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フランスを巡って 37: モンサンミッシェル 3


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今日は、メインストリートと修道院の入場までを紹介します。

 

 

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< 2. 今回紹介する徒歩ルート >

 

Sの王の門からスタートし、メインストリートのグランド・リュを進み、Eの修道院の内部に入るまでを赤線で示します。

 

 

 

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< 3. 王の門 >

 

上と左下のの写真: 王の門

右下の写真: 王の門をくぐって、通りを進む。

 

 

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< 4. 賑やかなグランド・リュ >

 

狭い坂道と階段は観光客で一杯でした。

左右には土産物屋や飲食店がひしめいていた。

 

 

 

 

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< 5.サン・ピエール教会 >

 

左上の写真: サン・ピエール教会。

階段の途中、商店が途切れた時、左手に小さな教会が見えた。

教会の入口にジャンヌ・ダルクの像が見える。

 

ジャンヌ・ダルクは英仏の百年戦争の時、モンサンミッシェルを目指したことがあったが、結局来ていなかったはずです。

この像は、彼女が聖ミカエルのお告げを聞いて、初めてフランス王の為に立ち上がることを決意したことに由来するらしい。

 

 

右上の写真: この階段の突き当りで通りは終わり、左に曲がると修道院が見える。撮影場所の左手がサン・ピエール教会です。

 

下の写真: 教会の前は小休止するには良い場所で、私達が行くと、写真の少年たちが声をかけて来ました。

 

彼らは「ジャパン! ジャパン!」と尋ねました。

「イエス、イエス」と答えると、彼らは嬉しそうに「ナルト! ナルト!」と連呼しました。

 

日本のアニメの威力は凄いです。

彼らはオランダから来たらしい。

 

 

 

 

 

 

 

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< 6. 修道院が聳える >

 

階段を上り切ると、直立する修道院が聳えていた。

下の写真: 来た道を振り替えった所。

 

 

 

 

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< 7. いよいよ修道院へ >

 

 

 

 

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< 8. 修道院に沿ってさらに階段を上る >

 

 

 

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< 9. さらに階段を上る >

 

 

 

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< 10. 階段を上り切った所で >

 

見上げると、金色の聖ミカエルの像が青空に輝いていた。

 

 

 

 

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< 11. テラスから見下ろす >

 

ここは高度80mぐらいになります。

 

中世、この険しい岩山の上に、かくも壮大でそそり立つ教会を建てたものだと驚嘆した。

当時、ここには人々の篤い信仰と高度な建築技術があった。

 

 

 

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< 12. いよいよ入場します >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 34: パリからモンサンミッシェルへ


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今回は、パリからモンサンミッシェルまでの車窓の風景を紹介します。

これから待望のモンサンミッシェルに向かいます。

また2日後にはパリに戻って来ます。

 

 

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< 2. 走行ルート、上が北です >

このルート通りに走ったかは定かではありません。

 

移動したのは旅行8日目、5月24日(水)でした。

(前回紹介した「ランスからパリへ」の日時の記入が間違っていました。正しくは5月23日でした。)

今回、走行する7割ほどの地域はノルマンディーです。

今回の旅行中、二つの観光地間の移動としては最も長い距離を走りました。

 

朝8:00にパリのホテルを出発し、途中トイレ休憩し、モンサンミッシェルのホテルに着いたのは13:00でした。

その後、荷物をホテルに入れると、すぐ観光に出発しました。

 

出発時はあいにくの空模様で終始雲が空を覆い、走行中、小雨がぱらつくことがありました。

しかし、モンサンミッシェルを観光している途中から素晴らしい青空が出現しました。

今回の旅行は、好天に恵まれていました。

 

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 3. パリを抜けて行く >

 

 

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ノルマンディーは酪農が盛んなので牛を見かけることが多かった。

 

下の写真: 住宅らしいのですが、この地方は一階建てが多いようです。

庭先にキャンピングカーが見えますが、フランスでは観光地や自然豊かな所ではたくさんのキャンピングカーを見かけました。

フランス人はキャンピングカーライフを楽しむようです。

 

 

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天気が悪い為か、今まで通って来た地域と異なり、すこし裏寂しいように思えた。

南仏のようなカラフルな家屋をほとんど見かけることはなく、ノルマンディーも中ほどを過ぎると、屋根瓦はくすんだ灰色が多く、スレートのようでした。

道路沿いの疎らな農家には痛んだ家屋が目立った。

 

やはり、このノルマンディーはヴァイキング(ノルマン人)の移住の地らしく、他のフランス地方とは異なる風土があるようです。

 

今回のようにフランスのほぼ3/4の走り抜けると、地方の特色がバスの車窓からでもよく見えて来て面白い。

 

 

 

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下の写真: 中央の遠方に三角形のモンサンミッシェルが霞んで見えた。

この地域は海風が強いのか、防風林らしきものが耕作地の境界や家屋の周囲に多く見られる。

 

 

 

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上の写真: ホテル到着まで10分ほどの道路沿いから見えた家屋。

時刻が12:50だったので、家族で昼食中かもしれません。

 

下の写真: 中央遠方に小さくモンサンミッシェルが見えます。

 

 

次回に続きます。

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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 18: リヨンからボーヌまでの景色


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今日は、車窓からのブルゴーニュ、リヨンからボーヌまでの景色を紹介します。

この日も快晴でした。

 

 

写真について

紹介する写真は、旅行5日目、5月21日(日)、6:20~10:30に撮ってものです。

最初にリヨン郊外のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」付近を早朝散策した時のものです。

次いで私達のバスがホテルを8:30に出発してから、10:30頃にボーヌの中心部に入るまでのもので、すべて車窓からの撮影です。

 

この日、私のバスの席は、前から2列目左側なので、写真は進行方向前方か左側(西側)のみです。

実は、下の地図を見ればわかるのですが、進行方向右側(東側)の方が広い野が広がっています。

またソーヌ川も私達が走る高速道路の右側(東側)を流れています。

 

 

 

 

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< 2. 地図、共に上が真北です >

 

左の写真: ボーヌはブルゴーニュの中心に近く、またフランス南北の中ほどに位置します。

ブルゴーニュから南北に流れる川を行くと、イギリス海峡と地中海に達します。

北へはヨンヌ川からセーヌ川に入り、パリを抜て行きます。

また南へはソーヌ川からローヌ川に入り、リヨン、アヴィニヨン、アルルを抜けて行きます。

 

右の写真: リヨンからボーヌまでのルートです。

ローヌ川沿いに比べて周囲の山々はかなり低くなってきました。

 

地図の赤丸は氷河期の「ソリュートレ遺跡」を示す。

最後に紹介します。

 

 

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< 3. 朝の宿泊ホテル周辺 >

 

朝6時頃から、周辺を散策しました。

周囲は落ち着いた雰囲気の郊外でした。

 

上の写真: ホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」の正面です。

暗くなった10:00頃、歩いたが治安が悪いように思わなかった。

地下鉄駅まで歩いて5分ほどで行けるので市街に行くのに便利だと思う。

 

 

 

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< 4. さあ出発! >

 

 

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< 5. のどかな景色が続きます 1 >

 

 

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< 6. のどかな景色が続きます 2 >

 

 

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< 7. のどかな景色が続きます 3 >

 

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< 8. のどかな景色が続きます 4 >

 

 

 

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< 9.いよいよ高速道路ともお別れ >

 

不思議なことに、ワインの産地で有名なのに、ブドウ栽培の光景をほとんど見ることがなかった。

どうやら栽培は平野部ではなく丘陵部の斜面なのだろう。

 

 

 

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< 10. もうすぐ旧市街に入る >

 

フランスを走っていて、特に郊外に出てから、写真のようなラウンドアバウト(環状交差点)の機能と景観に惹かれた。

 

上の写真は、下の写真下部のラウンドアバウトを下から進入する様子を写したものです。

 

ラウンドアバウトの優れているのは、車は減速するが停止の必要が無いことです。

それ以上に素晴らしいのは、その中央島の景観です。

実に様々な美しい造園がなされており、目を楽しまさせてくれます。

 

 

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< 11. 旧市街が見えて来た >

 

 

これで車窓からの写真は終わります。

 

 

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< 12. ソリュートレ遺跡 >

 

 

ソリュートレ遺跡について

後から分かったのですが、途中の都市マコンから西側に10kmほど入った所に氷河期の遺跡があります。

この遺跡は2万年から1万7千年前のソリュートレ文化の標準遺跡で、ある意味画期的な遺跡なのです。

それは、この断崖の真下あたりに崖から追落されて捕獲された野生馬の骨が10万頭以上あったからです。

当時の人々が、図のように薄く切れ味の鋭い石器を使い狩りをしていたのです。

 

 

車窓からの写真撮影について

私の撮影方法が参考になればと思い記します。

 

先ず、私がバスの席を選ぶ基準です。

選択の基本は車窓からの撮影が逆光にならないようにすることです。

もしその日の午前中、バスが北に向かうなら、東側からの太陽光を避けて左に座り、西側を撮影します。

 

但し、1日中の走行とか、途中で走行の方向が変わるとか、曇りがちの場合は、何を重視するかで決めます。

例えば、ランドマークや重視する景観が走行ルートの左右どちらに来るかによって、決めることになる。

ただ、これは障害物やルートが不明なこともあり予想通りにならないことが多いです。

 

また左側の席には欠点があります。

右側走行の国では、特に高速道路で、左側に数車線の対向車線が視界を埋めてしまいます。

 

一番重要なのは、車窓からの撮影時に、以下のような遮光幕をカメラに着けることです。

これは自作ですが、かなり写真の無駄が減ります。

 

また私は百均で買った窓拭きを持って行きます。

これで窓は素早く十分に綺麗になりますが、結構、恥ずかしい。

私の行為を見て、運転者が笑顔で全部の窓を拭いてくれることもあり、これもまた恐縮するのですが。

 

 

 

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< 13. 車窓からの撮影の道具 >

 

上三枚の写真が遮光幕です。

 

左上の写真: 取り付け前の状態で2個の部品からなります。

灰色の幕は百均で買った車用遮光ネットを改良したもので、折りたたむことが出来て、非常にコンパクトで軽い。

 

右上の写真: 遮光幕取り付け用の部品をカメラに嵌めた状態。

この部品はウレタンゴム板を買い、ナイフでリング状にカットし、マジックテープを縫い付けたものです。

遮光幕取り付けを瞬時に行えます。

これがなくても遮光幕は使えますが、使い難い。

 

中央の写真: すべてセットしたものです。

窓ガラスに対してカメラは垂直が最良ですが、遮光幕を手で押さえて窓に沿わせるなら、傾けても光が入らない。

 

下の写真: 百均で買った窓拭き。

組み立て式で、柄が伸びるので背の高い観光バスの撮影箇所を拭くことが出来ます。

大きいが軽いです。

 

 

これは運次第なのですが、今回のツアーは40名近い参加なので、走行中にバス内の左右の席移動が困難でした。

これまでのツアーは参加者20数名が続いたので、左右移動が自由で、妻と私が左右に別れて撮影することも出来た。

 

 

車窓からの撮影も行えば、それこそ四六時中、観光しているので休む暇はないのですが、その国の自然風土がよく理解出来るので止められません。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

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< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

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< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

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< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

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< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

19ゴッホ 2あ

< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 35: ワルシャワ5


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今日は、ワジェンキ公園の残りを紹介します。

今日で、この旅行の紹介を終わります。

長らくのお付き合い有難うございました。

 

 

 

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< 2.ワジェンキ宮殿の2階 >

 

 

 

 

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< 3.ワジェンキ宮殿内 >

 

 

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< 4.ワジェンキ宮殿 >

 

 

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< 5.公園で見かけた動物たち >

 

上の写真: 孔雀がいる。

下の写真: 左の木の陰をリスが走っている。

この公園内で、他にもリスを見ました。

 

 

 

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< 6.広々とした公園 >

 

 

 

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< 7. ホワイトハウス >

 

18世紀に建てられたかつての王族の住居。

 

 

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< 8.かつての温室 >

 

下の写真: 18世紀に東方の植物として珍重されたオレンジなどの樹木を寒い季節の間、養成するための温室の原型。

太陽光を取り入れる為に窓が大きくなっている。

現在は劇場になっている。

 

 

 

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< 9.ショパン像 >

 

下の写真: 毎年夏に、この像の前でショパンコンサートが行われる。

 

 

 

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< 10.お別れ >

 

上の写真: 柳の木の下に座り、故郷の自然を眺めるショパンを表現している。

 

下の写真: ワジェンキ宮殿横の道路。

ここからバスに乗り、空港まで行って、ポーランドを後にしました。

 

 

あとがき

異郷の世界を楽しく巡って来ました。

 

荒涼とした原野、のどかな田園地帯、鬱蒼とした森林を駆け抜けて来ました。

北の広大なバルト海に接した五つの国が交易と戦争で関わり続け、千年の歴史と文化を築きあげて来ました。

旧市街の街並みから、私はロシアとヨーロッパとの関わりを読み解くことが出来ました。

 

モスクワやサンクトペテルブルグのロシア帝国時代の有名な建物はイタリアの建築家の手になるものが多い。

バルト三国も、訪問前のイメージとは異なり、特に旧市街が非常にヨーロッパ風でした。

ワルシャワの古い建物は当然、ヨーロッパの影響が強い。

一方で、スターリン様式やタマネギ風の屋根の教会に見られるように、ロシアやソ連時代の影響が残っている。

 

私はそこに暮らす人々と話をする貴重な機会を得ました。

そして今まで疑問に思っていた幾つかの歴史的事件や社会問題について理解を深めることが出来ました。

 

色々、各地のスーパーに入り、豊富な生活用品や食品などを見ていると経済は発展しているようでした。

 

ポーランドは東欧の遅れた国とのイメージがあったのですが、戦火からの再建をやり遂げて発展している。

バルト三国も、かつての苦難を乗り越えて順調に発展している。

ロシアの都市部の発展は良いが、車窓から見た地方の暮らしは遅れているようでした。

 

この地域の歴史やロシアの様子を知ると、やはり不安がよぎる。

石油安でロシアの景気後退が深まると、世界がナショナリズムに突き進んでいるように、ロシアは容易に道を踏み誤る可能性がある。

それは私は数人のロシア人との会話から、ロシアの偏向報道を感じたからです。

翻って、日本の報道もここ数年、自由度が低下して来ているので不安です。

 

 

また、旅行の仲間で面白い人がいました。

高齢の女性が一人でツアーに参加しておられたのですが、非常にお喋りで、好奇心旺盛な人でした。

しかし、話をしているうちに、彼女は苦難にあっても、いつも挑戦し続け、道を切り開いて来ました。

その積極性と能力は人並み外れていました。

 

そして最後にわかったことは、彼女の息子さんが芥川賞を受賞された作家だったことです。

やはりこれぐらいの女性だからこそと感心したものでした。

 

やはり旅行は面白く、刺激に満ち溢れたものです。

 

 

これで終わります。

 

 

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 29: ビルニュス 4


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今日で、ビルュニスとお別れです。

この日は、霧と紅葉に抱かれた街を堪能することが出来ました。

最後に、ロシアとバルト3国について感じたことを記します。

 

 

 

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< 2. 地図、黄色の矢印が北側 >

 

上の地図: 赤い線が旧市街の徒歩観光ルートです。

Gは夜明けの門で、赤いアドバルーン状の印は展望台です。

Pは聖ぺテロ&パウロ教会です。

 

下の図: 展望台からの眺めを再現しています。

赤いアドバルーン状の印が展望台です。

赤い線が旧市街の徒歩観光ルートで、中央の高い塔は聖ヨハネ教会です。

 

 

 

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< 3. 家並み >

 

民家や中庭などを撮影しました。

 

下の写真: 民芸店のある中庭。

壁に数体の聖人像などがはめ込まれ、木の右枝には木彫りのフクロウが見えます。

 

 

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< 4. 印象に残ったもの >

 

左上の写真: 夜明けの門のイコン。

少し時間が経ってから戻ってみると、窓が開いていて、イコンを見ることが出来ました。

 

右上の写真: 夜明けの門の直ぐ近くにあるテレサ教会の屋根の黄金の王冠。

この手の王冠は聖カジミエル教会にもあった。

私は他の国であまり見かけたことがない。

 

左下の写真: No.3の写真の中庭に面した民芸店。

ここは夜明けの門の外にありました。

 

右下の写真: No.5の写真の展望台の柵。

この無数の鍵は、恋人達が一生別れることが無いようにと鍵を掛けていったものです。

 

 

 

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< 5. 展望台Subačiaus apžvalgos aikštelė >

 

霧の為に、この写真ではうまく伝えられませんが、展望台の紅葉は素晴らしかった。

眼下に、紅葉する木々の向こうに数々の教会群が霧に霞んでいる景観は幻の中世を忍ばせます。

 

下の写真: 中央の一番高い鐘楼はビルニュス大学横の聖ヨハネ教会でしょう。

私達はあの前を右から左に通って行きました。

 

この目の前で、高々25年ほど前にソ連軍、75年ほど前にはドイツ、ポーランド、ソ連の軍隊が蹂躙していったのです。

 

 

 

 

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< 6. 聖ぺテロ&パウロ教会 1 >

 

驚きの教会です。

外見は小さく、それほど古くもなく、一見何の変哲もない教会でした。

しかし、内部に入るとその素晴らしさに目を奪われます。

かつてドイツの小さな村で見たヴィース教会の驚きを思い出します。

 

この教会は1668年から7年間で造られたが、内装には30年を要している。

これは当時の一将軍が、自分の廟として造らせたものでした。

中は2000体以上の漆喰彫刻で飾られている。

極彩色や黄金色による派手さはないが、白地一色の空間と彫刻群は地元の人にとって清楚で親しみのあるものになっているのだろう。

きっと人々はリトアニアの歴史や聖書、神話の世界に引き込まれていくことだろう。

 

 

 

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< 7. 聖ぺテロ&パウロ教会 2 >

 

 

 

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< 8.聖ぺテロ&パウロ教会 3  >

 

 

 

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< 9. 聖ぺテロ&パウロ教会 4 >

 

左の写真: 入退出扉側。

その扉の左側を拡大したものが下の写真です。

 

右の写真: 大鎌を持った骸骨の像。

ロシアとバルト三国の教会を訪れて、何カ所かで教会を出る時に、人間の死を連想させる絵や像を見かけた。

信者に生と死を意識させ、さらに復活を印象付ける場合もあった。

 

またロシアとバルト三国の教会を訪れて気が付いたのは、スペインの教会と違って、こちらにはイエスの痛ましい磔刑直後の生々しい像を見かけなかったことです。注釈1.

当然、十字架の像は別です。

 

 

 

 

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< 10. 様々な旧市街の光景 >

 

上の写真: ある店先。

カラフルな貸し自転車でしょう。

 

中央の写真: バルト三国の名物、琥珀。

 

現在でも世界の琥珀の90%はバルト海沿岸で算出される。

バルト三国は未開の地でヨーロッパの果てのイメージがある。

しかし、この地域で採れる琥珀は紀元前2千年紀から中東の文明に知られていた。

そして地中海からユーロッパを抜け、バルト諸国を通りエストニアの北端に至る。この「琥珀の道」が最古の交易ルートの一つとして活躍していた。

ローマ帝国が誕生する遥か前のことです。

 

 

下の写真: 道路沿いの民家の壁。

若い芸術家に作品の発表の場を提供しているのだそうです。

 

 

 

ロシアとバルト3国の旅行を通じて感じたこと。

まだポ-ランド訪問が残っていますが、バルト3国への思いを記します。

 

私が今回の旅行で知りたかった事の一つはバルト三国の苦しみでした。

また今のロシアは脅威なのかを知りたかった。

この二つは、バルト三国にとっては切実な問題です。

 

切実な問題とは

リトアニアは2015年9月から徴兵制を復活させたが、これは2014年からのロシア介入によるウクライナ内戦の二の舞を恐れているからです。

ちなみに人口325万のこの国の兵員は2万人ほどで、対するロシアは77万人です。

ロシアの脅威に対してバルト三国は、2004年にNATOに加盟し、2016年から更なる派遣軍の増強を受けている。

 

だが旅行中に、この軍事的な緊迫を感じる場面に出会うことはなかった。

しかし、バルト三国がロシア(ソ連)から受けた仕打ちを知れば、人々の恐怖は理解出来る。

さらに、各国に暮らすロシア住民とウクライナ内戦の発端を考えれば現実味を帯びてくる。

 

 

だがそれだけではない。

私がロシア旅行で会った二人のロシア人の話から、その恐怖はさらに現実味を帯びてくる。

彼らの発言について、既に、この旅行記で書いていますが、この件に関してまとめると以下になります。

 

「かつてソ連邦に属していた国は我々のものである。」

この発言はウクライナとチェチェンについて語ったものですが、バルトについても同様と推察します。

 

「ロシア人はバルトのような小国に関心はない。」

この発言の真意を汲み取るのは困難ですが、すぐ国境を接しているところに暮らす教養ある若者の発言にしては違和感がある。

 

また彼らと話していて、ロシアに批判的な話をすると、いとも簡単に「それは欧米のプロバガンダです」と吐き捨てる。

この口調に、私はロシアのマスコミを含めた情報統制とプロパガンダを感じる。

ちなみにロシアの「世界報道自由ランキング」は148位/180ヵ国です。注釈2.

 

ソ連邦の時代、バルトを含め東欧諸国の人々はモスクワによる徹底した情報統制を経験している。注釈3.

従って、バルトの人々は、例えロシア人が大らかであっても、国のプロパガンダによって侵略に肯定的になることを知っている。

おそらくは、ゴルバチョフやエリツインが潰えた後は、この情報統制が復活したのだろう。

 

またロシアはプーチンが大統領になった頃(2000-2008)に急成長を遂げたが。

その後、成長は止まり、毎年10%ほどのインフレを起こしている。

観光していて、私は地方の経済は取り残されていると感じた。

このような時、強面が売りのトップは、他の大国も同様だが、不満から国民の目を逸らす為に、外部に対して暴挙に出やすい。

 

私は少ない情報での感想だが、このような恐れを感じているバルト三国に同情している。

 

 

今思うこと

命を賭けて独立を望む小国があり、これを無視し軍事力で抑圧する大国がある。

往々にして当事国の国民や、外国の人は無関心である。

 

いつか、これら小国の自由と権利が踏みにじられる時がやって来るかもしれない。

このことを私達はアジアや中東でつぶさに見て来た。

私は彼らの自由と権利を世界が守るべきだと思う、これが世界の正義となるべきです。

 

幸い今、NATOが抑止力となってくれている。

もし、西欧がこの保護を放棄するれば、いずれこの地域が紛争地となり、やがて災厄は蔓延していくことになるだろう。

その過程は、中東紛争で見た通りです。

 

 

最も重要な事

大国の振る舞い(外交、経済政策)は影響が大きいだけに非常に重要です。

したがって大国は自ら正義を実践すべきであって、身勝手は抑制しなけらばならない。

身勝手な大国に対して、多数の国が団結して、方向転換を促すべきです。

ましてや、その大国への盲従する愚は避けるべきです。

 

また、世界が協力して報道の自由度を確保する体制作りが必要です。

米国やロシアなど大国の報道の自由度低下は不安です。

日本も最近は低下傾向にあり、ついに72位に転落し、世界で中位になってしまった。

 

 

次回に続きます。

 

注釈1.

スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダー・レアル県、Puerto Lápice 村にあるカソリック教会Nuestra Señora Del Buen Consejoで、私はロー人形のようなイエスの生々しい痛ましい像を見ました。

 

注釈2.

国境なき記者団が発表する2016年度のもの。

米国は41位でした。

 

注釈3.

参考図書は「操られる情報」1984年刊、パウル・レンドヴァイ著。

 

 

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Bring peace to the Middle East! 64: Why was it exhausted ? 2: selfishness of major nations and multinationals


中東に平和を! 64: なぜ疲弊したのか 2: 大国と多国籍企業の身勝手

 

1

*1

 

The selfishness is inconspicuous, but the damage of weaker nations is enormous.
This is deepening the division of the world.

大国の身勝手は目立たないのですが弱小国の被害は甚大です。
これにより世界の分断が深まっています。

 

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< 2. a particular of a subsidy policy >
< 2. 補助金政策の顛末 >

· cotton growers in the USA and Africa.
· the Graph shows a change of cotton price, and the red frame is in the time of Bush administration.

・米国とアフリカの綿花農家。
・グラフは綿花価格の推移、赤枠はブッシュ政権時。

 

Case A
In the time of the Bush administration, he doubled the cotton subsidies.
The USA issued the subsidies of $ 3 to 4 billion to 25,000 cotton growers.
This amounted to about 40% of the cotton production value of the USA, and the export price fell by this.
The cotton production value of the USA is the third largest in the world and accounts for 10%.

As a result, about 10 million farm families suffered a sever damage in Sub-Saharan Africa alone.
If this situation continues for several years, the small-scale farmers will not be able to recover.

Brazil, the production is the fifth highest in the world, sued the subsidy to the WTO, and the adjudication of a ban against the subsidy was issued.
While major nations say free trade, they sacrifice weaker nations by using all means such as export subsidies.
事例A
ブッシュ政権の時に、綿花の補助金を2倍に引き上げた。
米国は25000戸の綿花栽培農家に30~40億ドルの補助金を出した。
これは米国の綿花生産高の約40%になり、輸出価格はこの分下がった。
米国の綿花生産高は世界第3位で10%を占めている。

これによってサハラ以南のアフリカだけで約1000万戸の農家が打撃を受けた。
このようなことが数年も続くと、零細農家は再起不能になる。

生産高5位のブラジルはこの補助金をWTOに提訴し、補助金禁止の裁定が下された。
大国は自由貿易を謳っていながら輸出補助金などあらゆる手段を使い、弱小国を犠牲にする。

 

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< 3. Asian currency crisis >
< 3.アジア通貨危機 >

· Thailand of a victim country and the USA of a financial heaven.
· The damaged countries (orange), and the changes of the GDP in the time.

・被害国タイと金融天国の米国。
・被害国(橙色)とGDPの推移。

Case B
In 1997, the hedge fund led by George Soros suddenly made a short-sale against Thai currency, and the currency fell sharply (Asian currency crisis).
Thus, the economy of the five countries in which 500 million people live, mainly Southeast Asia suffered a sever damage, and the number of poverty rate and suicide doubled by the increase in unemployment.
Furthermore, the deaths from a disease also increased due to the reduction of welfare budget.
For this, the IMF and Japan etc. proffered a total of 5 trillion yen for the affirmative relief.

In exchange for the lives of about 100,000 blameless Asian, the speculators of major nation gained over several hundred billion yen in profit.
However, their conduct is not illegal and is also protected by major nations. Annotation 1
事例B
1997年、ジョージ・ソロスが率いるヘッジファンドがタイの通貨を空売りし、通貨が大幅に下落した(アジア通貨危機)。
そして、東南アジアなど5億人が暮らす5カ国の経済は大打撃を受け、失業の増大により貧困率と自殺者は概ね倍増した。
さらに福祉予算の削減により疾病による死者も増加した。
このためにIMFと日本などは合計5兆円の救済を行った。

罪のないアジアの約10万人の命と引き換えに、大国の投機家は数千億円以上の利益を得た。
ところが彼らの行為は違法ではないし、さらに大国によって守られてもいる。注釈1。

 

4bakuhatu0
< 4. Explosion accident at a chemical plant >
< 4.化学工場の爆発事故 >

· The exploded chemical plant, the injured persons, and the demonstrations.

・爆発した工場と被害者、デモ。
Case C
In 1984, a toxic gas outflow accident occurred in the chemical plant of “Union Carbide Corporation” of the USA in Bhopal, India, and thousands of people died.
After the accident, more than 20,000 people died and about 100,000 people suffer from health problems such as respiratory diseases and eye diseases.
About 600,000 people including the families are damaged.

The Indian government accused the management team of the factory to the court, but the USA refused to hand over a responsible person and he is still running away.
The amount of the compensation was 500 dollars per person and it was only one sixth of the bill, furthermore the damage is expanding by the outflowing material.
事例C
1984年、インド、ボパールの米国の化学工場「ユニオンカーバイト」で有毒ガス流出事故が発生し、数千人がなくなった。
事故後、2万人以上が死亡し、約10万人が呼吸器疾患や眼病などの健康被害を受けた。
家族を含めて総勢60万人近くが被害を受けた。

インド政府はこの工場の経営陣を裁判所に告発したが、米国は責任者の身柄引き渡しを拒み、彼は現在も逃亡中です。
賠償額は一人500ドルで訴訟請求額の6分の一に過ぎず、さらに流出物質により被害は拡大している。

 

 

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< 5. pollutants dumping from a mine >
< 5. 鉱山の汚染物質投棄 >

· the location of the mine and the polluted river.

・鉱山の位置と汚染された川。
Case D
The mine “Ok Tedi” of the world’s largest Australian resource development company had mined gold and copper in Papua New Guinea for more than 20 years.
This mine had earned 30% of the total export value of this country.

Eighty thousand tons of ore (pollutant) was kept flowing in the river every day.
Malformation occurred due to mineral poison, a large amount of earth and sand was accumulated in the entire downstream area, and enormous forest disappeared.
It is said that this recovery will take 200 years.

When this company was accused of the environmental destruction in 2002, it decided to close it in 2010, by considering depletion of the mine and huge damages compensation.
As a result, the local government had to clean up it.

This continues the next time.

 

事例D
世界最大のオーストラリア系資源開発会社の鉱山「オク・テディ」が20年以上、パプアニューギニアで金・銅を採掘していた。
この鉱山は、この国の輸出総額の3割を稼いでいた。

毎日8万トンの鉱石(汚染物質)を川に流し続けていた。
鉱毒で奇形が発生し、大量の土砂が下流全域に堆積し、膨大な森林が消滅した。
この回復には200年を要すると言われている。

この会社は2002年に環境破壊で訴えられると、鉱山の枯渇と膨大な損害賠償を考慮し、2010年に閉鎖することにした。
その結果、地元政府はこの後始末をしなければならなくなった。
次回に続きます。

 
注釈1.
ジョージ・ソロスは、タイの通貨管理がお粗末なので、どうせ誰かが仕掛けて破綻しただろうと言い、微塵も責任を感じていない。
これを例えるなら、衛生状態が悪い地域で病原菌を増殖させ、疫病が蔓延した後に薬剤を高値で売りつけるのと変わらない。
これで10万人の死者が出ても、世界は見過ごすだろうか。
大国のした事なら文句は言えないかもしれないが。

参考文献
「スティグリッツ教授の経済教室」スティグリッツ著。
「世界経済を不幸にしたグローバリズムの正体」スティグリッツ著。
「世界に格差をばら撒いたグローバリズムを正す」スティグリッツ著。

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 27: ビルニュス 2


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今日からビルュニスの旧市街を紹介します。

2016年10月3日、月曜日の朝、町全体が霧に包まれていました。

新市街1カ所と旧市街の半分ほどを紹介します。

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: リトアニアを示しています。上は北です。

首都ビルニュスは国の右下の方にあり、他の二カ国の首都が海に近いのとは異なります。

これは広大なリトアニア帝国の名残であり、また都市が交易で発展していなかったことに関係しています。

 

中央の地図: ビルニュスの拡大です。上は北です。

赤い線は前回紹介した夜の街歩きのルートで、ホテルからカテドゥロス広場の大聖堂までを示しています。

 

Aは杉原桜公園です。

 

黒枠は今回紹介する旧市街の半分です。

 

下の写真: 上記の黒枠部分です。上は東方向です。

赤線は前夜歩いたゲディミノ大通りです。

 

Sは朝、観光バスを降りて徒歩観光を始めたカテドゥロス広場です。

黄線は徒歩観光のルートです。

Eは今回紹介する最後の地点です。

 

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

 

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< 3. 朝の光景 >

 

 

 

 

 

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< 4. 杉原桜公園 >

 

上の写真: ネリス川の西側(下流)を見ている。

写真の右手に杉原桜公園が広がっている。

 

中央の写真: 杉原桜公園。

毎年春になると、この公園の200本の桜が咲きます。

桜は杉原千畝生誕100年を記念して2001年に植樹されたものです。

茶色の石碑が杉原千畝領事の記念碑です。

 

この右手を入ると私達のホテルがあります。

 

下の写真: 杉原千畝領事の記念碑。

 

 

杉原千畝について

彼は東洋のシンドラーと呼ばれる。

第二次世界大戦中、リトアニアの臨時首都であったカウナスに領事として赴任していた。

1940年、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなどから逃れて来たユダヤ人に、外務省の訓令に反してビザを発行した。

彼らはロシア経由で避難し、命を救われた。

 

 

 

 

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< 5. 町の光景 >

 

上の写真: ネリス川。

 

 

 

 

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< 6. 徒歩観光の始まり >

 

上左の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。

この大聖堂は18世紀の改築によってクラシック様式になった。

この塔の基礎は13世紀の城壁の塔が使われている。

 

上右の写真: この鐘楼の下部にある記念プレート。

これは以前紹介したバルトの道(人間の鎖)のリトアニア側の端を示す。

 

下の写真: カテドゥロス広場からゲディミノ大通りを望む。

 

 

 

 

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< 7. 大聖堂の内部 >

 

上左の写真: バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。

聖堂を入って右奥にある。

 

 

 

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< 8. カテドゥロス広場から始める >

 

上の写真: 左に大聖堂、右に再建中の王宮がある。

 

中央の写真: カテドゥロス広場の木々。

 

下の写真: 旧市街のメイン通りのピリエス通り。

振り返ると、丘の上にゲディミナス城の塔が見える。

 

 

 

 

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< 9. ピリエス通り >

 

上の写真: 聖ヨハネ教会が奥に見える。

14世紀にリトアニアがキリスト教を受け入れて建設が始められ、18世紀の火災の後、バロック様式で改築された。

現在は離接するビルニュス大学の教会になっている。

 

下の写真: 聖ヨハネ教会の鐘楼、旧市街で最も高い。

 

 

 

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< 10. 二つの教会 >

 

上の写真: ピリエス通りの突き当りに小さな正教会が見える。

 

下の写真: 聖ミカエル教会。

 

 

 

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< 11. 聖アンナ教会 >

 

上の写真: レンガで作られた聖アンナ教会。

今回紹介する徒歩観光の終点にある。

16世紀後半に建てられたゴシック様式の教会。

1812年、ナポレオンがロシアへ攻め上がる途上、この教会を見て「フランスに持ち帰りたい」と語ったほど美しい。

 

下の写真: 奥に見えるのはベルナルディン教会。

 

 

 

あとがき

このリトアニアは数奇な運命と言うか、過酷な歴史を負った国です。

そしてビルニュスの旧市街にもその痕跡がある。

 

他のバルト二ヵ国はドイツ人(騎士団)によって経済と文化が発展し、宗教はプロテスタントになったと言える。

その一方、独立まで長らくドイツ人が支配層に君臨した。

そのことが、タリンやリガのドイツらしい町並みを造った。

 

しかし、ビルニュスの旧市街の趣は異なる。

かつてリトアニアは13~18世紀、黒海に接する大帝国で、ロシアを圧することもあった。

やがてロシアへの対抗上、接していたヨーロッパの大国ポーランドと連合した。

しかし、ポーランドが政治と文化で支配的になっていった。

また、この国は農業国で都市の経済発展が進まなかったので、リトアニア人は農民として地方に住んでいた。

1931年当時、ビルニュスの住民はポーランド人66%、ユダヤ人28%、ロシア人4%で、リトアニア人は1%未満であった。

ソ連支配後のポーランド人追放により、現在はリトアニア人が58%です。

リトアニア全体ではリトアニア人83%、ポーランド人6%、ロシア人5%です。

 

こうしてビルニュスの街並みは他のバルトと異なるものとなり、宗教はポーランドの影響でカトリックが主流となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 25: ビリュニスまでの車窓の景色


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今日は、バスの車窓から見たリガからビリュニスまでの景色を紹介します。

この日のドライブは雨はなかったもののほぼ雲に覆われていました。

 

 

 

 

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< 2. リガ旧市街 >

 

上の写真: 旧市街の北の端にあるリーガ城。

この城は14世紀初め、ドイツから来たリヴォニア騎士団との闘いに負けた市民が建てらされたもの。

その後、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと支配者が替わり、18世紀以降、現在の宮殿のような姿になった。

 

下左の写真: リーガ城すぐ横の英国教会。

 

下右の写真: スターリン・クラシック様式の科学アカデミーが奥に見える。

ダウガヴァ川沿いから見た。

 

 

 

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< 3. リガとの別れ >

 

上の写真: 中央市場。

中央の写真: ダウガヴァ川の対岸。

下の写真: ダウガヴァ川を渡り、南下してリトアニアの首都ビリュニスに向かう。

 

すべての写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 5. 途中の町 >

 

 

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< 7. 国境を越えて >

 

上と中央の写真の間で、ラトヴィアからリトアニアの国境を越えています。

 

いつも思うのですが国境を越えても、自然の景色は変わらない。

ここでもそれは同じですし、家屋や人工的な風景も変化していない。

 

7年前にオーストリアからハンガリーへと国境を越えた時、自然は変わらないが、家屋が急にみすぼらしくなっていることに驚いた。

国家形態の違いによる経済の差が、このような形で明瞭に出ていることに驚いた。

 

 

 

 

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< 8. 人間の鎖 >

 

途中、休憩に寄ったレストランの駐車場に「the Baltic Way」(人間の鎖)の表示が立っていました。

 

上の写真: その駐車場から見た道路で、「the Baltic Way」の舞台になった。

 

中央右の地図: 「the Baltic Way」のルートを青い線で示しています。

赤丸はこのレストランの場所を示しています。

 

下の写真: 当時の様子。

 

 

人間の鎖について

1989年8月23日、バルト三国の国民200万人が参加し、三つの首都を結ぶ600km以上の鎖を造った。

これは人口の約半分が参加したことになり、世界で最初かつ最大の人間の鎖でした。

この行動は、タリンの「歌の原」で紹介した1988年の「歌の革命」に続いて起きた、バルト三国団結の象徴的な事件でした。

この後、リガで紹介した1991年の「バリケード」事件で、バルト三国は独立を達成することになりました。

 

 

 

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< 11. 少しの変化 >

 

この三枚の写真に、バルト三国の南下に伴う変化が見て取れます。

 

上の写真: 南下するに従って、いつしか原生林が道路から遠のいて行った。

耕作地が増え、作物栽培や放牧を多く見るようになった。

 

中央の写真: 道路沿いに写真のような十字架や小さな教会をいくつか見た。

道路周辺に民家が増えてきたからもしれない。

 

下の写真: 一番顕著な変化は、緩やかな起伏が増えて来たことです。

 

 

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*12

 

 

 

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< 13. もうすぐビリュニス >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 19: タリン 2


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今日は、首都タリンの港と旧市街の一部を紹介します。

 

 

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< 2. 地図、すべて上が北です。 >

 

上の地図: 首都タリン。

番号1のホテルと番号2の「歌の原」は前回紹介しました。

番号3の港と番号4の青枠の旧市街を今回紹介します。

青枠は支配者達が居を構えた丘の上にある「山の手」です。

 

番号5の赤枠の旧市街は次回紹介します。

赤枠は商人や職人が築いた平地の「下町」です

旧市街の大きさは両方で一辺800mぐらいです。

 

下の地図: 旧市街の「山の手」の拡大です。

赤線が今回紹介する徒歩のルートで、Sから歩き始めて、eの展望台まで行きました。

 

ライブカメラ: 世界遺産「タリンの旧市街」のラエコヤ広場。

現在、ちょうどクリスマスマーケットが行われています。

次回、「下町」で紹介します。

TALLINN TOWN HALL SQUARE – VIEW FROM RESTAURANT DOM

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/tallinn/tallinn-town-hall-square/

 

 

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< 3. 港 >

 

上の写真: フェリー乗り場のターミナルです。

中央の写真: 中央奥に旧市街の教会の尖塔が見えます。

下の写真: ターミナルから埠頭を望む。

 

この港から対岸のヘルシンキ、フィンランド湾の奥にあるサンクトペテルブルグ、またバルト海を抜けてヨーロッパに渡ることが出来ます。

 

この地は、ロシアとスカンディナヴィア半島を結ぶ軍事戦略地点として、またノヴゴロド(ロシアの前身)と西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築いた。

この港は13世紀にハンザ同盟(最北端)に加わり、14世紀、デンマークからドイツ騎士団がこの地を買い取り、エストニアとラトビア(バルト三国の北側2ヵ国)にドイツ人の影響が残ることになった。

 

 

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< 4. 市街 1 >

 

番号4と5の写真は、港から「山の手」のトームペア城までの3kmほどの車窓からの眺めです。

 

 

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< 5. 市街 2 >

 

緑溢れる落ち着いた街並みです。

 

 

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< 6.トームペア城 1 >

 

この塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれ、15世紀の姿を留めている。

 

エストニア人の砦があったこの丘「トームペア」に、13世紀初頭、ドイツの騎士団とデンマークによる北方十字軍が城を造った。

その後、支配者が幾たびも替わり、18世紀初頭からロシアがこの地を支配し、この城は宮殿へと改造されていった。

 

 

 

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< 7.トームペア城 2 >

 

下の写真: 右手は宮殿側で、国の議会が入っているので見学が出来ない。

 

 

 

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< 8.アレクサンドル・ネフスキー聖堂 >

 

上の写真: トームペア城側から見たアレクサンドル・ネフスキー聖堂。

1901年、当時支配していた帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。

ここだけ違和感のある建築でした。

この中に日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレ-トがかけられている。

このバルチック艦隊は、エストニアとラトビアの港から出航した。

中を見学したが、写真を撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: アレクサンドル・ネフスキー聖堂の側面。

この道を奥に進み、坂を下ると「下町」に行くことが出来る。

 

 

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< 9.山の手の街並み >

 

上の写真: 右手にアレクサンドル・ネフスキー聖堂、左手にトームペア城。

中央の写真: 上の写真の中央にある通りに入っていく。

下の写真: 大聖堂(トームキリク)周辺の建物。

この辺り教会関係者の住居だったのだろう。

 

 

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< 10. 大聖堂(トームキリク)周辺 >

 

上2枚の写真: この大聖堂はタリンの中心的なプロテスタント教会。

13世紀にデンマーク人がここにカトリック教会を建設し、その後、火事で焼失したが18世紀に再建された。

 

見学しましたが撮影は出来ませんでした。

中は古く簡素でしたが、16世紀からの品々が集められており、まるで中世の田舎の教会に迷い込んだようでした。

 

下2枚の写真: 風情のある通り。

 

 

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< 11. 展望台からの眺め  >

 

地図のe地点にある展望台から旧市街の北東方向を望む。

奥はタリン湾です。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城


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今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。

この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。

訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。

 

 

ナルヴァ(Narva)について

エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。

しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。

人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。

 

 

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< 2. ナルヴァ城の外壁 >

 

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。

この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。

 

 

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< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

 

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。

この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。

後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

 

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

 

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。

 

 

ナルヴァ城について

ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。

そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。

その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。

 

 

この地の観光情報

*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

http://www.narva.ee/en/for_tourists/page:7672

 

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

http://narvamuuseum.ee/eng/narva-castle/about/

 

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

http://bastion.narva.ee/userfiles/file/Narva%20Bastions%20Route%20booklet%20(et).pdf

 

*Wikipediaのナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Castle

 

 

 

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< 4. ナルヴァ城 2 >

 

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。

左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

 

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。

彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

 

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。

この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。

日本との時差はマイナス7時間です。

 

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/narva/narva-castle-ivangorod-fortress/

 

 

 

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< 5. ナルヴァ川 >

 

上の写真: 対岸はロシアです。

下の写真: 川の右手はエストニア側です。

 

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。

心洗われる一時でした。

 

 

エストニアの歴史について

 

 

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< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

 

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。

写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。

 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。

かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。

私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

 

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。

 

 

下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。

年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

 

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、

16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。

さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

 

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。

端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。

これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。

これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

 

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。

但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。

 

 

 

 

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< 7. ナルヴァの戦い >

 

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。

これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。

右手遠方に城塞が見える。

 

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

 

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。

 

 

 

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< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

 

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。

ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

 

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。

 

 

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< 9. エストニアの歴史地図 >

 

上の地図: 1260年の支配地図。

13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

 

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。

これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。

 

 

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< 10. バルト三国の歴史地図 >

 

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。

スウェーデンに分割支配された。

 

下の地図: 現在のバルト三国。

 

 

あとがき

私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。

その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。

バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。

その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

 

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。

その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。

そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。

ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

 

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。

彼は複雑な気持ちだと言っていた。

 

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 6: 秋の山野と海峡


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今日は、ドライブ途中で見た秋の山野と海峡を紹介します。

これで、今回の旅行記は終わります。

 

 

 

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< 2.9号線 >

 

ここは村岡辺り。

 

 

 

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< 3. 9号線 >

 

ここはハチ北口の辺り、若い頃、ハチ北にスキーに来ました。

 

 

 

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< 4.9号線  >

 

ここは関宮辺り。

 

 

 

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< 5.道の駅あさご 1 >

 

ここには播但連絡有料道路に乗る前に、昼食の為に立ち寄りました。

道の駅のすぐ横で綺麗な紅葉が見られました。

昔、家族で神鍋に行った後の帰り道、ここによく立ち寄りました。

 

 

 

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< 6.道の駅あさご 2 >

 

 

 

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< 7.道の駅あさご 3 >

 

 

 

明石海峡と裏六甲の眺め

次の22日、淡路島から神戸にバスで出ました。

この日は但馬旅行の2日間とは打って変わって素晴らしい天気でした。

バスの車窓から見た快晴の海と山の写真を紹介します。

 

 

 

 

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< 8.明石海峡大橋からの眺め >

 

淡路島から舞子に向かっているバスからの眺めです。

西側、瀬戸内海側を見ています。

淡路島はあまり紅葉しません。

 

 

 

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< 9.高速道路からの眺め 1 >

 

上の写真: 神戸淡路鳴門自動車道を見下ろしている。

 

下の写真: 阪神高速7号北神戸線からの眺め。

 

こちらは山は紅葉していました。

但馬の山々はもっと紅葉していたのですが、天気が悪かったので残念でした。

 

 

 

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< 10.高速道路からの眺め 2 >

 

阪神高速7号北神戸線からの眺め。

 

 

この連載は終了します。

ありがとうございました。

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 5: 竹田城跡


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今日は、写真撮影で最も楽しみにしていた立雲峡と竹田城跡を紹介します。

立雲峡は雲海に浮かぶ竹田城跡の撮影で有名になった所です。

 

 

 

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< 2.立雲峡の登山道 >

 

中腹の駐車場まで車で行き、そこから第三、第二、第一展望台へと登ります。

一番高い第一展望台までは徒歩25分だそうです。

私は疲れたので一番近い第三展望台から撮影しました。

第三展望台は標高354mの竹田城跡と同じ高さにある。

駐車場からも撮影出来ます。

 

 

 

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< 3.第三展望台から竹田城跡 1 >

 

中央の古城山の山頂に石垣が微かに見えます。

北西方向を見ている。

 

今日は、今にも雨が降りそうな空模様で、霞んで見えます。

雲海は秋の明け方から午前8時頃までで、色々な気象条件が重なった時に見られるそうです。

そう簡単に雲海にお目にかかれないのでしょうか。

 

 

 

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<4. 第三展望台から竹田城跡 2 >

 

古城山の麓右下にJR竹田駅と寺町通りが見えます。

 

 

 

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< 5.第三展望台から寺町通り  >

 

麓のJR竹田駅と寺町通りです。

 

 

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< 6. 第三展望台から竹田城跡 3 >

 

 

 

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< 7. 第三展望台から竹田城跡 4 >

 

 

竹田城について

15世紀、応仁の乱で西軍の総大将であった山名宗全が、この山頂に城を築かせた。

戦国時代は太田氏が城主となり、播磨(瀬戸内海側)と但馬(日本海側)の国境を守る拠点となった。

織田軍の播磨攻めの折、1577年、羽柴秀吉により落城した。

最後の城主赤松氏が石積みの城郭を整備し、今に至っている。

 

 

 

 

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< 8.表米神社の下 >

 

ここは寺町通りの端になります。

山頂に石垣が見えます。

右下に表米神社への階段があり、そこから山頂まで登ることが出来ます。

 

 

 

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< 9.JR竹田駅 >

 

ちょうど電車が入って来ました。

南側を見ています。

 

 

 

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< 10. プラットホームから寺町通り >

 

寺町通りにはお寺が幾つも並んでおり、紅葉が美しかった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 4: 浜坂と湯村温泉


 

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< 1. 蟹のいけす >

 

 

今日は、蟹で賑わう浜坂漁港と湯村温泉の蟹料理を紹介します。

 

 

 

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< 2. 浜坂漁港 1 >

 

 

 

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< 3. 浜坂漁港 2 >

 

私は今年5月に、写真左手に見える鬼門崎を遊覧船で巡りました。

その時と打って変わって冬の気配が広がっていました、海はまだ荒れていませんでしたが。

この11月から蟹漁が解禁になったので、またやって来ました。

 

 

 

 

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< 4. 蟹の販売店 >

 

浜坂漁港にあるこの鮮魚店は観光バスなどで来た人で一杯でした。

おそらく観光バスは蟹の買い出しツアーでしょう。

ここの2階にレストランもあります。

皆さん、高い蟹をどんどん買っていくのには驚かされます。

 

 

 

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< 5. 高嶺の花 >

 

 

 

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< 6. 旅館「とみや」1 >

 

「とみや」の庭、右手奥にお気に入りの露天風呂があります。

私はここに泊まるのが2度目、それも半年後にまた来ました。

ここの料理と温泉が非常に気に入りました。

最も、割引の広告が新聞に出たので、飛びついた次第です。

 

 

 

 

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< 7. 旅館「とみや」2 >

 

今回、宿泊した部屋から素晴らしい紅葉を楽しむことができました。

ここはすぐ裏山が迫っており、自然な感じで秋を彩る木々が植えられていた。

 

 

 

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< 8. 旅館「とみや」3 >

 

上と同じ場所です。

不動明王が真っ赤な紅葉の中で立っているのが、如何にも日本的です。

 

 

夕食の蟹三昧

 

 

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< 9. 蟹料理 1>

 

A: 茹でたズワイガニと前菜。

B: カニ刺しと地魚お造り。

C: のどぐろの煮つけ

D: カニスキ。

E: 焼きカニ。

私が一番美味しいと思ったのは焼きカニでした。

 

 

 

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< 10. 蟹料理 2 >

 

F: カニ茶碗蒸しとカニ天ぷら。

G: カニ雑炊と漬物。

H: デザート。

 

やはり低料金なので蟹の大きさや量で見劣りしましたが、満腹になりました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 3: 高源寺


 

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今日は、紅葉で知られた高源寺を紹介します。

 

 

高源寺について

場所は丹波市青垣町にある臨済宗のお寺です。

山裾から山の斜面にかけて多くの仏閣が建てられている。

創建は14世紀ですが、戦国時代に焼失し、江戸時代に復興された。

 

 

 

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< 2. 高源寺の参道 >

 

 

 

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< 3. 惣門 >

 

上の写真: 惣門、最初の門。

 

下の写真: 惣門を入って右側の庭。

 

 

 

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< 4. 山門に向かう階段 >

 

 

 

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< 5. 山門 >

 

上の写真: 山門。

 

下の写真: 山門前から振り返る。

 

 

 

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< 6. 石碑 >

 

 

 

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< 7. 心字の池 >

 

奥の石垣の上から一筋の滝が流れ落ち、手前の「心字の池」に注いでいます。

 

 

 

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< 8. 方丈と鐘楼 >

 

下の写真: 方丈と鐘楼。

 

 

 

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< 9. 多宝塔 >

 

 

 

 

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< 10. 黄葉と紅葉 >

 

 

残念ながら、紅葉のピークは過ぎていました。

おそらく1週間前頃がピークだったのでしょう。

いつかまた来たいものです。

 

 

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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蟹と紅葉を楽しみました 2: 銀山湖から黒川渓谷へ


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今日は、銀山湖から黒川渓谷を紹介します。

 

 

 

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< 2.播但連絡有料道路 >

 

上の写真: 市川サービスエリアからの眺め。

下の写真: 播但連絡有料道路を走行中、フロントガラス越しの眺め。

 

 

 

 

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< 3. 銀山湖 1 >

 

霧雨が時折降る天気でしたが、雲がたなびく山々と紅葉が湖面に映えていました。

 

 

 

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< 4. 銀山湖 2 >

 

 

 

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< 5. 銀山湖 3 >

 

 

 

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< 6. 黒川渓谷、下流側を望む >

 

この場所がこの渓谷で紅葉が最も美しい所かどうかはわかりませんが、紅葉の盛りは過ぎていました。

川に沿って429号線が走っていたここで撮影しました。

銀山湖と黒川渓谷は標高400mを越えています。

 

 

 

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< 7. 黒川渓谷、上流側を望む  >

 

 

 

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< 8. 429号線を下って青垣を目指す  >

 

この道は急な下りが続き、かつ道幅が狭く、対抗車が来たらお手上げです。

それでも杉の森と笹の緑と紅葉が雨に濡れて鮮やかで、深山幽谷を堪能しました。

 

 

 

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< 9. 鹿野馬神社 >

 

目的の高源寺手前で偶然見つけた紅葉の美しい神社を見つけました。

 

 

 

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< 10. 鹿野馬神社の前から  >

 

上の写真: 今下って来た山側を振り返る。

下の写真: 神社の前に架かる橋の上から河岸のもみじを写す。

 

 

次回に続きます。

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 11: サンクトペテルブルグ 5


 

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今日は、黄葉真っ盛りの公園を紹介します。

前回に続いて、ピュートル大帝の夏の宮殿の下の公園を散策します。

 

 

 

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< 2. 散策マップ >

 

赤線が散策ルートで、Sがスタート、Eが終わりを示します。

散策は2016年9月29日17:00~18:00で、雲が厚く覆っていました。

 

 

 

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風が少なかったこともあり、寒さはあまり感じませんでした。

こちらの秋の色は真っ赤ではなく黄金色というところでしょうか。

 

 

 

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< 4. アダムの噴水 >

 

上の写真: この噴水は放射状に延びる8本の道の交差部にある。

下の写真: これは海岸に近い方です。

 

 

 

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< 5.モン・プレジール宮殿 >

 

上の写真: モン・プレジール宮殿の庭先から、フィンランド湾を望む。

右端の突き出した部分は、噴水群から延びる運河の先になります。

 

下の写真: モン・プレジール宮殿の海側。

ピュートル大帝が最も初期に建てたもので、お気に入りだったそうです。

非常に小さな建物でした。

 

 

 

 

 

 

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< 6.モン・プレジール宮殿の庭  >

 

上の写真: モン・プレジール宮殿の庭。

下の写真: この道を真っすぐ行くとチェスの山の滝に行く。

 

 

 

 

 

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< 7. 太陽の噴水 >

 

上の写真: 太陽の噴水。

下の写真: いたずらの噴水。

中央に数個の小さな噴水があるのですが、その脇を通ろうとすると両側の木立の中から突然、何本もの噴水が噴出します。

それも無事な人もいれば、かなり濡れる人もいて、笑いの渦でした。

何処かで操作しているのでしょうが、わかりませんでした。

 

 

 

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< 9. ローマの噴水 >

 

上の写真: 鴨が泳いでいる池もありました。

下の写真: ローマの噴水。

右手の階段上のものが、チェスの山の滝です。

 

 

 

 

 

 

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< 10.チェスの山の滝 >

 

上の写真: チェスの山の滝を横から見ている。

下の写真: 坂道を上る途中に見えたレストラン。

昔は宮殿でした。

 

 

次回は、これまた壮麗なエカテリーナ宮殿を紹介します。

 

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 10: サンクトペテルブルグ 4


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< 1.サムソン像 >

 

 

サンクトぺテルブルグ観光で私が最も感動した風景を紹介します。

それはピュートル大帝の夏の宮殿の噴水群と黄葉です。

今回は、噴水群を紹介します。

 

 

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< 2.散策地図 >

 

上の写真: ピュートル大帝の夏の宮殿のほぼ全体が写っています。

上が北で、海岸沿いの庭園「下の庭園」の幅は東西に約4kmあります。

私達が観光したのは「下の庭園」の一部で、噴水群と赤枠の黄葉真っ盛りの庭園です。

私達はバスを降りて、Sから歩き始め、黄線に沿って徒歩でEまで行きました。

今回の写真はEまでの撮影分です。

 

下の写真: 大宮殿の前から海側に落ちる大滝と噴水群のある庭園。

上が南です。

 

 

 

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< 3.宮殿横を行く >

 

上の写真: 歩き始めると、素晴らしく紅葉した木々が私達を迎えてくれていました。

 

下の写真: この建物の右側から入場します。

 

 

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< 4. 眼下についに見えました >

 

待望の噴水群の全貌が見えて来ました。

今回のロシア旅行で、もっとも期待していた撮影スポットはここでした。

しかし、この時期は天候がすぐれず、雲に蔽われる可能性があった。

一方で、紅葉の時期でもあったので、私はこの時期の旅行に決めた。

おかげで想像を超える黄葉と噴水の両方を楽しむことが出来ました。

しかし残念なことに、ここを訪問したのは9月29日の16:30~18:00で、夕暮れが迫っていました。

肉眼では充分、美しさを堪能出来たのですが、写真では無理なようです。

 

 

 

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< 5.大宮殿中央の前から >

 

森の向こうはフィンランド湾です。

かつてピュートル大帝は船で、この運河に入り宮殿に横づけした。

 

 

ピュートル大帝の夏の宮殿について

北方戦争に勝利したピュートル大帝が建てた宮殿で、1724年に完成した。

建設には、フランス、イタリアなどから建築家や技術者が集められた。

噴水は、22km離れた水源から上の庭園まで水を引き、そこからパイプで落差を利用している。

まったくの自然の力による噴水です。

 

 

 

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< 6.金色に輝く彫像1 >

 

聖書を題材にした彫像が多いようです。

 

 

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< 7.金色に輝く彫像2 >

 

 

 

 

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< 8.金色に輝く彫像3  >

 

この大滝全体で、37体の銅像、64の噴水、142の水の噴出し口がある。

 

 

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< 9.大宮殿を望む1 >

 

上の写真: 池中央の像がサムソン像です。

サムソンがスウェーデンを象徴するライオンの口を引き裂いてる。

そしてその口から20mの高さまで水が噴出している。

 

 

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< 10. 大宮殿を望む2 >

 

 

次回は黄葉の庭園を散策します。

 

 

 

 

 

 

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花で満ち溢れる丘、あわじ花さじき


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2016年11月5日、コスモスが満開の丘を散策しました。

この日は風もなく、陽射しの温もりが心地良かった。

 

 

あわじ花さじき

ここは淡路島北端の丘陵地のひときわ高い山頂にあります。

標高290~250mの展望台からは大阪湾と瀬戸内海を望むことが出来ます。

以前は牛の放牧場だった所ですが、今は広大な斜面一杯に年中、季節に応じた花が植えられています。

ここの素晴らしい所は、広大な斜面のお花畑と眼下の海、緑の山々を同時に楽しめることです。

しかも無料で、駐車場は広く、小さな売店・トイレなどの設備も整っています。

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: 赤丸があわじ花さじきです。

車なら東浦インターから行くのが便利だと思います。

この日も、近畿だけでなく関東や四国などの車も見かけました。

 

下の地図: 矢印があわじ花さじきです。

この衛星写真は大阪湾側から見ており、向こうに瀬戸内海が見えています。

手前が東浦で、横一直線に山肌を横切っているのは神戸淡路鳴門自動車道です。

 

 

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< 3. 駐車場の近くで >

 

上の写真: 牛の放牧場の向こうに、明石海峡大橋の白い主塔が微かに見えています。

この日は、島全体に霞みがかかっていました。

 

 

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< 4. 満開のコスモス >

 

斜面の中腹で撮影しました。

 

 

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< 5. 斜面の下の方で撮影 >

 

上の写真: 中央の山頂に展望台が見えます。

下の写真: 左手奥に2頭の馬に乗った人が見えます。

 

 

 

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< 6. 斜面の上の方から撮影 >

 

上の写真: 赤いサルビアが鮮やかです。

眼下に微かに大阪湾の海面が見える。

霞みがなければ対岸の大阪から和歌山の山並みも見える。

 

下の写真: 展望台から見下ろしている。

 

 

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< 7. 幸福な一時 >

 

 

あとがき

駐車場には大型観光バスが数台駐車しており、次々と乗用車も入って来て、訪問者で一杯でした。

しかし花園は広いので、写真のように人はまばらになり、思い思いに花を楽しんでいました。

子犬を連れて来て見知らぬ人とペット談義に花を咲かせる人々。

近くの牧場から馬に乗り散策を楽しむ人達。

写真撮影に余念のない人。

花に囲まれてご満悦なカップルや友人同士。

老いのひと時を憩う私達。

 

晴れやかで自然と一体になれた秋の一日でした。

 

 

 

 

 

 

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