<japanese language

記事が日本語で書かれているか、英語との併記の両方の場合があります。

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆


1DSC00455-1

*1

 

今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。

 

 

2l

< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

 

上: 麗江全体図

赤矢印: 束河古鎮。

ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。

ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。

束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

 

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。

赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

 

下: 束河古鎮の主要観光地

この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

 

A: 茶马古道博物馆

B: 四方街

C: 青龙桥

D: 九鼎龙潭

 

 

3

< 3. 駐車場から古陳へ >

 

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。

古さを残しているとも言える。

 

 

4

< 4. 茶馬古道博物館に入る >

 

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。

それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

 

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。

この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。

小型の馬も使用したのだろうが。

このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?

やっと理解出来た。

 

5

< 5. 茶馬街道の様子 >

 

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

 

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。

上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。

 

 

6

< 6. 茶馬街道と人々 >

 

下: 博物館にあった街道の地図。

北部と南部に二種類の黄色線が見える。

北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。

南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

 

黒線も主に二種類ある。

一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。

もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。

 

 

* 茶馬古道 *

 

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。

主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(618~1279年)に盛んとなり、明清時代(1368~1911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

 

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。

麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

 

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?

チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。

また馬は中国の軍隊にとって必要でした。

しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

 

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。

清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。

 

 

7

< 7. 四方街 >

 

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。

こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。

 

 

 

8

< 8. 青龙桥 >

 

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。

 

 

9

< 9.九鼎龙潭へ向かう >

 

 

10DSC00467-14

*10

 

 

 

11

< 11. 九鼎龙潭 >

 

実に水が透き通っている。

まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

 

次回に続きます。

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 5 Comments

世界が崩壊しない前に 29: 貧困と格差 4


1a-1-02-1

*1

 

 

貧困や格差は経済を本当に悪化させるのだろうか?

 

 

**格差が拡大すると経済発展を阻害する**

 

(今の自由放任主義経済や金融偏重経済の問題は別に見ます)

 

多くの人は、日米の経済は株価が上昇し、好調だと首を傾げるかもしれない。

実態は、90%の国民の所得がほぼ伸びておらず、一部の人が恩恵を受けているに過ぎない(日本だけではないが)。

 

一番悲惨なのは日本です。

 

日銀が市中銀行に幾ら金をばら撒いても、まったくインフレが起きなかった。

(逆に、これをもってMMT(現代貨幣理論)は、日本政府は国債発行や税収に頼らずに、国民の為の財政支出が可能だと提言している。重要な指摘ですので別に解説します。)

実体経済は浮上せず、金融経済だけを潤したリフレ論者は迷惑なだけだった!

 

経済再生に失敗した理由は、単純だが重大な致命傷による。

国内需要を担う国民の90%の人々の所得が低下し続けているので、銀行に金をばら撒いても消費が伸びるはずがない。

つまりインフレ(2~3%)は起きない(アベノミクス前から自明だった)。

 

一方金持ちや大企業は消費や物づくり(実体経済)より利益率の高いに金融投資に大金を注ぎ込む。

現在、庶民の預金金利は0.1%(日本)だが、金持ちや企業の資金運用(米国のファンド)は8%ほどの利益を上げ続けている。

 

こうして格差拡大で消費は増えず実体経済も伸びず、それがまた格差拡大を広げているのが現在の経済システムなのです。

 

 

2

< 2. 表の顔 >

 

なぜこんな愚策がまかり通るのか。

政府は経済刺激と称して金融投資で利益が得られるように規制緩和と金融緩和を行う。

これは現在の経済システムがバブル崩壊を繰り返し、さらに巨大化しているからです。

政府はこの金融危機をリカバリーするために行わざるを得ないのです。

まるで蟻地獄、底無し沼のようです。

 

 

3

< 3. 裏の顔: 2012年と2016年の比較 >

 

努力は必要ですが、この表と裏の顔の違いを理解することは重要です。

 

あるジャ―ナリストは指摘する。

20世紀最大の二つの危機―1929年の大恐慌と2008年のリーママンショックに先行して格差が激しくなっていた。

今も?

 

ある経済学者は言う。

少数のエリート階級に資本が集中すると、デフレを誘発し、投機的バブルを招き、経済回復力の弱体化を招き、金融崩壊のリスクを高める。

衝撃が繰り返されると、信頼が損なわれ、経済成長が減速し、これがさらに格差拡大に結びつくと。

 

ある社会学者は、金持ちが地球を破壊すると言う。

経済格差が拡大すると、「虚栄的消費活動」が活発化し、資源の浪費を高め、これがまた資源の枯渇を早める。

この「虚栄的・・」とは、超金持ちの消費スタイルに近づこうと各階層の人々が真似る競争状態を指します。

 

 

4

*4

 

ここで基本に立ち返ります。

 

「自由競争こそが最高、格差など気にしない」

この考えがなぜ国民に浸透したのか?

 

実は、格差が縮小し最も経済が成長した時代は2回の大戦後と1930年代の大恐慌後でした。

この時期は、国家が強力に富裕層や金融家を抑えて、労働者の賃金向上などを図った(ニューディール政策など)。

 

この事実が現在のエリートや富裕層にとって都合が悪い為、大金を費やしシンクタンクや学者、マスコミを動員して否定しているのです。

真実は明白なのですが、多勢に無勢と言うところでしょうか。

 

これ一つとっても、格差が拡大してしまうと、ナチス支配と同様に反転の困難さがわかります。

 

 

次回に続きます。

 

Categories: culture+society, economy, 連載 世界が崩壊しない前に, <japanese language, politics, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

世界が崩壊しない前に 28: 貧困と格差 3


1a-1-01-1

*1

 

前回、貧困と格差は国によって作られていることを見ました。

貧困と格差は人権の問題に留まらず、危機をもたらすとしたら?

 

 

多くの人は、国が貧困と格差を是正し過ぎると、労働意欲を減じ競争心が無くなり、経済に悪影響すると信じさせられている。

だから悪化していても気にも留めない。

 

しかし事はそんな単純ではないし危険でさえある。

また格差が少ない国でも経済が豊かで成長している国があるので、明らかに誤解(洗脳)です。

 

 

**放置すれば騒乱や世界を後退させる引き金になる**

 

概ね二つのポイント、社会的なものと経済的なものがあります。

 

貧困な国ほど教育と医療、経済の水準が低くなり、人口増・伝染病・紛争を引き起こし易く、悪循環を招く。

外部からの衝撃、特に伝染病、大国の貿易や通貨の圧力に弱いために容易に悪化する。

こうして武力衝突、難民や伝染病などを周辺に、そして世界に広めることになる。

今回のコロナ危機で判明したように、先進国であっても格差が大きい米国や英国では弱者が感染爆発の被害者になった。

 

 

歴史を振り返れば、貧困と格差拡大は社会騒乱の引き金になっている。

それは大国や一度興隆した国ほど暴力的になるようだ。

ローマ帝国や中国の名だたる王朝が崩壊する時、格差が拡大し暴動が起きていた。

 

2a

< 2.英国が帝国主義を終えた時期 >

 

グラフの赤線は英国がアフリカの支配を終えた時期を示す。

経済が後退し帝国主義に走った19世紀後半の大英帝国では、この2百年間で最も格差が大きかった。

また他国よりも酷かった。

 

3a

< 3. ドイツと日本のファシズム期 >

 

グラフの赤線はヒトラー総統の時代、緑の矢印は日本の大陸進出の時代を示す。

共に格差が酷い。

20世紀前半のドイツと日本は、一時の栄光の後に訪れた大恐慌が大失業をもたらし、貧困と格差による社会不安がファシズムへと突き動かした。

 

 

これは普遍的な社会現象と言え、様々な識者が警告を発している。

 

ある疫学者は、先進工業国23カ国を比較すると、健康指数が悪化するのは、GDPが下がった時ではなく、格差が拡大した時であることを発見した。

また同時に犯罪率、幼児死亡率、精神疾患、アルコール消費量などにも重大な影響を及ぼしている。

 

ある経済学者は、格差は改革の意欲をそぎ、人々の信頼を失わせ、フラストレーションを高め、政治や行政に対する信頼を失わせると指摘する。

また棄権が増え、選挙の票は金で買われ、富裕層が公的機関への支配を強めている。

 

まさに日米、先進国で起こっていることです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 世界が崩壊しない前に, history+evolution, <japanese language, politics, uncategorized | Tags: , , , | Leave a comment

世界が崩壊しない前に 27: 貧困と格差 2


1a-1-1

*1

 

前回、世界と日本の状況を見ました。

今、世界で何が起きているかを見ます。

 

 

前回、世界の絶対的貧困率が減少する一方、国家間と国内の格差が広がっていることを見ました。

 

 

2-1

< 2.富裕層の所得の推移 >

 

米国の所得上位10%が1940~1970年代、全国民所得の35%を占めていたが、その後上昇を始め2007年には50%になった(上記グラフとは別)。

同時期、上位1%の占有率は10%ほどから24%になった。

 

 

3-2

< 3.世界の億万長者 >

 

格差の諸相

 

ほんの一握りの人間に富が集中し加速している。

 

1970年代、所得税の最高税率は英で90%を越え、米で70%あったが、その後英米共に40%まで急速に下げ、日本も追従した。

 

世界の株式と債券の総額は1980年10兆ドルだったが、2009年には126兆ドルになり、12.6倍となったが、この間の世界実質GDPは2.8倍に過ぎない。

 

 

主な要因

 

大国や多国籍企業の身勝手な経済・外交・軍事的な干渉が発展途上国の貧困を助長している(アジア通貨危機など)。

せっかく途上国自身の努力、そして国際機関や先進国による支援などにより豊かさを手にしているのだが。

 

ニュー・ワールド・エコノミー(容易に国境を越える、瞬時に伝わる情報、日々進む知識集約化、熾烈な競争)が進み、教育・情報力や資金力などの差が益々格差を広げている。

 

以下が一番の元凶です。

ここ40年間、米国を筆頭に自由放任経済の国では、金融緩和と規制緩和(合併や競争激化など)によって巨大企業ほど収益が上がり、さらに減税(法人税、逆累進課税など)で富は集中し加速した。

さらに実体経済より金融経済で高収益が得られるようになったことで、実体経済に資本が向かわず停滞するようになった。

 

これにより経済が成長しても90%の国民の所得が伸びず、日本では低下すらしている。

 

様々な要因が絡んではいるが、けっして偶然ではない。

 

最も問題なのは、大資本や企業が野放しにされていると言うより、多くの先進国が競うように、これらを優遇していることにある。

当然、北欧などのように格差を押さえながら成長も手に入れている国は多い。

 

 

次回、貧困と格差の問題を見ます。

 

Categories: culture+society, economy, 連載 世界が崩壊しない前に, <japanese language, uncategorized | Tags: , , , , | Leave a comment

世界が崩壊しない前に 26: 貧困と格差


1a-1

*1

 

貧困と格差が悪化し続けた先にあるもの・・

 

いつの世にも貧困と格差はあった。

動物は弱肉強食なのだから、これも自己責任だ。

自由競争こそが経済成長を約束する。

世界経済は成長しているのだから貧困や格差問題はやがてなくなる。

 

一方、歴史を振り返ると、悪化する貧困や格差が大衆の怒りを爆発させ、ファシズムや革命へと進む事例は事欠かない。

 

現在、世界はどちらに向かっているのだろうか?

 

最も豊かな国20ヶ国と最貧国20ヶ国の所得格差はこの40年間に倍増し、40対1になった(2000年で)。

この格差は開発が遅れているアフリカでさらに加速している。

 

それでは国内の格差はどうか?

アメリカではトップ5分の1と最下層5分の1の所得比は1990年には18対1だったが、2000年には24対1になった。

この間、大卒と高卒の学歴による収入格差も倍増している。

最初はアングロサクソン系(英米)の国々で目立ったが、現在急速に各国に広がっている。

国内の格差拡大は、ラテンアメリカでも1980年代か目立ち始めたが、現在では中国でも都市と農村の差が大きくなっている。

 

貧困はどうだろうか?

貧困には絶対的と相対的がある。

絶対的貧困とは2015年で1日1.25$以下の収入を指し、相対的貧困とは国民の所得中央値の半分以下の収入を意味する。

 

 

2a

< 2. 2015年の絶対的貧困率 >

 

円の大きさと数値が絶対貧困率を示し、西アフリカなどでは最大58%になった。

世界の絶対的貧困率は1990年36%、2015年10%と減少傾向にあり、全体的に見れば世界は豊かになりつつある。

しかし、これは脆く、いとも簡単に崩れるだろう。

今回のコロナ危機などの衝撃は、貧困地帯により多くのダメージを与えるからです。

 

 

3

< 3. 2010年、OECD各国の相対的貧困率 >

 

このグラフから皆さんに読み取って欲しいことがあります。

それは同じ資本主義国でありながら北欧やベネルックスの国々は、すべて貧困率が低いと言うことです。

つまり貧困は自己責任だと納得してしまう前に、政治社会にこそ、その原因があることを知って頂きたい。

 

 

4

< 4. 日本の相対的貧困率の趨勢 >

 

相対的貧困率で日本はアメリカに次いで第4位になった。

二つのグラフから、日本はいつの間にか格差大国に墜ち、かつその傾向は強まっている。

2015年に貧困率が少し低下していますが、これは景気の波によるものです。

今後、コロナ危機による大規模な景気後退により、2008年のリーマンショック後のように貧困率は確実に上がります。

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, economy, 連載 世界が崩壊しない前に, <japanese language, opinion, politics, uncategorized | Tags: , , , | Leave a comment

徳島の海岸と漁村を巡って 6: 宍喰に泊まる


1DSC03050-1

*1

 

今回は、日和佐から宍喰までのドライブと、

宍喰の散策を紹介します。

2020年4月23日、宍喰で一泊しました。

 

 

2

< 2. 宍喰へのルートと宍喰マップ、上が北 >

 

上: 日和佐から宍喰までのドライブルート

青線で示されるルートは距離34km、所要時間約40分です。

前半は内陸部、後半は海岸沿いを走ります。

 

下: 宍喰の町

黄色線: 日和佐からのドライブルート

白四角点: 宿泊した「ホテルリビエラししくい」

ホテルは宍喰の町中にあり、海岸沿いの道の駅の隣にある。

 

赤線: 展望台Aへのドライブルート

赤矢印: 展望台A

橙色線: 徒歩による展望台Bへの路

白矢印: 展望台B

黄色矢印: 竹之島

この島が宍喰で一番の観光地ですが、私は間違って手前の岬しか行っていません。

この島には車で渡れます。

 

 

3

< 3. 途中の道 >

 

 

4

< 4. 途中の海岸線 >

 

大砂海水浴場の辺りでしょうか。

 

 

5

< 5. もうすぐ宍喰 >

 

下: 左が那佐湾

岬が道路に沿うように延びて、湾を成している。

岬の途切れた遠方に宍喰がある。

 

 

6

< 6. ホテルが見えた >

 

上: 「ホテルリビエラししくい」

ホテルにチェックインし、さっそく岬巡りに向かいました。

 

下: 岬の路(赤線)を行く

途中まで車で行き、次いで徒歩で展望台B(白矢印)に向かいました。

山つつじや桜が綺麗でした。

 

 

7

< 7. 四国のみち >

 

今回の旅行では、岬を巡る細い路を幾度か歩きましたが、どこもよく整備されていました。

多くは「巡礼のみち」とか「四国のみち」だったと思います。

 

 

 

 

8

< 8. 展望台Bから >

 

下: 左手が竹之島の港です。

この港から、通常なら海中観光船が出ています。

サンゴや熱帯魚が見れるそうです。

今回はコロナでやっていませんでした。

 

 

9

< 9. 展望台より >

 

上: 展望台Aから北の方を望む

宍喰の前に広がる水床湾を望む。

 

下: ホテルの部屋からの眺め

水床湾の右手の岬が、先程訪れた岬です。

 

 

10

< 10. 部屋から望む水床湾 >

 

上: 水床湾の左手を望む

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺


1DSC00423-1

*1

 

今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。

この地にはチベット仏教寺院が多い。

これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。

少し驚いたエピソードも紹介します。

 

2無題

< 2. 地図、上が北 >

 

上: 麗江の位置を示す

黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。

雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

 

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。

麗江からの観光ツアーがあります。

さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

 

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。

当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

 

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道

左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。

左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。

 

 

3

< 3. 古城忠义市场を出発 >

 

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。

ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。

 

 

4

< 4. 普济寺に到着 >

 

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。

私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。

この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

 

下: 普济寺の門

木々に覆われた小高い丘の上に建っています。

この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。

門の両側に大きなマニ車が見える。

ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。

 

 

 

 

5

< 5. 境内に入る >

 

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。

古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。

春になると梅の花が綺麗だそうです。

この地域の寺には紅梅が多いようです。

 

 

6

*6

 

7

< 7. 本堂に入る >

 

上: 入り口の左にあるマニ車

信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。

側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。

この筒の中には経典が納められている。

 

左下: 右が入口

 

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。

どうやらチベットのタルチョーのようだ。

タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。

これが筒状に、2段に重ねられている。

 

 

 

8

< 8. 正面 >

 

上: 正面の奥を見ている

狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。

仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。

正面は観音像のようです。

逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。

左下に釈迦如来像らしいものが見える。

 

下: 正面の左側を見る

奥に千手観音像が見える。

チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。

 

 

9

< 9. 右側面を見る >

 

タンカが沢山見られる。

 

 

10

< 10.明王像か >

 

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。

また獣に乗って従えているように見える。

 

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。

日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。

密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。

この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。

その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

 

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。

 

 

下: 本堂の屋根

 

 

 

 

 

11

< 11. 住職家族の住まい >

 

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。

久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。

 

 

 

* 歴史を想う *

 

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。

また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。

様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

 

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。

麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。

これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

 

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。

これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。

しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

 

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。

13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。

この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。

その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。

このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。

こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

 

さらに不思議な事がある。

実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。

これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。

その後も様々な交流が見られる。

 

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。

またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

 

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。

これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

 

身近なものにも驚きがあった。

アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。

調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。

不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

 

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。

この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。

 

 

 

* 驚いたエピソード *

 

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。

この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。

そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、

ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。

少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

 

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。

彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。

私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。

移動は近いので、直ぐ着きました。

 

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。

また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。

バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , , | 4 Comments

徳島の海岸と漁村を巡って 5: がんばれ日和佐


1DSC02942-1

*1

 

今回は、美波町日和佐地区を紹介します。

ここには薬王寺と海亀産卵の大浜海岸があります。

幾度も来た所ですが、懐かしさよりも驚きが勝ちました。

 

 

2

< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 日和佐地区の全景

S: 散策の開始点と終着点、A: 日和佐城、 B: 薬王寺

下: 散策ルート

黄色線が恵比寿浜からのドライブルート、赤線が散策ルート、ピンク線が宍喰へのドライブルートです。

S: 散策の開始点と終着点

A: ㈱あわえ、地方創世で活躍する企業、散策中偶然知りました。

B: 観音寺

C: 美波町役場、御陣屋(郡代)跡

D: 弘法寺

E: 八幡神社

F: 日和佐漁協

G: 日和佐城

H: 大浜海岸

 

 

3

< 3. 大浜海岸 >

 

防波堤のS辺りからの眺め。

右手から左手への眺めを、上から順に並べた。

 

上: 日和佐川の河口で、漁港への入り口でもあります。

中: 遠方左手に恵比寿浜と恵比寿洞

下: 大浜海岸、海亀が5~8月にかけて夜、産卵に上陸します。

 

 

 

 

4

< 4. 日和佐漁港 >

 

昼1時を過ぎていたこともあり、ほとんど人影はありませんでした。

 

 

5

< 5.町に入ります >

 

上: 海側から内陸側を望む。

中央に白い津波の避難タワーが見えます。

 

下: 特段、漁師町を感じさせるものはありません。

 

 

6

< 6. 古風な家屋がありました >

 

下: 大きな家がありました。

全景は次の写真です。

 

 

7

< 7. 廻船業で財を成した屋敷 >

 

上: ここは江戸末期より廻船業で成功を収めた「谷屋(たんにゃ)」です。

その繁栄ぶりは子供たちの遊び唄になったほどで、門構えは立派です。

現在改装中で入れませんでした。

 

下: 多くの家は改装が進んでいますが、写真のように昔の雰囲気を残す工夫が見られます。

 

 

8

< 8.古い銭湯  >

 

上: 銭湯の建物

私が、この趣のある建物で足を止め、石柱の「世間遺産・・・」に首をかしげていると、中から一人の男性が声を掛けてくれました。

呼ばれるままに中に入ると、そこは大正時代からの銭湯でした。

 

下: 事務所の内から表通りを見ている

中央に番台が見える。

 

 

9

< 9. (株)あわえ >

 

実は、ここは銭湯の建物を保存しながら、ITソフトウェア開発と地方創生を行っている事務所でした。

上の写真の人物が案内してくれた社長です。

非常に気さくで、情熱を感じました。

 

彼を主人公に映画化されたのが、下の写真のポスターです。

味のある役者と日和佐の風景や暮らしが沢山出て来ます。

公開は2019年4月でした。

 

私は、これまで様々な国と日本の地方を訪れて、答えの見つからない問いを抱えていた。

北欧や中国では地方に行っても豊かさや発展を感じます。

北欧では、田舎は自然を生かした暮らしがあり、寂れている感じはなかった。

その一方、日本のほとんどの地方の町や村は活力を失い寂れています。

再生の術はないのかと・・・

 

この社長と言葉を交わす内に、日本にも可能性があると勇気づけられました。

詳しくは、後述します。

 

 

10

< 10. 美波町役場 >

 

明治が始まる60年前から明治に至るまで、ここに”御陣屋”(郡代所)

が設けられていました。

今は美波町役場です。

 

上: 役場前の史跡の説明板

 

下: 津波避難場所の看板

この町も、津波が襲って来ればひとたまりもありません。

この町の中で、避難出来る避難タワーは、先程の物とこれから紹介する物の二つで、後は数カ所の数階建てのビルだけです。

他は、裏の山に登るしかありません。

 

ここでも厳しい現実を見せられました。

 

 

11

< 11. 観音寺 >

 

上: 観音寺

ここは三十三観音霊場の第八番です。

徳島海部郡をドライブしたり散策していると、海岸沿いの険しい道程、お遍路さんの路になっていました。

 

下: 広い道から狭い路に入ると石垣(塀)が所々に見られました。

道幅が狭く、漁師町の風情を残しています。

 

通る所が悪いのか、東由岐で見た「ミセ造り」などの漁師の民家を見ることはなかった。

どこかに残っているはずなのですが。

 

 

 

12

< 12.弘法寺 >

 

上: 弘法寺

江戸末期、日和佐の行者「栄寿法印」が評判を呼びました。

彼は荒行の末に数々の奇跡を行い、小松島では化け物を退治したそうです。

 

この寺は明治に入って信者によって建てられた。

石像は栄寿法印かもしれません。

この前の路は、かつて水路で船が入って来たそうです。

 

下: 山側(北側)の広い通り

東側を見ている。

通りの左奥に見える木々は八幡神社の境内のものです。

 

 

13

< 13. 日和佐八幡神社 >

 

上: 町民グランドの端に避難タワーが見えます。

 

下: 日和佐八幡神社

広い境内の周囲にだんじりの格納庫がたくさんありました。

10月中旬、布団だんじりが出て秋祭りが盛大に行われる。

この海岸側にウミガメ博物館があり、トイレもあります。

 

 

14

< 14. 大浜海岸に沿う通りより >

 

上: 遠方中央に、薬王寺が見える。

 

下: 防波堤の先端より、日和佐の町を望む。

一周し終わりました。

 

次の訪問地、宍喰を目指しドライブします。

 

 

15DSC02983-31

< 15. 厄除け橋より >

 

地図のピンク線の橋の上から日和佐川の河口を眺める。

右手の小高い丘の上に日和佐城が見える。

翌日、またここを訪れます。

 

 

* (株)あわえと地方創世 *

 

この美波町(由岐、恵比寿、日和佐も含む)は5年間で10%ほどの人口減が続き、65歳以上が占める高齢化率は日本の平均37%を上回り51%です。

また一人当たりの市町村民所得は182万円で、徳島県の最下位で、トップ阿南市の半分に過ぎません。

 

町を歩いても、見かけるのは高齢者が多く、家屋の新築も少ない。

漁師に声を掛けても、減り続ける漁獲量への嘆きが聞こえ、実際、漁獲量は減る一方です。

 

なぜ日本は、こうも地方の衰退が当たり前のように進むのか?

高齢化? 成長しない経済? それと生活スタイル?

前者二つは国の無策に起因しているが、後者はそれだけとは言えない。

 

例えば、クロアチアや北欧の海岸を行くと、豊かな自然が残る海岸に別荘が並び、港は漁船でなくレジャーボートで埋め尽くされていた。

スウェーデンでは、職住の地を郊外に求めるブームが起きているらしい。

それは物価が高く自然に乏しい都会を避け、仕事が終われば自然を愉しむことできる地を人々が求めているからです。

 

世界的には大都市への人口集中は穏やかになる傾向にあるが、日本だけはまだ続いている。

 

ところが、「あわえ」の社長の話を聞き、調べてみると、美波町に明かるい兆しが見える。

 

彼は、この地で生まれ、東京でセキュリティソフトの開発販売を手がけるようになった。

そして新たなワークスタイルの実現と人材採用の強化を目的に2012年この地にサテライトオフィスを開設し、現在はここを本社としている。

現在、地方と都市、自治体と企業を結び付けることにより、地域の活性化を目指している。

 

その一方、彼は漁船を所有し海釣りを楽しんでいる。

まさに職住一体で、自然との暮らしを楽しみながらリモートワークを行っている。

 

実績としては、ここ数年で19社のサテライト・オフィスをこの町に誘致し、全国1位を誇る。

日本全国の自治体100とも提携しアドバイスを行っている。

 

実は、美波町は2013年に転入者が上昇に転じ、翌年には転出者を上回った。

この町は大都市から2時間以上離れているにも拘らず、全国中でも好成績なのです。

当然、美波町も地域活性化に取り組んでいるお陰なのですが。

 

微かな動きかもしれないが、地域創生が一人の青年の想いから始まろうとしている。

 

つくづく、彼らの想いに答えられる政治が日本に興ることを願う。

そんな発見が得られた日和佐でした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

連載中 何か変ですよ 218: 国民に自己責任を問う!


1

*1

 

経済も社会も悪化し孤立を深める日本!

こんな日本にしたのは誰か?

一人安倍首相か?

いや違う、選んだ国民だ!

 

 

2

*2

 

 

* 自己責任 *

 

「自己責任」は小泉政権から言われ始めた。

小泉首相は安全を、竹中大臣は貧困を自己責任とした。

 

つまり取材であっても危険な地に踏み込めば、殺されても仕方ないと。

また貧乏になる道を選んだのだから自業自得だと。

 

この論に従えば、唯一先進国で凋落に突き進む政権を選んだ人々にも自己責任があるはずだ。

 

それもかなり大きな、ここ三十年ほどで起きた凋落に対する責任がある。

 

  • 悪化し続ける経済 ― 成長しない経済、低下する賃金、庶民の増え続ける税、生産性低下、増加一途の累積財政赤字・・

 

  • 先進国から取り残される社会 ― ジェンダー、貧困率、格差、報道の自由度、人間開発指数などの国際指標が急速に悪化・・

 

  • 先進国ではありえない政治腐敗 ― 首相・大臣・自民党議員・官僚の不正・怠慢とその隠蔽工作・・

 

  • 散在する割には国民に百害あって一利なしの外交 ― トランプとプーチンに掻き回され、隣国と隔絶を深め、コロナウイルスを呼び込みマスクも入手出来ず・・

 

  • 危険を指摘されながらも無視・無策・・・原発事故や感染症の予防対策を怠り、さらに施設と予算を削減・・

 

挙げればきりがない。

これらは自民党政権と特に安倍政権が招いた。

 

私は、この末路を予想出来たので自民党に票を入れなかったので、私には責任がない。

 

 

* なぜこんなことになったのか? *

 

ひとえに長期政権による官民政財界の癒着と腐敗に尽きる。

さらに安倍首相の米国追従と右傾化がダメ押しになった。

 

今の政府を歓迎した人には強国・最強政府に見えたことだろう。

しかし、これが如何に底の浅いものだったことはコロナ危機で露呈した。

 

このまま安倍首相と自民党に任せていては凋落するだけだ。

腐敗政治も問題だが、それ以上に間違った経済路線が致命傷になっている。

日本を取り戻すには、大きな経済政策の転換が必要だ!

 

こんな政府を選んだ人々には責任をとってもらおう。

たとえ騙されたと言い逃れしようが。

この手の人々は、歴史を見ない、発展途上国以下の社会意識しか持ち合わていない。

つまり視野狭窄が、また錯誤を繰り返すことになる。

 

当然、選挙に行かなかった人も間接的に協力したことになり同様だ。

 

 

しかし、私は「自己責任論」はまやかしと考えている。

(自己責任論は、80年代から主流になり社会経済を疲弊させている自由主義や放任経済に由来している)

 

つまり、今の政府に騙されたと自覚できるのなら反省し行動すれば良い。

 

 

終わります。

 

Categories: culture+society, <japanese language, opinion, politics, Series: Something is strange, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场


1DSC00409-1

*1

 

今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、

古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。

 

 

2

< 2. 大石橋から始める >

 

上: 前回紹介した大石橋です。

これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。

最後に市場へと向かいます。

 

下: 百岁桥(百歳橋)

橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。

観光客に写真の被写体を頼まれたようです。

若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。

厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。

多くは一人から数人です。

 

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。

この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。

麗江と比べて町や川、橋は大きい。

しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。

菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。

 

 

3

< 3. 様々な橋 >

 

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。

 

 

4

< 4. 少し広い通りに出た >

 

5

< 5. 万古楼が見える >

 

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える

 

 

6

< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

 

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。

この地は松茸の産地です。

サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。

妻は、大量の干し松茸を買った。

しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。

日本の松茸とは異なる。

 

 

7

< 7. 地元の人が買っているようです >

 

 

8

< 8. 食材が豊富です >

 

ここを訪れたのは13:30頃でした。

時間帯のせいか、あまり客はいない。

当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。

 

 

 

9

< 9. 様々な店舗形態があります >

 

 

10

< 10. 肉売り場 >

 

先ず、この広さにびっくりした。

そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。

下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。

もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。

違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。

 

 

 

11

< 11. 鳥や魚類の販売 >

 

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。

それも活けで売られている。

こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。

おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

 

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。

30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。

 

 

 

 

 

12

< 12. そろそろ市場の端に来ました >

 

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

 

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。

しかし、中国では少し趣が異なるようです。

特に雲南省で目立ちます。

それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。

これは中国の少数民族政策の反映だと思う。

 

 

13DSC00411-19

< 13. 市場の本来の入り口 >

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

徳島の海岸と漁村を巡って 4: 恵比寿浜と恵比寿洞


1DSC02892-1

*1

 

今回は、綺麗な湾と自然に出来た洞穴を紹介します。

少し行くと日和佐の大浜海岸に出ます。

 

 

2a

< 2.ドライブルート >

 

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート、上が北。

青い線がドライブルート、茶色矢印が由岐、赤矢印が恵比寿浜。

オレンジ色枠が下の写真の範囲です。

 

下: 恵比寿浜と日和佐を示す、上が南。

A:恵比寿浜、B:恵比寿洞、C:日和佐の大浜海岸

 

 

3

< 3. 由岐から恵比寿浜までのドライブルート >

 

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート

私は海岸線を見ながら走りたくてこの道を選んだが、失敗でした。

海はほとんど見えず、さらに対向車線が無い。

対向車が来れば、どちらかが数百mほどバックしなければならない。

皆さんは避けた方が良いでしょう。

 

下: 恵比寿浜

ここにはキャンプ場があり、張ったテントから直ぐ前がこの海岸です。

今から三十年ほど前、台風が接近している時に子供達を連れて来ました。

打ち寄せる大きな波に嬉々としていた子供達を思い出しました。

 

 

4

< 4. 左右を望む >

 

写真3の下とほぼ同じ位置から撮影。

上: 右手、西側

下: 左手、東側

 

 

5

< 5. 恵比寿浜西側より >

 

上: 中央反対側の海に突き出した小山が恵比寿洞です。

 

下: 浜の最深部で、写真の右端にキャンプ場があります。

 

 

 

< 6. 恵比寿浜橋6の上から >

 

恵比寿浜の奥に亀井港があり、その間を水路が繋いでいます。

この橋はこの水路に架かっています。

ちょうど漁船が戻って来たところです。

 

上: 恵比寿浜の沖合を見る

右手に古い石積みの堤が見えます。

コンクリートでないのが歴史を感じさせます。

 

下: 亀井港を望む

 

恵比寿浜は波浪に弱いが、奥まった亀井港なら大丈夫でしょう。

実は、紀貫之が日和佐に4泊5日しているのですが、悪天候を避けるとしたら日和佐の大浜や恵比寿浜より、この亀井港かもしれません。

 

 

7

< 7. 恵比寿洞 >

 

海岸伝いに日和佐に出る途中に、この洞があります。

上の写真の看板が道の端にあり、その前に数台の駐車スぺースがあります。

この岬の小山へと進みます。

 

 

8

< 8. 岬を巡る小路 >

 

駐車場から一度下って、小山を一周する小道があります。

先ずは登ります。

 

上: 眼下に後に下ることになる小路が見えます。

小路の左に洞があります。

 

下: 小山の頂に至る小路。

 

 

9

< 9. 頂の展望台 >

 

上: 南側を見ている

下: 東側を望む

恵比寿浜の東側にある岬の先端

 

 

10

< 10. 頂から >

 

上: 西側を望む

中央に日和佐の大浜海岸が見える。

 

下: 洞に向かって急な階段を下る

右手に洞がある。

 

 

11

< 11. 恵比寿洞 >

 

上: 恵比寿洞

以前、台風接近時、ここに立ったことがある。

大きな波がこの穴を抜けて押し寄せて来る様は圧巻でした。

後で、子供連れは危険だと後悔したのですが。

 

下: 左手に洞の口が見える。

 

 

12

< 12. 大浜海岸 >

 

上: 恵比寿洞を大浜海岸寄りからクローズアップで撮影。

中央が恵比寿洞の小山。

 

下: 海亀の産卵で有名な大浜海岸

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

Categories: <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

連載中 何か変ですよ 217: 悲しい社会


1

*1

 

我々の未来は明るいはずだ!

日本に暮らす今、コロナ危機下にあっても、そう信じたい!

しかし一抹の不安が、いなむしろ絶望すら感じる!

 

 

2a

< 2.懐かしのメモリー >

 

 

* 周りを見渡すと *

 

人々はおおらかで誠実で屈託なく暮らし続ける。

コロナの死者は少なく、やっとトンネルから抜け出て、自治体と政府の支援策も見えて来た。

これからも皆が共に手を携えて進めば、きっと明るい未来が待っている。

そう信じたい。

 

だがふっと気がかりが脳裏をかすめる。

 

この2年間で北欧と中国を旅して、日本が取り残されていることを実感した。

北欧は、ここ半世紀ほどの間に幸福で公正な社会、加えて豊かな経済を手に入れた。

1世紀前の北欧はかなり貧しく、国を捨て米国に移住した人も多かった。

 

中国もここ30年ほどで、経済的に大変貌を遂げ、地方まで浸透し、さらに加速すらしている。

それに連れて、人々の意識やマナーに変化が起きている。

 

一方、日本はどうだろうか?

 

1990年代より、明らかに経済は停滞し、それに連れて国際的な指標、幸福、貧困、ジェンダー、報道、政治腐敗など全てが低下し続け、さらに悪化の度合いを強めいている。

それだけに止まらず、国の財政悪化も勢いを増している。

ここ数年、良かったのは株価と失業率ぐらいでした(これには喜べない理由がある)。

 

さらにコロナ危機で日本の実態が露見した。

縮小されていた感染医療体制、乏しい危機と遅い対応、躊躇する国民支援、政府の心根がいみじくも露呈してしまった。

一方、自粛に見られる国民の高い共同体意識と自治体首長の活躍が目立った。

(重傷者、死亡者が少ないのは東アジアの韓国・台湾とBCG接種国に共通し、少ない感染者は少ないPCR検査による)

 

 

* 何が悲しいのか *

 

人々の好悪感で国の進路が歪められ、暴走が続いていることです。

 

「韓国・中国が嫌いだ! 弱い日本は嫌いだ! 強いリーダーが好きだ!」

この世論が、ここ10年ほど日本を牽引して来た。

そして防衛が優先され、隣国に妥協しない頑強な政府が出来上がった。

 

そして何が起きたのか。

期待したアベノミクスは?

おそらく8割の人は好況を実感したことはなかっただろう。

非正規が増え、賃金低下、貯蓄の取り崩しが定着した。

このことが増税とコロナ危機でより経済を悪化させる。

政府は赤字国債大量発行と超金融緩和で乗り切るだろうが、これも将来禍根を残すことになる。

 

加えて弱者と少数意見が無視され、富裕者・大企業優先で格差が拡大した。

それだけではない、首相の虚言と隠蔽、内閣による官僚とマスコミ操作により、不正が蔓延していても尻尾が掴めない。

 

 

一方、この政府に嫌悪感を抱く人々がいる。

「不正・政治腐敗が許せない! 弱者を軽視し大企業優先ばかりが許せない!」と

 

今の政府に惹かれ、すがる人々は、これらを無視してはばからない。

私は、このような社会に不安を感じる。

 

大戦前、ドイツ国民も前者と同様の理由でナチスを熱烈に支援した。

ヒトラーが独裁者となり、弱者(ユダヤ人、身障者など)を虐待し始めても、圧倒的多数の人は無視した。

しかし一部の人は地下に潜り、救済を行った。

だが官憲に捕まり、国家反逆罪で死刑になった人も多い。

 

結局、この悪行を重ねたヒトラーとナチスは自国を破壊し滅んだ。

ヒトラーは大嘘を隠し通したが、現首相の虚言はトランプのように日常的になっている。

 

翻って、今の米国を見てみれば、黒人嫌い、軍縮反対、中絶が許せない人々が、それだけの理由でトランプを支援する。

トランプがどんなに不正やトンチンカンをやってもお構いなし。

 

こんな幼稚な社会に、私は絶望しか見出せない。

 

終わります。

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, opinion, politics, Series: Something is strange, uncategorized | Tags: , | 2 Comments

中国の外縁を一周して 38: 万古楼と大石橋付近のレストラン


1DSC00273-1

*1

 

今回は、万古楼と大石橋付近を紹介します。

麗江で、私が最も目を奪われたのは、

大石橋付近の菊に囲まれた清流の美しい街並みでした。

この近くで昼食をとりました。

 

 

2

< 2. 万古楼の入口 >

 

上: 万古楼の入口

下: 中に入ったところ

 

 

3

< 3. 万古楼 >

 

4

< 4. 万古楼を中心にした地図、上が北 >

 

次に万古楼の最上階から見た360度の眺望を紹介しますので、この地図を参考にして下さい。

この麗江の盆地の広さは、赤矢印の東西で幅11kmあります。

麗江市の人口は114万人です(市の範囲は写真より広い)。

ナシ族の人口は31万人だが、麗江以外にも住んでいる。

 

赤矢印: 麗江古陳内、万古楼が丘の上に建つ獅子山公園

茶色矢印: 玉龍雪山

黒矢印: 長江、下から上に(北)流れている

黒枠: 麗江三義空港

 

 

 

5

< 5. 北から東までの眺め >

 

上: 真北を望む

遠方中央の小山の左麓に黑龙潭がある。

さらに遠方に雲を被った玉龍雪山が見える。

下側の木々は獅子山公園で、右手側に麗江古陳が広がる。

 

中央: 真東を望む

麗江古陳の中央でしょうか。

 

下: 東南を望む

右手前に木府の屋根(少し青みがある)が見える。

 

 

6

< 6. 南から西までの眺め >

 

上: 真南を望む

遠方の丘陵地麓の左側に新幹線の麗江駅があり、その丘陵地を右に迂回したら空港に至る。

写真中央、麗江古陳の南端(瓦屋根が途切れる辺り)に、後に紹介する古城忠义市场があります。

 

中央: 南西を望む

 

下: 真西を望む

中央の山の向こうに拉市海(湖と湿地)があり、さらにひと山越えると、長江が急激に流れを変える長江第一湾がある。

 

 

7

< 7.西北から北までの眺め >

 

上: 西北を望む

遠方中央、山脈が途切れる谷間を抜ける道を行くと、拉市海や長江に辿り着く。

この道の右手の山の南斜面中腹に普济寺がある。

後にこのチベット仏教寺院を紹介します。

 

かつて茶葉古道は、南の昆明、大理を経て麗江古陳を通り、ここで西に向かい、長江沿いに香格里拉、チベットに至った。

 

 

下: ほぼ北北西を望む

中央遠方、山の麓に束河古镇があります。

後に紹介します。

 

これで360度、一周しました。

 

 

8

< 8. 万古楼から >

 

上: 万古楼の最上階からほぼ西を見下ろす。

 

左下: 万古楼内部。

木造造りで高さ33mあります。

 

右下: 万古楼から東側に降りたところにある展望台

 

 

万古楼からの眺めは良いが、それだけです。

万古楼から四方街への下りの道は、登りと違った道をとりました。

 

 

9

< 9. 素晴らしい眺め >

 

上: 四方街

 

下: 大石橋

前夜、ライトアップされた橋と清流の眺めも魅惑的でしたが、昼も良い。

 

 

10

< 10. 大石橋の上から >

 

上: 下流を望む

 

下: 上流(北)を望む

 

 

 

11

*11

 

 

12

< 12. 昼食のレストラン >

 

ガイドさんに紹介してもらいました。

 

上: レストランのテラス席から川の方を見る。

 

下: 店の方を見る。

ここは大石橋の川を少し北上した所にあります。

昨晩、この店の前を通った時は、非常に賑わっていました。

 

 

13

< 13. 食事 >

 

メニューもガイドさんと相談しながら決めました。

この麗江は食材が豊かで松茸も採れる。

料理は彩が綺麗でしたが、深みが無く、美味しいとは言えませんでした。

どちらかと言うとさっぱりした味でした。

強いて言えば高いだけの料理でしょうか。

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 2 Comments

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2


1DSC02834-1

*1

 

今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。

この漁港を歩き、

切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。

 

 

2

< 2. 散策マップ、上が北 >

 

上の白枠が下の地図の範囲を示す。

赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。

西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

 

S:スタート地点

A: 東由岐漁協

B: ミセ造りなどが見られる古い町並み

C: 天神社

E: かつて由岐城があった城山公園

F: 八幡神社

 

 

3

< 3. 不思議なもの >

 

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。

はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

 

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。

 

 

4

< 4. 広い通り >

 

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。

北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

 

下: 東西に延びる通り

中央に見えるのが城山公園がある丘です。

丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。

城の名残りは無いそうです。

 

5

< 5. 八幡神社 1 >

 

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。

この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

 

下: 八幡神社の下に来ました。

 

6

< 6. 八幡神社 2 >

 

上: 八幡神社の境内

実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。

そこでさらに裏山まで踏み込みました。

帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

 

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。

すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。

その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。

一瞬、寒気がした。

 

 

7

< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

 

上: 前述の看板の位置からの眺め

 

下: 岡から西側を眺めた。

 

 

8

< 8. 丘を西側に降りる >

 

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

 

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。

 

 

9

< 9. 西由岐を行く >

 

上: 八幡神社が見える

 

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。

 

 

10

< 10. 漁港に戻った >

 

上: 西由岐側を望む

右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。

黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。

10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

 

下: 東由岐の方を見た

 

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。

 

 

 

* 由岐を歩いて *

 

様々なことを知り、実感することが出来た。

 

11

< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

 

上: 散策している時に見つけた表示板

これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

 

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。

八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。

しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

 

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。

徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

 

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。

さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。

高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

 

如何に日本が脆弱かを知ることになった。

 

 

12

< 12. いにしえの海路 >

 

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

 

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。

船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。

左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。

右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。

 

 

13

< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

 

上: 屋島の戦い

由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。

源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、

雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

 

下: 戦国時代末期の四国の勢力図

当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。

この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。

海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。

今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 

 

14

< 14. 由岐漁港 >

 

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

 

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?

B: 石垣弥太郎

C: 楠本勇吉

D: 延縄漁

E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り

 

 

由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

 

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。

鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。

明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。

彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

 

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。

現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

 

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。

当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

連載中 何か変ですよ 216: 「検察庁法改正案に抗議します」を巡って!


1

*1

 

 

ここ数日盛り上がっている検察庁法改正案について感じたことを記します。

私は当然、検察庁法改正案に反対で、火事場泥棒を許せない。

 

 

2

*2

 

* 最初に *

 

先ず、600万人が瞬時に反対を表明したことが素晴らしい(ツイッターで)。

これは野党、弁護士会、知識人、芸能人が声を上げただけでなく、一般の人も大いに危機感を持っている事の現れです。

 

しかし一方で相変わらず政府や与党のとぼけた国会対応、加えて保守やウヨの猛反撃がある。

態度表明した芸能人が苦渋の果てに表明を取り下げた。

 

また吉村知事、堀江貴文、高橋洋一氏などは、改正案を当然とし、反対する人は勉強してから文句を言えと吐き捨てる。

三氏の理屈を要約すると、検察を民主的にするためには内閣が関わるべき、分からない人間がマスコミと検察に踊らされている、単に定年延長だけの話と言うことになる。

 

反対するには、確かに法案に目を通した方が良いだろう。

しかし、家が放火され燃えている時に、放火犯の逮捕を優先し、家が燃え尽きるに任せる人はいない。

 

 

* 国民はなぜ検察庁法改正案に反対するのか *

 

私の見るところ、安倍首相が検事総長を自分の言いなりにし、周辺で起きている不祥事の摘発を妨害しようとしている、と国民は見ているからです。

 

この推測を裏付ける状況証拠は腐るほどある。

 

  • 候補とされる黒川検事長は、多くの自民党議員の摘発を握り潰し、野党議員の摘発に暗躍して来たと言われている。小渕議員、甘利議員、森友事件(佐川理財局長)、大阪地検特捜部証拠改ざん事件後の刑事訴訟法改悪、陸山会事件(小沢議員)など。つまり彼は自民党にも安倍首相にも守護神となる。

 

  • この改正案は突如として浮上し、経緯が不明瞭。国会で法務大臣が追求されても答えられなかった。

 

  • 安倍首相が国民の為、つまり民主的で透明性のある官僚制度の改革を行ったと信じる人は少ない。彼が関わったことにより官僚は捏造、隠蔽、証言拒否を繰り返し、官僚の忖度が横行するようになった。つまり、真逆の改悪を行っているのだから。

 

 

3

*3

 

 

さらに、安倍首相と自民党が国民の為に官僚改革を行うはずがない理由がある。

 

堀江氏が指摘する通り、日本の検察は傲慢横暴で判事ともつるんでいる。

既に、検察と裁判所は上級官僚を通じて内閣(長期政権)の意向に沿うようになっている(高等裁判所で必ず原発裁判は覆される)。

この意味では、検察を民主化する必要はあるが、現内閣が関与を深めることは悪化しか起こらない。

民主化なら最高裁判事の国民投票のような方法が必要でしょう。

おそらく三氏はこのことを知った上で言っているのだから質が悪い。

 

もう一つ、見落としてはならないことがある。

安倍政権は官僚を抱き込むことに力を入れて来たが、決して官僚の聖域には手を付けていない。

特別会計や天下りなど、野党がかつて指摘して来た膨大な無駄にはまったく触れていない。

結局は官僚の特権を護る代わりに、官僚を従わせて来た。

 

このような性格の政権が、コロナ危機の中で急いで改正案を潜り込ませて、強行しようとするなら、火事場泥棒と思われても仕方がない。

改正案が廃案になっても問題あるとは聞かない。

 

むしろ国民は危険が迫っているのだがら、改正案に反対することは当然です。

単純に、危険な首相と政府がやるから反対でも正解だ!

 

日本国民が政治に無関心過ぎることが、こんな災いを招いたのだから、この機会に改めることは良い事だ!

 

 

終わります。

 

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, Series: Something is strange, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1


1DSC02795-1

*1

 

これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。

今回訪れた漁港の中では最も北にあります。

 

 

2

< 2. 散策図、上が北 >

 

上: 由岐漁港を俯瞰

二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。

しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。

この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

 

下: 由岐漁港拡大

おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。

写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。

 

 

3

< 3. 港を眺める >

 

上: 西由岐を望む。

 

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。

 

 

4

< 4.東由岐の漁協 >

 

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。

一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

 

下: 蛸が逃げる!

ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。

私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。

 

 

5

< 5. 東由岐の街並みに向かう >

 

上: 西側を見ている。

 

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。

道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。

 

 

6

< 6.東由岐の街並み >

 

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。

中でも保存が良いのを撮影しました。

おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

 

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

 

外観の説明を引用します。

「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。

全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。

出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

 

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。

 

 

7

< 7. 天神社の鳥居 >

 

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

 

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。

 

 

 

8

< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

 

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

 

記録によると

「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。

旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」

 

 

9

< 9. 天神社の階段から望む >

 

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

 

下: 西由岐の方を望む

中央奥に城山公園の小さな岡が見える。

かつて城があった。

 

 

10

< 10.天神社の境内から望む >

 

上: ほぼ北側を望む。

 

下: 北東を望む

この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。

写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

 

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。

この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。

この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。

次回、この「雪湊の町」について紹介します。

 

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。

1854年、安政元年の南海地震が襲った。

1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。

1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

 

この地は、津波と共に生きていかなければならない。

 

 

11

< 11. 天神社 >

 

上: 境内

 

下: 境内から北側に降りた階段

後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。

 

 

* 感想と説明 *

 

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。

それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。

一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

 

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

 

美波町について

2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。

日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。

美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。

その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。

漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。

( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

 

由岐漁港

ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。

古い町並みは東由岐に残っている。

両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。

東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。

由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している

しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

 

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。

これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。

ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

 

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。

美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。

このことは後に紹介します。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 36: 木府を訪れる


1DSC00178-1

*1

 

今回は、ナシ族の統治者木氏(モクシ)の館を紹介します。

紫禁城を小振りにしたような立派な宮殿です。

 

2

< 2. 散策マップ >

 

上: 麗江古陳の観光地図、上が北

茶色線が前回紹介した散策路、赤線が今回の木府への入場口、紺色線が次に紹介する獅子山公園への散策路です。

 

中央: 木府の全景、見ている方向は下地図の茶色矢印

入場口は奥の方に見える。

 

下: 木府の平面図、ほぼ上が北

赤線が入場までのルート。

主要な建物は、右から議事庁、万巻楼、護法殿です。

 

 

3

< 3. 忠義坊 >

 

上: 忠義坊の前から通路を挟んで照壁を見る。

下: 忠義坊、ここを入って行く。

 

 

4

< 4. 木府に入る >

 

上: 入口、平面図の議門に当たるのだろう

ここでパスポートなどを見せる。

 

下: 議事庁

木氏が政務を執った所。

 

ナシ族の首領であった木氏は元の時代13世紀より、麗江の統治を委ねられた。

以来、元、明、清の時代を22世代470年にわたって世襲統治した。

木府は麗江の政治、経済、文化の中心でした。

 

1996年の麗江大地震で大きな損傷を受けたが、元通りに再現された。

麗江古陳の街並みも同様に再現されたものです。

 

 

 

5

< 5. 議事庁の前広場 >

 

上: 広場の両壁に建つ楼。

 

下: 議事庁の前から、入場口を望む。

 

 

6a

< 6. 議事庁の中 >

 

上: 興味をそそる像。

頭の上に抱えるのは銅鼓でしょう。

銅鼓(銅製の片面の太鼓)は雲南からベトナム北部で、紀元前5世紀頃から造られた。

主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。

 

下: 天井。

 

 

7

< 7. 万巻楼 >

 

曲阜の孔子廟を参考にして建てられた書庫。

 

 

8

< 8. 万巻楼の二階 >

 

 

9

< 9.万巻楼の二階からの眺め >

 

上: 北の方を見ると、玉龍雪山の峰が雲間から覗いていた。

本来は主峰が左側にそそり立つているのですが。

 

下: 北東を望む。

 

 

10a

< 10. 護法殿 >

 

上: 護法殿。

木氏の私事的な話し合いがもたれた場所。

 

下: 万巻楼。

 

 

11

< 11. 護法殿の中 >

 

下: 護法殿の奥に道教が祀られていた。

 

 

 

12

< 12. 木府に特徴的な水路 >

 

湧水が豊かな麗江らしく、宮殿内には水路がはりめぐらされている。

川縁に立つ柳は中国の歴史舞台を連想させる。

 

 

* 感想 *

 

私は訪れる前、古くて小さな建物を想像していたのですが、敷地の広さ、建物の立派さに驚いた。

思ったより漢民族の宮殿に倣った建物だった。

もっとも漢民族の支配下にあったのだから当然かもしれないが。

 

麗江古陳も木府も、城壁や城砦が見当たらない。

雲南では小部族による抗争が長らく続き、8世紀以降に統一王国が形成されるようになった。

麗江は奥地だったためか、侵略されることも抗争も少なかったのだろうか?

元(フビライ)はかつて雲南からベトナムまで侵攻したことがあったが。

 

木府内に、十人ほどの白人観光客がいたので、声を掛けると、彼らはチェコから来ていた。

プラハやチェスキークルムロフが懐かしい。

白人の団体観光客は珍しかった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

世界が崩壊しない前に 24: 掘り尽くす鉱物


1

*1

 

 

宇宙誕生から138億年間で生まれた元素や地球の鉱物を、人類はこれから数十年ほどで使い切ってしまう。

その先は・・・

 

 

2b

*2

 

青銅と鉄は文明と強国の象徴でした。

紀元前、もしヒッタイトとケルトが鉄器を持っていなかったら、ガンジス川や黄河流域で鉄の農耕具が普及していなければ、歴史は大きく変わっていた。

金と銀は繁栄の象徴であり、昔から通貨の役割を果たして来た。

建物から自動車、携帯電話、薬品、太陽電池まで鉱物無しでは造れず、生活は不可能だ。

 

国際環境開発協会が15年ほど前、よく知られた八つの金属(鉄、アルミ、鉛、ニッケル、銅、他)の残りの可採年数は15~81年と発表した。

推定埋蔵量は500~1100年分あるが、採掘には膨大な損失が伴う。

環境省の2009年の資料によると、可採年数は金20年、銀19年、レアメタルのクロム15年、インジウム18年とある。

 

ここ半世紀、かつて指摘された地下資源の可採年数を越えても、掘り尽くした物はなく、今も採掘は続いている。

しかし確実に可採年数は短くなっている。

 

 

* 何が問題か? *

 

可採年数は、世界経済(消費)の伸び、新規に発見される埋蔵量、リサイクル量、そして採掘コストによって決まる。

 

だが埋蔵量は増えても、鉱石の品位が下がり続けており、益々採掘にエネルギー(コスト)と水の使用量が増える。

また鉱山から出る鉱さいや処理液はこれまでの数十倍に達し、環境破壊と深刻な公害を招く。

さらに農業や漁業資源を減らすことにもなる。

 

最大の懸念は、生産と埋蔵している国が大きく偏在していることです。

 

中国の生産量は金で1位、レアアース(17元素)では世界シェアの96%に達する。

埋蔵量の世界シェアでは、リチウムはチリで75%、プラチナは南アフリカで88%と偏在している。

一方、日本はベースメタル(鉄、銅など)とレアメタル(リチウム、コバルトなど)は100%輸入に頼っている。

 

 

* もし枯渇の危機が来れば! *

 

希少元素や鉱物の枯渇は、コロナ危機のマスクのように2ヶ月ほどの品不足では済まない。

今回の日本政府の対応を見れば、危機管理(体制とシミレーション)が出来ていなかった事と、隣国との協調体制が取れないことで傷口を大きくしてしまうことが理解出来たはずです。

 

おそらく悲惨な争奪が始まるだろう。

既に石油、ダイヤモンド、ウランのように、アフリカや中東で資源を奪い合う為に、大国から武器が大量に供給され内戦を生んでいる。

 

放置すれば必ず破局が来ます、甚大な被害を伴う危機が。

 

将来に備えた危機対応が不可欠です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

Categories: economy, 連載 世界が崩壊しない前に, <japanese language, opinion, politics, uncategorized | Tags: , , | Leave a comment

徳島の海岸と漁村を巡って 1: はじめに


1DSC03184-1

*1

 

これから数回に分けて、徳島、東南部の海岸と漁村を紹介します。

素晴らしい海岸の景色、漁港と漁村の風景、その暮らしを紹介します。

 

* この度の旅行について *

 

旅行したのは2020年4月23日と24日です。

 

旅の目的

  1. 昔ながらの漁師町の町並を撮る
  2. 漁港の景観、歴史、そして今の暮らしを知る
  3. 変化に富んだ海岸線と自然を撮る

 

良かったこと

天気が非常に良かったので、良いが写真が撮れた。

暑くなかったので、町や岬の散策を楽しめた。

 

各漁港で、魚の荷捌きや競りを見学することが出来た。

散策中、会話を交わし、人々の温かさや漁業の実情を知った。

漁村で大津波の恐ろしさ、また町の地域おこし活動を知った。

 

 

 

2map

< 2. 訪問地、上が北 >

 

私が紹介するのは徳島県海部郡の、地図のAからEまでの漁港と周辺の自然です。

A: 美波町由岐の漁港

B: 美和町の恵比寿浜と日和佐(薬王寺と日和佐城と漁港、岬)

C: 牟岐町の漁港(出羽島に渡りかったが行けなかった)

D: 海部町鞆浦の漁港

E: 海陽町宍喰(漁港と岬、宿泊地)

 

 

3

< 3. 恵比寿浜 >

 

 

4

< 4. ドライブ >

 

海岸線と山間を走り、ある時は岬の狭い一本道を走ったこともありました。

 

 

5

< 5. 由岐と鞆浦の漁港 >

 

 

6

< 6. 由岐と日和佐の古い家並み >

 

 

7

< 7. 村の鎮守様とお城 >

 

下: 右の丘の上に日和佐城の天守閣が見える。

 

 

8

< 8. 競りと浜 >

 

多くの漁協で魚の荷捌きや競りを見学したが、どこも快く受け入れてくれた。

様々な旬の魚を見ることが出来た。

 

 

9

< 9. 四季の彩と朝陽 >

 

 

10

< 10. 島、岬、浜が連なる海岸線 >

 

 

次回に続きます。

 

 

Categories: culture+society, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | Leave a comment

中国の外縁を一周して 35: 麗江のホテルから木府まで


1DSC00151-1

*1

 

今回は、麗江古陳の朝の風景を紹介します。

ホテルから見た玉龍雪山や古陳の甍の波、ホテルの中庭と、

ホテルから木府までの道を紹介します。

 

2あ

< 2. ホテルの中庭から 1 >

 

宿泊した嵌雪楼客栈には中庭が三つあり、ここは一番広く、レストランと屋根付きテラス席が隣接しています。

 

上: このレストランで中華ビュッフェを食べました。

味や種類は都市部のホテルより劣りますが、安く立地と眺めが良いので申し分ないです。

 

下: 客室。

この一階が宿泊した部屋です。

 

 

3d

< 3. ホテルの中庭から 2 >

 

上: テラス席

朝の古陳全景と前日の夜景は、ここから撮影しました。

 

下: 左がフロント棟で、カウンターは反対側にあります。

右がレストランです。

 

 

4

< 4. 玉龍雪山 >

 

撮影は7:15~30です(2019年10月26日)。

たまたまレストランで朝食ととろうとしたら、窓から玉龍雪山が見えました。

雲はかかっていたが、微かに朝焼けで輝いていました。

感激です!

 

上: 右手前の山の麓に黑龙潭があります。

 

 

5

< 5. ホテルのテラス席から >

 

上: 東を望む。

玉河広場が直ぐ下に見えて、古陳は右手に広がる。

撮影は7:30頃です。

 

下: 東南を望む、古陳はさらに右手に広がる。

 

 

6

< 6. 四方街まで >

 

この道は、ホテルを下って直ぐに出会う道です。

四方街に通じる道は、これと並行して他に二本あり、それぞれ趣があります。

これはもっとも丘寄りで、素朴な感じがします。

朝は商店街が閉まっているせいもありますが。

麗江古陳の道は、すべて写真のような石畳で覆われています。

趣はあるが、足には負担です。

 

 

7

< 7. 途中の珍しいもの >

 

気になった屋根瓦、看板、門扉を撮影しました。

 

上: 尖った屋根瓦は、タイの寺院で見られる龍のイメージに似ているようだ。

 

 

8

< 8. 四方街の朝 >

 

四方街の西端から東側を望む。

昨晩の賑やかさは嘘のようです。

掃除がゆきとどいています。

 

 

9

< 9. 木府に向かう >

 

静かな朝です。

 

 

10

< 10. 木府の前の広場に到着 >

 

この通りの両側の店はやがて開き始め、賑やかさを取り戻します。

今は、朝9時ごろです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

Categories: culture+society, 連載 中国の外縁を一周して, <japanese language, travel+photo, uncategorized | Tags: , | 2 Comments

Blog at WordPress.com.

Aim 優美聡明

夫婦・日常・色々な事を書いていきます・・・

LIF:E - Love Is For Everyone

Pondering the present, while forgetting about the future and realising the past.

COLORFUL SISTERS

Traveling Fashion Designers 🌼

忍者くんのおススメでござる。

アマゾン流派の忍者でござるよ。

ゆたかなおなか

#元公務員 #早期退職 #53歳 #遠回りの人生

K's Travel Channel

躁うつ患者の旅

神様が先生:毛利太郎(福田泰志 )

日本の萩市&長門市にメシアの民現る!!アーメン(一部女性不可)日本共産党(しんぶん赤旗):何でも手作り作品の「エッセイスト・フクダ」:私は、萩高等学校・関東学院大学の卒業生です。頑張れ萩・至誠館大学。私の、スマートフォンは、Google社のピクセル4です。

Life...

What Life is all about

わが心はタイにあり Love Thailand

タイの文化と自然に魅せられて

Rtistic

I speak my heart out.

COREspot

北海道の絶景をご紹介‼︎

The Eternal Words

An opinionated girl penning down her thoughts.🌸❤

胡蝶蘭と大学職員

あなたの大学にいる職員さんってこんな人かもしれません。