連載中 フランスを巡って

フランスを巡って 37: モンサンミッシェル 3


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今日は、メインストリートと修道院の入場までを紹介します。

 

 

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< 2. 今回紹介する徒歩ルート >

 

Sの王の門からスタートし、メインストリートのグランド・リュを進み、Eの修道院の内部に入るまでを赤線で示します。

 

 

 

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< 3. 王の門 >

 

上と左下のの写真: 王の門

右下の写真: 王の門をくぐって、通りを進む。

 

 

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< 4. 賑やかなグランド・リュ >

 

狭い坂道と階段は観光客で一杯でした。

左右には土産物屋や飲食店がひしめいていた。

 

 

 

 

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< 5.サン・ピエール教会 >

 

左上の写真: サン・ピエール教会。

階段の途中、商店が途切れた時、左手に小さな教会が見えた。

教会の入口にジャンヌ・ダルクの像が見える。

 

ジャンヌ・ダルクは英仏の百年戦争の時、モンサンミッシェルを目指したことがあったが、結局来ていなかったはずです。

この像は、彼女が聖ミカエルのお告げを聞いて、初めてフランス王の為に立ち上がることを決意したことに由来するらしい。

 

 

右上の写真: この階段の突き当りで通りは終わり、左に曲がると修道院が見える。撮影場所の左手がサン・ピエール教会です。

 

下の写真: 教会の前は小休止するには良い場所で、私達が行くと、写真の少年たちが声をかけて来ました。

 

彼らは「ジャパン! ジャパン!」と尋ねました。

「イエス、イエス」と答えると、彼らは嬉しそうに「ナルト! ナルト!」と連呼しました。

 

日本のアニメの威力は凄いです。

彼らはオランダから来たらしい。

 

 

 

 

 

 

 

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< 6. 修道院が聳える >

 

階段を上り切ると、直立する修道院が聳えていた。

下の写真: 来た道を振り替えった所。

 

 

 

 

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< 7. いよいよ修道院へ >

 

 

 

 

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< 8. 修道院に沿ってさらに階段を上る >

 

 

 

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< 9. さらに階段を上る >

 

 

 

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< 10. 階段を上り切った所で >

 

見上げると、金色の聖ミカエルの像が青空に輝いていた。

 

 

 

 

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< 11. テラスから見下ろす >

 

ここは高度80mぐらいになります。

 

中世、この険しい岩山の上に、かくも壮大でそそり立つ教会を建てたものだと驚嘆した。

当時、ここには人々の篤い信仰と高度な建築技術があった。

 

 

 

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< 12. いよいよ入場します >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 36: モンサンミッシェル 2


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今日は、モンサンミッシェルの城壁を紹介します。

 

 

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< 2.徒歩ルート >

 

赤線のSからEまでを35分かけて歩きました。

歩いたのは2017年5月24日午後2時頃からです。

写真はほぼ撮影順に並んでいます。

 

 

 

 

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< 3. 修道院の入口の手前からスタート >

 

左上の写真: 修道院が聳え立っている。

右上の写真: 右側の階段の奥に修道院の入口がある。

下の写真: 眼下にシャトルバスで来た橋が見える。

 

 

 

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< 4. いよいよ下り始める >

 

 

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< 5. 最初の塔が見える >

 

上の二枚の写真: 一番高いところにある北塔。

 

 

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< 6.北塔から >

 

上の写真: 北塔から下って来た階段を見上げる。

下の写真: 北塔からブクル塔を見下ろす。

 

 

 

 

 

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< 7. 北塔とブクル塔の間で >

 

上二枚の写真: 北塔を振り返る。

下左の写真: ブクル塔が見える。

 

 

 

 

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< 8. ブクル塔の手前にて >

下の写真: 修道院を見上げる。

 

 

 

 

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< 9. ブクル塔にて >

 

 

 

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< 10. ブクル塔から見上げる >

 

 

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< 11. ブクル塔から低塔まで >

 

上左の写真: 奥に北塔が見える。

上右の写真: ブクル塔を望む。

下の写真: 低塔を望む。

 

 

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< 12. 王の門の上に到着 >

 

左下の写真: 王の門の上から城壁内のメインストリートを望む。

この通りを奥に進み階段を上るとS地点に至る。

 

感じたこと

この30分ほどの間に、雲間が切れ青空が広がって来た。

見上げると陽光に輝く教会の雄姿が聳えていた。

とうとう憧れのモンサンミッシェルの中を自由に散策出来た。

 

当初、抱いていた孤高の教会のイメージよりは巨大な中世の大要塞であった。

岩盤の島に築き上げられた礼拝堂から1200年をかけて城塞へと発展し、そして幾多の戦いにも難攻不落を誇ったモンサンミッシェルとなった。

城壁を歩いて、その高さと堅固さから、さもありなんと納得した。

 

11世紀、このノルマンディー地方に入植していたバイキング(ノルマン人)はイギリスをも支配するようになり、やがて英仏の百年戦争(1337-1453年)の火種となった。

このことが、モンサンミッシェルを要塞化させることになった。

 

この美しい信仰の聖地で幾度となく戦いが繰り返され、この不思議で稀有な容姿となった。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 35: モンサンミッシェル 1


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これから、モンサンミッシェルを数回に分けて紹介します。

今回は、対岸のホテル街から城内入口近くまでの景観です。

 

この日の観光

観光したのは、旅行8日目、5月24日(水)、13時から17時です。

到着時は雲が空を覆っていたが、徐々に雲が無くなり晴れ間が見えて来ました。

13時前にホテルに着き、荷物だけを置き、シャトルバスの停留所まで歩いた。

シャトルバスは無料で、朝8時から深夜1時まで5~10分間隔でモンサンミッシェルとホテル街を結んでいる。

シャトルバスは2.5kmを走り、終点の橋の上で降りると、直ぐ前にモンサンミッシェルが全貌を現す。

モンサンミッシェルの観光は、最初に城内で自由散策と昼食時間があり。

私の自由時間は、修道院の入口前まで上り、そこから見晴らしの良い海に面した城壁に沿って下まで降りた。

昼食はツアーには無く、各自がレストランを探して入るか、途中休憩したドライブインで買っておいた食品を食べた。

私は後者で、サンドイッチを買って食べた。

その後、全員が城内入口付近に集合し、ガイドに従って登り、修道院を巡った。

修道院の見学を終えると、そこで散会し、シャトルバス停留所の集合時間までは自由散策となった。

この自由時間は島内の生活感が残る個所を降りた。

後は、シャトルバスに乗ってホテルまで戻った。

 

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< 2. 衛星写真 >

上の写真: 対岸のホテル街から入場口までルートを赤線で示す。上が東。

下の写真: 赤線はシャトルバスを下車してからおおよその撮影場所。上が北。

赤線: 1回目の自由散策とガイドに従って2回上ったルート。

茶色線: 1回目の自由散策で下った城壁ルート。

青線: ガイドに従って入った修道院。

オレンジ線: 2回目の自由散策で歩き下ったルート。

 

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< 3. ホテル街 >

上二枚の写真: ホテル街。

ホテルに荷物を置いて、シャトルバスの停留所に向かう。

下の写真: 走行中のシャトルバスから東側を撮影。

羊達が草を食む広大な草原が広がり、さらに遠くに対岸が見える。

 

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< 4. 橋の上から 1 >

上2枚の写真: 長い橋の上を走るシャトルバスから東側を撮影。

干潟が広がっている。

下の写真: シャトルバスを降りて、橋の上から南側、ホテル街を望む。

バスはこの川沿いの左側を走って来た。

 

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< 5. 橋の上から 2 >

上の写真: 橋の上から西側を望む。

河口の向こうに広大な田園地帯が広がる。

中央の写真: 17時に撮影。

観光を終了してホテルに戻る前に撮影。

下の写真: 13時半頃に撮影。

シャトルバスを降りて、観光前に撮影。

 

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< 6. 左側を望む >

 

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< 7. 中央と右側を望む >

上の写真: 中央の白いバンの向こうに城内への入口がある。

 

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< 8. 右側を望む >

干潟を多くの人が散策を楽しんでいた。

この島はノルマン人との戦いや英仏戦争を耐え抜いた、如何にも難攻不落の要塞に思える。

次回に続きます。

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フランスを巡って 34: パリからモンサンミッシェルへ


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今回は、パリからモンサンミッシェルまでの車窓の風景を紹介します。

これから待望のモンサンミッシェルに向かいます。

また2日後にはパリに戻って来ます。

 

 

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< 2. 走行ルート、上が北です >

このルート通りに走ったかは定かではありません。

 

移動したのは旅行8日目、5月24日(水)でした。

(前回紹介した「ランスからパリへ」の日時の記入が間違っていました。正しくは5月23日でした。)

今回、走行する7割ほどの地域はノルマンディーです。

今回の旅行中、二つの観光地間の移動としては最も長い距離を走りました。

 

朝8:00にパリのホテルを出発し、途中トイレ休憩し、モンサンミッシェルのホテルに着いたのは13:00でした。

その後、荷物をホテルに入れると、すぐ観光に出発しました。

 

出発時はあいにくの空模様で終始雲が空を覆い、走行中、小雨がぱらつくことがありました。

しかし、モンサンミッシェルを観光している途中から素晴らしい青空が出現しました。

今回の旅行は、好天に恵まれていました。

 

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 3. パリを抜けて行く >

 

 

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*4.

 

 

 

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*5.

 

 

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*6.

 

ノルマンディーは酪農が盛んなので牛を見かけることが多かった。

 

下の写真: 住宅らしいのですが、この地方は一階建てが多いようです。

庭先にキャンピングカーが見えますが、フランスでは観光地や自然豊かな所ではたくさんのキャンピングカーを見かけました。

フランス人はキャンピングカーライフを楽しむようです。

 

 

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*7.

 

 

 

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*8.

 

天気が悪い為か、今まで通って来た地域と異なり、すこし裏寂しいように思えた。

南仏のようなカラフルな家屋をほとんど見かけることはなく、ノルマンディーも中ほどを過ぎると、屋根瓦はくすんだ灰色が多く、スレートのようでした。

道路沿いの疎らな農家には痛んだ家屋が目立った。

 

やはり、このノルマンディーはヴァイキング(ノルマン人)の移住の地らしく、他のフランス地方とは異なる風土があるようです。

 

今回のようにフランスのほぼ3/4の走り抜けると、地方の特色がバスの車窓からでもよく見えて来て面白い。

 

 

 

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*10.

 

下の写真: 中央の遠方に三角形のモンサンミッシェルが霞んで見えた。

この地域は海風が強いのか、防風林らしきものが耕作地の境界や家屋の周囲に多く見られる。

 

 

 

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上の写真: ホテル到着まで10分ほどの道路沿いから見えた家屋。

時刻が12:50だったので、家族で昼食中かもしれません。

 

下の写真: 中央遠方に小さくモンサンミッシェルが見えます。

 

 

次回に続きます。

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フランスを巡って 33: ランスからパリへ


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今回は、ランスからパリまでの車窓風景と夕焼けのパリを紹介します。

私にとっては3度目のパリで30年ぶりになります。

パリで一泊して、次の日の朝、モンサンミッシェルに向かいます。

 

 

 

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< 2. 走行ルート、上が北です >

 

バスで移動したのは旅行日8日目、5月24日(水)の午後です。

パリまで145kmの道のりで、天気も良く、素晴らしい眺めを楽しめました。

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

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< 7. パリに到着 >

 

中央の写真: セーヌ川を渡っている。

下の写真: セーヌ川の左岸を西に向かって走っている。

 

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< 8. シテ島を望む >

 

上の写真: ノートルダム大聖堂。

 

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下の写真: 黄金に輝くドーム教会の屋根が見える。

 

 

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< 10. ホテルからパリの夕陽を眺める >

 

撮影は9:40です。

 

下の写真: エッフェル塔が見える。

 

 

この日宿泊したホテルは「イビス ポルト ド モントイユ」です。

このホテルの直ぐ近くに大型スーパーがあるのですが、付近は通りにより治安が悪いらしい。

しかし、ホテルに着くと有難いことに、1階のフロント近くのドアから、外に出ることなく大型スーパーに行き来出来ることがわかりました。

さっそく買い出しに行きました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 32: サン・レミ聖堂


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今日は、ランスのサン・レミ聖堂を紹介します。

これでランスともお別れです。

 

 

 

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< 2. サン・レミ聖堂の衛星写真、上が北 >

 

赤い矢印が正面で、黄色い矢印(翼廊の南側)から内部に入りました。

 

この聖堂は、1007年に着工されたロマネスク様式とゴシック様式が共存する建物です。

ローマ教皇がクロヴィス1世を洗礼したレミギウス司教(聖レミ、フランスの守護聖人とされている)にこの聖堂を捧げた。

 

 

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< 7. 聖レミの棺 >

 

上の写真: 聖レミの棺の前から天井を望む。

下の写真: 聖レミの棺。

 

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次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 31: ランスの大聖堂 3


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今日は、大聖堂の内部を紹介します。

様々なステンドグラスが私達を魅了します。

なぜランスが聖なる街になったかも見ます。

 

 

 

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< 2.ファサードの内側 1 >

 

これらは正面中央の門を内側から見上げた写真。

 

上の写真: バラ窓。

 

下の写真: 扉の直ぐ上の円形のステンドグラス。

 

 

 

 

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< 3.ファサードの内側 2 >

 

上左の写真: 身廊の正面側(拝廊)から主祭壇(内陣)を望む。

 

上右の写真: 身廊の中央からバラ窓を振り返る。

 

下左の写真: 身廊の正面側(拝廊)からバラ窓を見上げる。

 

下右の写真: 正面の北側の門の上のステンドグラス。

 

 

 

 

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< 4.内部 >

 

 

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< 5.側廊 >

 

上左の写真: 側廊。

 

上右の写真: 聖人ジャンヌ・ダルクの像。

 

下の写真: 側廊のステンドグラス。

 

 

 

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< 6. 翼廊 >

 

北側翼廊の内外の写真。

 

上左の写真: 翼廊の三つの門の内、最も西側にある門を中央から見ている。

 

上右の写真: 上記の門を外から見たもの。

 

下の写真: 翼廊の三つの門の中央にあるバラ窓。

 

 

 

 

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< 7.ステンドグラス 1 >

 

様々なステンドグラスを紹介します。

多くはフランス革命の動乱、第一次世界大戦で失われました。

中世からの残っていますが、私にはわかりませんでした。

 

上左の写真: 翼廊南側のバラ窓を見上げる。

 

上右の写真: 身廊中央から見た内陣の奥上部にあるステンドグラス。

 

下左と右の写真: 内陣を囲むようにして並ぶ礼拝堂のステンドグラス。

右はドイツ人芸術家による2011年制作のステンドグラス。

 

 

 

 

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< 8.ステンドグラス 2 >

 

シャガールの1974年作の青色を基調としたステンドグラス。

 

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< 9.ステンドグラス 3 >

 

 

 

フランスの起源とランスについて

 

 

 

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< 10.フランク王国の誕生 >

 

5世紀、ゲルマン系諸集団がフン族に追われるようにして東方から西ローマ帝国に進入して来た。

451年、オランダ南部からベルギー辺りに住んでいたフランク族はローマ軍に徴用されフン族とカタラウヌムで戦った。

西ローマ帝国はフランク族や他の諸部族を傭兵とし戦わせ、彼らにロ―マ軍の装備や戦略を与えた。

これにより彼らは力を持ち王国を形成するようになった。

 

476年、西ローマ帝国はロ―マが蛮族に略奪されてことにより滅亡する。

482年、フランク族の王になったクロヴィス1世は領土拡大に向けて侵略を開始し、諸部族を併合していった。

511年、彼が死去した時には、現在のフランスとドイツの一部までを掌中にした。

 

 

 

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< 11.クロヴィス1世のフランク王国 >

 

クロヴィス1世が掌中に収めたフランク王国の全領土は濃い緑色部と「Conquests of Clovis」の範囲です。

 

 

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< 12.クロヴィス1世 >

 

左の絵: ランスでのクロヴィス1世の聖別戴冠式。

右の絵: クロヴィス1世。

 

 

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< 13.ランスとクロヴィス1世 >

 

一方、ランス(Reims)はローマ時代に遡る古い町で、レミ族(Remis)の中心的城市で、この名が訛ったものです。

ランスは3世紀には司教区となっており、8世紀に大司教区となった。

481年当時のフランク王国の支配地は地図の青色部であった。

しかし、486年、クロヴィス1世は紫色部のローマ滅亡後も残っていたローマ帝国の軍司令官区に侵攻し、奪い取った。

 

こうして498年、クロヴィス1世は新たに手に入れたランスで、司教による聖別戴冠式を行った。

次いで508年、フランク王国(メロヴィング朝)はパリに遷都した。

 

ここにフランスのおおまかな形が出来た。

フランク族の語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味し、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 30: ランスの大聖堂 2


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< 1.微笑みの天使、右端 >

 

 

今日は、大聖堂の外観を詳細に紹介します。

これはゴシック様式の傑作であり、由緒ある教会です。

 

 

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< 2.大聖堂の外観、左がほぼ北方向 >

 

数字と線は以下の写真のおおよその撮影位置と方向を示します。

 

 

 

 

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< 3. 正面、地図番号1 >

上左の写真: 正面、ほぼ西側。

 

上右の写真: バラ窓の上に並ぶ像の中心がクロヴィス王と思われる。

クロヴィス王はフランスの礎を造ったフランク王国の初代国王です。

5世紀末、クロヴィス王はこの地でキリスト教に改宗し、戴冠式を行った。

これにより、この地はフランス王家の聖なる都市とされ、歴代国王の戴冠式が行われた。

 

下の写真: 中央門の上部(切妻屋根の内側)で、王らしき人物が左側の女性に王冠を載せている彫像は「聖母戴冠」を表している。

このノートルダム大聖堂は聖母マリア(ノートルダム)に奉じられている。

 

 

 

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< 4. 北側 >

 

上左の写真: 地図番号2.

正面左側(北側の鐘楼。

 

上右の写真: 地図番号3.

ゴシック建築の高さを生み出すため、側壁を補強しているフライング・バットレス(飛梁)のアーチが並ぶ。

 

下左の写真: 地図番号4.

翼廊(十字架の横木に相当)の北側。

ここには門が三つあるが、写真では右側の門が写っていない。

 

下右の写真: 地図番号5.左側の門を拡大。

中央の像は「美しい神」で、その上部のレリーフは「最後の審判」です。

 

 

 

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< 5. 後端部、東側、地図番号6 >

 

上の写真: 後端部から南側面を望む。

 

下の写真: 工事が無ければ放射状に配されたフライング・バットレスと礼拝堂が美しいのだろうが、残念です。

 

 

 

 

 

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< 6. 屋根 >

 

上左の写真: 地図番号8.北側の鐘楼。

 

上右の写真: 地図番号7.翼廊の南側の屋根の上を望む。

頂上に射手座が見える。

 

下の写真: 地図番号9.正面右から翼廊の南側の屋根を望む。

 

 

 

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< 7. 正面、左側(北側)の門。地図番号10. >

 

上の写真: 正面、左側の門。

 

下左の写真: 門に向かって左側の彫刻。

右にあるのがゴシック彫刻の傑作「微笑みの天使」です。

 

下右の写真: 門の右側の彫刻。

 

 

 

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< 8. 正面、右側(南側)の門。地図番号11. >

 

 

 

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< 9.ジャンヌ・ダルク >

 

上の写真: このジャンヌ・ダルク像は大聖堂の正面広場の北西にある。

 

右の地図: ジャンヌ・ダルクが活躍する直前の逼迫したフランスの状況(灰色部)。

ブルゴーニュ公国(紫部)は英国(赤部)と同盟しており、フランスの敵国であった。

 

下の絵: 1429年、この大聖堂でフランス国王シャルル7世が戴冠式を行った。

右手の女性がジャンヌ・ダルクでしょう。

 

ジャンヌ・ダルクはシャルル7世の戴冠式の最大の功労者であった。

彼女は百年戦争(1337-1453年)で劣勢をかこっていたフランス軍を一気に活気づけ、形勢を逆転させた。

 

英国軍による半年にわたるロワール川沿いのオルレアン包囲戦に、彼女が参戦すると9日間でフランスに勝利をもたらした。

その後、フランス軍の連戦連勝が続き、2ヶ月後にはシャルル7世は前述の戴冠式を行うことが出来た。

 

戴冠式の2年後、ジャンヌ・ダルクは戦闘中に敵軍(ブルゴーニュ公国軍)に捉えられ、異端者として火刑に処された。

 

その後フランスは、英国と同盟していたブルゴーニュを離反させ、自国との同盟を成功させ、英国軍をフランス国土から完全に追い出し、百年戦争は終結した。

 

なぜかシャルル7世は、百年戦争の好転を招来した彼女を助けることはなかった。

彼女はこのシャンパニューの小村の農家で生まれ、神の啓示を受け、そして戦い死んだ。

彼女はカトリックから異端者にして、聖人にも列せられている。

 

 

大聖堂の歴史

 

 

 

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< 10. 大聖堂の歴史、ウイキペディアより >

 

上の絵: 19世紀初頭の大聖堂。

下の絵: 第一次世界大戦で燃える大聖堂。

 

 

現在の大聖堂は13世紀始め、火災で焼失した教会の代わりとして、建設が開始された。

13世紀中頃、建設費の重税に苦しんだ民衆が反乱を起こしたり、14世紀中頃、英仏の百年戦争で工事が中断したりした。

ようやく完成したのは二つの鐘塔が完成した15世紀後半だった。

 

その後、フランス革命時の動乱で大聖堂の彫像が多く破壊されたが、国が彫像の多くを修復した。

しかし、第一次世界大戦中のドイツ軍の空襲や砲撃を受けたことで、彫像や約半数のステンドグラスが失われ、特に空襲により発生した火災は屋根の全てを覆い尽くし、大聖堂は壊滅的な被害を受けた。

 

終戦後、再建が開始され、1938年に竣工した後に一般に開放されたが、現在も一部修復作業が行われている。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 29: ランスの大聖堂 1


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これからランスの大聖堂を数回に分けて紹介します。

今回は、大聖堂の周囲を一周します。

 

 

ランスについて

この都市はフランス北部、パリの東北東142kmのところにある。

人口約20万、古来より、羊毛の織物工業が盛んで、現在でも商工業が発達している。

かつては歴代のフランス国王がここの大聖堂で戴冠式を行った。

そしてシャンパン醸造の一大中心地です。

 

 

 

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< 2.ランスのノートルダム大聖堂 >

 

黄色線が周囲を歩いたルートで、写真は概ねSから始まります。

 

大聖堂を訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、12:10~15:00です。

私達はオプションの昼食を注文していなかったので、途中のトイレ休憩で立ち寄ったコンビニでサンドイッチを買って、大聖堂の広場で食べました。

その後の自由時間を一人で周囲を歩いた。

また皆が集合して現地ガイドに大聖堂を案内してもらった。

その後、バスに乗ってサン・レミ・パジリカ聖堂に向かった。

 

 

 

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< 3. 大聖堂の外観 >

 

地図のSから黄色線に沿って一周した。

 

 

 

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< 4. 後陣側 >

 

 

 

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写真5~9は地図のS近くから外周を一周した順に並んでいます。

 

 

 

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< 10. 大聖堂近くの通り >

 

 

 

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< 11. 大聖堂周辺で 1 >

 

 

 

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< 12. 大聖堂周辺で 2 >

 

下の写真: 学生らしいグループにカメラを向けると、数人の青年が笑顔でピースをしてくれた。

今回の旅行中、各地でそれと無く人々にカメラを向けた時、若い人達が驚くほどの笑顔で写真に応じてくれた。

フランス人が人懐っこいのか、日本人に好感を持っているのか、または両方かもしれない。

気持ちの良いものでした。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 28: ストラスブールからランスへ


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今回は、フランスの東北部、ストラスブールからランスまでの車窓風景を紹介します。

そこには、なめらかな起伏をもつ広大な緑の大地が広がっていました。

私達はフランスの誕生や幾多の戦いと関わりがある地を走り抜けていきました。

 

 

この日のルートについて

写真は旅行日7日目、5月23日(火)、ホテル出発8:00でランス到着12:10までの景色をバスの車窓から撮ったものです。

この日の朝は雲に覆われていましたが、走るに連れ雲が無くなり青空が広がって行きました。

 

このルートはアルザスの北部からロレーヌを抜け、シャンパニューに入ります。

この三つの地は順にドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーと北側で国境を接しています。

前回紹介したように、アルザスとロレーヌはほぼ500年間、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国、プロイセンなど)の激戦地となりました。

第一次世界大戦の西部戦線、第二次世界大戦のマジノ線をどこかで横切ることになります。

またフランス革命戦争の地ヴァルミー、晋仏戦争の地リヒテンベルクの近くを通過することになります。

 

シャンパニュー地方は発泡性ワインのシャンパンと、大聖堂で有名なランスがあります。

英仏の百年戦争の英雄ジャンヌダルクはシャンパニューで生まれ、ランスの大聖堂とも関わりがある。

 

以下の写真はすべて撮影順に並んでいます。

 

 

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< 2. 走行ルート >

 

地図: 上が北で、青線がランスまでのルートです。

Aはフランス革命戦争の地ヴァルミー、Bは晋仏戦争の地リヒテンベルクです。

Cはジャンヌダルクの誕生の地です。

 

下の写真は朝のストラスブールです。

 

 

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下の写真: 軍用車の列に遭遇した。

 

この近くに駐屯地があります。

 

 

 

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下の写真:屋根側がアルザスとは異なります。

撮影9:20.

 

 

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< 13. ランスに到着 >

 

 

あとがき 

私の目には、この道からの景色は豊かな自然に恵まれた平和な地としか映らなかった。

 

三つの国と国境を接し、紛争を重ねたことが嘘のようです。

またこの地はワイン栽培の北限であった為、他のワイン産地に負けて、打開策としてシャンパンを生み出さなけれならなかった。

 

またシャンパニューのランスは、ローマ帝国滅亡後、フランスの源流となるフランク王国誕生(5世紀末)時の領土の中央に位置した。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 26: ストラスブール最後の夜


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今回は、ストラスブールの最後の夜の散策と出来事を紹介します。

わずかに夕陽の赤味を帯びた旧市街の様子、二つのレストラン、そして大型スーパーについて記します。

 

 

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< 2. 散策の概要 >

 

散策したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、17:00~21:00です。

私達は最初にスーパーへ買い物に行き、一度ホテルに戻って荷物を置き、折り返し、旧市街に向かいました。

 

上の地図: 今回の散策ルート。上が真北です。

茶色線は大型スーパーSMに行った往復ルートです。

赤線は予約したレストランL1を目指して散策したルートで、黒線は代わりのレストランL2を経て帰ったルートです。

CAは大聖堂です。

 

下左の写真: 大型スーパーに行く途中で見かけたガンジーの像。

ストラスブールが幾多の紛争を乗り越え平和を獲得したことを如何にも象徴している像でした。

 

下右の写真: ガンジー像の周囲の花々の左奥に見えるのがショッピングモールで、このずーと奥に大型スーパーがあります。

 

大型スーパーはワンフロアですが非常に大きく、商品を探すのに苦労するほどでした。

ここでは主にお菓子とチーズを物色し、旅の途中なので少なめに購入したのですがミスをした。

帰国後、知ったのですが、ほとんどのチーズの正味期限が短いのです。

短いものでは1週間以内のがありました。

バルト三国でも買ったことがあり、柔らかいチーズは帰国までに形が崩れることは知っていたのですが、これには驚いた。

何種類も買って、帰国後が存分に楽しめたのですが、焦りました。

 

フランスを巡っていると、フランス人にとってワインとチーズは食事に本当に欠かせないものだと知りました。

 

 

 

 

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< 3. ホテルの裏手を行く >

 

瀟洒なアパート群が目を引きます。

運河にはボートを楽しむ人々と、のんびり泳ぐ白鳥の姿があった。

 

 

 

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< 4. 運河を渡る >

 

朝な夕なに、ジョキングや散歩する人の姿が見られた。

この都市は空気が綺麗です。

 

 

 

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< 5. 大聖堂が見える >

 

800年の長きにわたり、この鐘楼は市民の熱気と血なまぐさい闘争の歴史を見て来たことだろう。

 

下右の写真: ひょっとすると城門の跡かもしれない。

 

 

 

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< 6. 南側のイル川を渡る >

 

 

 

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< 7. イル川の堤を散策 1 >

 

 

 

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< 8. イル川の堤を散策 2 >

 

堤のそこかしこに、夕暮れの川風を楽しむ人々の姿を多く見かけた。

 

 

 

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< 9. プチット・フランス 1 >

 

下の写真: 右奥に船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

 

 

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< 10. プチット・フランス 2 >

 

 

 

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< 11. レストランL2にて >

 

今回の旅行での私達夫婦の楽しみの一つは、日本でフランスのレストランを予約しておき、その地の雰囲気と食事を愉しむことでした。

1回目のリヨンでは成功しましたが、2回目のストラスブールではトラブルに合いました。

 

事前にメールで予約確認のやり取りを済ませて、予約時間に地図のレストランL1の前に行きました。

すると青年6~8人のグループが、店の前にたむろしており、店はクローズしているようでした。

彼らの人相は悪くは無かったのですが、周囲に人通りはなく、一瞬不安がよぎりました。

意を決して、彼らをかき分けるようにして、店のドアの前に進みました。

すると彼らは残念そうに「店は閉まっています」と教えてくれました。

彼らも予約客だったようです。

おそらく私の顔はこわばっていたことでしょう。

 

私達は、仕方なく店から直ぐに立ち去りました。

帰国後、この店から、この前日にメールがパソコンに入っていたのがわかりました。

「申し訳ありません。急にキッチンの水道が故障したので、予約当日は閉店させて頂きます。後日、予約を頂ければ幸いです。」

後の祭りでした。

それでも、このレストランはトリップアドバイザーで人気のある地元料理(ドイツ系)の店だったので残念でした。

 

その後、気を取り直し、メインの通りでレストランを探し、写真の店L2に入りました。

実はこの店はスペイン料理、タパスを出すバール「BAR」です。

スペインのバルセロには2回行ったのですが、憧れのバールに入ったことが無かったので、衝動的に入ったのです。

 

しかし、ここでもハップニングがありました。

先ず失敗だと分かったのは、メニューを見た時です。

フランス料理のメニューは下調べしていたのですが、フランス語のスペイン料理はチンプンカンプでした。

困り果てていると、たまたま空いていた隣の席にアジア系の男性二人が座りました。

 

なんと彼らは日本語を話しだしました。

すかさず私は、彼らに救いを求めました。

すると一人はドイツ語なら自信があるのですが、フランス語も少しは使えるとのことで、私達の注文を手伝って頂きました。

 

この二人はある国立大学の先生と院生で、次の日に太陽電池の研究発表があると言うことでした。

その後、彼らと太陽電池の将来などについて話が弾み、楽しい一時を過ごしました。

 

旅行先での人との触れ合いは実に刺激的で楽しい。

 

 

 

 

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< 12. メインの通り >

 

時刻は8:30前後でした。

月曜日は多くの店が閉まるのですが、夕時を愉しく過ごす人々が通りに溢れていた。

 

 

 

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< 13. ストラスブールとのお別れ >

 

この大聖堂の姿を見ることが、ここ5年ほどの夢でした。

ヨーロッパの宗教革命の始まりや、ここ数世紀のストラスブールの苦難の歴史を調べているうちに、是非とも行きたくなっていた。

そして国境の町ストラスブールとアルザス地方を駆け足ながら直に見て感じることが出来ました。

 

 

次回は、アルザスとストラスブールについて語るつもりです。

 

 

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フランスを巡って 25: 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル


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まるで中世そのままの町がブドウ畑の中にある。

さらにアルザスワインのワイナリーが数多くある。

私達は小さな村の散策を愉しみ、ワイナリーで試飲しました。

 

 

 

リクヴィルについて

この町はコルマールの北方12kmほどの処にあります。

 

ここは小高い山が途切れ、それに続くなだらかな斜面に広がるブドウ畑にあります。

この町は縦断するメインの通りが350mほどの長さしかない小さな町です。

しかし、第二次世界大戦の爆撃を幸いにも免れたことにより、16世紀以降の家並みが町全体に残っています。

 

また多くのワイナリー、アルザス最大手のワイナリーなどが町の中や周囲にあり、観光客を楽しませてくれます。

 

ここを訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、14:10~15:30です。

この日も快晴でした。

 

 

 

 

 

 

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< 2. リクヴィルの地図、右が真北です >

 

下の写真: 黄線はリクヴィルの散策ルートを示します。

駐車場Sに到着し、東西に延びるメインの通りをポート・オートGまで行き、少し戻ってワイナリーWに入った。

試飲が終わると、自由時間となり、私は教会Cの前を通り、村の外周の一部を歩いた。

その後、駐車場Sからストラスブールに戻った。

 

 

 

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< 3. 市役所と噴水 >

 

駐車場から最初に出会うのがこの市役所です。

この市役所のまえから西にメインの通りが伸びている。

 

 

 

 

 

 

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< 4. メインの通りを行く >

 

上の写真: 緩やかに上っているメインの通りを西に向かって進む。

 

下右の写真: 1561年に切妻壁の建物をつなげて造られた6階建ての家屋で、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つです。

 

 

 

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< 5. 通りに面した店の顔 >

 

下二つの写真: アンシ作の看板。

 

この通りに面してアンシ美術館があります。

 

 

 

 

 

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< 6. ドルダー・タワー >

 

ドルダータワーは13世紀に壁に沿って建てられた望楼で、中には鐘がある。

非常時の警報用です。

 

上左の写真: メインの通りからドルダータワーを見た。

上右の写真: ドルダータワーをくぐり抜け振り返った。

 

 

 

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< 7. ポート・オート >

 

この門はドルダータワーの直ぐ外側に1500年に建てられた。

二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子が備えられていた。

 

上の写真: 村の中側から見た。

 

下の写真: 村の外側から見た。

門の左側に壁らしいものが見える。

 

 

 

 

 

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< 8. ワイナリーで試飲 >

 

上左の写真: 試飲したワイナリーの入口。

 

 

 

 

 

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< 9. 教会と路地 >

 

ワイナリーの後は自由時間なので、私はこの路地を抜けて村の外に出ました。

 

下の写真: 路地から外に出るには、この写真右に見える民家にあるトンネルをくぐり抜けなければなりませんでした。

 

 

 

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< 10. 村の北側外周 >

 

村の外に出てから、外周に沿って市役所の方に回り込みました。

 

この時、私はやっと気が付きました、この村は単に古いワイン作りの村ではなく、堅固な城塞都市ではなかったのかと。

上の写真に見える村を囲む城壁のような家屋、下の写真に見える噴水は堀の跡ではないかと。

 

それであれば、既に見た二重の門、城壁のような壁の名残が合点出来る。

この最後に、リクヴィルの歴史と城塞の種明かしをします。

 

 

 

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< 11. メインの通り >

 

至るところに噴水が見られる。

 

 

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< 12. 村の南側 >

 

南側には、ブドウ畑の中に現代の住宅が広がっている。

この駐車場からこの村とはお別れです。

 

 

 

リクヴィルの歴史

この町はローマ時代に遡る。

11世紀、この地一体を寄付された修道院がブドウ畑とリクヴィールを所有した。

1269年、神聖ローマ皇帝がここに城を建設し、アルザスで一番最初に要塞化された町となった。

その後、城主は幾度も替わり、公爵の城下町として栄えた。

16世紀に住民の多くがプロテスタントへと改宗した。

1796年、フランス革命軍との戦いの結果、公爵家はリクヴィルを含むアルザスの所領を放棄し、ここはフランスに併合された。

そして第二次世界大戦中、この一帯で戦禍を免れた数少ない町となった。

 

 

 

 

 

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< 13. 城塞化の経緯 >

 

この地図から、1291年の城壁、さらに1500年、その外側に城壁が造られたのがわかる。

このことがドルダー・タワーとポート・オートの二重門が存在する理由でした。

 

 

 

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< 14. 1644年のリクヴィルの俯瞰図 >

 

これは町を東側から見たもので、手前が現在の市役所側になる。

二重の城壁と堀が見える。

 

 

私は、こののどかなアルザスの地にこれほど要塞化した村や都市が多いとは思わなかった。

今回訪れた、アルザスの三つの地がすべて要塞化されていた。

コルマールの要塞化については説明していませんでしたが、かつて城壁で囲まていた。

ストラスブールとコルマールは自由都市になっていた。

 

このアルザスはライン川が流れ、ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスの間にあって、交易上有利であったが戦火が絶えない地であったのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

3

< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1


 

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いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。

プチットフランスと大聖堂が有名です。

今回は、前半を紹介します。

 

 

なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。

さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

 

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。

その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

 

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。

この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

 

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。

 

 

 

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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

 

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。

この日も素晴らしい天気でした。

青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。

その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

 

 

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< 3. クヴェール橋 >

 

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。

上の写真から順次、北から東の方を見ている。

 

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

 

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。

こちらの川が南側を流れるイル川です。

ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

 

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。

この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

 

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。

戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。

きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。

だが、後で私の勘違いとわかりました。

 

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。

1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。

 

 

 

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< 4. ヴォーバンダム >

 

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.

13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

 

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。

右手のガラスの建物は近代美術館。

 

下の写真: ヴォーバンダムの内部。

私達はそのアーチの上を歩いている。

写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

 

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、

1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。

 

 

 

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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

 

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

 

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

 

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。

 

 

 

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< 6. プチットフランス 1 >

 

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。

これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。

この景観は16~17世紀に始まる。

 

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。

その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。

またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。

どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

 

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。

この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。

 

 

 

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< 7. プチットフランス 2 >

 

 

 

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< 8. プチットフランス 3 >

 

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。

川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 通り 3 >

 

地図番号4から5の間の通り。

 

 

 

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< 10. サン・ト―マ教会 >

 

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

 

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。

そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。

そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。

その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。

 

 

 

 

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< 11. グーテンベルグ広場 >

 

グーテンベルグの像が立っている。

彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。

この広場はこれを記念したものです。

 

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。

その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

 

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。

またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

 

後半は、次回紹介します。

 

 

ストラスブールの城郭について

帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。

 

 

 

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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

 

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

 

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。

 

 

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< 13. ストラスブールの城郭図 >

 

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

 

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.

この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。

現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。

中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。

 

 

中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。

上の俯瞰図の平面図と考えられる。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

 

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。

この時期になると、更に城郭は拡大している。

 

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。

ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。

ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

 

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

 

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。

17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。

これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

 

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。

これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 21: ストラスブール 夕刻と朝に


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< 1. 大聖堂 >

 

 

ストラスブールには2泊し、ストラスブール旧市街とアルザス地方の町と村を観光します。

観光の概要を紹介します。

今回は、ストラスブールに到着した夕刻の旧市街とホテル周辺の朝を紹介します。

 

 

 

ストラスブールとアルザス観光

初日は、旅行5日目、5月21日(日)で、18:30にストラスブールに到着し、旧市街で夕食を済ませ、ホテルに入った。

 

次の日、22日(月)、朝は旧市街を徒歩観光し、次いでバスに乗りプティット・ベニスで知られたコルマールとワイナリーのあるリクヴィルを訪れた。

夕刻、ホテルに戻った。

 

その後、私達は近くの大型スーパーに行き、それから旧市街を散策しレストランで食事をした。

食事後、歩いてホテルに戻った。

 

 

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< 2. ストラスブールの地図、上が真北です >

上の地図: ストラスブールの位置は赤いアドバールン。

赤線はこれまでのルートです。

 

下の地図: 2日間でストラスブールを歩いたルートを示す。

 

黒線: 今回紹介する21日夕刻のルートです。

1Sでバスを降りて、橋を渡り、旧市街にある夕食のレストランL1に行き、また1fまで戻り、バスでホテルに入った。

 

赤線: 22日の朝、ガイドと共に旧市街を徒歩観光したルートです。

2sから始め、プティット・フランスPe、次いで大聖堂Caを見て、2fを通り、バスでコルマールの観光に向かった。

 

青線: 22日の夕刻、散策したルートです。

ホテルHを出て、3sから歩き始め、予約していた夕食のレストランL2に向かったが、店が閉まっていたので、レストランL3で食事を済ませ、3fを通り、ホテルに戻った。

 

茶色線: 22日の夕刻、ホテルHと大型ス―パーSMを往復したルートです。

 

 

 

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< 3. 歩き始める >

 

橋を渡り、旧市街へ入る。

時刻は18:30頃です。

 

 

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< 5. メインストリート >

 

この通りにはトラムが走っている。

トラムは旧市街の中を十字に通っている。

ストラスブールの旧市街には許可以外の車は入ることが出来ず、トラムがメインです。

自転車専用レーンが道路脇にあり、数は多くは無いが快走する自転車が目立った。

ストラスブールは環境にやさしい街づくりを目指しており、単に古い町ではなかった。

 

 

 

 

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< 6. レストランで夕食 >

 

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食事を終え、バスの待つ駐車場まで歩き、そこからバスでホテルに入る。

下の写真: 旧市街を囲むイル川を行く遊覧船です

 

 

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< 9. 早朝ホテルの部屋から >

 

 

 

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< 10. ホテルの裏側 1 >

 

 

早朝、ホテルの裏側を散策した。

ここは旧市街を囲むイル川の南側を流れる運河に沿った公園の一部です。

ランニングや散策する市民を見かけました。

またのんびりと過ごしている多くの水鳥を見ました。

 

 

 

 

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< 11. ホテルの裏側 2 >

 

上の写真: 中央の建物がホテル「ホリディイン エキスプレス ストラスブール」です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 20: ボーヌからストラスブールまで


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今日はボーヌからストラスブールまでの車窓の景色を紹介します。

ボーヌ郊外のレストランでの昼食も紹介します。

撮影は旅行日5日目、5月21日(日)、12:00~18:30です。

 

 

 

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< 2. 走行ルート >

 

上の写真: 昼食のレストランがある丘からの景色。

ブドウ畑が広がっている。

 

下の写真: ボーヌからストラスブールまでのルート。

地図の上が真北です。

 

今回の旅行では、1日の合計走行距離が500km近くなるのが2回、300km台が2回ありますが、この日は合計約500kmになる最初の日になります。

 

 

 

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< 3. ボーヌ市街からレストランまで >

 

上の写真: ボーヌ市街を抜け、直ぐ近くの丘の上のレストランに向かう。

時間は12:15頃。

 

中央の写真: 木立に囲まれたレストランの全景。

中央がテラス席、左がレストラン建物、右がテントのレストランで、ここで私達は昼食をとりました。

丘の上にあるが、周囲は木立が多く、眺望は遮られる。

レストランに12:20に入り、13:40には出発しました。

 

下の写真: 少し丘を散策すると、赤色や黄色の花が陽を受けて輝いていた。

 

 

 

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< 4.昼食 >

 

エスカルゴが出ました。

私にはすべてが美味しかった。

 

 

 

 

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< 5. いざ出発! >

 

レストランのある丘を下って高速道路へ向かう。

 

 

 

 

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やがて広い平野が続くようになる。

 

 

 

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やがて遠くにヴォージュ山脈が見えて来た。

およそ道のりの半分は来たでしょう。

 

 

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のどかな風景が続く。

私達はライン地溝帯の中、ライン川の左岸(西側)のヴォージュ山脈の麓を走っている。

ライン川がフランスとドイツの国境になっている。

右岸(東側)遠くにドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)が広がる。

残念ながら、撮影は進行方向左側(西側)のみで、写真はありません。

 

 

 

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上の写真: 東に面した丘陵の斜面や麓に村が散在する。

おそらくブドウや果樹の栽培に適した村なのだろう。

ここはアルザス地方、アルザスワインの産地です。

 

中央の写真: サービスエリアにて休憩。

 

 

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< 13. ストラスブールに到着 >

 

ここは沃野と水運に恵まれ、東西のドイツとフランス、南北のスイスとベネルックス三国を結ぶ交通の拠点として発展して来た。

この地はドイツとフランスが何百年間も奪い合い、国名が幾度も替わった。

また宗教改革の先駆けとなる農民戦争の激戦地の一つでした。

 

私はこの地を訪れ中世以降に起きた事を少しでも理解したいと願っていた。

そして、ついに願いが叶った。

幸い、ここにで2連泊することになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

 10

< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 18: リヨンからボーヌまでの景色


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*1

 

 

今日は、車窓からのブルゴーニュ、リヨンからボーヌまでの景色を紹介します。

この日も快晴でした。

 

 

写真について

紹介する写真は、旅行5日目、5月21日(日)、6:20~10:30に撮ってものです。

最初にリヨン郊外のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」付近を早朝散策した時のものです。

次いで私達のバスがホテルを8:30に出発してから、10:30頃にボーヌの中心部に入るまでのもので、すべて車窓からの撮影です。

 

この日、私のバスの席は、前から2列目左側なので、写真は進行方向前方か左側(西側)のみです。

実は、下の地図を見ればわかるのですが、進行方向右側(東側)の方が広い野が広がっています。

またソーヌ川も私達が走る高速道路の右側(東側)を流れています。

 

 

 

 

2map

< 2. 地図、共に上が真北です >

 

左の写真: ボーヌはブルゴーニュの中心に近く、またフランス南北の中ほどに位置します。

ブルゴーニュから南北に流れる川を行くと、イギリス海峡と地中海に達します。

北へはヨンヌ川からセーヌ川に入り、パリを抜て行きます。

また南へはソーヌ川からローヌ川に入り、リヨン、アヴィニヨン、アルルを抜けて行きます。

 

右の写真: リヨンからボーヌまでのルートです。

ローヌ川沿いに比べて周囲の山々はかなり低くなってきました。

 

地図の赤丸は氷河期の「ソリュートレ遺跡」を示す。

最後に紹介します。

 

 

3

< 3. 朝の宿泊ホテル周辺 >

 

朝6時頃から、周辺を散策しました。

周囲は落ち着いた雰囲気の郊外でした。

 

上の写真: ホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」の正面です。

暗くなった10:00頃、歩いたが治安が悪いように思わなかった。

地下鉄駅まで歩いて5分ほどで行けるので市街に行くのに便利だと思う。

 

 

 

4

< 4. さあ出発! >

 

 

5

< 5. のどかな景色が続きます 1 >

 

 

6

< 6. のどかな景色が続きます 2 >

 

 

7

< 7. のどかな景色が続きます 3 >

 

8

< 8. のどかな景色が続きます 4 >

 

 

 

9

< 9.いよいよ高速道路ともお別れ >

 

不思議なことに、ワインの産地で有名なのに、ブドウ栽培の光景をほとんど見ることがなかった。

どうやら栽培は平野部ではなく丘陵部の斜面なのだろう。

 

 

 

10

< 10. もうすぐ旧市街に入る >

 

フランスを走っていて、特に郊外に出てから、写真のようなラウンドアバウト(環状交差点)の機能と景観に惹かれた。

 

上の写真は、下の写真下部のラウンドアバウトを下から進入する様子を写したものです。

 

ラウンドアバウトの優れているのは、車は減速するが停止の必要が無いことです。

それ以上に素晴らしいのは、その中央島の景観です。

実に様々な美しい造園がなされており、目を楽しまさせてくれます。

 

 

11DSC03118-1

< 11. 旧市街が見えて来た >

 

 

これで車窓からの写真は終わります。

 

 

12

< 12. ソリュートレ遺跡 >

 

 

ソリュートレ遺跡について

後から分かったのですが、途中の都市マコンから西側に10kmほど入った所に氷河期の遺跡があります。

この遺跡は2万年から1万7千年前のソリュートレ文化の標準遺跡で、ある意味画期的な遺跡なのです。

それは、この断崖の真下あたりに崖から追落されて捕獲された野生馬の骨が10万頭以上あったからです。

当時の人々が、図のように薄く切れ味の鋭い石器を使い狩りをしていたのです。

 

 

車窓からの写真撮影について

私の撮影方法が参考になればと思い記します。

 

先ず、私がバスの席を選ぶ基準です。

選択の基本は車窓からの撮影が逆光にならないようにすることです。

もしその日の午前中、バスが北に向かうなら、東側からの太陽光を避けて左に座り、西側を撮影します。

 

但し、1日中の走行とか、途中で走行の方向が変わるとか、曇りがちの場合は、何を重視するかで決めます。

例えば、ランドマークや重視する景観が走行ルートの左右どちらに来るかによって、決めることになる。

ただ、これは障害物やルートが不明なこともあり予想通りにならないことが多いです。

 

また左側の席には欠点があります。

右側走行の国では、特に高速道路で、左側に数車線の対向車線が視界を埋めてしまいます。

 

一番重要なのは、車窓からの撮影時に、以下のような遮光幕をカメラに着けることです。

これは自作ですが、かなり写真の無駄が減ります。

 

また私は百均で買った窓拭きを持って行きます。

これで窓は素早く十分に綺麗になりますが、結構、恥ずかしい。

私の行為を見て、運転者が笑顔で全部の窓を拭いてくれることもあり、これもまた恐縮するのですが。

 

 

 

13

< 13. 車窓からの撮影の道具 >

 

上三枚の写真が遮光幕です。

 

左上の写真: 取り付け前の状態で2個の部品からなります。

灰色の幕は百均で買った車用遮光ネットを改良したもので、折りたたむことが出来て、非常にコンパクトで軽い。

 

右上の写真: 遮光幕取り付け用の部品をカメラに嵌めた状態。

この部品はウレタンゴム板を買い、ナイフでリング状にカットし、マジックテープを縫い付けたものです。

遮光幕取り付けを瞬時に行えます。

これがなくても遮光幕は使えますが、使い難い。

 

中央の写真: すべてセットしたものです。

窓ガラスに対してカメラは垂直が最良ですが、遮光幕を手で押さえて窓に沿わせるなら、傾けても光が入らない。

 

下の写真: 百均で買った窓拭き。

組み立て式で、柄が伸びるので背の高い観光バスの撮影箇所を拭くことが出来ます。

大きいが軽いです。

 

 

これは運次第なのですが、今回のツアーは40名近い参加なので、走行中にバス内の左右の席移動が困難でした。

これまでのツアーは参加者20数名が続いたので、左右移動が自由で、妻と私が左右に別れて撮影することも出来た。

 

 

車窓からの撮影も行えば、それこそ四六時中、観光しているので休む暇はないのですが、その国の自然風土がよく理解出来るので止められません。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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