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フランスを巡って 28: ストラスブールからランスへ


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今回は、フランスの東北部、ストラスブールからランスまでの車窓風景を紹介します。

そこには、なめらかな起伏をもつ広大な緑の大地が広がっていました。

私達はフランスの誕生や幾多の戦いと関わりがある地を走り抜けていきました。

 

 

この日のルートについて

写真は旅行日7日目、5月23日(火)、ホテル出発8:00でランス到着12:10までの景色をバスの車窓から撮ったものです。

この日の朝は雲に覆われていましたが、走るに連れ雲が無くなり青空が広がって行きました。

 

このルートはアルザスの北部からロレーヌを抜け、シャンパニューに入ります。

この三つの地は順にドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーと北側で国境を接しています。

前回紹介したように、アルザスとロレーヌはほぼ500年間、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国、プロイセンなど)の激戦地となりました。

第一次世界大戦の西部戦線、第二次世界大戦のマジノ線をどこかで横切ることになります。

またフランス革命戦争の地ヴァルミー、晋仏戦争の地リヒテンベルクの近くを通過することになります。

 

シャンパニュー地方は発泡性ワインのシャンパンと、大聖堂で有名なランスがあります。

英仏の百年戦争の英雄ジャンヌダルクはシャンパニューで生まれ、ランスの大聖堂とも関わりがある。

 

以下の写真はすべて撮影順に並んでいます。

 

 

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< 2. 走行ルート >

 

地図: 上が北で、青線がランスまでのルートです。

Aはフランス革命戦争の地ヴァルミー、Bは晋仏戦争の地リヒテンベルクです。

Cはジャンヌダルクの誕生の地です。

 

下の写真は朝のストラスブールです。

 

 

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下の写真: 軍用車の列に遭遇した。

 

この近くに駐屯地があります。

 

 

 

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下の写真:屋根側がアルザスとは異なります。

撮影9:20.

 

 

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< 13. ランスに到着 >

 

 

あとがき 

私の目には、この道からの景色は豊かな自然に恵まれた平和な地としか映らなかった。

 

三つの国と国境を接し、紛争を重ねたことが嘘のようです。

またこの地はワイン栽培の北限であった為、他のワイン産地に負けて、打開策としてシャンパンを生み出さなけれならなかった。

 

またシャンパニューのランスは、ローマ帝国滅亡後、フランスの源流となるフランク王国誕生(5世紀末)時の領土の中央に位置した。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 26: ストラスブール最後の夜


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今回は、ストラスブールの最後の夜の散策と出来事を紹介します。

わずかに夕陽の赤味を帯びた旧市街の様子、二つのレストラン、そして大型スーパーについて記します。

 

 

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< 2. 散策の概要 >

 

散策したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、17:00~21:00です。

私達は最初にスーパーへ買い物に行き、一度ホテルに戻って荷物を置き、折り返し、旧市街に向かいました。

 

上の地図: 今回の散策ルート。上が真北です。

茶色線は大型スーパーSMに行った往復ルートです。

赤線は予約したレストランL1を目指して散策したルートで、黒線は代わりのレストランL2を経て帰ったルートです。

CAは大聖堂です。

 

下左の写真: 大型スーパーに行く途中で見かけたガンジーの像。

ストラスブールが幾多の紛争を乗り越え平和を獲得したことを如何にも象徴している像でした。

 

下右の写真: ガンジー像の周囲の花々の左奥に見えるのがショッピングモールで、このずーと奥に大型スーパーがあります。

 

大型スーパーはワンフロアですが非常に大きく、商品を探すのに苦労するほどでした。

ここでは主にお菓子とチーズを物色し、旅の途中なので少なめに購入したのですがミスをした。

帰国後、知ったのですが、ほとんどのチーズの正味期限が短いのです。

短いものでは1週間以内のがありました。

バルト三国でも買ったことがあり、柔らかいチーズは帰国までに形が崩れることは知っていたのですが、これには驚いた。

何種類も買って、帰国後が存分に楽しめたのですが、焦りました。

 

フランスを巡っていると、フランス人にとってワインとチーズは食事に本当に欠かせないものだと知りました。

 

 

 

 

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< 3. ホテルの裏手を行く >

 

瀟洒なアパート群が目を引きます。

運河にはボートを楽しむ人々と、のんびり泳ぐ白鳥の姿があった。

 

 

 

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< 4. 運河を渡る >

 

朝な夕なに、ジョキングや散歩する人の姿が見られた。

この都市は空気が綺麗です。

 

 

 

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< 5. 大聖堂が見える >

 

800年の長きにわたり、この鐘楼は市民の熱気と血なまぐさい闘争の歴史を見て来たことだろう。

 

下右の写真: ひょっとすると城門の跡かもしれない。

 

 

 

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< 6. 南側のイル川を渡る >

 

 

 

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< 7. イル川の堤を散策 1 >

 

 

 

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< 8. イル川の堤を散策 2 >

 

堤のそこかしこに、夕暮れの川風を楽しむ人々の姿を多く見かけた。

 

 

 

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< 9. プチット・フランス 1 >

 

下の写真: 右奥に船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

 

 

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< 10. プチット・フランス 2 >

 

 

 

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< 11. レストランL2にて >

 

今回の旅行での私達夫婦の楽しみの一つは、日本でフランスのレストランを予約しておき、その地の雰囲気と食事を愉しむことでした。

1回目のリヨンでは成功しましたが、2回目のストラスブールではトラブルに合いました。

 

事前にメールで予約確認のやり取りを済ませて、予約時間に地図のレストランL1の前に行きました。

すると青年6~8人のグループが、店の前にたむろしており、店はクローズしているようでした。

彼らの人相は悪くは無かったのですが、周囲に人通りはなく、一瞬不安がよぎりました。

意を決して、彼らをかき分けるようにして、店のドアの前に進みました。

すると彼らは残念そうに「店は閉まっています」と教えてくれました。

彼らも予約客だったようです。

おそらく私の顔はこわばっていたことでしょう。

 

私達は、仕方なく店から直ぐに立ち去りました。

帰国後、この店から、この前日にメールがパソコンに入っていたのがわかりました。

「申し訳ありません。急にキッチンの水道が故障したので、予約当日は閉店させて頂きます。後日、予約を頂ければ幸いです。」

後の祭りでした。

それでも、このレストランはトリップアドバイザーで人気のある地元料理(ドイツ系)の店だったので残念でした。

 

その後、気を取り直し、メインの通りでレストランを探し、写真の店L2に入りました。

実はこの店はスペイン料理、タパスを出すバール「BAR」です。

スペインのバルセロには2回行ったのですが、憧れのバールに入ったことが無かったので、衝動的に入ったのです。

 

しかし、ここでもハップニングがありました。

先ず失敗だと分かったのは、メニューを見た時です。

フランス料理のメニューは下調べしていたのですが、フランス語のスペイン料理はチンプンカンプでした。

困り果てていると、たまたま空いていた隣の席にアジア系の男性二人が座りました。

 

なんと彼らは日本語を話しだしました。

すかさず私は、彼らに救いを求めました。

すると一人はドイツ語なら自信があるのですが、フランス語も少しは使えるとのことで、私達の注文を手伝って頂きました。

 

この二人はある国立大学の先生と院生で、次の日に太陽電池の研究発表があると言うことでした。

その後、彼らと太陽電池の将来などについて話が弾み、楽しい一時を過ごしました。

 

旅行先での人との触れ合いは実に刺激的で楽しい。

 

 

 

 

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< 12. メインの通り >

 

時刻は8:30前後でした。

月曜日は多くの店が閉まるのですが、夕時を愉しく過ごす人々が通りに溢れていた。

 

 

 

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< 13. ストラスブールとのお別れ >

 

この大聖堂の姿を見ることが、ここ5年ほどの夢でした。

ヨーロッパの宗教革命の始まりや、ここ数世紀のストラスブールの苦難の歴史を調べているうちに、是非とも行きたくなっていた。

そして国境の町ストラスブールとアルザス地方を駆け足ながら直に見て感じることが出来ました。

 

 

次回は、アルザスとストラスブールについて語るつもりです。

 

 

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フランスを巡って 25: 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル


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まるで中世そのままの町がブドウ畑の中にある。

さらにアルザスワインのワイナリーが数多くある。

私達は小さな村の散策を愉しみ、ワイナリーで試飲しました。

 

 

 

リクヴィルについて

この町はコルマールの北方12kmほどの処にあります。

 

ここは小高い山が途切れ、それに続くなだらかな斜面に広がるブドウ畑にあります。

この町は縦断するメインの通りが350mほどの長さしかない小さな町です。

しかし、第二次世界大戦の爆撃を幸いにも免れたことにより、16世紀以降の家並みが町全体に残っています。

 

また多くのワイナリー、アルザス最大手のワイナリーなどが町の中や周囲にあり、観光客を楽しませてくれます。

 

ここを訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、14:10~15:30です。

この日も快晴でした。

 

 

 

 

 

 

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< 2. リクヴィルの地図、右が真北です >

 

下の写真: 黄線はリクヴィルの散策ルートを示します。

駐車場Sに到着し、東西に延びるメインの通りをポート・オートGまで行き、少し戻ってワイナリーWに入った。

試飲が終わると、自由時間となり、私は教会Cの前を通り、村の外周の一部を歩いた。

その後、駐車場Sからストラスブールに戻った。

 

 

 

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< 3. 市役所と噴水 >

 

駐車場から最初に出会うのがこの市役所です。

この市役所のまえから西にメインの通りが伸びている。

 

 

 

 

 

 

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< 4. メインの通りを行く >

 

上の写真: 緩やかに上っているメインの通りを西に向かって進む。

 

下右の写真: 1561年に切妻壁の建物をつなげて造られた6階建ての家屋で、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つです。

 

 

 

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< 5. 通りに面した店の顔 >

 

下二つの写真: アンシ作の看板。

 

この通りに面してアンシ美術館があります。

 

 

 

 

 

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< 6. ドルダー・タワー >

 

ドルダータワーは13世紀に壁に沿って建てられた望楼で、中には鐘がある。

非常時の警報用です。

 

上左の写真: メインの通りからドルダータワーを見た。

上右の写真: ドルダータワーをくぐり抜け振り返った。

 

 

 

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< 7. ポート・オート >

 

この門はドルダータワーの直ぐ外側に1500年に建てられた。

二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子が備えられていた。

 

上の写真: 村の中側から見た。

 

下の写真: 村の外側から見た。

門の左側に壁らしいものが見える。

 

 

 

 

 

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< 8. ワイナリーで試飲 >

 

上左の写真: 試飲したワイナリーの入口。

 

 

 

 

 

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< 9. 教会と路地 >

 

ワイナリーの後は自由時間なので、私はこの路地を抜けて村の外に出ました。

 

下の写真: 路地から外に出るには、この写真右に見える民家にあるトンネルをくぐり抜けなければなりませんでした。

 

 

 

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< 10. 村の北側外周 >

 

村の外に出てから、外周に沿って市役所の方に回り込みました。

 

この時、私はやっと気が付きました、この村は単に古いワイン作りの村ではなく、堅固な城塞都市ではなかったのかと。

上の写真に見える村を囲む城壁のような家屋、下の写真に見える噴水は堀の跡ではないかと。

 

それであれば、既に見た二重の門、城壁のような壁の名残が合点出来る。

この最後に、リクヴィルの歴史と城塞の種明かしをします。

 

 

 

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< 11. メインの通り >

 

至るところに噴水が見られる。

 

 

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< 12. 村の南側 >

 

南側には、ブドウ畑の中に現代の住宅が広がっている。

この駐車場からこの村とはお別れです。

 

 

 

リクヴィルの歴史

この町はローマ時代に遡る。

11世紀、この地一体を寄付された修道院がブドウ畑とリクヴィールを所有した。

1269年、神聖ローマ皇帝がここに城を建設し、アルザスで一番最初に要塞化された町となった。

その後、城主は幾度も替わり、公爵の城下町として栄えた。

16世紀に住民の多くがプロテスタントへと改宗した。

1796年、フランス革命軍との戦いの結果、公爵家はリクヴィルを含むアルザスの所領を放棄し、ここはフランスに併合された。

そして第二次世界大戦中、この一帯で戦禍を免れた数少ない町となった。

 

 

 

 

 

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< 13. 城塞化の経緯 >

 

この地図から、1291年の城壁、さらに1500年、その外側に城壁が造られたのがわかる。

このことがドルダー・タワーとポート・オートの二重門が存在する理由でした。

 

 

 

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< 14. 1644年のリクヴィルの俯瞰図 >

 

これは町を東側から見たもので、手前が現在の市役所側になる。

二重の城壁と堀が見える。

 

 

私は、こののどかなアルザスの地にこれほど要塞化した村や都市が多いとは思わなかった。

今回訪れた、アルザスの三つの地がすべて要塞化されていた。

コルマールの要塞化については説明していませんでしたが、かつて城壁で囲まていた。

ストラスブールとコルマールは自由都市になっていた。

 

このアルザスはライン川が流れ、ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスの間にあって、交易上有利であったが戦火が絶えない地であったのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

3

< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1


 

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いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。

プチットフランスと大聖堂が有名です。

今回は、前半を紹介します。

 

 

なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。

さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

 

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。

その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

 

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。

この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

 

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。

 

 

 

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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

 

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。

この日も素晴らしい天気でした。

青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。

その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

 

 

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< 3. クヴェール橋 >

 

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。

上の写真から順次、北から東の方を見ている。

 

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

 

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。

こちらの川が南側を流れるイル川です。

ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

 

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。

この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

 

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。

戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。

きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。

だが、後で私の勘違いとわかりました。

 

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。

1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。

 

 

 

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< 4. ヴォーバンダム >

 

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.

13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

 

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。

右手のガラスの建物は近代美術館。

 

下の写真: ヴォーバンダムの内部。

私達はそのアーチの上を歩いている。

写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

 

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、

1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。

 

 

 

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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

 

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

 

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

 

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。

 

 

 

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< 6. プチットフランス 1 >

 

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。

これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。

この景観は16~17世紀に始まる。

 

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。

その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。

またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。

どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

 

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。

この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。

 

 

 

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< 7. プチットフランス 2 >

 

 

 

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< 8. プチットフランス 3 >

 

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。

川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 通り 3 >

 

地図番号4から5の間の通り。

 

 

 

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< 10. サン・ト―マ教会 >

 

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

 

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。

そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。

そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。

その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。

 

 

 

 

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< 11. グーテンベルグ広場 >

 

グーテンベルグの像が立っている。

彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。

この広場はこれを記念したものです。

 

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。

その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

 

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。

またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

 

後半は、次回紹介します。

 

 

ストラスブールの城郭について

帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。

 

 

 

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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

 

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

 

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。

 

 

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< 13. ストラスブールの城郭図 >

 

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

 

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.

この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。

現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。

中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。

 

 

中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。

上の俯瞰図の平面図と考えられる。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

 

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。

この時期になると、更に城郭は拡大している。

 

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。

ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。

ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

 

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

 

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。

17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。

これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

 

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。

これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 21: ストラスブール 夕刻と朝に


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< 1. 大聖堂 >

 

 

ストラスブールには2泊し、ストラスブール旧市街とアルザス地方の町と村を観光します。

観光の概要を紹介します。

今回は、ストラスブールに到着した夕刻の旧市街とホテル周辺の朝を紹介します。

 

 

 

ストラスブールとアルザス観光

初日は、旅行5日目、5月21日(日)で、18:30にストラスブールに到着し、旧市街で夕食を済ませ、ホテルに入った。

 

次の日、22日(月)、朝は旧市街を徒歩観光し、次いでバスに乗りプティット・ベニスで知られたコルマールとワイナリーのあるリクヴィルを訪れた。

夕刻、ホテルに戻った。

 

その後、私達は近くの大型スーパーに行き、それから旧市街を散策しレストランで食事をした。

食事後、歩いてホテルに戻った。

 

 

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< 2. ストラスブールの地図、上が真北です >

上の地図: ストラスブールの位置は赤いアドバールン。

赤線はこれまでのルートです。

 

下の地図: 2日間でストラスブールを歩いたルートを示す。

 

黒線: 今回紹介する21日夕刻のルートです。

1Sでバスを降りて、橋を渡り、旧市街にある夕食のレストランL1に行き、また1fまで戻り、バスでホテルに入った。

 

赤線: 22日の朝、ガイドと共に旧市街を徒歩観光したルートです。

2sから始め、プティット・フランスPe、次いで大聖堂Caを見て、2fを通り、バスでコルマールの観光に向かった。

 

青線: 22日の夕刻、散策したルートです。

ホテルHを出て、3sから歩き始め、予約していた夕食のレストランL2に向かったが、店が閉まっていたので、レストランL3で食事を済ませ、3fを通り、ホテルに戻った。

 

茶色線: 22日の夕刻、ホテルHと大型ス―パーSMを往復したルートです。

 

 

 

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< 3. 歩き始める >

 

橋を渡り、旧市街へ入る。

時刻は18:30頃です。

 

 

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< 5. メインストリート >

 

この通りにはトラムが走っている。

トラムは旧市街の中を十字に通っている。

ストラスブールの旧市街には許可以外の車は入ることが出来ず、トラムがメインです。

自転車専用レーンが道路脇にあり、数は多くは無いが快走する自転車が目立った。

ストラスブールは環境にやさしい街づくりを目指しており、単に古い町ではなかった。

 

 

 

 

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< 6. レストランで夕食 >

 

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食事を終え、バスの待つ駐車場まで歩き、そこからバスでホテルに入る。

下の写真: 旧市街を囲むイル川を行く遊覧船です

 

 

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< 9. 早朝ホテルの部屋から >

 

 

 

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< 10. ホテルの裏側 1 >

 

 

早朝、ホテルの裏側を散策した。

ここは旧市街を囲むイル川の南側を流れる運河に沿った公園の一部です。

ランニングや散策する市民を見かけました。

またのんびりと過ごしている多くの水鳥を見ました。

 

 

 

 

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< 11. ホテルの裏側 2 >

 

上の写真: 中央の建物がホテル「ホリディイン エキスプレス ストラスブール」です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 20: ボーヌからストラスブールまで


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今日はボーヌからストラスブールまでの車窓の景色を紹介します。

ボーヌ郊外のレストランでの昼食も紹介します。

撮影は旅行日5日目、5月21日(日)、12:00~18:30です。

 

 

 

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< 2. 走行ルート >

 

上の写真: 昼食のレストランがある丘からの景色。

ブドウ畑が広がっている。

 

下の写真: ボーヌからストラスブールまでのルート。

地図の上が真北です。

 

今回の旅行では、1日の合計走行距離が500km近くなるのが2回、300km台が2回ありますが、この日は合計約500kmになる最初の日になります。

 

 

 

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< 3. ボーヌ市街からレストランまで >

 

上の写真: ボーヌ市街を抜け、直ぐ近くの丘の上のレストランに向かう。

時間は12:15頃。

 

中央の写真: 木立に囲まれたレストランの全景。

中央がテラス席、左がレストラン建物、右がテントのレストランで、ここで私達は昼食をとりました。

丘の上にあるが、周囲は木立が多く、眺望は遮られる。

レストランに12:20に入り、13:40には出発しました。

 

下の写真: 少し丘を散策すると、赤色や黄色の花が陽を受けて輝いていた。

 

 

 

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< 4.昼食 >

 

エスカルゴが出ました。

私にはすべてが美味しかった。

 

 

 

 

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< 5. いざ出発! >

 

レストランのある丘を下って高速道路へ向かう。

 

 

 

 

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やがて広い平野が続くようになる。

 

 

 

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やがて遠くにヴォージュ山脈が見えて来た。

およそ道のりの半分は来たでしょう。

 

 

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のどかな風景が続く。

私達はライン地溝帯の中、ライン川の左岸(西側)のヴォージュ山脈の麓を走っている。

ライン川がフランスとドイツの国境になっている。

右岸(東側)遠くにドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)が広がる。

残念ながら、撮影は進行方向左側(西側)のみで、写真はありません。

 

 

 

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上の写真: 東に面した丘陵の斜面や麓に村が散在する。

おそらくブドウや果樹の栽培に適した村なのだろう。

ここはアルザス地方、アルザスワインの産地です。

 

中央の写真: サービスエリアにて休憩。

 

 

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< 13. ストラスブールに到着 >

 

ここは沃野と水運に恵まれ、東西のドイツとフランス、南北のスイスとベネルックス三国を結ぶ交通の拠点として発展して来た。

この地はドイツとフランスが何百年間も奪い合い、国名が幾度も替わった。

また宗教改革の先駆けとなる農民戦争の激戦地の一つでした。

 

私はこの地を訪れ中世以降に起きた事を少しでも理解したいと願っていた。

そして、ついに願いが叶った。

幸い、ここにで2連泊することになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

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< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 18: リヨンからボーヌまでの景色


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今日は、車窓からのブルゴーニュ、リヨンからボーヌまでの景色を紹介します。

この日も快晴でした。

 

 

写真について

紹介する写真は、旅行5日目、5月21日(日)、6:20~10:30に撮ってものです。

最初にリヨン郊外のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」付近を早朝散策した時のものです。

次いで私達のバスがホテルを8:30に出発してから、10:30頃にボーヌの中心部に入るまでのもので、すべて車窓からの撮影です。

 

この日、私のバスの席は、前から2列目左側なので、写真は進行方向前方か左側(西側)のみです。

実は、下の地図を見ればわかるのですが、進行方向右側(東側)の方が広い野が広がっています。

またソーヌ川も私達が走る高速道路の右側(東側)を流れています。

 

 

 

 

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< 2. 地図、共に上が真北です >

 

左の写真: ボーヌはブルゴーニュの中心に近く、またフランス南北の中ほどに位置します。

ブルゴーニュから南北に流れる川を行くと、イギリス海峡と地中海に達します。

北へはヨンヌ川からセーヌ川に入り、パリを抜て行きます。

また南へはソーヌ川からローヌ川に入り、リヨン、アヴィニヨン、アルルを抜けて行きます。

 

右の写真: リヨンからボーヌまでのルートです。

ローヌ川沿いに比べて周囲の山々はかなり低くなってきました。

 

地図の赤丸は氷河期の「ソリュートレ遺跡」を示す。

最後に紹介します。

 

 

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< 3. 朝の宿泊ホテル周辺 >

 

朝6時頃から、周辺を散策しました。

周囲は落ち着いた雰囲気の郊外でした。

 

上の写真: ホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」の正面です。

暗くなった10:00頃、歩いたが治安が悪いように思わなかった。

地下鉄駅まで歩いて5分ほどで行けるので市街に行くのに便利だと思う。

 

 

 

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< 4. さあ出発! >

 

 

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< 5. のどかな景色が続きます 1 >

 

 

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< 6. のどかな景色が続きます 2 >

 

 

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< 7. のどかな景色が続きます 3 >

 

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< 8. のどかな景色が続きます 4 >

 

 

 

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< 9.いよいよ高速道路ともお別れ >

 

不思議なことに、ワインの産地で有名なのに、ブドウ栽培の光景をほとんど見ることがなかった。

どうやら栽培は平野部ではなく丘陵部の斜面なのだろう。

 

 

 

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< 10. もうすぐ旧市街に入る >

 

フランスを走っていて、特に郊外に出てから、写真のようなラウンドアバウト(環状交差点)の機能と景観に惹かれた。

 

上の写真は、下の写真下部のラウンドアバウトを下から進入する様子を写したものです。

 

ラウンドアバウトの優れているのは、車は減速するが停止の必要が無いことです。

それ以上に素晴らしいのは、その中央島の景観です。

実に様々な美しい造園がなされており、目を楽しまさせてくれます。

 

 

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< 11. 旧市街が見えて来た >

 

 

これで車窓からの写真は終わります。

 

 

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< 12. ソリュートレ遺跡 >

 

 

ソリュートレ遺跡について

後から分かったのですが、途中の都市マコンから西側に10kmほど入った所に氷河期の遺跡があります。

この遺跡は2万年から1万7千年前のソリュートレ文化の標準遺跡で、ある意味画期的な遺跡なのです。

それは、この断崖の真下あたりに崖から追落されて捕獲された野生馬の骨が10万頭以上あったからです。

当時の人々が、図のように薄く切れ味の鋭い石器を使い狩りをしていたのです。

 

 

車窓からの写真撮影について

私の撮影方法が参考になればと思い記します。

 

先ず、私がバスの席を選ぶ基準です。

選択の基本は車窓からの撮影が逆光にならないようにすることです。

もしその日の午前中、バスが北に向かうなら、東側からの太陽光を避けて左に座り、西側を撮影します。

 

但し、1日中の走行とか、途中で走行の方向が変わるとか、曇りがちの場合は、何を重視するかで決めます。

例えば、ランドマークや重視する景観が走行ルートの左右どちらに来るかによって、決めることになる。

ただ、これは障害物やルートが不明なこともあり予想通りにならないことが多いです。

 

また左側の席には欠点があります。

右側走行の国では、特に高速道路で、左側に数車線の対向車線が視界を埋めてしまいます。

 

一番重要なのは、車窓からの撮影時に、以下のような遮光幕をカメラに着けることです。

これは自作ですが、かなり写真の無駄が減ります。

 

また私は百均で買った窓拭きを持って行きます。

これで窓は素早く十分に綺麗になりますが、結構、恥ずかしい。

私の行為を見て、運転者が笑顔で全部の窓を拭いてくれることもあり、これもまた恐縮するのですが。

 

 

 

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< 13. 車窓からの撮影の道具 >

 

上三枚の写真が遮光幕です。

 

左上の写真: 取り付け前の状態で2個の部品からなります。

灰色の幕は百均で買った車用遮光ネットを改良したもので、折りたたむことが出来て、非常にコンパクトで軽い。

 

右上の写真: 遮光幕取り付け用の部品をカメラに嵌めた状態。

この部品はウレタンゴム板を買い、ナイフでリング状にカットし、マジックテープを縫い付けたものです。

遮光幕取り付けを瞬時に行えます。

これがなくても遮光幕は使えますが、使い難い。

 

中央の写真: すべてセットしたものです。

窓ガラスに対してカメラは垂直が最良ですが、遮光幕を手で押さえて窓に沿わせるなら、傾けても光が入らない。

 

下の写真: 百均で買った窓拭き。

組み立て式で、柄が伸びるので背の高い観光バスの撮影箇所を拭くことが出来ます。

大きいが軽いです。

 

 

これは運次第なのですが、今回のツアーは40名近い参加なので、走行中にバス内の左右の席移動が困難でした。

これまでのツアーは参加者20数名が続いたので、左右移動が自由で、妻と私が左右に別れて撮影することも出来た。

 

 

車窓からの撮影も行えば、それこそ四六時中、観光しているので休む暇はないのですが、その国の自然風土がよく理解出来るので止められません。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 17: 大都市リヨン 3


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今回は、リヨンの今、新市街のベルクール広場とレストラン街を紹介し、街の人々の表情をお伝えします。

この日は、この旅行最初の個人予約したレストランで食事をした。

 

 

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< 2. 地図、右が真北です >

 

Hは今回のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」です。

Pはツアー観光で訪れたベルクール広場です。

Sは旧市街をツアー観光した時の始まりと終わりの場所です。

黄色の線は、夕方に自由散策した通りです。

Rは予約したレストランです。

M1、M2、M3は地下鉄駅で、夕食後、ホテルまで帰るのに寄りました。

 

赤矢印はフルヴィエールの丘です。

こうして見ると、この丘がローマ時代から戦略上、交易上需要な拠点だと言うことが推察できる。

この丘は直ぐ下を流れるソーヌ川から標高差130mほどの高さにあり、川を掘りとした堅固な要塞と見なせる。

ソーヌ川は真っすぐ北に延びる河谷を抜け、フランス中部の平野へと至る。

この地はローマ軍がガリア支配の拠点にするには打って付けだったろう。

その下の川はローヌ川で、この地から東に進路を変え、スイスのアルプス山脈に至る。

この地は温暖で、南北と東への交易の交差点だった。

 

 

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< 3. 旧市街からベルクール広場まで >

 

これらは地図のS地点からバスに乗り、ベルクール広場までの景観です。

この川はソーヌ川です。

 

 

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< 4.ベルクール広場 1 >

 

上の写真: 広場の南西端から中央に向かう。

 

中央の写真: 広場中央のルイ14世像(太陽王)

 

下の写真: 広場の中央北端からフルヴィエールの丘の大聖堂を望む。

 

この日は土曜日で市民らの人出が多かった。

 

 

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< 5. ベルクール広場 2 >

 

広場の南縁に延びる公園でくつろぎ、遊ぶ人々。

 

フランス各地を訪れて行くうちに、様々な人種や民族が違和感なく暮らしていることを知ることになった。

旅行に行く前、マスコミ報道や何冊かのフランス事情の本から得た知識により、移民や人種間に気まずい雰囲気があるように思っていたのですが、どうやら思い過ごしのようでした。

 

 

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< 6. ベルクール広場からホテルへ >

 

上の写真: 広場南西端にあるサンテグジュペリの像。

小説「星の王子様」で有名な彼はリヨンで生まれた。

 

下の写真: ホテル近くのバス停。地図番号M3。

この下に地下鉄駅がある。

夜、ここからホテルまで道を迷った。

 

 

自由散策を始める

自由散策は旅行4日目、5月20日(土)の夕方から夜までです。

この日の夕食はツアーにないので、オプションか自由になっていました。

 

ツアー観光が終わり、皆がホテルに入ったのは18:00を過ぎていました。

私達は一度部屋に入り、直ぐ出ました。

ホテルでタクシーを呼んでもらい、ホテルから予約したレストラン近くまで10分程で着き、時刻は19:00でした。

まだ外は十分明るく、少し暖かった。

 

予約時間まで時間があったので、大型スーパーの「Monoprix」(地図番号M1)まで歩きました。

たしか3階まである大きなスーパーでしたが、この時は何も買わずに出ました。

その後、レストランに向かいました。

 

 

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< 7.証券取引所まで散策 >

 

下右の写真: 証券取引所の建物。地図番号M1。

この前に大型スーパー「Monoprix」、タクシー乗り場、地下鉄駅がある。

 

 

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< 8. 大型スーパー「Monoprix」からレストランへ >

 

上の写真: 左のガラス壁面が大型スーパー「Monoprix」。

 

下の写真: 予約レストランのある通り。

レストランは通りの右側中ほどにある。

この辺り、特に突き当りの左右に延びる通りは著名なレストラン街としてガイドブックに載っている。

 

 

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< 9. レストラン「La Maison Marie」 >

 

上の写真: 予約していたレストラン。

下の写真: 向かいのレストラン。

 

La Maison Marie での食事について

このレストランはトリップアドバイザーで探しました。

ここはリヨンのレストラン2837軒中35位と人気がある店で、コースの値段が手頃で、新市街の便利な所にあったので決めました。

予約はトリップアドバイザーのオンライン予約で19:30を希望し、後に確認メールが届きました。

 

私達は室内よりテラス側を選んで座った。

ウエイターの対応は爽やかで丁寧でした。

料理は店に入ってから注文した。

初めからコース料理「Menu Printanier」を考えていました。

 

 

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< 10. コースメニュー >

 

コースメニューはこれだけで他はすべて単品注文です。

金額は29ユーロです。

どうやらこの料理の組み合わせは数か月間同じようです。

このコースメニューは前菜2種類、メイン2種類、デザートかチーズから選ぶようになっています。

私達二人は、それぞれ前菜とメインで異なるものを注文し、シエアし、最後は同じデザートを注文しました。

上記メニュー内の「ou」は英語の「or」です。

 

今思えば、一人はチーズを注文すれば良かったと少し後悔しています。

フランス人は食事の最後に結構、チーズ「Fromages」を食べるようです。

 

 

 

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< 11.コース料理 >

 

上から前菜、メニュー、デザートと並んでいます。

 

今回の旅行で最もおいしく味わいのある料理でした。

ただ一つ残念なことは、スープが冷製で体が冷えたことです。

テラスに座った頃はまだ外は温かったのだが、日が暮れるにしたがってどんどん涼しくなった行きました。

私達が食事を終える21:00頃には、他の客は皆、室内で食事をしていました。

 

サービスも問題なく、豊かな時間を過ごせました。

 

 

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< 12.食事中の通りの様子 >

 

やはりテラスでの食事は楽しい。

通りを行きかう人や、向かいで飲食し談笑する人を眺めることは興味が尽きない。

ただ、あまり繁々と見ていると、誤解を招くので注意が必要です。

ここでも、またポルトガルのポルトでも少し嫌な思いをさせたようです。

 

一つ楽しい出会いがありました。

食事をしていると、通りの向こうから同じツアーの夫婦が歩いて来ました。

聞くとレストランを探しているとのことで、このレストランを薦め、隣の席で一緒に食事することになりました。

この広い、リヨンで出会えるとは驚きです。

他のツアー客のほとんどはオプションか、ホテル近辺で食事をとっていたのですから。

 

実は、後の観光地でも、夕方以降の自由散策でばったり出会うことになります、

この夫婦は好奇心が旺盛でチャレンジを厭わないようです。

 

 

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< 13.いよいよホテルに帰る >

 

 

来るときは時間を無駄にしたくないことと夜の地下鉄利用が不安だったこともあり、タクシーを利用した。

もっとも、来るときは明るかったが。

タクシーの運転手のマナーに問題はなかった。

 

しかし、先ほどの夫婦は地下鉄で来ており、地下鉄は便利だと教えてくれた。

それで私達も地下鉄で帰ることにした。

レストランから証券取引所まで歩き、そこの自動販売機で切符を買い、地下鉄に乗った。

地下鉄はベルクール広場の駅で一度外に出て、乗り継ぎをしなければならない。

切符はそのまま使えます。

 

この時、地下鉄のホームで、どちらに進むべきかわからず、同じく乗車していた地元の家族に尋ねました。

すると若い男性は、ほんとうに親切に笑顔で答えてくれて、不安そうに私達が行く方向を見届けてくれていた。

これ以降、フランス人の親切と愛想の良さに幾度も出会うことになる。

 

下の写真は、この時、一度ベルクール広場まで出た時、撮ったものです。

この時、9:35でした。

 

この後、ホテル近くの地下鉄駅(地図番号3)で降りて、地上に出たのですが、土地勘がなく、暗かったので道がわからなくなった。

ここでも、近くにいた男性を呼んで、看板の地図で道を聞いた。

この時も、親切に教えてもらえた。

 

その後、幾分道を迷いながらもホテルに無事に辿りついて、やっと1日が終わった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2


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これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。

今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。

次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。

 

 

リヨン観光

観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。

観光した時間は15:45~17:40でした。

観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。

この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

 

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。

街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

 

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。

この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。

中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。

リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。

 

 

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< 2. リヨンの地図 >

 

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。

番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。

番号5の黒四角はホテルです。

 

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。

Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。

Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。

赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。

Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。

写真もその順に並んでいます。

黄色の線は抜け道(トラブール)です。

 

 

 

 

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< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 >

 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。

次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。

この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。

この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

 

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。

 

 

 

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< 4. 展望台からの眺め >

 

展望台は東方向に視界が開けている。

写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

 

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。

このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。

 

 

 

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< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >

 

 

 

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< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

 

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。

しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。

 

 

 

 

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< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

 

上の写真: モザイク画。

教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。

 

 

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< 8. 旧市街の通り >

 

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。

 

 

 

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< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

 

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

 

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。

右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

 

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。

かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。

 

 

 

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< 10. 抜け道2と博物館 >

 

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。

抜け道1と直ぐ近くにあります。

入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。

入口に表示があるようですが、私には理解できません。

 

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma」

地図番号2.

約100年前に、リヨンで映画が生まれた。

 

 

 

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< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >

この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。

上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。

公会議がここで行われたのだろうか?

 

 

 

 

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< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

 

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。

店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

 

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。

元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。

ここだけなら無料です。

菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。

 

 

 

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< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

 

最初、通った広場に戻って来ました。

上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。

下の写真が元証券取引所です。

この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ


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今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。

これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。

すべてバスの車窓からの景色です。

 

 

 

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< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >

左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。

赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

 

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。

アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

 

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。

また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。

撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d’Arc です。

 

 

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< 3. ポン・デュ・ガール付近 >

 

 

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< 4. 今から高速道路に入ります >

 

午後になると、雲が増えて来ました。

一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。

今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。

 

 

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< 5. ローヌ川を渡る >

 

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。

 

 

 

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中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。

13:30に撮影。

 

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d’Arcがあるのでしょう。

上の写真と同時刻に西側を写した。

 

 

 

 

 

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< 7. ローヌ川の景色 1>

 

 

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< 8.ローヌ川の景色 2 >

 

 

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< 9. ローヌ川の景色 3 >

 

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< 10. リヨンに近づいた >

 

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。

 

 

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<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

 

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。

この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

 

中央の写真: 新市街。

 

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。

 

 

 

プロヴァンスに別れを告げて

 

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< 12. プロヴァンスとは >

 

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」

左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

 

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。

彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。

 

 

今回でプロヴァンスと別れることになります。

プロヴァンスについて記します。

 

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。

中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。

この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。

その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

 

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。

不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

 

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

 

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

 

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。

 

 

プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。

そしてローヌ川はその通り道でした。

ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。

やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

 

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。

 

 

このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・

このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

 

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。

それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。

それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

 

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 14: ポン・デュ・ガールの水道橋


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今日は、巨大なロ―マ時代の水道橋を紹介します。

わざわざこの為だけにバスは山間に入りました。

はたして期待に違わぬものなのでしょうか?

 

 

水道橋の観光

訪れたのは旅行4日目、5月20日(土)、11:00~12:40です。

徒歩観光の後半、レストランで昼食をとりました。

この日もほとんど雲の無い、素晴らしい天気でした。

 

 

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< 2. ポン・デュ・ガールの地図、すべて上が真北です >

 

上の地図: 青線がバスのルートです。

赤線は建設当時の水道橋のおおよそのルートです。

 

下の地図: 水道橋の見学コースを示しています。

赤線はバスの駐車場Sから、案内所を通り、そして水道橋を渡り、レストランまでのルートを示す。

青線は昼食後、バスの駐車場Fまでのルートです。

 

 

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< 3. 水道橋の資料 >

 

左の地図: 黒線が建設当時の水道橋のルートです。

この水道橋は町ユゼス近郊の水源から都市ニームまで全長約50kmあり、平均斜度は1kmあたり24.6cmです。

驚くべきは、山や谷を幾度も通り、この少ない斜度で長距離、給水出来ていたことです。

 

右の断面図: 数字の単位はmです。

水道橋は3層からなり、最大高さは水面から47m、私達が歩いたのは下層の上で、その高さは22mです。

 

 

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< 4. アヴィニョンからポン・デュ・ガールまでの景色 >

 

上の写真: ローヌ川。

 

下2枚の写真: ブドウ畑が広がり、進むに連れ標高が上がって来た。

 

 

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< 5. 案内所から水道橋へ >

 

 

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< 6. 水道橋の全貌が見えて来た >

 

下の写真: 今来た道を振り返る。

 

 

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< 7. 水道橋 1 >

 

水道橋を渡っている時、実は、私はそれほど驚かなかった。

なぜならスペイン、ゼゴビアの水道橋の方が巨大で美しいと思ったからでした。

しかし、帰国後、調べて行くうちに勘違いに気付いた。

 

先ず大きさなのだが、確かに渡っている所から見上げた高さは24mで、ゼゴビアの地上高さ30mよりは低いが、水面からの高さは47mもあり、遥かに高い。

またこちらの導水路のある上層の長さは275m(川幅より広い)で、ゼゴビアのは728mもあった。

しかし、建設当時の水道橋の総延長は、ゼゴビアで17km、ポン・デュ・ガールは50kmと、こちらも大きい。

 

だが、ゼゴビアの水道橋の方が美しいと思ったのは、橋脚の基部の幅が2.4mと薄く、今にも倒れると思わせるほどのスリムなスタイルに感銘したからでした。

 

 

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< 8. 橋が架かるガルドン川 >

 

上の写真: 橋から下流を望む。

 

下の写真: 上流を望む。

 

 

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< 9. 水道橋 2 >

 

 

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< 10. 川原に降りて >

 

上の写真: ボート遊びをする人々。

下の写真: 川原で遊ぶ子供達。

 

 

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< 11.水道橋 3 >

 

 

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< 12. レストランでの昼食 >

 

全3品が順に並んでいます。

 

 

追記

 

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< 13. ポン・ダークの洞窟 >

 

水道橋の案内所でパンフレットを漁っていると、下の絵が目に飛び込んできました。

 

これは人類最古の洞窟壁画で、ショーヴェ洞窟300点の絵の一つです。

ショーヴェ洞窟は世界遺産です。

この洞窟壁画を保護するために、この公開を禁止し、この近くのポン・ダークに巨大なレプリカ洞窟を作り、2015年から公開されている。

ポン・デュ・ガールから北方50kmほどの山中にこの展示施設(上の写真)があります。

 

ショーヴェ洞窟の凄いのは約32000年前のもので、有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画よりも2倍ほど古く、多様な動物が描かれていることです。

 

それが、この近くにあるのですが、残念ながら素通りです。

もし、自由な旅行をされるのなら検討されると良いと思います。

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 13: 要塞都市アヴィニョン 2


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今日は、アヴィニョン旧市街の今を紹介します。

主に自由散策で見た中央市場や時計広場の光景です。

 

 

 

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< 2. ロシェ・デ・ドン公園 1 >

 

上の写真: 公園の展望台から東側を見下ろしています。

見えているのはアヴィニョン旧市街です。

 

下の写真: 展望台。

写真は展望台の東北端から南側を写しており、右奥、木立の上に黄金の聖母像が見える。

 

 

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< 3. ロシェ・デ・ドン公園 2 >

 

上の写真: ノートル・ダム・デ・ドン大聖堂を後部側面から見ている。

 

下の写真: ロシェ・デ・ドン公園の入り口にある彫刻。

上の写真の大聖堂の右側にある。

 

 

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< 4.時計台広場から自由散策を始めた >

 

9:30から10:20まで自由散策を愉しみました。

最初、レアル中央市場に行き、ショッピングした。

時計台広場から中央市場まで8分ほどです。

後は時計台広場に戻り、集合待ちの間、広場の様子を眺めていました。

 

 

 

 

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< 5.レアル中央市場に向かう 1 >

 

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< 6.レアル中央市場に向かう 2 >

 

上の写真: サンピエトロ大聖堂。

遡れば教会は7世紀に始まるのですが、サラセン人に破壊された後、この大聖堂は14世紀から再建され始めたゴシック建築です。

 

今までの記事で謝らなければないことがあります。

それはイスラム教徒(サラセン人など)との関連です。

プロヴァンスの歴史を調べていると、各地の町や地中海の港がイスラム教徒に襲撃されたとの記述が多くありました。

私は、イスラム教徒が地中海で覇権を握ったのは、東地中海とジブラルタル海峡だけだと勘違いしていました。

これまでの歴史的な解説で、イスラム教徒の進攻を過小評価していました。

 

 

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< 7.レアル中央市場に入る >

 

土曜日の午前9:40頃に入ったが人は少なく、観光客を見なかった。

私達は現地の果物と名物のお菓子を買って、後ほど食べた。

 

 

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< 8.レアル中央市場の中 >

 

見ていると何でも欲しくなり食べたくなるが、お腹にも限度がある。

 

 

 

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< 9.レアル中央市場から時計広場に向かう >

 

上の写真: 中央市場前の花屋。

 

 

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< 10. 時計広場に戻る >

 

上の写真: 時計広場から南側に延びるメインストリートを望む。

この先には立派な城門、その向こうにアヴィニョン国鉄中央駅がある。

前日はこの通りに面したレストランで夕食をとった。

写真はその時のメイン二品です。

 

 

 

 

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< 11.時計広場にて 1 >

 

上の写真: 広場の南側から北側を見ている。

フランスの町の中央広場には必ずと言っていいほど、メリーゴーランドがありました。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

左側は夫婦のようで、黒を基調にした服でゆったりと旅行を楽しんでいるようでした。

右側は地元の人が、あれよあれよと言う内に集まり、談笑を始めた所です。

私はファッションには疎いのですが、着こなしが様になっていると感じました。

 

 

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< 12.時計広場にて 2 >

 

この建物は時計台広場の北端にあるレストラン(Le Lutrin)で、18世紀のスペイン領事館だった。

ふと見上げると、マリア像らしきものがありました。

 

ヨーロッパを旅行していると、キリスト教と言いながら、マリア像の多さに驚く。

そこに根強い聖母信仰を感じ、仏教の観音信仰を思わせる。

本来、観音様は菩薩で男性だが、そこには女神や母性を感じさせるものがあり、根強い人気がかってはあった。

 

この中世の宗教都市は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラとは大きく異なる雰囲気がある。

こちらは教皇庁の聖職者や官僚で富栄えた町だが、サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の人々で栄えた町と言える。

前者は巨大な宮殿と部外者を寄せ付けない城壁に象徴され、過去のものになっているが、後者は多数の教会が建ち並び、今でも巡礼者が絶えない。

 

ここを発って、ローマ時代の巨大な水道橋を見る為に、ポン・デュ・ガールに向かいます。

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

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< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

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< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

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< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

18ゴッホ 1あ

< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

19ゴッホ 2あ

< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 10: 古都エクス・アン・プロヴァンス


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*1

 

 

今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。

ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。

またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ

 

 

 2map

< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >

 

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。

 

 

上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。

また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。

黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。

赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。

これらの地名は彼の画題に出てくる。

 

下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。

徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。

この間、12:00に始まり、12:40で終わった。

ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。

私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。

 

 

 

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< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >

 

上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。

 

中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。

 

下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。

 

彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。

そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。

 

 

町の散策

旅行3日目、5月19日(金)。

素晴らしい天気でした。

 

 

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< 4. ミラボー通りを進む >

 

上の写真: ミラボー通りを進む。

進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。

この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。

 

下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。

 

 

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< 5. ミラボー通り >

左上の写真: 温水が湧き出る泉。

紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。

 

右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。

 

左下の写真: 地図の1番。

セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。

 

右下の写真: 地図の2番。

ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。

私達はこの建物の左の道を入って行った。

 

 

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*6

 

至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。

陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。

 

 

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< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >

 

魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。

 

 

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< 8. 市庁舎広場 >

 

上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。

 

下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。

広場は凄い人出でした。

 

 

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< 9. 大学と大聖堂 >

 

上の写真: 地図番号4.

セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。

 

下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。

彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。

 

 

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*10

 

左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。

 

右の写真: 通りの建物を見上げた。

柱の彫刻が往時を偲ばせる。

 

 

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< 11. 昼食で入ったレストラン >

 

上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。

看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。

注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。

出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。

店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。

 

 

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< 12. レストランの中から >

 

フランスで初めてテラスで食事をした。

周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。

 

 

 

 

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< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >

 

ほんとうにこの町は賑わっている。

観光のメッカなのだろう。

 

 

 

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< 14. ロトンドの噴水 >

 

こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。

次はアルルに向かう。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスについて

紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。

これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。

この山は、この町の守護神とみなされた。

 

4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。

その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。

12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。

1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 9: ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め


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*1

 

 

今日は、バスの車窓から見たプロヴァンスの景色を紹介します。

コートダジュールの海と崖とは異なるのどかな山野が広がっていました。

青い空に、白い雲が流れる南仏の絶景です。

 

 

ニースを発ってエクス・アン・プロヴァンスまで

旅行3日目、5月19日(金)、9:20頃ニースを発ち、エクス・アン・プロヴァンスに到着したのは12:00でした。

西に向かって走って行くうちに、10:00頃には快晴になりました。

走行距離は178kmで、途中1回、行程の中ほどで休憩しました。

走って行くと、徐々に低い山々の間に平野や畑が広がって行きます。

 

エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌの出身地であり、晩年を過ごした所でした。

途中、車窓から彼がよく描いたサント・ヴィクトワール山を見ることが出来ます。

 

 

 

2map

< 2. プロヴァンスと走行ルート、上が真北です >

 

上の地図: プロヴァンス全体を示しています。

この地域は、西にローヌ川、北と東にアルプス山脈、南に地中海によって区切られている。

また東でイタリアと国境を接している。

 

下の地図: 青線は今回走行したルートです。

 

 

 

3

< 3. 10:00、10:10撮影 >

 

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

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< 4. 10:40撮影 >

 

上の写真: 休憩で立ち寄った所。

ここはちょうど中間ぐらいにあり、高速道路にあるガソリンスタンドとコンビニです。

 

下の写真: 休憩した所からの眺め。

この山系はサント・ヴィクトワール山とは異なり、それよりは東南にあります。

 

 

 

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< 5. 10:50~11:05撮影 >

ここまで来ると、ワイン用のブドウ畑が増えて来ます。

フランスを縦断していくと解るのですが、この辺りのブドウ畑は区画が小さいようです。

またブドウの木の背丈が低い。

 

 

 

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< 6.11:10頃撮影 >

 

 

 

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< 7. 11:30頃撮影 >

 

麦畑でしょうか?

 

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*8

 

上の写真: 高速道路沿いに今を盛りに咲いていた黄色い花。

この花はコートダジュールからプロヴァンスの道路沿いでよく見ました。

 

下の写真: 11:35頃撮影。

 

 

 

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< 9. サント・ヴィクトワール山 >

 

11:35~11:50撮影。

 

この山はバス進行方向の右に見えます。

この山は全長18km、最高点は1011mです。

石灰岩の山で荒々しく、私には美しい山とは思えないのですが、この地域では一際映える山には違いありません。

 

残念ながらセザンヌが多く描いたこの山の絵は、下の写真の撮影位置よりもっと左に回り込んだ所から描いたようです。

つまり、彼はエクス・アン・プロヴァンスの郊外から見たのでしょう。

 

 

 

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< 10. セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山  >

 

 

上の絵: 「サント=ヴィクトワール山」、1886~87年。

 

下の絵: 「トロネの道とサント=ヴィクトワール山」、1896~98年。

 

セザンヌは1880年代から、それまでのパリ暮らしから故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻り制作を行った。

彼はパリ仲間(モネ、ルノワール、ピサロ)の印象派の技法に飽きたらなくなっていた。

 

 

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< 11. エクス・アン・プロヴァンスに到着 >

 

11:55頃撮影。

上の写真: 町に入って来ました。

下の写真: 中心部に近い鉄道の駅。

 

この日は、この後、ローヌ川沿いのアルルを観光し、さらに上流のアヴィニヨンに向かい、宿泊します。

 

これまでの景色とローヌ川沿いの景色はまた異なります。

その違いはゴッホの絵に現れています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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