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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 5: 吉野川から貞光へ 


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これから剣山に向かってドライブします。

途中、吉野川の潜水橋と二層うだつの町並みで知られる貞光を訪れます。

今回は、脇町潜水橋と貞光にある旧庄屋屋敷を紹介します。

 

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< 2. 訪問地マップ、上が北 >

 

上: 全体図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

地図中央下部の赤字: 剣山

 

下: 拡大図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

赤い矢印: 剣山に向かう道路

 

 

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< 3.脇町潜水橋 >

 

上: 南側から潜水橋を望む

私が立っているのは大きな中洲の舞中島です。

この橋の幅は車1台分しかありません。

昭和の初めまで、ここは渡しで行き来したそうです。

 

下: 対岸の右手がうだつの町並みがある脇町

 

 

 

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< 4. 下流側を望む >

 

川幅は広く、底は浅い。

30年ほど前、子供を連れて、この上流の貞光辺りから下流の穴吹辺りまでの吉野川で泳ぎました。

当時、水は透き通り、美しい自然の中で遊ぶことが出来ました。

 

 

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< 5. 上流側 >

 

 

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< 6. 貞光に到着 >

 

私は昼食を、直ぐ近くの「道の駅 貞光ゆうゆう館」でとりました。

コロナ騒動の時でしたが、レストランは開いていました。

眺めも良く、居心地の良いレストランでした。

 

街並みを見るのに駐車場が見当たらなかったので、つるぎ町役場に停めました。

 

上: 松尾神社が見える。

役場の駐車場から出て、松尾神社の前で交差点を左に折れると、二層うだつの町並みが見えるはずです。

 

下: 古い商店街は続くが、うだつは見えない。

 

 

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< 7. やがてうだつが見えて来た >

 

確かに、こちらはうだつが二層になっている。

しかし脇町に比べると、何か雰囲気が違うと言うか、伝統家屋の町並みと言うより寂れた街並みにしか見えない。

 

何が違うのか?

多くの古い家屋がここ半世紀の間に現代の商店に改修されているようだが、既に古くなっている。

この通りは統一された伝統的家屋の保存が出来ていないのか?

 

さらに見て行くとある違いに気が付いた。

通りが広く、通りの向きが吉野川に直行している。

つまり貞光川に並行し、山に向かっている通りと言える。

また家屋の二階の高さが高く、二階は住居として供され普通の窓が見られる。

一方、脇町では二階の天井が低く、漆喰壁に虫籠窓があるのがほとんどでした。

 

この違いは、この通りの出来た由来と時期が、脇町と異なる事が大きい。

 

一宇から剣山に通じる一宇街道(旧街道)がここ貞光から始まった。

ここは山の産物と平野の産物の交易で発展し、その街道沿いに商家が並んだ。

一方脇町は、城下町と撫養街道が交わった近くの川湊に沿って商家が並んだ。

貞光と脇町は、ほぼ同時期(江戸時代、蜂須賀家)から発展したが、貞光の町並みづくりが少し遅れたことにより、貞光の商家は防火目的よりは豪華さを競って二層のうだつにしたようです。

 

 

 

 

 

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< 8. 通りを右に折れて入る >

 

下:  旧永井家庄屋屋敷が見えた。

江戸中期に建築された庄屋屋敷です。

左手に無料の駐車場(7台ぐらい)があった。

 

 

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< 9. 門の前に来た >

 

上: 駐車場から写真を撮っている。

 

 

 

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< 10. 門を入る >

 

上: 入ると、右手に立派な庭園がある。

 

下: 少し進むと正面に玄関らしいものが見えたが、入口は左らしい。

平屋の屋根は茅葺だ。

 

 

 

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< 11. 倉庫らしき物が見える >

 

上: 左に曲がると、中庭を隔て二階建ての倉庫らしきものが見えた。

 

下: 右手直ぐに平屋建物への入口があった。

そこを入ると、大きな土間のある台所だった。

私が、この土間に入ると、直ぐに女性が出て来て、どうぞ見てく下さいと促された。

ここの入場料は無料でした。

観光客をまったく見なかったが、管理人が居ながら無料とは、少し悪い気がした。

 

写真はこれから座敷に上がる入口を示している。

 

 

 

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< 12. 座敷に上がる >

 

上: 先ほど紹介した玄関らしき所に、花が生けられていた。

 

下: 立派な庭が見える。

 

 

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< 13. 立派な構え >

 

槍が掛けられている。

名字帯刀が許されていた。

建物の説明は音声案内で流された。

 

 

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< 15.一番奥から振り返った >

 

下: 天井の写真

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 49: 雲南民俗村を楽しむ 3


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今回で、雲南民俗村の紹介は最後になります。

最後に、巨大な湖、滇池に面した海埂公园を紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 雲南民俗村と海埂公园

3回にわたって紹介した散策ルートを赤、茶、黒、橙色の線で示します。

右上から始め、中央の下で終わります。

 

下: 今回の雲南民俗村の散策ルート

前回に続いてSから始め、Rで昼食をとり、出口Eで場外に出ます。

 

 

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< 3. 今回紹介する少数民族の衣装 >

 

Hui= 回族(カイ族)、man=满族(マン族)、bai=白族(ペイ族)

Naxi=纳西族(ナシ族)、meng=蒙古族

 

これらの衣装は、何処までが正式な伝統衣装かは不明です。

今、中国の若い人は民族衣装をコスプレとして楽しみ、ネットで様々にアレンジされたものが多く販売されている。

 

man=满族(マン族)の冠は、清朝の皇女の大きなカツラを連想させる。

 

bai=白族(ペイ族)の冠には白い羽飾りが付いている。

これは未婚女性のもので、民族名の由来だそうです。

 

Naxi=纳西族(ナシ族)の装束では、タスキがどうやら特徴のようです。

 

meng=蒙古族は人口が多く、部族が異なると衣装もかなり異なる。

 

 

 

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< 4.回族のモスク(清真寺) >

 

蘭州で、立派なモスクを見ました。

 

 

* 回族について

 

中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団で、言語・形質等は漢民族と同じです。

中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

 

回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。

 

同じイスラム教徒でも、問題になっているウイグル族との違いは何か?

 

彼らは、遊牧民のテュルク系遊牧民族(トルコ系)でウイグル語を話す。

彼らは新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに暮らし、人口約1千万人です。

彼らの宗派はイスラム教スンナ派です。

 

一方、回族の宗派もスンナ派だが古いタイプのHanafi派です。

恐らくは、イスラム教では宗派が異なると交流が進まないので、言語・形質も異なる回族ではウイグル族の影響を受けないのだろう。

 

成都や蘭州で回族を多く見ました。

 

 

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< 5. 満族の家 1 >

 

* 満族(満洲族)について

 

ツングース系民族で、古くは女真族と呼ばれ、狩猟と簡単な遊牧・農耕も行っていた。

17世紀に清朝を興した。

現在、中国全土に1000万人、雲南に1万人程いるが、これは清の時代に来た人々です。

漢人との交流が長いので、漢民族に同化してしまっているようだ。

どこまで生活や住まいに、満州民族の伝統を残しているかは分からない。

 

面白い現象がある。

ここ十年ほどで満族の人口が3.5倍に増加している。

これは中国が少数民族を優遇しているので、優遇措置を受ける為だそうです。

 

* 中国の少数民族の優遇政策について

 

漢民族に適用されていた「一人っ子政策」は少数民族には適用されていなかった(現在、中国全体で廃止)。

少数民族の学生は進学で優遇され、例えば学費減免や奨学金、入学試験の加点などがある。

少数民族の家庭に支給される一人っ子手当てが漢民族家庭の2倍であったり、職場内で昇進しやすいこともあるようです。

 

実は、このような少数者の立場向上を図る優遇政策は他でも見られる。

例えば、共産党以外の政党が認められているが、共産党以外の党に属している者には官吏採用の優先枠がある。

米国やインドのアファーマティブ・アクションに似た事が行われている。

 

私達、日本人は、マスコミから中国の悪い面だけを印象付けれているが、実は内部では、様々な融和策や弱者対策が広く行われている。

 

日本はこれに比べてどうでしょうか?

国連からも非難されていたアイヌの旧土人保護法が廃止されたのは、やっと1997年でした。

 

 

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< 6. 満族の家 2 >

 

 

 

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< 7. 満族の家 3 >

 

 

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< 8. 昼食のレストラン 1 >

 

ここは民族餐厅(民族村北路店)で、最も大きくて、ほぼ中央にあります。

ビュフェ形式の食事があり、写真奥の方でやっています。

私は単品料理を注文しました。

品数は多く無く、料理は手軽なものが多いようでした。

 

上: 店内

 

下: 写真に見えるレジで注文します。

 

 

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< 9. レストラン 2 >

 

上: 厨房です。

 

下: 注文した料理。

特段に美味しいわけではないが、日頃食べない味を楽しめた。

 

 

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< 10. 白族の村 >

 

上: 大理のシンボルと言われる崇聖寺の三塔のレプリカ。

そこそこの大きさがあります。

これで大理に行かずとも見ることが出来た。

 

下: 白族の村

立派な造りの家が並ぶ。

さすが一時、今の雲南の領域に大理国を建国しただけはある。

残念ながら13世紀に元(モンゴル帝国)に滅ぼされた。

 

* 白族について

 

雲南省大理を中心に住むチベット系民族。

約人口190万人の内、約120万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、漢語をペー語に取り入れている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、中国語で乳扇と呼ばれているチーズが知られている。

漢族の雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。

米を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

 

以前、福建省で客家料理を食べた時、日本の醤油味に似ており、美味しく食べたことがある。

 

 

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< 11. 纳西族の家  >

 

麗江で宿泊したホテルがこのような造りだったので驚きはなかった。

しかし他の少数民族の家屋に比べると立派な事に気が付いた。

これも茶葉古道の要衝として栄えたからだろう。

 

 

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< 12.麻栏式民居 >

 

この建物は中国南部(雲南など)に多い様式で、木や竹で造られた2階建です。

2階に人が住み、1階は動物小屋になる。

桂林の山岳民族にも似た家屋があった。

恐らくは湿気を避けるための工夫でしょう。

 

纳西族については「中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで」などで紹介しています。

 

 

* 蒙古族について

 

四川省・雲南省のモンゴル族は、元朝以降に移住した人々です。

遊牧民から稲作を中心にした農業に転換した一方で、習俗などはモンゴル族のものを残している。

蒙古族の人口は約600万あり、モンゴル国の人口が約300万人なので、中国国内の方が多い。

 

 

* 中国旅行の少数民族について感じたこと

 

今回の「中国の外縁を一周して」の旅で、知りたかったことの一つが、中国の少数民族の今の暮らしと歴史でした。

 

中国政府は、チベットとウイグル族の扱いで、世界から人権蹂躙を非難されている。

また今回、私が旅行しようとしたら、突如として香港が騒乱状態となり、迂回しなけらばならなくなった。

中国は、香港や台湾に対しても高圧的な態度をとり続けている。

 

これらは、いつか暴発する可能性があり、内乱から経済混乱へと至り、日本などに多大な影響を与えるかもしれない。

この事が気になり、少数民族問題が起きそうな「中国の外縁近辺」を旅先に選んだ。

そして新疆ウイグル自治区に近く回族が多い蘭州、多くの少数民族が暮らす麗江と昆明を旅した(歴史的・文化的な興味もあり)。

 

今、私が感じている事は、中国は想像以上に弱者(少数民族など)に配慮し優遇政策を行い、融和を図っていることです。

そして、困難な少数民族の生活向上と意識向上を上手くやり遂げているようでした。

世界の多くの国では、少数民族の扱いに苦労している。

 

翠湖公園で見た、様々な少数民族衣装を身にまとい楽しく踊っている人々の表情を見て、私の懸念は雲散霧消した。

むしろ満足な暮らしぶりと言えるでしょう。

 

中国では少数民族だけでなく共産党以外の党人、高齢者への優遇政策が進んでいる。

 

あらゆる都市で出会った高齢者(50から60歳で退職)は男女の区別なくたくさん旅行しており、公園では日長、孫や友人と寛ぎ、趣味を楽しんでいた。

彼らは年金や退職金でのんびりと暮らしている(その額は企業規模や都市戸籍と農民戸籍で差はあるだろうが)。

 

この様子は北欧三ヵ国を歩いて感じた、勤労世代からリタイア後の余裕ある暮らしを彷彿とさせた。

60歳過ぎてもあくせくと働かなければならない日本と比べれば優雅でした。

また多くの中国の観光施設や公共施設の入場料が60歳から70歳で、半額から無料となっている。

 

米国の黒人や移民への扱いは、今の大統領になってから一層酷くはなっているが、長年の人種差別や融和政策の欠如が亀裂と混迷を深めている。

日本も、益々弱者に対して苛烈になっている。

 

中国は懸命に問題解決に取り組んでおり、北欧が成し遂げた移民や少数民族との融和を成し遂げる時が来るかもしれない。

中国は後進的な経済から急激な経済発展を成し遂げつつあるので、舵取りは難しいだろう。

北欧も、今の素晴らしい経済力と社会・政治力は、ほぼ大戦後に成し遂げた。

中国は強権をもって改革を断行出来るが、良い場合もあり、悪い場合もある。

 

日本人は、隣国の言語を理解出来ず、隣国に友人や知人もいないので、甚だ情報が偏りがちで、ステレオタイプの見方に陥りやすい。

 

 

今回、外縁を見て回ったことにより、中国の民族移動の歴史を理解する切っ掛けになった。

雲南省と四川省は、民族的にもチベットと深い関係があることがわかった。

やはり現地を訪れて初めて実感できるものがあり、成果に満足している。

 

 

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< 13. 蒙古族の村 >

 

上: モンゴルの家、ゲル。

かなり痛んでおり、中に入ることは出来なかった。

 

下: 雲南民俗村を出て、湖岸に出た。

そこは海埂公园で、右手にこれから行く巨大な崖が見える。

あの崖に岩窟の寺がある。

 

 

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< 14.海埂公园 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 48: 雲南民俗村を楽しむ 2


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今回も、主に雲南省で暮らす少数民族を紹介します。

少数民族の祝祭の踊り、ショーも紹介します。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

Sから始めて、赤線に沿って見学し、Eまで行き、Eの茶色の広場で20分のショーを見ました。

この間の所要時間は約1時間でした。

通った少数民族の村は、傈僳族(リス族)、普米族(プミ族)、独龙族(トールン族)、苗族(ミャオ族)、拉祜族(ラフ族)、基諾族(ジーヌオ族)の順です。

家屋を見たのは独龙族(トールン族)、基諾族(ジーヌオ族)だけです。

 

 

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< 3. 少数民族が暮らす地域。上が北 >

 

茶色枠が雲南省、赤丸は麗江と昆明で、黄色線が新幹線です。

Li=傈僳族(リス族)、Pu=普米族(プミ族)、Du=独龙族(トールン族)は麗江の西側に集中しています。

Mi=苗族(ミャオ族)は雲南省東南部に広く分布しているが、むしろ他の省や中国外にも多く住んでいます。

La=拉祜族(ラフ族)、Ji=は基諾族(ジーヌオ族)は南部で、プーアル茶の産地よりもさらに南です。

 

 

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< 4. 六つの民族の服 >

 

略語は地図の表記と同じです。

これらは祝祭儀礼の時に見つける装束でしょう。

当然、老若男女の装束があるのですが、写真は若い女性の姿を選んでいます。

普米族(プミ族)の服は麗江のナシ族の服と似ています。

苗族(ミャオ族)は人口が多く、各地に分散しているので、部族によって祝祭の装束が異なるようなので2種類掲載しました。

 

東南アジアや中国辺境の地で出会う人々の顔を見ていると、時折、日本の役者や芸能人の顔に似ていることに驚かされる。

 

 

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< 5. 広い通りと大きな池 >

 

 

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< 6. 傈僳族(リス族)の村 >

 

*傈僳族(リス族)について

 

リス族は中国、ミャンマー、タイ、インドの国境にまたがって分布し、移動しながら焼畑農業を生業とする山地民でした。

総人口は120万人だが、中国では60万人ほどです。

言語はチベット・ビルマ語派に属し、文字を持っていたが、一部でしか使用されていなかった。

唐の時代は四川省南部から麗江に暮らしていたが、ナシ族の支配を逃れて西方に移動した。

宗教は、霊魂不滅と多神教、トーテム崇拝が特徴で、祭祀は村のシャーマンが主宰した。

 

 

 

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< 7. 刀杆广场 >

 

上: 刀杆广场

 

下: どの民族の住居は不明(失念)

傈僳族と普米族の可能性もあるが、独龙族のものだろう。

 

* 普米族(プミ族)について

 

プミ族は人口3万人ほどで、ほとんど雲南の限られた地域で、農業を主にし、牧畜業を副業として暮らしていた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

社会経済の発展は様々で、宗教は祖先崇拝とアニミズムが主で、一部でチベット族との交流によりラマ教が信仰されている。

 

 

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< 8. 独龙族(トールン族)の樹上家 >

 

* 独龙族(トールン族)について

 

トールン族は人口7000人ほどと少なく、雲南の限られた地域で、農業を主に、採集や漁労も兼ねた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

かつては木を刻み結縄して、事柄を記録し、便りとした。

社会経済の発展は遅れていて貧しく、原始共同体の名残りがあり、氏族間の結婚を禁止していた。

かつて顔に刺青を入れる風習があった。

宗教は精霊信仰(アニミズム)です。

シューマンは祭祀儀礼を執り行うだけでなく、病を治癒する為、引き起こしている様々な鬼を調べた。

 

 

 

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< 9. 独龙族(トールン族)2 >

 

外壁は丸太を組んでいるが、内壁は編んだ樹皮で覆われている。

二階の窓から覗くと、家屋の屋根が板で葺かれていることがわかる。

 

 

 

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< 10. 苗族(ミャオ族) >

 

上: 苗族の村の入り口

ここには入らなかった。

 

下: 後に訪れる西山風景区の山並みが見える

 

* 苗族(ミャオ族)について

 

ミャオ族は総人口1100万人で、中国国内890万人の内、貴州省に多い。

また東南アジアにも分布し、ラオスから移住し米国(Hmongと称す)に17万人が暮らす。

言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ(瑶)語派に属し、三種類の方言があり、互いに通じない。

山間盆地や斜面に暮らす山地民で、焼畑で陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

多くの地区では封建地主制経済段階にあった。

自民族だけで集居するほか、漢民族や他民族と雑居して来た。

宗教は、主に自然崇拝、鬼神崇拝と祖先崇拝で、シャーマンが宗教儀礼を執行した。

 

ミャオ族の歴史は古く、紀元前5千年紀に始まる長江中流域の新石器時代の大渓文化の人骨の多くがミャオ・ヤオ語族に関連されるとしている。

歴史的に確かなのは宋代以降、漢民族の南下に伴って、長江流域から山岳内陸部に移動したと考えられる。

 

 

 

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< 11. 拉祜族(ラフ族) >

 

上: 拉祜族(ラフ族)の村への入り口

 

下: 入口を入った広場

 

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< 12. 拉祜族(ラフ族)2 >

 

上: 入口を入った広場

 

下: 家屋

 

* 拉祜族(ラフ族)について

 

ラフ族の総人口は100万人で、多くは雲南省45万人、他は中国と東南アジアに暮らす山岳民族です。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属す。

主に焼畑農業を生活を続けて来ており、封建地主制経済の発展段階に入っていた。

宗教は、原始的な自然崇拝と祖先崇拝です。

 

 

 

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< 13. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー1 >

 

上: 開幕の挨拶

すべての説明は中国語です。

 

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< 14. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー2 >

 

上: 新婚に扮した男女が素早く動く竹の棒をかわしながら軽快なステップを行う。

以前、テレビで見たことがある踊りでした。

多くは男女の集団の踊りで、幾つかの踊りや祝祭儀礼のシーンが組み込まれているようです。

ショーは拉祜族のものとは限らないような気がします。

後に、観客から一組の男女が選ばれ、同じように踊らされ、爆笑を誘った。

演者達は表情豊かに一生懸命に踊っていた。

 

言葉が分からなくても楽しいひと時でした。

 

 

* このショーのビデオ映像

12秒と17秒の踊りの映像です。

ショー1

ショー2

 

 

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< 15. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 1 >

 

上: この部屋は長男のものだろう。

入口の上にある木彫りの面が面白い。

他の家族は雑魚寝になるのだろう。

 

下: 大きな広間の真ん中に囲炉裏がある。

囲炉裏は生活の中心のようだ。

 

* 基諾族(ジーヌオ族)について

 

ジーヌオ族の総人口は2万人と少なく、雲南省の山間部にだけ住む。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、文字はない。

かつて、竹や木を刻んだり、トウモロコシの粒を数えて事柄や数を記録した。

かつては粗末な農具しか持たない焼畑農耕を行い農村共同体を営んでいた。

宗教は、原始宗教の段階に留まっていた。

各村には二種類の異なる役割を担ったシャーマンがいた。

 

 

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< 16. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 2 >

 

上: 額の写真は竹製の打楽器だが、下の壁に見える竹製の物は口琴のようだ。

 

下: 水を貯める木桶のようだ。

 

 

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< 17. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 3 >

 

上: これが部屋を見た家の外観です。

 

下: 庭にトーテムポールが並んでいる。

 

 

* 補足説明

 

民俗村では少数民族の原始的な暮らしを見ているが、現在の暮らしとは異なる。

展示されている暮らしや家屋、家具や道具などは中国の解放政策以前の姿だと思われる。

中国は1950年代から、少数民族の近代化を進め、各民族の自治区を設け、かつ中国政府と一体になる政策を進めて来た。

私の各民族の説明も、開放以前の古い状況だと思ってください。

 

日本にも先住のアイヌ民族がいるが、小国ベトナムでも30を超える少数民族がおり、アジア各国は多くの少数民族を抱えている。

少数民族の文化には興味深いものがあるが、政治的には困難が付き纏う。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 3: 脇町うだつの街並み 前半


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< 1. うだつ、矢印 >

 

これから吉野川沿いに発展した「うだつの町並み」を紹介します。

「うだつがあがらない」の「うだつ」です。

今回は脇町南町巡りの前半です。

 

 

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< 2. 街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

紺色が伝統的建物で多くは商家です。

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

 

青枠は道の駅の駐車場で、赤線が今回紹介する街並みの散策ルートです。

ピンク線は次回紹介するところです。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

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< 3. 道の駅 藍ランドうだつ >

 

上: 駐車場内から道の駅、町の方を見る

 

下: 少し進んで振り返る

駐車場の先に吉野川の堤防が見える。

 

 

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< 4. かつての吉野川の護岸 >

 

写真は共に西側を望む。

かつての護岸は現在、堤防沿いの国道と伝統的な街並みの間を流れる小川の片面になっているようだ。

それでもかつての石積みの様子を伺うことが出来る。

通りの南側の商家は表通りから敷地内で裏側の川湊に繋がっていた。

再現されている白塗りの蔵が見える。

 

 

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< 5.観光交流センター >

 

駐車場から坂道を少し昇ると観光交流センターに出た。

ここにインフォメーションセンターや工房、茶房などがある。

 

 

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< 6.南町の通りに出た >

 

ここがメインのうだつの町並みです。

ここを訪れたのは6月7日で、コロナ禍が少し収まった時期です。

歩き始めたは10時半頃でしたが、日曜日なのに人出は少なく、店によっては閉まっている所もあった。

 

上: 東側を望む

 

下: 西側を望む

ここから通りの端まで真直ぐ230mです。

 

 

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< 7. 格子と蔀戸 >

 

下: 看板に蔀戸(しとみど)の説明があった。

上下の二枚の戸の内、上の戸は内側に跳ね上げて吊り下げ、下の戸は上に引き抜いて外して別置きにしたのだろう。

こうして昼には、内側にある格子戸で通気を行った。

夜と雨の時は元に戻して雨戸とした。

おそらく民家ではここまでの建具を造らなかっただろう。

 

 

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< 8. 吉田家 >

 

ここは脇町一の豪商、染料藍の商家の吉田屋です。

1792年創業で、1835年と1865年の増築された(江戸中期から後期)。

当時、使用人50人を雇い、部屋数25室と三つの蔵を備えた屋敷で、表から裏の船着場までの奥行きは70mはあるだろう。

ここは入場が有料ですが店の間までは入れて、土産物を販売しています。

 

上: 表、「店の間」への入り口が見える

 

下: 裏、船着場側から見た

右に二つの蔵が見え、左にも藍蔵がある。

 

 

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< 9. 吉田屋の玄関、店の間に入った >

 

 

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< 10. 吉田屋 2 >

 

表通りから吉田屋を見る。

 

下: 白壁に沿って右に行くと藍蔵(土産屋)がある

 

 

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< 11. 森家と将棋名人の家 >

 

上: 森家

ここは18世紀半ばから味噌・醤油卸を営んでいた。

明治13年に建て替えられ郵便局として、大正には医院として使われた。

 

 

下: 将棋名人の家

ここは旅籠だった。

ここで生まれた子が泊り客の将棋を見て育ち、後に江戸に出て、明治23年、四国では唯一の将棋名人となった。

 

 

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< 12. 通りの西の端 >

 

上: ばったり床几

通りの方に倒して足を出すと縁台になる。

 

下: 通りの西の端

 

ここに来るまでに幾つもの伝統家屋があり、最も古い建物では1707年、徳川綱吉の時代のものもあります。

かつての店舗も様々で、紹介した以外に飴屋、繭問屋、船頭屋、瀬戸物屋、呉服屋、家具屋、反物屋、お茶道具屋があります。

 

次回は、反対方向から通りを紹介します。

 

 

* なぜここに立派な商家通りが出来たのか?

 

「うだつ」は本来、ここだけのもではなく歴史も古いはずだが、またなぜここに大量に残り、有名なのか?

 

幾つかの面白い経緯が重なったようです。

 

 

 

 

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< 13. 脇町の位置、上が北 >

上: 赤矢印の脇町は東西に池田から鳴門までの撫養街道が吉野川に沿って通っていた。

また渓流に沿って山を越えると瀬戸内海に出る曽江谷越えもあった。

四国の各地域から陸路で関西に向かうには、吉野川沿いの街道が便利であったろう。

 

更に、吉野川も流通の要で、上は池田から辻、半田、貞光、脇町、岩津、川島、第十に川湊があった。

下流からの荷は、米や麦などの穀物をはじめ、肥料、味噌、醤油、塩、海産物、手工芸品、雑貨、生活用品・・・・・。

上流からは藍玉 、薪、木炭、たばこ、木材、繭、和紙などの特産物を乗せて舟が下ってきました。

輸送に使われた舟は、帆を張った、浅瀬でも航行出来るように喫水を浅くした平田舟でした。

 

これで脇町が二つの街道と川湊が交差する絶好の地であることが分かった。

 

 

下: 阿波九城

実はもう一つ重要な事がありました。

それは脇城の存在でした。

 

今は、城址しかない山城ですが、天下布武を成し遂げるまで行きかけた三好長慶が1533年にここに城を造ったのが始まりでした。

戦国時代末期、この阿波の地は三好家の本拠地で、土佐の長曾我部と激しく争っており、築城が進んでいた。

この状況は前の連載「徳島の海岸と漁村を巡って」の海部城(鞆城)も同様でした。

 

やがて秀吉が西国を平定した安土桃山時代末期になると、蜂須賀家が阿波を拝領することになり、廃城が再建され阿波九城が設けられた。

この一つが脇城だった。

 

この時、秀吉から拝命を受けた蜂須賀小六は子に阿波を任せ、まだ治まっていない領地であればこそ、要の脇城に家臣団筆頭の稲田植元を城代に置いた。

 

この稲田植元が、城下町の復興を命じた。

また、この町へ来て商業を営む者には、生国を問わず税や諸役も免除した。

こうしてこの町は一大発展を遂げた。

 

 

 

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< 14.NHK大河ドラマ >

 

脇町に関わる人物のイメージを掴みやすいようにドラマの登場人物を紹介します。

 

上: 「麒麟が来る」の人物相関図

これは京都での覇権争いの様子を示す。

下剋上にあって、足利将軍家を蔑ろにする細川管領家、さらにそれを凌ぐ三好長慶がドラマで悪役に描かれている。

事実は、新しいことに取り組み急速に独自で軍事力を備えた三好長慶でした。

早死にするので、天下布武は叶わなかったが。

 

下: 蜂須賀小六と秀吉のシーン

蜂須賀小六は阿波を拝領する前は、西国四国攻めの過程で龍野城を拝領した。

この時、稲田植元にエピソードがある。

秀吉が戦の功により、小六に龍野、植元に別の領地を与えようとしたが、植元はこれを断った。

植元は以前、小六と義兄弟の契りを結んでいたので、小六の下で仕えたいと望んだ。

これが受け入れられ、後に家老職としての地位を得、脇城拝領に繋がった。

 

 

 

 

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< 15. さらに不思議な縁 >

 

上: 龍野城

以前、龍野城の櫻を紹介しましたが、安土桃山時代に蜂須賀小六が城主だとは知らなかった。

当時は、平城では無く山城だったのだろう。

 

中央: 淡路島の洲本城

江戸時代、植元の稲田家が淡路島を領有し、洲本に城を造った。

しかし、明治になると稲田騒動が起きて、運命の歯車は逆転する。

 

下: 映画「北の零年」

これは稲田騒動後、士族としての配置という名目で、稲田家が北海道静内と色丹島に移住開拓を命じられ、荒野の広がる北の大地で悪戦苦闘する姿が描かれている。

 

この稲田騒動は、一言で言うと版籍奉還で稲田家の扱いが徳島藩より劣っていたことが始まりでした。

徳島藩は佐幕派であったが、稲田家は尊王派で明治維新では討幕運動で貢献していたが、版籍奉還で徳島藩と同じ士族扱いでなく低かった。

こうして両家で争いが生じ、政府はこれを収めるために、稲田家を士族扱いで荒地の北海道に送った。

 

私は今年になってから近場の旅行をするようになったが、色々な場所が、歴史的繋がっていることを知り驚いている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 47: 雲南民俗村を楽しむ 1


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これから数回に分けて、雲南民俗村を紹介します。

ここには雲南に暮らす25の少数民族の家屋、暮らし、衣装、祭事などが再現されています。

民族学や異文化に興味がある人には垂涎ものでしょう。

 

 

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< 2. 先ずは門をくぐって >

 

売店が並ぶ通りを抜けて、チケット売り場に向かいます。

 

 

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< 3.チケット売り場 >

 

上: チケット売り場

写真は各民族衣装を着た女性達がお出迎えしてくれた。

 

下: チケット確認の入場門

 

入場料は大人90元ですが、70歳以上だったので45元でした。

中国は、他国に比べ高齢者の割引が大きく、優遇している。

 

 

* 雲南民俗村について *

 

少数民族の博物館としては中国最大規模です。

この直ぐ隣に一般的な雲南民族博物館がありますが、妻も楽しめるだろと思い、この雲南民俗村を選びました。

 

特に良かった点

A 敷地内ではこの日、9:30から16:10の間に、23もの各民族の20分間の演舞が行われていました。

すべて無料で、他に有料のショーもいくつかあります。

入場時に演舞時間表をくれます。

 

B 敷地内には民族衣装を来た多くのスタッフがおり、案内や暮らしの再現を行っている。但し中国語。

 

C 建物や衣装、民具、祭事場と家屋周辺の自然環境の再現が丁寧に行われているように思える。

 

 

残念な点

D 案内や説明に日本語表記がほとんどなく、見るだけで終わった。

 

E 敷地が広大すぎて、見学と昼食に3時間半かけても半数ほどの村を素通りしただけでした。

また演舞も初めから終わりまで見たのは20分間の1本だけでした。

演舞の場所を探し、最前列に座って待つだけでも時間が掛かる。

もっとも時季外れなのか、観客は多く無かった。

演舞の時間が、重なっている場合もある。

 

全体としては、私にとって素晴らしいテーマパークでした。

 

 

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< 4. 中国の少数民族 >

 

中国には56の少数民族が暮らし、その合計人口は8%を占める。

漢民族が大陸の中心部を占め、多くの少数民族は外縁部に暮らす。

最大なのはチワン族1700万人だが、紛争があるウイグル族は990万人、チベット族は540万人で、これに匹敵する規模の少数民族は他にも幾つかある。

 

今回、旅行して気付いたのは回族、1060万人を各地、特に開封、蘭州、麗江で見たことでした。

彼らはイスラム教徒なので、てっきりシルクロード沿いの西側、西安以西にだけ集中していると思っていたのですが。

回族の料理は、各地で不可欠となっていた。

 

元々、私は世界の文化人類学や民族学に興味がありました。

それは文化や宗教、社会の発展、そして他との交流の過程を理解するヒントが得られるからでした。

 

今回の中国旅行で最も知りたい内の一つが少数民族でした。

主に二つの理由がありました。

 

  •  中国政府が少数民族をどのように扱い、少数民族自身が意気揚々と暮らしているか?

 

中国政府は、ウイグル族やチベット族への強権的な対応で、世界から非難されている。

この政策が失敗すると、これらを含めた少数民族の不満が暴発し、中国の内乱要因になるかもしれない。

このことはやがて日本にも影響することになるだろう。

 

  •  中国南西部の山岳地帯、雲南地方の少数民族は文化的歴史的に見て興味深い。

 

紀元前一千年紀から漢民族が勢力を広げ、少数民族はその圧力に押されて辺境の地に散らばっていた、多くは南下し山岳地を転々とした。

福建省の客家、タイのタイ人、桂林のヤオ族、金沙遺址(成都)の蜀人は千年から二千年の時を経て移動した。

雲南省の各少数民族にも同様に歴史があるだろう。

雲南の地は西にチベットからインド、南に東南アジアへと交流し続けた歴史がある。

この地の少数民族の衣装や装飾品は素晴らしく、文字や神話も面白い。

 

 

これから速足で見学していきます。

 

 

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< 5. 今回紹介する少数民族、上が北 >

 

上: 雲南民俗村の全景

敷地は東西1.2km、南北800mある。

赤枠が今回紹介する三つの民族展示場。

 

下: 上記の赤枠を拡大

今回紹介する三つの民族展示場。

赤線が主な見学ルート。

右の改札ゲートから入って、左下で終わりです。

 

 

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< 6. 三つの少数民族 >

 

上: 黄色枠が三つの少数民族が暮らしている地域。

雲南省の西部、徳宏タイ族チンポー族自治州相当する。

盆地の標高は1000mまでだが、2000mほどの山脈に囲まれている。

彼らは亜熱帯の山間地で農業を営んでいた。

 

赤点は左から麗江、大理、昆明で、白線は新幹線のルートです。

 

 

下: 民族衣装

左は阿昌族(アチャン族)

中央は景颇族(チンポウ族)

右は德昂族(デアン族)

 

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< 7. 阿昌族 >

 

阿昌族について

人口は3万人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

言語はシナ・チベット語系チベット・ビルマ語派ビルマ語系に属する。

自民族の文字は無く、漢字などを使用。

かつては漢民族の地主による封建的な領主経済でした。

農業が主でしたが、手工業も発達していた。

辺境を守る駐屯兵から学んで作られるようになった阿昌刀が有名。

 

下: 民家

一階は土間で家事を行うところのようです。

 

 

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< 8. 阿昌刀 >

 

上: 阿昌刀のようです。

 

下: 織物の実演。

 

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< 9. 宗教的な部屋でしょうか >

 

宗教は主に小乗仏教のようです。

 

下: 台所でしょうか。

 

 

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< 10. 景颇族 >

 

景颇族について

チベット・ビルマ語属で水田耕作、焼畑耕作を主とし、ミャンマー、雲南省、インドのアッサムに分布する。

総人口100万人と多いが、分散して暮らしているので言語も複数に別れ、生活水準や経済段階も様々。

雲南省には15万人が暮らす。

宗教は原始的でシャーマンが重用されていた。

 

上: 説明板

上から三行目に日本語表記があります。

 

中央: 広場に大きな柱が立っていた。

景颇族が毎年正月の15日から始める巨大な歌の祭典、目瑙纵歌节(ムゥナウゾング)があります。

この柱群はこの祭りの会場に立つ柱のようです。

数万人が打ち鳴らす長い太鼓に合わせて唄うようです。

 

下: 目瑙纵歌节の様子。

他のサイトから拝借。

 

 

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< 11. 景颇族の長老の家 >

 

上: 池の端の祭祀場か

 

下: 長老の家。

立派でしっかりした大きな木造建築です。

どうやら首長が村を治めたのかもしれない。

 

 

 

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< 12. 長老の家に入る >

 

上: 二階に上がる階段の壁にある不思議な飾り。

どうやら女性の乳房を模したものらしい。

私は卑猥に感じてしまったので、きっと何かの道具に違いないと、考えを巡らしたが、わからなかった。

 

後で調べると、これは階段の昇降に手摺りとして使われ、母親の偉大さに想いを馳せなさいということらしい。

 

中央と下: 家屋のすぐ横にある祭祀場

霊魂・精霊など崇めるアニミズムのようだ。

 

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< 13. 2階の様子 >

 

仕切られた部屋は一部屋だけ設けられていたが、他は巨大なロングハウス(共用空間)で、おそらく家長が一部屋を使って寝るが、他は仕切りなしで寝るのだろう。

囲炉裏が二階にある。

 

 

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< 14. 德昂族 >

 

上: 行先案内

 

德昂族について

雲南省とミャンマーに分布し、中国側の人口は2万人です。

言語は南アジア語系モン・クメール語族に属する。

自民族の文字は無い。

解放前までは長らく傣族(タイ族=タイ人と同じ語族)やチンポー族(景颇族)の統治と搾取を受け、社会経済は未発達でした。

宗教はタイ族の影響を受けて小乗仏教。

 

 

 

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< 15. 德昂族の家屋 >

 

中央の写真に長い太鼓が見える。

これが景颇族の祭りで使われる楽器と同じなのだろう。

 

 

 

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< 16. 寺院らしい >

 

おそらく德昂族のお寺と祭祀場なのだろう。

 

下: どことなくタイの寺院、チャオプラヤ川沿いにある「暁の寺」の小型版に見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆


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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。

 

 

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< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

 

上: 麗江全体図

赤矢印: 束河古鎮。

ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。

ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。

束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

 

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。

赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

 

下: 束河古鎮の主要観光地

この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

 

A: 茶马古道博物馆

B: 四方街

C: 青龙桥

D: 九鼎龙潭

 

 

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< 3. 駐車場から古陳へ >

 

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。

古さを残しているとも言える。

 

 

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< 4. 茶馬古道博物館に入る >

 

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。

それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

 

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。

この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。

小型の馬も使用したのだろうが。

このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?

やっと理解出来た。

 

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< 5. 茶馬街道の様子 >

 

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

 

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。

上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。

 

 

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< 6. 茶馬街道と人々 >

 

下: 博物館にあった街道の地図。

北部と南部に二種類の黄色線が見える。

北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。

南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

 

黒線も主に二種類ある。

一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。

もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。

 

 

* 茶馬古道 *

 

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。

主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(618~1279年)に盛んとなり、明清時代(1368~1911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

 

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。

麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

 

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?

チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。

また馬は中国の軍隊にとって必要でした。

しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

 

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。

清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。

 

 

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< 7. 四方街 >

 

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。

こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。

 

 

 

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< 8. 青龙桥 >

 

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。

 

 

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< 9.九鼎龙潭へ向かう >

 

 

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< 11. 九鼎龙潭 >

 

実に水が透き通っている。

まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

 

次回に続きます。

 

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世界が崩壊しない前に 28: 貧困と格差 3


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前回、貧困と格差は国によって作られていることを見ました。

貧困と格差は人権の問題に留まらず、危機をもたらすとしたら?

 

 

多くの人は、国が貧困と格差を是正し過ぎると、労働意欲を減じ競争心が無くなり、経済に悪影響すると信じさせられている。

だから悪化していても気にも留めない。

 

しかし事はそんな単純ではないし危険でさえある。

また格差が少ない国でも経済が豊かで成長している国があるので、明らかに誤解(洗脳)です。

 

 

**放置すれば騒乱や世界を後退させる引き金になる**

 

概ね二つのポイント、社会的なものと経済的なものがあります。

 

貧困な国ほど教育と医療、経済の水準が低くなり、人口増・伝染病・紛争を引き起こし易く、悪循環を招く。

外部からの衝撃、特に伝染病、大国の貿易や通貨の圧力に弱いために容易に悪化する。

こうして武力衝突、難民や伝染病などを周辺に、そして世界に広めることになる。

今回のコロナ危機で判明したように、先進国であっても格差が大きい米国や英国では弱者が感染爆発の被害者になった。

 

 

歴史を振り返れば、貧困と格差拡大は社会騒乱の引き金になっている。

それは大国や一度興隆した国ほど暴力的になるようだ。

ローマ帝国や中国の名だたる王朝が崩壊する時、格差が拡大し暴動が起きていた。

 

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< 2.英国が帝国主義を終えた時期 >

 

グラフの赤線は英国がアフリカの支配を終えた時期を示す。

経済が後退し帝国主義に走った19世紀後半の大英帝国では、この2百年間で最も格差が大きかった。

また他国よりも酷かった。

 

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< 3. ドイツと日本のファシズム期 >

 

グラフの赤線はヒトラー総統の時代、緑の矢印は日本の大陸進出の時代を示す。

共に格差が酷い。

20世紀前半のドイツと日本は、一時の栄光の後に訪れた大恐慌が大失業をもたらし、貧困と格差による社会不安がファシズムへと突き動かした。

 

 

これは普遍的な社会現象と言え、様々な識者が警告を発している。

 

ある疫学者は、先進工業国23カ国を比較すると、健康指数が悪化するのは、GDPが下がった時ではなく、格差が拡大した時であることを発見した。

また同時に犯罪率、幼児死亡率、精神疾患、アルコール消費量などにも重大な影響を及ぼしている。

 

ある経済学者は、格差は改革の意欲をそぎ、人々の信頼を失わせ、フラストレーションを高め、政治や行政に対する信頼を失わせると指摘する。

また棄権が増え、選挙の票は金で買われ、富裕層が公的機関への支配を強めている。

 

まさに日米、先進国で起こっていることです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺


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今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。

この地にはチベット仏教寺院が多い。

これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。

少し驚いたエピソードも紹介します。

 

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< 2. 地図、上が北 >

 

上: 麗江の位置を示す

黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。

雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

 

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。

麗江からの観光ツアーがあります。

さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

 

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。

当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

 

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道

左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。

左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。

 

 

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< 3. 古城忠义市场を出発 >

 

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。

ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。

 

 

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< 4. 普济寺に到着 >

 

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。

私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。

この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

 

下: 普济寺の門

木々に覆われた小高い丘の上に建っています。

この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。

門の両側に大きなマニ車が見える。

ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。

 

 

 

 

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< 5. 境内に入る >

 

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。

古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。

春になると梅の花が綺麗だそうです。

この地域の寺には紅梅が多いようです。

 

 

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< 7. 本堂に入る >

 

上: 入り口の左にあるマニ車

信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。

側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。

この筒の中には経典が納められている。

 

左下: 右が入口

 

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。

どうやらチベットのタルチョーのようだ。

タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。

これが筒状に、2段に重ねられている。

 

 

 

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< 8. 正面 >

 

上: 正面の奥を見ている

狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。

仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。

正面は観音像のようです。

逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。

左下に釈迦如来像らしいものが見える。

 

下: 正面の左側を見る

奥に千手観音像が見える。

チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。

 

 

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< 9. 右側面を見る >

 

タンカが沢山見られる。

 

 

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< 10.明王像か >

 

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。

また獣に乗って従えているように見える。

 

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。

日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。

密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。

この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。

その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

 

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。

 

 

下: 本堂の屋根

 

 

 

 

 

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< 11. 住職家族の住まい >

 

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。

久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。

 

 

 

* 歴史を想う *

 

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。

また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。

様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

 

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。

麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。

これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

 

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。

これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。

しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

 

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。

13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。

この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。

その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。

このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。

こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

 

さらに不思議な事がある。

実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。

これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。

その後も様々な交流が見られる。

 

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。

またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

 

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。

これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

 

身近なものにも驚きがあった。

アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。

調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。

不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

 

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。

この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。

 

 

 

* 驚いたエピソード *

 

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。

この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。

そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、

ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。

少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

 

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。

彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。

私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。

移動は近いので、直ぐ着きました。

 

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。

また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。

バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2


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今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。

この漁港を歩き、

切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

上の白枠が下の地図の範囲を示す。

赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。

西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

 

S:スタート地点

A: 東由岐漁協

B: ミセ造りなどが見られる古い町並み

C: 天神社

E: かつて由岐城があった城山公園

F: 八幡神社

 

 

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< 3. 不思議なもの >

 

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。

はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

 

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。

 

 

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< 4. 広い通り >

 

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。

北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

 

下: 東西に延びる通り

中央に見えるのが城山公園がある丘です。

丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。

城の名残りは無いそうです。

 

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< 5. 八幡神社 1 >

 

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。

この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

 

下: 八幡神社の下に来ました。

 

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< 6. 八幡神社 2 >

 

上: 八幡神社の境内

実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。

そこでさらに裏山まで踏み込みました。

帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

 

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。

すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。

その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。

一瞬、寒気がした。

 

 

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< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

 

上: 前述の看板の位置からの眺め

 

下: 岡から西側を眺めた。

 

 

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< 8. 丘を西側に降りる >

 

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

 

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。

 

 

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< 9. 西由岐を行く >

 

上: 八幡神社が見える

 

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。

 

 

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< 10. 漁港に戻った >

 

上: 西由岐側を望む

右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。

黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。

10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

 

下: 東由岐の方を見た

 

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。

 

 

 

* 由岐を歩いて *

 

様々なことを知り、実感することが出来た。

 

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< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

 

上: 散策している時に見つけた表示板

これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

 

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。

八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。

しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

 

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。

徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

 

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。

さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。

高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

 

如何に日本が脆弱かを知ることになった。

 

 

12

< 12. いにしえの海路 >

 

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

 

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。

船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。

左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。

右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。

 

 

13

< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

 

上: 屋島の戦い

由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。

源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、

雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

 

下: 戦国時代末期の四国の勢力図

当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。

この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。

海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。

今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 

 

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< 14. 由岐漁港 >

 

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

 

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?

B: 石垣弥太郎

C: 楠本勇吉

D: 延縄漁

E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り

 

 

由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

 

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。

鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。

明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。

彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

 

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。

現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

 

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。

当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1


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これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。

今回訪れた漁港の中では最も北にあります。

 

 

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< 2. 散策図、上が北 >

 

上: 由岐漁港を俯瞰

二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。

しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。

この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

 

下: 由岐漁港拡大

おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。

写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。

 

 

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< 3. 港を眺める >

 

上: 西由岐を望む。

 

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。

 

 

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< 4.東由岐の漁協 >

 

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。

一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

 

下: 蛸が逃げる!

ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。

私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。

 

 

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< 5. 東由岐の街並みに向かう >

 

上: 西側を見ている。

 

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。

道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。

 

 

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< 6.東由岐の街並み >

 

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。

中でも保存が良いのを撮影しました。

おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

 

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

 

外観の説明を引用します。

「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。

全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。

出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

 

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。

 

 

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< 7. 天神社の鳥居 >

 

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

 

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。

 

 

 

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< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

 

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

 

記録によると

「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。

旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」

 

 

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< 9. 天神社の階段から望む >

 

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

 

下: 西由岐の方を望む

中央奥に城山公園の小さな岡が見える。

かつて城があった。

 

 

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< 10.天神社の境内から望む >

 

上: ほぼ北側を望む。

 

下: 北東を望む

この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。

写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

 

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。

この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。

この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。

次回、この「雪湊の町」について紹介します。

 

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。

1854年、安政元年の南海地震が襲った。

1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。

1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

 

この地は、津波と共に生きていかなければならない。

 

 

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< 11. 天神社 >

 

上: 境内

 

下: 境内から北側に降りた階段

後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。

 

 

* 感想と説明 *

 

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。

それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。

一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

 

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

 

美波町について

2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。

日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。

美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。

その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。

漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。

( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

 

由岐漁港

ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。

古い町並みは東由岐に残っている。

両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。

東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。

由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している

しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

 

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。

これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。

ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

 

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。

美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。

このことは後に紹介します。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 4: 福知山の城下町


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今回は、福知山の城下町を紹介します。

これで福知山の紹介を終わります。

 

 

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< 2.町歩きマップ、上が北 >

 

この地図は「ふくちやま まちあるきマップ 城下町歴史探訪編」を利用しています。

私は右下の福知山城から赤線に沿って北上し、No11で折り返し、No12からは黒線で城の横の駐車場に戻りました。

城を出たのが13:40、駐車場に戻ったのが15:10でした。

 

地図の番号について

1 福知山城、前回紹介

2 旧松村家住宅、前回紹介

3 京口門

4 明覚寺

5 明智藪、前回紹介

6 由良川堤防

7 広小路商店街

8 久昌寺

9 金毘羅神社、丹後口

10 高良厄除け神社

11 梅干し半十郎観音

12 御霊神社

 

 

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< 3. 城下町図、上が北 >

 

江戸時代のものでしょう。

上の白矢印は丹後口を示す、

濃紺の線は、川と堀です。

右下の薄緑で囲まれた範囲が当時の城でした。

現在は右端のほんの一角が天守閣として再現されている。

 

 

 

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< 4. 由良川堤防を行く >

 

上: 右に明智藪の一部、その奥に音無瀬橋が見えます。

 

中央: 堤の右側に明覚寺の屋根、その右奥に天守閣が見えます。

 

下: 由良川の下流を望む。

堤の左側に城下町が広がる。

 

光秀が由良川の流れ変え堤を造成し、城下町を整備してから、由良川の川湊を使って水運が発達した。

光秀築城以前の由良川は城下町を突き抜けて大きく右に曲がっていた。

 

 

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< 5. 広小路商店街 >

 

堤を左側に降りて、広い商店街、広小路商店街に出た。

コロナ危機の関係でか、閉まっている店が多かった。

 

上: 西側、突当りに御霊神社がある。

下: 逆方向を望む、音無瀬橋が見える。

 

 

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< 6. 広小路から右に折れる >

 

特に城下町の雰囲気はない。

やがて道が合流すると、寺町通りに入る。

 

 

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< 7.寺町通りに入る >

 

主に通り長さ300mほどの堤側に、大小の神社仏閣が並んでいる。

南側から祇園社、常照寺、法鷲寺、祇園牛頭天王社、久昌寺、金刀比羅神と並んでいる。

寺はすべて立派で、宗派が異なる。

今なら各社コンビニが競い合ってサービスを提供しているようなものか。

 

上: 常照寺、日蓮宗

江戸時代、福知山城主松平家の時に現在地に移転して来た。

 

下: 法鷲寺、浄土宗

江戸時代、福知山藩主朽木家の位牌所として重んじられた。

 

光秀の後、福知山藩主の家系は7回替わり、朽木家が13代と重ね、明治維新まで続いた。

 

 

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< 8. 久昌寺 >

 

上下: 久昌寺の山門と本堂、曹洞宗

もっとも立派で、福知山城主朽木家の菩提寺でした。

山門の右側にある小さな社が祇園牛頭天王社で久昌寺の鎮守社です。

 

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< 9. 久昌寺の棟鬼瓦 >

 

上: 久昌寺の棟鬼瓦

これが寺の屋根に載っていたそうです。

今まで気にしていなかったが、寺の本堂や山門、釣鐘堂の屋根をよく見ると鬼瓦だけでなく鯱まで乗っている。

 

下: 地図で見ると金毘羅神社が堤の横にあるので、今一度、堤に出た

 

 

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<  10. 金毘羅神社 >

 

上: 金毘羅神社、ここはかつて丹後口でした。

ここには水運の神が祀らており、水運が盛んだったことを物語っている。

写真の鳥居右横の井戸の辺りに番所があった。

 

旧山陰街道は、地図2のNo3京口門から城下に入り、川に沿って進んで、No9金毘羅神社(丹後口)から城下を出た。

 

この場所は、寺町道りから右に折れて、狭い道に入らなければならない。

当初、不思議に思ったのですが、旧山陰道から城下町が見通せな無いように意図されていたことが後で分かった。

 

下: 「なわむしろ」と書かれた看板

この辺り、寺町道りを過ぎて厄除け神社までのこの道の堤側は鋳物師町です。

特段、歴史を偲ばせる家屋は見当たらない。

 

 

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< 11. 高良厄除け神社 >

 

境内が広い立派な神社で、今も毎年2月、市民が厄除けの輪をくぐる厄除け大祭が行われています。

江戸幕府成立の年、福知山藩主になった有馬家が、この地に鋳物師町を新設した。

この鋳物師町は低地の為に、由良川の氾濫の度に被害を受け、江戸末期に安心立命を願い厄除け神社が創建され、明治末期にこの地に移設された。

残念ながら光秀の治水工事だけでは、由良川の自然の猛威を防ぎきることが出来なかった。

 

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< 12. 梅干し半十郎観音 >

 

新興住宅街の一角にポツリと、昔ながらの祠があり、義賊が祀られていた。

話が面白いので要約します。

 

江戸時代末、全国的な凶作があり、福知山藩は財政が大変苦しくなって、町民・百姓に厳しい倹約令を敷いた。

 

福知山の町に親分の用人棒、松岡半十郎がいました。

彼は藩にひとあわふかせてやろうと、統制売買し巨利を得ていた藩制定の問屋に押し入り、男二人を殺害して金を奪い、そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。

 

しかしあえなく捕えられた半十郎は打首となった。

その際、辞世の歌として「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)は目の前」と残したそうです。

 

処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、約5cmの観音様を飲み込んで「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、首から上の病気は必ず治してあげよう」と言い残してこの世を去った。

 

その後、祠が建てられ、梅干しが絶えないそうです。

 

 

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< 13. 御霊神社 >

 

光秀が祀られている。

元々、光秀は先に紹介した常照寺に祀られていた。

一方、この地には稲荷社があった。

江戸中期、町民たちが藩主に合祀を願い、この地に創建された。

光秀は没後120年を経ても人気だったようです。

10月の御霊大祭は三丹一の大祭と呼ばれている。

 

 

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< 14. 御霊神社を出る >

 

上: 神社境内から前の広場を望む、奥に音無瀬橋が見える。

 

下: 広場の横にある公園。

コロナによる休校のせいか、多くの小中高生が遊んでいた。

 

 

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< 15. 新町商店街から福知山城へ >

 

上: コロナ危機の為か、ほとんど店が閉まっていた。

とは言っても、おそらくシャッター通りになりつつあるようです。

 

下: お城通りから福知山城を見上げる。

この道を進み、駐車場に向かう。

 

 

* 感想 *

 

今回、一番の好印象を得たのが、人の温もりでした。

まさにコロナ危機の最中なので、観光地をぶらつくことを非難されるかもしれないと思っていた。

当然、三密を避け、館内や店舗内に入るのを避けてはいたが。

 

寺町通りを歩いていると、わざわざ自転車を止め、私に話かける地元の年配者がいた。

彼は「どこに行かれるのですか?」と聞いてくれた。

彼は親切に教えてくれて、激励までしてくれた。

 

またさらに進むと、訪問販売中らしい男性がまた声を掛けてくれた。

彼は「ここは寺町と言うのですよ!」と教えてくれた。

 

実にありがたい。

文句では無く、歓迎してくれている。

 

もっとも私達夫婦は目立っていた、この城下町散策ではまったく観光客を見なかったので(城を除いて)。

 

 

各地を旅行していると、古い街並みを持つ町に地元愛を持っている人に出会うことがある。

 

しかし、一方で、どこも寂れて行く町の姿が目に焼き付く。

山陽地域、明石から広島までの山間や海岸沿いを電車で旅した時、北関東を車で旅した時もそうでした。

 

日本経済が地盤沈下し、世界経済から取り残されつつある中で、ふと足元を見ると、地方都市はどこも衰退し、再生の兆しはない。

 

一方、北欧や中国を巡っていると、とてつもなく広い国土で再生が進んでいる。

北欧も中国も、半世紀から30年ほどの間に活性化し、ほぼすべての町並みが急速に新たになっている。

 

日本と世界のギャップに唖然とする日々です。

 

 

次回から、徳島の漁村を巡りを紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 23: 映画「太陽の蓋」を紹介


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福島原発事故を今一度教訓として欲しい!

無料動画「太陽の蓋」を紹介します。

また私の想いを詩にしました。

 

 

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* 「太陽の蓋」を見た感想 *

 

なぜ日本は、いまだに危機に上手く対応出来ないかが良くわかる。

それは体制が麻痺しているからに尽きる。

 

数人の首脳が全身全霊であがいても・・・

そんな虚しさの中にも光明を感じることがあった。

身を挺して原発の残った人々と陣頭指揮を執られた人が居たことを。

そして突然の巨大な災厄にもめげず、立ち向かった多くの人々がいたことを。

 

 

*「憂いの詩」 私の想いを託しました *

 

 

何を恐れるのか

 

座して逡巡する君よ

 

持して朽ち果てる故国こそ恐れよ

 

いま船出する時

 

渇きや荒波を恐れるな

 

出でて求めよフロンティアを

 

闇の中、頼れるのは己一人と覚悟して

 

家族を愛し、友と手を携え

 

いざ立ち上がれ

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで


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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。

その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。

途中、1回目の夕食場所も紹介します。

 

 

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< 2.东巴文化博物馆 >

 

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。

小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

 

上: 入り口。

 

左下: 納西族の民族衣装。

庶民の普段着のようです。

町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

 

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)

説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。

実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

 

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。

(現在は衛生上の理由で禁止されています)

火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。

この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。

 

 

ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。

麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。

またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。

現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 

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< 3. トンパ教 >

 

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。

宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。

したがって一般に使われる文字ではなかった。

 

左上: シャーマンの衣装だろう。

 

右上: ナシ族の兵装だろう。

この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

 

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。

トンパ文字が記されています。

 

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

 

下: 降魔杵

おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。

 

 

 

 

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< 4. シャーマンと儀式 >

 

上: トンパ教の祭式場を再現。

これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

 

左下: 代々のシャーマン。

冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

 

右下: 儀式の一つ。

 

 

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< 5. 湖の東岸を戻って行きます >

 

 

 

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< 6. 古楽器を演奏する人々 >

 

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

 

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。

 

 

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< 8.锁翠桥 >

 

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。

 

 

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< 9. 玉河广场に戻った >

 

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

 

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。

日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。

 

 

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< 10. 軽く夕食 >

 

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。

夕方5時頃でしたが、客は少なかった。

料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。

それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。

数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。

 

 

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< 11. 玉河广场から四方街への通り >

 

この通りがメインで、道幅が広い。

菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。

ツアー客が、どんどん増えて来た。

どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。

 

 

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< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

 

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。

ショッピング好きにはたまらないでしょうね。

ここでは中国製だから安いと言うことはない。

 

 

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黑龙潭からの川の流れです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 神秘的な元伊勢内宮


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今回は、宮津街道沿いにある元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を紹介します。

そこには山岳信仰の神髄が集約されているように思える。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

ピンク線が散策コースで、黒四角の駐車場から半時計周りに、赤四角で示す元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を順番に巡りました。

茶色線が大江山から下って来た宮津街道です。

 

元伊勢内宮は小高い山の中腹部、そこを西側に少し下って遥拝所、さらに宮川まで降りて天岩戸に辿り着きます。

この宮川は前回紹介した「日本の鬼の交流博物館」の横から流れています。

 

地図に見える神社の左にある城山が、日室ヶ嶽遥拝所から望む山のはずですが、その名称がおかしい。

この城山は日室ヶ嶽や岩戸山と呼ばれているらしく、グーグルマップでは日室ヶ嶽は別にある。

 

散策時間は、途中で弁当を食べて1時間と少しかかりました。

 

 

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< 3. 駐車場から歩き始める >

 

参拝口の近くに大小駐車場が2ヶ所あります。

門前町らしいものはなく、村の端の階段から登って行きます。

 

 

 

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< 4. 京都丹後鉄道宮福線の車両が走って行く >

 

静かな所なので、列車の音が谷間に響いていました。

また宮川の流れも、発電所があるためか、よく聞こえました。

 

 

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< 5. 森の静寂に包まれた階段を登る >

 

おそらく高低差100m以内の、緩い傾斜の階段が巨木の杉の森の中を進む。

境内が見え始めた。

 

 

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< 6. 本殿が見えた >

 

広い境内に幾つかの伝統的な神社の建物が建っている。

訪れている人は私達以外に一組の夫婦だけでした。

 

上: 奥に見えるのが元伊勢内宮皇大神社の本殿です。

 

下: 本殿の内部。

 

 

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< 7. 参拝を終え、日室ヶ嶽遥拝所に向かう >

 

少し下るが、道は広く勾配も少なく歩きやすい。

 

上: 至る所に巨木の盛り上がった根があり、それらが苔むしている。

深い森、群生するシダ、せせらぎの音、木漏れ日の道、実に、深山幽谷の神社を訪ねる趣がある。

それも手軽に味わえるのが良い。

 

下: やがて三角形の山頂が見えて来た。

これが日室ヶ嶽(城山、岩戸山)です。

 

 

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< 8. 日室ヶ嶽遥拝所 >

 

上: 遥拝所より日室ヶ嶽を望む。

この山が元伊勢内宮皇大神社の御神体です。

頂上付近には岩の祭祀跡があるとされる。

夏至の日には日室ヶ嶽の山頂に太陽が沈む神秘的な光景も見られるそうです。

実に、この展望台は日本人好みの山がちょうど西側にあると言う好立地です。

 

下: 遥拝所から天岩戸神社までは、急な下り坂が折り返しながら続きます。

 

 

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< 9. 宮川に辿り着いた >

 

上: 宮川沿いの道に出た。

右奥に見える小さな社は、龍燈明神です。

 

左下: 宮川に降りる階段が見える。

 

右下: 途中の踊り場から階段を見上げた。

 

 

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< 10. 踊り場からさらに下る >

 

上: 踊り場にある鳥居。

この鳥居を抜けてさらに、急な階段を川まで降りる。

 

左下: 降りる階段を見下ろしている。

 

右下: 階段を降り切った所から上流側を望む。

残念ながら水嵩が増しており、道が冠水して天岩戸神社の下まで行けない。

 

 

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< 11. 天岩戸神社 >

 

上: 降り切ったところから下流を望む。

 

左下: 同じ場所から天岩戸神社を見上げる。

身を乗り出して何とか見ることが出来た。

社殿は岩盤の上に建てられており、裏手に御座石がある。

参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。

私達が弁当をここで食べている間に、一人の若者が熱心に礼拝に来ていまっした。

 

右下: 踊り場に戻ると、小さな参拝所があり、そこから天岩戸神社を撮影。

 

 

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< 12. 踊り場から谷を望む >

 

上: 谷底を見下ろす。

 

下: 目の前の木立の新緑に目を奪われた。

生命力を感じさせる素晴らしい淡い緑が谷を覆っている。

 

きっと紅葉の時は美しいだろう。

 

 

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< 13. 駐車場までの戻り道 >

 

緩やかな道が1km弱はど続きます。

但し、車でここに入って来ると、対向車を交わすのが困難だと思います。

 

この元伊勢神宮はお薦めです。

豊かな自然の中にある神秘的な三つの場所、大きな神宮、山を見上げる展望台、渓谷の社が素晴らしい。

日本の神道、山岳信仰をコンパクトに体験できます。

 

 

* 元伊勢内宮について *

 

なぜこの地が伊勢神宮と関りがあるのだろうか?

これが福知山に惹かれた理由の一つです。

 

調べてみると天照大御神を祭る元伊勢内宮は、中部地方から山陽までに数十ヶ所もあります。

それは、崇神天皇がそれまで居所内に祀っていた天照大御神の神霊を娘に託し、約1世紀かけて遷座を繰り返し、今の伊勢神宮に落ち着くことなった神話と関りがあります。

それは約2000年前の事とされています。

 

そして遷座の位置は説によって異なり、その一つがここなのです。

この宮津街道を南に3km行った所に元伊勢外宮がありますが、これも同じような理由で遷座しています。

元伊勢外宮は神体が異なります。

 

 

次回に続きます。

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 大江山の自然とロマン


 

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今回は、京都府福知山市の歴史と自然を訪ねました。

大江山にまつわる神代の伝説と平安歌人の想いを紹介します。

また大江山八合目から宮津街道の自然を紹介します。

 

 

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< 2. 今回の訪問地、上が北 >

 

上: 太い線は宮津街道を示します。

私が訪れたのは赤枠の大江山周辺と矢印4の福知山の城下町です。

城は明智光秀が造りました。

訪問地は、いずれも宮津街道に接しています。

訪問したのは2020年4月15日です。

 

宮津街道は江戸時代、宮津藩が参勤交代で使った宮津と福知山を繋ぐ道でした。

古代より、大江山近くの峠を越える道は丹後方面を結ぶ主要な街道でした。

現在は両地点を舞鶴若狭自動車道と京都縦貫自動車道で結んでいます。

 

下: 上の地図の赤枠を拡大した地図。

太線が今回紹介するドライブルートです。

 

矢印1とG: 大江山山頂近くの鬼嶽稲荷神社。

矢印2: 日本の鬼の交流博物館。

矢印3: 元伊勢内宮と天岩戸神社。

S:  京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

 

私は福知山から宮津街道をドライブし、鬼の交流博物館を見学の後、頂上に向かいました。

それから折り返し元伊勢内宮までドライブしました。

この時の写真がGからSまで順番に並んでいます。

 

途中の茶色の矢印は、分岐して北上する宮津街道です。

 

 

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< 3. 百人一首と鬼伝説 >

 

上: 和泉式部の娘の小式部内侍の歌です。

私は当初、平安貴族がこんな山奥について歌う理由が分からなかった。

理由は、母の和泉式部が夫の赴任地の丹後で暮らしており、その寂しさを天の橋立に通じる宮津街道に思いを馳せて詠ったからでした。

生野は福知山よりも京都よりの地名です。

 

下: 源頼光による鬼退治、酒天童子伝説。

なぜ大江山は鬼退治で有名なのか?

それは鬼の交流博物館に入って分かりました。

 

 

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< 4. 日本の鬼の交流博物館 >

 

上: 日本の鬼の交流博物館の外観

左の大きな鬼瓦のモニュメントが、駐車場がある入口側です。

この博物館は酒天童子の里にあり、周囲には多くの野外レクリエーション施設があります。

 

下: 内部

 

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< 5. 鬼瓦と鬼の面 >

 

如何におおくの寺院の屋根に鬼瓦が使われていたがよく分かりました。

また日本全国の民俗芸能や神事、能で使われた鬼の面が展示されています。

 

 

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< 6. 日本の鬼、世界の鬼 >

上: 岩手県の山村に今も伝承されている鬼の人形。

この男女のシンボルは、天明の飢饉以降、災いから村を守ってもらいたいと鬼に願を掛けて作っているものです。

 

下: 世界中の鬼の面。

写真には中国や韓国、南アジアの面が見えます。

 

 

* 大江山の鬼退治伝説 *

 

この初出は古事記の土蜘蛛退治で、次いで聖徳太子の弟による土熊討伐、最後に源頼光の酒天童子征伐があります。

実は、この「酒天童子の里」は銅鉱山の跡地に作られています。

この大江山一帯には古くから銅などの鉱物が産出していた。

 

そこで二つの説があります。

一つに、村人は鉱山から流れる鉱毒を恐れ、鉱山の職人集団を恐れた。

今一つに、朝廷が北辺の恭順しない部族を討伐し、さらには鉱山を奪う為に鬼退治と称した。

 

どちらにしても鉱山が重要な役割を果たしていたようです。

 

 

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< 7. 鬼嶽稲荷神社 >

 

上: 展望台から望む東側

ここは標高832mの大江山の八合目にあり、東側に視界が広がっています。

秋の早朝の雲海が絶景だそうです。

写真中央に見える三角錐の山は日室ケ嶽(標高427m)だと思います。

実は、後に元伊勢内宮に行きますが、そこの日室ヶ嶽遥拝所から逆方向にこの山を見上げることになります。

 

下: 鬼嶽稲荷神社

 

この前で達者な老人と出会いました。

彼は私達を見ると、寄って来て話しかけて来ました。

「これから頂上に行くのは良いが、クマザサには入らないように」

私がなぜかと聞くと。

「熊が出るから」

納得してしまった、それで熊笹と書くのかなと(?)。

 

彼がカメラをぶら下げていたので聞くと。

彼はブナの花の撮影に行くと言って、一人で急峻な山道を登って行きました。

次の写真の山道です。

今が季節のようです。

 

 

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< 8. これから元伊勢内宮を目指してドライブです >

 

上: 山頂に向かう道。

下: 麓から鬼嶽稲荷神社まで車で行ける道路。

 

 

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< 9. 酒天童子の里までの道 >

 

桜の多くは終わりでしたが、まだ見頃のものもありました。

 

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< 10. 酒天童子の里 >

 

ここには多くの施設がありますが、コロナの関係でほとんど閉まっていた。

私はトイレを探して日本の鬼の交流博物館に借用に行ったのですが、入館できますよと言われて入りました。

コロナ危機以降、出来るだけ入館せず、店にも寄らず、ハイキングとドライブだけにしようと心掛けていましたが。

入館して良かった。

 

 

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< 11. 宮津街道と二瀬川渓流 >

 

上: 中央を左に延びる道が9号線で、左に行くと宮津に出ます。

私達はこの9号線を三叉路で右に曲がり、二瀬川渓流沿いに元伊勢に向かいます。

現在は舗装された幅の広い道ですが、当時の旧宮津街道は細い山道で、石畳の道などが山林を抜け、峠を越えながら現在の道と並行したり重なったりしており、今でも残っているようです。

 

下: 三叉路を曲がって9号線を福知山に向かって走る。

左は二瀬川渓流です。

 

 

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< 12. 二瀬川渓流沿いを走る >

 

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< 13. 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅 >

 

上: ここも三叉路で、ここを奥に進むと毛原の棚田に行くと看板があります。

私はここを右に進みます。

 

下: 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

 

元伊勢内宮は直ぐです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 21: コロナは我々日本の弱点を教えてくれた 6


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今回は、大きな視点からコロナ危機を見ます。

歴史的に見れば、この災厄は古い体質を打破する好機です。

 

 

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* ペストと宗教改革 *

 

人類は誕生以来、病の克服に悪戦苦闘して来た。

病は、人の負の心理に深く作用し、宗教やタブーなどの形成に大きく関わって来た。

そして最悪のペストが、逆に宗教に大打撃を与え社会に転機をもたらした。

 

ペスト菌による伝染病は14世紀から16世紀にかけて、幾度も猛威を振るい、ヨーロッパの多くの町を全滅させ、全人口の30%以上の命を奪った。

 

当時、人々はどう対応したのか?

 

当然、まだ病因が菌だとは知らなかった。

多くは怪しげな行為、毒蛇の肉、香草、便所の悪臭などで避けようとした。

信仰心の篤い人は、これを神の怒りと捉え、身体に鞭打つ行者集団も現れた。

またユダヤ人が毒を撒いたとのデマが流れ、多くが虐殺された。

 

有効な処置は、発症者の隔離、渡航者の約1ヵ月の隔離、村の通行遮断ぐらいでした。

 

こうして人々は悲惨な状況が好転しないのを見て、神と教会への信仰に疑いを持ち始めた。

 

一方、ヨーロッパでは幾つかの要因が引き金となって、聖書を客観的に見る風潮(人文主義)や医学(外科)の萌芽が起きていた。

 

こうした中、神学者ルターが1517年、ローマ教皇を正面切って批判した。

 

これが当時、体制に不満を抱いていた農民や諸侯に火を付けた。

農民は一揆を起こし、暴利を貪っていた修道院などを襲い、また諸侯は守旧派(カソリック)の領地を奪った。

こうして百年に及ぶ戦争がヨーロッパに拡大し宗教改革も拡大した。

 

その結果、キリスト教はプロテスタントとカソリックの二派に分かれた。

 

プロテスタントの聖書の原点に戻る姿勢は、1500年もの間に巨大で強固になっていた教会制度と信仰形態(ミサ)を拒否し、また皇帝の上に立つ教皇の存在も否定した。

これは人々の意識に大変革をもたらした。

 

宗教改革後、欧米の人々は、より自由な生き方を求め、さらに理想の政体を求めるようになった。、

これがフランス革命や共産主義思想の誕生などに繋がった。

 

人々は伝染病に敗れはしたが、何が真実で何が無意味かに気付き、さらなる進歩を手に入れたのです。

 

 

一方、日本はどうでしょうか?

 

実は、日本は大きな変革のチャンスを失ってしまった。

大戦突入と言う大きな失敗に対して真摯に反省しなかった。

 

問題の要点を例えで説明します。

ブラック企業は勤める人にとっては悪夢ですが、まだ辞める手もあるし、告発することも可能です。

しかし、国の軍事独裁を一端許すと、逃げる手も正す手もありません。

 

つまり問題は敗戦より、何が独裁化と戦争突入を招いたかを理解することが重要です。

これなくしてはまた悲劇が再来することになる。

 

 

私達が力を合わせてコロナ危機を乗り越えた暁には、より良い社会を目指して政治を変えて行きましょう。

 

 

次回から、また本来の課題に戻ります。

 

 

 

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桜舞い散る城下町、龍野を散策 1


 

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これから数回に分けて龍野を紹介します。

ちょうど桜が満開で、快晴にも恵まれました。

訪れたのは2020年4月7日でした。

 

 

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< 2. 散策ルート、上が北 >4

 

上: 黄色の枠が今回紹介する龍野の城下町です。

揖保川がこの城下町のすぐ横を流れ播磨灘に注ぎます。

龍野市はこの城下町を中心にして、南は海岸に達し、東に姫路市、西に相生市で接しています。

 

下: 散策ルート。

歩いたのは概ね1km角の範囲で、歩行距離は約6km、標高差は100mぐらいです。

 

黒線が散策ルートで、下の駐車場Sから始め、番号順に進み、また駐車場に戻って来ました。

赤枠の観光スポット

 

S : 龍野(川原町)観光駐車場

1: 常照寺、片しぼ竹

2: 龍野動物公園、市民グランド

3: 赤とんぼ歌碑、三木露風立像

4: 野見宿禰神社、展望台

5: 龍野神社

6: 聚遠亭

7: 龍野城、龍野歴史文化博物館

8: 三木露風生家

9: 醤油の郷、大正ロマン館

10: 圓光寺

 

 

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< 3.龍野(川原町)観光駐車場を出発 >

 

上: 右が駐車場、左が揖保川の下流です。

駐車場は二三十台分のスペースがあり無料です。

道路から入り易く、トイレもあります。

コロナの関係で観光客が少ないのか、駐車場は空いていました。

 

ただ注意が必要なのは、駐車場探しです。

始め、町の中に入って中心部に停めようとしたのですが、道が狭いので戻り、ここにしました。

散策していると他にも駐車場がありましたので、十分に道を調べた上で行って下さい。

 

下: 揖保川の上流方向です。

 

 

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< 4. 十文字(どじ)川に沿って進む >

 

下: 右が十文字川、左に片しぼの看板が見える。

片しぼ竹はマダケの変種で、国の天然記念物に指定さている。

私は見ていませんが。

 

 

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< 5. 常照寺 >

 

上: 常照寺。

入口の桜が綺麗でした。

これを見て、この先で素晴らしい桜が見られると期待が膨らみました。

 

下: 古い門構えの塀の上に鯉の置物が見えました。

 

 

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< 6.龍野動物園に来ました >

 

上: 十文字川から左に外れ、住宅地を抜けて公園に入り、さらに登って行くと動物園が見えた。

公園には数組の子供連れのお母さんがいたが、動物園には夫婦やカップルがちらほらいた。

花見や散歩のようです。

 

 

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< 7. 桜 >

 

ほぼ満開のピークを過ぎ、風が吹くたびに花吹雪が舞っていました。

まさに日本の風情を感じることが出来ました。

 

 

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< 8. 赤とんぼ歌碑 >

 

上: 三木露風が作詞した「赤とんぼ」の歌碑です。

彼はこの城下町で生まれ、東京の大学に行くまでここで暮らした。

 

下: 三木露風の立像です。

 

 

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< 9. 野見宿禰神社に向かう >

 

上: 野見宿禰神社に向かって登り始めた道から下を振り返る。

三木露風の像を過ぎて直ぐ、小川沿いに登る道があった。

 

下: ここは国有林で、檜皮葺(ひわだぶき)の檜皮を採集する林だそうです。

周囲の林は、比較的整備されているようでした。

 

 

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< 10. 野見宿禰神社が見えた >

 

上: 登坂中に上を望む。

 

下: 稜線に出た所から、神社を見上げた。

露風の像から、ここまで標高差は90mぐらいでしょうか。

この階段を昇る気がしませんでした。

反対方向に展望台があり、ここで弁当を食べた。

 

 

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< 11. 展望台から >

 

上: 揖保川の上流側を望む。

木立で見難いが、この中央下側に、お城や聚遠亭がある。

 

下: 霞んで見えないが播磨灘が見える方向です。

 

 

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< 12.「力水」と書かれている >

 

上: 展望台から下った途中で、振り返った。

 

下: 「第四十四代 横綱栃錦清隆 直筆「力水」」と記された看板が見える。

中央の石に「力水」と彫られている。

 

 

* 野見宿禰と龍野市の因縁 *

 

野見宿禰は日本書紀に出て来る怪力の持ち主で相撲の始祖と言われる。

出雲の人で天皇に仕えたとされる。

宿禰を祭る神社や墳墓は、関西から山陰に数多くある。

 

彼は出雲への帰郷途中でこの地で没した。

すると人々が川原からリレー式に石を運んで墓を作った。

その様が「一面の野原に人が立つ」から「立野」、そして「龍野」になったと言われている。

歴代の横綱が、神社に玉垣を奉納している。

 

なぜ野見宿禰がこの地に来たのだろうか?

それはこの地が奈良時代に遡る因幡街道上にあったからです。

この道は、山陰と上方を結ぶ重要な街道でした。

この道は姫路を出発して、龍野市の揖保川沿いの二つの宿場町を過ぎてから西に折れて、佐用町、美作、古い町並みを残す智頭宿を通り、鳥取に出た。

実は、美作の大原宿が宮本武蔵の出生地とされており、この龍野にも足跡を残している。

 

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< 13. 「力水」からさらに下る >

 

上: 「野見宿禰塚」と書かれた石碑がある。

こちらの階段の方が、正式なようです。

 

下: 龍野神社。

上の階段を下ると、この神社の横に出た。

 

この神社には、江戸時代の脇坂家の始祖が祀られている。

 

 

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< 14.龍野神社  >

 

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龍野神社の中段から眼下を見下ろす。

桜の花が輝いていました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 30: 唐へ誘う杜甫草堂


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< 1. 杜甫(左?)と李白 >

 

 

今回は、唐の詩人杜甫(とほ)にゆかりの地を訪ねます。

杜甫は戦乱を逃れ、成都に4年間暮らしました。

当時の住まいが再現されている杜甫草堂を紹介します。

 

 

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< 2. 杜甫の漢詩「春望」 >

 

杜甫(712―770年)は詩聖と呼ばれ、詩仙と称された李白と並ぶ唐を代表する詩人でした。

「春望」は、彼が長安で使えていた時、安禄山の乱に巻き込まれ軟禁されていた折に詠ったものです。

唐は誕生から百年が経ち絶頂期を迎えていたが、反乱でいとも簡単に、都の長安(西安)は陥落し、皇帝玄宗は蜀(四川省)に逃げた。

杜甫は妻と離れて暮らさざるを得ず、世の無常をこの詩に込めた。

杜甫は「春望」にも見られるように社会情勢や政治への思いを五言八行に込めました。

 

 

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< 3.杜甫草堂 >

 

上: 入り口

下: 地図

とても広いので周り切れない。

この杜甫草堂は、木々で覆われた一辺500mの庭園内に数々の建物が散在している歴史テーマパークのようなものです。

杜甫がかつて住んでいた住まいが再現されています。

 

 

4

*4

 

雨がかなり降っていたので、写真を撮るのが難しかった。

広い敷地を、傘とカメラを持ち、多くの観光客を避けながらガイドについて行くのがやっとでした。

 

 

5

*5

 

 

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< 6.少陵草堂碑亭  >

 

上: 中央の三角形屋根が少陵草堂碑亭

少陵は杜甫の号です。

 

下: 茅屋故居

杜甫の像らしき石像の左奥に見えるあばら家が、杜甫の再現された住まいです。

 

 

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< 7. 茅屋故居  >

 

この狭い家屋内に多くの観光客が入っていたので、写真を撮るのに苦労しました。

机や台所が有り、他の部屋もありましたが、かなりみすぼらしい感じがした。

もっとも1300年前の話ですから、こんなものかとも思った。

 

実際、杜甫は科挙に失敗し、仕官も上手くいかず、さらに戦乱に巻き込まれ、流転と貧困に明け暮れた一生でした。

彼が悪いと言うより、隆盛ではあったが腐敗が進んでいた唐王朝において、彼の低い出自では出世が出来なかったのだろう。

 

 

8

*8

 

今回の中国旅行で、盆栽の起源は中国だとの意を強くした。

至る所で鉢植えの木の多いことに驚いた。

 

 

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< 9.万佛楼 >

 

上: 漢詩の書が展示されている建物。

残念ながら読めないので、通り過ぎるだけでした。

 

下: 万佛楼が木立の向こうに見える。

 

 

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< 10. 杜甫と唐 >

 

上: 右から玄宗、楊貴妃、安禄山。

中: 安禄山と唐の行軍。

赤線が安禄山の南下した侵攻経路、青線が唐軍の敗走経路。

玄宗は成都へ敗走し、皇太子は霊武に北伐を行い、後に長安を奪還する。

 

下: 太い黒線が杜甫の生涯の行路で、ほぼ当時の主要都市を巡っている。

Aは出生地鄭州、Bは長安、Cは成都、Dは逝去の地

 

私には「国破れて山河在り」は他人事とは思えない。

まさに今の日本を見ているようです。

杜甫の人生は、唐が絶頂期から崩壊に向かう時代と重なりました。

 

唐誕生から百年、玄宗皇帝の善政で唐は絶頂期を迎えます。

しかし彼は絶世の美女楊貴妃に溺れ、政治をないがしろにした。

政治は悪辣な宰相が握り、その死後、楊貴妃の血縁者が政治を牛耳った。

この血縁者は北辺を任されていた傭兵軍の総指揮官安禄山が反乱を起こす火種を作った。

そして755年、安禄山は蜂起し、1か月後には洛陽を、その半年後には長安も陥落させた。

玄宗は成都に逃げ、楊貴妃に死を命じ、北伐に向かった皇太子が皇位継承を勝手に宣言した。

唐は安禄山側の内紛や異民族の力を得て、どうにか切り抜けることが出来た。

この後、唐は中興の祖によって命脈を保ち、誕生から約300年後、内乱によって滅ぶことになる。

 

杜甫は、今の鄭州で地方官の子として生まれ、科挙を目指す。

各地を旅し、洛陽では李白と意気投合した後、長安に仕官を求める。

何とか一時、仕官は叶うが、安禄山の乱に巻き込まれ、逃避行を繰り返すことになる。

杜甫は蜀(成都)に逃れ、蜀の有力者が彼を支援した。

この時の住まいが杜甫草堂です。

支援者が死去すると、彼は家族を連れて南下し、かの地で死去した。

才能に恵まれ彼ではあったが放浪、逃避、貧困の内に人生を終えた。

 

 

広い庭園の為、1時間以内では、ほんの一部を覗くだけで、じっくり見ることは出来なかった。

それでも歴史的な佇まいを全体的にうまく再現しているので、見る価値は十分にあります。

もっとも時代考証が正しいかは分からないが。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 29: 古代へ誘う金沙遺址博物館


1DSC09888-1

< 1. ここで黄金の太陽神鳥が発見された >

 

 

これから、数回に分けて四川省の省都成都を紹介します。

今回は、金沙遺址博物館を紹介します。

ここには最古の蜀人の暮らしがあった。

 

 

2mapa

< 2. 成都観光地図、上が北 >

 

上: 成都の位置は赤矢印

成都には蘭州から飛行機で来て、二泊後、同じ空港から飛行機で麗江に移動します。

 

下: 赤矢印が、成都の観光地です。

A: 金沙遺址博物館、三星堆遺跡の文化を受け継ぐ遺跡の上に建っている。

B: 杜甫草堂(唐の詩人の廟)

C: 陈麻婆酒楼(金沙店)、元祖麻婆豆腐の店

D: 武侯祠(諸葛孔明の廟)

E: 天府广场東側のショッピング街、成都最大の繁華街

 

黒矢印は地下鉄で直結している成都双流国际机场の方向を示す。

 

2019年10月23日23:00、私は蘭州から成都双流国际机场に到着し、直ぐ近くのホテルに2泊した。

翌日、朝8:30にホテルのロビーで現地ガイドと待ち合わせし、日本語で1日案内してもらった。

移動はタクシーを利用した。

残念ながら、1日中雨でした。

観光はほぼ予定通り出来たが、写真が思うように撮れなかった。

 

 

3map

< 3. 金沙遺址博物館 >

 

上: 金沙遺址博物館の地図、上が北。

600mx500mの広さ。

E: 乌木林

F: 発掘遺跡の展示館

G: 遺跡からの発掘品の展示館

 

この遺跡は、2001年偶然発見され、発掘調査後、2007年博物館としてオープンした。

私としては有名な三星堆遺跡を見たかったが、成都を1日で観光するには、近くにあるこの博物館見学で時間的に精一杯でした。

三星堆遺跡は北方45kmの位置にある。

 

この博物館の下には、紀元前1200~500年頃に栄えた蜀人の国が眠っている。

この時期は、黄河中領域の西安から洛陽とその北方で興った商(殷)の後期から、西周、春秋戦国時代の前半に重なる。

ここは蜀人の政治経済商業の中心地であったが城砦はなく、大きな住居址群と祭祀場、墓地からなる。

現在は埋め戻され、祭祀場跡だけが見学できる。

 

 

下: 乌木林

この敷地の川底に埋もれていた60本余りの黒檀が立てられている。

かつてこの地は黒檀の森で、今より温暖であった。

この黒檀は祭祀に使われた可能性が高い。

彼らは治水を重視し、河辺で祭祀を行った。

成都には有名な、水利を目的として紀元前3世紀築造が始まった都江堰がある。

 

 

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< 4. 発掘遺跡の展示館 1 >

 

この展示館は大型の祭祀場跡を覆っている。

 

 

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< 5.建築物跡と発掘品 >

 

上: 左側のパネルに高い櫓の絵が見える。

パネルの周囲の穴が、柱の跡なのだろう。

出雲大社の太古の復元モデルと似ている。

 

下: 黄金のマスクなどの金器が発掘された。

写真には他に玉器や青銅器も見える。

 

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< 6.石虎と象牙 >

 

上: 中央右に数本の象牙が白いビニールで覆われている。

また猪の牙も大量に見つかった。

当時、この地には多くの象が生息していた。

右下のパネルを拡大したものが下の写真です。

 

都江堰が造られた岷江はしばしば氾濫し水害をもたらしていた。

古代の蜀人は、象牙には水の妖怪を殺し、洪水を鎮める神通力があると信じ、川辺のこの祭祀区で、象牙を柱状や円状に並べて供え、祭神を祭ったようだ。

 

下: 写真の右下に石虎が二つ見える。

崇拝の対象だったのだろう。

 

 

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< 7. 発掘品の展示館 >

 

上: 二つの展示館の間の通路。

広々とした森林公園になっている。

 

下: 発掘品の展示館に向かう。

 

 

 

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< 8. 蜀人の暮らし >

 

三枚の写真はジオラマを左から右に撮って、上から下へと並べた。

当時のこの地の様子を再現したものです。

 

森が残る平原に川が流れ、その周辺に多くの住居が建っている。

左には象、犀、鹿が見える。

川には数艘のカヌーのような小舟が見える。

右手前には住居と家畜の囲いが見える。

 

ここは蜀人の王国の一つだった。

これに遡り、城郭のあった三星堆遺跡が500年間続き、衰退した後にこの王国が興り700年ほど続いた。

蜀人の国は長江上流域の盆地にあったので、永らく黄河中流域の争いに巻き込まれることはなかった。

しかし、秦国がこの地に侵入すると蜀人は敗れ、一部は西側のチベット方面へ、または南下し東南アジアへ去った。

 

 

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< 9.再現された住居と土器 >

 

上: 再現された住居。

土壁と草ぶきの屋根。

 

下: 土器

ほとんどの土器の形は他の地域と同じように見える。

 

下: 玉器

写真の下段に玉琮、割れた玉璧、上段に玉戈などがある。

玉器は殷周のものと似ており黄河中流域と交流があったことを伺わせる。

これらは祭祀用のはずです。

上部の物は、かなり大きい。

 

 

 

 

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< 10. 青銅器と埋葬墓 >

 

上: 青銅器

殷で隆盛を極めた祭祀用の青銅器容器の鼎などをまったく見なかった。

なぜか青銅器は薄いか小さいものがほとんどです。

三星堆遺跡では大きな青銅製人形を作っていたが、こちらでは大きい物は造られていないようだ。

不思議だ。

 

下: 埋葬墓

一見した感じでは、貧富の差や格式がないようです。

またほとんど副葬品が見られない。

ここには見えていないが、遺体を二つのカヌー形状の棺で上下に被せるようにして埋葬することもしていた。

 

このような階層の無い社会(王国)で、金器・玉器や象牙を消費する祭祀が盛大に行われていたことに驚いた。

 

 

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< 11. 主要な発掘品 1 >

 

左上: 玉鉞

右上: 玉琮

この二つは他の中国文明でもよく見られるものです。

 

左下: 青銅立人像

この人形は、服装や髪型、冠などから見てこの地に特徴的なものです。

 

右下: 黄金マスク、幅19.5cm、厚0.4mm。

これに遭えて、ここに来た甲斐があった。

 

三星堆遺跡の青銅人形には、他の中国文明には無い特徴があった。

それは目が異常に大きく、また飛び出していたことです。

このマスクには、その様式が受け継がれている。

もっとも三星堆遺跡の青銅製人形にも金箔が貼られているものはあったが、金沙遺址の方が三星堆遺跡よりも金製の造形品が多い。

 

 

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< 12. 至宝 >

 

左: 金製の太陽神鳥、外径12.5cm、厚み0.2mm。

12本の火炎をもつ太陽を四羽の鳥がめぐっている(切り抜かれた部分)。

太陽の図案は、三星堆祭祀坑出土の大型神樹などにも取り入れられている。また火炎をもつ太陽は、前述の青銅立人像が頭上に戴く冠の形とも似ている。

金沙遺跡も三星堆と同様に太陽が重要な意味を持っていたようだ。

 

右: 顔が無い青銅製人形

面白い造形だ。

 

 

あとがき

 

初め、金沙遺址にはあまり期待していなかったが来て良かった。

黄金マスクと金製の太陽神鳥は特に興味深かった

北京の博物館で三星堆遺跡の青銅人形を見ているので、両遺跡を見たことになり、思いを果たした。

 

この遺跡博物館を見たことにより、漢民族の中心文明から離れた蜀人(羌族の一部?)、そして成都の古代を少しイメージ出来たように思う。

三星堆遺跡に代表される蜀人の祭祀は、祖先と太陽の崇拝だった。

殷の祭祀では、多くの奴隷を生贄に捧げたが、こちらではそのような事はなかったとされている。

 

今回、中国の外縁を巡る理由の一つは、古代中国の民族移動が後の少数民族の形成にどのように関わったかを知ることだった。

紀元前後以降、漢民族が覇権を広げるに従って、もともと中国大陸に広く散在していた民族は、南部や西部の山岳部に難を避けた。

このことで、各部族の神話が各地に分散し、全体として統一感を欠き、中国神話は纏まりの無いものになったと私は考えている。

今回の蜀人もそうだった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 7: 罠に嵌った人々


 

 

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20世紀最大の罠と言えば、ファシズムへの暴走でしょうか。

人々は危機を脱しようとして、より悲惨な危機に陥った。

日本も同じですが、ドイツを見ます。

 

 

特報!!

10-1

< 2.いつか来た道 >

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/13175

 

 

当時の状況

・ 巨額の戦後賠償と世界恐慌による大量の失業

・ 革命後の社会民主主義政権は安定せず、軍部の復権が進んでいた

・ 共産革命とソ連への恐怖が高まっていた

 

一人の天才アジテーター、ヒトラーが出現した。

彼は、かつてのドイツ帝国領土を取り戻し、共産主義者とユダヤ人を排除すべきと訴えた。

彼は清廉な人物と見なされ、若者に絶大な人気があった。

彼が行う政策、国民運動や大規模公共事業は功を奏し経済が好転した。

これでナチ党は国民の支持を得て国会の議席を伸ばしていった。

 

当時、政治を掌握していたのは元軍人の大統領でした。

彼は自ら任命した首相に政治を任せ、まだヒトラーを信用していなかった。

だがこの非力な首相は、人気のあるヒトラーの抱き込みを図った。

 

大統領が高齢で弱気になったと見るや、ヒトラーは一気に政権掌握に動いた。

彼は部下に国会議事堂を放火させ、それを共産主義者のせいにし、彼らの議員職を剥奪します(緊急事態条項と同じ)。

そしてナチスは過半数を占める第一党となり、ヒトラー総裁を決議させた。

 

この後、第二次世界大戦へと一気に突き進むことになる。

やがてユダヤ人追放が始まり、彼らの莫大な資産は国民に分配され、虐待や虐殺への批判は起きなかった。

同様の手口は中世スペインでもあった。

 

この間、ヒトラーを支えた巨悪があった。

ドイツのメディア王は彼を応援した(フォックスニュースや読売と類似)。

ドイツの鉄鋼王(兵器王)も彼を支えた。

英米系の大企業は、戦後までこの鉄鋼王に巨額資金を提供し利益を得ていた。注1.

 

 

ポイント

 

・ 国民は騙されたと言うよりヒトラーに狂信し続けた。

・ 安直な危機打開策が、最悪の被害を招いた。

・ 一部の国民は命を賭して抵抗したが制圧され、暴走を止めることは出来なかった。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

注1. 「オリバー・ストーンの『アメリカ史』講義」p391より。

 

 

 

 

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