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何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛


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*1

 

 

今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。

共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。

なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。

 

 

浜田先生のお言葉

この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

 

僭越ながら抜粋要約します。

 

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。

つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。

これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。

この点、タカ派の安部首相が最適です。

 

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。

さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。

この二人もタカ派(共和党)でした。

 

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。

しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。

 

 

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「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ

これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。

しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

 

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。

例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。

とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

 

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

 

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

 

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。

人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。

「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

 

・・・

これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。

つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。

 

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?

まったく正反対の解釈に思えます。

おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。

この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。

この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。

 

 

多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。

単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

 

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。

経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。

実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。

これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。

是非とも精進して欲しいものです。

 

 

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事実は奇なり

浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

 

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

 

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。

よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。

基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。

それ以上に進むこともありますが。

詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。

残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

 

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。

これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。

 

 

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< 4. トラッキング・ゲームの図 >

 

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。

曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。

但し、相談は出来ません。

 

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。

しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

 

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。

これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。

 

 

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浜田先生の歴史観のおもしろさ

彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。

確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。

つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

 

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。

しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

 

レーガンが大統領になったのは1981年でした。

一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。

また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

 

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。

大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.

また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。

 

 

1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

 

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。

この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。

周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。

また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

 

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。

要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

 

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。

もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?

一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。

 

 

最後に

せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。

興覚めです。

諦めないで、また初めから読むつもりですが。

 

 

 

 

注釈1.

二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

 

注釈2.

1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。

そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

 

注釈3.

動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。

このジャンルの本を推奨します。

「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。

「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。

「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。

「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

 

注釈4.

創元社刊「世界の歴史10」J.M.ロバーツ著。

p186~188に、似たような記載があります。

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 57: when religions were born 5: Confucianism


中東に平和を! 57: 宗教が誕生する時 5: 儒教

 

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<1. Confucius>
< 1. 孔子 >

This time, I investigate the birth of Confucianism.

今回は儒教の誕生を追います。

 

The times when Confucius was born
A first Chinese dynasty was born in the 17th century B.C., but it was divided in approximately 200 countries since the 8th century B.C., and the unification of a country was completed after wars for 500 years.
Since the middle period, the farming had advanced by ironware and the trade had developed, and many city states grew up.
At that time, the wars among nations and the internal trouble of royal families continued, and it occurred frequently that a person of lower rank overthrew a superior either politically or militarily, and then supplanted the superior’s position in society.
On the other hand, the royalty and the aristocracy employed a talented and wise person than a blood relative and tried to get predominance .
Under such circumstances, various thinker groups “The Various Masters of the 100 Schools” having an independent opinion were born.
Most of them serve the royalty and the aristocracy, and proposed a policy and an stratagem.
The Confucius was born in such situation in China in the sixth century B.C.

 
孔子が生まれた時代
中国の最初の王朝は黄河中流域に紀元前17世紀に生まれていたが、紀元前8世紀には二百カ国ほどに分裂し、五百年間の戦争を経て統一に至る。
この中期頃から、鉄器による農耕と交易が進み、都市国家は成長していった。
国家間の戦争と王家の内紛は絶えることなく、下位の者が上位の者を脅かす下剋上がはびこっていた。
一方で、王侯貴族は血縁よりも才能や知恵ある者を採用し強勢を計るようになった。
こうした中、独自の主張を持つ多様な思想家集団「諸子百家」が生まれた。
彼らの多くは王侯貴族に仕官し政策や術策を提言した。
このような紀元前6世紀に孔子は生まれた。

 

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< 2. The Confucius traveling on foot >
< 2. 孔子の遊説行脚 >

The act of the Confucius
He worked his way through school, served a historic state ”Lu”and became a prime minister.
However, he was balked of his hope and opened a private school to common people.
After that, he visited states in each places with disciples, preached his ideal politics, and requested to get into the government service.
After all, he couldn’t realize his dream, came back to his hometown, and devoted myself to organize old documents that had been handed down to the state, and to educate people.

 
孔子の行い
孔子は苦学して由緒ある王家(魯)に仕え、宰相まで登りつめた。
しかし、彼は夢破れ職を辞し、民衆相手に私塾を開いた。
その後、弟子達と共に各地の王家を訪ね、理想の政治を説いて回り、仕官を願った。
結局、夢叶わず故郷に戻り、王家に伝わる古文献の整理と教育に専念した。

 
Afterwards
After the death of Confucius, his teaching was spread out by disciples, it was as popular to common people as Bokka at that time.
Bokka advocated a love of humanity, pacifism, faith, and a simplification of rites
, and conflicted with a scholar of Confucianism, after that it was ruined.
The Confucianism became the state religion of the Han empire in the second century B.C., and existed as an indispensable for the most of governments afterwards.
It was introduced into Korean Peninsula and Japan before long, and the Confucianism took root in the East Asia as morality to keeping social order.
Sacred books of Confucianism(the Four Books and Five Classics of Confucianism) consisted about old documents on the history and formality of the states that Confucius imitated.
“The Analects of Confucius” is one of the sacred books, and is a book that his disciples wrote down the words and acts of Confucius in.
Mental attitude and how to get along in life are written in the book.

 
その後
孔子の死後、その教えは弟子達によって広まり、民衆の人気を墨家と二分した。
墨家は人類愛、戦争反対、信心、祭儀の簡素化を訴え儒家と対立し、後に滅んだ。

紀元前2世紀、儒教は漢帝国の国教となり、その後も国政に不可欠なものとして存続した。
やがて朝鮮半島や日本に伝わり、儒教は東アジアに社会秩序をもたらす道徳として定着した。

儒教の経典(四書五経)は孔子が模範とした王家の歴史や儀礼や易(占い)の古文献が集められたものです。
論語ものその一つで、弟子達が孔子の問答や言行を記したものです。
そこには心構えや処世術が書かれている。

 

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< 3. a Confucian temple >
< 3. 孔子廟 >

Thought of the Confucius
He thought policymakers must become better to end the turbulent age.
Therefore, he said it was important that the policymaker doesn’t depend on strict penalty and machinations, treats people with a good heart, and must be worshiped by people.
He thought that the model for this is a dynasty ” Zhou ” approximately 500 years ago.

The basics are “Ren” and “Li”.
“Ren” means benevolence or humaneness, and then it was necessary that policymakers seek after virtue and common people have morals.
“Li” means formality or rites, and then it aimed at the succession of the social order (patriarchy, ancestor worship).

He reproved that disciples depended on God, on the other hand, he thought succeeding to the rites make sense.
He didn’t deny royal politics, avoided religious things, advocated the revival of traditional mind and norm daringly in the turbulent age.

 
孔子の思想
彼は、この戦乱の世を終わらせるには為政者が良くならなければならないと考えた。
その為には、為政者は厳格な罰則や謀略に頼るのではなく、善良な心で民に接し、民から敬われることが重要とした。
その手本は、五百年ほど前の周王朝にあるとした。

基本は「仁」と「礼」です。
「仁」とは、自己抑制と思いやりを指し、為政者には「徳」、民には「道徳」を求めた。
「礼」とは、礼儀や祭儀を指し、社会秩序(家父長制、祖先崇拝)の継承を目指した。

彼は、弟子に神を頼ることをたしなめたが、一方で、祭儀を守ることは天の意志に叶うとした。
彼は王家を否定せず、宗教的なものを避け、戦乱の世に敢えて伝統的な精神と規範の復活を訴えた。

 

Point of the Confucianism
Confucius disfavored the politics that puts emphasis on law of punishment and reward, and put emphasis on conscience.
On the other hand, he thought that policymaker (king) with virtue was indispensable for good politics.
This thought was not accepted in the times of the war, but the situation changed when a unified country appeared.
In other words, the doctrine that taught people to have to obey morality, succession of social order, and politics (King), administered to national stability rightly.

This continues the next time.

 
儒教のポイント
孔子は、人々を功利的にさせる法重視(信賞必罰)の政治を嫌い、良心を重視した。
一方で、良い政治には徳を持った王こそが不可欠と考えた。
この考えは、戦乱の時代には受け入れられなかったが、統一国家が出現すると状況は変わった。
つまり、人々に道徳や社会秩序の継承、政治(王)に従うべきと説く教義は、国家の安定にまさに合致するものでした。

 
次回に続く。

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Bring peace to the Middle East! 15: Seeing the Middle East and Arab world in films 8: Refugee issue 1


 

中東に平和を! 15: 映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 1

 

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I consider refugee issue in twice from now on.

We look at various migrations at first.

 

これから2回に分けて、難民問題を考察します。

はじめに様々な移住について見ます。

 

 

History of human migrations (Note 1)

Our Homo sapiens spread throughout this earth along with migrating for hundred thousands years from the birth.

Most of great transmigration of race was caused by each climate change, it arose on several occasions, and the migration spread like playing billiard. (Note 2)

In ancient times, an Assyrian and a Greek emigrated far and wide to enlarge their commercial domain. (Note 3)

In the middle Ages, a German actively colonized Eastern Europe.

By these results, our ancestors had many parents of different ethnic groups all over the world, and these traces remain in our gene.

This is shown in figure 2.

 

European 60 million people left the mother country and emigrated between the 19th and the 20th century.

In Japan, 3,200,000 people except soldier returned home by this defeat from the emigration area.

About million people emigrated all over the world in 2005.

 

 

移住の歴史 注釈1.

新人類は誕生から十数万年かけて移住しながら地球全域に拡散しました。

多くは気候変動によって、幾たびも民族の大移動が起き、玉突きの如く移住は広がりました。注釈2.

古代、アッシリア人やギリシャ人は商圏を広げる為に遠くまで移住しました。注釈3.

中世、ドイツ人は盛んに東欧に植民しました。

これらの結果、私達の祖先は世界中で混血し、その痕跡が私達の遺伝子に残っています。

それを図2に示します。

 

19世紀から20世紀にかけて、欧州から6000万人が母国を離れ移住した。

日本では敗戦によって軍人を除く320万人が移住先から帰国した。

2005年には2億近い人達が世界中で移民を行った。

 

 

2

< 2. Human migrations and Japanese race >

< 2. 人類の移動と日本民族 >

Upper map: a history of human migrations supposed by genes.

The numerical values indicate how many years ago.

 

Lower map: we are able to understand the roots of Japanese people by our genetic variation.

The blue line shows current Japanese people, and others show an African or a European.

During this 150 thousands years, Japanese ancestors had many parents of different ethnic groups all over the world, and came in the Japanese Archipelago on several occasions.

Because Japan of an island is so, people of the world are of more mixed parentage.

 

上の地図: 遺伝子から推測した人類移動史。

数値は何年前を示す。

 

下の地図: 遺伝子の変異からわかる日本人のルーツ。

青線が現在の日本人を、他はアフリカ人かヨーロッパ人を示す。

過去15万年の間に、日本人の祖先は世界各地で他の人種と幾度も枝分かれし、日本列島にやって来た。

島国の日本でこうですから、世界中の人々はもっと混血していることになります。

 

 

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< 3. emigrants reached New York >

< 3. ニューヨークに着いた移民 >

 

 

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< 4. how America’s source of immigrants has changed over time between 1850-2013 >

< 4. 各州で最大を占めるアメリカ移民の母国、1850~2013年の間の変遷 >

その構成は年々変化している。

 

What the migration brings

Immigrant was indispensable for the development of the United States, and approximately 70 million people entered this country in the past two centuries.

President Kennedy who was a grandchild of immigrant spoke it in this way.

“…. The society of imigrants who began the new life. … The country of people having courage to investigate new frontier. …. This is the secret of the United States’s success.”

 

Merchants of overseas Chinese, an Arab, an Indian, and a Jew jumped to the world and played an active part.

In ante-Christum, Propagation would have been late if a Jew hadn’t translated the Bible into Greek in Alexandria. (Note 4)

In the middle ages, the Renaissance might not have blossomed in Europe if there weren’t a Christian that escaped in Baghdad, and an Arab in Toledo.   (Note 5)

How would this society and culture of Japan have turned out if immigrants never have come to this island from beyond the sea?

 

In the 19th century, France having been hurt for labor shortage accepted quickly immigrants from the neighboring countries, and also did it from Algeria in early the 20th century.

The ratio of foreigners in the total population of France was 1% of 1851 and 6% of 2006.

Europe and America accepted many emigrant laborers positively to make up for the population decline due to the drop of the birth rate, and enabled economic growth.

Each country needed the immigrant who could receive dangerous, dirty, and difficult jobs at a low price.

EU that aimed for an ideal confederation of states wanted to cancel the economic disparity of each country, and person and capital could move freely within the region.

 

The motives of migrations are to escape from war, famine, or persecution, and for trade or working.

This doesn’t disappear from the world in the least.

There would not be the present world if migrations were not possible at all.

 

This continues next time.

 

 

移住がもたらすもの

アメリカの発展に移民は不可欠で、過去2世紀で約7000万人が入国した。

移民の孫だったケネディ大統領は、こう述べている。

「・・新しい人生を始めた移民の社会。・・新たなフロンティアを探る勇気を持った人たちの国… それがアメリカの成功の秘密である」

 

華僑(中国人)やアラブ、インド、ユダヤの商人が世界に飛び出して活躍した。

もし紀元前にユダヤ人がアレクサンドリアで聖書をギリシャ語に翻訳していなければ、布教は遅れたことだろう。注釈4.

もし中世に逃れて来たキリスト教徒がバクダードで、またアラブ人がトレドにいなければヨーロッパでルネサンスは開花しなかったかもしれない。注釈5.

もし、海外からこの列島に移住者(渡来者)が来なければ、日本の社会や文化はどうなっていただろうか。

 

19世紀、労働者不足に窮したフランスはいち早く近隣諸国から、また20世紀初頭にはアルジェリアからの移民を受け入れた。

フランスの総人口における外国人の割合は1851年の1%から2006年の6%になった。

欧米は出生率の低下による人口減少を補う為に、労働移民を積極的に受け入れ、経済成長を可能にした。

各国は汚い、危険、過酷な労働を安く請けてくれる移民を必要とした。

理想の国家連合を目指したEUは人や資本が自由に移動出来ることで、各国の経済格差を解消しようとした。

 

移住の動機は飢饉や戦争、迫害から逃れる為、また貿易や就労の為などで、これが世界から無くなることはない。

もし移住がまったく出来なかったら、今の世界はなかったでしょう。

 

次回に続きます。

 

 

注釈1: 人々の移動を指す用語には移住、移民、難民、殖民、居留民などがあり、少しずつ意味が異なりますが、最も広い意味を持つ移住を使います。

 

注釈2: 有名なのはアーリア人やゲルマン人の民族移動などです。

また約6000年前、オーストロネシア人は東南アジアから太平洋諸島へカヌーによって移住しました。

これは中国南部の人々が北方から押し出される形で起きたと考えられます。

 

注釈3: 少し時代は下りますが、華僑(中国人)や倭寇(日本人)は主に商業や貿易が目的で移住しました。

 

注釈4: 当時、貿易都市アレクサンドリアには多くの外国商人がおり、ギリシャ語が普及していました。

ヨーロッパへの布教にはギリシャ語聖書が必要だったのです。

 

注釈5: ルネサンスが始まったのは古代ギリシャの文献が、中東アラブからスペインやイタリアを通じてヨーロッパに紹介されたのが切っ掛けでした。

古代ギリシャの文献はイラクのバクダードでギリシャ語からアラビア語に訳され保存されていた。

スペインのトレドではアラビア語からラテン語に翻訳されました。

 

 

 

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桂林を訪れました 15: 最後に


 

 1

< 1. 少数民族雑伎ショー >

 

今日で、この旅行記を終えます。

書き残したことや雑感を記します。

 

 

2あ

< 2. これまでの記事の巻頭写真 1 >

 

この桂林旅行は2015年9月初旬に3泊4日で訪れたものです。

予想通りに天候に恵まれ、漓江下りと龍背棚田の景色を堪能しました。

また大墟古鎮やヤオ族の村の見学は短い時間ではあったが楽しめました。

 

3

< 3. これまでの記事の巻頭写真 2 >

 

少し残念なことは、ヤオ族の風習や宗教などに触れる時間がなかったことです。

それでも得るものはありました。

しかし、思わぬ拾いものが別でありました。

それは下の写真です。

 

 

4

< 4. 花山岩画 >

 

これは中国が2015年に世界遺産登録を申請したものです。

私達が穿山岩の鍾乳洞を見学していると偶然、この展示ポスターを見つけました。

これはこの広西省にあって、約2千年前にチワン族の祖先によって岩に描かれた絵でした。

この人物像のデザインは他の大陸では1万年前に遡ることがあります。

中国にはこの手の古い岩絵が少ないので、何だか嬉しくなりました。

 

 

 

5あ

< 5. 桂林 1 >

 

中国の奥地にあって、開発が遅れていると思っていたのですが、そうではなかった。

田園地帯に行っても建設中の家屋や、郊外にも高層マンションが林立していました。

郊外に産業団地があるのですが、研究所や公害を出さない事業体が誘致されていた。

町中を走っている車やバイクはほとんど電動車だそうです、公害防止の為に。

都市部を少し離れるとそこら中、砂埃をあげて道路工事やビルの建設中でした。

 

 

6

< 6. 桂林 2 >

 

私達夫婦は毎朝晩、町中を歩き回りましたが、危険や不安を感じることはなかった。

二軒の本屋の店員も、夜、道に迷って宝石店の店員に道を尋ねても、皆丁寧に対応してくれた。

残念ながら言葉は通じなかったが。

 

少数民族の雑伎ショーには私の期待していた少数民族の風習や暮らしを紹介するものはなかった。

それでも巻頭写真にあるような男女の掛け合いの歌は、山岳民族に最近まで続いていた「歌垣」を思わせるものがあった。

この歌による求婚方式は、日本では奈良時代で消えてしまった。

 

ここでは観光業に力を入れることにより、少数民族は肩身の狭い思いをすることなく暮らしているように思えた。

ただ観光化が進みすぎて、保存すべきものが失われているのが残念です。

 

 

最後に

私は中国の訪問が7回目ですが、20年ほど前に比べて中国は力強く発展を続け、人々の振る舞いも変わってきているように思う。

経済格差、古いものと現代的なもの、汚いものと洗練されたもの、ごった煮の状況は変わらないが。

 

やっと念願の奥地の桂林を訪問し、満足して去ることが出来ました。

皆さん、お読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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桂林を訪れました 13: 龍脊棚田 3


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今日は、ヤオ族の村を歩きます。

 

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< 2. 村を行く >

 

私たちは民家を抜けて、もっと上にある村を目指して歩き始めた。

ここに掲載している写真は12:24から12:39に撮影したものです。

 

 

3

< 3. 村の門 >

 

多くの民家が集合しているが、上下で村が幾つかに分かれている。

これは、これから登っていく村の門で、風水にかなっているそうです。

この門は清時代の1883年に、繁栄と魔除を願って村人300人が運んで来て造ったものです。

扉の左の武将の胸に陰陽を表す太極図が彫られている。

私は、念願の道教との関連物をやっと見つけることが出来た。

 

 

4 (2)

<4.橋の風情 >

 

村人の写真は、ガイドさんが相手に了解をとってから撮影しています。

昼の休憩で、村人が談笑しているのでしょうか。

近くのトン族は橋を共有の建物として壮麗に作るが、ここでも屋根付の憩いの場として使っていた。

 

 

5

< 5. 人々 >

 

この写真以外にも見かけたのですが、昼でも多くの女性は共同で働いていた。

頭のタオルはヤオ族の習俗のようです。

ここでも高齢化が進んでいる。

 

 

6

< 6. 暮らし >

 

石の門扉のあった村の最上部に来ました。

上の写真: 村の中央を流れる川の上流に共同の洗い場が見えます。

その川の下流では数羽の鶏が、村人の流した残飯などをついばんでいる。

 

下の写真: 洗い場です。

ちょうど二人の女性が洗濯をしている。

右の屋根は杵つき小屋です。

 

7

< 7. 村の利器 >

上の写真: 洗い場。

右側に竜の形をした流水口が見える。

 

左下の写真: 杵つき小屋。

杵の後ろの容器に流水が溜まると杵が跳ね上がり上下運動を繰り返す。

昔はここで穀物を粉砕していたが、今は使っていない。

右下の写真: 民家の床下の水車。

 

 

次回は、ヤオ族の村の最後の紹介です。

 

 

 

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桂林を訪れました 12: 龍脊棚田 2


 1

< 1. 昼食を取った食堂 >

 

今日は、棚田を抜けてヤオ族の村まで行きます。

 

 2

< 2. 駐車場から村に向かって >

駐車場から村まで約1kmの平坦な道を歩きます。

 

上の写真: 行き先は道の上側の村です。

中央の写真: 頂上を望む。

下の写真: 下を見ている。

稲穂はまだ黄金色になっていませんでした。

また稲穂の背が日本種より低いように思いました。

 

3

 

< 3. 道の途中 >

上の写真: 来た道を振り返っている。

道のかなたに建物が見えるのは駐車場です。

 

下の写真: 駐車場近くの道端で土産品を売っている。

 

4

< 4. 村が見えて来ました >

一番手前の建物で昼食をとりました。

 

5

< 5. 途中の景観2 >

上の写真: 急峻な下りの道。

これでは農耕作業はきついでしょうね。

中央の写真: 小川。

特に灌漑用の水路がなく、この小川で代用しているのでしょう。

 

6

< 6. 昼食 >

食堂は非常に綺麗な作りで見晴らしも良かった。

非常に観光化が進んでいる。

出されたのは素朴な料理でしたが、私達の舌には合っていた。

特に珍しいものはなかった。

 

私が、「鳥の骨を棄てる器を下さい」と言うと、「下の犬にやって下さい」と言われた。

ここでは昔から家畜とこのように共生している。

 

 

7

< 7. ヤオ族の民族衣装。Wikipediaより >

 

瑶(ヤオ)族について

彼らは中国長江以南、ここ広西チワン族自治区や雲南等から東南アジアのベトナム,ラオス,タイなどの山岳地帯にかけて広く分布している。

この村のよう分散しながら、中国だけで約214万人(1990)が暮らしている。

言語的にはミヤオ(苗)族に近い。

彼らは本来無文字であるが,中国文化と古くから接触していたために漢字が受容された。

元・明時代に、漢民族の進出により南下した。

中国王朝の統治政策としばしば対立し,特に明代中期以降大規模な反乱が各地で発生した。

彼ら独特の神話に、古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とする伝承があり、これが史記に取り入れられ後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。

ヤオ族は山間部において焼畑耕作に従事して陸稲やトウモロコシなどを作って移動していたが,現在は梯田耕作や水田耕作,あるいは林業などを行い定住的な村落社会を形成している集団もある。

宗教は基本的にはアニミズムであるが,道教の影響が顕著にみられる。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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桂林を訪れました 11: 龍脊棚田 1


   1    

< 1. 龍脊棚田 >

 

これから、桂林の山岳部にある少数民族の村を紹介します。

ここには美しい棚田と少数民族の暮らしがあります。

今日は、桂林から村までの道筋を紹介します。

 

日程の概要

訪問したのは2015年9月18日で、平野部は薄曇りでしたが、山は雲で覆われ一時霧雨が降りました。

それでも十分に自然と村を堪能することが出来ました。

ホテルを8:00に出発し、バスを降り散策を始めたのは11:20から、村で昼食を取り、バスで帰路に着いたのは13:45でした。

 

 

2

< 2. 龍背の地図 >

両写真共に上側は北側です。

上の地図: 桂林中心部から目的の村(龍脊古壮寨棚田)までの道筋。

赤丸が桂林、黄丸が村、黄矢印が道筋です。

桂林から龍脊の旅客中心(写真5)まで約80kmです。

白枠が下の地図の範囲。

 

下の地図: 赤丸が龍脊の旅客中心、青丸が龍脊古壮寨の駐車場、黄楕円が目的の村です。

村は山の急斜面にあり、標高670から920mの間で上下に伸びている。

その山頂は標高1200から1400mあり、旅客中心は標高300mの谷底にある。

 

 

龍脊について

この桂林が属する広西チワン族自治区は、名前の示す通りチワン族をはじめ十数以上の民族が漢族と共に暮らしています。

これら少数民族はかつて南下して来て山岳部に暮らすようになった。

現在は各地に定住し、また平野部に暮らす人々も増えています。

龍脊はその山岳部の定住地の一つで、私たちが訪問するのはヤオ族の村の一つです。

この龍脊にはトン族などの異なる民族が周辺に多くの村で暮らしています。

 

ヤオ族は元来、焼畑と狩猟を行っていた民族で、他の山岳民族もそうですがかつては国境を越えて移動していました。

現在は、定住政策により稲作農耕を行っており、それが美しい棚田の景観を生んでいます。

 

私は中国南方の少数民族の村を訪れるのが楽しみでした。

かつて福建省の山岳部にある客家土楼を訪れて、強い絆で結ばれ、昔ながらの素朴な暮らしをしている人々に感銘を受けました。

 

たった数時間の訪問でしたが、彼らの暮らしぶりを紹介したいと思います。

 

 

3

< 3.桂林から山岳部に入る手前まで、バスから撮影 >

 

4

< 4. 徐々に山岳部に入って来ました、バスから撮影 >

 

5

< 5. 龍脊の旅客中心 >

 

ここで一旦バスを降りて、このセンターで入場手続きをします。

そして各自目的の村まで専用のバスに乗り換えて行きます。

 

6

< 6. 専用のバスで急峻な山を登って行きます >

下から二番目の写真: 中央の棚に果物の実が沢山生っていました。

一番下の写真: 龍脊古壮寨棚田の駐車場です。

ここから村まで約1km徒歩で棚田を抜けて行きます。

 

7

< 7.棚田 >

上の写真: 右手に目的の村が見えます。

左から伸びる人波は村を目指す人々です。

 

中央の写真: 村の全景です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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桂林を訪れました 10: 陽朔と月亮山


1

< 1. 西街 >

 

今日は、漓江下りの下船地、陽朔と近くの観光地を紹介します。

 

 

 2

< 2. 下船地の陽朔 >

 

遊覧船を下りて石造りの「陽朔」の門を目指す。

ここを抜けると、直ぐ西町のショッピング街が始まる。

 

 

3

< 3. ショッピング街の西街 >

たくさんの人で賑わっていた。

多くは中国系ですが、洋人街と言われるだけあって欧米人も見かけた。

ここは直線の1本道で、距離は500mぐらいです。

 

4

< 4. 西街の店 >

この通りの雰囲気は少し変わっています。

ここには中国の仰々しいか古風な店でもなく、だからと言ってモダンでもなく、種々雑多な小さな店が並んでいます。

果物店や土産物店、民芸品店、飲食店が並んでいます。

私は見るだけでも楽しく、妻は果物を買いました。

 

 

5

< 5. マンゴジュースの店 >

通りの店に入り、冷たいマンゴジュースを飲みました。

暑い日だったので、美味しかった。

壁一杯に願い事を書いたメモが貼ってあるようでした。

 

 

 

 

6

< 6. 高田郷と月亮山 >

上の写真: 多くの人が筏で遊覧の楽しんでいる高田郷。

ここはバスで通り抜けるだけでした。

 

下の写真: ぽっかり半月形の穴が空いた月亮山。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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社会と情報 66: 戦った報道 23


 1 本

  • * 1

 

前回、ファシズムを牽引した右翼と軍人の言説を見ました。

今回は、政府首脳が当初から抱いていた大陸感と中国の状況を見ます。

 

 2桂大久保

 

< 2.桂太郎(左)と大隈重信 >

 

 

外征は初めから首脳たちの念頭にあった  

前回見た石原や軍の中堅将校が、なぜ焦ってまで満蒙に火を着けたのだろうか?

その淵源は明治維新の攘夷論まで遡ることも出来るだろうが、ある時期から政府首脳の言説に明確に現れ始めた。

 

日清戦争後の1896年、桂太郎台湾総督(長州閥、陸軍軍人、後に首相)の提出した「台湾統治意見書」より。

「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国内部に日本の利益権を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」

 

日露戦争後の1906年、政界で活躍していた大隈重信(後に首相)の雑誌の特集「戦後経営」への寄稿より。

「日本国民は、これからは航海業、商業、移民業を拡張していかなければならない。商業的に発展していく地域は、東亜から・・南北アメリカである。移民を待ち受けている地域は、人口希薄な南北アメリカ、・・・、満州である。・・日本は戦勝の結果として得た満州における利益を基礎として、大陸に向かって経済的に発展していくべきである」

 

二つの戦争を勝利してロシアへの脅威が薄れ、また多大な犠牲を払ったことも加わり、首脳達は台湾や満州を手始めに拡大策を公然と訴えるようになっていた。

 

しかしこれは大きな危険を孕んでいた。

大陸侵攻が拡大すれば、中国やソ連、さらには欧米列強を次々と敵に回すことになる。

そうなれば日本の国力では太刀打ち出来ないことは国防戦略の立案者には明らかだった。

一方で、最強の複数国と戦うにはアジアの資源と商圏も絶対必要だった。

そこで軍の戦略立案者はある制約条件「最大の敵は攻めてこない」と「敵一国だけとの短期決戦」を設けざるを得ず、他は想定外とした。

さらにまずい事に薩長閥以来の遺恨が続く陸軍と海軍で敵国(ソ連か米)の想定が異なった。

こうして軍首脳は現実に目をつむり、勝ちたいとの思いだけで、一貫した戦略なしで右往左往しながら、沼るみに足を取られるように深入りしていった(注釈1)。

 

私が奇異に思うのは、勝つ可能性がゼロに等しく、莫大な消耗をもたらす敗戦に向かっているのに、最高のエリート集団の作戦本部や軍令部から誰一人として疑問の声が上がらなかったことです。

少なくとも国民には国益の為と公言してはばからなかったのですから。

始まった戦争のブレーキ役を軍人に期待出来ないのかもしれないが、これは異常です。

これは今も続く実に日本らしい精神の原風景で原発産業にも見られる組織文化です。

 

 

3 地図

 

< 3. 中国の勢力図 >

解説: 上の地図は日露戦争後の中国、下の地図は1910年代の中国の勢力図。

この勢力の変化は、第一次世界大戦と世界恐慌、民族独立運動によって起こったと言える。

 

当時、中国北部(満蒙)は狙い目だった

軍部はなぜ満蒙を真っ先に狙ったのか?

満州事変が始まる前、1930年前後の世界と中国の状況を確認します。

 

第一次世界大戦と世界恐慌が尾を引き、欧州は国内政策で手一杯、ドイツではヒトラーの大躍進で暗雲が立ち込め始め、欧州勢はあれほど奪い合った中国から手を引いていた。

そこで欧州は日本の満蒙侵略を国連で批難はするが、躍進する共産国家ソ連を東方に釘付けする役割を日本に期待した。

ソ連はまだ革命の混乱が続き、スターリンが体制固めに奔走している時期であり、外には目が向いていなかった。

一方、米国は深刻な経済不況で貿易額を往時の30%に落とし、平和志向に戻り日本との貿易継続を重視した。

 

日本は日露戦争で南満州鉄道を租借した後、満州の軍閥に肩入れし傀儡政権樹立によって世界の批判をかわしながら権益を拡大して来た。

第一次世界大戦以降、青島(山東省、上地図の青塗り部)を手に入れ、対華21カ条要求により中国全土にも権益(商圏)を拡大していた。

 

中国は、1911年の孫文による辛亥革命以降、内戦状態に突入にしていた。

北部(満州)では軍閥が割拠し続けていたが、やがて中央で共産党軍と覇権を争っていた国民党軍が北伐を1926年に開始し、北部の軍閥は日本の手から離れようとした。

そこで関東軍は1928年、傀儡軍閥の張作霖を爆殺した。

こうして、満州事変へと繋がっていった。

 

 

まとめ

軍の中堅将校の思想で一番重要なのは以下の点です。

 

最強の国になることが国を災厄から守ることであり、その為に隣国の莫大な資源と商圏を領有し、自給圏と軍需産業を早急に育成しなければならない。

それは同時に国民の窮状を救うことにもなる。

その為に、少ない損害で勝利を確実にする奇襲や謀略による侵攻を当然と考えた。

この考えは、太平洋戦争にも持ち込まれ、これが逆効果になるとは露ほども考えなかったようです。

彼らは欧米や中国の干渉と反感を抑える為に満州に傀儡政権を立て、国内の反戦気運を削ぐために国民には虚偽報道で戦意を煽ることも忘れなかった。

 

ここに長年の軍事大国化が生んだ弊害を見ることが出来る。

戦争を牽引し、反乱事件を操った当時の陸軍将校はすべて陸大のエリートでした。

満州で謀略を行った板垣、河本、石原らはいずれも1980年代生まれで、日清戦争から日露戦争の間に14歳前後で陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業している。

首相となった東条英機も彼らと同様でしたが、彼の父は軍人(陸軍中将)で、彼は軍人2世でした。

彼らは、小さい時から軍人だけの隔離された学校社会で、また戦争の世界で出世を夢見て来た人々でした。

そう単純ではないが、日本流の組織文化に生きる精神がそうさせたとでも言うべきでしょうか。

軍人としては優れていても、視野狭窄になりやすい。

 

善意に解釈して、憂国の士であった彼らは現状打開の為に先ず戦端を開くことに賭けた。

 

次回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

 

注釈1: 二つの相反する戦略があり、陸軍は対ソ連戦想定で満州以北への「北進」で、海軍は対米戦想定で東南アジアへの「南進」であった。日本の国力から見ればどちらかに限定すべきだったが、両者の対立に折り合いが着かず両論併記で国防方針が決まっていった。常識的に見て、この時点で国力の違いから戦争続行は不可能であり、軍首脳や戦略立案者の脳裏には「破れかぶれ」が去来したことだろう。

 

参考文献

「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.

「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。

「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.

「集英社版日本の歴史19」

「集英社版日本の歴史20」p19~59。

「図説日中戦争」河出書房新社刊。

「図説ソ連の歴史」河出書房新社刊。

「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。

「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

 

 

 

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社会と情報 65: 戦った報道 22


 1 右翼  

< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

 

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。

この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。

この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

 

何がくすぶっていたのか

1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。

前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。

後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ

1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。

これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。

 

2 北

< 2. 北一輝 >

 

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。

彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。

さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。

彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

 

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。

 

 

3 石原

< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

 

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。

これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。

世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。

またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

 

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。

すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。

この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。

この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

 

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。

如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

 

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。

 

 

参考文献

「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.

「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。

「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.

「集英社版日本の歴史19」

「集英社版日本の歴史20」p19~59。

「図説日中戦争」河出書房新社刊。

「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。

「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>

 

 

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社会と情報 64: 戦った報道 21


       1 天津居留地

< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

 

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。

主に満州と中国を中心に見ます。

 

 2 満州地図

< 2. 旧満州国 >

 

はじめに

「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。

前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。

後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。

3 移民2

< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.

日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。

さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。

ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。

敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。

明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。

 4 満州移民

< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。

1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。

彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。

軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。

つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。

さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。

強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。

さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。

こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。

1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。

つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。

資本進出                  文献2.

植民地の民族資本の割合を見る。

1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。

つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。

満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。

しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか

日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。

こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。

また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。

5

< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf >

解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。

図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。

図2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。

(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)

それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.

答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。

そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。

米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。

これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。

また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。

また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。

当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。

こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。

6 企業

< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益

例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。

これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。

実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。

一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。

中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。

撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。

7

< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >

解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ

結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。

ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。

それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。

こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。

一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開

しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。

やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。

それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。

初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。

まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。

文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。

文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.

文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。

 

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社会と情報 63: 戦った報道 20


 1 青島居留民   

< 1.青島の居留地 >

 

記事の投稿順序を間違いましたので、差し替えします。

 

前回、国内の窮状を見ました。

しかし、なぜ国内問題の解決が満州侵攻だったのかが明確ではありません。

今回、その背景を経済的側面から見ます。

 

はじめに

私は、これから大陸侵攻の経済的側面、特に植民地化と産業貿易について見ていきます。

 

ところで、あなたは台湾人が日本の植民地統治をどのように見ていると思いますか?

参考に台湾大学の歴史学科教授のコメントを記します。文献1.

 

「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史過程を経験した。一般的に植民地化は完全にマイナスの経験とされ、近代化と言えば、プラスの評価が強調されることが多い。しかし、・・これは二重奏のようなもので、・・この両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さを理解することは出来ないだろう」

 

2 石原莞爾

< 2. 関東軍参謀の石原莞爾 >

 

満州事変前後の代表的な発言

最初に、当時の人々は1931年の満州事変をどのように捉えていたのかを見ます。

六つの意見を要約しました。

 

A: 1929年、満州事変の首謀者石原莞爾の「満蒙問題解決案」より 文献2.

「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者を救済することが出来る」

 

B: 1931年10月、大企業を中心とした財界4団体の申し合わせより 文献2.

「協同一致排日行為の絶滅、対支懸念および満州問題の根本的解決を期す」

この年の9月の満州事変を受けての反応です。

 

3 新聞

< 3. 1935、36年、上海の抗日運動を報じる新聞 >

 

C: 1931年11月、山形県のある軍人後援会の設立趣意書より 文献2.

「今やわが国は空前の難局に際し、満蒙はおろか全支にわたり武器を採って先陣を進めつつあり、・・本村から出征している軍人は6名の多数に上っているのであります。この我等村民は挙村一致してこれら軍人を後援し・・・億兆一心義勇奉公の誠を表したいと思います」

 

D: 1932年8月、日本中小商工会連盟の決議より 文献2.

「中小商工業者の満州移民進出のために政府は急遽積極的方策を確立すべし」

 

 

E: 1932年6月の第62帝国議会への誓願活動の要約、自治農民協議会による 文献2.

「農家の負債を3カ年据え置くこと。肥料資金として反当たり一円の補助を出すこと。満蒙移住費として5千万円の補助をだすこと。」

 

F: 1937年元旦、貴族院議長近衛文麿(後に首相)の発言記事より 文献3.

「天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友人として開発をなさんとするものである」

この年の7月に日中戦争の戦端を開くことになるが、上記は中国のことを指す。

 

4 開拓

< 4. 満州開拓の夢と現実 >

 

説明

農家や中小企業、大企業、政府を代表し国論を牽引した人々は満州事変を契機にして、移民の増大、現地の排日行為根絶、中国からの干渉阻止、中国の資源開発を訴えた。

そして多くの人が横暴で未熟な現地を軍事で制圧することに賛成した。

 

軍部や政府は大陸の情報を捏造し続けていたので、国民はそうだと思うようになっていた。注釈1.

この態度はFのように近衛の発言にも現れている。

一方、末端の人々はCのように政府や軍に対して従順であった。

実は、Cは在郷軍人会、Dは左翼、Eは右翼が関わっていた。

こうして左翼も右翼もこぞって戦争に足を突っ込んだ。

まだ満州事変の段階では、日本政府は戦線不拡大の方針のはずだったが、既にCの発言には中国侵攻が謳われていた。

 

次回は、具体的に経済的な背景を見ます。

 

 

文献1:「図説台湾の歴史」周著、平凡社刊、p123。

文献2:「集英社版日本の歴史20」p22、27、28、31、77。

文献3:「図説日中戦争」河出書房新社刊、p9。

 

注釈1: 満蒙で起きていた1928年の張作霖爆殺事件、1931年の中村大尉事件、万宝山事件、満州事変などが典型です。

どれも政府、特に軍部が国民に事実を知らせないだけなく、敵意を煽るために情報を捏造していた。

国民が真実を知るのは戦後になってからでした。

 

 

 

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I visited Guilin 9: Historical town Daxuguzhen


桂林を訪れました 9: 大墟古鎮

 

        1 DSC04156 

< 1. The historical townscape >

< 1.大墟古鎮 >

The arched stone bond in the middle is a firewall.

途中にあるアーチ型の石積みは防火壁です。

 

Today, I introduce a historical town of Chinese style.

This town is about 20 km downstream of the central Guilin city and ever prospered in trade.

We visited in 9:20 – 10:20 on Thursday, September 17.

Finally, I introduce an interesting episode.

 

今日は、中国らしい古い街並みを紹介します。

ここは、桂林中心部より漓江を20km下った所にあり、かつて交易で栄えた町です。

9月17日(木曜日)の9:20~10:20に訪れました。

最後に、面白いエピソードを紹介します。

 

 2地図

< 2. Map >

< 2. 地図 >

Upper map: A yellow arrow is Daxuguzhen, and a red arrow indicates upstream side.

Central map: An enlarged map. A red circle is our starting and ending point for sightseeing.

A yellow line is our tour route, and we shuttled on this route of about 400 m.

Lower fig.: A part of an illustrated handscroll that was made from the 10th to 12th century shows the prosperity of a capital city.

Probably, the Daxuguzhen had ever been prosperous with being full of ships, horses and merchants in this way.

 

 

上図:黄色矢印が大墟古鎮で、赤色矢印が上流を示し桂林中心部に至る。

青色矢印が漓江下りの開始点竹江です。

中央図: 大墟古鎮の拡大図。赤丸が観光出発・終了位置。

黄色線が徒歩ルートで、約400mの通りを往復した。

下図:「清明上河図」の一部。中国北宋(10~12世紀)の都開封の賑わいを描いた絵巻物。

おそらく大墟古鎮もかつてはこのように船と馬と商人で賑わっていたのだろう。

 

 

3あ

< 3. A prosperous street >

< 3. 通りの賑わい >

 

Actually, there only were Chinese tourists sparsely.

実は、中国系の観光客がまばらにいる程度でした。

 

4あ

< 4. Temple >

< 4.寺院 >

The Taoism temple had two pillars of dragon carved wonderfully.

An interesting thing is the second-floor porch on the right side.

Person hung a colander from here and exchanged the money and products between the ground in those days.

龍の彫り物が目を惹く道教の寺院です

扉は閉まっていたようです。

面白いのは右側のせり出した2階のベランダです。

当時、ここからざるを吊るして地上と商品とお金のやり取りをしていた。

 

 

5あ

< 5. Historical scenery >

< 5. 他の遺構 >

Upper photo: The arched bridge made of stones is since the 14th – 17th century.

Central photo: A liquor shop. I smelled of the liquor when I looked in the inside.

Lower photo: The house seems to be connected with a cultured person.

 

Many houses seem to be empty house or only old person living in it.

 

上写真: 明時代(14~17世紀)に石で作られたアーチ型の万寿橋です。

中央の写真: 酒屋。中を覗くと酒の匂いがしました。

下の写真: 文人と関係がありそうです。

 

多くの家は空き屋か、年寄りだけが住んでいるようです。

 

 

6あ

< 6. Aspects of the backside of the street on the mountain side >

< 6. 通り(写真1)の山側裏手の様子 >

 

Upper photo: Buildings of the 2nd – 4th floor are the backsides of the houses facing the street.

The frontage of each house is narrow, and several rooms of an earthen floor connect in the back.

Central photo: Harvest by sun drying.

 

上の写真: 2階から4階の建物が、通りに面した家々の裏側です。

それぞれの家は間口が狭く、土間の部屋が何室も奥に続く。

中央の写真: 収穫物の天日干し。

 

 

7

< 7. The backside of the street is Lijiang river >

< 7. 通りの裏は漓江 >

Upper photo: A passage leads to the river from the street.

Central photo: A view of downstream side.

Lower photo: A view of upper stream side.

 

Many ships once had served shipping cargoes here.

 

上の写真: 通りから漓江に出る通路。

中央の写真: 下流を望む。右手対岸の山は島で、地元料理で有名だそうです。

下の写真: 上流を望む。渡しの船が行き来している。

 

かつてはここで多くの船が荷物の積み出しを行っていたのだろう。

 

 

About Daxuguzhen

This place already was a distributing center since the 3rd century B.C.

A waterway linked Pearl River and the Chang Jiang to the north and south, and an East-West land route crosses it here.

About 1100 years ago, this place became one of the 4th major markets of the Guangxi district.

In China, as the phrase “south ship and north horse” indicates, ship and horse met at this place.

 

Now, It is deserted, the state of preservation is not good, but there is good point that is not like a sightseeing spot.

 

大墟古鎮について

ここは紀元前3世紀から既に流通の拠点でした。

水路が南北に珠江と長江を結び、東西の陸路が交わるところでした。

約1100年前、北宋の頃から賑わい始め、明や清の時代には広西地区の四大市場の一つになっていました。

中国では古くから「南船北馬」と言われ、ここは船と馬が交わる町だった。

 

今は、寂れ保存状態が良くないが、観光地らしくない良さもある。

 

8

 

< 8. A mansion 1 >

< 8. 屋敷 1 >

Episode

We looked in one house at the end.

In spite of a narrow frontage, the inside overflowed with many Chinese tourists in big merchant’s house.

We entered inside, and were surprised by looking many rooms and courtyards and excellent decoration.

As entering furthermore, the mansion became expanse like a maze.

 

At that time, a young man called to us in fluent Japanese.

We were going to leave hastily, but he detained us.

 

エピソード

私達夫婦が、最後にある家を覗きました。

狭い間口にも関わらず、中は大きな商家で多くの中国人観光客で溢れていた。

中に入り部屋や中庭の数の多さ、立派な装飾に驚かされました。

どんどん中に入ると、迷路のように屋敷は広がり、私達だけになりました。

 

その時、若い男性が流暢な日本語で声を掛けて来ました。

私は急いで去ろうとしましたが、彼に引き留められました。

 

9

< 9. A mansion 2 >

< 9. 屋敷 2 >

 

He started talking about he loves Japan and studied in the Japanese university.

His ancestor from Myanmar built this mansion.

Finally we were led to the back room to see family treasures.

However, we retired on the way because our waiting time would come.

 

The trip is really interesting.

 

This continues next time.

 

 

彼は日本が好きで、日本の大学に留学したことがあると喋り始めました。

そして、この屋敷はミャンマー出身の祖先が築いたものだそうです。

最後に、家宝を見せてあげようと奥に案内されました。

しかし、集合の時間が来たので、途中で退席しました。

 

実に、旅は面白い。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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桂林を訪れました 8: 桂林の歴史


    1 桂林 

 

<1.桂林。借用 >

 

今回、桂林の歴史を簡単に紹介します。

後で、少数民族の村や漓江沿いの古い町を紹介します。

私達が良く知っている人物や出来事が、ここ桂林と深く関わっていました。

 

 

この地は神話時代から始まる

 

 2 ヤオ族2

< 2. 瑶族と「丹水浦の戦い」 >

凡例:赤い印が丹水浦。青丸が桂林。赤の矢印が黄河勢。緑の矢印が長江勢。

 

紀元前1万年頃、長江中流域で最初に勢力を持った民族が生まれていたが、後に漢民族となる勢力が黄河中流域で拡大していた。

そして両勢力は黄河と長江の間にある丹水浦(紀元前4000年頃)で戦い、敗れた長江勢は主に南下した。(神話)

その後の民族移動は概ねこのパターンを繰り返すことになる。

そして多くの少数民族と神話が分散していった。

 

雲南の苗族(ミャオ)が良く知られていますが、今回私達が訪問するのは桂林近くの瑶族(ヤオ)です。

この瑶族が創世神である盤古(バンコ)を信仰していることが面白い。

 

 

秦の始皇帝が開いた航路

 

3 運河

< 3.地図の赤い線が霊渠 >

 

 

天下統一を成す始皇帝は、紀元前221年、南越征服の為に漓江に33kmの運河(霊渠)を築いた。

水門で水位を調節する画期的な運河によって、長江(湘江)と南シナ海(珠江)が水運で繋がった。

これにより、西安や北京、上海と結ばれた広州と、その中継地である桂林も発展することになる。

 

 

諸葛孔明南征す

 

4 三国志2

< 4. 諸葛孔明と三国時代の勢力図(AD220年) >

凡例:赤枠は桂林のあった霊陵郡を示す。

 

2~3世紀、蜀(茶色)、魏(緑色)、呉(クリーム色)の三国が覇権を争った。

三国志に登場する蜀の宰相諸葛孔明が桂林と関わりがある。

短い期間だが、蜀は荊州(灰色)を有し孔明が所轄した。

また225年、孔明は反乱を収める為、雲南方面を攻め、桂林近くまで来ている。

当時、この地は蛮族の住む地域とされていたが、勢力圏でもあった。

 

 

鑑真は桂林に身を寄せた

 

5 鑑真2

< 5. 鑑真和上の渡航ルート >

凡例: 赤丸が桂林、二つの青丸が第5回行路の出発地と漂流地を示す。

 

8世紀、唐の高僧鑑真は請われて仏教の戒律を日本に伝えようとした。

しかし彼は幾度も渡航を試みるが失敗していた。

5回目、彼は日本に向けて長江の港(揚州)から出発したが暴風にあい、遙か南の海南島に漂流した。

彼は初め、漓江経由(前述の霊渠)で長江に出るつもりだったが、桂林の都督に請われ1年間滞在した。

この地は仏教が盛んだった。

その後、彼は弟子の日本僧が死んだことにより広州に戻り、揚州に向かいます。

その途中、彼は失明しますが、再度、日本に向けて出港し、念願を果たし日本で没した。

 

後に紹介する大墟古鎮はそんな漓江で栄えた町です。

 

 

日本軍は中国奥深くまで侵攻した

 

6 作戦 

< 6. 大陸打通作戦、1944年4月から12月 >

凡例: 青矢印が桂林を示す。

 

日中戦争末期、米軍による海上封鎖と本土空襲が迫るなか、日本軍は南方資源確保と米軍航空基地の破壊を目指した。

この時、日本軍は兵力50万(中国派遣軍の8割)を投入し、2400kmを南下し制圧したが、米国は太平洋からの空爆に変更したので作戦は無駄になった。

この時、桂林は両軍により二度焼き払われることになった。

 

あとがき

遠い桂林だが、日本と無縁では無かった。

一つ面白い話がある。

この地域にかつて勇猛な部族がいて、倭寇退治に駆り出されたそうです。

以前、私が福建省の客家土楼を訪ねた時、倭寇が山奥まで侵入していたことを知って驚いたことがあった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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The society and the information 59: News media has fought 16


社会と情報 59: 戦った報道 16

 

1

< 1. A village serviced a flesh trade in about 1930  >

< 1.1930年頃、村が身売りを斡旋。  >

 

From now on, we look at the economic background that newspapers changed in.

It is we confirm that people became to affirm a continent invasion due to some economic factor.

 

これから新聞が転向した経済的背景を見ていきます。

それは人々が大陸侵攻を肯定するようになる経済的要因を確認することです。

 

 2

< 2. A battle of the northern part of China in 1933  >

< 2.1933年、中国北部での熱河作戦。  >

 

Preface

Previously, at this serialization “News media has fought 11”, we know that the Japanese local reporter sympathized with ringleader Kanji Ishihara of the Manchurian Incident and had thought “ We need to take the northern part of China for the solution of Japanese population and food problem”.

 

In those days, people were under the situation that the economy and life grew worse and worse, and had faced an uncertain future.

Radical elements had advocated the continent invasion as the solution, and people came to agree it.

 

 

 

はじめに

既に「戦った報道 11」で、当時、朝日の現地記者が満州事変の首謀者石原莞爾に共感しており、「日本の人口問題と食糧問題の解決には満蒙大陸が必要である」と考えていたことを見ました。

 

当時、人々は悪化する経済と生活で先の見えない状況におかれていた。

過激分子が解決策として大陸侵攻を唱え、国民は同意するようになって行きました。

 

3財政支出

< 3. The government expenditure of Japan >

< 3.財政支出の推移 >

Legend: A, C, D and E of color frames indicate the following “ Main points”.

Other graphs are similar, too.

A thin broken line indicates “government expenditure/GDP”, and a solid line does government expenditure.

 

凡例:色枠のA,C,D,Eは下記の「主要なポイント」に対応。他のグラフも同様。

細い破線が「財政支出額/GDP」、実線が財政支出額を示す。

 

Main points

I selected main economic problems that occurred from the 1900s to the 1930s.

 

Problem A: The government was not able to respond successfully to vast war expenditures that continue to increase from the 1890s.

Problem B: People came to promote discontent due to chronic rice deficit, a surplus population, an expanding disparity in wealth, and increasing in the awareness of entitlement of worker.

Problem C: In the late 1910s, big prosperity was brought on by World War I, but the reaction will deteriorate society and economy more.

Problem D: In the 1920s, Japanese economy suffered unprecedented aggravations that are the depression after World War I, the Great Kanto Earthquake, the banking crisis, the Great Depression.

 

 

主要なポイント

1900年代から1930年代、明治末から昭和の初めにかけて起きた主要な経済問題を挙げます。

 

問題A:1890年代から高まる莫大な軍事費調達により政府は身動き出来なくなっていた。

問題B:1900年代から慢性的な米不足と過剰人口、貧富の差拡大、さらに労働・農民の権利意識の高まりで国民は不満を募らせていた。

問題C:1910年代後半、第一次世界大戦による一大繁栄がもたらされたが、その反動が社会と経済をより悪化させることになった。

問題D:1920年代、日本は未曾有の経済悪化、すなわち戦後恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、追い討ちをかけるように世界恐慌に見舞われた。

 

Development E: In 1931, Japan caused the Manchurian Incident and got the northern part of China, and built up the Empire of Japan that contained Korean Peninsula and Taiwan.

Western great powers had stagnated all economy and trade due to the independence of their colonies after World War I, and the Great Depression.

 

Meanwhile, Japan increased the trade in Asia including China and first accomplished the economic recovery in the world.

Japan seemed to almost have evaded mentioned problem A, B, C, D.

As a result, in 1940, Japan conspicuously accomplished the economic growth and was near the United States and the U.K., and became the major economic power comparing with Germany.

 

変化E:1931年、日本は満州事変を起こし中国大陸北部(満蒙)を掌中に収め、朝鮮半島と台湾を包括する大日本帝国圏を作り上げた。

欧米列強は第一次世界大戦後の植民地独立と世界恐慌で軒並み経済と貿易を沈滞させていた。

そんな中、日本は中国を含むアジアで一人貿易を伸ばし、世界に先駆けて経済回復を成し遂げた。

この間、日本は上記の問題A、B、C、Dをほぼ回避したように見える。

その結果、日本は群を抜く経済成長を遂げ、1940年には米国、英国に次ぎ、ドイツと肩を並べる経済大国になった。

 

4gdp

< 4. Changes of each nation’s GDP, it used a GDP of 1929(the Great Depression ) as 100 >

< 4.GDPの推移、世界恐慌の1929年を100として指数化。 >

 

Japanese GDP (red line) suddenly increased from the Manchurian Incident, as disregarding Western great powers except the Soviet Union (orange line).

 

日本のGDP(赤線)は満州事変を契機としてソ連(オレンジ線)を除いて欧米列強を尻目に急伸した。

 

 

5世界貿易の推移

< 5. Change of world trade >

< 5. 世界貿易の推移 >

After the Great Depression, the world trade decreased in 1/3.

世界恐慌以降、世界の貿易額は1/3ほどに減った。

 

 

6植民地貿易の推移

< 6. Changes of each colony trade >

< 6. 植民地貿易額の推移 >

Legend: A yellow line is the colony trade amount of Japan.

After the Great Depression, each colony trade amount reduced to half in the U.K. (solid line), and remained unchanged in France (dashed line), but Japan increased than four times after the Manchurian Incident.

 

凡例:黄線が日本の対全植民地貿易額。

世界恐慌以降、植民地貿易額は仏(破線)で横ばい、英国(実線)で半減したが、日本は満州事変以降、4倍以上に伸ばした。

 

What is important?

Why did people concentrate their hopes on the continent invasion even with exchanging it for the dangerous war expansion?

Did the continent invasion rescue the people from the economic deterioration that they expected to?

I narrow down this difficult economic background to several points and easily confirm it.

 

On the next time, we look at “Problems that was caused by collecting funding for war” that is relatively unknown.

 

何が重要か

国民は危険な戦争拡大と引き換えてまで、なぜ大陸侵攻に望みを託したのだろうか?

大陸侵攻は国民の予想通り日本の経済悪化を救ったのだろうか?

この難解な経済的背景を数点のポイントに絞って簡単に確認していきます。

 

次回、あまり知られていない「戦費調達が招いた問題」を見ます。

 

 

 

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I visited Guilin 7: Took a stroll through the streets of Guilin 3 


桂林を訪れました 7: 桂林町歩き 3

1 DSC04490

< 1. The street is near our hotel. A avenue of Lijiang is seen in the back. >

< 1.ホテルに近い通り。奥に漓江の並木道が見える >

 

Today, I introduce aspects of a morning in a back street that is near our hotel.

I looked at a side of the development of China.

 

今日は、ホテルのすぐ裏にある住宅街の朝の様子を紹介します。

そこに中国の発展の一面を見ました。

 

2DSC04459

< 2. This street is a distance of one block from the avenue >

< 2. 並木道から一つ入った通り >

 

I took those pictures 7:00-7:30 in the morning of Friday, September 18.

Small restaurants and convenience stores had opened.

On the right-side end of the photo, about ten men sat around a table and were gambling.

 

9月18日(金)の朝、7:00~7:30に撮影した。

小さな飲食店やコンビが店を開けていた。

写真の右端では、十人近い男がテーブルを囲んで博打をしていた。

 

3通勤

< 3. Aspects of going to work and to school >

< 3. 通勤・通学の表情 >

 

The people of Guilin city get up until late evening and take a light breakfast in the morning.

There is the custom that they go back home and take a rest and a meal at noon like Siesta of Spain.

 

桂林の人は夜遅くまで起きていて、朝は外で軽く朝食を取る。

こちらではスペインのシェスタのように、昼自宅に帰って食事と休憩を取る習慣がある。

 

4市場

< 4. A market and food shop > 

< 4. 市場と食料品店 >

 

When I saw this scene, I thought that this was China just the same.

It was dirty and was stinking!

It isn’t different from aspect of markets of back streets in Guangzhou, Xian, and Amoy that I visited for 25 years.  

It is very different from the market of Balkan that I visited just two weeks ago.

 

この光景を見ると、やはり中国だと思う。

汚くて臭い!

ここ25年間に訪れた広州や厦門、西安などの裏町の市場と変わらない。

つい2週間前に訪れたバルカン諸国の市場とは大違いです。

妻は、市場に面した食料店に入って、日本で食べる物を買った。

私はこの手にいつも気後れするが、妻は気にしない。

 

 

5建物

< 5. Buildings of the back street >

< 5. 裏通りの建物 >

 

Houses are like Buildings made of the brick heaping up as ever.

The apartments are very tall.

The paths become narrow suddenly, and bend sharply everywhere.

It is contrastive with orderly residences of the avenue.

 

相変わらず、家はレンガ積みのようです。

アパートは結構背が高い。

通路は至るところ折れ曲がり、急に狭くなり、表通りの整然とした邸宅街とは対照的です。

 

6安宿

< 6. Various aspects >

< 6. 様々な光景 >

 

If 1 yuan is 20 yen, the room charge becomes 600 yen per a night.

A master of the fruit shop of a roadside was taciturn.

 

Afterword

I had visited to China seventh times at this time, and this situation that stagnation is mixed with prosperity everywhere hadn’t changed after all.

 

This continues next time.

 

1元が20円とすると、旅館一泊600円となるが?

道端の果物屋の主人は寡黙でした。

 

あとがき

わたしは今回で中国訪問は7回目になるが、やはり至る所で繁栄と停滞が混在している。

どちらかというと、繁栄は加速度的だが底辺の暮らしは遅々として良くならないようです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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The society and the information 58: News media has fought 15


社会と情報 58: 戦った報道 15

 

1明治時代の引き札

< 1. An advertisement handbill in Meiji Period, military personnel was popular >

< 1.明治時代の広告チラシ、軍人が人気 >

 

This time, I supplement with the last explanation about the social change that happened under a war regime.

 

今回は、戦時体制下で起こった社会的変化の補足説明になります。

 

 2憲兵

< 2. Military policeman >

< 2. 憲兵 >

 

I divide the social change into two elements

 

People’s thought and feelings were changing unconsciously

One is a surge of national sentiments such as patriotism or a chain of hatred.

When people endured hardship in a battlefield or their relative died of wounds, they felt stronger resistance in being pointed out that going into battle is useless.

This was connected to strict defending of national interests.

 

People intensely criticized the coward attitude of the government toward the Triple Intervention that had to abandon a territory.

 

Furthermore, because they couldn’t abandon China that they obtained in exchange for a life of Japanese soldiers 290,000, and couldn’t withdraw from it, again enlarged the war.

 

 

社会的変化を二つに分けます

 

しらずしらずのうちに国民の思想や心情が変化していく

一つは憎しみの連鎖や愛国心などの国民感情の高まりです。

さらに、出征し辛酸を舐め、また身内が戦傷死した場合、それを無駄だったとすることに人々は強い抵抗を感じます。

これが国益の厳守に結びつきます。

国民は領地を返還させられた三国干渉で政府を弱腰と猛烈に批難し、また日本将兵29万の命と引き換えに手に入れた中国を放棄出来ないとして、撤退が出来ず戦争を拡大することになった。

 

Another is the spreading of the weapon use and military spirit.

I investigated the spread of guns in “Our war 17-22” series before.

As a result, it was clear that the spread of guns caused the increase of the crime victim.

In other words, it changed to the society approved of violence, and settled troubles by violence.

This is clear at a glance if we see an action movie of Hollywood.

Similarly, if the martial spirit penetrates the whole society, the autocratic behaviors increase to many families such as Spartan discipline.

 

Thus, they would get used to the national interest, violence, and regulation.

 

もう一つは、武器使用と軍人精神の波及です。

以前、「私達の戦争 17~22」で銃の普及を検証しました。

その結果、銃の普及は犯罪被害者の増大を招いていました。

見方を変えれば、暴力を是認し暴力で解決する社会に変容したのです。

これはハリウッドのアクション映画を見れば一目瞭然です。

同様に軍人精神が浸透すれば、スパルタ教育など社会から家庭まで専制的な振る舞いが増大します。

こうして社会は国益や暴力、攻撃、統制に慣れて行きます。

 

3 1936年小学校読本

< 3. Elementary school language Reader in 1936 >

< 3. 1936年の小学校国語読本 >

 

The government led the people for war regime reinforcement

First, war weariness had been prevalent for almost people, so the government praised military personnel and encouraged to become good military personnel.

In addition, they assumed a hypothetical enemy, incited fear, and encouraged battling spirit.

Every military power practiced this.

For this purpose, education, public information, and oppression (prohibition of criticism) were important.

 

国が戦時体制強化の為に国民をリードする

初めは国民誰しも厭戦的です、そこで国は軍人を讃えて良き軍人になることを奨励します。

また仮想敵国を想定し恐怖を煽り、戦闘意欲を鼓舞するようにもなります。

古今東西、軍事大国はこれを実践して来ました。

これら教宣には教育と広報、批判禁止(弾圧)が重要です。

 

If expressing the article before last in other words, it is summarized as follows.

* A big menace near at hand.

* We should defend the national interests (territory) that we paid large sacrifice to obtain to.

* The near enemy is thing we should despise, and the repulse is easy.

This will be the most effective sentence that instigates the people.

 

 

前々回の某新聞の記事を言い換えればこうなります。

大きな脅威が迫りつつある。

多大な犠牲を払った国益(領土など)を死守すべき。

目前の敵は蔑視すべきもので、撃退は容易である。

これは国民を煽る最も有効な言葉でしょう。

 

4 在郷軍人会

< 4. A local veterans’ association >

< 4. 在郷軍人会の集合写真 >

 

On the other hand, it does not attract attention, but there is local veterans’ association as the example which raised an effect steadily.

This association was organized by the reserve duty that was available for mobilization of wartime and reached 3 million people in the 1930s.

Japanese population at the time was approximately 60 million people.

At first, the purpose was an education training of military personnel, but this became the implementing group to uplift their fighting spirit by the military leadership later.

In each place, this played a major role by protest and the boycott to anti- authority newspapers (Asahi and Mainichi), and by the promotion of the emigration to Manchuria and Mongolia.

Japan learned this system from Germany.

 

Thus, people regarded the continent invasion as national interests and accepted a war and the government of national unity.

However, people cannot embark on war only in this.             

 

I think about the economic factor on the next time.

 

一方、目立たないが着実に効果を上げた例として在郷軍人会があります。

在郷軍人会は、戦時動員可能な予備役によって構成され、1930年代には300万人に達していた。

当時の日本人口は約6000万人でした。

当初、これは軍人の教育鍛錬が目的であったが、後に軍主導による戦意高揚の実践部隊となっていった。

これは各地で、反権力新聞(朝日や毎日)への抗議や不買運動、満蒙開拓移民の推進で大きな役割を担った。

日本は在郷軍人会の制度をドイツに倣った。

 

こうして国民は大陸侵攻を国益とみなし、戦争と挙国一致体制を受容するようになっていた。

しかしこれだけで戦争に踏み出せるわけではない。

 

次回は経済的な要因について考えます。

 

 

 

 

 

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I visited Guilin 6: Took a stroll through the streets of Guilin city 2


桂林を訪れました 6: 桂林町歩き 2

 

 

      1

< 1. A morning of Lijiang, a view of upper stream from the bridge over a affluent >

< 1.漓江の朝、支流に架かる橋から上流を望む >

 

Today, I introduce the sceneries of Lijiang and the circumstances of people’s living together with it.

In there, a strange world not being in Japan had spread out.

 

今日は、漓江の景色と共に暮らす人々の様子を紹介します。

そこには日本には無い不思議な世界が広がっていました。

 

About photography

In the morning of September 16-17, I took a stroll along Lijiang near our hotel.

The range was from Jiefang bridge until a affluent that was a distance of 1200m along the left bank from it to the north.

I photographed these photos in from 6:30 to 7:00.

 

撮影について

9月16日と17日の朝、私はホテル近くの漓江沿いを散策しました。

その範囲は解放橋中央から漓江の東側堤を北へ1200mほど行った支流分岐までです。

写真は6:30~7:00頃に撮影したものです。

 

 2

 

< 2.  Lijiang flows through the central part of Guilin city >

< 2.桂林中心部を流れる漓江 >

Upper photo: Fuboshan maintain on the right and Jiefang bridge on the left back.

Center photo: A view of upper stream from Jiefang brid.

Lower photo: A view of upper stream from near the affluent.

 

上写真: 右手に伏波山、左に解放橋。

中央写真: 解放橋から上流を望む。

下写真: 支流辺りから上流を望む。

川で暮らす人の船が川の中央に係留されている。

 

 

3

< 3. Sunrise of Guilin city >

< 3.桂林の日の出 >

Upper photo: A view of the mountains of Qixing park from Jiefang bridge.

Lower photo: Fuboshan mountain glittered in the morning sun.

 

上写真: 解放橋から七星公園の山々を望む。

下写真: 伏波山。

 

 

4

 

< 4. The street in front of our hotel >

< 4.ホテルの前の通りから >

Lower photo: When seeing the northeastern side from the bridge over the affluent, the new residential apartment buildings had been constructed at full blast.

 

下写真: 支流の橋から東北側を見ると、新しい住宅街が盛んに建設されていた。

 

5

< 5. Person’s living together with the river >

< 5.漓江と共に暮らす >

When walking the riverside, I can well know how persons live with the river.

There are persons doing gymnastic exercises or jogging on the bank, person fishing on a raft in the central of the river, and person catching fishes or prawns by a net in the shallows.

 

川沿いを歩くと、如何に人々は川と共に暮らしているかがわかる。

堤ではジョキングや体操をする人、川の中央に筏を浮かべて釣りをする人、網で浅瀬の魚やエビなどを獲る人に巡りあう。

 

 

6

< 6. Persons enjoy the river >

< 6.川に親しむ人 >

Thing that is common among three photos is appearances of swimming person.

These persons were swimming along the flow of the river and occasionally gives a big shout.

It was warm morning, but it was cold for swimming.

There are person washing clothes and the person taking a bath.

 

 

3枚の写真に共通するのは、泳ぐ人々が写っていることです。

泳ぐ人は川の流れに沿って往復し、時折、大きなかけ声を発している。

暖かい朝ではあるが、泳ぐには寒い。

洗濯をする人、沐浴する人も居る。

 

These are scenes of weekday morning.

The lively downtown that I introduced last time is this opposite shore.

This city is energetic, but relaxed time flows, too.

There is modern place but also vulgar place.

 

This continues next time.

 

 

これが平日の朝の光景です。

前回紹介した賑やかな繁華街はこの対岸なのです。

エネルギッシュでもあるが、ゆったりとした時間も流れている。

近代的であるが、猥雑なところもある。

融通無碍に生きる人々の国がそこにある。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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I visited Guilin 5: Took a stroll through the streets of Guilin city


桂林を訪れました 5: 桂林町歩き 1

      1 

< 1. Twin towers of Shanhu Lake, at 8:35 >

< 1.杉湖の双塔、8:35 >

 

I introduce the scenery and life of urban area of Guilin in installments.

This time, I introduce a night of the most lively downtown.

 

これから数回にわけて桂林の都市部の景観や生活を紹介します。

今回は、最も賑やかな繁華街の夜を紹介します。

 

2map

< 2. My stroll routes >

< 2. 散策したルート >

The upper side of the map is the north side.

 

Yellow line: The route that we started to take a stroll through from our hotel at 19:20 of Wednesday, September 16.

The hotel is located in upper-right side of the map, and is “ Guilin Royal Garden Hotel”.

Yellow circle: The spot that I photographed the Twin towers of Shanhu Lake.

 

Led line: The route that we started to take a stroll through from our hotel at 16:30 of Thursday, September 17.

 

 

地図上部が北側です。

 

黄線: 9月16日(水)の19:20頃、ホテルを出発して散策したルートです。

ホテルは地図右上にある「桂林帝苑酒店」です。

黄丸: 杉湖の双塔を撮影した地点。

 

赤線: 9月17日(木)の16:30頃、ホテルを出発して散策したルートです。

 

3

< 3. Jiefang bridge >

< 3. 解放橋から >

1: At 19:38, I look at the east side.

2: At 19:41, I look at the west side, and there is a center that we were going to in this direction.

3: At 18:56, Elephant Trunk Hill was seen in the center of Lijiang river.

4: At 18:59, I look at the east side, and mountains of Qixing park was seen across this bridge.

 

1: 19:38、東側を見ている。

2: 19:41、西側、これから行く中心街の方を見ている。

3: 18:56、漓江下流の中央に象鼻山が見える。

4: 18:59、東側、橋の向こうに七星公園の山々が見える。

 

4

< 4. The first half of Zhengyang Pedestrian St. >

< 4. 正陽歩行街の前半 >

Three photos are things of from 20:00 to 20:05.

If you click here, you can see a video of 16 seconds.

https://www.youtube.com/watch?v=ozHmREyM2lo

 

This shopping district is a pedestrian street all day.

Even as it was weekday, there are a lot of crowds, and the department store also was full.

Tourists of a group and westerners were few, and most seemed to be domestic tourist or local people.

The difference between Japanese shopping streets and this street is few.

I didn’t feel this area was dangerous.

 

3枚の写真は20:00~20:05のものです。

ここをクリックすると16秒の動画が見られます。

 

ここは1日中、歩行者天国になっているショッピング街です。

平日にも関わらず人出は多く、デパートは満員でした。

団体で観光している人達や欧米人は少なく、国内か地元の人が多いように思えた。

日本のショッピン街との違いはほとんど無く、治安の悪さを感じることも無かった。

 

5

< 5. The last half of Zhengyang Pedestrian St. >

< 5. 正陽歩行街の後半 >

 

8,9: At 20:09, it is a mooncake shop under the clock tower in a crossroads.

Mooncakes had been sold in everywhere, this shop was abundant in kinds of the cake, and we bought many kinds of it.

When I came to this place, suddenly, I smelled the perfume of fragrant olive subtly.

The name of Guilin was originated in the fragrant olive, I had expected the fragrant olive in full bloom, but unfortunately smelled the perfume only here.

 

10: At 20:24, the outside souvenir shops lined in the street from here.

 

 

8、9: 20:09、十字路にある時計台の下の月餅店。

月餅がいたる所で売られており、この店は種類が豊富で、私達は幾つもの種類を買いました。

この場所に来ると、突然、微かに金木犀の香りがして来ました。

桂林の名の由来が金木犀から来ていることもあり、咲き誇る金木犀を期待していたのですが、残念ながらここで香りを嗅ぐだけになりました。

 

10: 20:24、ここからは屋台の土産物店が並んでいました。

 

6

< 6. Twin towers of Shanhu Lake >

< 6. 杉湖と双塔、8:35 >

I wanted to take a picture of this, and I came here, and it was worth it.

But we lost our way after this, and returned to hotel by taxi.

Anyway, it was a big city.

 

私はこれを撮りたくてやって来ましたが、その甲斐はありました。

 

しかし、この後、道を間違ってしまい、タクシーで帰ることになりました。

とにかく大きな都会でした。

 

7

< 7. Zhongshan Middle Rd. >

< 7. 中山中路 >

 

11: At 19:36, around central high buildings was an intersection with Zhongshan Middle Rd. and Jiefang Rd.

12: At 19:36, there was the biggest bookstore of Guilin in the right side building.

 

In September 17, I went round two bookstores.

The first bookstore beside Lijiang river was small, but was a inside with a nice atmosphere.

There were many youths who enjoyed reading at tables in the bookstore.

 

Next, the bookstore in the photo even had the fourth floor.

Unfortunately this store hadn’t put books that I looked for and were written in Japanese and English.

I bought several books in Chinese after all.

In this bookstore, the space and service for children were enriched, and a lot of parent sand children had come.

 

Both bookstores were so, and these clerks coped kindly when I asked them some questions.

 

However, because of my ignorance, I kept these clerks long.

Finally, I thanked for it, and left here with a smile.

 

Thus, our stroll for two days was over.

 

This continues next time.

 

 

11: 19:36、中央の高い建物辺りが中山中路と解放路との交差点です。

12: 19:36、右側の建物に桂林最大の書店がありました。

 

17日、私は2ヵ所の書店を巡りました。

最初の漓江沿いの書店は小さかったが雰囲気の良い所でした。

書店内にはテーブルで読書を楽しむ多くの若者がいました。

 

 

次いで、写真にある書店は4階までありました。

残念ながら日本語や英語で書かれた目的の本を置いていませんでした。

結局は中国語の本を数冊買いました。

この書店は子供向けのスペースとサービスが充実しており、親子がたくさん来ていました。

 

 

両方の書店共そうでしたが、書店員に質問をすると親身に対応してくれました。

しかし私の無知と準備不足が災いして、手間を取らせるばかりで恐縮しました。

最後は笑顔で別れました。

 

こうして2日にわたる精一杯の町歩きは終わりました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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The society and the information 56: News media has fought 13


社会と情報 56: 戦った報道 13

 

    1新聞

< 1. Asahi Shimbun >

< 1. 朝日新聞 >

 

I again examine the background that Japanese newspapers changed.

 

前回に続いて新聞が転向した背景を考えます。

 

 2新聞発行部数

< 2. Circulation of prewar newspaper. By Mainichi Shimbun HP >

< 2. 戦前の新聞発行部数。毎日新聞HPより >

 

Once, how did Japanese newspaper progress together with war?

 

The circulation of three newspapers increased at each outbreak of war as this graph shows, and the newspaper achieved better performance by approving of the war (continent invasion was a national interest).

The oppression of government toward newspapers became severer depending on the size and antiauthoritarianism of it, but adversely, the achievements became bigger due to cooperating with the government.

The reason why a newspaper cooperates with the government is complicated, but this is big, too.

 

日本の新聞は戦争と共に・・・

グラフが示すように戦争勃発の度に新聞の発行部数が伸び、新聞は戦争(大陸侵攻と言う国益)に賛同することで業績を上げた。

また反権力の大新聞ほど政府の締め付けは厳しかったが、逆に政府に協力することの利得は大きかった。

新聞が政府に積極的に協力して行く理由は複雑だが、これも大きい。

3神風

< 3. In 1937, Asahi Shimbun set a new record for a flight between London and Tokyo >

< 3. 1937年、朝日新聞が東京ロンドン間飛行で新記録樹立 >

 

The upper graph shows a strange phenomenon.

Asahi Shimbun (red line) got ahead of Mainichi Shimbun and increased achievements threefold.

In 1937, Asahi Shimbun participated in a military periodic airline that linked Fukuoka to Shanghai in China, and topped other newspapers in information acquisition of battlefront.

 

上のグラフから奇妙な現象が見えてくる。

朝日は毎日を抜き、業績を3倍に伸ばしている。

1937年、朝日は中国上海と福岡を結ぶ軍事定期航空に積極的に参加し、戦地情報入手でトップに立った。

 

On the other hand, Yomiuri Shimbun (black line) increased achievements 19 times during the same period.

This seems to begin when Shoriki Matsutaro of former police official became the president of Yomiuri Shimbun that had gotten into financial trouble in 1924.

He not only had business talent, but also was near a center of the government, and assumed an important post of the Imperial Aid Association in 1940 at the year before the Pacific War outbreak.

 

一方読売は、同一期間に19倍に業績を伸ばしている。

これは1924年、元警察官僚の正力松太郎が経営難に陥った読売の社長になったことに始まる。

彼は商才もあったが政府中枢に近く、太平洋戦争勃発の前年1940年には大政翼賛会総務に就任している。

 

4大政翼賛会

< 4. The Imperial Aid Association >

< 4. 大政翼賛会 >

 

War coverage and achievements

I look at two war coverages of Liutiaohu Incident in 1931 that were published by two companies that would become to differ in the achievements in future. [Note 1]

 

Mainichi Shimbun carried this news “United States, responses to Manchurian Incident” with a headline in 5 days after the incident.

“Japanese side insists that China soldier fired a shot first, but this doesn’t correspond with the information that entered the U.S. Government.

There is much evidence that Japan forces performed by basing a careful program.”

This was a New York special dispatch, and “a prejudice of American reporter” was added beside the headline small.

Under the oppression in those days, even this article might be the most resistance to tell people the truth.

 

 

戦争報道と業績

業績に差が出た2社の報道を1931年の柳条湖事件で見ます。注釈1

 

毎日新聞が事件の5日後に「満州事変、米国への反響」という見出しで、

「日本側は支那兵が最初に発砲したと主張しているが、米国政府に入った情報と符合しない。日本軍の行動は事前の慎重なる計画のもとに行われたという多くの証拠があるとのことである」

というニューヨーク特電を掲載し、見出しの脇に小さく「米国記者の偏見」と書き添えている。

当時の弾圧の下で、これが国民に真実を知らせる為のせめてもの抵抗だったのだろう。

 

Yomiuri Shimbun carried this news “It isn’t absurdity that we protect our established interest that we have acquired the hard way for a few decades” with a big headline in 10 days after the incident.

It was added to the headline that “a guide of Manchurian Incident” and “defend our lifeline to the death”.

 

I summarize the article.

* Asian countries should prevent this violent wind of Russian eastward in cooperation.

* Therefore, our country fought the Russo-Japanese War in Manchurian, and lost 200,000 casualties and 80 percent of national expenditure.

* China forces not only didn’t cooperate with defense to Russia, but also attacked our military. Thus, our military pursued the China forces of more than 10,000 soldiers and swept it away.

 

It is easy to imagine that people of that time had great sympathy for this article.

Thus, there were differences among the attitudes of each newspaper, but all came to cooperate with the war after all.

 

読売新聞は事件の10日後に「忍苦数十年のわが既得権益・擁護するのに何の不条理がある!!」と大きな見出しをつけ、上段半面を使って「満州事変への手引き」と表題をつけ、「我が生命線を死守せよ」と書き添えている。

 

記事を要約すると

ロシアの東漸政策をアジア諸国は協力して阻止すべきである。

その為に我が国は満州で日露戦争を戦い、20万人の死傷者と国費8割を費やした。

支那軍は対露防衛に協力しないばかりか柳条湖で我が軍を攻撃した。よって我が軍は1万を超える支那軍を追撃し一掃した。

 

これが当時の国民に最も共感を呼んだことは想像に難くない。

こうして、各新聞は温度差こそあるが戦争に加担していくことになった。

 

Adding one word for honor of the mediaperson, after this, it doesn’t mean that all cooperated with the war.

Some local newspapers, famous editors, reporters had struggled for telling the truth.

But, unfortunately they did not come to change the situation.

 

報道人の名誉の為に一言添えると、この後、すべて戦争に加担したのではなく、地方紙や名物編集者、記者などが真実を伝えようと苦闘していた。

しかし、残念ながら状況を変えるには至らなかった。

 

What is important?

Even in many commonwealths of modern times and the present day, the people often went out of control without understanding the fact of the war.

There always were a situation that the information was disturbed, and strong force to foment war.

I chase such situation of Japan between middle of 1920s and the early 1930s.

 

This continues next time.

 

 

 

何が重要なのか

近現代の民主国家においても、国民は戦争の内実がわからず暴走することが多い。

そこには情報が撹乱され、戦争へと扇動する力が働いている。

日本のそのような変化を1920年中頃から1930年代初めに追います。

 

実は、そこには多くの戦史に共通するメカニズム(戦争の罠)があった。

 

次回に続きます。

 

[Note 1]

注釈1:「近現代日本政治と読売新聞」(明石書店、2014年刊)P166~170から抜粋。

 

 

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