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社会と情報 43: 新聞と検察、相克と癒着 4


 

1ベトナム戦争

< 1. ベトナム戦争 >

記者クラブは誰にとって利益なのだろうか? 

新聞か検察か、それとも国民か・・

 

 

記者クラブは政府や官僚にとって都合がよいか?

記者クラブの加盟社が特権を手放したくないのは当然と言えますが、情報発信側にも利益があります。

外国の例を見ます。

第二次世界大戦当時、米国は戦争報道のすべての記事を徹底的に検閲していました。

一方、ベトナム戦争において、検閲ではなく現地で記者クラブのような「アメリカ合同広報局」が戦局報告を毎日行い、他からの情報収集を不可能にして管理しました。

フィリップ・ナイトリー著「戦争報道の内幕」において、後者の方が戦争報道を阻害したとしている。

その理由は、概ね以下の通りです。

大戦時の記者は情報収集が比較的自由で、記事を工夫することにより検閲官を出し抜くことが出来た。

しかしベトナム戦争では、広報局からだけの隠蔽された一律の情報を待つ記者達は、工夫も意欲も無くしてしまった。

他にも、報道を歪曲する力がホワイトハウスから働いていたが、この「記者クラブ」の悪影響は大きかった。

一方、テレビ報道は新たな役割を果たし、戦争の真実を伝え始めていた。

連載16~18:報道特派員の苦悩1~3、に詳しい。

2裁判所

< 2. 裁判所 >

 

なぜ癒着が蔓延し、自律回復が困難なのか?

これまでの説明でも、納得出来ない方はおられるかもしれません。

例え新聞に期待出来なくても、他に救いがあるはずだと。

  • 裁判官や弁護士は、なぜ問題を明らかにしないのか?

これについて、「検察が危ない」で著者は明快に「出来ない」と述べています。

著者は例外ですが(笑い)。

この公僕達は実態を知ってはいるのですが、職業的に繋がっているため(転職しあう仲間だから)、互いに傷付け合うことは避けているのです。

  • なぜ検察は横暴になっていくのか?

これについて著者は、検察の不甲斐なさを責め立てる新聞(世論)が一端になったことを挙げています。

政界を大きく巻き込む疑獄事件があって、それを検察がうまく暴けない時などがそうです。

このような時、検察は被告側が弱ければ生贄(冤罪)にし、被告側が巧みであれば法の適用を逃してしまいます。

郷原氏は、これについて、検察はセクショナリズムに陥っており、法適用が旧態依然だからと指摘しています。

こうなると、次の事件で名誉挽回に躍起となり、検察一丸となり軍隊式の白兵突撃を敢行することになる。

そして、特捜部が快挙(被告有罪)を成せば、検察上層部は出世に繋がると指摘する人もいます。

最後に

一番重要なことは、こと検察と新聞の癒着だけの問題ではなく、社会全体が網の目が張り巡らされたように癒着を起こし停滞し、やがて腐敗していくのです。

このような、官僚化=官僚制の逆機能(責任回避、秘密主義、権威主義、セクショナリズムなど)はいつの世にも起こります。

しかし、それを見張り、国民に知らせる立場の新聞(マスコミ)が、癒着してしまえば自力回復は不可能です。

これを打破するには、新聞(マスコミ)が本来の機能を果たせるように、何が重要であるかを国民が正しく認識することから始めないといけない。

 

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私達の戦争 23: 戦争勃発


1チェチェン

  • * 1

 

戦争はどのようにして始まるのだろうか?

そして何が起きるのかを簡単に見てみましょう。

 

戦争は突然起きるのだろうか?

突如、入道雲が湧き上がり雷鳴が鳴り響くように・・

それとも湿った風が吹き始め、厚い雨雲が空一面を覆うようになって・・

ここ百年間の主な戦争を見ます。

 

  1. 1914年、第一次世界大戦

これは皇太子の暗殺に始まり、27ヵ国が二つの同盟に分かれ地球全域で4年間戦い、4000万人が死傷した。

 

  1. 1937年、日中戦争と太平洋戦争

これは数発の銃声に始まり、さらに太平洋戦争へと拡大し、日本一国がアジア・太平洋地域で8年間戦い、死者1900万人を出し、日本の死傷者300万人となった。

 

2太平洋戦争

  • * 2

 

  1. 1939年、第二次世界大戦

これは突然の軍隊侵攻で始まり、世界60ヵ国が二つの同盟に分かれ地球全域で6年間戦い、6500万人が死んだ。

 

 

  1. 1948年、パレスチナ紛争

昔からユダヤ人の帰還はあったのですが、この年のイスラエル建国によって、パレスチナ(アラブ人)の領土を奪い移住することが加速し、中東戦争と紛争が継続するようになった。

3パレスチナ

  • * 3

 

  1. 1950年、朝鮮戦争

これは突然の軍隊侵攻で始まり、韓国・国連軍が北朝鮮・中国軍と4年間戦い、600万人が死んだ。

 

  1. 1960年、ベトナム戦争

これは反政府軍が武装蜂起したことに始まり、このベトナム内戦に米と同盟軍が介入し、15年間戦い、800万の死者・行方不明者を出した。

 

  1. 1982年、フォークランド紛争

これは無人島が占拠されたことに始まり、英国とアルゼンチンが3ヶ月間戦い、死傷者3千人となった。

4フォークランド

  • * 4

 

  1. 1990年、ルワンダ内戦

これは植民地時代に優遇・差別された二つの民族間の対立から内戦が勃発し、100万人が虐殺された。

 

  1. 1991年、ユーゴスラビア紛争

これは90年の東欧民主化を切っ掛けに、ユーゴスラビア連邦内のから独立運動が相次いで起こり、やがて10年間の内戦となり、最後はNATOと国連の介入により収まった。

この紛争は主に5つの紛争からなり、内二つの紛争で11万人の死者が出た。

 

  1. 2001年、アフガニスタン紛争、2003年、イラク戦争

これらは共に2001年の同時多発テロを切っ掛けに、テロ阻止を唱え米国と有志連合がアフガニスタンとイラクへ軍事侵攻したことに始まる。

アフガニスタンでは今も戦闘継続中で戦傷者6万人(?)。

イラク戦争は、8年間で戦死者6万人、民間死者10~60万人を出した。

5アフガン

  • * 5

 

 

戦争は如何にして起きるのか?

上記の戦争を私の考える動機や原因で分類しました。

6表

  • * 6

 

これら原因の多くは戦闘当事者の一方や一部だけに強く影響し、双方で食い違うのが通例です。

多くの戦争は、上記のような動機や原因が複雑に絡まり、小さな事件や事故が引き金となるものです。

独裁者や軍部が戦争を始めようとしても、敵対国への憎悪や蔑視、領土や権益の喪失や回復がない限り国民は容易に従わないでしょう。

また政府は将来の脅威の芽を摘む為と称して侵攻し、抑止力の為と称して同盟を結ぶことがあるが、戦端を開き易くし、かつ余計に戦火を大きくすることもある。

一方で同盟軍や国連軍が助けになることもある。

 

重要なこと

何億人もの死傷者や難民を生む戦争は、権力者や軍部の独走、領土・権益確保、民族主義などが主な原因と考えられます。

 

次いで、他国や異民族への憎悪や蔑視こそが、戦争勃発と戦争継続への大きなエネルギーになっています。

これは年月と共に互いに増幅していくのが常で、自然に解消することはない。

残念なことに歴史的に見て、多くの人々は破局の後に、そのことに気が付くようです。

 

もう一つは、最近、抑止や戦争・テロを未然に防止するためと称し米国が主導する派兵が多いことです。

しかしこれは結果的に、放置するよりも大きな被害を生みだし、世界に武器と憎悪を蔓延させている。

 

戦争勃発は、ガソリン缶の周囲で火遊びしたり、炎天下にガソリン缶を放置したり、ガソリンを抜くためにドリルで缶に穴を開けるようにして起きるようなものでした。

 

 

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Go around the world of Buddha statues 13: a table of contents and summary


Gakkō Bosatsu (bodhisattva)

I made a table of contents and each summary of the past articles.

I saw how Buddha statues had evolved into Asia so far.

After this, I will see how Buddha statues were born in India.

 Table of contents and summary

 

これまでの記事の目次と要約です。

今までは、アジアで仏像がどのように展開したかを見ました。

今後は、仏像がどのようにインドで誕生したのかを見ていきます。

 

目次と要約

1.       My favorite Buddha statue, and at the beginning of this series / 好きな仏像と連載のはじめに

 Nara prefecture is the birthplace of Japanese Buddha statue, and a lot of Buddha statues of the oldest layer remain.

I introduce Gakkō Bosatsu (bodhisattva) that is a Yakushi Nyorai trinity of early splendid Buddha statues.

奈良は日本の仏像発祥の地で、最古層の仏像が多く遺っています。

初期の素晴らしい仏像である薬師三尊像の月光菩薩を紹介します。

 

2.      The philosophizing statues of Miroku Bosatsu / 思索する菩薩像

 philosophizing statues of Miroku Bosatsu

I see Miroku Bosatsu statues (Maitreya) that give off an aura of Buddhism.

From it, it is visible how the Buddha statue has spread into Asia.

 仏教らしさを漂わせる弥勒菩薩半跏思惟像を見ます。

そこからは仏像がどのようにアジアに伝播したかが見えて来ます。

 

3.       The changes of the Japanese Buddha statue / 日本の仏像の変遷

 Japanese Buddha statue

We look at the change that Buddha statue was becoming sophisticated for around 500 years from when it was introduced into Japan.

仏像が日本に始めて伝わってから500年程かけて、如何に洗練されていくかを見ます。

 

4.       Buddha statue of Asia 1 / アジアの仏像 1

 4.	Buddha statue of Asia

 I introduce one representative Buddha statue from India, Sri Lanka, China, and Korea.

These Buddha statues belong to Mahayana Buddhism.

インド、スリランカ、中国、韓国から代表的な仏像を一体づつ紹介します。

これらの仏像は大乗仏教に属するものです。

 

5.       Buddha statue of Southeast Asia  / 東南アジアの仏像

5.	Buddha statue of Southeast Asia

I introduce representative Buddha statues of Southeast Asia and the remains.

In there, Mahayana, Hinayana, and also Hinduism influenced each other, and peculiar Buddha statues were made. 

 東南アジアの代表的な仏像と遺跡を紹介します。

この地は、大乗と小乗仏教、さらにはヒンドゥー教が影響し合い、独特の仏像を作りだしました。

 

6.       Buddha statue of a fearful face / 恐い顔の仏像

 6.	Buddha statue of a fearful face

I introduce Four Heavenly Kings and Kongorikishi in Japan.

I realized something depending on comments in my blog that were written by person of Africa and US.

The fearful face that I thought natural was exceptional in the eyes of the world.

In later 9-12 episodes, I investigate the difference of Buddha statue expression between Korea and Japan, and the reason of the fearful face.

 

日本の金剛力士像と四天王像を紹介します。

実は、アフリカとアメリカからの書き込みで、気づかされることがありました。

それは当然と思っていた恐い顔が、世界から見ると異常に映るのです。

後の9~12話で、韓国と日本の仏像表現の違いと恐い顔の理由を探ります。

 

7.       Various Buddha statues in Japan / 日本の仏像 さまざまな仏像

 6.	Buddha statue of a fearful face

Although Buddha and bodhisattva are central Buddha statues, there are many kinds of other Buddha statues, and they are adored and are collecting faith.

 如来と菩薩は中心的な仏像ですが、他に多くの種類の仏像があり、慕われ信仰を集めています。

 

8.       Various Buddha statues in Japan2  / 日本の仏像 様々な表現

 6.	Buddha statue of a fearful face

I approach the difference in Buddha statues expression.

I introduce the Wisdom King (Myouou) that is like an originator of fearful face, the statue that attains to the extreme of realistic representation, and the statue that is also adored widely in present day, etc. 

ここでは仏像表現の違いに迫ります。

恐い顔の元祖のような明王像、写実性を極めた像、現代でも広く慕われている像などを紹介します。

 

9.       the statues of Korea and Japan / 韓国と日本の仏像

 9.	the statues of Korea

 I look at the difference of Buddha statues among Japan, China and Korea.

日本と韓国、中国の仏像の違いを見ます。

 

10. the statues of Korea and Japan 2 / 韓国と日本の仏像 2

 the statues of  Chaina

 I introduce Four Heavenly Kings and Kongorikishi of countries.

In addition, I look at the influence of the Buddha statue of Tibet.

 各国の四天王像と金剛力士像の違いを見ます。

またチベットの仏像の影響も見ます。

 

11. the statues of Korea and Japan 3 / 韓国と日本の仏像 3

 the statues of  Chaina

I investigate a background that Buddha statue expression was differing between Japan and South Korea.

日本と韓国の仏像表現が異なっていく背景を追います。

 

12. the statues of Korea and Japan 4 / 韓国と日本の仏像 4

12.	 the statues of Korea

Two nations that were only separated with Tsushima Strait took charge of the different history, and then they produced the different Buddha statue expression.

 Thank you for visiting until now.

From now on, I will investigate the relation of religion and the statue, or the culture and the image.

 

対馬海峡を隔てただけの二ヵ国が異なる歴史を背負い、異なる仏像表現を生みだしていった。

今までの訪問ありがとうございました。

これからも、宗教と像、文化と表象の関わりに迫ります。

 

 

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社会と情報 22: 目次と要約 1~21話


1

これまで21話の記事を書き、約半分が終わりました。

これまでの記事の目次と要約を一覧にします。

 

目次と要約

 

1.はじめに

2.何が起きているのか?

2

9話まで、米国の内部後発を振り返り、社会と組織が再生する様子を見ます。

告発が起きる理由、告発者の葛藤、告発の価値について考えます。

国境警備で起きた内部告発を見ます。

3.なぜ内部告発なのか?

3

内部告発に対する色々な見方を検討します。

タバコ産業を敵に回した内部告発を見ます。

 

4.内部告発の威力

4

タバコの害を訴えた告発が世界に与えた影響を見ます。

告発の経緯を見ます。

 

5.告発者の苦闘

5

この告発事件は映画「インサイダー」で描かれました。

告発者が企業から徹底的に迫害され、最後に勝利する様子を見ます。

 

6.***社会の到来

6

告発者のその後の活動を見ます。

内部告発を生みだす米国文化と告発者保護を見ます。

 

7.到来しつつある社会

7

米国において、なぜ内部告発が注目されるようになったのか?

その背景を見ます。

 

8.ベトナム戦争を止めようとした男

8

19話まで、ベトナム戦争を振り返ります。

そこには政府と報道機関、国民を結ぶ情報が如何に重要な役割を果たしているかを見ます。

ベトナム戦争を概観し、政府が隠蔽する真実を告発する経緯を見ます。

この告発は米国の反戦ムードに油を注ぐことになった。

 

9.ホワイトハウスとどのように闘ったのか 

9

この告発事件はドキュンメンタリー映画になった。

巨大な国家を敵に回す孤独な闘い、ついには社会が彼を認める様子を紹介します。

 

10.       戦争を招いた情報の欠陥 1

10

ベトナム戦争へのレールは第二次世界大戦後から敷かれていたのです。

その原動力は情報によって作られた目に見えないイデオロギーでした。

 

11.       戦争拡大の道のり

11

ベトナム戦争はジャングルと水田で長い年月繰り広げられた。

5人の大統領に引き継がれ拡大していった様子を見ます。

12.       米国の皆さんに、ご理解をお願いします。

The society and the information 12:  I would be grateful for your understanding in the United States.

12

この戦争を扱う以上、どうしても米国のミスを取り上げてしまいます。

この戦争を反省材料に扱えることに感謝します。

 

13.       大統領府で何が起きていたのか? 1

13

ベトナム戦争を指揮した大統領府の行動パターンを見ます。

告発者エルズバーグの分析を参考にします。

14.       大統領府で何が起きていたのか? 2

14

大統領府の戦略や判断、行動の問題点を見ます。

そこには情報操作や機密扱いの問題もあります。

15.       真実は如何にして

15

この戦争中、米国では大規模なデモが起こったが、直ぐには終戦とはならなかった。

それは巧みな世論操作と、真実が国民に伝わらなかったことにある。

 

16.       報道特派員の苦悩 1

16

ベトナム戦争で活躍した記者達の記録から、真実が如何に伝わらないかを見て行きます。

戦場の様子と主要な問題点を拾います。

 

17.       報道特派員の苦悩 2

17

テレビや新聞は、莫大な量の情報を流すことが出来た。

しかし、政府はあらゆる手段を使い、真実の漏洩防止と情報操作に手を染めた。

 

18.       報道特派員の苦悩 3

18

戦場で取材する記者は、現地政府と米軍に目をつけられると仕事が出来ない。

さらに記者も人の子、米国民だった。

19.       国民にとって真実とは

19

報道する側にとって何が真実なのか?

また国民にも知りたい真実とそうでない真実がある。

 

20.       他者への無知 

20

当時のベトナム戦争を指揮した二人が30年後に会った。

両国は、この戦争を何処で間違ったかを検証する会談を行った。

それは非常に勇気のいる画期的なことだった。

 

21.       他者への無知 2

21

両国の討議は、たわいない誤解の連続が戦火を拡大したことに気づかせた。

 

今後もよろしくお願いします

 

 

 

 

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社会と情報 21: 他者への無知 2


 ベトナムの王宮

< 1.ベトナムの王宮 >

 

国の指導者達が如何に互いを誤解しながら戦端を開いたかを見ます。

前回に続いて、ベトナムとアメリカとの会談を参考にします。

 

戦争はどうして始まったのか

ベトナム戦争の始まりは、普通、60年のケネデイによる軍事顧問団派遣と考えられています。

しかし多くの戦争がそうであったように、開戦へと次第に高まる状況があったのです。

最も重要なのは国の指導者の意識で、それが誤解によるものであれば悲劇です。

 

ベトナムに蒙古襲来

< 2.蒙古がベトナムに襲来 >

 

幾多の誤解

開戦に向かわせた誤解を会談から拾います。

 

マクナマラ元国防長官

「我々は、ベトナムと中国の堅い同盟関係を信じて疑わなかった。だからベトナム戦争の終了後、わずか数年の間に中越紛争が勃発して、・・、私は心底びっくりしたんだ」

 

解説

当時、米政府はベトナムと中国が一枚岩だとし、ベトナムは中国の共産化の橋頭堡であると考えていた。

このことが米国のベトナムに対する、反共勢力への援助開始、南北分断、統一選挙反対、傀儡政権支援へと向かわせた。

不思議なことに、米紙府内に、誰一人としてベトナムが独立を目指して中国と2千年もの間、戦い続けて来たこと指摘する者はいなかった。

 

元米国務省ベトナム専門官

「私は第二次世界大戦中、中国に行きましたが、・・、自分が中国の何が理解できないのかさえ、わからなかったのです。・・中国にいたというだけで、・・アジアの専門家ですよ!

今ベトナムの出席者から、45年にホー・チ・ミン主席からアメリカに独立を支持してくれるように働きかけた時のことが持ち出されました。・・」

 

解説

当初、北ベトナムは、米国を反植民地主義の旗手と考え期待もしていた。

そしてホー主席がトールマン大統領宛に先ほどの親書を出した。

しかし米国は、それに対処することなく、ベトナムは失望することになった。

そこで彼はベトナムに理解を求めたのです。

当時、米政府のアジアへの関心は中国と日本だけでした。

その中国すら理解出来ず、ベトナム語も解らない人々が情報分析官であり、当然、ベトナムからの親書の重要性を理解出来るものは居なかったのです。

 

ボー・グエン・ザップとホー・チ・ミン

< 3.ホー・チ・ミン主席とボー・グエン・ザップ将軍 >

 

米のベトナム戦史学者

「アメリカは確かにアジアについて無知だったかもしれません。しかし無知の責任の一端はベトナム側にもあるのではないですか。あなた方はアメリカの政策責任者に対して、ベトナムが何を目指しているかということや、平和的解決を望んでいることなどを、全く説明しなかったのではないですか」

 

解説

米側は、ベトナムは当初から民族独立を目指していたことを会談で確認していた。

当時、なぜベトナムはこの説明努力をしなかったのだろうか。

 

 

元北ベトナム外務省対米政策局員

「我々は、アメリカと戦争を始める前に、10年間もジャングルの中でフランスとの独立戦争を続けていたのです。我々は、世界の情勢についてほとんど知るすべはありませんでした。・・・、アメリカというこの新しい敵についてはほとんど何もしらなかったのです。・・、私にはそんなことが可能だったとは到底思えません」

 

9 .11事件

< 4.同時多発テロ事件 >

 

まとめ

この誤解は、ほんの一部で、最初の引き金になったものです。

後に、誤解と報復、力による脅し、血を厭わない徹底抗戦へと進んだのです。

 

実にたわいない話で、当時の指導者達の誤解とミスに呆れてしまいます。

当然、当時は戦意鼓舞のために、政府はこのような疑いに触れず、国民には敵と敵意を断言していた。

 

この4年後の2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件の報復に、米国はまた戦へと深入りしていきました。

 

今回で、ベトナム戦争関連は終わります。

 

 

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社会と情報 20: 他者への無知


ハノイ紅河の夕陽

< ハノイ紅河の夕陽、Wikipedia より >

 

米国は圧倒的な軍事力で攻撃することが、早期に解決する手段と信じていた。

一方、米国からみれば北ベトナムは徹底抗戦を続ける無謀な敵でした。

この食い違いの真相は30年後の会談で判明することになった。

それは両指導者が、互いを知らず、憶測と誤解を重ねての結果だった。

このことを見ていきます。

 

 

参考文献

「我々はなぜ戦争をしたのか」東大作著、2000年刊。

この本は、1997年、ベトナム戦争の元指導者達が、一同に介して会談した記録の要約です。

この会談はマクナマラ元米国防長官が要請し、北ベトナムと米国の元要人が出席した。

彼らは真摯に戦争の過程を検証し、「機会をなぜ逃したのか?」の答えを探し求めた。

 

95年ボー・グエン・ザップ

< 95年、ボー・グエン・ザップ将軍とマクナマラ元国防長官 >

 

マクナマラの快挙

私が読んだ日本の近代戦争を扱った多くの本は、二度と戦争を起こさない目的には役に立ちませんでした。

右派左派の学者や評論家の書いた本には、戦争を主導した人々の判断や意識に不明瞭さがあります。

たとえ詳細であっても、公的記録の不足(焼却)、さらに発言や記録は一方の立場からだけの論証で正確さに欠けました。

 

それに比べ、マクナマラの行動は人類初の快挙と言えると思います。

彼は三代の大統領の下で、ベトナム戦争を推進した国防のトップであった。

その彼は、米国が間違いを犯してことを認めた上で、対戦相手の元北ベトナム側と、当時を振り返り、討議を通じて検証しようとした。

 

この会談の実現には多くの壁があった。

当時、戦った兵士やその遺族、将軍にとって、自国の非を前提に話し合うことは、屈辱に他ならない。

日本では、個の正義よりも社会のメンツ(国益)を優先するので、このようなことは到底困難だろう。

 

我々はなぜ戦争をしたのか

< 著書 >

 

もう一人の勇者

それは、この会談内容を日本で公開する為に奔走した一人の報道マンです。

彼は、この本の著者であり、このドキュメンタリー番組を製作したNHKのディレクターです。

彼はマクナマラの回顧録から、米とベトナムの対談の可能性を知る。

そして米国のマクナマラに接触し、議事録の公開と番組製作の許可をもらおうと奔走する。

当然、公開については多くの了解(米国とベトナム)が必要で、忍耐と時間を費やした。

最後には快諾され、各出席者へのインタビューも可能になった。

今までのNHKには、このように歴史的事件にとことん食らいつき、事実を深く掘り下げる気迫のあるディレクターがいる。

今後もこの気風が残ってくれると良いのだが。

 

 65年マクナマラ

< 65年、南ベトナムを訪れたマクナマラ >

 

マクナマラの発言

「ベトナム戦争のベトナム側指導者と直接向かい合って対話をしたい。ベトナム戦争がどうして起きてしまったのか。それぞれの局面で互いにどんな情勢判断と命令を下して戦争に突入したのか、そして戦争を回避するためにはどうすればよかったのかを本気で議論し、後世に残したい」

彼はこのように言って会談の開催を友人に持ちかけ、プロジェクトは始まった。

 

ベトコン兵

< ベトコン兵士 >

 

重要なこと

彼らの歴史に向き合う姿勢、メンツにこだわらず事実を重視する姿勢、他者への無知を潔しとしない姿勢に、米国の良心と偉大さを見る。

 

次回、幾つかの具体例を通して他者への無知が招く悲劇を見ます。

 

 

 

 

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社会と情報 19: 国民にとって真実とは


サイゴン 

< 1.現在のホーチミン(旧名サイゴン) >

 

今まで、ベトナム戦争を通して真実が如何に国民に伝わらないかを見て来ました。

一方で、必ずしも国民がすべての真実を欲しているわけではないのです。

今回、この問題を見ます。

 

何が真実なのか?

戦場の記者にとって真実とは何か?

一枚の華々しい戦闘シーンの写真、それとも残虐シーンでしょうか?

それとも戦略の適否か、兵士や人々の苦境でしょうか?

テレビや日刊紙の記者は日々追われるように、眼前に広がる光景を切り取るだけだった。

また記者にとって、戦争は最大の事件であり、その記事や写真は商品でもあった。

本国の編集者にとって、それは視聴率や購読量を増やすネタに過ぎないのかもしれない。

 

もし真実があるとしたら

戦争の正否や非人道性を判断し、その意味でどの記事が最適だと決めることは難しい。

南ベトナムの民衆の立場に立てば、記事は虐殺行為を訴えるのが最適かもしれない。

一方、米国民にとっては、犠牲を払って共産勢力を食い止めているのだから、記事は自国の被害と勝利こそが重要です。

 

73年米兵捕虜の帰還

< 2.1973年、和平による米兵の帰還 >

 

伝わる真実とは

政府と戦場に都合の悪い情報は遮断され、都合の良い虚偽の情報が国民に与えられる。

記者と編集者の偏見や悪意のない選択が情報の偏りを生む。

しかし、さらに大きな障害が最後に待ち構えていた。

それは国民のムード、知りたい知りたくないことの揺らぎです。

これは日本も含めて、世界に共通する現象と言える。

 

ソンミ村事件

< 3.ソンミ村事件 >

 

ある虐殺事件を通して

一つの虐殺事件が世論を反戦へと押したが、ことはそう簡単ではなかった。

68年、ベトナムのソンミ村で、米兵の無差別射撃により無抵抗の村民(男女、乳幼児、妊婦)約500人が虐殺された。

 

その1年後、状況の改善を求めて、一人の兵士がその事件を多数の議員に手紙で告発した。

それを受けて一人の下院議員が軍事法廷を開始させたが、陸軍はもみ消そうとしていた。

元国防総省詰めのフリー記者が、これを嗅ぎつけ調査し、各新聞社に発表を働きかけた。

しかし、どこも本気で取り上げず、やがて半年が経とうとしていた。

その頃、ヨーロッパではこれが主要記事になり、米国の一地方紙が大量虐殺場面の写真を掲載した。

その後一気に米国を「良心の呵責」へと追い込んだ。

その後、急に多くの虐殺事件が報道されるようになった。

 

一方、この年、公約通りに米軍撤退が開始されていた。

政府は、爆撃による戦争拡大を秘密にし、終結に向かっていると国民を信じさせた。

すると、やがて国民は虐殺事件に関心を示さなくなっていった。

 

ベトナム戦争死者

< 4.ベトナム戦争における米軍死者の推移 >

 

この現象の背景にあるもの

先ず、戦場では残虐行為は日常茶飯事であり、記者にとってニュースではなかった。

ソンミ事件以前にも、残虐な事件がわずかに報道されてはいたが、注目されなかった。

また報道の編集部は、国益に反し、国民の忌避が予想されたので、最初に残虐な写真を扱うには抵抗があった。

ところが68年から69年にかけて急激に死傷者が増え、30万人以上に達し、国民に厭戦気運が高まっていた。

そこで一気に火がついた。

 

しかし、国民が終戦は時間の問題だけと考え、関心を持たなくなると、編集部は、それを見越し戦場の報道を急速に減らしていった。

その結果、虐殺への関心は色褪せていった。

虐殺写真で一世風靡した写真家はその名声ゆえに、戦後、何処にも就職出来なかった。

 

それはあたかも、最大に膨らんだ風船を大きく破裂させる針の一刺しも、その前後では威力がないようなものです。

 

次回は、戦争当事国が互いに情報を持たないことで起こる失敗を見ます。

 

 

 

 

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社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3


 

報道カメラマン沢田

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

 

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

 

戦場は真実を嫌う

ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。

63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。

記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

 

69年サイゴンでの処刑

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

 

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。

告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

 

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。

これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。

これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。

その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

 

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。

秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。

すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。

むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。

 

戦場カメラマン石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

 

記者の葛藤

私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

 

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。

彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

 

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。

私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。

最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

 

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。

彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。

とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

 

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。

しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

 

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。

 

戦場カメラマン岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

 

戦後、特派員が振り返って

前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。

「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。

そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。

『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。

なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

 

ある老齢の記者は言う。

「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。

ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」

 

73年戦争の恐怖

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

 

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。

一時は最大700名に上る特派員がいた。

検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。

しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。

爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。

さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

 

極論すれば

記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。

またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

 

次回、真実の報道と国民の関係を追います。

 

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社会と報道 17: 報道特派員の苦闘 2


 60minutes

< 1.ニュース番組「60minutes」 >

戦場の真実が伝わらない最大の理由は、政府や軍部の圧力です。

ベトナム戦争において、米国の特派員は比較的自由に取材出来たようです。

それでも真実は、米国民には伝わり難かった。

 

60年代クロンカイト

< 2.伝説のニュースキャスター、クロンカイト >

 

テレビ報道のエピソード

ある日、CBSの社長は電話の音で目を覚ました。

「フランク、おれに嫌がらせをするつもりかね。昨日の放送だが、君の所の若い者が星条旗をなぶるようなまねをするとはな。」

ジョンソン大統領からの電話だった。

後にその社長はその記者に含むところがあったと言われている。

この記者はCBSの有名ニュース番組「60minutes」のスタッフで、この番組が96年、タバコ産業の内部告発(本連載3~6)を放送することになる。

 

CBSの「イヴニング・ニュース」の有名キャスターのクロンカイトは仕事を終えると、度々大統領から電話を受けることがあった。

このクロンカイトが、68年2月、ニュースで、ベトナム戦争でアメリカは勝利しないと宣言した。

ジョンソン大統領は、「クロンカイトを失えば、アメリカの中核を失う」とその影響力を高く評価していた。

 

ここに報道への圧力と報道マンの良心が微妙にバランスしている様子が見える。

 

66年ジュンソンと南ベトナム

 

< 3.ジョンソン大統領と南ベトナム政府首脳 >

 

新聞報道のエピソード

現地ベトナムの特派員は、南ベトナム政府、米使節団の抵抗に遭いながらも、本国に記事を送った。

そこでケネディ政権は、本国の編集陣の上層部に働きかけた。

 

63年、仏教僧が南ベトナム政府に抗議して焼身自殺した。

これを見て、南ベトナム大統領の義理の妹が「あれは単なる坊主のバーベキュー料理だ」とテレビで公言し、それを知ったケネディは激怒する。

その1年前、ある記者が、この悪名高い女性を、「極度に嫌悪された人物」と記事にした。

すると、ニューズウィーク紙は政府の圧力に負けて、替わりの特派員を送った。

その特班員はその女性を「かの美しく意志強気女性」と報じた。

 

サイゴン

泥水に身を隠す

< 4.5.戦時中の報道写真:サイゴン市内と郊外の様子 >

次ぎは、タイム紙の番だった。

63年、二人のサイゴン特派員が長い戦況報告を本社に送った。

それは「ベトナムでの戦争は敗北しつつある」で始まっていた。

この記事が掲載されたとき、この1行は消えていた。

そして「ベトナムの事態は好転しており、政府軍部隊はこれまでになく、よく戦っている」に替わっていた。

その二人の特派員は、記事の差し替えに抗議し、受け入れられず辞めた。

 

現地で必死に伝えようとする特班員と圧力に屈する本社編集部があった。

 

ホワイトハウス

< ホワイトハウス >

政府は如何にして真実が漏れるのを防いだのか

特派員は都合の悪い記事(南ベトナム政府の腐敗や圧政の指摘、軍事顧問団の戦闘行為)を書けば、現地の官憲から忌避された。

また、現地の米軍報道官は本当の大失態を言わず、頻繁に起こる小さな失態だけを発表した。

一方、米国の編集者は、ホワイトハウスと国防総省の見解とベトナム特派員の記事が異なる場合、後者の記事を無視した。

後日、特派員が事実を書いていたことは、暴露されたペンタゴン・ペーパーズから判明している。

 

ホワイトハウスのある報道官が声明を出した。

「ベトナム発のニュース記事は感情的で不正確である」

国家安全保障担当顧問が残したメモから、上記発言の目的が読める。

「コミュニケ(声明)は何も言うべきではない。常に報道陣の目をくらませ、からかう術に長けるべきだ」

 

しかし、これら圧力に抗したケースもある。

ケネディはニューヨーク・タイムズの発行者に、ベトナムへの介入政策に反対する記事を書き続ける現地特派員を、配転するように依頼した。

その発行者は、それを拒否し、逆に記者の要求する休暇を取り消し、続投させた。

 

次回、特班員の葛藤を追います。

 

 

 

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社会と情報 16: 報道特派員の苦闘 1


ピューリッツァー

< 沢田が撮ったベトナム戦争、1966年のピューリッツァ賞 >

 

米国の報道マンがベトナムの真実を如何に伝えようとしたかを見ます。

“The first casualty when war comes is truth.”

「戦争が起これば最初の犠牲者は真実である。」

 

これは米国の上院議員が、第一次世界大戦に米国が参戦した1917年に語ったものです。

真実が見えなくなるメカニズムを追って行きます。

それは日本でも起こったことであり、放置すれば、将来繰り返すことになるでしょう。

 

参考文献

「戦争報道の内幕」フィリップ著、1975年刊。

主にこの本を参考しました。

この本は、英国の一新聞記者が世界の戦争報道の実態を調査したもので、多くの資料を渉猟し、特に関係者へのインタビューが貴重です。

扱っているのは、新聞が普及した19世紀中頃以降からベトナム戦争までを扱っています。

 

ベトナム戦争

< ベトナム戦争 >

 

注意していただきたいこと

話を分かり易くする為に、共産圏の動きを省き、要点だけを指摘しています。

従って、米国が一方的に悪いと印象を受けられるかもしれませんが、私の本意ではありません。

オリバーストーン監督は、現在、米国の青年の51%はベトナム戦争を失敗でないと考えていると指摘している。

 

特派員

< 特派員 >

 

当時の報道の状況

当時の報道と国民の関心を端的に示すエピソードを紹介します。

1972年、ホーチミン(旧サイゴン)での作戦説明会で、攻撃目標の質問について、答えようとしないスポークスマンに米紙の特派員が噛みつきます。

 

『あなたはアメリカのことが恥ずかしくないのか。北ベトナム人、ソ連人、中国人は、どの目標が攻撃されたか知っている。攻撃は実際に行われている。・・。知らないのはアメリカ市民だけだ』

しかし彼らの抗議は役に立たなかった。インドシナでの航空戦は急激に増大したが、ほとんど報道されず、・・。

 

(これに続いて別の記者が書いている)

『・・宗教裁判が軽蔑されるように、ニクソンと彼の爆撃哲学もいつか軽蔑されるようになるだろう。しかし自国の行動に対してアメリカ人の関心がまったく欠如していること、そしてアメリカ人自身が爆撃をしながら死んでいくわけではないので、・・』

 

これは米国主導の隣国への侵攻と北爆再開を指している。

 

タイガーフォース

< ベトナム戦争時、ある空挺部隊が行った残虐行為の裁判用の調書 >

 

兵士は何をしたのか

伝えてはならない不都合な真実の一つは、米軍兵士の残虐行為です。

 

ベトナムで米軍の虐殺事件が発覚し、それを受けてベトナム駐留の米軍大佐が述べた。

『ある人々は、日本軍は残虐行為を犯した、ドイツ軍も・・ロシア軍も・・、アメリカ軍だけは残虐行為を犯さないと思っている。ところがそうではない。アメリカ軍部隊も・・、残虐行為を犯す能力を持っている。』

 

ベトナムの航空戦に付きそった従軍記者が、米軍のパイロット達について回想している。

「90%はほぼ同じ考えだった。『共産主義を食い止めなければならないし、カリフォルニアの海岸よりはここベトナムでそれをやった方がいい』。ある爆撃機パイロットは、非武装地帯から始めて、北ベトナムの男、女、子どもを一人残らず殺すべきだと思っていると私に語った」

これはまだ戦争が始まった頃の話です。

後には、筆舌しがたい凄惨な状況になっていきます。

一つには、北ベトナム兵のゲリラ戦への報復もありました。

しかし、米軍の戦闘評価に、ベトナム人と米兵士の死者比率がありました。

当然、北ベトナムと南ベトナムの区別、ゲリラと農民の区別はつきません。

 

 

次回、なぜ真実が報道されなかったかを見ていきます。

 

 

 

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社会と情報 15: 真実は如何にして


学生デモ

< 学生の反戦デモ >

 

当時、米国民は大規模な反戦運動を行った。

しかし、すぐ終戦とはならず戦火は拡大した。

それはなぜ起こったのだろうか?

この間の事情を追っていくと、見えてくるものがあります。

 

米国の反戦運動

60年代は米国のキング牧師に代表される公民権運動に始まり、女性解放運動も盛り上がりました。

フランスの学生運動に始まり、日本も感化され、世界で市民や学生の示威行動に火が着いた。

65年の北爆開始頃から米国の反戦運動が始まり、67年から70年へと活発化した。

反戦集会、デモ、ストライキの規模は全米で最大50~100万人に達した。

 

選挙戦のニクソン

< 選挙戦のニクソン >

 

人々は大統領に何を望んだのか

軍隊を最初に送ったケネディは、公民権法案の上程中に暗殺された。

引き継いだジョンソン(63~69年)は、ベトナム反戦の世論や報道機関の批判にさらされ、次期大統領選への不出馬を表明することになった。

69年にニクソンが「名誉ある撤退」「栄誉ある平和」を唱えて勝利し大統領になる。

この選挙戦で、第三党の候補者がベトナム戦争強硬策を主張したが、二大政党の両候補は戦争終結で一致し、互角に闘った。

彼は軍の段階的撤退、キッシンジャーの秘密外交による中ソとの宥和策(デタント)で実績を示し、72年、2期目の大統領選で大勝した。

4年かかった北ベトナムとの和平交渉が73年に実を結び、米軍の全面撤退がなった。

 

カンボジア戦線説明

< カンボジア戦線の説明 >

 

どこに問題が潜んでいるのか

反戦運動が盛り上がり、大統領は非難され、戦争の幕引きに向かわざるを得なくなった。

しかしこの盛り上がりは、皮肉なことに、さらなる悲劇を影で生み、さらなる長期化につながった。

反戦世論を受けて、大統領は戦略的に矛盾する「米兵の撤退」と「栄誉ある平和」(不名誉な敗戦ではない)を国民に約束せざるを得なかった。

それが、効率の良い米空軍によるカンボジアとラオスへの侵攻と北爆となった。

結局、米兵完全撤退はケネディの米軍の戦闘開始から13年後になった。

 

厳しい言い方だが、反戦運動により大統領府を動かし米兵完全撤退を得たが、それに比べインドシナの戦火拡大を容認していたように思える。

 

 

北爆

< 北爆 >

 

もし米国民が真実を知っていたら

国民はインドシナに無関心だったのだろうか?

実は、当時、国民は戦場の真実を知らせていなかった。

真実を知っていたら、別の選択を行ったかは不明だが。

 

マスコミは戦争報道を行っていたが、戦争遂行に都合の悪い情報は国民に流れ難かった。

やがて幾多の戦場特班員の闘いが実り始め、不都合な真実が国民に知らされるようになった。

 

「正義と自由の為に戦い、勝利すると思っていた戦争が、実は凄惨で、腐敗した傀儡政権を助けるだけで、泥沼の膠着状態である。」

 

国民はおぼろげながら実態を知るようになるが、多くの人々は最後までベトナムの真実を知ることはなかったようだ。

 

なぜ真実が伝わらないのか

私は、欧米の戦争報道は、日本のものとは格段に違うものと思っていました。

第二次世界大戦中、ヒトラーの扇情的なニュース映画も、日本の大本営と新聞の虚偽報道も、酷いものでした。

それと比べると米英の戦争報道は真実を伝えようとしていた。

ベトナム戦争でも、太平洋を越えてアメリカに生の情報が一部伝わっていた。

 

しかし、そこには万国共通の戦場報道の問題がありました。

政府の圧力、困難な現地取材、報道マンのジレンマ、国民のムード、報道各社の立場が絡みあい、真実はぼやけてしまうのです。

 

次回より、具体的に戦場の特班員と報道の様子を見ます。

 

 

 

 

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社会と情報 14: 大統領府で何が起きていたのか? 2


 枯れ葉剤投下

< 枯れ葉剤投下 >

 

前日に続いて

 

空爆優先は、味方の消耗を減らし如何に敵を多く殺すと言う戦争の論理に叶っている。

 

だから、世界の批判を避ける為にトンキン湾事件を捏造してでも北爆をやることになった。

しかし北ベトナムとカンボジア、ラオスへの絨毯爆撃、ジャングルへの枯れ葉剤散布、無差別砲撃がインドシナに与えた損害は甚大だった。

これらは敵兵に打撃も与えたが、それ以上にベトナム国民と国際世論を敵に回すことになった。

これらが当時の難民150万以上、行方不明と死者800万、さらに40年後の今も枯れ葉剤による障害児70万がいる。

当時、米国はベトナム人の被害を調査することもなかったし公表することもなかった。

当時エルズバークは、米国の作戦による南ベトナム国民の被害や意識調査を進言したが無視された。

 

難民

ボートピープル

< 難民 >

 

軍部が主張する大兵力投入を最初から実施すれば良かったのだろうか。

 

軍部は、フランスに勝った北ベトナム軍を甘くは見ていなかった。

しかし終盤には、不可能な地上兵力百万を投じても勝てないと悟るようになっていた。

これは、予想よりも遙かに多くのベトナム兵を殺さないと、降参しないことを意味する。

当時の米国の将軍達はこの常識を越える独立への執念に、ついに思い至ることはなかった。

結局、軍部も誰も、ベトナムの歴史や民族を知らず、最後まで力で押さえることを信じて疑わなかった。

この他国への無理解については別に考察します。

 

キッシンジャーがベトナム戦争の打開策をエルズバーグ博士に諮問した時、彼の答えに勝利の方程式が無かった。

不謹慎だといぶかるキッシンジャーに、博士は「勝てるシナリオが見つかりません。原爆使用は論外なので・・・・」

博士には、吹っ切れるものがあった。

 

民間出身で、三代の大統領の下でベトナム戦争の采配を振ったマクナマラ国防長官は、ニクソン政権下の途中で辞めることになる。

それは、増派・増強、核爆弾の要求をエスカレートさせる軍部に懐疑的になり、一転して段階的縮小を大統領に提案したことによる。

結局、最後の大統領は、核爆弾以外の強硬策を採用し、一方で和平交渉を行った。

 

原爆投下

< 原爆投下 >

 

問題は何か

暴走し逸脱していく戦争を、その時に如何に正せるかが重要です。

後になって、国のトップを戦争犯罪で告発しても、後の祭りです。

 

当時、大統領府は、都合の悪いことや下心を隠し、国民に対して希望を捏造し、良い印象を与え、時には戦意を鼓舞することもあった。

国民は大統領府の不穏な動き、戦地ベトナムの真実をかなり遅れて知ることになった。

64年のトンキン湾事件の捏造は、エルズバーグの機密文書暴露で、71年にやっと知ることが出来た。

当時、ホワイトハウス、国務省、国防総省、ランド研究所に総勢7万近いスタッフがおり、ベトナム戦争の真実を知る人は多くいたはずだが、その一部でも公開し、国民に訴える人は数人だった。

 

多大な影響を与える国の舵取りの情報が、防衛・外交機密を盾に、国民には届かなくなっているのです。

 

次回、当時の報道機関がどのような役割をしていたのかを見ます。

そこからは驚きと失望と、少し勇気がもらえるでしょう。

 

 

 

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社会と情報 13: 大統領府で何が起きていたのか? 1


安全保障会議

< 国家安全保障会議 >

 

大統領は、ベトナム戦争の政策をどのように決定したのだろうか?

ここでは歴代大統領と大統領府に共通する行動パターンを見ます。

ホワイトハウスとベトナムをよく知るエルズバーグ博士が書いた1972年刊「ベトナム戦争報告」を参考にします。

 

はじめに

最高指揮官の大統領は国家安全保障会議の助言を得て、戦略・作戦を決定する。

但し、その実施には議会の承認が必要になる。

安全保障会議には、大統領と外交(国務省)、情報(CIA)、軍事(国防総省)のトップ、主要補佐官が参加する。

 

ベトナム紛争は、世界の紛争に目を配り、百万の軍隊を動かす大統領にとって国内外の処理すべき1案件にすぎない。

例えば、ケネディ以降の3人の大統領は、米ソの緊張緩和、中近東問題、アポロ計画、人種差別、環境保全、中国承認、核兵器削減など、大きな仕事を成し遂げていた。

 

ペンタゴン

< 国防総省 >

 

彼らの行動パターンは?

非常に乱暴な要約ですが、彼らに共通するものでしょう。

 

大統領

  1. 自分の任期中には、共産主義者にベトナムを明けわたさない。
  2. 国民や議会の不人気や反発を招く戦争拡大は避け、かつ弱腰と見られたくない。

軍部

  1. 米兵の死傷者を少なくするために、核の使用や空爆を優先し、地上軍派遣は抑えたい。
  2. しかし中途半端でなく、早めに大兵力で相手を徹底的に叩いてこそ勝利するとの信念がある。

全体(上級スタッフ、軍部、官僚)

  1. 米国の為の戦いだから、ベトナム側の被害には関心がない。
  2. 作戦の失敗には触れない、新たな作戦に活路を見出し、作戦や援助には希望があることを示す。

 

 

狙撃兵に対抗して乱射

< ベトナムでの夜間攻撃 >

 

この行動パターンからベトナム戦争が見えてくる。

 

大統領達は軍部が要請する増派と爆撃に対して、かなり控え目に決断することが多い。

公表では、自国の派兵や損害を目立たなくし、将来の増派や戦線と被害の拡大が少ないように印象付ける。

したがって、ベトナムで戦火が広がり、南ベトナムの不利が明白になるまで手を打たず、概ね大統領就任時や最悪期、または選挙を睨んで手を打つことになる。

このことが、20年間で5人の大統領による戦争へのテコ入れが5回繰り返された理由だろう。

こうして戦火は拡大しながら継続することになった。

結果的に、大統領達は米国初の敗戦の将の不名誉を避け、次ぎに譲ったように見える。

 

南ベトナム政府が統治の呈を成していないことを彼らは充分承知の上で、これを伏せ、援助すれば、戦いに希望があると訴えた。

米国には反共産の強権的な傀儡政権が必要で、このことが弾圧と腐敗を深める政権を生み、南ベトナム国民は離反していった。

米国の助言を聞かないこの政府は豊富な物資と軍事援助を流用するだけだった。

米国のゲリラ対策失敗も重なり、始め非共産だった人々も、北ベトナムに呼応することになり、益々兵力投入が必要になった。

ケネディは一度、この政権を見限ろうとしたが出来なかった、後にこの政権は転覆させられる。

 

次回に続きます。

 

 

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The society and the information 12: I would be grateful for your understanding in the United States.


地球

社会と情報 12: 米国の皆さんに、ご理解をお願いします

 

Now, I am going to study the relation between the information and the society about the Vietnam War.

But, forgetting our own fault about the war of our country, I hate to criticize the war of foreign country. 

 Firstly, I apologize about it to American readers and I ask for understanding.

 

現在、ベトナム戦争を題材にして、情報と社会の関係を見ようとしています。

しかし、私は自国の戦争を棚に上げて、他国の戦争をあげつらうことに、心苦しいものがあります。

始めに、米国の読者の皆さんに誤り、ご理解を願うものです。

 

I am not dealing with this problem in order that I may blame or dislike the U.S.

I am thankful to the U.S. that contributes to the security of the world with a self-appointed role of the police.

The good points of the U.S. are the posture to maintain the democracy firmly, including the strong mass communication, the protection of internal whistleblower, and the disclosure of the secret official document.

I think that the good points of the U.S. are insufficient in Japan.

In Japan, although there are also good points plentifully, Japan is delayed in comparison with the U.S. in respect of the above, though regrettable.

Although Japan has old history, people don’t keep the record and then they lack in the posture of reflecting on the affair later.

In respect of that, there is record than the war of Japan, and the Vietnam War that the analysis is superior to it is good as a subject matter.

Particularly, the sign that I have worried in the politics of Japan just arose.

The bud is still small.

 

私は米国を責めたり嫌ったりして、この問題を扱っているのではありません。

世界の警察を任じ世界の安全保障に貢献しておられる米国に感謝しています。

強固なマスコミ、内部告発の保護、機密公文書の開示など、民主主義を堅持する姿勢は、日本に不足している米国の良さだと思っています。

日本は良い所も多々あるのですが、残念ながら、上記の点で遅れています。

日本は、古い歴史を持っているのですが、記録を残して後日、その事績を反省する姿勢に欠けています。

その点、日本の戦争よりも記録があり、分析の進んでいるベトナム戦争は題材として優れています。

特に、現在、日本の政治に危惧すべき動きが生じています。

その芽はまだ小さいのですが。

So, I picked up the example of America although being haughty.

I may write the analysis and the opinion that stepped from now on.

Please forgive it.

Please fill with a reproof and an opinion anything.

 Next time, we look at what was taking place in the Executive Office of the President.

それゆえ、私はあえて不遜ながら米国の事例を取り上げました。

これからも、踏み込んだ分析や意見を述べるかもしれません。

よろしくご容赦のほどをお願いします。

何なりと叱責、ご意見をご記入下さい。

次回、大統領府で何が起きていたことを見ます。

 

 

 

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社会と情報 10: 戦争を招いた情報の欠陥 1


朝鮮戦争 

< 1.朝鮮戦争 >

前回紹介したエルズバークは、ベトナム戦争の経緯を分析し、大統領府の犯罪性に憤り、告発の挙に出ました。

国家が戦争に深入りしていく過程で、情報がどのように関わっているか、要点を見ます。

 

はじめに

皆さんは、自国の戦争が無駄で、犯罪と指摘されることに憤るでしょう。

ましてや身近な人が負傷し死亡されておられればなおさらです。

また、戦争は好んでするものではなく、憎むべき極悪の敵国があればこそだと思っている方も多いはずです。

一方で、正義の戦争があるとしても、戦争は小さく短く終わって欲しいとも思われるはずです。

 

 共産圏の首脳

< 2.当時の共産圏首脳 >

  

ベトナム戦争の泥沼へ

この長大な戦争を、人々の感情と情報の観点から、要点を切り取り、見ていきます。

そこには思わぬ落とし穴と情報の欠陥が待ち受けていました。

 

1945年、第二次世界大戦は日本への原子爆弾投下で幕が閉じましたが、これを命じたのがトルーマン大統領でした。

敗戦後、トルーマンは米ソに共通の敵が無くなることから先手を打ち、ソ連に対して強硬路線を取り(トルーマン・ドクトリン)、冷戦時代へと突入することになります。

50年に朝鮮戦争が勃発し、急激に共産主義への脅威が高まり、赤狩り(マッカシー旋風)が米国に吹き荒れます。

大戦時のヒトラーや中国共産軍への初動の抑え込み不徹底が、戦火の拡大を招いたとの反省が起こります。

こうして、米国はこの後、「共産主義封じ込めの民族支援」で世論が一致し、長らくその呪縛から解けなくなります。

 

一方、ベトナムは2千年にわたる中国とフランスからの独立を戦い抜いて来ました。

そのゲリラ戦は筋金で入りでした。

大戦後、北部ベトナムに共産主義政権が興りますが、当時、多くの植民地も同様に独立を目指していました。

米国政府は、植民地化政策に反対だったのですが、フランスが負けると、ベトナムの自由主義を守る意図で、介入していきます。

 

こうしてトルーマンに始まり、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの5人の大統領が政策を継承し戦争を拡大していくことになります。

 

5人の米国大統領  

< 3.1945~74年の米国の大統領 >

 

この初期の米国に、何か問題があったのでしょうか?

この段階で失策だとは断言出来ない、残念だとは思うが。

 

日本の明治維新から太平洋戦争への経緯もそうですが、最初は確かに脅威が存在しました。

そして戦いを継続していく内に、初期の脅威論とは別の意図や世論が拡大を促しました。

どこかで道を間違ったのは確かですが、そのターニングポイントの指摘では意見が分かれるところです。

 

しかし一つだけ、言えることがあります。

戦争を遂行する上層部には、正しく状況を把握している人々が少なからずいたはずです。

その真実が国民に伝われば、犠牲を強いられる人々は進路変更を早く望んだはずです。

 

次回、ベトナム戦争が拡大していく過程で情報がどうなるかを見ていきます。

 

 

 

 

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社会と情報 9: ホワイトハウスとどのように闘ったか


 

 博士の告発を描いたドキュメンタリー映画

< 1.博士の告発を描いたドキュメンタリー映画 >

最初、エルズバーク博士はベトナム戦争収束のために、ホワイトハウスの最上級スタッフに働きかけた。

しかし、それは総べて徒労に終わった。

彼は、大統領率いるホワイトハウスを敵に回すことを覚悟しなければならなかった。

 

ホワイトハウス

< 2.ホワイトハウス >

闘いの火蓋は開かれた。

1969年10月、彼は国防総省の極秘ペンタンゴン・パーパーをコピーし始めた。

最初、議会の有力議員にこの7000頁の極秘資料の公開を依頼した。

最初興味を示した良識派の議員も、土壇場になるとリスクに恐れをなし、公開を拒絶する。

そこで71年春、博士はニューヨーク・タイムズ紙の記者にコピーを渡した。

しかし公表の確約はもらえなかった。

告発を決心してから2年が経とうとしていた

博士は、さらに頼れる議員を捜し、徴兵に抗して議事妨害を行っている議員を新聞で知った。

その議員に演説ネタとしての極秘資料を渡す為に、現地に飛び妻とホテルで待機していた。

その71年6月13日、ニューヨーク・タイムズが極秘ファイルの連載を始めた。

その新聞社は、公表すれば責任が持てないと弁護団から見放されていた。

 

現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ

< 3.現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ >

夫婦でホテルのテレビを見ていると、FBIが博士の自宅乗り込む様子を生々しく放送していた。

博士は匿名で動いていたのだが、誰かが彼の名を漏らした。

博士は、命の危険と逮捕を予想して数多くのコピーを協力者に配布しておいた。

その後、夫婦でホテルに潜伏することになる。

一方、ニクソン大統領はホワイトハウスで彼を潰す為に、FBI長官と秘密部隊にハッパをかけていた。

政府の申し立てで、地裁は新聞社に連載停止の仮処分命令を出した。

すると次いで他の新聞社が、そのコピーの公開に踏みだしたが、またもや連載停止命令が出た。

しかし政府の意向に逆らってでも、勇気ある新聞社や出版社がこれに続いた。

さらに17日後、新聞社の申し立てで最高裁は素早く掲載を認める判決を下した。

 

ニクソン大統領とキッシンジャー

< 4.ニクソン大統領とキッシンジャー >

遂に、博士は逮捕され、機密文書の不法所持やスパイ容疑などの12の罪状で禁固110年を越えていた。

素晴らしい協力者もいたが、裏切りもあり、ついに絶体絶命となった。

元CIAと元FBIで編制された秘密部隊「鉛管工グループ」に、大統領は博士の身辺を調査し、マスコミを使って彼の信用を失墜させることを命じた。

彼らは博士かかりつけの精神分析医事務所に忍び込み、書類をあさった。

ところが思わぬ展開が待っていた。

その鉛管工グループが翌72年、大統領選挙の内情を探る為に民主党のビルに不法進入し、逮捕された(ウォーターゲート事件)。

このことから、鉛管工グループの博士に対する犯罪行為や電話の盗聴が判明し、73年、地裁は博士に対するすべての控訴を棄却した。

 

1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン)

< 5.1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン) >

こうして博士は自由の身となり、圧勝で2期目を手に入れたが大統領は、74年、この事件で弾劾され去ることになった。

彼の行動が、ベトナムからの撤兵を大きく押すことになった。

 

 

 

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社会と情報 8: ベトナム戦争を止めようとした男


 ベトナム戦争

< 1、ベトナム戦争 >

ホワイトハウスの内部から、一人の男がベトナム戦争を止めようと動いた。

彼の行動は、盛り上がりつつあった反戦運動の火に油を注いだ。

政府は彼を「アメリカで最も危険な男」と呼んだ。

 

 ベトナム戦争

< 2、ベトナム戦争 >

彼の内部告発を語る前に、ベトナム戦争の概要を紹介します。

1961~75年、米国がベトナム全土で戦った。

敵味方の総兵力330万人がジャングルと水田で戦った。

投下爆弾は第二次世界大戦の3倍以上だった。

行方不明・死者の総数は800万人を越える。

米国は兵員最大55万人を送り、日本のGDP1年分に相当する戦費を使い、死者6万人を出した。

 

 ベトナム戦争1975年

< 3、1975年、ベトナム戦争終結時 >

 戦争の経緯

この地域はフランスが長らく植民地としていた。

第二次世界大戦後、米ソは冷戦時代に突入し、この地でも独立運動が起きた。

米国は「共産勢力の侵略から自由主義陣営を守る」を旗印に、ベトナムの南部に傀儡政権を樹立、経済・軍事援助を開始した。

米国の軍高官は、小さな後進国を圧倒的な戦力で制圧出来ると楽観視していた。

しかし、戦況は泥沼、膠着状態となる。

ホワイトハウスが如何に言い繕っても、真実は漏れ、国民に厭戦気分が徐々に広がっていった。

 

 反戦デモ

< 4、反戦デモ >

 70年には全米で百万人の反戦デモが起きた。

ニクソン大統領が名誉ある撤退を模索する間にも、戦争は拡大していった。

この時期、エルズバーグ博士が内部告発(ペンタゴン・ペーパーズ事件)を行い、2年後完全撤退が行われた。

この撤退の2年後、ベトナムは統一され共産国家になった。

米国は多大な人命、戦費、爆弾を費やして、遂に目標を達成出来なかった。

50年代のベトナム介入から、完全撤退まで5人の米国大統領がこの戦争に関わることになる。

 

 ニューヨーク・タイムズ紙

< 5、1971年、ペンタゴン・ペーパーズ暴露記事 >

 ペンタゴン・ペーパーズ事件とエルズバーグ博士

1971年、ニューヨーク・タイムズ紙が国防総省の極秘ファイルを連載し始めた。

これはエルズバーグ博士が、国防総省内でコピーして持ち込んだものでした。

この資料は「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれ、1945年から68年の「ベトナム政策の意志決定過程」の調査報告書で、省内のあらゆる記録情報が網羅され、7000頁に及んだ。

 エルズバーグ

< 6、エルズバーグ博士 >

彼はこの調査報告書の作成にも関わり、かつ閲覧を許されている10名程の内で、全編を読んだ数名の一人だった。

彼は経済専門だが、国防総省内でゲーム理論を使い核抑止の政策や実際の侵攻計画を練っていた。

端的に言えば、彼は戦略研究者であり情報分析官、作戦立案者であった。

彼は国防省の将官クラスとして、またホワイトハウスにも出入りしベトナム戦争に深く関わることになる。

 

 

 

      

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Go around the world of Buddha statues 5: Buddha statue of Southeast Asia


 

 Buddha seated statue of Borobudur 

< Buddha seated statue of Borobudur >

I introduce Southeast Asian Buddha statue and Buddhism remains this time.

 

今回は東南アジアの仏像と仏教遺跡を紹介します。

 

Southeast Asian countries as of now

< Southeast Asian countries as of now >

 

  Southeast Asian countries at the 12th century 

< Southeast Asian countries at the 12th century >

In Southeast Asia, many nations repeated flux and reflux of the tides, and it resulted in major changes in power relationships.

Especially Cambodia (Angkor dynasty), Thailand, Myanmar became the biggest force at one time, respectively.

From ancient times, Buddhism, Hinduism, and Islam from India, China, and Arabia flowed in Southeast Asia, and they were intermingled.

Therefore, Buddhist art had diversity and originality.

 

東南アジアでは、幾多の民族が栄枯盛衰を繰り返し、その勢力図は大きく変わることになった。

特にカンボジア(アンコール朝)、タイ、ミャンマー等は一時、それぞれ最大勢力となりました。

東南アジアは、古代よりインド、中国、アラビアから仏教(小乗、大乗)、ヒンドゥー教、イスラム教が流入し混在した。

したがって仏教美術は多様性と独自性を持つことになった。

 

 

Myanmar

ミャンマー

Buddha seated t stature : Pagan Period, bronze 

< Buddha seated t stature : Pagan Period, bronze >

 

 Pagan : metropolis ruins of the Pagan dynasty   

< Pagan : metropolis ruins of the Pagan dynasty   >

This country was the nearest to India and was affected by Buddhism and Hinduism first in Southeast Asia.

The first Pagan dynasty (the 11~13th century) made Hinayana Buddhism the state religion, and it has continued till today.

Buddhist architectures of more than 2000 are scattered in the jungle of Pagan.

 

この国はインドに最も近く、東南アジアで最初に小乗・大乗仏教、ヒンドゥー教の影響を受けた。

最初のパガン王朝(11~13世紀)が小乗仏教を国教にし、今日に至っている。

パガンではジャングルに2千以上の仏教建築が点在している。

Thailand

タイ

Buddha seated t stature : pre-Ayutthaya art, bronze, the 14th century

< Buddha seated t stature : pre-Ayutthaya art, bronze, the 14th century >

Thailand was sandwiched in between Myanmar of the west and Cambodia of the east, and this Buddha statue style is affected by art of Angkor dynasty.

 

タイは西のミャンマー、東のカンボジアに挟まれ、この仏像様式はアンコール朝の影響を受けている。

 

Ayutthaya: metropolitan ruins of the Ayutthaya dynasty, the 14~18th century

< Ayutthaya: metropolitan ruins of the Ayutthaya dynasty, the 14~18th century  >

The Sukhothai dynasty (the 13~15th century) which Thais made first made Hinayana Buddhism the state religion, and it has continued till the present.

The subsequent Ayutthaya dynasty was ruined depending on an attack of Burma (Myanmar) at the late 17th century.

 

タイ族が最初に作ったスコータイ王朝(13~15世紀)は小乗仏教を国教とし、現在まで続いている。

それに続くアユタヤ王朝は17世紀後半、ビルマの攻撃を受けて滅んだ。

 

Cambodia

カンボジア

Buddha seated stature : Ayutthaya period, bronze 

< Buddha seated stature : Ayutthaya period, bronze >

The Naga (a god of snake) of India protects Buddha doing Zen meditation.

 インドのナーガ(蛇神)が座禅を組む仏陀を庇護している。

Angkor Thom and faces of Kannon( Deity of Mercy)  : metropolis ruins of Angkor dynasty, end of the 12th century

Angkor Thom and faces of Kannon( Deity of Mercy)  : metropolis ruins of Angkor dynasty, end of the 12th century

< Angkor Thom and faces of Kannon( Deity of Mercy)  : metropolis ruins of Angkor dynasty, end of the 12th century   >

At this time, Angkor dynasty (the 9~15 century) became the golden age.

The king who built the Angkor Tom was committed to Mahayana Buddhism than Hinduism.

There are the faces of Kannon that are smiling in four aspects of innumerable towers.

The towers and the Kannon shined in gold in those days.

There is Angkor watt (the early 12th century) of Hinduism adjacent to this.

Hinayana Buddhism is the state religion now.

 

この時期、アンコール朝(9~15世紀)は最盛期を迎えた。

このトムを建設した王はヒンドゥー教より大乗仏教を重視した。

無数の塔の4面には微笑んでいる観音像の顔がある。

当時、塔と観音像は金色に輝いていた。

これに隣接してヒンドゥー教のアンコール・ワット(12世紀始め)がある。

現在は小乗仏教が国教となっている。

 

Vietnam

ベトナム

  Thousand Armed Avalokiteshwara ”Kannon”: wooden statue being treated with vermilion and gold leaf, a northern dynasty, the 17th century

< Thousand Armed Avalokiteshwara ”Kannon”: wooden statue being treated with vermilion and gold leaf, a northern dynasty, the 17th century >

Vietnam had split into north and south until the early 19th century, and the northern part continued being affected by China.

The northern part was affected with Mahayana Buddhism from China, and the southern part was affected with Hinduism and Buddhism from India.

Now, Mahayana Buddhism occupies most.

 

 

ベトナムは19世紀初頭まで南北に分裂しており、北部は中国の支配と影響を受け続けた。北部は中国から大乗仏教、南部はインドからヒンドゥー教と仏教の影響を受けた。

現在、大乗仏教が大半を占めている。

 

Indonesia

インドネシア

 

Bodhisattva seated statue: Eastern Java, stone, about 1300 year 

< Bodhisattva seated statue: Eastern Java, stone, about 1300 year >

 

Borobudur: Central part Java, the last of the 18th century 

< Borobudur: Central part Java, the last of the 18th century >

Indonesia consisted of many islands, and it was an important place of traffic on the ocean for many years, therefore many religions were intermingled.

This temple was built near a metropolis by a dynasty (the 8~9th century) which was devoted to Mahayana Buddhism, and there were 500 Buddha statues in here.

Then, Hinduism and Buddhism were mixed up, Islam became dominant in the 15th century, and this temple was buried in the jungle.

Now, Islam is the largest religion.

 

 

インドネシアは多数の島々からなり、古くから洋上交通の要衝であることから、多くの宗教が混在している。

この寺院は大乗仏教に傾倒した王朝(8~9世紀)によって王都近くに建設され、5百体の仏像が鎮座している。

その後、ヒンドゥー教と仏教が混淆し、15世紀にはイスラム教が旺盛となり、これは密林に埋もれた。

現在、イスラム教が第一の宗教です。

 

 

 

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Travel to Vietnam 5 : a sightseeing tour of Mekong 2


 a garden of a restaurant    

< a garden of a restaurant   >

I introduce a restaurant in My Tho.

And I introduce the scenes from Mekong to Ho Chi Minh City also.

 

ミトーのレストランを紹介します。

メコン川からホーチミンまでの景観も紹介します。

 

 a garden of a restaurant    

< a garden of a restaurant    >

We had lunch at this restaurant.

This site is very large and the building and the yard are exotic atmosphere of a southern land.

Everywhere, there were deep green plants and flowers in full bloom.

 

ミトーのレストランで昼食をとりました。

この敷地は非常に広く、建物や庭は南国の楽園のイメージです。

到る所、濃い緑の草木が配され、満開の花が咲いていました。

 

a lunch   

< a lunch   >

This lunch was impressive.

No. 1 is a fly of the elephant ear fish.

Although the fish dish was grotesque, it was nice, when we ate with soaking in nuoc mam(fish sauce).

Including a rice ball, we enjoyed the meal that was different with the appearance and the texture.

 

ここの食事は印象に残った。

一番は像耳魚のフライです。

グロテスクな料理ですが、それをヌクナム(魚醤)に浸けて食べると旨い。

ライスボールも含め、見た目も食感も異なる食事を楽しめた。
landscapes between My Tho and Ho Chi Minh City    

< landscapes between My Tho and Ho Chi Minh City    >

A forest is visible to the long distance of arable land.

The rice plant that waits for harvest in vivid green, the fields that were already mown, and the neglected field have intermingled.

in a top photograph, the white, the blue, and pink’s structural objects are graves.

The ship floating in a river and a lake made me feel nostalgic.

 

田園地帯の遠くに森林が見える。

青々と収穫を待つ稲、既に刈り取れた田畑、放置された畑が混在している。

一番上の写真にある白、青、ピンクの築造物は墓です。

川や湖に浮かぶ舟は、昔ながらの風情を漂わせている。

 

several cityscapes being near to Ho Chi Minh City

< several cityscapes being near to Ho Chi Minh City >

Indeed, there is a feeling accomplishing rapid growth.

There are a flood of motorbikes on the road, many narrow dwellings growing taller, a dirty black river.

This Ho Chi Minh City seems to shoulder the instauration single-handed.

The expressions of people’s faces have been filled with eager.

On the other hand, they have gentleness and complaisant.

 

如何にも急成長を遂げている感がある。

狭い細く伸びた住居、どす黒い川、道路に溢れるバイクの洪水。

このホーチミン市が一手に復興を背負っているようだ。

人々の表情には意欲がみなぎっていた。

一方で、彼らは優しさや愛想の良さも併せ持つ。

 

Various religion    

< Various religion    >

Top   :  In a car, the red tassel of a China style, a white Kannon statue.

Center :  A Buddhist temple wearing roof decoration of the Southeast Asia style.

Down :  a Christian church.

My impression of Vietnam trip

I never felt a stifling atmosphere under the communist regime that I held before going.

When I went to Guangzhou, China about 15 years ago, in the same way, I watched the people who felt a freedom and were full of life.

In Japan, although there was a bad image of Vietnam, it was greatly different.

Although Vietnam products are very cheap, Vietnamese said that Chinese products were better than it.

The land value and the wage seem to rise almost every year.

We prayed for development and said good-bye to a friend and left.

At this time, this travel writing of Vietnam finishes.

 

A next travel writing is the scenery of the mountain village in central Japan.

 

上 : 運転席。中国風の赤い房飾り、白い観音像。

中 : 東南アジア風の屋根飾りが見える仏教寺院。

下 : キリスト教会。

 

ベトナム旅行の印象

行く前に抱いて共産主義政権下の息苦しい雰囲気をまったく感じなかった。

15年ほど前、中国の広州に行った時と同様に、開放感で生き生きした人々を見た。

日本国内では悪いイメージがあったが、大いに違った。

ベトナム製品は非常に安いが、現地の人は中国製品の方が良いと言う。

土地価格も、賃金も毎年のように上昇している。

私達は発展を願い、友人に別れを告げ、去った。

今回で、ベトナム紀行は終了します。

 

次回の旅行記は、日本中部の山村の風景を紹介します。

 

 

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Travel to Vietnam 4 : a sightseeing tour of Mekong 1


     Mekong  
I traveled a small island in Mekong.
This area is in “My Tho” of a doorway that is near from Ho Chi Minh City.
The island is covered in the jungle.
 
私はメコン川の小さな島を観光しました。
ここはホーチミン市から近いメコンの玄関口ミトーにあります。
島はジャングルで覆われている。
 
a map, the lower half shows Mekong delta.
< a map, the lower half shows Mekong delta.   >
Nature of the island    
< Nature of the island    >
 
Top:   A pier of the island.
Center:   Riverside of Mekong.
Down:    Trees of the island. There is neither high tree nor bottom grass, and the ground is drying in the dry season.
 
上: 島の桟橋。
中: メコンの川岸。
下: 島内の樹木。高木や下草が無く、乾期で地面は乾燥している。
Attractions of the sightseeing trip
< Attractions of the sightseeing trip  >
 
Top:  On a boat, I go round a waterway in the island. Many boats come and go in the small river.
Lower left:  I hung a python on the shoulder. A snake hardly moved, and I felt dignity and faint warmth. Adrenalin was secreted in my brain in large quantities.
Lower right:  the folk song and the performance were performed at the restaurant. I saw the women that wore “ao dai” (ethnic costume) for the first time.
 
上  : 小舟に乗り、島の水路を巡る。
たくさんの小舟が狭い川を往来している。
左下 : 肩に錦蛇を掛けた。
    蛇はほとんど動かず、私は重みと微かな温もりを感じた。
    アドレナリンが脳内に大量に分泌された。
右下 : レストランで民謡と演奏を演じていた。
     私は始めてアオザイ(民族衣装)を見た。
The fruit provided by the restaurant. 
< The fruit provided by the restaurant.  >
 
This island’s economy seems to consist of a small-scale tourist business.
There was not the thick jungle that I had imagined.
 
島は小規模な観光業で成り立っているようだ。
私の想像していた鬱蒼としたジャングルは無かった。
I leave the island and come back to "My Tho" of the opposite bank.
< I leave the island and come back to “My Tho” of the opposite bank. >
 
 streets of "My Tho" 
< streets of “My Tho” >
 
top : A street of the center part.
down : there are stores along the highway away from the center part.
 
I had imagined watching the people living calmly with the Nature, but there was not it.
 
However, I was able to watch the excellent vitality of Vietnamese people in the delta area and the town of Mekong.
 
On the next time, it becomes the last article of the travel to Vietnam.
 
上 : 中心部の街並み。
下 : 中心部から離れた幹線道路沿いの商店
大自然に囲まれ、ゆったり暮らす人々を私は見ると想像していたが、それはなかった。
しかしメコンのデルタ地帯や街に、ベトナムの人々の旺盛な活力を見ることが出来た。
 
次回は、ベトナム旅行の最後になります。
 
 
 
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