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徳島の海岸と漁村を巡って 5: がんばれ日和佐


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今回は、美波町日和佐地区を紹介します。

ここには薬王寺と海亀産卵の大浜海岸があります。

幾度も来た所ですが、懐かしさよりも驚きが勝ちました。

 

 

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< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 日和佐地区の全景

S: 散策の開始点と終着点、A: 日和佐城、 B: 薬王寺

下: 散策ルート

黄色線が恵比寿浜からのドライブルート、赤線が散策ルート、ピンク線が宍喰へのドライブルートです。

S: 散策の開始点と終着点

A: ㈱あわえ、地方創世で活躍する企業、散策中偶然知りました。

B: 観音寺

C: 美波町役場、御陣屋(郡代)跡

D: 弘法寺

E: 八幡神社

F: 日和佐漁協

G: 日和佐城

H: 大浜海岸

 

 

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< 3. 大浜海岸 >

 

防波堤のS辺りからの眺め。

右手から左手への眺めを、上から順に並べた。

 

上: 日和佐川の河口で、漁港への入り口でもあります。

中: 遠方左手に恵比寿浜と恵比寿洞

下: 大浜海岸、海亀が5~8月にかけて夜、産卵に上陸します。

 

 

 

 

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< 4. 日和佐漁港 >

 

昼1時を過ぎていたこともあり、ほとんど人影はありませんでした。

 

 

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< 5.町に入ります >

 

上: 海側から内陸側を望む。

中央に白い津波の避難タワーが見えます。

 

下: 特段、漁師町を感じさせるものはありません。

 

 

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< 6. 古風な家屋がありました >

 

下: 大きな家がありました。

全景は次の写真です。

 

 

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< 7. 廻船業で財を成した屋敷 >

 

上: ここは江戸末期より廻船業で成功を収めた「谷屋(たんにゃ)」です。

その繁栄ぶりは子供たちの遊び唄になったほどで、門構えは立派です。

現在改装中で入れませんでした。

 

下: 多くの家は改装が進んでいますが、写真のように昔の雰囲気を残す工夫が見られます。

 

 

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< 8.古い銭湯  >

 

上: 銭湯の建物

私が、この趣のある建物で足を止め、石柱の「世間遺産・・・」に首をかしげていると、中から一人の男性が声を掛けてくれました。

呼ばれるままに中に入ると、そこは大正時代からの銭湯でした。

 

下: 事務所の内から表通りを見ている

中央に番台が見える。

 

 

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< 9. (株)あわえ >

 

実は、ここは銭湯の建物を保存しながら、ITソフトウェア開発と地方創生を行っている事務所でした。

上の写真の人物が案内してくれた社長です。

非常に気さくで、情熱を感じました。

 

彼を主人公に映画化されたのが、下の写真のポスターです。

味のある役者と日和佐の風景や暮らしが沢山出て来ます。

公開は2019年4月でした。

 

私は、これまで様々な国と日本の地方を訪れて、答えの見つからない問いを抱えていた。

北欧や中国では地方に行っても豊かさや発展を感じます。

北欧では、田舎は自然を生かした暮らしがあり、寂れている感じはなかった。

その一方、日本のほとんどの地方の町や村は活力を失い寂れています。

再生の術はないのかと・・・

 

この社長と言葉を交わす内に、日本にも可能性があると勇気づけられました。

詳しくは、後述します。

 

 

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< 10. 美波町役場 >

 

明治が始まる60年前から明治に至るまで、ここに”御陣屋”(郡代所)

が設けられていました。

今は美波町役場です。

 

上: 役場前の史跡の説明板

 

下: 津波避難場所の看板

この町も、津波が襲って来ればひとたまりもありません。

この町の中で、避難出来る避難タワーは、先程の物とこれから紹介する物の二つで、後は数カ所の数階建てのビルだけです。

他は、裏の山に登るしかありません。

 

ここでも厳しい現実を見せられました。

 

 

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< 11. 観音寺 >

 

上: 観音寺

ここは三十三観音霊場の第八番です。

徳島海部郡をドライブしたり散策していると、海岸沿いの険しい道程、お遍路さんの路になっていました。

 

下: 広い道から狭い路に入ると石垣(塀)が所々に見られました。

道幅が狭く、漁師町の風情を残しています。

 

通る所が悪いのか、東由岐で見た「ミセ造り」などの漁師の民家を見ることはなかった。

どこかに残っているはずなのですが。

 

 

 

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< 12.弘法寺 >

 

上: 弘法寺

江戸末期、日和佐の行者「栄寿法印」が評判を呼びました。

彼は荒行の末に数々の奇跡を行い、小松島では化け物を退治したそうです。

 

この寺は明治に入って信者によって建てられた。

石像は栄寿法印かもしれません。

この前の路は、かつて水路で船が入って来たそうです。

 

下: 山側(北側)の広い通り

東側を見ている。

通りの左奥に見える木々は八幡神社の境内のものです。

 

 

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< 13. 日和佐八幡神社 >

 

上: 町民グランドの端に避難タワーが見えます。

 

下: 日和佐八幡神社

広い境内の周囲にだんじりの格納庫がたくさんありました。

10月中旬、布団だんじりが出て秋祭りが盛大に行われる。

この海岸側にウミガメ博物館があり、トイレもあります。

 

 

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< 14. 大浜海岸に沿う通りより >

 

上: 遠方中央に、薬王寺が見える。

 

下: 防波堤の先端より、日和佐の町を望む。

一周し終わりました。

 

次の訪問地、宍喰を目指しドライブします。

 

 

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< 15. 厄除け橋より >

 

地図のピンク線の橋の上から日和佐川の河口を眺める。

右手の小高い丘の上に日和佐城が見える。

翌日、またここを訪れます。

 

 

* (株)あわえと地方創世 *

 

この美波町(由岐、恵比寿、日和佐も含む)は5年間で10%ほどの人口減が続き、65歳以上が占める高齢化率は日本の平均37%を上回り51%です。

また一人当たりの市町村民所得は182万円で、徳島県の最下位で、トップ阿南市の半分に過ぎません。

 

町を歩いても、見かけるのは高齢者が多く、家屋の新築も少ない。

漁師に声を掛けても、減り続ける漁獲量への嘆きが聞こえ、実際、漁獲量は減る一方です。

 

なぜ日本は、こうも地方の衰退が当たり前のように進むのか?

高齢化? 成長しない経済? それと生活スタイル?

前者二つは国の無策に起因しているが、後者はそれだけとは言えない。

 

例えば、クロアチアや北欧の海岸を行くと、豊かな自然が残る海岸に別荘が並び、港は漁船でなくレジャーボートで埋め尽くされていた。

スウェーデンでは、職住の地を郊外に求めるブームが起きているらしい。

それは物価が高く自然に乏しい都会を避け、仕事が終われば自然を愉しむことできる地を人々が求めているからです。

 

世界的には大都市への人口集中は穏やかになる傾向にあるが、日本だけはまだ続いている。

 

ところが、「あわえ」の社長の話を聞き、調べてみると、美波町に明かるい兆しが見える。

 

彼は、この地で生まれ、東京でセキュリティソフトの開発販売を手がけるようになった。

そして新たなワークスタイルの実現と人材採用の強化を目的に2012年この地にサテライトオフィスを開設し、現在はここを本社としている。

現在、地方と都市、自治体と企業を結び付けることにより、地域の活性化を目指している。

 

その一方、彼は漁船を所有し海釣りを楽しんでいる。

まさに職住一体で、自然との暮らしを楽しみながらリモートワークを行っている。

 

実績としては、ここ数年で19社のサテライト・オフィスをこの町に誘致し、全国1位を誇る。

日本全国の自治体100とも提携しアドバイスを行っている。

 

実は、美波町は2013年に転入者が上昇に転じ、翌年には転出者を上回った。

この町は大都市から2時間以上離れているにも拘らず、全国中でも好成績なのです。

当然、美波町も地域活性化に取り組んでいるお陰なのですが。

 

微かな動きかもしれないが、地域創生が一人の青年の想いから始まろうとしている。

 

つくづく、彼らの想いに答えられる政治が日本に興ることを願う。

そんな発見が得られた日和佐でした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场


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今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、

古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。

 

 

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< 2. 大石橋から始める >

 

上: 前回紹介した大石橋です。

これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。

最後に市場へと向かいます。

 

下: 百岁桥(百歳橋)

橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。

観光客に写真の被写体を頼まれたようです。

若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。

厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。

多くは一人から数人です。

 

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。

この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。

麗江と比べて町や川、橋は大きい。

しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。

菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。

 

 

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< 3. 様々な橋 >

 

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。

 

 

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< 4. 少し広い通りに出た >

 

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< 5. 万古楼が見える >

 

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える

 

 

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< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

 

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。

この地は松茸の産地です。

サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。

妻は、大量の干し松茸を買った。

しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。

日本の松茸とは異なる。

 

 

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< 7. 地元の人が買っているようです >

 

 

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< 8. 食材が豊富です >

 

ここを訪れたのは13:30頃でした。

時間帯のせいか、あまり客はいない。

当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。

 

 

 

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< 9. 様々な店舗形態があります >

 

 

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< 10. 肉売り場 >

 

先ず、この広さにびっくりした。

そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。

下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。

もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。

違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。

 

 

 

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< 11. 鳥や魚類の販売 >

 

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。

それも活けで売られている。

こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。

おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

 

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。

30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。

 

 

 

 

 

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< 12. そろそろ市場の端に来ました >

 

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

 

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。

しかし、中国では少し趣が異なるようです。

特に雲南省で目立ちます。

それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。

これは中国の少数民族政策の反映だと思う。

 

 

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< 13. 市場の本来の入り口 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 4: 恵比寿浜と恵比寿洞


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今回は、綺麗な湾と自然に出来た洞穴を紹介します。

少し行くと日和佐の大浜海岸に出ます。

 

 

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< 2.ドライブルート >

 

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート、上が北。

青い線がドライブルート、茶色矢印が由岐、赤矢印が恵比寿浜。

オレンジ色枠が下の写真の範囲です。

 

下: 恵比寿浜と日和佐を示す、上が南。

A:恵比寿浜、B:恵比寿洞、C:日和佐の大浜海岸

 

 

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< 3. 由岐から恵比寿浜までのドライブルート >

 

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート

私は海岸線を見ながら走りたくてこの道を選んだが、失敗でした。

海はほとんど見えず、さらに対向車線が無い。

対向車が来れば、どちらかが数百mほどバックしなければならない。

皆さんは避けた方が良いでしょう。

 

下: 恵比寿浜

ここにはキャンプ場があり、張ったテントから直ぐ前がこの海岸です。

今から三十年ほど前、台風が接近している時に子供達を連れて来ました。

打ち寄せる大きな波に嬉々としていた子供達を思い出しました。

 

 

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< 4. 左右を望む >

 

写真3の下とほぼ同じ位置から撮影。

上: 右手、西側

下: 左手、東側

 

 

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< 5. 恵比寿浜西側より >

 

上: 中央反対側の海に突き出した小山が恵比寿洞です。

 

下: 浜の最深部で、写真の右端にキャンプ場があります。

 

 

 

< 6. 恵比寿浜橋6の上から >

 

恵比寿浜の奥に亀井港があり、その間を水路が繋いでいます。

この橋はこの水路に架かっています。

ちょうど漁船が戻って来たところです。

 

上: 恵比寿浜の沖合を見る

右手に古い石積みの堤が見えます。

コンクリートでないのが歴史を感じさせます。

 

下: 亀井港を望む

 

恵比寿浜は波浪に弱いが、奥まった亀井港なら大丈夫でしょう。

実は、紀貫之が日和佐に4泊5日しているのですが、悪天候を避けるとしたら日和佐の大浜や恵比寿浜より、この亀井港かもしれません。

 

 

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< 7. 恵比寿洞 >

 

海岸伝いに日和佐に出る途中に、この洞があります。

上の写真の看板が道の端にあり、その前に数台の駐車スぺースがあります。

この岬の小山へと進みます。

 

 

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< 8. 岬を巡る小路 >

 

駐車場から一度下って、小山を一周する小道があります。

先ずは登ります。

 

上: 眼下に後に下ることになる小路が見えます。

小路の左に洞があります。

 

下: 小山の頂に至る小路。

 

 

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< 9. 頂の展望台 >

 

上: 南側を見ている

下: 東側を望む

恵比寿浜の東側にある岬の先端

 

 

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< 10. 頂から >

 

上: 西側を望む

中央に日和佐の大浜海岸が見える。

 

下: 洞に向かって急な階段を下る

右手に洞がある。

 

 

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< 11. 恵比寿洞 >

 

上: 恵比寿洞

以前、台風接近時、ここに立ったことがある。

大きな波がこの穴を抜けて押し寄せて来る様は圧巻でした。

後で、子供連れは危険だと後悔したのですが。

 

下: 左手に洞の口が見える。

 

 

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< 12. 大浜海岸 >

 

上: 恵比寿洞を大浜海岸寄りからクローズアップで撮影。

中央が恵比寿洞の小山。

 

下: 海亀の産卵で有名な大浜海岸

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 38: 万古楼と大石橋付近のレストラン


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今回は、万古楼と大石橋付近を紹介します。

麗江で、私が最も目を奪われたのは、

大石橋付近の菊に囲まれた清流の美しい街並みでした。

この近くで昼食をとりました。

 

 

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< 2. 万古楼の入口 >

 

上: 万古楼の入口

下: 中に入ったところ

 

 

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< 3. 万古楼 >

 

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< 4. 万古楼を中心にした地図、上が北 >

 

次に万古楼の最上階から見た360度の眺望を紹介しますので、この地図を参考にして下さい。

この麗江の盆地の広さは、赤矢印の東西で幅11kmあります。

麗江市の人口は114万人です(市の範囲は写真より広い)。

ナシ族の人口は31万人だが、麗江以外にも住んでいる。

 

赤矢印: 麗江古陳内、万古楼が丘の上に建つ獅子山公園

茶色矢印: 玉龍雪山

黒矢印: 長江、下から上に(北)流れている

黒枠: 麗江三義空港

 

 

 

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< 5. 北から東までの眺め >

 

上: 真北を望む

遠方中央の小山の左麓に黑龙潭がある。

さらに遠方に雲を被った玉龍雪山が見える。

下側の木々は獅子山公園で、右手側に麗江古陳が広がる。

 

中央: 真東を望む

麗江古陳の中央でしょうか。

 

下: 東南を望む

右手前に木府の屋根(少し青みがある)が見える。

 

 

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< 6. 南から西までの眺め >

 

上: 真南を望む

遠方の丘陵地麓の左側に新幹線の麗江駅があり、その丘陵地を右に迂回したら空港に至る。

写真中央、麗江古陳の南端(瓦屋根が途切れる辺り)に、後に紹介する古城忠义市场があります。

 

中央: 南西を望む

 

下: 真西を望む

中央の山の向こうに拉市海(湖と湿地)があり、さらにひと山越えると、長江が急激に流れを変える長江第一湾がある。

 

 

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< 7.西北から北までの眺め >

 

上: 西北を望む

遠方中央、山脈が途切れる谷間を抜ける道を行くと、拉市海や長江に辿り着く。

この道の右手の山の南斜面中腹に普济寺がある。

後にこのチベット仏教寺院を紹介します。

 

かつて茶葉古道は、南の昆明、大理を経て麗江古陳を通り、ここで西に向かい、長江沿いに香格里拉、チベットに至った。

 

 

下: ほぼ北北西を望む

中央遠方、山の麓に束河古镇があります。

後に紹介します。

 

これで360度、一周しました。

 

 

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< 8. 万古楼から >

 

上: 万古楼の最上階からほぼ西を見下ろす。

 

左下: 万古楼内部。

木造造りで高さ33mあります。

 

右下: 万古楼から東側に降りたところにある展望台

 

 

万古楼からの眺めは良いが、それだけです。

万古楼から四方街への下りの道は、登りと違った道をとりました。

 

 

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< 9. 素晴らしい眺め >

 

上: 四方街

 

下: 大石橋

前夜、ライトアップされた橋と清流の眺めも魅惑的でしたが、昼も良い。

 

 

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< 10. 大石橋の上から >

 

上: 下流を望む

 

下: 上流(北)を望む

 

 

 

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< 12. 昼食のレストラン >

 

ガイドさんに紹介してもらいました。

 

上: レストランのテラス席から川の方を見る。

 

下: 店の方を見る。

ここは大石橋の川を少し北上した所にあります。

昨晩、この店の前を通った時は、非常に賑わっていました。

 

 

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< 13. 食事 >

 

メニューもガイドさんと相談しながら決めました。

この麗江は食材が豊かで松茸も採れる。

料理は彩が綺麗でしたが、深みが無く、美味しいとは言えませんでした。

どちらかと言うとさっぱりした味でした。

強いて言えば高いだけの料理でしょうか。

 

 

次回に続きます。

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2


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今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。

この漁港を歩き、

切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

上の白枠が下の地図の範囲を示す。

赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。

西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

 

S:スタート地点

A: 東由岐漁協

B: ミセ造りなどが見られる古い町並み

C: 天神社

E: かつて由岐城があった城山公園

F: 八幡神社

 

 

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< 3. 不思議なもの >

 

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。

はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

 

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。

 

 

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< 4. 広い通り >

 

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。

北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

 

下: 東西に延びる通り

中央に見えるのが城山公園がある丘です。

丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。

城の名残りは無いそうです。

 

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< 5. 八幡神社 1 >

 

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。

この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

 

下: 八幡神社の下に来ました。

 

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< 6. 八幡神社 2 >

 

上: 八幡神社の境内

実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。

そこでさらに裏山まで踏み込みました。

帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

 

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。

すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。

その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。

一瞬、寒気がした。

 

 

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< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

 

上: 前述の看板の位置からの眺め

 

下: 岡から西側を眺めた。

 

 

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< 8. 丘を西側に降りる >

 

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

 

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。

 

 

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< 9. 西由岐を行く >

 

上: 八幡神社が見える

 

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。

 

 

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< 10. 漁港に戻った >

 

上: 西由岐側を望む

右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。

黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。

10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

 

下: 東由岐の方を見た

 

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。

 

 

 

* 由岐を歩いて *

 

様々なことを知り、実感することが出来た。

 

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< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

 

上: 散策している時に見つけた表示板

これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

 

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。

八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。

しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

 

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。

徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

 

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。

さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。

高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

 

如何に日本が脆弱かを知ることになった。

 

 

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< 12. いにしえの海路 >

 

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

 

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。

船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。

左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。

右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。

 

 

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< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

 

上: 屋島の戦い

由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。

源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、

雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

 

下: 戦国時代末期の四国の勢力図

当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。

この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。

海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。

今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 

 

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< 14. 由岐漁港 >

 

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

 

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?

B: 石垣弥太郎

C: 楠本勇吉

D: 延縄漁

E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り

 

 

由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

 

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。

鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。

明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。

彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

 

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。

現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

 

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。

当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1


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*1

 

これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。

今回訪れた漁港の中では最も北にあります。

 

 

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< 2. 散策図、上が北 >

 

上: 由岐漁港を俯瞰

二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。

しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。

この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

 

下: 由岐漁港拡大

おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。

写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。

 

 

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< 3. 港を眺める >

 

上: 西由岐を望む。

 

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。

 

 

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< 4.東由岐の漁協 >

 

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。

一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

 

下: 蛸が逃げる!

ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。

私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。

 

 

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< 5. 東由岐の街並みに向かう >

 

上: 西側を見ている。

 

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。

道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。

 

 

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< 6.東由岐の街並み >

 

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。

中でも保存が良いのを撮影しました。

おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

 

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

 

外観の説明を引用します。

「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。

全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。

出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

 

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。

 

 

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< 7. 天神社の鳥居 >

 

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

 

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。

 

 

 

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< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

 

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

 

記録によると

「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。

旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」

 

 

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< 9. 天神社の階段から望む >

 

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

 

下: 西由岐の方を望む

中央奥に城山公園の小さな岡が見える。

かつて城があった。

 

 

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< 10.天神社の境内から望む >

 

上: ほぼ北側を望む。

 

下: 北東を望む

この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。

写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

 

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。

この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。

この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。

次回、この「雪湊の町」について紹介します。

 

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。

1854年、安政元年の南海地震が襲った。

1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。

1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

 

この地は、津波と共に生きていかなければならない。

 

 

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< 11. 天神社 >

 

上: 境内

 

下: 境内から北側に降りた階段

後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。

 

 

* 感想と説明 *

 

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。

それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。

一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

 

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

 

美波町について

2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。

日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。

美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。

その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。

漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。

( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

 

由岐漁港

ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。

古い町並みは東由岐に残っている。

両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。

東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。

由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している

しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

 

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。

これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。

ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

 

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。

美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。

このことは後に紹介します。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 36: 木府を訪れる


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今回は、ナシ族の統治者木氏(モクシ)の館を紹介します。

紫禁城を小振りにしたような立派な宮殿です。

 

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< 2. 散策マップ >

 

上: 麗江古陳の観光地図、上が北

茶色線が前回紹介した散策路、赤線が今回の木府への入場口、紺色線が次に紹介する獅子山公園への散策路です。

 

中央: 木府の全景、見ている方向は下地図の茶色矢印

入場口は奥の方に見える。

 

下: 木府の平面図、ほぼ上が北

赤線が入場までのルート。

主要な建物は、右から議事庁、万巻楼、護法殿です。

 

 

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< 3. 忠義坊 >

 

上: 忠義坊の前から通路を挟んで照壁を見る。

下: 忠義坊、ここを入って行く。

 

 

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< 4. 木府に入る >

 

上: 入口、平面図の議門に当たるのだろう

ここでパスポートなどを見せる。

 

下: 議事庁

木氏が政務を執った所。

 

ナシ族の首領であった木氏は元の時代13世紀より、麗江の統治を委ねられた。

以来、元、明、清の時代を22世代470年にわたって世襲統治した。

木府は麗江の政治、経済、文化の中心でした。

 

1996年の麗江大地震で大きな損傷を受けたが、元通りに再現された。

麗江古陳の街並みも同様に再現されたものです。

 

 

 

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< 5. 議事庁の前広場 >

 

上: 広場の両壁に建つ楼。

 

下: 議事庁の前から、入場口を望む。

 

 

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< 6. 議事庁の中 >

 

上: 興味をそそる像。

頭の上に抱えるのは銅鼓でしょう。

銅鼓(銅製の片面の太鼓)は雲南からベトナム北部で、紀元前5世紀頃から造られた。

主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。

 

下: 天井。

 

 

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< 7. 万巻楼 >

 

曲阜の孔子廟を参考にして建てられた書庫。

 

 

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< 8. 万巻楼の二階 >

 

 

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< 9.万巻楼の二階からの眺め >

 

上: 北の方を見ると、玉龍雪山の峰が雲間から覗いていた。

本来は主峰が左側にそそり立つているのですが。

 

下: 北東を望む。

 

 

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< 10. 護法殿 >

 

上: 護法殿。

木氏の私事的な話し合いがもたれた場所。

 

下: 万巻楼。

 

 

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< 11. 護法殿の中 >

 

下: 護法殿の奥に道教が祀られていた。

 

 

 

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< 12. 木府に特徴的な水路 >

 

湧水が豊かな麗江らしく、宮殿内には水路がはりめぐらされている。

川縁に立つ柳は中国の歴史舞台を連想させる。

 

 

* 感想 *

 

私は訪れる前、古くて小さな建物を想像していたのですが、敷地の広さ、建物の立派さに驚いた。

思ったより漢民族の宮殿に倣った建物だった。

もっとも漢民族の支配下にあったのだから当然かもしれないが。

 

麗江古陳も木府も、城壁や城砦が見当たらない。

雲南では小部族による抗争が長らく続き、8世紀以降に統一王国が形成されるようになった。

麗江は奥地だったためか、侵略されることも抗争も少なかったのだろうか?

元(フビライ)はかつて雲南からベトナムまで侵攻したことがあったが。

 

木府内に、十人ほどの白人観光客がいたので、声を掛けると、彼らはチェコから来ていた。

プラハやチェスキークルムロフが懐かしい。

白人の団体観光客は珍しかった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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徳島の海岸と漁村を巡って 1: はじめに


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これから数回に分けて、徳島、東南部の海岸と漁村を紹介します。

素晴らしい海岸の景色、漁港と漁村の風景、その暮らしを紹介します。

 

* この度の旅行について *

 

旅行したのは2020年4月23日と24日です。

 

旅の目的

  1. 昔ながらの漁師町の町並を撮る
  2. 漁港の景観、歴史、そして今の暮らしを知る
  3. 変化に富んだ海岸線と自然を撮る

 

良かったこと

天気が非常に良かったので、良いが写真が撮れた。

暑くなかったので、町や岬の散策を楽しめた。

 

各漁港で、魚の荷捌きや競りを見学することが出来た。

散策中、会話を交わし、人々の温かさや漁業の実情を知った。

漁村で大津波の恐ろしさ、また町の地域おこし活動を知った。

 

 

 

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< 2. 訪問地、上が北 >

 

私が紹介するのは徳島県海部郡の、地図のAからEまでの漁港と周辺の自然です。

A: 美波町由岐の漁港

B: 美和町の恵比寿浜と日和佐(薬王寺と日和佐城と漁港、岬)

C: 牟岐町の漁港(出羽島に渡りかったが行けなかった)

D: 海部町鞆浦の漁港

E: 海陽町宍喰(漁港と岬、宿泊地)

 

 

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< 3. 恵比寿浜 >

 

 

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< 4. ドライブ >

 

海岸線と山間を走り、ある時は岬の狭い一本道を走ったこともありました。

 

 

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< 5. 由岐と鞆浦の漁港 >

 

 

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< 6. 由岐と日和佐の古い家並み >

 

 

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< 7. 村の鎮守様とお城 >

 

下: 右の丘の上に日和佐城の天守閣が見える。

 

 

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< 8. 競りと浜 >

 

多くの漁協で魚の荷捌きや競りを見学したが、どこも快く受け入れてくれた。

様々な旬の魚を見ることが出来た。

 

 

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< 9. 四季の彩と朝陽 >

 

 

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< 10. 島、岬、浜が連なる海岸線 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 35: 麗江のホテルから木府まで


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今回は、麗江古陳の朝の風景を紹介します。

ホテルから見た玉龍雪山や古陳の甍の波、ホテルの中庭と、

ホテルから木府までの道を紹介します。

 

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< 2. ホテルの中庭から 1 >

 

宿泊した嵌雪楼客栈には中庭が三つあり、ここは一番広く、レストランと屋根付きテラス席が隣接しています。

 

上: このレストランで中華ビュッフェを食べました。

味や種類は都市部のホテルより劣りますが、安く立地と眺めが良いので申し分ないです。

 

下: 客室。

この一階が宿泊した部屋です。

 

 

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< 3. ホテルの中庭から 2 >

 

上: テラス席

朝の古陳全景と前日の夜景は、ここから撮影しました。

 

下: 左がフロント棟で、カウンターは反対側にあります。

右がレストランです。

 

 

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< 4. 玉龍雪山 >

 

撮影は7:15~30です(2019年10月26日)。

たまたまレストランで朝食ととろうとしたら、窓から玉龍雪山が見えました。

雲はかかっていたが、微かに朝焼けで輝いていました。

感激です!

 

上: 右手前の山の麓に黑龙潭があります。

 

 

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< 5. ホテルのテラス席から >

 

上: 東を望む。

玉河広場が直ぐ下に見えて、古陳は右手に広がる。

撮影は7:30頃です。

 

下: 東南を望む、古陳はさらに右手に広がる。

 

 

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< 6. 四方街まで >

 

この道は、ホテルを下って直ぐに出会う道です。

四方街に通じる道は、これと並行して他に二本あり、それぞれ趣があります。

これはもっとも丘寄りで、素朴な感じがします。

朝は商店街が閉まっているせいもありますが。

麗江古陳の道は、すべて写真のような石畳で覆われています。

趣はあるが、足には負担です。

 

 

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< 7. 途中の珍しいもの >

 

気になった屋根瓦、看板、門扉を撮影しました。

 

上: 尖った屋根瓦は、タイの寺院で見られる龍のイメージに似ているようだ。

 

 

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< 8. 四方街の朝 >

 

四方街の西端から東側を望む。

昨晩の賑やかさは嘘のようです。

掃除がゆきとどいています。

 

 

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< 9. 木府に向かう >

 

静かな朝です。

 

 

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< 10. 木府の前の広場に到着 >

 

この通りの両側の店はやがて開き始め、賑やかさを取り戻します。

今は、朝9時ごろです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 4: 福知山の城下町


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今回は、福知山の城下町を紹介します。

これで福知山の紹介を終わります。

 

 

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< 2.町歩きマップ、上が北 >

 

この地図は「ふくちやま まちあるきマップ 城下町歴史探訪編」を利用しています。

私は右下の福知山城から赤線に沿って北上し、No11で折り返し、No12からは黒線で城の横の駐車場に戻りました。

城を出たのが13:40、駐車場に戻ったのが15:10でした。

 

地図の番号について

1 福知山城、前回紹介

2 旧松村家住宅、前回紹介

3 京口門

4 明覚寺

5 明智藪、前回紹介

6 由良川堤防

7 広小路商店街

8 久昌寺

9 金毘羅神社、丹後口

10 高良厄除け神社

11 梅干し半十郎観音

12 御霊神社

 

 

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< 3. 城下町図、上が北 >

 

江戸時代のものでしょう。

上の白矢印は丹後口を示す、

濃紺の線は、川と堀です。

右下の薄緑で囲まれた範囲が当時の城でした。

現在は右端のほんの一角が天守閣として再現されている。

 

 

 

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< 4. 由良川堤防を行く >

 

上: 右に明智藪の一部、その奥に音無瀬橋が見えます。

 

中央: 堤の右側に明覚寺の屋根、その右奥に天守閣が見えます。

 

下: 由良川の下流を望む。

堤の左側に城下町が広がる。

 

光秀が由良川の流れ変え堤を造成し、城下町を整備してから、由良川の川湊を使って水運が発達した。

光秀築城以前の由良川は城下町を突き抜けて大きく右に曲がっていた。

 

 

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< 5. 広小路商店街 >

 

堤を左側に降りて、広い商店街、広小路商店街に出た。

コロナ危機の関係でか、閉まっている店が多かった。

 

上: 西側、突当りに御霊神社がある。

下: 逆方向を望む、音無瀬橋が見える。

 

 

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< 6. 広小路から右に折れる >

 

特に城下町の雰囲気はない。

やがて道が合流すると、寺町通りに入る。

 

 

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< 7.寺町通りに入る >

 

主に通り長さ300mほどの堤側に、大小の神社仏閣が並んでいる。

南側から祇園社、常照寺、法鷲寺、祇園牛頭天王社、久昌寺、金刀比羅神と並んでいる。

寺はすべて立派で、宗派が異なる。

今なら各社コンビニが競い合ってサービスを提供しているようなものか。

 

上: 常照寺、日蓮宗

江戸時代、福知山城主松平家の時に現在地に移転して来た。

 

下: 法鷲寺、浄土宗

江戸時代、福知山藩主朽木家の位牌所として重んじられた。

 

光秀の後、福知山藩主の家系は7回替わり、朽木家が13代と重ね、明治維新まで続いた。

 

 

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< 8. 久昌寺 >

 

上下: 久昌寺の山門と本堂、曹洞宗

もっとも立派で、福知山城主朽木家の菩提寺でした。

山門の右側にある小さな社が祇園牛頭天王社で久昌寺の鎮守社です。

 

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< 9. 久昌寺の棟鬼瓦 >

 

上: 久昌寺の棟鬼瓦

これが寺の屋根に載っていたそうです。

今まで気にしていなかったが、寺の本堂や山門、釣鐘堂の屋根をよく見ると鬼瓦だけでなく鯱まで乗っている。

 

下: 地図で見ると金毘羅神社が堤の横にあるので、今一度、堤に出た

 

 

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<  10. 金毘羅神社 >

 

上: 金毘羅神社、ここはかつて丹後口でした。

ここには水運の神が祀らており、水運が盛んだったことを物語っている。

写真の鳥居右横の井戸の辺りに番所があった。

 

旧山陰街道は、地図2のNo3京口門から城下に入り、川に沿って進んで、No9金毘羅神社(丹後口)から城下を出た。

 

この場所は、寺町道りから右に折れて、狭い道に入らなければならない。

当初、不思議に思ったのですが、旧山陰道から城下町が見通せな無いように意図されていたことが後で分かった。

 

下: 「なわむしろ」と書かれた看板

この辺り、寺町道りを過ぎて厄除け神社までのこの道の堤側は鋳物師町です。

特段、歴史を偲ばせる家屋は見当たらない。

 

 

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< 11. 高良厄除け神社 >

 

境内が広い立派な神社で、今も毎年2月、市民が厄除けの輪をくぐる厄除け大祭が行われています。

江戸幕府成立の年、福知山藩主になった有馬家が、この地に鋳物師町を新設した。

この鋳物師町は低地の為に、由良川の氾濫の度に被害を受け、江戸末期に安心立命を願い厄除け神社が創建され、明治末期にこの地に移設された。

残念ながら光秀の治水工事だけでは、由良川の自然の猛威を防ぎきることが出来なかった。

 

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< 12. 梅干し半十郎観音 >

 

新興住宅街の一角にポツリと、昔ながらの祠があり、義賊が祀られていた。

話が面白いので要約します。

 

江戸時代末、全国的な凶作があり、福知山藩は財政が大変苦しくなって、町民・百姓に厳しい倹約令を敷いた。

 

福知山の町に親分の用人棒、松岡半十郎がいました。

彼は藩にひとあわふかせてやろうと、統制売買し巨利を得ていた藩制定の問屋に押し入り、男二人を殺害して金を奪い、そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。

 

しかしあえなく捕えられた半十郎は打首となった。

その際、辞世の歌として「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)は目の前」と残したそうです。

 

処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、約5cmの観音様を飲み込んで「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、首から上の病気は必ず治してあげよう」と言い残してこの世を去った。

 

その後、祠が建てられ、梅干しが絶えないそうです。

 

 

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< 13. 御霊神社 >

 

光秀が祀られている。

元々、光秀は先に紹介した常照寺に祀られていた。

一方、この地には稲荷社があった。

江戸中期、町民たちが藩主に合祀を願い、この地に創建された。

光秀は没後120年を経ても人気だったようです。

10月の御霊大祭は三丹一の大祭と呼ばれている。

 

 

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< 14. 御霊神社を出る >

 

上: 神社境内から前の広場を望む、奥に音無瀬橋が見える。

 

下: 広場の横にある公園。

コロナによる休校のせいか、多くの小中高生が遊んでいた。

 

 

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< 15. 新町商店街から福知山城へ >

 

上: コロナ危機の為か、ほとんど店が閉まっていた。

とは言っても、おそらくシャッター通りになりつつあるようです。

 

下: お城通りから福知山城を見上げる。

この道を進み、駐車場に向かう。

 

 

* 感想 *

 

今回、一番の好印象を得たのが、人の温もりでした。

まさにコロナ危機の最中なので、観光地をぶらつくことを非難されるかもしれないと思っていた。

当然、三密を避け、館内や店舗内に入るのを避けてはいたが。

 

寺町通りを歩いていると、わざわざ自転車を止め、私に話かける地元の年配者がいた。

彼は「どこに行かれるのですか?」と聞いてくれた。

彼は親切に教えてくれて、激励までしてくれた。

 

またさらに進むと、訪問販売中らしい男性がまた声を掛けてくれた。

彼は「ここは寺町と言うのですよ!」と教えてくれた。

 

実にありがたい。

文句では無く、歓迎してくれている。

 

もっとも私達夫婦は目立っていた、この城下町散策ではまったく観光客を見なかったので(城を除いて)。

 

 

各地を旅行していると、古い街並みを持つ町に地元愛を持っている人に出会うことがある。

 

しかし、一方で、どこも寂れて行く町の姿が目に焼き付く。

山陽地域、明石から広島までの山間や海岸沿いを電車で旅した時、北関東を車で旅した時もそうでした。

 

日本経済が地盤沈下し、世界経済から取り残されつつある中で、ふと足元を見ると、地方都市はどこも衰退し、再生の兆しはない。

 

一方、北欧や中国を巡っていると、とてつもなく広い国土で再生が進んでいる。

北欧も中国も、半世紀から30年ほどの間に活性化し、ほぼすべての町並みが急速に新たになっている。

 

日本と世界のギャップに唖然とする日々です。

 

 

次回から、徳島の漁村を巡りを紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 34: 夜の四方街を愉しむ


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今回は、麗江古陳の中心、四方街の夜を紹介します。

なかなか味わえない雰囲気があります。

飛んでエキゾチック・チャイナ! 

 

 

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< 2.麗江古陳の散策ルート、上が北 >

 

黄色線が前回紹介したホテルから黑龙潭のルートです。

赤線が今回紹介するルートです。

玉河広場から四方街までは460mほどです。

白の四角枠はホテルです。

今回の写真は夜6:00から8:30までの撮影です。

 

 

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< 3. 銀細工の店 >

 

銀細工の店が多かった。

銀細工の飾りは、中国南方の少数民族にとって非常に重要でした。

かつての花嫁姿は豪華な銀製の冠、胸飾り、ブレスレットで覆われていました。

特に有名なのが貴州省のミャオ族で、今でも祭式で女性が身に着けます。

銀飾りは婚資であり、移動可能な財産、身分の象徴でした。

 

 

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< 5. 四方街 1 >

 

四方街から幾本もの通りが放射状に延び、その両側には店が並んでいます。

そして観光客で溢れています。

 

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< 6. 四方街 2 >

 

人が増えて来ました。

 

 

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< 7. 大石橋 1 >

 

下: 大石橋が見えます。

この川の両側にはレストランがひしめき、どこも客で一杯でした。

この一角の雰囲気は、他の通りとは異なります。

レストランが、フランスの洒落たテラス席のように、川に沿って開放的になっています。

ちょうど菊が満開で、さらに夜の明かりが華やかさを増しています。

 

ただ私としては少し残念だったのですが、流れる音楽が中国ポップと言うか、けたたましいのです。

ライブハウス付きレストランとでも言えるのでしょうが、落ち着かない。

しかし中国の人は、当然楽しんでいるのですが。

 

 

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< 8. 大石橋 2 >

 

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< 9. 大石橋 3 >

 

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< 10. フードコート 1 >

 

大石橋の近くにあるフードコートです。

前回紹介したフードコートと造りは似ていますが、こちらは二階もあります。

ここで2回目の夕食です。

いつも通り、妻に注文を任せて、私は撮影です。

 

 

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< 11. フードコート 2 >

 

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< 12.フードコートでの料理 >

 

味は絶品とはいかないが、様々な味付けと食材を愉しめれば満足です。

 

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< 13. 四方街に戻って来た >

この夜景を綺麗に撮りたかったのですが、うまく行きませんでした。

写真はスマホによるものです。

凄い人だかりです。

中国人の観光熱と雰囲気を味わって下さい。

 

 

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< 14. ホテルに戻って来た >

 

このホテルは古風な木造風2階建てで、丘の端の広い敷地に建っています。

 

上: 入り口。

下: 二階から丘の南側を望む。

ライトアップされた木造風のホテルが並んでいる。

 

 

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< 15. ホテルのテラス席から >

 

ホテル内の東側、丘の上に喫茶店風のテラス席があり、そこから玉河広場の賑わいを撮影した。

ここでも音楽がけたたましく鳴り、多くの人が夜を楽しんでいた。

 

 

* 感じたこと *

 

30年以上前、大都会の台北や広州の夜を歩いたことがあるが、隔世の感がある。

当時、人々は平日、夜遅くまで働き、週末の夜になると家族で街に繰り出す。

人々は通りを埋め尽くし、レストランや小さな食堂に流れて行った。

その熱気は凄かった。

そこには麗江のような華やかさはなく、只々、一時の休息と憩いを得ようとする人々の姿があった。

 

ここは実に楽しく、高揚感のあるエキゾチックな観光地です。

日本の皆さんにお薦めです。

 

昔は、なかなか行けなかったのですが、今は昆明まで飛行機、そこから新幹線で麗江に時間を掛けずに行けます。

安い正規割引の航空券があり、新幹線も高くありません。

(航空券=関空-昆明、一人片道21500円、4時間。新幹線=麗江-昆明、一人2等3300円、3時間。空港-昆明はリムジンバス、40分間、一人400円)

 

また飛行機で成都まで行き、そこから麗江に飛ぶことも出来ます。

65歳以上なら、多くの観光地の入場料は半額または無料になります。

ホテルも欧米に比べれば、中国の朝食付き二人の宿泊料金は1/4~1/2ほどです。

ちなみに二泊した嵌雪楼客栈は朝食付き二人で一泊6000円でした。

このホテルの評価はTrip.coで4.5/5で良い方です。

さらに地元の食事は安い(高級店は別だが)。

 

是非とも、皆さんに中国の今の活気を感じて欲しい。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 3: 福知山城


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今回から、福知山の中心部、福知山城と城下町を紹介します。

今回は主に福知山城です。

 

 

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< 2. ドライブルートと由良川、上が北 >

 

上: ドライブルート

元伊勢内宮を出発して、福知山城横の駐車場までのドライブルートです。

ほとんど宮川と由良川沿いを走ります。

 

下: 由良川、太い青線、赤矢印が福知山。

 

京都府、滋賀県、福井県の府県境に源を発し、西向きに流れ、福知山で急激に折れて、北東に向きを変え、若狭湾に注ぐ。

 

福知山は東の綾部に続く盆地にあるが、標高の低い所では10mに過ぎない。

しかし福知山城から由良川が注ぐ若狭湾まで直線で30kmもある。

この事と折れ曲がっている事で、福知山の城下は幾度も洪水に襲われていた。

 

 

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< 3. 由良川の眺め >

 

由良川の東岸から撮影。

上から順に、下流側、真横、上流(福知山城方面)を見ている。

 

 

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< 4. 旧山陰街道と明智の丹波攻め、上が北 >

赤矢印が福知山。

 

上: 旧山陰街道

京都から亀山、福知山を抜け、山陰側の鳥取、米子を通り、次いで山陽側に向かい津和野、最終、山口小郡に辿り着く。

福知山から若狭湾に出て丹後に近い旧宮津街道もあった。

福知山は交通の要衝だった。

 

下: 明智の丹波攻め

福知山が発展する端緒は明智光秀がここに「福智山城」を造ったことにある。

 

16世紀後半、明智は信長に命じられ、丹波攻略を始める。

最初、福知山城(旧横山城)の南にある強敵の黒井城を攻める。

しかし背後から八上城の裏切りに遭い苦戦し、信長の命で石山本願寺との戦いに向かいます。

再度、亀山城の攻略から始め、西に順次、城を落とし、最後に黒井城を攻め落とし、丹波攻略を3年かけて終えます。

 

そして亀山城と福知山城を築城し、光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とし、娘婿に福知山城を与えた。

光秀は福知山城築城の際、大規模な治水工事を行い、善政を敷いたことでで住民から慕われ、今に「福知山音頭」に唄われ続けている。

 

福知山音頭(江戸時代に出来た)

「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ

明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山

お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり

・・・・・・・・               」

 

その二年も経たない内に、近畿一円を任されていた光秀は本能寺の変を起こし、滅亡した。

 

江戸時代、福知山城は福知山藩の居城でした。

 

 

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< 5. 福知山城に到着 >

 

上: 城のすぐ横にある無料駐車場。

売店やレストラン、トイレもあります。

 

下: 駐車場から太鼓橋を渡って城に向かう。

 

 

 

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< 6. 太鼓橋の頂点から >

 

上: 太鼓橋の頂点からの眺め

 

下: 城壁の坂道に来た。

これを登って、天守閣に向かい直ぐに着いた。

 

 

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< 7.天守閣 >

 

天守閣にはコロナの関係で入場出来ませんでした。

この天守閣は1986年に再建されたものです。

構造は鉄筋コンクリート造ですが、外観は忠実に再現されているとのことです。

木張りの外壁が美しく、優しさすら感じる。

 

 

 

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< 8. 転用石 >

 

天守台と本丸の石垣は当時のもので、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用している。

また寺などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。

下の写真の所々に見られる。

 

私は天主台の石積みにある小さな自然石に触ってみたが、今にも抜けそうで不安に感じた。

逆に言えば、素晴らしい石積み技術と言える。

 

 

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< 9.表側 >

 

 

 

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< 10. 豊磐井 >

 

上: 井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。

 

 

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< 11. 天守閣の敷地から望む >

見ている方向は、次の地図の矢印通り。

 

上: 黒矢印、ほぼ東を望む。

中央: 赤矢印、由良川の上流を望む。

下: 茶色矢印、城下町を望む。

遠くに由良川の堤が見える。

私が散策するのは、主にこの写真の右半分です。

 

 

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< 12. 福知山の中心部、上が北 >

 

矢印の中心に福知山城があり、東側から来た由良川が急激に折れ曲がって北上し、さらに土師川(ハゼ)が南側から合流している。

 

 

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< 13. これから城下町を散策 >

 

上: 城を下って、北側に進みます。

写真の奥に見える小さな陸橋を渡り、由良川の堤に向かいます。

 

下: 旧松村家邸宅。

これは堤から迫り出した土地に建っています。

明治時代以降、大規模な築堤工事を請け負った松村組が、堤防の安全性を証明するために、この地に家を建てたそうです。

 

 

 

 

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< 14. 明智藪(蛇ヶ端御藪) >

 

光秀が福知山城を築城する際、由良川の向きを変え、巨大な築堤を行い、

城下を洪水から守ろうとした。

さらに堤防の前に、この竹藪を造り、由良川の水流の衝撃を和らげるようにした。

 

これだけでも、光秀はなかなかの知恵者だったと思った。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで


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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。

その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。

途中、1回目の夕食場所も紹介します。

 

 

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< 2.东巴文化博物馆 >

 

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。

小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

 

上: 入り口。

 

左下: 納西族の民族衣装。

庶民の普段着のようです。

町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

 

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)

説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。

実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

 

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。

(現在は衛生上の理由で禁止されています)

火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。

この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。

 

 

ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。

麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。

またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。

現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 

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< 3. トンパ教 >

 

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。

宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。

したがって一般に使われる文字ではなかった。

 

左上: シャーマンの衣装だろう。

 

右上: ナシ族の兵装だろう。

この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

 

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。

トンパ文字が記されています。

 

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

 

下: 降魔杵

おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。

 

 

 

 

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< 4. シャーマンと儀式 >

 

上: トンパ教の祭式場を再現。

これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

 

左下: 代々のシャーマン。

冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

 

右下: 儀式の一つ。

 

 

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< 5. 湖の東岸を戻って行きます >

 

 

 

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< 6. 古楽器を演奏する人々 >

 

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

 

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。

 

 

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< 8.锁翠桥 >

 

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。

 

 

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< 9. 玉河广场に戻った >

 

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

 

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。

日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。

 

 

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< 10. 軽く夕食 >

 

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。

夕方5時頃でしたが、客は少なかった。

料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。

それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。

数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。

 

 

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< 11. 玉河广场から四方街への通り >

 

この通りがメインで、道幅が広い。

菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。

ツアー客が、どんどん増えて来た。

どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。

 

 

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< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

 

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。

ショッピング好きにはたまらないでしょうね。

ここでは中国製だから安いと言うことはない。

 

 

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黑龙潭からの川の流れです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 神秘的な元伊勢内宮


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今回は、宮津街道沿いにある元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を紹介します。

そこには山岳信仰の神髄が集約されているように思える。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

ピンク線が散策コースで、黒四角の駐車場から半時計周りに、赤四角で示す元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を順番に巡りました。

茶色線が大江山から下って来た宮津街道です。

 

元伊勢内宮は小高い山の中腹部、そこを西側に少し下って遥拝所、さらに宮川まで降りて天岩戸に辿り着きます。

この宮川は前回紹介した「日本の鬼の交流博物館」の横から流れています。

 

地図に見える神社の左にある城山が、日室ヶ嶽遥拝所から望む山のはずですが、その名称がおかしい。

この城山は日室ヶ嶽や岩戸山と呼ばれているらしく、グーグルマップでは日室ヶ嶽は別にある。

 

散策時間は、途中で弁当を食べて1時間と少しかかりました。

 

 

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< 3. 駐車場から歩き始める >

 

参拝口の近くに大小駐車場が2ヶ所あります。

門前町らしいものはなく、村の端の階段から登って行きます。

 

 

 

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< 4. 京都丹後鉄道宮福線の車両が走って行く >

 

静かな所なので、列車の音が谷間に響いていました。

また宮川の流れも、発電所があるためか、よく聞こえました。

 

 

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< 5. 森の静寂に包まれた階段を登る >

 

おそらく高低差100m以内の、緩い傾斜の階段が巨木の杉の森の中を進む。

境内が見え始めた。

 

 

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< 6. 本殿が見えた >

 

広い境内に幾つかの伝統的な神社の建物が建っている。

訪れている人は私達以外に一組の夫婦だけでした。

 

上: 奥に見えるのが元伊勢内宮皇大神社の本殿です。

 

下: 本殿の内部。

 

 

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< 7. 参拝を終え、日室ヶ嶽遥拝所に向かう >

 

少し下るが、道は広く勾配も少なく歩きやすい。

 

上: 至る所に巨木の盛り上がった根があり、それらが苔むしている。

深い森、群生するシダ、せせらぎの音、木漏れ日の道、実に、深山幽谷の神社を訪ねる趣がある。

それも手軽に味わえるのが良い。

 

下: やがて三角形の山頂が見えて来た。

これが日室ヶ嶽(城山、岩戸山)です。

 

 

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< 8. 日室ヶ嶽遥拝所 >

 

上: 遥拝所より日室ヶ嶽を望む。

この山が元伊勢内宮皇大神社の御神体です。

頂上付近には岩の祭祀跡があるとされる。

夏至の日には日室ヶ嶽の山頂に太陽が沈む神秘的な光景も見られるそうです。

実に、この展望台は日本人好みの山がちょうど西側にあると言う好立地です。

 

下: 遥拝所から天岩戸神社までは、急な下り坂が折り返しながら続きます。

 

 

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< 9. 宮川に辿り着いた >

 

上: 宮川沿いの道に出た。

右奥に見える小さな社は、龍燈明神です。

 

左下: 宮川に降りる階段が見える。

 

右下: 途中の踊り場から階段を見上げた。

 

 

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< 10. 踊り場からさらに下る >

 

上: 踊り場にある鳥居。

この鳥居を抜けてさらに、急な階段を川まで降りる。

 

左下: 降りる階段を見下ろしている。

 

右下: 階段を降り切った所から上流側を望む。

残念ながら水嵩が増しており、道が冠水して天岩戸神社の下まで行けない。

 

 

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< 11. 天岩戸神社 >

 

上: 降り切ったところから下流を望む。

 

左下: 同じ場所から天岩戸神社を見上げる。

身を乗り出して何とか見ることが出来た。

社殿は岩盤の上に建てられており、裏手に御座石がある。

参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。

私達が弁当をここで食べている間に、一人の若者が熱心に礼拝に来ていまっした。

 

右下: 踊り場に戻ると、小さな参拝所があり、そこから天岩戸神社を撮影。

 

 

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< 12. 踊り場から谷を望む >

 

上: 谷底を見下ろす。

 

下: 目の前の木立の新緑に目を奪われた。

生命力を感じさせる素晴らしい淡い緑が谷を覆っている。

 

きっと紅葉の時は美しいだろう。

 

 

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< 13. 駐車場までの戻り道 >

 

緩やかな道が1km弱はど続きます。

但し、車でここに入って来ると、対向車を交わすのが困難だと思います。

 

この元伊勢神宮はお薦めです。

豊かな自然の中にある神秘的な三つの場所、大きな神宮、山を見上げる展望台、渓谷の社が素晴らしい。

日本の神道、山岳信仰をコンパクトに体験できます。

 

 

* 元伊勢内宮について *

 

なぜこの地が伊勢神宮と関りがあるのだろうか?

これが福知山に惹かれた理由の一つです。

 

調べてみると天照大御神を祭る元伊勢内宮は、中部地方から山陽までに数十ヶ所もあります。

それは、崇神天皇がそれまで居所内に祀っていた天照大御神の神霊を娘に託し、約1世紀かけて遷座を繰り返し、今の伊勢神宮に落ち着くことなった神話と関りがあります。

それは約2000年前の事とされています。

 

そして遷座の位置は説によって異なり、その一つがここなのです。

この宮津街道を南に3km行った所に元伊勢外宮がありますが、これも同じような理由で遷座しています。

元伊勢外宮は神体が異なります。

 

 

次回に続きます。

 

 

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中国の外縁を一周して 32: 少数民族と歴史の町、麗江に到着


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これから数回にわたり、世界遺産の麗江を紹介します。

標高2400mの秘境に明清代の町並みが、疏水と共に今も息づいています。

かつて麗江古城のナシ族は、ここを通る茶葉古道で繁栄していた。

ここは本物の歴史の町と言えるでしょう。

 

 

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< 2. 麗江の位置、上が北 >

 

上: 赤四角が麗江で、黒線が550km離れた成都からの航路です。

麗江が属する雲南省は東南アジア各国と国境を接し、西でチベット自治区とも接しています。

 

下: 麗江三義国際空港に着陸(借用写真)

成都から1時間半の飛行で空港に到着した10時半頃は晴れていたのですが、だんだん曇って来ました。

 

 

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< 3. 麗江三義国際空港 >

 

上: 空港全景(借用写真)

手前が国内線ターミナル、奥が国際線用。

 

中央: 上の写真で黄矢印の方向から見ている(借用写真)

丽江三义机场国内航站楼の2階が見えている

私はエアチャイナで国内線ターミナルに到着。

ターミナルは2階建で、到着したら1階に降りる。

小さな空港なので分かり易い。

 

下: エアポートバス(借用写真)

私が乗ったのは机场巴士市区线(民航蓝天宾馆(福慧路方向)行き)。

上の写真でピンク矢印辺りが、ターミナルの1階を出た所にあるバス乗り場です。

ここから麗江の中心部まで約50分で着きます。

バスの発車は飛行機到着に合わせて発車します。

エアポートバスの切符売り場(小屋)はターミナルを出た所にあります。

 

 

 

 

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< 4.麗江の俯瞰図、上が北 >

 

麗江は険しい山岳地帯の小さな盆地にあり、近くを長江が大きく蛇行しながら流れています。

お目当ては麗江古城と呼ばれる町並み保存区で、大きさは約1km四方です。

 

上: 赤矢印が今回のホテル、黒矢印が民航蓝天宾馆、赤丸が空港です。

 

 

ここで少し注意点があります。

 

エアポートバスが到着した民航蓝天宾馆(小さなバスターミナル)には、タクシーが数台停車していた。

ホテルまで500mぐらいしかないが、タクシーに依頼すると快諾してくれた。

ところがホテルは麗江古城内にあり、車が入れない為、手前で下ろされ、歩いて行くことになった。

これは仕方がないのですが、私のホテル、嵌雪楼客栈は小高い丘の上にあります。

 

そこに登る階段がきつく、とてもスーツケースを持って上がれない。

仕方なく、ホテルまで手ぶらで行き、フロントに荷物の運搬を頼んだ。

フロントは英語が喋れて、快諾してくれた。

やがて屈強な男が出て来て、二人分のスーツケースをホテルまで運んでくれた。

 

私は、事前にメールでホテルが高台にあるので、近くまでタクシーで行けるかと問い合わせしたら、「問題ない」との返事で安心していた。

何とか事なきを得たが、通じないものです。

 

 

下: 俯瞰した衛星写真(グーグルアース)

奥の白い山が標高5596mの玉龍雪山です。

赤矢印が麗江古陳で、赤丸が空港方面です。

 

全長6300kmの長江は麗江の左(西)20kmまで近づいた後、北上し玉龍雪山の後を回り、また南下し、東に流れて太平洋に注ぎます。

長江の源流はまだ2千kmほど先で、玉龍雪山の遥か左奥に始まる。

長江を麗江から遡って120kmほど先の、ちょうど玉龍雪山の裏の方向に、香格里拉(シャングリラ)のチベット仏教の巨大寺院、松赞林寺がある。

茶葉古道は雲南省南部の普洱茶の産地から麗江と香格里拉を通り、最終ラサに至ります。

 

 

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< 5. 今回紹介する所、上が北 >

 

左: 赤丸1がホテルで、麗江古陳(古城)のほぼ北の端になる。

ピンク枠がおおよその麗江古陳の観光範囲。

赤枠が黑龙潭景区(玉泉公园)。

赤線が黑龙潭までの徒歩ルート。

 

右: 今回紹介する黑龙潭の散策ルート、赤線です。

 

 

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< 6. 嵌雪楼客栈 >

 

上: 入口の一つ。

 

下: 入口の前から玉河广场を見下ろす。

 

麗江に数あるホテルの中から、ここを選んだのは、ここが高台にあり古陳を見渡せることが一番でした。

それに造りが納西族(ナシ)の重厚な館風で、場所が古陳の北端にあるので便利だと考えたからです。

スーツケースの持ち運び以外は、予想以上に良かった。

 

 

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< 7. ホテルから黑龙潭に向かう >

 

左上: 階段上の右側がホテル。

 

右上: 階段下の細い通りから別のホテル入口を望む。

この通りの高台側にはホテル、谷側には売店が多い。

 

下: 同じ通りから玉河广场を見ている。

この通りの左側に小さな小屋があり、そこで麗江古陳保護費を支払う。

黑龙潭への入場は、麗江古陳保護費の領収書があれば良い。

保護区の麗江、束河、黑龙潭に入るには80、40元が必要ですが、私達は65歳と70歳以上なので、パスポートの提示で無料になります。

 

 

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< 8. 玉河广场 >

 

広場は観光客、ツアー客で一杯だ。

日本人の団体観光客を見ることは無かったが、日本人観光客らしい一組の夫婦を見た。

 

下: 右上にホテル嵌雪楼客栈が見える。

 

 

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< 9. 川に沿って黑龙潭に向かう >

 

上: 水は透き通り、川藻が揺れている。

この水は黑龙潭から流れている。

 

下: 川の右側は、古風な建物や売店が並んでいる。

川の左側は、モダンな店らしい建物の建設ラッシュでした。

私には興覚めですが。

 

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< 10. 川沿いの散策 2 >

 

 

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< 11. 入口が見えて来た >

 

黑龙潭は、18世紀、清のの乾隆帝によって玉泉龍王廟として作られたのが始まりです。

 

 

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< 12. 得月楼 >

 

上: 湖の端に辿り着いたら、対岸に有名な得月楼が見えた。

右手前に五孔橋が見える。

 

実は、天気が良ければ、得月楼の左奥に雪を被った玉龍雪山が聳え立ち、この湖面に雄姿を映すはずでした。

この写真を一番撮りたかったのですが、残念無念!

 

 

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< 13. 途中、出会った人々 >

 

上: 中国の女性三人組

今回、中国を観光していて北京と麗江の観光地で漢服を着ている若い女の子をよく見かけた。

今、流行のようです。

それで記念と思い、一緒に写真をお願いしたら、快諾してくれた。

 

下: 散歩しているナシ族のお婆さんと孫がいたので、写真をお願いした。

喜んで被写体になってくれた。

お婆さんの服が民族衣装です。

 

散策していると観光している東南アジアの若い男女グループを見たので不思議に思い、声をかけました。

彼らはベトナムから来たとのことでした。

なにせ雲南省はベトナムと国境を接していますので近い。

写真はありません。

 

 

 

 

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< 15. 得月楼を反対側から見ている >

 

下: 奥が麗江古陳の方向です。

 

 

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< 16. 公園内でゲーム楽しむ人々 >

 

下: ここから折り返し、湖の反対側を周ります。

 

ここで一度、后门を出て直ぐ前にある丽江东巴文化博物馆に行きます。

 

これは次回、紹介します。

 

 

 

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福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 大江山の自然とロマン


 

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今回は、京都府福知山市の歴史と自然を訪ねました。

大江山にまつわる神代の伝説と平安歌人の想いを紹介します。

また大江山八合目から宮津街道の自然を紹介します。

 

 

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< 2. 今回の訪問地、上が北 >

 

上: 太い線は宮津街道を示します。

私が訪れたのは赤枠の大江山周辺と矢印4の福知山の城下町です。

城は明智光秀が造りました。

訪問地は、いずれも宮津街道に接しています。

訪問したのは2020年4月15日です。

 

宮津街道は江戸時代、宮津藩が参勤交代で使った宮津と福知山を繋ぐ道でした。

古代より、大江山近くの峠を越える道は丹後方面を結ぶ主要な街道でした。

現在は両地点を舞鶴若狭自動車道と京都縦貫自動車道で結んでいます。

 

下: 上の地図の赤枠を拡大した地図。

太線が今回紹介するドライブルートです。

 

矢印1とG: 大江山山頂近くの鬼嶽稲荷神社。

矢印2: 日本の鬼の交流博物館。

矢印3: 元伊勢内宮と天岩戸神社。

S:  京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

 

私は福知山から宮津街道をドライブし、鬼の交流博物館を見学の後、頂上に向かいました。

それから折り返し元伊勢内宮までドライブしました。

この時の写真がGからSまで順番に並んでいます。

 

途中の茶色の矢印は、分岐して北上する宮津街道です。

 

 

3

< 3. 百人一首と鬼伝説 >

 

上: 和泉式部の娘の小式部内侍の歌です。

私は当初、平安貴族がこんな山奥について歌う理由が分からなかった。

理由は、母の和泉式部が夫の赴任地の丹後で暮らしており、その寂しさを天の橋立に通じる宮津街道に思いを馳せて詠ったからでした。

生野は福知山よりも京都よりの地名です。

 

下: 源頼光による鬼退治、酒天童子伝説。

なぜ大江山は鬼退治で有名なのか?

それは鬼の交流博物館に入って分かりました。

 

 

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< 4. 日本の鬼の交流博物館 >

 

上: 日本の鬼の交流博物館の外観

左の大きな鬼瓦のモニュメントが、駐車場がある入口側です。

この博物館は酒天童子の里にあり、周囲には多くの野外レクリエーション施設があります。

 

下: 内部

 

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< 5. 鬼瓦と鬼の面 >

 

如何におおくの寺院の屋根に鬼瓦が使われていたがよく分かりました。

また日本全国の民俗芸能や神事、能で使われた鬼の面が展示されています。

 

 

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< 6. 日本の鬼、世界の鬼 >

上: 岩手県の山村に今も伝承されている鬼の人形。

この男女のシンボルは、天明の飢饉以降、災いから村を守ってもらいたいと鬼に願を掛けて作っているものです。

 

下: 世界中の鬼の面。

写真には中国や韓国、南アジアの面が見えます。

 

 

* 大江山の鬼退治伝説 *

 

この初出は古事記の土蜘蛛退治で、次いで聖徳太子の弟による土熊討伐、最後に源頼光の酒天童子征伐があります。

実は、この「酒天童子の里」は銅鉱山の跡地に作られています。

この大江山一帯には古くから銅などの鉱物が産出していた。

 

そこで二つの説があります。

一つに、村人は鉱山から流れる鉱毒を恐れ、鉱山の職人集団を恐れた。

今一つに、朝廷が北辺の恭順しない部族を討伐し、さらには鉱山を奪う為に鬼退治と称した。

 

どちらにしても鉱山が重要な役割を果たしていたようです。

 

 

7

< 7. 鬼嶽稲荷神社 >

 

上: 展望台から望む東側

ここは標高832mの大江山の八合目にあり、東側に視界が広がっています。

秋の早朝の雲海が絶景だそうです。

写真中央に見える三角錐の山は日室ケ嶽(標高427m)だと思います。

実は、後に元伊勢内宮に行きますが、そこの日室ヶ嶽遥拝所から逆方向にこの山を見上げることになります。

 

下: 鬼嶽稲荷神社

 

この前で達者な老人と出会いました。

彼は私達を見ると、寄って来て話しかけて来ました。

「これから頂上に行くのは良いが、クマザサには入らないように」

私がなぜかと聞くと。

「熊が出るから」

納得してしまった、それで熊笹と書くのかなと(?)。

 

彼がカメラをぶら下げていたので聞くと。

彼はブナの花の撮影に行くと言って、一人で急峻な山道を登って行きました。

次の写真の山道です。

今が季節のようです。

 

 

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< 8. これから元伊勢内宮を目指してドライブです >

 

上: 山頂に向かう道。

下: 麓から鬼嶽稲荷神社まで車で行ける道路。

 

 

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< 9. 酒天童子の里までの道 >

 

桜の多くは終わりでしたが、まだ見頃のものもありました。

 

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< 10. 酒天童子の里 >

 

ここには多くの施設がありますが、コロナの関係でほとんど閉まっていた。

私はトイレを探して日本の鬼の交流博物館に借用に行ったのですが、入館できますよと言われて入りました。

コロナ危機以降、出来るだけ入館せず、店にも寄らず、ハイキングとドライブだけにしようと心掛けていましたが。

入館して良かった。

 

 

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< 11. 宮津街道と二瀬川渓流 >

 

上: 中央を左に延びる道が9号線で、左に行くと宮津に出ます。

私達はこの9号線を三叉路で右に曲がり、二瀬川渓流沿いに元伊勢に向かいます。

現在は舗装された幅の広い道ですが、当時の旧宮津街道は細い山道で、石畳の道などが山林を抜け、峠を越えながら現在の道と並行したり重なったりしており、今でも残っているようです。

 

下: 三叉路を曲がって9号線を福知山に向かって走る。

左は二瀬川渓流です。

 

 

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< 12. 二瀬川渓流沿いを走る >

 

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< 13. 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅 >

 

上: ここも三叉路で、ここを奥に進むと毛原の棚田に行くと看板があります。

私はここを右に進みます。

 

下: 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

 

元伊勢内宮は直ぐです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 31: 麻婆豆腐、武侯祠、その他情報


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*1

 

今回は、老舗中華料理店と武侯祠、夕食のレストランを紹介します。

また成都旅行と空港の情報も記します。

これで成都の紹介は終わります。

 

 

2

< 2. 陈麻婆酒楼(金沙店) >

 

ガイドの説明では元祖麻婆豆腐の店です。

落ち着いた格調ある内装で、ゆったり食事が出来ました。

 

 

3

*3

 

 

4

< 4. 料理の数々 >

 

左上が麻婆豆腐です。

辛さはそれほどなくて、山椒が効いて深みのある味でした。

今回の中国旅行で、もっとも中華料理らしいものでした。

フリーでレストランに入り、はらはらドキドキしながら料理を注文し、新しい味を発見した時の喜びも良いが、ガイドの薦めで代表的な料理を食べるのも良いものです。

 

 

5

< 5.武侯祠 >

 

上: 武侯祠の地図。

三国志で有名な諸葛孔明の廟です。

3世紀に孔明が仕えた蜀王の劉備の廟が創建され、後に孔明の廟と一緒にされた。

清代に再建された建物が並んでいる。

 

この見学時、最も雨が酷くなり、詳しく見ることも写真撮影も出来ませんでした。

感じたのは、諸葛孔明の方が劉備玄徳より圧倒的に人気があり、中心的な配置になっていました。

 

 

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< 6. 孔明を中心に蜀で活躍した人物の像 >

 

 

7

*7

 

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< 8. 錦里古街 >

 

上: 武侯祠の中。

 

下二枚: 錦里古街。

武侯祠のすぐ隣にある、明や清時代の建物が再現された飲食店や土産物店の通りです。

この日は寒く、雨に濡れたせいもあり体調を崩してしまったので、ここは素通りした。

 

 

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< 9.鲍师傅糕点(春熙路店) >

 

土産と夕食の為に、ガイドに頼んで一番の繁華街、春熙路に連れて行ってもらった。

この店は人気だそうで、日本への土産に買いました。

小さな店内で10種類ほどのお菓子を大量に作って販売していました。

饅頭、パイ、シュークリームのようなもので、新しい味で美味しかった。

 

一番驚いたのは、雨の中、多くの客が列をなして並び、次から次へと売れて行くのですが、客は無くなりません。

またその間にも、頻繁に様々なバイク便のドライバーが注文品を大量に引き取って行きます。

彼らは店員にスマホを見せ、素早く受取ります。

ここでも中国の新しい業態(バイク便による宅配業)の浸透を見た。

 

 

10

< 10. 春熙路の百貨店内のレストラン >

 

地下鉄駅春熙路の近くには多くの百貨店や大型スーパーがひしめき合っています。

中に、イトーヨーカ堂と伊勢丹もあります。

私達は、この中に入って土産を買い夕食をとりました。

 

 

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< 11. モンゴル料理店 >

 

なぜかこの百貨店のレストランフロアはすべてが新装開店でした。

珍しいのでモンゴル料理を選びました。

 

上の写真: 店の前に置かれていた骨付き肉の塊が鍋の蒸気で蒸されており、食欲をそそります。

妻が注文しようとしたら、大きいままで小分けが出来無いと言うことで、諦めました。

結局、普通の中華料理を注文しました。

 

この後、地下鉄を乗り継いで、空港からタクシーでホテルに帰りました。

次の日は、8:50の飛行機で麗江に飛びます。

 

 

 

* タクシーの利用について *

 

12

< 12. 金沙遗址博物馆前から >

 

成都観光では、8時間の日本語ガイドを雇い、蘭州と違って車をチャーターしませんでした。

移動は地下鉄とタクシーを使い、効率よく回れると想定していたのですが、上手くいかなかった。

てっきりガイドは滴滴出行などのライドシェア(配車サービス)を使うと思っていたのですが、まったく使わなかった。

写真のように通りに出て、タクシーを拾うのですが、タクシーが通らなかったり、先に別の客に取られたりと散々でした。

 

ここで面白いことがありました。

ガイド曰く、最初、タクシーを待った場所には監視カメラがあるので、タクシーは寄って来ないと言い、次へと歩いて移動することになった。

 

ガイドがライドシェアを使わない理由は分からないが、1日で成都を観光する場合は、車もチャーターする方が良いでしょう。

 

 

13

< 13.空港とホテル間の移動について >

 

上: 成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)の地図。

赤矢印は第2ターミナルで私が蘭州(中国東方航空)からと麗江(エアチャイナ)への両方で使いました。

ターミナルは3階建てです。

成都空港商务酒店が宿泊したホテルで便利で問題もなく、高くないので良かった。

 

中央: ストリートビュー。

上記地図の赤星印、高架道路上から成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)を見ている。

 

下: タクシー乗り場の雰囲気(借用写真)。

 

蘭州から空港に到着したのは23:00でした。

当初、深夜の到着でタクシーが拾えるかと心配したのですが、無事に乗ることが出来ました。

しかし、嫌な経験をすることになった。

 

深夜であっても、非常に多くのタクシーが待機しており、配車係の指示でスムーズに乗れます。

タクシー乗り場は第二ターミナル1階を出た所にあるので分かり易いです。

タクシーに乗って行先を伝えるのですが、運転手は困惑し、分からないと繰り返します。

しかたなく、私がスマホを見ながら道案内することになりました。

 

翌日、成都観光を終えて、空港第2ターミナルの地下鉄駅を降りて、また同じ所からタクシーに乗ったのですが、また運転手がけたたましく抗議する。

無事ホテルには着いたのですが、どうやらホテルまで歩いて行けと言っているらしい。

 

結局、さらに翌日早朝の出発はホテルから空港まで1km弱を歩きました。

中国で乗車拒否には遭わなかったが、うるさいのにはうんざりした。

 

 

* 成都観光の感想 *

 

丸1日で成都の中心部を観光するのは無理でした。

四川博物院や青羊宮に行くことが出来なかった。

事前の打ち合わせで無理とはわかっていたのですが、残念でした。

 

もう一つ残念だったのは、劉備玄徳が蜀の国に拠点を置いた理由を実感出来なかったことです。

蜀の国が肥沃な広大な盆地で、かつ険しい山岳に囲まれていることを自分の目で確認したかった。

私は成都の出入りを両方とも飛行機にしたのですが、どちらか一方を列車にしておくと自然の景観が分かった。

 

もっとも蘭州ー成都ー麗江を鉄道で行くのはかなり遠回りで、それぞれ10時間以上かかり、夜行になるので採用できなかったのですが。

さらに麗江行きの飛行機便が予約後、航空会社より午後発が朝発に変更されたことで成都滞在が短くなったのも痛かった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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桜舞い散る城下町、龍野を散策 3


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*1

 

今回は、龍野城から古い町並み、お寺を見て、

駐車場に戻るまでを紹介します。

今回で龍野の紹介は終わります。

 

 

2

< 2. 龍野城の門 >

 

上: 城の西側の門。

 

下: 門の前から西側の山を望む。

山の中腹に野見宿禰神社の鳥居が見える。

 

3

< 3. 本丸御殿 >

 

龍野城は戦国時代に赤松氏が鶏籠山頂に築城したのが始まりでした。

鶏籠山は写真の御殿の裏山です。

江戸時代に脇坂氏が、この御殿のある地に政庁を建てた。

当時の物で残っているのは石垣のみで、隅櫓や埋門、御殿は再建されたものです。

 

 

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*4.

 

 

5

< 5. 御殿を見学 1 >

 

 

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< 6. 御殿を見学 2 >

 

 

 

7

< 7. 埋門 1 >

 

下: 埋門

この門へ下りず、真直ぐ進むと龍野歴史文化資料館があります。

この館は開館していたのですが、コロナを心配して入りませんでした。

 

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< 8. 埋門 2 >

 

上: 埋門を抜けてから振り返った。

 

下: 埋門から町の方を望む。

この坂を下って左に曲がる角に三木露風の生家があります。

 

 

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< 9. 三木露風の生家 >

 

上: 三木露風が6歳まで暮らした家です。

中に入りましたが、庭のある小さな家でした。

 

下: 醤油工場

 

 

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< 10. 醤油の郷 大正ロマン館 >

 

上: 十字路の角にある大正ロマン館。

ここは元醤油会社の研究所跡を展示館やショップにしている。

前述の醤油工場の向かいにある。

 

下: 如来寺

寺の右側の道を歩いて来ました。

横を流れる疏水に、散った桜の花びらが流れて綺麗でした。

 

 

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< 11. 白壁の通りを行く >

 

上: この白壁に囲まれた道の奥に如来寺が見える。

 

下: 龍野御坊 圓光寺。

右側の石碑に「宮本武蔵 修練の地」とありました。

宮本武蔵は一時期、ここの道場で圓明流の師範をしていた。

宮本武蔵は、ここを通る因幡街道を下ったところで生まれている。

 

 

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< 12. 圓光寺 >

 

 

13

< 13. 揖保川に戻って来ました >

 

駐車場を11:00に出て、14:00に戻ってきました。

今回の町歩きは、桜が満開で、天気も良く、素晴らしかった。

歴史的に興味深いものに出会え、楽しみました。

 

これで終わります。

 

 

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桜舞い散る城下町、龍野を散策 2


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*1

 

今回は、満開の桜が生み出す日本の風景を楽しんでもらいます。

龍野神社の前から聚遠亭、龍野城の隅櫓までを紹介します。

 

2

< 2.龍野神社の境内 >

 

上: 右下に駐車場、遠方に龍野の町が見える。

階段は遥か下まで続いている。

 

下: 右手に駐車場がある。

 

 

3

< 3.聚遠亭に入る >

 

この庭園は神社のすぐ横、北側にある。

この日は開園していた。

無料です。

ここは脇坂家ゆかりの江戸時代の建物と庭があります。

 

上: 茶室。

 

 

4

< 4. 御涼所 >

上: 御涼所。

龍野藩主脇坂家の武家屋敷。

 

 

5

< 5.聚遠亭の全景 >

 

下: 出口側から見た全景。

 

6

< 6. 神社の階段にて >

 

上: 聚遠亭から眼下を見下ろす。

 

下: 聚遠亭を出て、神社の階段を見上げた。

小学校の入学式を終えた子供を連れた家族が見えた。

実に華やかで希望に満ちた門出だろう。

おめでとう!!

 

 

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< 7.聚遠亭の下の道から >

 

上: 神社を見上げる。

 

下: 道の左側の高台が聚遠亭の庭。

 

 

8

< 8. 紅葉谷 >

 

下: 紅葉谷が奥に続く。

 

 

9

< 9.三木露風の旧邸跡 >

 

上: 左の階段を昇ると龍野神社に達する。

 

下: 右手に三木露風の旧邸跡を示す看板があった。

 

 

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< 10. 龍野城の隅櫓 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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桜舞い散る城下町、龍野を散策 1


 

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*1

 

これから数回に分けて龍野を紹介します。

ちょうど桜が満開で、快晴にも恵まれました。

訪れたのは2020年4月7日でした。

 

 

2

< 2. 散策ルート、上が北 >4

 

上: 黄色の枠が今回紹介する龍野の城下町です。

揖保川がこの城下町のすぐ横を流れ播磨灘に注ぎます。

龍野市はこの城下町を中心にして、南は海岸に達し、東に姫路市、西に相生市で接しています。

 

下: 散策ルート。

歩いたのは概ね1km角の範囲で、歩行距離は約6km、標高差は100mぐらいです。

 

黒線が散策ルートで、下の駐車場Sから始め、番号順に進み、また駐車場に戻って来ました。

赤枠の観光スポット

 

S : 龍野(川原町)観光駐車場

1: 常照寺、片しぼ竹

2: 龍野動物公園、市民グランド

3: 赤とんぼ歌碑、三木露風立像

4: 野見宿禰神社、展望台

5: 龍野神社

6: 聚遠亭

7: 龍野城、龍野歴史文化博物館

8: 三木露風生家

9: 醤油の郷、大正ロマン館

10: 圓光寺

 

 

3

< 3.龍野(川原町)観光駐車場を出発 >

 

上: 右が駐車場、左が揖保川の下流です。

駐車場は二三十台分のスペースがあり無料です。

道路から入り易く、トイレもあります。

コロナの関係で観光客が少ないのか、駐車場は空いていました。

 

ただ注意が必要なのは、駐車場探しです。

始め、町の中に入って中心部に停めようとしたのですが、道が狭いので戻り、ここにしました。

散策していると他にも駐車場がありましたので、十分に道を調べた上で行って下さい。

 

下: 揖保川の上流方向です。

 

 

4

< 4. 十文字(どじ)川に沿って進む >

 

下: 右が十文字川、左に片しぼの看板が見える。

片しぼ竹はマダケの変種で、国の天然記念物に指定さている。

私は見ていませんが。

 

 

5

< 5. 常照寺 >

 

上: 常照寺。

入口の桜が綺麗でした。

これを見て、この先で素晴らしい桜が見られると期待が膨らみました。

 

下: 古い門構えの塀の上に鯉の置物が見えました。

 

 

6

< 6.龍野動物園に来ました >

 

上: 十文字川から左に外れ、住宅地を抜けて公園に入り、さらに登って行くと動物園が見えた。

公園には数組の子供連れのお母さんがいたが、動物園には夫婦やカップルがちらほらいた。

花見や散歩のようです。

 

 

7

< 7. 桜 >

 

ほぼ満開のピークを過ぎ、風が吹くたびに花吹雪が舞っていました。

まさに日本の風情を感じることが出来ました。

 

 

8

< 8. 赤とんぼ歌碑 >

 

上: 三木露風が作詞した「赤とんぼ」の歌碑です。

彼はこの城下町で生まれ、東京の大学に行くまでここで暮らした。

 

下: 三木露風の立像です。

 

 

9

< 9. 野見宿禰神社に向かう >

 

上: 野見宿禰神社に向かって登り始めた道から下を振り返る。

三木露風の像を過ぎて直ぐ、小川沿いに登る道があった。

 

下: ここは国有林で、檜皮葺(ひわだぶき)の檜皮を採集する林だそうです。

周囲の林は、比較的整備されているようでした。

 

 

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< 10. 野見宿禰神社が見えた >

 

上: 登坂中に上を望む。

 

下: 稜線に出た所から、神社を見上げた。

露風の像から、ここまで標高差は90mぐらいでしょうか。

この階段を昇る気がしませんでした。

反対方向に展望台があり、ここで弁当を食べた。

 

 

11

< 11. 展望台から >

 

上: 揖保川の上流側を望む。

木立で見難いが、この中央下側に、お城や聚遠亭がある。

 

下: 霞んで見えないが播磨灘が見える方向です。

 

 

12

< 12.「力水」と書かれている >

 

上: 展望台から下った途中で、振り返った。

 

下: 「第四十四代 横綱栃錦清隆 直筆「力水」」と記された看板が見える。

中央の石に「力水」と彫られている。

 

 

* 野見宿禰と龍野市の因縁 *

 

野見宿禰は日本書紀に出て来る怪力の持ち主で相撲の始祖と言われる。

出雲の人で天皇に仕えたとされる。

宿禰を祭る神社や墳墓は、関西から山陰に数多くある。

 

彼は出雲への帰郷途中でこの地で没した。

すると人々が川原からリレー式に石を運んで墓を作った。

その様が「一面の野原に人が立つ」から「立野」、そして「龍野」になったと言われている。

歴代の横綱が、神社に玉垣を奉納している。

 

なぜ野見宿禰がこの地に来たのだろうか?

それはこの地が奈良時代に遡る因幡街道上にあったからです。

この道は、山陰と上方を結ぶ重要な街道でした。

この道は姫路を出発して、龍野市の揖保川沿いの二つの宿場町を過ぎてから西に折れて、佐用町、美作、古い町並みを残す智頭宿を通り、鳥取に出た。

実は、美作の大原宿が宮本武蔵の出生地とされており、この龍野にも足跡を残している。

 

13

< 13. 「力水」からさらに下る >

 

上: 「野見宿禰塚」と書かれた石碑がある。

こちらの階段の方が、正式なようです。

 

下: 龍野神社。

上の階段を下ると、この神社の横に出た。

 

この神社には、江戸時代の脇坂家の始祖が祀られている。

 

 

14

< 14.龍野神社  >

 

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*15

 

龍野神社の中段から眼下を見下ろす。

桜の花が輝いていました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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