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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール


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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。

ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。

訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。

この日も快晴に恵まれました。

 

 

 

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< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

 

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。

このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。

番号1~12は写真で紹介するスポットです。

 

 

 

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< 3.バスから見たコルマール >

 

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

 

下の写真: Place Rapp。

フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。

 

 

 

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< 4. プチットベニス >

 

上と下左の写真: 地図番号1。

小舟の遊覧船が発着していた。

 

 

 

 

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< 6. 運河沿い >

 

下の写真: 地図番号2。

右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。

 

 

 

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< 7.旧税関 >

 

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。

シュウェンデイの噴水の広場に面している。

屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

 

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.

シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。

 

 

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< 8. バルトルディ美術館 >

 

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

 

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

 

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

 

右下の写真: 店の看板。地図番号10.

アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。

これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。

 

 

 

 

 

 

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< 9. 商人通り >

 

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。

地図番号4.

 

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

 

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.

 

 

 

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< 10. サン・マルタン大聖堂 >

 

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。

これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

 

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。

つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。

ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。

両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。

これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

 

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。

 

 

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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

 

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.

私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。

 

 

 

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< 12. 運河、地図番号12. >

 

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。

 

 

 

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< 13. レストラン >

 

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。

コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

 

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

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< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

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< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 13: 要塞都市アヴィニョン 2


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*1

 

 

今日は、アヴィニョン旧市街の今を紹介します。

主に自由散策で見た中央市場や時計広場の光景です。

 

 

 

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< 2. ロシェ・デ・ドン公園 1 >

 

上の写真: 公園の展望台から東側を見下ろしています。

見えているのはアヴィニョン旧市街です。

 

下の写真: 展望台。

写真は展望台の東北端から南側を写しており、右奥、木立の上に黄金の聖母像が見える。

 

 

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< 3. ロシェ・デ・ドン公園 2 >

 

上の写真: ノートル・ダム・デ・ドン大聖堂を後部側面から見ている。

 

下の写真: ロシェ・デ・ドン公園の入り口にある彫刻。

上の写真の大聖堂の右側にある。

 

 

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< 4.時計台広場から自由散策を始めた >

 

9:30から10:20まで自由散策を愉しみました。

最初、レアル中央市場に行き、ショッピングした。

時計台広場から中央市場まで8分ほどです。

後は時計台広場に戻り、集合待ちの間、広場の様子を眺めていました。

 

 

 

 

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< 5.レアル中央市場に向かう 1 >

 

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< 6.レアル中央市場に向かう 2 >

 

上の写真: サンピエトロ大聖堂。

遡れば教会は7世紀に始まるのですが、サラセン人に破壊された後、この大聖堂は14世紀から再建され始めたゴシック建築です。

 

今までの記事で謝らなければないことがあります。

それはイスラム教徒(サラセン人など)との関連です。

プロヴァンスの歴史を調べていると、各地の町や地中海の港がイスラム教徒に襲撃されたとの記述が多くありました。

私は、イスラム教徒が地中海で覇権を握ったのは、東地中海とジブラルタル海峡だけだと勘違いしていました。

これまでの歴史的な解説で、イスラム教徒の進攻を過小評価していました。

 

 

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< 7.レアル中央市場に入る >

 

土曜日の午前9:40頃に入ったが人は少なく、観光客を見なかった。

私達は現地の果物と名物のお菓子を買って、後ほど食べた。

 

 

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< 8.レアル中央市場の中 >

 

見ていると何でも欲しくなり食べたくなるが、お腹にも限度がある。

 

 

 

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< 9.レアル中央市場から時計広場に向かう >

 

上の写真: 中央市場前の花屋。

 

 

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< 10. 時計広場に戻る >

 

上の写真: 時計広場から南側に延びるメインストリートを望む。

この先には立派な城門、その向こうにアヴィニョン国鉄中央駅がある。

前日はこの通りに面したレストランで夕食をとった。

写真はその時のメイン二品です。

 

 

 

 

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< 11.時計広場にて 1 >

 

上の写真: 広場の南側から北側を見ている。

フランスの町の中央広場には必ずと言っていいほど、メリーゴーランドがありました。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

左側は夫婦のようで、黒を基調にした服でゆったりと旅行を楽しんでいるようでした。

右側は地元の人が、あれよあれよと言う内に集まり、談笑を始めた所です。

私はファッションには疎いのですが、着こなしが様になっていると感じました。

 

 

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< 12.時計広場にて 2 >

 

この建物は時計台広場の北端にあるレストラン(Le Lutrin)で、18世紀のスペイン領事館だった。

ふと見上げると、マリア像らしきものがありました。

 

ヨーロッパを旅行していると、キリスト教と言いながら、マリア像の多さに驚く。

そこに根強い聖母信仰を感じ、仏教の観音信仰を思わせる。

本来、観音様は菩薩で男性だが、そこには女神や母性を感じさせるものがあり、根強い人気がかってはあった。

 

この中世の宗教都市は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラとは大きく異なる雰囲気がある。

こちらは教皇庁の聖職者や官僚で富栄えた町だが、サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の人々で栄えた町と言える。

前者は巨大な宮殿と部外者を寄せ付けない城壁に象徴され、過去のものになっているが、後者は多数の教会が建ち並び、今でも巡礼者が絶えない。

 

ここを発って、ローマ時代の巨大な水道橋を見る為に、ポン・デュ・ガールに向かいます。

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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*1

 

 

今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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Bring peace to the Middle East! 62: Religion and Politics 2


中東に平和を! 62: 宗教と政治 2

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Last time, we thought about religion and politics.
We think about contemporary relationship between religion and law this time.

前回、宗教と政治について考えました。
今回は現代の宗教と法の関係について考えます。

 

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*2

 

About Holy War (Jihad)
The problem that we are most concerned about the Islam of the Middle East seems to be jihad.

Extremism advocating jihad is abnormal beliefs from a standpoint of moderate beliefs being the overwhelming majority of Muslim.
However, the extremism (rigorism) continues to live historically, and then is in Saudi Arabia now.
Although, biased beliefs such as fundamentalism are also in other religions.

What is the problem?
First of all, currently, it is to admonish the jihad ( fatwa for starting an armed struggle) very easily.
Furthermore, there is no end to the number of men who participate in it with indignation and support it.
In the past, there were many cases that voluntary armies contributed in the world, but the current state of the Middle East is a lawlessness without controlling, and the some groups may be a group of thieves.

 

聖戦(ジハード)について
私達が中東のイスラム教で一番気になる問題はジハードでしょう。

ジハードを唱える過激思想は、穏健なムスリム全体から見れば異常なものです。
しかし、過激思想(厳格派)は歴史上も、現在のサウジアラビアにも生き続けています。
もっとも、他の宗教でも原理主義など偏向した思想は存在します。

何が問題なのでしょうか。
先ず、現在、ジハード(武力闘争開始のファトワー)がいとも簡単に発せられていることです。
さらに、それに義憤を感じて参加する人、また支援する組織が後を絶たないことです。
かつて世界には義勇軍が貢献した例は多々ありますが、中東の現状は統率なしの無法状態で、盗賊団になり下がている場合もある。

 

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<3. Father of liberation of Algeria >
< 3. アルジェリア解放の父 >

Jihad is one of the obligations for Muslim, and means “effort” and “struggle”.
Once, it was declared at a defense of their community and an attack on enemy, and it is something they can’t do without.
However, the current jihads only expand many conflicts and deepen cracks between people.

The problem is not interpretation of the jihad (holy war) or the extremism beliefs.
The essence is “Islamic law can not punish jihad involving violence as a crime”.
Looking back on legal history of the world, most society has been advancing the concept of justice in time with the change, and unifying it in time with the unity of countries.
Then, people has been creating a social system for achieving the justice.
In conclusion, it is necessary to move away from the Islamic law to go to the national law.
In other words, the society has to be controlled by a legal system built by a democratic regime (separation of the three branches of government),
ジハードはムスリムにとって「努力」「奮闘」の意味で義務の一つです。
かつて、共同体の防衛や進攻に際し宣言され、共同体に無くてはならないものでした。
しかし、現状のジハードは紛争を拡大させ、亀裂を深めるだけです。

問題はジハード(聖戦)の解釈や過激思想にあるのではない。
本質は「イスラム法では暴力を伴うジハードを犯罪として処罰出来ない」ことにあると考えます。
世界の法制史を振り返ると、社会は発展と統合に合わせて正義の概念を変え、かつ統一し、それを実現する社会体制を造り挙げて来たのです。

結論を言うと、イスラム法から国法への脱皮、つまり民主的な政体(三権分立)で築かれた法制度に社会を委ねることです。

 

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< 4. Radhabinod Pal >
< 4. パール判事 >

Indian Pearl Judge who advocated Japan’s innocence in the Tokyo Tribunal of War Criminals said as below.

“The law is a dynamic human force that allows to survive our human society”

He said that the law must express “truth” (Hindu law), but to keep the social order, and it is essential that humans continue to improve the law.

There is a possibility that current Islamic legal system(the relationship between Sharia and national law)can not adapt successfully to real society.
Especially as for violence involving people in conflict, it is necessary to apply strict law, and it can’t be said that it is merely the difference of interpretation.
For this purpose, people have got to consolidate the democratic administrative body that has a consistent legislation, judicature, and section getting tough on crime.

This is a secular politics.

However, it may not be necessary to accomplish this at a stroke.
Even in Iran of a Islamic Republic, the status of women is improving.
I think lots of Ulema widely cooperate and should begin from improving application of jihad.

I start another theme from next time.

 

東京裁判で日本無罪論を唱えたインドのパール判事はこう述べています。

「法は人間社会の存続を可能とする動的な人間力である」注釈1.

彼は、法は「真理」(ヒンドゥー法)を表現しなければならないが、社会秩序を保持する為に、人間が法を改善し続けることこそが必要不可欠と言っている。

現在のイスラム圏の法制度、シャリーアと国法の関係は、現実社会に対応出来なくなっている可能性があります。
特に社会を紛争に巻き込む暴力に対しては、厳格な法の適用が必要で、解釈の違いで済まされないのです。
この為には民主的で一貫性のある立法、裁く司法、犯罪を取り締まる行政が整備されなければならない。

これは政教分離と言えるでしょう。

但し、これを一気呵成に成し遂げるこ必要はないかもしれません。
イスラム共和制のイランでさえ、女性の地位は向上しつつある。
広くウラマーが協力し、ジハードの適用から改善していくべきだと思います。
次回からは別のテーマで始めます。

 
注釈1.
この文は1984年の東京裁判研究会からの引用です。
彼はヒンドゥー法を専攻し、インドの法学部教授や裁判所判事、国連国際法委員長を歴任した。
彼の日本無罪論は、日本に戦争や虐殺に対する責任はあるが、法的に侵略罪を問うことが出来ないと言うものです。

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Bring peace to the Middle East! 60: when religions were born 8: concluding section


中東に平和を! 60: 宗教が誕生する時 8: 最後に

 

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*1

Until now, I reviewed the birth of five religions.
We saw how each religion was advancing the division of roles among the politics and law.
This time, it is a summary.

 
今まで、五つの宗教の誕生を概観しました。
各宗教はどのようにして政治や法との住み分けが進んだかを見ました。
今回は、まとめになります。

 

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*2

Summary
What was common in the birth of Judaism, Christianity, Buddhism, Confucianism, Islam?

It can be said that all these religions brought about stability to the society by renewing old religions.
However, the circumstances of the doctrine and religious group were different depending on the religion, society, and politics at the time of the birth.
In a confused society, when existing religion and national system were strong, the religion had a tendency to break away from the precepts and laws like Christianity, Buddhism, and Confucianism.
Development of science (medicine) and thought was indispensable for breaking away from them, but I don’t mention here.
Even though they tended to avoid law and politics at the birth, these religions were adopted by state religion because of their doctrines, and developed greatly.
Eventually they became incorporated into politics.

 
まとめ
ユダヤ教やキリスト教、仏教、儒教、イスラム教の誕生時に共通していたものは何か?

これら宗教はすべて、古い宗教を刷新して社会に安定をもたらしたと言える。
但し、誕生時の宗教や社会、政治の状況により、その教義や教団の有り様は異なった。

混乱している社会にあって、既存の宗教や国家体制が強固な場合、キリスト教や仏教、儒教のように戒律や法から脱皮する傾向にあった。
この脱皮には科学(医学)や思想の発展が不可欠だったが、ここでは触れません。
たとえ誕生時に法と政治を避ける傾向にあっても、これら宗教はその教義ゆえに国教に採用されて大きく発展し、結局は政治に組み込まれていった。

 
I see the difference of these religions about engagement with the politics and law.
Christianity that had the laws and religious precepts basing on the Old Testament had to coexist with Roman Law due to it was nearing completion already from the beginning.
Even powerful religious group had been withdrawing from politics due to a power struggle between pope and emperor in the 12th century at the beginning, next undergoing religious reform, and the separation of religion from politics in the French Revolution of the 18th century at last.

Since Buddhism and Confucianism originally denied the law ruling society and the rule of God, after having become state religion, they treated only religious precepts and rituals, and did not interfere with politics and law.

ここで宗教毎の政治と法との関わりの違いを見ておきます。
キリスト教は旧約聖書に基づく戒律や法を発展させていたが、既に完成域にあったローマ法と初期から共存していくことになった。
さすがの強力な教団も社会の発展に伴って、12世紀の教皇と皇帝の権力争い(叙任権闘争)に始まり、宗教改革を経て、18世紀のフランス革命での政教分離により、政治から撤退せざるを得なかった。

仏教と儒教は、元々、社会を治める法や神による支配を否定していたので、国教になった後、祭儀や戒律だけを扱い、政治と法整備に干渉しなかった。

On the other hand, even in the same confused society, when a solidarity and unity of the society became top priority due to existing religions or social systems were immature, the religious precepts and norms were emphasized like Judaism and Islam.
Therefore, both religions developed together with these newborn states from the birth.
That is to say, religion, politics and laws were united.
Hinduism was also close to it.

However, there was a difference in the subsequent development.
The Palestine that was rebuild at the same time as the birth of Judaism was ruined at the 1st century A.D.
The Jews that scattered around the world had lived in a small closed group, so they never participated in the politics and laws of the country themselves.
But, currently it has changed in the United States and Israel.

一方、同じ混乱している社会にあっても、既存宗教や社会体制が未成熟な場合、団結や社会の統一が最優先になった場合、ユダヤ教やイスラム教のように戒律や規範を重視することになった。
したがって両宗教は、その誕生時から新生国家と一体となって発展した。
つまり宗教と政治、法が一体でした。
ヒンドゥー教もこれに近い。

しかし、その後の展開には差があった。
ユダヤ教の誕生と共に再建されたパレスチナの国は紀元後滅亡した。
世界に散らばったユダヤ人は小さな閉鎖的な集団で暮らしたので、自ら国の政治や法と関わることはなかった。
現在、それは米国やイスラエルで様変わりした。

 
Meanwhile, the Islamic empire that continued to expand the area broke up in the 9th century, and several caliphs came to have comparable power to each other.
Furthermore, the real power of politics changed from caliph to monarch (sultan, emir), and Muslim lost original supreme leader (caliph).
However, the role of the religious law (Sharia) continues to live by the Koran and the Islamic community.

 
At the end
Something I wanted to indicate in this chapter “when religions were born” is that each religion is reviving the social circumstances of about 2000 years ago, as the religion had played a role in the birth.

Next time, I consider about the relationship between contemporary religion and politics.
一方、領域を拡大し続けたイスラム帝国も9世紀には分裂し、複数のカリフが鼎立するようになった。
さらにカリフから政治の実権は君主(スルタン、アミール)に移り、イスラム教は本来の最高指導者(カリフ)を失った。
しかし、コーランとイスラム共同体によって宗教法(シャーリア)の役割は生き続けている。

 
最後に
私がこの章「宗教が誕生する時」で示したかったことは、宗教は誕生時の役割を担ったことにより、逆に約2000年前の社会を蘇らせることです。

 
次回は、現代の宗教と政治の関係について考えます。

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Bring peace to the Middle East! 59: when religions were born 7: Islam 2


中東に平和を! 59: 宗教が誕生する時 7: イスラム教 2

 

1
*1

I again investigate the birth of Islam.

前回に続いて、イスラム教の誕生を追います。

 

2

< 2. oasis town >
< 2. オアシス都市 >

What Muhammad indicated
Since immigrating to the Medina, he reigned as a religious leader, a commander of the military, and a policymaker of the town.
He was acknowledged by many people and tribes as a superior commander through a distribution of loot and a release of slaves, and also as a prophet who appeared in Arabia.
He thoroughly fought against antagonistic tribes, behaved generously to obedient tribes, and eventually created a solid empire tied by faith.
As a result of this, a peace came to the peninsula where was constantly at war.

ムハンマドが示したもの
彼はメディナへの移住以降、宗教指導者、軍の司令官、また町の為政者として君臨した。
彼は戦利品の分配や奴隷の解放などによって、優れた統率者として、またアラビアに出現した預言者として多くの人々と部族から認められた。
彼は、対立する部族には徹底抗戦し、従う部族には寛大に接し、やがて信仰で結ばれた強固な帝国を作り上げた。
これによって抗争が絶えなかった半島に平安が訪れた。

God’s revelation lasted until his later years, and because he was illiterate, the revelation was handed down orally by his disciples.
The Koran was compiled at 20 years after his death.
Hadith is an important book next to the Koran.
This was a book that Muhammad’s words and actions handed down and was compiled from around the 9th century.

神の啓示は彼の晩年まで続き、彼は文盲であった為、啓示は弟子たちの口頭により伝承された。
コーランは彼の死後20年経ってから編纂された。
コーランに次ぐ重要な書物としてハディースがある。
これはムハンマドの言葉や行動が伝承されたもので、9世紀頃から編纂された。

 

3-2

< 3. Film “Lawrence of Arabia” >
< 3.映画「アラビアのロレンス」 >

Point of the doctrine
Muhammad himself said I am not God but the last prophet.
Islam had received the same God Allah as Christianity and Judaism.
But he said the revelation was given to Muhammad because the above religions had made a mistake.
In these three monotheism doctrines, there are many similarities such as “resurrection”, “prohibition of idolatry”, “angel” and so on, and Islam is similar to Judaism in “pork evasion” and “emphasis on precepts”.
The duty of Muslims is Aqidah and Five Pillars, and well-known faith, prayer, Charity, fasting, pilgrimage to Mecca are the Five Pillars.

教義のポイント
ムハンマド自身が、私は神では無く最後の預言者と言っている。
またイスラム教はキリスト教とユダヤ教と同じ唯一神アッラーを戴くが、前述の宗教は間違いを犯しているのでムハンマドに啓示が下ったのだとする。
これら三つの一神教の教義には「復活」「偶像崇拝禁止」「天使」などの共通点も多く、イスラム教は「豚肉忌避」「戒律重視」でユダヤ教と似ている。
イスラム教徒の義務は六信五行で、よく知られている信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼が五行にあたる。

 

4
< 4. Islamic prayer >
< 4. イスラムの礼拝 >

Point of the Islam
Muslims have very large numbers of laws and norms, not just their obligations to God, and then their scope of application extends to every detail of life situations, marriage, heritage, trade, punishment, trial and so on.
Many of them, such as “Jihad”, “polygamy system”, “ban of interest” and so on, were effective for rule the chaos in the 6th century.

イスラム教のポイント
イスラム教には法と規範が非常に多く、神への義務だけでなく、その適用範囲はあらゆる生活場面、結婚、遺産、交易、刑罰、裁判などの細部に至る。
そこにある「聖戦」「一夫多妻制」「利息禁止」などは、多くが6世紀の乱世を治めるには効果を発揮したものでした。

The law of early Islamic community was only the Islamic law (Sharia).
Besides the Koran and Hadith, laws were added daily by the agreement of the community and Islamic scholars (Ulama).
There is also an admonition (Fatwa) by Ulama.
Currently it is used in conjunction with the law of the country.

In the early Muslimic country, the calipf (leader) who took over Muhammad had the highest authority of the religion.
Before long, the monarch (Sultan) became to grasp the real power of politics and religion.
The characteristic of the Islamic society is basically that there is no full-time religious worker and does not have a hierarchical governance structure.
This is based on the principle that Muslims are all equal, and it is still being.
There are educational institutions (universities) such as Islamic law scholars.

This continues to the next.

 
初期のイスラム共同体の法はイスラム法(シャリーア)のみでした。
それはコーランやハディーズ以外に、共同体やイスラム法学者(ウラマー)の合意によって日々、法は追加されていった。
またウラマーによる勧告(ファトワー)も行われている。
現在は国家の法と併用されている。

初期のイスラム国家ではムハンマドを引き継いだカリフ(指導者)が宗教の最高権威者であった。
やがて君主(スルタン)が政治と宗教の実権を握るようになっていった。

イスラム社会の特徴は、基本的に専従の宗教従事者がなく、階層的な支配構造を有していないことです。
これはムスリマはすべて平等であるという原則によるもので現在も貫かれている。
尚、イスラム法学者などの教育機関(大学)は存在します。
次回に続きます。

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Bring peace to the Middle East! 58: when religions were born 6: Islam 1


中東に平和を! 58: 宗教が誕生する時 6: イスラム教 1

 

1
< 1. the Kaaba in Mecca >
< 1. メッカのカーバ神殿 >

I investigate the birth of Islam in twice.

二回に分けて、イスラム教の誕生を追います。

 

2b

< 2. Three trade routes >
< 2. 三つの交易ルート >

 
The age when Muhammad (around 570 – 632) was born
Two ancient civilizations were born in the Middle East, but the desert Arabian Peninsula was out of the area.
Country began to be born in the southwest and northern parts of the peninsula since about A.D., and several countries had contested there in about the 3 rd century.
Cities were born in plateaus and oases, camel caravans in the desert were responsible for trade, and caravan cities were made in the routes.
Nomads who were living in tents made tribal societies, sometimes joined hands and at other times separated from others, and repeatedly had fought.
There were three routes of east-west trade on the Peninsula, two sea routes going through the Persian Gulf (blue line) and the Red Sea (red line), and a land route (brown line) parallel to the Red Sea.
Mecca where Muhammad was born was one of the caravan cities in this land route.

 

ムハンマド(570頃―632年)が生まれた時代
二つの古代文明が中東で誕生していたが、砂漠のアラビア半島は園外だった。
紀元前後から半島の西南端と北部に国が誕生し始め、3世紀頃になると数ヵ国が分立するようになった。
高原やオアシスには都市が生まれ、砂漠ではラクダの隊商が交易を担い、隊商都市も出来た。
天幕で暮らす遊牧民は部族社会を造り、離散集合を繰り返し抗争していた。
半島には三本の東西交易のルートとしてペルシャ湾(青線)と紅海(赤線)を行く海上ルート、それに紅海に並行した陸上ルート(茶線)があった。
ムハンマドが生まれたメッカはこの陸上ルートの隊商都市の一つだった。

 

The Persia and the Byzantine Empire of the two great empires were fighting each other, it began to influence the whole peninsula since about the 4th century.
With this, civilization and the sophistication of weapons advanced throughout the peninsula.
On the other hand, when the Persia and the Byzantine Empire entered a peace treaty in the second half of the sixth century, the main trade route became the Persian Gulf, the caravan cities of the land route declined, the nomadic population increased in reverse, and the conflict intensified.
This is “Jahiliyyah” in Islam.
However, in the beginning of the 7th century, when both empires began war, trade route returned to the land route.

 
4世紀頃から、二大帝国のペルシャとビザンチンは互いに争いながら半島全域まで影響を及ぼし始めた。
これにより半島全体に文明化と武器の高度化が進んだ。
一方、ペルシャとビザンチンが6世紀後半に平和条約を結ぶと、交易ルートはペルシャ湾が主になり、陸上ルートの隊商都市が衰退し、遊牧民が増大し、抗争が激化することになった。
これがイスラムで言う「無明時代」です。
しかし、7世紀始め、両帝国が戦争を始めるとまた陸上ルートに交易が戻った。

At that time, the north-south ethnic groups of the peninsula deepened exchanges and had Arabic of common language.
In the peninsula, there was a polytheism of idolatry, but Christianity propagation progressed by the influence of the two great empires.
Judaism also had spread by Diaspora Jewry, and many Jews had lived in Medina.
In Mecca, there was the Kaaba that many statues were enshrined since a long time ago.

当時、半島の南北の民族は交流を深め、共通語のアラビア語を持つようになっていた。
半島には偶像崇拝の多神教があったが、二大帝国の影響によりキリスト教の布教が進んでいた。
また離散民によってユダヤ教も広まり、メディナには多くのユダヤ教徒が住んでいた。
メッカには古くから多くの像を祭った多神教のカーバ神殿があった。

 

 

3a

< 3. Muhammad in Medina >
< 3. メディナのムハンマド >

The act of the Muhammad
He was born as a member of a large tribe of Mecca, was married and had succeeded in commerce trading, but suddenly, heard the revelation of Allah of the one God at about the age of 40.
Because he preached this, made a group of believers, and accused the idolatry of the Kaaba, they were persecuted by ruler class in Mecca.
However, people of the Medina impressed with his doctrine asked him to save mess of the town.
Then, he moved to the Medina with his believers and family (Hijra).
Before long, he conflicted with Jewish in the Medina about ritual, defeated them in battle, and completed a strong Islamic community “Ummah”.
Then he won the fight against Mecca’s army corps.
He died shortly after dominating Mecca, but already the Islam had spread throughout the Arabian Peninsula.

This continues the next time.

 
ムハンマドの行い
彼はメッカの大部族の一員として生まれ、結婚し隊商交易で成功していたが、40歳頃、突如、唯一神アッラーの啓示を聞いた。
彼はこれを説いて信徒集団を作り、カーバ神殿の偶像崇拝を非難した為、彼らはメッカの支配層から迫害を受けた。
彼の教説に感銘を受けたメディナの人々が、彼に町の混乱を救って欲しいと要請した。
彼は信徒達や家族と共にメディナに移り住んだ(ヒジュラ)。
やがて、彼はメディナのユダヤ教徒と儀礼で対立し、これを戦闘で破り、強固なイスラム共同体「ウンマ」を完成させた。
次いでメッカの軍団との戦いに勝利した。
彼はメッカを支配後、まもなく死去したが、すでにイスラムはアラビア半島の全土に及んでいた。

次回に続きます。

 

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Bring peace to the Middle East! 57: when religions were born 5: Confucianism


中東に平和を! 57: 宗教が誕生する時 5: 儒教

 

1

<1. Confucius>
< 1. 孔子 >

This time, I investigate the birth of Confucianism.

今回は儒教の誕生を追います。

 

The times when Confucius was born
A first Chinese dynasty was born in the 17th century B.C., but it was divided in approximately 200 countries since the 8th century B.C., and the unification of a country was completed after wars for 500 years.
Since the middle period, the farming had advanced by ironware and the trade had developed, and many city states grew up.
At that time, the wars among nations and the internal trouble of royal families continued, and it occurred frequently that a person of lower rank overthrew a superior either politically or militarily, and then supplanted the superior’s position in society.
On the other hand, the royalty and the aristocracy employed a talented and wise person than a blood relative and tried to get predominance .
Under such circumstances, various thinker groups “The Various Masters of the 100 Schools” having an independent opinion were born.
Most of them serve the royalty and the aristocracy, and proposed a policy and an stratagem.
The Confucius was born in such situation in China in the sixth century B.C.

 
孔子が生まれた時代
中国の最初の王朝は黄河中流域に紀元前17世紀に生まれていたが、紀元前8世紀には二百カ国ほどに分裂し、五百年間の戦争を経て統一に至る。
この中期頃から、鉄器による農耕と交易が進み、都市国家は成長していった。
国家間の戦争と王家の内紛は絶えることなく、下位の者が上位の者を脅かす下剋上がはびこっていた。
一方で、王侯貴族は血縁よりも才能や知恵ある者を採用し強勢を計るようになった。
こうした中、独自の主張を持つ多様な思想家集団「諸子百家」が生まれた。
彼らの多くは王侯貴族に仕官し政策や術策を提言した。
このような紀元前6世紀に孔子は生まれた。

 

2

< 2. The Confucius traveling on foot >
< 2. 孔子の遊説行脚 >

The act of the Confucius
He worked his way through school, served a historic state ”Lu”and became a prime minister.
However, he was balked of his hope and opened a private school to common people.
After that, he visited states in each places with disciples, preached his ideal politics, and requested to get into the government service.
After all, he couldn’t realize his dream, came back to his hometown, and devoted myself to organize old documents that had been handed down to the state, and to educate people.

 
孔子の行い
孔子は苦学して由緒ある王家(魯)に仕え、宰相まで登りつめた。
しかし、彼は夢破れ職を辞し、民衆相手に私塾を開いた。
その後、弟子達と共に各地の王家を訪ね、理想の政治を説いて回り、仕官を願った。
結局、夢叶わず故郷に戻り、王家に伝わる古文献の整理と教育に専念した。

 
Afterwards
After the death of Confucius, his teaching was spread out by disciples, it was as popular to common people as Bokka at that time.
Bokka advocated a love of humanity, pacifism, faith, and a simplification of rites
, and conflicted with a scholar of Confucianism, after that it was ruined.
The Confucianism became the state religion of the Han empire in the second century B.C., and existed as an indispensable for the most of governments afterwards.
It was introduced into Korean Peninsula and Japan before long, and the Confucianism took root in the East Asia as morality to keeping social order.
Sacred books of Confucianism(the Four Books and Five Classics of Confucianism) consisted about old documents on the history and formality of the states that Confucius imitated.
“The Analects of Confucius” is one of the sacred books, and is a book that his disciples wrote down the words and acts of Confucius in.
Mental attitude and how to get along in life are written in the book.

 
その後
孔子の死後、その教えは弟子達によって広まり、民衆の人気を墨家と二分した。
墨家は人類愛、戦争反対、信心、祭儀の簡素化を訴え儒家と対立し、後に滅んだ。

紀元前2世紀、儒教は漢帝国の国教となり、その後も国政に不可欠なものとして存続した。
やがて朝鮮半島や日本に伝わり、儒教は東アジアに社会秩序をもたらす道徳として定着した。

儒教の経典(四書五経)は孔子が模範とした王家の歴史や儀礼や易(占い)の古文献が集められたものです。
論語ものその一つで、弟子達が孔子の問答や言行を記したものです。
そこには心構えや処世術が書かれている。

 

3

< 3. a Confucian temple >
< 3. 孔子廟 >

Thought of the Confucius
He thought policymakers must become better to end the turbulent age.
Therefore, he said it was important that the policymaker doesn’t depend on strict penalty and machinations, treats people with a good heart, and must be worshiped by people.
He thought that the model for this is a dynasty ” Zhou ” approximately 500 years ago.

The basics are “Ren” and “Li”.
“Ren” means benevolence or humaneness, and then it was necessary that policymakers seek after virtue and common people have morals.
“Li” means formality or rites, and then it aimed at the succession of the social order (patriarchy, ancestor worship).

He reproved that disciples depended on God, on the other hand, he thought succeeding to the rites make sense.
He didn’t deny royal politics, avoided religious things, advocated the revival of traditional mind and norm daringly in the turbulent age.

 
孔子の思想
彼は、この戦乱の世を終わらせるには為政者が良くならなければならないと考えた。
その為には、為政者は厳格な罰則や謀略に頼るのではなく、善良な心で民に接し、民から敬われることが重要とした。
その手本は、五百年ほど前の周王朝にあるとした。

基本は「仁」と「礼」です。
「仁」とは、自己抑制と思いやりを指し、為政者には「徳」、民には「道徳」を求めた。
「礼」とは、礼儀や祭儀を指し、社会秩序(家父長制、祖先崇拝)の継承を目指した。

彼は、弟子に神を頼ることをたしなめたが、一方で、祭儀を守ることは天の意志に叶うとした。
彼は王家を否定せず、宗教的なものを避け、戦乱の世に敢えて伝統的な精神と規範の復活を訴えた。

 

Point of the Confucianism
Confucius disfavored the politics that puts emphasis on law of punishment and reward, and put emphasis on conscience.
On the other hand, he thought that policymaker (king) with virtue was indispensable for good politics.
This thought was not accepted in the times of the war, but the situation changed when a unified country appeared.
In other words, the doctrine that taught people to have to obey morality, succession of social order, and politics (King), administered to national stability rightly.

This continues the next time.

 
儒教のポイント
孔子は、人々を功利的にさせる法重視(信賞必罰)の政治を嫌い、良心を重視した。
一方で、良い政治には徳を持った王こそが不可欠と考えた。
この考えは、戦乱の時代には受け入れられなかったが、統一国家が出現すると状況は変わった。
つまり、人々に道徳や社会秩序の継承、政治(王)に従うべきと説く教義は、国家の安定にまさに合致するものでした。

 
次回に続く。

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Bring peace to the Middle East! 56: when religions were born 4: Buddhism


中東に平和を! 56: 宗教が誕生する時 4: 仏教 

 

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< 1. A Buddha statue >
< 1.仏像 >

This time, I investigate the birth of Buddhism.

今回は仏教の誕生を追います。

 

The times when Buddha was born
The Indian ancient civilization was born in the Indus basin, but already ruined.
Afterwards, Aryan invaded from the Central Asia, settled down in the upper and middle basin of the Ganges River as they were ruling over the indigenous people.
Then they developed abundant festival, myth, and paean in the last 1000 years and created Brahmanism.
The Brahmanism took root from royal families to every villages
Royal families repeated luxurious festivals, Brahman (priest) made the doctrine and the proceeding of the religious service an absolute secrecy (oral transmission of tales), and their authority exceeded lords occasionally.

A lot of critical freethinkers appeared since about the seventh century B.C., and Buddha played an active part in about the fifth century B.C.
The farming evolved in this area by ironware these days, and trade also developed.
And tribal societies evolved into city states, and a large number of the nations competed for hegemony and repeated war.
A kingdom of Buddha’s father became a prey of a great power, and died out.

 
釈迦が生まれた時代
インドの古代文明はインダス河流域に生まれたが既に廃れていた。
その後、アーリア人が中央アジアから侵入し先住民を支配しながらガンジス河の上中流域へと定住した。
彼らはそれから千年の間に豊富な祭儀と神話、賛歌を発展させ、バラモン教を生み出した。
バラモン教は村々から王家まで根を下ろしていた。
王家は贅沢な祭儀を繰り返し、バラモン(僧)は教義や祭祀手順を極秘(口頭伝承)にし、彼らの権威は王侯を凌ぐこともあった。

紀元前7世紀頃から、批判的な自由思想家が多数出現し、釈迦は紀元前5世紀頃に活躍した。
この頃、この地域は鉄器により農耕が進み、また交易も発展していた。
そして部族社会から都市国家へと進み、多数の国家が覇権を競って戦争を繰り返していた。
釈迦の父の王国も強国の餌食になり滅んだ。

 

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< 2. Festival >
< 2. 祭儀 >

 
The act of Buddha
Buddha was a prince of the small country of the north India, but he threw all things away, and took off on a journey of contemplation.
After getting the enlightenment, he organized a group of live-in followers (samgha), went around villages together and missionized.
In the end, he died surrounded by the followers at 80 years old.

Buddha tried to preach it easily without using difficult concepts that had spread in those days, and was unrelated to the miracle. Annotation 1
He refused the festival-centered Brahmanism, and preached to people about “Realize a truth”.
For example, it is to realize “Life is pain” and “obsession and greed bring suffering”.
He said that the people could acquire it by experiencing simple life and doing righteous deed, without doing ascetic practices.
Therefore he established religious precepts necessary for the life of live-in followers.

釈迦の行い
釈迦は北インドの小国の皇子であったが、すべてを捨て思索の旅に出た。
彼は悟りを得た後は出家集団(サンガ)を作り村々を巡って伝道し、弟子たちに囲まれて80歳で死去した。

釈迦は、当時流布していた難解な観念を用いず平易に説くことを心掛け、奇跡とも無縁でした。注釈1
彼は祭儀中心のバラモン教を拒否し、人々に「真理を悟る」ことを説いた。
例えば、それは「人生は苦である」「執着や我欲が苦しみをもたらす」を知ることです。
これを苦行ではなく、人々は質素な生活と正しい行いを通して体得出来るとした。
その為に、出家集団の生活に必要な戒律を定めた。

Afterwards
After Buddha died, the teaching was handed down by the disciples, and the sacred books were codified the several hundred years later.
Many kingdoms protected the Buddhism, and in addition, performed the enlightenment.
Thanks to it, the religious community developed, but it became specialized, split up and came to stay away from the people.
On the other hand, many graves (stupa) which enshrined ashes of Buddha were constructed in many places, and a lot of believers began to visit.
Buddha statues were born there since about the first century A.D., and the believers began to make the sacred books of Mahayana Buddhism in plenty.
Thing they wished was to get the saving grace by worshiping the Buddha as a god and praying even if they remained in lay believers.

After that, the Buddhism was at the height of the prosperity, spread to the Southeast Asia, and spread from the Central Asia to the East Asia.
On the other hand, the Brahmanism began to change to Hinduism being close to the people.

 
その後
釈迦入滅後、教えは弟子たちにより語り継がれ、数百年後に経典が成文化された。
多くの王国は仏教を保護し教化も行った。
おかげで教団は発展していったが、専門化し分裂し民衆から離れていった。

一方、釈迦の遺骨を祀る墳墓(ストゥーパ)が各地にたくさん作られ、信者らが多数訪れるようになっていた。
紀元1世紀頃、そこから仏像が誕生すると共に大乗仏教の経典が信者によって多数作られ始めた。
それらが目指したものは、釈迦を仏(神)と崇め、祈ることで在家のままでも救いが得られると言うものでした。

この後、仏教はインドで全盛期を迎え、東南アジアや中央アジアから東アジアへと広まっていった。
一方、バラモン教は民衆に密着したヒンドゥー教へと変容していった。

 

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< 3. A big grave (stupa) >
< 3. 墳墓(ストゥーパ) >

Point of the Buddhism
Buddha was negative about autocratic kingdoms, and also about economic activities being likely to become greed.
In addition, he was unrelated to Savior and God.
Therefore, at first, the Buddhism was far from the politics, but kingdoms protected the Buddhism for helping of social stability, and the religious community received favors, too.
It would not conflict with the national law, because the law established by Buddha was a religious precept of the group of live-in followers, only encouraged simple life and did not establish penal regulations.

Probably, the Buddhism was received by many nations by the condition and the popularity of it, and would have developed into a world religion.

This continues the next time.

 
仏教のポイント
釈迦は横暴な王国や私欲に走る経済活動に否定的であった。
また救世主や天上の神とも無縁であった。
したがって政治から離れていた仏教だが、王国は社会の安定に繋がるとして仏教を擁護し、教団も恩恵を受けた。
釈迦が定めた法は出家集団の戒律であり、質素な生活を奨励し、罰則を定めなかったので、国家の法とは抵触することがなかっただろう。

おそらくこの事と大乗仏教の人気が、多くの国家に受容され世界宗教へと発展することになったのだろう。

 
次回に続きます。

 
注釈1.
当時のインド哲学(ヴェーダ)は、宇宙原理(ブラフマンとアートマン)で世界の根本を説明出来るとし、これから梵我一如(ブラフマンとアートマンは同一)の思想が生まれていた。

また、輪廻転生(人は前世の因果を受けて生まれてくる)の観念が定着していた。
この観念はインドの自然風土に背景を持つが、バラモンによって階級差別を合理化するために一層強化された。
これは人々に恐怖であって、この無限のサイクルから脱する為に解脱を望んだ。

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Bring peace to the Middle East! 55: when religions were born 3: Christianity


中東に平和を! 55: 宗教が誕生する時 3: キリスト教

 

1

< 1. Jesus carrying a cross on his back >
< 1.十字架を背負うイエス >

This time, I investigate the birth of Christianity.

今回はキリスト教の誕生を追います。

 

The times when Jesus was born
Foreign rulers, Alexander the Great and the Roman Empire respected Judaism, and it was able to remain.
In fact, it was in name only.
The priests in the temple were connected to royalty and titled nobility, cooperated with the Rome Empire, and pushed forward Hellenization.
On the other hand, a religious community aimed to back to the source and advocated an emphasis on the Low, and they strongly opposed the former.

In addition to this opposition, a dissatisfaction toward a rule of the Rome and an expanding disparity in wealth blew up, and Palestine in the first century entered the period of war.
Radical religious communities and independent factions rose in arms, and robber bands came to frequently appear in each place.
In addition, a lot of persons who represented themselves as a savior in each place appeared.

 
イエスが生まれた時代
異国の支配者、アレクサンダー大王もローマ帝国もユダヤ教に敬意を表し、ユダヤ教は存続出来た。
だが、その内実は形骸化していた。
神殿の祭司達は王侯貴族と繋がり、ローマに協力しギリシャ化を進めた。
それに対して原点回帰を目指し、律法重視を訴える教団などが勃興し強く対立した。

この対立に加えて、ローマの支配、貧富の差拡大への不満が爆発し、紀元1世紀のパレスチナは争乱へと突き進んだ。
過激な教団や独立派が武装蜂起し、各地で盗賊団も跋扈するようになった。
また各地で救世主を自称する者が多数出現した。

 

2

< 2. People in the fort of Masada died a heroic death >
< 2. 壮絶な最期を遂げたマサダの砦 >

 

In 66 A.D., the Jewish radicals caused a riot, and the revolt spread through the whole land.
The Roman forces devoted so many troops to it and exterminated the rebel army and destroyed the Jerusalem thoroughly.
At last, the Jewish people was ousted from the Palestine, and completely lost their own country.
The Judaism could escape from the ban of their religion, but came to be not able to operate in the Jerusalem.

 

紀元66年、ユダヤの過激派が暴動を起こし、反乱は全土に広がった。
ローマ軍は大軍を投じて反乱軍を殲滅しエルサレムを徹底的に破壊した。
ついにユダヤ民族はパレスチナから追放され、完全に国を失った。
ユダヤ教は禁教を逃れたが、エルサレムで活動が出来なくなった。

 
The act of Jesus
Jesus strictly criticized the priests and corruption of the temple and objected to the emphasis on the Low of the reformist.
He went around to teach and preach for two years and got ardent believers and the Apostles.
I think he did not deny the Judaism but appealed the reform.

However, the priests and authorities regarded the Jesus as dangerous, and executed him.

 

イエスの行い
イエスはユダヤ教の祭司や神殿の腐敗を厳しく非難し、また改革派の律法重視にも反対した。
彼は2年間ほど民衆に宣教して回り、熱烈な信者や使徒を得た。
彼はユダヤ教を否定したのではなく、改革を訴えたのだと思う。
しかし、ユダヤ教の祭司と権力者層はイエスを危険視し処刑した。

 

%ef%bc%93

< 3. apostle Paul >
< 3. 使徒パウロ >

 
Afterwards
After the death of Jesus, the teaching expanded to the west by the activity of the Apostles.
Apostle Paul claimed that a revival of the Jesus would soon happen while he had promoted the propagation to pagans.
He said that the subordination to an emperor did not contradict your faith in the one God.
His activity and guidance became a cornerstone which developed Christianity into a world religion.

After intense oppression, in A.D. 313, the Roman Empire assumed the Christianity the state religion.

 
その後
イエスの死後、使徒などの活躍によって教えは西方に広まった。
使徒パウロは、異教徒への布教を推し進める中で、イエスの復活が近いうちに起こると訴えた。
彼はまた唯一神への信仰と皇帝への従属は矛盾しないとした。
彼の活躍と先導がキリスト教を世界宗教へと発展させる礎となった。

激しい弾圧の後、ローマ帝国は紀元313年にキリスト教を国教とした。

 
Birth of the Bible
After the half of a century when Jesus died, the New Testament was made by the letters of Apostles that were edited to convey the words and acts and the teaching of the Jesus.
The Old Testament took a role of a prophecy that Jesus is a savior.

 
聖書の誕生
新約聖書は、イエスの死後半世紀を経て、イエスの言行と教えを伝える為に使途達の手紙などが編纂され誕生した。
旧約聖書はイエスが救世主だとする預言書の役割を担うことになった。

 
Point of the Christianity
The most epoch-making doctrine seems to be “Repent” and “Love neighbors”.
This means that the important point moved to “mind” of each person from “law” imposed on the person.
This viewpoint was common among religions and thoughts that was born in the world around 500 B.C., such as Confucianism, Buddhism, and Greek philosophy.
The Christianity had been affected by the Greek thought from the early days to the Middle Ages.
During the process of Christianity’s developing in Rome, Christianity compromised with the emperor (politics), but the Pope had almost separated from the emperor.
The Christianity had law, but the Rome already had developed the state law, and the both laws were applied at the same time, too.

This continues the next time.

 
キリスト教のポイント
この教義で画期的なのは「悔い改め」や「隣人を愛せよ」でしょう。
これは、課せられた「律法」から、各自の「心」に重点が移ったことを意味します。
この視点は、儒教、仏教、ギリシャ哲学などのように紀元前500年頃に世界で誕生した宗教や思想に共通するものでした。
キリスト教は初期から中世までギリシャ思想の影響を受けた。

キリスト教はローマで発展する過程で皇帝(政治)と妥協していくことになったが、概ね教皇と皇帝とは分立した。
キリスト教も法を有したが、既にローマは独自に法を発展させており、これも並立することになる。

 

次回に続く。

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Bring peace to the Middle East! 54: when religions were born 2: Judaism


中東に平和を!54: 宗教が誕生する時 2: ユダヤ教

 

1
< 1. A miracle of Moses >
< 1. モーセの海割り >

This time, I investigate the birth of Judaism and after that time.
This is the oldest one among those five religions.

 

今回はユダヤ教誕生とその後を追います。
これは5つの宗教の中では最も古いものです。

 
Preface
The origin of the Jewish people lies in that various tribes had drifted to the ground of Palestine from each place of the Middle East and they gained their permanent residency after fights.
It was about the thirteenth century B.C.
This area was one of the oldest birthplaces of agriculture, had received the benefit of both civilization of Egypt and Mesopotamia, and a sophisticated culture grew up here.
However, the Jewish kingdom was on an only pathway between the both large kingdoms, therefore a alliance with one kingdom meant an attack from the other one, and the Jewish kingdom was subject to destruction and aggression many times.
In this occasion, many prophets appeared and sounded a note of warning to the Jewish people.
They severely criticized politics of King and an irreligion of people, and prognosticated the kingdom would perish before long

 
はじまり
ユダヤ民族の起源は、様々な部族が中東各地からパレスチナの地に流れ着き、戦いの末に定住を勝ち取ったことに始まる。
それは紀元前13世紀頃のことでした。
この地は、最古の農耕発祥地の一つであり、エジプトとメソポタミアの両文明の恩恵を受けて高い文化が育っていた。
しかし、ユダヤの国は両大国に挟まれた通り道にあたり、一方との同盟は他方からの攻撃を意味し、幾度も破壊と侵略を被った。
こんな折、幾多の預言者達が出現し、ユダヤ民族に警鐘を鳴らした。
彼らは王の政策と民の無信仰を痛烈に批判し、やがて国は滅亡するであろうと予言した。

 

2
< 2. the Babylonian Captivity >
< 2. バビロンの捕囚 >

 
Turning point
A decisive misfortune befell them before long.
Powerful Assyria invaded and destroyed Jerusalem, and took the upper crust away to Baghdad.
However, in the sixth century B.C., an emperor of Persia of the new ruler absolved them, returned them to the Jerusalem, and permitted the rebuilding of a former Solomon shrine.
Their country Jerusalem became a small and waste vassal state that can’t compare with the large empire of ex-Solomon.

The people thought that the national ruin was because of the anger of God, and should obey God.
The persons that took the central role in the rebuilding were compiling sacred texts that involved religious precepts and teachings since before 1,000 years B.C. as the oldest thing, and almost finished editing of the Old Testament in the third century B.C.
As a result of this, they may have wished to get the saving grace of God and the strong solidarity.

At the time of the rebuilding, there were the Jews who came back to Jerusalem, but on the other hand, there were the Jews that organized communities in each place of the Middle East, played an active part with using the accumulation of the high culture.

 
転機
やがて決定的な災厄が降りかかった。
強大なアッシリアが侵略し、エルサレムを破壊の後、ユダヤの上流階層をバクダットへと捕囚した。
しかし紀元前6世紀、新たな支配者のペルシア王が彼らを解放のうえ、エルサレムに戻し、かつてのソロモン神殿の再建を許した。
彼らの国土はかつてのソロモンの大帝国とは比べものにならないほど小さな荒れ果てた属州エルサレムだけになった。

人々は、亡国は神の怒りのせいであり、神に服従すべきと考えた。
再建を担った人々は、最古のものでは紀元前1千年前の戒律や教えを加え、紀元前3世紀には旧約聖書の編纂をほぼ終えた。
これによって彼らは神の御加護と強固な団結を得られることを望んだのだろう。

再建時、エルサレムに戻ったユダヤ人もいたが、中東各地に共同体を造り、高い文化の蓄積を生かして活躍する人々もいた。

 

3
< 3. The rebuilding of Solomon shrine >
< 3. 神殿の再建 >

 

Point of the Judaism
This religion give greater importance to religious precepts in comparison with other religion.
It included law of early city-state period of Mesopotamia from their tribal rules.

What was entrusted by the people at the birth of this religion was to found a strong country by Jewish people, and it was natural that the religion identified with the law of their country.
To prevent the national ruin, they felt need for an unquestioning obedience to God, and it was to obey the religious precepts God gave.

 
ユダヤ教のポイント
他の宗教と比べ、最も戒律が重視されている。
それは部族の掟からメソポタミアの都市国家期の法までを含んでいた。

この宗教の誕生期に託されたのは、ユダヤ民族による強固な国造りであって、国の統治(法)と宗教は一体が当然だった。
彼らは、亡国を招かない為には神への絶対服従、つまり神の与えた戒律に絶対服従することだった。

 

Afterwards
It lasted approximately 200 years when they were devoting themselves to the rebuilding although being a small country, and it was in the peaceful times.
However, Alexander the Great invaded in the 4th century B.C., and maelstrom of war lasted by the later internal trouble.
The Jew again built their kingdom in the second century B.C., but it became a vassal state since an invasion of the Roman Empire in 63 B.C.
During this time, the continuation of Judaism was forgiven, and the high priest continued to have the religious authority.

However, the misgovernment of the foreign rulers and a lack of understanding about Jewish culture continued.
Thus, the Jewish antipathy increased, resistance movements rose up in each place and it was sitting on a time bomb.

The next time is about Christianity.

 
その後
小さいながらも再建に専念した平和な時代は200年ほど続いた。
しかし紀元前4世紀のアレクサンダー大王の進攻、その後の内紛で戦火は続いた。
紀元前2世紀には、ユダヤ人は王国を築いたが、紀元前63年のローマ帝国の侵攻後、一属国となり果てた。
この間も、ユダヤ教は存続を許され、大祭司が宗教的権威を持ち続けた。

しかし、異国の統治者の失政やユダヤ文化への無理解が続き、ユダヤ人の反感は募り、各地で抵抗運動が起きて、一触即発の状態になっていた。

 
次回はキリスト教です。

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Bring peace to the Middle East! 53: when religions were born 1: preface


中東に平和を! 53: 宗教が誕生する時 1: はじめに

 

1a

< 1. Salt March by Gandhi >
< 1. ガンジーの塩の行進 >

 
When I thought about Middle East problems, as for religion, I got worried about a deep religious antagonism and a secularization (secular politics) of Islam.
I examine the secularization (relations among religion, law and politics) by surveying the birth period of each religion from now on.

中東問題を考えた時、宗教に関して、根深い宗教対立とイスラム教の世俗化(政教分離)が気になりました。
これから宗教の誕生期を概観することにより世俗化(宗教と法と政治の関係)を考察します。

 

2a
< 2. Jewish Diaspora >
< 2. ユダヤのディアスポラ >

Preface
I look back on the birth of Judaism, Christianity, Buddhism, Confucianism and Islam, so the problem become clear through comparison of these.
We already saw religious antagonism and persecution in this serialization.
I examine how each religion was predetermined to be concerned with law and politics.

Firstly I look at the benefits of religion.
The religion brings people a hope, encourages good acts and produced the society which people are helping each other.
In addition, it reduces dissatisfaction of people, increases citizen compliance, and has a effect of reducing conflict from the society.

On the other hand, the believer came to have strongly feelings of slight and hostility against different religions.
In addition, occasionally the law (religious precepts) of the sacred book couldn’t respond flexibly to changes in the society, and the strong religious organization brought harm.

The religion inherits the doctrine (law) and role (social system) since the birth.
When there is only sacred book that a founder of the religion talked, it is so especially.
This is one of the reasons that cause a mismatch between modern society and religion.
However, the degree of the mismatch is not decided only with a long duration of the religion.
It changes depending on how each religion was associating with politics and law of the society.

I investigate this difference through looking back on the process of the birth period of each religion.

 
はじめに
ユダヤ教、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教の誕生期を振り返り、比較することにより問題点が明瞭になります。
既に、この連載で宗教対立や迫害を見てきました。
ここでは個々の宗教が法と政治にどのように関わるように運命づけられたかを考察します。

はじめに宗教がもたらす恩恵を見ておきます。
宗教は人々に希望をもたらし、善い行いを奨励し、共に助け合う社会を生みだしました。
また人々の不満を減らし、順法精神を高め、社会から紛争を減らす効用もあった。

一方、信者は異教徒に対して蔑視や敵対の感情を強く持つようになった。
また聖典の法(戒律)が社会の変化に合わなくなったり、強力な教団が災いを生むこともあった。

宗教は誕生期の教義(法)や役割(システム)をそのまま継承し続けます。
宗祖が語ったとされる聖典がある場合はそうです。
このことが現代社会と宗教との間に齟齬をきたす理由の一つです。
しかし、その齟齬の度合いは宗教誕生の古さだけで決まるわけではありません。
それは、個々の宗教が政治や法とどのように関わって来たかで影響を受けます。

この差異を宗教誕生の過程を見ながら探って行きます。

 

3

< 3. Confucius lived during the Spring and Autumn and Warring States periods >
< 3.孔子が生きた春秋戦国時代 >

Historical backdrop that is common among the birth period of religions
I look at some common points before talking about the difference of these religions.
All societies where the religion was born were in the reform period, and advanced information had been brought to the society.
The reform period means that the society came to ruin due to a series of war or a natural disaster, and the birth of new rank or the thought had occurred due to the developing of city and economy.
The advanced information means new religion having the advanced doctrine, or civilization to bring new thought and technique.

For example.
The Judaism was born on the way of the national rebuilding from the country destroyed in the period of war.
The time of Jesus was in the period of war, and Hellenism culture had become widespread.
The time of Buddha was in the period of war, and many freethinkers had been born.
The time of Confucius was in the period of war, and many various thinker groups had been born.
The time of Muhammad was in the period of war, and two monotheistic religions had become widespread.

 
宗教の誕生期に共通する時代背景
宗教の差異を語る前に共通点を見ておきます。

宗教が誕生した社会はすべて変革期にあり、さらに先進の情報がその社会にもたらされていた。
この変革期とは、戦争や天災続きで荒廃している場合と、都市や経済が発展し新しい階層や思想の誕生があった場合などです。
また先進の情報とは、進んだ教義を持つ新興宗教や、新しい思想や技術をもたらす文明などです。

例えば以下のようなことです。
ユダヤ教は争乱の世にあって、亡国から国家再建への途上で生まれた。
イエスの時代は争乱の世にあって、ヘレニズム文化が浸透していた。
釈迦の時代は争乱の世にあって、批判的な自由思想家が誕生していた。
孔子の時代は争乱の世にあって、多様な思想家集団が誕生していた。
ムハンマドの争乱の世にあって、一神教が浸透していた。

 

4

< 4. The Bible >
< 4. 聖書 >

The difference of the religion is affected by each society of the time
At the period of the birth, there were religions being close to politics and religions being away from it.
It depended on what the religion intended to change.

The Judaism abandoned old religion, and intended to rebuild formerly nation together.
The Christianity criticized the Judaism associated with authority, but found a way out by associating with the Roman Empire.
The Buddhism criticized the Brahmanism associated with royal families and went away from politics.
The Confucianism hoped to revival of formerly ancient religion, and entrusted royal families with it.
The Islam abandoned old religion, and intended to found an unified country together.

 
宗教の差異は当時の社会の影響を受けている
その誕生期に、政治に近い宗教と、政治から遠ざかっている宗教がありました。
それはその宗教が何を変革することを目的にしていたかに関わりました。

ユダヤ教は、古い宗教を捨て、一丸となって国家を再建することでした。
キリスト教は権力と結びついたユダヤ教を批判したが、ローマ帝国と結びつくことで活路を開いた。
仏教は王家と結びついたバラモン教を批判し、政治から遠ざかった。
儒教は、いにしえの宗教の再興を願い、それを王家に託した。
イスラム教は、古い宗教を捨て、一丸となって統一国家をつくることでした。

 

5

< 5. Baptism of an emperor of Rome >
< 5. ローマ皇帝の洗礼 >

This continues the next time.

次回に続きます。

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Bring peace to the Middle East! 52: religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4


中東に平和を! 52: 宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4

 

1

*1

We were looking at the situation of persecution of Jews until now.
This time, I chase why establishment of Christianity provoked the persecution of Jews.
This is the last time.

今まで、ユダヤ人迫害の経緯を見て来ました。
今回は、キリスト教の誕生がユダヤ人迫害に如何に結びついたかを追います。
これで最後となります。

 

2a

*2

 
Process of the establishment of Christianity
When Jesus was born, the history of the Judaism was already over one thousand years.
He criticized decayed Jewish rabbis and the law overemphasis of the Judaism, and the Jewish believers who sympathized with him increased.
The Jewish ruling class incriminated Jesus as a leader of revolts to the governor-general of the Roman Empire, and he became the crucifixion (about A.D. 30).

 
キリスト教成立の経緯
イエスが生まれた時は既にユダヤ教の歴史は千年を越えていました。
彼はユダヤ教の腐敗した祭司達や律法偏重を批判し、それに共感するユダヤ人信徒も増えて行きました。
ユダヤ人の支配層はイエスを反乱の指導者としてローマ帝国の総督に訴え、彼は磔刑(紀元30年頃)になった。

 

 

3a

*3

Jesus’ resurrection caused an enthusiastic faith in resurrection in Palestine, and Christianity even extended to the gentile of the Roman Empire by activity of St. Paul etc. before long.
In 66 A.D., the Jewish-Roman wars of aiming for independence arose, but the Jews were defeated.
Therefore the Temple in Jerusalem was destroyed, and Jewish people again had to break up.
The region of the Roman Empire had been an emperor worship in those days, but the Judaism had been allowed, and early Christianity was considered one part of it.
The Christians were often persecuted because they were a heretic for Judaism and doubtful pagans for the people of Rome.
In addition, the Roman Empire also persecuted Christians because having been determined as seditious groups to not obey the emperor worship.
However, in the Rome society in a declining mode, the people who looked at large number of Christianity martyrs were attracted by Christianity.

At last, at the end of fourth century, the Roman Empire certified Christianity as the national religion in order to take in Christians who increased, and prohibited other religion.
After this, the Christianity grew mature in Europe, and extended to the world

 
イエスの復活によりパレスチナに熱烈な復活信仰が起こり、やがてパウロなどの活躍によりローマ帝国内の非ユダヤ人にもキリスト教は広まっていった。
しかし、紀元66年、独立を目指したユダヤ戦争の敗北によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はまたも離散することになった。

当時、ローマ帝国は皇帝崇拝であったが、ユダヤ教は認めれらており、初期のキリスト教はその一部と見なされていた。
キリスト教徒はユダヤ教にとって異端者であり、ローマの民衆にとって怪しげな異教徒であったので、度々迫害された。
またローマ帝国はキリスト教徒が皇帝崇拝に従わない不穏分子であったので、これまた迫害した。
しかし、衰退し続けるローマ社会にあって多数のキリスト教殉教者を見た民衆はキリスト教に惹かれていくことになった。

ついに4世紀末、ローマ帝国は増大するキリスト教徒を取り込む為に、これを国教とし他の宗教を禁止した。
この後、キリスト教は西欧で成熟し世界へと広まっていった。

 

4a

*4

During this time, what had happened to Christianity?
After the destruction of the Temple in Jerusalem, in the stream of making the comeback, the Judaism assumed Christianity heresy and Palestinian Christianity fell into a decline.
Along with a progress of missionary work to the Jews (Greek speaker) that broke up and gentile at each place, the doctrine and customs of various paganism came to mix with Christianity.
In addition, an increasing number of Jewish conversion to Christianity caused regression toward Judaism.

Church fathers of Christianity at each place had to deal with troubles from within and without, made a definite distinction between heresy and orthodoxy, and did explanation for the persecution to the emperor.
They did theorization and unification of the doctrine, then established the confession of faith and the Bible. Annotation 1.
In this way, an unified church system was completed in the about third century. Annotation 2.

Syncretism and opposition almost happened among much religion, as if the birth of the Islam, the Buddhism, and the Taoism.
However, the intensity of the heresy was different among each religion.

この間に何が起きたのか
エルサレム神殿の破壊後、ユダヤ教は再起を図る中でキリスト教を異端とし、パレスチナのキリスト教は衰退していった。
各地に離散したユダヤ人(ギリシャ語話者)や非ユダヤ人への布教が進む中で、異教の教義や習俗がキリスト教に混じることになった。
またキリスト教へのユダヤ人の入信は、ユダヤ教への後戻りを招き始めた。
各地のキリスト教の教父達は、異端と正統の区別や、皇帝への迫害の弁明などの内憂外患に対処した。
彼らは教義の理論化と統一を行い、信仰告白と聖書を確立した。注釈1.
こうして3世紀頃には一体化された教会制度が成立した。注釈2.

多くの宗教、仏教、道教、イスラム教の誕生時にも、既存宗教との間で習合や対立が起こった。
しかし、異端への激しさは宗教によって程度の差があった。

 

5

*5
Peculiar things in Christianity
I think that it is related to “Jesus’ resurrection” and “the Catholic Church” that Christianity is strict with the heresy in particular.

The miracle called “Jesus’ resurrection” is hard to believe to our pagan, but Christian is most attracted.
If it becomes the Jew to have murdered Son of God Jesus, the hatred reaches a peak.

Furthermore, the existence of the unified church of the Roman Empire conduced to an succession of the firm doctrine, furthermore, the posture to eliminate heresy was also maintained strongly.
Thus, the persecution continued for 2000.
I begin a different theme from the next time.

 
キリスト教に特有なこと
私は、キリスト教が特に異端に厳しいのは「イエスの復活」と「カトリック教会」に関係すると考える。

異教徒には信じがたいイエスの復活という奇跡は、最もキリスト教徒を魅了する。
その神の子イエスを殺したのがユダヤ人となれば、憎しみは頂点に達する。

さらにローマ帝国の一体化された教会の存在は、ゆるぎない教義の継承と共に、異端を排する姿勢も貫かれた。
こうして、迫害が二千年も続くことになった。
これで「宗教と迫害」は終わり、次回より別のテーマを始めます。

 
注釈1.
信仰告白は、教会などで自身の信仰を神と人とに告白することです。

カトリック教会の信仰告白の例: 使徒信条

「天地の創造主、全能の父である神を信じます。

父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。

聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。」

 

注釈2.
ここで言う教会制度とは、キリスト教圏のすべての教会とそれを監督する司教らが一人の教皇を頂点に一体化されていることを指します。
時には全域から司教以上が集まり公会議を開き、教義・典礼・教会法について話し合うことも行われた。

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Bring peace to the Middle East! 51: religion and persecution 5: Persecution of Jewish people 3


中東に平和を! 51: 宗教と迫害 5: ユダヤ人の迫害 3

 

1
< 1. children of a Polish ghetto >
< 1.ポーランドのゲットーの子供達 >

 
We saw the deep-rooted persecution of Jews in Europe last time.
We get closer to the origin from now on.

前回、西欧でのユダヤ人迫害の根の深さを見ました。
これから、その起源に迫って行きます。

 

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< 2. Milan Cathedral >
< 2. ミラノ大聖堂 >

 
Swear words of great Church Fathers

In the fourth century, a bishop of Milan said.
“The synagogue is a gathering place of infidel whom God forever convicted, a house of profane persons or a hideout of madman.”

In the fourth century, a sermon by a bishop of Antioch.
“If the Jew is a demon or devil, shouldn’t you escape from the Jew?
Getting friendly with the Jew who killed the son of your God and is a killer who crucified Jesus is to despise your God, doesn’t it?”

In the 16th century, German religion reformer, Martin Luther wrote.
” The Jew is a beast that bears malice, viper, poison, devil incarnate,…. and dung of pig.”
” Christian! You must not doubt that there is not person being more harmful and cruel than true Jew living next to you.”
“We burn a synagogue, and we must throw sand and mud to whoever running away from the fire. ”

 
偉大な教父の罵り
4世紀、ミラノ司教。
「ユダヤ教会堂は神ご自身の永遠の断罪の下にある不信心者のたまり場、不敬な者の家、血迷った男たちの隠れ家である。」

4世紀、アンティオキア司教の説教。
「ユダヤ人が悪霊、悪魔自身であるとしたらユダヤ人から逃れようとしないだろうか。
ヤダヤ人はあなたの主の子を殺した・・・・イエスを十字架につけた殺し屋を重んじたり、つき合いを深めることは主を侮蔑することになるではないか」

16世紀、ドイツの宗教改革者ルーター。
「ユダヤ人は悪意に満ちた獣、腹黒い輩、胸くそ悪いくず、害悪、悪魔の化身・・・豚の糞」
「キリスト教徒よ、あなた方の隣にいる本当のユダヤ人以上に残酷で有害で悪辣な者はいないことを疑ってはならない。」
「ユダヤ教会堂を燃やし、その火から逃げ出す者が誰であれ、砂と泥をかぶせねばならない」

 

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< 3. Crucifixion of Jesus >
< 3. イエスの磔刑 >

Why did the great Church Fathers repeat such swear words?

There is the grounds in “The Gospel According to Saint John”

7-1
“And after these things Jesus walked in Galilee: for he would not walk in Judaea, because the Jews sought to kill him.”

8-44
“Ye are of your father the devil, and the lusts of your father it is your will to do. He was a murderer from the beginning, and standeth not in the truth, because there is no truth in him. When he speaketh a lie, he speaketh of his own: for he is a liar, and the father thereof.”

In the Bible, this author made Jesus say that the Jew was a murderer of Jesus and a child of devil.
The hostility against the Jew already rose and overflowed.
It is thought that this book was completed in the end of first century.
Annotation 1.

 
なぜ偉大な教父はこのような罵りをく返したのだろうか?

「ヨハネによる福音書」にその根拠が見える。

7章1節
「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。
ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」

8章44節
「あなたたち(ユダヤ人)は、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。
彼の内には真理がないからだ。
悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。
自分が偽り者であり、その父だからである。」

ここで、作者はユダヤ人がイエス殺しであり、悪魔の子だとイエスに言わせている。既にユダヤ人への敵意が満ち溢れている。
この書は1世紀末に成立したと考えられている。
注釈1.

 

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< 4. Saint Paul image in front of San Pietro Cathedral >
< 4.サンピエトロ寺院の前に立つ聖パウロ像 >

From “The Epistle of Paul the Apostle to the Romans”

11-18
“ Glory not over the branches: but if thou gloriest, it is not thou that bearest the root, but the root thee.”

Saint Paul criticizes the Jew in another place, but says here that you must not look down on the Jew.

He developed Christianity into for foreigner from only for the Jew, and was an apostle who built a route to the world religion.
It is said that St. Paul wrote this letter in early 58.

When comparing these two sentences, the apostle seems to have not looked down on the Jew during the missionary work in the middle of first century, but the situation seems to have changed around the end in the first century.

This continues the next time.

 
パウロの「ローマの信徒への手紙」11章18節を見ます。

「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。
誇ったところで、あなたが根(ユダヤ人)を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」
パウロはユダヤ人を別の個所で非難はしているが、ユダヤ人を見くだしてはならないとしている。

パウロはユダヤ人だけのキリスト教から異邦人のキリスト教に発展させ、世界宗教への道筋をつけた使徒です。
この手紙はパウロが西暦58年初頭に書いたとされる。

二つの書を比べると、1世紀中頃、まさに使徒が布教に専念している折は、ユダヤ人をそれほど敵視していなかったが、1世紀も末になると状況は変わったように思える。
次回に続きます。

 
注釈1.
「ヨハネによる福音書」の作者は12使徒のヨハネとは異なる人物で、後に伝聞によってこの福音書を書いたとされる。
また4つの福音書の中で、これは他の3つの共観福音書と内容が異なり、独自の考えで書かれており、福音書の中では最後のものと考えられている。

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Bring peace to the Middle East! 50: religion and persecution 4: Persecution of Jewish people 2


中東に平和を! 50: 宗教と迫害 4: ユダヤ人の迫害 2

 

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< 1. アンネ >

 

We looked at the Persecution of Jews by the Nazis last time.
We pursue the history of the Persecution of Jews in Europe this time.

 

前回、ナチスによるユダヤ人の迫害を見ました。
今回、西欧でのユダヤ人迫害の歴史を追います。

 

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< 2. An invasion of Palestine by the Crusade >
< 2. 十字軍のパレスチナ侵攻 >
The history of the Persecution of Jews in Europe
Persecuting Jews was not limited to just Germany during the Second World War.
From a long time ago, the storm of the persecution of Jews had raged from Europe to Russia.

 

When motion of the Crusade became lively in the eleventh century, people who considered Jews the enemy of Christian turned into a mob and killed one-third of Jews in Germany and north France.

 

In the thirteenth century, anti-Judea riot happened, and Jews who had served British royal families became deportation.
But, in the 18th century, the U.K. established a Jewish district in London to win intense world trade competition.

 

Jews of France had lived as merchants or craftsmen in some cities, but in the 14th century, the motion of anti-Judea happened, and the Jews were ousted.
But, after the French Revolution, the Jews were endowed with equal right once.

 

When the pest was epidemic in the 14th century, the false rumor that Jews threw poisons into wells spread, and the persecution and slaughter against them happened in each place.
From this time, the Jew was forcibly segregated into ghettos.

 

When Reconquista was completed in the Iberian Peninsula in the 15th century, not only Muslim but also Jew was ousted.
And, the Inquisition was carried out against Christian converts who still stayed, and most of the execution by burning were Jews.

 

The Jew that was ousted from Europe flowed into Poland and Russia of the east side.
Whenever countries the Jew immigrated to were confused, here again the Jew was persecuted as an outlet for complaint and betrayer.

 

西欧でのユダヤ人迫害の歴史
大戦中のドイツだけがユダヤ人迫害を行ったのではありません。
西欧からロシアにかけて、遥か以前からユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れていた。

 

11世紀、十字軍運動が盛り上がると、ユダヤ人をキリスト教徒の敵とみなした民衆が暴徒化し、ドイツや北フランスのユダヤ人を三分の一を殺した。

 

13世紀、反ユダヤ暴動が起こり、英国王家に仕えていたユダヤ人が国外追放となった。
但し、18世紀、英国は激しい貿易競争に勝つためにロンドンにユダヤ人地区を設けた。

 

フランスのユダヤ人は幾つかの都市で商人・職人として暮らしていたが、14世紀になるとユダヤ人の迫害が進み、追放された。
但し、フランス革命後、ユダヤ人に平等の権利が認められたことがあった。

 

14世紀、ぺストが大流行すると、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだデマが広がり、各地で迫害や虐殺が起きた。
この頃から、ユダヤ人をゲットー(居住区)に強制隔離するようになった。

 

15世紀、イベリア半島でレコンキスタが完了すると、イスラム教徒だけでなくユダヤ教徒も追放された。
そして残ったキリスト教改宗者に対して異端審問が行われ、火刑の多くはユダヤ人であった。

 

これら西欧から追放されたユダヤ人は東方のポーランドやロシア側に流入した。
ここでもユダヤ人は、移住先の国が混乱する度に、不満のはけ口や裏切り者として迫害されることになった。

 

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< 3. Jews were sacrificed when the pest was epidemic >
< 3. ペスト流行時、犠牲になったユダヤ人 >

 

Why was the Jew persecuted?
There are some common points about the background of above-mentioned persecutions.

 

When certain society fell into an difficult economic situation, the dissatisfaction of the people was turned to rich Jews, and their assets were often plundered.

 

The reason why moneylender is outstanding to Jew is Christian could not enter the moneylending business because the Old Testament (Deuteronomy) had prohibited the interest rate.
On the other hand, all restrictions were imposed on the Jew of Europe, they could not go into agriculture or guild (trade association), and had no choice but to go into a moneylending business or entertainment. Annotation 1.

 

The Jew was despised and was considered as a betrayer, then was often considered as a cause of epidemic or natural disaster.
Because the Jew had repeated Diaspora and emigration, when they were persecuted, they sometimes asked for help from other countries, and went over to the other side.
The same as many victims of discrimination , it came to develop the group’s own identity to strengthen solidarity, and they became more remote from the neighboring society.

 

However, the largest cause is elsewhere.
It was closely related to the fact that the Jew had been able to coexist with Islam until one century ago.
In other words, it is the antagonism between Christianity and Judaism.
In an extreme instance, the Christianity was established by adding the New Testament to the Old Testament of the Judaism and was the religion like the brothers of it.
However, the establishment of Christianity made the Jew unfortunate.

 

This continues the next time.
なぜユダヤ人は迫害を受けたのか?
前述の迫害が起きた背景に幾つかの共通点がある。

 

社会が経済的苦境に陥ると民衆の不満が裕福なユダヤ人に向けられ、資産が略奪されることもあった。

 

ユダヤ人に金融家が目立つのは、旧約聖書(申命記)が金利を禁止していたのでキリスト教徒は金融業に参入出来なかったことによる。
一方、西欧のユダヤ人は、あらゆる制限を課せられ、農業やギルド(同業者組合)に参入出来ず、金融業や芸能などを生業にせざるを得なかった。注釈1.

 

ユダヤ人は蔑視され裏切り者と見なされており、疫病や天変地異の原因にされた。
ユダヤ人は離散と移住を繰り返していたので迫害されると、救いの手を他国に求めたり、また寝返ることもあった。
多くの被差別民と同様に、団結を強めることが集団の独自性を高めることになり、より周辺社会から疎遠になってしまった。

 

しかし最大の要因は別にある。
それは、一世紀前まで、ユダヤ教徒はイスラム世界で共存出来ていたことと関係があります。
つまり、キリスト教とユダヤ教の対立なのです。
キリスト教はユダヤ教の旧約聖書に新約聖書を加えて成立した兄弟のような宗教です。
しかし、キリスト教の誕生がユダヤ教徒に悲運を背負わせることになったのです。
次回に続きます。

 
注釈1.
申命記(旧約聖書)による金利の禁止はキリスト教徒よりもユダヤ人にとって重大なのですが、二つの逃げ道があった。

「同胞に利子を付けて貸してはならない。・・・外国人(異教徒)には利子を付けて貸してもよい・・」24章20-21より
ハムラビ法典でも、国内と国外で法律の適用を変えている。

「主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。」15章06節より

またユダヤ人は中東において古代より高い文化を持ち王宮に仕え、離散によるネットワークを生かし貿易で活躍していた。
西欧において、キリスト教徒は金融業から締め出されたので、逆にユダヤ人は金融業で成功することになった。

 
ここで宗教に共通する現象がみられる。
それは金利や利益の扱いです。
ほぼ世界の経典宗教は、金利や商業を蔑視し禁止していた(実際には行われていた)。
これは当時の小さな同族社会では、利子や利益を貪る行為が融和を乱し、紛争を招くと考えられていたからです。
しかし、時は流れ、産業と貿易が発展すると偽装金利が横行するようになり、ついには金利を容認せざるを得なくなった。

それぞれの教団は聖典の解釈を変更せざるを得なくなった。
キリスト教では、13~14世紀にかけて、一部の利子を認めていくことになった。
16世紀の宗教改革以降、利子取得は容認されるようになった。

イスラムでもコーランは利子を禁止していた。
資金の貸与は利子以外の方法で利益が得られ行われていたが、商事会社の発達を阻害しいた。
19世紀後半、ファトワーが発せられ、ムスリムも利子や配当を受け取れる場合が認められた。
最近では利子取得を回避する手として、銀行と融資を受けた事業体が共同経営を行い、利益を配分する例がある。

ここで興味深いのは、聖典に遺存した古い規律が社会の変化に適合しなくなると、教団は何とか解釈の変更で問題解決を図っていることです。

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Bring peace to the Middle East! 49: religion and persecution 3: Persecution of Jewish people 1


中東に平和を! 49: 宗教と迫害 3: ユダヤ人の迫害 1

 

1

< 1. Merchant of Venice >
< 1. ベニスの商人 >

Previous time, we knew how Islam had been seen from Europe.
From now on, I will investigate why Jewish people were oppressed.
There is a sad nature of human repeated.

 

前回、イスラムが西欧からどのように見られていたかを知りました。
これから、なぜユダヤ人は虐げられたかを探ります。
そこには繰り返して来た人類の悲しい性があります。

 

8
*2

Preface
At the start of taking up the problems of the Middle East, I had dissatisfaction toward the present conditions that Muslim in the Middle East was treated like a bad person unfairly, so I was going to investigate the truth.
However, the more I investigate, the more I feel a feeling of futility.

 

I can say that the most of failing to advancing the peace is due to the Middle East including the existence of radical extremists.
On the other hand, there are a lot of outside factors that embroiled the Middle East in armed conflicts.
The Middle East war began with the founding of Israel.
It seems a result of the counter action of Jewish people that had been persecuted in the Eurasian Continent.

 

I have handled various wars through my blog so far.
These also had many flash points in common with the Middle East.
One of them is a feeling of discrimination to produce antagonism or persecution.
はじめに
私は中東問題を取り上げるに当たり、中東のムスリムが不当に悪者扱いされる現状に不満を持ち、真実を探ろうとした。
しかし、調べれば調べるほど、空しくなってしまった。

 

確かに、和平が進まないのは暴虐な過激派の存在など中東の側に問題が多いと言える。
一方で、中東に紛争を呼び込んだ外部要因が数多く存在している。
中東戦争勃発はイスラエルの建国が切っ掛けでした。
それはユダヤ人がユーラシア大陸で受けた迫害の反動でした。

 

私は、今までブログで様々な戦争を扱って来ました。
それらにも、中東とほぼ共通する火種が存在しました。
その一つが、対立や迫害を生む差別感情です。

 

7
< 3. anti-Semitic purges in Russia (pogrom)>
< 3.ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム) >

 

Jewish misfortunes
Looking around the world, I don’t know a race such as Jew that had been so despised and achieved success.
After the extinction of Israel, the Jew was scattered all over the world and continued being persecuted for 2,000 years, and accomplished the founding of Israel in the same area.
Now, it could say that the Jew is one of the world’s top race in knowledge, information, and capital power.
The Israel is an advanced industrial country, and an eminent military nation having nuclear weapon.

 

Why was this excellent race despised and persecuted for 2,000 years?
It originated in Jerusalem and arose from a grudge bred in Europe.
The grudge seems to have been amplified by a fervent devotion.

 
ユダヤ人の悲運
世界中見渡して、ユダヤ人ほど侮蔑され、かつ成功した民族を知りません。
ユダヤ人はイスラエル滅亡後、世界に離散し、2000年間迫害され続けた後、同じ地に建国を成し遂げた。
今やユダヤ人は知識や情報、資本力で世界有数の民族と言えるでしょう。
イスラエルは先進工業国であり、核兵器を持つ有数の軍事国家と言える。

 

なぜこれだけの事を成した優秀な民族が、2000年もの間、侮蔑され迫害されたのだろう。
それはエルサレムに始まり、西欧で醸成された怨念が災いしている。
その怨念は篤い信仰心によって増幅されたように思える。

 

6

*4
A Jewish tragedy
The most known tragedy will be the Holocaust by Nazis Germany.
While World War II, the German military killed 6 million Jews in concentration camps and forced labor.

 

Why did Hitler do such a reckless act?
Hitler described the reason in “Mein Kampf”.
“ It is our only purpose to achieve the existence and prosperity of our German race as Aryan that can create excellent culture.
….
The pacifism, democracy, and internationalism to antagonize Germany nationalism are means for world conquest by “Jewish race” as a destroyer of all culture. “

 

Why did Hitler hate Jew so much?
This happened in the process that Germany became a fascism from the bottom after World War I.
He professed the defeat and economic ruin of German were mainly due to Jew.
Jew was always despised as miser, betrayer and vulgar person than before.
Then, Hitler thought that necessary condition for the revival of Germany was to get Eastern Europe again by the fight with the Soviet Union.
On the other hand, anti-Semitic purges in Russia became harsh, and many Jews flowed into Eastern Europe from Russia.
Because Germans were afraid of the Soviet Union and communism, they worried about Jewish betrayal.
Thus, Germans obeyed racial discrimination of Hitler blindly.

 

This continues the next time.
ユダヤ人の悲劇
最も知られているのはナチス・ドイツによるホロコーストでしょう。
第二次世界大戦中、ドイツ軍は強制収容所と強制労働などで、600万人のユダヤ人を殺害した。

 

なぜヒトラーはこのような暴挙に出たのだろうか?
ヒトラーは「わが闘争」でその理由を述べている。
「文化を創造し得る『アーリア人種』たるドイツ民族の生存と繫栄こそが、唯一の目的であり、・・・
さらに、ドイツ民族主義に敵対する平和主義・民主主義・国際主義は、文化破壊者たる『ユダヤ人種』による世界制覇の手段である。」

 

なぜヒトラーはここまでユダヤ人を目の敵にしたのか。
これは第一次世界大戦後、どん底のドイツがファシズム化する過程で起こった。
彼はドイツの敗因と経済破綻の主因の一つをユダヤ人のせいにした。
かねてから、ユダヤ人は守銭奴で、裏切りが者で、低俗な民族と蔑視されていた。
またヒトラーはソ連と戦い、東欧を獲得することがドイツ再興の条件としていた。
一方、ユダヤ人迫害(ポグロム)が苛烈化し、ユダヤ人がロシアから東欧に流入していた。
ドイツ国民はソ連と共産主義を恐れていたので、ここでもユダヤ人の裏切りを懸念した。
こうして、ドイツ国民はヒトラーの人種差別に盲従することになった。

 
次に続きます。

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Bring peace to the Middle East! 48: religion and persecution 2: Prejudice against Islam


中東に平和を! 48: 宗教と迫害 2: イスラム教への偏見

 

1

*1

 

Previous time, we look at the antagonism and persecution that arise from Buddhism or Hinduism.
From now on, I look at the antagonism and persecution between religions (Judaism, Christianity, and Islam) that were born in the Middle East.

 

前回、仏教とヒンドゥー教がもたらした迫害や対立を見ました。
これから、中東で生まれた宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の迫害や対立を見ます。
What is understood from previous examples of the Buddhism and Hinduism
Religion retained laws and social system of that time, and also kept the discrimination.
In addition, it regards the heresy with hostility to secure the legitimacy, and the antagonism arises.
The religious community will promote these strongly.

 

前回の仏教とヒンドゥー教の例からわかること
宗教は当時の規範や制度を遺存し、差別を温存することになる。
また正当性を確保する為に異端を敵視し、対立を生むことになる。
教団がこれらを強力に推し進めることになる。

 

2
< 2. the Ottoman Empire was capturing Vienna >
< 2.オスマントルコのウイーン攻略 >
How did Europe cognize Islam?
“ It is fundamentally impossible that Muslim tolerably governs Christian countries.”
In the late 19th century, British prime minister Gladstone swore in this way.
He was a pious Christian and dominated during the colony expansion.

 

“The sword and Koran of Muhammad are the biggest enemy for civilization, freedom and truth since recorded history.”
In the late 19th century, Scottish Islamic scholar William Muir said in this way.
He was a colonial administrator in India, too.

 

There are still persons believing “the Koran or a sword” as words indicating the aggressiveness of the Islam, but this is only a forgery.

 

“This notorious swindler Muhammad was the founder of the heresy doctrine.”
It was written in a famous encyclopedia of the end of 17th century.
西欧はイスラム教をどう見ていたのか?

 

「ムスリムが文明化されたキリスト教徒諸民族の上に善政を、またはなんとか我慢できる統治を敷くなどは根本的に不可能だ。」
19世紀後半、英国の首相グラッドストンはこう言い放った。
彼は敬虔なキリスト教徒であり、植民地拡大期に君臨した人物です。

 

「ムハンマドの剣とコーランとは文明・自由・真理に対する有史以来最大の敵である。」
19世紀後半、スコットランドのイスラム学者ウィリアム・ミューアはこう言った。
彼はインド植民地の管理者でもあった。

 

今でも「コーランか剣か」をイスラム教の攻撃性を示す言葉として信じる向きがあるが、これは捏造に過ぎない。

 

「これぞ名うてのペテン師ムハンマド。宗教の名を語るに至った異端教説の始祖にして創立者」
非常に影響力のあった17世紀末の百科事典「東洋全書」に書かれている。

 

3
< 3. Luther >
< 3. ルター >

 

In the beginning of 16th century, Luther criticized that the Roman Catholic Church had been made by devil in the Christendom as same as the heresy of Muhammad.
He was a theologian who became a pioneer of the Reformation, but he regarded heresy with hostility and also criticized Judaism severely.

 

The prejudice against the Islam does not seem to change from old days.
The prejudice of the westerner against the Muslim can be summarized into three words: sexual license, murder, and compulsory conversion.
This matches the image of “Thousand and One Nights (Arabian Nights)” introduced in Europe of 1704.
16世紀初め、ルターは、ローマ・カトリック教会のことを、ムハンマドの異端と同類であってキリスト教世界内部に悪魔がこしらえたものだと批判した。
彼は宗教改革の先駆けとなった神学者ですが、異端を敵視しユダヤ教も痛烈に批判している。

 

どうやら昔からイスラム教に対する偏見は変わらないようです。
ムスリムに対する西欧人の偏見は性的放縦や殺人、強制改宗に集約されます。
これは1704年、西欧に紹介された説話集「アラビアン・ナイト」のイメージに結び付きます。

 

4

< 4. Egyptian conquest by Napoleon >
< 4. ナポレオンのエジプト遠征 >

 

Why did such prejudice be born, and why did it remain strongly?
The Islam worships the one God as same as Christianity, and two doctrines are similar.
However, it is different to deal with Jesus and the Trinity, etc.
Christian will regard it as heresy.

 

The Islam was an invader and menace for Europe since the birth period.
Actually, Spain in the west side and Austria in the east side were exposed to their aggression.
Most of Europe lacked the opportunity to know this area and only knew through Byzantine Empire at most.

 

However, Europe came to have confidence in own civilization when it experienced the Industrial Revolution (since the mid-18th century).
On the contrary, in the end of 18th century, Napoleon conquered Egypt, and Europe ruled the Middle East since the mid-19th century.
Europe had already colonized most parts of the world, but people resisting most stubbornly was only Muslim.

 

Thus, both religions deepened opposition feelings while having a sacred place in same Jerusalem.
This continues the next time.

 

なぜこのような偏見が生まれ、強固に生き続けたのでしょうか?
イスラム教はキリスト教と同じ唯一神を崇め、教義が似ています。
しかしながらイエスや三位一体の扱いなどで違いがあります。
これはキリスト教徒にとって異端に映るのでしょう。

 

西欧にとってイスラムは誕生期から侵略者であり、脅威であった。
実際、西側のスペインと東側のオーストリアは彼らの侵略に晒された。
西欧の多くはこの地域を知る機会に乏しく、せいぜいビザンチン帝国を通じてであった。

 

しかし西欧は産業革命(18世紀半ば~)を経る頃には、自らの文明に自信を持つようになった。
逆に、18世紀末、ナポレオンはエジプトに遠征し、西欧は19世紀半ば以降から中東を支配した。
既に西欧は世界の大半を植民地にしていたが、最も頑強に抵抗したのはムスリムだった。

 

こうして両宗教は聖地を同じエルサレムに持ちながら対立感情を深めていた。
次回に続きます。

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