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デマ、偏見、盲点 22: 何がバブル崩壊と戦争勃発を引き起こすのか? 1


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これから、二つの悲惨な結果に至るメカニズムを考えます。

バブル崩壊と戦争勃発はまったく異なるように見える。

しかし実は同じようなメカニズムが働いているのです。

三回に分けて説明します。

 

 

* バブル崩壊と戦争勃発について

 

なぜバブル崩壊が起きるのでしょうか?

誰かが裏でバブル崩壊を煽っているのでしょうか?

残念ながら経済学は崩壊をうまく説明できない。

 

概ね投資家達(市場参加者)はバブルを好調とみなし歓迎します。

しかし一方で彼らは破産に至るバブル崩壊を恐れます。

一部、間違いなく救済される巨大銀行や崩壊の先頭を切って売り逃げた投資家は別です。(毎回、自分だけは別だと夢想している)

 

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なぜ戦争は起きるのでしょうか?

誰かが裏で戦争を煽っているのでしょうか?

この手の話はいつも巷に溢れています。

しかし多くの真実は戦争が終わってからでしかわからない。

(これを第2次世界大戦とベトナム戦争を例に注釈1で説明します)

 

平和時であっても、概ね国家は戦争を避けようとして軍備を整えます。

まして緊張が高まると増強へと舵を切ります。

概ね指導者は膨大な人命と破壊が起きてしまう戦争を望まないはずです。

少なくとも国民は戦争が二度と起こらないことを強く望むはずです。

一部、戦争をしても被害の少ない大国や支持率が上がる指導者、莫大な利益を得る軍産共同体は別です。

 

バブルを煽る投資家達も軍備増強を推し進める国家も共にその悲惨な結果を恐れることでは共通しています。

それでは、なぜ望まない悲惨な結果が生じるのでしょうか?

 

 

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* バブル崩壊のメカニズム

 

バブルは経済好調と紙一重ですが、ほぼ確実にバブルは崩壊します。

 

これは投機家らが株価(金融商品)の高騰が続かないと不安を抱くことが引き金になります。

このタイミングは微妙です。

バブル崩壊の直前まで、多くの経済指標(生産高や失業率)は良好だったのですから。

 

一つ明確なことは、暴落する時、最初に売り逃げた者は利益を得るが、後になればなるほど投機家達は莫大な負債を背負う運命にあることです。

暴落が始まると、手のひらを返すように貸し手(銀行)が投資資金の回収を急ぎ、逃げ遅れた投機家は莫大な含み資産の所有者から一転して莫大な借金を背負うことになります。

(これを土地投機を例に注釈2で説明します)

 

この被害は投機資金のレバレッジが効いているほど、中央銀行によるマネーサプライが多いほど起き易くなります(巨額の借金を安易に入手出来る為)。

 

この時、投資家や金融業が破産するだけでなく、必ず国民も大不況の被害(不景気、失業、福祉カットなど)を長期に被ることになります。

これは銀行の倒産などに端を発する金融危機、つまり巨大な信用収縮が起きるからです。

この深い傷を放置すれば、過去のバブル崩壊(恐慌)後の景気後退のように、設備投資や消費が回復するのに何十年かかるかわかりません。

深刻だったのはヨーロッパの1857年から、米国の1929年から、日本の1991年からの二十年を越える景気後退でした。

 

このため崩壊後、政府と中央銀行は数十兆円から数百兆円を主に金融市場に投じるのです。

この金額で暴落時の全金融商品(株価など)の評価損を幾分なりとも補うのですが、悲しいことに国民が負担する税金と赤字国債で賄われます。

 

実はリーマンショック時の全金融商品の評価損はよく分からない。(不明な理由はシャドウバンキングの取引額が分からないためです)

しかし当時のクレジット・デフォルト・スワップ(金融商品の保険)の取引額が6800兆円に上っていたので評価損は見当がつきます(想像を越えますが)。

 

つまりバブルで儲け、崩壊を引き起こすのは投資家(市場参加者)なのですが、その結果、その痛いツケを強制されるのは傍で浮かれていた国民なのです。

 

 

次回は戦争勃発のメカニズムについて説明します。

 

 

注釈1

ベトナム戦争は誤解から始まり、深みに嵌った戦争の代表例です。

 

戦争の発端は第二次世界大戦後に始まる冷戦の敵対感情の高まりにあった。

さらに離れた大陸にあり、異質の文化を持った米国とベトナムは互いに相手国をまったく知らなかった。

 

初期の接触、ベトナムでの小さな戦闘でこじれたことにより、その後は疑心暗鬼から大戦を凌ぐ爆撃量になるまでエスカレートしていった。

そして米国では大統領が替わるたびに停戦を志向するが、選挙を意識し敗戦の将の不名誉を避けようとして益々深みに嵌っていった。

終わってみると、この戦争で800万人の死者と行方不明者が出ていた。

 

後に、両国の当時の最高指揮官達が会談して初めて互いの誤解に気づくことになった。

この会談は1997年、ケネディ大統領の下でベトナム侵攻の采配を振るったマクナマラ元国防長官が、ベトナム側に要請して実現したものです。

詳しくは私のブログ「戦争の誤謬 7、8: ベトナム戦争1、2」を参考にしてください。

 

第2次世界大戦を引き起こしたヒトラーは外部に凶悪な敵がいると扇情し国民を魅了した。

その敵とは主に共産主義者、ユダヤ人、フランスやロシアの周辺国でした。

しかし、やがてドイツ国民は真の破壊者が誰であるかを知ることになるのですが、それは戦争の末期になってからでした。

多くの国民は戦後10年間ほど、ヒトラーに騙された被害者であると感じていたようです。

その後、加害者の自覚が生じ反省と償いが本格化した。

 

一方、共に戦端を開いた日本では国民が軍部に騙されたと気づいたのは敗戦後でした。

しかもドイツと違って、未だに誰が真の破壊者であったかを認めない人が多い。

極め付きは、国の指導者でさえ相変わらず過去の美化に懸命です。

 

これでは誰が戦争を始めたかを理解出来ないので、当然、戦争を食い止めることなど出来ない。

おそらくは同じ過ちを繰り返しても気づかないでしょう。

 

 

 

注釈2

身近な企業経営者が1880年代のバブル時にハワイの別荘を買い、バブル崩壊と共に夜逃げしたことがありました。

この過程を説明します。

 

バブルが始まると最初に工場を担保にし、1億の手持ち資金で国内不動産を購入し、これが数年で2億の評価額になりました。

次いで、これを担保に借金し、別に買った物件がまた4億円に高騰しました。

これを繰り返して行くうちに、遂にはハワイの不動産を買うことが出来た。

 

絶頂期に彼は総資産20億、借金10億で純資産10億となったことでしょう。

(ここで売れば良かった!!)

しかしバブルが崩壊し、すべての不動産価格が購入時の半値になりました。

彼の総資産は1/4以下に減価し、不動産をすべて売却し返済に充てても借金5億が残りました。

こうして彼は破産しました。

 

金融商品投資でレバレッジを30倍効かせれば、暴落時の借金はこんな少額では済まない。

ここ半世紀、規制緩和でレバレッジが上がり、金融緩和でマネーサプライが巨大になって投機資金が膨大になり、その尻ぬぐいで累積赤字が天井知らずになっている(減税と公共投資も追い打ち)。

 

毎回のバブル崩壊で、このように土地、株、商品取引などの高騰と暴落が繰り返されている。

資本主義国だけでなく中国も不動産(マンション)と株で同様の高騰な続いています。

 

 

 

 

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デマ、偏見、盲点 21: 抑止力と規制緩和に共通する危さ


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今、二つの危機、核戦争と経済破綻が迫っています。

しかし、この対処方法に真逆の説があり折り合いがつかない。

このままだと遂には破滅に至る可能性がある。

人々は漫然とかつて歩んだ道を進むのだろうか?

 

 

*抑止力と規制緩和に共通するもの

 

この2月2日には米国は核軍縮から小型核使用に方向を転じた。

また2月3日にはNYダウが1日で2.5%下落した。

これがリーマンショックを上回るバブル崩壊の始まりかどうかはまだ定かではないが、可能性は高い。

 

ある人々は、この二つは世界を破滅に導くと警鐘を鳴らす。

この破滅とは、核戦争と大恐慌(著しい経済格差と国家債務不履行も含む)です。

 

しかし一方で、これこそが破滅を防ぐ最善の策だと唱える人々がいる。

戦争を防止するには小型核、恐慌を回避するには景気拡大の為の規制緩和こそが絶対必要だと言うのです。

 

この二つの危機とその対処方法は一見次元が異なるように見える。

しかし、この二つの対処方法には不思議な共通点があります。

小型核は抑止力、規制緩和は自由競争を前提にしているのですが、実は共に相手(敵国や競合者)の善意を信じない一方で理性に期待しているのです。

 

抑止力は、敵意剥き出しの国がこちらの軍備力を的確に把握したうえで抑制出来る理性を有する場合のみ成立するのです(太平洋戦争時の日本軍が反証の好例)。

規制緩和は、個々の市場参加者が利己的に行動しても、市場全体としては最適な方向に落ち着くと信じているのです。

何か不思議な信念に基づいた論理なのです。

 

実際の社会は、悪意も善意も、感情的にも論理的にも動いているのですが。

 

さらにもう一つ、共通していることがあります。

 

例えば「抑止力は無効だ!」「自由競争は不完全で弊害が多い!」と否定したらどうでしょうか?

実は困って激怒する人々がいるのです。

前者では軍需産業、後者では金融業界や富裕層で、大きな実害を被るからです。

逆に否定して利を得る人々は特に見当たりません。

 

具体的に抑止力と規制緩和の危さについてみていきます。

 

 

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*抑止力の罠

 

兵器による抑止力は有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

 

先ず、抑止力が有効な場面は身近な事から類推できるでしょう。

しかし抑止力が効かなくなる場合を理解することは少し難いでしょう。

 

単純に二つのケースがあります。

競合国(敵対国)が共に軍拡競争に突入した場合です。

一方が軍備増強を行えば相手は脅威を覚え、必ず軍拡競争が始まります(初期の米ソの冷戦)。

これは歴史上至る所で見られ、多くは大戦へとエスカレートしました。

 

もう一つは、兵器が無数に拡散した場合です。

分かり易いのは、米国の銃社会です。

国民一人に1丁以上の銃があることによって、銃による殺人事件や自殺が非常に多くなっています。

ここでは安易な兵器使用が抑止力の効果を上回っているのです(大国の中東などへの安易な軍事介入なども)。

 

この二つの例からだけでも、使いやすい小型核の普及は抑止力よりも危険の増大が予想できるはずです。

 

これに加えて、核兵器ならではの危険を増大させる要因があります。

一つは被害が非常に悲惨なことです。

このことは見落とされがちですが、多くの戦争は燃え上がる復讐心が高ければ高いほどエスカレートし、停戦は不可能になります。

だからこそ人類は悲惨な被害を与える対人地雷やナパーム弾などの兵器の使用を禁止してきたのです。

残念ながら世界は原爆の被害をまだ知らない(日本が先頭切って知らすべきなのですが)。

 

もう一つは、兵器のコストパフォーマンスが高いことです。

もし手に入れることが出来れば数億から数十億円で相手一国を恐怖に陥れることが出来るのです(抑止力と呼ぶ国もある)。

これまでは膨大な軍事費を賄える経済力こそが大きな抑止力を可能にしたが、核兵器なら小国でも可能になります。

 

結論は、小型核のような兵器は抑止力を期待出来るどころか、取返しのつかない状況に追い込んでしまうのです。

銃が蔓延し殺人が多いにも関わらず、銃規制が出来なくなってしまった米国がその好例です。

 

米国では治安と平和は高額で買うしかなく、金が無ければ治安が悪い所に住み、命を危険にさらさなければならないのです。

核兵器の下では、これすら不可能です。

 

 

*規制緩和の罠

 

規制緩和は経済活性化に有効かと問われれば、「YES」ですが条件付です。

 

皆さんの多くは規制緩和が経済を活性化させると信じているはずです。

一方で規制緩和が経済や社会に弊害をもたらす事例も数多くあるのですが、なぜか見えなくなっています。

これは今の日本で、有効だとする情報が大量に流されているからです。

 

幾つかの事例をみてみましょう。

 

 

 

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*米国の規制緩和がもたらしたこと

 

先ずは米国で40年近く行われて来た規制緩和が如何にバブル崩壊と経済格差を生んだかを簡単に説明します。

専門用語が出て来ますが、全体の流れを知って頂ければありがたいです。

 

  •  先ずストックオプションが1980年代から急増した。

これにより経営者は短期に高騰させた自社株を安く手に入れ、彼らの所得は鰻登りなっていた。

このことが企業経営を投機的で短期的なものにし、従業員との所得格差も開いた。

 

  • グラス・スティーガル法が1999年に廃止された。

この法律は1929年の大恐慌の再来を防止するために銀行業務と証券業務を分離し、投機行動を監視し抑制するのが目的でした(1932年制定)。

しかし、これが廃止されたことにより、監視が行き届かないシャドウバンキング(証券会社やヘッジファンド)が好き放題に投機をおこなった。

 

  • 投機時のレバレッジ率が上昇した。

これは証券、商品、為替などへの投機時に自己資金の数十倍まで投資が可能になることです。

これによって投資家は価格が高騰した時は桁違いの儲けが出るのですが、暴落すると巨額の負債が発生し、バブルと崩壊が繰り返されることになった。

このことが2項の監視されない状況で起こった。

 

  • クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)が2000年頃から急拡大した。

これは金融派生商品の一種ですが、リーマンショックの巨大なバブル崩壊を招いた大きな原因の一つでした。

これは金融取引時の損失を補償する新手の保険で、当時、危険な投資案件でも金融機関はこの保険があれば救済されると信じていた(赤信号皆で渡れば怖くない)。

 

バブル崩壊前年の2007年末にはその取引額は6800兆円になっていたが、6年間で100倍にも膨れ上がっていた。

この年の米国の名目GDPは1500兆円で、如何に膨大かがわかる。

当然、崩壊時の補償など出来るはずもなく、米国政府は税金と国債発行で300兆円を金融危機終息の為に注入せざるを得なかった。

出来もしない補償であろうがCDSを販売すれば儲かったのです(6800兆円の数%の手数料でも莫大)。

 

大雑把ですがポイントは以上です。

この悲惨な状況を生み出した最大の馬鹿げた理由は、貪欲な投機家や資産家、経営者達を野放したこと、つまり規制をしなかったことによるのです。

もうひとつ見落としがちなのは、資金力や情報力、政治力などの差により完全な自由市場などは存在しないことです。

 

この話は、少し分かり難いかもしれません。

しかし規制や取り決めがなく好き勝手にした為に社会が壊滅した事例は歴史上多いのです。

 

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* 歴史上、破滅した例

 

典型的な例はイースター島とアイスランドです。

 

人々が最初にこれらの島に入植した時は、木々が茂る緑豊かな所でした。

しかし、燃料などの為に伐採が進む内に自然は再生不能となり、イースター島では部族同士が激しく争い、人口は激減し、逃げ出すにもカヌーを作る木材さえなくなっていた。

アイスランドは木々の無い島となり、それこそ火と氷の島となったのです。

 

 

* 日本の事例

 

最後に日本の規制緩和の惨めな例を一つ挙げましょう。

労働者派遣法の適用拡大により、非正規雇用が拡大し続けています。

 

これも賛否両論があります。

ある人々は産業の競争力を高める為に、また産業や企業の盛衰に合わせ人材は流動的でなければならないと言う。

一方で、安易な首切りや低賃金の横行は基本的人権を侵害すると言う。

 

おそらく多くの人は、経済側の言に耳を傾け、泣き寝入りするするしかないと感じていることでしょう(これは日本人の奥ゆかしさかもしれない)。

 

この問題のポイントは是か非かではなく、どちらも正しいのです。

企業の競争力を高め、労働者の価値を高めるためには、人材の流動性が必要です。

当然、簡単に首を切られ、低収入や無収入に甘んじなければならないのは論外です。

 

つまり、労働者は失業中も収入が確保され、転職のための再教育や訓練が充分行われ、就職すれば当然、同一労働同一賃金であるべきなのです。

 

こんな夢のようなことは不可能だと思われるかもしれませんが、北欧(スウェーデン、デンマークなど)ではこれが当然のように行われているのです。

 

日本の悲しさは、産業競争力の責任を一方だけが背負い甘んじているのです。

 

 

 

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*まとめ

 

抑止力と規制緩和の問題点を簡単に見て来ましたが、ここで確認して欲しいことがあります。

 

抑止力については歴史的に見て完全なものではなく、むしろその強化を放置すれば災いを招くことがあったことを知ってください。

 

また規制緩和はここ半世紀ほど米国を筆頭に行き過ぎており、多くの問題が生じていることを知ってください。

 

抑止力と規制緩和の推進は軍需産業や金融業界、資産家に取って実に旨味のあることなのです。

東北大震災の福島原発事故のように、大きな産業と関係省庁が癒着してしまうと、体制維持に都合の良い情報だけが国民に流され続け、問題点が見え無くなってしまうのです。

 

 

* 日本が今歩んでいる道

 

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< 6.銀行の金融資産と自己資本の比率、OECDより>

 

金融資産/自己資本は金融セクターの財務安定性を見るためのものです。

上のグラフ: 2004~2016年の金融資産/自己資本の推移。

 

多くの国、例えば英国、デンマーク、米国はリーマンショック後、健全化を進めているが、日本だけは悪化している。

 

下のグラフ: 2016年、この日本の比率はOECD35ヵ国の内、下位から

三番目です。

 

もし大暴落が始まればどの国が最も影響を受けるのでしょうか?

 

 

 

参考文献

「米国の規制緩和がもたらしたこと」に詳しい本

 

「世界金融危機」金子勝共著、岩波書店、2008年刊。

「世界経済を破綻させる23の嘘」ハジュン・チャン著、徳間書店、2010年刊。

「世界を破綻させた経済学者たち」ジェフ・マドリック著、早川書房、2015年刊。

「これから始まる『新しい世界経済』の教科書」ジョセフ・E・スティグリッツ著、徳間書店、2016年刊。

 

 

 

 

 

 

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何か変ですよ! 92: 何が問題か? 15: なぜ改革から逃げるのか?


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日本の社会経済の指標、評価ランキングは益々低下の一途です。

にもかかわらず日本は一時しのぎを繰り返すだけで、痛みの伴う成すべき改革から逃げています。

この不思議を探ります。

 

 

*今の日本の状況を概観します

 

以下のグラフから、日本の所得水準、幸福度、経済力の低下が見て取れます。

 

 

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< 2.悪化する日本 >

 

上のグラフ: 日本のワーキングプアは年々増加し、OECD内でも順位を落としています。

ワーキングプアはまともに働いても貧困線以下の所得しか得られないことを指します。

 

中央のグラフ: これは主観的な幸福度の世界ランキングで、日本は60位です。

 

下のグラフ: 主要国の中でも日本だけは特許出願件数は低下の一途です。

 

上二つのグラフで必ず上位にある国は北欧(デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)です。

 

 

 

*改革から逃げる様々な言い訳

 

*A: 改革は漸進的であるべきだ!

 

これは保守論客の西部邁が指摘した保守思想の一つです。

 

このことは理解できます。

人間は不完全なものであり、未経験で画期的な社会改革は危険と言えます。

漸進的であることは、確かに大きな失敗を犯す可能性を低下させます(共産主義国家の失敗)。

 

しかし、これとて完全でないことは明白です。

例えば、次の事を考えれば分かり易いでしょう。

 

衰退する企業が、いくらコストダウンを続けても、漸進的な改善では存続することは難しい。

つまり技術や商品にブレイクスルー(飛躍的な革新)が必要なのです。

 

それでは社会や政治についてはどうでしょうか?

前回、英国の19世紀末の衰退で見たように、権力を握った勢力(金融資産家)は利益拡大(海外投資)に励みこそすれ、たとえ国が衰退(産業停滞)しようが既得権益(金融の自由)を制限するようなことはありませんでした。

 

このような場合、たとえ漸進的であっても効果ある改革が出来ないから国や文明は衰退し、または暴動や革命が起きるのです。

 

結論から言えば、保守も革新も程度問題であり、状況に応じた改革手法を選択すべきです。

 

 

*B: 万年野党が頼りないから、与党に任せるしかない!

 

野党が頼りないのは事実です。

野党はひたすら反対か批難するだけで、理想は語るが具体的な対案を持たない。

これも一面正しいと言えるでしょう。

 

しかし、これで済む問題でもないはずです。

大きく二つの理由があります。

 

一つは、今の凋落は日本の万年与党の政策のつけだと言うことです。

もう一つは、これを牽制出来る健全野党が育っていないことです。

 

 

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< 3. 1990年代に起きた事 >

 

上のグラフ: 日本の公共投資は1990年代に猛然と増加しています。

青棒、左軸が金額を示す。

 

下のグラフ: これまた非正規雇用率(赤折れ線)が1990年代から急伸しています。

 

この時期に起こった二つのことは密接に関係していた。

 

 

 

*政策のつけとは何か?

それは凡そ1985年から始まったと言えます。

プラザ合意による円高誘導で日本は経済が低迷し、政府はこの挽回の為に突出した公共投資と金融緩和を来ない、やがてバブル経済に突入します。

そして1991年のバブル経済崩壊が、経済を長期低迷させることになった。

この一連の出来事は、貿易摩擦と円高に喘ぐ米国が日本に圧力をかけ、これに従った与党政権のあがきの結果だと言えます。

この間、政権は米国が要求する構造改革、金融ビッグバンを行い、米国の望む自由主義経済圏に完全に突入していきます。

ここまでは野党政権であっても同じことをしたかもしれませんが。

 

しかし、このバブル崩壊後の不景気のさなかの1995年頃から、万年与党らしい政策の影響が今の日本社会を作りだすことになりました。

それは先進国中のあらゆる順位(幸福、経済、貧困、報道、男女平等、労働等の評価)が低下し続けていることに如実に現れています。

 

目立つものとしては非正規雇用の増加と賃金低下、一方でやや遅れて起きた企業の内部留保の増加でした。

これは今も更新中です。

これらは労働の規制緩和などに代表される企業優先の姿勢がもたらしたものです。

まさに1994年の「舞浜会議」で財界が望んだ方向に事が進んでいます。

 

この与党の一連の政策は、米国追従と財界優先の姿勢から生じたもので、さらには自由主義経済への固執にあります(言い替えれば惰性と既得権益擁護でしょうか)。

 

この結果、日本は長期のデフレ、低経済成長、ワーキングプア増加に陥りました。

さらに世界に類を見ない累積赤字の増大、米英に続く格差拡大が急速に進行しています。

また少子化対策の遅れによる労働人口減と高齢化社会の到来が重なります。

この結果、現在進行中の年金などの福祉政策の大幅な縮小がある。

 

万年与党が政権に居座り続けたことにより、つい30年前まで誇ることの出来た日本の快進撃は、単に思い出に過ぎなくなった。

1980年代、多くの人が別荘地、リーゾトやゴルフ場の会員権を買い漁り、いつまでも景気上昇が続くと信じたはずです。

しかし、それは束の間の夢であり、長い喪失感と借金返済が現実に続くことになったのです。

 

つまり、与党には政権を担った実績はあるのですが、このまま舵取りを任せることは没落を深めることになるのです。

しかし野党のだらしなさは頂けません。

 

 

 

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< 4. その後に起きた事 1 >

 

上のグラフ: 賃金が1997年から低下し続けています。

下のグラフ: 企業の内部留保が1999年頃から急激に伸びていることがわかります。

 

つまりこれらは与党が長年積み上げて来た成果なのです。

 

 

 

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< 5. その後に起きた事 2 >

 

これも成果と言えるでしょうが、残念ながら日本の衰退を物語っています。

 

日本の累積債務(赤い棒グラフ)はGDP比率で世界最大級でかつ増加中です。

一方、日本は世界一の対外純資産国(=資産―借金、青い棒グラフ)です。

 

楽観論者はこの資産によって債務を減らすことが出来るはずだと訴える。

しかし、それは不可能です。

誰が、海外の高利回りの証券から利率の低い内国債に買い替えるでしょうか。

(もし国債の金利が上がれば、余計に悲惨な状態になります。)

そんな善意に期待出来ないことは、世界一の対外純資産国であった英国が19世紀末に衰退した事実を挙げるまでもなく、常識で分かるはずです。

結局、体制擁護派は無責任に煽っているだけなのです。

 

 

*万年野党の悲運

先進国は概ね二大政党を目指し、少数政党乱立や一党独裁を避ける選挙制度を取り入れています。

これは長年の民主主義獲得の経緯から生まれたもので、政策論議を深め、多数決による弊害を避ける為のものでした。

残念ながら、日本では戦後まもなくしてこれが機能しなくなりました(戦前が良かったわけでもないが)。

 

日本の万年与党は自由主義経済を国是とする保守政権(米国共和党など)にあって、珍しく財政支出の大きな政府になっているが、これは万年野党が反対し対案を出し続けることでなったとする見方もある。

しかし、私は別の理由によるものだと思う。

 

ところで、やはり万年野党の存在はどう見ても民度の高い国、先進国の中では異常であり、適切な役割を果たしていない。

つまり長期に及ぶ与党政策の歪を是正するためにも、民主主義の危機を防ぐ為にも、強い野党の存在が不可欠です。

 

現実は非常にお粗末ですが、志ある人も、芽も僅かばかりではあるが残っている。

 

 

*なぜこのようなことが起きているかについて考えます。

 

結論から言えば、日本には未だにパトロネージが強く根付いているからだと考えます。

 

「パトロネージ・システムとは権力を持つ個人(パトロン)が、その特権を利用して、資源を恣意的な決定によって、自己を支援する集団(クライアント達)に分配するシステムです」

 

少し馴染みが薄い言葉かもしれませんが、世界中の後進国や南欧ではよく見られる政治状況です。

洋画で言えば「ゴッドファーザー」、日本で言えば議員の「世襲」や「看板、地盤、鞄」に代表される状況です。

 

もっと分かり易く言えば、「日頃お世話になっている顔役に投票する村人」のイメージです。

 

私は都会の郊外で生まれたが、現在、のどかな自然に恵まれた所に住んでいます。

ここで都市部と田舎の政治意識の違いをいやと言うほど知らされました。

皆、良い人なのですが、政治感覚や選挙行動に驚かされます。

 

先ず、人々は政治談義をほとんどしないのですが、あってもその範囲は村や町ぐらいまでで、中央政治を語る人は稀で、まして世界情勢とは無縁です。

しかし選挙では彼らは熱心になります。

そして、思わぬ人から投票を依頼されることもあり、断わりでもしようものなら、「村の恩人に恥じないのか!」と恫喝されることもあります。

つい最近まで買収もよく起きていました。

 

二大政党制を目指した小選挙区制度改革ではあったが、派閥を崩す効果だけで留まってしまい、逆にパトロン(総裁や首相)の権力を巨大化させてしまった。

そのあげく、先進国の議会制民主主義では起こるはずのないことが権力者周辺で頻発している。

つまり取り巻きや取り入ろうとする輩が犯罪やたかりを平然と行い始めた。

 

 

*なぜパトロネージ・システムが蔓延るのか?

 

二つの要因があると思います。

 

一つは、政治意識、歴史観、社会意識が未発達なことです。

これらが低い一因は、以前も指摘しましたが1970年代の学生運動後、学校教育の場で、政治が禁句になったことにあります。

政府は学生運動の再燃を抑える為に行ったのだが、これが今大きな災いとなっているのです。

例えば、北欧では小学生から環境問題、さらに上級では政治活動も教育の一環としておこなわれており、これが民主主義を支え好循環を生んでいるのです。

 

今一つは、帰属意識が高いことで、これは田舎ほど高いようです。

これは古い農耕民の心性の名残であり、良さもあるので、一概に否定することは出来ません。

しかし、その欠点は良識を失う会社人間や自殺の多さ、また内部告発が出来なく自浄作用が働ない組織を生み続けることになる。

 

分かり易い事例としては、村人に行事に対する意見を求めた時、極端な場合は個人の意見は控えたい、隣近所との協議の上でと逃げられることがある。

 

またワンマン企業では、従業員は陰で社長のパワハラを嘆きながら、一方で、依存しており、従順ぶりを装うことになる。

 

これらの社会や組織は一致団結して行動する分には効果を発揮するが、社会変化への不適応を起こしやすく、また暴走を食い止めることが困難です(1920年代のドイツ、イタリア、日本が好例)。

 

残念なことに、私にはこの政治文化を改善する方法が見つからない。

ただ地方の選挙制度と国会議員の育成方法に何らかのステップアップの術があると思う。

 

 

 

*C: 資本主義以外に進むべき道はない!

 

私がブログで日本の現状を憂い、体制の転換を図るべきだと指摘すると、資本主義は完璧であり、他は無いと反論されることがあります。

 

結論から言えば、資本主義は空気のようなもので否定する必要はありません。

大体、資本主義が唯一無二の完璧な政体と考えることもおかしい。

帝国主義は資本主義から生まれ、さらには互いにおぎなっていたのです。

つまり、国民が資本主義をコントロールすることが必要なのです。

 

ここ1世紀だけを見ても、資本主義社会の欧米の状況、格差や福祉は国よっても、時期によっても大きく差異がありました。

1950~1970年代の日本や米国、西欧は概ね格差が少なく経済成長を遂げた時期でした。

その前後は逆の時代でした。

それは反動の時代と呼べるかもしれません(当然、一部の層には良い時期でしたが)。

 

今の反動の時代は、自由主義経済の復活と更なる金融業重視によってもたらされたものです。

これによる弊害は、これまでに説明して来ました。

 

問題は、これらを改めることに不安を抱く多くの人と、それを不可能で危険な行為と反対するエスタブリッシュメントとこれに連なるエコノミストの存在です。

既得権益を脅かされるエスタブリッシュメントが反対するのは当然です。

 

しかし国民は、かつて国民を守る為の規制と権利擁護により、社会が今より順調な時代、1950~1970年代があったことを知って頂きたい。

 

重要な事は、多数の日本国民が英米をお手本とする狭窄な視野から脱することです。

北欧やドイツ、フランスは同じ資本主義国でも異なった道を歩み、豊かさと繁栄を手に入れています。

特に北欧は1930年代頃から、高福祉政策を採り始め、高負担ながら高い所得と権利の尊重と幸福を共に得ています。

このために北欧は世界から孤立するのではなく、旺盛な貿易をやり、有名な多国籍企業が活躍し、PKO派遣でも貢献しています。

 

 

 

6

< 6. 北欧の経済 >

 

上のグラフ: 2004~2008年平均の輸出などのGDP比率。

如何にスウェーデンが国際的(開放経済)であるかがわかります。

 

下のグラフ: 如何に北欧各国が日本より高い経済力を維持しているかがわかります。

 

これだの開放経済であっても国内の労働者の権利を守り、経済発展を遂げることが出来ているのです。

 

 

つまり、「国民の権利を重視する政策は、自由主義経済が蔓延するグローバルな世界では取り残され、やがて破局を迎える」と恫喝する多くの体制擁護派のエコノミストの指摘は嘘なのです。

 

 

 

*まとめ

 

これまで見てきたように、日本が改革出来ないとされる理由は実に他愛ないものでした。

多くは体制擁護派、既得権益層、自由主義経済信奉者らの必死のアジテーション(煽動)で、想定外を無視した無責任な発言に過ぎない。

しかし、残念なことにこちらの方が訴える力はある。

 

最後に、私が皆さんに望むことは、今後日本が衰退していくことを諦めたとしても、万年野党を生む政治文化だけは何としてでも突き崩して頂きたい。

しかし、これとて国民の意識が高まらない限り不可能で、これでは堂々巡りです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 91: 何が問題か? 14: 英国はなぜ衰退したのか?


 

1バンコク博覧会

< 1. ロンドンの万国博覧会、1851年 >

 

 

今回は、繁栄を享受していた大国がなぜ没落したかを見ます。

そこでは今の日本とまっく同じことが起きていた。

誰しも自分の不幸の予兆を知りたくはないが、知れば心構えが変わるかも!

 

 

 

 

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< 2.栄枯盛衰 >

 

上は1876年のロンドン、下は20世紀初頭の米国の写真です。

 

 

*はじめに

かつて大英帝国は軍事的・経済的に世界を席巻し西欧文明、いや人類文明の模範でした。

しかし、その絶頂期にあった19世紀の後半からわずか数十年、急激に生気を失い、覇者の座を失った。

覇権国の栄枯盛衰は世の習いではあるが、資本主義社会で起こったその衰退過程が日本の低迷と恐ろしく似ているとしたら、どうでしょうか?

 

皆さんにこの英国の歴史から感じて頂きたいことが三つあります。

 

A: 衰退の原因はその社会が作り出していた。

B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

C: 間違った手段で起死回生を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

 

歴史は過ぎ去ったものであり、まして外国のことなど関りがないと思われるかもしれないが、恐ろしいほど似たことが起きていたのです。

 

 

 

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< 3.英国の繁栄と衰退 >

 

赤枠は繁栄を極めた英国が19世紀後半から転落していく様子を示す。

 

 

*繁栄を極めた英国

17世紀、英国はピューリタン革命と名誉革命を経験し、いち早く議会が王権を牽制するまでになった。

16世紀以来、海外の領土を拡張していたことと、上記の社会体制の変化が相俟って、世界で最初の産業革命が英国で1760年代に興った。

19世紀半ばには「世界の工場」と称され、1851年にロンドンで始めて開かれた万国博覧会はその自信の現れだった。

 

 

 

4a

< 4. 帝国主義に拍車がかかる >

 

上は1886年の英国の植民地、下は1921年のものを示す。

この間に英国は中東とアフリカに侵略を開始した。

英国では何が起きていたのか?

 

 

*一方で破滅への道が準備されていた

1825年、過剰生産による恐慌が英国で始めて起こり、その後ほぼ10年ごとに恐慌は起こったが、19世紀前半の恐慌は主として英国内にとどまっていた。

しかし1857年に初の世界恐慌が勃発し、1873年の恐慌ではヨーロッパ(英国も)は22年間にわたる経済不況へと突入した。

 

一方、ヨーロッパ大陸ではフランス革命(1789年)が起こっていたが、その後のナポレオン戦争への勝利が列強による軍事同盟(ウィーン体制)を生み、逆に国内の自由主義を19世紀半ばまで抑圧することになった。

 

恐慌の翌年の1874年、英国では総選挙で帝国主義的外交を唱える保守党(貴族、大資本家が支援)が圧勝し、スエズ運河買収(1875年)、インドを直轄領からなる帝国化(1877年)へと推し進めることになった。

 

こうして英国を含めたヨーロッパ諸国は競い合って世界を植民地化し、ついには二度の世界大戦へと突き進んだ。

 

 

 

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< 5. 英国の衰退要因 >

 

上左のグラフは1914年の英国の資本輸出、上右のグラフは英国の資本輸出の推移(1816-1914年)を示し、下のグラフはその結果として工業生産高が伸びなくなっている状況を示す。

英国が衰退した最大の理由は膨大な資本輸出(他国の建設や設備への投資)にあり、これが国内投資を激減させ、国内産業の競争力の低下を招き衰退に至った。

 

 

 

*英国は自ら衰退の道を歩んでいた

二度の大戦で多くの国は戦火を被ったが、衰退する英国を尻目に米独日などは経済大国へと躍進することになる。

英国の衰退は1880年代には始まっており、20世紀の初頭には米独に追い抜かれていた。

衰退は英国で進行していた社会・経済の変化にうまく対応できなかったことによる。

 

英国は産業革命をやり遂げてはいたが、鉄と石炭の産業が中心であり、次代を担う電気やガスを中心とする重化学工業には対応出来ていなかった。

これは新規技術導入に消極的だったことによるものだが、かつての企業家精神は半世紀余りの間に完全に廃れていたからでした(保護政策)。

 

何が英国で起きていたのか?

産業革命により貿易は拡大し、人口は都市に集中し、都市労働者の生活スタイルが変わり、食料品や日用雑貨の大量輸入が不可欠になり、自由貿易が進められた。

すると国内生産の農作物価格が暴落し、大規模農場経営は行き詰まり、貴族(ジェントルマン)は資産を不動産から金融資産へと変えていった。

一方、勃興した産業資本家も金融資産を増やしていた。

 

産業革命当初、英国の輸出は旺盛で貿易黒字は優勢であったが、やがて輸入が上回り万年赤字になった。

しかし、世界トップシェアを占める海外貿易に伴う船賃収入や、それまでに蓄えた外貨(貿易黒字)による海外投資の利益が貿易赤字を上回るようになった。

こうして英国は世界の新興国や発展途上国に投資し、ますます資本家は貪るように海外投資で利益を得るようになっていった。

こうしてロンドンシテイは世界の金融をリードするようになったが、英国内への産業投資は尻すぼみとなり、競争力は衰えるばかりだった。

金融資本家は急成長し資金が不足する米国やドイツの産業や産業基盤(鉄道)に競って投資し、競合国の経済成長を助け、自国産業の衰退に加勢すらした。

 

さらに植民地への投資資金と植民者の安全確保の為と称して、植民地への軍事行動が国民の合意の下に行われることになり、帝国主義は国を挙げて行われていった。

 

 

*英国社会では何が起きていたのか

大英帝国の貿易と経済、植民地のシェアは世界で群を抜いてトップだった。

また大英帝国には莫大な資本蓄積があり、多数の大金融資本家(ロスチャイルド家)がおり、人々は繁栄を謳歌していた。

 

19世紀末から20世紀初頭の英国の人々の暮らしや意識を追ってみます(注釈1)。

 

・大都市の暮らしに憧れ、都市生活を享受した。

・その一方で地方暮らしや海外赴任を嫌い、遂には外貨を稼ぐ船員も激減した。

・添乗員兼通訳付きの海外向けパック旅行が大ブームとなった。

・国内旅行では温泉がブームになった。

・都市では展覧会、博覧会、スポーツ競技などのイベントが花盛りになった。

・古典は疎まれ、イラストの無い読み物は敬遠されるようになった。

・健康ブームとグルメブームが興った。

・理想主義、犠牲や粘り強く行うべき改革は嫌われ、「勝手気まま」が合言葉のポピュリズムが持てはやされた。

 

この時代は英国が築き上げた繁栄から半世紀以上が経過し、所得の増加や福祉向上が進み、都市生活が定着し、大量の中産階級が生まれていた。

しかし19世紀後半には経済が陰り始めたが、人々(中産階級)は更なる繁栄を求め、保身と海外展開に望みを託し保守化していった(注釈2)。

 

残念なことに、1世紀前の苦労やかつての克己心は忘れ去られ、快楽追及や利己的なものが重視されるようになっていた。

 

 

 

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< 6. 今繰り返されようとしている英国の世紀末 >

 

上のグラフは19世紀末の資本(投資利益)が労働(賃金収入)よりも如何に稼いだかを示し、凡そ7倍あった。

中央のグラフは、その結果として20世紀初頭、如何に所得格差が開いていたかを示し、両グラフから21世紀初頭も同じことが起こりつつあることを示している。

下のグラフは、最近の日本の民間資本の肥大化を示している。

 

この三つのグラフは、日本を筆頭に差はあるものの先進国では莫大な資本が百年前の世紀末を再現しつつあることを物語っている。

 

 

*日本と比べて

おそらくここまで読まれた方は、あまりにも現在の日本に似ていることに驚かれるはずです。

政治家、企業家や資本家、中産階級の嗜好と目指すものは両国で酷似しています。

 

内憂(恐慌や衰退)を国内で解決するのではなく、海外の植民地拡大に矛先を転じていました。

実は植民地政策は搾取する割には軍隊派遣や植民地への投資で赤字になるだけでなく、多くの自国民の血も流した。

現在の日本も似ていますが、1910年代の好景気を経て30年代に大陸進出する大正から昭和の初めとも似ています。

 

企業家や資本家はやがて保守的になり、蓄積した膨大な金融資産は国内に向かわず、海外に利を求め、国内投資は漸減し、自国の競争力は失われた。

これは国としては自分で自分の首を絞めるに等しいのですが、個々には最適な利殖行動の結果なのです。

 

中産階級の浮かれ具合は両国でまったく同じです。

しかも当時、この英国の浮かれ具合を古代ロ―マの衰退期と同じだと指摘した出版物が出たと言うから、歴史は繰り返すようです。

 

実は、もう一つ共通していることがあります。

それは社会が本当に衰退している時ほど、楽観論(衰退を無視)がまかり通るようです。

 

 

*まとめ

冒頭で述べた以下の三点について皆さんはどのように感じられたでしょうか?

 

A: 衰退の原因はその社会で生まれていた。

 

経済発展が経済(産業や金融)と社会(主力の階層)を変え、今度はこの社会が経済の不具合(業界保護と国内投資減)を制御出来なくなってしまった。

 

 

B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

 

国の発展を牽引するはずの企業家や資本家は利益を求めるだけで、社会や国の衰退を顧みることはなかった。

 

C: 間違った手段で挽回を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

 

政治家や資本家は、国内経済の低迷打破に安易で国民の反発が少ない海外進出に舵を切った。

そして植民地の関係は泥沼化し、また列強との競争が激化し、やがて戦端を開くことになった。

 

 

*あとがき

英国の衰退を説明し、かつ日本の現状との類似を指摘することは難しい。

したがって、分かり易さと大きな流れを掴んで頂くために、かなりの歴史的事実や経済データーなどを割愛して、極端に論理を圧縮しています。

関心のある方は、以下の参考文献を参照してください。

 

 

次回に続きます。

 

 

注釈1: 文献「なぜ国家は衰退するのか」中西輝政著、1999年刊。

記事は主に第三章から抜粋。

 

注釈2: 文献「概説 西洋社会史」野崎直治編、1994年刊。

この分析は、Ⅳ-17の「帝国主義時代のイギリス社会」に詳しい。

 

ドイツ国民がナチスに傾倒して行った過程でも、保守化した中産階級(定義は異なるかも)が主役を成した(別の文献)。

 

 

参考文献

*「21世紀の資本」トマ・ピケティ著、2015年刊。

*「新版 概説イギリス史」青山吉信共編、1995年刊。

*「図説 イギリスの歴史」昭博著、2002年刊。

*「概説イギリス経済史」米川伸一編、昭和61年刊。

今回の英国経済衰退について最も詳しく書かれている。

*「概説世界経済史Ⅱ」ロンド・キャメロン共著、2013年刊。

今回の英国経済衰退についての要約と世界経済の関係が分かる。

*「現代のイギリス経済」中村靖志著、1999年刊。

今回の英国経済衰退について第一章に少し書かれている。

*「世界の歴史25 アジアと欧米世界」中央公論社刊、1998年刊。

今回の英国衰退期の歴史(社会、貿易、帝国主義)について詳しい。

*「世界経済の成長史1820~1992年」アンガス・マディソン著、2001年刊。

今回の英国経済衰退について世界経済の関係が分かる。

*「イギリス病・イタリア病・日本病」中村忠一著、昭和52年刊。

 

 

 

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フランスを巡って 48: シャルトル大聖堂の内部


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今日は、シャルトル大聖堂の内部を紹介します。

 

 

 

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< 2. シャルトル大聖堂の構造 >

 

上の図: 平面の断面図。借用。

下の図: 上の図の赤矢印から見た俯瞰図。グーグルアースより。

 

 

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< 3.後陣(東端)の比較 >

 

上の写真: 初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の後陣。借用。

 

下の写真: ロマネスク建築のサント・マリー大修道院付属教会の後陣。借用。

 

ゴシック建築はパリ郊外のサン・ドニ教会の後陣改築から始まったが、続いて建てられたシャルトル大聖堂と以前のロマネスク建築の後陣を見比べると、両者の違いが明瞭になる。

 

この変革によって、後陣は大きな窓で開放的になり、鮮やに彩られたステンドグラスからの陽の光りが聖書の世界をより印象的に物語るようになった。

また主祭壇を囲む周歩廊は屋根が高く広く明るくなり、外側に放射状に配された礼拝堂への参拝がやり易くなった。

 

これによる全周の壁の荷重を軽減する為に幾つものフライング・バットレス(飛梁)が放射状に地上まで伸びている。

 

 

 

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< 4. 様々な光景 >

左上の写真: 美しい身廊のヴォールト。

 

右上の写真: 身廊中央の床に描かれた迷宮。

これは十字軍の時代、エルサレム巡礼が叶わぬ信者達に体験出来るように造られたと言われています。

 

左下の写真: 尖頭アーチのヴォールト。

ゴシック建築から半円アーチではなく、このような二つの円が頂点で交わる型になり、高さを自由に取れるようになった。

 

 

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< 5. ファサード(西中央の門)のバラ窓 >

 

下の写真: バラ窓下の3枚のステンドグラスの右端を拡大。

これは「エッセイの家計樹」と呼ばれ、最上段にイエスが座す。

 

 

 

 

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< 6. 南翼廊のバラ窓 >

 

左上の写真: バラ窓。

右上の写真: 南翼廊の左手(東側)の側廊に対になった二つステンドグラスが見える。

 

下の写真: 上記ステンドグラスの左手の最上段が「美しい絵ガラスの聖母」です。

ステンドグラスの黒い影はフライング・バットレスによるものでしょう。

 

 

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< 7. 様々なステンドグラス >

 

左下の写真: 北翼廊のバラ窓。

 

 

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< 8.青色が美しい >

 

撮影を失敗し、有名な「シャルトルの青」をうまく再現出来ませんでした。

 

 

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< 9. 身廊から内陣を望む >

 

明るい陽射しに包まれた内陣。

 

 

 

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< 10. 内陣を囲む壁の彫刻 >

 

周歩廊に沿ってこのような彫刻群が連なる。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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何か変ですよ 72: 日本の問題、世界の問題 8: おかしな認識の数々


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前回、世界経済は危険な兆候を示しているが、人々が無視し出来る理由があります。

今回は、その根底にあるおかしな認識について見ます。

第一章 はじめに

前回示した危険な兆候には、日本だけでなく先進国で深まる所得格差、経済成長の低下、繰り返し巨大化する金融危機、急伸する累積赤字がありました。

日本に限っては人口減があります。

人々がこの兆候を無視する理由には、自由放任主義とグローバル化への信奉が背景にあることがわかりました。

これが金融セクター(金融資本家)が政府をリードし、一方で自虐労働観が蔓延ってしまった原因にもなった。

前回、この危険な兆候はほんの40年前の人為的な政治・経済の転換から始まったことを示しました。

そして、現在、益々危険度は高まり、改善の兆しはありません。

人々が危険な兆候を前にして傍観出来るのは、これらを危険と認識しない理由があるからです。

 

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第二章 これら兆候を危険と認識出来ない理由とは

私が危険と見なす幾つかの兆候を、人々が危険と認識しない理由を探ります。

そこには繰り返される偏見や、ちょっとした思い違い、煽動があります。

  1. a) 所得格差

「所得格差の何が悪いのか?」と思っている人もいることでしょう。

稼ぐ人が稼げば良い、働かない人は収入が無くて当然ではないか。

「収入が無いからと言って、儲けている人の足を引っ張るな」と言う日本の経済学者もいます。

しかし所得格差が放置されると幾つかの問題が発生します。

多くの低所得層の消費が伸びず経済発展が阻害されます。

貧困家庭では充分な教育が行えず、適切な労働者の再生産が出来ない。

いずれ所得格差が拡大し、社会に不満が充満し治安の悪化が起こる。

しかし一番の問題は、多くの国民が勤労意欲を無くしてしまうことです。

これは歴史的に繰り返された文明崩壊の最たる要因であり、また現在の後進国の発展を阻害する原因でもあります。

つまり放置することは社会の悪化を招くのです。

  1. b) 経済成長の低下

「これだけ経済は豊かになったのだから、これ以上、浪費を招く経済成長は必要ない」と思っている人もいるでしょう。

だが経済成長は必要です。

現在の福祉政策や莫大な財政赤字を考えると、経済が縮小したり停滞すると福祉と経済はいずれ破綻することになる。

たとえ国民が生活や医療の水準を低下させることを受け入れても、わずかなりとも成長は必要でしょう。

問題はむしろ、経済が成長出来ない真の理由を先進国の首脳達が把握していないか、認めたくないことにある。

数こそ少ないが著名な経済学者が原因の指摘と献策を行っているのだが。

それゆえ、並み居る先進国は巨額の財政出動とマネサプライを続けて、景気を強引に刺激し続けています。

この挙句、膨大な累積赤字と金融危機が繰り返しているのです。

つまり、現在の国家運営においては経済成長は必要です。

但し、現在のカンフル剤の大量投与のような景気刺激策は問題を先送りし、破局を極大化させるだけでしょう。

 

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  1. c) 繰り返し巨大化する金融危機

「バブル崩壊は資本主義経済の安全弁のようなものだ」と考える経済学者も居るぐらいなので、バブルを当然と思う人もいるでしょう。

確かに、バブル崩壊は歴史的に繰り替えされ、おそらく無くすことは出来ないでしょう。

しかし、これから起こるバブル崩壊(金融危機)はこれまでより危険度が増す。

二つの理由があります。

繰り返す内に、経済崩壊の規模が増大していることです。

このような状況は19世紀のヨーロッパでもあり、第一次世界大戦の引き金に繋がったと指摘する学者もいます。

2008年以降、先進国は軒並み、史上初と言える莫大な緩和マネーを放出しているので、景気過熱とその崩壊は世界中を巻き込む桁外れのものになるでしょう。

膨張した巨大な風船は少しの衝撃で破裂することになる。

今一つは、金融危機の度に、金融セクターと超資産家は富を増やし、一方で政府は累積赤字を増大させ、国民は失業と福祉削減のあおりを受けている。

たとえ一時バブル崩壊を逃れても、いずれ所得格差と累積債務の増大が社会と経済を破局に突き落とすでしょう。

  1. d) 急伸する累積赤字

「GDPの2倍に迫る累積赤字でも日本は盤石だ!」と言う経済学者がおり、人々は免罪符を貰ったようなもので、深刻さに目を向けないでしょう。

しかし、いずれ累積赤字が限界を越え、破綻する可能性があります。

この限界は明瞭ではなく、国民が不安に思い始める時が限界と言えます。

残念ながら、今の経済学は儲ける手法を研究しても、社会を困窮させる現象の研究には力を入れていません。

可能性が高いのは金利上昇や、累積債務が国民の金融資産より上回った時かもしれない。

国が破綻すると言うことはどのようことなのでしょうか?

世界を見回して、国家が破綻して地図から消えたのは二つぐらいしかなく、多くは存続を続けています。

それでも傷は深かったのです。

大きく分けて二つの問題があります。

一つは、デフォルトを起こし、政府が国民や海外の投資家に借金を返さないことです。

デフォルトになれば日本人一人当たり1000万円が紙屑になるだけで、平均すればまだ預金や現金が800万円残っている。

皆が一斉に失うので、あきらめがつくはずだと軽口をたたく人もいる。

しかし、この時、国民の落胆だけでなく、金融危機と同様に経済は停滞し、厳しい緊縮財政が続くことになる。

誰も、政府に資金を提供してくれませんので。

今一つは、歴史を振り返ると、累積債務を抱え経済悪化の状況にある時、国民の不満が煽られて戦争や侵略に向かった国がありました。

例えば、政府が状況悪化を大増税や通貨増発で逃れようとした結果どうなったでしょうか?

かつて日本やドイツが他国の侵略に向かい始めたのは、そのような状況で身動きが取れなかった時でした。

これは経済学で論じる範疇を越えていますが。

つまり、歴史的事実として多くの国は累積債務の悪循環から逃れられず、ついには破局に至るのです。

たとえ今は良くても。

 

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  1. e) 日本の人口減

「人口が減るのは豊かな社会の現れで仕方ない」と諦める人も多いでしょう。

実は、日本の景気低迷の最大の要因は人口減と言えるでしょう。

現在の人口減は、若年層が減り、労働人口が減り、そして高齢者の人口割合が増えることです。

つまり、単純に、働く人が減り、稼がない人が増えることで、確実にGDPは低下していきます。

一時期、退職者を埋め合わせる為に求人が増えても、じわじわと陰りが広がります。

これは致命傷です。

特に、日本はこれを長年放置し、労働移民も増やさないのであれば、それこそ沈没するしかない。

   

第三章 おかしなドグマ 

人々は自由放任主義や、グローバル化、自虐労働観、超繁栄する金融セクターに疑いを持たないかもしれない。

これらドグマの何が奇妙なのかを見ます。

  1. a) 自由放任主義(果てしない規制崩し)

この論理が正しいと信じる人がよく引き合いに出すのが、「自然界は弱肉強食」だと言うのがあります。

この論理の前提に、「競争が強くする=生存競争を生き抜いた者こそが優れている」との思い込みがあります。

結論から言うと、高度な動物、まして人間に当てはめることは間違いです。

簡単に言うと、生死を分けた自然淘汰は進化の源でしたが、高度な動物ほど生存には競争と同様に協力も不可欠でした。

まして社会的な動物(霊長類、人間)には高度な利他行動が不可欠なのです。

実は、この手の進化論まがいのドグマは帝国主義の時代にも、先住民を差別する為に大いに普及したのです。

この手のドグマは保守派経済学のものと言うより、何やら不気味な時に顔を出す亡霊のようなものです。

現実の社会で考えてみましょう。

通常、国が定める経済や産業の規制の多くは、消費者や労働者の為のものでしょうか、それとも企業の為のものでしょうか?

前者もあるが、当然、政府を動かして規制を作り安いのは企業や産業側です。

企業や産業が望む規制の例としては、競争を避ける為に他者を規制するものです(関税、輸入量制限、業界均一料金など)。

一方、消費者の安全を守る為に、企業側を規制する場合もあります(公害防止、消費者金融の金利制限など)。

実際、問題がある多くの規制緩和は、企業繁栄の為に自由を与え、国民や社会への被害は二の次と言うものです。

すべてがそうではないが、米国の金融セクターが巨大化していった背景にこれがありました。

もう少し単純に考えましょう。

歴史的に見て、権力や武器、資本を野放しにするとどうなるでしょうか?

もしある人が「やがて競争の末に秩序が保たれ、必ず平和で平等な社会が訪れるはずだ」と言えば、人々は信じるでしょうか?

おそらく、嘲笑ものでしょう。

しかし、現在の経済学の主流はこのような事を平気で言い募っているのです。

  1. b) グローバル化

「グローバル化は必然だ!」、「グローバル化は災厄を撒き散らす!」と二つの意見に分かれ、これまた何が問題かが分かり難い。

これを例えるなら「自動車は便利だ!」「自動車は危険だ!」と同じです。

つまり危険だけど便利で捨てることが出来ない。

グローバル化を排除するのではなく、グローバル化を適切にコントロールする  ことが必要なのです。

自動車に例えれば、死亡事故を減らすために道路交通法、取り締まり、罰則などの強化が必要だと言うことです。

現在は、大型トラックの巨大コンボイが至る所を自由に疾走しているようなものです。

世界が統一的な法規制や税制を制定し、管理する必要があるのです。

もっとも、これを不可能だと一笑に付す経済学者や、猛烈に反対する業界や大国が存在するので事は簡単ではない。

大事なことは皆さんが、タックスヘイブンや、金融危機や通貨暴落に繋がる過剰で身勝手な資金移動が、これまでどれだけの実害をもたらしたかを先ず知って頂くことです。

 

  1. c)  自虐労働観

「労働者を甘やかすとだめだ」、「労働者が団体活動するとろくなことがない」 と思っている人がいるはずです。

しかし、そうでしょうか?

企業や経営者を甘やかすことは良いのでしょうか?

企業や産業が金に物を言わせ、社会や政治に影響力を持つことは良いのでしょ   うか?

実は、どちらも限度を越えることが問題なのです。

20世紀の前半は、労働運動の行き過ぎがありましたが、現在は企業側の行き 過ぎなのです。

実は、その前の19世紀は労働者のストが犯罪で、労働者は死を賭してスト権  を社会に認めさせた経緯があったのです。

もう一度立ち止まって、労働者自身が労働権に気づかないといけない。

  1. d) 超繁栄する金融セクター

高々、一産業(金融セクター)の発展を妬むのは良くないと言われそうです。

この事を前回まで扱って来ましたが、やはりこの中心問題は金融セクターが巨 大な力を持ち、災厄をもたらしているにも関わらず国民の立場になって制御出 来なくなってしまったことです。

端的な例は、毎回金融危機を繰り替しておきながら、血税で救済しなけ ればならず、また財政赤字を増やし続けなければならないことです。

繁栄すること自体が問題ではなく、歴史上よくある、武力や権力の集中が恣意 的な振る舞いを増長させてしまうことなのです。

現在の問題は、金融セクターが経済と政治の中枢を握ることで起こっているの です。

第四章 何が国民を惑わしているのか

私は経済学にかなりの非があると考えます。

極論すると経済学は似非自然科学でありながら、経済を制御出来ると吹聴し、かつ国民が疑いを差し挟むことが出来ないことが問題なのです。

  1. a) 経済学者の断言と予測は占いよりましか

巷では、「累積債務を問題にする輩は経済音痴である」「リフレ策は金利高騰を招かない」などと強気の発言をする経済学者を見かけます。

しかし、経済史、特にバブル崩壊史を振り返ると、ある種の経済学者の挙動が珍妙です。

ここ2百年あまりの数々のバブル絶長期において、なぜか新進気鋭か人気絶大な経済学者(実業家も居るが)がバブルを煽り、さらには崩壊の危険が無いと言って喝采を浴びていたのです。

当然、バブルで一儲けしようとする人々は彼に熱烈な声援を送ります。

その結果、彼はバブル崩壊と共に凋落の憂き目にあうのですが、潔く責任を取ったと言うことを聞きません。

単なる目立ちたがり屋が、たいした根拠もなく科学的な物言いによって、国民を惑わせただけなのです。

詳しくは「バブルの物語」ガルブレイス著を見てください。

あの「金融の神様」と呼ばれた元FRB議長グリーンスパンですら、2008年のバブル崩壊をまったく予見で出来なかったのです。

憤りを感じるのは、昔の天気予報、いやほとんど占いと変わらない実態なのに断言や予測を軽々とする経済学者、しかしその実害は比べものにならないほど絶大なことです。

私の経験では、彼らは経済的な予測―円高や株高など、を行って外れても、まったく平気な人々ばかりです。

つまり、高らかに歌う経済政策の将来の成果は、現在の天気予報のように自然科学上のデーターを使いシュミレーションすることが出来ていないのです。

経済政策や経済予測は、想定外の攪乱要因で多く外れることがあると、皆さんは肝に銘じて頂きたいのです。

 

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第五章 想定外の危険と向き合う

既に見たように経済的な現象とその理解、さらには問題の解決方法と将来予測には、不確定要素が多々あります。

一方、経済悪化は私達の最大の関心事で、また政治を大きく悪化させる最大の要因でもあります。

これが半世紀前のドイツと日本のファシズムの引き金になりました。

私が一番強調したいのは、想定外の危険や悪化と向き合うことの重要性です。

東日本大地震の原発事故は、福島県の10万人を越える避難者や数十兆円の損害を生みました

想定外で済まされていますが、そこに原発が無ければ、被害はなかったのです。

科学技術に基づいた設備にでも、これだけの被害が発生するのです。

まして一部の経済学者が太鼓判を押す程度の経済政策では想定外のアクシデントによって、逆の事態が起きるとも限らないのです。

増大する累積赤字による破綻、インフレ後の金利上昇、巨大なバブル崩壊など重大な懸念は幾らでも起こりうるはずです。

むしろ問題の本質は、原子力政策と一緒なのですが、経済学は社会科学と言うより、あまりにも政治化しています。

分かり易く言えば、時の政権と癒着していることです。

政権に都合の良い経済学者が重用され、互いに利便を得ていることが問題です。

 

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第六章 まとめ

経済の問題を、その思想から論じて来ました。

これらは思想と言うよりも、思い込みや好みと言えるものでした。

歴史は繰り返すと言うが、現在は20世紀前半の労働者優先から、企業優先に変わり、その歪が極大化しつつある状況です。

ここで労働者優先に転換出来るかが鍵になるのですが、残念ながら、大きな問題があります。

それは多数ではあるが非力な人々が社会を変革することは歴史的に見て困難を伴っていることです。

フランスの経済学者ジャック・アタリが言っているように、放置された累積債務の果てに来るものは内乱かもしれない。

そうならない為にも、人々が問題と向き合い、社会を変えて行くことを始めなければならない。

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

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< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方


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今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。

日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。

 

 

 

結論は・・

一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。

しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

 

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。

ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。

 

 

ある人々が言い募る説とは

第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。

当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。

さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

 

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」

「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」

「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

 

目立つのは、こんなものでしょうか?

これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。

どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。

 

 

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何が変なのか?

敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。

GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。

彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

 

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。

ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

 

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。

当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

 

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。

軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

 

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。

地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

 

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?

ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。

これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。

つまり、下地が既に出来ていたのです。

 

 

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可笑しさはこれだけに留まらない

それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?

安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

 

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。

この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

 

さらにこんな反論が出るかもしれない。

今の米国とかつての米国は違うはずだと!

少し、話が怪しい。

 

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。

植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?

もちろん侮蔑され差別された。

 

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?

一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。

それが戦争です。

日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

 

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。

よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

 

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。

 

 

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この御説はどうでしょうか?

東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。

「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

 

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。

当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。

しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。

どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

 

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。

これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。

しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。

そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

 

一方、日本はどうでしょうか?

いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

 

実に、不思議な国があるものです。

 

 

 

さらに、これはどうでしょうか?

もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

 

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。

これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

 

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。

しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

 

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

 

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?

おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。

 

 

まとめ

ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。

何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

 

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。

別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。

このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。

つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

 

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。

つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

 

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。

この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。

これは本質的な心性のひとつです。

 

分かり易い例があります。

実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。

一番、鮮明なのはチンパンジーです。

チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。

しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

 

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。

時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。

 

 

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最後にお願い

どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。

 

 

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フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1


 

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いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。

プチットフランスと大聖堂が有名です。

今回は、前半を紹介します。

 

 

なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。

さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

 

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。

その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

 

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。

この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

 

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。

 

 

 

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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

 

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。

この日も素晴らしい天気でした。

青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。

その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

 

 

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< 3. クヴェール橋 >

 

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。

上の写真から順次、北から東の方を見ている。

 

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

 

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。

こちらの川が南側を流れるイル川です。

ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

 

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。

この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

 

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。

戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。

きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。

だが、後で私の勘違いとわかりました。

 

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。

1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。

 

 

 

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< 4. ヴォーバンダム >

 

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.

13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

 

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。

右手のガラスの建物は近代美術館。

 

下の写真: ヴォーバンダムの内部。

私達はそのアーチの上を歩いている。

写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

 

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、

1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。

 

 

 

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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

 

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

 

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

 

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。

 

 

 

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< 6. プチットフランス 1 >

 

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。

これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。

この景観は16~17世紀に始まる。

 

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。

その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。

またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。

どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

 

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。

この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。

 

 

 

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< 7. プチットフランス 2 >

 

 

 

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< 8. プチットフランス 3 >

 

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。

川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 通り 3 >

 

地図番号4から5の間の通り。

 

 

 

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< 10. サン・ト―マ教会 >

 

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

 

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。

そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。

そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。

その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。

 

 

 

 

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< 11. グーテンベルグ広場 >

 

グーテンベルグの像が立っている。

彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。

この広場はこれを記念したものです。

 

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。

その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

 

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。

またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

 

後半は、次回紹介します。

 

 

ストラスブールの城郭について

帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。

 

 

 

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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

 

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

 

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。

 

 

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< 13. ストラスブールの城郭図 >

 

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

 

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.

この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。

現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。

中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。

 

 

中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。

上の俯瞰図の平面図と考えられる。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

 

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。

この時期になると、更に城郭は拡大している。

 

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。

ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。

ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

 

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

 

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。

17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。

これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

 

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。

これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。

 

 

次回に続きます。

 

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何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛


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今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。

共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。

なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。

 

 

浜田先生のお言葉

この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

 

僭越ながら抜粋要約します。

 

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。

つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。

これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。

この点、タカ派の安部首相が最適です。

 

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。

さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。

この二人もタカ派(共和党)でした。

 

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。

しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。

 

 

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「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ

これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。

しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

 

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。

例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。

とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

 

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

 

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

 

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。

人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。

「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

 

・・・

これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。

つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。

 

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?

まったく正反対の解釈に思えます。

おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。

この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。

この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。

 

 

多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。

単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

 

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。

経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。

実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。

これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。

是非とも精進して欲しいものです。

 

 

3

*3

 

 

事実は奇なり

浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

 

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

 

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。

よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。

基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。

それ以上に進むこともありますが。

詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。

残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

 

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。

これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。

 

 

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< 4. トラッキング・ゲームの図 >

 

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。

曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。

但し、相談は出来ません。

 

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。

しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

 

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。

これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。

 

 

5

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浜田先生の歴史観のおもしろさ

彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。

確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。

つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

 

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。

しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

 

レーガンが大統領になったのは1981年でした。

一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。

また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

 

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。

大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.

また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。

 

 

1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

 

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。

この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。

周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。

また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

 

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。

要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

 

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。

もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?

一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。

 

 

最後に

せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。

興覚めです。

諦めないで、また初めから読むつもりですが。

 

 

 

 

注釈1.

二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

 

注釈2.

1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。

そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

 

注釈3.

動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。

このジャンルの本を推奨します。

「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。

「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。

「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。

「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

 

注釈4.

創元社刊「世界の歴史10」J.M.ロバーツ著。

p186~188に、似たような記載があります。

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

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< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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デマ、偏見、盲点 18: 左翼と右翼の戦争


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今回は、右翼と左翼が思い描く戦争を通して、戦争の危うさを考えます。

ここで指す右翼とは、右翼寄りの人、右傾化した人も含み、左翼も同様です。

 

 

はじめに

先日、私がトランプ大統領の指南役スティーブン・バノンのことを話していたら、思わぬ問がありました。

 

今回のトランプ大統領誕生の最大の功労者はバノンで、彼がいなくては大統領は人気を博すスピーチも政策立案もままならなかったでしょう。

このバノンは政治に強い関心を持ち、右翼のオンラインニュースを立ちあげていた。

彼が目指したの、ホワイトハウスとエスタブリッシメント(支配層)を破壊することで一種のクーデターであり、実現の為にトランプを祭り上げた。

その理由は、現状の腐敗し体たらくなホワイトハウスでは第三次世界大戦を凌ぐことが出来ないと考えたからでした。

 

ここまで説明すると、ある人が「右翼は戦争をしたがる筈なのに?」と言って腑に落ちないようでした。

 

この問には、右翼と戦争に対する誤解がある。

 

それでは皆さん、右翼と左翼どちらが戦争をするのでしょうか? 注釈1.

 

左翼は、右翼こそが軍隊と戦争を望むと信じているようです。

逆に右翼は、左翼こそが暴力を容認し、一方で負け犬になると信じているようです。

 

 

 

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この見方は正しいのでしょうか?

右翼の中には、ヒトラーが社会主義者だから、極悪な戦争を始めたと信じている人がいる。

一つには、ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称だからでしょう。

歴史を知れば、彼は国粋主義者(ファシスト)で右翼だとわかるはずです。

 

それでは日本が満州事変へと突き進んだ1930年代、この大陸進攻を牽引したのは社会主義者か国粋主義者のどちらでしょう。

牽引した多くは軍人でした。

 

これらの解釈に混同があるのは、偏ったマスコミや言論などの影響が大きい。

端的な例として、満州事変が始まる前、売り上の上位は朝日と毎日で、読売はかなり少なかった。

しかし、事変が始まると他社より遥かに売上を急伸させたのは読売新聞でした。

朝日や毎日も売り上げを伸ばしてはいたが。

これは読売が最も戦争に反対していたからでしょうか?

 

この手の勘違いは、熟慮せずに心地良い説に飛びついたからなのですが、実は、ここに右翼の心性があるのです。

当然、左翼の心性もあります。

後に、両者の心性について解説します。

 

 

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米国の戦争を振り返り、右翼と左翼の違いをみます

軍事大国の米国で、民主党と共和党のどちらがより戦争をしていると思いますか?

 

主な戦争を始めた政党と大統領を挙げます。

開戦には複雑な経緯があるのですが簡略化しています。

 

南北戦争はリンカーン(共和党)。

第一次世界大戦(ウイルソン)と第二次世界大戦(ルーズベルト)は民主党。

朝鮮戦争は民主党。

ベトナム戦争はケネディー(民主党)。

コソボ紛争への介入はクリントン(民主党)。

湾岸戦争とイラク戦争はブッシュ親子(共和党)。

 

こうして見ると、ハト派と見做されている民主党の方が、大きな戦争に加担し、多くの死者を出している。

 

皆さんは、民主党と共和党の戦争に違いがあると思いますか?

一般には以下のように言われている。

民主党は、世界の平和や人権を守る為に、他国に介入し戦争も行う。

共和党は、他国への介入を避けるが、自国の主義や権益擁護の為には断固戦う。

 

それではこれら戦争を簡単に検討します。

*南北戦争で決着をつけたからこそ、国の分裂を防いだと信じらている。

*二度の世界大戦と朝鮮戦争への参戦、コソボ紛争介入がなければ、より酷い状況になった可能性がある。

*ベトナム戦争とイラク戦争は誤解に基づいた開戦で、より酷い結果を招いたと言える。

*湾岸戦争は予防的な開戦で、不要だった可能性がある。

(これら戦争には、参戦や開戦、介入の是非を巡りいまだに賛否両論がある。)

 

これらの戦争は、2度の世界大戦以外、自国が攻撃されたから反撃したのではなかった。

つまり、自己防衛ではなく、同盟傘下の保護または予防的な戦争と言える。

これには放置すればいつか自国に悪影響が及ぶかもしれないので、早めに叩かなければならないとの思惑がある。

当然、米国は世界や自国の安全保障の為に戦争を始めたと言うでしょうが。

 

つまり、右翼(共和党)も左翼(民主党)も戦争を行うのです。

どうしても軍事大国になると安易に戦争を始めやすい。

 

 

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予防的な戦争について知っておくことがあります

予防的な戦争が許されないのは当然ですが、実は無視してはならない歴史的教訓があります。

 

ヒトラーがドイツで台頭し始めた時、周辺国では宥和策をとりました。

(日本はドイツと共に戦ったので別です。)

目立つのは米国のケネディ―大使(大統領の父)、英国のチェンバレン首相、そして隣国フランスです。

彼らは戦争を避ける手段として相手を刺激しない、または同じ独裁者ならスターリンを倒してくれるヒトラーを選んだのです。

しかしこれは間違いでした。

 

やがて英国で、軍人出身のチャーチルがヒトラーとの抗戦を表明した。

さらに米国のルーズベルトは米国民の厭戦気分を押して、参戦に持っていった。

こうして多大な犠牲を払ったが、世界が協力してドイツと日本の進攻を挫くことが出来た。

 

このことから、侵略軍を撃退出来る体制作り(軍備など)や心づもりは必要だと言えます。

とは言え、それほど単純ではなく、周辺諸国との軍拡競争を招く危険があります。

 

これと逆のケースがベトナム戦争です。

朝鮮戦争を経験した米国は、共産勢力を恐れ、南ベトナムで過剰防衛(予防的な戦争)に走り、ベトナム戦争に踏み切ったと言える。

 

この二つのケースは、過去の悲惨な戦争の経験や恐怖が尾を引き、リーダーや世論が選択を誤った例です。

 

ハト派的な宥和策もタカ派的な強硬策も共に巨大な戦争を招いたのです。

 

 

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*5

 

 

右翼と左翼の心性とは何か?

右翼の心性には、見知らぬに他者への著しい恐怖心があるようです。

私が外国旅行をすると言えば、右翼の人ほど、現地(イスラム圏や韓国など)に不安を感じるようです。

これは彼らが偏見を煽るマスコミに影響されていることもあるが、やはり未知のものや他人に強い恐怖心や不安感を持つことにある。

 

一方、左翼の心性には、他者への不安感が少なく友情すら築けると思うようです。

一見、良いように聞こえるが、うがった見方をすれば甘い理想家とも言えます。

 

この両極端の心性が社会の変化に感応し、真逆のマスコミや言論界に共鳴し、益々偏りを深めることになる。

 

本来、この二つの心性は一人一人の脳内に共存しています。

 

未知のものに楽天的で、チャレンジする心性と、未知のものを恐れ、慎重に対処する心性は、人類が進化する過程で獲得したもっとも重要な相反する二つの能力です。

この二つの心性が、各人の生育過程で脳内ホルモンの分泌や左脳右脳の連携機能の発達具合により、人類の平均値よりそれぞれ一方に偏ってしまうのです。

 

願わくは、両方がうまく相乗効果を発揮すれば良いのですが。

もしかすると、この心性が年齢や男女差で異なり、ばらついていることが人類の発展と安全を生み出しているのかもしれません。

安心はできませんが。

 

ここで注意が必要なのは、左翼や右翼と呼ばれる人々が、本当にこの心性を有しているとは限らないことです。

例えば、一方に属すことにより得失がある場合などです。注釈2.

 

 

ここで簡単なシミュレーションをしてみましょう 注釈3.

敵対しつつある二つの軍事大国を考えます。

 

ここでは両者の心性の動きを中心に考えます。

それぞれの国が極端な右翼や左翼に支配されていればどうなるでしょうか?

 

一番分かり易いのは、両国が極端な左翼(ハト派)に支配されている場合でしょう。

おそらく宥和策が図られ、軍事衝突は遠のくでしょう。

 

次いで、両国が極端な右翼(タカ派)に支配されている場合はどうでしょうか。

これも単純明快でしょう。

互いに猛烈な恐怖心を抱き、宥和策を取れず疑心暗鬼に陥り、ついには軍拡競争、衝突に進むでしょう。

 

最後に、右翼が支配する国と左翼が支配する国が対峙している場合はどうでしょうか。

うぅ・・・・・・、難しい。

 

ヒントは、それぞれの国に左翼寄りと右翼寄りの心性を持った国民が同数いることです。(小さな集団は別にして、人類全体で見ると心性をもたらす能力は正規分布している)

右翼支配の国は不安を感じないが、左翼支配の国にやがて変化が起きるでしょう。

左翼支配の国民と言えども、右翼支配の国に恐怖心を抱き、急速に右傾化していくことになります。

こうなると結局、両国は共鳴するように軍拡競争を始め、衝突の可能性が高まるでしょう。

 

戦史を見ると、適切な政治文化と優れたリーダーに恵まれない多くの国が、この悲惨な状態に陥るのです。

 

元来、相手が本当にハト派だとか、タカ派だとか、軍事力が同等かを見定めるのは困難です。

現在は、地球全体が監視され、また以前に比べて互いの国情をより知ることが出来るようになっている。

しかし、それでも自国の政府やマスコミに報道の制限や偏向があるので、正しい情報が国民に伝わるとは言い難い。

 

 

要点はこうです。

 

一つは、互いが疑心暗鬼になり牽制を始めると、益々、亀裂は深まり、やがて軍拡競争、衝突につながる。

単純に、一国の過大な軍備は危険因子になる。

 

一つは、上記の過程が、外界に対する恐怖心の高まりを受けて、一気に加速する。

この恐怖心を強く抱き、牽制すべしと行動させるのが右翼の心性です。

 

一つは、互いの国情と内情を正確に把握できない為に、疑心暗鬼が増幅される。

これを防ぐにはひとえに国民の知る権利が守られることであり、特に為政者にとって都合の悪い情報を捏造・隠ぺいする政府と偏向したマスコミの存在が危険です。

 

 

 

6

*6

 

まとめ

これまで検討して来たことを整理しましょう。

 

*過大な軍事力は戦争を招きやすい。

 

*侵略に対する備えは必要ですが、軍拡競争や軍事大国化への注意が必要。

説明は省きますが、今後、世界は新たな防衛体制に進むことになるでしょう。

 

*極端な宥和策も強硬策も戦争を招きやすい。

 

*恐怖が高まると右傾化が興り、疑心暗鬼、軍拡競争へと進み、戦争を招きやすい。

だからと言って単純に左翼だから安全、右翼だから危険とは言えいない。

 

*国内外の情報が正確に素早く伝わることで疑心暗鬼を抑え、戦争の誘発を避けることが出来る。

 

 

追記

上記のことを踏まえれば、右翼を自認し挙動不審な現首相に憲法改正や軍事を任せることは、戦争の危機を高めることになるでしょう。

 

 

 

注釈1.

左翼と右翼の明確な区別や定義は複雑ですが、ここでは簡単に、左翼は革新、リベラル、ハト派で、右翼は保守、ナショナリズム、タカ派としておきます。

 

元来、左翼と右翼の意味は時代や社会で変化します。

各人が左翼的か右翼的となるのは、個人の心理的、文化的、政治的、社会的、思想的な背景、それに加えてマスコミ、言論界など多彩な影響によります。

一言で言えば、多くの人は属している社会とムードで両端に振れることになる。

 

注釈2.

共産主義の中国上層部や軍部には右翼の心性を持った人が多いはずです。

特に保守的な傾向を持つからこそ出世出来るはずです。

例えば、右翼的な教育を目指す学校建設を謳えば政府からの支援があるような場合などです。

 

注釈3.

この説明は、「互いを牽制することが如何に状況を悪化させるか」の社会学的実験の結果、脳科学の知見を参考に書いています。

 

 

 

 

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フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2


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これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。

今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。

次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。

 

 

リヨン観光

観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。

観光した時間は15:45~17:40でした。

観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。

この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

 

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。

街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

 

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。

この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。

中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。

リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。

 

 

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< 2. リヨンの地図 >

 

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。

番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。

番号5の黒四角はホテルです。

 

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。

Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。

Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。

赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。

Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。

写真もその順に並んでいます。

黄色の線は抜け道(トラブール)です。

 

 

 

 

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< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 >

 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。

次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。

この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。

この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

 

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。

 

 

 

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< 4. 展望台からの眺め >

 

展望台は東方向に視界が開けている。

写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

 

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。

このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。

 

 

 

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< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >

 

 

 

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< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

 

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。

しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。

 

 

 

 

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< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

 

上の写真: モザイク画。

教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。

 

 

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< 8. 旧市街の通り >

 

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。

 

 

 

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< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

 

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

 

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。

右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

 

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。

かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。

 

 

 

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< 10. 抜け道2と博物館 >

 

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。

抜け道1と直ぐ近くにあります。

入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。

入口に表示があるようですが、私には理解できません。

 

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma」

地図番号2.

約100年前に、リヨンで映画が生まれた。

 

 

 

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< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >

この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。

上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。

公会議がここで行われたのだろうか?

 

 

 

 

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< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

 

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。

店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

 

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。

元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。

ここだけなら無料です。

菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。

 

 

 

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< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

 

最初、通った広場に戻って来ました。

上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。

下の写真が元証券取引所です。

この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

13

< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

14

< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

16

< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

18ゴッホ 1あ

< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

19ゴッホ 2あ

< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 10: 古都エクス・アン・プロヴァンス


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*1

 

 

今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。

ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。

またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ

 

 

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< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >

 

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。

 

 

上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。

また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。

黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。

赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。

これらの地名は彼の画題に出てくる。

 

下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。

徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。

この間、12:00に始まり、12:40で終わった。

ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。

私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。

 

 

 

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< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >

 

上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。

 

中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。

 

下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。

 

彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。

そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。

 

 

町の散策

旅行3日目、5月19日(金)。

素晴らしい天気でした。

 

 

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< 4. ミラボー通りを進む >

 

上の写真: ミラボー通りを進む。

進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。

この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。

 

下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。

 

 

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< 5. ミラボー通り >

左上の写真: 温水が湧き出る泉。

紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。

 

右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。

 

左下の写真: 地図の1番。

セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。

 

右下の写真: 地図の2番。

ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。

私達はこの建物の左の道を入って行った。

 

 

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*6

 

至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。

陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。

 

 

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< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >

 

魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。

 

 

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< 8. 市庁舎広場 >

 

上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。

 

下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。

広場は凄い人出でした。

 

 

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< 9. 大学と大聖堂 >

 

上の写真: 地図番号4.

セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。

 

下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。

彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。

 

 

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*10

 

左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。

 

右の写真: 通りの建物を見上げた。

柱の彫刻が往時を偲ばせる。

 

 

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< 11. 昼食で入ったレストラン >

 

上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。

看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。

注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。

出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。

店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。

 

 

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< 12. レストランの中から >

 

フランスで初めてテラスで食事をした。

周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。

 

 

 

 

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< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >

 

ほんとうにこの町は賑わっている。

観光のメッカなのだろう。

 

 

 

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< 14. ロトンドの噴水 >

 

こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。

次はアルルに向かう。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスについて

紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。

これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。

この山は、この町の守護神とみなされた。

 

4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。

その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。

12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。

1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 6: 小国モナコ


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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。

私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。

ここは旧市街と宮殿などがあるところです。

 

 

モナコ

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。

そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

 

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

 

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。

今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。

添乗員は大勢を従え、苦労していました。

しかし、その後は順調な旅となりました。

 

 

 

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< 2。 モナコの地図 >

 

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。

上が真北です。

王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。

私達は左側のエズEzeから来ました。

 

中央の地図: モナコ公国の全景。

方角を変えています。

赤矢印がモナコヴィルです。

 

下の地図: モナコヴィルを拡大。

Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。

地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。

赤線は徒歩ルートです。

奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。

黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。

 

 

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< 3。 眼下にモナコ、バスから >

 

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

 

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。

 

 

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< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

 

上の写真: モナコヴィルの下。

 

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。

 

 

 

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< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

 

上の写真: 海洋博物館と水族館。

地図のSの直ぐ近く。

 

下の写真: 王家親族の住居。

 

 

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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

 

下の写真: モナコ大聖堂。

古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。

 

 

 

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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。

左中央は裁判所。

 

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。

 

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< 8。 大公宮殿 >

 

上の写真: 大公宮殿。

陽が山際に迫っている。

 

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。

ここから湾が一望に見渡せる。

 

 

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< 9。 展望台からの眺め >

 

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。

湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

 

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。

標高は60mぐらい。

 

 

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< 10。 広場から戻る道 >

 

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。

モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。

 

 

 

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< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

 

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。

不思議の一言に尽きる。

 

 

モナコの不思議

モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。

歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。

半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

 

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。

1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。

現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

 

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ


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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。

このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。

この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか

 

 

エズ村

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。

エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。

 

 

 

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< 2. エズの地図 >

 

上二つの地図: 地図の上が真北。

赤矢印がエズ村の位置です。

 

下の地図: エズの観光地図。

黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。

エズの頂上は427mある。

雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 

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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

 

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。

ここをくぐると村に入る。

 

 

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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。

所々に踊り場のような小さな広場がある。

 

 

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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

 

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

 

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

 

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。

平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。

 

 

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*6

 

上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。

クルーズ船も見える。

 

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。

サボテン公園は1949年に造られた。

元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。

 

 

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上の写真: 要塞跡の頂上。

ほぼ360度、見渡せる。

 

下の写真: 村の教会を見下ろした。

その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。

 

 

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< 8. 先ほどの教会 >

 

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。

エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。

私の写真では確認できなかった。

かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。

 

 

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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

 

下の写真: 下っている。

 

 

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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

 

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。

西側を見ている。

 

 

エズの歴史

観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。

それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。

帰国後、この地域に何があったかを調べました。

 

大きな流れを見ます。

エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。

紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。

しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。

この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

 

エズについて

973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

 

1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。

サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

 

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

 

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。

こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 4: 古都ボーヌ


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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。

ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。

この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。

 

 

 

2mapb

< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

 

上が真北です。

城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。

私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。

黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。

青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。

 

 

ボーヌの町

 

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上の写真: バスのフロントガラス越しに。

ボーヌの旧市街に向かっている。

 

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。

 

 

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上の写真: 施療院オテル・デュ―。

下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。

この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。

 

 

 

 

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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。

No.2の地図の赤線部分です。

 

 

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*8

 

下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。

No.2の地図の青線上で撮影。

 

 

 

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No.8の下の写真と同様。

古い堡塁や城壁、門が残っている。

 

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丘の上のレストランに向かう途中の風景。

旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。

ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。

 

 

ボーヌとブルゴーニュ

後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。

この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。

 

 

11map

< 11. ボーヌの歴史 >

 

 

左上の地図: フランスのワイン産地。

 

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。

一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。

二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。

上からシトー会、下ってクリュニー会です。

 

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。

 

 

 

12

*12

 

A: ブルゴーニュ公国の紋章。

B: イエスとワイン。

C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。

D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。

 

 

ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。

フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。

一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

 

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。

しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

 

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。

10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。

これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。

だが、この繁栄は堕落を生んだ。

 

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。

これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

 

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。

キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

 

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。

そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。

 

 

いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。

 

 

 

注釈1

フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。

中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。

 

 

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