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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 5: 吉野川から貞光へ 


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これから剣山に向かってドライブします。

途中、吉野川の潜水橋と二層うだつの町並みで知られる貞光を訪れます。

今回は、脇町潜水橋と貞光にある旧庄屋屋敷を紹介します。

 

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< 2. 訪問地マップ、上が北 >

 

上: 全体図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

地図中央下部の赤字: 剣山

 

下: 拡大図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

赤い矢印: 剣山に向かう道路

 

 

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< 3.脇町潜水橋 >

 

上: 南側から潜水橋を望む

私が立っているのは大きな中洲の舞中島です。

この橋の幅は車1台分しかありません。

昭和の初めまで、ここは渡しで行き来したそうです。

 

下: 対岸の右手がうだつの町並みがある脇町

 

 

 

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< 4. 下流側を望む >

 

川幅は広く、底は浅い。

30年ほど前、子供を連れて、この上流の貞光辺りから下流の穴吹辺りまでの吉野川で泳ぎました。

当時、水は透き通り、美しい自然の中で遊ぶことが出来ました。

 

 

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< 5. 上流側 >

 

 

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< 6. 貞光に到着 >

 

私は昼食を、直ぐ近くの「道の駅 貞光ゆうゆう館」でとりました。

コロナ騒動の時でしたが、レストランは開いていました。

眺めも良く、居心地の良いレストランでした。

 

街並みを見るのに駐車場が見当たらなかったので、つるぎ町役場に停めました。

 

上: 松尾神社が見える。

役場の駐車場から出て、松尾神社の前で交差点を左に折れると、二層うだつの町並みが見えるはずです。

 

下: 古い商店街は続くが、うだつは見えない。

 

 

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< 7. やがてうだつが見えて来た >

 

確かに、こちらはうだつが二層になっている。

しかし脇町に比べると、何か雰囲気が違うと言うか、伝統家屋の町並みと言うより寂れた街並みにしか見えない。

 

何が違うのか?

多くの古い家屋がここ半世紀の間に現代の商店に改修されているようだが、既に古くなっている。

この通りは統一された伝統的家屋の保存が出来ていないのか?

 

さらに見て行くとある違いに気が付いた。

通りが広く、通りの向きが吉野川に直行している。

つまり貞光川に並行し、山に向かっている通りと言える。

また家屋の二階の高さが高く、二階は住居として供され普通の窓が見られる。

一方、脇町では二階の天井が低く、漆喰壁に虫籠窓があるのがほとんどでした。

 

この違いは、この通りの出来た由来と時期が、脇町と異なる事が大きい。

 

一宇から剣山に通じる一宇街道(旧街道)がここ貞光から始まった。

ここは山の産物と平野の産物の交易で発展し、その街道沿いに商家が並んだ。

一方脇町は、城下町と撫養街道が交わった近くの川湊に沿って商家が並んだ。

貞光と脇町は、ほぼ同時期(江戸時代、蜂須賀家)から発展したが、貞光の町並みづくりが少し遅れたことにより、貞光の商家は防火目的よりは豪華さを競って二層のうだつにしたようです。

 

 

 

 

 

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< 8. 通りを右に折れて入る >

 

下:  旧永井家庄屋屋敷が見えた。

江戸中期に建築された庄屋屋敷です。

左手に無料の駐車場(7台ぐらい)があった。

 

 

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< 9. 門の前に来た >

 

上: 駐車場から写真を撮っている。

 

 

 

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< 10. 門を入る >

 

上: 入ると、右手に立派な庭園がある。

 

下: 少し進むと正面に玄関らしいものが見えたが、入口は左らしい。

平屋の屋根は茅葺だ。

 

 

 

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< 11. 倉庫らしき物が見える >

 

上: 左に曲がると、中庭を隔て二階建ての倉庫らしきものが見えた。

 

下: 右手直ぐに平屋建物への入口があった。

そこを入ると、大きな土間のある台所だった。

私が、この土間に入ると、直ぐに女性が出て来て、どうぞ見てく下さいと促された。

ここの入場料は無料でした。

観光客をまったく見なかったが、管理人が居ながら無料とは、少し悪い気がした。

 

写真はこれから座敷に上がる入口を示している。

 

 

 

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< 12. 座敷に上がる >

 

上: 先ほど紹介した玄関らしき所に、花が生けられていた。

 

下: 立派な庭が見える。

 

 

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< 13. 立派な構え >

 

槍が掛けられている。

名字帯刀が許されていた。

建物の説明は音声案内で流された。

 

 

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< 15.一番奥から振り返った >

 

下: 天井の写真

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 49: 雲南民俗村を楽しむ 3


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今回で、雲南民俗村の紹介は最後になります。

最後に、巨大な湖、滇池に面した海埂公园を紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 雲南民俗村と海埂公园

3回にわたって紹介した散策ルートを赤、茶、黒、橙色の線で示します。

右上から始め、中央の下で終わります。

 

下: 今回の雲南民俗村の散策ルート

前回に続いてSから始め、Rで昼食をとり、出口Eで場外に出ます。

 

 

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< 3. 今回紹介する少数民族の衣装 >

 

Hui= 回族(カイ族)、man=满族(マン族)、bai=白族(ペイ族)

Naxi=纳西族(ナシ族)、meng=蒙古族

 

これらの衣装は、何処までが正式な伝統衣装かは不明です。

今、中国の若い人は民族衣装をコスプレとして楽しみ、ネットで様々にアレンジされたものが多く販売されている。

 

man=满族(マン族)の冠は、清朝の皇女の大きなカツラを連想させる。

 

bai=白族(ペイ族)の冠には白い羽飾りが付いている。

これは未婚女性のもので、民族名の由来だそうです。

 

Naxi=纳西族(ナシ族)の装束では、タスキがどうやら特徴のようです。

 

meng=蒙古族は人口が多く、部族が異なると衣装もかなり異なる。

 

 

 

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< 4.回族のモスク(清真寺) >

 

蘭州で、立派なモスクを見ました。

 

 

* 回族について

 

中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団で、言語・形質等は漢民族と同じです。

中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

 

回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。

 

同じイスラム教徒でも、問題になっているウイグル族との違いは何か?

 

彼らは、遊牧民のテュルク系遊牧民族(トルコ系)でウイグル語を話す。

彼らは新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに暮らし、人口約1千万人です。

彼らの宗派はイスラム教スンナ派です。

 

一方、回族の宗派もスンナ派だが古いタイプのHanafi派です。

恐らくは、イスラム教では宗派が異なると交流が進まないので、言語・形質も異なる回族ではウイグル族の影響を受けないのだろう。

 

成都や蘭州で回族を多く見ました。

 

 

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< 5. 満族の家 1 >

 

* 満族(満洲族)について

 

ツングース系民族で、古くは女真族と呼ばれ、狩猟と簡単な遊牧・農耕も行っていた。

17世紀に清朝を興した。

現在、中国全土に1000万人、雲南に1万人程いるが、これは清の時代に来た人々です。

漢人との交流が長いので、漢民族に同化してしまっているようだ。

どこまで生活や住まいに、満州民族の伝統を残しているかは分からない。

 

面白い現象がある。

ここ十年ほどで満族の人口が3.5倍に増加している。

これは中国が少数民族を優遇しているので、優遇措置を受ける為だそうです。

 

* 中国の少数民族の優遇政策について

 

漢民族に適用されていた「一人っ子政策」は少数民族には適用されていなかった(現在、中国全体で廃止)。

少数民族の学生は進学で優遇され、例えば学費減免や奨学金、入学試験の加点などがある。

少数民族の家庭に支給される一人っ子手当てが漢民族家庭の2倍であったり、職場内で昇進しやすいこともあるようです。

 

実は、このような少数者の立場向上を図る優遇政策は他でも見られる。

例えば、共産党以外の政党が認められているが、共産党以外の党に属している者には官吏採用の優先枠がある。

米国やインドのアファーマティブ・アクションに似た事が行われている。

 

私達、日本人は、マスコミから中国の悪い面だけを印象付けれているが、実は内部では、様々な融和策や弱者対策が広く行われている。

 

日本はこれに比べてどうでしょうか?

国連からも非難されていたアイヌの旧土人保護法が廃止されたのは、やっと1997年でした。

 

 

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< 6. 満族の家 2 >

 

 

 

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< 7. 満族の家 3 >

 

 

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< 8. 昼食のレストラン 1 >

 

ここは民族餐厅(民族村北路店)で、最も大きくて、ほぼ中央にあります。

ビュフェ形式の食事があり、写真奥の方でやっています。

私は単品料理を注文しました。

品数は多く無く、料理は手軽なものが多いようでした。

 

上: 店内

 

下: 写真に見えるレジで注文します。

 

 

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< 9. レストラン 2 >

 

上: 厨房です。

 

下: 注文した料理。

特段に美味しいわけではないが、日頃食べない味を楽しめた。

 

 

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< 10. 白族の村 >

 

上: 大理のシンボルと言われる崇聖寺の三塔のレプリカ。

そこそこの大きさがあります。

これで大理に行かずとも見ることが出来た。

 

下: 白族の村

立派な造りの家が並ぶ。

さすが一時、今の雲南の領域に大理国を建国しただけはある。

残念ながら13世紀に元(モンゴル帝国)に滅ぼされた。

 

* 白族について

 

雲南省大理を中心に住むチベット系民族。

約人口190万人の内、約120万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、漢語をペー語に取り入れている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、中国語で乳扇と呼ばれているチーズが知られている。

漢族の雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。

米を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

 

以前、福建省で客家料理を食べた時、日本の醤油味に似ており、美味しく食べたことがある。

 

 

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< 11. 纳西族の家  >

 

麗江で宿泊したホテルがこのような造りだったので驚きはなかった。

しかし他の少数民族の家屋に比べると立派な事に気が付いた。

これも茶葉古道の要衝として栄えたからだろう。

 

 

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< 12.麻栏式民居 >

 

この建物は中国南部(雲南など)に多い様式で、木や竹で造られた2階建です。

2階に人が住み、1階は動物小屋になる。

桂林の山岳民族にも似た家屋があった。

恐らくは湿気を避けるための工夫でしょう。

 

纳西族については「中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで」などで紹介しています。

 

 

* 蒙古族について

 

四川省・雲南省のモンゴル族は、元朝以降に移住した人々です。

遊牧民から稲作を中心にした農業に転換した一方で、習俗などはモンゴル族のものを残している。

蒙古族の人口は約600万あり、モンゴル国の人口が約300万人なので、中国国内の方が多い。

 

 

* 中国旅行の少数民族について感じたこと

 

今回の「中国の外縁を一周して」の旅で、知りたかったことの一つが、中国の少数民族の今の暮らしと歴史でした。

 

中国政府は、チベットとウイグル族の扱いで、世界から人権蹂躙を非難されている。

また今回、私が旅行しようとしたら、突如として香港が騒乱状態となり、迂回しなけらばならなくなった。

中国は、香港や台湾に対しても高圧的な態度をとり続けている。

 

これらは、いつか暴発する可能性があり、内乱から経済混乱へと至り、日本などに多大な影響を与えるかもしれない。

この事が気になり、少数民族問題が起きそうな「中国の外縁近辺」を旅先に選んだ。

そして新疆ウイグル自治区に近く回族が多い蘭州、多くの少数民族が暮らす麗江と昆明を旅した(歴史的・文化的な興味もあり)。

 

今、私が感じている事は、中国は想像以上に弱者(少数民族など)に配慮し優遇政策を行い、融和を図っていることです。

そして、困難な少数民族の生活向上と意識向上を上手くやり遂げているようでした。

世界の多くの国では、少数民族の扱いに苦労している。

 

翠湖公園で見た、様々な少数民族衣装を身にまとい楽しく踊っている人々の表情を見て、私の懸念は雲散霧消した。

むしろ満足な暮らしぶりと言えるでしょう。

 

中国では少数民族だけでなく共産党以外の党人、高齢者への優遇政策が進んでいる。

 

あらゆる都市で出会った高齢者(50から60歳で退職)は男女の区別なくたくさん旅行しており、公園では日長、孫や友人と寛ぎ、趣味を楽しんでいた。

彼らは年金や退職金でのんびりと暮らしている(その額は企業規模や都市戸籍と農民戸籍で差はあるだろうが)。

 

この様子は北欧三ヵ国を歩いて感じた、勤労世代からリタイア後の余裕ある暮らしを彷彿とさせた。

60歳過ぎてもあくせくと働かなければならない日本と比べれば優雅でした。

また多くの中国の観光施設や公共施設の入場料が60歳から70歳で、半額から無料となっている。

 

米国の黒人や移民への扱いは、今の大統領になってから一層酷くはなっているが、長年の人種差別や融和政策の欠如が亀裂と混迷を深めている。

日本も、益々弱者に対して苛烈になっている。

 

中国は懸命に問題解決に取り組んでおり、北欧が成し遂げた移民や少数民族との融和を成し遂げる時が来るかもしれない。

中国は後進的な経済から急激な経済発展を成し遂げつつあるので、舵取りは難しいだろう。

北欧も、今の素晴らしい経済力と社会・政治力は、ほぼ大戦後に成し遂げた。

中国は強権をもって改革を断行出来るが、良い場合もあり、悪い場合もある。

 

日本人は、隣国の言語を理解出来ず、隣国に友人や知人もいないので、甚だ情報が偏りがちで、ステレオタイプの見方に陥りやすい。

 

 

今回、外縁を見て回ったことにより、中国の民族移動の歴史を理解する切っ掛けになった。

雲南省と四川省は、民族的にもチベットと深い関係があることがわかった。

やはり現地を訪れて初めて実感できるものがあり、成果に満足している。

 

 

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< 13. 蒙古族の村 >

 

上: モンゴルの家、ゲル。

かなり痛んでおり、中に入ることは出来なかった。

 

下: 雲南民俗村を出て、湖岸に出た。

そこは海埂公园で、右手にこれから行く巨大な崖が見える。

あの崖に岩窟の寺がある。

 

 

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< 14.海埂公园 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 4: 脇町うだつの街並み 後半


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前回に続いて、脇町巡りの後半を紹介します。

伝統的建築物が並ぶ南町以外も歩きました。

 

 

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< 2.街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

 

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

青枠は道の駅の駐車場です。

ピンク線が今回紹介する街並みの散策ルートで、Sから始まり、ABCDEFと進みました。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

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< 3. 南北に延びる通りへ >

 

うだつの町並み(南町)の西端から北に歩く。

 

上: 南を向くと吉野川の堤が路の奥に見える。

見えている四辻を左側に折れると、うだつの町並み(南町)です。

 

下: 同じ路で北を望む。

奥左の小山に脇城跡があるはずですが、城下町がどこまで延びていたかは分からない。

山門が見えるのは安楽寺ですが、この辺りにはお寺が三ヵ所も並んでいる。

 

 

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< 4. 撫養街道(川北街道) >

 

これが昔の撫養街道です。

撫養街道を東に進む。

 

 

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< 5.大谷川の橋から >

 

地図のA辺りです。

 

上: 下流を望む

大谷川は吉野川に注ぐ。

 

下: 上流を望む。

 

ここから下流に向かう。

 

 

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< 6. 脇町劇場(オデオン座) >

 

上: 対岸から東側の脇町劇場を望む

 

下: 劇場内部(借用した写真)

この劇場は昭和9年に芝居小屋として建てられ、戦後は映画館となった。

西田敏行主演「虹をつかむ男」の舞台となった。

 

 

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< 7. 中町を行く >

 

川沿いの道から右に折れ、中町を歩く。

 

上: 中町を歩く

 

下: 元美馬市立図書館

中町を歩くと左に漆喰の壁の建物があり、門をくぐると、奥に図書館があった。

左の方に進むと、倉庫があり、そこに屋台とうだつの模型があった。

 

 

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< 8. 屋台とうだつの模型 >

 

左上: 祭礼で使われるだんじりのようです。

 

右上: うだつの模型

けっこう大きくて、手間の掛かる造りになっている。

 

下: 白い二階建ての建物がうだつの模型がある倉庫

ここで南町に戻った。

 

その右横が呉服屋「大一」で江戸時代末期の建物です。

二階の窓は「虫籠窓」で、防火と盗難防止の為に漆喰で造られています。

よく保存されているので、江戸時代の雰囲気が味わえる。

 

 

* うだつの街並みについて

 

前回、1585年に稲田種元が蜂須賀家の家老として、この脇城に来て、城下町の整備と商業の発展に力を入れたことを紹介しました。

また街道と川湊が接する地の利に加えて、蜂須賀家が藍を奨励したことにより、脇町は藍商の中心地となった。

 

そして町は発展していたのですが、江戸後期に2回、大火に遭いました。

稲田家は、防火対策として「袖壁うだつ」を奨励しました。

その後、明治時代には装飾としての役割を担うようになった。

 

この伝統的家屋には、他にも様々な特徴的な工夫が見られます。

屋根の上から下って、「鳥ぶすま」「鬼瓦」「むくり屋根」「虫籠窓」「暖簾掛け」「出格子」「持ち送り」などがあります。

歩いていると大きな表札が道路脇に立っており、上記の説明がされています。

 

昔の暮らしの知恵に触れることが出来ます。

 

 

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< 9.通りの端を望む >

 

上: 東側を望む

奥に大谷川の橋が見える。

 

下: 端まで行って西側を望む。

地図のC辺り。

 

 

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< 10.呉服屋「のざき」1 >

 

下: 呉服屋としては一番古い

江戸時代末期の建築。

 

 

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< 11.呉服屋「のざき」2 >

 

上: 呉服屋「のざき」

 

下: 左の倉庫の手前にトイレがあります

 

 

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< 12. 共同井戸 >

 

上: 井戸にはつるべ式の滑車が見える

 

下: 左奥に明治末期建築の薬種商家

 

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< 13.戻って来た >

 

上: 南町の通りで西側を望む。

これで一周したことになる。

地図のD辺り。

 

下: 昔の船着場の護岸の上

この周辺に観光交流センターが揃っている。

道の駅の駐車場、その向こうに吉野川の堤が見える。

 

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< 14.船着場公園に降りる階段 >

 

上: 船着場の風情がある。

この門は吉田家の裏門だったようです。

この門の左に石碑が見える。

 

下: 石碑

この石碑の赤線は、吉田家に裏門に記されていた洪水時の水位を示している。

これは国交省が明治17年に測量を始めて以降、最高水位だそうです。

 

徳島の海岸・河岸を旅行して、思い知らされたのは、何処も災害から逃れられないことでした。

 

 

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< 15.吉野川 >

 

上: 下流を望む

 

下: 堤から脇町を望む

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 48: 雲南民俗村を楽しむ 2


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今回も、主に雲南省で暮らす少数民族を紹介します。

少数民族の祝祭の踊り、ショーも紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

Sから始めて、赤線に沿って見学し、Eまで行き、Eの茶色の広場で20分のショーを見ました。

この間の所要時間は約1時間でした。

通った少数民族の村は、傈僳族(リス族)、普米族(プミ族)、独龙族(トールン族)、苗族(ミャオ族)、拉祜族(ラフ族)、基諾族(ジーヌオ族)の順です。

家屋を見たのは独龙族(トールン族)、基諾族(ジーヌオ族)だけです。

 

 

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< 3. 少数民族が暮らす地域。上が北 >

 

茶色枠が雲南省、赤丸は麗江と昆明で、黄色線が新幹線です。

Li=傈僳族(リス族)、Pu=普米族(プミ族)、Du=独龙族(トールン族)は麗江の西側に集中しています。

Mi=苗族(ミャオ族)は雲南省東南部に広く分布しているが、むしろ他の省や中国外にも多く住んでいます。

La=拉祜族(ラフ族)、Ji=は基諾族(ジーヌオ族)は南部で、プーアル茶の産地よりもさらに南です。

 

 

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< 4. 六つの民族の服 >

 

略語は地図の表記と同じです。

これらは祝祭儀礼の時に見つける装束でしょう。

当然、老若男女の装束があるのですが、写真は若い女性の姿を選んでいます。

普米族(プミ族)の服は麗江のナシ族の服と似ています。

苗族(ミャオ族)は人口が多く、各地に分散しているので、部族によって祝祭の装束が異なるようなので2種類掲載しました。

 

東南アジアや中国辺境の地で出会う人々の顔を見ていると、時折、日本の役者や芸能人の顔に似ていることに驚かされる。

 

 

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< 5. 広い通りと大きな池 >

 

 

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< 6. 傈僳族(リス族)の村 >

 

*傈僳族(リス族)について

 

リス族は中国、ミャンマー、タイ、インドの国境にまたがって分布し、移動しながら焼畑農業を生業とする山地民でした。

総人口は120万人だが、中国では60万人ほどです。

言語はチベット・ビルマ語派に属し、文字を持っていたが、一部でしか使用されていなかった。

唐の時代は四川省南部から麗江に暮らしていたが、ナシ族の支配を逃れて西方に移動した。

宗教は、霊魂不滅と多神教、トーテム崇拝が特徴で、祭祀は村のシャーマンが主宰した。

 

 

 

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< 7. 刀杆广场 >

 

上: 刀杆广场

 

下: どの民族の住居は不明(失念)

傈僳族と普米族の可能性もあるが、独龙族のものだろう。

 

* 普米族(プミ族)について

 

プミ族は人口3万人ほどで、ほとんど雲南の限られた地域で、農業を主にし、牧畜業を副業として暮らしていた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

社会経済の発展は様々で、宗教は祖先崇拝とアニミズムが主で、一部でチベット族との交流によりラマ教が信仰されている。

 

 

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< 8. 独龙族(トールン族)の樹上家 >

 

* 独龙族(トールン族)について

 

トールン族は人口7000人ほどと少なく、雲南の限られた地域で、農業を主に、採集や漁労も兼ねた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

かつては木を刻み結縄して、事柄を記録し、便りとした。

社会経済の発展は遅れていて貧しく、原始共同体の名残りがあり、氏族間の結婚を禁止していた。

かつて顔に刺青を入れる風習があった。

宗教は精霊信仰(アニミズム)です。

シューマンは祭祀儀礼を執り行うだけでなく、病を治癒する為、引き起こしている様々な鬼を調べた。

 

 

 

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< 9. 独龙族(トールン族)2 >

 

外壁は丸太を組んでいるが、内壁は編んだ樹皮で覆われている。

二階の窓から覗くと、家屋の屋根が板で葺かれていることがわかる。

 

 

 

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< 10. 苗族(ミャオ族) >

 

上: 苗族の村の入り口

ここには入らなかった。

 

下: 後に訪れる西山風景区の山並みが見える

 

* 苗族(ミャオ族)について

 

ミャオ族は総人口1100万人で、中国国内890万人の内、貴州省に多い。

また東南アジアにも分布し、ラオスから移住し米国(Hmongと称す)に17万人が暮らす。

言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ(瑶)語派に属し、三種類の方言があり、互いに通じない。

山間盆地や斜面に暮らす山地民で、焼畑で陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

多くの地区では封建地主制経済段階にあった。

自民族だけで集居するほか、漢民族や他民族と雑居して来た。

宗教は、主に自然崇拝、鬼神崇拝と祖先崇拝で、シャーマンが宗教儀礼を執行した。

 

ミャオ族の歴史は古く、紀元前5千年紀に始まる長江中流域の新石器時代の大渓文化の人骨の多くがミャオ・ヤオ語族に関連されるとしている。

歴史的に確かなのは宋代以降、漢民族の南下に伴って、長江流域から山岳内陸部に移動したと考えられる。

 

 

 

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< 11. 拉祜族(ラフ族) >

 

上: 拉祜族(ラフ族)の村への入り口

 

下: 入口を入った広場

 

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< 12. 拉祜族(ラフ族)2 >

 

上: 入口を入った広場

 

下: 家屋

 

* 拉祜族(ラフ族)について

 

ラフ族の総人口は100万人で、多くは雲南省45万人、他は中国と東南アジアに暮らす山岳民族です。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属す。

主に焼畑農業を生活を続けて来ており、封建地主制経済の発展段階に入っていた。

宗教は、原始的な自然崇拝と祖先崇拝です。

 

 

 

13

< 13. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー1 >

 

上: 開幕の挨拶

すべての説明は中国語です。

 

14

< 14. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー2 >

 

上: 新婚に扮した男女が素早く動く竹の棒をかわしながら軽快なステップを行う。

以前、テレビで見たことがある踊りでした。

多くは男女の集団の踊りで、幾つかの踊りや祝祭儀礼のシーンが組み込まれているようです。

ショーは拉祜族のものとは限らないような気がします。

後に、観客から一組の男女が選ばれ、同じように踊らされ、爆笑を誘った。

演者達は表情豊かに一生懸命に踊っていた。

 

言葉が分からなくても楽しいひと時でした。

 

 

* このショーのビデオ映像

12秒と17秒の踊りの映像です。

ショー1

ショー2

 

 

15

< 15. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 1 >

 

上: この部屋は長男のものだろう。

入口の上にある木彫りの面が面白い。

他の家族は雑魚寝になるのだろう。

 

下: 大きな広間の真ん中に囲炉裏がある。

囲炉裏は生活の中心のようだ。

 

* 基諾族(ジーヌオ族)について

 

ジーヌオ族の総人口は2万人と少なく、雲南省の山間部にだけ住む。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、文字はない。

かつて、竹や木を刻んだり、トウモロコシの粒を数えて事柄や数を記録した。

かつては粗末な農具しか持たない焼畑農耕を行い農村共同体を営んでいた。

宗教は、原始宗教の段階に留まっていた。

各村には二種類の異なる役割を担ったシャーマンがいた。

 

 

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< 16. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 2 >

 

上: 額の写真は竹製の打楽器だが、下の壁に見える竹製の物は口琴のようだ。

 

下: 水を貯める木桶のようだ。

 

 

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< 17. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 3 >

 

上: これが部屋を見た家の外観です。

 

下: 庭にトーテムポールが並んでいる。

 

 

* 補足説明

 

民俗村では少数民族の原始的な暮らしを見ているが、現在の暮らしとは異なる。

展示されている暮らしや家屋、家具や道具などは中国の解放政策以前の姿だと思われる。

中国は1950年代から、少数民族の近代化を進め、各民族の自治区を設け、かつ中国政府と一体になる政策を進めて来た。

私の各民族の説明も、開放以前の古い状況だと思ってください。

 

日本にも先住のアイヌ民族がいるが、小国ベトナムでも30を超える少数民族がおり、アジア各国は多くの少数民族を抱えている。

少数民族の文化には興味深いものがあるが、政治的には困難が付き纏う。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 3: 脇町うだつの街並み 前半


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< 1. うだつ、矢印 >

 

これから吉野川沿いに発展した「うだつの町並み」を紹介します。

「うだつがあがらない」の「うだつ」です。

今回は脇町南町巡りの前半です。

 

 

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< 2. 街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

紺色が伝統的建物で多くは商家です。

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

 

青枠は道の駅の駐車場で、赤線が今回紹介する街並みの散策ルートです。

ピンク線は次回紹介するところです。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

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< 3. 道の駅 藍ランドうだつ >

 

上: 駐車場内から道の駅、町の方を見る

 

下: 少し進んで振り返る

駐車場の先に吉野川の堤防が見える。

 

 

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< 4. かつての吉野川の護岸 >

 

写真は共に西側を望む。

かつての護岸は現在、堤防沿いの国道と伝統的な街並みの間を流れる小川の片面になっているようだ。

それでもかつての石積みの様子を伺うことが出来る。

通りの南側の商家は表通りから敷地内で裏側の川湊に繋がっていた。

再現されている白塗りの蔵が見える。

 

 

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< 5.観光交流センター >

 

駐車場から坂道を少し昇ると観光交流センターに出た。

ここにインフォメーションセンターや工房、茶房などがある。

 

 

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< 6.南町の通りに出た >

 

ここがメインのうだつの町並みです。

ここを訪れたのは6月7日で、コロナ禍が少し収まった時期です。

歩き始めたは10時半頃でしたが、日曜日なのに人出は少なく、店によっては閉まっている所もあった。

 

上: 東側を望む

 

下: 西側を望む

ここから通りの端まで真直ぐ230mです。

 

 

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< 7. 格子と蔀戸 >

 

下: 看板に蔀戸(しとみど)の説明があった。

上下の二枚の戸の内、上の戸は内側に跳ね上げて吊り下げ、下の戸は上に引き抜いて外して別置きにしたのだろう。

こうして昼には、内側にある格子戸で通気を行った。

夜と雨の時は元に戻して雨戸とした。

おそらく民家ではここまでの建具を造らなかっただろう。

 

 

8

< 8. 吉田家 >

 

ここは脇町一の豪商、染料藍の商家の吉田屋です。

1792年創業で、1835年と1865年の増築された(江戸中期から後期)。

当時、使用人50人を雇い、部屋数25室と三つの蔵を備えた屋敷で、表から裏の船着場までの奥行きは70mはあるだろう。

ここは入場が有料ですが店の間までは入れて、土産物を販売しています。

 

上: 表、「店の間」への入り口が見える

 

下: 裏、船着場側から見た

右に二つの蔵が見え、左にも藍蔵がある。

 

 

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< 9. 吉田屋の玄関、店の間に入った >

 

 

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< 10. 吉田屋 2 >

 

表通りから吉田屋を見る。

 

下: 白壁に沿って右に行くと藍蔵(土産屋)がある

 

 

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< 11. 森家と将棋名人の家 >

 

上: 森家

ここは18世紀半ばから味噌・醤油卸を営んでいた。

明治13年に建て替えられ郵便局として、大正には医院として使われた。

 

 

下: 将棋名人の家

ここは旅籠だった。

ここで生まれた子が泊り客の将棋を見て育ち、後に江戸に出て、明治23年、四国では唯一の将棋名人となった。

 

 

12

< 12. 通りの西の端 >

 

上: ばったり床几

通りの方に倒して足を出すと縁台になる。

 

下: 通りの西の端

 

ここに来るまでに幾つもの伝統家屋があり、最も古い建物では1707年、徳川綱吉の時代のものもあります。

かつての店舗も様々で、紹介した以外に飴屋、繭問屋、船頭屋、瀬戸物屋、呉服屋、家具屋、反物屋、お茶道具屋があります。

 

次回は、反対方向から通りを紹介します。

 

 

* なぜここに立派な商家通りが出来たのか?

 

「うだつ」は本来、ここだけのもではなく歴史も古いはずだが、またなぜここに大量に残り、有名なのか?

 

幾つかの面白い経緯が重なったようです。

 

 

 

 

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< 13. 脇町の位置、上が北 >

上: 赤矢印の脇町は東西に池田から鳴門までの撫養街道が吉野川に沿って通っていた。

また渓流に沿って山を越えると瀬戸内海に出る曽江谷越えもあった。

四国の各地域から陸路で関西に向かうには、吉野川沿いの街道が便利であったろう。

 

更に、吉野川も流通の要で、上は池田から辻、半田、貞光、脇町、岩津、川島、第十に川湊があった。

下流からの荷は、米や麦などの穀物をはじめ、肥料、味噌、醤油、塩、海産物、手工芸品、雑貨、生活用品・・・・・。

上流からは藍玉 、薪、木炭、たばこ、木材、繭、和紙などの特産物を乗せて舟が下ってきました。

輸送に使われた舟は、帆を張った、浅瀬でも航行出来るように喫水を浅くした平田舟でした。

 

これで脇町が二つの街道と川湊が交差する絶好の地であることが分かった。

 

 

下: 阿波九城

実はもう一つ重要な事がありました。

それは脇城の存在でした。

 

今は、城址しかない山城ですが、天下布武を成し遂げるまで行きかけた三好長慶が1533年にここに城を造ったのが始まりでした。

戦国時代末期、この阿波の地は三好家の本拠地で、土佐の長曾我部と激しく争っており、築城が進んでいた。

この状況は前の連載「徳島の海岸と漁村を巡って」の海部城(鞆城)も同様でした。

 

やがて秀吉が西国を平定した安土桃山時代末期になると、蜂須賀家が阿波を拝領することになり、廃城が再建され阿波九城が設けられた。

この一つが脇城だった。

 

この時、秀吉から拝命を受けた蜂須賀小六は子に阿波を任せ、まだ治まっていない領地であればこそ、要の脇城に家臣団筆頭の稲田植元を城代に置いた。

 

この稲田植元が、城下町の復興を命じた。

また、この町へ来て商業を営む者には、生国を問わず税や諸役も免除した。

こうしてこの町は一大発展を遂げた。

 

 

 

14

< 14.NHK大河ドラマ >

 

脇町に関わる人物のイメージを掴みやすいようにドラマの登場人物を紹介します。

 

上: 「麒麟が来る」の人物相関図

これは京都での覇権争いの様子を示す。

下剋上にあって、足利将軍家を蔑ろにする細川管領家、さらにそれを凌ぐ三好長慶がドラマで悪役に描かれている。

事実は、新しいことに取り組み急速に独自で軍事力を備えた三好長慶でした。

早死にするので、天下布武は叶わなかったが。

 

下: 蜂須賀小六と秀吉のシーン

蜂須賀小六は阿波を拝領する前は、西国四国攻めの過程で龍野城を拝領した。

この時、稲田植元にエピソードがある。

秀吉が戦の功により、小六に龍野、植元に別の領地を与えようとしたが、植元はこれを断った。

植元は以前、小六と義兄弟の契りを結んでいたので、小六の下で仕えたいと望んだ。

これが受け入れられ、後に家老職としての地位を得、脇城拝領に繋がった。

 

 

 

 

15

< 15. さらに不思議な縁 >

 

上: 龍野城

以前、龍野城の櫻を紹介しましたが、安土桃山時代に蜂須賀小六が城主だとは知らなかった。

当時は、平城では無く山城だったのだろう。

 

中央: 淡路島の洲本城

江戸時代、植元の稲田家が淡路島を領有し、洲本に城を造った。

しかし、明治になると稲田騒動が起きて、運命の歯車は逆転する。

 

下: 映画「北の零年」

これは稲田騒動後、士族としての配置という名目で、稲田家が北海道静内と色丹島に移住開拓を命じられ、荒野の広がる北の大地で悪戦苦闘する姿が描かれている。

 

この稲田騒動は、一言で言うと版籍奉還で稲田家の扱いが徳島藩より劣っていたことが始まりでした。

徳島藩は佐幕派であったが、稲田家は尊王派で明治維新では討幕運動で貢献していたが、版籍奉還で徳島藩と同じ士族扱いでなく低かった。

こうして両家で争いが生じ、政府はこれを収めるために、稲田家を士族扱いで荒地の北海道に送った。

 

私は今年になってから近場の旅行をするようになったが、色々な場所が、歴史的繋がっていることを知り驚いている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 47: 雲南民俗村を楽しむ 1


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*1

 

これから数回に分けて、雲南民俗村を紹介します。

ここには雲南に暮らす25の少数民族の家屋、暮らし、衣装、祭事などが再現されています。

民族学や異文化に興味がある人には垂涎ものでしょう。

 

 

2

< 2. 先ずは門をくぐって >

 

売店が並ぶ通りを抜けて、チケット売り場に向かいます。

 

 

3

< 3.チケット売り場 >

 

上: チケット売り場

写真は各民族衣装を着た女性達がお出迎えしてくれた。

 

下: チケット確認の入場門

 

入場料は大人90元ですが、70歳以上だったので45元でした。

中国は、他国に比べ高齢者の割引が大きく、優遇している。

 

 

* 雲南民俗村について *

 

少数民族の博物館としては中国最大規模です。

この直ぐ隣に一般的な雲南民族博物館がありますが、妻も楽しめるだろと思い、この雲南民俗村を選びました。

 

特に良かった点

A 敷地内ではこの日、9:30から16:10の間に、23もの各民族の20分間の演舞が行われていました。

すべて無料で、他に有料のショーもいくつかあります。

入場時に演舞時間表をくれます。

 

B 敷地内には民族衣装を来た多くのスタッフがおり、案内や暮らしの再現を行っている。但し中国語。

 

C 建物や衣装、民具、祭事場と家屋周辺の自然環境の再現が丁寧に行われているように思える。

 

 

残念な点

D 案内や説明に日本語表記がほとんどなく、見るだけで終わった。

 

E 敷地が広大すぎて、見学と昼食に3時間半かけても半数ほどの村を素通りしただけでした。

また演舞も初めから終わりまで見たのは20分間の1本だけでした。

演舞の場所を探し、最前列に座って待つだけでも時間が掛かる。

もっとも時季外れなのか、観客は多く無かった。

演舞の時間が、重なっている場合もある。

 

全体としては、私にとって素晴らしいテーマパークでした。

 

 

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< 4. 中国の少数民族 >

 

中国には56の少数民族が暮らし、その合計人口は8%を占める。

漢民族が大陸の中心部を占め、多くの少数民族は外縁部に暮らす。

最大なのはチワン族1700万人だが、紛争があるウイグル族は990万人、チベット族は540万人で、これに匹敵する規模の少数民族は他にも幾つかある。

 

今回、旅行して気付いたのは回族、1060万人を各地、特に開封、蘭州、麗江で見たことでした。

彼らはイスラム教徒なので、てっきりシルクロード沿いの西側、西安以西にだけ集中していると思っていたのですが。

回族の料理は、各地で不可欠となっていた。

 

元々、私は世界の文化人類学や民族学に興味がありました。

それは文化や宗教、社会の発展、そして他との交流の過程を理解するヒントが得られるからでした。

 

今回の中国旅行で最も知りたい内の一つが少数民族でした。

主に二つの理由がありました。

 

  •  中国政府が少数民族をどのように扱い、少数民族自身が意気揚々と暮らしているか?

 

中国政府は、ウイグル族やチベット族への強権的な対応で、世界から非難されている。

この政策が失敗すると、これらを含めた少数民族の不満が暴発し、中国の内乱要因になるかもしれない。

このことはやがて日本にも影響することになるだろう。

 

  •  中国南西部の山岳地帯、雲南地方の少数民族は文化的歴史的に見て興味深い。

 

紀元前一千年紀から漢民族が勢力を広げ、少数民族はその圧力に押されて辺境の地に散らばっていた、多くは南下し山岳地を転々とした。

福建省の客家、タイのタイ人、桂林のヤオ族、金沙遺址(成都)の蜀人は千年から二千年の時を経て移動した。

雲南省の各少数民族にも同様に歴史があるだろう。

雲南の地は西にチベットからインド、南に東南アジアへと交流し続けた歴史がある。

この地の少数民族の衣装や装飾品は素晴らしく、文字や神話も面白い。

 

 

これから速足で見学していきます。

 

 

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< 5. 今回紹介する少数民族、上が北 >

 

上: 雲南民俗村の全景

敷地は東西1.2km、南北800mある。

赤枠が今回紹介する三つの民族展示場。

 

下: 上記の赤枠を拡大

今回紹介する三つの民族展示場。

赤線が主な見学ルート。

右の改札ゲートから入って、左下で終わりです。

 

 

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< 6. 三つの少数民族 >

 

上: 黄色枠が三つの少数民族が暮らしている地域。

雲南省の西部、徳宏タイ族チンポー族自治州相当する。

盆地の標高は1000mまでだが、2000mほどの山脈に囲まれている。

彼らは亜熱帯の山間地で農業を営んでいた。

 

赤点は左から麗江、大理、昆明で、白線は新幹線のルートです。

 

 

下: 民族衣装

左は阿昌族(アチャン族)

中央は景颇族(チンポウ族)

右は德昂族(デアン族)

 

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< 7. 阿昌族 >

 

阿昌族について

人口は3万人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

言語はシナ・チベット語系チベット・ビルマ語派ビルマ語系に属する。

自民族の文字は無く、漢字などを使用。

かつては漢民族の地主による封建的な領主経済でした。

農業が主でしたが、手工業も発達していた。

辺境を守る駐屯兵から学んで作られるようになった阿昌刀が有名。

 

下: 民家

一階は土間で家事を行うところのようです。

 

 

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< 8. 阿昌刀 >

 

上: 阿昌刀のようです。

 

下: 織物の実演。

 

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< 9. 宗教的な部屋でしょうか >

 

宗教は主に小乗仏教のようです。

 

下: 台所でしょうか。

 

 

10

< 10. 景颇族 >

 

景颇族について

チベット・ビルマ語属で水田耕作、焼畑耕作を主とし、ミャンマー、雲南省、インドのアッサムに分布する。

総人口100万人と多いが、分散して暮らしているので言語も複数に別れ、生活水準や経済段階も様々。

雲南省には15万人が暮らす。

宗教は原始的でシャーマンが重用されていた。

 

上: 説明板

上から三行目に日本語表記があります。

 

中央: 広場に大きな柱が立っていた。

景颇族が毎年正月の15日から始める巨大な歌の祭典、目瑙纵歌节(ムゥナウゾング)があります。

この柱群はこの祭りの会場に立つ柱のようです。

数万人が打ち鳴らす長い太鼓に合わせて唄うようです。

 

下: 目瑙纵歌节の様子。

他のサイトから拝借。

 

 

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< 11. 景颇族の長老の家 >

 

上: 池の端の祭祀場か

 

下: 長老の家。

立派でしっかりした大きな木造建築です。

どうやら首長が村を治めたのかもしれない。

 

 

 

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< 12. 長老の家に入る >

 

上: 二階に上がる階段の壁にある不思議な飾り。

どうやら女性の乳房を模したものらしい。

私は卑猥に感じてしまったので、きっと何かの道具に違いないと、考えを巡らしたが、わからなかった。

 

後で調べると、これは階段の昇降に手摺りとして使われ、母親の偉大さに想いを馳せなさいということらしい。

 

中央と下: 家屋のすぐ横にある祭祀場

霊魂・精霊など崇めるアニミズムのようだ。

 

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< 13. 2階の様子 >

 

仕切られた部屋は一部屋だけ設けられていたが、他は巨大なロングハウス(共用空間)で、おそらく家長が一部屋を使って寝るが、他は仕切りなしで寝るのだろう。

囲炉裏が二階にある。

 

 

14

 

< 14. 德昂族 >

 

上: 行先案内

 

德昂族について

雲南省とミャンマーに分布し、中国側の人口は2万人です。

言語は南アジア語系モン・クメール語族に属する。

自民族の文字は無い。

解放前までは長らく傣族(タイ族=タイ人と同じ語族)やチンポー族(景颇族)の統治と搾取を受け、社会経済は未発達でした。

宗教はタイ族の影響を受けて小乗仏教。

 

 

 

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< 15. 德昂族の家屋 >

 

中央の写真に長い太鼓が見える。

これが景颇族の祭りで使われる楽器と同じなのだろう。

 

 

 

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< 16. 寺院らしい >

 

おそらく德昂族のお寺と祭祀場なのだろう。

 

下: どことなくタイの寺院、チャオプラヤ川沿いにある「暁の寺」の小型版に見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 2: 川辺の街と村


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< 1.うだつ >

 

今回は、この地方の街並みと山村を概観します。

街道や川湊沿いに発展したかつての街並み、

険しい渓谷や急峻な山で営み続ける山村、

そこにある生活と歴史を追います。

 

 

2

< 2. 訪問地の地図、上が北 >

 

詳しいは説明は前回の記事を参考にして下さい。

 

 

3

< 3. 脇町うだつの町並み >

 

地図のAにある街並み。

ここにはかつて吉野川の川湊があり、さらに二つの街道が交差していた。

また脇城の城下町として、藍染めの藍の集散地として発展した。

この街並みは軒から突き出した「うだつ」で有名です。

 

 

4

< 4. 貞光の旧家 >

 

地図のBの街中にある。

かっての庄屋の家屋を見学しました。

 

上: 塀越しの外観。

下: 台所と兼用の玄関。

 

 

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< 5. 貞町うだつの町並み >

 

地図のBにある街並み。

ここは二層うだつの町並みで知られています。

ここの街並みは、脇町や池田町の古い町並みと異なり、吉野川と直角に延びていました。

ここは川湊に恵まれなかったが、剣山に至る貞光川が吉野川に注いでいる。

この通りは貞光の町と剣山の山村の暮らしを繋いでいた。

 

 

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< 6. 渓谷沿いの家 >

 

地図のB~C、C~Dの景観。

険しい河谷に張り付くように建つ家々。

 

上: 貞光川

下: 祖谷川

 

 

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< 7. 急峻な斜面の山村 >

 

地図のC~Dの景観。

祖谷川沿いの斜面には山村がかなり高い所まで広がっている。

人々は、今も暮らしている。

ここの暮らしには、幾つもの不思議がある。

なぜこのような不便な所に済まなければならなかったのか?

かつて生計は何に頼っていたのか?

平家の落人伝説との関りは?

 

 

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< 8. 急峻な斜面にある家 >

 

平家の落人伝説を追って走っている間に、見かけた家々。

 

 

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< 9.阿波池田うだつの町並み >

 

地図のFにある街並み。

ここは吉野川沿いの旧街道に発展した街並みです。

かつてたばこ等の集散地として発展した。

 

 

 

前回の旅では、日本の漁業を担う漁村と漁港を見て来ました。

そこは私達にとってはかけがえのない食の源です。

しかし、高齢化、漁家高の減少が相まって今や風前の灯火でした。

さらに東海大地震の津波が襲うことも確実です。

 

一部の人々は町の再生に尽力しているが、私の見た所、衰退を免れないだろう。

「持続可能な社会」「自然と穏やかに暮らす」「リモートワーク」などが定着しない限り、社会と政治が変わらなければ、未来は暗いものになるだろう。

 

今回は、川と山に育まれた街並みと村を見て行きます。

そこには、また違った気付きがあることでしょう。

 

 

 

次回に続きます。

 

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中国の外縁を一周して 46: 昆明を訪ねて 2


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今回は、バスの車窓から見た昆明市内を紹介します。

公共のバスで昆明駅から雲南民俗村まで行きました。

まさに大都会でした。 

 

 

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< 2. 昆明の衛星写真、上が北 >

 

青線がバスのルートで、「起」から乗って「終」で下車です。

各バス停に停車しながら45分ほどかけて到着しました。

衛星写真の下にびわ湖の3倍もある滇池が見えます。

 

下: 上を拡大

ホテルを8時20分頃出て、昆明駅の北側まで歩き、バスに乗った。

そしてバスは中心部を抜けて、やがて郊外にある滇池沿いに造られた雲南民俗村の前で私は降車した。

 

 

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< 3. ホテル最上階の展望レストランから 1 >

 

朝食のレストランから昆明市内の360度眺望が楽しめた。

 

上: 西側

下: 北側

 

 

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< 4. ホテル最上階の展望レストランから 2 >

 

上: 東側

下: 南側

写真中央、大通りの突当りに昆明駅の左半分が見える。

 

 

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< 5. 朝食レストラン >

 

上: 朝食のレストラン

 

下: 大通りに出たら、朝食の屋台があった。

 

 

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< 6. ホテルの前 >

 

上: 北側

下: 南側、昆明駅が見える

 

 

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< 7. 昆明駅に近づいた >

 

前日、この駅で新幹線を降りた。

 

上: 北側

大通りの左手にホテルが見える。

 

下: 昆明駅

 

 

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< 8. 昆明駅の前 >

 

上: 多くの人が立っている大通り沿いに、いくつかのバス停が並んでいる。

ここは昆明駅から道路一つ離れている。

 

 

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< 9. バスは出発した >

 

バスは2階建てで、私は2階の最前列に陣取り、思う存分に町の眺めを楽しんだ。

朝の通勤ラッシュで、ここではまだ車に混じってバイクも多かった。

 

 

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郊外に来たようです。

バスに乗ってから35分ぐらい経った。

 

 

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下: 高級住宅街のようですが道路脇に、多くのレンタル自転車が見えます。

 

 

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< 14. 雲南民俗村の前に到着 >

 

下: 乗って来たバスです。

 

 

次回に続きます。

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 1: はじめに


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これから、徳島県の山河を巡る二泊三日の旅を紹介します。

旅したのは2020年6月7日~9日で、概ね快晴でした。

今回は、山と川が生み出した景色、街並み、歴史を探ります。

大きく三つあり、吉野川中流域のかつての街並み、剣山登山、平家落人伝説の祖谷渓です。

 

 

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< 2. 訪問地、上が北 >

 

上: 四国全体と旅行地

赤枠が今回の訪問地で、オレンジ枠が前回紹介した海部郡です。

 

下: 今回の訪問地

青線が今回紹介する主なドライブコースです。

Aから始め、途中二泊し、Fで終わります。

 

A: 脇町うだつの町並み

B: 貞光二層うだつの町並み

F: 阿波池田うだつの町並み

この三つは、かつて豪商が軒を連ねた町並みです。

川と山を繋ぐ街道が、かつて繁栄をもたらしました。

 

C: 西日本で二番目に高い剣山

登山道と山頂を紹介します。

登山道近くに一泊目のホテルをとった。

 

D: 祖谷のかずら橋

ここに二泊目の宿をとった。

 

CからDの間には様々な観光スポットがあります。

奥祖谷二重かずら橋、落合集落、東祖谷歴史民俗資料館が主です。

しかし平家落人や安徳天皇の伝説に纏わる屋敷、神社、杉の大木が山深い急斜面にひっそりと佇んでいます。

 

E: 平家屋敷民俗資料館

 

EからFの間は、大歩危小歩危の渓流で有名です。

 

 

 

 

 

 

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< 3. 脇町うだつの町並み >

 

上: 脇町うだつの町並み

下: 吉野川

 

 

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< 4. 貞光の旧庄屋家 >

 

上: 貞光の旧庄屋家

下: 貞光川の上流

 

 

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< 5. 剣山の山頂近く >

 

上: 宿泊地から見た夕焼け

下: 剣山の登山リフトからの眺め

 

 

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< 6. 剣山山頂からの眺め >

 

上: 剣山山頂からの眺め

下: 登山リフト下駅近くから、祖谷渓谷を見下ろす

 

 

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< 7. 奥祖谷二重かずら橋 >

 

上: 奥祖谷二重かずら橋の一つ

下: 落合集落

 

 

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< 8. 祖谷渓  >

 

中流の橋の上から上流を望む。

 

 

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< 9. 祖谷のかずら橋 >

 

上: 祖谷のかずら橋

下: 祖谷のかずら橋の川原に降りて、上流を望む

 

 

 

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< 10. 喜多家の武家屋敷 >

 

上:  喜多家の武家屋敷

下: 落人伝説が眠る地に向かう急斜な細い道

 

 

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< 11. 栗枝渡八幡神社 >

 

ここにもいつかの安徳天皇伝説がある。

 

 

 

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< 12. 東祖谷歴史民俗資料館 >

 

上: 落合集落を横から眺める

下: 東祖谷歴史民俗資料館

 

 

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< 13. 平家屋敷民俗資料館 >

 

上: 外観

下: 内部

 

 

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< 14. 阿波池田たばこ資料館 >

 

上: 道の駅大歩危からの眺め

下: 阿波池田たばこ資料館

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 45: 昆明を訪ねて 1


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最後の訪問地、昆明を2泊3日で巡ります。

訪れたのは2019年10月27日(日)~29日(火)でした。

今回は、昆明中心部の翠湖公園と飲食街・ショッピング街(昆明老街。南屏街)を紹介します。

 

 

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< 2. 昆明の訪問地、上が北 >

 

上: 私が訪れた所

赤枠A:翠湖公園と昆明老街・南屏街、赤四角B:雲南省博物館、赤枠C:雲南省民俗村と滇池海埂公园、赤枠D:西山風景区の龍門石窟、

S:列車の昆明駅、H:ホテル、黒矢印:昆明空港(ここから直行便で帰国)

昆明へは新幹線(黒線)で来ました。

空港へはホテルの前からのリムジンバス(茶色線)で直行出来ました。

 

昆明内の移動は全て公共機関のバスと地下鉄を利用しました。

昆明の観光では、一切通訳ガイドを付けず、自ら全てを行うようにしました。

北京もそうでしたが、北京は2回目であったし、開封は狭い範囲の移動でしたので、ほぼ問題無く観光出来ました。

昆明で、帰国日、一度バスを乗り間違いしたが、無事リカバリー出来ました。

 

 

下:上記の赤枠Aの部分を拡大

赤枠E:翠湖公園、赤枠F:昆明老街、赤枠G:南屏街

黒矢印:昆明駅、H:ホテル、昆明锦江大酒店

 

 

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< 3. 翠湖公園に向かう >

 

27日(日曜日)、16時過ぎにホテル近くからバスに乗り、公園の近くの通りで降車した。

高層ビルの住宅街を抜けると、公園の門が見えて来た。

 

 

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< 4. 翠湖公園に入る >

 

公園の門の周辺には多くの市民がおり、さらに公園から多くの人が出て来た。

ここに来ると急に民族衣装が増えて来た。

 

私がここを訪問したいと思ったのは、この公園が市民の憩いの場であると知ったからです。

訪れてみると予想以上の光景を見て、得るものがありました。

 

上: 公園から一団が揃って出て来た。

何かが行われている予感がした。

 

下: 門を抜けて真直ぐ進む。

 

 

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< 5. 広い公園内は踊り手で一杯でした >

 

様々な少数民族の衣装を身に纏った人々が、集団で踊りに興じていた。

それを見入る多くの市民が彼らを取り囲んでいた。

 

衣装の識別が分からないのですが、概ね5から6組の少数民族の違いがあるようでした。

遊牧民族系のシンプルな衣装から、山岳民族の刺繍が凝らされた極彩色の衣装までありました。

 

 

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< 6. イ族のグループ >

 

頭の冠にぼんぼりを付けたのはイ族と思われます。

このグループは幾つにも分かれて大きな輪になって踊っていた。

 

私が感動を覚えたのは、老若男女が共に民族衣装に身を正し、公然と誇らしく踊っていることでした。

けっして見世物では無く、自らの出自を恥じることなく、和気あいあいと行っている。

 

私が中国に「民族差別が中国崩壊の導火線にならないか?」との疑念を抱いてやって来たが、ここには答えが明瞭に示されていた。

開封や蘭州の回族についても、見た限りでは問題を見つけることは出来なかった。

中国政府は少数民族の扱いをうまくやっていると感じた。

もっとも蘭州の西隣り、新疆ウイグル自治区のウイグル族やチベット族については分からなかったが。

 

 

イ族は中国全体で7番目に人口が多く、雲南省最大の少数民族で、雲南省の11%を占める。

もともと雲南省で、漢民族が占めるのは67%にしかすぎず、残りを27%を7つの少数民族で占めている。

 

彝族(イ族)は、かつて蔑称の「夷」が通称であった。

「夷」は漢民族の中原からみれば古来より蛮族の一つでした。

イ族は中国西部のチベット族、納西族、羌族の先祖古羌の子孫ともいわれる。

彼らは南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。

「羌」は成都で紹介した紀元前1千年紀の金沙遺址や三星堆遺跡の住民でした。

 

 

 

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< 7. 公園内の中央の通りに出た >

 

 

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< 8. 通りを進み橋に出た >

 

これで公園の中心を南から北にほぼ抜けた。

この公園には幾つもの池があり、幾つもの島を橋と道で結んでいる。

 

 

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< 9. 橋の上から >

 

周囲は高級住宅街でしょうか。

 

 

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< 10. 公園の北門を出て >

 

バスに乗るために雲南大学の前の通りに向かう。

 

上: 公衆トイレ

今回の旅行で始めて使った街中の公衆トイレ、駅や観光施設内のトイレは使っていたが。

事前に日本で、散策ルート上のトイレをチェックしていて、中国のトイレは急速に整備が進んでいることを知ってはいたが、良くなっている。

綺麗で、無料で、数も沢山あるようだ。

 

昔、奥地の桂林や客家土楼の観光で経験した酷いトイレは今回の旅行ではなかった。

 

 

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< 11. バスに乗って >

 

繁華街に向かう。

 

 

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<  12.昆明老街周辺 >

 

昆明老街の一つを北から南に向かって歩いた。

数本ある中で、ここが最も古い佇まいが残っているようでした。

ここで夕食をとることにした。

 

上: 通り

 

中央: この店に入る

 

下: 店の中のテーブル席

開放的で凝った店内でした。

 

 

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< 13. 店の中 >

 

上: 厨房の様子

 

中央と下: 頼んだ料理

中華料理と言っても、今回の旅行では私が日本でよく食べる中華料理にはほとんど出くわすことはなかった。

味も見栄えも様々で、けっこう楽しめた。

 

 

 

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< 14. 店を出ると >

 

店を出たのは19時前、辺りはもう暗くなっていた。

1kmほど歩いて南屏街まで行く。

 

下: 繫華街の中心、南屏街。

幾つかのショッピングセンターやデパートを覗く。

出たのは20時頃でした。

 

ここは歩行者天国になっており、近くのバス停でバスを待つ。

バスは頻繁に来るのですが、思う行先のバスがなかなか来ない。

さすが大都会です。

 

 

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< 15.バスに乗ってホテルへ >

 

やっとバスに乗り、ホテルに近いバス停を降りて、ホテルに向かう。

ホテルに到着したのは21時頃でした。

 

下: ホテル

便利で居心地が良く、高くないホテルでした。

 

 

公園の踊りのビデオで、約10秒間ほどです。

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 44: 新幹線で昆明へ 2


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今回は、新幹線の麗江-昆明間の後半の景色を紹介します。

なかなか見ることのできない中国奥地の景観が広がります。

 

 

 

 

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< 2. 新幹線のルート、上が北 >

 

今回は、鹤庆駅から昆明駅までの車窓風景です。

これは今回乗車のほとんど全区間ですが、鹤庆駅から上関駅までの後半はトンネルが多かった。

 

数年前、新幹線が出来る前は寝台車だけがこの区間を運行していたので、昼の景色を眺めることは出来なかった。

バスはあるらしいが。

 

今回の旅行の目玉の一つが、東南アジアやインドに接する雲南(麗江・昆明)の訪問でした。

ここには多くの少数民族が暮らし、また古今に亘りアジア文化が行き交った結節点でもありました。

また中国の中原から見れば辺鄙な山岳地帯であった為、中華文明や中華帝国の影響があまり及ばなかった。

もっとも1世紀、諸葛孔明は雲南を平定し、13世紀、モンゴルのクビライも大理と昆明を征服していたが、あまりも遠方の為か、いずれも現地の王に統治させた。

 

実は、昆明を2日かけて観光することになったのは香港のデモのお陰なのです。

当初予定では、昆明南から桂林、広州経由で香港まで一気に新幹線で走り抜けるつもりでした。

ビザ無しの観光が15日以内なので、香港1泊を加えて中国の外縁を周るには、昆明南に夕刻到着し、翌朝早くには新幹線に乗車しなければならなかった。

私は30年ほど前、観光で香港と広州を訪れていたので、様変わりした様子を見たいと思っていた。

 

結果的に、昆明をゆっくり堪能することが出来ました。

 

 

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写真は撮影順に並んでいます。

ここらはまだ標高2200mほどはあるでしょうか。

 

 

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非常に緑豊かで、畑作も盛んなようです。

蘭州に至る車窓でもトウモロコシ畑が多く見られた。

 

 

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< 6. 洱海が見えた >

 

多くのトンネルを抜けた後、やっと大理古城に面する大きな湖、洱海が見えた。

湖の大きさは南北約42km、平均幅は約7kmでしょうか。

大理は白亜の三つの細長い仏塔で有名です。

 

上: 山の斜面、南面に多くの墓石が見られた。

これまで新幹線で中国を1700km通過して来たが、大規模な墓地を見るのは初めてでした。

北京―鄭州―開封の大平原、開封―洛陽―西安―蘭州の黄河沿いの平原から渓谷では、車窓から見えたのは数基からなる墓石が数個所だけでした。

 

ここは中原に比べ、墓石の形が違い、集団の大規模な墓地がある。

明らかに文化の違いを感じる。

遠目では分からないが、最も日本の墓石に似ているような気がした。

形は扁平な羊羹を立てようなもので、半数は上部が半円状になっていた。

そして全てが同じ向きに並んでいた。

これは白族(ペー)の墓地かもしれない。

 

中央と下: 雲が対岸を覆い、よく見えない。

 

 

 

 

 

 

 

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< 7.洱海の終端 >

 

新幹線は洱海の東岸を走るのですが、大理古城は西岸にある。

東岸にも発展中の町がありました。

 

中央: おそらく島の見える方向の対岸に大理古城があるはずです。

 

下: この辺りが洱海の南端で、対岸の高層ビル群は大理の新市街、中心部でしょう。

 

ここからは線路が分岐し、私達の新幹線は昆明に向かいます。

 

 

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< 8. 大理 >

 

ここはまだ湖の南端、大理ですが、一帯は盛んに建設、開発が進行中です。

 

 

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< 9.風景が変わって来た >

 

古いタイプの民家は無くなり、住居が密集するようになって来た。

相変わらず渓谷を走り抜けるが、起伏のある丘にも住居がある。

距離的に半分ぐらい来たでしょうか。

 

下: 新たな墓石が見えた。

一つ一つの墓石が大きく、門型に見える。

ここの様式はまた異なる。

 

 

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< 10. 南华站 >

 

 

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< 11. 楚雄站 >

 

後、百数十kmで昆明に到着です。

 

 

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< 12. 昆明に到着 >

 

ここも蘭州と一緒で、最果ての町と思っていたのですが、大都会でした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 43: 新幹線で昆明へ 1


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これから数回に分けて、新幹線から見た麗江―昆明間の景色を紹介します。

思ったより緑豊かな渓谷と盆地が広がっていました。

 

 

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< 2. 鉄道ルート、上が北 >

 

上: 今回の15日間の中国旅行の経路です。

ピンクが日本との国際線、赤が国内フライト、黒が新幹線です。

新幹線は三回乗りました。

北京-開封は大平原の穀倉地帯、開封―蘭州は黄河沿いの険しい山間を抜けて来ました。

今回の麗江―昆明は高原地帯の山間を走ります。

 

下: 今回の鉄道ルート。

麗江を2019年10月27日、11:04発、乗車は2時間20分です。

途中、観光地の大理が湖の対岸に見えるかもしれません。

 

 

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< 3. 麗江駅 >

 

上: 新幹線の麗江駅の正面。

ホテルからここまではタクシーで来ました。

 

下: 麗江駅の広場。

中国の新幹線駅は広場がやたらに大きくて歩くのが辛い。

 

 

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< 4. 最初の関門 >

 

中国では、駅舎に入るには先ず切符とパスポートが必要です。

そして、ここでも上記のチェックと荷物検査が最初に行われます。

 

上: 荷物検査を無事通過した後、振返った。

 

下: 1階正面。

 

昆明行きは2階に行かなければならない。

 

 

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< 5. 二階へ上がる >

 

上: 二階へのエスカレータ。

 

下: 二階の待合室。

 

 

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< 6. 改札 >

 

上: 改札口。

 

下: 乗客が並び始めた。

 

 

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< 7. ホームに入る >

 

上: 改札を抜けて右を見た。

新幹線はホームの右側に停車していた。

 

下: 改札を抜けて左を見た。

実に、巨大なホームだ!

 

 

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< 8. いよいよ乗車 >

 

 

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< 9.車窓の風景 >

 

これから車窓の風景を撮影順に紹介します。

撮影は進行方向右側の景色になり、写真の左側が進行方向です。

 

始め鬱蒼とした木々で覆われた山並みが続きました。

しかし、出発から数分を過ぎると渓谷を走るようになりました。

 

 

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畑作地帯と点在する集落が続きます。

西安から蘭州間の黄土高原に比べると、こちらの方が水にも恵まれ土壌も肥えているようです。

 

 

 

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< 12. 養殖池か >

 

麗江の古城忠义市场で見た新鮮な魚類は、このような池で養殖されていたのかと一人納得した。

 

 

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< 13. 鹤庆站でしょうか >

 

発車後の21分後に通過した駅です。

約30kmほど来たでしょうか。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1


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今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。

小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。

 

 

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< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

 

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。

赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。

オレンジ線がドライブルートです。

黄枠が鞆浦です。

 

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。

オレンジ線が宍喰からのドライブルート。

黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。

赤枠が次回紹介する手倉湾。

黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。

赤四角は海部城跡。

 

 

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< 3.那佐湾と宍喰浦 >

 

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

 

下: 宍喰浦。

 

 

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< 4. 鞆浦漁協 1 >

 

ここに到着したの9時45分でした。

競りが行われており、様々な魚種が見られました。

訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

 

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 

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< 5. 鞆浦漁協 2 >

 

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

 

下: ブリでしょうか。

 

 

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< 6. 漁協の2階の展示物 >

 

トイレを借りに2階に上がりました。

漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

 

上: 鞆浦大式、定置網の一種。

元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。

徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

 

下: 定置網漁の写真のようです。

 

漁協の人に聞きました。

遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。

大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。

漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。

 

 

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< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

 

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。

川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

 

下: 漁協の西側を見る。

この山に海部城跡がある。

山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。

若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。

 

 

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< 8. 川の橋から >

 

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。

網袋の中は、さざえかウニのようでした。

重そうなのでさざえかな?

下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。

この奥の山が、海部城跡のある山です。

 

下: 川の上流を見ている。

川の右も海部城跡のある山です。

 

 

* 海部城と鞆浦について :

 

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。

ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。

後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。

これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。

海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

 

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。

古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。

15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。

阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。

また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。

如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。

また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。

 

 

 

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< 9. 街歩きを始める >

 

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

 

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑

大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。

左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

 

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

 

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

 

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

 

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。

おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。

一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?

 

 

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上: 港に面した広場の中央にあった建物。

民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

 

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺

上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。

 

 

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< 12. 古い民家が軒を並べる >

 

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 42: 麗江とお別れ


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今回で、麗江の紹介を終わります。

麗江の地下街、麗江の朝、新幹線駅までの街並みを紹介します。

ここには古い家並みと発展する街が混在しています。

撮影したのは2019年10月26日と27日です。

 

 

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< 2. 束河古鎮から民主路の地下街へ >

 

上: 束河古鎮から麗江への途中。

 

下: 夜の民主路。

この道を左に折れると麗江古陳の玉河広場になります。

 

 

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< 3. 地下街 >

 

地下街は思ったより長く、幾つか分岐して延びています。

夕食の為に来たのですが、ショッピングの店が多い。

店は多彩で、地上よりも地下の方が人出は多い。

 

 

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< 4. ホテルの朝 >

 

これで2日目の朝を迎えました。

この日は、新幹線で最後の訪問地昆明に向かいます。

 

 

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< 5. 朝8時頃の麗江古陳 >

 

清々しい朝で、人影は少なく、ふっと歴史舞台の一コマに紛れ込んだようです。

 

 

 

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< 6. 玉河広場へ >

 

下: 玉河広場。

丘の上にホテルが見える。

 

 

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< 7. 玉河広場に面した食堂街 >

ここには何回も来ては、食を手短に楽しんだ。

 

 

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< 8. 黑龙潭の方を望む >

 

上: この川の上流(奥)が黑龙潭で、奥に雲を被った玉龍雪山が微かに見える。

 

下: いよいよタクシ-に乗り、新幹線の駅に向かう。

以下の写真は、すべてタクシー内から写したものです。

麗江の都市の姿が垣間見えます。

 

 

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中心部は観光で成り立っているのが分かる。

 

 

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いったん家並みが少なくなった。

 

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< 11. 郊外に忽然と巨大な住宅街 >

 

ガイドの話によると、ここらには別荘群が続々と建っているそうです。

驚きです。

次回、新幹線からの眺めを紹介しますが、この地は中国の奥地で、昆明からでも新幹線で3時間半も隔てた所にあるのです。

ここらは新幹線の駅に近い。

 

 

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下: 小学校のようです。

 

直ぐ新幹線の駅です。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 32: コロナに見る日本政府の危機管理 2


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今回、はからずも行政サービスの稚拙さから腐敗と癒着の体質が露呈した。

さらに経済政策の根本的な欠陥も浮かび上がった。

 

 

 

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< 2.アジアでも遅れをとった日本 >

 

 

* 行政サービスと経済政策の問題 *

 

今回、致命的な体質が露呈した。

  1. 国民向けの経済施策は政府の念頭に無い。
  2. 国民向けサービス体制は手詰まり。

 

 

当初、政府は復興と銘打って牛肉券や旅行クーポンを高らかに謳った。

 

これは弱っている業界を助け、その出費の大半が余裕のある人々の懐から出ることになり、一挙両得だと好感する人もいただろう。

 

実は、これは経済理念と国民目線の無さを示している。

 

これでは本当に苦境に陥った店舗の救援が出来ず、また裕福な人の節約を助長するだけです。

例えば、政府が復興の為と称して、ダイヤモンドや世界一周クルーズの購入費を半額負担すると言っているに等しい。

結局、ふるさと納税と同じ人寄せパンダで、自民党に群がる業界団体を潤し、逆累進課税にもなる。

 

必要なのは他の先進国が実施ているようなコロナにより困窮している事業体や失業者への素早い直接給付です。

日本では、なんとか一律10万円給付が成った。

 

経済対策の遅れを見ていると、政府が国民の経済弱体化を甘く見ていることがわかる。

政府は、放置することにより国民と事業体が、失業・倒産・大学中退などで再起出来なくなることを意に介していない。

 

一方、日銀は金融不安払拭の為に株式の爆買いを加速させ、金融緩和に邁進している(米国でも)。

これは更なる金融危機の芽を大きくし、結果的により巨大なバブル崩壊が襲い、大規模な倒産と失業、そして格差拡大が圧し掛かるだけです。

ここ60年繰り返してきた。

 

 

なぜこんなことになったのか?

 

一にも二にも、政府の経済政策が、産業界をリードする大企業と金融界を優遇することだからです。

国民の事は二の次三の次に過ぎに成り下がった(この問題はいずれ説明します)。

 

 

もう一つの問題は、持続化給付金支給などに見られるサービス体制の欠陥です。

 

今回、パソナや電通がほとんどのサービス業務で幾度も中抜きをしていることが露見した。

両社は以前から政府と癒着し、巨大な利権と実権を握り、非正規問題とマスコミ支配と言う日本の二大悪を担って来た。

両社を経由した業務がお粗末になるのは必然です。

これは国民へのサービス体制の不備と言うより、根絶しなけらばならない自民党・官僚の腐敗・癒着の構造です。

 

しかし問題の根はさらに深い。

 

それは1980年代から自民党と官僚が共同で推進して来た、偽りの構造改革・緊縮政策の一つの結果です。

ポイントは、公務員を減らし民間委託に奔走したことです。

 

既に日本の雇用者に占める公務員比率はOECD諸国の最低になり、平均の1/3に過ぎない。

だが減って当然の巨額の特別会計は減らず、行政の改善も見られない。

つまり、無数の外郭団体と民間(政商のパソナや電通など)と言う隠れ蓑に予算は食い尽くされ続けている。

 

さらに悪い事に、このサービスは以前の体制より遥かに非効率になっている。

そこでは、一部の天下りが高給を貪るが、多くの従事者は非正規に代えられ、薄給と不安定な身分に落とされ、意欲とスキルは低下し続けている。

あらゆる省の外郭団体、第三セクターが劣化の危機に晒されている。

民間ともなれば、従業員はさらに規制の無い過当競争に晒され、全てが劣悪になる。

 

これが現在、日本を覆い尽くす政府による国民サービスの実態です。

 

この問題の本質は、見かけの改革だけで政府・官僚・政商の腐敗と癒着が強固になり、さらにその不透明さと隠蔽により、全貌が掴めなくなったことです。

 

特に日本は米国流の自由放任経済に加えて、自民党長期政権を放置したことが災いしている。

このような状況で、様々な地球規模の危機に対応出来るはずがない。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 30: 深まるパンデミックと健康の危機


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現在、新型コロナウイルスでパンデミックの恐ろしさを実感させられている。

今回は伝染病と健康の危機を見ます。

 

 

人類は病に翻弄された来た。

原始社会では、病への恐れが様々な因習(穢れなど)を生み、信仰を強化した。

中世ヨーロッパでは、人口の3割が死亡したペスト蔓延が宗教改革の引き金になった。

 

 

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< 2. インフルエンザの猛威 >

 

 

ここ数十年、医療技術が発展しているにも関わらず、伝染病は世界を益々脅かしている。

日本と米国では、ここ三十年ほどインフルエンザによる死者は増加傾向にある。

SARS、MERS、インフルエンザ、エボラ出血熱などウイルスによる伝染病が記憶に新しい。

 

 

2006年、経済学者が1918年のスペイン風邪が現在流行すれば死者は世界で1億4200万人に達し、GDPは13%減じると予測した。

これは死亡率3%での計算で、当時日本の死者は45万人だった。

しかし死亡率50%越える伝染病もあるし、通年発生するものもある。

 

他にもある。

エイズ、マラリア、結核、下痢などで毎年1300万人が死んでいる。

40年前に発見されたエイズの感染者は6000万人を越え40%が死亡している。

 

今後、地球温暖化が進行し、主に低開発国で栄養失調、下痢、マラリアによる死者と寿命低下は益々増大する(死者の増加は毎年数百万人)。

 

世界は医療と生活の向上により病を克服しつつあるが、まだまだ大量の疾病者と死者を生んでいる。

爆発的なパンデミックは、さらに問題を引き起こすことになる。

 

 

* 何が問題か *

 

近年、パンデミックが増大している理由は、人の高速広範囲の移動、自然破壊、貧困が大きい。

多くの伝染病はアフリカやアジアの貧しく、衛生と医療水準が低い地域から始まり、移動によって瞬時に拡散するようになった。

 

今回のように伝染病が世界に蔓延すると、グローバル化した経済は甚大な被害を受ける。

先ず、感染地で一部の生産と業務が停止し、さらに輸送と移動が制限され、これが連鎖的に広がり、数週間の内に国内のあらゆる物の供給が絶たれ、遂には世界も困窮状態に陥ることになる。

これは海外生産に頼る様々な装置の部品や医療資材(不織布マスク)の入荷停止、また国内の運送業者の休止を想定すれば容易に理解出来る。

この物流停止と移動できない異常事態は感染率が数%から十数%でも起きる。

 

今回、比較的死者が少なかった日本でもまだ影響は続き、GDPの減少は10%前後になるだろう。

これはリーマンショック(2008年金融危機)のGDP-5%を越える。

さらにセイフティネットが弱くなっている日本では企業の倒産、失業者が大きな後遺症になる(自殺者増加なども)。

 

また感染による恐れや恨みから、差別や敵対行動が増加し、社会や国際関係が不安定になっている。

 

 

次回、日本政府のコロナ対応から見える危機対応の危うさを考えます。

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 7: 宍喰の漁港を訪ねる


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今回は、宍喰の漁港を朝に訪れました。

朝焼けの海と島影を堪能し、港町を見ました。

 

 

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< 2. ホテルの窓から朝陽を見る >

 

下: 山の手前に宍喰川の河口があり、そこが漁港になっている。

左手の島影が前回と今回も介する所です。

 

 

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< 3. 漁港  >

 

上: 橋の上からホテルの方を見ている。

 

下: 橋の上から海側を望む。

 

 

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< 4. 競りを行っている漁協 >

 

上: 橋の上から上流側を望む。

河口がそのまま漁港になっている。

 

下: 漁協を拡大。

町の中に津波に避難タワーが見える。

朝8時を過ぎた頃ですが、競りを行っているので見に行きます。

 

 

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< 5. 競り中 >

 

車を駐車場に停め、漁協に入っていった。

緊張しながら、「見せてもらっても良いですか?」と聞くと、一人の男性が笑顔を向けて「どうぞ」と言ってくれた。

幾人かに話しかけたが、忙しいにも拘わらず言葉短に答えてくれた。

 

私には豊漁に思えたのですが、ここでも少ないとの答えが返って来た。

確かに小魚が多いようです。

 

 

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< 6. 獲れたもの >

 

上: ウツボ。

以前、高知でウツボ料理を食べたことがありますが、生きているのを直に見るのは始めてでした。

 

下: 「ままかり」のような小魚を処理していた。

 

 

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< 7. 宍喰浦の化石漣痕 >

 

また海岸の方に向かいます。

 

化石漣痕は道路脇にあるので簡単に見れます。

断崖表面の無数の波型が特徴です。

約3000万年~4000万年前、川瀬に立つさざ波が打ち寄せて土をはこび、この波形の地層が出来た。

右手から断面を見ると幾層もの層状になっている。

 

 

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< 8. ペンションがあるビーチ >

 

化石漣痕を過ぎて直ぐにあります。

 

 

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< 9. 早朝の湾 >

 

ペンションの湾から道に戻り、200mも行くと視界が開けます。

少し昇った朝陽を受けて海も島も生気を帯び始めた。

 

 

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< 10. 宍喰の町 >

 

上: 阿佐東線の宍喰駅。

宍喰町の山側にある。

この線は南端が一駅先の高知県の甲浦駅で、後に紹介する鞆の浦のある海部駅が北端です。

この海部駅からはJR牟岐線で徳島まで行ける。

 

下: 宍喰川。

 

この町の中心部は海岸側の道路から山側に500mの奥行、道路に沿って1kmほどの大きさです。

ここは徳島県の最南端で、すぐ南は高知県になります。

ほとんどが山と森林に覆われている。

 

町の中を車でゆっくり通り抜けたが、漁師町の風情や街並み、建物はほとんどなかった。

古い家も見なかった。

漁師と言えども普通の家に暮らしているようです。

 

 

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< 11. ホテル リビエラ宍喰 >

 

上: ホテルの横にある道の駅。

 

下: ここに泊まりました。

温泉で眺めの良い大浴場に満足し、夕食の「伊勢海老たっぷり会席」は美味しく食べきれないほどありました。

 

 

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< 12. 宍喰を離れ、鞆浦に向かいます >

 

上: 北向きに走る。

 

下: 海岸沿いに2.5kmほど行って、振り返った。

水床湾の島影が見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆


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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。

 

 

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< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

 

上: 麗江全体図

赤矢印: 束河古鎮。

ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。

ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。

束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

 

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。

赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

 

下: 束河古鎮の主要観光地

この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

 

A: 茶马古道博物馆

B: 四方街

C: 青龙桥

D: 九鼎龙潭

 

 

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< 3. 駐車場から古陳へ >

 

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。

古さを残しているとも言える。

 

 

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< 4. 茶馬古道博物館に入る >

 

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。

それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

 

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。

この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。

小型の馬も使用したのだろうが。

このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?

やっと理解出来た。

 

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< 5. 茶馬街道の様子 >

 

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

 

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。

上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。

 

 

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< 6. 茶馬街道と人々 >

 

下: 博物館にあった街道の地図。

北部と南部に二種類の黄色線が見える。

北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。

南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

 

黒線も主に二種類ある。

一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。

もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。

 

 

* 茶馬古道 *

 

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。

主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(618~1279年)に盛んとなり、明清時代(1368~1911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

 

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。

麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

 

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?

チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。

また馬は中国の軍隊にとって必要でした。

しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

 

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。

清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。

 

 

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< 7. 四方街 >

 

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。

こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。

 

 

 

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< 8. 青龙桥 >

 

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。

 

 

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< 9.九鼎龙潭へ向かう >

 

 

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< 11. 九鼎龙潭 >

 

実に水が透き通っている。

まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

 

次回に続きます。

 

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世界が崩壊しない前に 29: 貧困と格差 4


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貧困や格差は経済を本当に悪化させるのだろうか?

 

 

**格差が拡大すると経済発展を阻害する**

 

(今の自由放任主義経済や金融偏重経済の問題は別に見ます)

 

多くの人は、日米の経済は株価が上昇し、好調だと首を傾げるかもしれない。

実態は、90%の国民の所得がほぼ伸びておらず、一部の人が恩恵を受けているに過ぎない(日本だけではないが)。

 

一番悲惨なのは日本です。

 

日銀が市中銀行に幾ら金をばら撒いても、まったくインフレが起きなかった。

(逆に、これをもってMMT(現代貨幣理論)は、日本政府は国債発行や税収に頼らずに、国民の為の財政支出が可能だと提言している。重要な指摘ですので別に解説します。)

実体経済は浮上せず、金融経済だけを潤したリフレ論者は迷惑なだけだった!

 

経済再生に失敗した理由は、単純だが重大な致命傷による。

国内需要を担う国民の90%の人々の所得が低下し続けているので、銀行に金をばら撒いても消費が伸びるはずがない。

つまりインフレ(2~3%)は起きない(アベノミクス前から自明だった)。

 

一方金持ちや大企業は消費や物づくり(実体経済)より利益率の高いに金融投資に大金を注ぎ込む。

現在、庶民の預金金利は0.1%(日本)だが、金持ちや企業の資金運用(米国のファンド)は8%ほどの利益を上げ続けている。

 

こうして格差拡大で消費は増えず実体経済も伸びず、それがまた格差拡大を広げているのが現在の経済システムなのです。

 

 

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< 2. 表の顔 >

 

なぜこんな愚策がまかり通るのか。

政府は経済刺激と称して金融投資で利益が得られるように規制緩和と金融緩和を行う。

これは現在の経済システムがバブル崩壊を繰り返し、さらに巨大化しているからです。

政府はこの金融危機をリカバリーするために行わざるを得ないのです。

まるで蟻地獄、底無し沼のようです。

 

 

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< 3. 裏の顔: 2012年と2016年の比較 >

 

努力は必要ですが、この表と裏の顔の違いを理解することは重要です。

 

あるジャ―ナリストは指摘する。

20世紀最大の二つの危機―1929年の大恐慌と2008年のリーママンショックに先行して格差が激しくなっていた。

今も?

 

ある経済学者は言う。

少数のエリート階級に資本が集中すると、デフレを誘発し、投機的バブルを招き、経済回復力の弱体化を招き、金融崩壊のリスクを高める。

衝撃が繰り返されると、信頼が損なわれ、経済成長が減速し、これがさらに格差拡大に結びつくと。

 

ある社会学者は、金持ちが地球を破壊すると言う。

経済格差が拡大すると、「虚栄的消費活動」が活発化し、資源の浪費を高め、これがまた資源の枯渇を早める。

この「虚栄的・・」とは、超金持ちの消費スタイルに近づこうと各階層の人々が真似る競争状態を指します。

 

 

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ここで基本に立ち返ります。

 

「自由競争こそが最高、格差など気にしない」

この考えがなぜ国民に浸透したのか?

 

実は、格差が縮小し最も経済が成長した時代は2回の大戦後と1930年代の大恐慌後でした。

この時期は、国家が強力に富裕層や金融家を抑えて、労働者の賃金向上などを図った(ニューディール政策など)。

 

この事実が現在のエリートや富裕層にとって都合が悪い為、大金を費やしシンクタンクや学者、マスコミを動員して否定しているのです。

真実は明白なのですが、多勢に無勢と言うところでしょうか。

 

これ一つとっても、格差が拡大してしまうと、ナチス支配と同様に反転の困難さがわかります。

 

 

次回に続きます。

 

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世界が崩壊しない前に 28: 貧困と格差 3


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前回、貧困と格差は国によって作られていることを見ました。

貧困と格差は人権の問題に留まらず、危機をもたらすとしたら?

 

 

多くの人は、国が貧困と格差を是正し過ぎると、労働意欲を減じ競争心が無くなり、経済に悪影響すると信じさせられている。

だから悪化していても気にも留めない。

 

しかし事はそんな単純ではないし危険でさえある。

また格差が少ない国でも経済が豊かで成長している国があるので、明らかに誤解(洗脳)です。

 

 

**放置すれば騒乱や世界を後退させる引き金になる**

 

概ね二つのポイント、社会的なものと経済的なものがあります。

 

貧困な国ほど教育と医療、経済の水準が低くなり、人口増・伝染病・紛争を引き起こし易く、悪循環を招く。

外部からの衝撃、特に伝染病、大国の貿易や通貨の圧力に弱いために容易に悪化する。

こうして武力衝突、難民や伝染病などを周辺に、そして世界に広めることになる。

今回のコロナ危機で判明したように、先進国であっても格差が大きい米国や英国では弱者が感染爆発の被害者になった。

 

 

歴史を振り返れば、貧困と格差拡大は社会騒乱の引き金になっている。

それは大国や一度興隆した国ほど暴力的になるようだ。

ローマ帝国や中国の名だたる王朝が崩壊する時、格差が拡大し暴動が起きていた。

 

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< 2.英国が帝国主義を終えた時期 >

 

グラフの赤線は英国がアフリカの支配を終えた時期を示す。

経済が後退し帝国主義に走った19世紀後半の大英帝国では、この2百年間で最も格差が大きかった。

また他国よりも酷かった。

 

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< 3. ドイツと日本のファシズム期 >

 

グラフの赤線はヒトラー総統の時代、緑の矢印は日本の大陸進出の時代を示す。

共に格差が酷い。

20世紀前半のドイツと日本は、一時の栄光の後に訪れた大恐慌が大失業をもたらし、貧困と格差による社会不安がファシズムへと突き動かした。

 

 

これは普遍的な社会現象と言え、様々な識者が警告を発している。

 

ある疫学者は、先進工業国23カ国を比較すると、健康指数が悪化するのは、GDPが下がった時ではなく、格差が拡大した時であることを発見した。

また同時に犯罪率、幼児死亡率、精神疾患、アルコール消費量などにも重大な影響を及ぼしている。

 

ある経済学者は、格差は改革の意欲をそぎ、人々の信頼を失わせ、フラストレーションを高め、政治や行政に対する信頼を失わせると指摘する。

また棄権が増え、選挙の票は金で買われ、富裕層が公的機関への支配を強めている。

 

まさに日米、先進国で起こっていることです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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