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海外旅行のすすめ 1: はじめに


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< 1.ホーチミンにて >

 

 

私は約30年で海外30ヵ国以上を訪れました。

そして様々な感動を得て、多くの事を学びました。

これから皆さんに海外旅行の素晴らしさをお伝えしたいと思います。

 

 

はじめに

これからお話することは海外の絶景や観光地の事より、主に私がそこで何を感じ、何を知ったかについてです。

 

私は周囲の多くの人が海外旅行に興味を持っていないことに驚かされます。

これはこれで良いのですが、それらの人の多くは海外事情に無頓着で、特に欧米先進国の良さに疎い。

海外を知らないと、どうしても井の中の蛙に陥りがちです。

 

もっとも今の私は好奇心が疼くから海外旅行に行っているようなものですが。

 

日頃、思索し、本を読み、調査結果をブログに書くようになると、海外旅行で知った生きた知識は本当にありがたい。

また私はある商品開発で海外の見聞がヒットに繋がりました。

 

 

私が海外旅行に関心を持ち始めたのは、私の父がプラント設置のためによく長期海外出張したからでした。

その後、私が勤めた会社で、海外へ視察や慰安旅行に度々行くことになりました。

サラ―リマン時代は、暇が無くて海外旅行には行けなかったのですが、早々と定年してからは、毎年、夫婦で海外旅行を楽しんでいます。

 

これから、私の様々な海外旅行の体験を元に、皆さんに旅行の素晴らしさ、喜び、得たものを紹介したいと思います。

 

 

 

私が訪れた海外

私の訪問先の概略を紹介します。

 

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< 2A、B. 私が訪れた海外 >

 

赤枠と赤線は、私が旅行や視察で訪れた地域です。

日本に近い所から紹介します。

夫婦で行っていない場合のみ特記します。

ツアーとは旅行会社の企画旅行のことです。

既にブログで紹介している旅行記は「タイトル」を付記します。

ブログサイトによっては上記旅行記を削除している場合があります。

 

 

  •  韓国

計3回旅行し、内1回は慰安旅行で3日間のソウル観光で、残り2回は4日間の周遊ツアーで行きました。

 

1回目のツアーでは夢中になっていた韓国歴史ドラマ「ソドンヨ」「チャングム」と景観が重なり大いに盛り上がりました。

連載「韓国旅行」は2回目のツアーです。

 

 

  •  中国

計7回訪問し、内3回は慰安旅行で北京、上海、香港・広州をそれぞれ3日間で観光しました。

工作機見本市の視察の為に、上海に行きました。

 

厦門(アモイ)を訪ね、中国の友人の案内で4日間の心温まるディープな旅行を楽しみました。

「驚きの要塞住居」。

 

5日間の西安・洛陽を巡るツアーに私一人が参加しました。

「秦の始皇帝の兵馬俑」。

桂林5日間のツアーで行きました。

連載「桂林を訪れました」。

 

80年代、大都市広州を深夜一人で街歩きをして、中国の発展を確信することが出来ました。

中国を旅行していて歴史遺産の保存状況が悪いので興覚めすることも多いのですが、それでも日本に深く影響を与えた様々な事跡を見ることは感動的です。

また30年の間、幾度も訪問し、その経済や技術の発展の凄さを見ることは愉しみです。

 

 

  •  台湾

計2回旅行し、内1回は台北3日間の慰安旅行で、これが私の初めての海外旅行でした。

後に5日間の台湾一周ツアーで行きました。

「台湾旅行1: 太魯閣(タロコ)峡谷」。

 

1回目当時、台湾は白色テロの末期だったのですが、夜中、一人での街歩きで印象は大きく異なりました。

2回目では、中国本土に比べて短いその歴史と日本の植民地時代の名残に気付かされる旅になりました。

 

 

  •  ベトナムとタイ

1回だけですが、初めてのタイプの海外旅行をしました。

連載「ベトナム旅行」。

姪の結婚式参加に合わせて、ホーチミンとバンコックを中心に9日間の自由旅行を計画し、ホーチミンではベトナムの友人と久しぶりの再開を果たしました。

 

現地の友人に案内してもらう旅はこれで2回目になりましたが、その国の文化や生活、社会状況を知るには最高の贅沢でした。

 

 

  •  トルコとエジプト

トルコ一周とカイロを巡る13日間のツアーで行きました。

連載「トルコ旅行」、「トロイ」、「サッカラのピラミッド」。

夫婦で最初のアジア外の旅行でした。

 

この旅で、トルコの地方の生活を見てイスラム圏に対する偏見が消え、逆にかつての覇者エジプトの経済低迷に関心を持つようになりました。

 

 

  •  パリ、スイス(2都市)、ドイツ(3都市)、コペンハーゲン、ストックホルム

これは私の最初の視察旅行で、ヨーロッパを代表する工場の視察と観光も加えた1週間以上の旅行でした。

 

私はこの旅行で、西欧の労働や生活スタイル、街並み、社会制度の素晴らしさを身をもって知ることになりました。

 

 

7. ドイツのハーノーバーメッセ(国際見本市)見学

これは2回目の視察旅行で、パリ観光以外はハンブルグに連泊し、3日間列車で見本市会場に通いました。

 

私は、この見本市の巨大さに驚き、また機械や機械工具の優れたデザインに感銘を受け、後に製品開発にその発送を生かすことが出来ました。

 

 

8. ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア

12日間ほどで、ドイツ・中欧・東欧を巡るツアーで行きました。

「ハルシュタット」、連載「チェスキー・クルムロフ」。

 

この旅を一言でいうと、中世の街にタイムスリップし、ロマンチックに酔いしれた一時でした。

 

 

  •  スペインとポルトガル

スペインの東北部を除いて主要な観光地を訪れる13日間のツーで行きました。

連載「スペインとポルトガルを巡る旅」。

 

イスラムとキリスト教文化の対立と融合の歴史、大航海時代の胎動、広大な荒野と少し古びた街並みを味わった旅になりました。

 

 

  •  ドバイ、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ

バルカン半島のアドリア海に接する国を巡る9日間のツアーで行きました。

連載「クロアチア・スロベニアを巡って」。

 

天気に恵まれたせいもあるのですが、アドリア海と共に生きる暮らしと中世海洋都市国家の面影が鮮明に今でも思いだされます。

さらに内陸部の複雑な民族混合の歴史が招いた内戦を深く理解することにもなりました。

 

 

  •  地中海とカナリヤ諸島を巡るクルーズ

15日間で、イタリア(3都市)、スペイン(2都市と島)、モロッコ(1都市)、ポルトガル(島のみ)を観光付きクルーズツアーで行きました。

連載「地中海とカナリヤ諸島クルーズ」。

初めてのクルーズでした。

 

大西洋に浮かべ島々への早朝の着岸、カサブランカとバルセロナの街歩きが楽しい思い出になりました。

 

  •  ロシア、バルト三国、ワルシャワ

9日間のツアーで行きました。

連載「ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅」。

 

大陸北方の自然の厳しさと黄葉の美しさを見ることが出来ました。

また、この地の歴史と社会状況に興味を持って旅立ったのですが、現地での観察と人々との対話が、大いに私の理解を深めることになりました。

 

 

 

今後、私が行きたい海外

まだまだ行きたい所はあるのですが、旅行資金がそろそろ底をつきそうなので、希望だけを記します。

 

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< 3A、B. 今後、私が行きたい海外 >

 

青枠は今年と来年中に行きたい優先度の高い国です。

 

  •  フランス一周

南仏、ストラスブール、パリ、モンサンミッシェルなどを2週間ほどで巡りたい。

 

  •  バリ島滞在

海岸リゾートと山間部のウブドにそれぞれ滞在し、じっくり自然と文化に浸りたい。

 

  •  米国一周

世界のリーダー米国の首都と東海岸、西海岸、南部、中西部の代表的な5都市を2週間ぐらいで見て回りたい。

そこで社会と文化、人々に触れ合いたい。

 

 

ピンク枠は出来れば半数は行きたい海外。

東側から順番に紹介します。

 

  •  南米ペルー

インダス文明の遺跡とイグアスの滝を訪れたい。

 

  •  メキシコ

現代のメキシコ社会、マヤ文明の遺跡とカリブ海を見たい。

 

  •  インド

現代のインド社会を見て、仏教とヒンドゥー教の遺跡を巡りたい。

 

  •  イラン

悪の枢軸と呼ばれながらも内戦の無い強固なイスラム社会、さらに昔ながらのたたずまいを残すイスラム都市とペルシャの遺跡を巡りたい。

 

  •  イスラエル

中東問題の震源地、ユダヤ教とキリスト教の誕生の地、人類農耕の揺籃の地を巡りたい。

 

  •  ギリシャとクレタ島

難民問題で揺れるギリシャを見て、古代ギリシャ文明、エーゲ海文明とビザンチン文化の遺跡、エーゲ海を巡りたい。

 

  •  バルカン半島とブルガリア、ルーマニア

民族大移動の通り道、東西南北の文化が衝突し混淆する地域を訪れたい。

前回はセルビアやマケドニアを旅していない。

 

  •  南アフリカ

アフリカの南端、動物の王国、アパルトヘイトの国を見たい。

 

  •  ベネルックス三国

オランダ、ベルギーを巡りたい。

 

  •  英国周遊

西欧史を理解するには英国は省けない。

 

  •  再び中国

まだ敦煌(シルクロード)、開封、大連(旧満州)、雲南、成都を訪れていないが、

大連と雲南は出来れば行きたい。

 

 

補足

利用したツアー会社は、ジャンボツアーズ3回、JTB1回、残りはすべてトラピックスです。

好みの旅行がありクラブツーリズムを予約することはあったのですが、結局はキャンセルしています。

自由旅行ではファイブスタークラブを1回使いました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 35: ワルシャワ5


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今日は、ワジェンキ公園の残りを紹介します。

今日で、この旅行の紹介を終わります。

長らくのお付き合い有難うございました。

 

 

 

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< 2.ワジェンキ宮殿の2階 >

 

 

 

 

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< 3.ワジェンキ宮殿内 >

 

 

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< 4.ワジェンキ宮殿 >

 

 

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< 5.公園で見かけた動物たち >

 

上の写真: 孔雀がいる。

下の写真: 左の木の陰をリスが走っている。

この公園内で、他にもリスを見ました。

 

 

 

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< 6.広々とした公園 >

 

 

 

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< 7. ホワイトハウス >

 

18世紀に建てられたかつての王族の住居。

 

 

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< 8.かつての温室 >

 

下の写真: 18世紀に東方の植物として珍重されたオレンジなどの樹木を寒い季節の間、養成するための温室の原型。

太陽光を取り入れる為に窓が大きくなっている。

現在は劇場になっている。

 

 

 

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< 9.ショパン像 >

 

下の写真: 毎年夏に、この像の前でショパンコンサートが行われる。

 

 

 

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< 10.お別れ >

 

上の写真: 柳の木の下に座り、故郷の自然を眺めるショパンを表現している。

 

下の写真: ワジェンキ宮殿横の道路。

ここからバスに乗り、空港まで行って、ポーランドを後にしました。

 

 

あとがき

異郷の世界を楽しく巡って来ました。

 

荒涼とした原野、のどかな田園地帯、鬱蒼とした森林を駆け抜けて来ました。

北の広大なバルト海に接した五つの国が交易と戦争で関わり続け、千年の歴史と文化を築きあげて来ました。

旧市街の街並みから、私はロシアとヨーロッパとの関わりを読み解くことが出来ました。

 

モスクワやサンクトペテルブルグのロシア帝国時代の有名な建物はイタリアの建築家の手になるものが多い。

バルト三国も、訪問前のイメージとは異なり、特に旧市街が非常にヨーロッパ風でした。

ワルシャワの古い建物は当然、ヨーロッパの影響が強い。

一方で、スターリン様式やタマネギ風の屋根の教会に見られるように、ロシアやソ連時代の影響が残っている。

 

私はそこに暮らす人々と話をする貴重な機会を得ました。

そして今まで疑問に思っていた幾つかの歴史的事件や社会問題について理解を深めることが出来ました。

 

色々、各地のスーパーに入り、豊富な生活用品や食品などを見ていると経済は発展しているようでした。

 

ポーランドは東欧の遅れた国とのイメージがあったのですが、戦火からの再建をやり遂げて発展している。

バルト三国も、かつての苦難を乗り越えて順調に発展している。

ロシアの都市部の発展は良いが、車窓から見た地方の暮らしは遅れているようでした。

 

この地域の歴史やロシアの様子を知ると、やはり不安がよぎる。

石油安でロシアの景気後退が深まると、世界がナショナリズムに突き進んでいるように、ロシアは容易に道を踏み誤る可能性がある。

それは私は数人のロシア人との会話から、ロシアの偏向報道を感じたからです。

翻って、日本の報道もここ数年、自由度が低下して来ているので不安です。

 

 

また、旅行の仲間で面白い人がいました。

高齢の女性が一人でツアーに参加しておられたのですが、非常にお喋りで、好奇心旺盛な人でした。

しかし、話をしているうちに、彼女は苦難にあっても、いつも挑戦し続け、道を切り開いて来ました。

その積極性と能力は人並み外れていました。

 

そして最後にわかったことは、彼女の息子さんが芥川賞を受賞された作家だったことです。

やはりこれぐらいの女性だからこそと感心したものでした。

 

やはり旅行は面白く、刺激に満ち溢れたものです。

 

 

これで終わります。

 

 

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 34: ワルシャワ4


 

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今日から、ワジェンキ公園を紹介します。

陽光に輝く黄葉、湖面、宮殿を見ながら広葉樹林の中を散策しました。

孔雀やリスが晩秋を惜しんでいました。

2017年10月4日に訪れました。

 

 

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< 2. ワルシャワの中心街 >

 

上の写真: スターリン様式の文化科学宮殿。

 

 

 

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< 3. いよいよワジェンキ公園 >

 

下の写真: ワジェンキ公園の北側から入園、無料。

これはクラクフ郊外通りを2kmほど南下した所にある大きな庭園で、ポーランドの最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによって18世紀に30年をかけて造営された。

 

 

 

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< 4. ワジェンキ宮殿が見える >

 

上の写真: ポーランド王ヤン3世ソビェスキの像。

1683年、オスマン帝国15万の軍による第二次ウィーン包囲に対して、彼はわずか3000の騎兵で中央突破し、勝利に導き、ヨーロッパを救った英雄と讃えられた。

この像は、これを記念している。

 

下の写真: 池の奥にワジェンキ宮殿(水上宮殿)が見える。

ヤン3世ソビェスキの像の前から見ている。

 

 

 

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< 5. ワジェンキ公園  >

 

上の写真: ヤン3世ソビェスキの像がある橋。

 

 

 

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< 6. ワジェンキ宮殿に向かう  >

 

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< 7. ワジェンキ宮殿に迫る >

 

この宮殿は造園を命じた王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが、夏の宮殿として使用した。

彼は前の所有者が浴場として使用していた建物を改造した。

この建物はポーランド・リトアニア共和国が滅亡した後、ロシアに売却され、第二次世界大戦ではドイツに美術品は盗まれ破壊されたが、修復された。

 

 

 

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< 8. ワジェンキ宮殿の南側 >

 

 

 

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< 9.ワジェンキ宮殿の南側の池  >

 

 

 

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< 10. いよいよワジェンキ宮殿に入る >

 

 

 

 

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< 11. ワジェンキ宮殿内 >

 

上の写真: 宮殿のホールで学習する子供達。

 

下の写真: 宮殿のホールから池の北側を見る。

 

 

あとがき

実は、この時期、例年なら黄葉が美しいのだそうですが、この年の夏が小雨だった為、残念ながら多くの黄葉が茶褐色を帯びていました。

従って、あまり黄葉の写真を撮っていません。

それでも遠目には美しかった。

 

次回に続きます。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 33: ワルシャワ3


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今日は、王宮広場からクラクフ郊外通りを紹介します。

紺碧の空に映える建物や通りを歩き、ショパンの関わりある場所を巡りました。

 

 

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< 2. 王宮広場 >

 

上の写真: 奥が、既に紹介した旧市街で、右手が旧王宮です。

中央に立っているのはジグムント3世の像です。

この王がポーランド・リトアニア共和国(1569-1795年間、現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを含む大国)を継承し、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した。

 

下の写真: 旧市街を見ています。

建物の間の通りを行くと旧市街広場に戻ります。

 

 

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< 3.旧王宮 >

 

上の写真: 現在博物館になっている旧王宮。

ジグムント3世の居城だっただけでなく国会などしても使用された。

第二次世界大戦で完全に破壊されたが再建された。

 

中央の写真: 旧王宮の中庭。

 

下の写真: 中庭のポスター。

これらは1956年のポーランドのポズナン暴動とハンガリー動乱を扱っているようです。

この事件はソ連でフルシチョフがスターリン批判をしたことに端を発して、両国の民衆がソ連と自国の共産政権への不満から暴動となった。

ポーランドは自国で鎮圧し死傷者は百名ほどであった。

しかしハンガリーはソ連軍によって鎮圧され2万人近くが死に、20万人が難民となった。

 

 

 

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< 4.王の道を行く >

 

上の写真: 今回紹介するコース。

Sは王宮広場で、Eは徒歩観光の終点で、この間はクラクフ郊外通りです。

この通りを右側(南)に真っすぐ行くと、中心市街地の新世界通りを抜け、後に紹介するワジェンキ水上宮殿公園に至り、この道は「王の道」の一部です。

Aは大統領官邸、Bは道を挟んでチャプスキ宮殿とワルシャワ大学、Cは聖十字架教会、Hは私達のホテル。

 

中央の写真: 王宮広場からクラクフ郊外通りを見ている。

 

下の写真: クラクフ郊外通りから王宮広場の方を見ている。

 

 

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< 5.クラクフ郊外通り  >

 

上の写真: 王宮広場の方を見ている。

 

中央の写真: ポーランドの国民的詩人の像。

彼はショパンと同時期に活躍した。

 

下の写真: ”Kościół seminaryjny w Warszawie”

17世紀に造られ始め18世紀のファサードを持つカトリック教会。

詩人の像と大統領官邸の間にある。

 

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< 6.大統領官邸 >

 

上の写真: クラクフ郊外通りの中頃から南側を見ている。

 

中央の写真: 大統領官邸の前に立つポーランドの英雄像。

彼は19世紀始め、ナポレオンに従って祖国ポーランドの為に戦い、戦死した。

彼は池田理代子の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』の主人公となっている。

 

奥の大統領官邸はかつて貴族の館で、18世紀に一部劇場として開放され、ここでショパンが初めてのピアノ演奏会を行った。

 

下の写真: 18世紀に建てられた後期バロック様式のヴィジトキ教会。

学生のショパンがこの教会の日曜ミサでオルガニストをしていた。

 

 

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< 7. ワルシャワ大学 >

 

上二つの写真: ワルシャワ大学。

かつてショパンはこの大学内の中・高等学校で学んだことがあった。

 

下の写真: クラクフ郊外通りの中頃から北側を見ている

 

 

 

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< 8.ショパンのゆかりの地 >

 

上の写真: ユニークな像が入り口を飾る建物。

 

下左の写真: かつてのチャプスキ宮殿、現在は美術アカデミー。

写真は正面左側の建物で、ショパン一家は1827~1830年までこの3階で暮らした。

1830年、彼がウィーン滞在中にワルシャワでロシアからの独立を求めて「十一月蜂起」が勃発し、帰国を断念し、パリに赴いた。

ショパンにとっては、ポーランドで最後の家となった。

 

下右の写真: これはショパンのベンチで、ショパンゆかりの地に幾つも置かれている。

ベンチには説明が書かれており、ボタンを押すとショパンの曲が流れてくる。

 

 

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< 9.聖十字架教会 >

 

上の写真: 鐘楼はクラクフ郊外通りのほぼ北の端に建つ聖十字架教会。

下二枚の写真: 聖十字架教会の内部。

ショパンの心臓が右の柱に埋められている。

彼は39歳の若さで肺結核でパリに死すが、彼は埋葬を嫌い、遺言に従いこの教会に眠ることになった。

 

 

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< 10.広場や通りの人々 1 >

 

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< 11. 広場や通りの人々 2 >

 

下の写真: 先ほど紹介した美術アカデミー(チャプスキ宮殿)の奥の建物。

 

 

ワルシャワ・ゲットについて

前回紹介した最高裁判所の脇にワルシャワ・ゲットーの境界跡と記念碑がありました。

その位置は下の地図の黒の矢印で、黒の楕円枠は城壁で囲まれた旧市街、黒の四角枠は私達のホテルです。

赤枠が第二次世界大戦中に設置したワルシャワ・ゲットーで、如何に巨大かがわかります。

 

私達はポーランドがホロコーストの主な舞台だったことを知っています。

一つには悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所がポーランドにあったからでしょう。

ナチス・ドイツが殺戮したユダヤ人約600万の内、300万人はポーランドに暮らすユダヤ人でした。

 

 

 

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< 12.ワルシャワ・ゲットー >

 

これらの地図と写真は1939年から1945年までのワルシャワ・ゲットーに関するものです。

*当時のワルシャワ・ゲットーが赤枠で示されています。

*1942年、ゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送。

*1940年、ゲットーの壁建設

*1943年、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人が武装蜂起した報復にドイツ軍は街を焼き払い掃討した。

*1943年、ワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧戦の最中に連行される人々。

 

 

私はユダヤ人で気になっていたことを、前回のポーランド女性に聞いてみた。

 

質問1:

「映画『シンドラーのリスト』では、ポーランド人がユダヤ人迫害に同調したように描かれているが、どう思いますか?」

 

答え:

「監督はユダヤ系アメリカ人なので迫害を際立ったさせるために、ポーランド人を悪く描いているのでしょう。

ポーランド人は、多くのユダヤ人を受け入れた国であり、他の場面ではユダヤ人を助けている」

 

質問2:

「リトアニアではユダヤ人がソ連の手先になって裏切り、ユダヤ人が嫌われたが、ポーランドではどうだったのか?」

 

答え:

答えは明瞭ではなかったが、ポーランド人はユダヤ人を嫌っていないと言いたいようでした。

 

 

ポーランドのユダヤ人 注釈1

ユダヤ人は中世より西欧での迫害を逃れて東欧への移住を進めていた。

西欧では、例え住むことが許されても、限られた町で職業と人数に制限があり、多くのユダヤ人の暮らしは劣悪で人数も少なかった。

 

ユダヤ人は15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていた。

民族的に寛容なポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。

18世紀末以降、緩和が進み、旧市街にユダヤ人が住むようになった。

19世紀半ばより、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街などには貧困層が集中して住むようになった。

この状態は20世紀のはじめまで続いた。

この時代、ワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ユダヤ人の自治共同体が急成長した。

第二次世界大戦直前のワルシャワ市には全人口の30%にあたる38万人のユダヤ人が暮らしていた。

ワルシャワは、ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった。

 

ワルシャワ・ゲットーの歴史

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ワルシャワは占領された。

ユダヤ人居住区でチフスが流行していた為、1940年、隔離の為にゲットーが建設され、その中に45万人が詰め込まれ封鎖された。

このユダヤ人は強制労働に駆り出され、食料配給は必要摂取カロリーの10分の1に過ぎなかった。

 

1942年7月、ユダヤ人の絶滅収容所への移送が始まるが、この時までに8万人が飢えと病で死亡していた。

これに抵抗してユダヤ人は暗殺を手始めに武装蜂起し、ワルシャワ・ゲットー蜂起を起こした。

しかしドイツ軍による1か月の鎮圧で、全住民は移動させられゲットーは破壊された。

住民は瓦礫で圧死し、捕虜は銃殺され、残りは強制収容所で死んだ。

 

1945年、ソ連軍が到着するまでにワルシャワで生き残ったユダヤ人は約200人だった。

 

次回に続く。

 

 

 

注釈1

説明は主にウィキペディアによる。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 32: ワルシャワ2


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今日は、快晴の旧市街を紹介します。

前回紹介した早朝歩いた場所と幾分重なりますが、ガイドの説明を聞くと印象はがらっと変わりました。

 

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: 早朝歩いたルートです。上が東側です。

緑線が行きのルートで、青線が行きと異なる帰りのル-トです。

緑字のSはホテルで、赤字のSはツアーの徒歩観光の起点です。

赤字のDは城壁で囲まれた旧市街の中心に位置するマーケット・プレイスです。

上の川はポーランド最長のヴィスワ川です。

 

中央の地図: ツアーの徒歩観光のルートです。上が東側です。

S:起点。 A:ワルシャワ・ゲットの記念碑。 B: キュリー博物館。 C:城門バルバカン。 D: 旧市街のマーケット・プレイス。 E: 展望台。 F:聖ヨハネ大聖堂。

 

下の地図: ポーランドとワルシャワを示す。上が北側です。

 

 

 

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< 3. クランシスキ宮殿とワルシャワ蜂起記念碑 >

 

上の写真: 左にクランシスキ宮殿、右に最高裁判所。

 

下の写真: 最高裁判所の前のワルシャワ蜂起記念碑。

ワルシャワ蜂起については後で解説します。

地図のS地点から撮影。

 

 

 

 

 

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< 4. ワルシャワ・ゲットの記念碑 >

 

上の写真: 最高裁判所の横。

 

下の写真: ワルシャワ・ゲットの境界跡と記念碑。

地図のA地点で撮影。

ワルシャワ・ゲットの解説は次回行います。

 

 

 

 

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< 5. 新市街 >

 

上の写真: 北側を見ている。

地図のB地点で撮影。

すぐ右手の白い建物はキュリー博物館です。

彼女は放射能の研究で最初のノーベル賞をもらった。

彼女はここで生まれ、青春時代を過ごし、学業と研究の為にポーランドを出てパリに移り住んだ。

当時、ポーランドは帝政ロシアに併合されており、教育者だった両親ら知識層は行動を制約されていた。

 

下の写真: 南側を見ている。

ここを真っすぐ行くと旧市街の城門に至る。

 

 

 

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< 6. 旧市街の城門 >

 

上の写真: 旧市街の城門バルバカン。

最初は16世紀に造られたが、第二次世界大戦で破壊され、1952年に17世紀の様式で再現された。

地図のC地点で撮影。

 

下の写真: 旧市街の広場に向かう通路。

 

 

 

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< 7.マーケット・プレイス  >

 

上下の写真: マーケット・プレイス。

18世紀末までワルシャワの中心でした。

1944年のワルシャワ蜂起に対するドイツ軍の報復で完全に破壊されたが、1950年代に再建された。

地図のD地点で撮影。

 

 

 

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< 8. 旧市街のたたずまい >

 

上の写真: ハトが青空に舞い上がる。

この地は幾度も強国ロシア(ソ連)とドイツに交互に、または同時に蹂躙されて来た。

今度こそは平和が長く続きますように祈ります。

 

下左の写真: これは何の変哲もない古い民家の門に見えるのですが、再建時、瓦礫となった石材や美術記録など頼りに忠実に再現されたものです。

戦火の傷跡が生々しい。

 

下左の写真: 屋根に取り付けられたドラゴン。

 

 

 

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< 9. 展望台 >

 

上の写真: マーケット・プレイスの裏手にある展望台からヴィスワ川を望む。

地図のE地点で撮影。

 

中央の写真: 展望台から聖ヨハネ大聖堂の裏手に行く途中。

バルコニーの支えの部分に銃弾の跡が見える。

これはワルシャワ蜂起の激戦の痕跡です。

 

下の写真: 聖ヨハネ大聖堂の裏手。

地図のF地点付近。

 

 

 

 

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< 10. 聖ヨハネ大聖堂周辺 >

 

上左の写真: 右のレンガ建築が聖ヨハネ大聖堂の側壁です。

塔の下のトンネルを抜けると聖ヨハネ大聖堂の正面の通路に出ます。

地図のF地点付近。

 

上右の写真: 指さしているのはポーランド抵抗の印です。

上述のトンネルの中ほどにありました。

至る所に見られます。

 

下の写真: 上述の聖ヨハネ大聖堂の側壁に埋め込まれた軽戦車のキャタピラ。

ワルシャワ蜂起のものです。

 

 

 

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< 11. 聖ヨハネ大聖堂の正面 >

 

すぐ右が聖ヨハネ大聖堂の正面です。

この通路を行くとマーケット・プレイスに出ます。

地図のF地点付近。

 

 

 

ワルシャワ蜂起

第二次大戦末期に起こったポーランド地下軍とワルシャワ市民によるドイツ占領軍に対する蜂起。

ソ連軍によるワルシャワ解放が目前と思われた1944年7月下旬に一斉蜂起した。

8月1日、ほとんどの市民が蜂起に参加し市の中心部が解放された。

ソ連は進軍するかに見えたが、ヴィスワ川対岸で停止して、いっさいの援助をしなかった。

ようやく9月10日以降、ポーランド人部隊の渡河作戦を許したが、蜂起を救うには遅すぎた。

孤立した蜂起軍と市民はドイツ軍によって徹底的に全市を破壊され20万の死者を出した。

ついにワルシャワ蜂起は10月2日の降伏で無惨に終わった。

 

この時のソ連(スターリンがトップ)の行動は、反ソ感情の強いポーランドが衰弱してから占領する方が得策と考えたからでした。

 

 

 

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< 12. ワルシャワ蜂起 >

 

A: 赤枠はポーランド地下軍が蜂起した場所。

黒の四角は私達のホテル、黒の円枠は旧市街の城壁。

 

B: ドイツ軍が占領しているビルを銃撃するポーランド兵士。

 

C: ワルシャワ蜂起62周年の再現シーン。

 

D: 当時の若いポーランド兵士。

 

E: 旧市街で戦うポーランド兵士。

写真9や10で見た戦闘の傷跡はこの時のものです。

 

F: ドイツ軍によって破壊され炎上する旧市街。

 

G: 完全に破壊されたワルシャワ。

 

 

現在のワルシャワの人はこの蜂起をどのように見ているのだろうか?

直接、一人のポーランド女性と日本語で話すことが出来ましたので、質疑を要約します。

 

質問1:

「皆さんはドイツとロシアについてどう思っているのでしょうか?」

 

答え:

「ポーランド人にとって両国は長年の侵略国であるが、ロシアを嫌っています。

ドイツは戦後、謝罪したが、ロシアはその事実を否定しているからです。」

 

参考:

<カチンの森事件>不誠実な一例として。

1940年、ソ連軍はポーランド侵攻時、ポーランド将兵らの捕虜を2万人以上銃殺した。

ソ連は事件発覚後もドイツの犯行としていたが、ゴルバチョフが再調査し、1990年、事実を認め遺憾の意を示した。

 

 

質問2:

「皆さんはワルシャワ蜂起をどう見ているのですか?」

 

答え:

「毎年、議論されているが評価が分かれています。

 

悪いとする意見

将来ある多くのインテリゲンチャが若死にし、生き残った青年では将来を担うには力不足であった。

また関係のない多くの人が巻き添えになって死んだ。

 

良いとする意見

戦う伝説が作られた。

人々は、これからも他国の理不尽に対し戦う勇気を持つことが出来るだろう。」

 

 

私の感想

リトアニアでも同様でしたが、大国の侵略に対し蜂起したことに自画自賛だけで終わらない姿勢が素晴らしい。

 

ワルシャワ蜂起は、結局、ソ連に支配され続けただけなので、私には無駄死に思える。

しかし、今回巡って来た東欧四ヵ国の異民族支配への強い抵抗に、私は想像以上の篤い想いを見た。

だからと言って、私達日本人は経験したことのないこの想いをたやすく理解出来るとは思えない。

 

私達が、この想いを少しでも理解しょうとするなら、他国を戦争で侵略した後に取るべき態度とは何かが自ずと解るはずです。

それはこの女性が言った「謝罪したドイツを許している」からも明白です。

 

残念ながら日本は島国で平和に暮らして来たことが、他者への理解で災いしているように思える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 31: ワルシャワ1


 

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今日から、最後の訪問地、ポーランドの首都ワルシャワを紹介します。

訪れたのは2016年10月4日で、快晴に恵まれました。

今日、紹介するのは早朝の街歩きです。

 

はじめに

夜の明けやらぬ朝、一人で旧市街に向けて歩き始めました。

道に迷いながら約1時間半ほど歩き回り、やっとの思いでホテルに戻りました。

既に出発時刻は迫り、朝食抜きで最後のホテルを去りました。

朝は雲が覆っていたのですが、徐々に快晴となり、昼には素晴らしい観光日和となりました。

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

 

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< 2. ホテルを出発 >

 

ホテル「ソフィテル・ビクトリア」を出発し、前の「ピウスツキ元帥広場」を通り抜け、北側を目指しました。

 

上の写真: 左手(西側)の森は「サスキ公園」で、その前に光っているのは「無名戦士の墓」です。

 

中央の写真: 広場の東側。

 

下の写真: 「無名戦士の墓」。

この建物に近づくと、中央にある灯火を二人の衛兵が不動の姿勢で守っていました。

朝は寒く、風が吹き抜けていました。

ご苦労様です!

 

 

 

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< 3. 広場を後にして >

 

上の写真: 「サスキ公園」を少し覗いて、ビルの谷間に向かった。

この公園を抜ける時、数人のテレビクルーが立っており、「旧市街はどちらですか?」と聞くと一人が指差してくれた。

 

中央の写真: 国立オぺラ劇場の前を通る。

 

下の写真: 「Miodowa」通りを進む。

ここは高架になっており、右手はかつての宮殿「Branicki Palace Pałac Branickich」で、この下は線路と車道になっている。

 

 

 

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< 4.教会 >

 

私はワルシャワ蜂起記念碑の前に来て、右手(東側)に曲がった。

どうやら旧市街に近づいたような気がする。

 

上の写真: 「 Dluga」通りに面している教会「Field Cathedral of the Polish Army」。

 

下の写真: 「Dluga」通りを突き当たった所にある教会「Kościół Dominikanów pw. św. Jacka」。

 

 

 

 

 

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< 5. 旧市街がわからない >

 

ここらまで来て、旧市街がどこか分からなくなった。

私には旧市街の雰囲気に思えるのだが。

出勤途上の数人に声をかけても通じないのか、それぞれ指の差す方向が腑に落ちない。

 

上の写真: 「Kościół Sakramentek pw. św. Kazimierza」カトリック教会。

ここは新市街広場でした。

 

中央の写真: 「Church of the Visitation of the Blessed Virgin Mary」教会。

15世紀初頭に建てられた、ゴシック建築では最も古い建物の一つです。

 

ここで行き過ぎたと判断し来た道を戻り、真っすぐ南下した。

 

下の写真: やっと城壁らしいものが見えた。

中央に見える茶色のレンガ積みの門が「Barbakan Warszawski」です。

あれをくぐると、旧市街に入ります。

 

 

 

 

 

 

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< 6. 旧市街の市場広場 >

 

上の写真: 先ほどの門を抜けて、城壁内側の右手を見た。

 

下の写真: 旧市街の市場広場。

ライトアップはなく、薄明かりの中で静かに朝を迎える町の風情がありました。

これまで歩いて来て見かけた人は少なく、ほとんどが足早に歩く人でした。

 

 

 

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< 7. 聖ヤン大聖堂 >

上の写真: 旧市街の市場広場。

 

下の写真: 聖ヤン大聖堂「Bazylika Archikatedralna」。

14世紀末に建てられもので、ここで多くの皇帝が戴冠式を行っている。

 

 

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< 8. 旧王宮 >

 

上の写真: 旧市街の南端にある旧王宮。

 

 

中央の写真: 城壁の外側に沿って歩く。

 

そろそろ帰路に着かなければならないが、何処にいるかわからない。

結局、来た道を戻ることにした。

 

下の写真: 先ほどくぐった「Barbakan Warszawski」が見えて来た。

 

 

 

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< 9. 来た道を戻る >

 

下の写真: 「クランシスキ宮殿」が見える。

ここはワルシャワ蜂起記念碑の向かいになる。

 

 

 

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< 10. ホテルが見えた >

 

下の写真: 「ピウスツキ元帥広場」に着いた。

右手の森の上に尖塔が小さく見えるのは、スターリン様式の文化科学宮殿です。

巻頭写真はこの建物ので、この写真は前日の夜、雨の中をスーパーまでツアー仲間と行った時に撮影したものです。

 

左手奥に、ホテルがやっと見えた。

張った足を引きずりながら、ホテルに急ぎ、出発には間に合った。

 

写真の説明は帰国後、調べて書いていますが、歩いている時はまったく分からなかった。

旧市街は近くにあり、方向さえ分かっていれば行けると簡単に思っていた。

冷や汗をかいたが、懐かしい思い出になりました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 30: ビルニュスからワルシャワへ


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< 1. ポーランドにて >

 

 

今日は車窓から見たビルニュスからワルシャワまでの景色を紹介します。

撮影日は2016年10月3日の午後です。

 

 

バスの走行距離は約460kmで、6時間以上走りました。

走行中、雨が降ることはなかったが、ほとんど厚い雲に覆われていました。

写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 2.ビルニュスとの別れ >

 

上2枚の写真: ビルニュス。

下の写真: 郊外。

 

 

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< 6. コンビニ >

 

中央の写真: 集団墓地。

今回走ったビルニュスからワルシャワの間で大きな墓地を幾つも見ました。

やはり南下するに連れて人口密度が高くなって来たのか、道路沿いに見かけるようになった。

皆、キリスト教徒の墓地だった。

 

下の写真: トイレ休憩に寄ったコンビニ。

 

 

 

 

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< 7.国境 >

 

上の写真: 先ほどのコンビニすぐ横の交差点から見た村。

 

中央の写真: これから下の写真はポーランドになります。

 

 

 

 

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これ以降は、暗くなり写真を撮りませんでした。

 

 

あとがき

バルト三国から南下するにつれ、大地に緩やかな起伏が多くなり、原生林を見ることはかなり減りました。

バルト三国もポーランドも、農家のたたずまいは経済的な差があまりなかったように思う。

しかし写真No.11のような綺麗な一戸建ての団地を、バルト三国やサンクトペテルブルグの郊外で見ることはなかった。

私が車窓から見た農村の民家は、ロシアが一番貧しく、古いままのような感じた。

 

参考に、各国の一人当たりのGDP(2013年)を高い方から見ると、エストニア26000ドル、リトアニア25000ドル、ロシア24000ドル、ポーランドとラトビア23000ドルでした。

ちなみに2016年の日本は39000ドルでした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 29: ビルニュス 4


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今日で、ビルュニスとお別れです。

この日は、霧と紅葉に抱かれた街を堪能することが出来ました。

最後に、ロシアとバルト3国について感じたことを記します。

 

 

 

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< 2. 地図、黄色の矢印が北側 >

 

上の地図: 赤い線が旧市街の徒歩観光ルートです。

Gは夜明けの門で、赤いアドバルーン状の印は展望台です。

Pは聖ぺテロ&パウロ教会です。

 

下の図: 展望台からの眺めを再現しています。

赤いアドバルーン状の印が展望台です。

赤い線が旧市街の徒歩観光ルートで、中央の高い塔は聖ヨハネ教会です。

 

 

 

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< 3. 家並み >

 

民家や中庭などを撮影しました。

 

下の写真: 民芸店のある中庭。

壁に数体の聖人像などがはめ込まれ、木の右枝には木彫りのフクロウが見えます。

 

 

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< 4. 印象に残ったもの >

 

左上の写真: 夜明けの門のイコン。

少し時間が経ってから戻ってみると、窓が開いていて、イコンを見ることが出来ました。

 

右上の写真: 夜明けの門の直ぐ近くにあるテレサ教会の屋根の黄金の王冠。

この手の王冠は聖カジミエル教会にもあった。

私は他の国であまり見かけたことがない。

 

左下の写真: No.3の写真の中庭に面した民芸店。

ここは夜明けの門の外にありました。

 

右下の写真: No.5の写真の展望台の柵。

この無数の鍵は、恋人達が一生別れることが無いようにと鍵を掛けていったものです。

 

 

 

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< 5. 展望台Subačiaus apžvalgos aikštelė >

 

霧の為に、この写真ではうまく伝えられませんが、展望台の紅葉は素晴らしかった。

眼下に、紅葉する木々の向こうに数々の教会群が霧に霞んでいる景観は幻の中世を忍ばせます。

 

下の写真: 中央の一番高い鐘楼はビルニュス大学横の聖ヨハネ教会でしょう。

私達はあの前を右から左に通って行きました。

 

この目の前で、高々25年ほど前にソ連軍、75年ほど前にはドイツ、ポーランド、ソ連の軍隊が蹂躙していったのです。

 

 

 

 

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< 6. 聖ぺテロ&パウロ教会 1 >

 

驚きの教会です。

外見は小さく、それほど古くもなく、一見何の変哲もない教会でした。

しかし、内部に入るとその素晴らしさに目を奪われます。

かつてドイツの小さな村で見たヴィース教会の驚きを思い出します。

 

この教会は1668年から7年間で造られたが、内装には30年を要している。

これは当時の一将軍が、自分の廟として造らせたものでした。

中は2000体以上の漆喰彫刻で飾られている。

極彩色や黄金色による派手さはないが、白地一色の空間と彫刻群は地元の人にとって清楚で親しみのあるものになっているのだろう。

きっと人々はリトアニアの歴史や聖書、神話の世界に引き込まれていくことだろう。

 

 

 

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< 7. 聖ぺテロ&パウロ教会 2 >

 

 

 

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< 8.聖ぺテロ&パウロ教会 3  >

 

 

 

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< 9. 聖ぺテロ&パウロ教会 4 >

 

左の写真: 入退出扉側。

その扉の左側を拡大したものが下の写真です。

 

右の写真: 大鎌を持った骸骨の像。

ロシアとバルト三国の教会を訪れて、何カ所かで教会を出る時に、人間の死を連想させる絵や像を見かけた。

信者に生と死を意識させ、さらに復活を印象付ける場合もあった。

 

またロシアとバルト三国の教会を訪れて気が付いたのは、スペインの教会と違って、こちらにはイエスの痛ましい磔刑直後の生々しい像を見かけなかったことです。注釈1.

当然、十字架の像は別です。

 

 

 

 

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< 10. 様々な旧市街の光景 >

 

上の写真: ある店先。

カラフルな貸し自転車でしょう。

 

中央の写真: バルト三国の名物、琥珀。

 

現在でも世界の琥珀の90%はバルト海沿岸で算出される。

バルト三国は未開の地でヨーロッパの果てのイメージがある。

しかし、この地域で採れる琥珀は紀元前2千年紀から中東の文明に知られていた。

そして地中海からユーロッパを抜け、バルト諸国を通りエストニアの北端に至る。この「琥珀の道」が最古の交易ルートの一つとして活躍していた。

ローマ帝国が誕生する遥か前のことです。

 

 

下の写真: 道路沿いの民家の壁。

若い芸術家に作品の発表の場を提供しているのだそうです。

 

 

 

ロシアとバルト3国の旅行を通じて感じたこと。

まだポ-ランド訪問が残っていますが、バルト3国への思いを記します。

 

私が今回の旅行で知りたかった事の一つはバルト三国の苦しみでした。

また今のロシアは脅威なのかを知りたかった。

この二つは、バルト三国にとっては切実な問題です。

 

切実な問題とは

リトアニアは2015年9月から徴兵制を復活させたが、これは2014年からのロシア介入によるウクライナ内戦の二の舞を恐れているからです。

ちなみに人口325万のこの国の兵員は2万人ほどで、対するロシアは77万人です。

ロシアの脅威に対してバルト三国は、2004年にNATOに加盟し、2016年から更なる派遣軍の増強を受けている。

 

だが旅行中に、この軍事的な緊迫を感じる場面に出会うことはなかった。

しかし、バルト三国がロシア(ソ連)から受けた仕打ちを知れば、人々の恐怖は理解出来る。

さらに、各国に暮らすロシア住民とウクライナ内戦の発端を考えれば現実味を帯びてくる。

 

 

だがそれだけではない。

私がロシア旅行で会った二人のロシア人の話から、その恐怖はさらに現実味を帯びてくる。

彼らの発言について、既に、この旅行記で書いていますが、この件に関してまとめると以下になります。

 

「かつてソ連邦に属していた国は我々のものである。」

この発言はウクライナとチェチェンについて語ったものですが、バルトについても同様と推察します。

 

「ロシア人はバルトのような小国に関心はない。」

この発言の真意を汲み取るのは困難ですが、すぐ国境を接しているところに暮らす教養ある若者の発言にしては違和感がある。

 

また彼らと話していて、ロシアに批判的な話をすると、いとも簡単に「それは欧米のプロバガンダです」と吐き捨てる。

この口調に、私はロシアのマスコミを含めた情報統制とプロパガンダを感じる。

ちなみにロシアの「世界報道自由ランキング」は148位/180ヵ国です。注釈2.

 

ソ連邦の時代、バルトを含め東欧諸国の人々はモスクワによる徹底した情報統制を経験している。注釈3.

従って、バルトの人々は、例えロシア人が大らかであっても、国のプロパガンダによって侵略に肯定的になることを知っている。

おそらくは、ゴルバチョフやエリツインが潰えた後は、この情報統制が復活したのだろう。

 

またロシアはプーチンが大統領になった頃(2000-2008)に急成長を遂げたが。

その後、成長は止まり、毎年10%ほどのインフレを起こしている。

観光していて、私は地方の経済は取り残されていると感じた。

このような時、強面が売りのトップは、他の大国も同様だが、不満から国民の目を逸らす為に、外部に対して暴挙に出やすい。

 

私は少ない情報での感想だが、このような恐れを感じているバルト三国に同情している。

 

 

今思うこと

命を賭けて独立を望む小国があり、これを無視し軍事力で抑圧する大国がある。

往々にして当事国の国民や、外国の人は無関心である。

 

いつか、これら小国の自由と権利が踏みにじられる時がやって来るかもしれない。

このことを私達はアジアや中東でつぶさに見て来た。

私は彼らの自由と権利を世界が守るべきだと思う、これが世界の正義となるべきです。

 

幸い今、NATOが抑止力となってくれている。

もし、西欧がこの保護を放棄するれば、いずれこの地域が紛争地となり、やがて災厄は蔓延していくことになるだろう。

その過程は、中東紛争で見た通りです。

 

 

最も重要な事

大国の振る舞い(外交、経済政策)は影響が大きいだけに非常に重要です。

したがって大国は自ら正義を実践すべきであって、身勝手は抑制しなけらばならない。

身勝手な大国に対して、多数の国が団結して、方向転換を促すべきです。

ましてや、その大国への盲従する愚は避けるべきです。

 

また、世界が協力して報道の自由度を確保する体制作りが必要です。

米国やロシアなど大国の報道の自由度低下は不安です。

日本も最近は低下傾向にあり、ついに72位に転落し、世界で中位になってしまった。

 

 

次回に続きます。

 

注釈1.

スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダー・レアル県、Puerto Lápice 村にあるカソリック教会Nuestra Señora Del Buen Consejoで、私はロー人形のようなイエスの生々しい痛ましい像を見ました。

 

注釈2.

国境なき記者団が発表する2016年度のもの。

米国は41位でした。

 

注釈3.

参考図書は「操られる情報」1984年刊、パウル・レンドヴァイ著。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 28: ビルニュス 3


 

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今日はビルュニス旧市街観光の残りを紹介します。

2016年10月3日、月曜日の朝、霧に包まれた町を歩きました。

 

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: 徒歩観光したルート。上が北方向。

紫線は夜の街歩き、赤線は前回紹介した旧市街、紺線は今回紹介する旧市街です。

 

 

中央の地図: この旅行で歩いた旧市街。上が東方向。

上の地図と同じ色でルートを示している。

二つのオレンジ枠は後に紹介するヴィリニュス・ゲットーだった所です。

 

下の地図: 今回の徒歩ルート。上が東方向。

今回の紹介はSから始まり、Eで終わります。

途中のGは市庁舎広場の噴水に近く、ゲットーの表示があるところです。

 

 

 

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< 3. 市庁舎広場の噴水近くから >

 

上の写真: 南側の中央に旧市庁舎が見える。

中央の写真: 中央に東側の聖母マリア教会。

下の写真: 北側のニコラス正教教会の鐘楼が見える。

 

 

 

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< 4. 市庁舎広場から夜明けの門通りに入る >

 

上の写真: 左に聖カジミエル教会の屋根が見える。

No.1の写真が拡大したものです。

 

中央の写真: 聖カジミエル教会の正面。

1604年にイエズス会よって建てられ、帝政ロシアの時代には頭の王冠がタマネギに付け替えられ、正教教会になった。

ソ連時代は「無神論」博物館にさえなった。

 

 

 

 

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< 5.様々な教会  >

 

上の写真: 中央に聖三位一体教会が見える。

この教会はカトリックとロシア正教会の習合によって生まれた宗派の教会。

 

中央の写真: 中央奥に夜明けの門が見える。

その左にテレサ教会の正面が見える。

 

下の写真: ピンク色で外観が変わっている聖霊教会。

上の写真の人だかりがその場所です。

リトアニアにおけるロシア正教の中心的な存在。

ここは観光客や参拝客が多かった。

 

 

 

 

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< 6. 夜明けの門 >

 

上左の写真: 夜明けの門をくぐると城外になる。

左側の建物に小さな扉があり、そこから階段を上ると中央のイコンを拝める。

無料です。

 

上右の写真: この門は昔の城壁でした。

この旧市街には城壁は一部しか残っていない。

 

下の写真: 黄金に輝くイコン。

このイコンは今も奇跡を起こす力があると信じらていると聞きました。

私は階段を上って、すぐ横まで行ったのですが、諦めて戻りました。

東アジアの物見遊山の観光客が、敬虔な信者達をしり目に我勝ちに占拠する姿を見て、悲しくなったからでした。

 

 

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< 7.夜明けの門を出て >

 

上の写真: 門から来た道を振り返っています。

中央の写真: 門を外側から見ている。

下の写真: 少し離れた所から門を見ている。

 

これだけキリスト教会が多いのにユダヤ教のシナゴーグが見当たりませんでした。

 

 

二つの悲しい歴史

 

 

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< 8. 近代リトアニアの生い立ち  >

 

A: 署名者の家。

ピリエス通りに面した「Signatarų namai」の表記がある建物で、場所は地図のSの辺りです。

 

B: ポーランド・リトアニア共和国(1569-1795)の最大版図、1619年頃。

現在の国境を重ねて表示。

 

C: 三度に亘るポーランド分割(1772-1795)の推移。

リトアニアはプロシア(ドイツ)、ロシア、オーストリアで分割され、最後にはロシア領に組み込まれた。

赤丸がビルニュス。

 

D: 第二次世界大戦以降(1939~)、バルト三国はソ連によって占領された。

 

E: 1920年、ポーランドのビルニュス進攻。

ゲディミノ大通りをカテドゥロス広場の大聖堂に向かって進軍。

 

 

リトアニアの独立を巡って

1918年、上記「署名者の家」で始めてリトアニアの独立宣言が行われ、他のバルト三国も同じ年に行った。

1990年、リトアニアは2回目の独立宣言を行い、1年後、バリケード事件の年に他のバルト三国も行った(「リガ3」で紹介済み)。

 

この2回の独立は、バルト三国の悲しみを象徴し、特にリトアニアは悲惨でした。

それは、リトアニアがヨーロッパのポーランドやドイツとロシアに挟まれていたからでした。

バルト三国の南部は東西の大国が領土を拡張する時は、いつも修羅場になった。

 

18世紀末以降、国土の大部分はポーランド・リトアニア領からロシア帝国に組み込まれていった(No.8の地図BとC)。

ところが第一次世界大戦にかけてロシア革命(1905、1917)が勃発すると、

民衆はかつての支配国のドイツ、ソ連の革命軍(赤軍)と反革命軍、ポーランド寄りに分かれて戦った。

その間隙を突いて、1918年に前述の独立宣言を行い、諸外国から承認された。

 

しかし、その後もソ連とポーランドによって領土は分割され、1939年、ついにナチスドイツが進攻し、密約によりソ連領とされた(No.8の写真D)。

第二次世界大戦の1940年、ソ連が侵攻して来たが、41年には独ソ戦が始まった。

民衆は独立を目指し、広大な原生林に隠れながら抵抗運動(パルチザン)を行った(No.9の写真A)。

 

この間、多くのリトアニア人は国外脱出を図り(米国など)、ソ連は見せしめの大量虐殺とシベリア抑留でこれを弾圧した。

特にスターリンによる粛清は過酷を極め、また偽パルチザンやスパイの暗躍,また

裏切りによって人々は疑心暗鬼になっていった。

 

やがて、1985年、ゴルバチョフのペレストロイカが始まると、バルト三国に雪解けが起きた。

けっして平坦な道ではなかったが、タリンの「歌の革命」(No.9の写真B、現在のもの)、3ヵ国による「人間の鎖」(No.9の写真C)、リガの「バリケード事件」(No.9の写真D)を経て、バルト三国は真の自由を得た。

 

 

なぜ人は独立の為に戦うのだろうか?

バルト三国を巡っている時、上記の問いが脳裏から離れなかった。

私には独立の為に命を捨てる覚悟はないだろう。

 

ビルニュスの青年に、1991年の独立について添乗員に聞いてもらった。

彼の感想を要約します。

 

「今でも、この戦いの評価が分かれている。

若い自分としては、独立によって自由を得られたことが大きい。

今は、大学を出ても就職先に困る欠点はあるが、昔は、何もなく貧しかった。

年寄の中には、昔の方が良かったと言う人もいる。」

 

参考: 現在、リトアニアの失業率は10%ほどです。

 

私は少し安堵した。

独立闘争が美化されておらず、国民が冷静に歴史を見ていると感じたからです。

これは想像を絶する分断との闘いだったからかもしれない。

実は、ポーランドでも同じような質問していますが、後日、紹介します。

 

一方、問題もある。

それは反乱を防止する目的などで占領地の住民を強制移住させ、そこにロシア人を移民させていることです。

地域によればロシア人の比率が高く(エストニアのナルバなど)、不満が鬱積するとロシアへの統合を求め分裂するかもしれない。

そうすればウクライナと同様の事が起きる。

 

小国バルト三国は、今もロシアの一挙手一投足に怯えているのではないだろうか?

その一方、ロシアの人々は無関心であった。

 

 

 

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< 9.バルトの闘い >

 

 

 

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< 10. ビルニュス・ゲットー 1 >

 

上の写真: 市庁舎広場の噴水近くの西側に延びる通路。

この撮影場所はNo.2地図のGです。

 

下左の写真: この通路の右手入口に「ビルニュス・ゲットー」の説明板がある。

下右の写真: 「ビルニュス・ゲットー」の説明板。

 

 

 

 

 

 

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< 11.ビルニュス・ゲットー 2  >

 

A: 1902年当時の市庁舎広場。

No.3の下の写真とほぼ同じ方向を撮影している。

 

B: 1939年、ドイツ軍の制服を来たリトアニア軍がビルニュスに進軍。

奥にカテドゥロス広場の大聖堂が見える。

 

C: ビルニュス・ゲットーの入り口(1941年以降だろう)。

 

D: ビルニュス・ゲットー内の様子(1941年以降だろう)。

 

E: ビルニュス・ゲットーで1942年に結成されたパルチザン。

 

 

ユダヤ人の悲劇、ビルニュス・ゲットーについて

ヨーロッパ各地を旅行していると、ユダヤ人と関わる不思議な発見をすることがある。

 

ハンガリーのブタペストでシナゴーグを訪れ、ドイツ軍による大規模なユダヤ人虐殺を知った。

シナゴーグ内で座っていると「あなたはスペイン人ですか?」と数回聞かれ、不思議に思った。

 

後に、スペインのトレドを訪れた時、レコンキスタ終了後の1492年にゲットーが造られたことを知った。

 

実はこのことが、ブタペストでの質問に繋がったようです。

キリスト教徒の国、ヨーロッパではユダヤ教徒を忌避していたのですが、このスペインの事件以降、排斥されたユダヤ人は、ヨーロッパを東へ東へと移動したのです。

そして東欧やロシアに入ったのでした。

 

このリトアニアのビルニュスには16世紀からユダヤ人が住むようになり、18世紀末以降は「リトアニアのエルサレム」と称されるようになった。

さらに第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍占領下のポーランドを逃れてユダヤ難民が押し寄せ、ビルニュスのユダヤ人人口は15万人に膨れ上がった。

 

そして、ドイツ軍の進攻と共に惨劇が始まった。

この初期に杉原千畝領事がカウナスでユダヤ人を大量に救ったのでした。

 

1941年、ドイツの保安警察と反ユダヤ主義のリトアニア人補助兵がユダヤ人虐殺を始めた。

次いで、ヴィリニュス・ゲットーが造られ、ユダヤ人はそこに隔離された。

 

1943年、ヒムラーの「労働できるユダヤ人は強制労働収容所へ移送し、それ以外の者は全て殺害せよ」との命令により、移送と殺害が始まった。

この間に、抵抗運動は起きたが、最後は森に逃げた。

 

1944年、ソ連軍がヴィリニュスを再占領した時、2500人ほどのユダヤ人が隠れて生存していただけであった。

ニュルンベルグ裁判(1945-46)で、ホロコーストの3人の証人の一人は、このビルニュス・ゲットーのユダヤ人でした。

 

イスラエル建国時や中東戦争で活躍した人、イスラエルの強硬派の指導者にはロシアや東欧での苦難や戦いを経験した人が目立つ。

悲しい巡り合わせです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 27: ビルニュス 2


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今日からビルュニスの旧市街を紹介します。

2016年10月3日、月曜日の朝、町全体が霧に包まれていました。

新市街1カ所と旧市街の半分ほどを紹介します。

 

 

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< 2. 地図 >

 

上の地図: リトアニアを示しています。上は北です。

首都ビルニュスは国の右下の方にあり、他の二カ国の首都が海に近いのとは異なります。

これは広大なリトアニア帝国の名残であり、また都市が交易で発展していなかったことに関係しています。

 

中央の地図: ビルニュスの拡大です。上は北です。

赤い線は前回紹介した夜の街歩きのルートで、ホテルからカテドゥロス広場の大聖堂までを示しています。

 

Aは杉原桜公園です。

 

黒枠は今回紹介する旧市街の半分です。

 

下の写真: 上記の黒枠部分です。上は東方向です。

赤線は前夜歩いたゲディミノ大通りです。

 

Sは朝、観光バスを降りて徒歩観光を始めたカテドゥロス広場です。

黄線は徒歩観光のルートです。

Eは今回紹介する最後の地点です。

 

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

 

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< 3. 朝の光景 >

 

 

 

 

 

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< 4. 杉原桜公園 >

 

上の写真: ネリス川の西側(下流)を見ている。

写真の右手に杉原桜公園が広がっている。

 

中央の写真: 杉原桜公園。

毎年春になると、この公園の200本の桜が咲きます。

桜は杉原千畝生誕100年を記念して2001年に植樹されたものです。

茶色の石碑が杉原千畝領事の記念碑です。

 

この右手を入ると私達のホテルがあります。

 

下の写真: 杉原千畝領事の記念碑。

 

 

杉原千畝について

彼は東洋のシンドラーと呼ばれる。

第二次世界大戦中、リトアニアの臨時首都であったカウナスに領事として赴任していた。

1940年、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなどから逃れて来たユダヤ人に、外務省の訓令に反してビザを発行した。

彼らはロシア経由で避難し、命を救われた。

 

 

 

 

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< 5. 町の光景 >

 

上の写真: ネリス川。

 

 

 

 

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< 6. 徒歩観光の始まり >

 

上左の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。

この大聖堂は18世紀の改築によってクラシック様式になった。

この塔の基礎は13世紀の城壁の塔が使われている。

 

上右の写真: この鐘楼の下部にある記念プレート。

これは以前紹介したバルトの道(人間の鎖)のリトアニア側の端を示す。

 

下の写真: カテドゥロス広場からゲディミノ大通りを望む。

 

 

 

 

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< 7. 大聖堂の内部 >

 

上左の写真: バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。

聖堂を入って右奥にある。

 

 

 

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< 8. カテドゥロス広場から始める >

 

上の写真: 左に大聖堂、右に再建中の王宮がある。

 

中央の写真: カテドゥロス広場の木々。

 

下の写真: 旧市街のメイン通りのピリエス通り。

振り返ると、丘の上にゲディミナス城の塔が見える。

 

 

 

 

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< 9. ピリエス通り >

 

上の写真: 聖ヨハネ教会が奥に見える。

14世紀にリトアニアがキリスト教を受け入れて建設が始められ、18世紀の火災の後、バロック様式で改築された。

現在は離接するビルニュス大学の教会になっている。

 

下の写真: 聖ヨハネ教会の鐘楼、旧市街で最も高い。

 

 

 

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< 10. 二つの教会 >

 

上の写真: ピリエス通りの突き当りに小さな正教会が見える。

 

下の写真: 聖ミカエル教会。

 

 

 

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< 11. 聖アンナ教会 >

 

上の写真: レンガで作られた聖アンナ教会。

今回紹介する徒歩観光の終点にある。

16世紀後半に建てられたゴシック様式の教会。

1812年、ナポレオンがロシアへ攻め上がる途上、この教会を見て「フランスに持ち帰りたい」と語ったほど美しい。

 

下の写真: 奥に見えるのはベルナルディン教会。

 

 

 

あとがき

このリトアニアは数奇な運命と言うか、過酷な歴史を負った国です。

そしてビルニュスの旧市街にもその痕跡がある。

 

他のバルト二ヵ国はドイツ人(騎士団)によって経済と文化が発展し、宗教はプロテスタントになったと言える。

その一方、独立まで長らくドイツ人が支配層に君臨した。

そのことが、タリンやリガのドイツらしい町並みを造った。

 

しかし、ビルニュスの旧市街の趣は異なる。

かつてリトアニアは13~18世紀、黒海に接する大帝国で、ロシアを圧することもあった。

やがてロシアへの対抗上、接していたヨーロッパの大国ポーランドと連合した。

しかし、ポーランドが政治と文化で支配的になっていった。

また、この国は農業国で都市の経済発展が進まなかったので、リトアニア人は農民として地方に住んでいた。

1931年当時、ビルニュスの住民はポーランド人66%、ユダヤ人28%、ロシア人4%で、リトアニア人は1%未満であった。

ソ連支配後のポーランド人追放により、現在はリトアニア人が58%です。

リトアニア全体ではリトアニア人83%、ポーランド人6%、ロシア人5%です。

 

こうしてビルニュスの街並みは他のバルトと異なるものとなり、宗教はポーランドの影響でカトリックが主流となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 26: ビルニュス 1


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< 1.リトアニア国立ドラマ劇場 >

 

 

今日から、バルト三国で最後の国、リトアニアの首都ルニュを紹介します。

今日は、夕暮れのビリュニスと、夜の街歩きを紹介します。

訪れたのは2016年10月2日、日曜日です。

 

 

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リガから南下し田園地帯を抜けて、やがて販売店やアパート群が見えて来ました。

ビルニュスの人口は56万人で、リガの70万人とタリン42万人の中間です。

 

 

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思ったより大きく近代的な都市だと感じました。

 

 

 

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*5

 

 

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< 6.夕食のレストランへ >

 

バスを降りて、レストランに向かっている。

下の写真: このレストランでリトアニア料理を食べました。

 

 

夜の街歩き

私達は夕食後、新市街にあるホテル「Best Western Hotel」に到着した。

次いで、添乗員に案内してもらってショッピングモール「Vilniaus Centrinė Universalinė Parduotuvė」(open10:00-22:00)に行きました。

 

その後、皆と分かれて、私達夫婦は旧市街に向いました。

ネリス川を渡り、メインストリートのゲディミノ大通りを抜けて、片道2.5kmを歩きました。

 

 

 

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< 7.カテドゥロス広場 1 >

 

上の写真: カテドゥロス広場から今歩いて来たゲディミノ大通りを振り返る。

 

中央と下の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。

 

 

 

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< 8.カテドゥロス広場 2 >

 

私達はまたこの広場を次の日に観光ツアーで歩くことになります。

 

 

 

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< 9.カテドゥロス広場 3 >

 

途中、ほとんど観光客らしいグループを見かけることはなかった。

見たのは、おそらくは地元の人々で、多くは足早に帰宅する人のようでした。

広場のベンチには幾つもの恋人のシルエットがあった。

 

照明のある大通りや広場を歩いた感じでは、治安に不安を感じるような所はなかった。

実に、感じの良い都市だと思いました。

 

 

 

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< 10.ホテルに戻る >

 

上の写真: 行政府広場から見たゲディミノ大通り。

中央の写真: 帰る途中。

私達のホテルの近くにある大天使ラファエル教会が見えます。

 

下の写真: ネリス川の向こうに大天使ラファエル教会が夜空に浮かび上がっている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 25: ビリュニスまでの車窓の景色


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今日は、バスの車窓から見たリガからビリュニスまでの景色を紹介します。

この日のドライブは雨はなかったもののほぼ雲に覆われていました。

 

 

 

 

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< 2. リガ旧市街 >

 

上の写真: 旧市街の北の端にあるリーガ城。

この城は14世紀初め、ドイツから来たリヴォニア騎士団との闘いに負けた市民が建てらされたもの。

その後、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと支配者が替わり、18世紀以降、現在の宮殿のような姿になった。

 

下左の写真: リーガ城すぐ横の英国教会。

 

下右の写真: スターリン・クラシック様式の科学アカデミーが奥に見える。

ダウガヴァ川沿いから見た。

 

 

 

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< 3. リガとの別れ >

 

上の写真: 中央市場。

中央の写真: ダウガヴァ川の対岸。

下の写真: ダウガヴァ川を渡り、南下してリトアニアの首都ビリュニスに向かう。

 

すべての写真は撮影順に並んでいます。

 

 

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< 5. 途中の町 >

 

 

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< 7. 国境を越えて >

 

上と中央の写真の間で、ラトヴィアからリトアニアの国境を越えています。

 

いつも思うのですが国境を越えても、自然の景色は変わらない。

ここでもそれは同じですし、家屋や人工的な風景も変化していない。

 

7年前にオーストリアからハンガリーへと国境を越えた時、自然は変わらないが、家屋が急にみすぼらしくなっていることに驚いた。

国家形態の違いによる経済の差が、このような形で明瞭に出ていることに驚いた。

 

 

 

 

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< 8. 人間の鎖 >

 

途中、休憩に寄ったレストランの駐車場に「the Baltic Way」(人間の鎖)の表示が立っていました。

 

上の写真: その駐車場から見た道路で、「the Baltic Way」の舞台になった。

 

中央右の地図: 「the Baltic Way」のルートを青い線で示しています。

赤丸はこのレストランの場所を示しています。

 

下の写真: 当時の様子。

 

 

人間の鎖について

1989年8月23日、バルト三国の国民200万人が参加し、三つの首都を結ぶ600km以上の鎖を造った。

これは人口の約半分が参加したことになり、世界で最初かつ最大の人間の鎖でした。

この行動は、タリンの「歌の原」で紹介した1988年の「歌の革命」に続いて起きた、バルト三国団結の象徴的な事件でした。

この後、リガで紹介した1991年の「バリケード」事件で、バルト三国は独立を達成することになりました。

 

 

 

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< 11. 少しの変化 >

 

この三枚の写真に、バルト三国の南下に伴う変化が見て取れます。

 

上の写真: 南下するに従って、いつしか原生林が道路から遠のいて行った。

耕作地が増え、作物栽培や放牧を多く見るようになった。

 

中央の写真: 道路沿いに写真のような十字架や小さな教会をいくつか見た。

道路周辺に民家が増えてきたからもしれない。

 

下の写真: 一番顕著な変化は、緩やかな起伏が増えて来たことです。

 

 

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< 13. もうすぐビリュニス >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 24: リガ 3


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今日は、首都リガ紹介の3回目です。

 

 

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< 2. リガの地図 >

 

地図: 今回紹介する範囲で、上が南です。

黄色線が徒歩観光ルート。

Sは前回に続いて聖ペテロ教会、Aは猫の家、Bは火薬塔、Cはスウェーデン門、Dは聖ヤコブ教会、Eはドゥァマ広場。

 

下左の写真: 前回紹介した聖ペテロ教会。

 

下右の写真: 猫の家に向かっていく途中の通り。

 

 

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< 3. 猫の家 >

 

上の写真: 猫の家はリーヴ広場に面している。

 

下の写真: 猫の家。

屋根の上の猫は、かつて反対方向を向いていた。

この家の裕福なラトビア商人が、ビッグ・ギルドに加わりたいと願った。

しかしギルドはドイツ人が支配的であった為、拒否された。

そこで怒った商人は、猫の尻をギルドに向けた。

 

 

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< 4. 火薬塔 >

 

上左の写真: 薬草酒の販売店。

添乗員に連れられて皆は店内に入りました。

試飲するとアルコールが効いて、雨に濡れて冷えた体が一気に火照りました。

結局、小瓶を買いました。

このリガの町には、いくつか同様の店があるようです。

 

上右の写真: これで2度目の火薬塔です。

 

下の写真: 奥に赤いレンガ積みの城壁があり、さらに奥に火薬塔の緑の屋根が見えます。

写真のすぐ右側にスウェーデン門がある。

前日の夜、この通りの左側のレストランで食事をしました。

 

 

 

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< 5. スウェーデン門の今昔 >

 

上の写真: 現在のスウェーデン門。

左が外側から、右が内側から写した写真です。

 

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。

スウェーデン門の外側にはトラックを置き、内側で市民が暖を取っています。

 

 

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< 6.聖ヤコブ教会 >

 

上の写真: 聖ヤコブ教会の横から見たイェーカバ通り。

突き当りにドゥァマ広場が見える。

右側に碑が見え、「1991年、バリケード」と書かれている。

 

下の写真: 聖ヤコブ教会。

この教会の最初の記録は13世紀と古く、15世紀に建て直された。

 

 

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< 7. ラトビア国会議事堂の今昔 >

 

上の写真: ラトビア国会議事堂。

この建物はイェーカバ通りに面し、聖ヤコブ教会と向き合っている。

 

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。

右にラトビア国会議事堂、左に聖ヤコブ教会が見える。

多くの市民が集まっており、数台のトラックが見える。

 

 

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< 8. 三人兄弟 >

 

上の写真: 「三人兄弟」の建物を左右から見ている。

 

下の写真: この三つの建物は中世の住宅で、外観は当時の姿をほぼ保っている。

右の17番が15世紀のもので、リガの一般住宅としては最も古い。

中央の19番が17世紀中頃のもの。

左の21番が17世紀後半のもので、土地が少なくなった為か窮屈になっている。

しかし窓税の廃止により、17番に比べて窓を大きくとっている。

 

 

 

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< 9. 昼食のレストラン >

 

ここは聖ヤコブ教会のすぐ近くにあるニンニク料理の店です。

私は始めてニンニク入りのビールを飲みました。

美味しく、温まりました。

 

 

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< 10. ドゥァマ広場に戻って来ました >

 

下の写真: イェーカバ通りからドゥァマ広場のリガ大聖堂の雄姿を再び見ることになりました。

右に少し見る赤い建物は証券取引所で、風格があります。

 

 

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< 11. ドゥァマ広場の今昔 >

 

下の写真: 1991年1月のバリケード事件の写真。

上下の写真はほぼ同じ位置から撮影しています。

ここでも多くの市民と車が集まっています。

 

 

 

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< 12. バリケード事件 >

 

1991年1月のバリケード事件について

1991年の8月までに、すべてのバルト三国がソ連の軛を脱し独立した。

そして同年12月にソ連は崩壊した。

ラトビアで起きたこの事件は、これらと深く関わっていました。

 

既に紹介したように、1988年、エストニアのタリンで「歌う革命」が起きていた。

これを境に、バルト三国はソ連支配からの独立を共同で目指し始めました。

 

一方、ソ連国内ではゴルバチョフ主導のペレストロイカにより、連邦内の各共和国の意見が反映されるようになっていた。

しかしモスクワでは旧体制への揺り戻しが起き、混乱していた。

こうした中、リトアニアが1990年3月、一番に独立を宣言しました。

 

すると1991年1月、リトアニアの首都ビルニュスで親モスクワ派がデモを敢行し、これに呼応してソ連軍の戦車が侵攻し、14人の死者と数百人の負傷者が出た。

この様子はメディアを通じて世界に伝えられ、世界の同情を集めた。

 

この翌日、ソ連軍はリガの占拠を開始した。

これに対して数万の市民は車や廃材を持ち込み、旧市街の要所にバリケードを造り、非暴力で防衛した。

この日(13日)、エリツインがタリンを訪問し、エストニアの支持を表明した。

1月20日、モスクワで10万人のデモが起こり、バルト三国への支持を訴えた。

 

こうして同年の8月、残り二か国は独立宣言に至る。

この間のリガの死傷者は6人でした。

 

 

あとがき

この美しく静かな中世の街並みと石畳は、バルト三国の人々の自由への熱望と英知を秘めていたのです。

バルト三国は数百年に及ぶ異民族や最後のソ連による支配に喘ぎ続けていた。

しかし彼らは、非暴力と三国の協力をもって、さらに世界の支持を得て、ほぼ無欠の革命と独立を成し遂げたのです。

 

私はこの事件の写真を見ながら、その石畳の上に立っていた自分に熱いものを感じています。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 22: リガ 1


 

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< 1. 内側から見た旧市街の城壁(右) >

 

今日から、ラトビアの首都リガを紹介します。

 

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< 2.リガの地図、すべて上が北です >

 

上の地図: ラトビア全体を示す。

首都リガは湾の奥に流れ込むダウガヴァ川の河港として発展した。

 

このロシアの奥深くに端を発する1000kmを越える川と良港がドイツ商人の入植を盛んにさせ、この地はハンザ同盟を経て経済発展した。

その後、ロシアのバルチック艦隊の拠点にもなった。

現在のリガの人口は70万人。

ラトビアの人口は200万人、面積は九州の約2倍。

 

中央の地図: 今日紹介するリガ。

黄丸は宿泊ホテル、赤矢印はユーゲントシュティール建築群、黄枠は旧市街、黄矢印は火薬塔です。

ホテルRixwell Elefant Hotelから旧市街までの距離は約4kmです。

旧市街の長さは川に沿って約1kmある。

 

下の地図: リガの主要観光地、旧市街とユーゲントシュティール建築群を示す。

 

 

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< 3.車窓から見たリガ市内1 >

 

 

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< 4.車窓から見たリガ市内2 >

 

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< 5.旧市街に到着 >

 

上の写真: 旧市街の一角に到着。

ここからバスを降りて、火薬塔を目指す。

 

下左の写真: 火薬塔。

14世紀に建てられ、17世紀に再建された火薬の保管庫です。

昔はここから外は砂丘で、街はぐるっと砂丘に囲まれていたが、その後、稜郭と堀で囲まれた。

塔の表面にはロシア軍の攻撃による砲弾が埋め込まれている。

 

下右の写真: 外側から見たスウェーデン門。

リガに残る唯一の城門。17世紀に城壁を利用して住宅が建てられた際に造られた。

当時、近くの兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名がついた。

 

 

 

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< 6.旧市街 >

 

上の写真: 外側から見た城壁。

この向い(右手)にあるレストランで夕食をとりました。

 

下の写真: 夜の旧市街。

夕食後、外に出るととっぷりと暮れていました。

 

 

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< 7.レストランのある棟  >

 

長い店舗棟の端の壁に多くの紋章が描かれていた。

すぐ左に火薬塔がある。

 

 

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< 8.ホテル >

 

上の写真: ホテルRixwell Elefant Hotelの最上階から西側を見ています。

2016年10月2日(日)の朝、夜半からのどしゃ降りがまだ続いていました。

 

下の写真: ユーゲントシュティール建築群がある通りに着きました。

ここでバスを降りて、ストレールニエク通りを徒歩で観光します。

傘を差してカメラを写すことになりました。

 

リガはバルト三国の三つの首都の中で最も栄えて最も美しく、よく観光宣伝の写真に使われるのですが、生憎の雨となりました。

 

 

 

 

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< 9.ユーゲントシュティール建築群1 >

 

ユーゲントシュティール建築群は19世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツに起こった芸術様式です。

この地が如何にドイツと密接していたかがよくわかります。

この通りはソ連時代、放置され痛んでいたのですが、修復が進んでいます。

 

これは当時ヨーロッパで流行した世紀末芸術、フランスのアール・ヌーヴォー、スペインのモデルニスモ(ガウディ)と期を一にしている。

 

ここの特徴は動植物、女性のシルエットが主なモチーフになっている。

しかし、その顔はグロテスクにも思える。

パリやバルセロナの世紀末芸術とは少し趣を異にしているようです。

 

 

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< 10.ユーゲントシュティール建築群2 >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 21: 車窓から見たリガまでの景色


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今日は、バスの車窓から見たタリンからリガまでの景色を紹介します。

 

 

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< 2. ドライブルート >

 

上の地図: 青線が今回走った道路と思われます。

走ったのはエストニアの首都タリンからラトビアの首都リガまでです。

途中、A点とB点を通過したのは確認できました。

 

下の写真: 昼食後、タリンの旧市街を出た所からバスに乗って、次のリガに向けて出発します。

これ以降の写真はすべて撮影順に並んでいます。

 

 

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< 3. タリンの街並み >

 

これらの写真はタリンの中心部を出発してから私達のバスで15分以内の様子です。

走るとすぐ木々に囲まれた閑静な住宅街を抜けることになります。

小さな首都だと言うことがわかっていただけると思います。

 

 

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< 4. 郊外 1 >

 

これらの写真は出発してから20分ほどの景色です。

 

 

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< 5. 郊外 2 >

 

郊外に出ると、道路の両側はほとんど上の写真か、下の写真のような樹林に囲まれています。

写真は変化のあるもの、特徴のあるもの、景色の良いものを選んでいますので、実感としては退屈なバス旅行かもしれません。

私に取っては、自然や暮らしがわかるので、楽しいのですが。

 

 

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< 6. 途中の景色 1 >

 

上の写真: この手の光景を時折見かけるのですが、不思議な感じがします。

一人でサイクリングやランニングしたりする姿や、道路脇を一人か二人で歩いていたりする人を見たのですが、周囲に民家やバス停、建物を見なかった。

私なら不安です、また冬はどうするのか不思議に思いました。

 

中央の写真: 今回のドライブでは、大きな川を数回渡りました。

ロシアの中央部に比べて、やはり海沿いは水や川に恵まれている。

 

下の写真: この道路と上の川との写真は、地図のA地点のものです。

 

 

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< 7.  途中の景色 2 >

 

上の写真: この街並みもA地点のものです。

 

中央の写真: 看板に地図のA地点の表示が見えます。

この看板と上のA地点の街との間にはバスで30分ぐらいの距離があります。

 

 

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< 8. 国境検問所のなごり 1 >

 

上の写真: 広い耕作地の中にポツンと小島のような森があり、その中に一軒の民家が見える。

日本のような民家が密集している農村地帯の景観は道路から見ることが少ない。

 

中央の写真: 地図のB地点です。

今は検問所は無くなっているのですが、その建物がレストランとコンビニになっています。

 

下の写真: 検問所跡の駐車場から今走って来た道を振り返っています。

 

 

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< 9. 国境検問所のなごり 2 >

 

上の写真: 国境検問所跡の駐車場からラトビア側を見ている。

 

下二枚の写真: これからの写真はすべてラトビアの景色です。

景観はエストニアと変わらないと思いますが。

 

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< 10. ラトビアの景観 1 >

 

上の写真: 私の記憶では、この日のドライブで道路沿いで見た教会はこれを含めた二カ所のみだったと思います。

すべて歴史的なものではなく、現在の村人の為だと思います。

 

中央の写真: 広大な森と耕作地が見えます。

 

下の写真: 植林を思わせます。

 

 

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< 11. 特徴ある景観 >

 

上の写真: タリン以降、この一瞬がバルト海を見た最後でした。

地図では海沿いを走っているのですが、海からは離れているか、樹林に遮らて見るチャンスはなかった。

これから訪れる三つの首都リガ、ビリニュス、ワルシャワは川沿いにはあるが海からは離れています。

 

中央の写真: 実は中央の構造物は珍しく微かに高い起伏の上に建っているのです。

エストニアの最高標高は318m、ラトビアの98%は標高200m以下です。

この地域はほんとうに平な平原なのです。

 

下の写真: 大きな湖です。

 

 

 

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< 12. 街 >

 

車窓から見た郊外の民家は、ロシアに比べ、エストニアやラトビアの方が勝っているように見えた。

ロシアのものは痛みが多く、古いようです。

 

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< 13. リガに入った >

 

夕暮れも近づく頃、大きな川や湖を渡るとリガの街並み見え始めました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 20: タリン 3


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今日は、タリンの旧市街「下町」を紹介します。

ここで昼食をとって、この街とお別れになります。

 

 

 

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< 2. 展望台の眺めと地図 >

 

上の写真: 同じ「山の手」にある前回とは異なる展望台からの眺めです。

狭い展望台ですが、より東側の旧市街を望むことが出来ます。

地図の番号Sがこの展望台です。

 

下の地図: 今回、紹介する観光ルートです。

上が北です。

Sから始めて、Eまで行って終わりました。

Bがメインになるラエコヤ広場です。

 

 

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< 3.下町に向かう >

 

上の写真: 展望台から東側を見ている。

下の写真: この坂を下ると「下町」に行きます。

 

 

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< 4. 下町に通じる坂と聖ニコラス教会 >

 

上2枚と下左の写真: 「短い足の通り」と門塔。

かつて「山の手」と「下町」を行き来するのは二か所の通りしかなかった。

その内の一つで狭くて急な坂道の「短い足の通り」です。

夜は、この門塔で扉が閉められた。

写真は「山の手」から「下町」に下る順番に並んでいます。

 

下右の写真: 聖ニコラス教会。

13世紀前半にドイツ商人の居住区の中心に建てられた教会です。

ここには15世紀後半に描かれた「死のダンス」があります。

中には入っていません。

 

 

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< 5.ラエコヤ広場に到着 >

 

上の写真: 通りから広場が見え始め、その向こうに聖霊教会の尖塔が見える。

下の写真: 奥右手の建物の地下のレストランで昼食をとりました。

 

 

 

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< 6. ラエコヤ広場 1 >

 

上の写真: 今来た方向(西側)を振り返っています。

左の尖塔は聖ニコラス教会のものです。

 

下の写真: 同じ位置から、南側にある旧市庁舎を望む。

この建物は14世紀後半に建てられ、15世紀に現在の形になった。

タリンは1248年に自治都市になり、またハンザ同盟に加わり発展した。

 

 

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< 7.広場から通りへ >

 

上の写真: 旧市庁舎の横から広場の北側を望む。

下の写真: 旧市庁舎の東南側にある通り。

中世には市が立った。

 

 

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< 8.ドミニコ修道院 >

 

上左の写真: 旧市庁舎を真横から見た。

 

上右の写真: ドミニコ修道院(右側)の横の通り。

 

下の写真: ドミニコ修道院。

1229年にドミニコ修道会はトームペア(山の手)に修道院を建てたが、帯剣騎士団に敗れ、この場所に立て直した。

宗教改革の折に破壊され、現在は改修され博物館になっている。

 

 

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< 9. 城壁 >

 

上の写真: 旧市街東側の城壁。

この上の回廊は有料で歩くことが出来ます。

 

 

下の写真: ヴィル門。

かつては陸路で街に入る場合の正面玄関でした。

14世紀から建てられた城壁の一部です。

向こうに新市街地が見えます。

 

ここを出て、次の都市リガに向かいました。

 

 

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< 10. 素晴らしい!! >

 

 

 

 

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< 11.様々な光景 >

 

上左の写真: ラエコヤ広場で見かけた風変わりな看板。

後でわかったのですが、ここはヨーロッパでも最古の薬局の一つでした。

ここは「市議会薬局」で、壁には1442年と表記されており、現在も営業しています。

看板の蛇と器は、日本で言えば漢方薬のマムシとお椀でしょうか。

ここは旧市庁舎の反対側にあります。

 

上右の写真: 旧市庁舎のドラゴンの雨樋。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

 

あとがき

ここではショッピングが出来る自由時間があり、妻は楽しめたようです。

これでも残念ながら旧市街の一部しか見ていない。

多くの観光客が中世の街並みを楽しいでいました。

 

ロシアでもそうでしたが、ここでも中国の団体客が眼につきました。

特にホテルや展望台での傍若無人さには閉口しました。

なかなか周囲への配慮が行き届くまでには年月がかかるのかもしれません。

私も気をつけなけらばならないと自戒しました。

 

半日、首都の旧市街を巡っただけで、一国の歴史と社会を知るのはほとんど不可能ですが、やはり直に歩いて目に焼き付けることで、理解が深まって来ます。

旅は、私を最高に興奮させ、世界を身近にさせてくれます。

 

 

次回に続きます。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 19: タリン 2


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今日は、首都タリンの港と旧市街の一部を紹介します。

 

 

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< 2. 地図、すべて上が北です。 >

 

上の地図: 首都タリン。

番号1のホテルと番号2の「歌の原」は前回紹介しました。

番号3の港と番号4の青枠の旧市街を今回紹介します。

青枠は支配者達が居を構えた丘の上にある「山の手」です。

 

番号5の赤枠の旧市街は次回紹介します。

赤枠は商人や職人が築いた平地の「下町」です

旧市街の大きさは両方で一辺800mぐらいです。

 

下の地図: 旧市街の「山の手」の拡大です。

赤線が今回紹介する徒歩のルートで、Sから歩き始めて、eの展望台まで行きました。

 

ライブカメラ: 世界遺産「タリンの旧市街」のラエコヤ広場。

現在、ちょうどクリスマスマーケットが行われています。

次回、「下町」で紹介します。

TALLINN TOWN HALL SQUARE – VIEW FROM RESTAURANT DOM

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/tallinn/tallinn-town-hall-square/

 

 

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< 3. 港 >

 

上の写真: フェリー乗り場のターミナルです。

中央の写真: 中央奥に旧市街の教会の尖塔が見えます。

下の写真: ターミナルから埠頭を望む。

 

この港から対岸のヘルシンキ、フィンランド湾の奥にあるサンクトペテルブルグ、またバルト海を抜けてヨーロッパに渡ることが出来ます。

 

この地は、ロシアとスカンディナヴィア半島を結ぶ軍事戦略地点として、またノヴゴロド(ロシアの前身)と西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築いた。

この港は13世紀にハンザ同盟(最北端)に加わり、14世紀、デンマークからドイツ騎士団がこの地を買い取り、エストニアとラトビア(バルト三国の北側2ヵ国)にドイツ人の影響が残ることになった。

 

 

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< 4. 市街 1 >

 

番号4と5の写真は、港から「山の手」のトームペア城までの3kmほどの車窓からの眺めです。

 

 

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< 5. 市街 2 >

 

緑溢れる落ち着いた街並みです。

 

 

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< 6.トームペア城 1 >

 

この塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれ、15世紀の姿を留めている。

 

エストニア人の砦があったこの丘「トームペア」に、13世紀初頭、ドイツの騎士団とデンマークによる北方十字軍が城を造った。

その後、支配者が幾たびも替わり、18世紀初頭からロシアがこの地を支配し、この城は宮殿へと改造されていった。

 

 

 

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< 7.トームペア城 2 >

 

下の写真: 右手は宮殿側で、国の議会が入っているので見学が出来ない。

 

 

 

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< 8.アレクサンドル・ネフスキー聖堂 >

 

上の写真: トームペア城側から見たアレクサンドル・ネフスキー聖堂。

1901年、当時支配していた帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。

ここだけ違和感のある建築でした。

この中に日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレ-トがかけられている。

このバルチック艦隊は、エストニアとラトビアの港から出航した。

中を見学したが、写真を撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: アレクサンドル・ネフスキー聖堂の側面。

この道を奥に進み、坂を下ると「下町」に行くことが出来る。

 

 

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< 9.山の手の街並み >

 

上の写真: 右手にアレクサンドル・ネフスキー聖堂、左手にトームペア城。

中央の写真: 上の写真の中央にある通りに入っていく。

下の写真: 大聖堂(トームキリク)周辺の建物。

この辺り教会関係者の住居だったのだろう。

 

 

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< 10. 大聖堂(トームキリク)周辺 >

 

上2枚の写真: この大聖堂はタリンの中心的なプロテスタント教会。

13世紀にデンマーク人がここにカトリック教会を建設し、その後、火事で焼失したが18世紀に再建された。

 

見学しましたが撮影は出来ませんでした。

中は古く簡素でしたが、16世紀からの品々が集められており、まるで中世の田舎の教会に迷い込んだようでした。

 

下2枚の写真: 風情のある通り。

 

 

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< 11. 展望台からの眺め  >

 

地図のe地点にある展望台から旧市街の北東方向を望む。

奥はタリン湾です。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 18: タリン 1


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今日から、エストニアの首都タリンを紹介します。

2016年10月1日の早朝から昼過ぎまで、主に旧市街を観光しました。

この日は、朝の雨上がりの後、素晴らしい快晴となりました。

 

 

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< 2. ホテル周辺 1 >

早朝、ホテルの周辺を少し散策しました。

宿泊したホテルはÜlemiste Hotellで、旧市街から数km離れた所にあります。

ホテルの前には大きな湖、後ろにはタリン空港があります。

 

上の写真: この道を進むと都市の中心部、旧市街、タリン湾の港に行きます。

 

中央の写真: 上とは逆の方向です。

 

下の写真: 右側がホテル、左側が大型スーパーです。

当初、このスーパー(オープンAM10:00-PM9:00)に行ってみたかったのですが、前日ホテルで食事を終えたのが遅く、また朝の出発が早かったので行くことが出来ませんでした。

 

 

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< 3. ホテル周辺 2 >

 

上2枚の写真: 少し歩いて電車の高架橋近くまで行きました。

ここを抜けて行くと町の中心部になります。

 

下の写真: ホテル近くのバス停。

 

 

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< 4. ホテル周辺 3 >

 

上の写真: 湖。

中央の写真: 朝焼けの空港。

下の写真: タリン湾の方に虹が架かっている。

 

 

 

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< 5. ホテルの最上階からの眺め  >

 

上の写真: 都市中心部の方。

中央の写真: 湖。

下の写真: 都市から離れる方。

 

 

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< 6. 車窓からの市内 1  >

 

バスはホテルを出発し、市内を抜けて最初の観光地に向かいます。

 

 

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< 7. 市内を行く 2  >

 

タリンの人口は39万人で、首都とはいえ非常にこじんまりしている。

ビル街は少なく、閑静な住宅街が広がっている感じです。

 

 

 

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< 8. 「歌の原」に到着  >

 

目的の場所に到着した。

ここはエストニア、いやバルト三国にとっても心の叫びが奇跡を生んだ誇り高き場所なのです。

 

バルト三国では昔から毎4、5年ごとに、国を挙げての音楽祭が開かれていた。

かつてバルト三国は揃って一度、二つの大戦の間だけ独立したことがあった。

しかし第二次世界大戦が始まるとソ連に占領され、国歌や民謡を母国語で歌うことが禁止された。

 

一方、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカを始めると、この地にも変化の兆し現れた。

1986年からバルト三国の各首都で大規模集会が開かれたが、逮捕者が出て終わっていた。

ついに、1988年9月、全エストニアの4分の1に当たる30万人がここに集まり、独立の思いを歌にした。

エストニア政府は連邦の方針に逆らい、抗議行動を許可し、この「歌う革命」は4年以上続くことになった。

 

1989年5月、タリンでバルト三国の独立の為の会議がもたれた。

こうして9月、バルト三国の首都を結ぶ600kmをそれぞれの国民200万人が手をつなぎ、人間の鎖を作った。

私達のバスは後にこの道を走ることになります。

 

1991年には、バルト三国のすべてがほぼ平和裏に独立を果たしていた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=34mYlYkzPVU

「歌の原」で行われた2009年の歌声の祭典の公式ビデオです。

歌が持つ力に感動します。

 

 

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< 9. 歌の原 1  >

 

上の写真: この静かな場所で感動がおこりました。

 

下の写真: タリンの港が見えています。

 

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< 10. 歌の原 2 >

 

黄葉と朝陽が心を高揚させます。

 

 

今回の旅では、これから訪れる各国で自由と独立とは何かを考えることになりました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 17: バスの車窓から見たエストニア 1


 

 

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今日は、ナルヴァからタリンまでの景色を紹介します。

2016年9月30日の午後、バスは210kmの道のりを走りましたが、1時間ほどで日が暮れたので、写真はナルヴァから50kmぐらいまでになります。

 

 

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< 2.地図、共に上が北 >

 

上の地図: エストニアを示す。

エストニアは東にロシア、南にラトビアと接し、海を挟んで北にフィンランドがあります。

人口は134万人で、面積は北海道の6割です。

 

下の地図: バスの走行ルート。

赤丸がナルヴァ、黄丸が首都タリンで、宿泊はタリンです。

矢印がトイレ休憩のガソリンスタンドOlerexi Sillamäe tanklaのある町で、ナルヴァから25kmぐらいです。

 

 

 

 

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< 3. ナルヴァの町 1 >

 

ナルヴァは人口66000人の町で、オイルシェールが産出され、エストニア屈指の工業地帯になっている。

 

 

 

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< 4. ナルヴァの町 2 >

 

幹線道路を抜けていく分には、町は古さを感じさせなかった。

 

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のどかな景色が続く。

この日、走ったナルヴァまでのロシア側よりも森林が少ないように思うが、

それでも遠方には深い森林が広がっている。

耕作地のようだが、ロシアもエストニア側でも実っている作物をほとんど見ることはなかった。

この辺りの冬の最低気温(夜)は-8℃で、積雪になる。

 

こちらでもロシアと同様に密集した農家の集落を、幹線道路からほとんど見ることがない。

 

 

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< 7. 休憩したガソリンスタンドから 1>

 

 

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< 8. 休憩したガソリンスタンドから 2 >

 

上の写真: このバスは都市間を走るバスのようで、ガソリンスタンドの横に待合室がある。

今回の旅行で立ち寄ったガソリンスタンドにはトイレだけでなくレストランや売店があった。

これも旅の楽しみの一つです。

 

下の写真: アパートの団地のようです。

 

 

 

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上の写真: ガソリンスタンドを横切る地元の人々。

 

 

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上の写真: ガソリンスタンドの町を過ぎた所にある川。

下の写真: 夕日が沈んで行く。

これ以降は闇の中をバスは走り続けることになる。

 

 

次回に続きます。

 

 

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ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城


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今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。

この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。

訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。

 

 

ナルヴァ(Narva)について

エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。

しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。

人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。

 

 

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< 2. ナルヴァ城の外壁 >

 

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。

この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。

 

 

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< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

 

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。

この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。

後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

 

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

 

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。

 

 

ナルヴァ城について

ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。

そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。

その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。

 

 

この地の観光情報

*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

http://www.narva.ee/en/for_tourists/page:7672

 

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

http://narvamuuseum.ee/eng/narva-castle/about/

 

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

http://bastion.narva.ee/userfiles/file/Narva%20Bastions%20Route%20booklet%20(et).pdf

 

*Wikipediaのナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Castle

 

 

 

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< 4. ナルヴァ城 2 >

 

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。

左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

 

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。

彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

 

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。

この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。

日本との時差はマイナス7時間です。

 

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS

https://balticlivecam.com/cameras/estonia/narva/narva-castle-ivangorod-fortress/

 

 

 

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< 5. ナルヴァ川 >

 

上の写真: 対岸はロシアです。

下の写真: 川の右手はエストニア側です。

 

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。

心洗われる一時でした。

 

 

エストニアの歴史について

 

 

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< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

 

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。

写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。

 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。

かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。

私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

 

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。

 

 

下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。

年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

 

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、

16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。

さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

 

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。

端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。

これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。

これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

 

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。

但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。

 

 

 

 

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< 7. ナルヴァの戦い >

 

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。

これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。

右手遠方に城塞が見える。

 

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

 

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。

 

 

 

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< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

 

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。

ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

 

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。

 

 

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< 9. エストニアの歴史地図 >

 

上の地図: 1260年の支配地図。

13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

 

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。

これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。

 

 

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< 10. バルト三国の歴史地図 >

 

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。

スウェーデンに分割支配された。

 

下の地図: 現在のバルト三国。

 

 

あとがき

私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。

その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。

バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。

その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

 

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。

その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。

そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。

ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

 

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。

彼は複雑な気持ちだと言っていた。

 

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

Categories: 連載中: ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅, history+evolution, <japanese language, travel+photo | Tags: , , , , | Leave a comment

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