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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 35: ワルシャワ5


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今日は、ワジェンキ公園の残りを紹介します。

今日で、この旅行の紹介を終わります。

長らくのお付き合い有難うございました。

 

 

 

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< 2.ワジェンキ宮殿の2階 >

 

 

 

 

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< 3.ワジェンキ宮殿内 >

 

 

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< 4.ワジェンキ宮殿 >

 

 

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< 5.公園で見かけた動物たち >

 

上の写真: 孔雀がいる。

下の写真: 左の木の陰をリスが走っている。

この公園内で、他にもリスを見ました。

 

 

 

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< 6.広々とした公園 >

 

 

 

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< 7. ホワイトハウス >

 

18世紀に建てられたかつての王族の住居。

 

 

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< 8.かつての温室 >

 

下の写真: 18世紀に東方の植物として珍重されたオレンジなどの樹木を寒い季節の間、養成するための温室の原型。

太陽光を取り入れる為に窓が大きくなっている。

現在は劇場になっている。

 

 

 

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< 9.ショパン像 >

 

下の写真: 毎年夏に、この像の前でショパンコンサートが行われる。

 

 

 

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< 10.お別れ >

 

上の写真: 柳の木の下に座り、故郷の自然を眺めるショパンを表現している。

 

下の写真: ワジェンキ宮殿横の道路。

ここからバスに乗り、空港まで行って、ポーランドを後にしました。

 

 

あとがき

異郷の世界を楽しく巡って来ました。

 

荒涼とした原野、のどかな田園地帯、鬱蒼とした森林を駆け抜けて来ました。

北の広大なバルト海に接した五つの国が交易と戦争で関わり続け、千年の歴史と文化を築きあげて来ました。

旧市街の街並みから、私はロシアとヨーロッパとの関わりを読み解くことが出来ました。

 

モスクワやサンクトペテルブルグのロシア帝国時代の有名な建物はイタリアの建築家の手になるものが多い。

バルト三国も、訪問前のイメージとは異なり、特に旧市街が非常にヨーロッパ風でした。

ワルシャワの古い建物は当然、ヨーロッパの影響が強い。

一方で、スターリン様式やタマネギ風の屋根の教会に見られるように、ロシアやソ連時代の影響が残っている。

 

私はそこに暮らす人々と話をする貴重な機会を得ました。

そして今まで疑問に思っていた幾つかの歴史的事件や社会問題について理解を深めることが出来ました。

 

色々、各地のスーパーに入り、豊富な生活用品や食品などを見ていると経済は発展しているようでした。

 

ポーランドは東欧の遅れた国とのイメージがあったのですが、戦火からの再建をやり遂げて発展している。

バルト三国も、かつての苦難を乗り越えて順調に発展している。

ロシアの都市部の発展は良いが、車窓から見た地方の暮らしは遅れているようでした。

 

この地域の歴史やロシアの様子を知ると、やはり不安がよぎる。

石油安でロシアの景気後退が深まると、世界がナショナリズムに突き進んでいるように、ロシアは容易に道を踏み誤る可能性がある。

それは私は数人のロシア人との会話から、ロシアの偏向報道を感じたからです。

翻って、日本の報道もここ数年、自由度が低下して来ているので不安です。

 

 

また、旅行の仲間で面白い人がいました。

高齢の女性が一人でツアーに参加しておられたのですが、非常にお喋りで、好奇心旺盛な人でした。

しかし、話をしているうちに、彼女は苦難にあっても、いつも挑戦し続け、道を切り開いて来ました。

その積極性と能力は人並み外れていました。

 

そして最後にわかったことは、彼女の息子さんが芥川賞を受賞された作家だったことです。

やはりこれぐらいの女性だからこそと感心したものでした。

 

やはり旅行は面白く、刺激に満ち溢れたものです。

 

 

これで終わります。

 

 

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 34: ワルシャワ4


 

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今日から、ワジェンキ公園を紹介します。

陽光に輝く黄葉、湖面、宮殿を見ながら広葉樹林の中を散策しました。

孔雀やリスが晩秋を惜しんでいました。

2017年10月4日に訪れました。

 

 

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< 2. ワルシャワの中心街 >

 

上の写真: スターリン様式の文化科学宮殿。

 

 

 

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< 3. いよいよワジェンキ公園 >

 

下の写真: ワジェンキ公園の北側から入園、無料。

これはクラクフ郊外通りを2kmほど南下した所にある大きな庭園で、ポーランドの最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによって18世紀に30年をかけて造営された。

 

 

 

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< 4. ワジェンキ宮殿が見える >

 

上の写真: ポーランド王ヤン3世ソビェスキの像。

1683年、オスマン帝国15万の軍による第二次ウィーン包囲に対して、彼はわずか3000の騎兵で中央突破し、勝利に導き、ヨーロッパを救った英雄と讃えられた。

この像は、これを記念している。

 

下の写真: 池の奥にワジェンキ宮殿(水上宮殿)が見える。

ヤン3世ソビェスキの像の前から見ている。

 

 

 

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< 5. ワジェンキ公園  >

 

上の写真: ヤン3世ソビェスキの像がある橋。

 

 

 

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< 6. ワジェンキ宮殿に向かう  >

 

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< 7. ワジェンキ宮殿に迫る >

 

この宮殿は造園を命じた王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが、夏の宮殿として使用した。

彼は前の所有者が浴場として使用していた建物を改造した。

この建物はポーランド・リトアニア共和国が滅亡した後、ロシアに売却され、第二次世界大戦ではドイツに美術品は盗まれ破壊されたが、修復された。

 

 

 

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< 8. ワジェンキ宮殿の南側 >

 

 

 

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< 9.ワジェンキ宮殿の南側の池  >

 

 

 

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< 10. いよいよワジェンキ宮殿に入る >

 

 

 

 

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< 11. ワジェンキ宮殿内 >

 

上の写真: 宮殿のホールで学習する子供達。

 

下の写真: 宮殿のホールから池の北側を見る。

 

 

あとがき

実は、この時期、例年なら黄葉が美しいのだそうですが、この年の夏が小雨だった為、残念ながら多くの黄葉が茶褐色を帯びていました。

従って、あまり黄葉の写真を撮っていません。

それでも遠目には美しかった。

 

次回に続きます。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 33: ワルシャワ3


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今日は、王宮広場からクラクフ郊外通りを紹介します。

紺碧の空に映える建物や通りを歩き、ショパンの関わりある場所を巡りました。

 

 

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< 2. 王宮広場 >

 

上の写真: 奥が、既に紹介した旧市街で、右手が旧王宮です。

中央に立っているのはジグムント3世の像です。

この王がポーランド・リトアニア共和国(1569-1795年間、現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを含む大国)を継承し、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した。

 

下の写真: 旧市街を見ています。

建物の間の通りを行くと旧市街広場に戻ります。

 

 

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< 3.旧王宮 >

 

上の写真: 現在博物館になっている旧王宮。

ジグムント3世の居城だっただけでなく国会などしても使用された。

第二次世界大戦で完全に破壊されたが再建された。

 

中央の写真: 旧王宮の中庭。

 

下の写真: 中庭のポスター。

これらは1956年のポーランドのポズナン暴動とハンガリー動乱を扱っているようです。

この事件はソ連でフルシチョフがスターリン批判をしたことに端を発して、両国の民衆がソ連と自国の共産政権への不満から暴動となった。

ポーランドは自国で鎮圧し死傷者は百名ほどであった。

しかしハンガリーはソ連軍によって鎮圧され2万人近くが死に、20万人が難民となった。

 

 

 

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< 4.王の道を行く >

 

上の写真: 今回紹介するコース。

Sは王宮広場で、Eは徒歩観光の終点で、この間はクラクフ郊外通りです。

この通りを右側(南)に真っすぐ行くと、中心市街地の新世界通りを抜け、後に紹介するワジェンキ水上宮殿公園に至り、この道は「王の道」の一部です。

Aは大統領官邸、Bは道を挟んでチャプスキ宮殿とワルシャワ大学、Cは聖十字架教会、Hは私達のホテル。

 

中央の写真: 王宮広場からクラクフ郊外通りを見ている。

 

下の写真: クラクフ郊外通りから王宮広場の方を見ている。

 

 

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< 5.クラクフ郊外通り  >

 

上の写真: 王宮広場の方を見ている。

 

中央の写真: ポーランドの国民的詩人の像。

彼はショパンと同時期に活躍した。

 

下の写真: ”Kościół seminaryjny w Warszawie”

17世紀に造られ始め18世紀のファサードを持つカトリック教会。

詩人の像と大統領官邸の間にある。

 

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< 6.大統領官邸 >

 

上の写真: クラクフ郊外通りの中頃から南側を見ている。

 

中央の写真: 大統領官邸の前に立つポーランドの英雄像。

彼は19世紀始め、ナポレオンに従って祖国ポーランドの為に戦い、戦死した。

彼は池田理代子の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』の主人公となっている。

 

奥の大統領官邸はかつて貴族の館で、18世紀に一部劇場として開放され、ここでショパンが初めてのピアノ演奏会を行った。

 

下の写真: 18世紀に建てられた後期バロック様式のヴィジトキ教会。

学生のショパンがこの教会の日曜ミサでオルガニストをしていた。

 

 

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< 7. ワルシャワ大学 >

 

上二つの写真: ワルシャワ大学。

かつてショパンはこの大学内の中・高等学校で学んだことがあった。

 

下の写真: クラクフ郊外通りの中頃から北側を見ている

 

 

 

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< 8.ショパンのゆかりの地 >

 

上の写真: ユニークな像が入り口を飾る建物。

 

下左の写真: かつてのチャプスキ宮殿、現在は美術アカデミー。

写真は正面左側の建物で、ショパン一家は1827~1830年までこの3階で暮らした。

1830年、彼がウィーン滞在中にワルシャワでロシアからの独立を求めて「十一月蜂起」が勃発し、帰国を断念し、パリに赴いた。

ショパンにとっては、ポーランドで最後の家となった。

 

下右の写真: これはショパンのベンチで、ショパンゆかりの地に幾つも置かれている。

ベンチには説明が書かれており、ボタンを押すとショパンの曲が流れてくる。

 

 

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< 9.聖十字架教会 >

 

上の写真: 鐘楼はクラクフ郊外通りのほぼ北の端に建つ聖十字架教会。

下二枚の写真: 聖十字架教会の内部。

ショパンの心臓が右の柱に埋められている。

彼は39歳の若さで肺結核でパリに死すが、彼は埋葬を嫌い、遺言に従いこの教会に眠ることになった。

 

 

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< 10.広場や通りの人々 1 >

 

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< 11. 広場や通りの人々 2 >

 

下の写真: 先ほど紹介した美術アカデミー(チャプスキ宮殿)の奥の建物。

 

 

ワルシャワ・ゲットについて

前回紹介した最高裁判所の脇にワルシャワ・ゲットーの境界跡と記念碑がありました。

その位置は下の地図の黒の矢印で、黒の楕円枠は城壁で囲まれた旧市街、黒の四角枠は私達のホテルです。

赤枠が第二次世界大戦中に設置したワルシャワ・ゲットーで、如何に巨大かがわかります。

 

私達はポーランドがホロコーストの主な舞台だったことを知っています。

一つには悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所がポーランドにあったからでしょう。

ナチス・ドイツが殺戮したユダヤ人約600万の内、300万人はポーランドに暮らすユダヤ人でした。

 

 

 

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< 12.ワルシャワ・ゲットー >

 

これらの地図と写真は1939年から1945年までのワルシャワ・ゲットーに関するものです。

*当時のワルシャワ・ゲットーが赤枠で示されています。

*1942年、ゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送。

*1940年、ゲットーの壁建設

*1943年、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人が武装蜂起した報復にドイツ軍は街を焼き払い掃討した。

*1943年、ワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧戦の最中に連行される人々。

 

 

私はユダヤ人で気になっていたことを、前回のポーランド女性に聞いてみた。

 

質問1:

「映画『シンドラーのリスト』では、ポーランド人がユダヤ人迫害に同調したように描かれているが、どう思いますか?」

 

答え:

「監督はユダヤ系アメリカ人なので迫害を際立ったさせるために、ポーランド人を悪く描いているのでしょう。

ポーランド人は、多くのユダヤ人を受け入れた国であり、他の場面ではユダヤ人を助けている」

 

質問2:

「リトアニアではユダヤ人がソ連の手先になって裏切り、ユダヤ人が嫌われたが、ポーランドではどうだったのか?」

 

答え:

答えは明瞭ではなかったが、ポーランド人はユダヤ人を嫌っていないと言いたいようでした。

 

 

ポーランドのユダヤ人 注釈1

ユダヤ人は中世より西欧での迫害を逃れて東欧への移住を進めていた。

西欧では、例え住むことが許されても、限られた町で職業と人数に制限があり、多くのユダヤ人の暮らしは劣悪で人数も少なかった。

 

ユダヤ人は15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていた。

民族的に寛容なポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。

18世紀末以降、緩和が進み、旧市街にユダヤ人が住むようになった。

19世紀半ばより、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街などには貧困層が集中して住むようになった。

この状態は20世紀のはじめまで続いた。

この時代、ワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ユダヤ人の自治共同体が急成長した。

第二次世界大戦直前のワルシャワ市には全人口の30%にあたる38万人のユダヤ人が暮らしていた。

ワルシャワは、ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった。

 

ワルシャワ・ゲットーの歴史

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ワルシャワは占領された。

ユダヤ人居住区でチフスが流行していた為、1940年、隔離の為にゲットーが建設され、その中に45万人が詰め込まれ封鎖された。

このユダヤ人は強制労働に駆り出され、食料配給は必要摂取カロリーの10分の1に過ぎなかった。

 

1942年7月、ユダヤ人の絶滅収容所への移送が始まるが、この時までに8万人が飢えと病で死亡していた。

これに抵抗してユダヤ人は暗殺を手始めに武装蜂起し、ワルシャワ・ゲットー蜂起を起こした。

しかしドイツ軍による1か月の鎮圧で、全住民は移動させられゲットーは破壊された。

住民は瓦礫で圧死し、捕虜は銃殺され、残りは強制収容所で死んだ。

 

1945年、ソ連軍が到着するまでにワルシャワで生き残ったユダヤ人は約200人だった。

 

次回に続く。

 

 

 

注釈1

説明は主にウィキペディアによる。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 32: ワルシャワ2


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今日は、快晴の旧市街を紹介します。

前回紹介した早朝歩いた場所と幾分重なりますが、ガイドの説明を聞くと印象はがらっと変わりました。

 

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: 早朝歩いたルートです。上が東側です。

緑線が行きのルートで、青線が行きと異なる帰りのル-トです。

緑字のSはホテルで、赤字のSはツアーの徒歩観光の起点です。

赤字のDは城壁で囲まれた旧市街の中心に位置するマーケット・プレイスです。

上の川はポーランド最長のヴィスワ川です。

 

中央の地図: ツアーの徒歩観光のルートです。上が東側です。

S:起点。 A:ワルシャワ・ゲットの記念碑。 B: キュリー博物館。 C:城門バルバカン。 D: 旧市街のマーケット・プレイス。 E: 展望台。 F:聖ヨハネ大聖堂。

 

下の地図: ポーランドとワルシャワを示す。上が北側です。

 

 

 

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< 3. クランシスキ宮殿とワルシャワ蜂起記念碑 >

 

上の写真: 左にクランシスキ宮殿、右に最高裁判所。

 

下の写真: 最高裁判所の前のワルシャワ蜂起記念碑。

ワルシャワ蜂起については後で解説します。

地図のS地点から撮影。

 

 

 

 

 

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< 4. ワルシャワ・ゲットの記念碑 >

 

上の写真: 最高裁判所の横。

 

下の写真: ワルシャワ・ゲットの境界跡と記念碑。

地図のA地点で撮影。

ワルシャワ・ゲットの解説は次回行います。

 

 

 

 

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< 5. 新市街 >

 

上の写真: 北側を見ている。

地図のB地点で撮影。

すぐ右手の白い建物はキュリー博物館です。

彼女は放射能の研究で最初のノーベル賞をもらった。

彼女はここで生まれ、青春時代を過ごし、学業と研究の為にポーランドを出てパリに移り住んだ。

当時、ポーランドは帝政ロシアに併合されており、教育者だった両親ら知識層は行動を制約されていた。

 

下の写真: 南側を見ている。

ここを真っすぐ行くと旧市街の城門に至る。

 

 

 

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< 6. 旧市街の城門 >

 

上の写真: 旧市街の城門バルバカン。

最初は16世紀に造られたが、第二次世界大戦で破壊され、1952年に17世紀の様式で再現された。

地図のC地点で撮影。

 

下の写真: 旧市街の広場に向かう通路。

 

 

 

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< 7.マーケット・プレイス  >

 

上下の写真: マーケット・プレイス。

18世紀末までワルシャワの中心でした。

1944年のワルシャワ蜂起に対するドイツ軍の報復で完全に破壊されたが、1950年代に再建された。

地図のD地点で撮影。

 

 

 

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< 8. 旧市街のたたずまい >

 

上の写真: ハトが青空に舞い上がる。

この地は幾度も強国ロシア(ソ連)とドイツに交互に、または同時に蹂躙されて来た。

今度こそは平和が長く続きますように祈ります。

 

下左の写真: これは何の変哲もない古い民家の門に見えるのですが、再建時、瓦礫となった石材や美術記録など頼りに忠実に再現されたものです。

戦火の傷跡が生々しい。

 

下左の写真: 屋根に取り付けられたドラゴン。

 

 

 

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< 9. 展望台 >

 

上の写真: マーケット・プレイスの裏手にある展望台からヴィスワ川を望む。

地図のE地点で撮影。

 

中央の写真: 展望台から聖ヨハネ大聖堂の裏手に行く途中。

バルコニーの支えの部分に銃弾の跡が見える。

これはワルシャワ蜂起の激戦の痕跡です。

 

下の写真: 聖ヨハネ大聖堂の裏手。

地図のF地点付近。

 

 

 

 

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< 10. 聖ヨハネ大聖堂周辺 >

 

上左の写真: 右のレンガ建築が聖ヨハネ大聖堂の側壁です。

塔の下のトンネルを抜けると聖ヨハネ大聖堂の正面の通路に出ます。

地図のF地点付近。

 

上右の写真: 指さしているのはポーランド抵抗の印です。

上述のトンネルの中ほどにありました。

至る所に見られます。

 

下の写真: 上述の聖ヨハネ大聖堂の側壁に埋め込まれた軽戦車のキャタピラ。

ワルシャワ蜂起のものです。

 

 

 

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< 11. 聖ヨハネ大聖堂の正面 >

 

すぐ右が聖ヨハネ大聖堂の正面です。

この通路を行くとマーケット・プレイスに出ます。

地図のF地点付近。

 

 

 

ワルシャワ蜂起

第二次大戦末期に起こったポーランド地下軍とワルシャワ市民によるドイツ占領軍に対する蜂起。

ソ連軍によるワルシャワ解放が目前と思われた1944年7月下旬に一斉蜂起した。

8月1日、ほとんどの市民が蜂起に参加し市の中心部が解放された。

ソ連は進軍するかに見えたが、ヴィスワ川対岸で停止して、いっさいの援助をしなかった。

ようやく9月10日以降、ポーランド人部隊の渡河作戦を許したが、蜂起を救うには遅すぎた。

孤立した蜂起軍と市民はドイツ軍によって徹底的に全市を破壊され20万の死者を出した。

ついにワルシャワ蜂起は10月2日の降伏で無惨に終わった。

 

この時のソ連(スターリンがトップ)の行動は、反ソ感情の強いポーランドが衰弱してから占領する方が得策と考えたからでした。

 

 

 

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< 12. ワルシャワ蜂起 >

 

A: 赤枠はポーランド地下軍が蜂起した場所。

黒の四角は私達のホテル、黒の円枠は旧市街の城壁。

 

B: ドイツ軍が占領しているビルを銃撃するポーランド兵士。

 

C: ワルシャワ蜂起62周年の再現シーン。

 

D: 当時の若いポーランド兵士。

 

E: 旧市街で戦うポーランド兵士。

写真9や10で見た戦闘の傷跡はこの時のものです。

 

F: ドイツ軍によって破壊され炎上する旧市街。

 

G: 完全に破壊されたワルシャワ。

 

 

現在のワルシャワの人はこの蜂起をどのように見ているのだろうか?

直接、一人のポーランド女性と日本語で話すことが出来ましたので、質疑を要約します。

 

質問1:

「皆さんはドイツとロシアについてどう思っているのでしょうか?」

 

答え:

「ポーランド人にとって両国は長年の侵略国であるが、ロシアを嫌っています。

ドイツは戦後、謝罪したが、ロシアはその事実を否定しているからです。」

 

参考:

<カチンの森事件>不誠実な一例として。

1940年、ソ連軍はポーランド侵攻時、ポーランド将兵らの捕虜を2万人以上銃殺した。

ソ連は事件発覚後もドイツの犯行としていたが、ゴルバチョフが再調査し、1990年、事実を認め遺憾の意を示した。

 

 

質問2:

「皆さんはワルシャワ蜂起をどう見ているのですか?」

 

答え:

「毎年、議論されているが評価が分かれています。

 

悪いとする意見

将来ある多くのインテリゲンチャが若死にし、生き残った青年では将来を担うには力不足であった。

また関係のない多くの人が巻き添えになって死んだ。

 

良いとする意見

戦う伝説が作られた。

人々は、これからも他国の理不尽に対し戦う勇気を持つことが出来るだろう。」

 

 

私の感想

リトアニアでも同様でしたが、大国の侵略に対し蜂起したことに自画自賛だけで終わらない姿勢が素晴らしい。

 

ワルシャワ蜂起は、結局、ソ連に支配され続けただけなので、私には無駄死に思える。

しかし、今回巡って来た東欧四ヵ国の異民族支配への強い抵抗に、私は想像以上の篤い想いを見た。

だからと言って、私達日本人は経験したことのないこの想いをたやすく理解出来るとは思えない。

 

私達が、この想いを少しでも理解しょうとするなら、他国を戦争で侵略した後に取るべき態度とは何かが自ずと解るはずです。

それはこの女性が言った「謝罪したドイツを許している」からも明白です。

 

残念ながら日本は島国で平和に暮らして来たことが、他者への理解で災いしているように思える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 30: ビルニュスからワルシャワへ


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< 1. ポーランドにて >

 

 

今日は車窓から見たビルニュスからワルシャワまでの景色を紹介します。

撮影日は2016年10月3日の午後です。

 

 

バスの走行距離は約460kmで、6時間以上走りました。

走行中、雨が降ることはなかったが、ほとんど厚い雲に覆われていました。

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 2.ビルニュスとの別れ >

 

上2枚の写真: ビルニュス。

下の写真: 郊外。

 

 

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< 6. コンビニ >

 

中央の写真: 集団墓地。

今回走ったビルニュスからワルシャワの間で大きな墓地を幾つも見ました。

やはり南下するに連れて人口密度が高くなって来たのか、道路沿いに見かけるようになった。

皆、キリスト教徒の墓地だった。

 

下の写真: トイレ休憩に寄ったコンビニ。

 

 

 

 

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< 7.国境 >

 

上の写真: 先ほどのコンビニすぐ横の交差点から見た村。

 

中央の写真: これから下の写真はポーランドになります。

 

 

 

 

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これ以降は、暗くなり写真を撮りませんでした。

 

 

あとがき

バルト三国から南下するにつれ、大地に緩やかな起伏が多くなり、原生林を見ることはかなり減りました。

バルト三国もポーランドも、農家のたたずまいは経済的な差があまりなかったように思う。

しかし写真No.11のような綺麗な一戸建ての団地を、バルト三国やサンクトペテルブルグの郊外で見ることはなかった。

私が車窓から見た農村の民家は、ロシアが一番貧しく、古いままのような感じた。

 

参考に、各国の一人当たりのGDP(2013年)を高い方から見ると、エストニア26000ドル、リトアニア25000ドル、ロシア24000ドル、ポーランドとラトビア23000ドルでした。

ちなみに2016年の日本は39000ドルでした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 26: ビルニュス 1


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< 1.リトアニア国立ドラマ劇場 >

 

 

今日から、バルト三国で最後の国、リトアニアの首都ルニュを紹介します。

今日は、夕暮れのビリュニスと、夜の街歩きを紹介します。

訪れたのは2016年10月2日、日曜日です。

 

 

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リガから南下し田園地帯を抜けて、やがて販売店やアパート群が見えて来ました。

ビルニュスの人口は56万人で、リガの70万人とタリン42万人の中間です。

 

 

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思ったより大きく近代的な都市だと感じました。

 

 

 

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< 6.夕食のレストランへ >

 

バスを降りて、レストランに向かっている。

下の写真: このレストランでリトアニア料理を食べました。

 

 

夜の街歩き

私達は夕食後、新市街にあるホテル「Best Western Hotel」に到着した。

次いで、添乗員に案内してもらってショッピングモール「Vilniaus Centrinė Universalinė Parduotuvė」(open10:00-22:00)に行きました。

 

その後、皆と分かれて、私達夫婦は旧市街に向いました。

ネリス川を渡り、メインストリートのゲディミノ大通りを抜けて、片道2.5kmを歩きました。

 

 

 

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< 7.カテドゥロス広場 1 >

 

上の写真: カテドゥロス広場から今歩いて来たゲディミノ大通りを振り返る。

 

中央と下の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。

 

 

 

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< 8.カテドゥロス広場 2 >

 

私達はまたこの広場を次の日に観光ツアーで歩くことになります。

 

 

 

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< 9.カテドゥロス広場 3 >

 

途中、ほとんど観光客らしいグループを見かけることはなかった。

見たのは、おそらくは地元の人々で、多くは足早に帰宅する人のようでした。

広場のベンチには幾つもの恋人のシルエットがあった。

 

照明のある大通りや広場を歩いた感じでは、治安に不安を感じるような所はなかった。

実に、感じの良い都市だと思いました。

 

 

 

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< 10.ホテルに戻る >

 

上の写真: 行政府広場から見たゲディミノ大通り。

中央の写真: 帰る途中。

私達のホテルの近くにある大天使ラファエル教会が見えます。

 

下の写真: ネリス川の向こうに大天使ラファエル教会が夜空に浮かび上がっている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 25: ビリュニスまでの車窓の景色


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今日は、バスの車窓から見たリガからビリュニスまでの景色を紹介します。

この日のドライブは雨はなかったもののほぼ雲に覆われていました。

 

 

 

 

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< 2. リガ旧市街 >

 

上の写真: 旧市街の北の端にあるリーガ城。

この城は14世紀初め、ドイツから来たリヴォニア騎士団との闘いに負けた市民が建てらされたもの。

その後、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと支配者が替わり、18世紀以降、現在の宮殿のような姿になった。

 

下左の写真: リーガ城すぐ横の英国教会。

 

下右の写真: スターリン・クラシック様式の科学アカデミーが奥に見える。

ダウガヴァ川沿いから見た。

 

 

 

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< 3. リガとの別れ >

 

上の写真: 中央市場。

中央の写真: ダウガヴァ川の対岸。

下の写真: ダウガヴァ川を渡り、南下してリトアニアの首都ビリュニスに向かう。

 

すべての写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 5. 途中の町 >

 

 

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< 7. 国境を越えて >

 

上と中央の写真の間で、ラトヴィアからリトアニアの国境を越えています。

 

いつも思うのですが国境を越えても、自然の景色は変わらない。

ここでもそれは同じですし、家屋や人工的な風景も変化していない。

 

7年前にオーストリアからハンガリーへと国境を越えた時、自然は変わらないが、家屋が急にみすぼらしくなっていることに驚いた。

国家形態の違いによる経済の差が、このような形で明瞭に出ていることに驚いた。

 

 

 

 

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< 8. 人間の鎖 >

 

途中、休憩に寄ったレストランの駐車場に「the Baltic Way」(人間の鎖)の表示が立っていました。

 

上の写真: その駐車場から見た道路で、「the Baltic Way」の舞台になった。

 

中央右の地図: 「the Baltic Way」のルートを青い線で示しています。

赤丸はこのレストランの場所を示しています。

 

下の写真: 当時の様子。

 

 

人間の鎖について

1989年8月23日、バルト三国の国民200万人が参加し、三つの首都を結ぶ600km以上の鎖を造った。

これは人口の約半分が参加したことになり、世界で最初かつ最大の人間の鎖でした。

この行動は、タリンの「歌の原」で紹介した1988年の「歌の革命」に続いて起きた、バルト三国団結の象徴的な事件でした。

この後、リガで紹介した1991年の「バリケード」事件で、バルト三国は独立を達成することになりました。

 

 

 

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*9

 

 

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< 11. 少しの変化 >

 

この三枚の写真に、バルト三国の南下に伴う変化が見て取れます。

 

上の写真: 南下するに従って、いつしか原生林が道路から遠のいて行った。

耕作地が増え、作物栽培や放牧を多く見るようになった。

 

中央の写真: 道路沿いに写真のような十字架や小さな教会をいくつか見た。

道路周辺に民家が増えてきたからもしれない。

 

下の写真: 一番顕著な変化は、緩やかな起伏が増えて来たことです。

 

 

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< 13. もうすぐビリュニス >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 21: 車窓から見たリガまでの景色


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今日は、バスの車窓から見たタリンからリガまでの景色を紹介します。

 

 

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< 2. ドライブルート >

 

上の地図: 青線が今回走った道路と思われます。

走ったのはエストニアの首都タリンからラトビアの首都リガまでです。

途中、A点とB点を通過したのは確認できました。

 

下の写真: 昼食後、タリンの旧市街を出た所からバスに乗って、次のリガに向けて出発します。

これ以降の写真はすべて撮影順に並んでいます。

 

 

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< 3. タリンの街並み >

 

これらの写真はタリンの中心部を出発してから私達のバスで15分以内の様子です。

走るとすぐ木々に囲まれた閑静な住宅街を抜けることになります。

小さな首都だと言うことがわかっていただけると思います。

 

 

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< 4. 郊外 1 >

 

これらの写真は出発してから20分ほどの景色です。

 

 

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< 5. 郊外 2 >

 

郊外に出ると、道路の両側はほとんど上の写真か、下の写真のような樹林に囲まれています。

写真は変化のあるもの、特徴のあるもの、景色の良いものを選んでいますので、実感としては退屈なバス旅行かもしれません。

私に取っては、自然や暮らしがわかるので、楽しいのですが。

 

 

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< 6. 途中の景色 1 >

 

上の写真: この手の光景を時折見かけるのですが、不思議な感じがします。

一人でサイクリングやランニングしたりする姿や、道路脇を一人か二人で歩いていたりする人を見たのですが、周囲に民家やバス停、建物を見なかった。

私なら不安です、また冬はどうするのか不思議に思いました。

 

中央の写真: 今回のドライブでは、大きな川を数回渡りました。

ロシアの中央部に比べて、やはり海沿いは水や川に恵まれている。

 

下の写真: この道路と上の川との写真は、地図のA地点のものです。

 

 

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< 7.  途中の景色 2 >

 

上の写真: この街並みもA地点のものです。

 

中央の写真: 看板に地図のA地点の表示が見えます。

この看板と上のA地点の街との間にはバスで30分ぐらいの距離があります。

 

 

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< 8. 国境検問所のなごり 1 >

 

上の写真: 広い耕作地の中にポツンと小島のような森があり、その中に一軒の民家が見える。

日本のような民家が密集している農村地帯の景観は道路から見ることが少ない。

 

中央の写真: 地図のB地点です。

今は検問所は無くなっているのですが、その建物がレストランとコンビニになっています。

 

下の写真: 検問所跡の駐車場から今走って来た道を振り返っています。

 

 

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< 9. 国境検問所のなごり 2 >

 

上の写真: 国境検問所跡の駐車場からラトビア側を見ている。

 

下二枚の写真: これからの写真はすべてラトビアの景色です。

景観はエストニアと変わらないと思いますが。

 

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< 10. ラトビアの景観 1 >

 

上の写真: 私の記憶では、この日のドライブで道路沿いで見た教会はこれを含めた二カ所のみだったと思います。

すべて歴史的なものではなく、現在の村人の為だと思います。

 

中央の写真: 広大な森と耕作地が見えます。

 

下の写真: 植林を思わせます。

 

 

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< 11. 特徴ある景観 >

 

上の写真: タリン以降、この一瞬がバルト海を見た最後でした。

地図では海沿いを走っているのですが、海からは離れているか、樹林に遮らて見るチャンスはなかった。

これから訪れる三つの首都リガ、ビリニュス、ワルシャワは川沿いにはあるが海からは離れています。

 

中央の写真: 実は中央の構造物は珍しく微かに高い起伏の上に建っているのです。

エストニアの最高標高は318m、ラトビアの98%は標高200m以下です。

この地域はほんとうに平な平原なのです。

 

下の写真: 大きな湖です。

 

 

 

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< 12. 街 >

 

車窓から見た郊外の民家は、ロシアに比べ、エストニアやラトビアの方が勝っているように見えた。

ロシアのものは痛みが多く、古いようです。

 

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< 13. リガに入った >

 

夕暮れも近づく頃、大きな川や湖を渡るとリガの街並み見え始めました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 20: タリン 3


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今日は、タリンの旧市街「下町」を紹介します。

ここで昼食をとって、この街とお別れになります。

 

 

 

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< 2. 展望台の眺めと地図 >

 

上の写真: 同じ「山の手」にある前回とは異なる展望台からの眺めです。

狭い展望台ですが、より東側の旧市街を望むことが出来ます。

地図の番号Sがこの展望台です。

 

下の地図: 今回、紹介する観光ルートです。

上が北です。

Sから始めて、Eまで行って終わりました。

Bがメインになるラエコヤ広場です。

 

 

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< 3.下町に向かう >

 

上の写真: 展望台から東側を見ている。

下の写真: この坂を下ると「下町」に行きます。

 

 

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< 4. 下町に通じる坂と聖ニコラス教会 >

 

上2枚と下左の写真: 「短い足の通り」と門塔。

かつて「山の手」と「下町」を行き来するのは二か所の通りしかなかった。

その内の一つで狭くて急な坂道の「短い足の通り」です。

夜は、この門塔で扉が閉められた。

写真は「山の手」から「下町」に下る順番に並んでいます。

 

下右の写真: 聖ニコラス教会。

13世紀前半にドイツ商人の居住区の中心に建てられた教会です。

ここには15世紀後半に描かれた「死のダンス」があります。

中には入っていません。

 

 

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< 5.ラエコヤ広場に到着 >

 

上の写真: 通りから広場が見え始め、その向こうに聖霊教会の尖塔が見える。

下の写真: 奥右手の建物の地下のレストランで昼食をとりました。

 

 

 

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< 6. ラエコヤ広場 1 >

 

上の写真: 今来た方向(西側)を振り返っています。

左の尖塔は聖ニコラス教会のものです。

 

下の写真: 同じ位置から、南側にある旧市庁舎を望む。

この建物は14世紀後半に建てられ、15世紀に現在の形になった。

タリンは1248年に自治都市になり、またハンザ同盟に加わり発展した。

 

 

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< 7.広場から通りへ >

 

上の写真: 旧市庁舎の横から広場の北側を望む。

下の写真: 旧市庁舎の東南側にある通り。

中世には市が立った。

 

 

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< 8.ドミニコ修道院 >

 

上左の写真: 旧市庁舎を真横から見た。

 

上右の写真: ドミニコ修道院(右側)の横の通り。

 

下の写真: ドミニコ修道院。

1229年にドミニコ修道会はトームペア(山の手)に修道院を建てたが、帯剣騎士団に敗れ、この場所に立て直した。

宗教改革の折に破壊され、現在は改修され博物館になっている。

 

 

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< 9. 城壁 >

 

上の写真: 旧市街東側の城壁。

この上の回廊は有料で歩くことが出来ます。

 

 

下の写真: ヴィル門。

かつては陸路で街に入る場合の正面玄関でした。

14世紀から建てられた城壁の一部です。

向こうに新市街地が見えます。

 

ここを出て、次の都市リガに向かいました。

 

 

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< 10. 素晴らしい!! >

 

 

 

 

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< 11.様々な光景 >

 

上左の写真: ラエコヤ広場で見かけた風変わりな看板。

後でわかったのですが、ここはヨーロッパでも最古の薬局の一つでした。

ここは「市議会薬局」で、壁には1442年と表記されており、現在も営業しています。

看板の蛇と器は、日本で言えば漢方薬のマムシとお椀でしょうか。

ここは旧市庁舎の反対側にあります。

 

上右の写真: 旧市庁舎のドラゴンの雨樋。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

 

あとがき

ここではショッピングが出来る自由時間があり、妻は楽しめたようです。

これでも残念ながら旧市街の一部しか見ていない。

多くの観光客が中世の街並みを楽しいでいました。

 

ロシアでもそうでしたが、ここでも中国の団体客が眼につきました。

特にホテルや展望台での傍若無人さには閉口しました。

なかなか周囲への配慮が行き届くまでには年月がかかるのかもしれません。

私も気をつけなけらばならないと自戒しました。

 

半日、首都の旧市街を巡っただけで、一国の歴史と社会を知るのはほとんど不可能ですが、やはり直に歩いて目に焼き付けることで、理解が深まって来ます。

旅は、私を最高に興奮させ、世界を身近にさせてくれます。

 

 

次回に続きます。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 19: タリン 2


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今日は、首都タリンの港と旧市街の一部を紹介します。

 

 

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< 2. 地図、すべて上が北です。 >

 

上の地図: 首都タリン。

番号1のホテルと番号2の「歌の原」は前回紹介しました。

番号3の港と番号4の青枠の旧市街を今回紹介します。

青枠は支配者達が居を構えた丘の上にある「山の手」です。

 

番号5の赤枠の旧市街は次回紹介します。

赤枠は商人や職人が築いた平地の「下町」です

旧市街の大きさは両方で一辺800mぐらいです。

 

下の地図: 旧市街の「山の手」の拡大です。

赤線が今回紹介する徒歩のルートで、Sから歩き始めて、eの展望台まで行きました。

 

ライブカメラ: 世界遺産「タリンの旧市街」のラエコヤ広場。

現在、ちょうどクリスマスマーケットが行われています。

次回、「下町」で紹介します。

TALLINN TOWN HALL SQUARE – VIEW FROM RESTAURANT DOM

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/tallinn/tallinn-town-hall-square/

 

 

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< 3. 港 >

 

上の写真: フェリー乗り場のターミナルです。

中央の写真: 中央奥に旧市街の教会の尖塔が見えます。

下の写真: ターミナルから埠頭を望む。

 

この港から対岸のヘルシンキ、フィンランド湾の奥にあるサンクトペテルブルグ、またバルト海を抜けてヨーロッパに渡ることが出来ます。

 

この地は、ロシアとスカンディナヴィア半島を結ぶ軍事戦略地点として、またノヴゴロド(ロシアの前身)と西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築いた。

この港は13世紀にハンザ同盟(最北端)に加わり、14世紀、デンマークからドイツ騎士団がこの地を買い取り、エストニアとラトビア(バルト三国の北側2ヵ国)にドイツ人の影響が残ることになった。

 

 

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< 4. 市街 1 >

 

番号4と5の写真は、港から「山の手」のトームペア城までの3kmほどの車窓からの眺めです。

 

 

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< 5. 市街 2 >

 

緑溢れる落ち着いた街並みです。

 

 

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< 6.トームペア城 1 >

 

この塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれ、15世紀の姿を留めている。

 

エストニア人の砦があったこの丘「トームペア」に、13世紀初頭、ドイツの騎士団とデンマークによる北方十字軍が城を造った。

その後、支配者が幾たびも替わり、18世紀初頭からロシアがこの地を支配し、この城は宮殿へと改造されていった。

 

 

 

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< 7.トームペア城 2 >

 

下の写真: 右手は宮殿側で、国の議会が入っているので見学が出来ない。

 

 

 

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< 8.アレクサンドル・ネフスキー聖堂 >

 

上の写真: トームペア城側から見たアレクサンドル・ネフスキー聖堂。

1901年、当時支配していた帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。

ここだけ違和感のある建築でした。

この中に日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレ-トがかけられている。

このバルチック艦隊は、エストニアとラトビアの港から出航した。

中を見学したが、写真を撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: アレクサンドル・ネフスキー聖堂の側面。

この道を奥に進み、坂を下ると「下町」に行くことが出来る。

 

 

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< 9.山の手の街並み >

 

上の写真: 右手にアレクサンドル・ネフスキー聖堂、左手にトームペア城。

中央の写真: 上の写真の中央にある通りに入っていく。

下の写真: 大聖堂(トームキリク)周辺の建物。

この辺り教会関係者の住居だったのだろう。

 

 

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< 10. 大聖堂(トームキリク)周辺 >

 

上2枚の写真: この大聖堂はタリンの中心的なプロテスタント教会。

13世紀にデンマーク人がここにカトリック教会を建設し、その後、火事で焼失したが18世紀に再建された。

 

見学しましたが撮影は出来ませんでした。

中は古く簡素でしたが、16世紀からの品々が集められており、まるで中世の田舎の教会に迷い込んだようでした。

 

下2枚の写真: 風情のある通り。

 

 

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< 11. 展望台からの眺め  >

 

地図のe地点にある展望台から旧市街の北東方向を望む。

奥はタリン湾です。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 18: タリン 1


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今日から、エストニアの首都タリンを紹介します。

2016年10月1日の早朝から昼過ぎまで、主に旧市街を観光しました。

この日は、朝の雨上がりの後、素晴らしい快晴となりました。

 

 

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< 2. ホテル周辺 1 >

早朝、ホテルの周辺を少し散策しました。

宿泊したホテルはÜlemiste Hotellで、旧市街から数km離れた所にあります。

ホテルの前には大きな湖、後ろにはタリン空港があります。

 

上の写真: この道を進むと都市の中心部、旧市街、タリン湾の港に行きます。

 

中央の写真: 上とは逆の方向です。

 

下の写真: 右側がホテル、左側が大型スーパーです。

当初、このスーパー(オープンAM10:00-PM9:00)に行ってみたかったのですが、前日ホテルで食事を終えたのが遅く、また朝の出発が早かったので行くことが出来ませんでした。

 

 

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< 3. ホテル周辺 2 >

 

上2枚の写真: 少し歩いて電車の高架橋近くまで行きました。

ここを抜けて行くと町の中心部になります。

 

下の写真: ホテル近くのバス停。

 

 

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< 4. ホテル周辺 3 >

 

上の写真: 湖。

中央の写真: 朝焼けの空港。

下の写真: タリン湾の方に虹が架かっている。

 

 

 

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< 5. ホテルの最上階からの眺め  >

 

上の写真: 都市中心部の方。

中央の写真: 湖。

下の写真: 都市から離れる方。

 

 

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< 6. 車窓からの市内 1  >

 

バスはホテルを出発し、市内を抜けて最初の観光地に向かいます。

 

 

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< 7. 市内を行く 2  >

 

タリンの人口は39万人で、首都とはいえ非常にこじんまりしている。

ビル街は少なく、閑静な住宅街が広がっている感じです。

 

 

 

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< 8. 「歌の原」に到着  >

 

目的の場所に到着した。

ここはエストニア、いやバルト三国にとっても心の叫びが奇跡を生んだ誇り高き場所なのです。

 

バルト三国では昔から毎4、5年ごとに、国を挙げての音楽祭が開かれていた。

かつてバルト三国は揃って一度、二つの大戦の間だけ独立したことがあった。

しかし第二次世界大戦が始まるとソ連に占領され、国歌や民謡を母国語で歌うことが禁止された。

 

一方、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカを始めると、この地にも変化の兆し現れた。

1986年からバルト三国の各首都で大規模集会が開かれたが、逮捕者が出て終わっていた。

ついに、1988年9月、全エストニアの4分の1に当たる30万人がここに集まり、独立の思いを歌にした。

エストニア政府は連邦の方針に逆らい、抗議行動を許可し、この「歌う革命」は4年以上続くことになった。

 

1989年5月、タリンでバルト三国の独立の為の会議がもたれた。

こうして9月、バルト三国の首都を結ぶ600kmをそれぞれの国民200万人が手をつなぎ、人間の鎖を作った。

私達のバスは後にこの道を走ることになります。

 

1991年には、バルト三国のすべてがほぼ平和裏に独立を果たしていた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=34mYlYkzPVU

「歌の原」で行われた2009年の歌声の祭典の公式ビデオです。

歌が持つ力に感動します。

 

 

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< 9. 歌の原 1  >

 

上の写真: この静かな場所で感動がおこりました。

 

下の写真: タリンの港が見えています。

 

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< 10. 歌の原 2 >

 

黄葉と朝陽が心を高揚させます。

 

 

今回の旅では、これから訪れる各国で自由と独立とは何かを考えることになりました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城


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今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。

この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。

訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。

 

 

ナルヴァ(Narva)について

エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。

しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。

人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。

 

 

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< 2. ナルヴァ城の外壁 >

 

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。

この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。

 

 

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< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

 

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。

この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。

後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

 

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

 

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。

 

 

ナルヴァ城について

ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。

そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。

その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。

 

 

この地の観光情報

*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

http://www.narva.ee/en/for_tourists/page:7672

 

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

http://narvamuuseum.ee/eng/narva-castle/about/

 

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

http://bastion.narva.ee/userfiles/file/Narva%20Bastions%20Route%20booklet%20(et).pdf

 

*Wikipediaのナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Castle

 

 

 

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< 4. ナルヴァ城 2 >

 

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。

左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

 

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。

彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

 

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。

この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。

日本との時差はマイナス7時間です。

 

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/narva/narva-castle-ivangorod-fortress/

 

 

 

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< 5. ナルヴァ川 >

 

上の写真: 対岸はロシアです。

下の写真: 川の右手はエストニア側です。

 

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。

心洗われる一時でした。

 

 

エストニアの歴史について

 

 

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< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

 

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。

写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。

 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。

かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。

私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

 

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。

 

 

下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。

年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

 

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、

16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。

さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

 

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。

端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。

これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。

これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

 

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。

但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。

 

 

 

 

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< 7. ナルヴァの戦い >

 

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。

これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。

右手遠方に城塞が見える。

 

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

 

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。

 

 

 

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< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

 

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。

ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

 

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。

 

 

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< 9. エストニアの歴史地図 >

 

上の地図: 1260年の支配地図。

13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

 

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。

これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。

 

 

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< 10. バルト三国の歴史地図 >

 

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。

スウェーデンに分割支配された。

 

下の地図: 現在のバルト三国。

 

 

あとがき

私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。

その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。

バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。

その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

 

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。

その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。

そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。

ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

 

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。

彼は複雑な気持ちだと言っていた。

 

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 15: バスの車窓から見たロシア


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今日は、サンクトペテルブルグから国境の町ナルヴァまでの景色を紹介します。

2016年9月30日の午後、バスは140kmの道のりを3時間半かけて走りました。

ロシアを去るにあたり、ロシアの感想も記します。

 

 

はじめに

紹介する地域はロシアの北西端にあり、フィンランド湾に接しています。

私達の観光バスはロシアの原野に点在する町や村を抜けて行きました。

ナルヴァはバルト三国の最初の訪問国エストニアの国境の町です。

この日はあいにくの曇りで、時折、小雨が降り、また雲間から青空が覗く天気でした。

しかし、時折のぞかせる太陽光に黄葉が光り、不思議に高揚感のあるバスの旅になりました。

 

写真は撮影順に並んでいます。

 

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上の写真: サンクトペテルブルグの郊外の一角に、一戸建ての住居が整然と並んでいる場所が幾つも見られましたが、これはその一部です。

これらはどうやら社会主義時代からの別荘地のようです。

これらは今も使われているようですが、私は林の中で放置されている物件が多いように思えた。

 

 

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これは途中の都市に隣接する公園です。

道路沿いのバス停は何処も質素で、寒くなると困るんじゃないかと思いました。

 

 

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上の写真: 送電線が走っている所では森が切り拓かれていて、森の奥行が良くわかります。

 

下の写真: これは原野の中に点在する村の一角です。

道路沿いの村の多くはあまり大きくなく、住居は疎らに並んでいることが多い。

ここらでは住居当たりの敷地は広く、自然と共存している。

 

 

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ロシアもバルト三国もキリスト教の国ですが、道路沿いに教会を見ることは少なかった。

それは広大な原野に人が疎らに住んでいており、昔からある村は今回走った幹線道路から遠いせいかもしれない。

 

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上の写真: ロシアとエストニアの国境を流れるナルヴァ川。

ここからフィンランド湾の河口まで16kmです。

今、ちょうど厳重なロシア側の検問を終え、橋を渡ってエストニア側の検問所に行く所です。

 

中央の写真: エストニアの検問所を出た広場。

この建物は市役所と旅行案内所のようです。

 

下の写真: 今出て来たエストニアの検問所です。

この検問所の右横を進むとナルヴァ城に行くことが出来ます。

 

 

ロシアを去るにあたって

私にとってロシアは是非とも訪れて、自分の眼と耳で確認しておくべき国でした。

 

ロシア、ソ連は歴史的にも、超大国の隣国であることも私に関心を抱かせた。

この国は社会主義の実験場であり、ゴルバチョフの低迷後、プーチンでどのようになっていくのだろうか?

また明治維新後、日本が最も恐れたのはロシアでした。

ロシアは本当に拡張主義を取り続ける国なのだろうか?

 

それらを知るには、首都モスクワやクレムリンを知る必要がある。

また、サンクトペテルブルグや宮殿も見たい。

 

直観的に感じた最大のことは、都市部の生活が非常に豊かなことでした。

観光地とショッピングセンターしか行っていないが、商品が溢れ、値段も高くない。

都市部の経済状況は良いようです。

 

一方、郊外や地方は取り残されている感じがした。

郊外のアパート群や原野の中の農家は古いままのように見える。

外から見て生活の質はわからないが、自然と共存しゆったりと暮らしている可能性はある。

 

次に感じたことは、その国土の広さと未開発地域の多さです。

もしかすれば、かつての開墾地が放置されただけかもしれないが。

モスクワからサンクトペテルブルグ、エストニアへのルート沿いを見る限り、耕作地や牧場、植林地になりそうな原野が広がっていた。

これは大きな資産だと思う。

 

しかし心配なこともある。

それは現地の数人の人と話して感じたことです。

 

一人は熱烈なプーチンびいきの男性でした。

ゴルバチョフは経済を崩壊させ連邦を崩壊させ国土を失わせたとこき下ろし、一方、プーチンは経済を復活させ領土を取り戻したと絶賛した。

これは欧米での評判は前者が良く、後者が悪いと伝えた後の説明でした。

チェチェン紛争を取り上げると、彼は一蹴した。

「あれはロシアのものだから当然であり、問題にならない。」

他の話も、この調子で取り入るひまが無い。

 

人は好さそうで、怒って私に反論しているわけではない。

ただプーチンを信頼しているに過ぎない。

おそらくはゴルバチョフの大転換が無ければ、今の元気なロシアや明るさを取り戻した東欧は無かっただろう。

一方で、プーチンの剛腕は混乱からの脱出を可能にし、必要悪なのかもしれない。

 

 

また一人の若い女性との話も印象的でした。

彼女は失礼な質問にも親切に答えてくれた。

 

欧米や日本から見ればロシアは以前から侵略国に映り、今の動きに不安を持っていると伝えた。

彼女は、それは米国のプロバガンダに過ぎないと言った。

またロシア国民は侵略を望んでいないと断言した。

 

日本は明治維新後、軍事大国に進んだ理由の一つは、ロシアが最大の仮想敵国だったからですと説明した。

彼女は、最大の敵は米国だったはずですと私に言った。

それは日本が満州に乗り込んでからの事ですと私は答えた。

彼女は日本史を大学で学んだいたはずだが。

 

私はバルト三国の人々がロシアを恐れているように聞いているが、ロシア国民はどのように思っているのでしょうかと聞いた。

彼女は、質問に驚きを示した後、そのような小さな国のことは知らないと答えた。

 

 

二人との話は長いのですが、要点は以上です。

 

 

私の感想

ロシアでは情報が一方的になっている可能性が高く、特に米国に対しての偏見、悪い国とのイメージが強いようです。

おそらくはそれを正す情報が入手し難いのでしょう。

 

また、私達から見ればウクライナやチェチェン、クリミヤ問題は武力干渉や侵略に思えるのですが、ロシアから見れば歴史的な経緯がある領土問題です。

確かに1500年も遡れば、その境界は混沌として来ます。

ロシアの歴史を見れば、ロシアもかつては多くの異民族から侵略され、その対抗手段として強国になったとも言える。

また進出の矛先はバルト海(サンクトペテルブルグ)と黒海(クリミヤ)などで、交易と文明開化の為と言える。

 

少なくとも、ロシアでは一方的な物の見方が定着しているように思った。

必要なことは、交流を深め、つまらない誤解を解き、互いに真実を知るべきです。

これは、欧米や日本にも言えることですが。

 

今回の旅行中、各国で歴史や社会について話している時、立場が悪くなると必ず口をついて出てくる言葉が「それはプロパガンダですよ!」と言って、話は終わってしまう。

この逃げの言葉は使いたくないものです。

 

それでも、今回の旅行では日本語で多くの方と忌憚のない意見交換が出来た。

話し合った方々に感謝します。

 

 

次回、ナルヴァ城を紹介します。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 14: エカテリーナ宮殿 2


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今日は、エカテリーナ宮殿の外観と庭園を紹介します。

黄葉と湧き上がる白い雲が青空に映えて素晴らしい光景でした。

 

 

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番号1~6までの写真は、宮殿に沿って300mほど歩いた間に撮ったものです。

しかし、心躍る瞬間でした。

暖かい陽ざしに輝く黄葉、青空と緑の芝に映える青と白、金色に彩られた宮殿が実に素晴らしい。

 

 

 

 

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番号7と8の写真の黄葉の林はエカテリーナ宮殿に続く広大な庭園のほんの一部です。

バスに乗る前に、柵の外側から撮ったものや、バス走行中に撮ったものです。

 

 

 

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< 9.昼食のレストラン >

 

昼食はエカテリーナ宮殿から車で約5分離れた所にあるレストランで、団地の一角にありました。

下の写真中央の1階の建物です。

さっと通り雨が来たので道路が光っています。

 

いよいよこれでロシアともお別れで、次の国、エストニアに向かいます。

 

次回は、国境の町ナルヴァを紹介します。

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 12: ロシアの大型スーパー


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今日は、サンクトペテルブルグのホテル近くにある大型スーパーを紹介します。

またホテルからエカテリーナ宮殿到着までの景色も紹介します。

 

 

 

 

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< 2.宿泊したホテルと大型スーパー >

 

上の写真: 宿泊したホテルは空港近くのCrowne Plaza St. Petersburg Airport です。

中央の写真: ホテルの部屋から大型スーパーLENTAが右側に見えます。

下の写真:  LENTAの正面。

このスーパーは24時間営業です。

 

 

 

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< 3. レジ >

 

私達はホテル到着後と翌日の早朝、2回買い物に行きました。

日本の大型スーパーと同じ規模です。

 

 

 

 

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< 4. 衣類と家電製品 >

 

旅行時の為替は1ルーブルが約1.6円でした。

したがって、上の写真の衣類の値札は600~1900円で、日本と変わらない。

下の写真の家電製品の値札は1600~8000円で、日本よりも安いかもしれない。

私は中央の暖炉型ファンヒーターが気に入りましたが、後に各地のレストランで見ることになりました。

 

 

 

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< 5. パンと菓子の売り場 >

 

ここで面白い経験をしました。

 

私達は旅行前から本場のピロシキを食べようと計画していました。

ところが、食べる機会がなく、今日(9/30)にはロシアを離れてしまいます。

またこのスーパーにも、それらしきものが見つかりません

それで、店員やお客さんをつかまえては、「ピロシキ」「ピロシキ」と連呼して聞きました。

4人以上に聞いたと思いますが、皆、「ピロシキ」に近い発音をして、それぞれ異なる菓子パンやケーキ類を指差します。

わけがわかりません。

結局、私達はお客さんがよく買うパンを買って諦めました。

 

この日の、昼食時、現地ガイドにこのエピソードを伝えました。

彼曰く、ピロシキは中に総菜が入ったパンのことで、各地で異なる。

私達は、「パルナスのピロシキ」のような揚げたパンを探していたが、それは無かった。

 

私達は異国の文化や風習をいとも簡単に見誤るようです。。

「ロシアではもうピロシキを食べていない」と!

 

 

 

 

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< 6.果物や野菜の売り場 >

 

 

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< 7.他の売り場 >

 

スーパーにて

私達がニュースで見た1990年代のロシアの経済状況は酷かった。

当時、人々は物が無く、少ない配給品を買うために行列を作って並んだ。

またルーブルの価値が下落し、経済は崩壊しているように映った。

しかし、今回の旅行でモスクワとサンクトペテルブルグの大都市を見て、豊富な商品に驚いた。

ロシアの一人当たりのGDPは日本の6割ぐらいですが、このスーパーの商品価格は高くないので、暮らしは悪くないように思えた。

この経済復興を見れば、ロシアでのプーチン大統領人気が高いのもうなづける。

 

スーパー内の商品の説明書きに、一切英語表記がありません。

おそらくすべてロシア語表記なのでしょう。

これには困りました。

お菓子の計り売り器などの使い方が分からず、店員に聞いても、まったく通じません。

ロシアの閉鎖性が気になりました。

これでは欧米との意識のギャップは深まるばかりです。

 

 

 

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< 8.ホテルを出発 >

 

 

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< 9.エカテリーナ宮殿に近づいた >

 

今日は、快晴で紅葉が映えていました。

 

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< 10. エカテリーナ宮殿に到着 >

 

周囲はエカテリーナ宮殿の庭園です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 5: 竹田城跡


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今日は、写真撮影で最も楽しみにしていた立雲峡と竹田城跡を紹介します。

立雲峡は雲海に浮かぶ竹田城跡の撮影で有名になった所です。

 

 

 

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< 2.立雲峡の登山道 >

 

中腹の駐車場まで車で行き、そこから第三、第二、第一展望台へと登ります。

一番高い第一展望台までは徒歩25分だそうです。

私は疲れたので一番近い第三展望台から撮影しました。

第三展望台は標高354mの竹田城跡と同じ高さにある。

駐車場からも撮影出来ます。

 

 

 

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< 3.第三展望台から竹田城跡 1 >

 

中央の古城山の山頂に石垣が微かに見えます。

北西方向を見ている。

 

今日は、今にも雨が降りそうな空模様で、霞んで見えます。

雲海は秋の明け方から午前8時頃までで、色々な気象条件が重なった時に見られるそうです。

そう簡単に雲海にお目にかかれないのでしょうか。

 

 

 

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<4. 第三展望台から竹田城跡 2 >

 

古城山の麓右下にJR竹田駅と寺町通りが見えます。

 

 

 

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< 5.第三展望台から寺町通り  >

 

麓のJR竹田駅と寺町通りです。

 

 

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< 6. 第三展望台から竹田城跡 3 >

 

 

 

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< 7. 第三展望台から竹田城跡 4 >

 

 

竹田城について

15世紀、応仁の乱で西軍の総大将であった山名宗全が、この山頂に城を築かせた。

戦国時代は太田氏が城主となり、播磨(瀬戸内海側)と但馬(日本海側)の国境を守る拠点となった。

織田軍の播磨攻めの折、1577年、羽柴秀吉により落城した。

最後の城主赤松氏が石積みの城郭を整備し、今に至っている。

 

 

 

 

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< 8.表米神社の下 >

 

ここは寺町通りの端になります。

山頂に石垣が見えます。

右下に表米神社への階段があり、そこから山頂まで登ることが出来ます。

 

 

 

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< 9.JR竹田駅 >

 

ちょうど電車が入って来ました。

南側を見ています。

 

 

 

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< 10. プラットホームから寺町通り >

 

寺町通りにはお寺が幾つも並んでおり、紅葉が美しかった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 3: 高源寺


 

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今日は、紅葉で知られた高源寺を紹介します。

 

 

高源寺について

場所は丹波市青垣町にある臨済宗のお寺です。

山裾から山の斜面にかけて多くの仏閣が建てられている。

創建は14世紀ですが、戦国時代に焼失し、江戸時代に復興された。

 

 

 

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< 2. 高源寺の参道 >

 

 

 

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< 3. 惣門 >

 

上の写真: 惣門、最初の門。

 

下の写真: 惣門を入って右側の庭。

 

 

 

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< 4. 山門に向かう階段 >

 

 

 

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< 5. 山門 >

 

上の写真: 山門。

 

下の写真: 山門前から振り返る。

 

 

 

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< 6. 石碑 >

 

 

 

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< 7. 心字の池 >

 

奥の石垣の上から一筋の滝が流れ落ち、手前の「心字の池」に注いでいます。

 

 

 

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< 8. 方丈と鐘楼 >

 

下の写真: 方丈と鐘楼。

 

 

 

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< 9. 多宝塔 >

 

 

 

 

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< 10. 黄葉と紅葉 >

 

 

残念ながら、紅葉のピークは過ぎていました。

おそらく1週間前頃がピークだったのでしょう。

いつかまた来たいものです。

 

 

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 2: 銀山湖から黒川渓谷へ


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今日は、銀山湖から黒川渓谷を紹介します。

 

 

 

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< 2.播但連絡有料道路 >

 

上の写真: 市川サービスエリアからの眺め。

下の写真: 播但連絡有料道路を走行中、フロントガラス越しの眺め。

 

 

 

 

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< 3. 銀山湖 1 >

 

霧雨が時折降る天気でしたが、雲がたなびく山々と紅葉が湖面に映えていました。

 

 

 

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< 4. 銀山湖 2 >

 

 

 

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< 5. 銀山湖 3 >

 

 

 

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< 6. 黒川渓谷、下流側を望む >

 

この場所がこの渓谷で紅葉が最も美しい所かどうかはわかりませんが、紅葉の盛りは過ぎていました。

川に沿って429号線が走っていたここで撮影しました。

銀山湖と黒川渓谷は標高400mを越えています。

 

 

 

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< 7. 黒川渓谷、上流側を望む  >

 

 

 

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< 8. 429号線を下って青垣を目指す  >

 

この道は急な下りが続き、かつ道幅が狭く、対抗車が来たらお手上げです。

それでも杉の森と笹の緑と紅葉が雨に濡れて鮮やかで、深山幽谷を堪能しました。

 

 

 

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< 9. 鹿野馬神社 >

 

目的の高源寺手前で偶然見つけた紅葉の美しい神社を見つけました。

 

 

 

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< 10. 鹿野馬神社の前から  >

 

上の写真: 今下って来た山側を振り返る。

下の写真: 神社の前に架かる橋の上から河岸のもみじを写す。

 

 

次回に続きます。

 

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蟹と紅葉を楽しみました 1: はじめに


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私は、2016年11月20と21日に丹波と但馬地方を訪れました。

あいにくの曇りでしたが、蟹と紅葉を楽しんで来ました。

今日は、概要を紹介します。

 

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< 2. ドライヴルート、上が北 >

 

青線が20日、赤線が21日の走行ルートです。

  • B、C、D、Eは主な訪問地です。

 

 

 

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< 3. A、銀山湖 >

 

 

 

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< 4. B、鹿野馬神社 >

 

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< 5. B、高源寺 >

 

 

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< 6. C、浜坂海岸 >

 

 

 

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< 7.ズワイガニ >

 

上の写真: C、浜坂漁港の水産物販売店の蟹。

下の写真: D、湯村温泉「とみや」の蟹料理。

 

 

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< 8. D、旅館の部屋から >

 

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< 9. E、立雲峡からの竹田城跡遠景 >

 

中央の山頂に城の石垣が見える。

 

 

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< 10. JR竹田駅 >

 

上の写真: E、JR竹田駅。

下の写真: 道の駅あさごの周辺。

 

 

次回に続きます。

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 9: サンクトペテルブルグ 3


 

 

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< 1.聖イサク大聖堂 >

 

今日は、エルミタージュ美術館を退出してから、郊外のピュートル大帝夏の宮殿に到着するまでを紹介します。

これでサンクトぺテルブルグ市街とはお別れです。

 

 

 

 

 

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< 2.地図、すべて上が北です >

 

上の写真: 今回のサンクトぺテルブルグの観光ルート。

黄色の線は観光バスのルートで、赤丸が下車した観光地です。

A-Fは写真のおおよその撮影地点です。

 

下の地図: 右赤丸はサンクトぺテルブルグ観光地、左赤丸はピュートル大帝夏の宮殿(ぺテルゴーフ)を示します。

イサン聖堂からピュートル大帝夏の宮殿までの道のりは約30kmですが、バスは1時間半弱かかりました。

Gは途中に見た大きな団地です。

 

 

 

 

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< 3.ネヴァ川沿いを行く >

 

上の写真: エミルタージュ美術館を出て間もなく見た対岸の宮殿らしい建物。

二枚共、ネヴァ川沿いのAから撮影した。

 

中央の写真: 川沿いに何隻もの軍艦が停泊していた。

 

下の写真: ネヴァ川を離れ、左に曲がってから見えた川。

 

 

 

 

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< 4. 昼食のレストラン >

 

中央の写真: 昼食のレストラン。

ここでロシア料理のペリメニ(茹でた餃子風)を食べた。

今回のツアーの昼食と夕食は、すべてその地方の料理が出ました。

皆が美味しいというわけではないが、変わった食感や風味を楽しめました。

私はアルコールはビールしか飲みませんでしたが、地方それぞれの味を楽しみました。

これら料理は私の好奇心を充分満足させてくれました。

 

今回、特にニシン料理の美味しさが印象に残っています、30年以上前、北欧を訪れた時のニシン料理には辟易していたので。

残念ながら今回の旅行では、料理の写真は撮りませんでした。

 

 

 

 

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< 5. モイカ川沿いを行く  >

 

上の写真: サンクトペテルブルク音楽院オペラ・バレエ劇場。

地図のB辺りから撮影。

右隣には、由緒あるマリインスキー劇場がある。

 

中央の写真: モイカ川の奥に聖イサク大聖堂が見える。

地図のB辺の橋の上から撮影。

 

下の写真: ユスポフ宮殿の正面。

帝政末期、暗躍した怪僧ラスプーチンが暗殺された場所。

地図のCの前から対岸を撮影。

 

 

 

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< 6. イサク広場 >

 

上の写真: モイカ川を走る遊覧船か。

地図のCの後から対岸を撮影。

 

 

下の写真: イサク広場のニコライ1世の馬上像。

 

 

 

 

 

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< 7.聖イサク大聖堂 >

 

上の写真: 聖イサク大聖堂。

帝政ロシアのシンボルとして1858年に建てられた。

 

下の写真: 聖イサク大聖堂前のイサク広場の木立の下に多くの鳥を見た。

 

 

 

 

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< 8.市街とお別れ >

 

上2枚の写真: バスから見た市内の人々。

下の写真: 木々が黄葉し始めていた。

 

 

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< 9.途中の非常に大きな団地 1 >

 

以下6枚の写真は地図のG点を中心とする赤線の範囲から撮影。

 

この団地の大きさは東西約9km、南北4kmで、サンクトペテルブルク市街に隣接する形で、察するに計画的に建設されたようです。

 

下の写真: この正面の道を4kmほど行くとバルト海で、そこまで団地は続いている。

モスクワも同じでしたが、市民の住居、アパートはこのように画一された味気ない古い建物が多いようです。

それでもスペースに余裕があり、緑も多い。

 

 

 

10

< 10.途中の非常に大きな団地 2 >

 

中央の写真: 見かけた電車は新しいものもあるが、多くは古い。

 

下の写真: 集約されたショッピングエリアが見える。

 

 

 

11

< 11.ピュートル大帝夏の宮殿に近づく >

 

下の写真: この道でバスを降りて、徒歩で宮殿に向かう。

ここに来ると、街路樹の黄葉は見頃に近いようでした。

 

 

次回は、ピュートル大帝夏の宮殿の絶景を紹介します。

 

 

 

Categories: culture+society, 連載中: ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅, <japanese language, travel+photo | Tags: , , , | Leave a comment

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