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中国の外縁を一周して 30: 唐へ誘う杜甫草堂


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< 1. 杜甫(左?)と李白 >

 

 

今回は、唐の詩人杜甫(とほ)にゆかりの地を訪ねます。

杜甫は戦乱を逃れ、成都に4年間暮らしました。

当時の住まいが再現されている杜甫草堂を紹介します。

 

 

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< 2. 杜甫の漢詩「春望」 >

 

杜甫(712―770年)は詩聖と呼ばれ、詩仙と称された李白と並ぶ唐を代表する詩人でした。

「春望」は、彼が長安で使えていた時、安禄山の乱に巻き込まれ軟禁されていた折に詠ったものです。

唐は誕生から百年が経ち絶頂期を迎えていたが、反乱でいとも簡単に、都の長安(西安)は陥落し、皇帝玄宗は蜀(四川省)に逃げた。

杜甫は妻と離れて暮らさざるを得ず、世の無常をこの詩に込めた。

杜甫は「春望」にも見られるように社会情勢や政治への思いを五言八行に込めました。

 

 

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< 3.杜甫草堂 >

 

上: 入り口

下: 地図

とても広いので周り切れない。

この杜甫草堂は、木々で覆われた一辺500mの庭園内に数々の建物が散在している歴史テーマパークのようなものです。

杜甫がかつて住んでいた住まいが再現されています。

 

 

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雨がかなり降っていたので、写真を撮るのが難しかった。

広い敷地を、傘とカメラを持ち、多くの観光客を避けながらガイドについて行くのがやっとでした。

 

 

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< 6.少陵草堂碑亭  >

 

上: 中央の三角形屋根が少陵草堂碑亭

少陵は杜甫の号です。

 

下: 茅屋故居

杜甫の像らしき石像の左奥に見えるあばら家が、杜甫の再現された住まいです。

 

 

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< 7. 茅屋故居  >

 

この狭い家屋内に多くの観光客が入っていたので、写真を撮るのに苦労しました。

机や台所が有り、他の部屋もありましたが、かなりみすぼらしい感じがした。

もっとも1300年前の話ですから、こんなものかとも思った。

 

実際、杜甫は科挙に失敗し、仕官も上手くいかず、さらに戦乱に巻き込まれ、流転と貧困に明け暮れた一生でした。

彼が悪いと言うより、隆盛ではあったが腐敗が進んでいた唐王朝において、彼の低い出自では出世が出来なかったのだろう。

 

 

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今回の中国旅行で、盆栽の起源は中国だとの意を強くした。

至る所で鉢植えの木の多いことに驚いた。

 

 

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< 9.万佛楼 >

 

上: 漢詩の書が展示されている建物。

残念ながら読めないので、通り過ぎるだけでした。

 

下: 万佛楼が木立の向こうに見える。

 

 

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< 10. 杜甫と唐 >

 

上: 右から玄宗、楊貴妃、安禄山。

中: 安禄山と唐の行軍。

赤線が安禄山の南下した侵攻経路、青線が唐軍の敗走経路。

玄宗は成都へ敗走し、皇太子は霊武に北伐を行い、後に長安を奪還する。

 

下: 太い黒線が杜甫の生涯の行路で、ほぼ当時の主要都市を巡っている。

Aは出生地鄭州、Bは長安、Cは成都、Dは逝去の地

 

私には「国破れて山河在り」は他人事とは思えない。

まさに今の日本を見ているようです。

杜甫の人生は、唐が絶頂期から崩壊に向かう時代と重なりました。

 

唐誕生から百年、玄宗皇帝の善政で唐は絶頂期を迎えます。

しかし彼は絶世の美女楊貴妃に溺れ、政治をないがしろにした。

政治は悪辣な宰相が握り、その死後、楊貴妃の血縁者が政治を牛耳った。

この血縁者は北辺を任されていた傭兵軍の総指揮官安禄山が反乱を起こす火種を作った。

そして755年、安禄山は蜂起し、1か月後には洛陽を、その半年後には長安も陥落させた。

玄宗は成都に逃げ、楊貴妃に死を命じ、北伐に向かった皇太子が皇位継承を勝手に宣言した。

唐は安禄山側の内紛や異民族の力を得て、どうにか切り抜けることが出来た。

この後、唐は中興の祖によって命脈を保ち、誕生から約300年後、内乱によって滅ぶことになる。

 

杜甫は、今の鄭州で地方官の子として生まれ、科挙を目指す。

各地を旅し、洛陽では李白と意気投合した後、長安に仕官を求める。

何とか一時、仕官は叶うが、安禄山の乱に巻き込まれ、逃避行を繰り返すことになる。

杜甫は蜀(成都)に逃れ、蜀の有力者が彼を支援した。

この時の住まいが杜甫草堂です。

支援者が死去すると、彼は家族を連れて南下し、かの地で死去した。

才能に恵まれ彼ではあったが放浪、逃避、貧困の内に人生を終えた。

 

 

広い庭園の為、1時間以内では、ほんの一部を覗くだけで、じっくり見ることは出来なかった。

それでも歴史的な佇まいを全体的にうまく再現しているので、見る価値は十分にあります。

もっとも時代考証が正しいかは分からないが。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 29: 古代へ誘う金沙遺址博物館


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< 1. ここで黄金の太陽神鳥が発見された >

 

 

これから、数回に分けて四川省の省都成都を紹介します。

今回は、金沙遺址博物館を紹介します。

ここには最古の蜀人の暮らしがあった。

 

 

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< 2. 成都観光地図、上が北 >

 

上: 成都の位置は赤矢印

成都には蘭州から飛行機で来て、二泊後、同じ空港から飛行機で麗江に移動します。

 

下: 赤矢印が、成都の観光地です。

A: 金沙遺址博物館、三星堆遺跡の文化を受け継ぐ遺跡の上に建っている。

B: 杜甫草堂(唐の詩人の廟)

C: 陈麻婆酒楼(金沙店)、元祖麻婆豆腐の店

D: 武侯祠(諸葛孔明の廟)

E: 天府广场東側のショッピング街、成都最大の繁華街

 

黒矢印は地下鉄で直結している成都双流国际机场の方向を示す。

 

2019年10月23日23:00、私は蘭州から成都双流国际机场に到着し、直ぐ近くのホテルに2泊した。

翌日、朝8:30にホテルのロビーで現地ガイドと待ち合わせし、日本語で1日案内してもらった。

移動はタクシーを利用した。

残念ながら、1日中雨でした。

観光はほぼ予定通り出来たが、写真が思うように撮れなかった。

 

 

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< 3. 金沙遺址博物館 >

 

上: 金沙遺址博物館の地図、上が北。

600mx500mの広さ。

E: 乌木林

F: 発掘遺跡の展示館

G: 遺跡からの発掘品の展示館

 

この遺跡は、2001年偶然発見され、発掘調査後、2007年博物館としてオープンした。

私としては有名な三星堆遺跡を見たかったが、成都を1日で観光するには、近くにあるこの博物館見学で時間的に精一杯でした。

三星堆遺跡は北方45kmの位置にある。

 

この博物館の下には、紀元前1200~500年頃に栄えた蜀人の国が眠っている。

この時期は、黄河中領域の西安から洛陽とその北方で興った商(殷)の後期から、西周、春秋戦国時代の前半に重なる。

ここは蜀人の政治経済商業の中心地であったが城砦はなく、大きな住居址群と祭祀場、墓地からなる。

現在は埋め戻され、祭祀場跡だけが見学できる。

 

 

下: 乌木林

この敷地の川底に埋もれていた60本余りの黒檀が立てられている。

かつてこの地は黒檀の森で、今より温暖であった。

この黒檀は祭祀に使われた可能性が高い。

彼らは治水を重視し、河辺で祭祀を行った。

成都には有名な、水利を目的として紀元前3世紀築造が始まった都江堰がある。

 

 

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< 4. 発掘遺跡の展示館 1 >

 

この展示館は大型の祭祀場跡を覆っている。

 

 

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< 5.建築物跡と発掘品 >

 

上: 左側のパネルに高い櫓の絵が見える。

パネルの周囲の穴が、柱の跡なのだろう。

出雲大社の太古の復元モデルと似ている。

 

下: 黄金のマスクなどの金器が発掘された。

写真には他に玉器や青銅器も見える。

 

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< 6.石虎と象牙 >

 

上: 中央右に数本の象牙が白いビニールで覆われている。

また猪の牙も大量に見つかった。

当時、この地には多くの象が生息していた。

右下のパネルを拡大したものが下の写真です。

 

都江堰が造られた岷江はしばしば氾濫し水害をもたらしていた。

古代の蜀人は、象牙には水の妖怪を殺し、洪水を鎮める神通力があると信じ、川辺のこの祭祀区で、象牙を柱状や円状に並べて供え、祭神を祭ったようだ。

 

下: 写真の右下に石虎が二つ見える。

崇拝の対象だったのだろう。

 

 

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< 7. 発掘品の展示館 >

 

上: 二つの展示館の間の通路。

広々とした森林公園になっている。

 

下: 発掘品の展示館に向かう。

 

 

 

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< 8. 蜀人の暮らし >

 

三枚の写真はジオラマを左から右に撮って、上から下へと並べた。

当時のこの地の様子を再現したものです。

 

森が残る平原に川が流れ、その周辺に多くの住居が建っている。

左には象、犀、鹿が見える。

川には数艘のカヌーのような小舟が見える。

右手前には住居と家畜の囲いが見える。

 

ここは蜀人の王国の一つだった。

これに遡り、城郭のあった三星堆遺跡が500年間続き、衰退した後にこの王国が興り700年ほど続いた。

蜀人の国は長江上流域の盆地にあったので、永らく黄河中流域の争いに巻き込まれることはなかった。

しかし、秦国がこの地に侵入すると蜀人は敗れ、一部は西側のチベット方面へ、または南下し東南アジアへ去った。

 

 

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< 9.再現された住居と土器 >

 

上: 再現された住居。

土壁と草ぶきの屋根。

 

下: 土器

ほとんどの土器の形は他の地域と同じように見える。

 

下: 玉器

写真の下段に玉琮、割れた玉璧、上段に玉戈などがある。

玉器は殷周のものと似ており黄河中流域と交流があったことを伺わせる。

これらは祭祀用のはずです。

上部の物は、かなり大きい。

 

 

 

 

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< 10. 青銅器と埋葬墓 >

 

上: 青銅器

殷で隆盛を極めた祭祀用の青銅器容器の鼎などをまったく見なかった。

なぜか青銅器は薄いか小さいものがほとんどです。

三星堆遺跡では大きな青銅製人形を作っていたが、こちらでは大きい物は造られていないようだ。

不思議だ。

 

下: 埋葬墓

一見した感じでは、貧富の差や格式がないようです。

またほとんど副葬品が見られない。

ここには見えていないが、遺体を二つのカヌー形状の棺で上下に被せるようにして埋葬することもしていた。

 

このような階層の無い社会(王国)で、金器・玉器や象牙を消費する祭祀が盛大に行われていたことに驚いた。

 

 

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< 11. 主要な発掘品 1 >

 

左上: 玉鉞

右上: 玉琮

この二つは他の中国文明でもよく見られるものです。

 

左下: 青銅立人像

この人形は、服装や髪型、冠などから見てこの地に特徴的なものです。

 

右下: 黄金マスク、幅19.5cm、厚0.4mm。

これに遭えて、ここに来た甲斐があった。

 

三星堆遺跡の青銅人形には、他の中国文明には無い特徴があった。

それは目が異常に大きく、また飛び出していたことです。

このマスクには、その様式が受け継がれている。

もっとも三星堆遺跡の青銅製人形にも金箔が貼られているものはあったが、金沙遺址の方が三星堆遺跡よりも金製の造形品が多い。

 

 

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< 12. 至宝 >

 

左: 金製の太陽神鳥、外径12.5cm、厚み0.2mm。

12本の火炎をもつ太陽を四羽の鳥がめぐっている(切り抜かれた部分)。

太陽の図案は、三星堆祭祀坑出土の大型神樹などにも取り入れられている。また火炎をもつ太陽は、前述の青銅立人像が頭上に戴く冠の形とも似ている。

金沙遺跡も三星堆と同様に太陽が重要な意味を持っていたようだ。

 

右: 顔が無い青銅製人形

面白い造形だ。

 

 

あとがき

 

初め、金沙遺址にはあまり期待していなかったが来て良かった。

黄金マスクと金製の太陽神鳥は特に興味深かった

北京の博物館で三星堆遺跡の青銅人形を見ているので、両遺跡を見たことになり、思いを果たした。

 

この遺跡博物館を見たことにより、漢民族の中心文明から離れた蜀人(羌族の一部?)、そして成都の古代を少しイメージ出来たように思う。

三星堆遺跡に代表される蜀人の祭祀は、祖先と太陽の崇拝だった。

殷の祭祀では、多くの奴隷を生贄に捧げたが、こちらではそのような事はなかったとされている。

 

今回、中国の外縁を巡る理由の一つは、古代中国の民族移動が後の少数民族の形成にどのように関わったかを知ることだった。

紀元前後以降、漢民族が覇権を広げるに従って、もともと中国大陸に広く散在していた民族は、南部や西部の山岳部に難を避けた。

このことで、各部族の神話が各地に分散し、全体として統一感を欠き、中国神話は纏まりの無いものになったと私は考えている。

今回の蜀人もそうだった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 28: 五泉山公园から蘭州空港まで


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今回は、商店街、五泉山公园、大型ス―パー、蘭州空港を紹介します。

また中国でお世話になった現地ツアー会社も紹介します。

これで蘭州の紹介は終わります。

 

 

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< 2.五泉下広場近くの商店街 >

 

ここは前回紹介した五泉下広場を山側に歩いて直ぐの商店街です。

歩いたのは1時半頃でしたが、買い物客はそこそこいました。

売っているものは野菜や果物が多く、衣類、葬式で燃やす紙銭もありました。

中国らしく、店先が道路まで大きくはみ出している。

中国にはスーパーがたくさん出来ているが、このような昔ながらの商店街も市民に利用されている。

 

 

 

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< 3. 五泉山公园 >

 

上: 商店街の続き。

 

下: 五泉山公园の前の広場。

 

蘭州の観光名所の一つで、北側の山裾にある旧跡を中心とした公園です。

総敷地面積27万㎡の中に、5つの泉、数多くの仏教建築や仏像群、動物園まであります。

ここには明代に遡る仏教建築があるそうです。

 

 

 

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< 4. 五泉山公园 >

 

上: 五泉山公园の前の広場。

 

下: 北門を抜け、五泉山公园内に入った。

中央の奥に霍去病の銅像が見える。

紀元前120年、漢の将軍霍去病が匈奴遠征中、ここで泉を見つけ、軍隊の水不足を救った伝説が残っています。

霍去病は若くて勇猛な将軍と史記に記されています。

 

 

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< 5. 五泉の一つ >

 

園内の所々で銀杏が黄金色に輝いていました。

私が歩いたのは、ほんの一部に過ぎません。

 

下: 五泉の一つ。

 

 

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< 6. 浚源寺 >

 

上: 前述の泉の右手(西側)に浚源寺が見える。

 

下: 浚源寺に入る。

 

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< 7. 浚源寺の境内 >

 

上: 入って来た門を振り返った。

 

下: 本殿。

この日は、毎年行われる仏教信者の集まりがありました。

多くは年配の女性信者ですが僧侶姿の男性も見られました。

 

共産主義国家で仏教の行事に多くの信者が集まることに少し驚きました。

けっこう信仰の自由があります。

 

 

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< 8. 北門を出た所 >

 

上: 本殿の仏像。

 

下: 北門側から広場を望む。

この右手の小綺麗な店で、孫への土産、可愛い毛糸の手袋を買いました。

ガイド曰く、この店は日本に輸出する品質と同等の物を置いているそうです。

若い現地の女性も買いに来ていました。

 

 

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< 9. 大型スーパー >

 

上: 五泉山公园の広場。

 

公園内や広場に居る人に少し違和感を感じた。

ここを通ったのは2019年10月23、水曜日の2時半頃でした。

観光シーズンが終わり、平日でもあり、観光客はほとんど見られなかった。

孫や子供を連れた家族、若いカップル、年寄りが少ない。

しかし中年の男性が多い。

服装から言って、市民なのだが、なぜこれだけの人がここにいるのか?

分からない。

定年を迎えた人々なのか?

 

下: 大型スーパーの华润万家(天水路店)。

蘭州大学の前にある大きなスーパーです。

土産を買いたいと頼んだら、現地ガイドがここに連れて来てくれた。

蘭州名物としてワインと干した果実や氷砂糖が入ったお茶を買いました。

 

妻は安いバッグを買いました。

バッグは安いのですが、妻の好みのデザインでは無かった。

おそらく日本で日本人向けの中国製バックを買う方が、無難で価格も同じぐらいだと思う。

妻は中国で二つバッグを買ったが、結局、日本で安い中国製を買い直しました。

 

 

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< 10. エアポートバスで空港へ向かう車窓から 1 >

 

中心街の眺め。

 

先ほどの大型スーパーから700m離れた所に民航售票处(城关区东岗西路588号)があり、ここからエアポートバス(兰州机场大巴 1号线)に乗って、空港に行きます。

30分毎に出発し、乗車時間は1時間15分ほどです。

料金は30元で安い。

 

 

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< 11. エアポートバスで空港へ向かう車窓から 2 >

 

上: 高速道路に入る。

 

中央: 黄河を渡り、北に向かう。

 

下: 黄河を渡ると、間もなく荒涼とした低い山並みが続きます。

 

 

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< 12.エアポートバスで空港へ向かう車窓から 3 >

 

上: 山肌はすべて、今にも土が崩れそうで、それを防ぐ為に植林が行われているが、カバー仕切れないようです。

このような景色が延々と続く。

山は手を抜くと今にも砂漠の山になってしまいそうです。

 

中央: バスの車内。

左の窓ガラスは砂塵を受けて曇っている。

空港近くになると、かなりの間、砂嵐が吹き荒れ、視界がかなり不良になった。

バスはそれでも走り続けたが。

 

この砂塵舞う山岳地帯を、かつて遊牧民や騎馬民族が隆盛を極め、往来していた。

万里の長城はここよりも北側にあって、さらに1000kmも西側まで延びていた。

 

 

下: 写真のように、今は高速道路がこの地帯を縦貫している。

他にも工事中の道路があった。

 

 

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< 13. 蘭州中川空港に到着 >

 

上: 私は進行方向左の席、つまり西側しか写真を撮っていない。

 

しかし空港に近づくと東側に驚くべき光景を見た。

砂塵が舞う高原(ここの高度は2000mぐらいか)に、突如として巨大な都市が出現したのです。

建築中らしい高層ビルが幾層にも連なる光景が砂塵の向こうに十数分も続いた。

後で調べると、その範囲は長さ15km、幅5kmもあり、高層ビルだけで1000棟は優に超えるでしょう。

中国のエネルギー、開発力を見せつけられた。

これが今回のコロナ対策で、巨大な隔離病棟を10日ほどで幾つも建築してしまうことに現れている。

 

衛星写真を調べるにあたって気付いたことがあった。

この地域は百度地図の衛星写真が不鮮明になっている。

おそらく、この地域に中国軍の基地があるためだろう。

グーグルマップの衛星写真は鮮明だが、残念ながら中国では不正確で経路案内には使えない。

 

 

下: 向かいに見えるのが、蘭州中心部と往来する列車の駅でしょう。

 

 

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< 14. 現地ツー会社 >

 

左上: エアポートバスを最初に降りて直ぐのターミナル入口。

この空港には二つのターミナルがあるのですが、私が乗る中国東方航空は第二ターミナルにあり、その前に降りた。

 

右上: カウンターに向かう。

無事、Eチケットから搭乗券の手続きが出来た。

このフロアで夕食をとりました。

 

 

下: 蘭州、成都、麗江で使った現地ガイドの「CHINA8」ホームページ。

https://china8.jp/

 

これまでの私の中国旅行はほとんどがツアー観光でした。

今回初めて、現地ガイドを利用することにし、インターネットで調べた。

するとこの会社が、最も安くて、各地のツアーが希望通りに出来ることが分かった。

この「CHINA8」は各地ツアー会社の連盟です。

 

長所

  • 日本語表示のホームページ。
  • 旅程の希望や変更を日本語のメールで事前に交渉できる。但しすぐに返事が来ないこともある。対応の丁寧さは各会社で異なる。
  • 価格設定が分かり易く、また安くできる。
  • 現地ツアーの選択幅が広い。例えば、車と日本語ガイド、ガイドだけ、車だけ、時間や行く先も自由に選べる。
  • ツアー後の支払いが明朗会計。予想通りで超過はなかった。但し、多くは中国元の現金払い(事前に通知有)。
  • 概ね親切で、土産物屋に強引に連れて行かれることはなかった。

 

気になるところ

  • 年寄りに気を使った案内が出来ないようだ。歩行距離が少ないように駐車場を選ぶとか。
  • ガイドにより、日本語の習熟度が異なり、また現地の歴史の知識にも差がある。

 

全体の感想

  • 普通に現地を観光するには、この会社を使うのが良いでしょう。
  • 観光地、地元の生活、買い物を知りたいなら充分でしょう。
  • 親切に対応してくれるのがうれしい。

 

最後に

彼らガイドの話によると、現在の日中関係を反映して、日本の観光客が激減しているそうです。

どうか皆さんも中国に旅行し、彼らガイドを利用してください。

彼らが失業してしまうと、今後不便になりますよ。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 27: 兰州西关清真大寺と蘭州牛肉麺


 

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今回は、イスラム寺院と蘭州ラーメンを紹介します。

 

 

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< 2. イスラム寺院に向かう >

 

イスラム寺院が見える通りで車を降り、ここから歩いて行きます。

上下の写真は、この通りの東西方向を撮ったものです。

今まさに、地下鉄工事がこの通りで進んでいます。

 

下の写真に、兰州西关清真大寺が見えます。

 

 

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< 3. 大病院が見えた >

 

歩いて行くと、人混みが増えて来ました。

大病院でした。

病院の入り口は、人で一杯でした。

まだコロナウイルスが始まっていませんでしたが。

 

 

 

 

 

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< 4.兰州西关清真大寺 >

 

おそらく蘭州市で最大のモスクでしょう。

夜はライトアップされ綺麗だそうです。

言い伝えでは明時代まで遡るらしいが、清の時代、1687年に創建され、1729年に再建された。

甘粛省には回族が5%おり、東の端になる蘭州にも同率ぐらい暮らしているでしょう。

回族は言語・形質的には漢民族でイスラム教を信仰する民族です。

回族は中国ムスリム2000万人の半分を占める。

 

私が町を観光している間、思ったよりムスリムの服装(つばなしの帽子、へジャブなど)の人を見かけなかった。

 

 

 

 

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< 5. 兰州西关清真大寺に入る >

 

門をくぐり、前庭に入る。

前庭に数人の信者らしき老人が椅子に座り、のんびりと過ごしていた。

 

今まで、トルコやモロッコ、エジプト、ボスニアヘルツェゴビナなどでモスクを見て来たが、建築様式や配置が異なる。

尖塔と半球ドームのモスクの組み合わせはおなじであっても、モスクへの階段が如何にも中国王宮風でした。

面白いのは、階段に盆栽が並んでいることです。

今回、中国の寺院を巡っているとホントに多くの盆栽を見ました。

 

モスクの中には入れませんでした。

特に女性はダメなようです。

 

 

 

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< 6. 兰州西关清真大寺のモスク >

 

下の写真は、モスクの階段前から入り口の方を見下ろした。

 

 

今回の中国旅行の目的の一つに、地方の少数民族の状況を知りたかったことがありました。

中でも回族には、強制収容所(中国側発表で職業訓練所)の問題や、過去にテロと弾圧のニュースがありました。

蘭州のある甘粛省は、暴動のニュースがよく知られた新疆ウイグル自治区の東隣にあります。

 

私が日中一日、観光した分には異常さや緊張感はまったくありませんでした。

警察官が警備の為に街中に立っている姿をまったく見かけませんでした。

現地の人の感想では、取り締まりをしたおかげで、安心出来るようになったとのことです。

もともとこの地は平穏だったのかもしれませんが。

日本で治安を危惧していたが、まったくの杞憂に過ぎなかったようです。

 

日本人とって、蘭州は砂漠に隣接する山間の都市、かつてのシルクーロードの古い街ぐらいのイメージしかない。

しかし、ここも中国の大躍進を受けて、間違いなく発展していた。

将来、この地が世界のレアメタルや石油生産を担うようになるかもしれない。

けして無縁ではいられない。

 

 

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< 7. 五泉山公園の前 >

 

イスラム寺院を離れ、五泉山公園の前に来ました。

車を降りて、昼食のレストランまで歩きます。

この辺りも高層のビルはあるが、少し古い感じがします。

 

下: 五泉山公園の前の広場が見える。

私が立っている所は陸橋の上です。

下は幹線道路と列車の線路です。

 

 

 

 

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< 8. 五泉山公園の前の陸橋 >

 

陸橋を渡り、五泉下広場に向かいます。

 

 

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< 9. 五泉下広場 >

 

大きい広場ですが、少し殺風景な気がしました。

広場を様々な店舗が囲んでいます。

この広場の北端の角にあるラーメン店に行きます。

 

 

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< 10. 金强牛肉面 >

 

現地ガイドが昼食にこの店を選んでくれた。

13:00過ぎに入ったのですが、広い店内のテーブルは勤め人などでほぼ満席でした。

メニューは何種類かあり、妻と私の分で二種類注文した。

スープの味はさっぱりしていて、ほど良く、辛い分も私にはぎりぎりセイフでした。

麺も違和感はなく、美味しかった。

驚いたのは、スープの量が多く、肉が少ないことでした。

ガイドの話では、元々蘭州牛肉麺の肉の量は多く無いそうです。

一番驚いたのは、一杯100円以下だったことです。

他のメニューを加えても、一人150~200円ぐらいで済みます。

今回の中国旅行で、最も安く、美味しく、腹一杯になった料理でした。

 

この店は、現在5~10万元(75~150万円)で加盟店を募集しており、急拡大中です。

繁盛間違いなしです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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世界が崩壊しない前に 4: 人々はなぜ警鐘を無視するのか?


 

 

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時には命を削ってまでも、警鐘を鳴らす人がいた。

しかし、ほとんど聞き入れられなかった。

 

 

なぜ人々は無視するのか?

 

前述の例、原発事故、資源枯渇、人口増、環境破壊、核戦争勃発、米国の監視体制、地球温暖化の危機から見えるもの。

 

  •  科学的な理解無しで危機を理解出来ない

 

原子炉の構造や安全設計の概念を理解していないと、推進側の権威者が唱える原発の無謬性を容易に信じてしまう。

多くの人は、その安全性の根拠が如何に抜けだらけかを見破ることが出来ない。

 

地球温暖化の危機を知るには、気候現象や地球史を知らないと、これまた煙に巻かれる。

 

中途半端な知識や感情論では無理。

 

 

2. 人は数十年先に訪れる危機に対して及び腰になる

 

おそらく数か月後に起こるとするなら対処するでしょう。

しかし10年、50年先となると、ましてやコストと手間がかかるものなら無視するでしょう。

さらに対策の費用対効果を見積り、優先順位を付けるとなると絶望的です。

 

 

  •  危機とその因果関係を否定し、世論を誘導する集団がいる

 

この力は非常に大きく、かつ国民が気付かないよう行われる。

 

現在、大きな危機の元凶はすべて人間だが、限られた人間によるものが多い。

彼らは防止策や規制により、利益の減少や賠償による損失を避けようとする。

 

例えば、現在、自由放任経済の恩恵を享受している人々は、かつてのルーズベルト大統領のニューディール政策(需要喚起、賃金上昇政策)を貶めて続けている。

 

 

  • 人は論理よりも帰属集団の意向に沿って判断し易い

 

これは分裂を極める社会ほど顕著です。

例えば、人は組する集団が原発推進、敵対する集団が原発反対なら、迷うことなく原発に賛成する。

現在、都合の良い情報(フェイク)は幾らでも集まるので、事実は二の次となる。

 

今や未開地の部族間抗争に逆戻りした感がある。

残念ながら日本人は稀に見る高い帰属意識を持っているので陥りやすい。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 25: 蘭州到着と白塔山公園


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今回から、蘭州を紹介します。

今回は蘭州西駅到着時のエピソードと、

翌日、最初の観光地、白塔山公園を紹介します。

 

 

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< 2. 観光スポット、上が北 >

 

上: 赤線は新幹線、紺色線は成都への飛行ルートです。

 

中央: 私が訪れた所を赤枠で、行けなかった所を黒枠で示します。

ここが蘭州の中心地です。

1: 中山桥

2: 白塔山公园

3: 敦煌艺术馆

4: 兰州西关清真大寺

5: 兰州市博物馆

6: 华润万家(天水路店)、大型スーパー

7: 五泉山公园と近くにある人気の蘭州牛肉麺店

8: 蘭州西駅(新幹線到着駅)

9: ホテル、兰州金地名庭酒店

順次紹介して行きます。

 

行けなかった所

10: 甘粛省博物館

長期の改修工事に入っていたので入館できなかった。

 

11: 正宁路小吃夜市(と张掖路步行街)

到着日の夕方から行くつもりだったが、妻の体調が悪くなり断念した。

 

炳霊寺石窟

時間的に無理だった。

理由を前回紹介しています。

 

下: シルクロードの全体像を示します。

右端が西安で少し進んで蘭州になります。

 

 

 

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< 3. 蘭州西駅 >

 

蘭州西駅は非常に大きいので迷って無駄に歩くことになりました。

タクシー乗り場が分からなかったからです。

 

上: 赤矢印がおおよそのタクシー乗り場です。

左の白い矢印は西安、蘭州中心部の方向、東側を示します。

 

下: この写真(借用)は上図の青矢印の方向から撮影されたものです。

タクシー乗り場を赤矢印で示しています。

この乗り場は蘭州中心部行きかもしれません、反対方向(西側)にもそれらしい乗り場が見えます。

 

私は新幹線を降りて、ホームから階下に降りて、出口(北側)に向かって進み、出た所で左側に曲がりエスカレータで上に出ました。

そこがこの写真で示されている広大な階上の広場でした。

 

間違いに気づき構内に戻って、警官にタクシー乗り場を聞きました。

乗り場は、先ほどの出口を出ずに右に曲がって行くとありました。

そこは天井は覆われ分かり難い所にありました。

タクシー乗り場では少し並びましたが、次から次へとタクシーが来ますので、直ぐ乗れました。

 

しかし、ここでもまた問題が発生しました。

運転手に漢字表記のホテル名を示したのですが、分からないと言う。

取り敢えず、ホテルのある中心部に向かいました。

街中をぐるぐる巡ったのですが、分からない。

ついに運転手は、歩道を行く青年に声を掛け聞きました。

彼はホテルを知っていたので、タクシーに乗り込み道案内をしてくれました。

こうして無事に着きました。

 

私は、彼に謝礼を渡そうとしたのですが、彼は受け取りませんでした。

彼は終始笑顔で親切な青年でした。

今回の中国では、多くの人に親切にしてもらった。

 

この運転手は、憤慨し当たり散らすことなく、真摯に対応してくれた。

中国では、スマホの百度地図の画面などで行先を見せないと駄目なようです。

 

 

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< 4. ホテルを朝出発 >

 

下: 宿泊したホテル。

 

一晩宿泊した翌日は、初めて日本語ガイドに案内してもらいます。

車1台をチャーターし、スーツケースも載せて、1日観光の後は直接空港行きのバスに乗ります。

次回、現地ガイド会社を紹介します。

 

 

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< 5. 中山桥 >

 

朝8時半でしたが、団体の中国人ツアー客が橋の前にけっこういました。

中国で人気があるようで、橋と黄河の夜景写真がインターネット上に沢山ありました。

本来は、夜市に行く時にこちらも見たかったのですが。

 

上: 橋が見えます。

これから橋を渡り、白塔山に向かいます。

 

下: 橋の反対側に延びる通りです。

 

 

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< 6.橋を渡る >

 

この橋は黄河第一橋とも呼ばれます。

この地は黄河が縦断しており、内陸と北西を繋ぐ交通の要衝でした。

目の前の黄河を渡河することは一大事でした。

 

14世紀、明の時代、多数の小舟を繋いだ浮橋が造られました。

1907年、清朝は30万両の大金をつぎ込みドイツ企業に依頼し鉄橋を建設しました。

これが全長6000kmの黄河に架かった最初の固定式の橋でした。

 

さらに日本軍が中国に侵攻した時、中国側の北部(ソ連?)からの物資輸送を断つために、この橋を爆破しようとした。

しかし間違った橋を爆撃したので、この橋が残ったのです。

 

後で知ったのですが、今回私が旅をした蘭州、成都、麗江、昆明は毛沢東の長征のルートの逆回りでした。

私は外縁を巡ろうとし、毛沢東は劣勢の中、山岳戦で外縁部を転戦したのです。

 

下: 黄河上流、西側を望む。

人口300万の蘭州市なので、高いビルが連なる。

こちらは中心部でないのですが。

この地が、かつてシルクーロードのオアシス都市で、漢民族と西方民族との境界になった辺境の地だったとは思えない。

 

 

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< 7. 白塔山公园が見える >

 

上: 黄河の下流、東側を望む。

右手が中心部になります。

 

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< 8. 白塔山公园に入る >

 

何処に行っても、太極拳やダンスに興じている姿を見ることが出来る。

人々は新しいものを取り入れているようです。

 

 

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< 9. 階段はきつい >

 

 

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< 10.法雨寺 >

 

 

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< 11. 法雨寺に入る >

 

上: 仏教寺院だが、左手にチベット仏教特有のマニ車が見える。

 

下: 三尊仏は日本でもよく見かける様式だと思います。

この手の仏像の顔を見るとほっとする。

 

 

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< 12. 蘭州中心部の眺め >

 

上: 蘭州中心部の眺め

下: 山頂の塔が見える。

 

 

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< 13. 山頂 >

 

左下: 白塔と呼ばれる七重の塔。

 

右下: 塔の前で線香をあげる所。

ここでは、お賽銭や線香をスマホで買う為のQRコードが表示されていました。

 

この塔の起源は、元の時代に遡ります。

チンギスハンは西域、チベット地域を平和的に統一することを望んだ。

それに応えてチベット仏教のラマ僧がモンゴルに向かわされたが、彼は蘭州で死んだ。

後に、元は西夏王国を統一し蘭州を領土とした。

そしてこのラマ僧を祭るために白亜の仏舎利をここに建立した。

現在の塔は、崩壊後、明時代に再建されたものです。

 

 

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< 14. 裏山 >

 

上: 黄土高原ではつい最近まで、穴居生活をする人々がいた。

現在は禁止されているようですが。

、山肌に見える住居は、はっきりは分からないがその痕跡を残しているように思える。

 

下二枚: 元来た道を下る途中。

 

 

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< 15. 筏のアクティビティ >

 

歩いて橋を戻ると、羊の皮に空気を入れた筏に乗る人々が見えた。

河岸から川の中央まで、手漕ぎで進んで来た。

多くの人が楽しんでいた。

 

中央: 南側の河岸から出発している。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 24: 新幹線で西安から蘭州まで


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今回は、前回に続いて新幹線からの車窓風景を紹介します。

この西安から蘭州までは、かつてのシルクロードで、

おおよそ漢民族の支配の限界地でした。

少し西域の雰囲気を味わうことができます。

 

 

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< 2. 新幹線のルート >

 

下: 赤線が今回の車窓風景の範囲です。

写真はすべて撮影順に並んでおり、線路の北側を撮っています。

写真の左側が進行方向になります。

 

西安は広い盆地ですが、やがて剥き出しの山々の間を列車は進みます。

幾つもの黄河の支流、渭河(渭水)などが曲がりくねり、深い谷間が行方を遮ります。

列車は幾度もトンネルを抜け、河を渡り、時折、谷間の盆地を通過します。

そして山を越える度に空は澄んでいきます。

 

 

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< 3. 西安駅を出て >

 

写真は西安の都市部から外れまでです。

高層マンションが林立しています。

 

下から2番目の写真: 今から20年ほど前まで見られた煉瓦積みの農家は沿線でほぼ見られなくなった。

今は、新しい造りの2か3階建ての家か、高層マンションに替わった。

 

一番下: 前回も合わせて6時間、車窓から墓を探していたのですが、撮影できたのはこれだけでした。

肉眼では他にも一つか二つ見たのですが。

畑の中央に、白い墓石らしきものがポツリ、ポツリと左右に見えます。

ここでも墓が集約されておらず、一つづつ独立しています。

もしかしたら井戸の設備かもしれませんが。

 

 

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< 4.杨陵南站付近 >

 

ここもまだ西安を中心とした広大な盆地の一角です。

 

一番下: 珍しいキリスト教会。

現在、中国ではキリスト教が普及しており、政府が警戒しているとの話を耳にしました。

共産主義国家で宗教が認められていることが不思議ですが。

 

もう一つ、不思議な光景があります。

それはここから西に進むとブドウ畑が増えてくることでした。

 

 

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< 5. 岐山の辺り >

 

下から1番と2番: 岐山站前後の風景です。

ここもまだ広大な盆地の中です。

 

この岐山辺りには歴史的な魅力があります。

一つは、周王朝の発祥の地であり、紀元前7百年前頃まで、周王朝(西周)の中心地でした。

秦の始皇帝の時代は、これより東側、今の西安西の咸阳に首都が造られた。

秦の時代も、盆地北側にある岐山を神聖視していた。

 

いま一つは、三国志で最後の舞台となる五丈が原もこの辺りです。

諸葛孔明と司馬仲達が戦った所です。

その台地は、おそらく線路の南側にあるので確認できませんでした。

 

 

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< 6. 宝鸡南站 >

 

この駅に停車したのは13:10です。

ここで盆地と別れ、列車は山岳部の谷間に入って行きます。

 

ここでも高層建築群の建設中が目立ちます。

今回、特に印象深かったのは、高層マンションの建築は数棟ではなく百棟を越える規模で同時進行していることです。

しかも、いたるところで、奥地でも。

 

これまで30年ほどの間に、7回ほど中国を旅行したが、益々中国全土の津々浦々まで、開発が及んでいることに驚かされた。

 

下の写真: 建築工事の様子。

今から10年以上前までは、建物は煉瓦積み、高層建築でも工事現場の足組に竹を使用していたのを見た。

様変わりしている。

 

 

 

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< 7. 宝鸡南站と天水南站の間 1 >

 

宝鸡南站を出ると、直ぐ山間に入り、長いトンネルを抜けると、少し視野が広がって来た。

明らかに空の様子が異なる。

今までのどんよりとしたぶ厚い雲ではなく、湧き上がる雲の間に微かに青空が見えるようになった。

 

それでもこの辺りの平野部は、曲がりくねった渭水の両側に幅1~2kmの幅しかない。

山肌は荒れて、草木で完全に覆われている所はない。

河はどこでも泥流だった。

 

 

 

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< 8. 宝鸡南站と天水南站の間 2 >

 

天水南站に近づくと、平野部が少し大きくなり、高層のビル群が増えた。

またブドウ畑も多い。

 

 

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< 9. 天水南站を過ぎて >

 

天水南站に着いたのは13:57です。

この辺りが、西安と蘭州のほぼ中間地点になります。

益々、周辺の山々は深くなっていきます。

この天水から東南約50kmの所に麦積山石窟(世界遺産)があります。

 

上から二番目の写真: 山の頂上に寺院らしい建物が見える。

その右側の急斜面には、この地方特有の民家群が段々状に連なっている。

 

 

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< 10. 秦安站辺り >

 

一番上の写真: はじめて山頂に狼煙台らしいものを見た。

ここは秦安站の手前になります。

この駅には停まりません。

 

他の三枚の写真: 秦安站を過ぎてから。

 

 

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< 11. 通渭站に至る >

 

この駅に停車したのは14:28です。

蘭州までは後1時間弱で、これが最後の停車駅です。

 

上: また狼煙台を見つけた。

唐代まで遡るのだろうか?

 

下から二番目の写真: 風力発電機の製造。

こんな奥地に、金属加工の製造メーカーがあることに驚いた。

他にもいくつか見た。

 

実は、天水から蘭州、敦煌を含む甘粛省は中国最大の石油埋蔵量があり、、また鉱産物が豊富で、多くの希少金属の埋蔵量でも中国第一位です。

この細長い盆地に中国10大工業都市があるのです。

 

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< 12.定西北站まで >

 

 

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< 13. 定西北站 >

 

ここは通過するだけです。

 

 

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< 14. 蘭州に到着 >

 

蘭州西駅に到着したのは15:20です。

さすが甘粛省の省都だけあって、高層ビル群がさらに増した。

 

追記

やはり新幹線は車窓の景色が楽しめるので良かった。

 

西安(長安)から蘭州もシルクロードの一部なのですが、蘭州から以西の敦煌までが、黄河を渡って進むので河西回廊と呼ばれた。

地図で見ると、大きく北に迂回していた黄河が、一気に南に遡上しこの蘭州を横切る。

黄河を渡河しなければならないことが、境界となり、旅人の逗留地となり、蘭州の役割を高めたのだろう。

 

今回、西安から蘭州までの道のりで既に緑が少なく険しいことを知った。

かつての交易商人や西域に仏典を求めた僧らが、この険しく長い道のりを行き来したのだと感慨深かった。

 

シルクロードを少しでも味わってみたいと思い、今回の旅行に蘭州を組み込んだ。

中国旅行でビザを必要としない限度の15日間で、中国の外縁部一周、廈門、北京、(開封)、西安以西のシルクロードの一都市、成都、麗江、昆明、

広州)、香港を一周しようとしたら、蘭州までが精一杯でした。

香港と広州は、香港の騒乱で直前に取止めました。

蘭州には新幹線で入り、一泊して次の夜には航空機で成都に飛ぶ強行軍でした。

列車で成都に向かうのは時間が掛かり過ぎるので止めました。

 

残念だったのは、世界遺産の炳霊寺(へいれいじ)石窟に行けなかったことです。

本来、丸1日(約7時間)で観光出来るのですが、観光シーズンが終わっており、ボートでの渡河時間が読めず、夜の飛行機に乗るのが無理だったからです(高額でも良ければ可能なのですが)。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 23: 新幹線で開封から西安まで


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今回は、2回目の新幹線からの車窓風景を紹介します。

開封から蘭州まで行ったのですが、西安までを紹介します。

開封のホテルと開封北駅も簡単に紹介します。

 

 

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< 2. 新幹線のルート、上が北 >

 

赤線が今回の新幹線乗車ルートで、黒線が前回の北京―開封間ルートです。

今回の走行距離は約1200kmで乗車時間は6時間3分、乗り継ぎはありません。

この高速の直行便G2023は1日1回で、朝9:17発、15:20蘭州西着です。

この間を在来の直行列車で行くと、14~18時間かかり、夜行が多い。

蘭州まで新幹線が行けるようになったのは2017年からです。

現在、中国は凄い勢いで新幹線ネットワークを整備しています。

 

飛行機は早くて良いのですが、空港が不便な位置にあるので、移動が数百km以内なら新幹線の利用がお薦めです。

概ね、新幹線料金の方が航空運賃よりも安いことが多い。

今回、新幹線を選んだのは、車窓の景色を楽しみたいのと、両都市から空港が遠いためでした。

 

 

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< 3.开封银祥酒店(开封鼓楼广场清明上河园店) >

 

私達が2泊したホテルを紹介します。

今回の中国旅行で、最もフロントスタッフが素晴らしかった。

建物が少し古く、正面玄関が少し路地に入った所にあるのが残念だが、後はまったく問題なかった。

鼓楼通りに面しているので夜市も直ぐに行け、バスの利用も交差点から何処へでも行けます。

 

私は最後の日、朝早く出発して新幹線に乗るのが不安だったので、フロントに色々相談した。

彼女らは、数人がかりでタブレットの自動翻訳を使い、笑顔で親切に対応してくれた。

タクシーを呼ぶ時間も決めてくれ、当日の朝、予定通りにタクシーは来た。

他のホテルではここまで親切ではなく、大きなホテルほど愛想がなかった。

 

開封に行かれる方には、このホテルはお薦めです。

 

 

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< 4. 開封北駅にて >

 

この駅は新幹線の駅で、私が北京から到着した駅です。

幾つかのエピソードと利用について紹介します。

 

乗車について

ここは北京西駅と異なり、入場口は一つしかなく、パスポートを見せなければならない外国人は、数ヵ所のゲートの内、係員が立っている所に行けばよい。

ここで切符とパスポートを見せ、荷物検査を受けて入場する。

切符売り場はこの入場口から外側を右に行った所にある。

次いで、直ぐエスカレーターで2階に上がる。

これは蘭州行き、西側行きの列車に乗る場合の事です。

反対行きの場合は、おそらく1階の待合室で待ち、改札を経て反対側の2階ホームに上がるのでしょう。

 

写真3枚: すべて2階待合室の様子。

広いので立って待つことは無いようです。

売店、トイレもあります。

 

中央: この電子掲示板はホーム側に面した中央上部にあります。

この下が改札口になります。

列車到着の前になると、数ヵ所の改札口に人が並び始め、私はここでも係員のいる所に並び、ホームに入りました。

 

 

助けられたエピソードを紹介します。

 

入場時の荷物検査で、妻は係員に止められ、中国語の厳しい口調で注意された。

私達は訳が分からず立ち往生していると、並んでいた40代前半の男性が英語で「ナイフがあるので、出してください」と教えてくれた。

妻がスーツケースを開け、小型の万能ナイフを取り出し、係員に見せた。

これで無事、取り上げられることもなく通過出来た。

 

今一つは、私は「停車中の列車にスムーズに乗れるか?」が不安でした。

そこで待合室で、近くいる若い女性に切符を見せながら「私の乗る車両はホームの何処に着くでしょうか?」と尋ねた。

すると彼女は快く、「教えましょう」と言ってくれた。

 

私が改札を抜けると、彼女は私達をホームのある場所に案内し、ここで待ちなさいと教えてくれた。

周辺には何の表示もなく、他の乗客は皆、何故か私と違うところに並んでいた。

不安な時が流れたが、停車した列車の乗車口はぴったりと合っていた。

彼女は違う車両に乗った。

 

不思議な女性でした。

彼女は旅行客ではなく、新幹線を日常的に利用しているようでした。

しかし親切な人がいるものです。

 

実は、開封でタクシーを計4回利用したのですが、良いものも悪いものもあった。

開封北駅のタクシー乗り場からとホテルで予約したタクシーは、親切で問題はなかった。

しかし街中で流しのタクシーを拾った2回については、少し問題があった。

一つは、目的地の手前数百メートルで降ろして、後は歩いて行けと言い、きちっと料金は取られた。

どこかに急いで行く途中だったのだろう。

もう一つは、料金を高めに取られたことです。

もっとも高いと言っても額は小さいが。

 

 

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< 5. 開封から洛陽龍門へ >

 

車窓風景の写真は時間の順に並んでいます。

この4枚は開封から洛陽龍門までの約1時間ほどの景色です。

私は進行方向右、つまりいつも北側を見ています。

途中、鄭州東と他に一つの駅で停車しています。

 

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< 6. 洛陽龍門周辺 >

 

この4枚の写真は、洛陽龍門駅に入る所から、15分間ほど走った景色です。

ここは歴史的に有名な古代王朝の宮殿が幾たびも造営されたところです。

今はその面影はないが。

 

黄土高原が迫って来た。

 

 

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< 7. 渑池南站まで >

 

洛陽龍門駅から25分のところにある駅で、停車しません。

 

一番下の駅が渑池南站です。

 

 

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< 8. 幾度も黄河に出会う >

 

一番下の写真は黄河だと思います。

この辺の走行では、曲がりくねった黄河を幾度も渡って行くことになります。

ここを過ぎれば黄河は大きく曲がり、北上していきます。

巨大な山脈の谷間を流れる黄河沿いのこの地域、洛陽からこの辺りまでは、古来より西安にとって要衝の地でした。

詩に謳われた函谷関を既に過ぎたようです。

これから中原ではなく、関中に入って行きます。

 

残念ながらガス(黄砂?)がかかり、小雨が降りそうな天気、さらに窓ガラスも汚れていて遠くが見えず、良い写真が撮れなかった。

 

 

 

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< 9. 渭南北駅 >

 

この辺りは西安のある広大な盆地で、高層ビルが乱立するようになった。

上から二枚目の写真は、停車した渭南北駅だと思います。

 

 

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< 10. 西安北駅に到着 >

 

今回の移動の約半分を来た。

3時間弱の乗車でした。

 

この駅が今回のルートでは鄭州東と並んで最も大きい駅です。

西安には数々の遺跡がありますが、以前観光しているので、今回は省きました。

 

下2枚: 車内の写真。

これは2等席です。

シートの幅、前後が狭いとは思いません。

ただ横方向に2席と3席が並ぶので、夫婦で旅行する時は、2席の所に座りたい。

今回、そのようにしました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 22: 鉄塔公園とショッピングセンター


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今回は、北宋時代の物が残っている鉄塔公園と

ショッピングモールを紹介します。

 

 

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< 2. 観光ルート、上が北 >

 

S(大相国寺の前)からバス(赤線)に乗り、途中1回乗り継ぎ、鉄塔公園の前まで行きました。

1の鉄塔公園内を散策した後、またバス(オレンジ線)に乗り、2のショッピングモールの前まで行きました。

歩いたところは茶色線で示します。

このモールで夕食を済まし、またバスに乗り、黒四角のホテルに戻りました。

茶色枠は今回紹介する所、緑枠は既に紹介した所です。

 

 

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< 3.大相国寺近くのバス停から >

 

 

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< 4. 乗り継いだバス停から >

 

この通りは鼓楼街の近くの解放路で、メイン通りの一つのようです。

 

 

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< 5. 鉄塔公園の前 >

 

上: バスを降りて、鉄塔公園までの途中にあった果物屋。

小さい店ですが、果物は豊富でした。

大きなザクロがあったので買いました。

 

 

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< 6.鉄塔公園に入った >

 

私は公園内を鉄塔に向かって中央の道を行き、見学後また引き返した。

従って公園の半分も見ていないと思います。

 

 

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< 7. 接引殿 >

 

公園のほぼ中央にある最も大きな建物です。

中には仏像があり、壁には極彩色の絵がありました。

この銅像は宋金代(約11~12世紀)のもので、絵は「西方極楽世界図」のようです。

 

 

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< 8. 鉄塔の全景  >

 

スリムながら堂々とした塔です。

名前の由来の通り、表面は光沢のある褐色のタイルで覆われている。

建造されたのは北宋時代(1049年)で、宋が最も栄光に包まれ開封が栄えていた頃でしょう。

 

やっと当時の開封を偲ばせるものに出会えた。

 

 

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< 9. 拡大 >

 

下の写真の入り口から鉄塔の中に入ることが出来き、螺旋階段を登ることが出来る。

そして上の写真の窓から外が見える。

私は疲れるのを避けて入らなかった。

 

 

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< 10. 塔の外壁 >

 

見える限りの壁面は、仏像の浮彫で覆われていました。

 

下: 入口。

 

 

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< 11. 宋都御街 >

 

上: 南側から宋都御街を望む。

中央の門の向こう側が宋都御街で、この道を行くと龍亭公園に至る。

この公園の地に、かつて王宮があった。

現在の建築群は70年ほど前に再建されたもので、テーマ―パークに成っている。

 

下: ショッピングモールの万博时代广场。

中には大型のスーパーやショッピング街、飲食街がある。

 

 

 

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< 12. 夕食を食べた所 >

 

私がここに来た時、飲食店はどこも準備中でした。

それで看板に惹かれて、この店に入り、何時から始まるのかと聞くと、店員は今からでもOKと言ってくれた。

私は適当にセット料理を注文したのですが、今回の旅行で唯一おいしくなかった料理でした。

 

加熱されたタレの入った鍋に、串に刺した食材を入れて食べる料理でした。

期待していた肉類は少なく、ほとんどが乾瓢(かんぴょう)のような食材でした。

慌てて、失敗した。

 

中国では、様々な地域の料理が組み合わされ、新しいものが生まれているようです。

西安料理や韓国料理、寿司などが見られた。

 

私がこの店の席に座ったのは、定刻の30分前でしたが、柔軟な対応に驚いた。

また食べながらフロアの通りを見ていると、他店の前では店員が10名ほど並び、朝礼のような事をしている所もあった。

この朝礼のような事は、他の地域でもちらほら見たし、中には全員で復唱させられている場面もあった。

日本を思い出した。

 

右上: この店の前に従業員募集の看板があった。

店長の月給は64000~128000円のようです。

皿洗いで37000~42000円らしい。

他の地域でもこの手の看板を見たが、賃金の相場は同じだった。

 

私の感じでは、職能により差はあるが給与は意外に高く、地域による差が少ないようだった(訪問した都市では)。

 

 

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< 13. 夜の宋都御街 >

 

ショッピングモールを出ると、外は暗かった。

 

下: 宋都御街の南に延びる通り。

 

この通りの両側には様々な店舗が開いていた。

 

 

 

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< 14. バス停 >

 

ここからホテル近くまで行くバスに乗り、ホテルに帰った。

明日早朝には新幹線に乗ってこの地を去ります。

 

 

これで三つの都市、廈門、北京、開封を見終えた。

廈門は風光明媚な地にある発展した都市、北京は歴史もある巨大都市で、二ヵ所共、二度目の訪問でした。

15年ぶりの訪問だが、二つの都市は再開発が進み、古く汚い町並みは消えているようでした。

 

初めて訪れた古都開封には、予想通りと言うか、本当の歴史を感じさせるものが少ない。

それでも中原と呼ばれる地、黄河中流域の古代から発展した地に立ってことはうれしい。

以前、観光した洛陽とは異なり、こちらはどこまでも平坦でした。

 

驚いたのは、陸の孤島のような古都開封の郊外がどんどん開発されている事でした。

北京から開封までずーと窓の景色を見ていると、開発可能な途方もなく大きな大地が有り余っている、そんな気がした。

これ以上、人口が増えると中国だけでなく世界も困るが。

 

 

次回に続きます。

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中国の外縁を一周して 21: 大相国寺


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今回は、開封にある大相国寺を紹介します。

今も昔も開封で一番大きい寺です。

 

 

 

大相国寺について

この寺の始まりは北斉時代の555年ですが、その後廃れ、唐の時代に復活しました。

宋時代(960年-1127年)になると大相国寺(禅寺)として首都最大の寺となります。

その後、黄河の氾濫や兵火に遭い廃れました。

清朝時代の1766年になって大修復が行われ、現在まで続いています。

 

弘法大師(空海)は唐の時代にこの寺に立ち寄ったそうで、立像があります。

また水滸伝の舞台の一つです。

梁山泊第十三位の好漢、魯智深(花和尚)はこの寺の菜園の番人だった。

境内に彼の怪力を示す像があります。

 

 

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< 2. 大相国寺の地図 >

 

右上: 百度地図から。

左側で上下(南北)に細長いのが大相国寺の境内です。

右上の少し離れた所に鼓楼広場があります。

散策は南側の山門Sから入り、ほぼ赤線の通りに真ん中を進み、左に折れて、出口Eから出ました。

他に出入り口は無いように思います。

 

右下: 寺にあった配置図。

SとEは同じで、途中、右側の鼓楼に寄っています。

 

 

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< 3.山門と広場 >

 

上: 山門。

 

下: 山門側から南側を望む。

 

延慶観からここまではタクシーを使いました。

こちらは観光客が多かった。

 

 

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< 4. 菊が綺麗でした >

 

開封では例年この時期に菊花展が行われます。

多くの観光地では菊が盛大に飾られていました。

 

 

 

 

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< 5. 鼓楼 >

 

上: 外観。

 

下: 1階の入った正面にある像。

地蔵王菩薩と記されているが、冠にはチベット仏教の様式が伺える。

この寺を復興した清の皇帝はチベット仏教を推進していた。

 

 

 

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< 6. 天王殿 >

 

上: 外観。

 

下: 内部の像。

中央に1体、それを囲む4体の像は四天王像のようだが、所持品が異なるので、日本でおなじみの組み合わせ(持国天、増長天、広目天、多聞天)と異なるようです。

通常、四天王像は山門と本殿の間にあります。

 

北宋の時代、北方の遼の像や四川省の石窟では日本人好みの尊さや思慮深さを感じさせる仏像が造られていたが、ここで見るものはかなり作風が異なり、粗雑な感じさえする。

これらは寺が復興された後、ここ三百年以内に造られたものでしょう。

韓国の比較的新しい四天王像の顔もこれらに似ていたように思う。

 

なぜこのように凡庸な姿になってしまったのか。

中国の仏像彫刻が日本に影響を与え、また素晴らしく感じられるのは概ね唐代まででしょう。

中国の宗教としては仏教熱は唐代までで、やはり儒教が中心で、そして道教が勢い付き、仏教は衰退していった。

 

権力者の庇護がなくなり、仏師の技術が衰え、制作費も乏しかったのだろう。

さらに仏教は道教などと混淆し世俗化して行く中で、仏像の顔は崇高なものから親しみ易いものになったのだろう。

不思議なことに、韓国でも中国でも日本に馴染みのある端麗な顔の仏画が残されているのだが。

 

この謎はまだ解けない。

 

 

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< 7.  大雄宝殿 >

 

上: 外観。

 

下: 中国式の太くて長い線香。

ほとんどは観光客だが、数本の線香を捧げて黙々と祈願している女性がいた。

黄色い服を着ているのは僧侶か、寺の使用人のようです。

 

 

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< 8. 大雄宝殿の三世仏 >

 

上: 三世仏。

仏像三体の組み合わせで、仏様の過去・現在・未来を表す。

中央は釈迦如来で左右に薬師如来、阿弥陀如来だそうです。

 

下: 三世仏の裏側。

日本やタイなどの仏像(光背)の裏側に多くの小さな仏像が集められていることがあるが、ここでは派手に飾らている。

ここでも祈りを捧げている人がいた。

 

 

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< 9. 羅漢堂 >

 

上: 外観。

有名な千手観音が見られる堂です。

中央に千手観音がある八角堂があり、それを囲むように別棟の八角形の回廊があり、中に五百羅漢像が並べられている。

 

 

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< 10. 千手観音と羅漢像 >

 

上: 千手観音。

同じ形をした4面の千手観音からなる。

銀杏の一木彫りで、高さ7m、金箔貼りの像です。

18世紀、復興後の作品です。

 

下: 回廊の羅漢像。

 

 

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< 11. 蔵経楼と資聖閣 >

 

上: 手前が蔵経楼で、奥の高い塔が資聖閣です。

 

下: 蔵経楼内部の像。

中国で玉の像を見かけることはあるが、緑色をした像はタイで見かける様式でした。

 

 

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< 12. 出口に戻る >

 

上: 蔵経楼の前を振り返る。

 

下: 出口に向かう途中で、振り返ると資聖閣が見えた。

 

 

 

想像していたものより大きな境内でした。

宋時代の面影がほとんど無いのは残念ですが、中国では古い物が完全に残っていることは稀なので仕方ない。

それでも多くの仏像や、三百年前の姿を見れたことは有難い。

開封府のテーマパークよりは、少しは本当の歴史に触れられた気がする。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 20: 開封府と道観


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「武汉加油!武汉加油!」

 

今回は、テーマパークの開封府と道教の延慶観を紹介します。

開封府は思っていたより楽しむことが出来ました。

道教の寺を見る念願が叶いました。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

上: この地図は借用しました。

二つの赤矢印が今回紹介する所です。

中央の赤四角がホテルです。

ホテルから開封府まで2kmぐらいです。

行きは路線バスで行き、少し歩きました。

スマホの百度地図で簡単にルートがわかります。

 

下: 開封府内の地図。

おおよその散策ルートを赤線で示しています。

Sから入り、数字の順番に歩き、最後はEから外に出ました。

 

 

 

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< 3. 朝、ホテルから >

 

上: 昨日、夜市を見下ろした同じ位置から撮影した。

中央に鼓楼が見え、その左に大相国寺の四重の塔が見ます。

 

下: 開封府の門です。

この門の左側に入場券売り場と入場口があります。

さっそく入場し城壁の上まで登り、写真の大きな櫓の左側に行きました。

すると広場でちょうど朝9時からの催しがありました。

後で紹介します。

 

このテーマパークへの入場料は通常大人75元ですが、60歳以上半額、70歳以上免除です。

パスポートを見せればOKで、今回の旅行では多くの入場料が半額か免除だったので助かりました。

 

このテーマパークの開場時間は7:30-19:00(春、夏、秋)です。

9時から30分毎に、演舞などの催しが各場所で行われています。

演目と場所は入場券の裏に書かれています。

 

 

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< 4. 城壁の上から内側を眺める >

 

写っている古風な建物はすべてテーマパークのものです。

 

 

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< 5. 銅鑼を叩きながら行進が始まりました >

 

どうやら裁判のワンシーンが始まるようです。

 

 

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< 6. 包拯 >

 

上: 広場の主役の額には三日月がありました。

包拯のトレードマークは色黒と額の三日月です。

 

下: これはどうやら生家を示しているようです。

包拯は長江の北側の合肥で生まれました。

 

 

 

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< 7. 様々な復元物 >

 

このテーマパークは北宋時代の首都開封の宮城を再現したものだそうです。

下の写真には如何にも中国歴史ドラマに出て来そうな奇岩が見えます。

 

 

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< 8. 先ほどの奇岩の上部に登りました、番号2 >

 

奇岩はまったくの張りぼてでした。

それでも池と柳、折れ曲がった橋、それらを囲む建物、どれも中国らしい風情です。

 

 

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< 9. 裁判所、番号3 >

 

ここは敷地のほぼ中心にあります。

中に入ると、ドラマで良く見た裁判シーンに出て来る部屋でした。

 

 

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< 10. 番号4と5の建物で >

 

下: 庭先で、簡単な剣舞の後、この踊りが催された。

 

 

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< 11. 番号6に向かう >

 

上: 古楽器の演奏。

中央の楽器はハンガリー(ブタペスト)で見たジプシーの楽器に似ていた。

 

下: 多くの時代装束を着た一行が集まって来ました。

何か楽しいことが始まる予感!

 

 

 

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< 12. 抱腹絶倒の劇、番号6 >

 

上: 観客がどんどん中に入って行くので、私も中に入り最前列に並び、見学しました。

 

下: どうやら飛び入りさせられた男性が、結婚式の新郎役を務めるようです。

 

左でマイクを持った人が、新郎役をいじりながら、観衆に語りかけ、笑いの渦に巻き込みます。

言葉は分から無いのですが、実に面白い。

彼は名司会者でした。

 

あっと言う間に開封府の2時間が過ぎました。

催しが一番良かった。

展示物や建物に興味を惹くものはほとんど無かったが、宮城全体の雰囲気を感じられて良かった。

ただどこまで忠実に再現したものかは疑わしい。

不思議に思ったのは、宮城にも関わらず皇帝に関連するものが非常に少ないことでした。

 

あまりにも包拯一色でした。

 

この開封中心部には様々な歴史テーマパークがあり、近くに包公祠、清明上河园、龙亭公园があります。

私は時間の都合で、中規模のこの開封府だけにしました。

 

 

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< 13. 開封府から延庆观へ >

 

出口から北に200mほど行った所にこの道教の寺はあります。

 

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< 14. 延庆观 >

 

私は今回、中国の仏教寺院、道観(道教の寺)、チベット仏教寺院、イスラム寺院を見比べたいと思っていました。

この延庆观が今回唯一見た道観です。

 

上: 中央にある玉皇閣。

珍しい様式です。

 

この延慶観は中国三大名観の一つです(他に北京の白雲観(白云观)、四川の常道観常道观)。

この道観は、道教の二大宗派の一方を創始した金時代の人物を記念して建造された。

 

下: 玉皇閣を取り囲む建物の一つ。

中には道教の様々な神々が祀られている。

 

ここには観光客は居らず、所々で熱心な信者が座って祈りを捧げていました。

 

 

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< 15. 道教の神々 >

 

概ね3体が並び、中央が最も高位の神です。

しかし道教の神は非常に数多く(百を超えるか)、見るたびに名前が異なります。

また仏像と違って仙人か皇帝、または武人の姿をし、椅子らしきものに座っていることが多い。

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 19: 開封の夜市


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今回は開封の夜市を紹介します。

妻と二人で食べ歩いた。

実に楽しかった。

 

 

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< 2. ホテルから見下ろした夜市 >

 

上: ホテルの部屋から見下ろした夜市。

夜市は東西に延びる鼓楼通りで毎日あります。

中央に鼓楼が建っています。

 

下 : ホテルを出て、通りの反対側からホテルを見上げている。

奥の背の高い建物がホテルです。

 

ホテルを出たのは夜の6時45分頃でした。

この日は2019年10月20日の日曜日でした。

 

 

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< 3. 夜市へ向かう >

 

上: ホテルを出て直ぐの通りの反対側を見ている。

左側の櫓のような舞台で一人の女性が朗々と謳いあげていた。

韓国のパンソリに似ていると思った。

 

下: 夜市がある鼓楼通りの地下街。

服飾や雑貨の店が多く、店舗は皆飾り気がなく小さい。

庶民向けのショッピング街と言ったところでしょうか。

安い品物もあった。

 

 

 

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< 4. 夜市に出た >

 

写真の左右に鼓楼の建物が見える。

ここは夜市の中心で、大きな広場を囲むように所狭しと屋台が並んでいた。

すべて飲食を提供する屋台だけのようです。

屋台で注文して、自由にテーブルに座って食べます。

来ている人々は、すべて地元の人のようでした。

少なくとも団体の観光客を見ることはなかった。

食べ物の種類は豊富で、ゲテモノから定番の中華料理、得体の知れない料理までありました。

比較的、海鮮や串焼きが多いように思った。

 

今まで、台湾や中国などの夜市を観光で訪れたが、今回はじっくり楽しめた。

時間に制約されず、テーブルに座れるのが良かった。

 

 

 

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< 5. 様々な屋台 1 >

 

 

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< 6. 私達が食べたもの >

 

下: 私が食べたもの。

私は胃腸が弱いので、結局、ありきたりの料理、材料が分かる料理を頼んだ。

歩き回り、色々選んで合計6品を妻と分けて食べました。

概ね温かく美味しかった。

 

私達夫婦が注文で困っていると、近くにいた若いカップルの男性が助言してくれた。

彼は開封外から来た人で、彼女と今ここにいるようでした。

後で、北欧でもやったアンケートの記入を依頼したら、快く受けてくれ、二人は相談しながら記入してくれた。

 

一つ教訓を得た。

直ぐ食べたいので客が並んでいない屋台で買ったら、美味しくなった。

これからは少し客が並んでいる屋台で買うべきだと!

 

 

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< 7. 色々な食材 >

 

 

 

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< 8. 一番人気の店 >

 

上: この店には長い行列が出来ており、次から次と売れて行きました。

近くで見ても材料が分からなかった。

半透明の泥っとしたあんかけの中に細切れの食材が入っていました。

 

中: 鼓楼です。

 

 

 

 

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< 9. 一番のお気に入り >

 

上と中: ここの串焼きが実に美味しかった。

この手の店は多いのですが、何人かが並んでおり、ここで一本注文しました。

この兄ちゃんは見かけによらず、非常に丁寧に胡椒やタレを塗り、時間を掛けて焼いてくれる。

この兄ちゃんに、「好吃!好吃!」(美味しい)と言っても、表情を変えず、また別の物を焼き続けた。

 

この隣の屋台は彼のお父さんがやっていました。

彼らはどうやら回族なのでしょうか、帽子からそのように思うのですが。

料理もそうだと思います。

 

 

下: 買い物の屋台。

食事が終わって、鼓楼通りから雑貨を扱う屋台が並んでいる脇道に入った。

ここも人は一杯でした。

驚くほど安い品物があり、いくつか土産を買いました。

 

 

異文化の夜の町に漂いながら、ふと旅の楽しみを満喫している自分に気付いた。

親切な人々に出会い、地元の人々の暮らしぶりに接することも出来た。

そして何事もなくホテルに戻った。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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晩秋の北関東をドライブしました 13: 旅を終えて


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今回で、この旅行記を終えます。

この旅行を通して感じたことを記します。

 

 

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< 2. 旅行のルート >

 

茨城空港からレンターカーで草津温泉と鬼怒川温泉に宿泊した2泊3日の旅でした。

赤線が航空路で、茶色線がドライブコース、赤四角が宿泊地です。

2019年11月17日から19日に旅行しました。

 

快晴に恵まれ、多くを見聞し、充実した旅になりました。

温泉に浸かり、紅葉を愛で、歴史遺産や絶景を堪能しました。

ただ、一人でこのコースをすべて運転するのはきつかった。

 

 

 

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< 3. 史跡足利学校と富岡の祭り >

 

足利の山裾に最古の学校があり、その発展保存の経緯から北関東の歴史が見えたような気がした。

 

富岡の祭りに偶然出会えて感激した。

その土地の温もりを直に感じられる良い機会だった。

 

 

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< 4. 草津温泉と吹割の滝 >

 

夜の湯畑は凄い賑わいで、寒さも忘れてしまいました。

念願が叶った一時でした。

 

吹割の滝は、予想外の素晴らしさでした。

紅葉に包まれた川縁を散策していると、別世界にいるようでした。

 

 

 

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< 5. 中禅寺湖と日光東照宮 >

 

噂にたがわぬ建築でした。

さらに紅葉と晴天が、さらに美しさを惹き立ててくれました。

 

 

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< 6. 弘道館と予科練平和祈念館 >

 

弘道館では水戸藩徳川斉彬・慶喜の親子の意気込みを知ることが出来た。

 

予科練平和祈念館と雄翔館では、予科練と特攻の関わりを知ることが出来た。

また、当時追い立てられるように散っていた若者の気持ちに少しは寄り添えた。

 

 

 

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< 7. 赤城山と榛名山 >

 

ドライブをしながら北関東の街並みと山河を見ることが出来ました。

平野部の高速道路を走り、山に入り林間の道を抜け、川沿いを進み、雪が微かに残る峠を越して来た。

 

平野に点在する林と小山、急峻な山肌を持つ山々、火山の多い北関東。

建築物にしても中世、江戸時代、そして明治初期のものまで見ることが出来た。

 

いままでぼやけていた北関東のイメージが、やっと纏まって来たようだ。

奈良時代に遡る歴史を持ち、繁栄を得ていた北関東の姿が。

 

 

訪問して頂きまことにありがとうございました。

これで終わります。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 18: 開封博物館と開封


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これから数回に分けて八大古都の一つ開封を紹介します。

この地は日本が平安時代の頃に世界最大の都市になっていた。

私は当時の面影を求めてやって来ました。

ちょうど開封市挙げての菊花展が行われていました。

 

 

開封について

ここは宋(北宋)の首都(東京開封府と呼ばれた)でした。

宋は日本人にとってあまり馴染みが無いかもしれません。

しかし宋時代には興味の尽きないものがたくさんあり、この開封で宋時代の全盛期が生まれました。

 

宋時代の代表的なもの

文治主義による統治、中国最長の王朝。

商業と海外貿易、貨幣経済の発達。

三大発明、火薬・羅針盤・印刷術が生まれた。

朱子学や浄土宗が誕生した。

 

実は、私達に身近な物語「水滸伝」は宋時代を題材としたものです。

この時代に庶民文化が花開き、「三国志演義」の元となる講談が人気を博していた。

(この二つの物語が完成したのは明時代)

 

 

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< 2. 宋時代の人気者 >

 

これらは人気テレビドラマのタイトルで、下二つは日本でも放映され、私も見ました。

水滸伝、岳飛、包拯が中国では絶大な人気を博しています.

 

水滸伝は多くの好達が梁山泊に集い、国の為に戦う物語です。

岳飛は南宋時代、異民族の侵略を食い止めた勇猛な武将でしたが、宰相に謀殺され悲劇の人となった。

包拯は北宋時代、清廉潔白で名裁判官と評され、大岡越前と似ている。

 

 

 

 

 

 

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< 3. 北宋の開封 >

 

なぜ開封なのか?

 

上: 北宋時代(960~1127年)の領域。

黒四角が開封(東京開封府)です。

この後、北方騎馬民族の金が南下し、宋は開封を捨てた。

その領域(南宋)はおおよそ長江流域から南側とし、勢力は衰えた。

 

下: これは当時の水運ルートを示した地図(博物館より)。

青線が自然の川で、赤線が運河です。

このことにより北部(北京や西安、洛陽)と南部(上海、南京)が黄河と長江を介して直結されていた。

隋王朝が大運河を造ったことが画期となった。

 

開封は黄河沿いにあったので古くから発展していたが、唐が滅んだ後の1世紀は内乱が続き、かっての首都長安や洛陽は荒廃していた。

そして運河を利用出来た開封が宋王朝の首都になったのでしょう。

 

 

 

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< 4. 開封城 >

 

上: 開封城。

この図が何時の時代を表しているかは不明。

現在、開封の城壁や城門の一部が残っているのは内城のものです。

この地は幾たびも戦火と黄河の氾濫に遭い、遺跡は地下に眠っています。

現在見られる城郭は清代に建設されたものです。

 

下: 梁山泊の位置を示したもの。

開封を赤四角、梁山泊を赤矢印で示す。

 

 

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< 5. 開封博物館の位置 >

 

上: 赤四角が開封の位置。

左(西)に鄭州、洛陽、西安、右に商丘、徐州がある。

これらは古代より名を馳せた地でした。

 

中: 今回、私が訪れた所です。

Sが開封北駅、Mが開封博物館、赤枠が開封の内城です。

多くの観光スポットがこの赤枠内にあります。

赤枠内の三つの黄色の円が、私の観光した所です。

Hが二泊したホテルです。

 

開封博物館へは開封北駅からタクシーに乗りました。

博物館からホテルまでは、公共バスを一度乗り継いで行きました。

黒線がそのおおよそのルートです。

 

下: 開封北駅の全景(借用)。

ここも相変わらず駅前広場が広すぎて、タクシ―乗場に向かうのが一苦労でした。

タクシー乗場は広場前方にあり、標識で分かります。

タクシーは次から次とやって来るのですぐ乗れました。

 

 

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< 6. 開封博物館 >

 

ここは数年前に出来たようで、それまでの開封の内城内からこちらに移転して来た。

実に、巨大です。

この日は2019年10月20日の日曜日でもあり、見学者は多かった。

ここはパスポートを見せれば無料です。

 

上: この写真は博物館の西側を撮影したものです。

タクシーがこの西側で下ろしてくれた。

 

この入り口の右側の建物に入り、パスポートを見せてチケットをお貰いました。

私達は大きなスーツケースを持っていたので、別のカウンターに行き、荷物預けを頼みました。

カウンターの若い女性係員の一人と英語でやり取りが出来き、こころよく預かってくれた。

 

下: 荷物を預けて、一度建物(チケット窓口)をでて、本館の入り口に向かう途中。

外側を見ている。

 

 

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< 7. 館内へ >

 

上: 入館したばかりの所。

至るところで工事中か模様替えを行っていた。

 

中: 当時の開封の街並みを描いた絵。

眼下に街並みの賑わいが伺える。

 

下: 唐三彩。

 

 

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< 8. 開封城の復元模型 >

 

上: おそらく外城、内城、王宮の全体を復元したものでしょう。

何時の時代かは不明。

内城、中央の奥に王宮らしきものがあり、その右手前に大相国寺らしいものが見える。

 

当時、この狭い城内に百万人が暮らし、凄い人口密度だった。

内城の一辺は約4kmです。

 

下: 内城の時代ごとの変遷図。

 

 

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< 9. 開封の賑わい >

 

上: 当時の夜市が描かれている。

当時の開封の賑わいを知るには『清明上河図』が良いのですが、博物館にこの絵がありました。

 

実は、夜市は宋時代から始まり、この絵のような街並みも宋時代からなのです。

それ以前、例えば唐時代では市(商取引)は城内の限られた広場で限られた時間に行われ、官吏が厳重に監視していました。

しかし宋時代になると、商取引は通りで常時行われ、更に夜市も許されるようになりました。

これにより通りの様式が様変わりしました。

 

唐の長安では門を抜け大通りを行くと、左右は屋敷の壁で囲まれていた。

しかし、開封ではこのように町家の軒先が通りに面し、人が自由に往来出来たのです。

柳が町や湖畔を植えられるようになったのも宋時代からだそうです。

 

こうして経済が発展し、大衆文化が花開いたのです。

 

 

中: オペラの舞台のようなものです。

開封の夜市に行った時、道路に面したこのような舞台で一人の女性が朗々と歌っていました。

 

下: 店舗。

 

 

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< 10. その他の展示 >

 

上: 薬屋でしょうか。

 

下: このような近代の街並みも再現されています。

 

写真は撮っていないのですが、驚いた展示もありました。

それは日中戦争に関わるものでした。

日本軍がこの地に侵攻していたのです。

1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が南京を占領した後、徐州作戦で開封を占領したのはその1年後でした。

 

中国人に交じって一人、侵略する日本軍の状況を見るのは嫌なものです。

とは言っても、中国や朝鮮半島各地を観光していると大概、戦禍を知ることになりますが。

 

旅行先で色々知ることができました。

桂林のような山奥でも日本軍が進攻していました。

北京の盧溝橋の傍にある中国人民抗日戦争紀念館では、日本軍の残虐行為を示す写真が並んでいます。

蘭州でも日本軍が鉄橋を爆撃したと聞いた。

これらはすべて日中戦争での出来事です。

 

また廈門の奥、山間部にある客家土楼では、かつて倭寇が攻めて来たと書かれていた。

この倭寇は日本人が主体ではないかもしれないが。

 

 

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< 11. バスで開封の中心部に向かう >

 

上: 開封博物館の全景。

 

中: 開封博物館の西側。

この奥の方に開封北駅がある。

 

下: 開封博物館の横を東西に走る道路。

道は非常に広いが車は少ない。

 

タクシーとバスから外を見ていると開封の発展に驚かされました。

開封北駅から開封の中心部(内城)までは高々ここ数年間の大規模な都市開発で出来たようです(開封北駅の開業は2016年)。

原野のようなところに忽然と高層のマンションが林立し、また途切れます。

その規模の壮大さに圧倒されます。

実は、これから巡る奥地でも同様かそれ以上でした。

 

 

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< 12. 途中の景観 1 >

 

バスの乗車で注意すべき事を一つ。

今回、途中で1回バスを乗り替えたのですが、バス停の名前が紛らわしい。

バスの路線によって乗り換えるバス停の名前が違うのですが、実は同じバス停に違う二つの名前がついていたのです。

スマホの百度地図アプリを使用しGPSで位置確認していたので間違うことは無かったが、バスが来るまでは不安でした。

バス停の名前には注意してください。

 

 

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< 13. 途中の景観 2 >

 

 

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< 14. 開封の中心部 >

 

鼓楼通りと交わる交差点に降り立ちました。

ここからホテルは直ぐです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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晩秋の北関東をドライブしました 12: 予科練平和祈念館


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今回は最後の訪問地、予科練平和祈念館を紹介します。
ここで太平洋戦争で散った若人達の生きざまを知ることが出来ます。
霞ヶ浦の淵、自衛隊駐屯地の脇に記念館はあります。

 

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< 2.予科練平和祈念館の位置、上が北 >

赤の四角が、記念館の位置です。
この土浦の阿見町には、大正時代から霞ケ浦海軍航空隊が置かれ、第二次世界大戦開始共に、ここに予科練が移転し、全国の予科練教育の中心となった。
戦時中の爆撃で施設は壊滅したが、現在、跡地に陸上自衛隊の駐屯地があり、その中に予科練戦没者の遺書や・遺品を収めた雄翔館がある。
この駐屯地に隣接して広大な公園があり、その中に近代的な記念館がある。

私は雄翔館を見てから記念館を訪れました。

 

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< 3. 雄翔館を目指す >

私は予科練平和祈念館の前の駐車場に車を置き、雄翔館に向かう。
ここに行くには駐屯地に入らなければならず、衛兵に挨拶して向かった。
雄翔館は16:30に閉館します。

上: モダンな建物が祈念館。
下: 駐屯地に並ぶ戦車群(現役ではないようです)。

 

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< 4. 雄翔館 >

上: 雄翔館の正面。

下: 雄翔館の入口から駐屯地を望む。

建物は大きくはない。

 

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< 5. 雄翔館、遺書の展示 >

彼らの遺書を見て目頭を熱くしたが、以前訪れた鹿児島の知覧特攻平和会館でも同様でした。
予科練と言えば颯爽とした若き航空兵と言うイメージだったが、彼らも多くは特攻兵になった。
終戦までの15年間で24万人が入隊し、うち2万4千人が戦地に赴き、特攻に進んだものも多く、戦死者は8割にのぼった。

 

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< 6. 雄翔館、遺品の展示 >

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< 7. 山本五十六連合艦隊司令長官の書簡 >

これは彼がこの予科練の司令官に送ったもの。
彼はこの書簡を書いた18日後に撃墜されている。

文面は予科練司令官に、ガダルカナル島撤退以降の日本の苦境を吐露しながらも、米軍の物量優位に勝るには、「立派に死ねる闘士を育てることが肝要」と訴えている。
当時、真珠湾攻撃からほぼ1年が経ち、ミッドウェー海戦からガダルカナル島撤退へと日本の敗戦色は濃厚になっていた。
当然、国民は真実を知らず、まだ勝利に酔いしれていた。

理知的で知られる最高指揮官の彼ですら、精神論を振りかざすしか手がないのが如何にも口惜しい。
もし国民が真実を知らされていたなら、違った国の舵取りが行われただろう。
そして若い人々は、死に急ぐことはなかった。

いつも思う。
彼らの国に殉じる思いは尊い、当然命も。
しかし、殉じることで国は救えず、圧倒的な物量の前では無駄な死と言えるだろう。
何も知らない若者をそんな境遇に追い込んだ時代が悲しい。

二度と馬鹿げた軍事国家を作ってはいけないと唇を噛み締める。

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< 8. 人間魚雷、回天 >

 

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< 9. 予科練平和祈念館 >

上: 外観。
下: フロア図。
内部は撮影禁止なので、ホームページから写真を借用しました。

展示室は7カ所に分かれています。
この番号に従って、次の写真にテーマ紹介があります。

 

10史料

< 10. 展示室のテーマ >

記念館は大きくなく、見学時間はそうかかりません。
斬新な展示だが、今一つ要領を得ていない。
史実を分かり易く伝えると言う意味では中途半端だと感じた。
それでもこの手の展示は必要だと思う。

 

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< 11. 当時の全国予科練の設置状況 >

 

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< 12. 霞ヶ浦の夕陽 >

一度は訪れて見たかった霞ヶ浦だったが、記念館の閉館(17:00)共に外に出ると辺りは暮れていた。
直ぐ裏手の淵に辿り着くと、正に夕陽が沈む所でした。

雲に覆われ、微かに赤い西の空が予科練生の生きざまを象徴しているようでした。
悲しくも美しい生き様がここにはあった。

次回に続きます。

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晩秋の北関東をドライブしました 11: 水戸の弘道館


 

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今回は、明治維新の立役者、水戸徳川家の弘道館を紹介します。

その建物の大きさと気概に感銘しました。

 

 

2s

< 2.弘道館MAP、方角は矢印通り >

 

上: 水戸城と弘道館を示す。

現代の地図に江戸時代の配置を重ねている。

白色部分の右が水戸城、左が弘道館で、濃い茶色が堤、橙色が空堀。

弘道館の大きさに驚くばかりです。

 

赤線が見学したルートで、Sからスタートした。

 

 

下: 弘道館の拡大図で、上と向きが違います。

下側の茶色い部分が講道館の中心的な建物、正庁で創建当時からのものです。

黒線が見学したルートでSからスタートし、茶色線で戻った。

 

写真は見学した順番に並んでいます。

 

 

 

 

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< 3. 弘道館の駐車場と入口 >

 

上: この広い道路を挟んで、向かいに水戸城の大手門があります。

この日、ちょうど大手門の復元整備完了に合わせて見学会が行われていました。

 

 

 

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< 4. 正門 >

 

上: 藩主が来館する際などに使用した正門。

 

下: 見学者はその右手にあるこの門から出入りします。

 

 

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< 5. いよいよ正庁に入る >

 

上: 門をくぐると正庁が見えた。

 

下: 成長の玄関。

見学者は右手の小さな玄関から出入りする。

 

 

 

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< 6. いよいよ正庁内を歩く >

 

 

上: 玄関を内側から見た。

 

下: 来館者控えの間、諸役会所。

「尊攘」の掛け軸は、1856年、斉昭の命で書かれたもの。

 

江戸末期、180年前の建物がほぼ無傷で残っている。

素晴らしい!

この廊下や部屋から徳川斉昭や慶喜の息遣いを感じることが出来るような気がした。

 

 

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< 7. 対試場に面した廊下 >

 

上: 廊下から正門を見る。

 

下: 対試場に面した廊下。

左の広場で武術の試験などが行なわれ、藩主は廊下右手の正庁正席の間から見た。

 

 

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< 8. 正庁正席の間 >

 

上: 正庁正席の間。

藩主が臨席して、正席の間や二の間で学問の試験や対試場で武術試験が行われた。

 

 

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< 9. 至善堂御座の間 >

 

上: 至善堂御座の間。

大政奉還後の明治元年(1868年)、慶喜は水戸へ下り、幼少時代を過ごしたこの至善堂にこもり、静岡に移るまでの約4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送りました。

 

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の徳川慶喜のシーンが蘇ります。

 

 

 

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< 10. これで一周しました >

 

 

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< 11. 正庁を出て >

 

 

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< 12. 孔子廟 >

 

上: 孔子廟の門。

 

下: 鹿島神社。

 

 

弘道館について

 

水戸藩の藩校である弘道館は、藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。

弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」とされていました。

弘道館は、1857年に開館されました。

藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。

敷地内には、正庁・至善堂・文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。

弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられ、生涯教育といえます。

学問と武芸の両方が重視され、多彩な科目が教えられていました。

また、医者を養成する医学館では、種痘や製薬なども実施されていました。

 

https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/about.html

を要約

 

感じた事

 

藩校の弘道館と名のつくものが、江戸時代に10校造られた。

また足利学校のように儒学の学校に併設されていた孔子廟は、今も各地に10ヶ所ほど残っている。

栃木県の足利学校と言い、この弘道館と言い、孔子の儒学、朱子学は長期に渡り武家教育で重要な位置を占めていたことを実感した。

 

一番感銘を受けたのは、弘道館の広さが、水戸城の御城とほぼ同じだと言うことです。

江戸末期、徳川斉昭が武家屋敷の地に、この弘道館を建てた意気込みに感じ入りました。

それほど日本の危機を感じとり、そして改革の中心に教育を持ってきたことが素晴らしい。

 

いいものを見学しました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 16: 琉璃廟大街から西単大街へ


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今回は、書道関連品や骨董品の店が並ぶ通りと大きなショッピング街を紹介します。

ショッピング街で夕食をとりました。

今回で二日間の北京観光が終えます。

 

 

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< 2. 散策マップ、上が北 >

 

概略のルート

上のS、故宮站で下記の観光バス(赤線)に乗り、天壇の西横、Eの天桥站で降りました。

本当は天壇に行くつもりでしたが、元の両替に時間がかかり行けなくなりました。

次いでタクシー(ピンク線)を拾ってCの琉璃廟古文化街に行きました。

ここを西の方に散策(茶色線)し、大通りに出てバス(黒線)に乗り、Dの西単で降りました。

 

 

 

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< 3. 北京观光1线公交线について >

 

このバスは写真のようなレトロな1階バスです。

このバスの走行ルートは、上記地図の青線で下側の永定門内站からスタートし戻って来ます。

バス停名は上記の通りです。

 

 

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< 4. 北京观光1线公交线に乗る >

 

上: 私が乗ったバス停は故宮と景山公園の間にあり、ちょうど景山公園の入り口が見えています。

 

 

下: バスの内部。

ここで一つハプニングが起きました。

このバスには女性の車掌が乗っています。

その車掌が、立っている妻の前で座っている男性を、突然きつい口調で注意しました。

男が立って席を空けてくれたので、妻は座ることが出来ました。

 

年配者のマナーが良くないことは多いが、他のバスでも車掌が注意して正すことがあった。

この辺りが独特です。

 

 

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< 5. 天安門広場を望む >

バスの車窓からの眺め。

 

上: 地図のAから毛主席記念堂を望む。

もの凄い人だかりです、故宮に行く為でしょうか。

 

下: 地図のBから正阳门を望む。

この門が昔の内城(紫禁城をさらに取り囲む)の南側の門でした。

左が正阳门で右が正阳门(箭楼)で、500年の歴史があります。

 

この観光バスを天桥站で降りたのですが、手持ちの元が少なくなったので、両替出来る銀行を探しました。

近くにはあったのですが、二軒目が両替可能でした。

ところが中に入って、係員の説明に従って書面を記入するまでは何とか出来たのですが、窓口で順番を待つ時間が非常に長い。

合計1時間以上かかってしまい、天壇には行けずじまいでした。

これは開封の銀行でも同様でした。

 

中国はスマホでのIT金融は非常に進んでいるのですが、従来の金融、銀行業は旧態依然としているようでした。

もっともこんなところで両替するのが間違いなのですが。

スマホ決済出来ない方々は十分に現金を持っておいてください。

 

 

 

 

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< 6. 琉璃廟古文化街に到着 >

 

上: 古文化街はこの道路を東西に横切る形で延びている。

 

下: 後に中央の通りを西に進むことになります。

 

 

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< 7.東側の琉璃廟古文化街 >

 

上: 道路の東横にあるこの広場の北側に古物店が並ぶ海王村古玩市場があります。

入ってみましたが、安い土産品を買うような所ではないようです。

 

下: 通りを東側に行く。

しかし、次のバス停が西側なので、直ぐ折り返した。

 

 

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< 8. 西側の琉璃廟古文化街に入る >

 

書道関連品の紙や筆などの店が軒を並べている。

何軒か古物店に入ったが、値札を見ると高価であり、関心を惹くものは無かった。

ただ書画用の絵図(印刷された花鳥風月、人物、風景画)は非常に見ていて楽しかったが、荷物になるので買わなかった。

 

 

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< 9. 琉璃廟古文化街を抜ける >

 

中国はどこに行っても建設ラッシュであり工事中です。

 

 

 

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< 10. 西単大街に来た >

 

上: 西単大街には、王府井に比べ団体の観光客が少なく、若い人が多かった。

 

下: 王府井でもそうだったが、バラ売りお菓子の個包装がけばけばしい色をしている。

 

 

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< 11. ショッピングセンターの一つに入る >

 

 

 

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< 12. レストラン街を目指す >

 

ビルに入りエスカレーターで上がると、これまたドギツイほどのカラフルな内装とけたたましい音楽が迎えてくれた。

このワンフロアがレストラン街になっており、火鍋のレストランに入りました。

以前、北京で食べたオーソドックスな火鍋ではなく、肉とそれ以外の食材が豊富でした。

鍋の汁も異なっていた。

しかし美味しく、また楽しめた。

セットメニューを選んだのですが、選択肢が多く、店員とのやり取りではかなり苦労した。

 

私は中華料理が好きですが、本当にバラエティーに富んでおり、今回の旅行では本当に食事を楽しむことが出来た。

 

 

 

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< 13. 西単の地下鉄駅を目指して歩く >

 

地下鉄を乗り継いでホテルに戻ります。

これで北京最後の夜を終えました。

明日は、新幹線に乗り開封に向かいます。

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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晩秋の北関東をドライブしました 10: 日光東照宮


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今回紹介するのは日光東照宮です。

今回の旅行のハイライトの一つがこの陽明門です。

 

 

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< 2.日光山の地図、上が北 >

前回と同じ地図。

 

上: 日光東照宮、日光荒山神社、日光山輪王寺、大猷院霊廟などがある。

右側S(駐車場)から赤線に沿って進み、輪王寺三仏堂1を見て、参道2に出た。

参道を北上し、東照宮の境内3に入り、拝殿4に入館した。

そこを出て青線に沿って進み鳴竜5を見て、元の駐車場に戻った。

 

下: 私が訪れた日光東照宮。

赤線は往路、青線は復路です。

 

写真はほぼ散策順に並んでいます。

 

 

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< 3. 鐘楼 >

 

私が気に入ったのは、陽明門の右手前にある鐘楼のある風景でした。

 

上: 左手に極彩色の花鳥の透かし彫りが施された回廊と石灯篭が連なり、右手に鐘楼、そして奥に、朝陽を浴びて今が盛りと輝く一本の銀杏、青空に映えて実に美しい。

 

陽明門の左手に鼓楼があり、さらに奥に薬師堂(本地堂)があり、そこに鳴き龍があります。

 

 

下: 逆方向から見た。

 

 

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< 4. 鐘楼と回廊 >

 

 

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< 5. 念願の陽明門 >

 

上: 階段下から見上げた陽明門。

無数の龍と獅子が門に群がり、そこに住み着いているようです。

目を見開き、牙をむき恐ろしい顔をしているようにも見えるが、不思議に愛くるしい。

 

日光東照宮は徳川家康の霊廟ですが、神様として祀られている。

家康は、この地に質素な社殿を建てるように遺言したが、後の1636年に、家光が現在の豪華絢爛たる社殿にすべて作り替えた。

そして昭和の大修理を終え、今また平成の大修理が進んでいる。

 

 

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< 6. 陽明門 1 >

 

陽明門を飾る彫刻は500を越える。

 

 

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< 7. 陽明門 2 >

 

 

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< 8. 陽明門の裏側 >

 

 

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< 9. 拝殿と唐門 >

 

上: 手前に唐門とその両側に透塀が見える。

その奥に最重要の御本社の拝殿が見える。

 

下: 唐門は胡粉で白く塗られ、上部の彫刻群は中国の故事を表している。

 

 

 

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< 10. 拝殿に入る >

 

上:  唐門の左側を望む。

左に祈祷殿、右に神楽殿が見える。

この中央を進むと有名な左甚五郎作の「眠り猫」がある。

ここは別料金で、私は行かなかった。

 

祈祷殿の手前を左に入り、靴を脱ぎ、回廊を歩き拝殿に入る。

拝殿の座敷に入ると、一人の巫女が、大勢の観光客に前に詰めて座るように促した。

ここでひとしきり拝殿の説明があった。

 

私はちょうど一番前に座ることが出来た。

目の前には、飾り気のない大きくもない暗い空間が広がるだけでした。

しかし、かつて私が座っている場所に家光などの歴代の将軍家が座り、その後ろには譜代大名が続いていたとは・・・。

不思議な感覚でした。

 

その後、その巫女はお守りの売り込みを始めました。

私もその気になり、妻に買うように促しました。

 

 

下:  神輿舎(しんよしゃ)。

唐門に向かって左手にある、祈祷殿の反対側。

 

 

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< 11. 鳴き龍 >

 

上: 薬師堂(本地堂)の天井に描かれた鳴き龍。

写真は借用です。

 

後に家康は薬師如来の生まれ変わりと信じられ、ここに薬師瑠璃光如来が祀られているのですが、すっかり鳴き龍が有名になった。

 

私達が列を作って堂内に入ると、一人の僧が、鳴き龍の下を囲むように並ばせ、拍子木を打ち始めた。

最初は部屋の端で鳴らしたが普通の音だった。

しかし中央で叩くと、甲高い鈴の音が余韻を残し鳴り響いた。

これが鳴き龍だと納得し、造営者の左甚五郎は凄いと思った。

 

その後、かの僧もまた新たな御守りを薦めた。

それは先ほどのものより更に御利益があると言う。

妻はまたここでも買った。

 

天井の鳴き龍の顔の辺りが凹んでいることで反響し鳴くようです。

この現象は1905年に偶然発見されたものでした。

左甚五郎が計画的に作ったものか、経年変化かどうかは不明です。

 

 

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< 12. 美しい紅葉 >

 

これで日光とはお別れです。

 

次回に続きます。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 15: 観光バスで巡る北京


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今日は、北京の観光バス3号線からの眺めを紹介します。

約1時間、北京中心部の北西部にある幾つかの観光地を車窓から見ました。

 

 

 

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< 2. 観光バス3号線について >

 

上: 「北京城市观光3线公交车」の情報とバスの外観。

私が乗ったのは「下行」で、頤和園の北門から紫禁城の神武门(北門)まで行きます。

下の地図の青線が、そのルートです。

バス停は合計12箇所です。

サービスは何もないが、ゆったりしたシートに座りバスの2階から景色を楽しめます。

料金は大人20元、一卡通提示で15元です。

 

下: 走行ルート、上が北。

乗車のバス停は頤和園の北門の東側直ぐにある大きなバス駐車場の道路沿いにあります。

降車のバス停は紫禁城の北側、景山公園南門の前の道路沿いにあります。

ここは、この戻りのバスや他の観光バスの発車場所になっていますので、多くのバス停があり非常に込んでいました。

 

このルートで私が楽しみにしていたのは、中関村(北京のシリコンバレー)、鳥の巣(オリンピックのメインスタジアム)、鼓楼と城門(德胜门箭楼)でした。

 

私は途中一度も降車しませんでした。

 

 

 

 

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< 3. 観光バス3号線の内部 >

 

上: 観光バス3号線の2階。

 

下: 圆明园、最初の観光地です。

 

 

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< 4. 精華大学 >

 

上: 精華大学の門が見える。

 

下: 通りを示す看板に「中関村」とある。

バスからは確認できなかったが、近くに中関村サイエンス・パークと呼ばれるところがある。

 

この周辺には世界有数の精華大学、北京大学、国家の研究機関などが集まっており、また日本を含む海外のIT代表企業が研究所を建ている。

IMB、Microsoft、Apple、Intel、Nokiaや富士通など。

中国と海外企業がここに毎年数兆円をつぎ込み、200を越える研究所、参加企業数は4万社を越える。

ここは中国の科学技術と産業発展をリードしている重要な地域の一つです。

北京には他にもこのような場所があり、当然、深圳や天津、蘇州など各地にも多数ある。

 

これらが、中国が幾つかの先端分野で米国を抜く特許件数を出す理由の一つだろう。

国を挙げての取り組みと、それに乗る海外企業の多さに驚くばかりです。

 

ここでも旧態依然とし、乗り遅れることに無頓着な日本を思ってしまう。

 

 

 

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< 5. 北京大学 >

 

上: 北京大学。

 

 

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< 6. 鳥の巣 >

 

上: 鳥の巣が左側に見える。

中国らしく、全てが巨大で広大、歩く気になれない。

 

下: バスはこの一帯を一周した。

斬新な建物が目を惹く。

 

 

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*7

 

スモッグらしいが、視界が悪い。

 

 

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< 8. 德胜门(徳勝門 ) >

 

これはかつての内城(北京)の北側の門の一つで元朝、15世紀に建てられた。

 

 

 

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< 9. 鼓楼と钟楼(鐘楼) >

 

上: 右が鼓楼、左が钟楼(鐘楼)。

鼓楼は13世紀に始まり、大太鼓と角笛で時を知らせていた。

鼓楼は他の古都でもよく見かける。

钟楼は15世に始まり、63トンの銅製の鐘があった。

この二つは紫禁城を南北に貫く中心線上にある。

 

下: 鼓楼。

西安で見たことがあり、今回、開封でも見ることになる。

 

 

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< 10.終点に近づいた >

 

上: 鼓楼を過ぎた什刹海の辺り。

前日訪問した場所です。

 

下: 遠くの山頂に景山公園の建物が見える。

ここも前日訪問した場所です。

あの反対側に着くと、バス観光は終わります。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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晩秋の北関東をドライブしました 9: 日光山輪王寺


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今回と次回で、日光山を紹介します。

素晴らしい天気と鮮やか紅葉に恵まれました。

訪れたのは2019年11月19日、9:00~11:00です。

 

 

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< 2.日光山の地図、上が北 >

 

上: 日光東照宮、日光荒山神社、日光山輪王寺、大猷院霊廟などがある。

右側S(駐車場)から赤線に沿って進み、輪王寺三仏堂1を見て、参道2に出た。

参道を北上し、東照宮の境内3に入り、拝殿4に入館した。

そこを出て青線に沿って進み鳴竜5を見て、元の駐車場に戻った。

 

下: 私が訪れた日光東照宮。

赤線は往路、青線は復路です。

 

写真はほぼ散策順に並んでいます。

 

 

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< 3. 輪王寺三仏堂 1 >

 

周囲の紅葉が青空に映えて実に美しかった。

 

 

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< 4.輪王寺三仏堂 2 >

 

上: 日光三所権現本地仏(右から千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)。

撮影禁止なので借用。

制作年代等は不明。

2019年修復されたばかりの金色が眩い、高さ7.5mの三体の仏像は暗い堂内を圧倒していた。

大きな堂内が狭く思えた。

 

下: 輪王寺三仏堂から大護摩堂を見る。

右手の紅葉がまた素晴らしかった。

 

この輪王寺の歴史は古く、奈良時代、勝道上人がここに輪王寺を開山した。

彼は今の栃木県辺りで活躍し、中禅寺も創建した。

平安時代あたりから天台宗寺院として歩み始める。

江戸時代になると、家康の側近として活躍した天海(天台宗の高層)が貫主となり復興が進んだ。

そして徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた。

 

後に徳川家光の霊廟になる輪王寺大猷院には、時間が無かったので行きませんでした。

 

 

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< 5. 輪王寺三仏堂と参道 >

 

上: 右が輪王寺三仏堂、左が大護摩堂。

 

下: 参道の下り方向を望む。

 

 

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< 6. 石鳥居 >

 

1618年、筑前(福岡県)藩主黒田長政が奉納した。

 

上: 東照宮側を望む。

 

下: 反対側を望む。

 

 

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< 7.五重塔 >

 

右: 五重塔。

1650年、小浜藩主酒井忠勝によって奉納された。

後に焼失したが再建された。

 

左: 表門。

仁王像が安置されている東照宮最初の門です。

ここで入場券を確認します。

 

 

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< 8. 表門を抜ける >

 

上: 表門の反対側。

 

下: 少し境内に入って進行方向を望む。

 

 

9

< 9.神厩舎・三猿 >

 

上: 神厩舎・三猿。

ここは御神馬をつなぐ厩で、猿は馬を守るとされ、人生を風刺した猿の彫刻が上面に飾らている。

中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名。

 

下: 階段の奥に陽明門が見えて来た。

 

 

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< 10. 御水舎 >

 

心身を清める為の建物で、水盤が見える。

 

 

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< 11. 輪蔵 >

 

上: 階段を上がると陽明門の前に至る。

 

下: 階段の手前、左側にある経典の蔵。

経典の棚が回転式の為、この名がついた。

 

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< 12. 階段を昇った所 >

 

次回に続きます。

 

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