Series: The society and the information

社会と情報 69: 戦った報道 26 最後に


  1明治時代の新聞売り   

< 1. 明治時代の新聞売り >

 

これまで、明治から昭和初期まで、日本の報道が激動の社会とどう関わったかを見ました。

あれほど活躍した報道がいとも簡単に国民を裏切ったこと、またその背景も見てきました。

今日はこのテーマの最後で、まとめになります。

 

この連載の概要

「戦った報道 1~6」: 明治維新から太平洋戦争までの道のりと報道の役割を概観した。

「戦った報道 7~11」: 具体的に、1920~1930年代の新聞の活躍と転向を追いました。

「戦った報道 12~26」: なぜ新聞が転向したかを、軍事大国化、財政・経済、人々の暮らし、軍事戦略、政治、ファシズムの観点から見ました。

各記事を見るにはカタゴリーかテーマ、ラベルで「社会と情報」を選択するのが便利です(YAHOOはなし)。

 

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新聞が転向した理由のまとめ

既に見たように日本はファシズム化し、軍のもとに一丸となって戦争へと進んだ。

このファシズム化は社会を沸騰させ、その過程で起きたのが報道への弾圧であり、新聞の転向でした。

これは、鍋料理を火に掛け、具がぐつぐつと煮えたことに例えられる。

「具が出来たから、鍋は出来た」と言えるが、「具のせいで、スープが熱くなった」とは言わない(具が新聞、スープと火は・・)。

 

ファシズム化は人類社会の根にあって、民族紛争を悪化させ、社会が戦争に向かう時、今も起こり続けています。

これは、暴力に頼る集団興奮状態で、悪化した社会状況とある組織文化を持った社会におき易い。

 

戦争は、例えばベトナム戦争のように、いくつものステップを踏み誤り、ついには引き戻せなくなって起きる。

これには数多くの大統領が関わっているが、その発端はトルーマン・ドクトリン(1947年)にあり、その後、徐々に抜け出せなくなり1960年に戦闘が始まった。注釈1.

 

今まで見てきた戦前の社会変化を「戦争の甘い罠」にかかった状態と言えます。

これは私の連載「戦争の誤謬」「私達の戦争」などで詳しく説明しています。

ある社会が一度戦争で味を占めると、社会の主要な要素(国民感情や経済、軍隊など)が戦争を常態化させる力として働くようになります。

残念ながら、多くの社会は敗戦で徹底的に叩かれるまで気づかないことが多い。

稀に、大失敗しても気づかない社会もあれば、その途中で、その罠から脱する社会もあります。

 

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どう理解すれば良いのだろうか

残念ながら、歴史を辿り、日本が戦争に向かう道筋を理解したとしても、あなたの心は晴れないでしょう。

かつて朝日新聞の幹部が、「我々が道を踏み誤ったのは、1918年の米騒動の折、白虹事件で政府に折れた」ことだったかもしれないと記していた(弾圧の初期)。

確かに、新聞が何処で踏みとどまれば良かったのか、また本当にそのようなことが出来たかは難題です。

 

今、私はファシズム化と太平洋戦争への道を振り返り、あの事件、あの法案、あの人物の誤断がなければ、また公の場で誤りを指摘した人が幾人かでもいたのだから、国民の意識が高ければ防げたのではないかと思うことがある。

しかし、それすら過去の選択や予期せぬ出来事の積み重ね、さらには社会や文化の成熟度により、選択の余地がなかったようにも思える。

 

例えば、昭和恐慌を手際良く収めた高橋蔵相が次いで行った通貨膨張策によって際限のない軍事費膨張が起きたと批難されることがある。

彼はこれを防ごうとして、軍部の恨みを買い二・二六事件において銃弾に倒れた。

彼が通過膨張策を採用しなかったら軍部の独走が起こらなかったと思うこともあるが、彼は天才が故に誰よりも早く行っただけで、所詮、誰かが似たことを行っただろう。

 

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< 4.言論弾圧 >

 

私達は何を学ぶべきか

 

新聞の転向に限れば、一番の罪は当時の朝日と毎日新聞にあっただろう。

なぜならこの両新聞が最大の影響力を持ち、反権力代表としてデモクラシーをリードして来たのだから。

 

しかし我々がこの過ちを繰り返さない為には、数々の言論弾圧を推し進めた政府・議会、それを国民が看過した誤りに気がつかないといけない。

政府による報道支配は、世界中、ファシズムや戦争開始時には必ず起きているのだから。

かつて米国の上院議員が言った「戦争が起こった時、最初の犠牲者は真実である」と・・・

注釈2.

 

結局、一人ひとりが事の正否、ここでは社会が悪化する要因を知って常日頃からその事を注視するしかありません。

 

今まで見てきた戦前の社会悪化(ファシズム化)の要因をいくつか挙げます。

項目が左から右にいくほどより深い要因を示しています。

 

拡大した貧富の差< 逆累進性の苛酷な税(低い所得税)< 膨大な軍事費、工業優先、普通選挙未完。

 

社会運動弾圧< 治安維持法、不敬罪、憲兵の司法警察権 < 未熟な人権意識が労働運動弾圧に繋がった。

(欧米は20世紀初めに累進課税と労働権擁護を行っていたので、1920年代、労働運動を敵視することがなかった)

 

言論支配< 検閲、新聞紙条例、軍の情報支配 < 「言論の自由」「公正な報道」の価値認めず。

(島国日本にとって軍部が国内と海外の情報を牛耳ったことは致命傷だった)

 

腐敗政治< 利権争いと汚職の藩閥政治から金権体質の政党政治へと続いただけだった < 未熟な民主主義、低い政治意識(金や地縁で決まる投票行動)。

 

軍部の専横< 貧弱な国家戦略、軍の身内に甘い処分、陸軍と海軍の反目、統帥権による文民統制欠如 < 縄張り根性(日本の組織文化)、憲法不備(天皇の大権)と拡大解釈。

 

これらの要因を当時、取り除くことが出来れば大事に至らなかったかもしれない。

しかし、今も遅れたままの法意識と政治意識の現状で当時どれだけのことが出来ただろうか。

 

また、これら要因やファシズムについて異なる意見もあります。

中には、人々に心地良い簡単明瞭な答えが準備されています。

残念ながら、これら答えや歴史認識には歪曲され、都合良く解釈され、党利党略で歪められたものがあります。

これらの正否を確認するには、合理的な疑いを持ち、自ら日本の歴史や社会を知る努力が必要です。

 

結局、行き着く先は、我々が社会の真実を歪められることなく知るにはどうすれば良いか、その為には何が重要かを理解することです。

それがこの連載「社会と情報」のテーマでもあります。

 

 

ここで問題です

 

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< 5. NHK受信契約者数と新聞部数の推移 >

凡例: 黄線は満州事変を示しています。

解説: 日本のラジオ放送は国営の放送局が1925年から始めました。

この放送局の初代総裁は後藤新平で、彼は台湾総督府長官、満鉄総裁などを歴任した植民地経営者であり、右翼を使った新聞社妨害の噂もあり、正力が読売を買収する際に多額の資金援助もしていました。

 

当時、そのような国のラジオ局が放送を始め、人気が出てくると既存の反権力新聞と御用新聞にはどのような影響が出ると思われますか。

ファシズム化が進んでいる状況で、どちらが危機的状況になり、どちらに追い風が吹くでしょうか?

そのことにより何が起きたかは、現実の証拠を挙げなくても、多くは察しが付くはずです。

このように、いくつかの証拠を合理的に疑うことで、真実が見えて来るはずはずです。

 

 

今回で、「戦った報道」シリーズを終え、一端休息の後、また別のテーマで始めるつもりです。

皆さま、長らくお読み頂き頂いたことを心から感謝します。

 

 

注釈1: 「戦争の誤謬7,8:ベトナム戦争1,2」「社会と情報8~11:**」にてベトナム戦争を説明しています。

 

注釈2: これは米国が第一次世界大戦の参戦を決めた時に、米国のグラハム上院議員が発言した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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社会と情報 68: 戦った報道 25


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< 1. 現在も繰り返されるファシズム >

 

前回、軍人が暴走する様子を見ました。

今回は最も重要な「日本はなぜファシズム化したのか?」を検討します。

 

はじめに

ファシズムを広辞苑より引用します。

「全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」

 

ファシズム化の三段階を想定します。

A: 人々は社会と政治に絶望していた。

B: 人々は対外的なものに不安を感じ、かつ対外的なものにこそ活路があると信じ始めていた。

C: 人々は、この絶望と不安を解消し、一気に解決してくれるカリスマ的指導者を待望した。

 

これを同時期のドイツと比べてみます。

 

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A: 絶望。

長く続いた元勲や軍閥の政治から政党政治に変わっても政治状況は良くならなかった。

人々が期待した政党政治(2、3党)も金権腐敗(賄賂、癒着、利権)と罵り合いに明け暮れるだけで、社会と経済は良くならなかった(既に見ました)。

1921年から1931年までは日本初の政党政治の開花時期だったが、未成熟なところに運悪く最悪の経済状況が圧し掛かり、うまく対応出来なかったことで混乱に陥った。

1920年代に連続した災厄や恐慌の半分は政府に起因したものではなかった。

また日本は集約農業から一気に重化学工業(資本主義経済、都市化)への転換と巨大な軍事費に喘いでいたので無理からぬものがあった。

私が注視するのは、累進性の無い苛税と貧弱な社会資本投資の為に農民が困窮し続けて、貧富の差が目立ち、やがて蓄積された不満のエネルギーが爆発したことです。

 

この状況はドイツの方がひどかった。

 

 

B: 対外的なものに抱く不安と活路。

明治維新以来、帝国列強の侵略と、1910年代以降、海外で吹き荒れた共産主義革命への恐れがあった。注釈1.

急激な都市部の発展に連れて盛んになる労働運動(一部過激なテロまで進む)、それを煽る反権力の新聞は政府や軍部にとって邪魔ものでしかなかった。

政府は体制批判に繋がるすべての社会運動と言論の封じ込めを強化していった。

一方、裏で左翼を嫌う右翼(国粋主義者)の利用と容認も進んだ。

こうして議会は国民が待望した普通選挙法を1925年(28年実施)に成立させる一方、同年に治安維持法を成立させた。

この言論弾圧の体制は徐々に進行していて、この治安維持法の前身となる法は議会で一度廃案になっていたが、緊急勅令(23年、天皇許可)で成立していた。

かつて憲政の父、尾崎行雄が、桂首相を罵倒した時も「・・玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の意思)をもって弾丸に代えて、・・」と指摘したように、天皇の口添えは幾度も繰り返されて来たことでした。

こうして国民は望むはずもない首輪を自らの首にかけることになった。

 

これにより政府転覆(左翼革命)への恐怖を取り除いたかに見えた。

これを望むのは、概ね体制を維持することで権益を守り発展させることが出来る人々です。ドイツなどでは中間層(保守層)がファシズムを支えたことがわかっています。

当然、このような形で社会への抑圧が進む時、二つのことが起きた。

一つは、底辺の人々の訴えと生活が無視されていくことになった(貧富の差拡大)。

不思議な事に、ファシズムのスローガンとは逆の事が起きて行きます(ドイツも同じで本質的)。

今、一つは敵対者を暴力で排除する社会になったことです。

 

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一方で、1910年までに日清・日露戦争と朝鮮併合を終え、日本国民は植民地での抗日闘争の激化もあり、異民族への嫌悪を深めていた。

政府は植民地での都合の悪い事実を隠蔽・捏造し、さらに武力による制圧を繰り返す内に益々、両国において憎悪と蔑視が深まることになった。

 

軍部の考えは世界一を決する日米対立が最大の焦点であり、ソ連の恐怖は二の次とした。注釈2.

ソ連との決戦は満州に出ることにより必然となるが、当時ソ連は革命中で、外征は眼中になかった。

さらに政府は、平和ボケした米国が日本を相手に戦う気は無いと楽観していた。

中国については、相手にもしていなかった。

予測はすべて見事に外れるのだが。

当然、これら情報は必要に応じて針小棒大に喧伝された。

 

こうして、希望の実現の為に暴力で不安と恐怖を排除する合意が出来上がりファシズム化が始まりました。

人々は、一致団結して海外の不埒な民族を武力で制圧することで、国民は新たな天地を得て絶望から脱せると信じ始めた。

当時、五族共和とか大東亜共栄圏と謳われ、多くの人々が願いまた信じたが、結果は一方的な武力制圧に終始したので侵略に他ならなかった。

 

この経緯はドイツと日本では多少異なるのですが、暴力と外征に向かう状況は一緒でした。

 

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C: 立ち上がった軍人達がいた。

ここから日本とドイツのファシズムに大きな違いが出て来ます。

この前段階の「絶望」「対外的な不安と活路」は基本的に同じと言えます。

 

ドイツと異なるのは、右翼勢力(ナチス)を率いる独裁者(ヒトラー)が日本には存在せず、多数の軍人(文民政治家も)が入れ替わり立ち替わり戦争拡大を担ったことです。

言い方を変えれば、「皆で渡ろう・・・」(集団無責任体制?)に似ている。

 

ヒトラーは絶望する民衆に「かつての大帝国の復活(領土を取り戻す)、ユダヤ人排斥、反共産主義」を訴えることで国民の絶大なる信認を得た。

日本も「大帝国を築く(満州からアジア全域)、他民族の上に立つ(五族共和)、反共産主義」と、基本的なスローガンは一緒でした。

ドイツでは社会主義革命以降、既に国軍(幹部は貴族出身)が政権を握っていたが、初めヒトラーを信用しておらずファシズムとまでは言えなかった。

ヒトラーは初めこそ労働者の不満を利用したが、政府転覆の為に資本家と国軍トップに擦り寄り、ナチス独裁を成し得た。

 

日本では長らく軍事大国への道を突き進み、成功体験もあり、さらに未発達な民主主義の下、クーデターの混乱に乗じ軍閥が再度政権をより完璧に掌握することが出来た。

国民の一致団結に必要なカリスマ的指導者に、ここでも天皇が祭り上げられた。

こうして、この象徴の下に一丸となって進むことが出来た。

 

この軍閥を中堅将校が暴走し牽引する形で、容易に戦争を拡大させ、ここにファシズム体制が完成した。

日本では、右翼の存在は左翼潰しと言論封じ込めに利用され、混乱を招いて軍閥政治移管に利用されただけに見える(ドイツに比べて)。

 

次回で最終話になります。

 

注釈1: 今回のテーマでは一貫して海外列強の脅威を大きく扱っていません。

これは重要なのですが、話が複雑になることもあり割愛しました。

それに変わるとも劣らない大事なことがあります。

日本が日清戦争から太平洋戦争へに至る過程で、敵国が初めから立ちはだかっただけでなく、日本の侵略行為が相手の敵愾心を増大させたことです。

例えば太平洋戦争中盤(1943年)になると、米国は日本の北方領土割譲を餌にソ連の参戦を促しました。

このように自国の軍事行動が戦争拡大を招くる過程はあらゆる戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、イラク戦争などで見られます。

もう一つは、戦争が敵国の存在云々よりも自国の内部要因により起こることが多々あります。

その典型がドイツのファシズムです。

したがって国内状況の分析が非常に重要なのです。

 

注釈2: 1920年代以降の帝国国防方針、石原莞爾の「我が国防方針」、陸軍幕僚による木曜会の満蒙領有論から推察した。

 

 

 

 

 

 

 

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社会と情報 67: 戦った報道 24


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< 1. 2・26事件 >

 

今回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

いままで日本の軍事大国化と経済の問題、さらに中国の状況を見ました。

社会状況は悪化していましたが、もし軍部や右翼の暴走が無ければ戦争へと進まなかったかもしれません。

なぜ暴走が頻発するようになったかを考察します。

 

何が問題か?

要点は二つある。

一部の軍人の暴走が次々と戦争を拡大させた。

暴力が常態化する社会になっていた。

 

日本の政治の何処にこの原因があったのか?

前者は主に軍人組織の問題で、後者は一般的なファシズム化(全体主義、国粋主義)を指します。

 

 

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< 2. 2・26事件の報道 >

 

 

なぜ軍人は暴走したのか?

ここで、国内で起きた主な暗殺事件を振り返り、暴力が蔓延していた状況を見ます。

暗殺は以前もありましたが、第一次世界大戦後の戦後恐慌あたりから急速に増加しました。

 

1919年の財閥の長に始まり、21年に首相、29年に体制批判の議員、31年に首相、32年の血盟団事件で大蔵大臣と財閥の長、五・一五事件で首相が暗殺された。

34年に体制批判の新聞編集者、35年に陸軍軍務局長(内部抗争で)、36年の二・二六事件で首相と侍従長、元内大臣が狙われ、大蔵大臣、内大臣、陸軍高官(内部抗争で)が暗殺された。

暗殺の標的は、政治・経済政策への不満による内閣の責任者、天皇の御心を妨げたとして天皇側近、体制批判者や財閥関係者、それに陸軍内部の抗争相手だった(注釈1)。

 

これら暗殺は最初右翼(国粋主義者)の単独犯で始まり、後に集団化し、軍人によるクーデターとなった。

ここで特徴的なのは、彼らは革命政権の具体像を持ってクーデターを起こしたのではなく、憎い者を誅殺し、後は天皇に任せようとしたことでした。

結局、軍の不平を抑える為に軍部に頼らざるを得ず、日本は軍閥時代へと一気に突入し、1937年の日中戦争へと進む。

 

 

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< 3. 満州事変 >

 

張作霖爆殺事件や柳条湖事件(満州事件の端緒)では少数の軍人が勝手に戦闘を開始し、後に軍中央が渋々戦闘続行を追認し、戦争は拡大して行きました。

他に、国内で起きた一大尉による市民虐殺の甘粕事件、一司令官が軍中央の方針を無視して上海事変から南京(虐殺事件)へと戦域を拡大したことなど、当時、将校の規律や命令違反は慢性化し戦争拡大の一端となっていた。

ところが不思議なことに、この類の張本人はほぼ罰せられることがなく、長期の禁固刑が確定しても、数年もすればこっそり釈放された。

むしろ、その意気(愛国心)と能力を買われてか、大陸で出世する人も多かった。

一方で、公になった右翼の暗殺者は極刑となった。

 

こんなことがまかり通れば、勝手に撤退する将校はいないから、戦争が拡大するのは当然でした。

これこそ勇気がいるのだが、無謀なインパール作戦では数少ない例外、一部隊による命令違反の撤退があった。

 

日中戦争が始まる頃、関東軍参謀の武藤が中央の意向を無視して戦争拡大を画策していたため石原莞爾が止めに出向いた。

しかし、当人は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論して、石原は絶句せざるを得なかった。

結果はご承知の通りです。

 

こんな馬鹿げた事がなぜまかり通っていたのか?

軍部内では、彼らが「憂国の士」であるとして咎めるべきではないとの意見が強く、軍は身内が可愛く、甘かったと言うことらしい(世界共通とも言えるが、これは酷い)。

当時、この軍部の幼稚な判断に誰も逆らうことが出来なくなっていた。

 

一つは、社会全体がファシズム化し軍部独裁が進んだからとも言えるが、軍事は天皇の大権(統帥権)に関わるとして、他からは口出し出来なかったことも大きい。

もう一つは、日本の組織文化に起因している。

これは個人の行動規範が、社会が共有する正義(法の理念)に基づくのはなく、属している組織の意向に沿う形で決まることによる。

このことは戦場でも現代の企業でも、様々に社会の適応を阻害する要因になっている。

もちろん良い面もあります。

これは村意識とも呼ばれ、ダブルスタンダードや本音と立前を生む。

 

次回、ファシズム化を検討します。

 

注釈1: 二・二六事件で殺害された政府高官(内閣)に軍人が多かったのは、当時軍閥政治が始まっていたからで、要職を軍人が占めていたからです。

内部抗争とは陸軍内で、天皇による急進的な革命を望む皇道派と陸軍大臣による政治的な改造を企図した統制派の対立です。

結局、二・二六事件を起こした皇道派を処分する形で、統制派が軍閥政治の中心となった。

 

 

 

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社会と情報 66: 戦った報道 23


 1 本

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前回、ファシズムを牽引した右翼と軍人の言説を見ました。

今回は、政府首脳が当初から抱いていた大陸感と中国の状況を見ます。

 

 2桂大久保

 

< 2.桂太郎(左)と大隈重信 >

 

 

外征は初めから首脳たちの念頭にあった  

前回見た石原や軍の中堅将校が、なぜ焦ってまで満蒙に火を着けたのだろうか?

その淵源は明治維新の攘夷論まで遡ることも出来るだろうが、ある時期から政府首脳の言説に明確に現れ始めた。

 

日清戦争後の1896年、桂太郎台湾総督(長州閥、陸軍軍人、後に首相)の提出した「台湾統治意見書」より。

「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国内部に日本の利益権を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」

 

日露戦争後の1906年、政界で活躍していた大隈重信(後に首相)の雑誌の特集「戦後経営」への寄稿より。

「日本国民は、これからは航海業、商業、移民業を拡張していかなければならない。商業的に発展していく地域は、東亜から・・南北アメリカである。移民を待ち受けている地域は、人口希薄な南北アメリカ、・・・、満州である。・・日本は戦勝の結果として得た満州における利益を基礎として、大陸に向かって経済的に発展していくべきである」

 

二つの戦争を勝利してロシアへの脅威が薄れ、また多大な犠牲を払ったことも加わり、首脳達は台湾や満州を手始めに拡大策を公然と訴えるようになっていた。

 

しかしこれは大きな危険を孕んでいた。

大陸侵攻が拡大すれば、中国やソ連、さらには欧米列強を次々と敵に回すことになる。

そうなれば日本の国力では太刀打ち出来ないことは国防戦略の立案者には明らかだった。

一方で、最強の複数国と戦うにはアジアの資源と商圏も絶対必要だった。

そこで軍の戦略立案者はある制約条件「最大の敵は攻めてこない」と「敵一国だけとの短期決戦」を設けざるを得ず、他は想定外とした。

さらにまずい事に薩長閥以来の遺恨が続く陸軍と海軍で敵国(ソ連か米)の想定が異なった。

こうして軍首脳は現実に目をつむり、勝ちたいとの思いだけで、一貫した戦略なしで右往左往しながら、沼るみに足を取られるように深入りしていった(注釈1)。

 

私が奇異に思うのは、勝つ可能性がゼロに等しく、莫大な消耗をもたらす敗戦に向かっているのに、最高のエリート集団の作戦本部や軍令部から誰一人として疑問の声が上がらなかったことです。

少なくとも国民には国益の為と公言してはばからなかったのですから。

始まった戦争のブレーキ役を軍人に期待出来ないのかもしれないが、これは異常です。

これは今も続く実に日本らしい精神の原風景で原発産業にも見られる組織文化です。

 

 

3 地図

 

< 3. 中国の勢力図 >

解説: 上の地図は日露戦争後の中国、下の地図は1910年代の中国の勢力図。

この勢力の変化は、第一次世界大戦と世界恐慌、民族独立運動によって起こったと言える。

 

当時、中国北部(満蒙)は狙い目だった

軍部はなぜ満蒙を真っ先に狙ったのか?

満州事変が始まる前、1930年前後の世界と中国の状況を確認します。

 

第一次世界大戦と世界恐慌が尾を引き、欧州は国内政策で手一杯、ドイツではヒトラーの大躍進で暗雲が立ち込め始め、欧州勢はあれほど奪い合った中国から手を引いていた。

そこで欧州は日本の満蒙侵略を国連で批難はするが、躍進する共産国家ソ連を東方に釘付けする役割を日本に期待した。

ソ連はまだ革命の混乱が続き、スターリンが体制固めに奔走している時期であり、外には目が向いていなかった。

一方、米国は深刻な経済不況で貿易額を往時の30%に落とし、平和志向に戻り日本との貿易継続を重視した。

 

日本は日露戦争で南満州鉄道を租借した後、満州の軍閥に肩入れし傀儡政権樹立によって世界の批判をかわしながら権益を拡大して来た。

第一次世界大戦以降、青島(山東省、上地図の青塗り部)を手に入れ、対華21カ条要求により中国全土にも権益(商圏)を拡大していた。

 

中国は、1911年の孫文による辛亥革命以降、内戦状態に突入にしていた。

北部(満州)では軍閥が割拠し続けていたが、やがて中央で共産党軍と覇権を争っていた国民党軍が北伐を1926年に開始し、北部の軍閥は日本の手から離れようとした。

そこで関東軍は1928年、傀儡軍閥の張作霖を爆殺した。

こうして、満州事変へと繋がっていった。

 

 

まとめ

軍の中堅将校の思想で一番重要なのは以下の点です。

 

最強の国になることが国を災厄から守ることであり、その為に隣国の莫大な資源と商圏を領有し、自給圏と軍需産業を早急に育成しなければならない。

それは同時に国民の窮状を救うことにもなる。

その為に、少ない損害で勝利を確実にする奇襲や謀略による侵攻を当然と考えた。

この考えは、太平洋戦争にも持ち込まれ、これが逆効果になるとは露ほども考えなかったようです。

彼らは欧米や中国の干渉と反感を抑える為に満州に傀儡政権を立て、国内の反戦気運を削ぐために国民には虚偽報道で戦意を煽ることも忘れなかった。

 

ここに長年の軍事大国化が生んだ弊害を見ることが出来る。

戦争を牽引し、反乱事件を操った当時の陸軍将校はすべて陸大のエリートでした。

満州で謀略を行った板垣、河本、石原らはいずれも1980年代生まれで、日清戦争から日露戦争の間に14歳前後で陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業している。

首相となった東条英機も彼らと同様でしたが、彼の父は軍人(陸軍中将)で、彼は軍人2世でした。

彼らは、小さい時から軍人だけの隔離された学校社会で、また戦争の世界で出世を夢見て来た人々でした。

そう単純ではないが、日本流の組織文化に生きる精神がそうさせたとでも言うべきでしょうか。

軍人としては優れていても、視野狭窄になりやすい。

 

善意に解釈して、憂国の士であった彼らは現状打開の為に先ず戦端を開くことに賭けた。

 

次回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

 

注釈1: 二つの相反する戦略があり、陸軍は対ソ連戦想定で満州以北への「北進」で、海軍は対米戦想定で東南アジアへの「南進」であった。日本の国力から見ればどちらかに限定すべきだったが、両者の対立に折り合いが着かず両論併記で国防方針が決まっていった。常識的に見て、この時点で国力の違いから戦争続行は不可能であり、軍首脳や戦略立案者の脳裏には「破れかぶれ」が去来したことだろう。

 

参考文献

「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.

「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。

「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.

「集英社版日本の歴史19」

「集英社版日本の歴史20」p19~59。

「図説日中戦争」河出書房新社刊。

「図説ソ連の歴史」河出書房新社刊。

「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。

「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

 

 

 

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社会と情報 65: 戦った報道 22


 1 右翼  

< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

 

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。

この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。

この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

 

何がくすぶっていたのか

1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。

前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。

後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ

1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。

これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。

 

2 北

< 2. 北一輝 >

 

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。

彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。

さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。

彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

 

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。

 

 

3 石原

< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

 

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。

これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。

世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。

またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

 

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。

すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。

この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。

この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

 

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。

如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

 

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。

 

 

参考文献

「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.

「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。

「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.

「集英社版日本の歴史19」

「集英社版日本の歴史20」p19~59。

「図説日中戦争」河出書房新社刊。

「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。

「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

 

 

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社会と情報 64: 戦った報道 21


       1 天津居留地

< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

 

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。

主に満州と中国を中心に見ます。

 

 2 満州地図

< 2. 旧満州国 >

 

はじめに

「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。

前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。

後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。

3 移民2

< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.

日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。

さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。

ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。

敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。

明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。

 4 満州移民

< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。

1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。

彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。

軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。

つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。

さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。

強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。

さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。

こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。

1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。

つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。

資本進出                  文献2.

植民地の民族資本の割合を見る。

1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。

つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。

満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。

しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか

日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。

こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。

また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。

5

< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf >

解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。

図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。

図2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。

(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)

それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.

答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。

そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。

米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。

これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。

また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。

また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。

当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。

こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。

6 企業

< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益

例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。

これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。

実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。

一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。

中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。

撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。

7

< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >

解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ

結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。

ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。

それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。

こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。

一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開

しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。

やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。

それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。

初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。

まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。

文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。

文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.

文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。

 

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社会と情報 63: 戦った報道 20


 1 青島居留民   

< 1.青島の居留地 >

 

記事の投稿順序を間違いましたので、差し替えします。

 

前回、国内の窮状を見ました。

しかし、なぜ国内問題の解決が満州侵攻だったのかが明確ではありません。

今回、その背景を経済的側面から見ます。

 

はじめに

私は、これから大陸侵攻の経済的側面、特に植民地化と産業貿易について見ていきます。

 

ところで、あなたは台湾人が日本の植民地統治をどのように見ていると思いますか?

参考に台湾大学の歴史学科教授のコメントを記します。文献1.

 

「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史過程を経験した。一般的に植民地化は完全にマイナスの経験とされ、近代化と言えば、プラスの評価が強調されることが多い。しかし、・・これは二重奏のようなもので、・・この両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さを理解することは出来ないだろう」

 

2 石原莞爾

< 2. 関東軍参謀の石原莞爾 >

 

満州事変前後の代表的な発言

最初に、当時の人々は1931年の満州事変をどのように捉えていたのかを見ます。

六つの意見を要約しました。

 

A: 1929年、満州事変の首謀者石原莞爾の「満蒙問題解決案」より 文献2.

「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者を救済することが出来る」

 

B: 1931年10月、大企業を中心とした財界4団体の申し合わせより 文献2.

「協同一致排日行為の絶滅、対支懸念および満州問題の根本的解決を期す」

この年の9月の満州事変を受けての反応です。

 

3 新聞

< 3. 1935、36年、上海の抗日運動を報じる新聞 >

 

C: 1931年11月、山形県のある軍人後援会の設立趣意書より 文献2.

「今やわが国は空前の難局に際し、満蒙はおろか全支にわたり武器を採って先陣を進めつつあり、・・本村から出征している軍人は6名の多数に上っているのであります。この我等村民は挙村一致してこれら軍人を後援し・・・億兆一心義勇奉公の誠を表したいと思います」

 

D: 1932年8月、日本中小商工会連盟の決議より 文献2.

「中小商工業者の満州移民進出のために政府は急遽積極的方策を確立すべし」

 

 

E: 1932年6月の第62帝国議会への誓願活動の要約、自治農民協議会による 文献2.

「農家の負債を3カ年据え置くこと。肥料資金として反当たり一円の補助を出すこと。満蒙移住費として5千万円の補助をだすこと。」

 

F: 1937年元旦、貴族院議長近衛文麿(後に首相)の発言記事より 文献3.

「天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友人として開発をなさんとするものである」

この年の7月に日中戦争の戦端を開くことになるが、上記は中国のことを指す。

 

4 開拓

< 4. 満州開拓の夢と現実 >

 

説明

農家や中小企業、大企業、政府を代表し国論を牽引した人々は満州事変を契機にして、移民の増大、現地の排日行為根絶、中国からの干渉阻止、中国の資源開発を訴えた。

そして多くの人が横暴で未熟な現地を軍事で制圧することに賛成した。

 

軍部や政府は大陸の情報を捏造し続けていたので、国民はそうだと思うようになっていた。注釈1.

この態度はFのように近衛の発言にも現れている。

一方、末端の人々はCのように政府や軍に対して従順であった。

実は、Cは在郷軍人会、Dは左翼、Eは右翼が関わっていた。

こうして左翼も右翼もこぞって戦争に足を突っ込んだ。

まだ満州事変の段階では、日本政府は戦線不拡大の方針のはずだったが、既にCの発言には中国侵攻が謳われていた。

 

次回は、具体的に経済的な背景を見ます。

 

 

文献1:「図説台湾の歴史」周著、平凡社刊、p123。

文献2:「集英社版日本の歴史20」p22、27、28、31、77。

文献3:「図説日中戦争」河出書房新社刊、p9。

 

注釈1: 満蒙で起きていた1928年の張作霖爆殺事件、1931年の中村大尉事件、万宝山事件、満州事変などが典型です。

どれも政府、特に軍部が国民に事実を知らせないだけなく、敵意を煽るために情報を捏造していた。

国民が真実を知るのは戦後になってからでした。

 

 

 

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社会と情報 62: 戦った報道 19


1 凱旋

< 1.日露戦争の凱旋 >

 

今回は、1900年代から1930年代、明治末期から昭和初期にかけての国民の窮状を具体的に見ます。

  

三つの時期について窮状を見ます

 

 2 傷痍軍人

< 2. 傷痍軍人 >

 

1900年代を中心に 文献1.

日清・日露の戦役が世の中を変えた。

 

廃兵(傷痍軍人)

日露戦争(1904、05年)によって、死傷病者は出征兵士の49%、46万に上った。

当時、人口4600万人、就業者2500万人の66%が農林業従事者で農家数540万戸であった。

特に農家の場合、彼らは主要な働き手であったので、その家族は路頭に迷うことになる。

 

苛税

国民総生産に占める全政府支出は1890年に11%であったが、1900年19%、日露戦役以降の1910年に38%に上昇してから、1920年25%、1930年38%となった。

1910年、国の一般会計歳入の内訳は、直接税の所得税・営業税が8.5%にしか過ぎなかった。

地租税11%と残り間接税の類80.5%が多いため、低所得層(庶民と農民)の負担が大きく、益々生活は苦しくなっていく。 注釈1.

累進性の無い税制、間接税中心の当時の税制は富裕層や企業には有利だった。

これは当時の選挙民は一握りの富裕層だったので直接税導入が猛烈な反対に合い困難だったことによる。

 

この上、戦時公債の引受、「愛国心」を計られる半強制的な軍資献納金が追い討ちをかけた。

その結果、税金を払えないことによる財産の差し押さえは1900年代の10年で約10倍に増加した。

 

3 村の身売り相談

< 3. 村の身売り相談 >

 

1920年代前半を中心に  文献2.

第一次世界大戦の好景気の反動による戦後恐慌が世の中を変えた。

 

農民の困窮

1922年頃、自作農家で32戸中11戸、小作農家で35戸中14戸が、赤字に陥っていた。

小作人は小作料と高利の借金に喘いでいた。

農民は寄生虫やトラホームに罹患し健康者は1割しかいなかったし、小学児童の弁当の副食は8割が梅干しだけであった。

こうして小作争議は1918年に全国で256件であったのが、1926年には2751件と膨れあがった。

 

農家の苦境の背景に何があったのか。

1910~40年の自作農は約30%に過ぎず、他は小作(一部自作も含む)であった。

またこの時期、米の反収が伸びない上に、1920年の戦後恐慌から1930年の間に米価は60%下落した。

この間、消費者物価は26%下落した。

1918年の米騒動以降1930年代前半までに、朝鮮米の徴発量は日本の産出量の約4%から14%に増え、昭和東北大凶作(1931~1932年)では不足分の7割を賄った。

しかしこれが日本の長期米価低下を招き、朝鮮半島の人は40%もの消費減に耐えなければならなかった。

彼らは満州に脱出するか、満州からの稗や粟でしのいだ。

 

もっとも、第一次世界大戦の好景気では、米価の高騰で農村は潤ったこともあった。

同時に、都市部では大正デモクラシーを謳歌し、労働者の賃金は上昇し、1920年代前半はまだ賃金水準が維持されたので恐慌の影響が少なかった。

むしろ都市部ではインフレ時に苦しむことになった。

 

4 昭和恐慌

< 4. 昭和恐慌、銀行の取り付け騒ぎ >

 

1930年代前半を中心に 文献3.

1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌、1930年の昭和恐慌が続き社会は悪化の一途を辿った。

 

失業

企業の利益率は半分になり、賃金も2割減となり、会社の倒産が相次ぎ、賃金の不払いも増加し、大量解雇が発生した。

失業者は1930年から増え始め、31年に280万人、失業率8.9%でピークに達した。

労働争議は1925年に全国で293件だったのが、1931年998件とピークを迎えた。

この膨大な失業者のうち、工場労働者の約4割、鉱山労働者の約2割が帰農した。

ただでさえ貧しい農村に人が溢れ、困窮は極限に達した。

こうして農村部で人口過剰が問題となり、移民が説かれた。

 

農村の窮乏

都市部の購買力減はさらに農作物の価格を1929年から31年かけてさらに約60%低下させた(32年にかけてほぼボトム)。

さらに1931年、34年に東北・北海道が凶作に見舞われ、自作農で60%、小作農で75%が赤字農家に転落した。

税金が納められず、土地や収穫物を差し押さえられる農家が続出した。

 

こうして昼食抜きの児童が増え、東京へ娼婦として売られる娘が続出した。

1934年の身売りは約2万人で、娘を一人売ると親は約1年分の所得を得ることが出来た。

小作争議はこの年に更に最大を更新し6824件となった。

 

5 経済格差

< 5. 所得格差 >

解説: 日本(赤線)は明治から太平洋戦争が始まるまで所得格差は高いままだった。

ドイツ(青線)では第一次世界大戦以後の社会主義政権で所得格差は是正されたが、ヒトラーの独裁が始まってから所得格差が急増したが、それでも日本よりもましだった。

 

 

まとめ

満州事変に至る約30年間の庶民の困窮状態を見ました。

 

この間、農家は日本の一人当たり実質成長1.3倍(注釈2)の経済発展から取り残され、さらに悪化し、豪農と貧農の格差も開いていた。

一方、都市と工業は大きな発展を遂げたが、第一次世界大戦の好景気と戦後恐慌を経て、経済格差が広がった。

労働者では熟練度や企業規模(産業の二重構造)などによって賃金格差が生じ、また軍需産業重視の施政によって財閥化が進んだ。

肥大化する財政と累進性の無い税制(注釈3)は低所得者を益々追い詰めた。

こうして欧米先進国と比べて所得格差は群を抜いて高くなった。

 

さらに政府と軍需産業との癒着、疑獄事件、大企業や財閥優先の経済政策は国民の怒りと失望を買った。

こうした不満の爆発から、1931年に満州事変が起こり、日本は戦争への道を突き進んだ。

 

次回は、経済的な謎、なぜ国民は満州侵攻を受け入れたのかを探ります。

 

 

注釈1: 上記間接税の類には郵便電信収入なども含めている。1910年一般会計歳入の公債・借入金は0.5%に過ぎないが、特別会計の規模は一般会計の1.7倍あった。この特別会計でさらに莫大な軍事費が支出され、収入は公債・借入金が大半であった。いずれこの支払いも国民の税金とならざるを得なかった。日清戦争だけは賠償金で国民の負担は減った。また個人消費が国民総生産に占める割合は90~70%なので、庶民の税負担率はさらに増す計算になる。

 

注釈2: 「世界経済の成長史 1820~1992年」マディソン著、(p77、p143)によると1913~50年の一人当たり実質GDPの平均複利成長率は0.9%、人口は1.6倍となる。つまり30年間で実質GDPは一人当たり1.3倍、全体で2.1倍になる。この一人当たりの成長率は同期間のアジア11カ国(台湾、タイ、韓国、中国など)の中で群を抜いて良かった。

 

注釈3: 高所得に比例する所得税などの直接税が低く、酒税などの消費に比例した間接税が高かったので、低所得者ほど税率が高くなり貧富の差は開くことになる。

 

文献1:「集英社版日本の歴史18」p202~210。「日本経済史」石井寛治著p193~196.「数字でみる日本の100年」国勢社刊、p276~。

 

文献2:「数字で見る日本の100年」国勢社刊、p116,p270。「経済学大系7 日本経済史」学文社刊、p147、p159。「日本経済史」放送大学教育、p100、p150。振興会刊。図説日本史、東京書籍刊、p201、p221。

 

 

 

 

 

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社会と情報 61: 戦った報道 18


    1 東北大凶作1931  

< 1. 昭和東北大凶作、1931~1932年 >

 

前回、日本政府の財政運営の困難さを見ました。

今回、国民の窮状を四人の発言から見ます。

 

 

四人の発言要約

三つの訴えと一つの打開策を紹介します。(文章は一部変更・割愛しています)

 

2 幸徳秋水

< 2. 幸徳秋水 >

 

訴えA:1904年3月、社会主義者幸徳秋水が書いた「平民新聞」の記事。文献1.

 

「多数の同胞は銃弾に曝され、その遺族は饑餓に泣き、商工は萎縮し、物価は高騰し、労働者は失業し、役人は給料を削られ、さらに軍債の応募を強いられ、貯蓄の献納を促され、その上多額の酷税となって、国民は血を涸らし、骨をえぐられる」

 

3 農民哀史

< 3. 渋谷定輔の代表的著作 >

 

訴えB:渋谷定輔が第一次世界大戦後(1917年)の農民生活をうたった。文献2.

 

「労働は20時間、後の4時間で寝食する、これがおれの生存だ、生活じゃない、・・、食物は麦入り飯とタクワンづけで、あとは腐れかかったさつま芋だ、・・」

 

4 小沼正

< 4. 小沼正 >

 

訴えC:1932年2月、大蔵大臣井上を暗殺した22歳の小沼正の上申書。文献3.

 

「田植え時期なのに農家の倉庫に米一粒ない。肥料は? 出来る米をかたに高金利で肥料を借りるが、出来ると借金の利子と肥料と納税にとられ、残ったのは手に豆粒ぐらいだ。百姓が米を作って、米が食えないのだから日本も末だ。

東京にいって、向島などの貧民窟を見た。・・長雨の後は一家餓鬼になる栄養不良、・・しかして哀れむべき、悲しむべき人々のために革命をすることに腹は決まった」

 

5 板垣と石原

< 5. 満州事変の首謀者板垣征四郎(左)と石原莞爾 >

打開策D:1931年5月、参謀板垣征四郎は部隊長会同で発言した。文献4.

「満蒙問題の根本的解決は現状を打開し、国民の経済的生活を安定せしむる為の唯一の途であります。将来世界の大国に伍して民族永遠の発展を図り、帝国の使命を全うし得るか、又は小国に下落して独立性を失うかの分岐点に坐しているのであります」

 

 

説明

上記訴え三点を見ると、約30年の間、困窮と不満は減るどころか高まっている。

 

それに対して唐突ではあるが、打開策Dは国民の経済的生活を安定させる唯一の方法としている。

訴えと打開策との間には経済的に直接の関係が無いように見えるが、訴えCと打開策Dには別の繋がりがある。

 

6 血盟団事件

< 6.血盟団事件の逮捕者、1932年 >

 

関東軍高級参謀の板垣はこの発言の4ヶ月後(9月)に満州事変を起こしている。

実は、訴えCの小沼(右翼)らは急進青年将校と結びついて満州事変蜂起に呼応し同年10月に国内で軍事クーデター(血盟団事件)を起こす予定だったが、失敗して再度次の年に決行した。

 

彼らは国内の経済問題解決に満州は必要だったと言っているのだが、軍部のより重要な意図は軍事上の戦略的価値であり、経済的には軍需産業を含む自給圏の確立だった。

この問題は後の機会に譲ります。

 

 

次回、国民の困窮の実態と背景を確認します。

 

 

文献

文献1:集英社版「日本の歴史18」、p209。

文献2:集英社版「日本の歴史19」、p250。

文献3:集英社版「日本の歴史20」、p56。

文献4:講談社版「日本の歴史23」、p117。

 

 

 

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社会と情報 60: 戦った報道 17


1gunnkann

  • * 1

 

今回は、あまり意識されていない莫大な戦費調達による財政の問題を見ます。

明治維新から30年しか経っていない日本は莫大な戦費をどのように工面したのか?

これが後々まで尾を引くことになります。

 

 

はじめに

皆さんは、戦争が起きるのはどちらだと思いますか?

国が困窮したから、それとも豊富な軍資金があったから。

 

ヨーロッパは近代以降、戦費は王家の財産売却や商人からの借金、植民地から略奪した金銀で賄ったが、やがて将来の税収を担保に国債を発行するようになった。

こうして戦争は国債購入者(投資家)がいる限り、いつでも始められるようになった。

 

そうは言っても、やはり借金(国債発行)の苦労がつきまといました。

 

 

2財政指数

< 2.日本の財政指数推移 >

凡例: 濃い実線=毎年の政府債務/GDP。

 

おおまかな期間の色分け

黄色枠A: 軍事大国化。日清・日露戦争から第一次世界大戦まで。

緑色枠C: 好景気。第一次世界大戦中(1914~1917)。

灰色枠D: 悪化し続ける経済。第一次世界大戦以降、満州事変(1931年)まで。

赤色枠E: 軍部独裁。満州事変から太平洋戦争まで。

 

解説: 1929年の世界恐慌以降、政府は財政破綻へと突き進んだ。

この間、恐慌に加え軍事費が徐々に増加し、日中戦争(1937年~)で財政負担は突出した。

最後の年は、単年度でGDPの80%もの赤字を上乗せして戦争を行った。

 

 

戦費の調達はどうしたのか

日露戦争の2年間の戦費総額は18億円で、前年の政府歳入は2.6億円だった。

当時、重要な軍艦や兵器ほど海外から外貨で購入しなければならなかった。

もし軍が独走して戦端を開いたとして、武器や兵糧を送ることが出来なければ兵士は無駄死にします。

当然、日本にそのような資金はありませんでした。

 

この時、登場したのが高橋是清で、後に怒涛の日本経済を幾度も救うことになります。

国債(内債)は発行していたのですが、彼は初めての外債発行に挑みます。

苦労の末、なんと総額13億円もの外債発行に成功します。

これで大国相手との戦争が継続可能になりました。

 

 

しかし、ここから問題が始まります

信用のない日本は、金利5~9%ほどで莫大な借金をしなければならなかった。

当時、イギリスの国債金利は3%前後でした。

これでは毎年、金利支払いだけで1億円弱あり、歳入の数割が消えてしまい元金返却は困難です。

結局、莫大な税収が外債の返済に半永久的に充てられることになる。

 

もし日本軍が作戦で負けると海外の投資家は借り換えや新規購入を拒否するか、利上げを要求します、つまり連戦連勝が至上命令なのです(実際に起こった)。

 

さらに困難な問題は、外債に依存する限り、政府は海外の債権者に不利なインフレや円安を起こしてはならないのです。

だからと言って、インフレを抑える高金利政策は外債の金利高を招くので出来ません。

一方、景気刺激の為の通貨増発もインフレや円安を招くので不可能です。

しがって、世界は物価と為替の安定のために金本位制を採用したのです。(末尾で金本位制を説明)

しかしこれは袋小路に入ったようなものです。

 

 

ここで最大の問題は、納めた税金の大半が戦争と植民地、そして金利(海外投資家へ)に消えたことです。

いくらかは軍需産業(重化学工業)の育成と植民地からの収益に寄与することになった。

 

つまり、借金で戦争が可能になった反面、国民は重税に苦しみ、生活向上が困難だったと言えそうです。

 

 

3政府債務の内訳

< 3. 外債と内債の比率 >

 

解説: 第一次世界大戦中から外債を減らし内債に転換していった。

 

 

さらに深みへ

後に、この窮状から2回解放されることになります。

 

最初が第一次世界大戦(1914~1917)で、この時の貿易黒字を生かして政府は外債を内債に切り替え、さらに債務も急減させます。

これは育ちつつあったと重化学工業(軍需産業)が降って湧いた欧州からの特需を日本と米国だけが享受出来たからでした。

この神風のような偶然が、企業と政府の無節操な財務体質をはびこらせ、次の反動をより深刻なものにしました。

 

1927~31年、天才高橋蔵相は二つの大恐慌をインフレーション策と金本位制離脱で切り抜けます。

しかし残念なことに、これによって健全財政のタガが外れ、味を占めた軍部は際限のない通貨増発で暴走していくことになりました。

 

4累積債務

< 4. 国の累積債務/GDP >

解説: 1920年代の度重なる大震災と恐慌、さらに1930年代の軍事費増大で借金は幾何級数的に増大していった。

 

挙句の果てに

1945年の敗戦で、都市と工場地帯は焦土と化し、さらに国の借金の帳消しにより、国民の金融資産は平均年収の約5倍(推測)が紙屑となった。

それまでの通貨膨張で敗戦時のインフレ率は500倍を越えていた。

 

もし負けていなくても、この膨大な債務返済と通貨膨張によるインフレは国民を続けて襲ったはずです。

この累積債務と通貨膨張は現代に通じる問題でもあります。

 

 

莫大な戦費調達に始まる無節操な財政運営が軍の暴挙を容易にし、如何に国民に災いしたかがわかります。

この説明は全体像を掴むことを目指していますので、正確な経済論議ではありません。

 

次回に続きます。

 

 

金本位制の説明

当時、欧米と日本は通貨安定の為に金本位制を重視したが、幾度も採用と停止を繰り返していました。

金本位制のメリットは各国が通貨増発を自由裁量で出来ないことと、貿易相手国も採用していることで物価や為替が安定することです。

 

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< 5. 物価と為替レートの推移 >

解説:日本は1897~1917年に金本位制を採用していたが、その後1930年まで停止した。

1930年にまた復帰したが、これが世界恐慌と重なったこともあり昭和恐慌を招き、1年後には停止せざるを得なかった。

つまり、グラフに見られるように金本位制は物価と為替の安定にはメリットはあるが、景気悪化には無力でした。

 

 

 

 

 

 

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The society and the information 59: News media has fought 16


社会と情報 59: 戦った報道 16

 

1

< 1. A village serviced a flesh trade in about 1930  >

< 1.1930年頃、村が身売りを斡旋。  >

 

From now on, we look at the economic background that newspapers changed in.

It is we confirm that people became to affirm a continent invasion due to some economic factor.

 

これから新聞が転向した経済的背景を見ていきます。

それは人々が大陸侵攻を肯定するようになる経済的要因を確認することです。

 

 2

< 2. A battle of the northern part of China in 1933  >

< 2.1933年、中国北部での熱河作戦。  >

 

Preface

Previously, at this serialization “News media has fought 11”, we know that the Japanese local reporter sympathized with ringleader Kanji Ishihara of the Manchurian Incident and had thought “ We need to take the northern part of China for the solution of Japanese population and food problem”.

 

In those days, people were under the situation that the economy and life grew worse and worse, and had faced an uncertain future.

Radical elements had advocated the continent invasion as the solution, and people came to agree it.

 

 

 

はじめに

既に「戦った報道 11」で、当時、朝日の現地記者が満州事変の首謀者石原莞爾に共感しており、「日本の人口問題と食糧問題の解決には満蒙大陸が必要である」と考えていたことを見ました。

 

当時、人々は悪化する経済と生活で先の見えない状況におかれていた。

過激分子が解決策として大陸侵攻を唱え、国民は同意するようになって行きました。

 

3財政支出

< 3. The government expenditure of Japan >

< 3.財政支出の推移 >

Legend: A, C, D and E of color frames indicate the following “ Main points”.

Other graphs are similar, too.

A thin broken line indicates “government expenditure/GDP”, and a solid line does government expenditure.

 

凡例:色枠のA,C,D,Eは下記の「主要なポイント」に対応。他のグラフも同様。

細い破線が「財政支出額/GDP」、実線が財政支出額を示す。

 

Main points

I selected main economic problems that occurred from the 1900s to the 1930s.

 

Problem A: The government was not able to respond successfully to vast war expenditures that continue to increase from the 1890s.

Problem B: People came to promote discontent due to chronic rice deficit, a surplus population, an expanding disparity in wealth, and increasing in the awareness of entitlement of worker.

Problem C: In the late 1910s, big prosperity was brought on by World War I, but the reaction will deteriorate society and economy more.

Problem D: In the 1920s, Japanese economy suffered unprecedented aggravations that are the depression after World War I, the Great Kanto Earthquake, the banking crisis, the Great Depression.

 

 

主要なポイント

1900年代から1930年代、明治末から昭和の初めにかけて起きた主要な経済問題を挙げます。

 

問題A:1890年代から高まる莫大な軍事費調達により政府は身動き出来なくなっていた。

問題B:1900年代から慢性的な米不足と過剰人口、貧富の差拡大、さらに労働・農民の権利意識の高まりで国民は不満を募らせていた。

問題C:1910年代後半、第一次世界大戦による一大繁栄がもたらされたが、その反動が社会と経済をより悪化させることになった。

問題D:1920年代、日本は未曾有の経済悪化、すなわち戦後恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、追い討ちをかけるように世界恐慌に見舞われた。

 

Development E: In 1931, Japan caused the Manchurian Incident and got the northern part of China, and built up the Empire of Japan that contained Korean Peninsula and Taiwan.

Western great powers had stagnated all economy and trade due to the independence of their colonies after World War I, and the Great Depression.

 

Meanwhile, Japan increased the trade in Asia including China and first accomplished the economic recovery in the world.

Japan seemed to almost have evaded mentioned problem A, B, C, D.

As a result, in 1940, Japan conspicuously accomplished the economic growth and was near the United States and the U.K., and became the major economic power comparing with Germany.

 

変化E:1931年、日本は満州事変を起こし中国大陸北部(満蒙)を掌中に収め、朝鮮半島と台湾を包括する大日本帝国圏を作り上げた。

欧米列強は第一次世界大戦後の植民地独立と世界恐慌で軒並み経済と貿易を沈滞させていた。

そんな中、日本は中国を含むアジアで一人貿易を伸ばし、世界に先駆けて経済回復を成し遂げた。

この間、日本は上記の問題A、B、C、Dをほぼ回避したように見える。

その結果、日本は群を抜く経済成長を遂げ、1940年には米国、英国に次ぎ、ドイツと肩を並べる経済大国になった。

 

4gdp

< 4. Changes of each nation’s GDP, it used a GDP of 1929(the Great Depression ) as 100 >

< 4.GDPの推移、世界恐慌の1929年を100として指数化。 >

 

Japanese GDP (red line) suddenly increased from the Manchurian Incident, as disregarding Western great powers except the Soviet Union (orange line).

 

日本のGDP(赤線)は満州事変を契機としてソ連(オレンジ線)を除いて欧米列強を尻目に急伸した。

 

 

5世界貿易の推移

< 5. Change of world trade >

< 5. 世界貿易の推移 >

After the Great Depression, the world trade decreased in 1/3.

世界恐慌以降、世界の貿易額は1/3ほどに減った。

 

 

6植民地貿易の推移

< 6. Changes of each colony trade >

< 6. 植民地貿易額の推移 >

Legend: A yellow line is the colony trade amount of Japan.

After the Great Depression, each colony trade amount reduced to half in the U.K. (solid line), and remained unchanged in France (dashed line), but Japan increased than four times after the Manchurian Incident.

 

凡例:黄線が日本の対全植民地貿易額。

世界恐慌以降、植民地貿易額は仏(破線)で横ばい、英国(実線)で半減したが、日本は満州事変以降、4倍以上に伸ばした。

 

What is important?

Why did people concentrate their hopes on the continent invasion even with exchanging it for the dangerous war expansion?

Did the continent invasion rescue the people from the economic deterioration that they expected to?

I narrow down this difficult economic background to several points and easily confirm it.

 

On the next time, we look at “Problems that was caused by collecting funding for war” that is relatively unknown.

 

何が重要か

国民は危険な戦争拡大と引き換えてまで、なぜ大陸侵攻に望みを託したのだろうか?

大陸侵攻は国民の予想通り日本の経済悪化を救ったのだろうか?

この難解な経済的背景を数点のポイントに絞って簡単に確認していきます。

 

次回、あまり知られていない「戦費調達が招いた問題」を見ます。

 

 

 

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The society and the information 58: News media has fought 15


社会と情報 58: 戦った報道 15

 

1明治時代の引き札

< 1. An advertisement handbill in Meiji Period, military personnel was popular >

< 1.明治時代の広告チラシ、軍人が人気 >

 

This time, I supplement with the last explanation about the social change that happened under a war regime.

 

今回は、戦時体制下で起こった社会的変化の補足説明になります。

 

 2憲兵

< 2. Military policeman >

< 2. 憲兵 >

 

I divide the social change into two elements

 

People’s thought and feelings were changing unconsciously

One is a surge of national sentiments such as patriotism or a chain of hatred.

When people endured hardship in a battlefield or their relative died of wounds, they felt stronger resistance in being pointed out that going into battle is useless.

This was connected to strict defending of national interests.

 

People intensely criticized the coward attitude of the government toward the Triple Intervention that had to abandon a territory.

 

Furthermore, because they couldn’t abandon China that they obtained in exchange for a life of Japanese soldiers 290,000, and couldn’t withdraw from it, again enlarged the war.

 

 

社会的変化を二つに分けます

 

しらずしらずのうちに国民の思想や心情が変化していく

一つは憎しみの連鎖や愛国心などの国民感情の高まりです。

さらに、出征し辛酸を舐め、また身内が戦傷死した場合、それを無駄だったとすることに人々は強い抵抗を感じます。

これが国益の厳守に結びつきます。

国民は領地を返還させられた三国干渉で政府を弱腰と猛烈に批難し、また日本将兵29万の命と引き換えに手に入れた中国を放棄出来ないとして、撤退が出来ず戦争を拡大することになった。

 

Another is the spreading of the weapon use and military spirit.

I investigated the spread of guns in “Our war 17-22” series before.

As a result, it was clear that the spread of guns caused the increase of the crime victim.

In other words, it changed to the society approved of violence, and settled troubles by violence.

This is clear at a glance if we see an action movie of Hollywood.

Similarly, if the martial spirit penetrates the whole society, the autocratic behaviors increase to many families such as Spartan discipline.

 

Thus, they would get used to the national interest, violence, and regulation.

 

もう一つは、武器使用と軍人精神の波及です。

以前、「私達の戦争 17~22」で銃の普及を検証しました。

その結果、銃の普及は犯罪被害者の増大を招いていました。

見方を変えれば、暴力を是認し暴力で解決する社会に変容したのです。

これはハリウッドのアクション映画を見れば一目瞭然です。

同様に軍人精神が浸透すれば、スパルタ教育など社会から家庭まで専制的な振る舞いが増大します。

こうして社会は国益や暴力、攻撃、統制に慣れて行きます。

 

3 1936年小学校読本

< 3. Elementary school language Reader in 1936 >

< 3. 1936年の小学校国語読本 >

 

The government led the people for war regime reinforcement

First, war weariness had been prevalent for almost people, so the government praised military personnel and encouraged to become good military personnel.

In addition, they assumed a hypothetical enemy, incited fear, and encouraged battling spirit.

Every military power practiced this.

For this purpose, education, public information, and oppression (prohibition of criticism) were important.

 

国が戦時体制強化の為に国民をリードする

初めは国民誰しも厭戦的です、そこで国は軍人を讃えて良き軍人になることを奨励します。

また仮想敵国を想定し恐怖を煽り、戦闘意欲を鼓舞するようにもなります。

古今東西、軍事大国はこれを実践して来ました。

これら教宣には教育と広報、批判禁止(弾圧)が重要です。

 

If expressing the article before last in other words, it is summarized as follows.

* A big menace near at hand.

* We should defend the national interests (territory) that we paid large sacrifice to obtain to.

* The near enemy is thing we should despise, and the repulse is easy.

This will be the most effective sentence that instigates the people.

 

 

前々回の某新聞の記事を言い換えればこうなります。

大きな脅威が迫りつつある。

多大な犠牲を払った国益(領土など)を死守すべき。

目前の敵は蔑視すべきもので、撃退は容易である。

これは国民を煽る最も有効な言葉でしょう。

 

4 在郷軍人会

< 4. A local veterans’ association >

< 4. 在郷軍人会の集合写真 >

 

On the other hand, it does not attract attention, but there is local veterans’ association as the example which raised an effect steadily.

This association was organized by the reserve duty that was available for mobilization of wartime and reached 3 million people in the 1930s.

Japanese population at the time was approximately 60 million people.

At first, the purpose was an education training of military personnel, but this became the implementing group to uplift their fighting spirit by the military leadership later.

In each place, this played a major role by protest and the boycott to anti- authority newspapers (Asahi and Mainichi), and by the promotion of the emigration to Manchuria and Mongolia.

Japan learned this system from Germany.

 

Thus, people regarded the continent invasion as national interests and accepted a war and the government of national unity.

However, people cannot embark on war only in this.             

 

I think about the economic factor on the next time.

 

一方、目立たないが着実に効果を上げた例として在郷軍人会があります。

在郷軍人会は、戦時動員可能な予備役によって構成され、1930年代には300万人に達していた。

当時の日本人口は約6000万人でした。

当初、これは軍人の教育鍛錬が目的であったが、後に軍主導による戦意高揚の実践部隊となっていった。

これは各地で、反権力新聞(朝日や毎日)への抗議や不買運動、満蒙開拓移民の推進で大きな役割を担った。

日本は在郷軍人会の制度をドイツに倣った。

 

こうして国民は大陸侵攻を国益とみなし、戦争と挙国一致体制を受容するようになっていた。

しかしこれだけで戦争に踏み出せるわけではない。

 

次回は経済的な要因について考えます。

 

 

 

 

 

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The society and the information 57: News media has fought 14


1日露戦争

< 1. Russo-Japanese War, 1904-1905 >

< 1. 日露戦争、1904~1905年 >

 

We again look at the background why newspaper changed in.

What did the progress of the war regime bring?

 

前回に続いて新聞が転向した背景を見ます。

戦時体制の進行は何をもたらしたのか?

 

Preface

Usually, to find out about the path to a war, person will check out politics, armed forces, international relations, economy, subsequently public opinion, and media.

However, I adversely question the background that media went into wrong path.

The reason is the media can be compared to nervous system in a human body.

Because, if it exactly functions, we can stop and cure a cancer progresses.

But unfortunately, when a brain is influenced by feelings (fear and uneasiness, hatred), the person makes a wrong judgment.

Similarly, it occurs in media.

It is important that we know how the media come to don’t function.

 

 

はじめに

通常、戦争に至る道を知るには政治や軍隊、国際関係、経済、次いで世論や報道を調べます。

しかし、私は逆に報道が間違った道に進んだ背景を問題にしています。

それは報道が人間で言えば神経系であり、正しく機能していれば例え癌が進行していても治療することが可能だからです。

だが残念なことに脳が感情(恐怖や不安、憎しみ)に支配され誤断するように報道にも同様なことが起こります。

報道がどのようにして機能しなくなるかを知ることは重要です。

 

How did the background change?

The background was divided into three main branches.

A: The social background by the progress of the war regime. It had deepened in the long term.

B: The economic background. It became more conspicuous in the 1920s.

C: The political background. It became more conspicuous mainly since the middle of 1920s.

The above three backgrounds relate to culture and thought that have an effect on public opinion, and then international relations.

 

その背景はどのように変わったのでしょうか

その背景を大きく三つに分けてみます。

A:戦時体制の進行による社会的背景。長期的に深まっていった。

B:経済的背景。主に1920年代に強まった。

C:政治的背景。主に1920年代半ばから強まった。

国際関係と、世論に関わる文化や思想は上記と関連して説明します。

 

2 1933年海軍観閲式

< 2. The inspection parade of the Imperial Japanese Navy in 1933 >

< 2. 1933年、日本帝国海軍の観閲式 >

 

A: The progress of the war regime.

Overseas dispatch of Japanese troops started in Taiwan from 1874, next, Sino-Japanese War of 1894, and continued to Russo-Japanese War of 1904.

Since that day, the progress of the war regime of Japan became more conspicuous, and

Japan continued to walk a path of a war of expansion.

 

Shall we grasp the dimensions of the progress of the war regime?

The number of soldiers of the Japanese Army and Navy was first tens of thousands, but always needed 300,000 from 1912 to 1931.

And Japanese men entered the military unless no passing the check of military conscription at least once.

In Japanese military, the number of death tolls and injured persons were 100,000 and 160,000 in Sino-Japanese War and Russo-Japanese War only.

Japanese military expenditure ratio in the national finances was an average of 40% during the 1890s and the 1929s, 27% at the minimum, and the maximum was 82% for two years of Russo-Japanese War.

 

A:戦時体制の進行。

日本の海外派兵は1874年の台湾出兵からで、1894年の日清戦争、次いで1904年の日露戦争から戦時体制が強化され、拡大の道を歩んだ。

 

少し規模感を掴んでみましょう。

陸海軍の兵員は当初数万だったが、1912年から1931年まで常時30万を要し、徴兵制度により検査合格の男性はほとんどが一度は入隊した。

日清・日露戦争役の軍人死者は10万、負傷者は16万であった。

国家財政に占める軍事費比率は、1890年代から1929年代までの平均は40%で、最小27%、最大は日露戦争の2年間の82%であった。

 

3 軍事費

< 3. Military expenditure and Government spending from Meiji era till the Great War period >

< 3. 明治から大戦期までの軍事費と全財政支出の推移、「日本経済復活の会」から >

 

Explanatory notes:   The unit of vertical axis is 1 million yen, and a logarithmic display.

A brown line: Government spending of Japan.

A blue line: Military expenditure. When the military expenditure is prominent, a blue line approaches the brown line.

Commentary: The military expenditure increased day by day, but the national economy grew up equally until the 1920s.

However, after that, while the military expenditure rapidly increased, the national economy conversely declined for several years.

 

凡例: 立軸の単位は百万円で対数表示。

茶色線: 日本の財政支出。

青色線: 軍事支出。軍事費が突出すると青色線が茶色線に近づく。

解説: 軍事費は日増しに増大したが、その間の経済も1920年代まで同様に成長した。

しかしそれ以降の経済の落ち込みと軍事費増大のギャップは国債増発と大量の紙幣増発で賄われた。

 

For 60 years until Manchurian Incident in 1931, the arms buildup and the dispatch of troops were important theme in the politics, and the military demand and the colonial economy made an important contribution to economic development.

People became closely acquainted with Wars and military gradually, and top success in life of boys was military man.

On the other hand, Japanese built animosity toward people of the continents that Japan invaded due to occurrence of casualties of own citizens and soldiers.

 

 

1931年の満州事変までの60年間に、政治では軍備増強と派兵が重要で、経済では軍需と殖民地産業が繁栄に繋がった。

戦争と軍隊は徐々に国民にとって身近なものとなり、男の子の出世は軍人が一番だった。

一方、進出した大陸での自国民や兵士の殺傷は、異国への敵意を高めていくことになった。

 

4 中村震太郎事件

< 4. At three months before Manchurian Incident, three Japanese soldiers were shot to death by a local armed faction >

< 4. 中村大尉事件:満州事変の3ヶ月前に軍用調査の3人が満州軍閥に銃殺され死体は遺棄された >

 

While anti-Japan sentiment had raged, even if the casualties of several people occurred with the invasion of our military, Japanese national was enraged and appealed for the revenge.

Every belligerent country feels strong anger with being slaughtered even more than the number of the casualties, and a chain of revenge starts, and the war expands.

Thus, people strongly attend to the safety of own relatives and the victory or defeat of battlefronts, and come to pay attention to the news.

It may be said that this situation is universal human principles, and this already had occurred for several decades in Japan.

 

This continues next time.

 

大陸で反日が燃えさかり、軍の侵攻に伴って数人の被害が発生しても、国民は激昂し復讐を訴えるようになる。

どこの交戦国も、死者の数もさることながら虐殺されたことに強い憤りを感じ復讐の連鎖が始まり、戦争は拡大する。

こうして国民は戦地の身内の安否、戦闘の勝敗が一大関心事となり、報道に注目することうなる。

この高まりは人類普遍と言えます、まして日本は既に長い年月が経っていた。

 

次回、この戦時下による社会的な変化を二つに分けて補足説明します。

 

 

 

 

 

 

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The society and the information 56: News media has fought 13


社会と情報 56: 戦った報道 13

 

    1新聞

< 1. Asahi Shimbun >

< 1. 朝日新聞 >

 

I again examine the background that Japanese newspapers changed.

 

前回に続いて新聞が転向した背景を考えます。

 

 2新聞発行部数

< 2. Circulation of prewar newspaper. By Mainichi Shimbun HP >

< 2. 戦前の新聞発行部数。毎日新聞HPより >

 

Once, how did Japanese newspaper progress together with war?

 

The circulation of three newspapers increased at each outbreak of war as this graph shows, and the newspaper achieved better performance by approving of the war (continent invasion was a national interest).

The oppression of government toward newspapers became severer depending on the size and antiauthoritarianism of it, but adversely, the achievements became bigger due to cooperating with the government.

The reason why a newspaper cooperates with the government is complicated, but this is big, too.

 

日本の新聞は戦争と共に・・・

グラフが示すように戦争勃発の度に新聞の発行部数が伸び、新聞は戦争(大陸侵攻と言う国益)に賛同することで業績を上げた。

また反権力の大新聞ほど政府の締め付けは厳しかったが、逆に政府に協力することの利得は大きかった。

新聞が政府に積極的に協力して行く理由は複雑だが、これも大きい。

3神風

< 3. In 1937, Asahi Shimbun set a new record for a flight between London and Tokyo >

< 3. 1937年、朝日新聞が東京ロンドン間飛行で新記録樹立 >

 

The upper graph shows a strange phenomenon.

Asahi Shimbun (red line) got ahead of Mainichi Shimbun and increased achievements threefold.

In 1937, Asahi Shimbun participated in a military periodic airline that linked Fukuoka to Shanghai in China, and topped other newspapers in information acquisition of battlefront.

 

上のグラフから奇妙な現象が見えてくる。

朝日は毎日を抜き、業績を3倍に伸ばしている。

1937年、朝日は中国上海と福岡を結ぶ軍事定期航空に積極的に参加し、戦地情報入手でトップに立った。

 

On the other hand, Yomiuri Shimbun (black line) increased achievements 19 times during the same period.

This seems to begin when Shoriki Matsutaro of former police official became the president of Yomiuri Shimbun that had gotten into financial trouble in 1924.

He not only had business talent, but also was near a center of the government, and assumed an important post of the Imperial Aid Association in 1940 at the year before the Pacific War outbreak.

 

一方読売は、同一期間に19倍に業績を伸ばしている。

これは1924年、元警察官僚の正力松太郎が経営難に陥った読売の社長になったことに始まる。

彼は商才もあったが政府中枢に近く、太平洋戦争勃発の前年1940年には大政翼賛会総務に就任している。

 

4大政翼賛会

< 4. The Imperial Aid Association >

< 4. 大政翼賛会 >

 

War coverage and achievements

I look at two war coverages of Liutiaohu Incident in 1931 that were published by two companies that would become to differ in the achievements in future. [Note 1]

 

Mainichi Shimbun carried this news “United States, responses to Manchurian Incident” with a headline in 5 days after the incident.

“Japanese side insists that China soldier fired a shot first, but this doesn’t correspond with the information that entered the U.S. Government.

There is much evidence that Japan forces performed by basing a careful program.”

This was a New York special dispatch, and “a prejudice of American reporter” was added beside the headline small.

Under the oppression in those days, even this article might be the most resistance to tell people the truth.

 

 

戦争報道と業績

業績に差が出た2社の報道を1931年の柳条湖事件で見ます。注釈1

 

毎日新聞が事件の5日後に「満州事変、米国への反響」という見出しで、

「日本側は支那兵が最初に発砲したと主張しているが、米国政府に入った情報と符合しない。日本軍の行動は事前の慎重なる計画のもとに行われたという多くの証拠があるとのことである」

というニューヨーク特電を掲載し、見出しの脇に小さく「米国記者の偏見」と書き添えている。

当時の弾圧の下で、これが国民に真実を知らせる為のせめてもの抵抗だったのだろう。

 

Yomiuri Shimbun carried this news “It isn’t absurdity that we protect our established interest that we have acquired the hard way for a few decades” with a big headline in 10 days after the incident.

It was added to the headline that “a guide of Manchurian Incident” and “defend our lifeline to the death”.

 

I summarize the article.

* Asian countries should prevent this violent wind of Russian eastward in cooperation.

* Therefore, our country fought the Russo-Japanese War in Manchurian, and lost 200,000 casualties and 80 percent of national expenditure.

* China forces not only didn’t cooperate with defense to Russia, but also attacked our military. Thus, our military pursued the China forces of more than 10,000 soldiers and swept it away.

 

It is easy to imagine that people of that time had great sympathy for this article.

Thus, there were differences among the attitudes of each newspaper, but all came to cooperate with the war after all.

 

読売新聞は事件の10日後に「忍苦数十年のわが既得権益・擁護するのに何の不条理がある!!」と大きな見出しをつけ、上段半面を使って「満州事変への手引き」と表題をつけ、「我が生命線を死守せよ」と書き添えている。

 

記事を要約すると

ロシアの東漸政策をアジア諸国は協力して阻止すべきである。

その為に我が国は満州で日露戦争を戦い、20万人の死傷者と国費8割を費やした。

支那軍は対露防衛に協力しないばかりか柳条湖で我が軍を攻撃した。よって我が軍は1万を超える支那軍を追撃し一掃した。

 

これが当時の国民に最も共感を呼んだことは想像に難くない。

こうして、各新聞は温度差こそあるが戦争に加担していくことになった。

 

Adding one word for honor of the mediaperson, after this, it doesn’t mean that all cooperated with the war.

Some local newspapers, famous editors, reporters had struggled for telling the truth.

But, unfortunately they did not come to change the situation.

 

報道人の名誉の為に一言添えると、この後、すべて戦争に加担したのではなく、地方紙や名物編集者、記者などが真実を伝えようと苦闘していた。

しかし、残念ながら状況を変えるには至らなかった。

 

What is important?

Even in many commonwealths of modern times and the present day, the people often went out of control without understanding the fact of the war.

There always were a situation that the information was disturbed, and strong force to foment war.

I chase such situation of Japan between middle of 1920s and the early 1930s.

 

This continues next time.

 

 

 

何が重要なのか

近現代の民主国家においても、国民は戦争の内実がわからず暴走することが多い。

そこには情報が撹乱され、戦争へと扇動する力が働いている。

日本のそのような変化を1920年中頃から1930年代初めに追います。

 

実は、そこには多くの戦史に共通するメカニズム(戦争の罠)があった。

 

次回に続きます。

 

[Note 1]

注釈1:「近現代日本政治と読売新聞」(明石書店、2014年刊)P166~170から抜粋。

 

 

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The society and the information 55: News media has fought 12


社会と情報 55: 戦った報道 12

1 戦車大展覧会

< 1. A tank exhibition hosted by Asahi Shimbun in 1939 >

< 1. 朝日主催の「戦車大展覧会」、1939年 >

 

From this issue, I examine the background that Japanese newspapers changed from pacifism to a favor of war.

This is a difficult problem, but I want to prevent only silly misunderstanding.

 

今回から、新聞が戦争反対から賛成へと転向した背景を考えます。

これは難題ですが、つまらない誤解だけは解きたい。

 

Preface

I wrote this article “News media has fought” because a man told me “Asahi Shimbun (newspaper) aided the war in those days”.

The conversion of the newspaper that represented anti-authority medias was surely a greet loss to people.

 

By the way, about this Japanese war, there are two extreme views.

A: Japan reluctantly moved into the continent for defense and strove for prosperity together with other race, but was trapped by the United States at last and suffered serious damage.

B: The old structure that had been symbolized by the Imperial system made the invasion of the Asian continent fanatical and impossible to restrain. And Japan caused serious damage at home and abroad.

 

Both include a truth, but these seem to be too unilateral.

Strangely, the person who criticized “the conversion of Asahi Shimbun ” has the opinion of A.

In other words, it has contradiction about criticizing the favor of war, and is merely problem of likes and dislikes.

However, in the underlying background of this criticizing, there is lack of understanding about “News media is forced into silence in the process that a nation advances to the war”.

 

When considering the world situation in those days, it can’t be denied that Japan was rescued from an invasion by achieving immediately the wealth and military strength of our nation.

(But, there are also countries that protected own independence by different ways in the same period, such as Thailand and Switzerland.)

 

We can’t avoid huger disaster that we may invite again without reflecting on that our nation invited the huge disaster at home and abroad.

All world history of warfare shows it.

 

 

はじめに

私がこの「戦った報道」を書いたのは、ある人から「当時の朝日新聞は戦争に加担した」と指摘されたことが一つの切っ掛けでした。

確かに反権力を代表した新聞の転向は痛恨の極みだった。

 

ところで日本の戦争について、大きく両極端な考え方があります。

A: 日本は防衛上やむなく大陸へ進出し、他民族との共栄を図ったが、ついには米国の罠に掛かり甚大な被害をこうむった。

B: 天皇制に象徴される古い体質が、大陸侵攻を狂信的で歯止めの効かないものにし、日本は周辺諸国に甚大な被害を与えた。

 

どちらも一理ありますが、一方的過ぎるようです。

不思議なことに、「朝日の転向」を非難した人はAの意見なのです。

つまり戦争加担を批難することに矛盾があり、単に好き嫌いの問題にすぎない。

しかし、この指摘の背景には「国が戦争へと進む過程で報道が沈黙させられる」ことへの無理解があります。

 

当時の世界情勢を考慮すれば、日本がいち早く富国強兵を達成したことにより国民を侵略から救った可能性を否定出来ない。

(もっとも、同時期、タイやスイスのように別の方法で独立を守った国もある)

しかし内外に甚大な被害をもたらし、たとえ国民の思いと異なったとしても侵略したことへの反省がなければ再び大きな災いを生むことになる。

これは世界の戦史が示すところです。

 

2 軍国主義

  • * 2

 

The reason that Asahi Shimbun aided this war

Because Asahi Shimbun wrote the reason in the book of “newspaper and war”, I use it as a reference.

I classified these reasons into three groups.

1A: News regulation and oppression by the government.

1B: Violent threat by the military, police, or right wing.

 

2A: Boycott campaign of Asahi Shimbun.

2B: The war coverage and the admiration for war attracted people’s attention.

2C: Newsperson became patriotic oneself.

 

3: The cooperation of military is indispensable for the information acquisition at battle area.

 

朝日が戦争に加担した理由

朝日新聞が「新聞と戦争」にその理由を書いていたので、これを参考にします。

 

理由を三つに分類しました。

1A:政府の報道規制と弾圧(新聞発禁、新聞紙配給制限、記者逮捕、記事検閲)。

1B:軍や警察、右翼の暴力による脅迫。

 

2A:朝日新聞の不買運動。

2B:戦争報道と戦争賛美は国民の注目を浴びた。

2C:記者自身が愛国的になった。

 

3:戦地での情報取得には軍の協力が不可欠。

 

3 治安維持法

< 3. Peace Preservation Law enacted in 1925 >

< 3. 治安維持法成立、1925年(大正14年) >

 

I add some explanation.

1A and 1B were reasons of the maximum that newspaper must convert.

The oppression was severe, and it became impossible even to report the actual situation.

As a result, to continue the true report meant that the newsperson was sacrificed and injured, or had to leave before it, and the newspaper only closed it

For a long time, the oppression had strengthened, but Peace Preservation Law enacted in 1925 came to stop their resistance finally.

The government officials not only used violence directly but also assisted violence by no arresting the right wing that penetrated into a newspaper office with having swords.

 

The people knew a part of the oppression and violence, but public opinion to stop it did not increase.

 

2A-C means the whole change of the society, and if it didn’t occur, the result would be different.

The social trend became exclusive, came to wish Japan’s advancement to the continent, and came to accept the domestic control.

 

3 is a peculiar problem of the war coverage, it continues to happen in the world.

The dilemma for news media to report truth has always been balancing military’s cooperation with military’s control.

 

This continues next time.

 

 

少し説明を加えます。

1A、1Bは新聞社への弾圧で、転向せざるを得ない最大の理由でした。

弾圧は過酷で、その実態を報道することすら不可能になっていました。

結局、真実の報道を続けることは記者が死傷するか辞めるかであり、新聞社は廃業する以外に道はなかった。

弾圧は以前から強まっていたが、止めは1925年の治安維持法発効で、1928年には同法に死刑が加わり、また憲兵隊に思想係がおかれ、警察に替わって徹底的な弾圧が行われるようになった。

政府批判を封じ込める弾圧は報道機関だけでなく議会にも及び、社会全体に浸透していった。

1Bでは、官憲は直接に暴力を振るうだけでなく、刀剣を持ち新聞社に乗り込む右翼分子を放任することで加担した。

 

国民はこの弾圧や暴力の一部を知ってはいたが、これを止める世論が高まることはなかった。

 

2A、B、Cは社会全体の変化で、もしこれがなければ結果は違ったことになっていただろう。

2Aについては組織的な煽動もあるが、社会の風潮は排他的になり、大陸進出を望むようになり、国内の統制も容認するようになっていた。

 

3は戦争報道特有の問題で、今も世界で起こり続けています。

報道が軍の協力を得ながら、その圧力に抗して真実を伝えることにはジレンマがあります。

第二次世界大戦時の独日米英の戦争報道には大きな差がありました。

そこには、長年築き上げた国民の報道意識の差が反映していたようです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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社会と情報 54: 戦った報道 11


1 張作霖爆殺事件

< 1. 張作霖爆殺事件 >

 

今日は、日本がやがて泥沼に足を取られることになる中国侵攻に大きく踏み出した状況を見ます。

この頃、戦争を画策していた者だけでなく、半信半疑だった国民も大陸侵攻に大いに沸き立つようになっていた。

その潮目は、1920年代中頃から1930年代初期、大正から昭和にかけてであった。

 

2 済南

< 2. 山東省と済南 >

 

はじめに

当時の大きな変化を単純化することには無理がありますが、あえて特徴的な二つの事件報道だけを取り上げ、後にその変化の要因を概観することにします。

この特徴的な事件とは、1928年5月の斉南事件と1931年9月の柳条湖事件です。

 

済南事件の報道

「天津四日・・発 唯今当地に入電せる確報によれば昨日南軍に虐殺された邦人は280名に達し、これらはいずれも我軍警備区域外居住者である。」注釈1

これ以外にも様々な被害を伝える外電が新聞社に飛び込んで来た。

 

「東京日日」はこの電報を社説で取り上げ、謀略性を追及した。

「この北京、天津からの電報は、そのほとんどが、我が官憲、軍憲から発信されたものと見るほかない。しかるに彼らは直接本国に向かって、何ら責任ある報告を発しておらぬ。・・ただ新聞電報だけによって、いたずらに感情を刺激し、興奮せしめておるのみである」

 

事件の要点

1914年、日本軍は第一次世界大戦に乗じて山東省に侵攻し、青島と斉南を手に入れ、当時、この地に邦人17000名が居留するまでになっていた。

しかし中国の反発は強く、各地で暴動が起き、日本軍は居留民保護の為に1926年から派兵を行っていた。

当時、中国は革命後の内戦状態にあり、北伐中の蒋介石率いる軍と日本軍の間で武力衝突が起き、日本の死者は居留民14名、軍人26名であったが、中国軍の死者は6000名近くあった。

これ以降、益々排日運動は高まっていった。

 

軍部の謀略と情報操作は既に常態化しつつあったが、まだ新聞は軍部に逆らい真実を追究する姿勢を持っていった。

 

3 柳条湖事件

< 3. 朝日の柳条湖事件報道、9月19日付け >

 

柳条湖事件の報道

「三四百名の支那兵が満鉄巡察兵と衝突した結果、ついに日支開戦を見るに至ったもので明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭になった」注釈2

事件は満州において9月18日夜半に発生したが、翌日の朝には「朝日」の号外に載った。

 

 

事件の要点

この事件は関東軍(現地派遣部隊)が満州占領の口実にするために、中国軍による列車爆破と発表した自作自演の謀略だった。

以前、斉南事件の1ヶ月後、関東軍は同じ満州で列車爆破による要人暗殺(張作霖爆殺事件)を起こしていた。

 

実は、柳条湖事件の翌日、奉天総領事は外相にあてて「軍部の計画的犯行」との電報を打っていた。

しかし政府と軍部はこの謀略を隠し、さらに新聞各紙も軍の行動は時宜を得た快挙であると讃えた。

こうして関東軍の意図通りに戦端は開かれ、中央は後追いの形で満州事変を拡大することになり、やがて日本は中国に深く侵攻し、よって米英の反感を買い、ついには太平洋戦争へと進むことになる。

 

4 地図

< 4.柳条湖事件の発生場所 >

 

なぜこのようなことが起こったのだろうか

実は、号外の一報を送った現地の朝日記者は関東軍の首謀者の一人石原中佐とは意気投合していた。注釈2

彼は自らも「日本の人口問題と食糧問題の解決には満蒙大陸が必要」とし、それは侵略によらずに可能と考えていた。

 

しかし、事は一人の問題で留まらず、軍部への同調は今や新聞の中枢に及んでいた。

 

憲兵隊秘密報告書に以下の記載があった。注釈3

「大阪朝日新聞社今後の方針として軍備の縮小を強調するは従来の如くなるも、国家重大事に処し、日本国民として軍部を支持し国論の統一図るは当然の事にして、現在の軍部及び軍事行動に対しては絶対批難批判を下さず極力これを支持すべきことを決定・・」注釈3

これは柳条湖事件の約1ヶ月後、重役会にて行われていた。

 

一方、「毎日」は「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」と銘打ち、「読売」は他社に遅れまいと満州事変報道のために夕刊を発行し始めた。

こうして日本の報道は無道な転向を始めた。

 

5 証拠

< 5.柳条湖事件の捏造証拠、中国軍の所持品 >

 

この事件の重要な点

当時、軍部と官憲は暴力や謀略で国内外の問題を解決することに躊躇せず、また事実を捏造し情報操作し、かつ秘密裏に行うことが出来た。

また過激な一部軍人は他国を軍事力で制圧することに躊躇なく、政府と国民はそれにつられるように深追いすることになった。

これらが太平洋戦争敗戦まで巧妙かつ大規模に行われるようになり、国民は真実を知らぬまま暴挙を止めるどころか盲目的に献身することになった。

 

この暴挙を止める社会的機能としては政党や議会があり、また報道にもその役割があったが、1920年を越える頃からどれも徐々に機能しなくなっていった。

そこには国民と国家、民族を巻き込む「戦争の甘い罠」に呪縛されていく状況が、繰り返されていた。

これは古代ギリシャやユーゴ内戦、米国のベトナム戦争とイラク戦争にも通じる。

 

 

次回、なぜこのような報道の転向がわずか3年ほどの間に起こったかを見ます。

 

 

注釈1:「戦争とジャーナリズム」P224から引用。

注釈2:「新聞と戦争」(朝日新聞出版、2008年刊)P182~185から引用。

注釈3:「戦争とジャーナリズム」P261から引用。

 

 

 

 

 

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社会と情報 53: 戦った報道 10


    1石橋湛山 

< 1.石橋湛山 >

 

今日は、大正時代後期(1920~1926年)の報道と政府、そして民衆の動きを見ます。

そこからは既に行進する軍靴の音を聞くことが出来るかもしれません。

今回は、一人の人物と一つの事件を追うことで、当時の社会が見えてきます。

 

 2尾崎行雄

< 2. 尾崎行雄 >

 

事の始まり

1921年2月(大正10年)、「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄より「軍備制限決議案」が提出されたが、圧倒的多数で否決された。

増強に次ぐ増強で膨れあがる国防費はこの前後9年間で2.5倍に膨れ上がっており、さらに第一次世界大戦後(1920年~)の恐慌が追い討ちをかけて財政は困窮していた。

しかし、議会の大半は軍部を恐れ、この法案を通すことが出来なかった。

 

3月より「朝日新聞」は「軍縮縮小論」を連載し、世論も軍縮が大勢になっていった。

11月、米国より要請のあったワシントン軍縮会議に日本は参加し、艦艇比率を押さえられ、中国進出に釘を刺されることになった。

 

この1ヶ月前、雑誌「東洋経済新報」に社説が載った。

それは度肝を抜く、当時の風潮に真っ向から逆らうものだった。

 

『一切を棄てる覚悟』と題し、「ワシントン会議を従来の日本の帝国主義政策を根本的に変える絶好の機会として歓迎する」とした。

彼の提言を要約すると、

  • 1.経済的利益を見るに、現状の4ヵ所の植民地を棄て、米英との貿易促進こそ重要。
  • 2.植民地放棄こそ戦争を起こさせない道だ。
  • 3.植民地は排日などで騒然としており、既に帝国主義の時代は去った。

 

これを書いたのは石橋湛山(戦後総理)で、彼は終始一貫して経済的合理性の立場から軍閥の肥大化、侵略に反対し続けた唯一のジャーナリストと言える。

彼は第一次世界大戦参戦に反対し、日本の新聞があげて賛同した対支21か条(1916年)をも批難した。

当然、「東洋経済新報」は政府から監視され、インクや紙の配給を制限されたが廃刊は免れた。

 

もしこの年、尾崎行雄と石橋湛山の思いが政府に通じ転換が図られたら、太平洋戦争へと向かわなかったかもしれない。

 

3震災

< 3.関東大震災 >

 

関東大震災がもたらしたもの

1923年9月1日、大地震により焼失戸数45万、死者10万、罹災者340万人の被害が発生した。

しかし、「報道と社会」の面から見ると、このどさくさに引き起こされた朝鮮人虐殺と甘粕事件、亀戸事件が重要です。

この三つの事件に共通しているのは、デマに振り回される民衆と官憲が関わっていたことであり、これ以降思想統制が露骨に強化されていくことになる。

 

少し言論と思想弾圧の流れを見ておきます

政府は、自由民権運動を抑える為に、1875年、新聞紙条例(発禁処分)と誹謗律(懲罰)、続いて集会条例(許可制、解散)、保安条例(放逐)を制定していた。

1920年代、労働争議は年数百件、小作争議は年2000~3000件へと増大していた。

大正デモクラシーで盛んになってきた労働・社会運動を禁圧する為、政府は1900年、治安警察法(解党)を制定し、その後の1925年には治安維持法で弾圧体制を完成させることになる。

 

三つの事件の概要

朝鮮人虐殺事件

「朝鮮人が放火し、井戸に毒を入れ、数千人が大挙して日本人を襲っている。戒厳令を敷いたので、厳密なる取り締まりを加えるべし。」

警視庁は、地震の翌日には、このような通達を出し、4000もの自警団が組織された。

この手のデマは地震の3時間後には警視庁に記録されていた。

こうして、朝鮮人虐殺が始まり、日本人と中国人を含む2000~6000人が民衆によって虐殺された。

 

4亀戸事件

< 4.亀戸事件の被害者 >

 

亀戸事件

以前から警察署に労働争議で睨まれていた平沢ら10人が、震災で混乱していた9月4日に捕らえられ、署内で騎兵連隊の兵によって拷問を受け刺殺された。

治安当局は10月10日、この事件を公表した。

 

5甘粕

< 5.甘粕大尉 >

 

甘粕事件

9月16日、社会運動家(無政府主義者)で名を馳せ睨まれていた大杉栄と妻ら三人が、憲兵隊司令部に連行された夜に憲兵大尉甘粕によって虐殺され、遺体は井戸に遺棄された。

陸軍省は24日、大杉殺しを発表し、軍法会議で裁く旨を報じた。

甘粕は懲役10年を言い渡されたが秘密裏に2年で出所し、満州で特務工作を担い、満州建設に一役買い、満映の理事長を務めた。

 

 

震災時、報道はどうしていたのか

まだラジオも電話も普及する前で、東京の新聞社の多くは焼失し、交通網は途絶していたので新聞機能は麻痺していた。

新聞の中には「東京全域が壊滅・水没」「三浦半島の陥没」「政府首脳の全滅」等のデマを取り上げるところもあった。

 

政府の言論統制が即刻始まり、新聞記事の取り締まり-検閲、前述事件の取り扱い禁止等、が11月末日まで続いた。

この間、発禁処分は新聞48、雑誌8であった。

こうなると、上記三つの事件は当局の都合の良いように報じられることになる。

 

 

「報知」は9月3日、朝鮮人虐殺事件について号外でこう報じていた。

「伝えるところによれば、昨日程ヶ谷方面にて鮮人約200名徒党を組み・・・暴動を起こし同地青年団在郷軍人は防御に当たり鮮人側に10余名の死傷者をだし・・」

 

また「読売」は当局による亀戸事件発表の翌日、こう報じた。

「・・署長が平沢らの収容所内の騒ぎが他に及ぶのを恐れて・・近衛騎兵連隊を呼んだ。・・平沢らを中庭に連れ出した兵士らは『静粛にしろ』というと、平沢らは一斉に『お前達は資本家の走狗として俺たちを殺すのだろう』と叫び、・・・『革命を見ずして死ぬのは残念だ』と絶叫し、・・胸部を刺されて・・死体を横たえた」

彼らの遺体の拷問跡や他の証言により、これはデタラメであることが判明している。

 

地震当日、朝日新聞の経理部長石井(戦後衆議院議長)は警視庁に非常食を分けて貰う為に使者を使わし、庁内の状況を探らせた結果、朝鮮人暴動のデマの発信源は警視庁だと判断した。

彼は記者に取材にあたって「朝鮮人騒ぎは嘘で、騒いではいけません」と触れ回るように伝えた。

 

民衆はどうだったのか

10月9日、「東京日日」は甘粕大尉を「残忍冷酷、正に鬼畜の所業である」と報じた。

しかし、民衆には憲兵が不逞の輩を退治したのであって、甘粕を国士と見る支持者も多かった。

在郷軍人会なども動き、一般から集まった彼の減刑嘆願書の署名数は実に65万に達した。

 

何が変わっていったのか

既に社会は保守的傾向-国粋主義的で排他的な傾向、を強めており、民衆もそれに引っ張られていった。

多くの報道機関はまだ政府に抵抗していたが、報道規制やあらゆる手を使う政府の弾圧の前になす術は限られ、御用新聞や飼われていた右翼の教宣活動は力を持ち始めていた。

 

一番重要なのは、警察や軍隊、政府がこれで味を占め、報道規制だけでなく露骨な謀殺・謀略を行うようになっていたことです。

甘粕大尉の扱いは、1931年、満州事変の首謀者石原中佐の扱いと同じです。

また上記デッチあげ事件は1928年の済南事件(中国)に通じ、これらの扱いは敗戦までエスカレートして行くことになる。

 

こうして日本は、政府の権力と暴力によって報道は麻痺し、民衆は思うままに踊らされることになった。

 

次回に続きます。

 

 

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社会と情報 52: 戦った報道 9


    1シベリア出兵

< 1.シベリア出兵 >

 

今日は、報道が権力に屈服する瞬間を追います。

この年は、奇しくも日本が大陸進出へと大きく踏み出した年でもありました。

 

 2新聞

<2. 米騒動を伝える新聞 >

 

1918年に何が起きたのか

この年の7月、富山で米騒動が起こり、またたく間に全国に飛び火した。

8月、日本軍73000人がシベリアに出兵し、1922年まで駐留した。

9月、寺内内閣が総辞職し、次いで初の政党内閣が誕生した。

 

そして10月、新聞「大阪朝日」の社長と編集局長らが大挙辞任し、政府に陳謝する事態が起きた。

 

この事態が起きた背景を見ます

1914年に第一次世界大戦が起きたことにより、日本は好景気に沸いたが、インフレと経済格差が貧困層を襲った。

またこの大戦とロシア革命(1905年、1917年)は日本の軍事状況を大きく変えることになった。

一つに、1914年、同盟国英国は極東で戦闘が始まれば援助を希望すると伝えて来たが、日本はその前に軍隊を派遣し中国に駐留した。

さらに1918年、英仏米はドイツを牽制しロシア革命を阻止する為に、シベリア出兵を日本の7000名派兵で合意した。

しかし日本は10倍を越える派兵を行い、停戦で英仏米が撤退した後も駐留し、領土的野心を露骨にした。

この年、軍事費は国家財政の30%を越えた(日露戦争では80%)。

 

これらことも重なり米価は高騰し、地方の不満を爆発させ米騒動の引き金になった。

 

3侵攻

< 3. 当時の日本帝国の占領地 >

 

なぜ日本は軍事侵攻を押し進めたのか

前回見たように、1914年、不満を持つ国民は国会を取り囲んで海軍の山本内閣を打倒したが、この時、もう一つの不満要因があった。

1913年、南京で邦人3人が中国軍によって殺害されたが、その対応で政府は弱腰外交と批難され、右翼により外務省局長が暗殺されていた。

 

1914年、日本がドイツに宣戦布告した時、新聞「東京朝日」と「東京日日」は、この政府の方針について、軍事的・経済的利益拡大の意義を強調し、中国領土の侵犯を容認する社説をかかげて支持していた。

こうして軍部と右翼だけでなく国民世論も大陸侵攻へと傾斜しつつあった。

 

反権力をかかげて部数を伸ばして来た大手新聞も、国家主義から抜け出すことが出来ず、また政府を非難することで民衆の関心を惹く一面もあった。

 

但し、論説誌「東洋経済新報」のみ、これに警鐘を鳴らした。

「野心を遂げようとするならば、それこそ我が国家を危険に投ずる事件を発す」

これは30年後に実証されることになる。

 

結局、日本は日清戦争で得た領土(遼東半島)を三国干渉(露・独・仏)で放棄せざるを得なくなったことへの恨みと、大陸への権益拡大に釣られて侵攻を容認するようになっていた。

 

4襲われた鈴木商店

< 4. 襲われた神戸の鈴木商店 >

 

1918年の報道を追います

7月3日、富山で漁港の主婦達が積み出される米を見て米価高騰に業を煮やし、米屋を訪れ「米をよそへやらないで」と陳情した。

これが8月にかけて県内に広がっていった。

これを報じた富山の「高岡新報」の記事を県外紙が誇張した。

「2百余名の一隊が高松家を襲いたるさい、高松の妻が『苦しけりゃ、死んでしまえ』と言い放ち、一隊は大いに憤り、・・その女房を袋叩きにして引き揚げたり(高岡外電)」

これは「大阪毎日」の記事だが、「大阪朝日」も変わりはなかった。

この報道は事実ではなかったが、これが引き金になり、9月には日本全国に騒動が飛び火した。

各新聞は騒動を同情的に

報道し政府を非難する大キャンペーンをはった。

この間、打ち壊しや放火が起き、炭坑では出動した軍隊に対してダイナマイトで抵抗する事態が発生し流血事件も起きた。

 

政府は、先の「高岡新報」を発禁処分にし、米騒動に関する一切の報道を各紙に禁じた。

8月15日、これに対して新聞各社は報道禁止令の解除を求める決議を行い、内務大臣に申し入れを行い、大臣は折れた。

8月25日、その余勢をかつて大阪で朝日新聞社長が座長となり86社が集まり、「米騒動の責任追及、シベリア出兵と言論弾圧の反対を掲げて、内閣弾劾」を決議した。

 

この状況を「大阪朝日」は報じた。

「・・誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の裁きの日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の火とが呟いた不吉な兆しが黙々として、・・・人々の頭に、稲妻のように閃く・・」

 

政府はこの文言を問題にし記事を発禁処分にし、さらに9月9日、政府転覆を目指すものとして朝日を起訴した。

 

9月21日、報道攻勢にさしもの寺内陸軍大将の率いる内閣も倒れた。

彼は日露戦争で貢献し、韓国併合を推し進め、巨額資金(西原借款)を中国軍閥に注ぎ中国に深く関わり、武断政治を行っていた。

 

9月28日、右翼が朝日の社長を襲う事件が起きた。

10月15日、「大阪朝日」は突如として、社長以下、多くの編集局長が辞任し退社した。

12月4日に判決が下され、朝日の執筆記者は禁固二ヶ月と軽微で済んだ。

 

5寺内

< 5. 寺内首相 >

 

朝日に何が起きたのか

政府は「白虹日を貫けり」が秦の始皇帝暗殺を暗示させ、天皇や政府を害するものとした。

この因縁のつけ方は、秀吉が大徳寺三門の件で千利休を、家康が方広寺の「国家安康」で秀頼を追いつめるのに使ったものと同じです。

 

こんなことで簡単に大新聞が転向するものなのでしょうか

 

当時、関西では不買運動が起こり、右翼系新聞は朝日攻撃のキャンペーンを張り他紙も追随していた。

この右翼系新聞を動かしたのは内務大臣の後藤新平で、後に官僚出身の正力松太郎が読売を再建する際に多額の資金援助をしている。

 

一番、朝日が恐れていたのは新聞の発行停止の判決が出ることだった。

これを防ぐには判決が出る前に、朝日自ら政府に陳謝の礼を尽くすことで、政府はこれを待っていた。

そして、朝日は判決日の直前12月1日に、自ら違反したことを認め、改めることを新聞に載せた。

 

これを期に反権力の先鋒だった大手新聞は沈黙し、やがて迎合していくことになり、日本は太平洋戦争へとひた走ることになる。

記者たちの抵抗は続くが、さらなる一撃が待ち受けていた。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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社会と情報 51: 戦った報道 8


1山本権兵衛

< 1.山本権兵衛第、16・22代の内閣総理大臣 >

 

今日は、国民と報道が続けて腐敗した政権を引きずり降ろした状況を見ます。

そこでは大正デモクラシーが光りを放っていた。

 

勝手ながら10日間ほど、ブログを休ませていただきます。

 

2シーメンス事件の風刺画

< 2. シーメンス事件の風刺画 >

 

この時代

明治の終わりから大正にかけて、多くの馴染みのある文学や事典が出版され隆盛を迎えた。

文学作品では夏目漱石「吾輩は猫である」、石川啄木「一握の砂」、芥川龍之介「羅生門」、事典では三省堂「辞林」、丸善「ブリタニカ」、文庫では岩波文庫、新潮文庫などが発刊された。

まさに出版と報道が一体になって政治と社会に物言い、国民はそれを期待した時代だった。

 

政権はどうなっていたのだろうか

1901年からの内閣を見ると、桂(長州陸軍)、西園寺(公家)、桂、西園寺、桂と元老のお手盛りで首がすげ替えられていた。

前回、紹介した大正政変で桂内閣は総辞職したが、次いで政権を取ったのは山本(薩摩海軍)だった。

それは山本が護憲運動を訴え議会の過半数を制していた政友会を閣僚の椅子を餌に抱き込んだからだった。

これは前任者の陸軍増強から、軍艦建造による海軍増強に代わっただけで、むしろ国庫の圧迫は酷くなり、国民の望んだ減税は遠のくばかりだった。

 

3村田保

< 3. 村田保、貴族議員、法制官僚 >

 

この時、事件が起きた

1914年1月、ロイター電が入った。

「ドイツのシーメンス商会が高地位にある日本の海軍官吏に贈賄したること明である」(「東京新聞」の報)

この1ヶ月後、野党は内閣弾劾決議案を提案したが、多勢に無勢で否決された。

数万の民衆が議会を取り囲み、政友会本部、政府系の新聞社が襲撃され、ついには軍隊の出動で蹴散らされた。

さらに1ヶ月後、議会で一人の貴族院の老議員村田が、山本内閣に訴えた。

「この貴族院が、この海軍補充計画に大削減を加えましたのは、・・・今の内閣は、国家の体面を傷つけ、人民の世論に背き、・・・人民が営業税の苛税に苦しんでいるからです。」

「兵力を用いず凶器をも用いぬ者を、兵力を発して、これを鎮圧するとは陛下に対してもすまぬこと」

最後に、「もし大西郷が生きていたら、閣下も切腹せられるべき一人ではないか」と言い、辞職を迫った。

この発言で、彼は議員を辞めさせられた。

 

4シーメンス事件の号外

< 4. シーメンス事件の裁判を知らせる号外 >

 

新聞は事件をどう報じていたのだろうか

「東京朝日」は連載で海軍の不敗をキャンペーンした。

「海軍の痛嘆すべき不正行為、即ち収賄の源泉は30年前に発している。帝国海軍の最初の大臣に始まり、山本に至っては金の置き場所が日本一国では足らず、遠くイングランド銀行にまで隠しているほど」

 

「東京日日」も連載で海軍の金権体質を指摘した。

「大阪毎日」

「・・建造を海外に依頼しているが、・・・日本のエージェントは日本からの注文には、みな何割かのコミッション(5%?)を贈ることになっている。ゆえに海軍拡張を真面目くさって主張し要求するゆえんのものは私腹と私権を肥やすためと言われても仕方がない」

 

日清日露戦争を通じて、日本軍国主義は確立し伸長した。

国民はその軍国をむしろ助長さえした、しかし、やがて軍政や軍閥の横暴に嫌悪し始めた。報道もそれに加勢した。

 

記者達はどう行動したのか

民衆が議会を取り囲んだおり、警官隊が抜刀しで民衆に切りつけ、「東京日日」の記者も頭部に重傷を負った。

この事件を取り上げて攻撃した新聞はあいついで発禁を命じられた。

 

もはや座視するわけにはいかないとし、同年2月、全国記者大会を開いて言論擁護、原内相弾劾決議をおこなった。

さらに、その代表であった新聞「万朝報」社主が天皇への上奏文を書いた。

彼は、内閣への紙上攻撃を部下に任せ、演説会で弁舌を奮った。

一方、警察は「万朝報」社の門前で張り番し、版を差し押さえた。

この攻防は繰り返されたが、ついに山本内閣は退陣となった。

 

ここに日本の国民と貴族院、報道が力を合わせ、政府の横暴(薩長の軍拡競争、元老の暗躍、増税)に拒否を示し、二度まで内閣を退陣させた。

 

5万朝報と社主黒岩

< 5、 「万朝報」の社主黒岩 >

 

しかし陰りも見え始めた

山本内閣が倒れた後、「万朝報」の社主は出馬をしぶる大隈を説得するために、全面的な協力を申し出た。

そして大隈内閣が誕生した。

しかし、これは彼の信条「反権力新聞」を放棄したことになる。

新聞は大隈の政敵政友会の打破に一役かい、第一次世界大戦の日本出兵を支持した。

こうして「万朝報」は御用新聞化し、読者はみるみる減り、昭和の初めには消えた。

 

次回は、報道の転機となった事件を追います。

 

 

 

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社会と情報 50: 戦った報道 7


   1著作2  

  • * 1

 

今日から、1920年代と1930年代にかけて報道が活躍した様子を見ます。

数回に分けて、主に新聞社と記者達の動きを追います。

 

 2著作1

*2

 

参考図書

「戦争とジャーナリズム」茶本繁正著、三一書房、1984年刊。

著者:1929年生まれ、「主婦と生活社」退職後評論活動。

 

「帝国主義と民本主義」武田晴人著、集英社、1992年刊、日本の歴史全21巻の一冊。

著者:1949年生まれ、東京大学教授。

 

この連載の既述の多くは両著作から引用しますが、要約するために短縮し編集しています。

 

 

大正時代のはじまり

「これからの日本の乱れ!」

これは足尾銅山鉱毒事件に一生を費やし戦った田中正造が永眠する時の言葉でした。

 

この前年の大正元年(1912年)、朝日新聞の石川啄木は詩を書いていた。

「はてしなき議論の後の/ 冷めたるココアの一さじをすすりて/ そのうす苦き舌触りに/ われは知る、テロリストの/ かなしき、かなしき心を。」

この詩は多くの社会運動家が処刑された大逆事件(1910年)を歌ったものです。

 

明治時代は、日清・日露戦争と韓国併合によって大陸進出を果たし、天皇崩御で終わりを告げた。

国の財政は戦費の返済で悪化していたが、大陸進出の立役者である軍には勢いがあった。

軍は内閣に更なる軍拡(2個派遣師団の増設)を訴え、聞き入れられないと見るや天皇を巻き込んで(統帥権干犯)、内閣の解散を引き起こし抵抗した。

 

「頑強なる陸軍の要求は、口に国防の本義をうんぬんするも、実は海軍との競争、さらには閥族の権勢維持に努めんとするものにして、国家の財政を考慮せず、国民の善悪を眼中におかざる無謀の行い」

東京日日新聞はこのように指弾し世論を背景にして軍部攻撃を展開した。

 

「(今回の政変は)・・、男女学生より素町人、土百姓、馬丁車夫に至るまで、湯屋髪結床にて噂の種になり、元老会議の不始末に対しては、裏店井戸端会議に上り、炊婦小間使いまでがひそかに罵り合う次第にて、近来珍しき政治思想の変化普及を実現いたし、万一新聞社が教唆の態度に出れば焼き討ち事件の再燃もあることをご高察下さい」

これは大阪毎日の社長が逓信省大臣に宛てた親書で、当時の国民感情と一触即発の様子を伝えている。

 

1913年1月、新聞記者約400名が全国記者大会を開き「憲法擁護・閥族掃討」の宣言を発した。

こうして天皇周辺(公家、侍従)と明治維新の元勲(薩長閥)の軍人らが政治を私物化していると、国民と新聞が一緒になり攻撃し大正政変が起こった。

 

3桂太郎弾劾演説

< 3. 桂太郎弾劾演説 >

 

その年の2月、衆院本会議で内閣弾劾決議案が上程されたおり、議員の尾崎行雄が演説を行った。

「彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の公務文書)をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」

桂首相(長州軍人で元侍従長)も軍部も天皇を利用し、政治的決着を図っていた。

 

4国会に押し寄せる民衆

< 4. 議事堂に押し寄せる民衆 >

 

その5日後、議会は数万の民衆に包囲され、これを排除しようとする警官隊と衝突し、流血の惨事が発生した。

 

大阪毎日はこれを報じた。

「騎馬巡査は群衆のなかに躍り込み、罪の無い良民を馬蹄に踏みにじった。・・都新聞社付近にて一大接戦となり、一巡査は抜刀したのでこれを一大学生が奪い取って非立憲だと大喝する。群衆はソレやっつけろと数カ所で巡査を包囲し、・・・」

激昂した大衆は、御用新聞「国民」「都」・・「報知」「読売」を襲った。

 

後に朝日の記者が語っている。

「群衆の一人が国民新聞の大看板を引きずりおろそうとしたので、副社長が抜刀で飛び出し斬りつける。・・。社長徳富蘇峰の車夫が副社長危うしとみてピストルを撃ち、群衆の一人が死ぬ。」

 

大阪毎日はこう報じた。

「報知新聞襲撃を終えた群衆は、すぐその前の東京日日新聞社前に赴き万歳を唱えた」

 

5政党を風刺

< 5. 当時の政党を揶揄した風刺画、桂屋は桂内閣を指す >

 

この間の事情は石川啄木が前年に書いた日記からわかる。

「万朝報(新聞)によると、市民は交通の不便を忍んでストライキに同情している。それが徳富蘇峰の国民(新聞)では、市民が皆ストライキの暴状に憤慨していることになっている。小さいことながら、私は面白いと思った。国民が団結すれば勝ということ、多数は力なりということを知っているのは、オオルド・ニッポンの目からは、無論危険極まることと見えるに違いない」

 

この焼き討ち事件のとき、新聞は桂派と憲政擁護派に分かれて対立した。

憲政擁護派は新聞と政党が組み、全国記者大会に結集した新聞「万朝報」「時事」「朝日」「東京日日」「東京毎日」などであった。

 

こうして翌日、権謀術策でならした桂内閣は崩壊し、新聞と民衆が初めて倒した内閣であった。

また御用新聞は読者を失い、「読売」は経営的に追い込まれ、主筆が社を去った。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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