フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2


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これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。

今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。

次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。

 

 

リヨン観光

観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。

観光した時間は15:45~17:40でした。

観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。

この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

 

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。

街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

 

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。

この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。

中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。

リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。

 

 

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< 2. リヨンの地図 >

 

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。

番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。

番号5の黒四角はホテルです。

 

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。

Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。

Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。

赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。

Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。

写真もその順に並んでいます。

黄色の線は抜け道(トラブール)です。

 

 

 

 

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< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 >

 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。

次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。

この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。

この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

 

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。

 

 

 

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< 4. 展望台からの眺め >

 

展望台は東方向に視界が開けている。

写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

 

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。

このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。

 

 

 

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< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >

 

 

 

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< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

 

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。

しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。

 

 

 

 

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< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

 

上の写真: モザイク画。

教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。

 

 

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< 8. 旧市街の通り >

 

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。

 

 

 

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< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

 

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

 

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。

右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

 

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。

かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。

 

 

 

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< 10. 抜け道2と博物館 >

 

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。

抜け道1と直ぐ近くにあります。

入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。

入口に表示があるようですが、私には理解できません。

 

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma」

地図番号2.

約100年前に、リヨンで映画が生まれた。

 

 

 

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< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >

この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。

上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。

公会議がここで行われたのだろうか?

 

 

 

 

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< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

 

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。

店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

 

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。

元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。

ここだけなら無料です。

菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。

 

 

 

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< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

 

最初、通った広場に戻って来ました。

上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。

下の写真が元証券取引所です。

この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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何か変ですよ! 58:  備えて下さい!


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今、私は現政権の手腕を羨ましく思っています。

おそらくは多くの国民も感服していることだと思います。

もし二大政党が日本にあり、双方がこれだけの力量を持っていれば、

日本の将来は安泰でしょう。

 

 

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まえがき

巷を騒がせている森友学園や加計学園の問題は、今更、取り立ててあげつらうほどの問題でしょうか?

 

日本の政治文化を特徴づける三バン「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」で成り立つ長期政権なら、このようなことは各地で日常茶飯事です。

何を今更、驚くのでしょうか?

多少どぎつい程度でしょう。

 

これは首相の強力なリーダーシップの賜物だと言えます。

中央官僚だけでなく、マスコミ、マスコミの寵児、地方までその影響力は行き渡っています。

今までの官邸や野党では不可能だったのではないでしょうか?

 

直ぐに人気が無くなる首相が相次いぐ中で、むしろ待望の決められるリーダーの誕生、それも長期政権だと喜んでいたはずです。

 

この現象を好意的に捉えるなら、待ちに待った官僚の上に立つ官邸の時代が到来したと言えます。

これまでは官僚が法律を発案し作り、国会での答弁書まで作って、大臣にレクチャーしていた。

これからは逆の本来の姿になるかもしれません。

 

そうは言っても不安がよぎるのも事実です。

私の不安が現実とならなければよいのですが。

 

 

不安とは何か?

一番は経済的なダメージで、大恐慌の到来です。

 

発生する時期を明言出来ませんが、近々起こるでしょう。

問題はその規模の巨大さであり、日本がまともに被害に合うことが予想されるからです。

 

可能性が高いのは中国の崩壊です。

今まで、中国の崩壊について多くのエコノミストが予言して来ましたが、幸い外れています。

これらの指摘に比べれば、中国政府はうまくやって来たと思います。

しかし、現在進行中の経済悪化(国営企業の低迷、過剰設備、巨大な負債、高失業率、格差拡大、成長率鈍化)が国民の不満に火を着ければ、コントロールが効かず、一気に恐慌に陥る可能性があります。

 

私の知り合いで、現地で活躍する二人の中国人は、恐慌が起きても不思議ではないと思っており、資産の海外移転を考えている様子です。

現在、中国は日本の輸出額シェアで18~19%を占め、米国15~20%と肩を並べています。

つまり、以前と違って中国がこけたら日本は大きな影響をうけるのです。

 

 

さらに別の不安要因が幾つかあります、英国のEU離脱もその一つです。

おそらく米国の株価好調と利上げテンポの遅いのが災いする可能性の方が大きい。

 

ここ半世紀ほど欧米を中心にして7年~10年毎に金融恐慌が間違いなく発生しています。

これは米国がリードした経済・金融構造とグローバル化の副産物だが、これは何ら改善されるどころか悪化しています。

残念ながら、2007年の世界金融危機以上のものが再来するでしょう。

現状のゼロ金利であれば、実業に向かうよりも遥かに巨額資金が災いを招く投機に向かい、更なる巨大なバブルが起きるのは必然です。

 

 

 

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何が問題なのか?

この恐慌の大惨事と、今の政権とどのように繋がるのでしょうか?

二つの事で、今の政権は恐慌の災いをより致命的にするでしょう。

 

一番はアベノミクスです。

現在、ヘリコプターマネーと称して市場に大量の資金が供給されています。

確かに少ないよりは多い方が景気には良いのですが、バブルが弾けた時に被害がより甚大になります。

現在、株式時価総額は600兆円ほどありますが、おそらく下落すれば200兆円ぐらいになるでしょう。

これは繰り返して来たことですが、今回は貨幣供給量が今までと比べものにならないほど増えたので下落率は拡大し、下手をすれば株式時価総額は1/4の150兆円もあるかもしれません。

 

その引き金として海外発、特に隣の中国発の恐慌が起きればひとたまりもないでしょう。

さらに、日銀と政府はこれまでと違って日本株を大量に買い支えているのですから、暴落すれば我々の年金はかなり減額になる。

 

この時、政府は謝罪し、責任を取るでしょうか?

たとえ良心があっても無理です。

なにせ数百兆円が一瞬にのうちに消え、おそらく100兆円の血税をつぎ込んで、やっと大手金融業が助かるぐらいでしょう。

 

もう一つは、首相の仲良し米国大統領が人気取りの為に何をするかわからないことです。

おそらく日本は特定秘密保護法と共謀罪の成立、次いで核兵器禁止条約への不参加と米国に盲従していくことになるでしょう。

 

この先にあるものは、経済と軍事の共倒れでしょう。

なにせ、即決と猪突猛進の首相なのですから。

 

 

最後に一言

恐慌に備え、株から手を引き、タンス預金にすることを薦めます。

もっとも金のある人は既にタックス・ヘイヴンしているでしょうが。

 

詳しくはいずれ連載で扱うつもりです。

 

 

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フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ


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今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。

これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。

すべてバスの車窓からの景色です。

 

 

 

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< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >

左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。

赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

 

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。

アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

 

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。

また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。

撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d’Arc です。

 

 

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< 3. ポン・デュ・ガール付近 >

 

 

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< 4. 今から高速道路に入ります >

 

午後になると、雲が増えて来ました。

一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。

今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。

 

 

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< 5. ローヌ川を渡る >

 

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。

 

 

 

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中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。

13:30に撮影。

 

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d’Arcがあるのでしょう。

上の写真と同時刻に西側を写した。

 

 

 

 

 

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< 7. ローヌ川の景色 1>

 

 

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< 8.ローヌ川の景色 2 >

 

 

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< 9. ローヌ川の景色 3 >

 

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< 10. リヨンに近づいた >

 

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。

 

 

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<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

 

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。

この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

 

中央の写真: 新市街。

 

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。

 

 

 

プロヴァンスに別れを告げて

 

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< 12. プロヴァンスとは >

 

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」

左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

 

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。

彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。

 

 

今回でプロヴァンスと別れることになります。

プロヴァンスについて記します。

 

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。

中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。

この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。

その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

 

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。

不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

 

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

 

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

 

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。

 

 

プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。

そしてローヌ川はその通り道でした。

ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。

やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

 

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。

 

 

このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・

このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

 

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。

それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。

それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

 

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 14: ポン・デュ・ガールの水道橋


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今日は、巨大なロ―マ時代の水道橋を紹介します。

わざわざこの為だけにバスは山間に入りました。

はたして期待に違わぬものなのでしょうか?

 

 

水道橋の観光

訪れたのは旅行4日目、5月20日(土)、11:00~12:40です。

徒歩観光の後半、レストランで昼食をとりました。

この日もほとんど雲の無い、素晴らしい天気でした。

 

 

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< 2. ポン・デュ・ガールの地図、すべて上が真北です >

 

上の地図: 青線がバスのルートです。

赤線は建設当時の水道橋のおおよそのルートです。

 

下の地図: 水道橋の見学コースを示しています。

赤線はバスの駐車場Sから、案内所を通り、そして水道橋を渡り、レストランまでのルートを示す。

青線は昼食後、バスの駐車場Fまでのルートです。

 

 

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< 3. 水道橋の資料 >

 

左の地図: 黒線が建設当時の水道橋のルートです。

この水道橋は町ユゼス近郊の水源から都市ニームまで全長約50kmあり、平均斜度は1kmあたり24.6cmです。

驚くべきは、山や谷を幾度も通り、この少ない斜度で長距離、給水出来ていたことです。

 

右の断面図: 数字の単位はmです。

水道橋は3層からなり、最大高さは水面から47m、私達が歩いたのは下層の上で、その高さは22mです。

 

 

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< 4. アヴィニョンからポン・デュ・ガールまでの景色 >

 

上の写真: ローヌ川。

 

下2枚の写真: ブドウ畑が広がり、進むに連れ標高が上がって来た。

 

 

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< 5. 案内所から水道橋へ >

 

 

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< 6. 水道橋の全貌が見えて来た >

 

下の写真: 今来た道を振り返る。

 

 

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< 7. 水道橋 1 >

 

水道橋を渡っている時、実は、私はそれほど驚かなかった。

なぜならスペイン、ゼゴビアの水道橋の方が巨大で美しいと思ったからでした。

しかし、帰国後、調べて行くうちに勘違いに気付いた。

 

先ず大きさなのだが、確かに渡っている所から見上げた高さは24mで、ゼゴビアの地上高さ30mよりは低いが、水面からの高さは47mもあり、遥かに高い。

またこちらの導水路のある上層の長さは275m(川幅より広い)で、ゼゴビアのは728mもあった。

しかし、建設当時の水道橋の総延長は、ゼゴビアで17km、ポン・デュ・ガールは50kmと、こちらも大きい。

 

だが、ゼゴビアの水道橋の方が美しいと思ったのは、橋脚の基部の幅が2.4mと薄く、今にも倒れると思わせるほどのスリムなスタイルに感銘したからでした。

 

 

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< 8. 橋が架かるガルドン川 >

 

上の写真: 橋から下流を望む。

 

下の写真: 上流を望む。

 

 

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< 9. 水道橋 2 >

 

 

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< 10. 川原に降りて >

 

上の写真: ボート遊びをする人々。

下の写真: 川原で遊ぶ子供達。

 

 

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< 11.水道橋 3 >

 

 

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< 12. レストランでの昼食 >

 

全3品が順に並んでいます。

 

 

追記

 

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< 13. ポン・ダークの洞窟 >

 

水道橋の案内所でパンフレットを漁っていると、下の絵が目に飛び込んできました。

 

これは人類最古の洞窟壁画で、ショーヴェ洞窟300点の絵の一つです。

ショーヴェ洞窟は世界遺産です。

この洞窟壁画を保護するために、この公開を禁止し、この近くのポン・ダークに巨大なレプリカ洞窟を作り、2015年から公開されている。

ポン・デュ・ガールから北方50kmほどの山中にこの展示施設(上の写真)があります。

 

ショーヴェ洞窟の凄いのは約32000年前のもので、有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画よりも2倍ほど古く、多様な動物が描かれていることです。

 

それが、この近くにあるのですが、残念ながら素通りです。

もし、自由な旅行をされるのなら検討されると良いと思います。

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 13: 要塞都市アヴィニョン 2


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今日は、アヴィニョン旧市街の今を紹介します。

主に自由散策で見た中央市場や時計広場の光景です。

 

 

 

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< 2. ロシェ・デ・ドン公園 1 >

 

上の写真: 公園の展望台から東側を見下ろしています。

見えているのはアヴィニョン旧市街です。

 

下の写真: 展望台。

写真は展望台の東北端から南側を写しており、右奥、木立の上に黄金の聖母像が見える。

 

 

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< 3. ロシェ・デ・ドン公園 2 >

 

上の写真: ノートル・ダム・デ・ドン大聖堂を後部側面から見ている。

 

下の写真: ロシェ・デ・ドン公園の入り口にある彫刻。

上の写真の大聖堂の右側にある。

 

 

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< 4.時計台広場から自由散策を始めた >

 

9:30から10:20まで自由散策を愉しみました。

最初、レアル中央市場に行き、ショッピングした。

時計台広場から中央市場まで8分ほどです。

後は時計台広場に戻り、集合待ちの間、広場の様子を眺めていました。

 

 

 

 

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< 5.レアル中央市場に向かう 1 >

 

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< 6.レアル中央市場に向かう 2 >

 

上の写真: サンピエトロ大聖堂。

遡れば教会は7世紀に始まるのですが、サラセン人に破壊された後、この大聖堂は14世紀から再建され始めたゴシック建築です。

 

今までの記事で謝らなければないことがあります。

それはイスラム教徒(サラセン人など)との関連です。

プロヴァンスの歴史を調べていると、各地の町や地中海の港がイスラム教徒に襲撃されたとの記述が多くありました。

私は、イスラム教徒が地中海で覇権を握ったのは、東地中海とジブラルタル海峡だけだと勘違いしていました。

これまでの歴史的な解説で、イスラム教徒の進攻を過小評価していました。

 

 

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< 7.レアル中央市場に入る >

 

土曜日の午前9:40頃に入ったが人は少なく、観光客を見なかった。

私達は現地の果物と名物のお菓子を買って、後ほど食べた。

 

 

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< 8.レアル中央市場の中 >

 

見ていると何でも欲しくなり食べたくなるが、お腹にも限度がある。

 

 

 

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< 9.レアル中央市場から時計広場に向かう >

 

上の写真: 中央市場前の花屋。

 

 

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< 10. 時計広場に戻る >

 

上の写真: 時計広場から南側に延びるメインストリートを望む。

この先には立派な城門、その向こうにアヴィニョン国鉄中央駅がある。

前日はこの通りに面したレストランで夕食をとった。

写真はその時のメイン二品です。

 

 

 

 

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< 11.時計広場にて 1 >

 

上の写真: 広場の南側から北側を見ている。

フランスの町の中央広場には必ずと言っていいほど、メリーゴーランドがありました。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

左側は夫婦のようで、黒を基調にした服でゆったりと旅行を楽しんでいるようでした。

右側は地元の人が、あれよあれよと言う内に集まり、談笑を始めた所です。

私はファッションには疎いのですが、着こなしが様になっていると感じました。

 

 

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< 12.時計広場にて 2 >

 

この建物は時計台広場の北端にあるレストラン(Le Lutrin)で、18世紀のスペイン領事館だった。

ふと見上げると、マリア像らしきものがありました。

 

ヨーロッパを旅行していると、キリスト教と言いながら、マリア像の多さに驚く。

そこに根強い聖母信仰を感じ、仏教の観音信仰を思わせる。

本来、観音様は菩薩で男性だが、そこには女神や母性を感じさせるものがあり、根強い人気がかってはあった。

 

この中世の宗教都市は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラとは大きく異なる雰囲気がある。

こちらは教皇庁の聖職者や官僚で富栄えた町だが、サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の人々で栄えた町と言える。

前者は巨大な宮殿と部外者を寄せ付けない城壁に象徴され、過去のものになっているが、後者は多数の教会が建ち並び、今でも巡礼者が絶えない。

 

ここを発って、ローマ時代の巨大な水道橋を見る為に、ポン・デュ・ガールに向かいます。

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

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< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

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< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

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< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

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< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

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< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 10: 古都エクス・アン・プロヴァンス


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今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。

ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。

またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ

 

 

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< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >

 

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。

 

 

上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。

また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。

黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。

赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。

これらの地名は彼の画題に出てくる。

 

下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。

徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。

この間、12:00に始まり、12:40で終わった。

ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。

私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。

 

 

 

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< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >

 

上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。

 

中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。

 

下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。

 

彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。

そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。

 

 

町の散策

旅行3日目、5月19日(金)。

素晴らしい天気でした。

 

 

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< 4. ミラボー通りを進む >

 

上の写真: ミラボー通りを進む。

進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。

この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。

 

下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。

 

 

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< 5. ミラボー通り >

左上の写真: 温水が湧き出る泉。

紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。

 

右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。

 

左下の写真: 地図の1番。

セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。

 

右下の写真: 地図の2番。

ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。

私達はこの建物の左の道を入って行った。

 

 

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至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。

陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。

 

 

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< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >

 

魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。

 

 

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< 8. 市庁舎広場 >

 

上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。

 

下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。

広場は凄い人出でした。

 

 

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< 9. 大学と大聖堂 >

 

上の写真: 地図番号4.

セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。

 

下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。

彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。

 

 

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左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。

 

右の写真: 通りの建物を見上げた。

柱の彫刻が往時を偲ばせる。

 

 

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< 11. 昼食で入ったレストラン >

 

上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。

看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。

注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。

出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。

店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。

 

 

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< 12. レストランの中から >

 

フランスで初めてテラスで食事をした。

周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。

 

 

 

 

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< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >

 

ほんとうにこの町は賑わっている。

観光のメッカなのだろう。

 

 

 

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< 14. ロトンドの噴水 >

 

こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。

次はアルルに向かう。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスについて

紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。

これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。

この山は、この町の守護神とみなされた。

 

4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。

その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。

12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。

1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 9: ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め


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今日は、バスの車窓から見たプロヴァンスの景色を紹介します。

コートダジュールの海と崖とは異なるのどかな山野が広がっていました。

青い空に、白い雲が流れる南仏の絶景です。

 

 

ニースを発ってエクス・アン・プロヴァンスまで

旅行3日目、5月19日(金)、9:20頃ニースを発ち、エクス・アン・プロヴァンスに到着したのは12:00でした。

西に向かって走って行くうちに、10:00頃には快晴になりました。

走行距離は178kmで、途中1回、行程の中ほどで休憩しました。

走って行くと、徐々に低い山々の間に平野や畑が広がって行きます。

 

エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌの出身地であり、晩年を過ごした所でした。

途中、車窓から彼がよく描いたサント・ヴィクトワール山を見ることが出来ます。

 

 

 

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< 2. プロヴァンスと走行ルート、上が真北です >

 

上の地図: プロヴァンス全体を示しています。

この地域は、西にローヌ川、北と東にアルプス山脈、南に地中海によって区切られている。

また東でイタリアと国境を接している。

 

下の地図: 青線は今回走行したルートです。

 

 

 

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< 3. 10:00、10:10撮影 >

 

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

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< 4. 10:40撮影 >

 

上の写真: 休憩で立ち寄った所。

ここはちょうど中間ぐらいにあり、高速道路にあるガソリンスタンドとコンビニです。

 

下の写真: 休憩した所からの眺め。

この山系はサント・ヴィクトワール山とは異なり、それよりは東南にあります。

 

 

 

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< 5. 10:50~11:05撮影 >

ここまで来ると、ワイン用のブドウ畑が増えて来ます。

フランスを縦断していくと解るのですが、この辺りのブドウ畑は区画が小さいようです。

またブドウの木の背丈が低い。

 

 

 

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< 6.11:10頃撮影 >

 

 

 

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< 7. 11:30頃撮影 >

 

麦畑でしょうか?

 

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上の写真: 高速道路沿いに今を盛りに咲いていた黄色い花。

この花はコートダジュールからプロヴァンスの道路沿いでよく見ました。

 

下の写真: 11:35頃撮影。

 

 

 

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< 9. サント・ヴィクトワール山 >

 

11:35~11:50撮影。

 

この山はバス進行方向の右に見えます。

この山は全長18km、最高点は1011mです。

石灰岩の山で荒々しく、私には美しい山とは思えないのですが、この地域では一際映える山には違いありません。

 

残念ながらセザンヌが多く描いたこの山の絵は、下の写真の撮影位置よりもっと左に回り込んだ所から描いたようです。

つまり、彼はエクス・アン・プロヴァンスの郊外から見たのでしょう。

 

 

 

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< 10. セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山  >

 

 

上の絵: 「サント=ヴィクトワール山」、1886~87年。

 

下の絵: 「トロネの道とサント=ヴィクトワール山」、1896~98年。

 

セザンヌは1880年代から、それまでのパリ暮らしから故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻り制作を行った。

彼はパリ仲間(モネ、ルノワール、ピサロ)の印象派の技法に飽きたらなくなっていた。

 

 

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< 11. エクス・アン・プロヴァンスに到着 >

 

11:55頃撮影。

上の写真: 町に入って来ました。

下の写真: 中心部に近い鉄道の駅。

 

この日は、この後、ローヌ川沿いのアルルを観光し、さらに上流のアヴィニヨンに向かい、宿泊します。

 

これまでの景色とローヌ川沿いの景色はまた異なります。

その違いはゴッホの絵に現れています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 8: 大リゾート地のニース


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< 1. 小雨降るプロム―ナド・デザングレの朝 >

 

 

今日は、フランス最大のリゾート地ニースを紹介します。

エズとモナコに続いてコート・ダジュールの目玉の観光になります。

早朝は小雨が降っていたが観光の途中から止み、やがて快晴になった。

 

 

 

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< 2. ニースの地図、共に上が真北 >

 

上の写真: ニース観光を終えて、Sからバスに乗り青線のルートで次の観光地に向かった。

 

下の写真: ニースで観光した場所。

ホテルからバスでSまで行き、赤線に沿って徒歩観光し、Rからバスに乗り、次の観光地に向かった。

青線はバスのルートです。

 

 

ニースの観光

2017年5月19日(金)、旅行3日目です。

ホテルを8:00に出発し、10分後には徒歩観光を始め、9:10過ぎにはバスに乗りました。

観光したのはニースのほんの一部に過ぎません。

 

 

 

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< 3. 朝のニース >

 

上の写真: 6:30頃のホテル近く。

 

下の写真: ホテルからのバスより。

 

 

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上の写真: マセナ広場、地図のM。2枚共、バスからの撮影。

中央の通りがジャン・メドサン通りで、奥が北側、私達のホテル側です。

 

中央の写真: マセナ広場の海側の噴水。

 

下の写真: 旧市街地と海岸の間にある小さな公園。

この季節、フランス各地で花が咲いていました。

 

 

 

 

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< 5.プロム―ナド・デザングレ >

 

せっかくのコート・ダジュール(紺碧の海岸)とプロム―ナド・デザングレ(英国人の散歩道)が厚い雲と小雨で台無しでした。

それでも、その大きさと林立するホテル群から賑わいを想像することが出来ました。

以前、スペインのマラガで見た紺碧の海岸が目に浮かびます。

散歩する人やジョギングする人、サイクリングする人が行きかっていました。

 

 

 

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< 6. 印象に残ったもの >

 

左上の写真: 海岸沿いの建物の鎧戸。

フランス南部ではこのような鎧戸が必ず窓に付いていました。

多くは古びた木製で、強い陽射し除けだそうです。

 

右上の写真: サレヤ広場から海岸に通じるトンネル。

 

下の写真: サレヤ広場の海側レストラン街の屋上への階段。

屋上には行けませんが、踊り場から次の写真を撮りました。

 

 

 

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< 7. 旧市街のサレヤ広場、地図のSa >

 

上の写真: 踊り場から西側を望む。

奥が旧市街のサン・フランソワド・ポール通り、右手にサン・フランソワド・ポール教会の鐘楼が見える。

 

下の写真: 踊り場から東側を望む。

サレヤ広場の周囲をパステルカラーの建物が囲み、奥には城跡公園の丘が見える。

一番左側のカーキ色の建物はミゼリコルド礼拝堂で1740年のバロック建築です。

 

ここで少し驚いたことがありました。

ドイツの哲学者ニーチェの名を冠したテラスがこの城跡公園にあると後で知りました。

実は紹介していなかったのですが、エズ村の入口近くに「ニーチェの散歩道」の標識があり、海岸までの急峻な山道だそうです。

それを聞いた時は信じていなかったのですが、ニーチェは病気療養のために夏はスイス、冬はイタリアやフランスのここニースやエズで過ごしたことがわかりました。

 

 

 

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< 8.サレヤ広場の市 >

 

妻と期待して花市の自由時間を楽しもうと8:30頃に乗り込んだのですが、まだ店開きを始めているところで、少し拍子抜けでした。

本来は6:00から開いているはずなのですが、雨のせいかもしれません。

それでも果物とこちら名産のお菓子を買い、後で食べることが出来きて満足でした。

 

この市は長さ250mの広場にテント張りの店が3列びっしりと並んでいました。

店の多くは花、お菓子、果物、野菜で、土産物なども売っていました。

困ったのは公衆トイレが閉まっていたことで、フランス旅行ではトイレの場所をいつも把握しておかなければなりません。

無ければカフェなどで借りなければなりません。

ツアーの観光中は添乗員が前もって教えてくれますが、自由散策では注意が必要です。

 

 

 

 

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< 9. サン・フランソワド・ポール通り >

 

上の写真: 右手にサン・フランソワド・ポール教会の正面が見える。

 

下の写真: 中央の建物がオペラ座です。

 

この通りを抜けると二本の道路に挟まれた大きく長いアルベール1世公園に出ます。

ここからバスに乗り、西に向かって次の観光地に向かいました。

 

 

 

 

 

 

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< 10. 高級ホテルが並ぶ海岸沿いの道プロム―ナド・デザングレから >

 

以下の写真はすべてバスの車窓からの撮影で、地図の青線上からです。

 

上の写真: 1913年創業の5つ星のホテル・ネグレスコです。

2016年7月、84名の死者を出したニーストラックテロ事件はこの賑わう海岸の通りで起こりました。

 

下の写真: これらのホテルや別荘群は海岸に沿って5kmも続いています。

西にいくほどモダンな建物になって行きます。

 

 

 

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< 11. ヴァール川を越えて西に走る >

 

川を渡ったのは9:40頃で、最後の写真のように20分も走るとほぼ快晴になりました。

悔しい!!

しかし、この後、当初の長期天気予報が外れ、素晴らしい天気と強い陽ざしに見舞われました。

 

こうしてコート・ダジュールの三つの観光地を後にし、これから陽光溢れるプロヴァンスを2日かけて4つの観光地を訪れます。

 

 

ニースについて

ここは人口34万の地中海に面する世界的な保養地です。

これから訪れるプロヴァンスと異なり、北にアルプスの山々を控え、南仏特有の強風から守られている。

 

ニースは紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、古代には交易植民都市ニカイアとして知られていた。

その後ローマ人に占領され、その後支配者が何度もかわり、多くの戦争に苦しめられた。

中世にはプロヴァンス伯領に属し、その後フランスに帰属した。

また近世にはエズを要塞化したサヴォイア公国やスペインに帰属した。

1860年、サヴォイア公国の後継国(サルデーニャ王国)がイタリア王国の成立をフランスに承認してもらうため、再びニースはフランスに割譲され、今日に至る。

 

この結果、この温暖で気候が安定しているニースが外国人(特にイギリス人)の避寒地として発達し、多くの王侯貴族や文人が訪れるようになった。

この中に19世紀後半に活躍したニーチェがいた。

そして、第2次大戦後はバカンス客で賑わうことになった。

 

 

次回に続きます。 

 

 

 

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フランスを巡って 7: 旅行2日目のまとめ


 

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< 1. ニースのノートル・ダム教会 >

 

 

今日は、旅行2日目、5月18日(木)の他の体験を紹介します。

この日はニースの空港に着いてから、エズとモナコを観光してニースに戻り、中心街のホテルに泊まりました。

時間を追って紹介します。

 

 

 

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< 2.2日目のコースの地図 >

 

上の地図: 青線が行きのバスルートで、赤線がニースに戻るルートです。

上が真北です。

1: コートダジュール空港。14:00頃に到着。

2: エズ村。

3: モナコ。

4: ニース。私達のホテルは中心街にある。

空港からモナコまでの直線距離は19kmです。

 

 

 

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< 3. 空港の様子 >

 

他の空港と違うと感じたのは、出国ゲートで待つツアー関係者やタクシー運転手の多くが黒のスーツを着ていることでした。

 

 

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< 4. 空港からエズ村までの景観 >

近代的なビルが並ぶ空港周辺を過ぎると平野部は無く、起伏のある丘陵地帯の至る所に民家が建っている。

 

 

 

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< 5. エズ村からモナコまでの景観 >

 

バスは断崖絶壁の道を縫うように走った。

 

 

 

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< 6. ニース中心街に向かう >

 

上の写真: モナコから戻って来て、眼下にニースが見えて来た所。

下2枚の写真: ほぼニースの中心部。

 

 

 

 

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< 7. ジャン・メドサン通り 1 >

 

このメインストリートにあるホテルに20:00頃に着いて、夕食のレストランに歩いて向かう時に撮影した。

 

上の写真: ノートル・ダム教会。20:40撮影。

日没まで、まだ十数分ある。

 

下の写真: 今回最初の地元の人の笑顔です。

何処に行っても、フランス市民に親し気な対応して頂いた。

 

 

 

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< 8. ジャン・メドサン通り 2 >

 

この通りにはトラムが走っている。

この通りにはデパートや大型スパーがあるのですが、この時間には皆閉まっていました。

 

 

 

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< 9. レストランで夕食 >

 

今回の旅行で、初めてフランスで食べる食事です。

左の料理はニース風サラダです。

今回の旅行の料理はすべて三品で、最後がデザートでした。

 

 

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< 10. レストランからホテルへ帰る途中 >

 

22:00の撮影です。

 

この季節の旅行は非常に日が長いので、朝も夜もホテル周辺の街歩きが出来る利点がある。

しかし、いい気になってがんばっていると疲れてしまった。

また、夜景やライトアップを撮るには10:00~10:30を過ぎないと行けないので、これがまた疲れます。

 

こうしてフランス1泊目の夜は更けて行きました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 6: 小国モナコ


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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。

私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。

ここは旧市街と宮殿などがあるところです。

 

 

モナコ

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。

そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

 

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

 

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。

今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。

添乗員は大勢を従え、苦労していました。

しかし、その後は順調な旅となりました。

 

 

 

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< 2。 モナコの地図 >

 

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。

上が真北です。

王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。

私達は左側のエズEzeから来ました。

 

中央の地図: モナコ公国の全景。

方角を変えています。

赤矢印がモナコヴィルです。

 

下の地図: モナコヴィルを拡大。

Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。

地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。

赤線は徒歩ルートです。

奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。

黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。

 

 

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< 3。 眼下にモナコ、バスから >

 

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

 

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。

 

 

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< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

 

上の写真: モナコヴィルの下。

 

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。

 

 

 

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< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

 

上の写真: 海洋博物館と水族館。

地図のSの直ぐ近く。

 

下の写真: 王家親族の住居。

 

 

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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

 

下の写真: モナコ大聖堂。

古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。

 

 

 

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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。

左中央は裁判所。

 

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。

 

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< 8。 大公宮殿 >

 

上の写真: 大公宮殿。

陽が山際に迫っている。

 

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。

ここから湾が一望に見渡せる。

 

 

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< 9。 展望台からの眺め >

 

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。

湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

 

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。

標高は60mぐらい。

 

 

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< 10。 広場から戻る道 >

 

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。

モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。

 

 

 

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< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

 

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。

不思議の一言に尽きる。

 

 

モナコの不思議

モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。

歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。

半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

 

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。

1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。

現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

 

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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読売新聞は死んだに等しい


Source: 読売新聞は死んだに等しい

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フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ


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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。

このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。

この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか

 

 

エズ村

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。

エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。

 

 

 

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< 2. エズの地図 >

 

上二つの地図: 地図の上が真北。

赤矢印がエズ村の位置です。

 

下の地図: エズの観光地図。

黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。

エズの頂上は427mある。

雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 

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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

 

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。

ここをくぐると村に入る。

 

 

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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。

所々に踊り場のような小さな広場がある。

 

 

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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

 

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

 

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

 

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。

平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。

 

 

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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。

クルーズ船も見える。

 

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。

サボテン公園は1949年に造られた。

元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。

 

 

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上の写真: 要塞跡の頂上。

ほぼ360度、見渡せる。

 

下の写真: 村の教会を見下ろした。

その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。

 

 

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< 8. 先ほどの教会 >

 

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。

エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。

私の写真では確認できなかった。

かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。

 

 

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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

 

下の写真: 下っている。

 

 

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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

 

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。

西側を見ている。

 

 

エズの歴史

観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。

それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。

帰国後、この地域に何があったかを調べました。

 

大きな流れを見ます。

エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。

紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。

しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。

この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

 

エズについて

973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

 

1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。

サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

 

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

 

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。

こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 4: 古都ボーヌ


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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。

ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。

この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。

 

 

 

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< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

 

上が真北です。

城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。

私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。

黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。

青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。

 

 

ボーヌの町

 

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上の写真: バスのフロントガラス越しに。

ボーヌの旧市街に向かっている。

 

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。

 

 

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上の写真: 施療院オテル・デュ―。

下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。

この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。

 

 

 

 

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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。

No.2の地図の赤線部分です。

 

 

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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。

No.2の地図の青線上で撮影。

 

 

 

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No.8の下の写真と同様。

古い堡塁や城壁、門が残っている。

 

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丘の上のレストランに向かう途中の風景。

旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。

ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。

 

 

ボーヌとブルゴーニュ

後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。

この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。

 

 

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< 11. ボーヌの歴史 >

 

 

左上の地図: フランスのワイン産地。

 

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。

一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。

二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。

上からシトー会、下ってクリュニー会です。

 

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。

 

 

 

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A: ブルゴーニュ公国の紋章。

B: イエスとワイン。

C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。

D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。

 

 

ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。

フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。

一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

 

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。

しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

 

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。

10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。

これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。

だが、この繁栄は堕落を生んだ。

 

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。

これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

 

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。

キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

 

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。

そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。

 

 

いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。

 

 

 

注釈1

フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。

中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。

 

 

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フランスを巡って 3: セーヌ川クルーズ


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今日は、セーヌ川クルーズを紹介します。

乗船するまでは期待していなかったのですが、始まると気分が高揚していきました。

思い出深いパリとなりました。

 

 

クルーズの概要

 

 

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< 2. クルーズの航路 >

 

上の地図: グーグルアースの画像。上が真北です。

下の地図: 主な建物と航路を示します。

 

クルーズはエッフェル塔の下の埠頭Sから始まり、北側のサン・ルイ島を過ぎた所Rで折り返し、戻って来ます。

行きは黄線で、帰りは赤線です。

所要時間は約1時間、30分毎出航。

 

 

クルーズの始まり

10日目、5月26日(金)、20:20頃に出航しました。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

いよいよ出航。

この日は陽射しがきつく暑かったが、夕暮れになると過ごしやすくなり、船が走り始めると川風が心地良かった。

寒くはなかった。

 

下の写真: 結婚披露宴で貸し切られているクルーズ船が数隻あった。

人々は華やかで如何にも楽しそうで、すれ違う時、私達も互いに手を振り、喜びを分かち合った。

 

 

 

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上の写真: すれ違うクルーズ船。

 

下の写真: 私達のクルーズ船。

私は2階デッキの中央で楽しんだ。

進行方向の右側にオルセー美術館が見える。

 

 

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< 5.ノートルダム寺院 >

 

上の写真: 左側はシテ島。

橋の左奥にノートルダム寺院の正面が見えて来た。

 

下の写真: ノートルダム寺院の真横。

 

この時、海外からの旅行客と触れ合うことが出来ました。

 

私達のツアー仲間が、船上である外国人夫婦の写真を撮ってあげました。

するとその外国人男性が、私に「何処の国ですか?」と英語で聞いてきました。

私が「日本」と答えると、彼の奥さんが「東京?」と聞いてきました。

私は「大阪」と答え、逆に、その男性に「何処か?」と聞くと、彼は「カリフォルニア」と答えました。

私は「ロサンゼルス? サンフランシコ?」と聞くと、「サンフランシコ、ナパ(?)」と答え、さらに「ワイン農家」と付け加えてくれました。

私は「ワインで有名な所」(ナパはカリフォルニアワインの産地)と返しました。

 

私は奥さんに「インド?」と尋ねましたが、「イエス」の後の言葉を聞き取ることが出来ませんでした。

最後に握手をしました。

 

その風貌や年齢から察して、おそらくはインドからアメリカに移住し、ワイン栽培で成功し、夫婦でフランス旅行に来ていたのだろう。

苦労の末に成功を得た落ち着きのある夫婦に思えた。

 

今回の旅行では、様々な場面で移民と移民の国を実感できた。

 

英語が出来れば、もっと語り会えるのだが・・・。

 

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上の写真: 河岸には本当にたくさんの人々が春の宵を楽しんでいました。

 

中央の写真: この一角で集団になってダンスが興じられていた。

この並びでは、数か所で異なるダンス、社交ダンスなどが演じられていた。

 

下の写真: ちょうどサン・ルイ島を過ぎた所で、これから左旋回して戻っていくことになる。

前の橋の右側に明日散策するアラブ世界研究所のビルが少し見える。

 

 

 

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< 7. 宵を様々に愉しむ人々 >

 

若いグループが多いのですが、若い男女のカップルや年配の夫婦、様々な人々がラフなスタイルで談笑していました。

その服装から彼らは旅行客ではなく、市民のようでした。

またその顔立ちから察するに、まさに様々な国からの移民の国を彷彿させるものでした。

彼らが飲んでいるのはビールではなくワインでした。

如何にもフランスらしい。

 

このクルーズが最高に楽しめたのは、彼らの多くがクルーズ船の私達に笑顔で手を振ってくれたからでした。

それがずーっと続くのです。

まさにセーヌ―川一体が世界の人々の共感の場になっていました。

 

私は各地での自由散策の度に、多くのフランス人の親切と笑顔に出会った。

まさにフランス人の気安さが最高に盛り上がった時でした。

 

 

8

 

*8

 

上の写真: 後ろを振り返った。

サン・ルイ島を抜けたところです。

 

下の写真: 夕陽が水平線に近づいて来た。

 

 

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*9

 

上の写真: 後ろを振り返った。

右側はシテ島で、写真中央に見える建物はコンシェルジュリー(革命時代の牢獄)です。

 

下の写真: アレクサンドル3世橋をくぐって、振り返った。

 

 

 

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この日の日の入りは21:39だが、21:17のエッフェル塔は茜色に輝いて見えた。

 

 

いずれパリの別の顔を紹介します。

 

 

 

 

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フランスを巡って 2: モンサンミッシェルの朝昼晩


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*1

 

撮影方向 C

撮影時間 5月24日 21:49

 

 

今日はモンサンミッシェル全景を紹介します。

モンサンミッシェルが太陽の動きに連れて七変化して行きます。

撮影情報をお伝えします。

 

 

撮影情報

 

 

 2無題

< 2. モンサンミッシェルの位置 >

 

二つの地図共、上が真北になります。

赤い矢印がモンサンミッシェルです。

 

 

3.

< 3. 撮影位置 >

 

上が真北ですので、ほぼ右から陽が登り、ほぼ左に陽が沈みます。

 

撮影日、5月24日の日の入りは21:52分。

撮影日、5月25日の日の出は6:12分

 

三つの赤い三角が固定の撮影地点で、黄線は撮影方向です。

Cはモンサンミッシェルと対岸を結ぶシャトルバスの終点近くで、連絡橋の上です。

シャトルバスは無料で、深夜まで頻繁に出ている。

Dはクエノン河口ダムの上で、ホテルから徒歩8分ぐらい。

CとDでの撮影は短い三脚を手摺の上に置いて行いました。

Eは宿泊ホテル近くの道で、大規模駐車場の北側になります。

白の矢印は宿泊ホテルの「SAINT AUBERT」です。

 

AとBは正午頃、モンサンミッシェルに向かう途中のバスの車窓から撮影した方向です。

 

 

モンサンミッシェル全景写真

撮影時間順に並んでいます。

 

4DSC05516-1

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撮影方向 A

撮影時間 5月24日 12:53

 

モンサンミッシェルに到着した時は、非常に厚い雲に覆われていましたが、14:30過ぎ頃から雲が徐々に無くなって行き、夕方には快晴になりました。

 

 

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撮影方向 B

撮影時間 5月24日 12:55

 

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 13:39

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 21:46

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:27

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:32

 

 

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撮影場所 E

撮影時間 5月25日 6:39

 

 

 

撮影の反省点

Cでの撮影は、夕陽がモンサンミッシェルの裏側を照らす為、赤味を帯びた光景を撮れなかった。

昼は暑いが、夜は海風があり寒いので注意してください。

おそらくDでの撮影の方が良い写真を撮れたように思う。

 

 

いずれモンサンミッシェルを詳しく紹介します。

 

 

 

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フランスを巡って 1: はじめに


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*1

 

 

私はフランスを13日間旅行して来ました。

これから撮った写真でフランス各地の観光と私の体験を紹介します。

今回は旅行の概要を記します。

 

旅行の概要

トラピックスのツアーに参加しました。

ツアー名:「13日間のフランス夢の大周遊」

期間:2017年5月17日(水)~29日(月)

 

総勢39名の大所帯で、関空深夜発、ドバイ経由でニースに着き、旅行が始まりました。

フランスを9日間宿泊し、移動はすべて観光バスでした。

帰国は午後パリ発、ドバイ経由で関空に夕刻無事戻って来ました。

 

ニースの朝だけ小雨になった以外はすべて快晴に恵まれ、最高の観光日和になりました。

一方で、最高気温が予想外の30℃近くにもなった為、服装に困りました。

 

毎日の観光と散策で足腰に疲れが溜まった事を除けば、絶景鑑賞と素晴らしい体験をすることが出来き、大満足でした。

 

1bb map5

< 2. 旅行ルート >

 

数字は観光地を示し、観光はその順に行いました。

黒い数字は観光のみ、赤い数字は観光した宿泊地を示す。

赤字のTは宿泊だけのトゥールです。

茶色の線は観光バスでの移動を、赤線は航路を示す。

 

 

観光地の概要と写真

写真の番号は地図の番号を示す。

 

 

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< 3.2日目、3日目の観光 >

 

No1. エズ: 車窓からエズ村を遠望。

尖った山頂の村を徒歩で登り、山頂から地中海の展望を満喫した。

 

No2. モナコ: 王宮広場から湾を見下ろす。

断崖絶壁の台地にある王宮周辺の徒歩観光と、湾岸に設営されたばかりのカーレース場を車窓見学。

 

No3. ニース: 小雨が降った後の海岸。

朝、高級別荘地の海岸と旧市街の花市場を徒歩観光。

 

 

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< 4. 3日目、4日目の観光  >

 

No4. エクス・アン・プロヴァンス: 並木道から噴水を望む。

画家セザンヌの所縁の地を徒歩観光した後、洒落た通りを自由散策し、レストランで昼食を愉しんだ。

 

No5. アルル: ゴッホが描いた跳ね橋。

画家ゴッホが作品に描いた三カ所と古代ローマ時代の円形闘技場を観光した。

 

南仏の陽射しと緑が、二人の画家の想像力を与えてたように思えた。

 

 

No6. アヴィニヨン: 法王庁宮殿。

サンベネゼ橋を見て法王庁宮殿周辺を徒歩観光し、自由時間は旧市街にある市場で買い物をした。

 

 

 

 

5

< 5.4日目、5日目の観光 >

 

No.7 ポン・デエ・ガール: ローマ時代の水道橋。

水道橋を渡り、河岸のレストランで昼食。

 

No.8 リヨン: 旧市街から丘の上の大聖堂を見上げる。

大聖堂のあるフルビェールの丘と旧市街を徒歩観光。

夕方から市街を自由散策し、個人で予約したレストランで食事。

 

No.9 ボーヌ: オテル・デュ―の中庭。

中世の施療院オテル・デュ―の見学と旧市街の自由散策。

 

私にとっては初めて見るヨーロッパ中世医術のリアリテイでした。

 

 

 

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< 6. 6日目の観光 >

 

No.10 ストラスブール: 大聖堂の正面。

旧市街の大聖堂とプチットフランスを徒歩観光。

 

この大聖堂とアルザス地方は私にとって、この旅行の最大の目玉でした。

ここは宗教改革の開戦の地であり、ここ数百年間に及ぶ独仏争奪の地でした。

ここで私は歴史や社会、平和の理解につながるヒントがあるような気がしていた。

 

No.11 コルマール: プチットベニス。

プチットベニスを徒歩観光し、旧市街のレストランで昼食。

 

 

 

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< 7. 6日目、7日目の観光 >

 

No.12 リクヴィル: 村のメインストリート。

アルザスワインの産地の村を徒歩観光し、ワインナリーで試飲。

 

5日目と6日目はストラスブール旧市街近くのホテルに連泊。

夕方からの自由時間で、ホテル近くの大型スーパーで買い物をし、その後、プチットフランスまで徒歩で行き、散策を楽しんだ後に飛び入りのレストランで食事をした。

ここでハプニングがあった。

 

No.13 ランス: 大聖堂の正面。

ノートル大聖堂とサン・レミ聖堂を入場観光。

 

7日目はパリ市内で宿泊したが、夜遅く到着した為、隣接する大型スーパーで買い物のみをした。

 

この教会からフランス、いやヨーロッパが始まったと言えるかもしれない。

 

 

 

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< 8.8日目、9日目の観光 >

 

No.14 モンサンミッシェル: モンサンミッシェルの全景。

モンサンミッシェルに昼頃から入場観光し、自由散策の後、対岸のホテルに宿泊した。

おかげで日の入り、日の出のモンサンミッシェルを撮影することが出来た。

 

この光景を見ることは長年の夢でした。

それも素晴らしい天候の下で叶えられて、幸いでした。

 

No.15 シュノンソー城: シュノンソー城の全景。

シュノンソー城の庭園内レストランで昼食後、城に入場観光し、少し庭園を散策した。

 

No.16 シャンボール城(写真省く)

外観の写真撮影のみ。

 

 

 

 

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< 9. 10日目観光 >

 

No.17 シャルトル大聖堂: 正面。

大聖堂を入場観光。

 

No.18 ベルサイユ宮殿: 正面。

宮殿の駐車場横のレストランで昼食後、宮殿内を入場観光した。

 

この後、パリのレストランで夕食をとり、セーヌ川をクルーズし、パリ市隣接地区のホテルに2連泊した。

 

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< 10. 11日目、12日目観光 >

 

No.19 パリ: 凱旋門

11日目の午前中、観光バスで市内観光した後、ルーブル美術館に入場観光した。

昼からの自由時間で、私達夫婦は夜9時ごろまで地下鉄と徒歩で市内を縦横に散策し、昼食と夕食を愉しんだ。

 

下の写真: ホテル近くのラ・デファンスの新凱旋門下から凱旋門を遠望。

12日目は、直ぐ横にある大型スーパーで最後の買い物をした。

 

こうして昼前にはホテルを出て、パリから帰路に着いた。

 

 

 

旅の楽しみ

 

 

 

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< 11. 旅の楽しみ 1 >

 

上の写真: セーヌ川クルーズ。

船が進むと川風が心地良く、建物は夕陽で黄金色に変わっていった。

川岸には大勢の人が夕暮れを楽しんでいて、私達を大いに歓迎してくれた。

至福の時が流れていきました。

 

中央の写真: パリの自由散策で訪れた市場で昼食。

ここは移民が多く暮らす街にあり、各国の料理店が賑わっていた。

 

下の写真: パリの自由散策で訪れた商店街。

ここでは観光客をほとんど見なかった。

 

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< 12. 旅の楽しみ 2 >

 

上の写真: 先ほどの商店街の魚屋の軒先で新鮮な貝とワインを味わった。

 

中央の写真: 何回も乗り継いだパリの地下鉄。

30年ほど前に訪れた地下鉄と雰囲気は変わっていた。

 

下の写真: ルーブル美術館の絵。

 

旅で様々な人と出会い、共感し、親切を受けることは喜びです。

特にリヨンやストラスブール、パリでの自由散策では様々な笑顔に出会いました。

 

また少しのチャレンジを通じて、異文化に触れることが出来ました。

各地の町や教会を巡って、ガイドさんと話していると、よりフランスとパリの歴史、そして社会への理解が深まった。

 

ゴシック建築やセザンヌとゴッホの絵がより身近になりました。

 

この旅行記では、様々な感動と歴史や芸術についても語って行きます。

 

 

バスの車窓から

私は車窓から全行程の景色を撮影しています。

全行程約2800kmに及ぶ数々の自然や街並みの写真からは、フランスの自然や文化、各地の違いが見えて来ます。

そこには何がフランスを生み育てているかが見えてくるかもしれません。

以下の写真はニースからパリに至る景観の変化を順番に示しいます。

 

 

 

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< 13. バスの車窓から 1 >

 

 

 

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< 14. バスの車窓から 2 >

 

 

 

次回から、詳しく紹介していきます。

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 80: At the end


中東に平和を! 80: 終わりに 

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A year has passed since I started this series.
I write a summary and impressions at the end.
この連載を始めて1年が過ぎました。
終えるにあたり、まとめと感想を記します。

 

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Contents

1. At the start
2. What do I aim at?
3. About the Middle East and Arab
4. Outline of conflicts in the Middle East
5. Outline of conflicts in the Middle East 2
6. A popular book 1
7. A popular book 2
8. Seeing the Middle East and Arab world in films 1: The beginning
9. Seeing the Middle East and Arab world in films 2: Lawrence of Arabia
10.Seeing the Middle East and Arab world in films 3: Schindler’s List
11.Seeing the Middle East and Arab world in films 4: The Four Feathers
12.Seeing the Middle East and Arab world in films 5: The Wind and the Lion
13.Seeing the Middle East and Arab world in films 6: The historical backdrop
14.Seeing the Middle East and Arab world in films 7: Terraferma
15.Seeing the Middle East and Arab world in films 8: Refugee issue 1
16.Seeing the Middle East and Arab world in films 9: Refugee issue 2
17.Seeing the Middle East and Arab world in films 10: the other son
18.Seeing the Middle East and Arab world in films 11: Israeli-Palestinian conflict 1
19.Israeli-Palestinian conflict 1: voices of the young 1
20.Israeli-Palestinian conflict 2: voices of the young 2
21.about terrorism 1 : at the beginning
22.about terrorism 2 : an assassination
23.about terrorism 3 : the background 1
24.about terrorism 4 : the background 2
25.about terrorism 5 : Various assassination
26.about terrorism 6 : maneuver secretly in Mossad
27.about terrorism 7 : Love and hate of Mossad
28.about terrorism 8 : terrorists and a conscientious objector
29.about terrorism 9 : Two combatants
30.about terrorism 10 : fight of believer
31.chain of retaliation 1 : in the end
32.chain of retaliation 2 : What is bad?
33.chain of retaliation 3 : in Syria and Lebanon
34.chain of retaliation 4 : Israel and Palestinian 1
35.chain of retaliation 5 : Israel and Palestinian 2
36.I beg a favor of you.
37.Thank for your answers.
38.chain of retaliation 6 : the intifada
39.chain of retaliation 7 : the Middle East war
40.chain of retaliation 8 : Why the Middle East war began? 1
41.chain of retaliation 9 : Why the Middle East war began? 2
42.What is the cause ?
43.What is the cause ? 2
44.What is the cause ? 3
45.Now, something I think. 1
46.Now, something I think. 2
47.religion and persecution 1: at the beginning
48.religion and persecution 2: Prejudice against Islam
49.religion and persecution 3: Persecution of Jewish people 1
50.religion and persecution 4: Persecution of Jewish people 2
51.religion and persecution 5: Persecution of Jewish people 3
52.religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4
53.when religions were born 1: preface
54.when religions were born 2: Judaism
55.when religions were born 3: Christianity
56.when religions were born 4: Buddhism
57.when religions were born 5: Confucianism
58.when religions were born 6: Islam 1
59.when religions were born 7: Islam 2
60.when religions were born 8: concluding section
61.Religion and Politics 1
62.Religion and Politics 2
63.Why was it exhausted ? 1: Introduction
64.Why was it exhausted ? 2: selfishness of major nations and multinationals
65.Why was it exhausted ? 3: Why is the selfishness permissible?
66.Why was it exhausted ? 4: When do major nations become selfishness?
67.Why was it exhausted ? 5: History repeats itself
68.Why was it exhausted ? 6: The period background of imperialism 1
69.Why was it exhausted ? 7: The period background of imperialism 2
70.Why was it exhausted ? 8: The mentality of the imperialism 1
71.Why was it exhausted ? 9: The mentality of the imperialism 2
72.Why was it exhausted ? 10: When did the world stand at a crossroad? 1
73.Why was it exhausted ? 11: When did the world stand at a crossroad? 2
74.Why was it exhausted ? 12: When did the world stand at a crossroad? 3
75.Why was it exhausted ? 13: What happened in Congo ? 1
76.Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2
77.Why was it exhausted ? 15: What happened in Congo ? 3
78.Why was it exhausted ? 16: What happened in Congo ? 4
79.Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5
80.At the end

 

目次

1.はじめに
2.私が目指すこと
3.中東とアラブについて
4.中東の紛争のあらまし 1
5.中東の紛争のあらまし 2
6.人気がある本 1
7.人気がある本 2
8.映画に見る中東とアラブ世界 1: はじめに
9.映画に見る中東とアラブ世界 2: アラビアのロレンス
10.映画に見る中東とアラブ世界 3: シンドラーのリスト
11.映画に見る中東とアラブ世界 4: サハラに舞う白い羽根
12.映画に見る中東とアラブ世界 5: 風とライオン
13.映画に見る中東とアラブ世界 6: その時代背景
14.映画に見る中東とアラブ世界 7: 海と大陸
15.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 1
16.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 2
17.映画に見る中東とアラブ世界 9: もうひとりの息子
18.映画に見る中東とアラブ世界 11: パレスチナ紛争 1
19.イスラエルとパレスチナの紛争 1: 若者の声 1
20.イスラエルとパレスチナの紛争 2: 若者の声 2
21.テロについて 1: はじめに
22.テロについて 2: ある暗殺
23.テロについて 3: その背景 1
24.テロについて 4: その背景 2
25.テロについて 5: 様々な暗殺
26.テロについて 6: モサドの暗躍
27.テロについて 7: モサドの恩讐
28.テロについて 8: テロ犯と兵役拒否者
29.テロについて 9: 二人の戦闘員
30.テロについて 10: 信者の戦い
31.報復の連鎖 1: その果てに
32.報復の連鎖 2: 何が悪いのか?
33.報復の連鎖 3: シリアとレバノンで
34.報復の連鎖 4: イスラエルとパレスチナ 1
35.報復の連鎖 5: イスラエルとパレスチナ 2
36.お願いがあります
37.ご意見に感謝します
38.報復の連鎖 6: インティファーダ
39.報復の連鎖 7: 中東戦争
40.報復の連鎖 8: なぜ中東戦争は始まったのか? 1
41.報復の連鎖 9: なぜ中東戦争は始まったのか? 2
42.何が原因か? 1
43.何が原因か? 2
44.何が原因か? 3
45.今、思うこと 1
46.今、思うこと 2
47.宗教と迫害 1: はじめに
48.宗教と迫害 2: イスラム教への偏見
49.宗教と迫害 3: ユダヤ人の迫害 1
50.宗教と迫害 4: ユダヤ人の迫害 2
51.宗教と迫害 5: ユダヤ人の迫害 3
52.宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4
53.宗教が誕生する時 1: はじめに
54.宗教が誕生する時 2: ユダヤ教
55.宗教が誕生する時 3: キリスト教
56.宗教が誕生する時 4: 仏教
57.宗教が誕生する時 5: 儒教
58.宗教が誕生する時 6: イスラム教 1
59.宗教が誕生する時 7: イスラム教 2
60.宗教が誕生する時 8: 最後に
61.宗教と政治 1
62.宗教と政治 2
63.なぜ疲弊したのか 1: はじめに
64.なぜ疲弊したのか 2: 大国と多国籍企業の身勝手
65.なぜ疲弊したのか 3: なぜ身勝手がまかり通るのか
66.なぜ疲弊したのか 4: 大国が身勝手になる時
67.なぜ疲弊したのか 5: 歴史は繰り返す
68.なぜ疲弊したのか 6: 帝国主義の時代背景 1
69.なぜ疲弊したのか 7: 帝国主義の時代背景 2
70.なぜ疲弊したのか 8: 帝国主義の心性 1
71.なぜ疲弊したのか 9: 帝国主義の心性 2
72.なぜ疲弊したのか 10: 何が岐路になったのか? 1
73.なぜ疲弊したのか 11: 何が岐路になったのか? 2
74.なぜ疲弊したのか 12: 何が岐路になったのか? 3
75.なぜ疲弊したのか 13: コンゴで何があったのか 1
76.なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2
77.なぜ疲弊したのか 15: コンゴで何があったのか 3
78.なぜ疲弊したのか 16: コンゴで何があったのか 4
79.なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5
80.終わりに

 

3
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What was I writing about in this series?
I have felt distress at violence of Islamic State (IS), and plight of refugees and Palestine.
Then I got a book criticizing Islamic civilization by Bernard Lewis (annotation 1).
This book was full of contempt but was a bestseller in the United States.
This had showed many people affirm the action of the United States that had plunged the Middle East into confusion, and so I had a sense of crisis.
In it, there is a prejudice of Western civilization (Judaism, Christianity) against Islamic civilization.
So I started this series.

Initially I tried to introduce the present situation in the Middle East and the outline of the colonial era.
Next, I looked for the motives and background of terrorism that prolonged the conflict.
And I looked at a chain of retaliation all over the place.
The chain of retaliation is the most universal mechanism to expand every war.
The hatred producing the retaliation was between tribes and sects, and even between different civilizations and religions.

Then, to search for origin of the hatred between civilizations and the religious persecution, I compared the birth of world religions.
The difference in religion is certainly an origin of the confrontation, but is only a part.

On the other hand, in having examined the history of the Middle East, the colonial domination was understood as the origin of hatred and exhaustion.
If you look at the world, many countries other than the Middle East also are being distressed by conflict, dictatorship and economic downturn.
And, the more harshly a country was treated by the Western colonial domination a century ago, the more likely a country was exhausted.
Even after independence, the conflicts are frequent and prolonged due to the proxy war of the Cold War.

So, I examined the colonial domination.
Why did Western Europe do harsh colonial domination?
Why was the colonial society being exhausted?
Why do the conflict and stagnation continue even after independence?

And today I finish this series.

 
この連載で何を語って来たのか
私は、イスラム国の暴虐、難民とパレスチナの苦境に心を痛めた。
そしてバーナード・ルイスのイスラム文明批判の一冊(注釈1)を手に取った。
この本は侮蔑で溢れていたが、米国でベストセラーでした。
このことは中東を混乱に陥れた米国の行為を肯定するものであり、私は危機感を持った。
そこにはイスラム文明に対する西欧文明(ユダヤ教、キリスト教)の偏見がある。
それで私はこの連載を始めた。

当初、中東の現状と植民地時代の概要を紹介することに努めた。
次いで、紛争を長引かせるテロの動機や背景を探った。
そしておぞましい報復の連鎖に行き着いた。
報復の連鎖は最も普遍的な戦争拡大のメカニズムです。
この報復を生む憎悪は部族と宗派、さらには異なる文明と宗教間にもありました。

そして文明間の憎悪と宗教上の迫害の起源を求めて、世界宗教の誕生を比較した。
宗教の違いは確かに対立の起源だが、一部でしかない。

一方、中東史を調べると憎悪と疲弊の根源に植民地支配があることがわかる。
世界に目をやれば、中東以外に紛争、独裁、経済低迷に喘ぐ国々は非常に多い。
そして、疲弊が酷い国ほど1世紀前、西欧の植民地下で過酷な支配を受けていた。
また独立後も、冷戦の代理戦争などにより紛争が頻発し長引いてる。

そこで、私は植民地支配を調べた。
なぜ西欧は苛烈な植民地支配を行ったのか?
植民地社会はなぜ疲弊し続ける事になったのか?
独立後も、なぜ紛争と低迷が続くのか?

そして今日、この連載を終えます。

 

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Something I think now
I hope that my article solves the misunderstandings about the Middle East and Islam in any way and is useful for the world peace.
Unfortunately, I could not find even a clue for bringing peace in the Middle East.

In the course of this investigation, I lost my energy every time knowing a state of utter confusion.
However, I have continued with the desire to have to avoid the world going this wrong way any more.

In an extreme instance, it can be said that the war and exhaustion of the Middle East began from the colonial domination of Western Europe.
However, we can not say to Western Europe having responsibility for it.

The world must be very peaceful if there aren’t the imperialism and violence of great nation that is continuing even now.
Discrimination emotions and hatred have approved the violence, but this is not limited to Westerners.
My concern is that the pursuit of greed and strong power on the pretext of freedom is increasing momentum.
Forenamed Bernard Lewis justified the military invasion by despising the Islamic world as backward civilization and frail society.
Still, a logic of imperialism continues to live.
Naturally, within a nation ruled by law, this logic is denied, but this trend is increasing momentum, mainly in Europe and the United States.
It is a truly dangerous sign.

At the very least, the Europe and the United States reflect on the past conduct, should stop the invasion and intervention.

On the other hand, there seem to be no way to recover the former colonial society once destroyed.
Have we no choice but to expect a fortuity, passing years, or correspondences changed of great nation?

However, there is a faint hope.

Certainly, humanity has repeated folly, but also produced unexpected solutions.

Buddha led to a freedom from the corrupt politics, Jesus did to it from the invaded and exhausted society, and Mohamed did to it from the society where conflict persisted.
Their behaviors changed the world.

After that, Gandhi in India, Robert Schuman in France (Annotation 2), Reverend King in the United States, Mandela in South Africa, and Shevardnadze in the Soviet Union asked for reconciliation rather than confrontation, and left a mark on the world.

The world is also cooperating with the United Nations (UN), the European Union (EU) and the Convention on Climate Change Framework Convention (COP).

In this greedy world, Medecins Sans Frontieres, Amnesty International and International Consortium of Investigative Journalists (ICIJ) (annotation 3) are working for the Peace and protection of human rights by people’s goodwill and dedication.

 
今、思うこと
私の記事が、少しでも中東とイスラムへの誤解を解き、世界の平和に役立つ事を願います。
残念なことは、中東に平和をもたらす糸口すら見つけることが出来なかったことです。

今回の調査の途中で、私はその混迷の深さに幾度も気力が萎えてしまった。
しかし、これ以上、世界が誤った道を進むことを避けたいとの願いで続けて来ました。

極論すると、中東の戦乱と疲弊は西欧の植民地支配から始まったと言える。
しかし、このことで西欧に責任を取れとは言えない、ましてや今の国民に。

帝国主義と今も続く大国の暴力が無ければ、世界はどれだけ平和だったかと思う。
差別感情と憎悪がこの暴力を容認にしているが、これは西欧人に限ったことではない。
気がかりなのは、自由に名を借りた強欲と強権の追及が勢いを増していることです。
かのバーナード・ルイスはイスラムを遅れた文明、虚弱な社会と侮蔑し、軍事進攻を正当化した。
いまだに、帝国主義の論理が生き続けている。
法治国家内では、当然、この論理は否定されるが、欧米を筆頭にこの風潮が勢いを増している。
まことに危険な兆候です。

せめて欧米と大国は猛省し、侵略や介入を止めるべきだと願うばかりです。

一方、一度破壊されたかつての植民地社会が立ち直る術は見当たらない。
何らかの偶然か、年月か、先進国の対応の変化に期待するしかないのだろうか。
しかし、かすかな希望もある。

確かに、人類は愚行を繰り返して来たが、予想外の解決法も生み出して来た。

釈迦は腐敗した政治から、イエスは侵略され疲弊した社会から、マホメッドは抗争が絶えない社会からの脱却を導いた。
彼らの言動が世界を変えた。

その後も、インドのガンジー、フランスのロベール・シューマン(注釈2)、米国のキング牧師、南アフリカのマンデラ、ソ連のショワルナゼなどが対立ではなく和解の道を求め、偉大な足跡を残した。

また世界は国連(UN)、欧州連合(EU)、気候変動枠組条約締約(COP)で協同するようになった。

この強欲な世界にあって、人々の善意と献身によって国境なき医師団、アムネスティ・インターナショナル、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)(注釈3)が平和と人権擁護の為に活動している。

 

5

< 5. Please give a donation >
< 5. 募金をお願いします >

 

I hope the world is peaceful.
Until now, thank you from the bottom of my heart for reading my articles.
世界が平和であることを願って終わります。
今まで、拙い連載にお付き合い下さり、心より感謝します.

注釈1.
「イスラム世界はなぜ没落したか?」2003年刊。
著者はユダヤ系で中東史の泰斗であり、ネオコンの思想を支えた。

注釈2.
彼は独仏和解を願い、EUの前身となる欧州石炭鉄鋼共同体の設立に尽力した。

注釈3.
この団体が租税回避を記したパナマ文書を解明し発表した。

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Bring peace to the Middle East! 79: Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5


中東に平和を! 79 なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5

 

1

< 1. A movie of Congo Crisis >
< 1.コンゴ動乱の映画 >
We have seen how societies were destroyed by colonization.
Today, we see what happened to the independent Congo.
There was typical mechanism of civil war there.

 

これまで、植民地化によって社会が如何に破壊されるかを見て来ました。
今日は、独立したコンゴに何が起こったかを見ます。
そこには典型的な争乱のメカニズムが働いていました。

 

2

*2

 

Independence and civil war of Congo.
The Congo had been divided and dominated by Belgium and France.
And in 1960, each became an independent nation and now is Democratic Republic of the Congo and Republic of the Congo.
And, Cabinda that an Angolan enclave of Portuguese territory, that was sandwiched between the both Congo nations, also became independent nation along with the home country in 1975.

The beginning took place at the end of the harsh colonial occupation of Belgian Congo.
Christianity had been widespread in this area, and Kimbangu Sect that be fused with an indigenous faith and Christianity had started up in the 1920s.
It prognosticated the Messianic of the Black eventually would destroy the Caucasian, so the resistance movement broadened.
This was oppressed by the government and the Kimbangu died in prison.

From the 1950s, the momentum of independence gradually rose, and Lumumba and Kasa-Vubu began struggle severally.
Meanwhile, the Belgian government and white settlers decided to retreat from the area immediately.

But this was the beginning of the civil war.
At the time of the independence, there was no person that could be responsible for the administration as members of the government, and degree recipients were only 16 people.
Until then, Belgium had done colonial management in their home country, and did not let Africans participate in the politics at all.
In addition, the national economy was held by private companies, and one multinational company accounted for 27% of the country’s national income.

 
コンゴの独立と動乱
コンゴはベルギーとフランスに分割支配されていた。
そして1960年、それぞれが独立し、現在のコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に至る。
またポルトガル領のアンゴラの飛び地、両コンゴに挟まれたカビンダも、1975年に本国と共に独立した。

その始まりは、過酷なベルギー領コンゴの末期に起きた。
この地ではキリスト教が根を下ろしており、これと土着信仰を融合させたキンバンギ宗が1920年代に興った。
これは黒人の救世主がやがて白人を打ち滅ぼすとされ、抵抗運動が広がた。
これは政府によって弾圧されキンバンギは獄死した。

50年代より、徐々に独立の機運が盛り上がり、ルムンバとカサブブが別々に独立闘争を開始した。
一方、ベルギー政府と白人入植者達は、この地から即刻手を引くことを決めた。

しかし、これが動乱の始まりでした。
独立時に行政を担える人材は皆無で、学位取得者は16名しかいなかった。
それまで、ベルギーは本国で植民地管理を行い、まったくアフリカ人を政治に参加させていなかった。
国の経済は民間企業に握られており、多国籍企業一社だけで国家収入の27%に達していた。

 

3

< 3. Documentary on Katanga >
< 3.カタンガを描いたドキュメンタリー >

 

Although the Congo became an independence nation by president Kasa-Vubu and prime minister Lumumba, they soon were opposed each other to take priority of which of tribe or integration.
Meanwhile, Tshombe that was supported by Belgium and international capital aiming to secure the mines, declared independence of Katanga.

Belgium intervened militarily on pretense of the suppression, and so the Lumumba requested the United Nations force, but it meant his death.
The UN forces was standing on the Western side and protected the Katanga regime, and so he approached the Soviet Union quickly.
Colonel Mobutu, who been supported by the United Nations and the United States, raised a coup d’etat and the Lumumba was killed.

 
カサブブを大統領、ルムンバを首相とし独立したが、部族優先か統合かで対立した。
一方、鉱山確保を狙ったベルギーと国際資本に支援されたチョンベはカタンガの独立を宣言した。

ベルギーは鎮圧を口実に軍事介入したので、ルムンバは国連軍を要請するが、これが彼の命取りとなった。
国連軍は西欧側に立ちカタンガ政権を保護したので、彼はソ連に急接近した。
そして国連と米国の支援を受けたモブツ大佐がクーデターを起こし、ルムンバは殺された。

 

4
*4

 

Approximately 100,000 people were killed in this Congo Crisis from 1960 to 1965.
The Mobutu became president and reigned as a dictator until 1997.
His accumulated wealth is said to be 600 billion yen, which is equivalent to the country’s external debt.
He defected in the midst of other intense civil war and died in Morocco.

After that, the Congo is caught up in many wars such as civil war or war with neighboring country, due to ethnic conflicts and resource acquisition.
And each time, hundreds of thousands of people were killed, starved to death, became refugees.

 
この1960年から1965年のコンゴ動乱で約10万人が殺された。
モブツは大統領になり1997年まで独裁者として君臨した。
彼の蓄財は国の対外債務に等しい6000億円と言われた。
彼は、後の内戦激化の折に亡命しモロッコで死んだ。

その後も、コンゴは民族対立と資源獲得を巡り、内戦と周辺諸国との戦争に巻き込まれていく。
そして何十万単位で殺され、餓死し、難民が発生している。

 

6a

< 5. A movies on Katanga civil war >
< 5. カタンガ内戦の映画 >
There is certain common mechanisms in this endless wars.

A. Birth of new religion: dissatisfaction toward the colonial domination created religions that had to be competitive with white man’s religion (Christianity).

Christianity was regarded the same as colonial domination, and so the indigenous people asked indigenous faith, Islam or new religion for help, next it led to a massive resistance movement.

B. The atrocity by former colonial master and foreign companies: the former colonial master and foreign companies (international capital, multinational corporations) forever dominate the colony in order to secure interests.

To that end, they don’t hesitate to support the puppet government, dictators, and do coup aid or military intervention.

C. Proxy War of the Cold War: the United States and the Soviet Union carried the military support and military intervention in order to collapse each other’s allies.

Supercountry refuses support unless a small country belongs to the supercountry, and conversely the supercountry counts the small country as enemy when the small country asks for assistance to the other supercountry.
In particular, the United States did this not only to Congo but also Vietnam, Egypt, and Iraq, and has plunged the region into crisis.

In the next time, I end this serialization, “Bring peace to the Middle East! ”

 

この果てしない争乱には共通のメカニズムがある

A. 新興宗教の誕生: 植民地支配への不満は、白人の宗教(キリスト教)に対抗する宗教を生み出した。

キリスト教は白人支配と一体と見なされ、先住民は土着信仰やイスラム教、新興宗教に助けを求め、これは大規模な抵抗運動につながった。

B. 宗主国と海外企業の横暴: かつての宗主国と海外企業(国際資本、多国籍企業)は、権益確保の為に、いつまでも植民地を支配する。

その為には傀儡政権や独裁者の支援、クーデター幇助、軍事介入を辞さない。

C. 代理戦争(冷戦): 米ソは互いに相手の同盟国を潰す為に、軍事支援と軍事介入を行った。

超大国は、ある国が自国の傘下に入らなけらば支援を拒否し、逆に相手国に支援を求めたら敵と見なして来た。
特に米国は、コンゴだけでなくベトナム、エジプト、イラクでもこれを行い、地域を戦乱に陥れた。
次回で、「中東に平和を!」を終了します。

 

 

 

 

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