Series: Went around Croatia and Slovenia

Went around Croatia and Slovenia 32 : At the end


クロアチア・スロベニアを巡って 32: 最後に

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< 1. Souq Waqif, market >

< 1. ワキーフスーク(市場) >

 

This time, I finish this travel report.

At the end, I introduce Doha of Qatar and write down my impression.

 

Doha sightseeing

There was the sightseeing on our trip back home.

We enjoyed a market and a night view by one bus for approximately two hours.

A local guide and a tour conductor accompanied us.

  

今回で、この旅行記を終えます。

カタールのドーハを紹介し、感想を記します。

 

ドーハ観光

今回のツアーは、往復共にドーハ乗り継ぎ約4時間の待ち時間がありました。

帰りのドーハで市内観光がありました。

私達は1台のバスで市場と夜景を約2時間楽しみました。

添乗員と現地ガイドが同行しました。

 

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< 2. New Doha Airport >

< 2. 新ドーハ国際空港 >

When we arrived at the Doha Airport, we went for the sightseeing immediately

The sightseeing was at 9:00-11:00 p.m., on Saturday, September 5, 2015.

 

ドーハ空港に着くと、直ぐに観光に出ました。

観光したのは2015年9月5日、土曜日、夜9~11時頃です。

 

 

 

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< 3. Beginning of the sightseeing >

< 3. 観光の始まり >

Central photo: The appearance of Souq Waqif.

Lower photo: The Main street of Souq Waqif.

 

The whole was clean as after remodeling it.

This place was full of a tourists and local people.

It was hot, but I did not feel uncomfortable.

 

中央の写真: 駐車場からのワキーフスーク外観。

下の写真: ワキーフスークの中央通り。

改装後で全体が綺麗でした。

観光客と現地の人で一杯でした。

暑いが苦にはなりませんでした。

 

 

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< 4. Inside Souq Waqif 1 >

< 4.ワキーフスーク内部1 >

We only looked at the market as it was big.

The main goods were miscellaneous goods, clothing, and accessories.

 

市場が大きく、見て回るだけになりました。

雑貨、衣類、装飾品が主でした。

 

 

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< 5. Inside Souq Waqif 2 >

< 5.ワキーフスーク内部2 >

The stores of jewelry looked like high-class.

 

宝飾品の店舗は高級感がありました。

 

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< 6. Mysterious buildings >

< 6.不思議な建物 >

Upper photo: Qatar Islamic Cultural Center.

We can look at it from Souq Waqif.

 

Lower photo: Museum of Islamic Art.

 

上の写真: イスラム文化センター。

ワキーフスークの駐車場から見える。

 

下の写真: イスラム美術館。

 

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< 7. Skyscraper city >

< 7.超高層ビル群 >

We went around the large gulf area by bus, and we saw there the scenery that didn’t seem a desert.

Elegant residences, luxury hotels and high-rise buildings, and mysterious buildings were emitting colorful light.

 

I was able to realize an Arab night in the Middle Eastern a second time since visiting to Cairo several years ago.

 

 

広大な湾をバスで巡ったのですが、砂漠とは思えないような景観がそこにはありました。

瀟洒な邸宅群、高級ホテルや高層ビル、風変わりな建築物が多彩な光を発していました。

 

数年前のカイロ以来, 中東アラブの夜を実感することが出来ました。

 

Impression of this trip

My wife chose this trip, but I could obtain wonderful things beyond expectation.

 

* I could feel the history of the Balkan Peninsula and the civil war of the former Yugoslavia in my bones.

 

* I could touch the nature, scenery, and people of the Balkan Peninsula and the Adriatic Sea.

 

* I could realize the refugee issue accidentally.

 

 

旅を終えて

今回の旅行先は妻の希望で選びましたが、私には予想以上に得ることがあった。

 

  • * バルカン半島の歴史、旧ユーゴの内戦を肌で感じることが出来ました。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた理由は千年にも及ぶ東西大国の支配の後遺症でした。

そして同じ民族の出自でありながら宗教や言語の違い、経済格差が介在して対立が深まっていった。

 

  • * バルカン半島やアドリア海の自然と景観、人々に触れることが出来ました。

沿岸部は自然の産物が少ないが、観光資源が恵みをもたらし、人々はそれを満喫していた。

 

  • * 偶然にも難民問題を実感することになった。

中東の難民がバルカン半島を通過し、ヨーロッパは混乱を始めた。

このようなことは人類史に幾度もあったが、現代でも起こることに驚かされた。

これは元を正せばバルカンと同じように、かつての欧米諸国の中東への干渉が一因です。

 

  • * 初めて利用した旅行会社ジャンボツーアズの良さを確認した。

低価格でありながら観光内容は良い、ホテルや食事はそれなりだが。

利用航空が少し不便だが、仕方なし。

 

 

Finally

I touched the people of the former Yugoslavia that are living brightly, and then I was impressed with the marvel that people got back peace from the bloody civil war.

 

Thank you for reading my travel report for a long time.

From the next time, I will introduce my Mediterranean Sea Cruise.

 

 

最後に

私は、明るく生きる旧ユーゴの人々に接し、血みどろの内戦から平和を得た不思議に魅せられた。

 

長らく、この旅行記にお付き合いいただきどうも有り難うございました。

次回からは、地中海クルーズを紹介します。

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 31 : Zagreb, the capital of Croatia, 2


クロアチア・スロベニアを巡って 31: 首都ザグレブ 2

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*1

 

I introduce the old city of Zagreb today.

今日はザグレブの旧市街を紹介します。

 

 

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< 2. Zagreb Cathedral >

< 2.聖マリア被昇天大聖堂 >

Upper photo: A view of the north side from the front of the Cathedral.

Central photo: The front of Zagreb Cathedral. 

Lower photo: Mary column in front of the Cathedral.

 

上の写真: 大聖堂の前のカプトル広場から北側の眺め。

中央の写真: 大聖堂。

下の写真: カプトル広場に立つ聖母マリアの柱。

 

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< 3. the origin of tie >

< 3.ネクタイの由来 >

 

The guide explained the origin of the tie started in Croatia.

The origin is that mother gave her scarf to son who was going to the battlefield and the son bound around his neck.

The some tour participants were moved to tears by the explanation.

 

ガイドさんがクロアチア発祥のネクタイの由来を説明してくれました。

母が自分のスカーフを戦場に赴く息子に与え、息子が首に巻いたのが始まりでした。

それを聞いたツアー参加者からすすり泣く声が聞こえました。

 

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< 4. streets >

< 4.通り >

Lower photo: The big egg was painted with naive art of Croatian painting.

Central photo: Radiceva street.

“Krvavi Most” that is called the bridge of blood crosses on this street, and some bloody pastes are hidden in these two streets.

One of these is an assassination of federalists by centralist of Serbia that happened about 100 years ago here, and it would lead to the civil war in Yugoslavia.

Another one is that two towns on the East-West hills that bordered on the bridge of the blood had conflicted always.

Zagreb came into being by these two towns that merged.

 

下の写真: クロアチアの素朴な画法ナイーブアートで描かれた大きな卵。

中央の写真: ラディッチ通り。

この通りに交わる「血の橋」通りがあり、この二つの通りには血なまぐさい歴史が秘められている。

一つは約100年前に起きたユーゴ内戦に繋がるセルビア中央集権派による連邦制派への暗殺事件です。

いま一つは、血の橋が架かる小川を境にして東西の丘の町が常に争っていた。

この二つが合併したザグレブが生まれた。

 

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< 5. Saint George statue and Kamenita Varata >

< 5. 聖ユラユの像と石の門 >

Upper photo: Saint George statue stands on a dragon that he exterminated.

Lower photo: A chapel of the Virgin Mary is in the gate.

It enshrines an icon of the Virgin Mary that remained unscathed in an inferno of the 18th century.

Several people were worshiping on the left side of the photo.

 

上の写真: 退治した龍の上に立つ聖ユラユの像。

下の写真: 門の中に聖母マリアの礼拝堂があります。

18世紀の大火災で無傷で残った聖母マリアのイコンを納めている。

左側で数人の方が礼拝しておられました。

 

 

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< 6. St. Mark’s church >

< 6.聖マルコ教会 >

Upper photo: St. Mark’s church of the thirteenth century.

A combination emblem of the three countries of the Middle Ages and an emblem of Zagreb are drawn on the roof with a tile.

This tile was made in Hungary, and it means that Zagreb was affected by both of Austria and Hungary.

The Prime Minister’s office is seen to the left, and the Diet Building is seen to the right.

 

Central photo: The Diet Building.

Lower photo: The Prime Minister’s office.

 

 

上の写真: 13世紀の聖マルコ教会。

屋根に中世の三つの国とザグレブの紋章がタイルで描かれている。

このタイルはハンガリー製で、ザグレブがオーストリアとハンガリーの両方の影響を受けているのを象徴している。

右に国会議事堂、左に首相官邸が見える。

 

中央の写真: 国会議事堂。

下の写真: 首相官邸。

 

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< 7. Saint Catherine Church and Lotrščak Tower >

< 7.聖カテリーナ教会と要塞 >

Upper photo: Saint Catherine Church.

Lower photo: A fortified tower of the thirteenth century.

 

上の写真: 聖カテリーナ教会。

下の写真: 13世紀の要塞。

 

 

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< 8. Cable car >

< 8.ケーブルカー >

Upper photo: The cable car that links the hill of 30m in height is the shortest distance in the world.

Lower photo: The promenade that goes down from the upper station of the cable car to under the hill.

 

上の写真: 高さ30mの丘を結ぶ世界一短いケーブルカー。

下の写真: ケーブルカー駅から続く丘を下りる散歩道。

 

 

 

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< 9. Ban Jelačić Square >

< 9. イェラチッチ広場 >

Upper photo: The open space where a statue of Ban Jelačić that is revered as a Croatian national hero stands.

Lower photo: The flower-shopping street leads to Dolac Market in the back.

 

上の写真: 国民的英雄のイェラチッチ総督の像が立つ広場。

下の写真: 奥の青果市場に通じる花屋の通り。

 

 

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< 10. Dolac Market >

< 10.青果市場 >

When my wife looks at a fruit and vegetable market, she becomes cheerful suddenly.

妻は青果市場を見ると、俄然、元気になる。

 

 

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< 11. Some aspect >

< 11. 見かけたもの >

Upper photo: An event in Ban Jelačić Square.

The video footage for 16 seconds

 

Central photo: I saw the folk costume in Ban Jelačić Square.

Lower photo: The person who was walking with Dalmatian a street.

 

On the next time, I introduce Doha that is the capital city of the state of Qatar, and finish this travel reports.

 

 

上の写真: イェラチッチ広場での催し物。

16秒のビデオ映像 https://www.youtube.com/watch?v=Mt6XWoX_T7w

 

中央の写真: イェラチッチ広場で見かけた民族衣装。

下の写真: 通りで見かけたダルマチア犬を連れた人。

 

 

次回、ドーハを紹介してこの旅行記を終えます。

 

 

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 30: 首都ザグレブ 1


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< 1.早朝の散策 >

 

今日から、クロアチアの首都ザグレブを紹介します。

ここは落ち着いたヨーロッパの古都の雰囲気があります。

これがバルカン半島の最後の観光となります。

 

 

早朝の散策

2015年9月5日、土曜日、朝6時半から1時間ほど、ホテルからザグレブ中央駅まで散策しました。

小雨が時折ぱらついていました。

 

 

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< 2. ザグレブ市街、上部が北。 >

 

上の写真: ザグレブの中心部です。

緑枠は私達が散策したザグレブ中央駅の辺りです。

私達のホテルはこの地図の左下の方にあります。

 

下の写真: これは上図の緑枠で、後に観光する旧市街です。

緑線は観光ルートで、「S」は散策の始めと終わりの位置です。

 

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< 3. ザグレブ中央駅の南側 >

上の写真: 南側から見た中央駅の裏側。

中央の写真: 中央駅の表側に通じる地下道の入口が中央に見える。

バス停で待つ朝の通勤客が見られた。

多くの人の服装からは経済水準が高いように思えなかった。

 

下の写真: 中央駅の南側を見ている。

こちらは中央駅の表側と違って、静かな住宅街と言うところです。

 

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< 4. 中央駅への地下道のショッピング街 >

店はこぎれいで、清潔な感じでした。

中央駅までの往復に、ここを通ったのですが、朝7時を過ぎると人通りが多くなりました。

 

少し嫌な経験をしました。

昨日の夜、ホテル周辺を歩いて写真を撮っていた時、自転車に乗った青年が通りざまに私に声を掛けました。

「カメラはだめ!」

顔は笑っていましたが。

 

この地下道を歩いていると、6人ほどの若者達とすれ違いました。

すると彼らははしゃぎながら「カメラ!カメラ!」と連呼した。

周囲には、多くの人がいたのですが、少し不安を感じました。

 

後で思い出したのですが、ガイドブックに中央駅の裏側は不用心なので行かないように注意してあった。

 

 

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< 5. 中央駅 >

上の写真: 北側から見た中央駅。

中央の写真: ホーム。

下の写真: 中央駅から北西側を見た。

 

この駅はクロアチア最大の駅で、かつてはオリエンタル急行が停車した。

しかし、それほど大きくはなかった。

 

 

 

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< 6. 中央駅の構内 >

上と中央の写真: 古本市が行われていた。

値段は安かったが、言葉が分からない、残念!

絵本を数冊購入。

 

下の写真: バックパッカーに混じってホームレスらしい人がいるようだ。

 

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< 7.トミスラヴァ広場 >

これは中央駅の北側に延びる新市街の中心にある広大な公園です。

 

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< 8. 車窓からの新市街 1 >

古都ウイーンを思わせる雰囲気があるが、よく見ると古く痛みが激しい外壁が目立つ。

経済的な苦境を感じさせる。

 

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< 9. 車窓からの新市街 2 >

上の写真: ミマラ博物館。

中央の写真: 国立劇場。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 29: スプリットからザグレブへ


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< 1. 途中の景色 >

 

今日は、スプリットを離れて首都ザグレブ到着までを紹介します。

 

 

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< 2. スプリット >

 

上の写真: 宮殿近くの港のレストランで昼食。

アドリア海の海岸を見て気づいたのは、漁船よりも圧倒的にレジャーボートが多いことです。

海岸沿いには別荘が並び、人々は海洋レジャーを楽しみ、地元の人々は観光で生計を立てているようだ。

これでアドリア海とはお別れして、高原を抜けてクロアチアの首都ザグレブに向かいます。

 

中の写真: 水道橋。

下の写真: 道路から見たスプリット市街。

 

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< 3. スプリットの全景 >

上の写真: バスの移動中、時折、山の上に十字架が立っているのを見かける。

多くは地雷の犠牲者のもので、いまだに地雷が残っているところがある。

まだユーゴ内戦の傷跡がある。

 

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< 4. 要塞 >

 

険しい岩山の上の要塞がスプリットを見下ろしている。

スペインを旅行した時もそうだったが、険しい断崖の上に廃墟となった要塞が見られた。

これは両地域の厳しい戦争の歴史を物語っている。

 

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< 5. 湖 >

これはダムなどによる人工湖を見下ろすドライブインからの眺めです。

 

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< 6. 途中 >

 

これはスプリットとザグレブの中間辺りの特徴的な景観です。

この日の午後、ザグレブに近づくにつれて雨雲が増え、時折、雨が降りました。

 

真中の写真: これは湖です。

下の写真: アドリア海に近づくほど、このような乾燥した岩山が多くなる。

 

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< 7. ザグレブ近郊 >

 

広大な平野と緑に覆われた豊か台地が続きます。

 

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< 8. ザグレブ >

上二枚の写真: ザグレブ市街の夕暮れの様子です。

下の写真: 中心部近くの夜の様子です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 28: 古代ローマの宮殿スプリット 2


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< 1.鐘楼からの眺め >

 

 

今日は、ディオクレティアヌス宮殿跡を観光します。

2015年9月4日に訪れました。

 

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< 2.青銅の門と宮殿の地下 >

上の写真: 海に面した「青銅の門」(南の門)。

他の二枚の写真: ディオクレティアヌス皇帝の私邸の地下部分。

 

 

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< 3.宮殿の中庭 >

上の写真: 宮殿の中央部にある中庭です。

私達は今、中央の建物の地下を通って来ました。

 

中央の写真: このスフインクス像は中庭の奥左側にあります。

これは皇帝がエジプト遠征で持ち帰ったものです。

 

下の写真: この鐘楼は、皇帝の霊廟跡に建てられた大聖堂の鐘楼です。

大聖堂は8世紀、鐘楼は16世紀に完成している。

 

 

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< 4. 鐘楼 >

 

私にとって、これがスプリット観光で最も印象深いものでした。

 

 

 

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< 5.鐘楼からの眺め >

下の写真: 東側を見ている。

ここは人口20万の都市です。

 

 

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< 6. 前庭 >

上の写真: 鐘楼が覗いています。

ここは皇帝の私邸の前庭で中庭に続いており、この下が先ほどの地下部分です。

このコーラスは、クロアチアの伝統音楽クラパです。

素朴で素敵な男性合唱で、私はCDを買いました。

私の録画ではありませんが、どうぞ楽しんでください。

 

 

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< 7.宮殿と民家 >

上の写真: 鐘楼と八角形の大聖堂が見える。

手前にあるのは、宮殿跡で暮らしている人々の住居です。

 

下の写真: 金の門(北の門)。

もっとも古い形が残っているようです。

 

 

ディオクレティアヌス皇帝と宮殿

彼は3世紀、この地方(ダルマチアのサロナ)で生まれたローマの軍人皇帝です、

彼はローマ帝国を2分割し、キリスト教徒を迫害したことで知られている。

彼は自ら引退し、生まれ故郷に近いこの地に宮殿を造り、余生を過ごした。

 

7世紀になるとスラブ人が侵入し、この地方は破壊され、離散した一部の人が廃墟になったこの宮殿内に暮らすようになった。

その後、至るところ民家に改造されていった。

一部復興はされているが、全体としては雑然とした不思議な空間になっている。

したがって世界遺産にはなっていない。

 

 

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< 8. 銀の門と青空市場 >

上の写真: 銀の門(東の門)の外側に広がる露天。

 

下右側の写真: 宮殿外の東側にある青空市場。

観光客と地元の人で賑わっていた。

 

 

 

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< 9. 広場 >

宮殿内の広場。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 27 : Ancient Roman palace in Split 1


クロアチア・スロベニアを巡って 27: 古代ローマの宮殿スプリット 1

 

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< 1. At break of day at Trogir >

< 1. トロギールの夜明け >

 

I introduce an ancient Roman palace from now on.

Today, I introduce the sceneries from the shore of our hotel and from our bus on the way.

 

これから古代ローマの宮殿を紹介します。

今日は、ホテルの海岸からの景観や途中の景観を紹介します。

 

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< 2. Trogir >

< 2. トロギール >

 

Upper photo: The Adriatic Sea near by Trogir.

The opposite bank is an island.

 

Lower photo: Trogir is an ancient harbor city and the world heritage.

This history of Trogir was made by ancient Greece, the Roman Empire, and Venice.

Parson that wants to sightsee to Trogir can go to it by taxi.

 

上の写真: トロギール近くのアドリア海。

対岸は島です。

 

下の写真: 世界遺産の港湾都市トロギールが見える。

トロギールの歴史は、古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネツィアによって作られた。

私達はここを観光しませんでしたが、ホテル到着後、タクシーで行くことが出来ます。

 

 

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< 3. At the shore of our hotel at night >

< 3. 夜、ホテルの海岸で >

 

Upper photo: I look over at Trogir from the shore.

Lower two photos: There were full of people who were enjoying the cool evening breeze in the shore.

 

Our hotel was built in forest facing the sea, and MEDEENA.

This is a big building built during the socialist era and the facilities were old, but we were able to enjoy it enough.

 

上の写真: ホテルの海岸からトロギールの方を望む。

下二枚の写真: 海岸には夕涼みを楽しむ人々で賑わっていました。

 

私たちのホテルは、MEDEENAで海に面した森林に建っていました。

これは社会主義時代に建てられた大きな建物で設備は古いですが、十分に楽しめました。

 

 

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< 4. At break of day from the shore of our hotel >

< 4. ホテルの海岸の夜明け >

 

Upper photo: I look over at Trogir.

Lower photo: There were people enjoying sea bathing before 7:00 A.M. on September 4.

 

上の写真: トロギールの方向を望む。

下の写真: 9月4日の朝7時前でしたが、海水浴を楽しむ人々がいました。

 

 

 

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< 5. Views from the top floor of the hotel 1 >

< 5. ホテルの最上階からの眺め 1 >

 

I took their three pictures at Trogir and they are expanded in turn.

A tower located in the center of the lower picture is the bell tower of cathedral that is representative of Trogir.

 

三枚の写真はトロギールを撮ったもので、順番に拡大しています。

一番下の写真中央に見える塔が、トロギールを代表する大聖堂の鐘楼です。

 

 

 

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< 6. Views from the top floor of the hotel 2 >

< 6. ホテルの最上階からの眺め 2 >

I was sequentially taking their pictures along with turning the west at the same place.

The break of day was warm and quiet.

 

ホテルの同じ場所から順次、西側を撮りました。

暖かく静かな夜明けでした。

 

 

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< 7. On the way to Split >

< 7. スプリットへの道から >

 

Second photo from the top: It is city remains Salona of the Roman Empire period, and the population in the golden age was 20,000 people.

Here is the birthplace of emperor Diocletianus who built his palace in Split.

 

上から二枚目の写真: ローマ時代の都市遺跡サロナで、最盛期は人口2万人が暮らした。

ここはスプリットに宮殿を建てたローマ皇帝ディオクレティアヌスの生誕地です。

 

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< 8. The palace remains in Split >

< 8. 宮殿跡スプリット >

 

Split is the greatest city in the Dalmatia district of southern Croatia.

The palace remains that we just are going into were built 1,700 years ago.

 

スプリットはクロアチア南部のダルマチア地方最大の都市です。

今から見学する所は、1700年前の宮殿跡です。

 

 

 

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< 9. We just enter Split >

< 9. いよいよスプリットへ入場 >

Lower photo: A reconstructed picture of the palace.

This palace became ruins once, and was sinking partly, but people came to live there afterwards.

 

This continues next time.

 

下の写真: 当時の宮殿の復元図。

この宮殿は一度廃墟になり一部沈下しているのですが、その後、人々が住むようになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 26: 傷痕の町モスタル 5


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< 1. 「ネレトヴァの戦い」で破壊された橋 >

 

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の背景に迫ります。

そこには民族と宗教の皮肉な歴史がありました。

 

はじめに

写真1は、 1943年の「ネレトヴァの戦い」で破壊され保存されている橋です。

この戦いはネレトヴァ川で行われた。

第二次世界大戦中、劣勢のパルチザンはドイツ軍との戦いで大きな犠牲を出しながら後退していた。

この戦いでチトー率いるパルチザンが全滅を免れたことで、同年の旧ユーゴに誕生につながった。

 

 

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< 2. ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡 >

 

上の写真: スレブレニツァ虐殺記念碑の墓地。

1995年、セルビア勢力がスレブレニツァの町に侵入し制圧を終えると、ムスリマの男性を1週間ほどで即決処刑し、その数は約8000人に及んだ。

この時、国連平和維持軍はいたが無力な為、制止できなかった。

 

中央の写真: 当時の避難する人々。

下の写真: 当時のモスタル郊外の惨状。

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< 3. 戦いの果てに >

 

上の写真: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時のサラエボの惨状、セルビア勢力、国連平和維持軍。

 

中央の写真: 紛争前後におけるボスニア・ヘルツェゴビナ内の民族分布。

緑色はムスリマ(Bosniaks)、赤色はセルビア人、青色はクロアチア人(HRVATI)を示す。

黄色い点はモスタルを示す。

ムスリマへの壮絶な民族浄化は、その後の棲み分けを決めた。

 

下の写真: 現在のボスニア・ヘルツェゴビナは桃色のセルビア人と青色のムスリマとクロアチア人との連邦になっている。

 

悲劇の遠因、歴史の皮肉

この内戦では同じ南スラブ民族の三つの民族が戦ったが、敵味方の識別は宗教の違い、カソリックと正教会、イスラムでした。

最も残虐だったのは正教会勢力(セルビア人)で、その大統領は国際裁判所で戦争犯罪の公判中です。

村を焼かれ多くの青年が殺され追い出されたのはムスリマでした。

彼らは数百年前「ボスニア教会」と呼ばれる異端のキリスト教徒で迫害を逃れ、この地に移り住み、オスマン帝国の時代にイスラムに転じた。

やがて彼らは地主や富裕層になり、キリスト教徒であるクロアチア人やセルビア人を使役するようになった。

 

時は下り、南スラブ人の大連合を成し遂げた旧ユーゴ時代、初代大統領チトーは異なる宗派や民族の融和を図るために、人々の混住化を推進した。

そして平和な半世紀が過ぎた。

しかし、瑣末な意見の食い違いが生じ、やがて指導者の野望と民衆の疑心暗鬼が一体となって戦端が開かれると、一気に憎悪と不安が燎原の火のように広がっていった。

 

彼らは歴史的な怨念を互いに多少持ってはいたが、先日までは仲良く暮らしていたのです。

 

 

次回から、次の観光地を紹介します。

 

 

 

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 25: 傷痕の町モスタル 4


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< 1.石橋は紛争で破壊された >

 

のどかな山間の町が一瞬にして地獄になったことがありました。

それはボスニア・ヘルツェゴビナを民族浄化一色に染めた紛争でした。

 

 

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< 2. ネレトヴァ川と一本の道 >

 

上の二枚の写真: 下流側(南側)を望む。

川の左側(東側)に旧市街があり、ムスリマは旧市街を中心に川を挟んで住んでいた。

川の右側を平行に走る道(一番下の写真)を境にして、紛争時、クロアチア勢力がムスリマの街を攻め、分断するために石橋を破壊した(写真1)。

 

上から三番目の写真: 上流側(北側)を望む。

一番下の写真: 北側を望む。

右側にネレトヴァ川と旧市街があります。

 

 

3

< 3. 紛争によるモスタルの傷跡 >

 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995年)について

この紛争は一連のユーゴ内戦(1991~2001年)で最大の被害、20万人の死者と250万人の難民・避難民を出した。

 

ユーゴ内戦は、旧ユーゴを構成する6つの共和国から独立を宣言する国が出たことが引き金になった。

独立の是非を巡って、それぞれの国内の民族と宗派が対立し、セルビアが主導権を握る旧ユーゴ連邦軍が介入し戦争は拡大した。

最初にスロベニアが10日間戦争で1991独立し、ついでクロアチアが内戦(1991~1995)を経て独立することになる。

このクロアチア内戦でクロアチア人とセルビア勢力が戦っていた。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナでは主導権を持つムスリマとクロアチア人、セルビア人が共に暮らしていた。

ムスリマとクロアチア人が独立宣言を模索し始めると、それを阻止する為に国内のセルビア人と隣国のセルビア軍、旧ユーゴ連邦軍が戦端を開いた。

 

ところが分割案を巡ってクロアチア人とムスリマも対立した。

ムスリマは、それぞれ隣国から支援を受けるクロアチア勢力とセルビア勢力に攻められ苦境に陥った。

この時、凄惨な民族浄化が起きた。

 

やがて国連と多国籍軍が停戦に向けて動き、NATO軍によるセルビア勢力への空爆、そして米国の仲介によって紛争は終結した。

その後、難民流入と民族問題で南部のコソボ、マケドニアへと戦火は広がった。

 

 

次回、悲劇の背景に迫ります。

 

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Went around Croatia and Slovenia 24 : Deeply scarred Town Mostar 3


クロアチア・スロベニアを巡って 24: 傷痕の町モスタル 3

 

 1

< 1. I look at the old city from a riverside restaurant of Neretva >

< 1.ネレトヴァ川沿いのレストランから旧市街を眺めた >

 

A sequel to the introduction of Mostar

モスタル紹介の続きです

 

 2

< 2. Views of Strai Most (old bridge) from both sides >

< 2. 両側から見た石橋 >

 

Upper photo: A view from the yard of the mosque.

A large cross stands on the top of the mountain.

Lower photo: A view from the riverside on the downstream side.

A man just is going to jump into the river from the top of the bridge.

Each time he gets money, he jumps.

There is the jumping event annually here.

上の写真: モスクの庭からの眺め。

山頂に大きな十字架が立っている。

 

下の写真: 下流側の川辺から。

橋の上の中央から男性が今にも飛び込もうとしている。

彼はお金を貰っては飛び込んでいる。

年一度、ここで飛び込みの大会があります。

 

3

< 3. Visit to “Turkish house” in the old city >

< 3. 旧市街の「トルコの家」を訪ねて >

 

Upper photo: The minaret that we climbed can be seen.

Central photo: When we were badly bunkered as we don’t find “Turkish house” at a map of a signboard, somebody called to us from behind and taught the pathway to it.

This kind man is the left side on the photo.

I think the map indicated not “Turkish house” but “Ottoman house”.

 

Lower photo: “Turkish house”

When we arrived on it, we looked at only the entrance and had to return because our free time just was over.

 

上の写真: 私が登ったモスクのミナレットが見える。

中央の写真: 私達は看板の地図に「トルコの家」が見つからなくて困っていました。

すると後ろから声を掛けてくれる人がいて、道を教えてくれた。

その人が、写真左側の人でした。

看板には「トルコの家」ではなく「オットマン・ハウス」と表記されていたように思う。

 

下の写真: トルコの家。

辿り着いた時には戻る時間になっていて入口を覗くだけで引き返した。

 

We left Mostar and went to the next stage.

 

モスタルを出て、次の宿泊地に向かう。

 

 

4

< 4. We left Mostar >

< 4. モスタルと別れる >

 

Lower photo: I looked back toward Mostar located in the valley from the downstream side of Neretva.

下の写真: ネレトヴァ川の下流側から谷間にあるモスタルを振り返る。

 

 

 

5

< 5. We parted from the Neretva >

< 5. ネレトヴァ川とも別れる >

 

We part from the Neretva at here, passed through the high plateau and went to the Adriatic Sea.

ここでネレトヴァ川とも別れ、高原を抜けてアドリア海岸へと向かう。

 

 

 

6

< 6. We passed through the high plateau >

< 6. 高原を抜けて >

 

This high plateau was a dry zone as a whole, but there also were lush green places.

 

On the next time, I introduce another scenery of Mostar, and Bosnian War.

 

高原は乾燥地帯だが、緑豊かな所もあった。

 

次回は、モスタルの新市街とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を紹介します。

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 23 : Deeply scarred Town Mostar 2


 

クロアチア・スロベニアを巡って 23: 傷痕の町モスタル 2          

 

1

< 1. Old Bridge made by stones >

< 1.石橋「スタリ・モスト」 >

 

Today, we go for a walk in the old town of Mostar.

This old town is a town of Muslims.

 

今日は、モスタルの旧市街を歩きます。

旧市街はイスラム教徒の町です。          

 

 

2

< 2. Go to the old town >

< 2. 旧市街に向かう >

 

Upper photo: We just go out of the parking lot.

We left it at 11 A.M.

 

Central and lower Photos: The street lined with souvenir shops.

 

上の写真: 駐車場から出るところです。

私達は11時に駐車場を出発しました。

 

中央と下の写真: 通りには土産物屋が並ぶ。

 

 

3

< 3. Go to the Old bridge >

< 3.石橋に向かう >

 

Upper photo: When I looked back, there were many traces of bullet on the store’s wall.

Lower photo: The gate of the Old bridge.

You can see the top surface of the bridge behind the gate.

 

This bridge was restored in 2004 after its old bridge was destroyed by a civil war in 1993.

This was reproduced in its original condition made in the 16th century.

 

上の写真: 振り返ると店舗の壁に銃弾の跡がありました。

下の写真: 石橋の門です。

門の向こうに階段状の橋の上面が見える。

 

この石橋は1993年の内戦で破壊された後、2004年に復元されたものです。

これは16世紀に造られた当時のままに再現された。

 

4

< 4. Views from the top of the bridge >

< 4. 石橋の上から >

 

Upper photo: Downstream side of Neretva river.

Central photo: Old bazaar we are going to go from now is seen. 

 

Lower photo: Upstream side of it.

The minaret of a mosque we are going to climb after this is seen in the center.

 

上の写真: ネレトヴァ川の下流側。

中央の写真: これから行く旧市街のオールド・バザールが見える。

下の写真: 上流側。

これから登るモスクのミナレットが中央に見える。

 

 

5

< 5. The Old bazaar >

< 5.オールド・バザール >

 

Mostar had prospered in trade, because it was located on a caravan route that linked the Adriatic Sea and the inland.

Mostar led to the Dubrovnik and Kotor that I already introduced.

The Old bazaar was a craftsman town that many copper craftsmen, tanners and tailors lived in.

There was an oriental atmosphere here.

 

モスタルは内陸とアドリア海を結ぶキャラバン・ルートにあり、交易で栄えて来た。

既に紹介したドゥブロブニクやコトルに通じていた。

このオールド・バザールはかつて銅職人やなめし職人、仕立屋などが住んでいた職人街です。

ここにはオリエンタルな雰囲気が漂っていた。

 

6

 

< 6. Arrived at the mosque  >

< 6. モスクに来ました  >

 

Upper photo: We went into the yard of the mosque.

The central hexagonal building is intended for cleaning up hands and feet.

                                                                                                                    

Lower photo: In front of the mosque.

This Koski Mehmed pasa Mosque made in the 16th century is famous for a beautiful prospect.

 

上の写真: モスクの庭内に入って来た。

中央の六角形の建物は手足を洗い清めるところです。

 

下の写真: いよいよモスクに入ります。

これは16世紀に建てられたコスキ・メフメドパシャ・モスクで、眺めが良いので有名です。

 

 

 

7

< 7. Inside the mosque >

< 7. モスクの中 >

 

Upper photo: there are a hollow of wall “ mihrab”, and a step-like preacher’s pew “ mimbar”.

Central photo: The ceiling.

Lower photo: The stairs inside the minaret.

 

上の写真: メッカを示す壁の窪み(ミフラーブ)と階段状の説教壇(ミンバル)が見える。

中央の写真: 天井。

下の写真: ミナレットの階段。

 

 

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< 8. A view from the top of the minaret >

< 8. ミナレットから見た石橋 >

 

It is a view of downstream side.

下流側を見ている。

 

 

 

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< 9. Views from the top of the minaret >

< 9.ミナレットからの眺め >

 

Upper photo: It is a view of upper streamside and the north side.

A spire on the left is a church near our parking lot.

 

Lower photo: I look at the old town of the east side.

 

This continues next time.

 

 

上の写真: 上流側で、北側です。

左に見える尖塔は私達の駐車場横にある教会です。

 

下の写真: 東側の旧市街を見ています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 22: Deeply scarred Town Mostar


 

クロアチア・スロベニアを巡って 22: 傷痕の町モスタル 1

 

 

1

< 1. Župa Svetog Petra i Pavla is a church in Mostar >

< 1.モスタルの教会、Župa Svetog Petra i Pavla >

 

Today, we go to the intermountain town in Bosnia and Herzegovina.

I introduce the scenery between coastal town Neum and the Mostar.

 

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナの山間の町に向かいます。

海沿いの町ネウムからモスタルまでの景観を紹介します。

 

 

 2

< 2. Root maps >

< 2.地図 >

 

Upper map: It shows Bosnia and Herzegovina.

A black point is the Mostar.

 

Lower map: It shows the way to the Mostar from the Neum that we stayed in.

Red arrows show the two towns, and blue arrow shows the root.

The distance between the Mostar and the Neum is about 60 km.

We left at 9 A.M. on September 3, 2015, and arrived at 11 A.M.

It took much time, because we went through two checkpoints on the border.

 

上の地図:  ボスニア・ヘルツェゴビナを示す。

黒丸がモスタルです。

 

下の地図: ホテルのあるネウムからモスタルへの道を示す。

赤矢印が二つの町を示し、青矢印はそのルートを示す。

ネウムからモスタルまでは約60km。

2015年9月3日、9時に出発し11時に到着した。

時間がかかったのは、2箇所の国境検問所を通った為です。

 

About Mostar

1992-1995, Bosnia and Herzegovina was involved into Yugoslav Wars.

At this time, we have known the capital Sarajevo became the battlefield, and similar tragedy occurred in the Mostar, too.

Race of this nation consists of the most Muslims, subsequently a Croatian of the Christian, and a Serbian of the Greek Orthodox Church.

And this nation has a border with Croatia and Serbia.

By this, this Muslims suffered damage by ethnic cleansing by a Serbian at the time of Yugoslavia’s collapse.

 

モスタルについて

1992~1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴ紛争に巻き込まれました。

この時、首都サラエボが戦場になったことはよく報道されたが、モスタルでも同様の悲劇が起こりました。

この国の民族は、イスラム教徒が一番多く、次いでキリスト教徒のクロアチア人、正教会のセルビア人で構成されている。

かつ、この国はクロアチアとセルビアと国境を接している。

このことにより、ユーゴスラビア崩壊時にイスラム教徒はセルビア人から民族浄化の被害を受けた。

 

 

3

< 3. Sceneries between the Neum and downstream of Neretva >

< 3. ネウムからネレトヴァ川の下流まで >

 

Upper photo: People had been enjoying a marine vacation.

Central photo: As going through a mountain pass, I saw a monastery (?) on the hill.

Lower photo: The plains that spread out downstream of Neretva river.

 

上の写真:  リゾートを楽しむ人々の姿が見える。

中央の写真: 峠を通過中、丘の上に修道院(?)が見えた。

下の写真:  ネレトヴァ川の河口に広がる平野部。

 

 

4

< 4. We were coming down to the plains >

< 4. 平野部に降りていく >

 

There are lots of dry mountains in this area, but this place is filled with green.

乾燥した山間地が多い中にあって、ここは緑に溢れていた。

 

 

5

< 5. Towns along the Neretva >

< 5. ネレトヴァ川沿いの街並み >

 

Upper photo: I saw a mosque for the first time in this trip.

Graveyard of Islam is seen on the left side.

 

Central photo: Neretva.

Lower photo: Soccer seems popular.

 

 

上の写真: 今回の旅行で初めてモスクを見た。

左側に見えるのがイスラムの墓です。

 

中央の写真: ネレトヴァ川。

下の写真: サッカーが盛んなようです。

 

 

6あ

< 6.  We go into the mountain valley >

< 6. いよいよ川沿いに山間地へと上って行く >

 

People are growing grapes as hard as possible at the dry mountain area.

 

乾燥している山間地でも、人々はぶどうなどを精一杯栽培している。

 

 

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< 7. Near Mostar >

< 7. モスタルに近づいた >

 

Central photo: Graveyard of Christianity system.

Lower photo: We can look at innumerable traces of big bullet on the outer wall of the apartment.

 

This continues next time.

 

中央の写真: キリスト教系の墓地です。

下の写真:  アパートの外壁に大きな銃弾の跡が無数に見える。

 

次回に続きます。

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 21: resort area Neum


クロアチア・スロベニアを巡って 21: リゾート地ネウム

      1

< 1. a view from our hotel >

< 1.ホテルからの眺め >

 

I introduce our stage Neum today.

We stayed at a hotel in here for 2 days from Tuesday 1 September.

 

今日は、宿泊地ネウムを紹介します。

ここのホテルに、9月1日(火)、2日(水)と2連泊しました。

 

 2地図

< 2.  location of Neum >

< 2. ネウムの場所 >

A red point is the hotel in Neum and a black point is Dubrovnik.

Black line is the border, and Neum belongs Bosnia and Herzegovina.

The width of the shoreline of Neum dividing Croatia is 9km.

Here is the best resort area of Bosnia and Herzegovina.

This is because Dubrovnik gave this area to Ottoman in 1699 to protect from Venice that possessed the north side shore from it.

 

赤丸がネウムのホテル、黒丸がドゥブロブニクです。

黒い線が国境を示し、ネウムはボスニア・ヘルツェゴビナに属しています。

クロアチアを分断しているネウムの海岸線の巾は9kmです。

ここはボスニア・ヘルツェゴビナきってのリゾート地です。

このようのなったのは、ここより北側海岸を領有していたベネチアとの防波堤にする為に、この地をドゥブロブニクが1699年、オスマンに譲ったからでした。

 

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< 3. inlet of Neum >

< 3. ネウムの入江 >

 

Upper photo: At dusk.

Central photo: Daybreak seen from the hotel.

Lower photo: Inlet seen from the hotel in the morning.

 

上の写真: 夕暮れ。

中央の写真: ホテルから見た夜明け。

下の写真: ホテルから見た朝の入江。

 

4a

< 4.   In GRAND HOTEL NEUM >

< 4. ホテルで、GRAND HOTEL NEUM >

 

Upper photo: The supper (buffet) at the hotel restaurant.

Sunset from this terrace is splendid.

The hotel was full of visitors, but the visitors from Asia were few.

Central and lower photo: In the lower shore of the hotel at 9:00 p.m.

There were elderly people who had been enjoying sea bathing.

 

上の写真: ホテルレストランでの夕食(バイキング)。

このテラスからの夕焼けは素晴らしい眺めです。

ホテルはお客さんで一杯でしたが、アジアからの客は少なかった。

 

中央と下の写真: 夜9時頃、ホテル直ぐ下の海岸で。

海水浴を楽しむ年配の人々がいた。

 

5a

< 5. The shore in the morning >

< 5. 朝の海岸 >

At about 8:00 A.M., I walked around the lower shore of the hotel.

There were persons who already were enjoying sea bathing.

 

朝8時頃、ホテル下の海岸を散策した。

既に海水浴を楽しむ人がいた。

 

 

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< 6. I strolled in the morning >

< 6. 朝の散策 >

I took a walk to the west side along the shore.

The water was clear, and the sky was clear, too and I was refreshed.

A woman who embraced a child from the other side came, so I called to her.

“What country did you come from?”

I thought she came from Bosnia and Herzegovina.

But she was a Croatian.

She was able to speak English, but I was poor speaker of English, so I only talked a little.

I early want to talk in English free.

 

I associated the gentle mother and a child with a statue of “Virgin with Child”.

 

This continues next time.

 

 

私は海岸に沿って西側を散策しました。

水は綺麗で空も晴れ渡り、清々しかった。

 

向こうから子供を抱いた女性が来たので、声をかけました。

「あなたは何処の国から来たのですか?」

私は彼女がボスニア・ヘルツゴビナから来た人か知りたかった。

答えはクロアチアの人でした。

彼女は英語が出来たのですが、私がダメなので、少し会話をして別れました。

早く、英語で自由に喋りたいものです。

 

私は、この柔和な母子にマリアの聖母子像を連想していました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 20: Kotor 2


クロアチア・スロベニアを巡って 20: コトル2

 

1

 

< 1. The Clock Tower(1602) in open space where we just went through “the Sea gate” (the 16th century) >

< 1. 「海の門」を入った所の広場にある時計塔、1602年建築 >

 

I introduce the Kotor in the castle wall today.

It was a small town, but there was the feature of a harbor city that lived to the Middle Ages from the ancient times in here.

 

今日は、城壁内のコトルを紹介します。

小さな町ですが、古代から中世に生きた港湾都市の面影がそこにはありました。

 

 

2

< 2. Heraldic emblems >

< 2. 紋章 >

Upper photo: This Kotor emblem is put on the wall surface of a fortress in the right side of “the Sea gate”

Dower photo: This emblem is put on an entrance of a former noble’s palace, and was built in 1776.

 

上の写真: 「海の門」の右にある要塞のコトル紋章。

下の写真: 元貴族の宮殿の入口上にある紋章、1776年建築。

 

 

3

< 3. The clock tower and the square >

< 3. 時計塔と広場 >

Upper photo: We are going through “ the Sea gate”

Central photo: The expansion of the castle wall rounding the mountain behind Kotor.

This castle wall is the total length 4.5 km, and the altitude reaches up to 260 m, the biggest high is 20 m, and the thickness is 2-16 m.

 

Lower photo: “ the Square of Arms” is main town square.

 

上の写真: 「海の門」を入ったところ。

中央の写真: 山の城壁部分を拡大。

この城壁は総延長4.5kmで、標高は最大260mまで達し、壁の最大高さは20m、厚みは2~16mある。

 

下の写真: 「武器の広場」。

 

 

4

< 4. Churches >

< 4. 教会 >

There are 14 churches in Kotor.

 

Upper photo: St. Tryphon Cathedral was built in 1166.

Central photo: Serbian Orthodox church of St. Nicholas was built in 1909.

I entered inside, but I was impressed by the sacredness, and I couldn’t take the picture.

Many icons were displayed.

 

Lower photo: This bell tower of church was built in 1221 on fundaments of the old Christian Episcopal basilica from the sixth century.

 

このコトルには14の教会があります。

 

上の写真: 聖トリファン大聖堂、1166年建築。

中央の写真: 聖ニコラス教会、1909年建築。

中に入りましたが、神聖さに打たれ写真撮影を控えました。

ここはセルビア正教会で、イコンが飾ってありました。

 

下の写真: 6世紀建築の古代キリスト教バシリカの上に建てられた教会の鐘楼、1221年建築。

 

 

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< 5. St. Luka Church was built in 1195  >

< 5.聖ルーカ教会、1195年  >

It is an Orthodox church.

 

Lower photo: The backside of this church is older than the front side.

 

ここも正教会です。

 

下の写真: 教会の後ろ側で、正面より古い時代の建築です。

教会の多くは古い教会に改造や増築がなされ、その痕跡が残っています。

 

 

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< 6. The inside of St. Luka Church >

< 6. 聖ルーカ教会の内部 >

It was a very small church, but we were able to look at many icons and crosses.

There was a mosaic fresco of religious painting that was considerably damaged, too.

I saw Orthodox Churches that I had expected in this trip, and I think I smelled a fragrance of the Byzantine culture.

 

非常に小さい教会ですが、多くのイコンと十字架を見ることが出来ました。

かなり痛んでいたが宗教画のモザイク壁画もありました。

今回の旅行で楽しみにしていた正教会を見て、ビザンチンの香りを嗅いだように思います。

 

 

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< 7. The other scenes >

< 7. 町中の光景 >

A top photo: The marine museum was a former palace that was built in 1732.

一番上の写真: 海洋博物館、元宮殿、1732年建築。

 

About Kotor

This city has been appointed to a world heritage for a history inheritance, and became a anchorage site of many Cruise ships because scenic.

This harbor city began the Roman Empire period, was governed by Byzantine and the north race.

And it allied with Ragusa republic (Dubrovnik), or contended against it at one stage.

The present cityscape and castle wall almost were formed during Venice rule period of the 15-18th century, and it experienced two times of Ottoman rule and earthquakes in the meantime.

At the time of World War I, this port became full of the warships of the Austria-Hungary Empire.

This Montenegro was desperately struggling between the large countries of the north and south during 2000, too.

 

This continues next time.

 

 

コトルについて

ここは歴史遺産で世界遺産に指定され、また風光明媚なのでクルーズ船の寄港地になっています。

この港湾都市は、紀元前のローマ時代から始まり、ビザンチン、続いて北方民族の支配を受け、またラグーサ共和国(ドゥブロブニク)と同盟したり対抗したりもした。

15から18世紀のベネチア支配で今の町並みや城壁が形作られ、その間に2回のオスマン支配と地震を経験した。

第一次世界大戦時、この港はオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦で一杯になった。

このモンテネグロの地も2千年の間、南北の大国の狭間で悪戦苦闘した。

 

 

次回に続きます。

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 19: Kotor 1


クロアチア・スロベニアを巡って 19: コトル 1

 

       1 

< 1. Kotor gulf photo taken from a moving ferry >

< 1. フェリーから撮ったコトル湾、北側 >

 

I introduce Kotor that is a maritime republic of the Middle Ages and the world heritage in twice.

Today, I introduce Kotor gulf and the castle wall of Kotor.

 

2回に分けて、中世の海洋都市、世界遺産のコトルを紹介します。

今日は、コトル湾とコトルの城壁を紹介します。

 

2map

< 2. Maps of Kotor >

< 2. コトルの地図 >

The upper side of all maps is the north.

Upper map: The tip of a red arrow indicates Kotor, and a black point is Dubrovnik.

The direct distance of Kotor between Dubrovnik is 60km.

 

Central map: A red arrow indicates Kotor, and a red point is a church in an island (photo 4).

Black arrows indicate our bus route to Kotor, and blue arrows do the route on the way back.

We crossed to an opposite shore with a ferry one time on the way back.

 

Lower map: Orange-colored town is Kotor.

There was a maritime republic that continued since ancient times in the back of the gulf.

The triangular port town of a side 60 m was sandwiched between the gulf and the steep mountains that reached an attitude of 1,700 m, so it was protected.

Furthermore, the slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.

 

すべて上が北です。

上図: 赤矢印の先がコトルで、黒丸はドゥブロブニクです。

コトルとドゥブロブニクの直線距離は60kmです。

 

中央図: 赤矢印がコトルで、赤丸は島の教会(写真4)です。

黒の矢印はコトルに行くまでのルートで、青の矢印は帰りのルートです。

帰りの一ヶ所、フェリーで対岸に渡りました。

 

下図: オレンジの町並みがコトルです。

古代から続く海洋都市は湾内の奥深くにありました。

一辺300mの三角形の港町は標高1700mにも達する急峻な山々と湾に挟まれて守られていた。

さらに山の斜面には標高200mまで城壁が巡らされていた。

 

Kotor gulf and the castle wall of Kotor

Here is Montenegro, and only one place that we visited in this country.

The photography was from 12:50 to 17:00 on September 2, 2015.

The following photographs almost are arranged in order of the photo opportunity.

 

コトル湾とコトルの城壁

ここはモンテネグロにあり、今回、この国で唯一の訪問地になります。

撮影は2015年9月2日の12:50から17:00です。

以下の写真は概ね、時間通りに並んでいます。

 

 3

< 3. The first half of Kotor gulf photos taken from moving bus >

< 3. コトル湾の前半、バスから撮影 >

Upper photo: Mountainside scenery before going in Kotor gulf after leaving from Dubrovnik.

Central photo: Going in Kotor gulf.

Lower photo: Going in the back of Kotor gulf.

 

上の写真: ドゥブロブニクから来て、コトル湾に入る手前の山側の景色。

中央の写真: コトル湾に入った。

下の写真: コトル湾の奥に入って来た。

 

4教会

< 4. A church in a island taken from moving bus >

< 4. 島の教会、バスから撮影 >

 

The building of the right island seems to be a church of the Orthodox Church.

右側の島の建物はおそらく正教会の教会でしょう。

 

5

< 5.   The last half of Kotor gulf photos taken from moving bus >

< 5. コトル湾の後半、バスから撮影 >

 

Central photo: The back left of a moving boat is Kotor.

Lower photo: There is Kotor in the back of this gulf.

 

中央の写真: ボートの左手奥がコトルです。

下の写真: 最深部にコトルがある。

 

6

< 6. The castle wall of Kotor >

< 6. コトルの城壁、徒歩で撮影 >

Upper photo: We approached the wall and fosse from the north side.

Central photo: This slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.

A church is also seen.

 

Lower photo: This is the appearance of the back of the fosse.

 

上の写真: 北側から城壁と堀に近づいた。

中央の写真: 裏手の山、標高200mまで城壁が張り巡らされている。

教会も見える。

 

下の写真: 堀の奥側の様子。

 

7

< 7. We are passing through a castle gate of Kotor >

< 7. コトルの城門をくぐっているところ >

 

 

8

< 8. At ferry on the way back >

< 8. 帰りのフェリー >

Upper photo: We are going to board a ferry now.

I look at the back of Kotor gulf (the north side).

 

Lower photo: I look at the south side from the moving ferry.

 

This continues next time.

 

 

上の写真: 今からフェリーに乗ります。

コルト湾の奥側(北側)を見ている。

 

下の写真: フェリーから南側を見ている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 18:  The wonder of Dubrovnik 4


クロアチア・スロベニアを巡って 18: ドゥブロブニクの不思議 4

     1

< 1. Dubrovnik >

< 1. ドゥブロブニク >

 

I see how Dubrovnik coped with the situation change, and what happened in Europe.

This is my last entry in the theme.

 

今日は、ドゥブロブニクが情勢変化にどのように対応し、またヨーロッパに何が起きたかを見ます。

これで終わります。

 

 

 2ネウム

< 2. Neum of dusk >

< 2. 夕暮れのネウム >

 

Skillful diplomacy of Dubrovnik

Hungary kept a patron of Dubrovnik in place of Venice from 1359 until it suffered a crushing defeat by the Ottoman Empire in 1526.

However, Dubrovnik continued to reject the dispatch of governor from Hungary, and started to pay tributes to the Ottoman Empire in 1458.

Because of this, Dubrovnik was allowed for the commercial activity in Balkan and other conquest places, became a counterbalancing power against Venice, and was at the height of the prosperity in the 15-16th century.

Furthermore, in 1699, it devolved territory Neum (photo 2) to the Ottoman Empire and assumed it a shield to the Venice navy.

Small town Neum of a shore belongs to a territory of Bosnia and Herzegovina currently, and has made Dubrovnik the enclave of Croatia.

Here was our accommodation, and I introduce it later.

 

ドゥブロブニクの巧みな外交

ハンガリーは1359年からベネチアに代わり、1526年にオスマンに大敗するまでドゥブロブニクの庇護者であり続けた。

しかし、ドゥブロブニクはハンガリーからの総督派遣を断り、1458年にはオスマンへの朝貢を開始した。

これによりオスマンからバルカンや他の征服地の商業活動を認められ、ベネチアと対抗するまでになり15~16世紀にかけて全盛期を迎えた。

さらに1699年、領地ネウム(写真2)をオスマンに譲り、ベネチア海軍への盾とした。

 

海岸の小さな町ネウムは、現在、ボスニア・ヘルツェゴビナ領で、ドゥブロブニクを飛び地にしている。

ここは私たちの宿泊地で、後で紹介します。

 

 

3

< 3. The Mediterranean Sea >

< 3.地中海 >

1: Dubrovnik 2: Venice 3: Genoa 4: Constantinople(Istanbul) 5: Alexandria 6: Lisbon 7: Ceuta   8: Athen 9: Rome 10: Jerusalem.

 

1: ドゥブロブニク 2:ベネチア 3: ジェノバ 4: コンスタンティノープル(イスタンブール) 5: アレキサンドリア 6: リスボン 7: セウタ 8: アテネ 9: ローマ 10:エルサレム

 

What decided the outcome of Genoa and Venice?

The two countries continued the East-West trade through Ethiopia of Christianity country and Egypt of the Islamic power (annotation 1).

However, this decrepit Islamic dynasty practiced the monopolization of spice in 1428, and the price jumped up.

The purchase price from Egypt increased to approximately 1.5 times than before, and became 16 times in comparison with the direct purchase from India.

 

On the other hand, Genoa defeated by Venice found its way into the Atlantic Ocean, and joined with Portugal.

Portugal that had accomplished Reconquista (annotation 2) captured Ceuta of the opposite shore in 1415, and aspired to trade with India around the west side of Africa.

At last, it became possible by Vasco da Gama’s expedition in 1498

In the early 16th century, most of the spice did not arrive at Egypt from India.

 

Thus, Venice that had been proud of its prosperity by the monopoly fell rapidly.

Spain participated in it and since the Age of Geographical Discovery began, Genoa survived by banking

 

ジェノバとベネチアの明暗を分けたもの

両国はイスラム勢力(注釈1)のエジプトやキリスト教国のエチオピアを通じて東西交易を続けていた。

しかし、弱体化したこのイスラム王朝は1428年、香辛料の専売制を始め、値段が跳ね上がった。

エジプトからの購入価格は従来の1.5倍以上、インドでの直接購入に比べ約16倍にもなった。

 

一方、ベネチアに敗れたジェノバは以前から大西洋に活路を見出し、ポルトガルと手を組んでいた。

レコンキスタ(注釈2)を成し遂げていたポルトガルは、1415年、対岸のセウタを攻略し、アフリカの西回りでインドとの交易を目指し、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの遠征で可能にした。

16世紀初めには、エジプトにインドから香辛料はほとんど入荷しなくなった。

 

こうして、独占で隆盛を誇ったベネチアは急速に没落していくことになる。

スペインが参加し大航海時代が始まるとジェノバは銀行業で生き残った。

 

4

< 4. Renaissance fine art. By “Web gallery of art” >

< 4.ルネサンス美術。「Web gallery of art」より >

 

Two shocks of Europe

One of them is the beginning of the Age of Geographical Discovery, as we have seen already.

 

The other one is the beginning of Renaissance.

Greek classical study flowed out to Italy from the declined Byzantine Empire, and Renaissance flowered in Italy by combining with cities that prospered in trade

The Greek classical study was popular from ancient times in Byzantium, and was also spreading to Islamic world.

Knowledge of Islamic world and the Greek classical study were introduced to Europe via Spain already.

 

After this, European development shifted to the west and north of it along with the Age of Geographical Discovery, and Italy became an economical undeveloped area in the middle of the 17th century.

Three maritime republics of the Mediterranean Sea died out by the armed forces and cannon of Napoleon before long.

 

ヨーロッパの二つの衝撃

この内の一つ、大航海時代の始まりを既に見ました。

 

もう一つはルネサンスの始まりです。

衰退していくビザンティンからギリシャの古典研究がイタリアに流出して行き、交易で栄えた都市と相俟って、イタリアでルネサンスは開花した。

ビザンティンでは古来よりギリシャの古典研究が盛んで、それはイスラム圏にも波及していた。

既にスペイン経由でイスラムの学問とギリシャの古典もヨーロッパに紹介されていた。

 

この後、大航海時代と相俟ってヨーロッパの発展は西部と北部に移り、17世紀半ばにはイタリアは経済の後進地となっていた。

やがてナポレオンの軍隊と大砲によって地中海の三つの海洋都市国家は滅んだ。

 

 

5べレンの塔

< 5. Torre de Belen in Lisbon >         

< 5. リスボンのベレンの塔 >

 

Thing that I think about this history

Venice made the Byzantine Empire weak by the sea power, and got full prosperity, but it hastened the expansion of the Ottoman Empire and came to cut its throat.

Genoa was defeated by Venice, found its way into the west, and got good luck.

 

Small Dubrovnik didn’t depend on the sea power, and crossed between great nations by the trade and the diplomacy.

I think to be because this city had tolerance that absorbs different ethnic groups and heathenism since the beginning.

 

In the world, there are many examples that small countries fight desperately between great nations, such as Israel, Korean Peninsula and Vietnam.

But the success example of Dubrovnik was rare.

 

I introduce sightseeing spots from the next time again.

 

 

 

この歴史から思うこと

ベネチアは海軍力でビザンティンを弱体化させ東地中海で隆盛を極めたが、これがオスマンの膨張を早め、自滅に繋がった。

ジェノバはベネチアに負け、西方に活路を見出し、幸運を掴んだ。

 

小さいドゥブロブニクは海軍力に頼らず、貿易と外交で大国の間を渡り歩いた。

これは、この都市が元々異民族や異教を受け入れる度量があったことによるのだろう。

 

世界には、大国の狭間で小国が悪戦苦闘する例がイスラエル、朝鮮半島、ベトナムなど数多くある。

しかしドゥブロブニクの成功例は希有と言える。

 

次回より、観光地を紹介します。

 

Annotation 1: The Ottoman Empire of Islam isn’t included in the Islamic power.

 

Annotation 2: Reconquista was the continued war that Christian expelled Islamic power that invaded since 711 year from Iberian Peninsula.

The war began at 722, Portugal completed it by 1290, and Spain did it in 1492 by falling Granada.

Through this process, both Portugal and Spain kingdoms were formed.

 

注釈1: ここではイスラム教のオスマンをイスラム勢力に含めていない。

 

注釈2: レコンキスタは、キリスト教徒が、711年イベリア半島に侵入したイスラム勢力を駆逐するために行なった国土回復運動です。

戦いは722年に始まり、ポルトガルは1290年に、スペインは1492年グラナダ陥落で完了した。この過程で、ポルトガル・スペイン両王国が成立した。

 

参考文献

「イスラーム歴史物語」後藤明著、講談社刊。P177,193,227,245.

「東西文明の交流 3、イスラム帝国の遺産」島田襄平編集、平凡社刊。P199,215,217.

「東西文明の交流 2、ペルシアと唐」山田信夫編集、平凡社刊。P395,427.

「図説 世界の歴史4、ビザンツ帝国とイスラーム文明」J.M.ロバーツ著、創元社刊。P105,109,185.

「世界の歴史 8、イスラーム世界の興隆」佐藤次高著、中央公論刊。P277,313,331,341.

「世界の歴史 11、ビザンツとスラブ」井上浩一著、中央公論刊。P19,157,163,185,201.

「世界の歴史 16、ルネサンスと地中海」樺山紘一著、中央公論刊。P79,p115.

「歴史入門」 フェルナン・ブローデル著、太田出版。P49.

「中世西欧文明」ジャック・ル・ゴフ著、論創社。P123,217.

「クロアチアを知るための60章」柴宣弘著、明石出版。P47.

「旅名人ブックス84、クロアチア・・・」日経BP刊。P29.

「図説 大航海時代」増田義郎著、河出書房新社刊。P49.

「知の再発見 黄金のビザンティン帝国」ミシェル・カプラン著、創元社。

「人類の歴史200万年」リーダーズダイジェスト刊。P155,126.

「図説 ビザンツ帝国」根津由喜夫著、河出書房新社刊。P70.

「ヨーロッパ歴史地図」原書房刊。

「最新世界史図表」第一学習社刊。

「世界大百科事典」

「Wikipedia」の記事と多くの写真を使いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 17:  The wonder of Dubrovnik 3


クロアチア・スロベニアを巡って 17: ドゥブロブニクの不思議 3

 

     1

< 1. The Crusade was capturing Constantinople >

< 1. 十字軍によるコンスタンティノーブル攻略 >

 

Today, we look at huge wave undulation surrounding the Mediterranean Sea in those days.

The Keywords are the Byzantine Empire (the Eastern Roman Empire), Islamic power, the Crusade, the East-West trade and the Ottoman Empire.

 

今日は、当時の地中海を取り巻く大きなうねりを見ます。

キーワードはビザンティン(東ローマ帝国)、イスラム勢力、十字軍、東西交易、オスマンです。

 

 2

< 2. Byzantine territory. Blue dot is Dubrovnik >

< 2. ビザンティンの領土、青点がドゥブロブニク >

 

The Byzantine Empire (the Eastern Roman Empire)

In 476, the Western Roman Empire was ruined, but the Byzantine Empire continued in capital city Constantinople (Istanbul) in succession to the Roman Empire for approximately 1,000 years.

The emperors who reined over Church ruled over the territory having multiethnic population that lay astride Europe and Asia.

This Empire had got the usurpation of the throne many times, but was succeeded to as Christian country, exclusive Caesar’s country, and country that prided its biggest prosperity.

The Constantinople was Europe’s biggest city holding 400,000 people, and the prosperity was an object of envy from the east and west.

This prosperity was a blessing from the East-West trade between Europe and Asia.

 

However, it began to decline before long.

One factor was an antagonism between Europe and the Byzantine Empire, such as the birth of Holy Roman Emperor in the 10th century.

This might be due to the division between Catholic Church and Orthodox Church, and the Byzantine Empire becoming a Greek country.

At last, in 1202, the Constantinople was attacked by the fourth Crusade, and was plundered thoroughly and continued to decline after this.

This betrayal came at the instruction of Venice.

 

Other factor was largely a result of the rise of Asia power like Islamic power and the Ottoman Empire.

The Byzantine Empire fell by invasion of the Ottoman Empire in 1453.

 

ビザンティン(東ローマ帝国)

476年、西ローマ帝国は滅亡したが、ビザンティンはローマ帝国を継承して首都コンスタンティノープル(イスタンブール)で約千年間存続した。

教会の上に立つ皇帝が、多言語・他民族を抱えたヨーロッパとアジアに跨る領土を支配した。

この帝国は幾度も簒奪にあうが、キリスト教国、ローマ皇帝の国、最大の栄華を誇る国として継承された。

コンスタンティノープルは40万人を抱えるヨーロッパ最大の都市で、繁栄ぶりは東西から羨望の眼で見られていた。

この繁栄はヨーロッパとアジアの東西交易の賜であった。

 

しかしやがて陰り始めた。

一つは、神聖ローマ皇帝の誕生(10世紀)に見られる西欧とビザンティンとの対立でした。

これはカトリックと正教会の分裂、またビザンティンがギリシア語の国になったことが大きい。

ついに1202年、コンスタンティノープルは十字軍(第4回)に攻撃され徹底的に略奪され、この後、衰退の一途を辿った。

この裏切りはベネチア主導であった。

 

今一つは、アジア民族の勃興で、イスラム勢力とオスマンが大きかった。

ビザンティンは1453年オスマン帝国の侵攻により滅びた。

 

 

3

< 3. Territory of Islamic power. Blue dot is Dubrovnik. Red line is main route of the East-West trade. >

< 3. イスラム帝国の領土、青点がドゥブロブニク、赤線が東西交易ルート >

 

Islamic power

Islam was born in the Arabian Peninsula in the early seventh century, and Islamic power spread from the Iberian Peninsula to Iranian Plateau such as surrounding Europe at the end of the eighth century.

Furthermore, the Islamic power came to rule the west Mediterranean Sea.

 

During the 11th century and the 12th century, Christianity countries performed the Crusade for recapture of Palestine and fought against Islamic power.

Since about the 11th century, Muslim has begun to sell spice of the Indian Ocean to the Maritime republics of Italia via Egypt and the Red Sea.

This East-West trade to Europe continued even if it was broken off by wars.

In Europe, the demand for spice increased due to its growth since about the 12th century.

 

イスラム勢力

イスラム教はアラビア半島で7世紀初めに誕生したが、イスラム勢力は8世紀の終わりにはイベリア半島からイラン高原まで、ヨーロッパを囲むように拡大した。

さらにイスラム勢力は西地中海の制海権も握るようになった。

 

11~13世紀、キリスト教国はパレスチナの奪還を目指して十字軍遠征を行いイスラム勢力と戦った。

11世紀頃から、イスラム人はエジプト・紅海経由でインド洋の香辛料をイタリアの海洋国家に売り始めた。

戦争で途切れることはあっても、このヨーロッパとの東西交易は続いた。

12世紀頃から西欧は成長を始め、香辛料などの需要が旺盛になっていた。

 

 

4

< 4. Territory of Ottoman Empire. Red is Dubrovnik >

< 4. オスマンの領土、赤点がドゥブロブニク >

 

The Ottoman Empire

Turk who came over from the Central Asia began to take on power in Iran and Asia Minor.

The Ottoman Empire became powerful at the end of the thirteenth century, destroyed the Byzantine Empire later, and renamed the capital to Istanbul.

Before long, it moved toward the north in Balkan Peninsula and surrounded Vienna of Austria in 1529.

It was defeated by the Venetian navy at first, but controlled the sea of the Mediterranean Sea in the 16th century.

 

However, in the end of the 16th century, it abandoned Balkan Peninsula and reduced its rule areas, due to the offensive by Europe and the moving toward the south of Russia.

 

 

オスマン

中央アジアからやって来たトルコ人がイランと小アジアで勢力を持ち始めた。

13世紀末、オスマントルコが強大となり、後にビザンティンを滅ぼし、その首都をイスタンブールと改称した。

やがてオスマンは、バルカン半島を北上し1529年にはオーストリアのウィーンを包囲した。

初めこそベネチア海軍に負けたが、16世紀には地中海の制海権を握った。

 

しかし16世紀末にはヨーロッパの攻勢もあり、バルカン半島を放棄し、さらにロシアの南下により支配地を減らしていった。

 

 

5

< 5. Spice >

< 5. 香辛料 >

 

What divided the life and death of the three maritime republics

As for Dubrovnik, the change of the ruler of Balkan Peninsula was important.

As for Genoa and Venice, the movement of Egypt that was a linchpin of the East-West trade was important.

 

On the next time, we will see how this change of scenery influenced Dubrovnik and Europe.

 

3ヵ国の海洋都市国家にとって何が生死を分けたのか

ドゥブロブニクにとっては、バルカン半島の支配者の交替が重要でした。

ジェノバやベネチアにとっては、東西交易の要であったエジプトの動向が重要でした。

 

 

次回、この状況の変化がドゥブロブニクとヨーロッパにどう影響したかを見ます。

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 16:  The wonder of Dubrovnik 2


クロアチア・スロベニアを巡って 16: ドゥブロブニクの不思議 2

1

< 1. Venice of the 18th century >

< 1. 18世紀のベネチア >

 

Today, I introduce the vicissitudes of Maritime republics around Italy in the medieval Mediterranean Sea.

We can see the nations tossed about by history, and the big undulation there.

 

今日は、中世の地中海、イタリアを中心にした海洋国家の盛衰を見ます。

そこからは歴史に翻弄される国家と大きなうねりが見えてきます。

 

2 期間

 

< 2. The periods that these Maritime republics flourished in >

< 2. 海洋都市国家の活躍年代 >

Maritime republics flourished

These are Amalfi, Pisa, Ancona, Genoa, Venice, and Ragusa.

 

Amalfi

It had participated actively first because it had belonged to the Byzantine Empire (Eastern Empire) from old times.

It played an active part in East-West trade by way of Egypt or Constantinople from the 9th to 10th century.

They first used a maritime law and a magnet in Europe.

However, in the 12th century, it was conquered by Norman that came from the north and finished.

 

 

駆け巡った海洋国家

それはアマルフィ、ピサ、アンコーナ、ジェノバ、ベネチアそしてラグーザです。

 

アマルフィ

ここは元々ビザンティン帝国(東ローマ帝国)に属していたことにより最初に活躍した海洋都市国家で、9~10世紀、エジプト、コンスタンティノープルとの東西交易で活躍した。

彼らはヨーロッパで最初に海事法と磁石をいち早く使っていた。

しかし12世紀、北方のノルマン人に征服され終焉を迎えた。

 

Pisa

It was an important military base and a trade place in the Rome Empire times.

It droved Islam power in the beginning of the 11th century and went into the west Mediterranean Sea and became a Maritime republic.

It participated in the Crusades later, expanded its territory, and got wealth by East-West trade.

However, it was beaten by Genoa that had competed for hegemony in the 13th century, subsequently was conquered by Firenze, and finished.

 

ピサ

ここはローマ帝政期、重要な軍事基地であり交易地であった。

11世紀の初めイスラム勢力を追い払って西地中海に進出し都市国家(コムーネ)となる。

後に十字軍に参加し、東方貿易でも富を得て領土を拡大した。

しかし13世紀、覇権を争うジェノバに敗戦し、次いでフィレンツェに征服され終わった。

 

Ancona

It was an important naval port facing the Adriatic Sea, and continued being ruled by many peoples.

After that, it belonged to the Byzantine Empire and became a Maritime republic since the 11th century.

It often conflicted with Venice, was always concluded an alliance to the Byzantine Empire and Ragusa, and participated in the Crusade.

In the 16th century, it was incorporated in the Rome Papal domain and lost the autonomy.

 

At this point in time, the remaining marine republics became Venice, Genoa, and Ragusa.

 

 

アンコーナ

ここはアドリア海に面した重要な軍港であったが、多くの民族に支配され続けた。

その後、ビザンティンに属し、11世紀に海洋都市国家となった。

ベネチアとはしばしば衝突し、常にビザンティン、ラグーザと同盟関係にあり、十字軍にも参加した。

16世紀、ローマ教皇領となり自治権を失った。

 

この時点で残った海洋国家はベネチア、ジェノバ、ラグーザとなった。

 

3ジェノバ

< 3. A power relationships of Genoa >

< 3.ジェノバの勢力図 >

 

Genoa

It prospered as a seaport town from the ancient times, went into the west Mediterranean Sea along with fighting against the Islam navy, and became a Maritime republic since the 11th century.

By participating in the Crusade, since the late half of the 13th century, it extended its influence in the Black Sea, the Aegean Sea and the east Mediterranean Sea, and built closely the relations with Spain, North Africa, and the northwest Europe.

For one century from the middle of the 16th century, Genoese moneylenders became bankers of Spanish kings, and they achieved the height of prosperity.

Their activity led the Age of Discovery like Columbus from Genoa.

Before long, it became a French possession, and finished at the beginning of 19th century.

 

ジェノバ

ここは古代から海港都市として栄え,11世紀以降、イスラム海軍と戦いつつ西地中海に進出し都市国家となった。

十字軍への参加により、13世紀後半から黒海、エーゲ海と東地中海にも勢力を広げ、スペイン、北アフリカ、北西ヨーロッパとの関係も緊密化した。

16世紀半ばからの1世紀間、ジェノバの金融業者はスペイン王の御用銀行家となり、最盛期を迎えた。

ジェノバ出身のコロンブスのように彼らの活躍が大航海時代をリードした。

やがて19世紀初め、フランス領となり終焉を迎えた。

 

 4ベネチア

< 4. A power relationships of Venice >

< 4.ベネチアの勢力図 >

 

Venice

It continued being exposed to invasions of other ethnic group, and it avoided the menace of Franks in the beginning of the 9th century, and started building towns in the coast wetlands zone.

It performed the naval buildup, and took control of the Adriatic Sea (Dalmatian seashore).

By sending reinforcements to the Byzantine Empire, it was given a tax exemption privilege by the Byzantine Empire, and firmly established the superiority in the trade of the east Mediterranean Sea.

It won by sea fights in Genoa that it conflicted at the end of the 14th century, and attained the supremacy of the east Mediterranean Sea.

Furthermore, it got the wealth by expeditions of the Crusade, grasped fully East-West trade between Europe and orient from the 13th century to the 15th century, and got vast wealth.

However, when the Ottoman Empire gained power, it was robbed of the territory of Venice, and was not able to stop own fall even if it won to the Ottoman by the Battle of Lepanto with the union of Spain in the end of the 16th century.

At last, it closed the history with Napoleon occupation in the end of the 18th century.

 

ベネチア

ここは異民族の侵入にさらされ続け、9世紀初め、フランク族(フランス)の脅威をさけて沿岸湖沼地帯に町づくりを開始した。

海軍増強を行ってアドリア海(ダルマチア海沿岸)を制し、援軍の提供によりビザンティン帝国から免税特権を与えられ、東地中海貿易で断然優位に立った。

競合するジェノバに14世紀末、海戦で勝利し東地中海の覇権を奪取した。

さらに十字軍遠征により富を得て、13~15世紀、オリエントと西欧を結ぶ東西交易を一手に握り、莫大な富を得た。

しかしオスマン帝国が台頭してくるとベネチアの領土は奪われ、16世紀末にスペインと組んだレパントの海戦でオスマンに勝利しても凋落を止めることは出来なかった。

ついに18世紀末、ナポレオンの占領とともに歴史を閉じた。

 

5ラグーザ

< 5. A power relationships of Ragusa >

< 5. ラグーザの勢力図 >

 

Ragusa (Dubrovnik)

I omit this history because I introduced it last time.

 

After all, three countries terminated in the Napoleon occupation together.

 

We will notice something here

The Activity of the three countries was restricted by the Byzantine Empire, Islam power, the Crusade, the East-West trade, and the Ottoman Empire mainly.

When we understand it, we can look at the skillfulness in the way of life of Dubrovnik.

 

This continues next time.

 

 

ラグーザ(ドゥブロブニク)

前回、この歴史を紹介しましたので省きます。

 

結局、3カ国は共にナポレオンの占領で終わった。

 

ここであることに気がつく

3カ国の活躍は、主にビザンティン、イスラム勢力、十字軍、東西交易、オスマンに規定されていたことです。

これがわかると、ドゥブロブニクの生き様の妙が見えてきます。

 

次回に続きます。

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 15:  The wonder of Dubrovnik 1


クロアチア・スロベニアを巡って 15: ドゥブロブニクの不思議 1

 

1

< 1. The port of Dubrovnik  >

< 1. ドゥロブニクの港 >

 

How did this small city-state survive between great powers?

It was the history that this city-state had continued demanding freedom.

From today, I will chase the wonder of this rare marine city-state.

 

この小さな都市国家が如何にして大国の狭間で生き延びることが出来たのだろうか?

それは自由を求め続けた歴史でもありました。

今日から、この希有な海洋都市国家の不思議を追います。

 

Preface

When I visited this old city, I was first surprised at the huge rampart being disproportionate to the small town.

In the Middle Ages, there were a lot of free cities and seafaring countries, but there quietly was this small marine city-state that enjoyed freedom in a corner of tumultuous Balkan Peninsula.

The activity of Dubrovnik was indirectly connected with European Renaissance and the Age of Discovery.

For over 1000 years, there were various magnificent dramas of the clash of civilizations among Europe, Asia, and Africa, and the trade that extended to the Indian Ocean from the Mediterranean Sea.

 

I survey Dubrovnik that lived in the Middle Ages

There are romances between people and sea, and a hint to peace here.

 

 

はじめに

私がこの旧市街を訪ねて最初に驚いたのは、小さな町に不釣合いな巨大な城壁でした。

中世、自由都市や海洋国家は数多くあったが、この騒乱のバルカン半島の片隅で人知れず、自由を謳歌した小国があった。

ドゥロブニクの活躍はヨーロッパのルネサンスと大航海時代と間接的につながっていました。

そこには、ヨーロッパとアジア、アフリカの文明の衝突、さらに地中海からインド洋に跨る交易の千年に及ぶ壮大なドラマがありました。

 

これから中世世界に生きたドゥロブニクを概観します。

そこには人々と海を巡るロマン、さらには平和へのヒントがあります。

 

 

 2海洋国家

 

< 2. These seafaring countries of Italia were leaders of the Mediterranean Sea in the Middle Ages >

< 2. 中世、地中海の覇者となったイタリアの海洋共和国 >

 

Explanation 

A fig.: It shows 8 seafaring countries of Italy and the Adriatic Sea.

Red circles are 3 countries that played an active part in the sea until the last.

 

B fig.: The length of Venice main island is about 5 km.

C fig.:   The width of Genoa harbor is about 3 km.

D fig.:   The castle width of Dubrovnik that was capital of Republic of Ragusa is about 500 m.

 

Dubrovnik was very small compared with two great powers Venice and Genoa.

 

解説:

A図: イタリアとアドリア海にあった8カ国の海洋共和国を示す。

赤丸は最後まで活躍した三つの共和国です。

B図: ベネチアの本島、その長さ約5km。

C図: ジェノバの港、その巾は約3km。

D図: ラグーサの首都ドゥブロブニクの城砦、その巾は約500m。

 

ドゥブロブニクは二大強国ベネチアとジェノバに比べて遥かに小さかった。

 

 

3船2

 

< 3. A sailing ship that started to play an active part in the 15th century >

< 3. 15世紀に活躍し始めた帆船 >

 

The history of Dubrovnik

In the about 7th century, this town’s history began from a Roman that lived at current seaside across a small canal from Slav of the mountainside.

In the 13th century, both people filled up the canal and merged.

 

ドゥブロブニクの歴史

7世紀頃、町は、今の旧市街の海側にローマ人、山側にスラブ人が小運河を隔て住み着いたことに始まる。

13世紀、両者は運河を埋め立てて統合した。

 

 

4名称未設定-5

 

< 4. Around the Adriatic Sea in the middle 14th century >

< 4. 14世紀中頃のアドリア海周辺 >

 

After being ruled by many peoples, from the 6th century, Dubrovnik was dominated by Byzantine Empire, subsequently Venice (1204-1359), Hungary (1359-1526), and Ottoman Turkey.

From the 12th century, Dubrovnik traded between Italy and Balkan, and carried industrial products from Italy, or raw materials from Balkan.

The large ship appeared from the 13th century, and Dubrovnik had large merchant ships more than 180 in the 16th century.

The last of the 15th century, when Dubrovnik was dominated by Ottoman Turkey, its overland trade in Balkan became more active.

Furthermore, Dubrovnik’s sea trade spread from the Adriatic Sea and the Mediterranean Sea to the Black Sea, the Atlantic, and the Indian Ocean.

And Dubrovnik put the consulates in 50 cities and reached its peak.

 

幾多の民族に支配された後、6世紀からビザンティン帝国、次いでベネチア(1204‐1359),ハンガリー(1359‐1526)、やがてオスマン・トルコの庇護下にあった。

12世紀から、ドゥブロブニクはイタリアの諸都市とバルカンの交易を担い、イタリアからは工業製品を、バルカンからは原料を運んだ。

13世紀からは大型船が登場し、16世紀には180隻を超える大型商船を持った。

15世紀後半、オスマン・トルコの支配下に入ると、バルカンとの陸上交易が活発になった。

さらに海上交易の範囲はアドリア海や地中海だけでなく,黒海、大西洋、インド洋にも及び、50都市に領事館を置き、全盛期を迎えた。

 

 

5-旧総督邸

 

< 5. Rector’s Palace >

< 5.旧総督邸 >

 

In 1359, since Dubrovnik was dominated by Hungary, it came to reject a governor accredited from the imperial country.

And Dubrovnik nobles mutually elected their governor.

After this, they had been promoting the domestic administration and diplomatic policy as an independent country.

All nobles 18 years or older performed legislation and picked the execution member.

They limited governor’s tenure to 1 month and avoided dictatorship.

The commoner who supported the economy wasn’t able to participate in it, but an aristocratic democratic system was performed.

This situation was made possible mainly due to the huge rampart and a large amount of contribution.

 

But it began to decline before long.

When the Age of Discovery began on the Atlantic side, the importance of the east Mediterranean Sea decreased.

Dubrovnik took part in two wars of Europe in the 16th and the 17th century and suffered big damage.

Furthermore, it received a crushing blow by a major earthquake of 1667, and the overland trade reduced when the influence of Ottoman Turkey began to drop.

Finally, Dubrovnik’s republic was extinct by the occupation of Napoleon in 1808 and it was dominated by the Austria territory in 1814.

 

This continues next time.

 

 

1359年、ハンガリー庇護下に入ると、それまでの宗主国からの総督派遣を退け、ドゥブロブニクの貴族層が自らの総督を互選するようになった。

これ以降、独立国として内政・外交政策を推進していった。

18歳以上のすべての貴族が立法を行い、執行メンバーを選出した。

彼らは総督の任期は1ヶ月とし独裁を避けた。

経済を支えた平民は参加出来なかったが、貴族的民主制を行った。

これを可能にしたのは、如何なる攻撃にも耐える巨大な城壁と多額の貢納でした。

 

しかしやがて陰りが見え始める。

大西洋側で大航海時代が始まると、東地中海の重要度は低下していった。

ドゥブロブニクは16、17世紀とヨーロッパの戦争に加担して大きな損害を被った。

さらに、1667年の大地震で壊滅的打撃を受け、陸上交易もオスマン・トルコの勢威が下降し始めると縮小していった。

最後に1808年ナポレオンの占領によって共和国は消滅し、1814年にはオーストリア領となった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 14:  Seafaring country Dubrovnik 4


クロアチア・スロベニアを巡って 14: 海洋都市ドゥブロブニク 4

 

1-DSC00325

< 1. A cross on Mt. Srd >

< 1. スルジ山頂の十字架 >

 

I introduce the last of my stroll around Dubrovnik.

Those are alleys, outdoor market, and ice cream shop etc. 

 

今日は、ドゥブロブニク散策の最後の紹介になります。

路地や市場、アイスクリーム店などを紹介します。

 

The cross of photo 1 was rebuilt after being destroyed by an independence war of 1991, and in the past, Napoleon built it when he occupied here in the early 19th century.

I didn’t feel such a misery in the white cross shining against a background of blue sky and blue sea.

 

写真1の十字架は、19世紀初めナポレオンがここを占領した時に立てた物が、1991年の独立戦争で破壊され、再建されたものです。

青い空と青い海に映える白い十字架にそのような悲惨さを感じさせません。

 

 

2拡大地図4

 

< 2. Our sightseeing route >

< 2.私達の観光ルート >

Legend: Blue lines are our sightseeing routes, and the alphabets indicate approximate photography points.

 

凡例: 青線は散策ルートで、アルファベットは写真の撮影地点を示しています。

 

 

3A DSC00516

< 3. A view of an alley from point A >

< 3.Aから見た路地 >

 

4B

< 4. Serbian Greek Orthodox Church and an alley in front of it >

< 4. セルビア正教会とその前の通り >

 

This church is located in point B.

There is a synagogue in this Dubrovnik, too.

 

この教会はBの所にあります。

このドゥブロブニク内にはシナゴーグも1ヵ所あります。

 

 

5C

< 5. Outdoor market >

< 5.青空市場 >

 

This is named Gunduliceva Square, and is located in point C.

This was small, but we can enjoy shopping for vegetables and fruit, homemade foods, souvenir.

 

ここはグンドゥリチェヴ広場で、Cにあります。

小規模だが、野菜や果物、自家製食品、土産物などを探すには楽しいところです。

 

 

6D

< 6. I go an old port from Luža Square >

< 6. ルジャ広場から旧港に出る >

 

Upper photo: Going through a tunnel at the left of the tower, we can go to the old port.

Lower photo: Pleasure boats are going in and out very often.

The pleasure boats from this old port go around the outside of Dubrovnik or the island opposite.

 

上の写真: ルジャ広場の時計台横のトンネルをくぐると旧港に出ます。

下の写真: 遊覧船が頻繁に出入りしている。

この旧港からドゥブロブニクの外側や向かいの島への遊覧船が出ている。

 

7E

< 7. An uphill alley and an ice cream shop >

< 7. 山側の路地とアイスクリーム店 >

 

This alley is located about point E.

There is this shop just on the left side of this alley.

I visited this shop about 10:30 on Wednesday, but there were many children here.

 

おおよそEの位置だった思います。

アイスクリーム店はこの路地の直ぐ左側にあります。

この店に訪れたのは水曜日の10:30頃だったが、子供達がなぜかたくさんいました。

 

 

8破壊

< 8. Destruction and rebuilding by the independence war >

< 8.独立戦争時の破壊と再建 >

 

Upper fig.: A bulletin board indicating the situation of the destruction.

The black marks indicate damaged spots by being shot.

 

Lower fig.: A view of roofs from rampart.

The reason for the difference in luster of those roof tiles is because only damaged tiles were changed for new things.

 

上図: 破壊の状況を示す掲示板。

黒の印が被弾で破損した箇所。

 

下図: 城壁の歩道から見た屋根。

屋根瓦に光沢の有無があるのは、破損した瓦を新しいものに交換した為です。

 

Croatian war and Dubrovnik

In June 1991, Slovenia declared the independence first and subsequently Croatia also did.

And a battle began between Slovenian Territorial Defense in that Serbia is a main and Slovenia, but was finished in ten days.

However, Croatian war continued for four years, because Croatia had a border with Serbia and had many Serbians in the country.

And, in December 1991, suddenly many bullets poured in Dubrovnik, and it continued for seven months.

At its peak, 2000 bullets fell in Dubrovnik in a day.

After the independence, the restoration advanced, Dubrovnik was authorized again as the world heritage and this is busy with visitors now.

 

This continues next time.

 

 

クロアチア紛争とドゥブロブニク

1991年6月、スロベニアが最初に独立を宣言し、次いでクロアチアも行った。

独立に反対するセルビアが牛耳る旧ユーゴスラビア連邦軍とスロベニアで戦闘が始まったが, 10日間で終了した。

しかし、クロアチアはセルビアと接し、国内にセルビア人もいたので、戦争は4年間も続いた。

そして1991年12月、突然、ドゥブロブニクに砲弾が浴びせられ、1日で2千発が飛来し、7ヶ月間包囲された。

独立後、復旧が進み、再度世界遺産に認定され、今は観光で賑わっている。

 

次回に続きます。

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 13:  Seafaring country Dubrovnik 3


クロアチア・スロベニアを巡って 13: 海洋都市ドゥブロブニク 3

 

       1 m   

< 1. A view of Saint Blaise church from Luža Square >

< 1.ルジャ広場から聖ヴラホ教会を望む >

 

Today, I introduce the inside of Dubrovnik.

This is a small fort city, but I seem to have slipped back in the Middle Ages.

 

今日は、いよいよ内部を紹介します。

小さな城砦都市ですが、すっかり中世にタイムスリップしたようです。

 

 

 2 拡大地図2

< 2. Our sightseeing route >

< 2.私達の観光ルート >

Legend:

A yellow line shows our walking route of the rampart.

Blue lines are sightseeing routes that I introduce this time, and these alphabets indicate approximate photography point.

 

凡例:

黄色線は城壁の散策ルートです。

青線は今回紹介する散策ルートで、アルファベットは写真の撮影地点を示しています。

 

 

 3a

< 3. The inner side of Pila Gate 1 >

< 3.ピレ門を抜けた所1 >

 

The front side is Placa street of the main street.

Once, this street was a strait, and the Slav lived in left side of it and the Latin lived in the right side.

But it was filled in the 12th century.

The right side is seen Big Onofrio’s fountain.

A church and a tower of Franciscan monastery line up on the left side from the near side.

 

正面はメイン通りのプラツァ通りです。

昔、ここは海峡で左(山)にスラブ人、右(海)にラテン人が住んでいたが、12世紀に埋め立てられた。

右手にオノフリオの大噴水が見える。

左手に救世主教会とフランシスコ修道院の鐘楼が見える。

 

 

4b-c

< 4. The inner side of Pila Gate 2 >

< 4.ピレ門を抜けた所2 >

 

B: Chrach. Height rampart was seen in the left.

C: Big Onofrio’s fountain.

Water was valuable in this Dalmatian area, therefore water was higher than wine.

Thus, this water supply installation was built by irrigating from a back mountain being 12 km away from in the 15th century.

 

B: 救世主教会。左に高い城壁が見える。

C: オノフリオの大噴水。

このダルマチア地方一帯は水が貴重で、ワインよりも高かった。

そこで15世紀に12km離れた山側から水を引きこの水道施設を造った。

 

 

 5d-f

< 5. Franciscan monastery >

< 5.フランシスコ会修道院 >

D:   The courtyard side of the corridor. This corridor is Romanesque of the 14th century.

E:   The wall side of the corridor.   The frescoes show a life of St. Francesco.

F:   The courtyard.

Toward this corridor, there is a pharmacy that followed for 700 years, and we visited it.

This is the third oldest in existing pharmacy in Europe, and it indicates Dubrovnik was so advanced city of the welfare.

 

D: 回廊の中庭側。この回廊は14世紀のロマネスク様式です。

E: 回廊の壁側。壁画は聖フランチェスコの生涯が描かれている。

F: 中庭。

この回廊に面して、700年も続く薬局があり、見学しました。

現存するヨーロッパで三番目に古い薬局であり、如何にドゥブロブニクが福祉の先進都市だったかがわかる。

 

 

 6g-h

< 6. Placa street >

< 6. プラツァ通り >

G: A bell tower of Luža Square is in the east direction.

H: A tower of Franciscan monastery is in the west direction.

 

G: 東方向にルジャ広場の鐘楼を望む。

H: 西方向にフランシスコ会修道院の鐘楼を望む。

 

 

 7i-j

< 7. Luža Square 1 >

< 7.ルジャ広場 1 >

I:   The bell tower.

If go through a gate at the left of the tower, we can go to the old port.

 

J: Palaca Sponza.

This was built as a customs house in the 16th century, and valuable documents have been kept since the twelfth century in here.

 

I: 鐘楼。

鐘楼の左にある門を抜けると旧港に出ます。

 

J: スポンザ宮殿。

ここは16世紀に建てられた税関で、12世紀からの貴重な文書が保管されている。

著名な歴史家ブローデルはここの資料にヒントを得て「地中海」を書いたと言われている。

 

 8k-l

< 8. Luža Square 2 >

< 8.ルジャ広場 2 >

K: Roland statue and Saint Blaise church.

A knight statue in the center is Roland statue that symbolizes freedom and independence of European city.

The length between the elbow of the right arm and the wrist was the standard of the length of the commercial transaction.

The church to enshrine the saint in the front was damaged by a major earthquake in 1667, and a fire at later, and was rebuilt in the baroque in the 18th century.

An earthquake often hit this place, and the dead of this big earthquake was more than 5000 people.

Many buildings were rebuilt, but the rampart had only suffered slight damage.

 

L: I overlook Placa street in the west direction.

 

 

K: ローラント像と聖ヴラホ教会。

中央の騎士像が、ヨーロッパ都市の自由と独立を象徴するローラント像です。

右腕の肘から手首の長さが、商取引の長さの基準とされていた。

正面の聖人ブラホを祭る教会は1667年の大地震と火災で損傷し、18世紀にバロック様式で再建された。

この地は度々、地震に見舞われ、この大地震で5000名以上が死亡した。

多くの建物は再建されたが、城壁はわずかな被害にとどまった。

 

L: 西方向にプラツァ通りを望む。

 

 

 9n-o

< 9. Dubrovnik Cathedral >

< 9.大聖堂 >

N: The outward appearance.

O of the right side: The inside.

A picture in the middle is ” Assumption of Virgin Mary ” of a great master Titian in the golden age of Renaissance.

He is a representative painter of the Venetian School, and there are a lot of pictures in the Prado Museum of Art in Madrid.

El Greco of Toledo learned painting in his youth in Venice.

This Cathedral was Romanesque first, but, after the big earthquake, was rebuilt in the baroque.

 

 

N: 外観。

右側O: 内部。

中央の絵は盛期ルネサンスの巨匠ティツィアーノの「聖母被昇天」です。

彼はベネチア派の代表的画家で、スペインのプラド美術館にもたくさん絵があります。

トレドのグレコは若い頃、ベネチアで絵を学んでいました。

この大聖堂は最初ロマネスク様式であったが、大地震後、バロック様式で再建された。

 

 10p-q

< 10. in the front of the Cathedral >

< 10.大聖堂の前から >

P: I overlook Luža Square from the front of the Cathedral. 

Q:   Knezev dvor.

Governor-general lived in this residence, and was the center of the politics of the Republic of Ragusa that Dubrovnik was central of.

 

P: 大聖堂前からルジャ広場を望

む。

Q: 旧総督邸。

ここは総督が住んだ邸宅で、ドゥブロブニクを中心とするラグーサ共和国の行政府が置かれ、政治の中枢だった。

 

There were many tourists in here, and groups of tourists of Chinese and Korean were seen, too.

This is an indispensable port of Adriatic Sea cruises.

 

This continues next time.

 

 

ここは、さすがに観光客が多く、中国系や韓国の団体客もいました。

ここはアドリア海クルーズの無くてはならない寄港地です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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