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< 14. 店を出ると >

 

店を出たのは19時前、辺りはもう暗くなっていた。

1kmほど歩いて南屏街まで行く。

 

下: 繫華街の中心、南屏街。

幾つかのショッピングセンターやデパートを覗く。

出たのは20時頃でした。

 

ここは歩行者天国になっており、近くのバス停でバスを待つ。

バスは頻繁に来るのですが、思う行先のバスがなかなか来ない。

さすが大都会です。

 

 

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< 15.バスに乗ってホテルへ >

 

やっとバスに乗り、ホテルに近いバス停を降りて、ホテルに向かう。

ホテルに到着したのは21時頃でした。

 

下: ホテル

便利で居心地が良く、高くないホテルでした。

 

 

公園の踊りのビデオで、約10秒間ほどです。

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 44: 新幹線で昆明へ 2


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今回は、新幹線の麗江-昆明間の後半の景色を紹介します。

なかなか見ることのできない中国奥地の景観が広がります。

 

 

 

 

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< 2. 新幹線のルート、上が北 >

 

今回は、鹤庆駅から昆明駅までの車窓風景です。

これは今回乗車のほとんど全区間ですが、鹤庆駅から上関駅までの後半はトンネルが多かった。

 

数年前、新幹線が出来る前は寝台車だけがこの区間を運行していたので、昼の景色を眺めることは出来なかった。

バスはあるらしいが。

 

今回の旅行の目玉の一つが、東南アジアやインドに接する雲南(麗江・昆明)の訪問でした。

ここには多くの少数民族が暮らし、また古今に亘りアジア文化が行き交った結節点でもありました。

また中国の中原から見れば辺鄙な山岳地帯であった為、中華文明や中華帝国の影響があまり及ばなかった。

もっとも1世紀、諸葛孔明は雲南を平定し、13世紀、モンゴルのクビライも大理と昆明を征服していたが、あまりも遠方の為か、いずれも現地の王に統治させた。

 

実は、昆明を2日かけて観光することになったのは香港のデモのお陰なのです。

当初予定では、昆明南から桂林、広州経由で香港まで一気に新幹線で走り抜けるつもりでした。

ビザ無しの観光が15日以内なので、香港1泊を加えて中国の外縁を周るには、昆明南に夕刻到着し、翌朝早くには新幹線に乗車しなければならなかった。

私は30年ほど前、観光で香港と広州を訪れていたので、様変わりした様子を見たいと思っていた。

 

結果的に、昆明をゆっくり堪能することが出来ました。

 

 

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写真は撮影順に並んでいます。

ここらはまだ標高2200mほどはあるでしょうか。

 

 

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非常に緑豊かで、畑作も盛んなようです。

蘭州に至る車窓でもトウモロコシ畑が多く見られた。

 

 

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< 6. 洱海が見えた >

 

多くのトンネルを抜けた後、やっと大理古城に面する大きな湖、洱海が見えた。

湖の大きさは南北約42km、平均幅は約7kmでしょうか。

大理は白亜の三つの細長い仏塔で有名です。

 

上: 山の斜面、南面に多くの墓石が見られた。

これまで新幹線で中国を1700km通過して来たが、大規模な墓地を見るのは初めてでした。

北京―鄭州―開封の大平原、開封―洛陽―西安―蘭州の黄河沿いの平原から渓谷では、車窓から見えたのは数基からなる墓石が数個所だけでした。

 

ここは中原に比べ、墓石の形が違い、集団の大規模な墓地がある。

明らかに文化の違いを感じる。

遠目では分からないが、最も日本の墓石に似ているような気がした。

形は扁平な羊羹を立てようなもので、半数は上部が半円状になっていた。

そして全てが同じ向きに並んでいた。

これは白族(ペー)の墓地かもしれない。

 

中央と下: 雲が対岸を覆い、よく見えない。

 

 

 

 

 

 

 

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< 7.洱海の終端 >

 

新幹線は洱海の東岸を走るのですが、大理古城は西岸にある。

東岸にも発展中の町がありました。

 

中央: おそらく島の見える方向の対岸に大理古城があるはずです。

 

下: この辺りが洱海の南端で、対岸の高層ビル群は大理の新市街、中心部でしょう。

 

ここからは線路が分岐し、私達の新幹線は昆明に向かいます。

 

 

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< 8. 大理 >

 

ここはまだ湖の南端、大理ですが、一帯は盛んに建設、開発が進行中です。

 

 

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< 9.風景が変わって来た >

 

古いタイプの民家は無くなり、住居が密集するようになって来た。

相変わらず渓谷を走り抜けるが、起伏のある丘にも住居がある。

距離的に半分ぐらい来たでしょうか。

 

下: 新たな墓石が見えた。

一つ一つの墓石が大きく、門型に見える。

ここの様式はまた異なる。

 

 

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< 10. 南华站 >

 

 

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< 11. 楚雄站 >

 

後、百数十kmで昆明に到着です。

 

 

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< 12. 昆明に到着 >

 

ここも蘭州と一緒で、最果ての町と思っていたのですが、大都会でした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 43: 新幹線で昆明へ 1


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これから数回に分けて、新幹線から見た麗江―昆明間の景色を紹介します。

思ったより緑豊かな渓谷と盆地が広がっていました。

 

 

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< 2. 鉄道ルート、上が北 >

 

上: 今回の15日間の中国旅行の経路です。

ピンクが日本との国際線、赤が国内フライト、黒が新幹線です。

新幹線は三回乗りました。

北京-開封は大平原の穀倉地帯、開封―蘭州は黄河沿いの険しい山間を抜けて来ました。

今回の麗江―昆明は高原地帯の山間を走ります。

 

下: 今回の鉄道ルート。

麗江を2019年10月27日、11:04発、乗車は2時間20分です。

途中、観光地の大理が湖の対岸に見えるかもしれません。

 

 

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< 3. 麗江駅 >

 

上: 新幹線の麗江駅の正面。

ホテルからここまではタクシーで来ました。

 

下: 麗江駅の広場。

中国の新幹線駅は広場がやたらに大きくて歩くのが辛い。

 

 

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< 4. 最初の関門 >

 

中国では、駅舎に入るには先ず切符とパスポートが必要です。

そして、ここでも上記のチェックと荷物検査が最初に行われます。

 

上: 荷物検査を無事通過した後、振返った。

 

下: 1階正面。

 

昆明行きは2階に行かなければならない。

 

 

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< 5. 二階へ上がる >

 

上: 二階へのエスカレータ。

 

下: 二階の待合室。

 

 

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< 6. 改札 >

 

上: 改札口。

 

下: 乗客が並び始めた。

 

 

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< 7. ホームに入る >

 

上: 改札を抜けて右を見た。

新幹線はホームの右側に停車していた。

 

下: 改札を抜けて左を見た。

実に、巨大なホームだ!

 

 

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< 8. いよいよ乗車 >

 

 

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< 9.車窓の風景 >

 

これから車窓の風景を撮影順に紹介します。

撮影は進行方向右側の景色になり、写真の左側が進行方向です。

 

始め鬱蒼とした木々で覆われた山並みが続きました。

しかし、出発から数分を過ぎると渓谷を走るようになりました。

 

 

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畑作地帯と点在する集落が続きます。

西安から蘭州間の黄土高原に比べると、こちらの方が水にも恵まれ土壌も肥えているようです。

 

 

 

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< 12. 養殖池か >

 

麗江の古城忠义市场で見た新鮮な魚類は、このような池で養殖されていたのかと一人納得した。

 

 

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< 13. 鹤庆站でしょうか >

 

発車後の21分後に通過した駅です。

約30kmほど来たでしょうか。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 42: 麗江とお別れ


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今回で、麗江の紹介を終わります。

麗江の地下街、麗江の朝、新幹線駅までの街並みを紹介します。

ここには古い家並みと発展する街が混在しています。

撮影したのは2019年10月26日と27日です。

 

 

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< 2. 束河古鎮から民主路の地下街へ >

 

上: 束河古鎮から麗江への途中。

 

下: 夜の民主路。

この道を左に折れると麗江古陳の玉河広場になります。

 

 

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< 3. 地下街 >

 

地下街は思ったより長く、幾つか分岐して延びています。

夕食の為に来たのですが、ショッピングの店が多い。

店は多彩で、地上よりも地下の方が人出は多い。

 

 

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< 4. ホテルの朝 >

 

これで2日目の朝を迎えました。

この日は、新幹線で最後の訪問地昆明に向かいます。

 

 

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< 5. 朝8時頃の麗江古陳 >

 

清々しい朝で、人影は少なく、ふっと歴史舞台の一コマに紛れ込んだようです。

 

 

 

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< 6. 玉河広場へ >

 

下: 玉河広場。

丘の上にホテルが見える。

 

 

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< 7. 玉河広場に面した食堂街 >

ここには何回も来ては、食を手短に楽しんだ。

 

 

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< 8. 黑龙潭の方を望む >

 

上: この川の上流(奥)が黑龙潭で、奥に雲を被った玉龍雪山が微かに見える。

 

下: いよいよタクシ-に乗り、新幹線の駅に向かう。

以下の写真は、すべてタクシー内から写したものです。

麗江の都市の姿が垣間見えます。

 

 

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中心部は観光で成り立っているのが分かる。

 

 

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いったん家並みが少なくなった。

 

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< 11. 郊外に忽然と巨大な住宅街 >

 

ガイドの話によると、ここらには別荘群が続々と建っているそうです。

驚きです。

次回、新幹線からの眺めを紹介しますが、この地は中国の奥地で、昆明からでも新幹線で3時間半も隔てた所にあるのです。

ここらは新幹線の駅に近い。

 

 

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下: 小学校のようです。

 

直ぐ新幹線の駅です。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆


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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。

 

 

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< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

 

上: 麗江全体図

赤矢印: 束河古鎮。

ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。

ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。

束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

 

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。

赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

 

下: 束河古鎮の主要観光地

この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

 

A: 茶马古道博物馆

B: 四方街

C: 青龙桥

D: 九鼎龙潭

 

 

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< 3. 駐車場から古陳へ >

 

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。

古さを残しているとも言える。

 

 

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< 4. 茶馬古道博物館に入る >

 

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。

それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

 

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。

この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。

小型の馬も使用したのだろうが。

このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?

やっと理解出来た。

 

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< 5. 茶馬街道の様子 >

 

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

 

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。

上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。

 

 

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< 6. 茶馬街道と人々 >

 

下: 博物館にあった街道の地図。

北部と南部に二種類の黄色線が見える。

北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。

南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

 

黒線も主に二種類ある。

一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。

もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。

 

 

* 茶馬古道 *

 

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。

主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(618~1279年)に盛んとなり、明清時代(1368~1911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

 

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。

麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

 

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?

チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。

また馬は中国の軍隊にとって必要でした。

しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

 

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。

清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。

 

 

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< 7. 四方街 >

 

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。

こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。

 

 

 

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< 8. 青龙桥 >

 

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。

 

 

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< 9.九鼎龙潭へ向かう >

 

 

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< 11. 九鼎龙潭 >

 

実に水が透き通っている。

まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

 

次回に続きます。

 

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中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺


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今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。

この地にはチベット仏教寺院が多い。

これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。

少し驚いたエピソードも紹介します。

 

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< 2. 地図、上が北 >

 

上: 麗江の位置を示す

黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。

雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

 

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。

麗江からの観光ツアーがあります。

さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

 

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。

当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

 

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道

左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。

左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。

 

 

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< 3. 古城忠义市场を出発 >

 

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。

ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。

 

 

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< 4. 普济寺に到着 >

 

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。

私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。

この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

 

下: 普济寺の門

木々に覆われた小高い丘の上に建っています。

この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。

門の両側に大きなマニ車が見える。

ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。

 

 

 

 

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< 5. 境内に入る >

 

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。

古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。

春になると梅の花が綺麗だそうです。

この地域の寺には紅梅が多いようです。

 

 

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< 7. 本堂に入る >

 

上: 入り口の左にあるマニ車

信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。

側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。

この筒の中には経典が納められている。

 

左下: 右が入口

 

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。

どうやらチベットのタルチョーのようだ。

タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。

これが筒状に、2段に重ねられている。

 

 

 

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< 8. 正面 >

 

上: 正面の奥を見ている

狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。

仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。

正面は観音像のようです。

逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。

左下に釈迦如来像らしいものが見える。

 

下: 正面の左側を見る

奥に千手観音像が見える。

チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。

 

 

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< 9. 右側面を見る >

 

タンカが沢山見られる。

 

 

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< 10.明王像か >

 

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。

また獣に乗って従えているように見える。

 

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。

日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。

密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。

この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。

その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

 

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。

 

 

下: 本堂の屋根

 

 

 

 

 

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< 11. 住職家族の住まい >

 

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。

久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。

 

 

 

* 歴史を想う *

 

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。

また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。

様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

 

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。

麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。

これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

 

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。

これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。

しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

 

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。

13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。

この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。

その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。

このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。

こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

 

さらに不思議な事がある。

実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。

これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。

その後も様々な交流が見られる。

 

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。

またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

 

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。

これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

 

身近なものにも驚きがあった。

アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。

調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。

不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

 

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。

この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。

 

 

 

* 驚いたエピソード *

 

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。

この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。

そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、

ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。

少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

 

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。

彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。

私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。

移動は近いので、直ぐ着きました。

 

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。

また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。

バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场


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今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、

古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。

 

 

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< 2. 大石橋から始める >

 

上: 前回紹介した大石橋です。

これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。

最後に市場へと向かいます。

 

下: 百岁桥(百歳橋)

橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。

観光客に写真の被写体を頼まれたようです。

若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。

厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。

多くは一人から数人です。

 

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。

この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。

麗江と比べて町や川、橋は大きい。

しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。

菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。

 

 

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< 3. 様々な橋 >

 

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。

 

 

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< 4. 少し広い通りに出た >

 

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< 5. 万古楼が見える >

 

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える

 

 

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< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

 

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。

この地は松茸の産地です。

サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。

妻は、大量の干し松茸を買った。

しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。

日本の松茸とは異なる。

 

 

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< 7. 地元の人が買っているようです >

 

 

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< 8. 食材が豊富です >

 

ここを訪れたのは13:30頃でした。

時間帯のせいか、あまり客はいない。

当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。

 

 

 

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< 9. 様々な店舗形態があります >

 

 

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< 10. 肉売り場 >

 

先ず、この広さにびっくりした。

そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。

下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。

もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。

違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。

 

 

 

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< 11. 鳥や魚類の販売 >

 

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。

それも活けで売られている。

こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。

おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

 

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。

30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。

 

 

 

 

 

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< 12. そろそろ市場の端に来ました >

 

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

 

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。

しかし、中国では少し趣が異なるようです。

特に雲南省で目立ちます。

それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。

これは中国の少数民族政策の反映だと思う。

 

 

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< 13. 市場の本来の入り口 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 38: 万古楼と大石橋付近のレストラン


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今回は、万古楼と大石橋付近を紹介します。

麗江で、私が最も目を奪われたのは、

大石橋付近の菊に囲まれた清流の美しい街並みでした。

この近くで昼食をとりました。

 

 

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< 2. 万古楼の入口 >

 

上: 万古楼の入口

下: 中に入ったところ

 

 

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< 3. 万古楼 >

 

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< 4. 万古楼を中心にした地図、上が北 >

 

次に万古楼の最上階から見た360度の眺望を紹介しますので、この地図を参考にして下さい。

この麗江の盆地の広さは、赤矢印の東西で幅11kmあります。

麗江市の人口は114万人です(市の範囲は写真より広い)。

ナシ族の人口は31万人だが、麗江以外にも住んでいる。

 

赤矢印: 麗江古陳内、万古楼が丘の上に建つ獅子山公園

茶色矢印: 玉龍雪山

黒矢印: 長江、下から上に(北)流れている

黒枠: 麗江三義空港

 

 

 

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< 5. 北から東までの眺め >

 

上: 真北を望む

遠方中央の小山の左麓に黑龙潭がある。

さらに遠方に雲を被った玉龍雪山が見える。

下側の木々は獅子山公園で、右手側に麗江古陳が広がる。

 

中央: 真東を望む

麗江古陳の中央でしょうか。

 

下: 東南を望む

右手前に木府の屋根(少し青みがある)が見える。

 

 

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< 6. 南から西までの眺め >

 

上: 真南を望む

遠方の丘陵地麓の左側に新幹線の麗江駅があり、その丘陵地を右に迂回したら空港に至る。

写真中央、麗江古陳の南端(瓦屋根が途切れる辺り)に、後に紹介する古城忠义市场があります。

 

中央: 南西を望む

 

下: 真西を望む

中央の山の向こうに拉市海(湖と湿地)があり、さらにひと山越えると、長江が急激に流れを変える長江第一湾がある。

 

 

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< 7.西北から北までの眺め >

 

上: 西北を望む

遠方中央、山脈が途切れる谷間を抜ける道を行くと、拉市海や長江に辿り着く。

この道の右手の山の南斜面中腹に普济寺がある。

後にこのチベット仏教寺院を紹介します。

 

かつて茶葉古道は、南の昆明、大理を経て麗江古陳を通り、ここで西に向かい、長江沿いに香格里拉、チベットに至った。

 

 

下: ほぼ北北西を望む

中央遠方、山の麓に束河古镇があります。

後に紹介します。

 

これで360度、一周しました。

 

 

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< 8. 万古楼から >

 

上: 万古楼の最上階からほぼ西を見下ろす。

 

左下: 万古楼内部。

木造造りで高さ33mあります。

 

右下: 万古楼から東側に降りたところにある展望台

 

 

万古楼からの眺めは良いが、それだけです。

万古楼から四方街への下りの道は、登りと違った道をとりました。

 

 

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< 9. 素晴らしい眺め >

 

上: 四方街

 

下: 大石橋

前夜、ライトアップされた橋と清流の眺めも魅惑的でしたが、昼も良い。

 

 

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< 10. 大石橋の上から >

 

上: 下流を望む

 

下: 上流(北)を望む

 

 

 

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< 12. 昼食のレストラン >

 

ガイドさんに紹介してもらいました。

 

上: レストランのテラス席から川の方を見る。

 

下: 店の方を見る。

ここは大石橋の川を少し北上した所にあります。

昨晩、この店の前を通った時は、非常に賑わっていました。

 

 

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< 13. 食事 >

 

メニューもガイドさんと相談しながら決めました。

この麗江は食材が豊かで松茸も採れる。

料理は彩が綺麗でしたが、深みが無く、美味しいとは言えませんでした。

どちらかと言うとさっぱりした味でした。

強いて言えば高いだけの料理でしょうか。

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 36: 木府を訪れる


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今回は、ナシ族の統治者木氏(モクシ)の館を紹介します。

紫禁城を小振りにしたような立派な宮殿です。

 

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< 2. 散策マップ >

 

上: 麗江古陳の観光地図、上が北

茶色線が前回紹介した散策路、赤線が今回の木府への入場口、紺色線が次に紹介する獅子山公園への散策路です。

 

中央: 木府の全景、見ている方向は下地図の茶色矢印

入場口は奥の方に見える。

 

下: 木府の平面図、ほぼ上が北

赤線が入場までのルート。

主要な建物は、右から議事庁、万巻楼、護法殿です。

 

 

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< 3. 忠義坊 >

 

上: 忠義坊の前から通路を挟んで照壁を見る。

下: 忠義坊、ここを入って行く。

 

 

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< 4. 木府に入る >

 

上: 入口、平面図の議門に当たるのだろう

ここでパスポートなどを見せる。

 

下: 議事庁

木氏が政務を執った所。

 

ナシ族の首領であった木氏は元の時代13世紀より、麗江の統治を委ねられた。

以来、元、明、清の時代を22世代470年にわたって世襲統治した。

木府は麗江の政治、経済、文化の中心でした。

 

1996年の麗江大地震で大きな損傷を受けたが、元通りに再現された。

麗江古陳の街並みも同様に再現されたものです。

 

 

 

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< 5. 議事庁の前広場 >

 

上: 広場の両壁に建つ楼。

 

下: 議事庁の前から、入場口を望む。

 

 

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< 6. 議事庁の中 >

 

上: 興味をそそる像。

頭の上に抱えるのは銅鼓でしょう。

銅鼓(銅製の片面の太鼓)は雲南からベトナム北部で、紀元前5世紀頃から造られた。

主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。

 

下: 天井。

 

 

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< 7. 万巻楼 >

 

曲阜の孔子廟を参考にして建てられた書庫。

 

 

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< 8. 万巻楼の二階 >

 

 

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< 9.万巻楼の二階からの眺め >

 

上: 北の方を見ると、玉龍雪山の峰が雲間から覗いていた。

本来は主峰が左側にそそり立つているのですが。

 

下: 北東を望む。

 

 

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< 10. 護法殿 >

 

上: 護法殿。

木氏の私事的な話し合いがもたれた場所。

 

下: 万巻楼。

 

 

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< 11. 護法殿の中 >

 

下: 護法殿の奥に道教が祀られていた。

 

 

 

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< 12. 木府に特徴的な水路 >

 

湧水が豊かな麗江らしく、宮殿内には水路がはりめぐらされている。

川縁に立つ柳は中国の歴史舞台を連想させる。

 

 

* 感想 *

 

私は訪れる前、古くて小さな建物を想像していたのですが、敷地の広さ、建物の立派さに驚いた。

思ったより漢民族の宮殿に倣った建物だった。

もっとも漢民族の支配下にあったのだから当然かもしれないが。

 

麗江古陳も木府も、城壁や城砦が見当たらない。

雲南では小部族による抗争が長らく続き、8世紀以降に統一王国が形成されるようになった。

麗江は奥地だったためか、侵略されることも抗争も少なかったのだろうか?

元(フビライ)はかつて雲南からベトナムまで侵攻したことがあったが。

 

木府内に、十人ほどの白人観光客がいたので、声を掛けると、彼らはチェコから来ていた。

プラハやチェスキークルムロフが懐かしい。

白人の団体観光客は珍しかった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 35: 麗江のホテルから木府まで


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今回は、麗江古陳の朝の風景を紹介します。

ホテルから見た玉龍雪山や古陳の甍の波、ホテルの中庭と、

ホテルから木府までの道を紹介します。

 

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< 2. ホテルの中庭から 1 >

 

宿泊した嵌雪楼客栈には中庭が三つあり、ここは一番広く、レストランと屋根付きテラス席が隣接しています。

 

上: このレストランで中華ビュッフェを食べました。

味や種類は都市部のホテルより劣りますが、安く立地と眺めが良いので申し分ないです。

 

下: 客室。

この一階が宿泊した部屋です。

 

 

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< 3. ホテルの中庭から 2 >

 

上: テラス席

朝の古陳全景と前日の夜景は、ここから撮影しました。

 

下: 左がフロント棟で、カウンターは反対側にあります。

右がレストランです。

 

 

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< 4. 玉龍雪山 >

 

撮影は7:15~30です(2019年10月26日)。

たまたまレストランで朝食ととろうとしたら、窓から玉龍雪山が見えました。

雲はかかっていたが、微かに朝焼けで輝いていました。

感激です!

 

上: 右手前の山の麓に黑龙潭があります。

 

 

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< 5. ホテルのテラス席から >

 

上: 東を望む。

玉河広場が直ぐ下に見えて、古陳は右手に広がる。

撮影は7:30頃です。

 

下: 東南を望む、古陳はさらに右手に広がる。

 

 

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< 6. 四方街まで >

 

この道は、ホテルを下って直ぐに出会う道です。

四方街に通じる道は、これと並行して他に二本あり、それぞれ趣があります。

これはもっとも丘寄りで、素朴な感じがします。

朝は商店街が閉まっているせいもありますが。

麗江古陳の道は、すべて写真のような石畳で覆われています。

趣はあるが、足には負担です。

 

 

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< 7. 途中の珍しいもの >

 

気になった屋根瓦、看板、門扉を撮影しました。

 

上: 尖った屋根瓦は、タイの寺院で見られる龍のイメージに似ているようだ。

 

 

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< 8. 四方街の朝 >

 

四方街の西端から東側を望む。

昨晩の賑やかさは嘘のようです。

掃除がゆきとどいています。

 

 

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< 9. 木府に向かう >

 

静かな朝です。

 

 

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< 10. 木府の前の広場に到着 >

 

この通りの両側の店はやがて開き始め、賑やかさを取り戻します。

今は、朝9時ごろです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 34: 夜の四方街を愉しむ


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今回は、麗江古陳の中心、四方街の夜を紹介します。

なかなか味わえない雰囲気があります。

飛んでエキゾチック・チャイナ! 

 

 

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< 2.麗江古陳の散策ルート、上が北 >

 

黄色線が前回紹介したホテルから黑龙潭のルートです。

赤線が今回紹介するルートです。

玉河広場から四方街までは460mほどです。

白の四角枠はホテルです。

今回の写真は夜6:00から8:30までの撮影です。

 

 

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< 3. 銀細工の店 >

 

銀細工の店が多かった。

銀細工の飾りは、中国南方の少数民族にとって非常に重要でした。

かつての花嫁姿は豪華な銀製の冠、胸飾り、ブレスレットで覆われていました。

特に有名なのが貴州省のミャオ族で、今でも祭式で女性が身に着けます。

銀飾りは婚資であり、移動可能な財産、身分の象徴でした。

 

 

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< 5. 四方街 1 >

 

四方街から幾本もの通りが放射状に延び、その両側には店が並んでいます。

そして観光客で溢れています。

 

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< 6. 四方街 2 >

 

人が増えて来ました。

 

 

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< 7. 大石橋 1 >

 

下: 大石橋が見えます。

この川の両側にはレストランがひしめき、どこも客で一杯でした。

この一角の雰囲気は、他の通りとは異なります。

レストランが、フランスの洒落たテラス席のように、川に沿って開放的になっています。

ちょうど菊が満開で、さらに夜の明かりが華やかさを増しています。

 

ただ私としては少し残念だったのですが、流れる音楽が中国ポップと言うか、けたたましいのです。

ライブハウス付きレストランとでも言えるのでしょうが、落ち着かない。

しかし中国の人は、当然楽しんでいるのですが。

 

 

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< 8. 大石橋 2 >

 

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< 9. 大石橋 3 >

 

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< 10. フードコート 1 >

 

大石橋の近くにあるフードコートです。

前回紹介したフードコートと造りは似ていますが、こちらは二階もあります。

ここで2回目の夕食です。

いつも通り、妻に注文を任せて、私は撮影です。

 

 

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< 11. フードコート 2 >

 

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< 12.フードコートでの料理 >

 

味は絶品とはいかないが、様々な味付けと食材を愉しめれば満足です。

 

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< 13. 四方街に戻って来た >

この夜景を綺麗に撮りたかったのですが、うまく行きませんでした。

写真はスマホによるものです。

凄い人だかりです。

中国人の観光熱と雰囲気を味わって下さい。

 

 

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< 14. ホテルに戻って来た >

 

このホテルは古風な木造風2階建てで、丘の端の広い敷地に建っています。

 

上: 入り口。

下: 二階から丘の南側を望む。

ライトアップされた木造風のホテルが並んでいる。

 

 

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< 15. ホテルのテラス席から >

 

ホテル内の東側、丘の上に喫茶店風のテラス席があり、そこから玉河広場の賑わいを撮影した。

ここでも音楽がけたたましく鳴り、多くの人が夜を楽しんでいた。

 

 

* 感じたこと *

 

30年以上前、大都会の台北や広州の夜を歩いたことがあるが、隔世の感がある。

当時、人々は平日、夜遅くまで働き、週末の夜になると家族で街に繰り出す。

人々は通りを埋め尽くし、レストランや小さな食堂に流れて行った。

その熱気は凄かった。

そこには麗江のような華やかさはなく、只々、一時の休息と憩いを得ようとする人々の姿があった。

 

ここは実に楽しく、高揚感のあるエキゾチックな観光地です。

日本の皆さんにお薦めです。

 

昔は、なかなか行けなかったのですが、今は昆明まで飛行機、そこから新幹線で麗江に時間を掛けずに行けます。

安い正規割引の航空券があり、新幹線も高くありません。

(航空券=関空-昆明、一人片道21500円、4時間。新幹線=麗江-昆明、一人2等3300円、3時間。空港-昆明はリムジンバス、40分間、一人400円)

 

また飛行機で成都まで行き、そこから麗江に飛ぶことも出来ます。

65歳以上なら、多くの観光地の入場料は半額または無料になります。

ホテルも欧米に比べれば、中国の朝食付き二人の宿泊料金は1/4~1/2ほどです。

ちなみに二泊した嵌雪楼客栈は朝食付き二人で一泊6000円でした。

このホテルの評価はTrip.coで4.5/5で良い方です。

さらに地元の食事は安い(高級店は別だが)。

 

是非とも、皆さんに中国の今の活気を感じて欲しい。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで


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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。

その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。

途中、1回目の夕食場所も紹介します。

 

 

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< 2.东巴文化博物馆 >

 

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。

小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

 

上: 入り口。

 

左下: 納西族の民族衣装。

庶民の普段着のようです。

町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

 

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)

説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。

実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

 

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。

(現在は衛生上の理由で禁止されています)

火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。

この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。

 

 

ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。

麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。

またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。

現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 

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< 3. トンパ教 >

 

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。

宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。

したがって一般に使われる文字ではなかった。

 

左上: シャーマンの衣装だろう。

 

右上: ナシ族の兵装だろう。

この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

 

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。

トンパ文字が記されています。

 

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

 

下: 降魔杵

おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。

 

 

 

 

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< 4. シャーマンと儀式 >

 

上: トンパ教の祭式場を再現。

これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

 

左下: 代々のシャーマン。

冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

 

右下: 儀式の一つ。

 

 

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< 5. 湖の東岸を戻って行きます >

 

 

 

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< 6. 古楽器を演奏する人々 >

 

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

 

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。

 

 

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*7

 

 

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< 8.锁翠桥 >

 

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。

 

 

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< 9. 玉河广场に戻った >

 

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

 

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。

日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。

 

 

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< 10. 軽く夕食 >

 

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。

夕方5時頃でしたが、客は少なかった。

料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。

それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。

数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。

 

 

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< 11. 玉河广场から四方街への通り >

 

この通りがメインで、道幅が広い。

菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。

ツアー客が、どんどん増えて来た。

どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。

 

 

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< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

 

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。

ショッピング好きにはたまらないでしょうね。

ここでは中国製だから安いと言うことはない。

 

 

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黑龙潭からの川の流れです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 32: 少数民族と歴史の町、麗江に到着


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これから数回にわたり、世界遺産の麗江を紹介します。

標高2400mの秘境に明清代の町並みが、疏水と共に今も息づいています。

かつて麗江古城のナシ族は、ここを通る茶葉古道で繁栄していた。

ここは本物の歴史の町と言えるでしょう。

 

 

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< 2. 麗江の位置、上が北 >

 

上: 赤四角が麗江で、黒線が550km離れた成都からの航路です。

麗江が属する雲南省は東南アジア各国と国境を接し、西でチベット自治区とも接しています。

 

下: 麗江三義国際空港に着陸(借用写真)

成都から1時間半の飛行で空港に到着した10時半頃は晴れていたのですが、だんだん曇って来ました。

 

 

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< 3. 麗江三義国際空港 >

 

上: 空港全景(借用写真)

手前が国内線ターミナル、奥が国際線用。

 

中央: 上の写真で黄矢印の方向から見ている(借用写真)

丽江三义机场国内航站楼の2階が見えている

私はエアチャイナで国内線ターミナルに到着。

ターミナルは2階建で、到着したら1階に降りる。

小さな空港なので分かり易い。

 

下: エアポートバス(借用写真)

私が乗ったのは机场巴士市区线(民航蓝天宾馆(福慧路方向)行き)。

上の写真でピンク矢印辺りが、ターミナルの1階を出た所にあるバス乗り場です。

ここから麗江の中心部まで約50分で着きます。

バスの発車は飛行機到着に合わせて発車します。

エアポートバスの切符売り場(小屋)はターミナルを出た所にあります。

 

 

 

 

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< 4.麗江の俯瞰図、上が北 >

 

麗江は険しい山岳地帯の小さな盆地にあり、近くを長江が大きく蛇行しながら流れています。

お目当ては麗江古城と呼ばれる町並み保存区で、大きさは約1km四方です。

 

上: 赤矢印が今回のホテル、黒矢印が民航蓝天宾馆、赤丸が空港です。

 

 

ここで少し注意点があります。

 

エアポートバスが到着した民航蓝天宾馆(小さなバスターミナル)には、タクシーが数台停車していた。

ホテルまで500mぐらいしかないが、タクシーに依頼すると快諾してくれた。

ところがホテルは麗江古城内にあり、車が入れない為、手前で下ろされ、歩いて行くことになった。

これは仕方がないのですが、私のホテル、嵌雪楼客栈は小高い丘の上にあります。

 

そこに登る階段がきつく、とてもスーツケースを持って上がれない。

仕方なく、ホテルまで手ぶらで行き、フロントに荷物の運搬を頼んだ。

フロントは英語が喋れて、快諾してくれた。

やがて屈強な男が出て来て、二人分のスーツケースをホテルまで運んでくれた。

 

私は、事前にメールでホテルが高台にあるので、近くまでタクシーで行けるかと問い合わせしたら、「問題ない」との返事で安心していた。

何とか事なきを得たが、通じないものです。

 

 

下: 俯瞰した衛星写真(グーグルアース)

奥の白い山が標高5596mの玉龍雪山です。

赤矢印が麗江古陳で、赤丸が空港方面です。

 

全長6300kmの長江は麗江の左(西)20kmまで近づいた後、北上し玉龍雪山の後を回り、また南下し、東に流れて太平洋に注ぎます。

長江の源流はまだ2千kmほど先で、玉龍雪山の遥か左奥に始まる。

長江を麗江から遡って120kmほど先の、ちょうど玉龍雪山の裏の方向に、香格里拉(シャングリラ)のチベット仏教の巨大寺院、松赞林寺がある。

茶葉古道は雲南省南部の普洱茶の産地から麗江と香格里拉を通り、最終ラサに至ります。

 

 

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< 5. 今回紹介する所、上が北 >

 

左: 赤丸1がホテルで、麗江古陳(古城)のほぼ北の端になる。

ピンク枠がおおよその麗江古陳の観光範囲。

赤枠が黑龙潭景区(玉泉公园)。

赤線が黑龙潭までの徒歩ルート。

 

右: 今回紹介する黑龙潭の散策ルート、赤線です。

 

 

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< 6. 嵌雪楼客栈 >

 

上: 入口の一つ。

 

下: 入口の前から玉河广场を見下ろす。

 

麗江に数あるホテルの中から、ここを選んだのは、ここが高台にあり古陳を見渡せることが一番でした。

それに造りが納西族(ナシ)の重厚な館風で、場所が古陳の北端にあるので便利だと考えたからです。

スーツケースの持ち運び以外は、予想以上に良かった。

 

 

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< 7. ホテルから黑龙潭に向かう >

 

左上: 階段上の右側がホテル。

 

右上: 階段下の細い通りから別のホテル入口を望む。

この通りの高台側にはホテル、谷側には売店が多い。

 

下: 同じ通りから玉河广场を見ている。

この通りの左側に小さな小屋があり、そこで麗江古陳保護費を支払う。

黑龙潭への入場は、麗江古陳保護費の領収書があれば良い。

保護区の麗江、束河、黑龙潭に入るには80、40元が必要ですが、私達は65歳と70歳以上なので、パスポートの提示で無料になります。

 

 

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< 8. 玉河广场 >

 

広場は観光客、ツアー客で一杯だ。

日本人の団体観光客を見ることは無かったが、日本人観光客らしい一組の夫婦を見た。

 

下: 右上にホテル嵌雪楼客栈が見える。

 

 

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< 9. 川に沿って黑龙潭に向かう >

 

上: 水は透き通り、川藻が揺れている。

この水は黑龙潭から流れている。

 

下: 川の右側は、古風な建物や売店が並んでいる。

川の左側は、モダンな店らしい建物の建設ラッシュでした。

私には興覚めですが。

 

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< 10. 川沿いの散策 2 >

 

 

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< 11. 入口が見えて来た >

 

黑龙潭は、18世紀、清のの乾隆帝によって玉泉龍王廟として作られたのが始まりです。

 

 

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< 12. 得月楼 >

 

上: 湖の端に辿り着いたら、対岸に有名な得月楼が見えた。

右手前に五孔橋が見える。

 

実は、天気が良ければ、得月楼の左奥に雪を被った玉龍雪山が聳え立ち、この湖面に雄姿を映すはずでした。

この写真を一番撮りたかったのですが、残念無念!

 

 

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< 13. 途中、出会った人々 >

 

上: 中国の女性三人組

今回、中国を観光していて北京と麗江の観光地で漢服を着ている若い女の子をよく見かけた。

今、流行のようです。

それで記念と思い、一緒に写真をお願いしたら、快諾してくれた。

 

下: 散歩しているナシ族のお婆さんと孫がいたので、写真をお願いした。

喜んで被写体になってくれた。

お婆さんの服が民族衣装です。

 

散策していると観光している東南アジアの若い男女グループを見たので不思議に思い、声をかけました。

彼らはベトナムから来たとのことでした。

なにせ雲南省はベトナムと国境を接していますので近い。

写真はありません。

 

 

 

 

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< 15. 得月楼を反対側から見ている >

 

下: 奥が麗江古陳の方向です。

 

 

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< 16. 公園内でゲーム楽しむ人々 >

 

下: ここから折り返し、湖の反対側を周ります。

 

ここで一度、后门を出て直ぐ前にある丽江东巴文化博物馆に行きます。

 

これは次回、紹介します。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 31: 麻婆豆腐、武侯祠、その他情報


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今回は、老舗中華料理店と武侯祠、夕食のレストランを紹介します。

また成都旅行と空港の情報も記します。

これで成都の紹介は終わります。

 

 

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< 2. 陈麻婆酒楼(金沙店) >

 

ガイドの説明では元祖麻婆豆腐の店です。

落ち着いた格調ある内装で、ゆったり食事が出来ました。

 

 

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< 4. 料理の数々 >

 

左上が麻婆豆腐です。

辛さはそれほどなくて、山椒が効いて深みのある味でした。

今回の中国旅行で、もっとも中華料理らしいものでした。

フリーでレストランに入り、はらはらドキドキしながら料理を注文し、新しい味を発見した時の喜びも良いが、ガイドの薦めで代表的な料理を食べるのも良いものです。

 

 

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< 5.武侯祠 >

 

上: 武侯祠の地図。

三国志で有名な諸葛孔明の廟です。

3世紀に孔明が仕えた蜀王の劉備の廟が創建され、後に孔明の廟と一緒にされた。

清代に再建された建物が並んでいる。

 

この見学時、最も雨が酷くなり、詳しく見ることも写真撮影も出来ませんでした。

感じたのは、諸葛孔明の方が劉備玄徳より圧倒的に人気があり、中心的な配置になっていました。

 

 

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< 6. 孔明を中心に蜀で活躍した人物の像 >

 

 

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< 8. 錦里古街 >

 

上: 武侯祠の中。

 

下二枚: 錦里古街。

武侯祠のすぐ隣にある、明や清時代の建物が再現された飲食店や土産物店の通りです。

この日は寒く、雨に濡れたせいもあり体調を崩してしまったので、ここは素通りした。

 

 

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< 9.鲍师傅糕点(春熙路店) >

 

土産と夕食の為に、ガイドに頼んで一番の繁華街、春熙路に連れて行ってもらった。

この店は人気だそうで、日本への土産に買いました。

小さな店内で10種類ほどのお菓子を大量に作って販売していました。

饅頭、パイ、シュークリームのようなもので、新しい味で美味しかった。

 

一番驚いたのは、雨の中、多くの客が列をなして並び、次から次へと売れて行くのですが、客は無くなりません。

またその間にも、頻繁に様々なバイク便のドライバーが注文品を大量に引き取って行きます。

彼らは店員にスマホを見せ、素早く受取ります。

ここでも中国の新しい業態(バイク便による宅配業)の浸透を見た。

 

 

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< 10. 春熙路の百貨店内のレストラン >

 

地下鉄駅春熙路の近くには多くの百貨店や大型スーパーがひしめき合っています。

中に、イトーヨーカ堂と伊勢丹もあります。

私達は、この中に入って土産を買い夕食をとりました。

 

 

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< 11. モンゴル料理店 >

 

なぜかこの百貨店のレストランフロアはすべてが新装開店でした。

珍しいのでモンゴル料理を選びました。

 

上の写真: 店の前に置かれていた骨付き肉の塊が鍋の蒸気で蒸されており、食欲をそそります。

妻が注文しようとしたら、大きいままで小分けが出来無いと言うことで、諦めました。

結局、普通の中華料理を注文しました。

 

この後、地下鉄を乗り継いで、空港からタクシーでホテルに帰りました。

次の日は、8:50の飛行機で麗江に飛びます。

 

 

 

* タクシーの利用について *

 

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< 12. 金沙遗址博物馆前から >

 

成都観光では、8時間の日本語ガイドを雇い、蘭州と違って車をチャーターしませんでした。

移動は地下鉄とタクシーを使い、効率よく回れると想定していたのですが、上手くいかなかった。

てっきりガイドは滴滴出行などのライドシェア(配車サービス)を使うと思っていたのですが、まったく使わなかった。

写真のように通りに出て、タクシーを拾うのですが、タクシーが通らなかったり、先に別の客に取られたりと散々でした。

 

ここで面白いことがありました。

ガイド曰く、最初、タクシーを待った場所には監視カメラがあるので、タクシーは寄って来ないと言い、次へと歩いて移動することになった。

 

ガイドがライドシェアを使わない理由は分からないが、1日で成都を観光する場合は、車もチャーターする方が良いでしょう。

 

 

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< 13.空港とホテル間の移動について >

 

上: 成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)の地図。

赤矢印は第2ターミナルで私が蘭州(中国東方航空)からと麗江(エアチャイナ)への両方で使いました。

ターミナルは3階建てです。

成都空港商务酒店が宿泊したホテルで便利で問題もなく、高くないので良かった。

 

中央: ストリートビュー。

上記地図の赤星印、高架道路上から成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)を見ている。

 

下: タクシー乗り場の雰囲気(借用写真)。

 

蘭州から空港に到着したのは23:00でした。

当初、深夜の到着でタクシーが拾えるかと心配したのですが、無事に乗ることが出来ました。

しかし、嫌な経験をすることになった。

 

深夜であっても、非常に多くのタクシーが待機しており、配車係の指示でスムーズに乗れます。

タクシー乗り場は第二ターミナル1階を出た所にあるので分かり易いです。

タクシーに乗って行先を伝えるのですが、運転手は困惑し、分からないと繰り返します。

しかたなく、私がスマホを見ながら道案内することになりました。

 

翌日、成都観光を終えて、空港第2ターミナルの地下鉄駅を降りて、また同じ所からタクシーに乗ったのですが、また運転手がけたたましく抗議する。

無事ホテルには着いたのですが、どうやらホテルまで歩いて行けと言っているらしい。

 

結局、さらに翌日早朝の出発はホテルから空港まで1km弱を歩きました。

中国で乗車拒否には遭わなかったが、うるさいのにはうんざりした。

 

 

* 成都観光の感想 *

 

丸1日で成都の中心部を観光するのは無理でした。

四川博物院や青羊宮に行くことが出来なかった。

事前の打ち合わせで無理とはわかっていたのですが、残念でした。

 

もう一つ残念だったのは、劉備玄徳が蜀の国に拠点を置いた理由を実感出来なかったことです。

蜀の国が肥沃な広大な盆地で、かつ険しい山岳に囲まれていることを自分の目で確認したかった。

私は成都の出入りを両方とも飛行機にしたのですが、どちらか一方を列車にしておくと自然の景観が分かった。

 

もっとも蘭州ー成都ー麗江を鉄道で行くのはかなり遠回りで、それぞれ10時間以上かかり、夜行になるので採用できなかったのですが。

さらに麗江行きの飛行機便が予約後、航空会社より午後発が朝発に変更されたことで成都滞在が短くなったのも痛かった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 30: 唐へ誘う杜甫草堂


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< 1. 杜甫(左?)と李白 >

 

 

今回は、唐の詩人杜甫(とほ)にゆかりの地を訪ねます。

杜甫は戦乱を逃れ、成都に4年間暮らしました。

当時の住まいが再現されている杜甫草堂を紹介します。

 

 

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< 2. 杜甫の漢詩「春望」 >

 

杜甫(712―770年)は詩聖と呼ばれ、詩仙と称された李白と並ぶ唐を代表する詩人でした。

「春望」は、彼が長安で使えていた時、安禄山の乱に巻き込まれ軟禁されていた折に詠ったものです。

唐は誕生から百年が経ち絶頂期を迎えていたが、反乱でいとも簡単に、都の長安(西安)は陥落し、皇帝玄宗は蜀(四川省)に逃げた。

杜甫は妻と離れて暮らさざるを得ず、世の無常をこの詩に込めた。

杜甫は「春望」にも見られるように社会情勢や政治への思いを五言八行に込めました。

 

 

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< 3.杜甫草堂 >

 

上: 入り口

下: 地図

とても広いので周り切れない。

この杜甫草堂は、木々で覆われた一辺500mの庭園内に数々の建物が散在している歴史テーマパークのようなものです。

杜甫がかつて住んでいた住まいが再現されています。

 

 

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雨がかなり降っていたので、写真を撮るのが難しかった。

広い敷地を、傘とカメラを持ち、多くの観光客を避けながらガイドについて行くのがやっとでした。

 

 

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< 6.少陵草堂碑亭  >

 

上: 中央の三角形屋根が少陵草堂碑亭

少陵は杜甫の号です。

 

下: 茅屋故居

杜甫の像らしき石像の左奥に見えるあばら家が、杜甫の再現された住まいです。

 

 

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< 7. 茅屋故居  >

 

この狭い家屋内に多くの観光客が入っていたので、写真を撮るのに苦労しました。

机や台所が有り、他の部屋もありましたが、かなりみすぼらしい感じがした。

もっとも1300年前の話ですから、こんなものかとも思った。

 

実際、杜甫は科挙に失敗し、仕官も上手くいかず、さらに戦乱に巻き込まれ、流転と貧困に明け暮れた一生でした。

彼が悪いと言うより、隆盛ではあったが腐敗が進んでいた唐王朝において、彼の低い出自では出世が出来なかったのだろう。

 

 

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今回の中国旅行で、盆栽の起源は中国だとの意を強くした。

至る所で鉢植えの木の多いことに驚いた。

 

 

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< 9.万佛楼 >

 

上: 漢詩の書が展示されている建物。

残念ながら読めないので、通り過ぎるだけでした。

 

下: 万佛楼が木立の向こうに見える。

 

 

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< 10. 杜甫と唐 >

 

上: 右から玄宗、楊貴妃、安禄山。

中: 安禄山と唐の行軍。

赤線が安禄山の南下した侵攻経路、青線が唐軍の敗走経路。

玄宗は成都へ敗走し、皇太子は霊武に北伐を行い、後に長安を奪還する。

 

下: 太い黒線が杜甫の生涯の行路で、ほぼ当時の主要都市を巡っている。

Aは出生地鄭州、Bは長安、Cは成都、Dは逝去の地

 

私には「国破れて山河在り」は他人事とは思えない。

まさに今の日本を見ているようです。

杜甫の人生は、唐が絶頂期から崩壊に向かう時代と重なりました。

 

唐誕生から百年、玄宗皇帝の善政で唐は絶頂期を迎えます。

しかし彼は絶世の美女楊貴妃に溺れ、政治をないがしろにした。

政治は悪辣な宰相が握り、その死後、楊貴妃の血縁者が政治を牛耳った。

この血縁者は北辺を任されていた傭兵軍の総指揮官安禄山が反乱を起こす火種を作った。

そして755年、安禄山は蜂起し、1か月後には洛陽を、その半年後には長安も陥落させた。

玄宗は成都に逃げ、楊貴妃に死を命じ、北伐に向かった皇太子が皇位継承を勝手に宣言した。

唐は安禄山側の内紛や異民族の力を得て、どうにか切り抜けることが出来た。

この後、唐は中興の祖によって命脈を保ち、誕生から約300年後、内乱によって滅ぶことになる。

 

杜甫は、今の鄭州で地方官の子として生まれ、科挙を目指す。

各地を旅し、洛陽では李白と意気投合した後、長安に仕官を求める。

何とか一時、仕官は叶うが、安禄山の乱に巻き込まれ、逃避行を繰り返すことになる。

杜甫は蜀(成都)に逃れ、蜀の有力者が彼を支援した。

この時の住まいが杜甫草堂です。

支援者が死去すると、彼は家族を連れて南下し、かの地で死去した。

才能に恵まれ彼ではあったが放浪、逃避、貧困の内に人生を終えた。

 

 

広い庭園の為、1時間以内では、ほんの一部を覗くだけで、じっくり見ることは出来なかった。

それでも歴史的な佇まいを全体的にうまく再現しているので、見る価値は十分にあります。

もっとも時代考証が正しいかは分からないが。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 29: 古代へ誘う金沙遺址博物館


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< 1. ここで黄金の太陽神鳥が発見された >

 

 

これから、数回に分けて四川省の省都成都を紹介します。

今回は、金沙遺址博物館を紹介します。

ここには最古の蜀人の暮らしがあった。

 

 

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< 2. 成都観光地図、上が北 >

 

上: 成都の位置は赤矢印

成都には蘭州から飛行機で来て、二泊後、同じ空港から飛行機で麗江に移動します。

 

下: 赤矢印が、成都の観光地です。

A: 金沙遺址博物館、三星堆遺跡の文化を受け継ぐ遺跡の上に建っている。

B: 杜甫草堂(唐の詩人の廟)

C: 陈麻婆酒楼(金沙店)、元祖麻婆豆腐の店

D: 武侯祠(諸葛孔明の廟)

E: 天府广场東側のショッピング街、成都最大の繁華街

 

黒矢印は地下鉄で直結している成都双流国际机场の方向を示す。

 

2019年10月23日23:00、私は蘭州から成都双流国际机场に到着し、直ぐ近くのホテルに2泊した。

翌日、朝8:30にホテルのロビーで現地ガイドと待ち合わせし、日本語で1日案内してもらった。

移動はタクシーを利用した。

残念ながら、1日中雨でした。

観光はほぼ予定通り出来たが、写真が思うように撮れなかった。

 

 

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< 3. 金沙遺址博物館 >

 

上: 金沙遺址博物館の地図、上が北。

600mx500mの広さ。

E: 乌木林

F: 発掘遺跡の展示館

G: 遺跡からの発掘品の展示館

 

この遺跡は、2001年偶然発見され、発掘調査後、2007年博物館としてオープンした。

私としては有名な三星堆遺跡を見たかったが、成都を1日で観光するには、近くにあるこの博物館見学で時間的に精一杯でした。

三星堆遺跡は北方45kmの位置にある。

 

この博物館の下には、紀元前1200~500年頃に栄えた蜀人の国が眠っている。

この時期は、黄河中領域の西安から洛陽とその北方で興った商(殷)の後期から、西周、春秋戦国時代の前半に重なる。

ここは蜀人の政治経済商業の中心地であったが城砦はなく、大きな住居址群と祭祀場、墓地からなる。

現在は埋め戻され、祭祀場跡だけが見学できる。

 

 

下: 乌木林

この敷地の川底に埋もれていた60本余りの黒檀が立てられている。

かつてこの地は黒檀の森で、今より温暖であった。

この黒檀は祭祀に使われた可能性が高い。

彼らは治水を重視し、河辺で祭祀を行った。

成都には有名な、水利を目的として紀元前3世紀築造が始まった都江堰がある。

 

 

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< 4. 発掘遺跡の展示館 1 >

 

この展示館は大型の祭祀場跡を覆っている。

 

 

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< 5.建築物跡と発掘品 >

 

上: 左側のパネルに高い櫓の絵が見える。

パネルの周囲の穴が、柱の跡なのだろう。

出雲大社の太古の復元モデルと似ている。

 

下: 黄金のマスクなどの金器が発掘された。

写真には他に玉器や青銅器も見える。

 

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< 6.石虎と象牙 >

 

上: 中央右に数本の象牙が白いビニールで覆われている。

また猪の牙も大量に見つかった。

当時、この地には多くの象が生息していた。

右下のパネルを拡大したものが下の写真です。

 

都江堰が造られた岷江はしばしば氾濫し水害をもたらしていた。

古代の蜀人は、象牙には水の妖怪を殺し、洪水を鎮める神通力があると信じ、川辺のこの祭祀区で、象牙を柱状や円状に並べて供え、祭神を祭ったようだ。

 

下: 写真の右下に石虎が二つ見える。

崇拝の対象だったのだろう。

 

 

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< 7. 発掘品の展示館 >

 

上: 二つの展示館の間の通路。

広々とした森林公園になっている。

 

下: 発掘品の展示館に向かう。

 

 

 

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< 8. 蜀人の暮らし >

 

三枚の写真はジオラマを左から右に撮って、上から下へと並べた。

当時のこの地の様子を再現したものです。

 

森が残る平原に川が流れ、その周辺に多くの住居が建っている。

左には象、犀、鹿が見える。

川には数艘のカヌーのような小舟が見える。

右手前には住居と家畜の囲いが見える。

 

ここは蜀人の王国の一つだった。

これに遡り、城郭のあった三星堆遺跡が500年間続き、衰退した後にこの王国が興り700年ほど続いた。

蜀人の国は長江上流域の盆地にあったので、永らく黄河中流域の争いに巻き込まれることはなかった。

しかし、秦国がこの地に侵入すると蜀人は敗れ、一部は西側のチベット方面へ、または南下し東南アジアへ去った。

 

 

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< 9.再現された住居と土器 >

 

上: 再現された住居。

土壁と草ぶきの屋根。

 

下: 土器

ほとんどの土器の形は他の地域と同じように見える。

 

下: 玉器

写真の下段に玉琮、割れた玉璧、上段に玉戈などがある。

玉器は殷周のものと似ており黄河中流域と交流があったことを伺わせる。

これらは祭祀用のはずです。

上部の物は、かなり大きい。

 

 

 

 

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< 10. 青銅器と埋葬墓 >

 

上: 青銅器

殷で隆盛を極めた祭祀用の青銅器容器の鼎などをまったく見なかった。

なぜか青銅器は薄いか小さいものがほとんどです。

三星堆遺跡では大きな青銅製人形を作っていたが、こちらでは大きい物は造られていないようだ。

不思議だ。

 

下: 埋葬墓

一見した感じでは、貧富の差や格式がないようです。

またほとんど副葬品が見られない。

ここには見えていないが、遺体を二つのカヌー形状の棺で上下に被せるようにして埋葬することもしていた。

 

このような階層の無い社会(王国)で、金器・玉器や象牙を消費する祭祀が盛大に行われていたことに驚いた。

 

 

11

< 11. 主要な発掘品 1 >

 

左上: 玉鉞

右上: 玉琮

この二つは他の中国文明でもよく見られるものです。

 

左下: 青銅立人像

この人形は、服装や髪型、冠などから見てこの地に特徴的なものです。

 

右下: 黄金マスク、幅19.5cm、厚0.4mm。

これに遭えて、ここに来た甲斐があった。

 

三星堆遺跡の青銅人形には、他の中国文明には無い特徴があった。

それは目が異常に大きく、また飛び出していたことです。

このマスクには、その様式が受け継がれている。

もっとも三星堆遺跡の青銅製人形にも金箔が貼られているものはあったが、金沙遺址の方が三星堆遺跡よりも金製の造形品が多い。

 

 

12

< 12. 至宝 >

 

左: 金製の太陽神鳥、外径12.5cm、厚み0.2mm。

12本の火炎をもつ太陽を四羽の鳥がめぐっている(切り抜かれた部分)。

太陽の図案は、三星堆祭祀坑出土の大型神樹などにも取り入れられている。また火炎をもつ太陽は、前述の青銅立人像が頭上に戴く冠の形とも似ている。

金沙遺跡も三星堆と同様に太陽が重要な意味を持っていたようだ。

 

右: 顔が無い青銅製人形

面白い造形だ。

 

 

あとがき

 

初め、金沙遺址にはあまり期待していなかったが来て良かった。

黄金マスクと金製の太陽神鳥は特に興味深かった

北京の博物館で三星堆遺跡の青銅人形を見ているので、両遺跡を見たことになり、思いを果たした。

 

この遺跡博物館を見たことにより、漢民族の中心文明から離れた蜀人(羌族の一部?)、そして成都の古代を少しイメージ出来たように思う。

三星堆遺跡に代表される蜀人の祭祀は、祖先と太陽の崇拝だった。

殷の祭祀では、多くの奴隷を生贄に捧げたが、こちらではそのような事はなかったとされている。

 

今回、中国の外縁を巡る理由の一つは、古代中国の民族移動が後の少数民族の形成にどのように関わったかを知ることだった。

紀元前後以降、漢民族が覇権を広げるに従って、もともと中国大陸に広く散在していた民族は、南部や西部の山岳部に難を避けた。

このことで、各部族の神話が各地に分散し、全体として統一感を欠き、中国神話は纏まりの無いものになったと私は考えている。

今回の蜀人もそうだった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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