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フランスを巡って 58: 目次と感想


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旅行記の最後に目次と感想を記します。

この旅行で念願の南仏、アルザス地方、モンサンミッシェル、幾つかのゴシック大聖堂を訪れることが出来ました。

またフランスのお国柄を肌で感じ、また歴史が身近なものになりました。

 

 

旅行の概要

トラピックスのツアー「13日間のフランス夢の大周遊」

期間:2017年5月17日(水)~29日(月)

 

関空深夜発、ドバイ経由でニースに着き、旅行が始まりました。

フランスを9日間宿泊し、移動はすべて観光バスでした。

帰国は午後パリ発、ドバイ経由で関空に着きました。

 

ニースの朝だけ小雨になった以外はすべて快晴に恵まれ、最高の観光日和になりました。

一方で、最高気温が予想外の30℃近くにもなりました。

 

 

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< 2. 旅行ルート >

 

数字は観光地を示し、観光はその順に進みました。

黒い数字は観光のみ、赤い数字は観光した宿泊地を示す。

赤字のTは宿泊だけのトゥールです。

茶色の線は観光バスでの移動を、赤線は航空路を示す。

 

 

* 目 次

 

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*3

 

写真は記事の巻頭写真で、写真番号は記事の番号です。

 

 

1 はじめに

旅行の概要と各地の代表的な写真を紹介しました。

 

2 モンサンミッシェルの朝昼晩

モンサンミッシェル全景をほぼ一昼夜撮影しました。

陽に輝く雄姿、夕陽に浮かぶシルエット、朝霧に霞む遠景など。

 

3 セーヌ川クルーズ

休日のセーヌ川クルーズは夕陽と歓喜に包まれました。

両岸で憩う市民が手を振り、クルーズ船を温かく迎えてくれた。

 

4 古都ボーヌ

ワインと修道会創立で有名なブルゴーニュにある中世の古都ボーヌを尋ねました。

街と周辺の風景を紹介しました。

 

最も感動した上記2~4を最初に紹介しました。

次からは、訪問順に紹介しています。

 

5 鷲の巣村エズ

地中海を望む険しい山頂に鷲の巣村と呼ばれるエズがあります。

この要塞化した村は長い戦乱を生き延びる為でした。

 

6 小国モナコ

モナコは争いを経て、また小国として活路を見出さなければならなかった。

それが断崖絶壁の王宮であり、高級リゾート地への道でした。

 

7 旅行2日目のまとめ

ニース空港からエズとモナコ、そして宿泊地のニースまでの景色とフランス最初の食事を紹介しました。

 

8 大リゾート地のニース

ニースの海岸と旧市街で露店が並ぶサレヤ広場を紹介しました。

 

 

 

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9 ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め

バスの車窓から見たブドウ畑とセザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山を紹介しました。

 

10 古都エクス・アン・プロヴァンス

ここは陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都、セザンヌの生誕の地であり晩年を過ごした地でもありました。

 

11 古都アルル

古代ローマの遺跡が残り、ゴッホが愛し傷つき去った古都アルルを紹介しました。

ローヌ川の突風を遮るための糸杉がゴッホの思いを彷彿とさせます。

 

12 要塞都市アヴィニョン 1

巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市は巨大でした。

衰え始めていたはずなのに、教皇の権力がまだ絶大だったことに驚いた。

 

13 要塞都市アヴィニョン 2

アヴィニョン旧市街と市場の自由散策を紹介しました。

 

 

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14 ポン・デュ・ガールの水道橋

山間の川に架かる巨大なロ―マ時代の水道橋を訪れました。

この近くの山に氷河期の人類最古の洞窟壁画(ショーヴェ)がありましたが、行くことは出来ませんでした。

 

15 ポン・デュ・ガールからリヨンへ

ローヌ川沿いの平野を眺めながらリヨンに向かいました。

 

16 大都市リヨン 2

フランス第2の都市リヨンの大聖堂とその展望台、そして旧市街を紹介しました。

 

17 大都市リヨン 3

新市街のベルクール広場と、その後の自由散策、夕食を食べたレストランの光景を紹介しました。

 

18 リヨンからボーヌまでの景色

リヨンからボーヌまでの車窓からの景色を紹介しました。

 

19 中世の施療院オテル・デュ

ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介しました。

医術史に関心がある方には特に興味深いものがあるでしょう。

 

 

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20 ボーヌからストラスブールまで

共にワインで有名なブルゴーニュからアルザスの風景を車窓から眺めました。

 

21 ストラスブール 夕刻と朝に

夕刻のストラスブール旧市街と朝のホテル周辺を紹介しました。

この地を訪れるのは長年の夢で、その上二泊も出来て大満足でした。

 

22 ストラスブール旧市街1

朝、いよいよ待ちに待った旧市街、プチットフランスと大聖堂を観光しました。

この都市は交易で栄え、活版印刷誕生の地になった。

この豊かな都市民の熱意が数百年をかけて大聖堂を作り続けた。

一方で周辺の貧しい農民の不満が宗教改革の起爆剤となった。

 

23 ストラスブール旧市街2

主に大聖堂の雄姿と内部を紹介します。

 

24 可愛い町、コルマール

川縁に並ぶ木骨組み家屋が、まるで中世の御伽の国に迷い込んだような感じにさせる町でした。

 

25 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル

ここはワイン畑の丘陵地にある小さな村、アルザスワインのワイナリーでも有名な所です。

実は、かつてこの村は城壁で囲まれた要塞でした。

 

 

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26 ストラスブール最後の夜

ストラスブールの最後の日、夕方から自由散策を始めました。

ホテル近くの大型スパー、川沿いの旧市街、夕食のレストランでのハプニングを紹介しました。

 

27 アルザスに想う

アルザスの風景を紹介しながら、この地が大国の狭間で如何に戦火に見舞われ続けたかを紹介しました。

そして今、人々は何も無かったように平和に暮らしています。

 

28 ストラスブールからランスへ

フランスの東北部、ロレーヌ地方からシャンパーニュ―地方の景色を紹介しました。

この地はフランスの源流、フランク王国誕生期の中心に位置し、このことが後にジャンヌ・ダルクを生み、ランス大聖堂の名声へと繋がった。

 

29 ランスの大聖堂 1

大聖堂を取り囲む町の景観を紹介しました。

 

30 ランスの大聖堂 2

大聖堂の外周を一周し雄姿を紹介しました。

 

31 ランスの大聖堂 3

大聖堂の内部を紹介しました。

 

 

 

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32 サン・レミ聖堂

同じランスにあるロマネスク様式で建てられたサン・レミ聖堂を紹介しました。

 

33 ランスからパリへ

ランスからイルドフランスの景色、パリとホテルから見た夕陽を紹介しました。

パリには3泊するのですが、この日はモンサンミッシェルに行くために途中一泊した。

 

34 パリからモンサンミッシェルへ

モンサンミッシェルがあるノルマンディー地方の景観を紹介しました。

バスで走行した午前中は曇りだったこともあり、物悲しい雰囲気が漂っていた。

 

35 モンサンミッシェル 1

対岸のホテルからモンサンミッシェル入口近くまでの景色を紹介しました。

 

36 モンサンミッシェル 2

歩いたモンサンミッシェルの城壁を紹介しました。

巨大さに圧倒されました。

 

37 モンサンミッシェル 3

城内のメインストリートとその先にある修道院までを紹介しました。

 

 

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38 モンサンミッシェル 4

巨大で打ち捨てられた修道院の中を紹介しました。

 

39 モンサンミッシェル 5

修道院を出て外周を廻り、村の暮らしを感じさせる裏道を下りました。

 

40 モンサンミッシェルからロワールへ

王侯貴族が愛したロワール地方までの景色を紹介しました。

 

41 シュノンソー城 1

女性城主達が住み続けた優美な城の外観と庭園を紹介しました。

 

42 シュノンソー城 2

城内を紹介しました。

 

43 シャンポール城に向かう

ロワール地方のもう一つのシャンポール城に向かい、ロワール川沿いを走りました。

 

 

 

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44 シャンボール城

こちらは巨大で複雑な形をした城で、庭園と言うか森が巨大でした。

外観を見るだけでした。

 

45 トゥールへ

宿泊と夕食の為にトゥールに向かいました。

 

46 シャルトルへ

ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯の景観を紹介しました。

 

47 シャルトル 1

シャルトルの町と初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の外観を紹介しました。

 

48 シャルトル大聖堂の内部

シャルトル大聖堂の内部、特にステンドグラスが美しかった。

 

49 ベルサイユ宮殿へ

シャルトルからベルサイユ宮殿の入口までの景色を紹介しました。

 

 

 

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50 ベルサイユ宮殿

ベルサイユ宮殿の内部を紹介しました。

 

51 前衛都市ラ・デファンスに泊まって

パリの宿泊地ラ・デファンスの2日間を紹介しました。

近代的なビル、広場での交流、大型スパーを紹介しました。

 

52 ルーブル美術館

車窓からのパリとルーブル美術館の代表的な美術品を紹介しました。

ルーブル美術館は三度目の訪問になり、ミロのヴィーナスは京都も含めて思い出深い対面となりました。

 

53 パリ散策 1

5回に分けて地下鉄で巡ったパリの下町を紹介しました。

この回は、アンファン・ルージュの市場が主になります。

 

54 パリ散策2

パリ誕生期を偲ばせるサン・ジェルマン・デ・プレ教会の紹介でした。

 

55 パリ散策3

大学の街カルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介しました。

アラブ世界研究所からの眺めが良かった。

 

 

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56 パリ散策4

パリ最古の通りで、様々な飲食店が並ぶ庶民のムフタール通りを紹介しました。

 

57 パリ散策5

ムフタール通りの人々との触れ合い、地下鉄の風景を紹介しました。

 

これで目次は終了です。

 

 

*フランスを旅して思うこと

海外旅行は高揚の連続です。

旅では好奇心が旺盛になり、建築や景観を見て、文化や人に触れ、多くのことを学ぶことが出来ます。

そして旅行前に抱いていた疑問の多くに、それなりの答えが得られます。

中には、より深い疑問が生まれることもありますが、これも励みになります。

また以前から抱いてたイメージの多くは覆され、多くは好印象を得ることになる。

今回もそんな連続でした。

 

 

南仏に始まり、アルザス、ノルマンディー、パリは長年の戦火に見舞われた来た。

印象派の画家達が好んだ太陽と緑豊かな地中海沿いの南欧、ライン川沿いに開けたワイン畑が広がる丘陵地のアルザスは幾度も戦火をくぐり抜けた。

アルザスは第二次世界大戦まで争いが続いていた。

この間、南仏とアルザスでは国や領主が頻繁に変わった。

そして今は言葉や文化が混じり合い、かつての憎しみは消えており、観光客が訪れる平和な地域となった。

 

私はこのアルザスの歴史に「戦争と平和」の答えがあるように思えた。

残念ながら、今回の旅行では納得のいく答えを得ることが出来なかった。

しかし、一つの確信を持つことが出来た。

それは隣国同士が融和策を主導すればアルザス、ストラスブールのように安寧と平和が訪れるのだと!

 

 

ノルマンディー(フランス北西部)の屋根瓦や家の作りに他のフランス地域との違いがあり、かつてヴァイキングがここに住み着いたことを連想させる。

また、パリは幾度もヴァイキングの侵略を受けていた。

フランスを建国したフランク人も、植民し攻撃したヴァイキングも元をただせば同じゲルマン人だ。

また英仏戦争を戦い続けた英国もゲルマン人(アングロサクソン)とヴァイキングの作った国だ。

そして、今は英仏で異なった国造りを行い、フランスでは両者は溶け込んでいるように見える。

 

ヨーロッパの歴史は、日本から見れば民族の衝突が繰り替えされた悲愴なものに思える。

その一方、この民族や宗教の違いを乗り越え、仲良く暮らす工夫が成功している唯一の地域だろう。

 

今回、ゴシック建築の歴史を身近に感じることが出来た。

シャルトルでゴシック建築が生まれたのは、フランスの初代王朝がパリを首都にしたことに起因しているいたことを実感できた。

 

 

一番の収穫は、多くの楽しくて温かいフランス人に接したことでした。

セーヌ川クルーズでの歓迎、様々場面でカメラを向けた時に返してくれる笑顔が忘れられない。

中には機嫌を悪くする人もいたが。

 

エクス・アン・プロヴァンスで飛び入りした昼食レストランでの親近感溢れるウエイター、リヨンの地下鉄で道を教えてくれた移民家族の親切な青年、日本から予約していたストラスブールのレストランでのハプニング、ムフタール通りの魚屋のユーモア溢れる青年、プラス・モンジュの公園で会った喜びを隠さない女性、ラ・デファンス広場の親子の親しみ易さなど、良い思い出が多い。

 

様々な地で、キャンピングカーや自然が残る河畔で余暇を楽しむ家族の多いのに驚いた。

人生の楽しみ方が日本と異なり、羨ましく思った。

 

大都市では肌の色が異なる多くの人々が仲良く暮らし、結婚もしていることに感銘を受けた。

移民を受け入れることは分裂や社会の停滞を生み出す恐れがあると不安もあったが、むしろこれを乗り越えているフランスを力強く思えた。

 

こうして多くのことを体験し学び、フランスと旅行に感謝し旅行記を終えます。

長きにわたりお読み頂きありがとうございました。

 

 

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フランスを巡って 57: パリ散策5


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今日でパリ散策とフランス各地の紹介を終わります。
今回は、道行く人々や公園で出会った人を紹介します。
次回は紀行のまとめになります。

 

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< 2. 散策マップ >

今回紹介するのは、前回につづいてムフタール通りです。
場所は地図の番号4の青枠部分です。
この通りを出て、地図の赤矢印5から地下鉄を乗り継いで、ホテルのある左上のラ・デファンスに戻りました。

 

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< 7.公園でダンスする一団 >

地下鉄駅のすぐ近くの公園でダンスをするグループが目についた。
奇抜な衣装に身を包んだ女性ばかりが踊り、二人の男性はリズムを取っているようでした。
実に楽しそうでした。

何かカーニバルでもあるのかと思い尋ねると、違うとの答えが返って来た。
すると一人の女性が躍り出て「結婚!!」と言って、満面の笑みを浮かべた。
どうぞお幸せに!!

それが下の写真です。

この公園には様々な肌の色の人々が見える。
これがフランスの素晴らしさであり、強さなのかもしれない。

 

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< 8. 地下鉄駅 1 >

上の写真: 7号線の「Place Mongue」から乗車した。
下の写真: 「Place d’italie」で6号線に乗り換えた。

 

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< 9. 地下鉄の眺め >

上の写真: 車内の光景。
様々な人々が隣合い、そこには談笑と緊張が隣り合っている。

私が30年以上前、パリの地下鉄に乗ろうとした時、人種か何かの区別で安心できる後端の車両に乗るように勧められたことがあった。
時は過ぎ、至る所で様々な人種が自由に暮らすようになっているようだ。

下の写真: 地下鉄6号線を選んだのは、セーヌ川を越えながらエッフェル塔を眺めたかったからでした。

 

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< 10. 地下鉄駅 Charles de Gaulle >

ここで地下鉄6号線から1号線に乗り換えた。
ここはちょうど凱旋門の下になります。

 

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< 11. ラ・デファンスに戻った >

ラ・デファンスに戻ったのは午後8時半を過ぎていた。
まだ明るく、「グランド・アルシュ」の下の階段には多くの市民が寛いでいた。

 

こうして私達は半日のパリ散策と13日間のフランス旅行に幕を閉じました。

次の日、2017年5月28日の午後、パリ発の航空機で帰国の途に着きました。
半年以上にわたる私のフランス紀行にお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回は、旅行記の目次とまとめを記します。

 

 

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フランスを巡って 56: パリ散策4


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今日はパリ最古の通り、市民に人気のムフタール通りを紹介します。

この通りには多くの小さなマルシェや多国籍のレストランが並んでいます。

私達も1時間の間につい2回も食事してしまいました。

 

 

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< 2. 散策マップ >

 

上の地図: 上が北。

赤矢印4のシテ駅から地下鉄に乗り、途中オデオン駅とジュシュー駅で乗り換え、黒矢印5のプラス・モンジュ駅で降車しました。

 

下の地図: 左が北。

プラス・モンジュ駅を出て、Sから歩き始め赤線を右端まで行き、折り返して黄線のEで、往復1.2kmの散策を終えた。

散策したのは2017年5月27日(土)の18:00から19:30です。

Fは生牡蠣を食べた魚屋、Rはタルトを食べたレストラン、Pは楽しい人々と出会った公園です。

 

 

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< 3. 地下鉄駅 >

 

上の写真: 乗車したシテ駅。

 

下の写真: 乗り換えたオデオン駅。

 

 

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< 4. ムフタール通りに出た >

 

上の写真: 乗り換えたジュシュー駅。

 

下の写真: プラス・モンジュ駅を出た時は人出が少なかったが、ムフタール通りに出て、時間が経つうちに人が増えて来た。

 

 

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< 5. 楽しい! >

 

下の写真: このおじさんが手回しで管楽器を鳴らし、名調子の高い声で歌っていました。

笑顔と笑い声が素敵な人でした。

 

 

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< 6.教会 >

 

下の写真: 地図の右端付近にある教会。

 

 

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< 7. 折り返し付近 >

 

この辺りで散策を折り返しました。

通りや広場のテラスでは多くの人が食事と会話を楽しんでいました。

 

 

 

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< 8. 様々な店先 >

 

 

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< 9. 牡蠣を食べた魚屋 1 >

 

 

 

 

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< 10. 牡蠣を食べた魚屋 2 >

 

最初この前を通った時、この店でカップルが牡蠣を食べていたのを見ていました。

戻る途中、無性に食べたくなり意を決して店に飛び込みました。

 

声をかけると若い店員がメニューを持って来ました。

私達はわけも分からず、中間の値段のものを注文しました。

 

そして出て来たのが、この写真の生牡蠣とワインでした。

牡蠣は冷えていて実に美味しかった。

さらにワインがびっくりするほど美味しかった。

 

この日より、私達はシャルドネの虜になりました。

帰国後はフランス産やチリ産などの安いシャルドネを何本か買っては飲みましたが、二度と同じ味に出会うことはなかった。

 

このように美味しいものに出会うのも旅の楽しみです。

 

 

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< 11. メニュー >

 

これは注文時のメニューです。

帰国後、内容を調べました。

 

一番上のオレンジの下線は生牡蠣のフランス内の名産地を示し、「Hunters」は牡蠣を意味する。

オイスターの表示はどこにもなかった。

次の下線は牡蠣の等級を示すようです。

三番目の下線はワインのグラス売りで、4番目の下線はワインの種類「シャルドネ」を示す。

シャルドネは「白ワインの女王」と呼ばれ、シャルドネはブドウ品種の名前です。

 

この時、面白いエピソードがありました。

注文を受けた青年が、ワインのボトルを持って来てテーブルに置き、私達が驚いたのを見ると彼は笑みを浮かべ、さっと引き下がり、二つのグラスワインをもって来ました。

これは彼の冗談(ユーモア)で、私達を精一杯歓待してくれたのです。

 

実は、この青年はどうやら写真9の夫婦の息子のようで、このお父さんは私達観光客なんか相手にするなと言う態度を取っていました。

今回のフランス旅行では、幾度も若い人達の好意を感じることがありました。

 

海外で個人的にレストランなどに入るのは不安で失敗もしてきましたが、そこには束の間の出会いがあり、実に楽しいものとなります。

 

 

 

 

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< 12. タルトを食べた店 >

 

写真のように道路に面したショーケースにたくさんのタルトが並んでいます。

東南アジア系の女性が一人で店を切り盛りしていました。

非常に小さな店ですが、結構、お客さんが途切れず買いに来ていました。

私達は中に入って食べました。

焼き立てではない為か、特に美味しいとは思いませんでした。

 

 

次回はムフタール通りの残りとラ・デファンス到着までを紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 55: パリ散策3


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今日はカルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介します。

ルートは大学街を抜けアラブ世界研究所からノートルダム大聖堂までです。

 

 

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< 2. 散策ルート、上が北 >

 

赤線が散策ルートで、地下鉄駅M1「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」から歩き始め、地下鉄駅M2「シテ」まで行きました。

Sはソルボンヌ大学、Cは立ち寄ったカフェ、Aはアラブ世界研究所、Caはノートルダム大聖堂です。

私が歩いたパリ大学横の通りはエコール通りです。

 

このセーヌ川左岸のエコール通り一帯はカルチェ・ラタンと呼ばれ、ここはパリ誕生期からキリスト教の中心地で、やがて神学教育の場から現在の大学の街となりました。

シテ島はパリの起源となった所で、古くは様々な侵入者、バイキングなどを迎え撃つために要塞化した島でした。

 

 

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< 3. 地下鉄駅から地上に出る >

 

「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」駅を出て、サン・ミシェル大通りを少し行き、左に曲がりエコール通りに入った。

 

 

 

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< 4.パリ3・4大学(ソルボンヌ) >

 

2枚の写真は共にパリ大学(地図S)ですが、この一帯にはパリ大学の13校が集中しており、ソルボンヌの名が冠せられている大学は上記含め3校だけです。

 

 

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< 5. エコール通りの光景 >

 

下の写真: 通り沿いにある公園。

 

途中、本屋や人通りが少ないので気が付いたのですが、私は散策ルートを間違っていました。

私が行きたかった所は学生街のあるラ・ソルボンヌ広場で、サン・ミシェル大通りを一筋早く左に曲がってしまっていた。

結局は、このまま歩いて行きました。

 

 

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< 6. カフェ >

 

上の写真: エコール通りの突き当りにパリ6・7大学が見える。

下の写真: パリ6・7大学の手前を左に曲がるとカフェ(地図C)があった。

カフェにカメラを向けると、テラス席の青年がピースサイン(V字の指)で応えてくれた。

トイレ休憩をするために中に入り、ドリンクを注文した。

 

 

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< 7. アラブ世界研究所 >

 

上の写真: カフェの中。

下の写真: アラブ世界研究所(地図A)。

 

当初、私がここに来たのはアラブの情報、アラブ料理、屋上からの眺望が目的でした。

中に入るとたくさんの人がおり、特別展が開催されていて、アラブ関係の書店もありました。

しかし、結局は屋上からの眺望を楽しむだけにしました。

 

 

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< 8. アラブ世界研究所からの眺め >

 

上の写真: 眼下にセーヌ川、左手にノートルダム大聖堂が見えます。

 

下の写真: 北方向を中心にパノラマ撮影した。

中央はサン・ルイ島です。

 

この屋上からの眺望は北方向には開けているのですが、南方向には障害の建物があります。

入場は無料です。

 

 

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< 9. セーヌ川の左岸 1 >

 

アラブ世界研究所を出て、セーヌ川沿いを行きました。

 

 

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< 10. セーヌ川の左岸 2 >

 

 

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< 11. シテ島に入る 1 >

 

多くの市民がそれぞれの楽しみ方でセーヌ川で憩っていました。

 

 

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< 12. シテ島に入る 2 >

 

上の写真: 橋の上からサン・ルイ島、東側を望む。

 

下の写真: ノートルダム大聖堂の正面。

中に入ろうと思ったのですが、大勢の人が行列をなしていたので止めました。

 

皆さんに注意を一つ!

大聖堂横を歩いていると南西アジア系の数人の若い女性が「アンケートをお願いします」としつこく寄って来ました。

恐らくはアンケート用紙に記入している間に財布をスルのが目的だと思います。

新手のスリでしょう。

 

 

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< 13. シテ島中央 >

 

下の写真: 最高裁判所。

 

 

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< 14. 花市 >

 

中央に緑が一杯の場所があり、ここが常設の花市でした。

 

 

次回に続く。

 

 

 

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何か変ですよ! 91: 何が問題か? 14: 英国はなぜ衰退したのか?


 

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< 1. ロンドンの万国博覧会、1851年 >

 

 

今回は、繁栄を享受していた大国がなぜ没落したかを見ます。

そこでは今の日本とまっく同じことが起きていた。

誰しも自分の不幸の予兆を知りたくはないが、知れば心構えが変わるかも!

 

 

 

 

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< 2.栄枯盛衰 >

 

上は1876年のロンドン、下は20世紀初頭の米国の写真です。

 

 

*はじめに

かつて大英帝国は軍事的・経済的に世界を席巻し西欧文明、いや人類文明の模範でした。

しかし、その絶頂期にあった19世紀の後半からわずか数十年、急激に生気を失い、覇者の座を失った。

覇権国の栄枯盛衰は世の習いではあるが、資本主義社会で起こったその衰退過程が日本の低迷と恐ろしく似ているとしたら、どうでしょうか?

 

皆さんにこの英国の歴史から感じて頂きたいことが三つあります。

 

A: 衰退の原因はその社会が作り出していた。

B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

C: 間違った手段で起死回生を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

 

歴史は過ぎ去ったものであり、まして外国のことなど関りがないと思われるかもしれないが、恐ろしいほど似たことが起きていたのです。

 

 

 

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< 3.英国の繁栄と衰退 >

 

赤枠は繁栄を極めた英国が19世紀後半から転落していく様子を示す。

 

 

*繁栄を極めた英国

17世紀、英国はピューリタン革命と名誉革命を経験し、いち早く議会が王権を牽制するまでになった。

16世紀以来、海外の領土を拡張していたことと、上記の社会体制の変化が相俟って、世界で最初の産業革命が英国で1760年代に興った。

19世紀半ばには「世界の工場」と称され、1851年にロンドンで始めて開かれた万国博覧会はその自信の現れだった。

 

 

 

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< 4. 帝国主義に拍車がかかる >

 

上は1886年の英国の植民地、下は1921年のものを示す。

この間に英国は中東とアフリカに侵略を開始した。

英国では何が起きていたのか?

 

 

*一方で破滅への道が準備されていた

1825年、過剰生産による恐慌が英国で始めて起こり、その後ほぼ10年ごとに恐慌は起こったが、19世紀前半の恐慌は主として英国内にとどまっていた。

しかし1857年に初の世界恐慌が勃発し、1873年の恐慌ではヨーロッパ(英国も)は22年間にわたる経済不況へと突入した。

 

一方、ヨーロッパ大陸ではフランス革命(1789年)が起こっていたが、その後のナポレオン戦争への勝利が列強による軍事同盟(ウィーン体制)を生み、逆に国内の自由主義を19世紀半ばまで抑圧することになった。

 

恐慌の翌年の1874年、英国では総選挙で帝国主義的外交を唱える保守党(貴族、大資本家が支援)が圧勝し、スエズ運河買収(1875年)、インドを直轄領からなる帝国化(1877年)へと推し進めることになった。

 

こうして英国を含めたヨーロッパ諸国は競い合って世界を植民地化し、ついには二度の世界大戦へと突き進んだ。

 

 

 

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< 5. 英国の衰退要因 >

 

上左のグラフは1914年の英国の資本輸出、上右のグラフは英国の資本輸出の推移(1816-1914年)を示し、下のグラフはその結果として工業生産高が伸びなくなっている状況を示す。

英国が衰退した最大の理由は膨大な資本輸出(他国の建設や設備への投資)にあり、これが国内投資を激減させ、国内産業の競争力の低下を招き衰退に至った。

 

 

 

*英国は自ら衰退の道を歩んでいた

二度の大戦で多くの国は戦火を被ったが、衰退する英国を尻目に米独日などは経済大国へと躍進することになる。

英国の衰退は1880年代には始まっており、20世紀の初頭には米独に追い抜かれていた。

衰退は英国で進行していた社会・経済の変化にうまく対応できなかったことによる。

 

英国は産業革命をやり遂げてはいたが、鉄と石炭の産業が中心であり、次代を担う電気やガスを中心とする重化学工業には対応出来ていなかった。

これは新規技術導入に消極的だったことによるものだが、かつての企業家精神は半世紀余りの間に完全に廃れていたからでした(保護政策)。

 

何が英国で起きていたのか?

産業革命により貿易は拡大し、人口は都市に集中し、都市労働者の生活スタイルが変わり、食料品や日用雑貨の大量輸入が不可欠になり、自由貿易が進められた。

すると国内生産の農作物価格が暴落し、大規模農場経営は行き詰まり、貴族(ジェントルマン)は資産を不動産から金融資産へと変えていった。

一方、勃興した産業資本家も金融資産を増やしていた。

 

産業革命当初、英国の輸出は旺盛で貿易黒字は優勢であったが、やがて輸入が上回り万年赤字になった。

しかし、世界トップシェアを占める海外貿易に伴う船賃収入や、それまでに蓄えた外貨(貿易黒字)による海外投資の利益が貿易赤字を上回るようになった。

こうして英国は世界の新興国や発展途上国に投資し、ますます資本家は貪るように海外投資で利益を得るようになっていった。

こうしてロンドンシテイは世界の金融をリードするようになったが、英国内への産業投資は尻すぼみとなり、競争力は衰えるばかりだった。

金融資本家は急成長し資金が不足する米国やドイツの産業や産業基盤(鉄道)に競って投資し、競合国の経済成長を助け、自国産業の衰退に加勢すらした。

 

さらに植民地への投資資金と植民者の安全確保の為と称して、植民地への軍事行動が国民の合意の下に行われることになり、帝国主義は国を挙げて行われていった。

 

 

*英国社会では何が起きていたのか

大英帝国の貿易と経済、植民地のシェアは世界で群を抜いてトップだった。

また大英帝国には莫大な資本蓄積があり、多数の大金融資本家(ロスチャイルド家)がおり、人々は繁栄を謳歌していた。

 

19世紀末から20世紀初頭の英国の人々の暮らしや意識を追ってみます(注釈1)。

 

・大都市の暮らしに憧れ、都市生活を享受した。

・その一方で地方暮らしや海外赴任を嫌い、遂には外貨を稼ぐ船員も激減した。

・添乗員兼通訳付きの海外向けパック旅行が大ブームとなった。

・国内旅行では温泉がブームになった。

・都市では展覧会、博覧会、スポーツ競技などのイベントが花盛りになった。

・古典は疎まれ、イラストの無い読み物は敬遠されるようになった。

・健康ブームとグルメブームが興った。

・理想主義、犠牲や粘り強く行うべき改革は嫌われ、「勝手気まま」が合言葉のポピュリズムが持てはやされた。

 

この時代は英国が築き上げた繁栄から半世紀以上が経過し、所得の増加や福祉向上が進み、都市生活が定着し、大量の中産階級が生まれていた。

しかし19世紀後半には経済が陰り始めたが、人々(中産階級)は更なる繁栄を求め、保身と海外展開に望みを託し保守化していった(注釈2)。

 

残念なことに、1世紀前の苦労やかつての克己心は忘れ去られ、快楽追及や利己的なものが重視されるようになっていた。

 

 

 

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< 6. 今繰り返されようとしている英国の世紀末 >

 

上のグラフは19世紀末の資本(投資利益)が労働(賃金収入)よりも如何に稼いだかを示し、凡そ7倍あった。

中央のグラフは、その結果として20世紀初頭、如何に所得格差が開いていたかを示し、両グラフから21世紀初頭も同じことが起こりつつあることを示している。

下のグラフは、最近の日本の民間資本の肥大化を示している。

 

この三つのグラフは、日本を筆頭に差はあるものの先進国では莫大な資本が百年前の世紀末を再現しつつあることを物語っている。

 

 

*日本と比べて

おそらくここまで読まれた方は、あまりにも現在の日本に似ていることに驚かれるはずです。

政治家、企業家や資本家、中産階級の嗜好と目指すものは両国で酷似しています。

 

内憂(恐慌や衰退)を国内で解決するのではなく、海外の植民地拡大に矛先を転じていました。

実は植民地政策は搾取する割には軍隊派遣や植民地への投資で赤字になるだけでなく、多くの自国民の血も流した。

現在の日本も似ていますが、1910年代の好景気を経て30年代に大陸進出する大正から昭和の初めとも似ています。

 

企業家や資本家はやがて保守的になり、蓄積した膨大な金融資産は国内に向かわず、海外に利を求め、国内投資は漸減し、自国の競争力は失われた。

これは国としては自分で自分の首を絞めるに等しいのですが、個々には最適な利殖行動の結果なのです。

 

中産階級の浮かれ具合は両国でまったく同じです。

しかも当時、この英国の浮かれ具合を古代ロ―マの衰退期と同じだと指摘した出版物が出たと言うから、歴史は繰り返すようです。

 

実は、もう一つ共通していることがあります。

それは社会が本当に衰退している時ほど、楽観論(衰退を無視)がまかり通るようです。

 

 

*まとめ

冒頭で述べた以下の三点について皆さんはどのように感じられたでしょうか?

 

A: 衰退の原因はその社会で生まれていた。

 

経済発展が経済(産業や金融)と社会(主力の階層)を変え、今度はこの社会が経済の不具合(業界保護と国内投資減)を制御出来なくなってしまった。

 

 

B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

 

国の発展を牽引するはずの企業家や資本家は利益を求めるだけで、社会や国の衰退を顧みることはなかった。

 

C: 間違った手段で挽回を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

 

政治家や資本家は、国内経済の低迷打破に安易で国民の反発が少ない海外進出に舵を切った。

そして植民地の関係は泥沼化し、また列強との競争が激化し、やがて戦端を開くことになった。

 

 

*あとがき

英国の衰退を説明し、かつ日本の現状との類似を指摘することは難しい。

したがって、分かり易さと大きな流れを掴んで頂くために、かなりの歴史的事実や経済データーなどを割愛して、極端に論理を圧縮しています。

関心のある方は、以下の参考文献を参照してください。

 

 

次回に続きます。

 

 

注釈1: 文献「なぜ国家は衰退するのか」中西輝政著、1999年刊。

記事は主に第三章から抜粋。

 

注釈2: 文献「概説 西洋社会史」野崎直治編、1994年刊。

この分析は、Ⅳ-17の「帝国主義時代のイギリス社会」に詳しい。

 

ドイツ国民がナチスに傾倒して行った過程でも、保守化した中産階級(定義は異なるかも)が主役を成した(別の文献)。

 

 

参考文献

*「21世紀の資本」トマ・ピケティ著、2015年刊。

*「新版 概説イギリス史」青山吉信共編、1995年刊。

*「図説 イギリスの歴史」昭博著、2002年刊。

*「概説イギリス経済史」米川伸一編、昭和61年刊。

今回の英国経済衰退について最も詳しく書かれている。

*「概説世界経済史Ⅱ」ロンド・キャメロン共著、2013年刊。

今回の英国経済衰退についての要約と世界経済の関係が分かる。

*「現代のイギリス経済」中村靖志著、1999年刊。

今回の英国経済衰退について第一章に少し書かれている。

*「世界の歴史25 アジアと欧米世界」中央公論社刊、1998年刊。

今回の英国衰退期の歴史(社会、貿易、帝国主義)について詳しい。

*「世界経済の成長史1820~1992年」アンガス・マディソン著、2001年刊。

今回の英国経済衰退について世界経済の関係が分かる。

*「イギリス病・イタリア病・日本病」中村忠一著、昭和52年刊。

 

 

 

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フランスを巡って 54: パリ散策2


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今日はサン・ジェルマン・デ・プレ教会を紹介します。

この教会はパリに現存する最古の教会でロマネスク建築です。

このセーヌ川左岸の教会でパリの始まりを偲ぶことが出来るはずです。

 

 

 

 

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< 2. 散策の地図 >

 

上の地図: 乗り継いだ地下鉄と散策の場所を示します。上が北。

今日紹介するのは黒字No.2の青枠です。

 

中央の地図: おそらく6世紀頃のパリ。上が北。

フランク王国の最初の王朝(メロヴィング朝)が506年にパリを始めて首都にした。

セーヌ河の中州のシテ島に王宮が見え、ノートルダム大聖堂が後に出来ることになる。

赤い矢印がおそらくサン・ジェルマン・デ・プレ教会だと思います(地図の表記は異なりますが)。

 

下の地図: おそらく10世紀頃のパリ。左側が北。

シテ島を中心に左岸(地図右側)と右岸が城壁に囲まれ、町が拡大発展している。

この城壁は幾度も拡張され、19世紀に造られた城壁が現在のパリを囲むようになった。

赤い矢印がおそらくサン・ジェルマン・デ・プレ教会だと思います(表記は不明)。

 

 

 

 

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< 3. 地下鉄駅 >

 

上の写真: サン・ポール駅から地下鉄を乗り継ぎ、サン・ジェルマン・デ・プレ駅を目指す。

 

下の写真: 途中、地下鉄を乗り換えたシャトレ駅。

 

 

 

 

 

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< 4. 車内にて >

 

上の写真: 地下鉄の車内でカメラを向けると笑顔を返してくれた人。

今回のフランス旅行では、街角の人々のさりげない表情を撮りたいと思い、至る所でカメラを向けました。

中には嫌悪感を示す若い男性の視線に躊躇することはあったが、圧倒的に多くは笑顔で対応してくれ、ポーズを取る男性も居た。

フランス人の気さくさに惹かれました。

 

下の写真: サン・ジェルマン・デ・プレ教会の全景。

 

 

 

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< 5. サン・ジェルマン・デ・プレ教会外観 >

 

この教会は王都パリの最初期の歴史を物語る。

 

古くは、パリにはケルト人が住んいたが、紀元前後にローマ人に支配された。

当時は、シテ島と左岸に小さな集落があっただけだった。

その後、東方の異民族の侵略などにより荒廃した。

やがて勢力を拡大して来たフランク王国の初代王朝(メロヴィング朝)のクローヴィス王が506年にパリを首都にした。

 

542年、この王の子(キルデべルト王)がスペイン遠征の際、サラゴサで殉教した聖人の遺物を持ち帰った。

パリ司教サン・ジェルマンはこれを納めるためにこの教会を建築した。

この王はここに埋葬され、この教会は初代王朝の霊廟となった。

 

その後、フランク王国の分裂、バイキングの度重なる襲撃を経て、パリは王都から一地方都市になっていた。

987年、ユーグ・カペーはフランスの初代国王(カペー朝)に選ばれ、パリを首都にした。

 

この頃から12世紀にかけてパリは帝国の首都、学術と教会の拠点として発展していった。

政治と宗教生活の拠点であったシテ島では1163年、ノートルダム大聖堂の建設が始まった。

左岸(セーヌ川の南側)は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心であり、後に大学の町へと発展した。

逆に、対岸の右岸(セーヌ川の北側)は商業と経済の中心として発展していった。

 

こうして、1136年頃にパリ北端のサン=ドニ大聖堂がゴシック建築で改造され、ゴシック建築がフランスで開花し、ヨーロッパに広がった。

 

 

 

 

 

 

 

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< 6. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 1>

 

教会は修復工事中で観光客も少なかった。

教会内は暗く、ロマネスクらしい重厚で質素な趣がある。

この教会はロマネスク建築だが、後にゴシック様式で改造されている。

 

 

 

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< 7. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 2 >

 

右下の写真: パリ司教サン・ジェルマンの像と礼拝堂。

彼がこの教会を建て、鐘楼の下に眠っている。

 

 

 

 

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< 8. サン・ジェルマン・デ・プレ教会 3 >

 

今は小さな教会だが、かつて8世紀と17世紀は大規模な修道院で隆盛を極めたが、フランス革命で多くを焼失した。

 

 

 

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< 9. サン・ジェルマン・デ・プレ教会前の交差点 >

 

上の写真: 右奥がレンヌ通りで南側を望む。

下の写真: サン・ジェルマン大通りの西側を望む。

 

 

 

 

 

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< 10. 地下鉄駅 2 >

 

上の写真: 路線が異なるのでオデオン駅まで歩き乗車。

マピヨン駅が近かったが、迷ってしまって次の駅まで行った。

 

下の写真: クリュニー・ラ・ソルボンヌ駅で降車。

ここから大学街を歩き、アラブ世界研究所に向かう。

 

 

次回紹介します。

 

 

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フランスを巡って 53: パリ散策 1


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これから4回に分けて、パリの街を紹介します。

午後一杯かけて、中心部の5か所を巡りました。

この日も快晴で、パリの町と気さくな人々に触れ合いました。

 

 

はじめに

散策したのは、2017年5月27日の12:00~20:30です。

ルーブル美術館を正午に出て、ラ・デファンスに戻るまで地下鉄と徒歩で市内を巡りました。

この日は土曜日で至る所に市民が楽しく、くつろいでいました。

 

主に巡った所は市民が集い食事を楽しめるアンファン・ルージュの市場とムフタ―ル通です。

また歴史あるサン・ジェルマン・デプレ教会を訪れました。

さらに大学が並ぶエコール通りからセーヌ川沿いのアラブ世界研究所、ここからシテ島のノートルダム大聖堂まで歩きました。

 

交通機関はすべて地下鉄を利用しました。

 

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< 2. パリの散策マップ、上が北 >

 

地図の見方

赤矢印は地下鉄の乗車駅で、黒矢印は下車駅です。

赤の番号は乗車の順序です。

黒の曲線は乗り継ぎを示す。

青枠は散策した地域で、黒の番号は散策した順序を示す。

 

今回は、青枠の1番になります。

 

 

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< 3.地下鉄駅 >

 

上の写真: 最初の乗車駅、赤番号1のパレ・ロワイヤル ミュゼ・デュ・ルーブル駅。

 

下の写真: 最初の降車駅、アールゼ・メティエ駅。

 

 

 

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< 4. アールゼ・メティエ駅から歩き始める >

 

 

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< 5. アンファン・ルージュの市場に到着 >

 

この市場は「Rue de Bretagne」通りの交差点の角にある30m四方の市場です。

まさに庶民の市場の風情です。

観光客をほとんど見かけなかった。

 

 

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< 6. 昼食時 >

 

訪れたのが13:00頃だったので、食事処はごった返していました。

 

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< 7. アラブ風の料理を食べました >

 

上の写真: 右端の女性が注文を受付てくれる。

 

右下の写真: 注文した料理。

 

 

 

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< 8. アンファン・ルージュの市場を去る >

 

 

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< 9. カルナヴァレ館 >

 

下の写真: パリの歴史が見られる貴族の館であるカルナヴァレ館はあいにく閉館していました。

 

 

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< 10.サン・ポール駅まで歩く >

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 52: ルーブル美術館


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< 1. ルーブル美術館に入る >

 

 

今日は、パリ観光の目玉、ルーブル美術館を紹介します。

その前に、パリの名所を少し案内します。

この5月27日も快晴でした。

 

 

私がルーブル美術館を訪れるのは3回目になります。

30年以上前に初めて訪れたこの美術館での興奮が忘れられません。

その巨大さと展示物の豊富さ、古代ギリシャとロ―マの彫刻群、中世ヨーロッパの絵画に圧倒されながらも、くまなく見ようとしたことが懐かしい。

 

今回は、前回のフリーと違ってツアーの見学なので、有名な美術品を足早に見ました。

 

 

 

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< 2. エッフェル塔 >

 

バスを下車して、シャイヨー宮から眺めた。

 

 

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< 3.凱旋門 >

 

上の写真: 車窓から見たコンコルド広場。

 

 

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< 4. オペラ座 >

 

上の写真: 車窓から見たオペラ座。

 

 

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< 5. 街の人々 >

 

 

ルーブル美術館にて

 

 

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< 6.瀕死の奴隷 >

 

下の写真: ミケランジェロの2体の作品。

手前が「瀕死の奴隷」、左が「抵抗する奴隷」。

 

 

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< 7. ミロのヴィーナス >

 

 

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< 8.サモトラケのニケ >

 

 

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< 9. モナリザのある部屋にて >

 

上の写真: 「モナリザ」を見入る人々。

モナリザの写真が上手く撮れなかったので、替わりに。

 

下の写真: 「カナの婚宴」

モナリザの向かいに掛けてあるルーブル最大の絵。

モナリザの前は人だかりが多いので、モナリザを遠くから眺めている人々。

 

 

 

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< 10. フランスの歴史を物語る絵 >

 

上の写真: 「ナポレオン1世の戴冠式」

下の写真: 「民衆を導く自由の女神」ドラクロワ作。

 

 

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< 11. ルーブル美術館を見終えて >

 

 

次回から、パリの街角を散策し、市民の暮らしを肌で感じます。

 

 

 

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フランスを巡って 51: 前衛都市ラ・デファンスに泊まって


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今日は、パリの宿泊地ラ・デファンスの2日間を紹介します。

5月27日の朝夕の散策と28日(日)の朝のスーパーマーケットの紹介です。

 

 

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< 2. ラ・デファンスの地図、共に上が北 >

 

上の地図: 左の赤丸がラ・デファンスの位置。

ここはパリのシテ島からおよそ10km西側にある近代的なビルが林立するところです。

 

下の衛星写真: 赤矢印はラ・デファンスのシンボル、高さ110mの「グランド・アルシュ」(大きな門)です。

白矢印は、このグランド・アルシュから延びる道路の先に凱旋門が見える方向を示す。

緑の矢印は、今回宿泊したホテル「ルネッサンス・ラ・デファンス」です。

ピンクの矢印は、今回自由散策で利用した地下鉄駅への入口です。

黄色の矢印は、5月28日、帰国日の午前中に訪れた大型スーパーの入口です。

 

 

 

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< 3. グランド・アルシュの広場 >

27日の朝8:00頃です。

 

上の写真: 宿泊したホテルが中央右寄りに見えます。

 

下の写真: 遠くに凱旋門が見えます。

 

 

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< 4. ラ・デファンスの地下鉄駅 >

 

上の写真: 地下に降りたところから駅を見下ろす。

切符売り場が見えている。

 

下の写真: 27日、20:30頃、パリの自由散策を終えて地下鉄で帰って来て、地上に出た所。

 

 

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< 5. グランド・アルシュの前から >

 

上の写真: 20:30頃、グランド・アルシュの階段に多くの市民が腰かけてくつろいでいた。

フランスらしく、様々な人種が見られた。

 

 

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< 6. 親子と交流 >

 

この階段で一組の親子を見つけ、妻が折り紙を見せた。

これは帆掛け船の折り紙で、船の舳先を子供に摘まんでもらい、一度目を抓むって目を開けると、摘まんでいる場所が帆に変わると言うものです。

子供は事情がよくわからないのですが、お父さんが喜んでくれたのが幸いでした。

 

 

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< 7. パリの散策を終えてホテルへ >

 

27日は、午後、パリ中をよく歩いたので疲れた。

次回、紹介します。

 

 

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< 8. 28日朝のグランド・アルシュの広場 >

 

東側を見ている。

 

 

 

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< 9. グランド・アルシュの真下にて >

 

上の写真: 西側を見ている。

下の写真: 見上げた所。

 

 

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< 10. グランド・アルシュ >

 

上の写真: 全景。

 

下の写真: 広場の南側にショッピング街があり、出発前、日曜日でも開いている大型スーパーマーケットに行きました。

最後の買い出しでした。

右手の階段を下りた所から入りました。

 

 

 

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< 11. 大型スーパーマーケット >

 

ここは「Auchan」で、日曜日でも8:00AMから開いていました。

非常に大きいので商品を探すのに苦労しました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 50: ベルサイユ宮殿


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今日は、ベルサイユ宮殿の中を紹介します。

 

 

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< 2. 観光地図 >

 

私達が見学したのは2階の主に番号1から19までです。

 

 

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< 3. ルイ14世像 >

 

上の写真: 観光地図番号2「ヴィーナスの間」。

中央の像は「ローマ皇帝姿のルイ14世全身像」

 

下の写真: 観光地図番号7「戦争の間」。

中央の円形薄浮彫はオランダ戦争中にルイ14世がライン川を渡った姿。

 

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< 4. 鏡の回廊 >

 

鏡の回廊は観光地図の最上部。

 

 

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< 5. 王の居殿1 >

 

上の写真: 観光地図番号19の「閣議の間」。

 

下の写真: 観光地図番号18の「王の寝室」。

 

 

 

 

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< 6. 王の居殿2>

 

上の写真: 観光地図番号17の「牛眼の間」。

 

 

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< 8. 花壇を望む1 >

 

 

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< 9. 花壇を望む2 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 49: ベルサイユ宮殿へ


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今日は、シャルトルの町からベルサイユ宮殿までを紹介します。

この日は2017年5月26日(金)で快晴でした。

このフランス旅行もこの日の午後と明日のパリ観光で終わります。

 

 

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< 2. ベルサイユ宮殿 >

 

今日紹介する写真の撮影場所は主に二カ所の赤丸です。

 

 

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< 3. シャルトルの町を去ります >

 

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< 4. シャルトル大聖堂 >

 

カトリック教会が新たな息吹を込めたゴシック建築と共に隆盛を迎えた時代、そんな息吹きを少し感じることが出来ました、

この時期は、まさにフランスだけでなくヨーロッパ全体が十字軍遠征やサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼でキリスト信仰に沸き立った時代でした。

 

 

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< 5. 途中の車窓から >

 

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< 6. ベルサイユの町へ >

 

 

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< 7. ベルサイユ宮殿前の広場 >

 

私のベルサイユ宮殿訪問は二回目ですが、30年以上前も非常にたくさんの人出でした。

 

 

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< 8. やっと宮殿敷地内に入れました >

 

予約時間より早く着いいたので、入場するまでに半時間以上待ちました。

 

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< 9. やはり豪華、贅沢な外観です >

 

 

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< 10. 多くの人が待つ広場を望む >

 

 

次回に続きます。

 

 

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何か変ですよ! 87: 何が問題か? 10: そこにある未来


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今回は、日本の未来を考えます。

これはバラ色ではないはずです。

なぜなら日本は疲弊していく先進国と同じ道を辿っているからです。

 

 

はじめに

既に、私のブログで憂うべき状況を幾度も取り上げてきましたが、今回は若い人々の未来に焦点を当てます。

 

将来、日本で深刻度が増す問題

A: 年金と退職金の大幅な減額

B: 生涯賃金の大幅な減少

C: 介護費と医療費の負担増

 

多くの若い人は未来に不安を抱いていないように見える。

彼らは、今までもそうであったようにこれからもうまく行くと信じたいはずです。

まして現在、日本は好景気なのだから、きっとこのまま良くなって行くと期待さえしているかもしれません。

 

しかし、私の想定する40年後の未来(今の20~30才代の人が60~70才代になる頃)は生活がかなり苦しくなっているでしょう。

今の60~70才代に比べ、彼らが自由に使えるお金はおそらく2~3割減るでしょう。

当然、彼らのこれから受け取る生涯賃金もかなり減り、貯蓄は益々困難になり、老後資金はかなり不足するはずです。

 

聞きたくも信じたくもないだろうが、悲惨な結果を容易に予測できます。

この予測を行う前に、悪化が現実に起きている事を知ってもらいたい。

その先例が既に日本が手本とする先進国で起こっているのです。

 

 

先進国で今、起きていること

経済が豊かであるはずの先進国で今、何が起きているのでしょうか?

 

 

 

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< 図2.米国のマルチ世代家族の人口比率と人口、by Pew >

http://www.pewresearch.org/fact-tank/2016/08/11/a-record-60-6-million-americans-live-in-multigenerational-households/

 

上のグラフ: マルチ世代家族で暮らす人口の比率。

下のグラフ: マルチ世代家族で暮らす人口、単位百万人。

米国の総人口は現在3.2億人。

 

このグラフから米国のマルチ世代家族(祖父母と親子の三世代家族)の人口が1980年代から増え始め、この傾向が加速している様子が見て取れます。

特に2008年以降、急増しています。

皆さんの中には、これは移民が増えた結果ではないかと疑う人もいるでしょう。

 

 

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< 図3. 米国の人種毎のマルチ世代家族の人口比率の変化、by Pew  >http://www.pewresearch.org/fact-tank/2016/08/11/a-record-60-6-million-americans-live-in-multigenerational-households/

 

 

このグラフから、確かにマルチ世代家族は白人以外で多いが、むしろ白人家族の増加率は多人種より若干多いと言える。

この変化は人種に関わらず米国のすべての家族で起きていると言えます。

 

 

 

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< 図4.英国で増え続けるマルチ世代家族数 >

“Multi-family households, 1996 to 2013, UK” by Office for National Statistics

https://www.ons.gov.uk/peoplepopulationandcommunity/birthsdeathsandmarriages/families/bulletins/familiesandhouseholds/2013-10-31

 

これは英国のマルチ世代家族の最近の傾向を示しています。

ここでもマルチ世代家族の家族数の増加が見られます。

特に2008年と2012年には急増しています。

但し英国の場合、総家族数(2016年1890万家族数)に占めるマルチ世代家族の割合は直近で1.5%に過ぎない。

 

この米英で起きている現象は、ある重要な経済の変化と関りがある。

 

 

この背景にあるもの

 

5

< 図5. 米国の失業率の推移 >

https://www.bls.gov/spotlight/2012/recession/

 

このグラフから長期失業者が増加傾向にあることがわかります。

また1980年代前半と2008年以降(リーマンショック)は高失業率に見舞われています。

この時期と図2のマルチ世代家族の増加の時期はよく符合しています。

 

 

6

< 図6. 英国の失業率とGDPの推移 >

https://www.economicshelp.org/blog/1778/unemployment/uk-unemployment-rate/

 

このグラフからリーマンショック以降、増加した失業率が高止まりしており、このグラフでは分からないがその余波は2012年まで続いた。

ここでも図4のマルチ世代家族の2回の増加時期が符合している。

 

つまり、マルチ世代家族が増えた背景には、失業率の増大があったのです。

失業者が増えると、その家族達が支え合うようになったと考えられます。

これを昔の温かい家族形態への回帰と諸手を挙げて喜ぶべきではないでしょう。

当然、所得の低下も起きています。

 

これには更に根の深い問題があるのです。

 

 

1980年代から英米で何が起きているのか?

 

 

 

7

< 図7. 米国の所得階層毎の所得の推移、by TheAtlantic >

https://www.theatlantic.com/business/archive/2012/12/a-giant-statistical-round-up-of-the-income-inequality-crisis-in-16-charts/266074/

 

このグラフはバブル絶頂期(リーマンショック前)までの所得推移を示しているが、所得下位の60%までは1979年から30年間で17~59%も所得を減らしている。

それも上位1%の層が309%増やしているにも関わらず。

 

ここで是非とも知って頂きたい事は、経済が好調になれば所得が一時回復し失業率も低下するのですが、バブル崩壊を繰り返す内に確実に益々多くの人が所得を低下させ、長期失業者が増えると言う現実です。

このことは図5と図7からわかります。

 

もしあなたが、2007年の時点で図7の所得推移を見ているとしたら、きっと未来は洋々とし復活が約束されていると思ったことでしょう。

しかし、現実は非情でした。

 

 

 

8

< 図8.米国の所得階層毎の平均所得の推移、by Business Insider >

http://www.businessinsider.com/chart-average-income-since-1917-2013-2

 

リーマンショック後の2011年には下位90%(赤線)の人までが1970年代よりも所得を10%以上減らすことになった。

実は、このことはITバブル崩壊後の2003年(図7)でも同様のことが起きていました。

 

もし今の日本の好景気が世界のバブル経済に起因しているのであれば、確実にこの先、2008年のリーマンショックを遥かに越える金融危機が世界を襲うでしょう。

 

現在、大国(米国、ユーロ圏、日本、中国)は歴史的な貨幣供給を行って来ており、日本だけはまだ継続さえしている。

従ってバブル崩壊はほぼ間違いないでしょう、いつ起こるかは予測できませんが。

 

なぜこのような不条理が米国中心に起きているのでしょうか?

 

 

9

< 図9.高額所得者(1%)の所得シェアの推移、社会実情データ図録より >

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4655.html

 

このグラフから平等を守ろうするフランスを除いて、特に米英で高額所得者の所得シェアが1980年代から急増しているのがわかります。

残念なことに、日本も少し遅れて1990年代後半から格差が拡大しています。

この時期は日本政府が米国流の金融改革(金融ビッグバンなどの自由化)を1996年から始めたのに対応しています。

 

 

10

< 図10. 各国のGDPに対する社会的支出割合(福祉政策)、by wikipedia >

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A5%89

 

この図から各国の社会的支出割合(再分配)の程度が分かり、右の方がより高い。

米英でのマルチ世代家族数の違いは、所得格差を是正するはずの社会的支出が両国で違うことによるのでしょう。

米国は赤線、英国は茶色線、日本は黒線、カナダは左側欄外にある。

福祉国家と呼ばれる北欧とフランスを青線で示す。

 

 

 

まとめ

つまり英米で起きている家族形態の変化は、繰り替えされるバブル崩壊によって引き起こされた長期失業者の増大と国民の所得低下がもたらしたものでした。

 

そしてこの失業率の増大と国民の所得低下、逆に高額所得者の著しい所得増加は1980年代から起きている。

 

これは既に紹介しているサッチャーとレーガンによる政策「自由放任主義経済と金融重視」と「小さな政府による福祉政策(再分配)の切り捨て」への転換が始まりです。

前者の経済政策については、多くの先進国で大なり小なり実施されており、特に日本は益々その度を強めています。

後者の社会政策についても、多くの先進国が倣っていますが、逆に北欧やフランスのように強めている国もあります。

 

したがって、日本が現状の米国追従の経済政策を続ける限り、やがて米国と同じか、さらに急激な少子高齢化が重なり悪化は深刻化するでしょう。

 

つまり日本の将来は大多数の国民にとって経済的困窮が必然なのです。

 

しかし、一つだけ希望があります。

北欧は同じ資本主義国家でありながら、その経済・社会政策(福祉国家)により高い幸福度と高い経済力を維持していることです。

いずれ紹介します。

 

 

次回は、日本の勤労者の惨めな未来を予測します。

 

 

 

 

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フランスを巡って 48: シャルトル大聖堂の内部


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*1

 

今日は、シャルトル大聖堂の内部を紹介します。

 

 

 

2l

< 2. シャルトル大聖堂の構造 >

 

上の図: 平面の断面図。借用。

下の図: 上の図の赤矢印から見た俯瞰図。グーグルアースより。

 

 

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< 3.後陣(東端)の比較 >

 

上の写真: 初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の後陣。借用。

 

下の写真: ロマネスク建築のサント・マリー大修道院付属教会の後陣。借用。

 

ゴシック建築はパリ郊外のサン・ドニ教会の後陣改築から始まったが、続いて建てられたシャルトル大聖堂と以前のロマネスク建築の後陣を見比べると、両者の違いが明瞭になる。

 

この変革によって、後陣は大きな窓で開放的になり、鮮やに彩られたステンドグラスからの陽の光りが聖書の世界をより印象的に物語るようになった。

また主祭壇を囲む周歩廊は屋根が高く広く明るくなり、外側に放射状に配された礼拝堂への参拝がやり易くなった。

 

これによる全周の壁の荷重を軽減する為に幾つものフライング・バットレス(飛梁)が放射状に地上まで伸びている。

 

 

 

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< 4. 様々な光景 >

左上の写真: 美しい身廊のヴォールト。

 

右上の写真: 身廊中央の床に描かれた迷宮。

これは十字軍の時代、エルサレム巡礼が叶わぬ信者達に体験出来るように造られたと言われています。

 

左下の写真: 尖頭アーチのヴォールト。

ゴシック建築から半円アーチではなく、このような二つの円が頂点で交わる型になり、高さを自由に取れるようになった。

 

 

5

< 5. ファサード(西中央の門)のバラ窓 >

 

下の写真: バラ窓下の3枚のステンドグラスの右端を拡大。

これは「エッセイの家計樹」と呼ばれ、最上段にイエスが座す。

 

 

 

 

6

< 6. 南翼廊のバラ窓 >

 

左上の写真: バラ窓。

右上の写真: 南翼廊の左手(東側)の側廊に対になった二つステンドグラスが見える。

 

下の写真: 上記ステンドグラスの左手の最上段が「美しい絵ガラスの聖母」です。

ステンドグラスの黒い影はフライング・バットレスによるものでしょう。

 

 

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< 7. 様々なステンドグラス >

 

左下の写真: 北翼廊のバラ窓。

 

 

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< 8.青色が美しい >

 

撮影を失敗し、有名な「シャルトルの青」をうまく再現出来ませんでした。

 

 

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< 9. 身廊から内陣を望む >

 

明るい陽射しに包まれた内陣。

 

 

 

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< 10. 内陣を囲む壁の彫刻 >

 

周歩廊に沿ってこのような彫刻群が連なる。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 47: シャルトル 1


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*1

 

今日は、シャルトルの町と大聖堂の外観を紹介します。

この大聖堂は初期ゴシック建築とステンドグラスの青色で有名です。

この日も、快晴で爽やかな観光になりました。

 

 

2map

< 2. 地図、上が北 >

 

上の地図: 赤丸のシャルトルはパリの西90kmのところにあり、途中にベルサイユがあります。

シャルトルの南にはロワール川沿いの都市オルレアンがあります。

シャルトルの人口は4万人と大きくはなく、広大な麦畑の中に浮かぶ島のような都市です。

 

下の衛星写真: 私達は街の中央広場でバスを降り、S点から徒歩で大聖堂を見学して、また戻りました。

 

 

3z

< 3. ゴシック大聖堂の由来 >

 

上の地図: ゴシック建築が始まる当時のフランス(カペー朝)領土の変遷図。

カペー朝の領土は青、英国系は赤。

赤丸がシャルトル、茶色丸がパリ。

 

下の絵 : ゴシック建築とその前のロマネスク建築の特徴を示す。

 

 

私は以前から、ゴシック建築がなぜこの地で花開いたかのが気になっていました。

その経緯を簡単にまとめておきます。

 

ゴシック建築は、パリ北側の郊外にあるサン・ドニ王室修道院聖堂の1136年からの部分的改築に始まった。

ここは歴代フランス君主の墓所でした。

 

これに続いて、シャルトルのノートルダム大聖堂(マリアに捧げれらた)は、サン・ドニに続いて1145年から建築が始まった。

しかし途中の大火災で西側正面を残して全焼し、1194~1220年に再建が成った。

この大聖堂は現存する初期ゴシック建築物で最古であり最上級の建築になる。

その後、この建築様式はフランス全土からヨーロッパに広まり、ルネサンス期まで続いた。

 

それではなぜこの地にゴシック建築が花開いたのか?

 

フランク王国が三つに分裂して出来た西フランク王国も987年に断絶し、その後、カペー朝がフランス王家を継承し14世紀まで続いた。

このカペー朝は設立当初、権力基盤が弱く、パリ周辺のみ(左地図の青部分)を領有するだけであった。

 

しかしカペー朝は周辺の教会勢力(司教座)を支配下に置いており、特にサン・ドニ修道院の修道院長シュジェールがこの王朝の伸張に尽力することになった。

この修道院長がサン・ドニ修道院の内陣(祭祀の中心的な場所)と周歩廊を画期的な空間へと改造し、これがゴシック建築の緒となった。

彼の指示によって。ロマネスクの重厚で狭く暗い部屋は、神の光が差す温かみのある空間へと変貌した。

そしてこの修道院長の友人であったシャルトルの司教は大聖堂をゴシック様式で建築した。

 

つまり成長期にあった王朝とキリスト教会が一緒になってフランスを盛り上げる為に、神の国の新しい教会を体現したと言えそうです。

 

 

4

< 4.広場で >

 

 

5

< 5.広場から大聖堂へ >

 

6

< 6. 大聖堂 >

 

左下の写真: 西正面の左の塔にはゴシック建築の美しさがある。

右下の写真: この像は焼け残ったことによりゴシック最初期の作品となった。

これらはロマネスクの像に比べ、写実的になりつつある。

 

 

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< 7. 西正面(ファサード) >

 

 

8

*8.

 

 

 

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< 9. 大聖堂周辺の街並み >

 

 

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< 10. シャルトルの町 >

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 46: シャルトルへ


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*1

 

 

今日は最後の宿泊地パリを目指し、途中、シャルトルの大聖堂を訪問します。

ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯に入って行きます。

この日も快晴でした。

 

 

 

 

2map

< 2. バス走行ルート >

 

旅行日10日目、2017年5月26日(金)、朝8時にホテルを出発し、シャルトルの町に到着したのは午前10時過ぎでした。

 

今回紹介する写真にはロワール渓谷のものはなく、出発後1時間を経たボース平野を抜け、シャルトルの町に入った写真です。

 

 

 

3

< 3.静寂に包まれたトゥールの町 >

 

朝8時、ホテルをツアーバスで出発した。

 

 

 

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< 4. ボース平野 >

 

出発後1時間を経る頃には起伏の残る平野から、只々広大な平野が広がっていました。

 

 

 

5

*5

 

 

6

*6

 

 

 

7

< 7. シャルトルの町 >

 

シャルトルの町に入って来ました。

かわいい家並みが続きます。

 

 

 

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*8

 

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< 9. シャルトルの中央広場に到着 >

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 45: トゥールへ


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*1

 

 

今日は、シャンボール城を出て、ホテルがあるトゥールまでの眺めを紹介します。

この日はキリスト昇天祭の休日で、ロワール川で憩う市民の姿が印象的でした。

撮影したのは2017年5月25日の17時から20時までと、翌朝の朝6時台です。

 

 

 

2map1

< 2.バスのルートとトゥールの地図、上が北です >

上の地図: シャンボール城からトゥールまでのバスのルート。

ほとんどロワール川沿いを走りました。

 

下の衛星写真: HはホテルH、Sは市庁舎、Rは夕食のレストランを示しています。

レストランはメインストリートにあり、またホテルの直ぐ隣が鉄道駅です。

さらに北側にロワール川が流れています。

 

 

 

3

< 3. シャンボール城付近の村 >

 

 

4

*4

 

 

5

< 5. ロワール川1 >

 

上と下の写真: 自然豊かな堤や河川敷に多くの車が見えます。

 

 

6

< 6. ロワール川2 >

 

中央の写真: 川遊びをしているようだが、何をしているかは分からない。

 

下の写真: 河原でくつろぐ人々とキャンピングカーが見える。

フランスの至る所で、走っているキャンピングカーや何十台も駐車しているキャンピングカーを見た。

羨ましい限りです。

 

 

 

7

< 7. ロワール川3 >

 

家族で楽しんでいるサイクリングを見ました。

 

 

 

8

< 8. ロワール川4 >

 

上と中央の写真: 河原の砂地や林で、たくさんの家族で休日を楽しんでいた。

 

 

 

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< 9. トゥールに到着 >

 

上の写真: 右手中央が鉄道駅、左側にホテルが見える。

 

下の写真: 左手中央が市庁舎です。

 

 

 

10

< 10. 市庁舎前のメインストリート >

 

上の写真: メインストリートの街路樹の下に設けられたレストランのテラス席。

地図のRです。

私達はこの一角で夕食をとりました。

 

 

 

 

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< 11. 鉄道駅1 >

 

翌朝、朝6時台に訪れました。

 

 

 

 

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< 12. 鉄道駅2 >

 

下の写真: 1台のピアノが置いてありました。

旅の思い出に弾けたらどんなに良いだろう・・・

まったく弾けないのが残念です。

 

 

 

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< 13. 鉄道駅3 >

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 44: シャンボール城


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*1

 

 

今日はシャンボール城を紹介します。

外観だけの紹介になります。

 

 

ロワールの古城

百年戦争に勝利したシャルル7世がシノン城(今は廃墟)に宮廷を移してから約160年間、ロワール川流域はフランスの政治・文化の中心でした。

貴族たちはこぞって城を建て、華やかな宮廷絵巻を繰り広げますが、やがて歴史の舞台はパリ郊外に移って行きました。

 

この流域には、中世期の要塞、王家の城、ルネッサンス期の邸宅、古い田園屋敷、壮大な聖堂など、現在も無数の歴史的建造物が残っています。

フランソワ1世やシャルル7世といった王家の人々や、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家がロワールの景観に魅了され、この地で暮らしました。

ロワール河流域の800㎞に渡る一地帯にある21の城館が2000年よりユネスコ世界遺産に登録された。

美しいシャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城、シュヴェルニー城などが代表的です。

 

 

 

2map

< 2. Map、上が北です >

 

上の地図: ロワール川流域の主要な城館。

訪問したはAのシュノンソー城、Bのシャンボール城です。

 

下の地図: シャンボール城の衛星写真。

見学は駐車場Pから川の向かいVまで徒歩で行きました。

見学は自由時間で行ったが、時間もなく入館しませんでした。

 

 

 

3

< 3. 駐車場から城まで >

 

 

 

4

< 4. 橋を渡り、ビューポイントへ >

 

 

 

5

< 5. 広大な森が広がっています >

 

 

6

< 6. 不思議な外観 >

 

この城は美しいとの評判ですが、私には屋根の上を埋め尽くす無数の煙突か尖塔が不気味に思えた。

 

 

7

*7

 

 

8

*8

 

 

シャンボール城はロワール川流域の城館では最大です。

この敷地面積はパリ市の大きさに匹敵し、ヨーロッパ最大の森林公園で、多くの野生動物が生息しているそうです。

 

このロワール川流域の城館は、ジャンヌ・ダルクとレオナルド・ダ・ヴィンチと深く関わっている。

 

この地域の発展はシャルル7世がこの地に城を構えたのが始まりでしたが、これを可能にしたのがジャンヌ・ダルクでした。

それは、彼女が少し上流のオルレアンを開放したの機に敗戦色濃い百年戦争が形勢が逆転し、シャルル7世はフランス王の戴冠を行うことが出来たからです。

 

このシャンボール城を建てのはフランソワ1世ですが、彼はミラノ遠征でイタリア・ルネッサンス文化に魅入られ、フランス・ルネサンスを開花させることになりました。

そこで彼はレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せ厚遇し、ダ・ヴィンチはこの地で死んだ。

シャンボール城の螺旋階段のアイデアはレオナルド・ダ・ヴィンチのものだそうです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 43: シャンポール城に向かう


 

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今日は、同じロワール地方にあるシャンポール城までの車窓の景色を紹介します。

走ったのは、2017年5月25日(木)の午後でした。

 

 

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< 2.地図、上が北 >

 

バスがシュノンソー城を出発したのは13:20頃で、シャンポール城に到着したのは16:30でした。

この時も快晴で、雲一つなかった。

地図の青線は走行ルートを示しますが、この道を通過したかは確信がありません。

ただロワール川沿いを走ったことは確かです。

 

以下の写真のほとんど撮影順に並んでいますが、数枚は異なります。

 

 

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*3

 

4

< 4. ロワール川 >

 

フランスの幾つかの大河沿いを走ったが、セメントでの護岸工事がなされていないことに感心した。

それは都市周辺でも変わらない。

そして河原の自然の緑が至る所、憩いの場となっていた。

 

なだらか地形がこの川の風景を許すのか、おそらく生活を楽しむ人々の思いが、この景観を守り育ているのだろう。

フランスの経済は良くはないが、国民はそれを凌ぐ生活の場を得ており羨ましい気がする。

 

 

5

< 5. ロワール川沿いの城 >

 

 

 

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< 6. ロワール川沿いでサイクリングを楽しむ人々 >

 

 

7

< 7. 乗馬を楽しむ人々 >

 

 

8

*8

 

 

 

9

*9

 

 

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*10

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 42: シュノンソー城 2


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*1

 

 

 

今日は、シュノンソー城の内部を紹介します。

こじんまりした女の館で、それぞれの部屋やホールに特徴がありました。

非常にたくさんの観光客で混んでいました。

 

 

 

2

< 2. 城内マップ >

 

上の写真: 上流から見ている。

下の地図: 城は4階建てで、1階の様子を示す。上が上流。

1番は護衛兵の間、2番は礼拝堂、3番はディアーヌ・ド・ポワティエの部屋。

6番はギャラリー、9番はルイ14世の居室。

7番は階段を下りた所にある厨房。

 

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< 3. 代々の女城主 >

 

この城は外観が美しく、ロワールの古城のなかでも1,2を争うと言われています。

この立役者が上記の7人の女性で、実に様々な女性らしい物語が秘められていました。

 

この城は16世紀の創建ですが、2番目の城主は国王の寵姫ディアーヌです。

この国王の正妻であったカトリーヌは国王の死後、ディアーヌを追い出し、主となり、橋の上にギャラリーを作り、この城は盛時を迎えた。

庭園にはこの二人の名が付けられている。

 

5番目のルイーズ・ド・ロレーヌは夫の国王が暗殺された後、白い喪服をまとい、この城の一室で祈りに人生を捧げました。

6番目のルイーズ・デュパンは啓蒙思想の知識人として有名で、モンテスキュー、ヴォルテール、ルソーといった哲学者をサロンに招き、シュノンソー城はかつて

の栄光を取り戻した。

またフランス革命の暴動から、この城を守った。

 

7番目のマルグリットは資産家の娘で、破産するまで城の修復に資産を投じた。

8番目の実業家の娘シモーヌは、第一次世界大戦中、このギャラリーを病院に改築し、2000人以上の負傷兵を自ら看護した。

 

 

 

 

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< 4. ルイ14世の居室 >

 

 

 

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< 5. ディアーヌ・ド・ポワティエの居室 >

 

 

6

< 6. ルイーズ・ド・ロレーヌの居室 >

 

上の写真: 三階のルイーズ・ド・ロレーヌの居室。

彼女はこの薄暗い一室に籠って、弔い続けた。

 

左下の写真: 三階のホール。

右下の写真: 一階の護衛兵の間のタペストリー。

 

 

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< 7. ギャラリー >

 

上の写真: 1階のギャラリー。

下の写真: 2階のホール。

 

 

 

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< 8.フランソワ一世の居室 >

 

 

9

< 9. 厨房 >

 

 

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< 10. 通路など >

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 41: シュノンソー城 1


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*1

 

 

今日は、シュノンソー城の外観と庭園を紹介します。

訪れたのは2017年5月25日、12:30~15:30でした。

雲一つない快晴でした。

 

 

 

 2

< 2. シュノンソー城の地図、上が西です >

 

上の地図: Sが駐車場で、私達は受付をして左側に延びる並木道を通り、庭園に出た。

ここで右に折れてRのレストランに行き、昼食をとった。

Mは帰りに寄った迷路です。

 

下の写真: お城と庭園を拡大した。

 

川はロワール川の支流シェール川で、東(地図下)から西(地図上)に流れている。

 

 

 

 3

< 3. 並木道を行くと >

 

庭園と白い城が視界に飛び込んだ。

 

 

 

 

 4

< 4. 昼食を終え >

 

レストランからディアーヌの庭園を抜け、城に向かう。

 

 

 

 5

< 5. 城の正面に出る >

 

この城は6人の女性が暮らしただけあって威圧的なところがなく、あくまで優美です。

 

 

 6

< 6. シェール川 >

 

上の写真: 下流側(西)を望む。

下の写真: 上流側(東)を望む。

 

 

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< 7. 城内から庭園を望む >

 

上の写真: 城の北西を望む。カトリーヌの庭園。

下の写真: 城の北東を望む。ディアーヌの庭園。

 

 

 

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< 8. ディアーヌの庭園に向かう >

 

 

 

 

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< 9. ディアーヌの庭園から見た城 >

 

 

 

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< 10. ディアーヌの庭園 >

 

 

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< 11. 生垣を刈り込んで迷路 >

 

駐車場への帰りは並木道と並行した道を行った。

 

 

 

 12DSCF0998-1

< 12. お花畑 >

 

帰り道沿いに、野菜やお花を栽培している広い畑があった。

 

 

次回は城の内部を紹介します。

 

 

 

 

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