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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

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< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方


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今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。

日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。

 

 

 

結論は・・

一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。

しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

 

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。

ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。

 

 

ある人々が言い募る説とは

第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。

当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。

さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

 

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」

「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」

「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

 

目立つのは、こんなものでしょうか?

これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。

どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。

 

 

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何が変なのか?

敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。

GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。

彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

 

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。

ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

 

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。

当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

 

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。

軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

 

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。

地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

 

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?

ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。

これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。

つまり、下地が既に出来ていたのです。

 

 

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可笑しさはこれだけに留まらない

それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?

安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

 

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。

この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

 

さらにこんな反論が出るかもしれない。

今の米国とかつての米国は違うはずだと!

少し、話が怪しい。

 

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。

植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?

もちろん侮蔑され差別された。

 

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?

一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。

それが戦争です。

日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

 

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。

よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

 

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。

 

 

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この御説はどうでしょうか?

東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。

「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

 

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。

当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。

しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。

どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

 

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。

これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。

しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。

そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

 

一方、日本はどうでしょうか?

いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

 

実に、不思議な国があるものです。

 

 

 

さらに、これはどうでしょうか?

もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

 

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。

これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

 

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。

しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

 

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

 

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?

おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。

 

 

まとめ

ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。

何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

 

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。

別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。

このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。

つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

 

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。

つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

 

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。

この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。

これは本質的な心性のひとつです。

 

分かり易い例があります。

実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。

一番、鮮明なのはチンパンジーです。

チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。

しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

 

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。

時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。

 

 

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最後にお願い

どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。

 

 

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フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1


 

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いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。

プチットフランスと大聖堂が有名です。

今回は、前半を紹介します。

 

 

なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。

さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

 

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。

その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

 

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。

この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

 

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。

 

 

 

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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

 

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。

この日も素晴らしい天気でした。

青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。

その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

 

 

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< 3. クヴェール橋 >

 

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。

上の写真から順次、北から東の方を見ている。

 

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

 

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。

こちらの川が南側を流れるイル川です。

ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

 

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。

この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

 

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。

戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。

きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。

だが、後で私の勘違いとわかりました。

 

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。

1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。

 

 

 

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< 4. ヴォーバンダム >

 

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.

13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

 

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。

右手のガラスの建物は近代美術館。

 

下の写真: ヴォーバンダムの内部。

私達はそのアーチの上を歩いている。

写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

 

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、

1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。

 

 

 

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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

 

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

 

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

 

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。

 

 

 

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< 6. プチットフランス 1 >

 

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。

これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。

この景観は16~17世紀に始まる。

 

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。

その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。

またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。

どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

 

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。

この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。

 

 

 

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< 7. プチットフランス 2 >

 

 

 

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< 8. プチットフランス 3 >

 

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。

川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 通り 3 >

 

地図番号4から5の間の通り。

 

 

 

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< 10. サン・ト―マ教会 >

 

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

 

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。

そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。

そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。

その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。

 

 

 

 

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< 11. グーテンベルグ広場 >

 

グーテンベルグの像が立っている。

彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。

この広場はこれを記念したものです。

 

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。

その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

 

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。

またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

 

後半は、次回紹介します。

 

 

ストラスブールの城郭について

帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。

 

 

 

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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

 

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

 

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。

 

 

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< 13. ストラスブールの城郭図 >

 

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

 

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.

この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。

現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。

中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。

 

 

中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。

上の俯瞰図の平面図と考えられる。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

 

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。

この時期になると、更に城郭は拡大している。

 

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。

ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。

ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

 

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

 

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。

17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。

これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

 

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。

これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。

 

 

次回に続きます。

 

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何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛


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今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。

共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。

なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。

 

 

浜田先生のお言葉

この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

 

僭越ながら抜粋要約します。

 

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。

つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。

これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。

この点、タカ派の安部首相が最適です。

 

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。

さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。

この二人もタカ派(共和党)でした。

 

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。

しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。

 

 

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「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ

これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。

しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

 

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。

例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。

とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

 

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

 

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

 

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。

人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。

「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

 

・・・

これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。

つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。

 

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?

まったく正反対の解釈に思えます。

おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。

この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。

この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。

 

 

多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。

単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

 

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。

経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。

実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。

これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。

是非とも精進して欲しいものです。

 

 

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事実は奇なり

浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

 

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

 

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。

よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。

基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。

それ以上に進むこともありますが。

詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。

残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

 

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。

これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。

 

 

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< 4. トラッキング・ゲームの図 >

 

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。

曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。

但し、相談は出来ません。

 

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。

しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

 

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。

これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。

 

 

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浜田先生の歴史観のおもしろさ

彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。

確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。

つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

 

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。

しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

 

レーガンが大統領になったのは1981年でした。

一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。

また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

 

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。

大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.

また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。

 

 

1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

 

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。

この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。

周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。

また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

 

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。

要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

 

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。

もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?

一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。

 

 

最後に

せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。

興覚めです。

諦めないで、また初めから読むつもりですが。

 

 

 

 

注釈1.

二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

 

注釈2.

1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。

そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

 

注釈3.

動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。

このジャンルの本を推奨します。

「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。

「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。

「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。

「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

 

注釈4.

創元社刊「世界の歴史10」J.M.ロバーツ著。

p186~188に、似たような記載があります。

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

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< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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デマ、偏見、盲点 18: 左翼と右翼の戦争


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今回は、右翼と左翼が思い描く戦争を通して、戦争の危うさを考えます。

ここで指す右翼とは、右翼寄りの人、右傾化した人も含み、左翼も同様です。

 

 

はじめに

先日、私がトランプ大統領の指南役スティーブン・バノンのことを話していたら、思わぬ問がありました。

 

今回のトランプ大統領誕生の最大の功労者はバノンで、彼がいなくては大統領は人気を博すスピーチも政策立案もままならなかったでしょう。

このバノンは政治に強い関心を持ち、右翼のオンラインニュースを立ちあげていた。

彼が目指したの、ホワイトハウスとエスタブリッシメント(支配層)を破壊することで一種のクーデターであり、実現の為にトランプを祭り上げた。

その理由は、現状の腐敗し体たらくなホワイトハウスでは第三次世界大戦を凌ぐことが出来ないと考えたからでした。

 

ここまで説明すると、ある人が「右翼は戦争をしたがる筈なのに?」と言って腑に落ちないようでした。

 

この問には、右翼と戦争に対する誤解がある。

 

それでは皆さん、右翼と左翼どちらが戦争をするのでしょうか? 注釈1.

 

左翼は、右翼こそが軍隊と戦争を望むと信じているようです。

逆に右翼は、左翼こそが暴力を容認し、一方で負け犬になると信じているようです。

 

 

 

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この見方は正しいのでしょうか?

右翼の中には、ヒトラーが社会主義者だから、極悪な戦争を始めたと信じている人がいる。

一つには、ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称だからでしょう。

歴史を知れば、彼は国粋主義者(ファシスト)で右翼だとわかるはずです。

 

それでは日本が満州事変へと突き進んだ1930年代、この大陸進攻を牽引したのは社会主義者か国粋主義者のどちらでしょう。

牽引した多くは軍人でした。

 

これらの解釈に混同があるのは、偏ったマスコミや言論などの影響が大きい。

端的な例として、満州事変が始まる前、売り上の上位は朝日と毎日で、読売はかなり少なかった。

しかし、事変が始まると他社より遥かに売上を急伸させたのは読売新聞でした。

朝日や毎日も売り上げを伸ばしてはいたが。

これは読売が最も戦争に反対していたからでしょうか?

 

この手の勘違いは、熟慮せずに心地良い説に飛びついたからなのですが、実は、ここに右翼の心性があるのです。

当然、左翼の心性もあります。

後に、両者の心性について解説します。

 

 

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米国の戦争を振り返り、右翼と左翼の違いをみます

軍事大国の米国で、民主党と共和党のどちらがより戦争をしていると思いますか?

 

主な戦争を始めた政党と大統領を挙げます。

開戦には複雑な経緯があるのですが簡略化しています。

 

南北戦争はリンカーン(共和党)。

第一次世界大戦(ウイルソン)と第二次世界大戦(ルーズベルト)は民主党。

朝鮮戦争は民主党。

ベトナム戦争はケネディー(民主党)。

コソボ紛争への介入はクリントン(民主党)。

湾岸戦争とイラク戦争はブッシュ親子(共和党)。

 

こうして見ると、ハト派と見做されている民主党の方が、大きな戦争に加担し、多くの死者を出している。

 

皆さんは、民主党と共和党の戦争に違いがあると思いますか?

一般には以下のように言われている。

民主党は、世界の平和や人権を守る為に、他国に介入し戦争も行う。

共和党は、他国への介入を避けるが、自国の主義や権益擁護の為には断固戦う。

 

それではこれら戦争を簡単に検討します。

*南北戦争で決着をつけたからこそ、国の分裂を防いだと信じらている。

*二度の世界大戦と朝鮮戦争への参戦、コソボ紛争介入がなければ、より酷い状況になった可能性がある。

*ベトナム戦争とイラク戦争は誤解に基づいた開戦で、より酷い結果を招いたと言える。

*湾岸戦争は予防的な開戦で、不要だった可能性がある。

(これら戦争には、参戦や開戦、介入の是非を巡りいまだに賛否両論がある。)

 

これらの戦争は、2度の世界大戦以外、自国が攻撃されたから反撃したのではなかった。

つまり、自己防衛ではなく、同盟傘下の保護または予防的な戦争と言える。

これには放置すればいつか自国に悪影響が及ぶかもしれないので、早めに叩かなければならないとの思惑がある。

当然、米国は世界や自国の安全保障の為に戦争を始めたと言うでしょうが。

 

つまり、右翼(共和党)も左翼(民主党)も戦争を行うのです。

どうしても軍事大国になると安易に戦争を始めやすい。

 

 

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予防的な戦争について知っておくことがあります

予防的な戦争が許されないのは当然ですが、実は無視してはならない歴史的教訓があります。

 

ヒトラーがドイツで台頭し始めた時、周辺国では宥和策をとりました。

(日本はドイツと共に戦ったので別です。)

目立つのは米国のケネディ―大使(大統領の父)、英国のチェンバレン首相、そして隣国フランスです。

彼らは戦争を避ける手段として相手を刺激しない、または同じ独裁者ならスターリンを倒してくれるヒトラーを選んだのです。

しかしこれは間違いでした。

 

やがて英国で、軍人出身のチャーチルがヒトラーとの抗戦を表明した。

さらに米国のルーズベルトは米国民の厭戦気分を押して、参戦に持っていった。

こうして多大な犠牲を払ったが、世界が協力してドイツと日本の進攻を挫くことが出来た。

 

このことから、侵略軍を撃退出来る体制作り(軍備など)や心づもりは必要だと言えます。

とは言え、それほど単純ではなく、周辺諸国との軍拡競争を招く危険があります。

 

これと逆のケースがベトナム戦争です。

朝鮮戦争を経験した米国は、共産勢力を恐れ、南ベトナムで過剰防衛(予防的な戦争)に走り、ベトナム戦争に踏み切ったと言える。

 

この二つのケースは、過去の悲惨な戦争の経験や恐怖が尾を引き、リーダーや世論が選択を誤った例です。

 

ハト派的な宥和策もタカ派的な強硬策も共に巨大な戦争を招いたのです。

 

 

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右翼と左翼の心性とは何か?

右翼の心性には、見知らぬに他者への著しい恐怖心があるようです。

私が外国旅行をすると言えば、右翼の人ほど、現地(イスラム圏や韓国など)に不安を感じるようです。

これは彼らが偏見を煽るマスコミに影響されていることもあるが、やはり未知のものや他人に強い恐怖心や不安感を持つことにある。

 

一方、左翼の心性には、他者への不安感が少なく友情すら築けると思うようです。

一見、良いように聞こえるが、うがった見方をすれば甘い理想家とも言えます。

 

この両極端の心性が社会の変化に感応し、真逆のマスコミや言論界に共鳴し、益々偏りを深めることになる。

 

本来、この二つの心性は一人一人の脳内に共存しています。

 

未知のものに楽天的で、チャレンジする心性と、未知のものを恐れ、慎重に対処する心性は、人類が進化する過程で獲得したもっとも重要な相反する二つの能力です。

この二つの心性が、各人の生育過程で脳内ホルモンの分泌や左脳右脳の連携機能の発達具合により、人類の平均値よりそれぞれ一方に偏ってしまうのです。

 

願わくは、両方がうまく相乗効果を発揮すれば良いのですが。

もしかすると、この心性が年齢や男女差で異なり、ばらついていることが人類の発展と安全を生み出しているのかもしれません。

安心はできませんが。

 

ここで注意が必要なのは、左翼や右翼と呼ばれる人々が、本当にこの心性を有しているとは限らないことです。

例えば、一方に属すことにより得失がある場合などです。注釈2.

 

 

ここで簡単なシミュレーションをしてみましょう 注釈3.

敵対しつつある二つの軍事大国を考えます。

 

ここでは両者の心性の動きを中心に考えます。

それぞれの国が極端な右翼や左翼に支配されていればどうなるでしょうか?

 

一番分かり易いのは、両国が極端な左翼(ハト派)に支配されている場合でしょう。

おそらく宥和策が図られ、軍事衝突は遠のくでしょう。

 

次いで、両国が極端な右翼(タカ派)に支配されている場合はどうでしょうか。

これも単純明快でしょう。

互いに猛烈な恐怖心を抱き、宥和策を取れず疑心暗鬼に陥り、ついには軍拡競争、衝突に進むでしょう。

 

最後に、右翼が支配する国と左翼が支配する国が対峙している場合はどうでしょうか。

うぅ・・・・・・、難しい。

 

ヒントは、それぞれの国に左翼寄りと右翼寄りの心性を持った国民が同数いることです。(小さな集団は別にして、人類全体で見ると心性をもたらす能力は正規分布している)

右翼支配の国は不安を感じないが、左翼支配の国にやがて変化が起きるでしょう。

左翼支配の国民と言えども、右翼支配の国に恐怖心を抱き、急速に右傾化していくことになります。

こうなると結局、両国は共鳴するように軍拡競争を始め、衝突の可能性が高まるでしょう。

 

戦史を見ると、適切な政治文化と優れたリーダーに恵まれない多くの国が、この悲惨な状態に陥るのです。

 

元来、相手が本当にハト派だとか、タカ派だとか、軍事力が同等かを見定めるのは困難です。

現在は、地球全体が監視され、また以前に比べて互いの国情をより知ることが出来るようになっている。

しかし、それでも自国の政府やマスコミに報道の制限や偏向があるので、正しい情報が国民に伝わるとは言い難い。

 

 

要点はこうです。

 

一つは、互いが疑心暗鬼になり牽制を始めると、益々、亀裂は深まり、やがて軍拡競争、衝突につながる。

単純に、一国の過大な軍備は危険因子になる。

 

一つは、上記の過程が、外界に対する恐怖心の高まりを受けて、一気に加速する。

この恐怖心を強く抱き、牽制すべしと行動させるのが右翼の心性です。

 

一つは、互いの国情と内情を正確に把握できない為に、疑心暗鬼が増幅される。

これを防ぐにはひとえに国民の知る権利が守られることであり、特に為政者にとって都合の悪い情報を捏造・隠ぺいする政府と偏向したマスコミの存在が危険です。

 

 

 

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まとめ

これまで検討して来たことを整理しましょう。

 

*過大な軍事力は戦争を招きやすい。

 

*侵略に対する備えは必要ですが、軍拡競争や軍事大国化への注意が必要。

説明は省きますが、今後、世界は新たな防衛体制に進むことになるでしょう。

 

*極端な宥和策も強硬策も戦争を招きやすい。

 

*恐怖が高まると右傾化が興り、疑心暗鬼、軍拡競争へと進み、戦争を招きやすい。

だからと言って単純に左翼だから安全、右翼だから危険とは言えいない。

 

*国内外の情報が正確に素早く伝わることで疑心暗鬼を抑え、戦争の誘発を避けることが出来る。

 

 

追記

上記のことを踏まえれば、右翼を自認し挙動不審な現首相に憲法改正や軍事を任せることは、戦争の危機を高めることになるでしょう。

 

 

 

注釈1.

左翼と右翼の明確な区別や定義は複雑ですが、ここでは簡単に、左翼は革新、リベラル、ハト派で、右翼は保守、ナショナリズム、タカ派としておきます。

 

元来、左翼と右翼の意味は時代や社会で変化します。

各人が左翼的か右翼的となるのは、個人の心理的、文化的、政治的、社会的、思想的な背景、それに加えてマスコミ、言論界など多彩な影響によります。

一言で言えば、多くの人は属している社会とムードで両端に振れることになる。

 

注釈2.

共産主義の中国上層部や軍部には右翼の心性を持った人が多いはずです。

特に保守的な傾向を持つからこそ出世出来るはずです。

例えば、右翼的な教育を目指す学校建設を謳えば政府からの支援があるような場合などです。

 

注釈3.

この説明は、「互いを牽制することが如何に状況を悪化させるか」の社会学的実験の結果、脳科学の知見を参考に書いています。

 

 

 

 

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フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2


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これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。

今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。

次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。

 

 

リヨン観光

観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。

観光した時間は15:45~17:40でした。

観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。

この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

 

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。

街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

 

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。

この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。

中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。

リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。

 

 

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< 2. リヨンの地図 >

 

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。

番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。

番号5の黒四角はホテルです。

 

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。

Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。

Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。

赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。

Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。

写真もその順に並んでいます。

黄色の線は抜け道(トラブール)です。

 

 

 

 

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< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 >

 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。

次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。

この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。

この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

 

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。

 

 

 

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< 4. 展望台からの眺め >

 

展望台は東方向に視界が開けている。

写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

 

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。

このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。

 

 

 

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< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >

 

 

 

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< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

 

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。

しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。

 

 

 

 

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< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

 

上の写真: モザイク画。

教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。

 

 

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< 8. 旧市街の通り >

 

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。

 

 

 

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< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

 

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

 

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。

右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

 

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。

かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。

 

 

 

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< 10. 抜け道2と博物館 >

 

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。

抜け道1と直ぐ近くにあります。

入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。

入口に表示があるようですが、私には理解できません。

 

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma」

地図番号2.

約100年前に、リヨンで映画が生まれた。

 

 

 

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< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >

この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。

上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。

公会議がここで行われたのだろうか?

 

 

 

 

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< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

 

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。

店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

 

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。

元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。

ここだけなら無料です。

菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。

 

 

 

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< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

 

最初、通った広場に戻って来ました。

上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。

下の写真が元証券取引所です。

この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

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< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

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< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

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< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

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< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

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< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 10: 古都エクス・アン・プロヴァンス


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今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。

ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。

またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ

 

 

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< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >

 

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。

 

 

上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。

また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。

黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。

赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。

これらの地名は彼の画題に出てくる。

 

下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。

徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。

この間、12:00に始まり、12:40で終わった。

ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。

私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。

 

 

 

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< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >

 

上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。

 

中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。

 

下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。

 

彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。

そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。

 

 

町の散策

旅行3日目、5月19日(金)。

素晴らしい天気でした。

 

 

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< 4. ミラボー通りを進む >

 

上の写真: ミラボー通りを進む。

進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。

この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。

 

下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。

 

 

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< 5. ミラボー通り >

左上の写真: 温水が湧き出る泉。

紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。

 

右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。

 

左下の写真: 地図の1番。

セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。

 

右下の写真: 地図の2番。

ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。

私達はこの建物の左の道を入って行った。

 

 

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至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。

陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。

 

 

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< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >

 

魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。

 

 

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< 8. 市庁舎広場 >

 

上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。

 

下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。

広場は凄い人出でした。

 

 

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< 9. 大学と大聖堂 >

 

上の写真: 地図番号4.

セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。

 

下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。

彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。

 

 

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左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。

 

右の写真: 通りの建物を見上げた。

柱の彫刻が往時を偲ばせる。

 

 

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< 11. 昼食で入ったレストラン >

 

上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。

看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。

注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。

出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。

店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。

 

 

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< 12. レストランの中から >

 

フランスで初めてテラスで食事をした。

周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。

 

 

 

 

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< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >

 

ほんとうにこの町は賑わっている。

観光のメッカなのだろう。

 

 

 

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< 14. ロトンドの噴水 >

 

こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。

次はアルルに向かう。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスについて

紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。

これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。

この山は、この町の守護神とみなされた。

 

4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。

その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。

12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。

1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 6: 小国モナコ


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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。

私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。

ここは旧市街と宮殿などがあるところです。

 

 

モナコ

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。

そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

 

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

 

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。

今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。

添乗員は大勢を従え、苦労していました。

しかし、その後は順調な旅となりました。

 

 

 

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< 2。 モナコの地図 >

 

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。

上が真北です。

王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。

私達は左側のエズEzeから来ました。

 

中央の地図: モナコ公国の全景。

方角を変えています。

赤矢印がモナコヴィルです。

 

下の地図: モナコヴィルを拡大。

Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。

地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。

赤線は徒歩ルートです。

奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。

黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。

 

 

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< 3。 眼下にモナコ、バスから >

 

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

 

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。

 

 

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< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

 

上の写真: モナコヴィルの下。

 

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。

 

 

 

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< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

 

上の写真: 海洋博物館と水族館。

地図のSの直ぐ近く。

 

下の写真: 王家親族の住居。

 

 

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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

 

下の写真: モナコ大聖堂。

古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。

 

 

 

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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。

左中央は裁判所。

 

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。

 

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< 8。 大公宮殿 >

 

上の写真: 大公宮殿。

陽が山際に迫っている。

 

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。

ここから湾が一望に見渡せる。

 

 

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< 9。 展望台からの眺め >

 

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。

湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

 

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。

標高は60mぐらい。

 

 

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< 10。 広場から戻る道 >

 

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。

モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。

 

 

 

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< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

 

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。

不思議の一言に尽きる。

 

 

モナコの不思議

モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。

歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。

半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

 

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。

1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。

現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

 

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ


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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。

このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。

この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか

 

 

エズ村

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。

エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。

 

 

 

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< 2. エズの地図 >

 

上二つの地図: 地図の上が真北。

赤矢印がエズ村の位置です。

 

下の地図: エズの観光地図。

黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。

エズの頂上は427mある。

雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 

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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

 

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。

ここをくぐると村に入る。

 

 

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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。

所々に踊り場のような小さな広場がある。

 

 

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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

 

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

 

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

 

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。

平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。

 

 

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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。

クルーズ船も見える。

 

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。

サボテン公園は1949年に造られた。

元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。

 

 

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上の写真: 要塞跡の頂上。

ほぼ360度、見渡せる。

 

下の写真: 村の教会を見下ろした。

その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。

 

 

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< 8. 先ほどの教会 >

 

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。

エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。

私の写真では確認できなかった。

かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。

 

 

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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

 

下の写真: 下っている。

 

 

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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

 

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。

西側を見ている。

 

 

エズの歴史

観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。

それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。

帰国後、この地域に何があったかを調べました。

 

大きな流れを見ます。

エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。

紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。

しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。

この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

 

エズについて

973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

 

1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。

サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

 

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

 

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。

こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 4: 古都ボーヌ


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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。

ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。

この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。

 

 

 

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< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

 

上が真北です。

城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。

私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。

黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。

青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。

 

 

ボーヌの町

 

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上の写真: バスのフロントガラス越しに。

ボーヌの旧市街に向かっている。

 

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。

 

 

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上の写真: 施療院オテル・デュ―。

下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。

この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。

 

 

 

 

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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。

No.2の地図の赤線部分です。

 

 

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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。

No.2の地図の青線上で撮影。

 

 

 

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No.8の下の写真と同様。

古い堡塁や城壁、門が残っている。

 

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丘の上のレストランに向かう途中の風景。

旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。

ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。

 

 

ボーヌとブルゴーニュ

後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。

この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。

 

 

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< 11. ボーヌの歴史 >

 

 

左上の地図: フランスのワイン産地。

 

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。

一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。

二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。

上からシトー会、下ってクリュニー会です。

 

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。

 

 

 

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A: ブルゴーニュ公国の紋章。

B: イエスとワイン。

C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。

D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。

 

 

ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。

フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。

一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

 

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。

しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

 

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。

10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。

これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。

だが、この繁栄は堕落を生んだ。

 

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。

これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

 

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。

キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

 

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。

そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。

 

 

いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。

 

 

 

注釈1

フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。

中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。

 

 

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Bring peace to the Middle East! 80: At the end


中東に平和を! 80: 終わりに 

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A year has passed since I started this series.
I write a summary and impressions at the end.
この連載を始めて1年が過ぎました。
終えるにあたり、まとめと感想を記します。

 

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Contents

1. At the start
2. What do I aim at?
3. About the Middle East and Arab
4. Outline of conflicts in the Middle East
5. Outline of conflicts in the Middle East 2
6. A popular book 1
7. A popular book 2
8. Seeing the Middle East and Arab world in films 1: The beginning
9. Seeing the Middle East and Arab world in films 2: Lawrence of Arabia
10.Seeing the Middle East and Arab world in films 3: Schindler’s List
11.Seeing the Middle East and Arab world in films 4: The Four Feathers
12.Seeing the Middle East and Arab world in films 5: The Wind and the Lion
13.Seeing the Middle East and Arab world in films 6: The historical backdrop
14.Seeing the Middle East and Arab world in films 7: Terraferma
15.Seeing the Middle East and Arab world in films 8: Refugee issue 1
16.Seeing the Middle East and Arab world in films 9: Refugee issue 2
17.Seeing the Middle East and Arab world in films 10: the other son
18.Seeing the Middle East and Arab world in films 11: Israeli-Palestinian conflict 1
19.Israeli-Palestinian conflict 1: voices of the young 1
20.Israeli-Palestinian conflict 2: voices of the young 2
21.about terrorism 1 : at the beginning
22.about terrorism 2 : an assassination
23.about terrorism 3 : the background 1
24.about terrorism 4 : the background 2
25.about terrorism 5 : Various assassination
26.about terrorism 6 : maneuver secretly in Mossad
27.about terrorism 7 : Love and hate of Mossad
28.about terrorism 8 : terrorists and a conscientious objector
29.about terrorism 9 : Two combatants
30.about terrorism 10 : fight of believer
31.chain of retaliation 1 : in the end
32.chain of retaliation 2 : What is bad?
33.chain of retaliation 3 : in Syria and Lebanon
34.chain of retaliation 4 : Israel and Palestinian 1
35.chain of retaliation 5 : Israel and Palestinian 2
36.I beg a favor of you.
37.Thank for your answers.
38.chain of retaliation 6 : the intifada
39.chain of retaliation 7 : the Middle East war
40.chain of retaliation 8 : Why the Middle East war began? 1
41.chain of retaliation 9 : Why the Middle East war began? 2
42.What is the cause ?
43.What is the cause ? 2
44.What is the cause ? 3
45.Now, something I think. 1
46.Now, something I think. 2
47.religion and persecution 1: at the beginning
48.religion and persecution 2: Prejudice against Islam
49.religion and persecution 3: Persecution of Jewish people 1
50.religion and persecution 4: Persecution of Jewish people 2
51.religion and persecution 5: Persecution of Jewish people 3
52.religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4
53.when religions were born 1: preface
54.when religions were born 2: Judaism
55.when religions were born 3: Christianity
56.when religions were born 4: Buddhism
57.when religions were born 5: Confucianism
58.when religions were born 6: Islam 1
59.when religions were born 7: Islam 2
60.when religions were born 8: concluding section
61.Religion and Politics 1
62.Religion and Politics 2
63.Why was it exhausted ? 1: Introduction
64.Why was it exhausted ? 2: selfishness of major nations and multinationals
65.Why was it exhausted ? 3: Why is the selfishness permissible?
66.Why was it exhausted ? 4: When do major nations become selfishness?
67.Why was it exhausted ? 5: History repeats itself
68.Why was it exhausted ? 6: The period background of imperialism 1
69.Why was it exhausted ? 7: The period background of imperialism 2
70.Why was it exhausted ? 8: The mentality of the imperialism 1
71.Why was it exhausted ? 9: The mentality of the imperialism 2
72.Why was it exhausted ? 10: When did the world stand at a crossroad? 1
73.Why was it exhausted ? 11: When did the world stand at a crossroad? 2
74.Why was it exhausted ? 12: When did the world stand at a crossroad? 3
75.Why was it exhausted ? 13: What happened in Congo ? 1
76.Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2
77.Why was it exhausted ? 15: What happened in Congo ? 3
78.Why was it exhausted ? 16: What happened in Congo ? 4
79.Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5
80.At the end

 

目次

1.はじめに
2.私が目指すこと
3.中東とアラブについて
4.中東の紛争のあらまし 1
5.中東の紛争のあらまし 2
6.人気がある本 1
7.人気がある本 2
8.映画に見る中東とアラブ世界 1: はじめに
9.映画に見る中東とアラブ世界 2: アラビアのロレンス
10.映画に見る中東とアラブ世界 3: シンドラーのリスト
11.映画に見る中東とアラブ世界 4: サハラに舞う白い羽根
12.映画に見る中東とアラブ世界 5: 風とライオン
13.映画に見る中東とアラブ世界 6: その時代背景
14.映画に見る中東とアラブ世界 7: 海と大陸
15.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 1
16.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 2
17.映画に見る中東とアラブ世界 9: もうひとりの息子
18.映画に見る中東とアラブ世界 11: パレスチナ紛争 1
19.イスラエルとパレスチナの紛争 1: 若者の声 1
20.イスラエルとパレスチナの紛争 2: 若者の声 2
21.テロについて 1: はじめに
22.テロについて 2: ある暗殺
23.テロについて 3: その背景 1
24.テロについて 4: その背景 2
25.テロについて 5: 様々な暗殺
26.テロについて 6: モサドの暗躍
27.テロについて 7: モサドの恩讐
28.テロについて 8: テロ犯と兵役拒否者
29.テロについて 9: 二人の戦闘員
30.テロについて 10: 信者の戦い
31.報復の連鎖 1: その果てに
32.報復の連鎖 2: 何が悪いのか?
33.報復の連鎖 3: シリアとレバノンで
34.報復の連鎖 4: イスラエルとパレスチナ 1
35.報復の連鎖 5: イスラエルとパレスチナ 2
36.お願いがあります
37.ご意見に感謝します
38.報復の連鎖 6: インティファーダ
39.報復の連鎖 7: 中東戦争
40.報復の連鎖 8: なぜ中東戦争は始まったのか? 1
41.報復の連鎖 9: なぜ中東戦争は始まったのか? 2
42.何が原因か? 1
43.何が原因か? 2
44.何が原因か? 3
45.今、思うこと 1
46.今、思うこと 2
47.宗教と迫害 1: はじめに
48.宗教と迫害 2: イスラム教への偏見
49.宗教と迫害 3: ユダヤ人の迫害 1
50.宗教と迫害 4: ユダヤ人の迫害 2
51.宗教と迫害 5: ユダヤ人の迫害 3
52.宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4
53.宗教が誕生する時 1: はじめに
54.宗教が誕生する時 2: ユダヤ教
55.宗教が誕生する時 3: キリスト教
56.宗教が誕生する時 4: 仏教
57.宗教が誕生する時 5: 儒教
58.宗教が誕生する時 6: イスラム教 1
59.宗教が誕生する時 7: イスラム教 2
60.宗教が誕生する時 8: 最後に
61.宗教と政治 1
62.宗教と政治 2
63.なぜ疲弊したのか 1: はじめに
64.なぜ疲弊したのか 2: 大国と多国籍企業の身勝手
65.なぜ疲弊したのか 3: なぜ身勝手がまかり通るのか
66.なぜ疲弊したのか 4: 大国が身勝手になる時
67.なぜ疲弊したのか 5: 歴史は繰り返す
68.なぜ疲弊したのか 6: 帝国主義の時代背景 1
69.なぜ疲弊したのか 7: 帝国主義の時代背景 2
70.なぜ疲弊したのか 8: 帝国主義の心性 1
71.なぜ疲弊したのか 9: 帝国主義の心性 2
72.なぜ疲弊したのか 10: 何が岐路になったのか? 1
73.なぜ疲弊したのか 11: 何が岐路になったのか? 2
74.なぜ疲弊したのか 12: 何が岐路になったのか? 3
75.なぜ疲弊したのか 13: コンゴで何があったのか 1
76.なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2
77.なぜ疲弊したのか 15: コンゴで何があったのか 3
78.なぜ疲弊したのか 16: コンゴで何があったのか 4
79.なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5
80.終わりに

 

3
*3

 

What was I writing about in this series?
I have felt distress at violence of Islamic State (IS), and plight of refugees and Palestine.
Then I got a book criticizing Islamic civilization by Bernard Lewis (annotation 1).
This book was full of contempt but was a bestseller in the United States.
This had showed many people affirm the action of the United States that had plunged the Middle East into confusion, and so I had a sense of crisis.
In it, there is a prejudice of Western civilization (Judaism, Christianity) against Islamic civilization.
So I started this series.

Initially I tried to introduce the present situation in the Middle East and the outline of the colonial era.
Next, I looked for the motives and background of terrorism that prolonged the conflict.
And I looked at a chain of retaliation all over the place.
The chain of retaliation is the most universal mechanism to expand every war.
The hatred producing the retaliation was between tribes and sects, and even between different civilizations and religions.

Then, to search for origin of the hatred between civilizations and the religious persecution, I compared the birth of world religions.
The difference in religion is certainly an origin of the confrontation, but is only a part.

On the other hand, in having examined the history of the Middle East, the colonial domination was understood as the origin of hatred and exhaustion.
If you look at the world, many countries other than the Middle East also are being distressed by conflict, dictatorship and economic downturn.
And, the more harshly a country was treated by the Western colonial domination a century ago, the more likely a country was exhausted.
Even after independence, the conflicts are frequent and prolonged due to the proxy war of the Cold War.

So, I examined the colonial domination.
Why did Western Europe do harsh colonial domination?
Why was the colonial society being exhausted?
Why do the conflict and stagnation continue even after independence?

And today I finish this series.

 
この連載で何を語って来たのか
私は、イスラム国の暴虐、難民とパレスチナの苦境に心を痛めた。
そしてバーナード・ルイスのイスラム文明批判の一冊(注釈1)を手に取った。
この本は侮蔑で溢れていたが、米国でベストセラーでした。
このことは中東を混乱に陥れた米国の行為を肯定するものであり、私は危機感を持った。
そこにはイスラム文明に対する西欧文明(ユダヤ教、キリスト教)の偏見がある。
それで私はこの連載を始めた。

当初、中東の現状と植民地時代の概要を紹介することに努めた。
次いで、紛争を長引かせるテロの動機や背景を探った。
そしておぞましい報復の連鎖に行き着いた。
報復の連鎖は最も普遍的な戦争拡大のメカニズムです。
この報復を生む憎悪は部族と宗派、さらには異なる文明と宗教間にもありました。

そして文明間の憎悪と宗教上の迫害の起源を求めて、世界宗教の誕生を比較した。
宗教の違いは確かに対立の起源だが、一部でしかない。

一方、中東史を調べると憎悪と疲弊の根源に植民地支配があることがわかる。
世界に目をやれば、中東以外に紛争、独裁、経済低迷に喘ぐ国々は非常に多い。
そして、疲弊が酷い国ほど1世紀前、西欧の植民地下で過酷な支配を受けていた。
また独立後も、冷戦の代理戦争などにより紛争が頻発し長引いてる。

そこで、私は植民地支配を調べた。
なぜ西欧は苛烈な植民地支配を行ったのか?
植民地社会はなぜ疲弊し続ける事になったのか?
独立後も、なぜ紛争と低迷が続くのか?

そして今日、この連載を終えます。

 

4

*4

 

Something I think now
I hope that my article solves the misunderstandings about the Middle East and Islam in any way and is useful for the world peace.
Unfortunately, I could not find even a clue for bringing peace in the Middle East.

In the course of this investigation, I lost my energy every time knowing a state of utter confusion.
However, I have continued with the desire to have to avoid the world going this wrong way any more.

In an extreme instance, it can be said that the war and exhaustion of the Middle East began from the colonial domination of Western Europe.
However, we can not say to Western Europe having responsibility for it.

The world must be very peaceful if there aren’t the imperialism and violence of great nation that is continuing even now.
Discrimination emotions and hatred have approved the violence, but this is not limited to Westerners.
My concern is that the pursuit of greed and strong power on the pretext of freedom is increasing momentum.
Forenamed Bernard Lewis justified the military invasion by despising the Islamic world as backward civilization and frail society.
Still, a logic of imperialism continues to live.
Naturally, within a nation ruled by law, this logic is denied, but this trend is increasing momentum, mainly in Europe and the United States.
It is a truly dangerous sign.

At the very least, the Europe and the United States reflect on the past conduct, should stop the invasion and intervention.

On the other hand, there seem to be no way to recover the former colonial society once destroyed.
Have we no choice but to expect a fortuity, passing years, or correspondences changed of great nation?

However, there is a faint hope.

Certainly, humanity has repeated folly, but also produced unexpected solutions.

Buddha led to a freedom from the corrupt politics, Jesus did to it from the invaded and exhausted society, and Mohamed did to it from the society where conflict persisted.
Their behaviors changed the world.

After that, Gandhi in India, Robert Schuman in France (Annotation 2), Reverend King in the United States, Mandela in South Africa, and Shevardnadze in the Soviet Union asked for reconciliation rather than confrontation, and left a mark on the world.

The world is also cooperating with the United Nations (UN), the European Union (EU) and the Convention on Climate Change Framework Convention (COP).

In this greedy world, Medecins Sans Frontieres, Amnesty International and International Consortium of Investigative Journalists (ICIJ) (annotation 3) are working for the Peace and protection of human rights by people’s goodwill and dedication.

 
今、思うこと
私の記事が、少しでも中東とイスラムへの誤解を解き、世界の平和に役立つ事を願います。
残念なことは、中東に平和をもたらす糸口すら見つけることが出来なかったことです。

今回の調査の途中で、私はその混迷の深さに幾度も気力が萎えてしまった。
しかし、これ以上、世界が誤った道を進むことを避けたいとの願いで続けて来ました。

極論すると、中東の戦乱と疲弊は西欧の植民地支配から始まったと言える。
しかし、このことで西欧に責任を取れとは言えない、ましてや今の国民に。

帝国主義と今も続く大国の暴力が無ければ、世界はどれだけ平和だったかと思う。
差別感情と憎悪がこの暴力を容認にしているが、これは西欧人に限ったことではない。
気がかりなのは、自由に名を借りた強欲と強権の追及が勢いを増していることです。
かのバーナード・ルイスはイスラムを遅れた文明、虚弱な社会と侮蔑し、軍事進攻を正当化した。
いまだに、帝国主義の論理が生き続けている。
法治国家内では、当然、この論理は否定されるが、欧米を筆頭にこの風潮が勢いを増している。
まことに危険な兆候です。

せめて欧米と大国は猛省し、侵略や介入を止めるべきだと願うばかりです。

一方、一度破壊されたかつての植民地社会が立ち直る術は見当たらない。
何らかの偶然か、年月か、先進国の対応の変化に期待するしかないのだろうか。
しかし、かすかな希望もある。

確かに、人類は愚行を繰り返して来たが、予想外の解決法も生み出して来た。

釈迦は腐敗した政治から、イエスは侵略され疲弊した社会から、マホメッドは抗争が絶えない社会からの脱却を導いた。
彼らの言動が世界を変えた。

その後も、インドのガンジー、フランスのロベール・シューマン(注釈2)、米国のキング牧師、南アフリカのマンデラ、ソ連のショワルナゼなどが対立ではなく和解の道を求め、偉大な足跡を残した。

また世界は国連(UN)、欧州連合(EU)、気候変動枠組条約締約(COP)で協同するようになった。

この強欲な世界にあって、人々の善意と献身によって国境なき医師団、アムネスティ・インターナショナル、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)(注釈3)が平和と人権擁護の為に活動している。

 

5

< 5. Please give a donation >
< 5. 募金をお願いします >

 

I hope the world is peaceful.
Until now, thank you from the bottom of my heart for reading my articles.
世界が平和であることを願って終わります。
今まで、拙い連載にお付き合い下さり、心より感謝します.

注釈1.
「イスラム世界はなぜ没落したか?」2003年刊。
著者はユダヤ系で中東史の泰斗であり、ネオコンの思想を支えた。

注釈2.
彼は独仏和解を願い、EUの前身となる欧州石炭鉄鋼共同体の設立に尽力した。

注釈3.
この団体が租税回避を記したパナマ文書を解明し発表した。

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Bring peace to the Middle East! 79: Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5


中東に平和を! 79 なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5

 

1

< 1. A movie of Congo Crisis >
< 1.コンゴ動乱の映画 >
We have seen how societies were destroyed by colonization.
Today, we see what happened to the independent Congo.
There was typical mechanism of civil war there.

 

これまで、植民地化によって社会が如何に破壊されるかを見て来ました。
今日は、独立したコンゴに何が起こったかを見ます。
そこには典型的な争乱のメカニズムが働いていました。

 

2

*2

 

Independence and civil war of Congo.
The Congo had been divided and dominated by Belgium and France.
And in 1960, each became an independent nation and now is Democratic Republic of the Congo and Republic of the Congo.
And, Cabinda that an Angolan enclave of Portuguese territory, that was sandwiched between the both Congo nations, also became independent nation along with the home country in 1975.

The beginning took place at the end of the harsh colonial occupation of Belgian Congo.
Christianity had been widespread in this area, and Kimbangu Sect that be fused with an indigenous faith and Christianity had started up in the 1920s.
It prognosticated the Messianic of the Black eventually would destroy the Caucasian, so the resistance movement broadened.
This was oppressed by the government and the Kimbangu died in prison.

From the 1950s, the momentum of independence gradually rose, and Lumumba and Kasa-Vubu began struggle severally.
Meanwhile, the Belgian government and white settlers decided to retreat from the area immediately.

But this was the beginning of the civil war.
At the time of the independence, there was no person that could be responsible for the administration as members of the government, and degree recipients were only 16 people.
Until then, Belgium had done colonial management in their home country, and did not let Africans participate in the politics at all.
In addition, the national economy was held by private companies, and one multinational company accounted for 27% of the country’s national income.

 
コンゴの独立と動乱
コンゴはベルギーとフランスに分割支配されていた。
そして1960年、それぞれが独立し、現在のコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に至る。
またポルトガル領のアンゴラの飛び地、両コンゴに挟まれたカビンダも、1975年に本国と共に独立した。

その始まりは、過酷なベルギー領コンゴの末期に起きた。
この地ではキリスト教が根を下ろしており、これと土着信仰を融合させたキンバンギ宗が1920年代に興った。
これは黒人の救世主がやがて白人を打ち滅ぼすとされ、抵抗運動が広がた。
これは政府によって弾圧されキンバンギは獄死した。

50年代より、徐々に独立の機運が盛り上がり、ルムンバとカサブブが別々に独立闘争を開始した。
一方、ベルギー政府と白人入植者達は、この地から即刻手を引くことを決めた。

しかし、これが動乱の始まりでした。
独立時に行政を担える人材は皆無で、学位取得者は16名しかいなかった。
それまで、ベルギーは本国で植民地管理を行い、まったくアフリカ人を政治に参加させていなかった。
国の経済は民間企業に握られており、多国籍企業一社だけで国家収入の27%に達していた。

 

3

< 3. Documentary on Katanga >
< 3.カタンガを描いたドキュメンタリー >

 

Although the Congo became an independence nation by president Kasa-Vubu and prime minister Lumumba, they soon were opposed each other to take priority of which of tribe or integration.
Meanwhile, Tshombe that was supported by Belgium and international capital aiming to secure the mines, declared independence of Katanga.

Belgium intervened militarily on pretense of the suppression, and so the Lumumba requested the United Nations force, but it meant his death.
The UN forces was standing on the Western side and protected the Katanga regime, and so he approached the Soviet Union quickly.
Colonel Mobutu, who been supported by the United Nations and the United States, raised a coup d’etat and the Lumumba was killed.

 
カサブブを大統領、ルムンバを首相とし独立したが、部族優先か統合かで対立した。
一方、鉱山確保を狙ったベルギーと国際資本に支援されたチョンベはカタンガの独立を宣言した。

ベルギーは鎮圧を口実に軍事介入したので、ルムンバは国連軍を要請するが、これが彼の命取りとなった。
国連軍は西欧側に立ちカタンガ政権を保護したので、彼はソ連に急接近した。
そして国連と米国の支援を受けたモブツ大佐がクーデターを起こし、ルムンバは殺された。

 

4
*4

 

Approximately 100,000 people were killed in this Congo Crisis from 1960 to 1965.
The Mobutu became president and reigned as a dictator until 1997.
His accumulated wealth is said to be 600 billion yen, which is equivalent to the country’s external debt.
He defected in the midst of other intense civil war and died in Morocco.

After that, the Congo is caught up in many wars such as civil war or war with neighboring country, due to ethnic conflicts and resource acquisition.
And each time, hundreds of thousands of people were killed, starved to death, became refugees.

 
この1960年から1965年のコンゴ動乱で約10万人が殺された。
モブツは大統領になり1997年まで独裁者として君臨した。
彼の蓄財は国の対外債務に等しい6000億円と言われた。
彼は、後の内戦激化の折に亡命しモロッコで死んだ。

その後も、コンゴは民族対立と資源獲得を巡り、内戦と周辺諸国との戦争に巻き込まれていく。
そして何十万単位で殺され、餓死し、難民が発生している。

 

6a

< 5. A movies on Katanga civil war >
< 5. カタンガ内戦の映画 >
There is certain common mechanisms in this endless wars.

A. Birth of new religion: dissatisfaction toward the colonial domination created religions that had to be competitive with white man’s religion (Christianity).

Christianity was regarded the same as colonial domination, and so the indigenous people asked indigenous faith, Islam or new religion for help, next it led to a massive resistance movement.

B. The atrocity by former colonial master and foreign companies: the former colonial master and foreign companies (international capital, multinational corporations) forever dominate the colony in order to secure interests.

To that end, they don’t hesitate to support the puppet government, dictators, and do coup aid or military intervention.

C. Proxy War of the Cold War: the United States and the Soviet Union carried the military support and military intervention in order to collapse each other’s allies.

Supercountry refuses support unless a small country belongs to the supercountry, and conversely the supercountry counts the small country as enemy when the small country asks for assistance to the other supercountry.
In particular, the United States did this not only to Congo but also Vietnam, Egypt, and Iraq, and has plunged the region into crisis.

In the next time, I end this serialization, “Bring peace to the Middle East! ”

 

この果てしない争乱には共通のメカニズムがある

A. 新興宗教の誕生: 植民地支配への不満は、白人の宗教(キリスト教)に対抗する宗教を生み出した。

キリスト教は白人支配と一体と見なされ、先住民は土着信仰やイスラム教、新興宗教に助けを求め、これは大規模な抵抗運動につながった。

B. 宗主国と海外企業の横暴: かつての宗主国と海外企業(国際資本、多国籍企業)は、権益確保の為に、いつまでも植民地を支配する。

その為には傀儡政権や独裁者の支援、クーデター幇助、軍事介入を辞さない。

C. 代理戦争(冷戦): 米ソは互いに相手の同盟国を潰す為に、軍事支援と軍事介入を行った。

超大国は、ある国が自国の傘下に入らなけらば支援を拒否し、逆に相手国に支援を求めたら敵と見なして来た。
特に米国は、コンゴだけでなくベトナム、エジプト、イラクでもこれを行い、地域を戦乱に陥れた。
次回で、「中東に平和を!」を終了します。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 57: 今ある恐怖 2


1

*1

 

 

前回、米国で何が起きているかを見ました。

今、歴史上初めての変動と繰り返す災厄が力を増しています。

さらに、これらが世界を巻き込み、やがて大きな危機を招く可能性があります。

 

 

2

*2

 

はじめに

前回、指摘した米国で起きている状況を要約します。

 

A: 一部の金融資産家に都合の良い社会が到来しつつある。

 

国の富が彼らに集中し、また政府が彼らを支援することにより、益々、この状況は加速している。

一方、99%の国民は取り残され、政府への不信を高めているが、政治を変える有効な手段を持たない。

 

B: 不満を募らせた国民は益々煽動され易くなっている。

 

政治が国民の不満や不信に対処出来なくなると、国民は勢い短絡的で強権的な解決策に飛びつき始める。

扇動者はスケープゴートを強烈に訴えることで、大半の国民の心を掴むようになった。

 

Aの状況は、ここ30年の間に進行し、加速している。

一方、Bの状況はAによって誘発され、ここ数年で急に表面化した。

 

しかし、この問題は米国内に留まらず、世界を巻き込む大きな危機へと発展している。

 

3

< 3.ダボス会議 >

 

世界で何が起きているのか

私は世界が二つの段階を経て、混乱から危機に突入するように思える。

 

だがその説明の前に、米国で起きている事が世界とどのように関わって来たかを確認します。

 

ここ半世紀、米国が金融の規制緩和を牽引した結果、格差が拡大し続けている。

しかし、自由経済を標榜する国々も同時に熾烈な競争に巻き込まれ、規制緩和に突き進み、同様に格差が拡大している。

 

あたかも1970年代、英米を筆頭に同じ自由経済圏がスタグフレーションに巻き込まれたのと酷似している。

この時は、国民だけでなく、むしろ経済界の方が不満の声を挙げ、各国政府は対策を行ったが、今回は大きく異なる。

今の経済界や政界のエリートは現状に不満を示さず肯定的である。

 

それはなぜなのか?

最も明確な当時との違いは経済が拡大している中で貧富の差が拡大していることです。

この状況は富が集中するエリート(主に金融資産家と一連托生の仲間)にとっては天国だからです。

 

これを示す好例があります。

世界から選ばれた数千名の賢人が毎年集まるダボス会議があります。

ここでは学者やジャーナリスト、経営者、政治家などのトップが一堂に会し、議論を行っています。

しかし、ここから発信されるメッセージは概ね現状に肯定的です。

これは世界に「改革が必要ない」ことを間接的にアピールしているようなものです。

 

かって学者が主導したローマクラブの功績とは似て非なるものです。注釈1.

それもそのはずで、「地球上の富の85%をダボス会議の参加者が握っている」のですから。注釈2.

私は、このサロンに過ぎないエリートの集まりは「不作為の罪」を背負うことになると思う。

このような交流は必要だが富裕層やエリートに役立つだけだろう。

 

つまり、今起きている富が偏在するメカニズムは完全に世界を巻き込み、富の集中を享受する人々によってこのシステムは強化されつつあるのです。

 

 

4

< 4. 右傾化の背景 >

 

何がポイントなのか

グローバル化する世界にあって、自由経済の国が競争に晒されるのは必然です。

従って無為無策で競争を放置(自由に)すれば、経済を通じて社会に歪(失業や格差)が生じるのは当然です。

 

この時、国内の労働者や企業が競争力低位の産業から優位の産業にスムーズに転換出来ればその歪は少なくなるのですが、これがなかなか困難な現状です。

今、フランスや米国で起きている右傾化に賛同する農民や労働者達はこの犠牲者達です。

現在の指導者は、保護主義と自由貿易の板挟みの中で、制度的(規制など)な解決を放棄し、自己責任として労働者を自由競争の中に晒すだけなのです。

これでは世界経済の落ち込みが激しくなると、彼らの怒りは頂点に達するでしょう。

この危ない綱渡り状態が日本も含めた先進国で続いています。

 

自由競争を否定しませんが、違法まがいの弱肉強食により正常な競争が出来なくなっていることが問題なのです。

 

結局、現代のグローバル化した経済では、ほんの一握りの富裕者は益々富み、貧者は益々貧しています。

これは隠しようのない現実ですし、そうならざるを得ない経済的メカニズムが確立し、増殖中なのですから。

この歪は、今は目立たない国でも高進するのは時間の問題です。

 

これは主に、1980年以降の自由経済圏の大国が先導して来た政策によるものです。

この政策とは、グロ―バル化に向けた経済・金融・労働・産業に対する規制緩和、企業・金融・富裕者の活性化と称する減税、貨幣供給量と累積赤字の増大の是認、中央銀行の役割改変などです。

それに比べ、不思議なことに労働者の活性化云々の政策や保護はあまり聞かない。

この関係は複雑ですが、大きな流れは前回説明しました。

幾つかの国(ドイツや北欧など)は、危険を認識してこれらの政策採用を抑制気味だが、巻き込まれつつある。

 

実は、今の富裕者の減税は19世紀まで無税が一般的でしたが、20世紀になると政府が強力に累進課税や規制緩和を国民や国家の為に導入したのです。

ところが国民が浮かれ、よそ見している間に中世の社会に戻ってしまったのです。

 

 

 5

*5

 

これから起きる悲劇とは何か

悲劇の第一段階は、B項の「煽動と右傾化」です。

 

もう既に起きています。

各国で差別的な言動を好む人ほど政府を信任していることからも頷けます。

これは数年前から、日本や欧米などで顕著になっています。

 

国民の不満が高まり、何ら改善出来ない政府への不信感が高まると強権的な解決を望む声が高まります。

そこで不満を上手く操る煽動家の出現となります。

これは歴史的に繰り返されて来たことで、必然と言えます。

 

今は、まだほんの始まりに過ぎない。

例えば、今回、北朝鮮の核実験やミサイル発射は何時から騒がしくなったのか。

それは米国のトランプ大統領の誕生前後からでしょう。

始めは、数匹の狂犬の遠吠えから始まったが、いつの間にか周りを巻きんで大合唱となり、ついには何処かの国の地下鉄まで止まりました。

一方の狂犬は脅しが効いたのですから喜んでいることでしょう。

 

実は、歴史上、戦争の始まりの多くはこのような些細ないがみ合いが嵩じて始まっています。

第二次世界大戦前の独仏の状況がその一例です。

両国は、ライン川を挟んで国土の奪い合いを繰り返していました。

フランスは先の第一次世界大戦に懲りて、ドイツの再軍備防止の為にドイツ経済を困窮させる莫大な賠償金を請求し、また賠償として炭鉱地帯を占領しました。

この手の敗戦国への仕打ちは一般によく行われることでした。

 

しかしこの二つの行為が、間接的にドイツ経済をどん底に突き落とし、ドイツ国民はヒトラーに不満を煽られ、軍事力で反撃することを選択するようになった。

一方、フランスはこれに対抗して右傾化して行きました。

こうしてまたも大戦が短期間のうちに再発した。

 

しかし私が恐れる悲劇は、これだけではありません。

私はまだ世界の良識に希望を持っており、多くの国民が直ちに戦争開始に応じることは無いように思います。

 

それでは何をさらに恐れるのか?

 

 

6

*6

 

 

私が想定する第二段階の悲劇

それは、右傾化とナショナリズムにより各国が交流を断ち始めることです。

つまりグローバル化と反対の方向に進むことです。

この結果、たとえ今すぐの戦争開始を逃れたとしても、最終的に世界は益々、混迷と対立を深め、ついには戦争から逃れられない状況に陥ることになるでしょう。

 

これは既に始まっています。

西欧国内のEU離脱運動の盛り上がりや一部首脳による挑発的で利己的な行動に顕著です。

 

EU離脱は、最も象徴的な例です。

EUは独仏が戦争回避を願って、大戦への反省から奪い合っていた中間地帯の鉱物資源を共有する為に始められたのですから。

EU統合の手法に問題があるにしても、EUの分裂は平和と経済に悪影響を与えることは明らかです。

 

さらに間違いが明確なのは、自国優先の為に各国が保護貿易に走り、世界貿易が縮小し、廻りまわって自国に不況の波がさらに大きくなって返って来たことでした。

第二次世界大戦を世界に拡大させてしまったのは、各国の保護貿易が恐慌の傷をさらに深くしてしまい、日独伊の国民が不満を募らせ扇動者の尻尾に乗ったことにある。

この手の危機の兆しはそれぞれの国内で20年ほど前からあったのですが、独裁と暴発は数年の短期間で決定的なものとなったのです。

このような悲劇を幾度も繰り返す愚は避けたいのもです。

 

益々、世界は経済や軍事、外交などで孤立と対立を深めていくことでしょう。

しかし、これもまだほんの始まりにすぎません。

 

7

*7

 

 

何が恐ろしい結末へと導くのか?

私が恐れるのは、世界の平和と繁栄に最も必要なものが反グローバル化によって破壊されることです。

 

皆さんは、グローバル化こそが金融資本家と多国籍企業の横暴を招き、世界の人々を不幸にしている元凶ではないかと思っているかもしれません。

今まで、私がそのように説明をして来たではないかとお叱りを受けそうです。

半分は正しいのですが、半分は問題があります。

 

例えて言うなら、琵琶湖周辺の人々が川に好き勝手に(自由に)汚水を流し、汚染が酷くなったので琵琶湖に流入する河川を遮断すべしと言っているようなものです。

本来は、すべての人々が汚水の排水規制を守れば済むだけのことなのです。

現在の問題は、この規制が無きに等しい為に起こっているのであり、一部の特権層による規制外しの圧力が世界を席巻していることです。

 

 

少し目先を変えて、以下の困難な問題をどう解決すれば良いか考えてみましょう。

 

A: 枯渇する地球の資源(鉱物、石油、水産農作物、水)の持続的な使用。

B: 北朝鮮やイスラム国(IS)などのテロ国家や組織の抑制・制圧。

C: 地球温暖化の防止。

D: 大国の横暴(軍事行動や占領、経済・金融政策)の制止。

E: 多国籍企業や金融家の横暴(タックスヘイブンやヘッジファンド)の規制と取り締まり。

F: 格差の拡大と富の集中を抑制する世界的な規制と税制。注釈3

D: 移民・難民の発生低減と保護、移住先の摩擦低減。

 

これらは手をこまねいている内に拡大し深刻の度を増しています。

 

例えば、どこかの大統領や首相のように国益を重視し、他国を敵視し、特定の大国との従属を深めるならどうなるでしょうか。

結果は明らかです。

上記7つの問題を解決するどころか、戦争へと発展する危険の方が高いでしょう。注釈4.

 

解決するには何が必要なのでしょうか?

それは世界の国々が等しく協力し合うことです。

解決を遠ざけるものは分裂と対立、そして大国の身勝手です。

 

私の連載「中東に平和を!」で紹介していますが、現在世界中で起きているテロや内紛、難民の多くはここ百数十年間の大国の身勝手に起因しています。

この因果関係と責任問題に関してまだ定説はありませんが。

また嫌われるグローバル化の汚点も、大国の庇護を受けた多国籍企業や金融家の横暴が背景にあります。

この問題が見過ごされるのは、世界が共有出来る法意識が未発達なのと、その形成を妨害する情報秘匿やデマの力が大きい為と考えます。

例えば、タックスヘイブンやヘッジファンドの横暴によって、日常的に世界の庶民は多大な害を受けているにもかかわらず、規制が無いに等しく、増加の一途です。

 

 

平和的に問題を解決する手段は、人類が生み出した民主主義を世界に取り入れる以外に道はない。

益々、地球はあらゆる危機に直面しているのですから。

 

残念ながら、これは非常に難しい。

半世紀前の東京裁判の折、インドのパール判事は、いつか世界が一つになり国家の不正義を裁く時代が来ることを願っていた、しかし、当時はまだ機が熟していないと判断した。注釈5.

「あなた方はいつまで惰眠を貪るのか?」とパール判事は悲しんでいることでしょう。

 

 

しかし皆さん、思い出してください!

世界や国内で格差が拡大し、国民が政府に絶望するようになった理由はどこにあったのでしょうか?

 

答えは先進国で1980年代から加速した富裕層の優遇策でした。

極論すると、それは規制緩和と税制変更が元凶でした。

そしてこれが自由経済圏の先進国から地球全域に蔓延していったのです。

この人間(エリート)が行った制度改悪を、人間(国民)の手でより良い制度に戻せば良いのです。

 

これは、各国が個々に解決出来るものではありません。

幾分はドイツやかつての日本、北欧など幾つかの国は抵抗して来ましたが、グローバル化した現在において無傷で難を逃れることは出来ない。

 

一番、目立たない問題ではあるが放置すると、徐々に世界の傷は深くなり、ついには良識が通用しない社会、衰退する地球になると予想されます。

これも歴史が示すところです。

 

残念なことに、危機を予測出来て解決策が見えても、これを世界が実行出来るかは皆さんの手中にあるとしか言えないのです。

 

 

以上で終わります。

どうもお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

注釈1.

ローマクラブは当時、科学的に証拠をもって世界の地下資源が数十年後から枯渇し始めると警鐘を鳴らしました。

世界はこれに対応すべく省資源に取り組み、現在、地球の寿命が伸びています。

 

注釈2.

「世界一の会議」、斎藤ウィリアム著、p30より。

 

注釈3.

世界の貧しい下位50%(36億人)の総資産が富豪上位62人の保有資産に匹敵している。注釈2.

 

注釈4.

B項のテロ対策には軍事力が必要ですが、超大国に頼ることのメリットよりも、超大国の身勝手な軍事行動の方がマイナスです。

 

注釈5.

パール判事は当時、事後法の「平和に対する罪」で日本の戦犯を裁く事に反対しましたが、他の戦争犯罪については同意しています。

彼の意見は法律家としては正しい。

彼の意見と思いから学ぶべきは、「平和に対する罪」が裁ける世界になるべきだと言うことだと思います。

 

 

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Bring peace to the Middle East! 77: Why was it exhausted ? 15: What happened in Congo ? 3


中東に平和を! 77 なぜ疲弊したのか 15: コンゴで何があったのか 3

1

< 1. White mercenaries hired by Congo >
< 1. コンゴに雇われた白人傭兵 >
In 1960, although the Congo was able to be independent, it had to go to a road of suffering afterward, too.
I will investigate why the Congo must be exhausted.
That is because the colonial occupation completely destroyed the society.

 

1960年、コンゴは独立したのですがその後も苦難の道を歩みます。
なぜコンゴが疲弊せざるを得なかったのかを探ります。
それは植民地下の仕打ちが、社会を完全に破壊してしまったからです。

 

2

*2

Introduction
Most countries except the West and Japan had become colonies in the last few centuries.
In ancient time, even the West was colonized or was ruled by different ethnic groups.

What of the colonial occupation in these centuries destroyed this society ?
I organize the problems.
はじめに
欧米と日本を除く世界のほとんどの国はこの数世紀の間に植民地になりました。
古くは欧米でさえ異民族に支配されたか植民地になっていました。

ここ数世紀の植民地政策の何が社会を破壊してしまったか。
問題点を整理します。

 

3

*3

 

A.  Monoculture: colonial master compelled the colony to cultivate only a kind of crop.

The reason was for importing cheap food and raw materials and exporting own industrial products.
As a result, the colony became impossible to be self-sufficient, and starvation caused by unseasonable weather could occur.
In addition, the industrialization of the colony became underdeveloped, and it became impossible to escape from dependence on the colonial master .
Even after independence, these colonies were exposed to dumping ( by various agricultural protection policies) of agricultural crops of major powers and many farmers were hard hit.

B. An obscurantist policy: colonial education was kept to a minimum in order to keep costs down and to prevent awakening of indigenous people’s political consciousness.

As a result, their literacy rate became lower, a modern political culture did not grow up, and it became a factor hindering their democratization.

C. Division policy: colonial master gave important posts to one side of tribes and sects, and fanned the flames of hatred and distrust against each other, to prevent independence and rebellion by indigenous peoples,

This led to division and conflict after independence.

D. Puppet regime: colonial master preserved colonial exploitation regimes and made a puppet of the top or king in the interest of saving time.

The colonial master or multinational enterprise has supported the puppet regime being a dictatorship and prevented all democratic movements in order to securing interests (resource exploitation) even after the independence.
A モノカルチャー: 宗主国は植民地に単一の農作物だけを栽培させた。

理由は安価な食料・原料輸入と工業製品輸出の為でした。
これにより植民地は自給自足が不可能になり、天候不順による飢餓が発生し易くなった。
また植民地は工業化が未発達になり、宗主国からの依存から抜け出せなくなった。
独立後も、植民地は大国の農作物のダンピング(農業保護政策による)に晒され農民は大打撃を受けた。

B 愚民化: 植民地の教育は費用を抑え、先住民の政治意識の覚醒を防止する為に最低限度に留められた。

これにより植民地の識字率が低くなり、近代的な政治風土が育たず、民主化を阻む要因になった。

C 分断政策: 先住民による独立や反乱を防ぐ為に、部族や宗派などの一方だけを重用し、相互不信と憎悪を植え付けた。

これが独立後の分裂と紛争に結びついた。

D 傀儡化: 宗主国は手間を省く為に植民地の搾取体制を温存しトップを傀儡化した。

宗主国やグローバル企業は独立後も利権確保(資源収奪)の為に独裁者の傀儡政権を支え、民主的な動きを封じて来た。

 

 

4

*4

F. Border determination: the border was determined by the convenience of some colonial masters, and the relation between existing tribes were broken.

Many tribes had been coexisting within the enforced border, and the borders were only an obstacle for nomadic people or farmers of jungle land.
Also during the Great War, many colonial masters added fuel to ethnic independence and eventually betrayed them, but this also became a source of internal conflict later.

The reason why a former colony being independent do not go well can be summarized in these, but it is still not enough.
F 国境決定: 国境は宗主国同士の都合で決まり、既存の部族間の繋がりが断ち切られた。

強制された国境内には多くの部族が共存していた、また遊牧民族や焼き畑農耕民にとって国境は障害だった。
また大戦時、宗主国は民族独立を煽り、最後には裏切ったが、これが後の内紛の火種にもなった。
かつての植民地が独立してもうまく行かない理由はこれらに集約出来るのですが、まだ不十分です。

 

 

5

*5
A deeper reason

“The Western countries that were once invaded are developing.
But the Africa and the Middle East still are exhausted.
Why are there different among these? ”

This point is important.

Looking back on the war and domination among Western European countries since the Middle Ages, the aforementioned five problems were not as harsh as against colonies of other areas.
Furthermore, it was a few centuries ago that the Western Europe countries became national states.

So then, why was not it harsh?

They were the same Christians, and also belonged to the same civilization having similar languages and ethnic groups.
And they continued to evolve in the same way, and the military power almost had been held in equilibrium.
This affected ways of the war and domination.

In reverse, this thing resulted in a difference from colonial rule against the Africa and Middle East.

This continues to the next time.
さらに深い理由があります

「 かつて侵略された欧米は発展している。

しかしアフリカや中東は未だに疲弊している。
なぜ違うのか?  」

この指摘は重要です。

中世以降の西欧諸国間の戦争と支配を振り返ると、前述の5つの問題は他の地域の植民地ほどには過酷でなかった。
さらに西欧は現在の国民国家の形になって数世紀を経っています。

それでは、なぜ過酷ではなかったのでしょうか?

彼らは同じキリスト教徒で、言語や民族も似通った同じ文明圏に属していました。
そしてはぼ同様に発展し続け、軍事力でもほぼ均衡していた。
このことが戦争や支配の仕方に影響を及ぼした。

逆に、このことがアフリカや中東の植民地支配との違いを生んだのです。
次回に続きます。

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何か変ですよ! 56: 今ある恐怖 1


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< 1.米財務長官 >

 

 

今、私は漠然とした恐怖を感じている。

それは日本だけでなく米国、中国、ヨーロッパなど世界に通じるものです。

これから、この巨大で徐々に姿を現しつつある恐怖について語ります。

 

 

はじめに

日々のニュースから、私は日米欧先進国の社会で大きな濁流が起きているように思える。

しかも、それが益々巨大化しているにも関わらず、多くの人々はその兆候と恐ろしさに無頓着のように思える。

私はこの世界の行き着くところを想像すると恐ろしくなる。

 

歴史を振り返ると、まったく同じ状況は存在しないが、不幸へと突き進む同じメカニズムが働いているように思える。

それは一度、蟻地獄に落ちると、もがけばもがくほど抜け出せなくなる状況と似ている。

 

それでは幾つかの恐怖の正体を見て行きましょう。

 

 

米国で起きていること

如何に大統領が変わろうと、世界最大級の投資銀行ゴールドマン・サックスの幹部が必ずホワイトハウスで経済と金融政策を担当することになる。

クリントン、ブッシュ、オバマ、トランプなどが、選挙戦で如何に綺麗ごと―金持ちの味方ではなく庶民の味方だと、言っていても同じ結果になる。

それはなぜなのか、ゴールドマン・サックスの彼らが、ずば抜けて優秀で強欲だからか、それとも経済運営と選挙資金集めに不可欠だからか。

 

細かい解説は専門家に任せて、我々は全体を俯瞰することで米国の空恐ろしい状況を知ることが出来るはずです。

これから語ることは厳密さよりも大きな流れを感じることを目指しています。

 

 

2

< 2. 米国の大統領選挙費用の推移 >

 

選挙費用は年を追って巨額になっている。

集金能力の高い人か、はたまた自分のポケットマネーで選挙費用を賄える超金持ちしか大統領になれない。

結局、選挙を制するのは資金の多寡かもしれない。

 

 

3

< 3.ゴールドマン・サックスの業績 >

 

この20年間、この投資銀行の業績はうなぎ登りと言える。

この間、この企業は大きな問題だけでも、1998年のLTCMヘッジファンドの破綻、2007年のサブプライムローン、2010年のゴールドマン・ショックなどに関わって来た。

この手の金融企業大手(ビッグ・シックス)は、米国だけでなくメキシコ、ロシア、アジア、ヨーロッパなど、それこそグローバルに世界経済を危険に陥れる投機に走り、その都度ホワイトハウスに助けられ飛躍し、我が世の春を謳歌している。

尚、クリントン政権の誕生は1993年でした。

 

 

例えばヘッジファンドに限て見てみよう。注釈1.

米国のファンドマネージャーが2015年の1年で1700億円を稼ぎました。

これは一つの産業の売り上げではなく一個人の収入なのです。

米国のヘッジファンドの運用総額は300兆円弱あり、毎年の運用益10%、マネージャーの成功報酬20%として6兆円をマネージャーが山分けすることになります。

当然、投資・投機の運用総額はこれの数倍あり、これに釣られて強欲に走るのは無理のないことかもしれない。

誰かが監視すべきだが・・・・。

 

なぜ毎年運用益の実績が10%近くあるのでしょうか?

通常、莫大な資金を製造業に投資してこれだけの利益を出し続けるのは不可能です。

方法としては、画期的なコンピューター・プログラムで株等の自動取引を行い莫大な利鞘を稼ぐか、はたまた企業買収を繰り返す手があります。

しかし最も稼いだのは一国の為替取引やサブプライムローン(不良債権を紛れ込ました証券)の売買でした。

その売買はレバレッジ(担保なしの高額の借金)を利かせた先物取引等で行われます。

 

この一見合法的な取引の果てに、毎回、世界各国は金融危機に陥り、多くの失業者と命を縮めた人々を生み出して来たのです。

不思議な事に彼らが成功しても失敗しても、ほぼ同じ結果になります。

言い換えれば、そこには必ず強奪された莫大な資金か、強奪に失敗した莫大な借金があるからです。

 

彼らは優秀な頭脳によって日々新たな方法を開発し、儲かるとあればどのようなものでも互いに先を競って売買します。

その結果が国家や国民を如何に破綻に追い込むかは、彼らには無縁で、責めを受けることもほとんどありません。

金額が巨額なだけに失敗した時、国は必ず彼らを助け、多少見逃してくれるし、頼めば規制を取り除いてくれる(政治家に見返りが入る)。

 

しかし彼らが稼ぐ為に最も不可欠なものとは何でしょうか?

それは国が貨幣供給量を増やし続けることです。

一度、貨幣発行をゼロにすればその効果がわかるのですが、他の経済活動も停止してしまうので出来ません(恐慌)。

もっとも中国のように強引に投機資金を制御すれば別ですが。

 

 

4

< 4.米国の貨幣供給量 >

 

Ⅿ2(赤い線):現金通貨と国内銀行等に預けられた預金を合計したもの。

簡単に言えば、景気が良くて経済成長する時は赤線の貨幣供給量が増大します。

しかし増加し過ぎるとバブルが発生しますので、中央銀行は調整します。

 

現在、世界の多くが貨幣供給量を増やし続ける政策を採っていますが、中でも米国は際立って多い。

日本はアベノミックスの前までは、長らく貨幣供給量を押さえてバブル発生を抑えて来ました。

 

 

5

< 5.米国の商業銀行の収益 >

 

貨幣供給量が増え始める1980年代から、金利以外(投資・投機)による収入が増加しているのがわかる。

最近のデーターはないのだが、その後を予想することは可能です。

これが金融界に富をもたらし、この富によって大統領選挙を通じてホワイトハウスが支配され、さらに富が一部の金融家に集中するようになったと考えられる。

尚、この端緒は1981年のレーガン大統領誕生でしょう。

 

20世紀の始め、世界は米国発の大恐慌とそれに端を発する世界大戦を経験し、米国は先頭を切って元凶となった無謀な金融行為を禁止する法を制定した。

しかし米国の規制緩和、俗に言う金持ち優先の政策はその後、表面を繕いながら着実に進められて来た。

米国民はなぜこの経済・金融政策の転換を傍観して来たのか?

一つには、ホワイトハウスが「米国の経済・金融がグローバルな競争に生き残る為の規制緩和が必要」と説明して来たからでした(他にも理由はある)。

この1933年に制定されたグラス・スティーガル法(規制法)は、1999年ついに廃止された。

 

 

6

< 6.米国政府の債務 >

 

国民は米国の金融が世界をリードすれば米国経済は復活すると信じ込まされて来た。

国民は確かにバブル絶頂期の度にそれを確信することが出来ただろうが、必ず訪れるバブル崩壊後、また裏切られることになる。

 

この裏で、国民がおそらく実感していない深刻なことが起こっていた。

世界経済を幾度も破綻寸前まで追い込んだ金融家達を、ホワイトハウスは恐慌にしない為と言い、莫大な公的資金をつぎ込んで救って来た。

それは数百兆円の国債発行となって累積債務が膨らみ続けている。注釈2.

現在、一人で毎年数十億円を越える所得を得る強欲な金融エリート達が蔓延る一方、将来、その後始末として国民はその借金を広く負担することになる。

おそらくインフレか増税で、これは所得の低い人ほど厳しく圧し掛かる。

 

こうして、危険な博打うち(投機的な金融家)ほど高収入を得て、博打が失敗したら国が助け累積債務を増大させて来た。

 

 

 

7

< 7.米国の所得 >

 

一方、米国民が選挙で必死に選んだ大統領は何をしてくれたのだろうか。

馬鹿げたことに、1980年代から米国の富がほんの一部の金持ちだけに集まる仕組みをホワイトハウスが作っただけだった(税制と金融政策が大きい)。

 

これでは溺れるも者は藁をも掴むとの諺通りであって、トランプを選んだ人々を責めるのは酷かもしれない。

別の選択もあったかもしれないが・・・・。

 

8a

*8

 

 

問題を要約してみよう

一つの問題は、あたかも地球が強欲な金融資産家らによって牛耳られるようになったことです。

 

この端緒は20世紀始めの米国に遡るが、1980年代より本格化し、欧米が自由主義経済圏の中で競っている内に、各国がこの泥沼から抜け出すことが出来なくなってしまった。

 

各国は競争の為に労働者の賃金や法人税、為替で叩き売りをせざるを得なくなった。

またあらゆる企業は巨大化し、規制を外すことで競争に勝たなければならなかった。

 

さらにインフレ退治と兌換紙幣の制約から逃れる為に、世界各国は自由な貨幣供給体制を選択し、自国の経済成長を自在に制御することを目指した。

この過程で、金融資産家が米国を筆頭に幅を利かせるようになっていった。

そして現在の状況に陥ってしまった。

 

この状況は、今までになかった新しいタイプの災厄だろう。

 

歴史を紐解くと、ロ―マの衰亡に似ているかもしれない。

ローマは初期に共和制だったが、軍によって領土拡大と成長を続ける内に軍が実権を掌握し、帝政へと変貌する。

しかし、軍の維持と特権層による富の集中(圧倒的多数になった貧困層)はやがて社会を疲弊させた。

そしてあれほど巨大さを誇ったローマは、いとも簡単に野蛮な民族に打ち破られた。

 

これからの米国は軍産共同体だけでなく、むしろ自己増殖する金融資産家らに益々支配されていくことだろう。

このメカニズムはまったくローマと一緒と言える。

 

つまり自己崩壊するか、他者により止めを刺されるまで暴走し続けるしかないのかもしれない。

 

 

もう一つ恐れていることがある

上記の状況分析は心ある学者により既に指摘され続けていたことで、私はこのブログで幾度も書いて来た。

一言で言えば、後ろから押されて崖っぷちに追い込まれているのに身動き出来ない恐ろしさです。

 

問題は、現代文明をリードする国民が、この自明とも言える状況を今まで何ら改善出来ず、むしろ加速させて来たことです。

そしてついにトランプと言う危険なカードを引いてしまった。

無害で済めばよいのだが。

米国の状況は今後、雪だるま式に歪が拡大することになるか、予想外に早く崩壊するかもしれない。

その引き金がトランプでなければ良いのですが。

 

なぜ人々は、この状況を変えることが出来なかったのか?

考えられるのは米国民がこの事実を知らないからか、またはカモフラージュされて見えていないからか。

それとも例え皆が知っていても、現状の大統領選挙制度等では国民の望む改善が出来ないと諦めているからか。

 

 

 

9

< 9. 米国のGDPと失業率 >

 

トランプが非難したNAFTA(1994年の北米自由貿易協定)は逆に米国の失業を減らしているように見える。

失業を増やしたのはバブル崩壊です。

 

 

10

< 10. 米国の人種別失業率 >

 

このグラフからは、今回、トランプを選んだラストベルトの白人労働者が訴えた、移民によって職を奪われたと言うことを確認出来ません。

むしろ白人の失業率は低く、アジア人を除いてヒスパニックや黒人の失業率が拡大している。

 

つまりメキシコが悪の元凶だとは言えないのに、スケープゴートすることにより国民を真の問題から遠ざけているように思える。

そして大半の人々がその手に乗せられたと言える。

 

この状況で思い当たるのは、ナチスの行ったことです。

ヒトラーがドイツ国民を煽動する為に訴えたのは「ユダヤ人排斥、共産主義排除、軍事力による帝国の再興」でした。

この内、ユダヤ人排斥は帝国の再興に最も意味をなさないように思えるが、国民の憎悪を高め、国民を一つにまとめるには有効だった。

これでヒトラーは力を得たが、その一方で無実の人々が多数死んでいった。

 

歴史上、このような壮絶な例は他にはないだろうが、国内問題や真の問題から目を逸らす為に為政者はスケープゴートを繰り返して来た。

トランプの成功の一つは、この巧みさにあったと言える。

この手のまやかしが上手いことと、国民の為の政治を上手く行えることとは別です。

 

残念なことに、今、現代文明をリードする先進諸国で、あたかも共鳴するように同じ扇情、スケープゴート、が起こっている。

 

私はこの扇情に踊らされている状況を恐れています。

 

 

実は、世界はこれと関わりながら新たな恐怖に晒されつつあるのです。

そのことについて次回考察します。

 

 

 

注釈1.

「超一極集中社会アメリカの暴走」小林由美著、p76-79.

 

注釈2.

「大統領を操るバンカーたち」ノミ・プリンス著、p350.

 

 

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 76: Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2


中東に平和を! 76 なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2

 

1

< 1. Leopold II of Belgium >
< 1.ベルギー国王レオポルト2世 >
A king who didn’t look like cruel person left a permanent scar on Congo.

冷酷非情には見えない王が遺したもの。

 

2a

<2. Belgium and the Congo Free State >
< 2. ベルギーとコンゴ自由国 >

 

Dawn and the beginning of tragedy
Here was the Kingdom of Congo with a population of 2 – 3 million people since the 14th century.
In 1482, Portugal, a pioneer in the Age of Discovery, discovered this kingdom and the two kingdoms began diplomatic relations.
The king of Congo became Catholic and began to actively adopt Western civilization (the technology and institution).
However, many slave merchants became working behind the scenes, and conflicts of slave hunts among tribes were intensified for obtaining guns.
The next king that felt a sense of crisis about the slave trade appealed to king of Portugal and but it was ignored.
Before long, the kingdom was adding another layer of confusion due to expanding slave hunts, the spread of guns, and repeating throne succession war.

But this was only a beginning of tragedy.
Eventually the Portugal withdrew, and France replaced it in the 17th century, began to trade of slave and ivory with the Kingdom of Congo.
After Western Europe experienced the industrial revolution, in the end of the 19th century when the slave trade declined, each country began competing for obtaining a colony in the last continental Africa.
In 1884, Western powers decided to divide Africa at the Berlin Conference, this area was divided by France and Belgium, and finally the kingdom of Congo disappeared.

 
黎明と悲劇の始まり
ここには14世紀から続く人口200~300万人のコンゴ王国があった。
1482年、大航海時代に先鞭をつけたポルトガルがこの王国を発見し、両王国は国交を開始した。
コンゴ王はカトリック教徒となり、西欧文明(技術、制度)を積極的に取り入れ始めた。
しかし奴隷商人が暗躍し、銃入手の為に奴隷狩りによる抗争が部族間で激化した。
次の王は奴隷貿易に危機感を持ちポルトガルに訴えたが無視された。
やがて王国は拡大する奴隷狩りと銃の蔓延、度重なる王位継承戦争で疲弊の度を深めていくことになる。

しかしこれは惨劇の序章に過ぎなかった。
やがてポルトガルは撤退し、17世紀にはいるとフランスが進出し、奴隷と象牙の貿易を行った。
西欧は産業革命を経て、奴隷貿易が衰えた19世紀末になると、各国は最後に残ったアフリカで植民地の獲得競争を始めた。
1884年、欧米列強はベルリン会議でアフリカ分割を決め、この地はフランスとベルギーによって分割され、ついにコンゴ王国は消滅した。

 

3

< 3. Atlantic slave trade >
< 3.大西洋奴隷貿易 >

 

In the centuries, the slaves who were taken away from the Guinea bay in Africa ranged from 1,000 million to 20 million people, perhaps the area was robbed of a half of the population and the society was seriously damaged.

The eastern area that occupied the majority of the Congo became the private estate of Leopold II of Belgium (Congo Freedom Country).
At first, the king advanced modernization of the country, but it turned into tyranny when it became a deficit.
The indigenous peoples were forced to be slaves and were thoroughly forced to work to gather ivory and rubber.
At that time, even in European countries that it was natural to exploit colonies, the tyranny was hard criticized.
Unwillingly Belgian government bought the Congo Freedom Country from the King of Belgium and it became colonial Belgian Congo (1908 – 1960).

On the other hand, small areas on the west side became French territory.
France entrusted the development of the Congo to a white company and it carried out exploitation thoroughly.

These tyrannies laid waste to the society and prepared a path that would become a country where violence and dictatorship occurred frequently even if they would be independent.

 
この数世紀の間に、アフリカのギニア湾から連れ去れた奴隷は1000~2000万人にのぼり、おそらくは人口の半数が奪われ、社会は大打撃を受けた。

コンゴの大半を占める東側の地はベルギー国王レオポルト2世の私有地(コンゴ自由国)となった。
当初、国王は近代化を推し進めたが、赤字になると暴政へと転換した。
現地住民は奴隷にされ象牙やゴムの採集に徹底的に使役された。
当時、植民地で収奪することが当然の欧州諸国においても、この暴政は非難の的となった。
しかたなくベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、植民地ベルギー領コンゴ(1908年 – 1960年)となった。

一方、西側の小さな地はフランス領となった。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね、白人企業は徹底した搾取を行った。

これらの暴政が社会を荒廃させ、独立しても暴力と独裁が横行する国家となる道筋を準備した。

 

4a

*4

 

The tyranny of the King of Belgium
In the Congo Freedom country (1885-1908), the King monopolized the trade of ivory and rubber, and gained enormous wealth.

At that time, a demand for Congolese natural rubber for automobile tires was robust.
While eight years of its latter half, the rubber production increased by 24 times, but it was due to the harsh a quota system that indigenous people was imposed on.
If the people could not achieve the quota, their hands and feet were cut.
In addition, the population has decreased to 9 million from 30 million of the initial stage.
The number of people killed was comparable to the Jewish massacre (Holocaust).

The army founded by the king was commanded by white officers and the soldiers consisted of indigenous warriors and slaves.
The purpose of this army was not to maintain security, but to overwork the people (indigenous people that became slave).
The army whipped the people, kidnapped the women and children of those who did not comply with the quota, and burned down the village.
The soldiers had to submit to the superior officers a human hand that was cut as a proof of ammunition that they used for the subjugation.
This purpose was only to prevent using wasteful bullets.

In addition, the King aimed to expand own territory.
When a tribal king of the south side (Zambia) partnered with a British national policy concern, he sent the army, shot to kill the king and changed a puppet king.

This continues to the next time.

 

ベルギー王の暴政
コンゴ自由国(1885-1908)において、王は象牙とゴム取引を独占し巨万の富を得た。

当時、自動車タイヤ用にコンゴの天然ゴムの需要は旺盛であった。
後半の8年間でゴム生産量は24倍になったが、これは先住民の過酷なノルマ制によるものだった。
ノルマを達成出来ない住民は手足を切断された。
また人口は当初の3000万人から900万人にまで減少した。
殺された人数はユダヤ人虐殺(ホロコースト)に匹敵した。

王が創設した軍は白人の将校が指揮し、兵は先住民の戦士や奴隷からなった。
この軍の目的は治安維持ではなく、国民(奴隷にされた先住民)を酷使する為であった。
軍は国民を鞭打ち、従わない者の婦女子を誘拐し、村を焼き払った。
兵は討伐時の弾薬使用の証明として切断した手を上官に提出しなければならかった。
これは銃弾の無駄遣いを防止する為であった。

また王は領土拡大を目指し、南部(ザンビア)の部族長が英国の国策会社と手を結ぶと、軍を送り彼を射殺し、傀儡を据えた。

次回に続きます。

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Bring peace to the Middle East | Tags: , , | 6 Comments

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