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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1


 

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いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。

プチットフランスと大聖堂が有名です。

今回は、前半を紹介します。

 

 

なぜストラスブールに惹かれたのか?

以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。

さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

 

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。

その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

 

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。

この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

 

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。

 

 

 

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< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

 

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。

この日も素晴らしい天気でした。

青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。

その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 

 

 

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< 3. クヴェール橋 >

 

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。

上の写真から順次、北から東の方を見ている。

 

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

 

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

 

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。

こちらの川が南側を流れるイル川です。

ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

 

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。

この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

 

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。

戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。

きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。

だが、後で私の勘違いとわかりました。

 

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。

1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。

 

 

 

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< 4. ヴォーバンダム >

 

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.

13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

 

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。

右手のガラスの建物は近代美術館。

 

下の写真: ヴォーバンダムの内部。

私達はそのアーチの上を歩いている。

写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

 

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、

1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。

 

 

 

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< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

 

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

 

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

 

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。

 

 

 

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< 6. プチットフランス 1 >

 

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。

これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。

この景観は16~17世紀に始まる。

 

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。

その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。

またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。

どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

 

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。

この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。

 

 

 

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< 7. プチットフランス 2 >

 

 

 

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< 8. プチットフランス 3 >

 

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。

川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 通り 3 >

 

地図番号4から5の間の通り。

 

 

 

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< 10. サン・ト―マ教会 >

 

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

 

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。

そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。

そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。

その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。

 

 

 

 

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< 11. グーテンベルグ広場 >

 

グーテンベルグの像が立っている。

彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。

この広場はこれを記念したものです。

 

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。

その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

 

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。

またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

 

後半は、次回紹介します。

 

 

ストラスブールの城郭について

帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。

 

 

 

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< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

 

上の地図: Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

 

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。

 

 

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< 13. ストラスブールの城郭図 >

 

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

 

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.

この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。

現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。

中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。

 

 

中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。

上の俯瞰図の平面図と考えられる。

Pがプチットフランス、Cが大聖堂です。

 

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。

この時期になると、更に城郭は拡大している。

 

Pがプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。

ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。

ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

 

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

 

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。

17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。

これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

 

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。

これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。

 

 

次回に続きます。

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 22: リガ 1


 

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< 1. 内側から見た旧市街の城壁(右) >

 

今日から、ラトビアの首都リガを紹介します。

 

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< 2.リガの地図、すべて上が北です >

 

上の地図: ラトビア全体を示す。

首都リガは湾の奥に流れ込むダウガヴァ川の河港として発展した。

 

このロシアの奥深くに端を発する1000kmを越える川と良港がドイツ商人の入植を盛んにさせ、この地はハンザ同盟を経て経済発展した。

その後、ロシアのバルチック艦隊の拠点にもなった。

現在のリガの人口は70万人。

ラトビアの人口は200万人、面積は九州の約2倍。

 

中央の地図: 今日紹介するリガ。

黄丸は宿泊ホテル、赤矢印はユーゲントシュティール建築群、黄枠は旧市街、黄矢印は火薬塔です。

ホテルRixwell Elefant Hotelから旧市街までの距離は約4kmです。

旧市街の長さは川に沿って約1kmある。

 

下の地図: リガの主要観光地、旧市街とユーゲントシュティール建築群を示す。

 

 

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< 3.車窓から見たリガ市内1 >

 

 

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< 4.車窓から見たリガ市内2 >

 

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< 5.旧市街に到着 >

 

上の写真: 旧市街の一角に到着。

ここからバスを降りて、火薬塔を目指す。

 

下左の写真: 火薬塔。

14世紀に建てられ、17世紀に再建された火薬の保管庫です。

昔はここから外は砂丘で、街はぐるっと砂丘に囲まれていたが、その後、稜郭と堀で囲まれた。

塔の表面にはロシア軍の攻撃による砲弾が埋め込まれている。

 

下右の写真: 外側から見たスウェーデン門。

リガに残る唯一の城門。17世紀に城壁を利用して住宅が建てられた際に造られた。

当時、近くの兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名がついた。

 

 

 

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< 6.旧市街 >

 

上の写真: 外側から見た城壁。

この向い(右手)にあるレストランで夕食をとりました。

 

下の写真: 夜の旧市街。

夕食後、外に出るととっぷりと暮れていました。

 

 

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< 7.レストランのある棟  >

 

長い店舗棟の端の壁に多くの紋章が描かれていた。

すぐ左に火薬塔がある。

 

 

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< 8.ホテル >

 

上の写真: ホテルRixwell Elefant Hotelの最上階から西側を見ています。

2016年10月2日(日)の朝、夜半からのどしゃ降りがまだ続いていました。

 

下の写真: ユーゲントシュティール建築群がある通りに着きました。

ここでバスを降りて、ストレールニエク通りを徒歩で観光します。

傘を差してカメラを写すことになりました。

 

リガはバルト三国の三つの首都の中で最も栄えて最も美しく、よく観光宣伝の写真に使われるのですが、生憎の雨となりました。

 

 

 

 

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< 9.ユーゲントシュティール建築群1 >

 

ユーゲントシュティール建築群は19世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツに起こった芸術様式です。

この地が如何にドイツと密接していたかがよくわかります。

この通りはソ連時代、放置され痛んでいたのですが、修復が進んでいます。

 

これは当時ヨーロッパで流行した世紀末芸術、フランスのアール・ヌーヴォー、スペインのモデルニスモ(ガウディ)と期を一にしている。

 

ここの特徴は動植物、女性のシルエットが主なモチーフになっている。

しかし、その顔はグロテスクにも思える。

パリやバルセロナの世紀末芸術とは少し趣を異にしているようです。

 

 

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< 10.ユーゲントシュティール建築群2 >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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I saw the film “Hanna Arendt”


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< 1. a poster of the film >

 

I introduce the unique European film today.

今日は、異色のヨーロッパ映画を紹介します。

 

  Eichmann 

< 2. Eichmann >

 

“Hanna Arendt”

This film is a 2012 German-Luxembourgian-French biographical drama film about German-Jewish philosopher and political theorist Hannah Arendt.

During World War II, although she was taken to a concentration camp, she escaped, and she becomes some American colleges professor after.

She wrote “the origin of totalitarianism” and supposed that the racial discrimination that reinforced imperialism had induced the Nazism of inland Germany, and the Stalinism of Russia.

 

 

「ハンナ・アーレント」

ドイツ・ルクセンブルク・フランスの合作映画/2012年作。

題名のハンナ・アーレントはドイツ生まれの政治哲学者の名前。

彼女はユダヤ人で、第二次世界大戦中、強制収容所に連行されるが脱出し、後に米国の大学教授となる。

彼女は「全体主義の起源」を著し、帝国主義を補強した人種差別が内陸部ドイツのナチズムやロシアのスターリン主義を生んだとした。

 

Arendt sat in on the trial by TV 

< 3. Arendt sat in on the trial by TV >

 

The film

This film begins from her sitting in on the trial of Eichmann who was former Schutzstaffel.

The camera chases the testimony scene of Eichmann that was complicit in Jewish genocide and her attitude of contemplating to grope for truth in the trial.

She finds ” the banality of evil” to Eichmann before long.

Furthermore, she wakes up to the nonresistance of German and the cooperation of Jewish elder council to the Nazis.

In the latter half of the film, the indication in her magazine reports causes intense repulsion by Jew, and she is driven into a difficult situation.

 

映画

映画は、彼女が元ナチス親衛隊のアイヒマン裁判を傍聴することから始まる。

カメラは、ユダヤ人大量虐殺に手を染めたアイヒマンの証言シーンと、彼女がその法廷から真実を模索し沈思する姿を追う。

やがて彼女はアイヒマンに「悪の凡庸さ(陳腐さ)」を見出す。

さらに当時、ナチスへのドイツ人の無抵抗、取り分けユダヤ人長老評議会の協力に思い至る。

映画の後半、これらの指摘が、ユダヤ人による猛烈な反発を招き、彼女は追い込まれることになる。

 

Testimony in the trial 

< 4. Testimony in the trial >

 

I did not know this philosopher before watching the film and expected the miserable concentration camp scene.

However, the camera continues chasing the female philosopher who has sharp and deep eyes and then is like stubbornness.

When the trial scene in Israel began before long, the testimony scene of Eichmann was a then monochrome live-action film.

 

映画を見る前、私はこの哲学者を知らず、悲惨な収容所シーンを予想していました。

しかしカメラは、鋭く深い眼差しを持つ強情そうな女性哲学者を追い続けます。

美しい景色やナチス時代の描写すらほとんどありません。

やがて、イスラエルでの法廷場面が始まると、アイヒマンの証言シーンは当時の白黒の実写フイルムでした。

 

.  Dispute with Jewish friends   

< 5. Dispute with Jewish friends  > 

 

She declares a longtime friend “ Eichmann is not anti-Judea and is only the government official who obeyed the order “.

Then, for the first time, I understood the meaning using the live-action film by the film director.

Who can play Eichmann who doesn’t show a bit of conscience and who makes excuses expressionlessly and indifferently?

 

彼女は長年の友人に「アイヒマンは反ユダヤじゃない、命令に従うだけの役人」だと断言します。

その時、私は始めて、監督が実写フイルムを使った意味がわかりました。

良心の片鱗も見せず、無表情で淡々と言い逃れるアイヒマンを、誰が演じられるだろうか。

 

.  Lecture scenery    

< 6. Lecture scenery    >

 

At the last

This film suggests that not only Nazis but also the state of mind of all aggressors is ecumenical, further teaches the importance of appealing for the truth as having belief.

The truth is to say that the public who became assailants (aggressor) and victims fall into inextricable state of mind in each.

This problem presentation will be confirmed by two psychology experiments before long in the United States.

Eichmann experiment was conducted in Yale University in 1961 in the next year of the trial.

In addition, Stanford prison experiment was conducted in 1971, it became dangerous condition along the way, and it was canceled.

 

Has she only ascertained a truth as a philosopher?

I think it important that she who is victim and Jew declared fearlessly.

I believe that this is a power of surceasing the conflict and beginning to reach peacefully.

 

I am grateful to be able to meet the splendid female and splendid filmmaking.

 

最後に

この映画は、ナチスだけでなく侵略者達の心理状態が普遍的であることを示唆し、さらにその真理を、信念を持って訴えることの重要性を教えてくれます。

その真理とは加害者(侵略者)と被害者になった大衆がそれぞれに抜き差しならない心理状態に陥ることです。

この問題提起はやがて米国で二つの心理実験によって確認されることになりました。

この裁判の翌年1961年、イェール大学でアイヒマン実験が行われました。

また1971年にはスタンフォード監獄実験が行われ、これは危険な状態になり途中で中止されました。

 

彼女は哲学者として真実を見極めただけでしょうか?

私はユダヤ人である被害者の彼女が、恐れず公言したことが重要だと考えます。

このことこそが、争いを終わらせ、平和に向かう始まりの力になると信じます。

 

素晴らしい女性、素晴らしい映画作りに出会えたことに感謝します。

 

 

 

 

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despair6の選挙:非常に悪い政治文化4


国会議事堂,The parliament house of each country 

< The parliament house of each country >

Last time, we looked at situation that people quickly abandoned the Cabinet that had been selected by the election.

It was much different from Japan that the situations of European and American advanced nations and a neighboring nation.

In this time and next time, I will explain the cause comparing with overseas situations.

 

Conspicuous election situations in Japan   (legislative elections)  

  •      Dissipated political parties likely fog:  After the war, the political parties that exceed 50  was born and disappeared, and 14 political parties have seats now. These many will also disappear soon in several years.
  •      The seats of political parties are reversed on each elections:  2009 years and 2012 years in the Lower House election, it was greatly reversed the standings between the ruling and opposition parties. 
  •     Declining turnout of voters:  in the Lower House election, the turnout is 92% in 1917, 75% in 1955, and 59% in 2012. This shows decreasing trend.
  •     Increasing independents of voters:  they are increasing from 10% in 1960s to 50% in 2012 years.

These weaken political power and become a serious obstacle for reorganizing the stagnant society and economy of Japan. 

Has this problem arises in European and American advanced nations.

 

What are as the difference between Japan and the West, or its background factor?

 

 

前回は、選挙で選んだ内閣に対して国民が短期間で興ざめする状況を見ました。

それは欧米先進国や隣国とかなり異なるものでした。

今回と次回で、その原因を海外と比較しながら探ります。

 

日本の目立つ選挙状況 (国会選挙)

  • 降って湧く政党 :戦後、生まれて消えていった政党は50を越え、現在14の政党が議席を持つ。これらの多くもやがて数年で消えるだろう.
  • 選挙毎に大きく逆転する議席 : 衆院選2009年、2012年で大きく与野党が逆転した。
  • 低迷続ける投票率 : 衆院選1917年92%、1955年75%、2012年59%となり低下傾向。
  • 増加する無党派層 : 1960年代10%から2012年50%へと増加傾向。

これらは政治力を弱くし、沈滞した日本の社会経済を立て直すには大きくマイナスとなる。

この問題は欧米先進国に起こっているのだろうか?

日本と欧米との違いやその背景には何があるのだろうか?

 

英国政党得票率,UK general election vote share and resultant governments

< UK general election vote share and resultant governments(1950-2010), blue=conservative, red=labour, yellow=liberal, gray=others >

 Party support increasingly has dispersed widely during the past 20 years. When they did not unite in 2010, the handling of the government by them became impossible.

 In past days, the ruling and opposition parties have changed as the two-party system in each about ten years.

 Differing from Japan, the third party is growing throughout several decades.

 

ここ20年ほどで政党支持が分散する傾向に拍車がかかり、2010年には連合しないと政権運営が出来なくなった。

以前は二大政党制で大凡10年毎に与野党が交代して政権を担っていた。

それでも日本と異なるのは、第三政党が数十年をかけて育っていることです。

 

ドイツ政党議席数,Historic seat distribution in the German Bundestag

< Historic seat distribution in the German Bundestag(1949-2009), black=CDU/CSU, red=SPD, yellow=FDP、green=Green、gray=others >

In 1983 years, the Green Party made an advance into parliament. Since then it became 4 party system. And the left-wing party was added in 2005. Since then it became 5 party system.

Germany adopts a proportional representation and combines first past the post system with it.

From a bitter experience with the presence of small political parties that became a hotbed on which Nazis gain power, if new party did not exceed 5 percent of the votes, cannot acquire the seat for Parliament. 

But the presence of small political parties is becoming remarkable also here.

 

1983年、緑の党が議会進出し4党制となり、2005年には左翼党が加わり5党体制となった。

ドイツは比例代表制(小選挙区併用)だが、ナチス台頭の温床になった小政党乱立の苦い経験から得票率が5%を越えないと国会に議席を得られないようにしている。

しかし、ここでも小政党氾濫が顕著になりつつある。

ギリシャ政党得票数,in Greece, voter support for parties and annual change in GDP

< in Greece, voter support for parties and annual change in GDP >

 We look at Greek politics that is confused at a breath, depending on falling into the economic crisis.

 The beginning was the change of power in October 2009, and budget deficit that was hidden by the old government was revealed.

 It developed into the big issue that involved in EU from the middle of 2010.

 13 political parties fought in the election in April 2012.

 The radical leftist alliance that was small political parties became the second party that has 52 seats in the parliament.

 ND (New Democratic) was a dominant party of 108 seats. The seats of the party are distributed much more to a higher rank of obtained votes.

 There were formerly in a two-party system of ND and Pasok (The Panhellenic Socialist Movement).

 

As a graph shows, the GDP falls rapidly, and the approval rating for two main political parties fall at a breath, and caused the presence of small political parties.

 

 

ここで経済危機に陥り、一気に政治が混迷したギリシャを見る。

発端は2009年10月の政権交代で、旧政府による財政赤字隠しが発覚し、2010年中頃よりEUを巻き込む大問題へと発展した。

2012年4月の選挙において13政党がしのぎを削り、少数政党だった急進派左派連合が52議席の第二党に躍り出た。ND(新民主主義党)が108議席の第一党。議席数は得票上位により多く配分されるシステムになっている。

従来はNDとPasok(全ギリシャ社会主義運動)の二大政党制だった。

グラフが示すように、GDPが急激に落ち込み、二大政党への支持率が一気に低下し、多党制を招くことになった。

 

ギリシャ人の信頼度,trust of Greeks, May 2011

< trust of Greeks, May 2011. blue=trust、red=do not trust, top bar=fellow citizens,7th=governments, 8th=political parties >

The government was not most trusted, and trust in fellow citizens also was small.

Rapid economic deterioration, subvention reduction and pension reduction by the tight budget, and the distrust of the government that caused it exploded at a breath.

This is a dangerous sign, but the election system of Greece that prevents presence of many small parties is useful barely.

Next time, we will analyze the background of this situation occurred in the world.

 

 

一番、信頼されていないのは政府であり、地域社会に対してさえ低下している。

急激な経済悪化、緊縮財政による補助金や年金の減少、それを招いた政府への不信感が一気に爆発した。

これは危険な兆候だと言えるが、小党乱立を防ぐギリシャの選挙システムがかろうじて役立っている。

次回は、世界で起きているこの選挙状況の背景を分析します。

 

 

 

 

 

 

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Birth of primitive art 4: Development of the cave paintings


 

 ゲナスドルフ,女性線刻画,Female line-engraving drawing , Gonnersdorf ruin, Germany  

< Female line-engraving drawing in Gonnersdorf ruin, Germany  >

Last time, we looked at the movable statues in the last stage of the glacial epoch.

From this time, we look at the brilliant cave paintings of a glacial epoch.

The Fine arts suddenly bloomed on the ground of arctic cold.

 

First, I do the last supplementary explanation. Last time, there was an opinion that the Venus image of Nebra is visible to a penis. The above figure is the line-engraving drawing of the clay stone in Gonnersdorf ruin that were making the same Venus statues as Nebra. Two women that have an arm were drawn on this stone. Thus, it is guessed that the Venus statue is the thing developed from the female image. Thank you for the precious opinion.

 

前回は、氷河期最後を飾った動産美術を見ました。

今回からは氷河期の見事な洞窟壁画を見ていきます。

突如として極寒の地に美術が花開いた。

 

最初に、前回の補足説明をします。前回示したネーブラのビーナス像が男根に見えるとの指摘がありました。上図はネーブラと同じビーナス像を作っていたゲナスドルフ遺跡の粘土板の線刻画です。これには腕を有する二人の女性が交叉して描かれています。このようにビーナス像は女性像から発展したものと推測されます。貴重なご意見ありがとうございました。

シャーベット洞窟,馬,horse、Chauvet cave

< horse 、 Chauvet cave >

Cave paintings appeared a little later than movable statues for a while. There is no painting outside a cave until the last stage comes. The oldest thing is in Chauvet cave in south France, 31000 years ago. This limestone cave amounts to 400 m in length. In the inner wall, there were the colored pictures of 300 over, the line-engraving drawing of 300 over, many signs, and many handprints.

A horse, the extinct cow, a bison, a bear, a mammoth, a reindeer, the owl, the lion, the hyena were painted on the surface of the wall. The main paints the black of charcoal and the red of Ocher. There is also a room unified in each color. The animal that is running in groups is drawn, and two fighting rhinoceroses that were drawn by the forcible outline look vividly.

 

 

洞窟美術は動産美術より少し遅れて現れます。末期になるまで洞窟外の壁画はありません。最古のものは南フランスのシャーベット洞窟で、31000年前に遡る。この鍾乳洞は全長400mに達する。300点以上の彩色画、ほぼ同数の線刻画、多くの記号、手形が内壁に見つかった。

馬、絶滅した牛(オーロックス)、バイソン、熊、毛犀、マンモス、トナカイ、フクロウ、またライオン、ハイエナが壁面に描かれていた。顔料は木炭の黒とオーカーの赤が主でした。それぞれの色で統一している部屋もある。群れ走っている動物が描かれ、また力強い輪郭線で描かれた戦う犀などは生き生きしている。

 

戦う犀、fighting rhinoceroses,Chauvet cave

< fighting rhinoceroses 、 Chauvet cave >

Secondly, the cave painting is in the Cosquer cave facing the Mediterranean in France. It is divided into many handprints drawn 27000 years ago and the animal group drawn 19000 years ago. Although many handprints are seen in other caves, the paint included in the mouth is sprayed on the hand put on the wall, and a picture is made. A penguin and a seal are rare, although the painting animal is a lot of horses in common with other caves.

The famous Lascaux cave painting appears in France 17000 years ago. The Lascaux cave is one of the 30 caves of the gorges in the limestone region. The stone tool and a bone implement of 100,000 points are found from this whole region. Although there is a trace of a life, there is a cave without paintings, and the caves like this is about half. The Lascaux cave consists of three rooms, is about 70 m in full length, and the largest places“The hole of a bull”are a hole of 9m wide, and Fig. 1.

 

 

次に、洞窟絵画はフランスの地中海に面したコスケール洞窟にある。27000年前に描かれた多くの手形と19000年前に描かれた動物群に分かれる。手形は他の洞窟でも多く見られるが、手を壁にあて、そこに顔料を吹き付けて描く。描かれている動物は他の洞窟と同様に馬が多いが、ペンギンとアザラシはめずらしい。

17000年前頃、有名なラスコー洞窟絵画(フランス)が出現する。ラスコー洞窟は石灰岩地帯の渓谷にある30近い洞窟の一つです。この一帯から10万点の石器や骨角器が見つかっている。生活の痕跡や遺物はあるが絵画のない洞窟はおおよそ半数ある。ラスコー洞窟は3部屋からなり、全長70m程で、最も広い所は幅9mの「牡牛のホール」、図1である。

 

ラスコー,牡牛のホール,The hole of a bull、Lascaux cave 

< fig.1 The hole of a bull 、Lascaux cave >

The side and the ceiling side of a cave mainly have many hundreds of horses, cows, deer, and bisons, and there is a picture of a maximum of 5.5m cow in them.Moreover, there are the colored picture and line-engraving drawings that describe a goat, a sheep, an antelope, a human being, and a geometrical pattern. These numbers are 2000 points. There are 500 handprints that man sprayed paints. Red clay and charcoal were melted and mixed with animal fat, blood, and sap, and black, red, yellow and tea, and brown paints were made. It is thought that the painting brush uses the moss, the hair of an animal, and a wooden branch or one’s own finger.

 

洞窟の側面と天井面には、数百の馬、牛、シカ、バイソンが多く、最大5.5mの牛の画がある。また山羊、羊、かもしか、人間、幾何学模様の彩色画、線刻画が2000点ある。顔料を吹き付けた人間の手形が500点ある。赤土・木炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜ、黒・赤・黄・茶・褐色の顔料を作っていた。苔、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら壁画を描いたと考えられる。

 

牛と馬,A bull and a horse、Lascaux cave

< fig.2 A bull and a horse  、Lascaux cave >

Fig. 2 in the hole of a bull is painted over picture. Fig. 2 in the hole of a bull was painted over  some pictures repeatedly. The first pictures that was painted was a horse group of gray with running fast, on lower side. Subsequently, it was one horse that has a black mane in the center of the left, and the red body. Subsequently, it was a bull realistically was drawn by the black outline. Finally, a deer was painted in the pictures by only red on lower right.

 

 

牡牛のホールにある図2は重ね描きされている。最初に描かれたのが下部の灰色の疾駆する馬群. 次いで左中央の黒いたてがみと赤い胴体を有する一頭の馬、次いで黒の輪郭線で写実的に描かれた牛、最後に右下の赤一色の鹿が書き加えらえた。

 

バイソンと人,A bison and a person、Lascaux cave 

< fig.3 A bison and a person、Lascaux cave >

Fig. 3 shows the only scene in which a person appears. It is rare that a person appears in the fine arts of the Old Stone Age, and even if drawn, it is childish. In this picture, there is a bison that a spear is stuck in and from which an internal organ fall out, and the person fall down before that.On the lower side, there is a spear and a stick (probably an atlatl) that was attached a bird decoration.The person’s head is like a bird with a beak, it is seen that 4 fingers and the erect sexual organs.It seems to have some kind of message in this picture. The interpretation is a hunting scene, a transformer state of a shaman, a ceremony, etc.

 

Next time, I look at the last of cave fine arts and the shining time.

 

図3は人物が登場する唯一の場面である。旧石器時代の美術に人物が登場するのはめずらしく、描かれていても稚拙である。この絵には、投げ槍が刺さり内蔵が飛び出したバイソンの前に人物が倒れている。その下には投げ槍と鳥飾りを付けた棒(槍投器らしい)が見える。人物の頭はくちばしを持った鳥形で、指は4本で勃起した性器が見える。この絵にはメッセージがあるように思え、狩猟場面、シャーマンのトランス状態、儀礼目的などの解釈がある。

次回は、洞窟美術の最後を飾るものを見ます。

 

 

 

 

 

 

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ナチスの亡霊


紹介 : 橋下大阪市長の行動をどう見るか。歴史的な国政改革とヒトラー誕生を振り返ることにより、何が恐ろしいのかが見えてくる。

目 次

1. 国政改革の事例  サッチャー/小泉/まとめ

2. ヒトラー  背景/ヒトラーの出現/独裁体制

3. 悪しきもの 暴力/経済悪化/恐怖/劇場型政治

4. 社会改革 手遅れ/改革の必要性/何が今必要か

5. 最後に

何が問題なのか
橋下行政に懐疑的な方は、その独善的な手法とファシズムの再来を恐れているように、私には思える。この二つの切り口で、検討を進める。一つは内外の国政改革の事例から、その指導者の行動と功罪、その社会背景を振り返る。もう一つはヒトラーの生きたドイツ、独裁を生んだ社会背景を考察し、日本の現状との相違を実感出来るようにしたい。そこから何かが見えてくるはずです。
1. 国政改革の事例
英国のサッチャーと日本の小泉を取り上げる。両者は保守政党に属しながら大胆な改革を行った。先進国は大概二大政党で、支持基盤がそれぞれ富裕層と労働者層に分かれ、前者が保守政党(自由)で後者が革新政党(民主)の色分けになる。本来、革新政党が現状打破を狙って大幅な国政改革を担うように思えるのだが、ここ半世紀、先進国で記憶にあるのは保守側のもので、革新側のものは目立たないようだ。米国は両政党が拮抗しており、大統領交代期に左右に若干揺れ戻すだけで大きな変化が困難なようだ。

(ア) サッチャー首相

時代背景  英国は19世紀を通して我が世の春を歌い世界経済を牽引していたが、20世紀に入る直前から米国にトップの座を明け渡し、ドイツからは猛追を受け、英国病と揶揄される長い凋落を味わっていた。第二次世界大戦後から立ち直った70年代の世界は経済危機の時代で、オイルとドルの両ショックが引き金となり、ECCで見ると最大インフレ率が74年の15%、失業率が70年の2.5%から82年の10%へと漸進的に上昇していった。この混乱から欧州では、英国も含めて野党が政権を取ったが、おのずと政治選択の幅は限られていた。伊独仏英の中で、英国の70年代は一人当たりGDPが最低に落ち込み、消費者物価上昇率は74年26%になった。この英国病の原因は端的に言うと、強い労組と金融投資家の存在になる。74年の賃上げは24%になり、公共部門の賃金が民間を引っ張った。帝国主義時代の残滓として、実業では無く海外投資などで稼ぐ富裕層が国内投資を見限っていた。次の80年代は、その反動としてそれまでの20年間の政治的・社会的民主化路線から逆に振れ、保守化傾向を強め、厳しい競争を奨励する自由主義経済へと向かった。その先頭を切ったのがサッチャー(保守党、1979年就任)であった。同時代の国政を担った保守系では米国レーガン(共和党、1981年就任)、日本中曽根(自民党、1982年就任)であり、革新系ではソ連ゴルバチョフ(共産党、1985年就任)、仏ミッテラン(社会党、1981年就任)がいた。独コール(キリスト教民主同盟、1982年就任)は中間的であった。

事績   79年の選挙で経済復活、小さな政府へを掲げ、6年間続いた与党労働党を破り保守党を大勝に導き、女性初の首相になった。79~90年を「鉄の女」の異名をとり、政治・経済・外交を牽引した。国有企業の民営化、規制緩和、所得税・法人税の大幅引き下げ、一方消費税を8から15%へ引き上げ、国内改革を強行した。法人税等の引き下げは、長期低迷の主因の一つであった資本の大幅流出を食い止めるためだったろう。しかし政権当初は大きな景気後退もあり、支持率は低下した。しかし82年、フォークランド紛争を終結させた彼女の支持率は73%に上昇した。これにより2度目の総選挙も制し、より保守的・急進的な改革を行った。この結果、英国経済は独仏米を尻目に財政赤字から黒字に転じ、インフレ抑制に向かった。しかし終盤の人頭税導入、欧州統合に懐疑的姿勢が国民や財界から嫌われ、辞職することになった。

Sacyer

功罪  私が以前、欧州教科書による戦争の教え方を知った時、その深い反省に立脚した姿勢に、いたく感動したことがあった(「戦争の教え方」別枝著)。しかし彼女は、88年にそれを自虐的と見なし、また教育機関の独自性を否定した。その後欧州教科書の記述は逆方向に変容していったらしい。一方で、私が努めていた航空機部品加工会社にも世界標準の認証制度が浸透しつつあったが、これを最初に推し進めたのが彼女の政権であった。英国の輸出競争力の低下を挽回するために世界標準を英国から立ち上げたのだ。評判の悪いものを列記すると、金持ち優遇、医療制度崩壊、地方経済不振、競争型の教育制度が挙げられる。特に初期の強引なやり方で失業者が巷に溢れた。86年失業率は欧米先進6ヶ国で最も高く12%になりその後若干低下した。その後の労働党によって、これら政策の行き過ぎた部分が修正され、資本主義と社会主義の折衷が進められた(第三の道)。一人当たりGDPを伊独仏と比べると、73から97年まで最下位、特にサッチャー政権下で悪くなった。しかし2004から07年までは最上位となった。このことはサッチャーの失敗を97~07年労働党ブレア首相がカバーしたことを示すのか、彼女の経済基盤固めと産業活性化が15年後に効いたのか、私にはわからない。

考察 彼女の施策は保守派からも伝統の破壊者として、革新派からも大衆の権利の破壊者として批判される。しかし低迷と混乱から抜け出すべく80年代、世界に先駆けて大胆に国政改革を成し遂げたのは彼女であり、それにレーガンと中曽根が続くことになった。彼女の父は市長経験者であったが、彼女は日本の政界に多い三バン(地盤、看板、鞄)に支えられた政治家ではない。敬虔なプロテスタントの家に生まれ、大学では化学と経済学に没頭し、企業に化学者として勤めた。政界入りし後に弁護士資格を取得し、女権拡張を訴えた。ここに彼女の強さがあったと思う。彼女の初期の政策で失業率が最悪になったにも関わらず、11年にも及ぶ政権を担えたことに驚く。

年月は肥やし 実は英国の政党政治には羨ましいものがある。それは二大政党が十年前後で与野党を後退し、首相の在籍期間は4~10年である。これならじっくり腰を据えて改革が出来る。日本のように首相が1年ぐらいで飽きられるようでは、何もなすことが出来ない。改革が如何に長期間を要するかを見る。米国でレーガンが華々しく、強いアメリカの再生を訴えて81~89年の間、大統領を務めた。彼の唱えたレーガノミックスは当時脚光を浴び、景気は良くなったが、予想とは逆に設備投資低下と財政赤字、対外債務の増大を招いた。しかし彼が掲げた財政赤字削減は15年後のクリントン時代にやっと成し遂げられた。

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(イ) 小泉首相

時代背景 戦後復興期の60年代に12%もあった経済成長率が他国の追い上げもあり減速し始めた。70年代になると賑わいに陰りが見え始め、公害などの負の遺産が目立つようになった。さらに91年のバブル崩壊により、過去15年間の平均4%の経済成長率が、以降平均1%以下に落ち、現在まで続いている。小泉政権誕生までに、先進国に例がない46年におよぶ一党独占状態に陥り、あらゆるマンネリが進んだ。この間、選挙制度が少しずつ改革され、96年の小選挙区比例代表制実施、衆院の一票の格差が72年の5.0から96年の2.3までに低下していた(これでも地方の票は2倍の価値があった)。これにより都市部の票がやっと反映し、96年頃より野党(民主党)が徐々に勢力を増していった。この間に自民党内の派閥が小選挙区制により弱体化し、選挙権限が派閥から党中央に移った。これにより派閥の領袖の影が薄くなって調整(密約)が効かなくなり、逆に人気に頼る政局になっていたのではないか。経済の低迷、積年の自由化による批判票、政治のマンネリ化(癒着)などで与党支持率の凋落が鮮明な中、選挙の顔として小泉待望論が急浮上することになった。

事績  小渕首相急死後、密室談合で森政権が誕生したが、イメージの悪さと失言が祟り、支持率の悪化を招き森は1年で退陣した。小泉は主婦に人気がある田中真紀子と組み、清新なイメージを武器に「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、党内だけでなく大衆に圧倒的な支持を得た。2001年7月に控えた参院選の「選挙の顔」として4月に総裁に選ばれ首相に就任し、06年までの5年半を務めた。最大の特徴は、自身のキャラクターや発言によりマスコミに頻出し劇場型政治を行い、その真価は、与野党含めて多大な利権が絡む郵政民営化を反対の大合唱の中で成立させたことにある。政策で際立つのは、91年のバブル崩壊の後処理、財政再建(公共事業と国債発行抑制など)、規制緩和、拉致被害者救出、自衛隊の海外派遣などであった。終盤になると支持率の低下と、彼の責任とは言えない社会問題(構造計算偽造、ライブドア事件など)の頻出が重なり、総裁任期満了と共に、人気が上昇していた安部が後継となった。

功罪    政治を面白くさせ、改革の夢を最初に与えてくれた人物かもしれない。変人で非主流、一匹狼的存在でありながら大きく政治の向きを一度は変えた。せっかく国債発行額をそれまでの増加傾向から横這いに抑えはしたが、彼の退任後、景気悪化が重なり08年(麻生)からまた大幅な国債発行で財政悪化の道に戻った。これは小泉の公共投資抑制の付けが溜まった結果とも見なせるが、限界消費性向の低い(金が回らない)現在、従来の土建投資では財政赤字を増大させるだけかもしれない。評判の悪いものを列記すると医療制度や年金制度を後退させ、競争力強化のために非正規雇用を拡大させ、靖国や派兵でタカ派ぶりを示し近隣諸国と物議を醸したことだろう。

考察  小泉改革を見る時、二つの側面があり、一つは小泉個人の際立った才覚、今一つは長期政権の弊害が表面化し、あだ花が咲き乱れる前触れだったことである。彼は三代にわたる政治家の家系で、彼の子も政界で活躍している。彼は政治屋として類い希な才能をその家系から学んだが、先進国から見ると異常である。自民党の世襲議員は40%、民主党で20%(元自民党を含む為か)、日本に迫るのは縁故世界のイタリアぐらいで、米国は5%である。ちなみに小泉後、首相になったのは安部、福田、麻生、民主党になって鳩山へと続いたが、全て1年交代の世襲議員であった。それは血統と見映えは良いが結果の出せない世襲議員に頼る政局を露呈した。グラフ「内閣支持率・・」の赤・青の矢印を見ると、首相交代前後の支持率の落差がそれを物語っている。さらにそれが繰り返す毎に低下しているのも明瞭だ。まさにイースター島で12部族(派閥)が競い合うようにして麓から山林を伐採し始め、頂きに最後の数本を残すことになった状態である。それを切ってしまえば、薪は無くなり海洋に逃げ出すカヌーも造れない。分かってはいるが、今を生き延びなければ未来も無い。そして絶滅した。しかし最後の状況だけを責めるわけにはいかない。そこ至るまで放置した人々と社会に責任がある。

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結果が出ない  歴代首相に結果が出せない理由は二つの側面がある。一つは日本の閉塞した経済状況だろう。大幅な円高更新、産業の空洞化、失業率高止まり、膨大な財政赤字、労働者人口減と急速な高齢社会到来で身動き取れず、残る自由化と金融対策にも決め手は見つからない。ドルショックの71年以降、先進国の自国通貨の実質実効為替レート(インフレ調整後)は横這いか下降(安い)であるが、日本は逆に3倍も上昇した。ドル換算の円は4.5倍に達した。失業率(2010年米国9.6、日本5.1%)を除いて他の項目は先進国で最悪の状態であり、急速に悪化している。既に天然資源の半分を輸入に依存しているにも関わらず島国であるために、自給にまだ拘っている(ヒトラーも自給自足経済を謳い、東方進出の根拠にした)。これらに対する処方箋について多くのエコノミストは、それぞれ逆のことを言っている。

肥大化  ここにもう一つの閉塞した政治状況が重なる。日本が戦後経済の復興を成し遂げ得た大きな理由は、財政投融資(96年最大40兆円)と公共投資(95年最大42兆円)、通産省の長期的な産業育成、財務省の銀行の護送船団方式にあった。これらによって少ない資金を大局的見地から集中させ、効果を発揮した。60~90年代、先進主要国が公共事業のGDP比率を平均3.5から2%に低下させている間も、日本は4.3~6.3%を維持した。これが失業率の大幅悪化を防いでことも事実だろう。しかし低経済成長が固定化した現在、それらは空回りし赤字を垂れ流し大きな負債を積み重ねる最大の原因となった(厚生年金資金の運用など)。皆さんも知っての通り、それらを一手に賄うのが中央官庁と特殊法人である。特殊法人は財投のほとんどを扱う隠れ蓑になっている(96年財投30兆円を扱う)。その利権、おこぼれにあずかるのが族議員である。原子力や農業行政で見たようにがっちりと官吏と議員、産業、学者は組んでいた。これだけの利権にあずかる人々と組織は今も健在である。工事費4600億円の無駄とわかっている八ッ場ダム一つみても、既得権益と疎開住民問題がネックとなり、再開を余儀なくされた。社会には惰性のようなものがある。日本の傷の深さは、あまりにも官僚主導で経済復興を上手くやり遂げてしまったことにある。日本の公務員と政治家の腐敗度は世界で良い方から17番目である(腐敗認識指数より)。良いか悪いかは・・・。


足を引っ張る
 しかし、これだけならまだ傷は浅かったが、さらに世襲議員が絡む。世襲が政界に災いをもたらす理由は、三バン(票田、知名度、選挙資金)を有する利益集団との密着にある。議員が国会に行けるのは能力や主張ではなく、その集団と派閥の支援如何で決まり、その後はその集団と派閥の利権の守護者とならざるを得ない。これを端的に示す例が、議員への呼称である。日本では「先生」であるが、英国では「仲間」である。期待しているものに違いがある。確かに議員家系には巧みな政治家が時折出るかも知れない、歌舞伎役者のように。しかし弊害の方が大きい、真に能力があるなら三バンと絶縁して他の選挙区で出馬すれば良い、他の新人がやって来たように。甚だしく不公正な競争の下では優秀な人材は出ない。同様に役人の天下りなどでも対応は甘い。

長々と説明したが、現代の政局は身動きが取れない状態にあり、並大抵の人材では経済と政治の病を根治することは無理である。皆さんが上記の経済と社会問題を考えるなら、その困難さを理解してもらえるはずです。その上で首相の首をすげ替え、政局の大転換の繰り返しを望むなら許されるかもしれない。国民は政治を今少し冷静に見守り、政治家を育てる気概が必要だと思う。

(ウ) まとめ
英国のサッチャーの改革を概観し、日本と比べると日本の政治は貧弱だ。結局、悲観的な見方かもしれないが、日本での国政改革を可能にする者は、基盤(三バン、派閥、官僚、経済界のコネクション)を持ち、マスコミ(人気)に乗じる政治家だけかも知れない。それも短期間の寿命しかない、国民が熱しやすく冷めやすいからである。古代ギリシャの末期、紀元前413年に劇場型の政治によりアテネは無謀なシチリア遠征を行い、4万人の戦死者を出し壊滅した。これを煽動したのが名望高い政治家系のアルキビアデスで、彼は才能、容姿、弁舌に卓越し、悪徳も兼ね備えていた。彼はこの戦いで悪運強く唯一生き残りもした。これと同じ現在の状態は崩壊の危険と背中合わせである。政治の貧弱さは、単純に日本特有の縁故重視(内集団ひいき)に尽きるのかもしれないが、それでは悲しい。民主主義が未成熟なのか、ディベート(討論)による政策論議不在なのか、何かが育っていないように思える。これらから脱却するには、国政は二大政党で切磋琢磨するか、知事経験者がディベートの末に勝ち進み大統領になる方向に向かうべきである。前者は英国、後者は米国である。

人気 英国と日本でも共通していたことは、人気(支持率)が政権維持には不可欠であった。それでは人気の発信源は何処だろうか? マスコミが片棒を担いでいることは間違いない。ここでマスコミによって世論が煽られ暴走する現象を確認しておく。日本が太平洋戦争に突入する時、マスコミを牽引していたのがシェアトップの朝日新聞と続く毎日新聞であった。当初、戦争に反対の立場を取っていた朝日であったが、政府の検閲、軍部の介入が深まるに連れて、抵抗への諦めが上層部に生まれた。また戦場での情報取得や新聞紙供給、ニュースの配信(航空便)で軍部への協力無しでは報道力を高めることは出来なかった。これはイラク戦争における米軍頼みの報道に見られる。新聞に戦争報道を乗せると、売上げは他社も同様に鰻登りに上がった。記者達にもお国のために貢献しなければならないと考える者が出てきた。朝日はトップの座を生かし、戦争博覧会(戦闘機、戦車の展示会)などを大々的に行い、国民は狂喜した。一方、長野で戦争を批判する記事を書いた新聞社は圧力をかけられ、民衆からボイコットも食らった。ついには爆弾三銃士などの美談が、命令されることなく伝言ゲームの状態で捏造されるようになった。こうして新聞と国民はいつしか軍部と一体となって狂奔することになった。それは新聞と大衆の共鳴現象(ハウリング=スピーカにマイクを近づけると起こる)であった。その様な方向へと新聞社を向かわせた原因の半分は、記事が民衆を惹きつけるかどうかで新聞社の命脈が決まることにある。まるで水商売か太鼓持ちのようである。これは現在も日常的に起きており、平和な時代では広告主の影響が大きくなる(原発賛成記事への転向など)。米国の新聞が廃刊に追い込まれる理由は広告が減っているからであり、存続するために低俗化(買収、系列化)する新聞が増えている。

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報道の悪癖
  ここで政治家などの人気(好感度や関心度)がマスコミにどのように影響されているかを確認する。先ず我々の関心度はどうだろうか。マスコミ報道には議題効果があって、内容如何に関わらず取り上げる回数が多いことだけで、視聴者の関心はそれに向かう傾向がある。日頃、死亡をテレビニュースで知るのは、残虐な殺人や少年の自殺、多重衝突の自動車事故、芸能人の病死などである。年間死亡者数の多い順にガン35万人(疾病で最大)、自殺3万、交通事故5千、他殺4百で、尚10~19歳の自殺は5百である。我々は統計数字を大数で認識しているわけではない。記事につられ世情への認識に偏りが生じ、テレビを多く見る人ほど社会が悪化していると感じる傾向にある(米国の心理学調査)。マスコミは事件性のもの取り上げ、平和に終始するものは扱わない傾向がある。乱闘のデモと粛々と進むデモではテレビ局はどちらをより取り上げるだろうか。

煽り  現代社会が不安にさいなまれているとしたら、私達はマスコミに何を求めるだろうか。社会が混乱し失望感が増すと、日本国民は非常な不安に襲われ藁にもすがる危ない心性を持つと指摘されている(心理学者山岸俊男)。私達の感情(情動)は複数の脳内ホルモン物質(アドレナリンなど)分泌の組合せによって生成されている。不安は期待と恐れ、二つの基本情動の組合せである(心理学者プルチック)。したがって現状に恐れを感じさせるニュースには敏感になり、期待を持たせる記事にはすがるようになる。するとマスコミはそれにいち早く反応し、それらを多く取り上げるようになる。例えば東北大震災の後、今までにない大地震や大津波の予測記事が頻出するようになった。以前は無用の刺激を避ける為か、原発恐怖を招かせない為にか、そのようなことはなかった。我々が無意識に求める事件や混乱がより現出することになる。フロイトの指摘する「夢」の機能を「報道」がまさに担っている。マスコミ各社は視聴者獲得競争で躍起である。当然、政局報道も同様で、こうなると共鳴現象が始まり、人気や支持率は短期間で乱高下することになる。私達は不安やガセネタに煽られない胆力と見識が必要である。はかない希望かもしれないが。

兆し  しかし一方で明るい兆しが見えて来た。国民は現状を打破したいと意思表示を明確に行った。それは未熟な反応のようにも見えるが、これから学ぶ可能性もある。またそれに応える可能性のある人物もちらほら出てきたようだ。昔は芸能人や著名人を立候補させ、最近は何々チルドレンと呼ばれて担ぎ出される議員が多かった。これらが議員になれるのは一重に国民の支援の賜である。しかし法曹界や経済界で活躍した人、自治体で頭角を現す人が目立つようになった。これは重要である。以前の人物に比べれば、橋下は極端ではあるが、社会の本質を見抜いているように思える。したがって反応が早く鋭い。またマスコミで鍛えられ、大衆の反応をよく心得ている。今の時代を切り開く為には、多少の危険性はあるが我々の方が清濁併せ呑むべきかもしれない。あれだけ民主主義に長けた古代ギリシャが滅びた一つの理由は、軍事、官吏、法律などの専門家を養成しなかったからである。要職を、持ち回りや抽選で選び、独占や独裁を極度に嫌ったからである。現在の欧州法規の基礎はローマ法にあるが、これは、映画で憎まれ役の元老院(名家)が育てたことに始まる。

リーダー 私の悩みは、社会を大改革するリーダーには独裁的なタイプが多いことです。米国で期待された民主的なリーダー、草の根運動などにより支えられた大統領、日本の革新系の自治体首長など、彼らの事績を見ると腰砕けが多い。むしろ保守的、右翼的な人物の方が行き過ぎを否めないが、混乱を突破する力があるようである。それは社会に根を張った巨大な力(保守勢力)を背景にしているとも言えるが、必ずしもそれだけではないようにも思える。やり遂げる統率者の性格と能力に、公正、判断力、統率力以外に独裁、独断、親分肌、攻撃性がついて回っているようである。社会が混乱と不安に陥れば、政策の取捨選択に豪腕を振るうリーダーを、大衆は望むことになりそうである。私にはこの兼ね合いへの回答がない。社会は民主的に漸次改革される方が良いが、なかなか社会には慣性のようなものがあって、行くところまで行かないと反省出来ず、大概手遅れになりやすい。社会が大きくなるほどその傾向が強い。こうなると益々、民主制から遠ざかるように思えてならない。これでは矛盾を孕んだままである。独裁については、ヒトラーで検討します。

2. ヒトラー 
独裁者ヒトラーは第二次世界大戦を勃発させた張本人で、大戦による世界の死者は軍人民間人を合わせて5千万人、さらにナチスの大虐殺によりユダヤ人を含む1千万人が死んだ。ここで肝に銘じるべきは、イタリアと日本、スペインでも同様のファシズム(全体主義)が時間をかけて同時に進行し、前者二つが最後に合体したという事実である。つまり狂気のヒトラーが偶然生まれたのではなく、それを望んだ大衆と社会が存在した。

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生みだす社会  私達が独裁者の誕生を恐れるなら、そのような社会が存在しているかを問題にすべきである。その社会は、独裁者を待望し、良識を捨て彼に全権を委任する、そのような切羽詰まった状況にあったはずである。もっとも初めから、ファシズム国家になろうと考えて邁進するのではないだろうが。少なくとも最初の時代背景が最も重要である。2例を参考に挙げる。泥棒洞窟(米国の地名)の心理実験では、無作為抽出の二つ青年グループがスポーツ対抗で対立し始めると、そのリーダーには攻撃的な人物が選ばれた。平穏であればその様な非社会的な青年は見向きもされなかっただろう。第二次世界大戦終了後のフランス首相にド・ゴール将軍がなっていたが、独裁的な彼はもめごとがあって引退していた。しかし対岸でアルジェリア独立運動が勃発し、地中海からフランス本土に侵攻されそうになると、小党乱立によって機能不全を起こしていたフランス政府はド・ゴールに再登板を要請した。ド・ゴールはこれ幸いと、大統領に強権を与える新憲法を制定した。自ら初代大統領となり11年に及ぶ強権的な政策運営を行った。

(ア) 時代背景 
潮流 ヨーロッパを中心にして見る。19世紀末から第一次世界大戦(1914~18年)、そして第二次世界大戦(1939~45年)の開始まで、大きな胎動と混乱の時だった。産業革命の成熟と人口増により、先ず帝国主義が吹き荒れ、英仏露が植民地と交易ルート拡大に乗り出し、勢いを増す独が割り込んだ。この結果、ヨーロッパ全域と周辺で、各国は同盟離反を繰り返しながら国境で戦争を多発させた。こうした中で小さな暗殺事件から戦時体制を取って同盟していた国々は自動的に戦火を交えることになり、第一次世界大戦が始まった。一方、産業都市の発展は労働者意識を高揚させ、共産主義思想を開花させた。この思想を受けて共産党一党独裁によるソヴィエト連邦が生まれ、農民を収奪しながら強国になりつつあった。これは欧州に取って恐怖の政体であった(特にカソリック側)。さらに民族独立の動きがあった。欧州帝国は植民地で、ロシアはバルカン半島で、民族独立を餌に味方に引き入れ戦わせた。米国の大統領は理想論としてそれを唱えもした。結局、この時代のヨーロッパは、戦争と戦時体制、共産主義、民族運動が沸騰していた。これが次の第二次世界大戦を招く要因になった。

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ドイツの混乱  第一次世界大戦中、ドイツはフランスとロシアに挟撃されて、まさに総力戦で食料、兵士、兵器が際限なく注ぎ込まれた。工業生産は開始前の半分に落ち、死者は180万人に達した。1918年に反戦運動からドイツ革命が起き、停戦し帝政は崩壊し、19年に社会主義政党によるワイマール共和国が誕生した。経済は戦後処理と産業停滞でどん底、さらに莫大な賠償金が課せられた。またフランス、ベルギー、ポーランドから東西国境の鉱山地帯や重工業地帯を一部占領と割譲させられた。新生の共和国による金融政策の誤りもあって、インフレ率は19年から23年にかけて3000億倍になり、失業率は30%になった。20年代は英国と米国の賠償金削減や支援もあり、好況になり28年の失業率は5%に回復した。しかし29年に米国発の世界恐慌が起こると、またドイツ経済は落ち込み始め、32年に国民総生産は28年の23%減、失業率は30%と最悪となり、その後は回復を始めた。この経緯の中で、共和国政権は経済的混迷と屈辱的な降伏を招いた当事者として、国民から無能で弱腰と非難され、支持を失っていった。

新生共和国は労働者による社会建設を目指したが、国民の反共産、栄光への復権、戦勝国への憎悪が根深く、それらに対抗できる保守勢力と資産の温存を図ることになった。したがって徹底改革を回避し、かつての戦時体制を支えた軍部、独占資本家、領主貴族(ユンカー)などは温存された。彼らの後援による極右勢力と右翼軍人の勢力、一方で革命を目指す共産主義勢力、政権を担った社会主義勢力が激しく対立した。極右と極左が各地でクーデターや義勇軍を起こし、テロ、暗殺、武力衝突を繰り返した。国内には軍縮で減らされた正規軍を越える総計何十万と言う義勇軍が無数に発生しては分裂集合を繰り替していた。それらの命令系統はバラバラであった。この背景には、後に説明する群雄割拠の温床と軍事力による復権を政権から国民までが望んだことによる。大概の政治団体は労働者主体と言いながら、大農家、知識人、資本家、軍人、キリスト教徒、高級官僚の我欲に振り回されていた。イデオロギーも右翼(資本家、軍部など)、社会主義、共産主義、民族主義(国粋主義者)、全体主義が入り乱れ対立し、都市や村落で血生臭い暴力が溢れていた。

ドイツは長らく神聖ローマ帝国と言う名声を博し、広大な領地を所有した誉れがあり、右翼にとっては懐古の対象であった。また帝国時代に多くのドイツ人が中欧や東欧に移民し、根を張っていた。これらが民族自決の風潮によって弾き出され、後に豊かなドイツへの統合を声高に叫ぶようにもなる(チェコ、オーストリア、ポーランド併合の呼び水)。この帝国時代は小国連合であって強力な統一体ではなかった。これが共和国時代のバイエルン、ザクセンなどのいくつかの邦国独立による混乱を生んだ。さらにドイツには二つの恐怖を煽る存在が東方から押し寄せていた。一つは共産主義政体で、第一次大戦後の独立と共に革命が頻発していた。もう一つはユダヤ人で、遙か昔に西欧から東欧や中欧に逃げのびていたが、民族問題のあおりを受け逆流しつつあった(人数は少ないが)。また資本主義を牛耳るユダヤ教徒とにも憎しみの矛先は向けられた。これらが国民をして軍事大国、領地拡大、反共産、反ユダヤのスローガンに奮い立たせることになった。帝国の再興を賭けて絶望的な混乱に終止符を打つには、国民を一点に集中さすことの可能な指導者の到来が必要だった。その結果、狂気のファシズムが誕生することになった。一方、西隣りのフランスは、このドイツのファシズムに備えて、社会主義と共産主義勢力による合体が急速に進んだ。

(イ) ヒトラーの出現
ヒトラーは第一次世界大戦中、ドイツ帝国内のバイエルン王国の兵隊として戦った。終戦後、すぐに中央政府から独立した共産政権のバイエルン邦国内で政治家を目指した。この共産政権は中央政府とバイエルン右翼(国粋主義)によって一年後に転覆させられ、この後、バイエルンは社会主義政権のベルリン政府とドイツ中部の共産政権2邦国に対抗する最大の右翼政権として先鋭巨大化することになる。この政変劇の中でヒトラーは後のナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に加入し頭角を現すことになる。バイエルンはイタリアのムッソリーニのローマ進軍を真似て、ベルリン政府への武力討伐に沸き立っていた。23年、彼はバイエルンの首都ミュンヘンで中央政府に対するクーデター未遂事件を起こし、逮捕後裁判を受けるはめになった。これはバイエルン政府幹部の稚拙な計画によりヒトラーが見切り発車で立ち上がったものであった。しかし彼は裁判において責任逃れをする最高幹部を尻目に、自らがドイツの為に立ち上がり、その目的を高らかに宣言した。また獄中での謙虚な態度などもあり、彼は個人的な野望がなく、高潔で愛国心が真剣なことが知られ、脇役から一躍有名になった。

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このことが全国的な党へと紆余曲折を経ながら拡大させる契機となった。29年の世界恐慌による急激な悪化は、ナチス党躍進を促し、30年の得票率18%で第二党に踊り出た。これは共産革命を恐れる保守層(財界や富裕層、大農場主)が恐る恐るナチスの援助に回ったことによる。ヒトラーは大統領選に敗れたものの、32年にナチス党は大一党に躍り出た。この年に独裁に突き進む事件、国会議事堂放火が起きた。これを共産主義者蜂起とでっち上げ、共産議員の逮捕と権利剥奪を行うことにより、国会議席の2/3を占め、一党独裁へと憲法改正を行った。続く年、ナチス発足当初から論争相手を暴力とテロで押さえ込んで来た突撃隊をヒトラーが親衛隊を使って粛正することになる。これはナチス政権の安定を図るには、過激行動を嫌う保守層の協力が不可欠であったことによる。この後、ヒトラー率いる第三帝国はヨーロッパから世界へと第二次世界大戦に巻き込むことになる。この過程でも英仏露米は外交・軍事上、互いに牽制する為、また経済上の思惑が働き、初期のヒトラー政権を容認する態度をとった。同様に開戦当時、英国の保守層もヒトラーに好意的であった。これらが独裁を増長させることにもなった。

(ウ) ヒトラーの役割
第一次世界大戦以降、彼の最大の武器は大衆を虜にする演説であった。しかし演説の内容は学識経験者にはお粗末なものとして見られていた。彼は通常の社会では評価が低く、戦争やスパイ活動などの非常態勢の中で能力を買われた。彼は暴力沙汰の組織抗争の中で、右翼や保守陣営の盟主に取り入り、自らの地位を向上させ、大衆への演説により組織拡大を成功させた。彼は聴衆の望むままに嘘と大洞を言い放てた。彼の演説を記す。ナチスの初期の大集会(20年)において。「現在の政府は我々人民の困窮に対してなにもしてくれない。・・・平和条約の結果、たえず新しい苦しみがドイツにもたらされ、・・・。かつてはドイツの官僚は、信用できる点と買収出来ない点で有名であった。・・・国内には腐敗行為が横行している。・・・その男を処罰するが、・・・ユダヤ人に対しては手も足も出せないありさまだ。」 ミュンヘン一揆時、突撃隊指導者への発言。「バイエルンには三つの道がある。一、・・マルクス主義化される道。二、・・反ベルリン闘争の継続、・・。三、・・ミュンヘンでドイツ政府を樹立してドイツ自由軍を結成する。」

(エ) 独裁体制
既に見たように、ヒトラーの果たした役割はあらゆる分裂と混乱が蔓延し、暴力が渦巻く状況を独裁と軍隊により終息させることであった。それには民衆の怨念をすくい上げ、一点に向かって収束させる力が必要であった。ヒトラーを支えたのは資本家、軍人、貴族と労働者であった。彼らが求めたものは民族主義(国粋主義)、広大な領土を持つ軍事帝国への回帰であった。逆に嫌ったのが共産主義であり、巨額な賠償を課した戦勝国、ユダヤ人であった。

ヒトラーの時代は、古代中国の漢の劉邦と楚の項羽が競いながら長安へ進軍し、秦帝国を滅ぼした時代と似ている。つまり軍事で勝敗を決める時代だったのだ。日本が急速にファシズムへと進んだのは、第一次世界大戦前後からだろう。軍隊による中国領土の拡大、腐敗にまみれ混乱した政党政治への失望が背景にある。この中で、数度のクーデターが発生し、軍部に政治を握られ、天皇の命を受ける戦時体制へと収斂していった。ここにも長年の軍事体制と経済恐慌、飢饉が大きく影響している。

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3. 悪しきもの
ここ百年間に起きた政治改革の代表例を見てきました。そこでは正常な政治行為を妨げる悪しきものが介在し災いをもたらしました。いくつかの真因を簡単に見ます。

(ア) 暴力 
暴力が社会を覆っているとき、その社会は正常に機能しませんでした。社会にとっての害悪で見るなら、暴力が持つ封殺、連鎖、利得が最大の問題です。政敵など相手の意見や意志を暴力で封殺することが悪いことは誰だって異論がない。一度、暴力社会が誕生すると、ほとんど連鎖の泥沼にはまってしまいます。これを平和に戻すことは甚だ困難です。短期的に見れば暴力は容易に利得を得る手段です。

封殺は暴力や軍隊、秘密警察の専売特許ではない。暴力以外に、言論抑圧や公言をはばからせる差別語、信仰者の盲信、イデオロギーなどがあります。これらはすべて基本的な認知、ステレオタイプ(紋切り型)に根ざしています。暴力の連鎖は最悪の憎しみをもたらすことにより強力に継続し、増殖します。社会に暴力が最初に生みだされる状況で最大のものは、現代社会では経済的困窮と恐怖でしょう。古くは人口増と資源枯渇で、それが経済悪化に代わった。恐怖はいつの世にもあります。国家暴力が外部社会から容易に利得を得ようとした状況は、帝国主義とファシズムが明快に物語っています。これは概ね二つの結果を国家にもたらします。一つは最後にすべての利得が灰燼に帰し、むしろ収支合計では赤字かもしれません。もう一つは、暴力依存が国家政体を麻痺させます。古代アテネは軍事遠征による略奪と同盟国の警備と称する上納金で栄華を誇った。市民社会に暴力は無かったが、外部に対してはいつも暴力を振るい続けており、ギリシャ諸国家はいつも戦争状態でした。第三帝国も大日本帝国も結末は同じでした。

(イ) 経済悪化 
社会に暴力を呼び覚ます最大要因は経済悪化です。それは第二次世界大戦へと突き進んだドイツと日本に見られますが、歴史的にいつも繰り返されたことでした。私達は平和時において、このことを怠らず注視しなければなりません。どうしてもここ数年に目を囚われがちですが、もう少し長いスパンでものを見ないと、イースター島のように繰り返されて来た文明崩壊へと堕ちていくことになります。そうなると気づいた時は手遅れだってあります。それを防ぐのは国民の文化と知性ですが、既にその大方は風土と歴史によって育まれたものです。これを防ぐ第一歩は自己認識から始めることかもしれません。

経済から全体主義の側面をみましょう。米国のニューディール政策は、大規模な公共事業や産業界への統制により失業者救済と経済復興を図り、のちには社会保障制度や労働者保護の制度改革を進めることにつながった。また連邦政府権力を強め政府資金による資本主義経済の安定を目指す方向へと進ませた。これを全体主義国家とは言わないが、このような社会体制が必要な時代もある。すこし補足すると、この政策はまったく効果がなく、第二次世界大戦の軍需品需要で米国は甦ったと言われることがある。その側面もあるかもしれないが、もう一つの側面もある。米国の各州は独立財政を有していた為、国家が莫大な資金を注ぎ込んでも、各州は緊縮政策をとっていたことが経済効果を鈍らせたと言える。一方、皮肉な事だが、ヒトラーが政権をとってからの経済運営は国民を魅了した。アウトバーンなどの軒並み打った国家的な大プロジェクトは失業を減らし経済を上昇させた。これと逆効果を生んだのが、10年ほど前のワイマール共和国が行った失策だった。フランス・ベルギーがルール地方を占領すると、炭坑労働者にサボタージュを奨励し、政府が紙幣を増刷しその給与支払いに当てた。これが既に紹介した超超インフレだった。米国の大統領選挙で共和党に人気が傾く時は不況期に多い。経済運営の巧拙はいつも国民の最大関心事だ。

(ウ) 恐怖
恐怖のあるなしは社会の正常化を左右する。逆に言えば、恐怖の程度が低ければその社会は正常に運営される条件を一つ確保していることになる。恐怖の恐ろしさは、不思議な事だが、実体とかけ離れることにある。恐怖は対象以上に膨れあがり、集団心理が働くとさらに倍加する。もう一つの問題は容易に煽られるところにある。ある社会が正常に機能しうるかを判断する材料としては、暴力蔓延、経済悪化、巣くう恐怖があるかどうかである。ただこれらは容易に瞬時にして起こりうる可能性もあり、隠れた意図を持って引き起こされることもある。ヒトラーの国会議事堂放火事件のように。

(エ) 大衆迎合主義、劇場型政治、衆愚政治
既に掲げた三つの要因が存在していても、最後の砦としての民主主義が機能していれば、大きな間違いを起こすことはないだろう。もっとも多くは上記三つの理由で民主主義を捨てて独裁や狂気に支配されるファシズムに陥るのだろうが。適正な民主主義政体とそれ以外の表題のような政体の区別は理念的には意味が無いように思える。歴史を振り返ると、いつも民主主義がワンステップ進む時に、保守層から侮蔑の評価がなされた。選挙権は税金の多寡つまり、資産家や名士のみの時代、平民に許されるようになった時代、女性にも与えられた時代へと変わっていた。このことが日本であたりまえと思われるようなったのは、つい最近のことである。先進国で原発反対の世論が高いのは、女性の社会進出が高い国である。韓国の歴史ドラマのように女性や下層民が成功する姿を感動的に描く国では、未だその地位が低く、原発も賛成となるようである。表題のマイナスイメージの社会を払拭する簡単な解決方法は見あたらない。強いて言えば、人気や風潮に流されず、正論を尊重し、政治家を育て、政局を見守る基本的な視点を持つことから始めるべきである。

4. 社会改革

(ア) 手遅れ
今改革の好機を逃すと大きな混乱が5~10年後に日本を襲うことになる。長期的には既に社会・経済・政治の膿が溢れんばかりに溜まっているのだが、財政赤字がその時期に暴発することになる(私の予言が当たらなければよいが)。経済状況が急変する可能性を拭えない。国民の貯蓄率の漸減、低迷する税収額、続く大幅国債発行、さらに黒字だった経常収支の赤字転落、すべて国債の債務不履行につながる材料である。日本国債は国民が買っているから安心と言われるが、銀行の取付け騒ぎやバブル崩壊を見れば、突如として市場が国債を売り始めることを否定出来ないはずである。あれだけの原発推進が突如として反対になったように(原発自身に変化はなかった)。そうなれば国債の金利を大幅に上げねばならず、現在0.2%の金利がギリシャの7%で止まれば良いのだが。1%金利が上がるだけで膨大な国債を持つ国内金融機関は1年間の利益が吹っ飛ぶ。政府は借換償還や新規発行による負担が増大し、さらに巨額であるために債務不履行になる可能性が高い。1千兆円の金利6%増は年間60兆円増で、これは国債費を除いた国家予算に匹敵する。債務不履行になれば、政府支出は大幅に削減され、急激で深い景気後退が起き、失業者が巷に溢れ、社会保険制度は崩壊し、海外資金が流入せず輸入も途絶える。しかし徐々に進行すれば円安で輸出にメリットが生まれるだろうが。日本はこれまで他の先進国が実施して来た社会の長期安定化対策をとってこなかった。人口問題(移民と少子対策)、財政赤字(増税)、高齢化社会(年金制度改革)、肥大化した公共投資と保護政策(財投、農業政策、関税など)への是正である。遅らせるほど打つ手がなくなる。イースター島において、山の森林が半分でも残っておれば再生の手も打てるが、残り数本であれば、早く逃げ出す方が得策である、これを実行出来る人は少ないが。

(イ) 改革の必要性
現在、貧富の差が拡大している。これが何をもたらしているのかを考えてみる。米国の所得を例にとる。商務省の階層別実質世帯所得資料によると80年からの20年間に、上位5%に属する階層の所得は2倍、5分割した最上位で1.6倍、残り4段階(つまりほとんど)は1.2倍しか伸びなかった。経済学者クルーグマンによると、70年代以降、最高位1%の階層しか所得は伸びておらず、さらに上位0.01%の人は73年に比べ7倍所得を増やした(「格差はつくられた」)。07年、最高位1%が全所得の23.5%を得ている。米国の国民総所得は09年14兆ドル、金融資産45兆ドルでした。これらの数字を使い簡単な計算で米国の問題点をあぶりだします。

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*使用数値 : 二つのグラフから、1980から2010年、30年間の所得伸びは80%の人で1.2倍、20%で1.6倍、これの平均1.28倍となる。30年間の所得シェア変化は、1%の人が10%~24%に増大。2010年の総所得14兆$。

*計算結果1 : 最高位1%の所得は0.9兆$から3.4兆$。残り99%で8.3兆から$10.6兆$に上昇している。

*計算結果2 : 30年間の累積金融資産は、最高位1%が毎年非課税分60%貯蓄し37兆$、残り99%が可処分65%の貯蓄率3%を貯蓄し5.5兆$、合計42兆$になる。

*計算結論3 : 1%の人が全金融資産の87%を所有していることになる。

上記計算は30年前、資産零から始めているので、スタート時に格差があるともっと差は開く。結果は、一握りの超富裕層が米国経済を牛耳る方向に進み加速していることを示している。さらに30年間放置すれば、最上位1%が95%以上を所有することになるだろう。米国の格差について、クルーグマンは経済や産業の変化が起こしたものではなく、右翼化(保守化)し、政治制度(税制)に抜け穴が設けられた為と指摘している。統計資料から、日本では上位10%の世帯が42%の貯蓄を保有している。封建制農耕社会において、少しの貧富の差が年月と共に、小農が小作から農奴に転落することとこれは酷似している。

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所得格差が大きくなると、大半を占める低所得層は節約するだけになるが、高所得層は巨額の余裕資金を投機に回し、ケイマン諸島やスイスに預ける。前者の行為はデフレ圧力になるが、後者の資金は手荒いファンド運用(為替、途上国投機、企業買収)や石油、小麦、金等の商品相場の価格上昇を招く。この状態は百年前の英国に酷似し、英国病を生んだ理由の一つでもあった。世界、特に米国はほぼ十年毎にバブル崩壊を起こしている。グラフが示すように、10年毎のバブルで高額所得層の所得が上昇し崩壊で下降するが、結局長期上昇傾向にある。バブル体質を容認すると泣きを見るのは誰か、得するのは誰か、その体制を維持したいのは誰か。答えは明確である。株で運用していた年金基金の減額を国民は補填してもらっただろうか(企業は別格かな)、住宅ローンの担保価値が減った分を補ってもらっただろうか。それはあり得ない、自己責任だから。しかし投資銀行と役員は責任と額が大きければ大きいほど国民の身銭で助けられることになる。金融の動脈が切れるからこれは欠かせない。何か釈然としない。ギリシャの哲学者ゼノンのパラドックス、「俊足アキレスはいくらがんばってものろまな亀を追い越すことが出来ない」、この論理への戸惑いと同じである。間違っていると直感出来るが、銀行の救済を否定出来ない。答えは、バブルが起きる原因を取り除かない限り、繰り返し、益々酷い状況に転落していくことである。

29年の大恐慌後は、良い意味で全体主義なニューディール政策で富みの偏在を無くし、民主的な世界を目指した。しかしインフレ、経済停滞が社会を覆うと右翼的・保守的な政策により自由化が推し進められた。これはまた次の破局への序章かもしれない。これらは歴史上、王朝や文明の崩壊に繰り返し見られる。不思議に気づかないのか手を打てないようだ。これを防ぐ為には、改革が定常状態であることが望ましい。そのための政治制度の構築が急務である。長期低成長時代にあっても日本の企業で生き残っているのは、そのようなところである。

(ウ) 改革へのおそれ

民間企業においてコスト低減への改革は待ったなしで、日常のことである。企業内改善には大きく二つの問題がある。一つは、旧来の作業形態を否定された作業者は実害を被ることになる。今一つは、改善の先が見えず、苦労の果てに良い結果が得られかということである。前者の成功は、全社の競争力と利益がアップし、その作業者に恩恵が返ってくるという信頼感に依っている。これは企業風土にかかっている。後者の成功には改善推進者の能力が不可欠である。大概、長く行っていると改善のネタが少なくなり、それを見つけ出すには、対象作業をシステム的に捉える能力が必要となる。おそらく社会改革も基本は同じだろう。この二つが欠けていれば、改革は不安であり拒否したくなるだろう。

今の日本とヒトラーの時代(1919~33年)を比べてみよう。現在の日本は暴力社会ではない。経済は低迷しているが、失業率は先進国では良い方である。問題はこれが多額の国債発行によって底上げされ見えなくなっていることである。つまり借金で給与を出している状態である。議員や二大政党制が未熟だが、一応の民主主義が保たれている。現実に民族主義や軍部による全体主義は吹き荒れていない。ただこれも事件が勃発すれば数年で大転換してしまう可能性は否定出来ないが。日本の恐怖とは何だろうか。それは原発事故、北朝鮮の核、中国の強大化、資源枯渇、社会保障の先細り、巨額の財政赤字などだろう。原発は現実にある恐怖であるが、選択可能である。他は将来起こる可能性が高いが、国民が等しく認識しているわけではない。煽られれば大きく振れるだろうが。社会には停滞感が満ちているが、満足しているとも言える。むしろ下手な改革などを行って堕ちることを恐れている。一番の問題は政局の混迷である。心配するのは小党分裂してしまうと歴史が示すように、最後の手段として独裁に頼ることである。日本はドイツと同じ国民性を持っているので心配である。それでもクーデターが起きるほどには逼迫していないしその土壌があるわけでもない。そこに至までにはまだまだ年数がかかるだろう。私はヒトラーの時代の報道を確認出来ていないが、彼は嘘で固めるのが平気で、開戦後も報道をプロパガンダに利用した。現在の日本の報道自由度は先進国において平均的である(国境無き記者団の評価)。ヒトラーの時代は、大衆の人気が影響したのは間違いないが、彼を支えた軍部、資本家、保守勢力(革命前の旧帝国体制派、大農・富裕層)を見逃してはならない。これは現在の日本に、露骨な形で現れていない。

ヒトラーの時代  1919~1933年

暴力蔓延/最悪の経済/民族主義と軍国主義/現実にある恐怖/絶望と憎悪/政局大混迷/クーデターで政府転覆

今の日本  2000~2012年

暴力否定/経済低迷 /一応の民主主義   /将来の恐怖  /失望と停滞感/政局混迷 /選挙で政治転換
ドイツのファシズムと1915~41年の日本と比較してみる。当時の日本は上記表の右欄とまったく同じであることがわかる。違いだけを述べる。日本は、領土を失ったドイツと異なり朝鮮、台湾を領有し、満州へとそれを拡大し経済的希望はまだあった。また海外の脅威(侵略、イデオロギー、異民族)はまだ現実味を帯びていないソ連ぐらいだろう。つまり日本はドイツに比べ、経済悪化と恐怖の点で良かったと言える。しかしファシズムは起きた。

結論は、現時点では多少のミスを冒しても不安を乗り越えて改革の火を灯し続けることである。行き過ぎは民主的な手段を確保していれば元に戻せる。このことが将来、必ず良い結果を生むことになるだろう。

(エ) 今、何が必要か 
世界恐慌から第二次世界大戦以降の国家主導の改革、それに対して70年代の自由化を目指した改革は逆向きと言える。前者は全体主義の観念を背景に国民全体を国が支え、経済を強制・規制した。後者はその歪みを取り除く為に、国民(労働者)と経済に自由競争を取り入れた。前者の担い手はルーズベルト(民主党)であり、後者ではサッチャー(保守党)であった。この結果、30~40年の間隔で、社会と経済には異なった弊害が生じた。前者には大きな政府と公共事業、後者には経済格差拡大と繰り返しながら巨大化するバブルである。20世紀の始めは、過去数百年の膿が噴出し、それまでの殺戮から世界が共に助け合い、民主的な方向を目指した。後半においては、その閉塞状態を抜け出すための自由競争によってかつてない富裕層とその固定化がはびこった。問題は今後である。歴史が示すところでは、その差が広がり、不満が充満し、やがて暴力でしか解決出来ない事態に陥ることになる。

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これを防ぐなら日頃から小さな改革を行い続け、完璧な改革を望まず、試行錯誤を恐れないことである。さらには民主主義の根幹を維持するシステムを維持し育て守ることである。特に選挙制度と報道システムは重要である。第二次世界大戦の英仏独の戦争報道には相反する姿勢があった。英仏は軍部が厳重な幾重もの検閲と報道規制をかけたので、時間遅れで何も伝わらない戦争報道がなされた。一方、独はプロの映画プロデューサーや作家を重用し即時にニュースを流した。ただしそれらは報道と言うより宣伝用に作られたもので、国民は沸き立った。最後に一番大事なことは、国民の社会、政治、経済への見識を育てることである。単純に言えば、歴史に学べ、より広い世界へに視線を向けよと言うことになるだろうか。

5. 最後に
私達はどうしてもステレオタイプの考えに囚われやすい。それが日常暮らして行く上で必要なことではあるが、また間違いも生みやすい。例えば暴力革命は左翼の専売特許だから、ヒトラーを危険な左翼だったと見なす現代人もいる。ヒトラーがミュンヘン一揆後、逃げ込んだのは右翼の最大支援者の一人で資本家だった。一方、フランス革命の混乱を制圧したナポレオンを英雄と見なした当時の人々もいる。それは偉大な哲学者ヘーゲルと音楽家べートーヴェンである。確かに、現在起きていること、ましてこれから起きることを正しく評価し推測することは難しい。しかし文明崩壊の瀬戸際に臨んでいると自覚するなら、自ずと優先順位を定めて動き始めるべきである。少なくとも静観は良くない。ましてやハルマゲドン(聖書にある神がサタンを滅ばす日)に託すことは間違いである。

履歴 : 2012/2/20作成、読書会で使用、2012/04/15コピーで投稿。

Categories: history+evolution, <japanese language, politics | Tags: | 1 Comment

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