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デマ、偏見、盲点 20: 衆愚政治の恐ろしさ


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今日は、今、世界を席巻しつつある衆愚政治についてみます。

これは大衆迎合、ポピュリズム、右傾化、全体主義とも重なります。

世間ではこれを肯定する人々がまだ多数おり、危険な状態が続いている。

 

 

 

はじめに

皆さんはヒトラー総統やトランプ大統領は衆愚政治やポピュリズムを象徴する人物と思いますか?

 

言葉の厳密な定義は、学者でも意見が分かれていますので、気にしないでください。

イメージで結構です。

例えばヒトラーとトランプの似ている所はどのようなところでしょうか。

 

先ず、演説時の壇上のパフォーマンス、特に表情、手の扱いなどが似ています。

共に一貫性のある思想や政策がない(ヒトラーは適宜変節していった、トランプは支離滅裂か自由奔放)。

既存のエリート層、政治家、大企業、マスコミ、知識人を徹底的に否定する。

一方、我こそが大衆、労働者の味方で、雇用と労働条件向上を実現すると宣言する。

その達成手段は、自民族(ゲルマンかホワイト)だけの繁栄、他者(ユダヤかムスリム)を排除、そして力の行使(軍事力か経済力)で共通する。

 

二人は大変似ており、ヒトラーが衆愚政治によって生まれたのだから、トランプもも衆愚政治の産物と言えます。

それではなぜ、悲惨な歴史を知っているはずの人々が、未だにトランプを評価するのでしょうか?

 

トランプを肯定的に見る識者達の見解を要約すると以下のようになるでしょう。

一つは、彼らの多くは米国の共和党寄りのようで、単に民主党嫌いが理由のようです。

もう一つは、トランプが優れたトップの可能性を秘めいていると言うものです。

 

実は、ここに問題があるのです。

歴史的に見て、衆愚政治でトップになった人物は、その大言壮語なスローガンと破壊的な行動力が大衆から絶大な期待を集めていたのです。

 

衆愚政治のトップに共通する特徴があります。

彼らのほとんどは徳が無く下劣な品性の持ち主ですが、敵をやり込める口汚さなどの攻撃能力や大衆受けする芝居がかった振る舞いが前者の欠点を帳消しにして余りあるのです。

ヒトラーの場合は、クーデター未遂事件での収監時の態度が潔しとされ、トランプは身銭を切って選挙を戦ったことで好感されたように。

また共に、敵を徹底的に打ちのめします。

ヒトラーがスパイ紛いの汚い仕事をしていようが、トランプが税金を払わず、幾度も倒産して事業を拡大していようが人々は問題にしないのです。

 

衆愚政治の真の恐ろしさは、このようなトップを待ち望む人々がたくさん存在することなのです。

人々の期待を実現すると大風呂敷を広げ、行動力があると思わせれる人物が、衆愚政治のトップになるのです。

その結果、多くは破局に向かうのです。

 

破局に至る理由は簡単で、その手の行動力があると思われる人物は道理を顧みず、未来を深慮せず、他者を害することを厭わないからです。

社会が閉塞状態になったり、外からの脅威に晒されたと大衆が強く感じると、このような人物こそが、現状を打開できる人物と見なされ易くなるのです。

このことは米国で行われた心理学の泥棒洞窟実験が良く説明しています。

 

国が軍事的脅威に晒されると、粗野であっても、こわもてのトップが選ばれるのが常です。

衆愚政治から生まれたトップがいつも不幸をもたらすとは限らないが、社会が危険になる確率は高まる。

 

 

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衆愚政治の代表例

実は、世界史に名だたる衆愚政治の極め付きが2400年前にあった。

これは有名な古代ギリシャの都市国家アテナイで起きた。

この実に馬鹿げた悲惨な事件は、衆愚政治の愚かさをよく物語っています。

 

時は、紀元前415年、アテナイは200隻の軍船と数万の漕ぎ手と兵士をシチリアに向け出撃させた。

そして全滅するか、捕虜になってすべてが死んでいった。

 

戦史家トゥキュディデスはこの戦いを「ギリシャ史において、これ以上なく悲惨な敗北を喫し、完膚無きまでに打ち負かされた」と語っている。

 

 

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この戦いはなぜ始まったのか。

古代ギリシャとアテナイの絶頂期はペルシア軍を撃退した紀元前5世紀前半でした。

盟主アテナイは軍事力と軍事遠征で巨大な富を手に入れることに味を占め、やがてギリシャ全土が戦いに明け暮れるようになった。

その大きな戦争の一つがスパルタとアテネが勢力を二分して戦ったペロポネソス戦争(B.C.431-B.C.404)で、これが衰退の始まりでした。

 

アテナイは絶え間ない戦争で疲弊していたが、降ってわいたシチリアからの救援要請に、世論は慎重派と積極派に分かれた。

慎重派はアテナイの国力が前回の戦いから充分回復していない状況で、兵力が充分な手強いシチリアへの遠征は無謀だとした(これは的確な情報分析だった)。

 

すると、若い煽動家アルキビアデスは、シチリアは大きいとは言え、烏合の衆であり、気概のある相手ではなく、この際、支配権を拡大する絶好の機会だと訴えた。

そして大勢は決し、しかも大編成で行うことになり、彼は遠征軍の三人の司令官の一人に任命された。

 

ところが出撃すると、彼は神像破壊の容疑者としてアテナイから召喚を命じられます。

彼は日頃から傲慢で放埓であった為、敵が多く疑いがかけられたのです。

すると彼は敵国スパルタに亡命し、アテナイの情報を漏らし、スパルタにシチリア遠征を薦め、遂にアテナイ軍は殲滅されることになった。

 

なぜこんな裏切り者の軽薄なアルキビアデスの言をアテナイ市民は信じたのだろうか?

彼は名門貴族の出で、ソクラテスの弟子であり、演説家、政治家で、その美貌と才能によって市民に絶大な人気があった。

また彼は野心家で、それまでも遠征を焚き付けており、今回、成功すれば自分の名声と富が一層高まることをもくろんでいた。

彼の演説を聞いたアテナイの若者達は、昔の栄光の再来を夢見て、遠征に熱狂していったのです。

その後、アルキビアデスは各地で問題を起こし、ついには暗殺された。

 

この話には更に落ちがあります。

始め、アテナイはシチリアでの敗北を信じず、やがてパニックになった。

慎重派があれほど無謀だと指摘していたにも関わらず、現実逃避していたのです。

 

その後、アテナイの同盟国が次々と反旗を翻した。

その混乱の中、アテナイは民主政を捨て暴政にのめり込み、あらゆる面で衰退が加速していった。

ちょうどこの頃(B.C.399)、皮肉屋のソクラテスは濡れ衣を着せられ毒殺されることになった。

その後、アテナイはスパルタに占領され、さらに半世紀後(B.C.338)にはマケドニア王国に屈服し、ついに命脈は尽きた。

 

 

4ソクラテスにシケリア遠征の中止を説かれるアルキビアデス

< 4. ソクラテスがアルキビアデスにシチリア遠征の中止を説く >

 

 

何が問題なのか

まさに、アテナイのこの一連の事件には「はじめに」で紹介した衆愚政治のパターンが凝縮されている。

 

閉塞状態に陥っていたアテナイ市民は、アルキビアデスの欠点には目もくれず、途方もない夢だからこそ飛びついたと言える。

彼は野心家で、大言壮語し、責任を取るどころか裏切りすら平気な人物でした。

そんな人物に振り回され、あれだけ栄華を誇り、民主政を生み出した国家が無惨な結末を迎えたのです。

 

もしアテナイの市民が煽動家アルキビアデスを信じなければ、または彼が生まれていなければアテナイは繁栄を続けることが出来たのだろうか?

この文章でアルキビアデスをヒトラーに替えたら・・・・。

 

大なり小なり、代わりの人物がこのトップの役を担うことになるでしょう。

もっとも、アルキビアデスやヒトラーほど優秀(極悪)ではなく、損失はまだ少なくて済んだかもしれませんが。

つまり、最も恐ろしいのはこのような人物をトップに崇める人々、偏向したマスコミ、権益擁護者の存在なのです。

 

 

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現在、あなた国のトップは、このアルキビアデスのような人物ではありませんか?

その人物は家柄が良く人気があり、大言壮語し、力に頼り、敵を激しく罵り、簡単に辞めたり、方針転換したり、都合が悪くなれば逃げ回る人物ではありませんか?

 

もし居るとすれば、衆愚政治を支える人々が多く居ることの証であり、それが減らない限り、同じようなことが続くことになる。

とりあえず、そんなトップは居ない方が良いのですが。

 

 

皆さん、くれぐれも注意願います。

 

 

 

 

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フランスを巡って 27: アルザスに想う


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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。

私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。

この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。

 

 

 

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< 2. アルザスの地図、上が真北です >

 

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。

フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。

赤丸はストラスブールとコルマールです。

 

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。

一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

 

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。

今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。

 

 

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< 8. リクヴィル近くの村 >

 

 

 

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< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >

 

この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。

遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。

これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。

 

 

 

アルザスの運命

今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。

ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。

また多くの人種や移民が共に暮らしている。

 

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。

簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。

 

 

 

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< 10. 9世紀から11世紀の国境 >

赤の矢印はストラスブールを指す。

 

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。

紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。

そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

 

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。

10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。

 

 

英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。

しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。

 

 

 

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< 11. 宗教改革 >

 

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。

しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。

一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。

しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

 

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。

上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。

1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。

立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。

この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

 

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。

これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

 

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。

ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

 

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

 

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。

これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

 

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

 

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。

 

 

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< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

 

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。

これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。

初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

 

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

 

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。

赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

 

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。

また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。

 

 

 

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< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

 

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。

フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。

こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

 

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。

プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

 

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。

赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。

黄矢印がリヒテンベルクです。

 

下の地図: 1871年の領土。

水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。

 

 

 

 

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< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

 

第一次世界大戦での西部戦線を示す。

赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。

ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

 

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。

 

 

 

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< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

 

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。

これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。

しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。

この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。

黄矢印がストラスブール。

 

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

 

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。

 

 

 

今、想うこと

団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。

しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

 

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。

しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。

まったく私の質問が的外れだった。

 

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。

特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

 

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。

おそらく食事もだろう。

 

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。

傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。

ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

 

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

 

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。

それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。

旅は素晴らしい!!

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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何か変ですよ! 63: 近視眼的


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今、行われている施策が如何に近視眼的な術かを見ます。

これらは愚策ではあるが、繰り返される故に一層悲しい。

 

 

はじめに

ふるさと納税や核兵器禁止条約反対、気候変動取り組みのパリ協定離脱には共通するものがある。

これらは疑わない人々にとって喜ばしいことかもしれない。

 

実は、これらに共通するものがある。

これら施策は人々に手っ取り早く利益や安心、繁栄をもたらすと思わせる効果がある。

ほんとうにそうだろうか?

 

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*ふるさと納税

今、凄い勢いで寄付額が増えています。

2015年の寄付総額1700億円で、ここ数年は毎年3から4倍と加速度的に増大しています。

この理由は、この制度に高額所得者優遇の構造があるからです。

 

これを放置すれば、数年後には総額数兆円を越え、景気刺激策として良策ではない上に二つの問題を引き起こします。

 

一番の問題は、この寄付が高額所得者の消費増大ではなく節税策として使われ、その不足分を国民が広く負担しなければならいことにあります。

言い換えれば、唯でさえ税収が少ないのに、高額所得者の贅沢品(返礼品)購入費を皆の税金で補填し、税金が必要な所に届かないことです。

もう一つは、確実にゆっくり進む格差拡大です。

 

残念ながら、多くの人は気づかないままです。

 

この悪弊は高率の返礼品と節税効果(寄付)のセットにあります。

どちらかが無くなれば、弊害は無くなるのですが。

 

この問題のポイントは、一見、即効性のある経済浮揚策に見えるものの、効果は薄く、長期的には社会に歪をもたらすことです。

実は、この手の施策は日本、特に米国で半世紀の間にわたり積み重ねられ、これが今回のトランプを生んだ一つの要因になっています(注釈1)。

 

 

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*核兵器禁止条約の不参加

核兵器禁止条約は、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関するものです。

この条約は2017年7月7日、国連で122ヵ国により採択された。

核保有国やそれに連なる38ヵ国が反対し、16ヵ国が棄権している。

当然、日本政府は米国の核の傘に入っているので反対した。

 

これに対する主な意見。

米国の核兵器によって日本が守られている以上、米国を裏切ることは出来ない。

唯一の被爆国が、核兵器廃絶への道を主導するどころか、裏切っている。

核保有国が参加していない条約なんか実効性がない。

 

例えれば、この条約は強盗団が銃放棄を拒否しているのに、一般の人が率先して銃の不使用を宣言しているようなものです。

それなのになぜ、多数の国がこの無謀で無益と思える条約に尽力したのでしょうか?

彼らは、なぜ日本のように全人類の数倍を瞬時に抹殺できる最強の核兵器で守ってもらうことを考えないのでしょうか?(笑い)

 

だが、一方で不安もある。

核拡散防止条約(核保有を5ヶ国に限る条約、1968年発行)以来、核保有国は9ヶ国になり、更に増えるでしょう。

米国の核兵器で、北朝鮮の核攻撃から日本を守れるでしょうか?

守ってくれるのは迎撃ミサイルなどであって核兵器ではない。

もし核兵器に抑止力が期待出来るとするなら、米国内の銃所持は抑止力とならず、なぜ殺人の増大を招いているのでしょうか?

北朝鮮はこの条約に賛成しており、まさに張本人が抑止力を否定している。

まさに軍拡競争への皮肉です。

 

こうしてみると、現状を放置することは核戦争の危機を一層の深めることになると考える国があっても不思議ではない。

彼らは最強の核兵器で守られることよりも、最悪の核兵器を無くすことで、人類の安全を守ろうしたのです。

それでもなぜ核保有国などの参加が見込めない条約を成立させようとしたのでしょうか?

 

歴史にヒントがあります。

第二次世界大戦後の国連憲章制定時、米ソの離脱を引き留める為に、悪弊が予想された集団安全保障と拒否権の採用に多くの中小国は妥協しなければなりませんでした。

その結果、機能しない国連になったと言えるでしょう。

もっとも、米ソの離脱の方がさらに悪い結果を招いた可能性はある。

その点、今回の核兵器禁止条約ではそのようなことにならない(注釈2)。

 

この122ヶ国の行為、多数の中小国が大国に「ノー」を突き付けたことは、歴史上の画期と言えるでしょう。

私は、これに人類が憲法を生み出した契機となった1215年の英国でのマグナカルタを想起する。

これはほんの一歩に過ぎないが、こうして人類はより民主的な社会を推し進めてきたのです。

 

現状維持では改善を望めない状況で、とりあえず米国追従で条約反対に回った日本の行為は、世界が団結して平和を掴む気運を削いでしまった。

日本は唯一の被爆国なのだから、なおさらです。

 

この問題のポイントは、一見、平和の為と映るものの、むしろ不安要因を増大させ、さらには平和と世界の協同化を後退させていることです。

 

 

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*気候変動取り組みのパリ協定離脱

これはいつか来た道であり、また始まったのか大国のエゴと言わざるを得ない。

 

「米国と市民を守るという重大な義務を果たすため」

「我々は、よその指導者や国にもう笑われたくない」

「私はパリではなくピッツバーグの市民を代表するために選ばれた」

「パリ協定によって米国は国内総生産(GDP)3兆円と650万人の雇用を失う」

 

これはパリ協定離脱時のどこかの大統領の発言です。

この発言には、前回見た視野の狭さと狭い仲間意識が露骨に表れています。

 

南太平洋の島々の水没、南極やアルプスの氷河の融解は現実です。

例えば、30年後に地球の温暖化を認めてから、クーラーで地球を冷房しようとでも言うのでしょうか?

またパリ協定に合意した197ヶ国は自国の経済や雇用への影響を無視したのでしょうか?

日本を考えれば、一部の産業にデメリットはあっても全体では乗り越えて来たことがわかります。

 

かつての大統領や議会も自国の産業、石油・石炭産業を守る為に批准しなかったことがあった。

選挙での人気取りの為とは言え、欧米が身勝手な論拠を振りかざして大国のエゴを剥き出しにすることは今に始まった事ではないが、今の米国は世界一の経済大国だけに影響が甚大です。

単に協力しないと言うより、世界を苦境に陥れるものです。

 

 

この問題のポイントは、一見、雇用の為と見せかけるものの、実際は一部産業の保護でしかなく、世界を取返しのつつない危機へと陥れる軽挙妄動にすぎないのです。

 

 

おわりに

実に残念なことなのですが、これらの施策は国民に絶大な人気を博した国のトップが推し進めて来たことなのです。

 

それでは、事が失敗すれば、誰が責任を取るのでしょうか?

国のトップの軽挙妄動を断罪するのですか?

それともトップを信じた国民が断罪されるべきなのでしょうか?

 

 

皆さんならどうしますか?

 

 

 

注意1

米国で景気浮揚策と謳われ、半世紀の間に積み上げられた施策―金融規制緩和、課税の累進性排除、セーフティーネットの停滞、により格差が拡大し、白人労働者の状況が悪化した。

これがすべての原因ではなく、欧米先進国が共に進めて来た一連の施策の結果と言える、ただ米国が主導して来たとは言える。

これが今回の大統領選でのポピュリズムの台頭に繋がった。

 

日本も遅ればせながら歩調を合わせていたが、今や加速度的に追従している。

 

 

注釈2

この条約は既にある核拡散防止条約に影響を及ぼさず、また平和のための原子力を放棄している訳では無い。

 

 

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フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2


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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。

この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。

 

 

 

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< 2. ノートルダム大聖堂 >

 

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。

 

 

 

 

 

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< 3. 正面 >

 

聞きしに勝る高い尖塔です。

赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。

ゴシック建築の特徴が良く表れている。

 

下の写真: 中央の入口。

 

 

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< 4. 正面中央入口の彫刻 >

 

正面中央の入口の彫刻。

無数の彫刻で埋め尽くされている。

 

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。

キリストの生涯が描かれている。

 

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。

 

 

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< 5. 内部 1 >

 

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。

下の写真: 側面。

側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。

 

 

 

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< 6. 内部 2 >

 

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

 

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

 

左下の写真: 側廊を見ている。

 

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)

 

 

 

 

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< 7. 天文時計 >

 

左上の写真: 大オルガン。

 

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。

大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

 

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。

最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。

この右に天文時計がある。

 

下右の写真: 高さ18mの天文時計。

毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。

この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。

これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。

 

 

 

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< 8. 正面右手の入口 >

 

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

 

右上の写真: 尖塔の先。

八角形をした不思議な形をしている。

 

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。

右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。

 

 

 

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< 9. ロアン宮 >

 

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

 

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。

18世紀の司教の宮殿。

テラスの直ぐ前をイル川が流れる。

 

 

 

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< 10. イル川  >

 

上の写真: イル川の桟橋。

下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。

 

 

 

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< 11. イル川に架かる橋から >

 

上の写真: 下流(東側)を望む。

遊覧船がここから発着している。

左手直ぐ奥にロアン宮がある。

 

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。

12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。

 

 

 

ストラスブールとノートルダム大聖堂

 

 

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< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

 

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

 

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< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

 

フランスの代表的な教会建築を示す。

色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。

 

 

ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

 

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。

これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

 

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。

これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

 

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。

それまではロマネスク様式でした。

一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。

しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

 

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?

4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。

ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。

ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.

こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

 

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。

途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。

この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。

そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。

残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。

 

 

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< 14. 15~16世紀のストラスブール >

 

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。

下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。

 

 

この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。

そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

 

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。

他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。

この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

 

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。

既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。

このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

注釈1

ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

 

注釈2

ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。

これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

 

注釈3

これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。

しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛


1

*1

 

 

今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。

共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。

なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。

 

 

浜田先生のお言葉

この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

 

僭越ながら抜粋要約します。

 

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。

つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。

これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。

この点、タカ派の安部首相が最適です。

 

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。

さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。

この二人もタカ派(共和党)でした。

 

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。

しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。

 

 

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「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ

これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。

しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

 

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。

例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。

とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

 

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

 

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

 

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。

人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。

「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

 

・・・

これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。

つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。

 

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?

まったく正反対の解釈に思えます。

おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。

この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。

この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。

 

 

多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。

単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

 

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。

経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。

実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。

これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。

是非とも精進して欲しいものです。

 

 

3

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事実は奇なり

浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

 

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

 

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。

よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。

基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。

それ以上に進むこともありますが。

詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。

残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

 

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。

これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。

 

 

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< 4. トラッキング・ゲームの図 >

 

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。

曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。

但し、相談は出来ません。

 

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。

しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

 

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。

これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。

 

 

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浜田先生の歴史観のおもしろさ

彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。

確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。

つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

 

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。

しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

 

レーガンが大統領になったのは1981年でした。

一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。

また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

 

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。

大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.

また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。

 

 

1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

 

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。

この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。

周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。

また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

 

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。

要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

 

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。

もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?

一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。

 

 

最後に

せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。

興覚めです。

諦めないで、また初めから読むつもりですが。

 

 

 

 

注釈1.

二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

 

注釈2.

1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。

そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

 

注釈3.

動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。

このジャンルの本を推奨します。

「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。

「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。

「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。

「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

 

注釈4.

創元社刊「世界の歴史10」J.M.ロバーツ著。

p186~188に、似たような記載があります。

 

 

 

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フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ


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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。

中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。

私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。

 

 

 

 

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< 2. オテル・デュのパンフレット >

 

この見取り図は下が北になっています。

青の矢印が入口、出口です。

 

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。

ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。

この日も快晴で爽やかでした。

 

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< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

 

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。

入口は建物の中央にある。

 

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

 

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。

 

 

 

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< 4. 中庭から 1 >

 

 

陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。

派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。

この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

 

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

 

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。

その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。

これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、

この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

 

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。

多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。

ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。

この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。

 

 

 

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< 5. 中庭で 2 >

 

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< 6. 看護室  >

 

上の写真: 看護室。

パンフレットの番号4辺りからの撮影です。

両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

 

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。

 

 

 

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< 7. 礼拝室と厨房 >

 

上の写真: 礼拝室。

パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

 

下の写真: 厨房。

パンフレットの番号13.

写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。

また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。

厨房は広く、清潔そうでした。

 

 

 

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< 8. 調剤所と薬局 >

 

上の写真: 調剤所。

部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。

これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

 

下の写真: 薬品棚。

かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。

薬品は外部にも販売されたようです。

 

 

 

 

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< 9. 美術品の展示 >

 

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.

右上の写真: パンフレットの番号19.

下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.

この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。

この売り上げが病院の運営費に充てられた。

おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。

 

 

 

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< 10.特別な展示室  >

 

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。

 

 

上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。

ウィキペディアより借用。

 

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。

ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

 

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。

彼がこの絵を発注した。

 

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。

中でも、この宰相が権勢を誇っていた。

しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。

彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。

病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。

病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。

 

 

 

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< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

 

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

 

上の写真: ワインのオークション。

ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。

この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。

このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

 

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。

 

 

 

オテル・デュに想う

現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。

この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。

この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

 

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。

今回、実物を見れたことは幸いでした。

 

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。

このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。

それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

 

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。

また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。

ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。

12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

 

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

 

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。

不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

 

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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デマ、偏見、盲点 18: 左翼と右翼の戦争


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今回は、右翼と左翼が思い描く戦争を通して、戦争の危うさを考えます。

ここで指す右翼とは、右翼寄りの人、右傾化した人も含み、左翼も同様です。

 

 

はじめに

先日、私がトランプ大統領の指南役スティーブン・バノンのことを話していたら、思わぬ問がありました。

 

今回のトランプ大統領誕生の最大の功労者はバノンで、彼がいなくては大統領は人気を博すスピーチも政策立案もままならなかったでしょう。

このバノンは政治に強い関心を持ち、右翼のオンラインニュースを立ちあげていた。

彼が目指したの、ホワイトハウスとエスタブリッシメント(支配層)を破壊することで一種のクーデターであり、実現の為にトランプを祭り上げた。

その理由は、現状の腐敗し体たらくなホワイトハウスでは第三次世界大戦を凌ぐことが出来ないと考えたからでした。

 

ここまで説明すると、ある人が「右翼は戦争をしたがる筈なのに?」と言って腑に落ちないようでした。

 

この問には、右翼と戦争に対する誤解がある。

 

それでは皆さん、右翼と左翼どちらが戦争をするのでしょうか? 注釈1.

 

左翼は、右翼こそが軍隊と戦争を望むと信じているようです。

逆に右翼は、左翼こそが暴力を容認し、一方で負け犬になると信じているようです。

 

 

 

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この見方は正しいのでしょうか?

右翼の中には、ヒトラーが社会主義者だから、極悪な戦争を始めたと信じている人がいる。

一つには、ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称だからでしょう。

歴史を知れば、彼は国粋主義者(ファシスト)で右翼だとわかるはずです。

 

それでは日本が満州事変へと突き進んだ1930年代、この大陸進攻を牽引したのは社会主義者か国粋主義者のどちらでしょう。

牽引した多くは軍人でした。

 

これらの解釈に混同があるのは、偏ったマスコミや言論などの影響が大きい。

端的な例として、満州事変が始まる前、売り上の上位は朝日と毎日で、読売はかなり少なかった。

しかし、事変が始まると他社より遥かに売上を急伸させたのは読売新聞でした。

朝日や毎日も売り上げを伸ばしてはいたが。

これは読売が最も戦争に反対していたからでしょうか?

 

この手の勘違いは、熟慮せずに心地良い説に飛びついたからなのですが、実は、ここに右翼の心性があるのです。

当然、左翼の心性もあります。

後に、両者の心性について解説します。

 

 

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米国の戦争を振り返り、右翼と左翼の違いをみます

軍事大国の米国で、民主党と共和党のどちらがより戦争をしていると思いますか?

 

主な戦争を始めた政党と大統領を挙げます。

開戦には複雑な経緯があるのですが簡略化しています。

 

南北戦争はリンカーン(共和党)。

第一次世界大戦(ウイルソン)と第二次世界大戦(ルーズベルト)は民主党。

朝鮮戦争は民主党。

ベトナム戦争はケネディー(民主党)。

コソボ紛争への介入はクリントン(民主党)。

湾岸戦争とイラク戦争はブッシュ親子(共和党)。

 

こうして見ると、ハト派と見做されている民主党の方が、大きな戦争に加担し、多くの死者を出している。

 

皆さんは、民主党と共和党の戦争に違いがあると思いますか?

一般には以下のように言われている。

民主党は、世界の平和や人権を守る為に、他国に介入し戦争も行う。

共和党は、他国への介入を避けるが、自国の主義や権益擁護の為には断固戦う。

 

それではこれら戦争を簡単に検討します。

*南北戦争で決着をつけたからこそ、国の分裂を防いだと信じらている。

*二度の世界大戦と朝鮮戦争への参戦、コソボ紛争介入がなければ、より酷い状況になった可能性がある。

*ベトナム戦争とイラク戦争は誤解に基づいた開戦で、より酷い結果を招いたと言える。

*湾岸戦争は予防的な開戦で、不要だった可能性がある。

(これら戦争には、参戦や開戦、介入の是非を巡りいまだに賛否両論がある。)

 

これらの戦争は、2度の世界大戦以外、自国が攻撃されたから反撃したのではなかった。

つまり、自己防衛ではなく、同盟傘下の保護または予防的な戦争と言える。

これには放置すればいつか自国に悪影響が及ぶかもしれないので、早めに叩かなければならないとの思惑がある。

当然、米国は世界や自国の安全保障の為に戦争を始めたと言うでしょうが。

 

つまり、右翼(共和党)も左翼(民主党)も戦争を行うのです。

どうしても軍事大国になると安易に戦争を始めやすい。

 

 

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予防的な戦争について知っておくことがあります

予防的な戦争が許されないのは当然ですが、実は無視してはならない歴史的教訓があります。

 

ヒトラーがドイツで台頭し始めた時、周辺国では宥和策をとりました。

(日本はドイツと共に戦ったので別です。)

目立つのは米国のケネディ―大使(大統領の父)、英国のチェンバレン首相、そして隣国フランスです。

彼らは戦争を避ける手段として相手を刺激しない、または同じ独裁者ならスターリンを倒してくれるヒトラーを選んだのです。

しかしこれは間違いでした。

 

やがて英国で、軍人出身のチャーチルがヒトラーとの抗戦を表明した。

さらに米国のルーズベルトは米国民の厭戦気分を押して、参戦に持っていった。

こうして多大な犠牲を払ったが、世界が協力してドイツと日本の進攻を挫くことが出来た。

 

このことから、侵略軍を撃退出来る体制作り(軍備など)や心づもりは必要だと言えます。

とは言え、それほど単純ではなく、周辺諸国との軍拡競争を招く危険があります。

 

これと逆のケースがベトナム戦争です。

朝鮮戦争を経験した米国は、共産勢力を恐れ、南ベトナムで過剰防衛(予防的な戦争)に走り、ベトナム戦争に踏み切ったと言える。

 

この二つのケースは、過去の悲惨な戦争の経験や恐怖が尾を引き、リーダーや世論が選択を誤った例です。

 

ハト派的な宥和策もタカ派的な強硬策も共に巨大な戦争を招いたのです。

 

 

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右翼と左翼の心性とは何か?

右翼の心性には、見知らぬに他者への著しい恐怖心があるようです。

私が外国旅行をすると言えば、右翼の人ほど、現地(イスラム圏や韓国など)に不安を感じるようです。

これは彼らが偏見を煽るマスコミに影響されていることもあるが、やはり未知のものや他人に強い恐怖心や不安感を持つことにある。

 

一方、左翼の心性には、他者への不安感が少なく友情すら築けると思うようです。

一見、良いように聞こえるが、うがった見方をすれば甘い理想家とも言えます。

 

この両極端の心性が社会の変化に感応し、真逆のマスコミや言論界に共鳴し、益々偏りを深めることになる。

 

本来、この二つの心性は一人一人の脳内に共存しています。

 

未知のものに楽天的で、チャレンジする心性と、未知のものを恐れ、慎重に対処する心性は、人類が進化する過程で獲得したもっとも重要な相反する二つの能力です。

この二つの心性が、各人の生育過程で脳内ホルモンの分泌や左脳右脳の連携機能の発達具合により、人類の平均値よりそれぞれ一方に偏ってしまうのです。

 

願わくは、両方がうまく相乗効果を発揮すれば良いのですが。

もしかすると、この心性が年齢や男女差で異なり、ばらついていることが人類の発展と安全を生み出しているのかもしれません。

安心はできませんが。

 

ここで注意が必要なのは、左翼や右翼と呼ばれる人々が、本当にこの心性を有しているとは限らないことです。

例えば、一方に属すことにより得失がある場合などです。注釈2.

 

 

ここで簡単なシミュレーションをしてみましょう 注釈3.

敵対しつつある二つの軍事大国を考えます。

 

ここでは両者の心性の動きを中心に考えます。

それぞれの国が極端な右翼や左翼に支配されていればどうなるでしょうか?

 

一番分かり易いのは、両国が極端な左翼(ハト派)に支配されている場合でしょう。

おそらく宥和策が図られ、軍事衝突は遠のくでしょう。

 

次いで、両国が極端な右翼(タカ派)に支配されている場合はどうでしょうか。

これも単純明快でしょう。

互いに猛烈な恐怖心を抱き、宥和策を取れず疑心暗鬼に陥り、ついには軍拡競争、衝突に進むでしょう。

 

最後に、右翼が支配する国と左翼が支配する国が対峙している場合はどうでしょうか。

うぅ・・・・・・、難しい。

 

ヒントは、それぞれの国に左翼寄りと右翼寄りの心性を持った国民が同数いることです。(小さな集団は別にして、人類全体で見ると心性をもたらす能力は正規分布している)

右翼支配の国は不安を感じないが、左翼支配の国にやがて変化が起きるでしょう。

左翼支配の国民と言えども、右翼支配の国に恐怖心を抱き、急速に右傾化していくことになります。

こうなると結局、両国は共鳴するように軍拡競争を始め、衝突の可能性が高まるでしょう。

 

戦史を見ると、適切な政治文化と優れたリーダーに恵まれない多くの国が、この悲惨な状態に陥るのです。

 

元来、相手が本当にハト派だとか、タカ派だとか、軍事力が同等かを見定めるのは困難です。

現在は、地球全体が監視され、また以前に比べて互いの国情をより知ることが出来るようになっている。

しかし、それでも自国の政府やマスコミに報道の制限や偏向があるので、正しい情報が国民に伝わるとは言い難い。

 

 

要点はこうです。

 

一つは、互いが疑心暗鬼になり牽制を始めると、益々、亀裂は深まり、やがて軍拡競争、衝突につながる。

単純に、一国の過大な軍備は危険因子になる。

 

一つは、上記の過程が、外界に対する恐怖心の高まりを受けて、一気に加速する。

この恐怖心を強く抱き、牽制すべしと行動させるのが右翼の心性です。

 

一つは、互いの国情と内情を正確に把握できない為に、疑心暗鬼が増幅される。

これを防ぐにはひとえに国民の知る権利が守られることであり、特に為政者にとって都合の悪い情報を捏造・隠ぺいする政府と偏向したマスコミの存在が危険です。

 

 

 

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まとめ

これまで検討して来たことを整理しましょう。

 

*過大な軍事力は戦争を招きやすい。

 

*侵略に対する備えは必要ですが、軍拡競争や軍事大国化への注意が必要。

説明は省きますが、今後、世界は新たな防衛体制に進むことになるでしょう。

 

*極端な宥和策も強硬策も戦争を招きやすい。

 

*恐怖が高まると右傾化が興り、疑心暗鬼、軍拡競争へと進み、戦争を招きやすい。

だからと言って単純に左翼だから安全、右翼だから危険とは言えいない。

 

*国内外の情報が正確に素早く伝わることで疑心暗鬼を抑え、戦争の誘発を避けることが出来る。

 

 

追記

上記のことを踏まえれば、右翼を自認し挙動不審な現首相に憲法改正や軍事を任せることは、戦争の危機を高めることになるでしょう。

 

 

 

注釈1.

左翼と右翼の明確な区別や定義は複雑ですが、ここでは簡単に、左翼は革新、リベラル、ハト派で、右翼は保守、ナショナリズム、タカ派としておきます。

 

元来、左翼と右翼の意味は時代や社会で変化します。

各人が左翼的か右翼的となるのは、個人の心理的、文化的、政治的、社会的、思想的な背景、それに加えてマスコミ、言論界など多彩な影響によります。

一言で言えば、多くの人は属している社会とムードで両端に振れることになる。

 

注釈2.

共産主義の中国上層部や軍部には右翼の心性を持った人が多いはずです。

特に保守的な傾向を持つからこそ出世出来るはずです。

例えば、右翼的な教育を目指す学校建設を謳えば政府からの支援があるような場合などです。

 

注釈3.

この説明は、「互いを牽制することが如何に状況を悪化させるか」の社会学的実験の結果、脳科学の知見を参考に書いています。

 

 

 

 

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何か変ですよ! 58:  備えて下さい!


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今、私は現政権の手腕を羨ましく思っています。

おそらくは多くの国民も感服していることだと思います。

もし二大政党が日本にあり、双方がこれだけの力量を持っていれば、

日本の将来は安泰でしょう。

 

 

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まえがき

巷を騒がせている森友学園や加計学園の問題は、今更、取り立ててあげつらうほどの問題でしょうか?

 

日本の政治文化を特徴づける三バン「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」で成り立つ長期政権なら、このようなことは各地で日常茶飯事です。

何を今更、驚くのでしょうか?

多少どぎつい程度でしょう。

 

これは首相の強力なリーダーシップの賜物だと言えます。

中央官僚だけでなく、マスコミ、マスコミの寵児、地方までその影響力は行き渡っています。

今までの官邸や野党では不可能だったのではないでしょうか?

 

直ぐに人気が無くなる首相が相次いぐ中で、むしろ待望の決められるリーダーの誕生、それも長期政権だと喜んでいたはずです。

 

この現象を好意的に捉えるなら、待ちに待った官僚の上に立つ官邸の時代が到来したと言えます。

これまでは官僚が法律を発案し作り、国会での答弁書まで作って、大臣にレクチャーしていた。

これからは逆の本来の姿になるかもしれません。

 

そうは言っても不安がよぎるのも事実です。

私の不安が現実とならなければよいのですが。

 

 

不安とは何か?

一番は経済的なダメージで、大恐慌の到来です。

 

発生する時期を明言出来ませんが、近々起こるでしょう。

問題はその規模の巨大さであり、日本がまともに被害に合うことが予想されるからです。

 

可能性が高いのは中国の崩壊です。

今まで、中国の崩壊について多くのエコノミストが予言して来ましたが、幸い外れています。

これらの指摘に比べれば、中国政府はうまくやって来たと思います。

しかし、現在進行中の経済悪化(国営企業の低迷、過剰設備、巨大な負債、高失業率、格差拡大、成長率鈍化)が国民の不満に火を着ければ、コントロールが効かず、一気に恐慌に陥る可能性があります。

 

私の知り合いで、現地で活躍する二人の中国人は、恐慌が起きても不思議ではないと思っており、資産の海外移転を考えている様子です。

現在、中国は日本の輸出額シェアで18~19%を占め、米国15~20%と肩を並べています。

つまり、以前と違って中国がこけたら日本は大きな影響をうけるのです。

 

 

さらに別の不安要因が幾つかあります、英国のEU離脱もその一つです。

おそらく米国の株価好調と利上げテンポの遅いのが災いする可能性の方が大きい。

 

ここ半世紀ほど欧米を中心にして7年~10年毎に金融恐慌が間違いなく発生しています。

これは米国がリードした経済・金融構造とグローバル化の副産物だが、これは何ら改善されるどころか悪化しています。

残念ながら、2007年の世界金融危機以上のものが再来するでしょう。

現状のゼロ金利であれば、実業に向かうよりも遥かに巨額資金が災いを招く投機に向かい、更なる巨大なバブルが起きるのは必然です。

 

 

 

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何が問題なのか?

この恐慌の大惨事と、今の政権とどのように繋がるのでしょうか?

二つの事で、今の政権は恐慌の災いをより致命的にするでしょう。

 

一番はアベノミクスです。

現在、ヘリコプターマネーと称して市場に大量の資金が供給されています。

確かに少ないよりは多い方が景気には良いのですが、バブルが弾けた時に被害がより甚大になります。

現在、株式時価総額は600兆円ほどありますが、おそらく下落すれば200兆円ぐらいになるでしょう。

これは繰り返して来たことですが、今回は貨幣供給量が今までと比べものにならないほど増えたので下落率は拡大し、下手をすれば株式時価総額は1/4の150兆円もあるかもしれません。

 

その引き金として海外発、特に隣の中国発の恐慌が起きればひとたまりもないでしょう。

さらに、日銀と政府はこれまでと違って日本株を大量に買い支えているのですから、暴落すれば我々の年金はかなり減額になる。

 

この時、政府は謝罪し、責任を取るでしょうか?

たとえ良心があっても無理です。

なにせ数百兆円が一瞬にのうちに消え、おそらく100兆円の血税をつぎ込んで、やっと大手金融業が助かるぐらいでしょう。

 

もう一つは、首相の仲良し米国大統領が人気取りの為に何をするかわからないことです。

おそらく日本は特定秘密保護法と共謀罪の成立、次いで核兵器禁止条約への不参加と米国に盲従していくことになるでしょう。

 

この先にあるものは、経済と軍事の共倒れでしょう。

なにせ、即決と猪突猛進の首相なのですから。

 

 

最後に一言

恐慌に備え、株から手を引き、タンス預金にすることを薦めます。

もっとも金のある人は既にタックス・ヘイヴンしているでしょうが。

 

詳しくはいずれ連載で扱うつもりです。

 

 

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フランスを巡って 7: 旅行2日目のまとめ


 

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< 1. ニースのノートル・ダム教会 >

 

 

今日は、旅行2日目、5月18日(木)の他の体験を紹介します。

この日はニースの空港に着いてから、エズとモナコを観光してニースに戻り、中心街のホテルに泊まりました。

時間を追って紹介します。

 

 

 

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< 2.2日目のコースの地図 >

 

上の地図: 青線が行きのバスルートで、赤線がニースに戻るルートです。

上が真北です。

1: コートダジュール空港。14:00頃に到着。

2: エズ村。

3: モナコ。

4: ニース。私達のホテルは中心街にある。

空港からモナコまでの直線距離は19kmです。

 

 

 

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< 3. 空港の様子 >

 

他の空港と違うと感じたのは、出国ゲートで待つツアー関係者やタクシー運転手の多くが黒のスーツを着ていることでした。

 

 

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< 4. 空港からエズ村までの景観 >

近代的なビルが並ぶ空港周辺を過ぎると平野部は無く、起伏のある丘陵地帯の至る所に民家が建っている。

 

 

 

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< 5. エズ村からモナコまでの景観 >

 

バスは断崖絶壁の道を縫うように走った。

 

 

 

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< 6. ニース中心街に向かう >

 

上の写真: モナコから戻って来て、眼下にニースが見えて来た所。

下2枚の写真: ほぼニースの中心部。

 

 

 

 

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< 7. ジャン・メドサン通り 1 >

 

このメインストリートにあるホテルに20:00頃に着いて、夕食のレストランに歩いて向かう時に撮影した。

 

上の写真: ノートル・ダム教会。20:40撮影。

日没まで、まだ十数分ある。

 

下の写真: 今回最初の地元の人の笑顔です。

何処に行っても、フランス市民に親し気な対応して頂いた。

 

 

 

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< 8. ジャン・メドサン通り 2 >

 

この通りにはトラムが走っている。

この通りにはデパートや大型スパーがあるのですが、この時間には皆閉まっていました。

 

 

 

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< 9. レストランで夕食 >

 

今回の旅行で、初めてフランスで食べる食事です。

左の料理はニース風サラダです。

今回の旅行の料理はすべて三品で、最後がデザートでした。

 

 

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< 10. レストランからホテルへ帰る途中 >

 

22:00の撮影です。

 

この季節の旅行は非常に日が長いので、朝も夜もホテル周辺の街歩きが出来る利点がある。

しかし、いい気になってがんばっていると疲れてしまった。

また、夜景やライトアップを撮るには10:00~10:30を過ぎないと行けないので、これがまた疲れます。

 

こうしてフランス1泊目の夜は更けて行きました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 6: 小国モナコ


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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。

私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。

ここは旧市街と宮殿などがあるところです。

 

 

モナコ

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。

そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

 

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

 

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。

今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。

添乗員は大勢を従え、苦労していました。

しかし、その後は順調な旅となりました。

 

 

 

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< 2。 モナコの地図 >

 

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。

上が真北です。

王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。

私達は左側のエズEzeから来ました。

 

中央の地図: モナコ公国の全景。

方角を変えています。

赤矢印がモナコヴィルです。

 

下の地図: モナコヴィルを拡大。

Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。

地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。

赤線は徒歩ルートです。

奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。

黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。

 

 

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< 3。 眼下にモナコ、バスから >

 

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

 

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。

 

 

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< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

 

上の写真: モナコヴィルの下。

 

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。

 

 

 

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< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

 

上の写真: 海洋博物館と水族館。

地図のSの直ぐ近く。

 

下の写真: 王家親族の住居。

 

 

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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

 

下の写真: モナコ大聖堂。

古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。

 

 

 

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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。

左中央は裁判所。

 

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。

 

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< 8。 大公宮殿 >

 

上の写真: 大公宮殿。

陽が山際に迫っている。

 

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。

ここから湾が一望に見渡せる。

 

 

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< 9。 展望台からの眺め >

 

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。

湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

 

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。

標高は60mぐらい。

 

 

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< 10。 広場から戻る道 >

 

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。

モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。

 

 

 

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< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

 

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。

不思議の一言に尽きる。

 

 

モナコの不思議

モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。

歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。

半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

 

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。

1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。

現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

 

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ


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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。

このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。

この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか

 

 

エズ村

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。

エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。

 

 

 

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< 2. エズの地図 >

 

上二つの地図: 地図の上が真北。

赤矢印がエズ村の位置です。

 

下の地図: エズの観光地図。

黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。

エズの頂上は427mある。

雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 

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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

 

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。

ここをくぐると村に入る。

 

 

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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。

所々に踊り場のような小さな広場がある。

 

 

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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

 

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

 

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

 

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。

平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。

 

 

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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。

クルーズ船も見える。

 

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。

サボテン公園は1949年に造られた。

元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。

 

 

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上の写真: 要塞跡の頂上。

ほぼ360度、見渡せる。

 

下の写真: 村の教会を見下ろした。

その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。

 

 

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< 8. 先ほどの教会 >

 

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。

エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。

私の写真では確認できなかった。

かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。

 

 

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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

 

下の写真: 下っている。

 

 

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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

 

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。

西側を見ている。

 

 

エズの歴史

観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。

それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。

帰国後、この地域に何があったかを調べました。

 

大きな流れを見ます。

エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。

紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。

しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。

この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

 

エズについて

973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

 

1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。

サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

 

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

 

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。

こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 4: 古都ボーヌ


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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。

ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。

この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。

 

 

 

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< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

 

上が真北です。

城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。

私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。

黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。

青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。

 

 

ボーヌの町

 

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上の写真: バスのフロントガラス越しに。

ボーヌの旧市街に向かっている。

 

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。

 

 

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上の写真: 施療院オテル・デュ―。

下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。

この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。

 

 

 

 

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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。

No.2の地図の赤線部分です。

 

 

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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。

No.2の地図の青線上で撮影。

 

 

 

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No.8の下の写真と同様。

古い堡塁や城壁、門が残っている。

 

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丘の上のレストランに向かう途中の風景。

旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。

ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。

 

 

ボーヌとブルゴーニュ

後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。

この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。

 

 

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< 11. ボーヌの歴史 >

 

 

左上の地図: フランスのワイン産地。

 

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。

一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。

二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。

上からシトー会、下ってクリュニー会です。

 

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。

 

 

 

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A: ブルゴーニュ公国の紋章。

B: イエスとワイン。

C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。

D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。

 

 

ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。

フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。

一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

 

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。

しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

 

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。

10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。

これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。

だが、この繁栄は堕落を生んだ。

 

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。

これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

 

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。

キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

 

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。

そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。

 

 

いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。

 

 

 

注釈1

フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。

中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。

 

 

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フランスを巡って 3: セーヌ川クルーズ


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今日は、セーヌ川クルーズを紹介します。

乗船するまでは期待していなかったのですが、始まると気分が高揚していきました。

思い出深いパリとなりました。

 

 

クルーズの概要

 

 

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< 2. クルーズの航路 >

 

上の地図: グーグルアースの画像。上が真北です。

下の地図: 主な建物と航路を示します。

 

クルーズはエッフェル塔の下の埠頭Sから始まり、北側のサン・ルイ島を過ぎた所Rで折り返し、戻って来ます。

行きは黄線で、帰りは赤線です。

所要時間は約1時間、30分毎出航。

 

 

クルーズの始まり

10日目、5月26日(金)、20:20頃に出航しました。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

いよいよ出航。

この日は陽射しがきつく暑かったが、夕暮れになると過ごしやすくなり、船が走り始めると川風が心地良かった。

寒くはなかった。

 

下の写真: 結婚披露宴で貸し切られているクルーズ船が数隻あった。

人々は華やかで如何にも楽しそうで、すれ違う時、私達も互いに手を振り、喜びを分かち合った。

 

 

 

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上の写真: すれ違うクルーズ船。

 

下の写真: 私達のクルーズ船。

私は2階デッキの中央で楽しんだ。

進行方向の右側にオルセー美術館が見える。

 

 

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< 5.ノートルダム寺院 >

 

上の写真: 左側はシテ島。

橋の左奥にノートルダム寺院の正面が見えて来た。

 

下の写真: ノートルダム寺院の真横。

 

この時、海外からの旅行客と触れ合うことが出来ました。

 

私達のツアー仲間が、船上である外国人夫婦の写真を撮ってあげました。

するとその外国人男性が、私に「何処の国ですか?」と英語で聞いてきました。

私が「日本」と答えると、彼の奥さんが「東京?」と聞いてきました。

私は「大阪」と答え、逆に、その男性に「何処か?」と聞くと、彼は「カリフォルニア」と答えました。

私は「ロサンゼルス? サンフランシコ?」と聞くと、「サンフランシコ、ナパ(?)」と答え、さらに「ワイン農家」と付け加えてくれました。

私は「ワインで有名な所」(ナパはカリフォルニアワインの産地)と返しました。

 

私は奥さんに「インド?」と尋ねましたが、「イエス」の後の言葉を聞き取ることが出来ませんでした。

最後に握手をしました。

 

その風貌や年齢から察して、おそらくはインドからアメリカに移住し、ワイン栽培で成功し、夫婦でフランス旅行に来ていたのだろう。

苦労の末に成功を得た落ち着きのある夫婦に思えた。

 

今回の旅行では、様々な場面で移民と移民の国を実感できた。

 

英語が出来れば、もっと語り会えるのだが・・・。

 

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上の写真: 河岸には本当にたくさんの人々が春の宵を楽しんでいました。

 

中央の写真: この一角で集団になってダンスが興じられていた。

この並びでは、数か所で異なるダンス、社交ダンスなどが演じられていた。

 

下の写真: ちょうどサン・ルイ島を過ぎた所で、これから左旋回して戻っていくことになる。

前の橋の右側に明日散策するアラブ世界研究所のビルが少し見える。

 

 

 

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< 7. 宵を様々に愉しむ人々 >

 

若いグループが多いのですが、若い男女のカップルや年配の夫婦、様々な人々がラフなスタイルで談笑していました。

その服装から彼らは旅行客ではなく、市民のようでした。

またその顔立ちから察するに、まさに様々な国からの移民の国を彷彿させるものでした。

彼らが飲んでいるのはビールではなくワインでした。

如何にもフランスらしい。

 

このクルーズが最高に楽しめたのは、彼らの多くがクルーズ船の私達に笑顔で手を振ってくれたからでした。

それがずーっと続くのです。

まさにセーヌ―川一体が世界の人々の共感の場になっていました。

 

私は各地での自由散策の度に、多くのフランス人の親切と笑顔に出会った。

まさにフランス人の気安さが最高に盛り上がった時でした。

 

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

サン・ルイ島を抜けたところです。

 

下の写真: 夕陽が水平線に近づいて来た。

 

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

右側はシテ島で、写真中央に見える建物はコンシェルジュリー(革命時代の牢獄)です。

 

下の写真: アレクサンドル3世橋をくぐって、振り返った。

 

 

 

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この日の日の入りは21:39だが、21:17のエッフェル塔は茜色に輝いて見えた。

 

 

いずれパリの別の顔を紹介します。

 

 

 

 

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フランスを巡って 2: モンサンミッシェルの朝昼晩


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撮影方向 C

撮影時間 5月24日 21:49

 

 

今日はモンサンミッシェル全景を紹介します。

モンサンミッシェルが太陽の動きに連れて七変化して行きます。

撮影情報をお伝えします。

 

 

撮影情報

 

 

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< 2. モンサンミッシェルの位置 >

 

二つの地図共、上が真北になります。

赤い矢印がモンサンミッシェルです。

 

 

3.

< 3. 撮影位置 >

 

上が真北ですので、ほぼ右から陽が登り、ほぼ左に陽が沈みます。

 

撮影日、5月24日の日の入りは21:52分。

撮影日、5月25日の日の出は6:12分

 

三つの赤い三角が固定の撮影地点で、黄線は撮影方向です。

Cはモンサンミッシェルと対岸を結ぶシャトルバスの終点近くで、連絡橋の上です。

シャトルバスは無料で、深夜まで頻繁に出ている。

Dはクエノン河口ダムの上で、ホテルから徒歩8分ぐらい。

CとDでの撮影は短い三脚を手摺の上に置いて行いました。

Eは宿泊ホテル近くの道で、大規模駐車場の北側になります。

白の矢印は宿泊ホテルの「SAINT AUBERT」です。

 

AとBは正午頃、モンサンミッシェルに向かう途中のバスの車窓から撮影した方向です。

 

 

モンサンミッシェル全景写真

撮影時間順に並んでいます。

 

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撮影方向 A

撮影時間 5月24日 12:53

 

モンサンミッシェルに到着した時は、非常に厚い雲に覆われていましたが、14:30過ぎ頃から雲が徐々に無くなって行き、夕方には快晴になりました。

 

 

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撮影方向 B

撮影時間 5月24日 12:55

 

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 13:39

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 21:46

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:27

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:32

 

 

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撮影場所 E

撮影時間 5月25日 6:39

 

 

 

撮影の反省点

Cでの撮影は、夕陽がモンサンミッシェルの裏側を照らす為、赤味を帯びた光景を撮れなかった。

昼は暑いが、夜は海風があり寒いので注意してください。

おそらくDでの撮影の方が良い写真を撮れたように思う。

 

 

いずれモンサンミッシェルを詳しく紹介します。

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 80: At the end


中東に平和を! 80: 終わりに 

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A year has passed since I started this series.
I write a summary and impressions at the end.
この連載を始めて1年が過ぎました。
終えるにあたり、まとめと感想を記します。

 

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Contents

1. At the start
2. What do I aim at?
3. About the Middle East and Arab
4. Outline of conflicts in the Middle East
5. Outline of conflicts in the Middle East 2
6. A popular book 1
7. A popular book 2
8. Seeing the Middle East and Arab world in films 1: The beginning
9. Seeing the Middle East and Arab world in films 2: Lawrence of Arabia
10.Seeing the Middle East and Arab world in films 3: Schindler’s List
11.Seeing the Middle East and Arab world in films 4: The Four Feathers
12.Seeing the Middle East and Arab world in films 5: The Wind and the Lion
13.Seeing the Middle East and Arab world in films 6: The historical backdrop
14.Seeing the Middle East and Arab world in films 7: Terraferma
15.Seeing the Middle East and Arab world in films 8: Refugee issue 1
16.Seeing the Middle East and Arab world in films 9: Refugee issue 2
17.Seeing the Middle East and Arab world in films 10: the other son
18.Seeing the Middle East and Arab world in films 11: Israeli-Palestinian conflict 1
19.Israeli-Palestinian conflict 1: voices of the young 1
20.Israeli-Palestinian conflict 2: voices of the young 2
21.about terrorism 1 : at the beginning
22.about terrorism 2 : an assassination
23.about terrorism 3 : the background 1
24.about terrorism 4 : the background 2
25.about terrorism 5 : Various assassination
26.about terrorism 6 : maneuver secretly in Mossad
27.about terrorism 7 : Love and hate of Mossad
28.about terrorism 8 : terrorists and a conscientious objector
29.about terrorism 9 : Two combatants
30.about terrorism 10 : fight of believer
31.chain of retaliation 1 : in the end
32.chain of retaliation 2 : What is bad?
33.chain of retaliation 3 : in Syria and Lebanon
34.chain of retaliation 4 : Israel and Palestinian 1
35.chain of retaliation 5 : Israel and Palestinian 2
36.I beg a favor of you.
37.Thank for your answers.
38.chain of retaliation 6 : the intifada
39.chain of retaliation 7 : the Middle East war
40.chain of retaliation 8 : Why the Middle East war began? 1
41.chain of retaliation 9 : Why the Middle East war began? 2
42.What is the cause ?
43.What is the cause ? 2
44.What is the cause ? 3
45.Now, something I think. 1
46.Now, something I think. 2
47.religion and persecution 1: at the beginning
48.religion and persecution 2: Prejudice against Islam
49.religion and persecution 3: Persecution of Jewish people 1
50.religion and persecution 4: Persecution of Jewish people 2
51.religion and persecution 5: Persecution of Jewish people 3
52.religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4
53.when religions were born 1: preface
54.when religions were born 2: Judaism
55.when religions were born 3: Christianity
56.when religions were born 4: Buddhism
57.when religions were born 5: Confucianism
58.when religions were born 6: Islam 1
59.when religions were born 7: Islam 2
60.when religions were born 8: concluding section
61.Religion and Politics 1
62.Religion and Politics 2
63.Why was it exhausted ? 1: Introduction
64.Why was it exhausted ? 2: selfishness of major nations and multinationals
65.Why was it exhausted ? 3: Why is the selfishness permissible?
66.Why was it exhausted ? 4: When do major nations become selfishness?
67.Why was it exhausted ? 5: History repeats itself
68.Why was it exhausted ? 6: The period background of imperialism 1
69.Why was it exhausted ? 7: The period background of imperialism 2
70.Why was it exhausted ? 8: The mentality of the imperialism 1
71.Why was it exhausted ? 9: The mentality of the imperialism 2
72.Why was it exhausted ? 10: When did the world stand at a crossroad? 1
73.Why was it exhausted ? 11: When did the world stand at a crossroad? 2
74.Why was it exhausted ? 12: When did the world stand at a crossroad? 3
75.Why was it exhausted ? 13: What happened in Congo ? 1
76.Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2
77.Why was it exhausted ? 15: What happened in Congo ? 3
78.Why was it exhausted ? 16: What happened in Congo ? 4
79.Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5
80.At the end

 

目次

1.はじめに
2.私が目指すこと
3.中東とアラブについて
4.中東の紛争のあらまし 1
5.中東の紛争のあらまし 2
6.人気がある本 1
7.人気がある本 2
8.映画に見る中東とアラブ世界 1: はじめに
9.映画に見る中東とアラブ世界 2: アラビアのロレンス
10.映画に見る中東とアラブ世界 3: シンドラーのリスト
11.映画に見る中東とアラブ世界 4: サハラに舞う白い羽根
12.映画に見る中東とアラブ世界 5: 風とライオン
13.映画に見る中東とアラブ世界 6: その時代背景
14.映画に見る中東とアラブ世界 7: 海と大陸
15.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 1
16.映画に見る中東とアラブ世界 8: 難民問題 2
17.映画に見る中東とアラブ世界 9: もうひとりの息子
18.映画に見る中東とアラブ世界 11: パレスチナ紛争 1
19.イスラエルとパレスチナの紛争 1: 若者の声 1
20.イスラエルとパレスチナの紛争 2: 若者の声 2
21.テロについて 1: はじめに
22.テロについて 2: ある暗殺
23.テロについて 3: その背景 1
24.テロについて 4: その背景 2
25.テロについて 5: 様々な暗殺
26.テロについて 6: モサドの暗躍
27.テロについて 7: モサドの恩讐
28.テロについて 8: テロ犯と兵役拒否者
29.テロについて 9: 二人の戦闘員
30.テロについて 10: 信者の戦い
31.報復の連鎖 1: その果てに
32.報復の連鎖 2: 何が悪いのか?
33.報復の連鎖 3: シリアとレバノンで
34.報復の連鎖 4: イスラエルとパレスチナ 1
35.報復の連鎖 5: イスラエルとパレスチナ 2
36.お願いがあります
37.ご意見に感謝します
38.報復の連鎖 6: インティファーダ
39.報復の連鎖 7: 中東戦争
40.報復の連鎖 8: なぜ中東戦争は始まったのか? 1
41.報復の連鎖 9: なぜ中東戦争は始まったのか? 2
42.何が原因か? 1
43.何が原因か? 2
44.何が原因か? 3
45.今、思うこと 1
46.今、思うこと 2
47.宗教と迫害 1: はじめに
48.宗教と迫害 2: イスラム教への偏見
49.宗教と迫害 3: ユダヤ人の迫害 1
50.宗教と迫害 4: ユダヤ人の迫害 2
51.宗教と迫害 5: ユダヤ人の迫害 3
52.宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4
53.宗教が誕生する時 1: はじめに
54.宗教が誕生する時 2: ユダヤ教
55.宗教が誕生する時 3: キリスト教
56.宗教が誕生する時 4: 仏教
57.宗教が誕生する時 5: 儒教
58.宗教が誕生する時 6: イスラム教 1
59.宗教が誕生する時 7: イスラム教 2
60.宗教が誕生する時 8: 最後に
61.宗教と政治 1
62.宗教と政治 2
63.なぜ疲弊したのか 1: はじめに
64.なぜ疲弊したのか 2: 大国と多国籍企業の身勝手
65.なぜ疲弊したのか 3: なぜ身勝手がまかり通るのか
66.なぜ疲弊したのか 4: 大国が身勝手になる時
67.なぜ疲弊したのか 5: 歴史は繰り返す
68.なぜ疲弊したのか 6: 帝国主義の時代背景 1
69.なぜ疲弊したのか 7: 帝国主義の時代背景 2
70.なぜ疲弊したのか 8: 帝国主義の心性 1
71.なぜ疲弊したのか 9: 帝国主義の心性 2
72.なぜ疲弊したのか 10: 何が岐路になったのか? 1
73.なぜ疲弊したのか 11: 何が岐路になったのか? 2
74.なぜ疲弊したのか 12: 何が岐路になったのか? 3
75.なぜ疲弊したのか 13: コンゴで何があったのか 1
76.なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2
77.なぜ疲弊したのか 15: コンゴで何があったのか 3
78.なぜ疲弊したのか 16: コンゴで何があったのか 4
79.なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5
80.終わりに

 

3
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What was I writing about in this series?
I have felt distress at violence of Islamic State (IS), and plight of refugees and Palestine.
Then I got a book criticizing Islamic civilization by Bernard Lewis (annotation 1).
This book was full of contempt but was a bestseller in the United States.
This had showed many people affirm the action of the United States that had plunged the Middle East into confusion, and so I had a sense of crisis.
In it, there is a prejudice of Western civilization (Judaism, Christianity) against Islamic civilization.
So I started this series.

Initially I tried to introduce the present situation in the Middle East and the outline of the colonial era.
Next, I looked for the motives and background of terrorism that prolonged the conflict.
And I looked at a chain of retaliation all over the place.
The chain of retaliation is the most universal mechanism to expand every war.
The hatred producing the retaliation was between tribes and sects, and even between different civilizations and religions.

Then, to search for origin of the hatred between civilizations and the religious persecution, I compared the birth of world religions.
The difference in religion is certainly an origin of the confrontation, but is only a part.

On the other hand, in having examined the history of the Middle East, the colonial domination was understood as the origin of hatred and exhaustion.
If you look at the world, many countries other than the Middle East also are being distressed by conflict, dictatorship and economic downturn.
And, the more harshly a country was treated by the Western colonial domination a century ago, the more likely a country was exhausted.
Even after independence, the conflicts are frequent and prolonged due to the proxy war of the Cold War.

So, I examined the colonial domination.
Why did Western Europe do harsh colonial domination?
Why was the colonial society being exhausted?
Why do the conflict and stagnation continue even after independence?

And today I finish this series.

 
この連載で何を語って来たのか
私は、イスラム国の暴虐、難民とパレスチナの苦境に心を痛めた。
そしてバーナード・ルイスのイスラム文明批判の一冊(注釈1)を手に取った。
この本は侮蔑で溢れていたが、米国でベストセラーでした。
このことは中東を混乱に陥れた米国の行為を肯定するものであり、私は危機感を持った。
そこにはイスラム文明に対する西欧文明(ユダヤ教、キリスト教)の偏見がある。
それで私はこの連載を始めた。

当初、中東の現状と植民地時代の概要を紹介することに努めた。
次いで、紛争を長引かせるテロの動機や背景を探った。
そしておぞましい報復の連鎖に行き着いた。
報復の連鎖は最も普遍的な戦争拡大のメカニズムです。
この報復を生む憎悪は部族と宗派、さらには異なる文明と宗教間にもありました。

そして文明間の憎悪と宗教上の迫害の起源を求めて、世界宗教の誕生を比較した。
宗教の違いは確かに対立の起源だが、一部でしかない。

一方、中東史を調べると憎悪と疲弊の根源に植民地支配があることがわかる。
世界に目をやれば、中東以外に紛争、独裁、経済低迷に喘ぐ国々は非常に多い。
そして、疲弊が酷い国ほど1世紀前、西欧の植民地下で過酷な支配を受けていた。
また独立後も、冷戦の代理戦争などにより紛争が頻発し長引いてる。

そこで、私は植民地支配を調べた。
なぜ西欧は苛烈な植民地支配を行ったのか?
植民地社会はなぜ疲弊し続ける事になったのか?
独立後も、なぜ紛争と低迷が続くのか?

そして今日、この連載を終えます。

 

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Something I think now
I hope that my article solves the misunderstandings about the Middle East and Islam in any way and is useful for the world peace.
Unfortunately, I could not find even a clue for bringing peace in the Middle East.

In the course of this investigation, I lost my energy every time knowing a state of utter confusion.
However, I have continued with the desire to have to avoid the world going this wrong way any more.

In an extreme instance, it can be said that the war and exhaustion of the Middle East began from the colonial domination of Western Europe.
However, we can not say to Western Europe having responsibility for it.

The world must be very peaceful if there aren’t the imperialism and violence of great nation that is continuing even now.
Discrimination emotions and hatred have approved the violence, but this is not limited to Westerners.
My concern is that the pursuit of greed and strong power on the pretext of freedom is increasing momentum.
Forenamed Bernard Lewis justified the military invasion by despising the Islamic world as backward civilization and frail society.
Still, a logic of imperialism continues to live.
Naturally, within a nation ruled by law, this logic is denied, but this trend is increasing momentum, mainly in Europe and the United States.
It is a truly dangerous sign.

At the very least, the Europe and the United States reflect on the past conduct, should stop the invasion and intervention.

On the other hand, there seem to be no way to recover the former colonial society once destroyed.
Have we no choice but to expect a fortuity, passing years, or correspondences changed of great nation?

However, there is a faint hope.

Certainly, humanity has repeated folly, but also produced unexpected solutions.

Buddha led to a freedom from the corrupt politics, Jesus did to it from the invaded and exhausted society, and Mohamed did to it from the society where conflict persisted.
Their behaviors changed the world.

After that, Gandhi in India, Robert Schuman in France (Annotation 2), Reverend King in the United States, Mandela in South Africa, and Shevardnadze in the Soviet Union asked for reconciliation rather than confrontation, and left a mark on the world.

The world is also cooperating with the United Nations (UN), the European Union (EU) and the Convention on Climate Change Framework Convention (COP).

In this greedy world, Medecins Sans Frontieres, Amnesty International and International Consortium of Investigative Journalists (ICIJ) (annotation 3) are working for the Peace and protection of human rights by people’s goodwill and dedication.

 
今、思うこと
私の記事が、少しでも中東とイスラムへの誤解を解き、世界の平和に役立つ事を願います。
残念なことは、中東に平和をもたらす糸口すら見つけることが出来なかったことです。

今回の調査の途中で、私はその混迷の深さに幾度も気力が萎えてしまった。
しかし、これ以上、世界が誤った道を進むことを避けたいとの願いで続けて来ました。

極論すると、中東の戦乱と疲弊は西欧の植民地支配から始まったと言える。
しかし、このことで西欧に責任を取れとは言えない、ましてや今の国民に。

帝国主義と今も続く大国の暴力が無ければ、世界はどれだけ平和だったかと思う。
差別感情と憎悪がこの暴力を容認にしているが、これは西欧人に限ったことではない。
気がかりなのは、自由に名を借りた強欲と強権の追及が勢いを増していることです。
かのバーナード・ルイスはイスラムを遅れた文明、虚弱な社会と侮蔑し、軍事進攻を正当化した。
いまだに、帝国主義の論理が生き続けている。
法治国家内では、当然、この論理は否定されるが、欧米を筆頭にこの風潮が勢いを増している。
まことに危険な兆候です。

せめて欧米と大国は猛省し、侵略や介入を止めるべきだと願うばかりです。

一方、一度破壊されたかつての植民地社会が立ち直る術は見当たらない。
何らかの偶然か、年月か、先進国の対応の変化に期待するしかないのだろうか。
しかし、かすかな希望もある。

確かに、人類は愚行を繰り返して来たが、予想外の解決法も生み出して来た。

釈迦は腐敗した政治から、イエスは侵略され疲弊した社会から、マホメッドは抗争が絶えない社会からの脱却を導いた。
彼らの言動が世界を変えた。

その後も、インドのガンジー、フランスのロベール・シューマン(注釈2)、米国のキング牧師、南アフリカのマンデラ、ソ連のショワルナゼなどが対立ではなく和解の道を求め、偉大な足跡を残した。

また世界は国連(UN)、欧州連合(EU)、気候変動枠組条約締約(COP)で協同するようになった。

この強欲な世界にあって、人々の善意と献身によって国境なき医師団、アムネスティ・インターナショナル、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)(注釈3)が平和と人権擁護の為に活動している。

 

5

< 5. Please give a donation >
< 5. 募金をお願いします >

 

I hope the world is peaceful.
Until now, thank you from the bottom of my heart for reading my articles.
世界が平和であることを願って終わります。
今まで、拙い連載にお付き合い下さり、心より感謝します.

注釈1.
「イスラム世界はなぜ没落したか?」2003年刊。
著者はユダヤ系で中東史の泰斗であり、ネオコンの思想を支えた。

注釈2.
彼は独仏和解を願い、EUの前身となる欧州石炭鉄鋼共同体の設立に尽力した。

注釈3.
この団体が租税回避を記したパナマ文書を解明し発表した。

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Bring peace to the Middle East! 79: Why was it exhausted ? 17: What happened in Congo ? 5


中東に平和を! 79 なぜ疲弊したのか 17: コンゴで何があったのか 5

 

1

< 1. A movie of Congo Crisis >
< 1.コンゴ動乱の映画 >
We have seen how societies were destroyed by colonization.
Today, we see what happened to the independent Congo.
There was typical mechanism of civil war there.

 

これまで、植民地化によって社会が如何に破壊されるかを見て来ました。
今日は、独立したコンゴに何が起こったかを見ます。
そこには典型的な争乱のメカニズムが働いていました。

 

2

*2

 

Independence and civil war of Congo.
The Congo had been divided and dominated by Belgium and France.
And in 1960, each became an independent nation and now is Democratic Republic of the Congo and Republic of the Congo.
And, Cabinda that an Angolan enclave of Portuguese territory, that was sandwiched between the both Congo nations, also became independent nation along with the home country in 1975.

The beginning took place at the end of the harsh colonial occupation of Belgian Congo.
Christianity had been widespread in this area, and Kimbangu Sect that be fused with an indigenous faith and Christianity had started up in the 1920s.
It prognosticated the Messianic of the Black eventually would destroy the Caucasian, so the resistance movement broadened.
This was oppressed by the government and the Kimbangu died in prison.

From the 1950s, the momentum of independence gradually rose, and Lumumba and Kasa-Vubu began struggle severally.
Meanwhile, the Belgian government and white settlers decided to retreat from the area immediately.

But this was the beginning of the civil war.
At the time of the independence, there was no person that could be responsible for the administration as members of the government, and degree recipients were only 16 people.
Until then, Belgium had done colonial management in their home country, and did not let Africans participate in the politics at all.
In addition, the national economy was held by private companies, and one multinational company accounted for 27% of the country’s national income.

 
コンゴの独立と動乱
コンゴはベルギーとフランスに分割支配されていた。
そして1960年、それぞれが独立し、現在のコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に至る。
またポルトガル領のアンゴラの飛び地、両コンゴに挟まれたカビンダも、1975年に本国と共に独立した。

その始まりは、過酷なベルギー領コンゴの末期に起きた。
この地ではキリスト教が根を下ろしており、これと土着信仰を融合させたキンバンギ宗が1920年代に興った。
これは黒人の救世主がやがて白人を打ち滅ぼすとされ、抵抗運動が広がた。
これは政府によって弾圧されキンバンギは獄死した。

50年代より、徐々に独立の機運が盛り上がり、ルムンバとカサブブが別々に独立闘争を開始した。
一方、ベルギー政府と白人入植者達は、この地から即刻手を引くことを決めた。

しかし、これが動乱の始まりでした。
独立時に行政を担える人材は皆無で、学位取得者は16名しかいなかった。
それまで、ベルギーは本国で植民地管理を行い、まったくアフリカ人を政治に参加させていなかった。
国の経済は民間企業に握られており、多国籍企業一社だけで国家収入の27%に達していた。

 

3

< 3. Documentary on Katanga >
< 3.カタンガを描いたドキュメンタリー >

 

Although the Congo became an independence nation by president Kasa-Vubu and prime minister Lumumba, they soon were opposed each other to take priority of which of tribe or integration.
Meanwhile, Tshombe that was supported by Belgium and international capital aiming to secure the mines, declared independence of Katanga.

Belgium intervened militarily on pretense of the suppression, and so the Lumumba requested the United Nations force, but it meant his death.
The UN forces was standing on the Western side and protected the Katanga regime, and so he approached the Soviet Union quickly.
Colonel Mobutu, who been supported by the United Nations and the United States, raised a coup d’etat and the Lumumba was killed.

 
カサブブを大統領、ルムンバを首相とし独立したが、部族優先か統合かで対立した。
一方、鉱山確保を狙ったベルギーと国際資本に支援されたチョンベはカタンガの独立を宣言した。

ベルギーは鎮圧を口実に軍事介入したので、ルムンバは国連軍を要請するが、これが彼の命取りとなった。
国連軍は西欧側に立ちカタンガ政権を保護したので、彼はソ連に急接近した。
そして国連と米国の支援を受けたモブツ大佐がクーデターを起こし、ルムンバは殺された。

 

4
*4

 

Approximately 100,000 people were killed in this Congo Crisis from 1960 to 1965.
The Mobutu became president and reigned as a dictator until 1997.
His accumulated wealth is said to be 600 billion yen, which is equivalent to the country’s external debt.
He defected in the midst of other intense civil war and died in Morocco.

After that, the Congo is caught up in many wars such as civil war or war with neighboring country, due to ethnic conflicts and resource acquisition.
And each time, hundreds of thousands of people were killed, starved to death, became refugees.

 
この1960年から1965年のコンゴ動乱で約10万人が殺された。
モブツは大統領になり1997年まで独裁者として君臨した。
彼の蓄財は国の対外債務に等しい6000億円と言われた。
彼は、後の内戦激化の折に亡命しモロッコで死んだ。

その後も、コンゴは民族対立と資源獲得を巡り、内戦と周辺諸国との戦争に巻き込まれていく。
そして何十万単位で殺され、餓死し、難民が発生している。

 

6a

< 5. A movies on Katanga civil war >
< 5. カタンガ内戦の映画 >
There is certain common mechanisms in this endless wars.

A. Birth of new religion: dissatisfaction toward the colonial domination created religions that had to be competitive with white man’s religion (Christianity).

Christianity was regarded the same as colonial domination, and so the indigenous people asked indigenous faith, Islam or new religion for help, next it led to a massive resistance movement.

B. The atrocity by former colonial master and foreign companies: the former colonial master and foreign companies (international capital, multinational corporations) forever dominate the colony in order to secure interests.

To that end, they don’t hesitate to support the puppet government, dictators, and do coup aid or military intervention.

C. Proxy War of the Cold War: the United States and the Soviet Union carried the military support and military intervention in order to collapse each other’s allies.

Supercountry refuses support unless a small country belongs to the supercountry, and conversely the supercountry counts the small country as enemy when the small country asks for assistance to the other supercountry.
In particular, the United States did this not only to Congo but also Vietnam, Egypt, and Iraq, and has plunged the region into crisis.

In the next time, I end this serialization, “Bring peace to the Middle East! ”

 

この果てしない争乱には共通のメカニズムがある

A. 新興宗教の誕生: 植民地支配への不満は、白人の宗教(キリスト教)に対抗する宗教を生み出した。

キリスト教は白人支配と一体と見なされ、先住民は土着信仰やイスラム教、新興宗教に助けを求め、これは大規模な抵抗運動につながった。

B. 宗主国と海外企業の横暴: かつての宗主国と海外企業(国際資本、多国籍企業)は、権益確保の為に、いつまでも植民地を支配する。

その為には傀儡政権や独裁者の支援、クーデター幇助、軍事介入を辞さない。

C. 代理戦争(冷戦): 米ソは互いに相手の同盟国を潰す為に、軍事支援と軍事介入を行った。

超大国は、ある国が自国の傘下に入らなけらば支援を拒否し、逆に相手国に支援を求めたら敵と見なして来た。
特に米国は、コンゴだけでなくベトナム、エジプト、イラクでもこれを行い、地域を戦乱に陥れた。
次回で、「中東に平和を!」を終了します。

 

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 78: Why was it exhausted ? 16: What happened in Congo ? 4


中東に平和を! 78 なぜ疲弊したのか 16: コンゴで何があったのか 4

 

1

*1

Last time we saw how colonial occupation destroyed the society.
We also examined the differences between domination with each other by Western European countries and colonial rule.
This time, we see what happened to the destroyed society.
前回、植民地支配がどのよう社会を破壊するかみました。
また西欧諸国同士の支配と植民地支配の違いを検討しました。
今回は、破壊された社会に何が起きるかを見ます。

 

2a

*2

 

What brought in the harsh control?

The one is the difference between overwhelming military power and civilization (economic power, political power, etc).

Even if indigenous people of the colony had broken a troops of the colonial master at one time, they ended up suffering a disastrous defeat.
Most of the colonies, Congo, Algeria, Egypt, etc., also caused rebellion more than once.
However, in reverse, it was usual that the colonies were severely occupied than before with this pretext.
The other one is that if the race and religion of the ruling layer are different from indigenous people, and the rule became parasitic and harsh.
The parasitic rule is to exploit people to no extent of killing indigenous people.

For example, the rulers of Egypt changed from the Ottoman empire in the 16th century to France, Muhammad Ali and Britain, and finally became independent as a kingdom (puppet) in 1922.
All of these rulers were different ethnic groups, the Ottoman Empire and Muhammad Ali were Muslim, but they were Turkish or Albanian, and different from Arabs.
Thus Egypt was thoroughly squeezed.

Thus the colonial rule became severe.

 

何が過酷な支配をもたらしたのか?

一つは、圧倒的な軍事力と文明(経済力、政治力など)の差です。

植民地で、一度は先住民が宗主国の軍を破ったとしても、最後には惨敗を喫す。
ほとんどの植民地、コンゴ、アルジェリア、エジプトなども一度ならずとも反乱を起こした。
しかし、逆にこれを口実に支配を強化されるのが常です。

今一つは、支配層の人種や宗教が先住民と異なると、その支配は寄生的になり過酷になります。
寄生的な支配とは先住民を殺さない程度に搾取することです。

例えばエジプトの支配者は16世紀のオスマン帝国から、フランス、ムハンマド・アリ朝、イギリスと変わり、やっと1922年に王国(傀儡)として独立しました。
これらの支配者はすべて異民族で、オスマン帝国とムハンマド・アリ朝はイスラム教でしたが、トルコ人かアルバニア系でアラブ人と異なりました。
こうしてエジプトは徹底的に搾り取られた。

こうして植民地支配は過酷になった。

 

3

< 3. Mercenary >
< 3.傭兵 >

 

What happened to this society?

A. The army was appropriated by a person in authority: the army became means of oppressing people and other tribes.

Colonial master had oppressed the inhabitants by the military to completely rule, and the puppet government also followed it.

B. Relationship between patrons and clients: a person in authority conferred a benefit
only on his tribe in exchange for supporting for him, and further oppressed other tribes.

This is because the Indigenous people was inexperienced in governing a united nation, and the antipathy among tribes and sectaries took root in the society due to the division policy of colonization.
For example, the Syrian civil war began with antipathy due to different religious schools between Assad regime and Muslim Brotherhood, but they are having a fear that they would be killed unless killing each other.
It is especially serious as minority Assad side.

As a result, in all colonies, civil war and dictatorship continued after independence.

 

この社会に何が起きたのか?

A.  権力者が軍隊を私物化: 軍は国民と他部族を弾圧する手段になった。

宗主国は支配を徹底するために軍で住民を弾圧し、傀儡政権もこれを踏襲した。
B. パトロンとクライアントの関係: 権力者が支援との交換に自分の部族に恩恵を与え、さらに他部族を弾圧した。

これは先住民が統一国家の運営経験がないうえに、植民地の分断政策の影響で部族や宗派間の対立が根付いてしまったことによる。
例えば、シリア内戦は宗派の異なるアサド政権とムスリム同胞団の敵対に始まったが、互いに相手を抹殺しないと逆に殺される恐怖がある。
少数派のアサド側にとっては特に深刻です。

この結果、植民地は独立後も独裁と内戦が続くことになった。
Then the serious stagnation had began
Dictator oppresses opposed tribes, political parties and sects.
The change of government is settled by violence (tribal conflict, coup d’etat, assassination).
Dictator tries to exploit wealth by collaborating with privileged layer holding the economy,
and survive longer.
This is repeated even if dictatorships changed.

Then, the dictator and privileged layer become be afraid of the change that may threaten to their interests, made people a tool of exploitation, and the people eventually lost motivation.
In this way, the violence and exploitation continue, and the society is getting exhausted.

This appeared as Congo Crisis after independence.

 

そして深刻な停滞が始まった
独裁者は対立する部族や政党、宗派を弾圧する。
政権交代は暴力(部族抗争、クーデター、暗殺)で決着する。
独裁者は経済を握る特権層と結託することで富の収奪と延命を図る。
これは独裁者が替わっても繰り返される。

こうなると独裁者と特権層は権益を脅かす変革を恐れ、ただただ国民は収奪の道具にされ、ついには意欲を失ってしまう。
こうして暴力と収奪が続き、社会は疲弊するばかりなのです。

これが独立後にコンゴ動乱となって現れた。

 

4

*4 by http://ganref.jp/m/viola_brillante/portfolios
Finally
Unfortunately we don’t yet find the pathway for changing from the society of ” exploitative political system” to ” inclusive political system” such as Japan, the United States and Europe. Annotation 1.

Still doubts remain.

“Why are all dictators fixated on exploitation?”
It should be better to increase profit by developing the economy… ”

Unfortunately the dictators can not adopt this method.
The reason is that if the people’s awareness is elevated by doing the productivity improvement and reformation, the interests of dictators and privileged layer will be threatened, and it is the same as the colonial policy.

For this purpose, the dictators choose to strengthen the exploitation rather than the dangerous economic development.

 

This continues to the next time.

 

最後に
このような「収奪的政治制度」の社会から、日米欧のような自由主義圏の「包括的政治制度」への転換が可能な道筋は残念ながらまだ見えていない。注釈1.

まだ疑問が残る。

「 なぜ独裁者は収奪に拘るのか?
経済を発展させて収益増大を図る方が良いはずなのに・・・」

残念ながら独裁者はこの手法を採用できないのです。
その理由は、植民地政策と同じで、国民が生産性向上や改革を行うまでに意識が高まると、独裁者や特権層の立場が脅かされるからです。

この為に独裁者は危険な経済発展よりも、収奪を強化する方を選ぶのです。
次回に続きます。

 

注釈1.
この二つの制度は「国家はなぜ衰退するのか 上・下」で使われています。
「収奪的政治制度」と対立する「包括的政治制度」の特徴を記します。
これは集権的な政治権力機構を持つ自由民主制の事です。
分散的であれば混乱が生じるが、独裁者でもいけない。
従って国民が選んだ権力者が法に基づいて政治と経済、軍事を統括する社会こそが国民にインセンティブ(意欲を引き出す)を与え、この結果、社会は混乱することなく自律的発展していくことになる。

参考図書
*植民地支配が社会を如何に疲弊させるかについての理論と実情に詳しい本。

「国家はなぜ衰退するのか 上・下」ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン共著。
画期的で統合的な社会理論が述べられている。
植民地問題だけではなく、世界史と現代に通じる社会の発展と衰退を分ける要因を説明している。
しかし説明全体の構成が私には合わずに読みづらかった。

「貧困、紛争、ジェンダー」戸田真紀子著。
非常に意欲的な研究、アフリカの衰退の実情を的確に分析し、かつ要領よくまとめている。

*アフリカの歴史や文化がわかる本。
「アフリカ史」山川出版社。
定評のある歴史シリーズだが、コンゴの近現代は詳しくない。

「世界の歴史 24、 アフリカの民族と社会」中央公論社。
読みやすい。

「新書アフリカ史」講談社現代新書。
上記2冊よりもコンゴの植民地支配が詳しい。

「現代アフリカの悲劇」片山正人著。
コンゴの内戦について最も詳しいが、文章に少し難がある。

「ハンドブック 現代アフリカ」明石書店。
アフリカの全体像、文化、歴史あらゆる事柄についての記述があり、読みやすい。

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何か変ですよ! 57: 今ある恐怖 2


1

*1

 

 

前回、米国で何が起きているかを見ました。

今、歴史上初めての変動と繰り返す災厄が力を増しています。

さらに、これらが世界を巻き込み、やがて大きな危機を招く可能性があります。

 

 

2

*2

 

はじめに

前回、指摘した米国で起きている状況を要約します。

 

A: 一部の金融資産家に都合の良い社会が到来しつつある。

 

国の富が彼らに集中し、また政府が彼らを支援することにより、益々、この状況は加速している。

一方、99%の国民は取り残され、政府への不信を高めているが、政治を変える有効な手段を持たない。

 

B: 不満を募らせた国民は益々煽動され易くなっている。

 

政治が国民の不満や不信に対処出来なくなると、国民は勢い短絡的で強権的な解決策に飛びつき始める。

扇動者はスケープゴートを強烈に訴えることで、大半の国民の心を掴むようになった。

 

Aの状況は、ここ30年の間に進行し、加速している。

一方、Bの状況はAによって誘発され、ここ数年で急に表面化した。

 

しかし、この問題は米国内に留まらず、世界を巻き込む大きな危機へと発展している。

 

3

< 3.ダボス会議 >

 

世界で何が起きているのか

私は世界が二つの段階を経て、混乱から危機に突入するように思える。

 

だがその説明の前に、米国で起きている事が世界とどのように関わって来たかを確認します。

 

ここ半世紀、米国が金融の規制緩和を牽引した結果、格差が拡大し続けている。

しかし、自由経済を標榜する国々も同時に熾烈な競争に巻き込まれ、規制緩和に突き進み、同様に格差が拡大している。

 

あたかも1970年代、英米を筆頭に同じ自由経済圏がスタグフレーションに巻き込まれたのと酷似している。

この時は、国民だけでなく、むしろ経済界の方が不満の声を挙げ、各国政府は対策を行ったが、今回は大きく異なる。

今の経済界や政界のエリートは現状に不満を示さず肯定的である。

 

それはなぜなのか?

最も明確な当時との違いは経済が拡大している中で貧富の差が拡大していることです。

この状況は富が集中するエリート(主に金融資産家と一連托生の仲間)にとっては天国だからです。

 

これを示す好例があります。

世界から選ばれた数千名の賢人が毎年集まるダボス会議があります。

ここでは学者やジャーナリスト、経営者、政治家などのトップが一堂に会し、議論を行っています。

しかし、ここから発信されるメッセージは概ね現状に肯定的です。

これは世界に「改革が必要ない」ことを間接的にアピールしているようなものです。

 

かって学者が主導したローマクラブの功績とは似て非なるものです。注釈1.

それもそのはずで、「地球上の富の85%をダボス会議の参加者が握っている」のですから。注釈2.

私は、このサロンに過ぎないエリートの集まりは「不作為の罪」を背負うことになると思う。

このような交流は必要だが富裕層やエリートに役立つだけだろう。

 

つまり、今起きている富が偏在するメカニズムは完全に世界を巻き込み、富の集中を享受する人々によってこのシステムは強化されつつあるのです。

 

 

4

< 4. 右傾化の背景 >

 

何がポイントなのか

グローバル化する世界にあって、自由経済の国が競争に晒されるのは必然です。

従って無為無策で競争を放置(自由に)すれば、経済を通じて社会に歪(失業や格差)が生じるのは当然です。

 

この時、国内の労働者や企業が競争力低位の産業から優位の産業にスムーズに転換出来ればその歪は少なくなるのですが、これがなかなか困難な現状です。

今、フランスや米国で起きている右傾化に賛同する農民や労働者達はこの犠牲者達です。

現在の指導者は、保護主義と自由貿易の板挟みの中で、制度的(規制など)な解決を放棄し、自己責任として労働者を自由競争の中に晒すだけなのです。

これでは世界経済の落ち込みが激しくなると、彼らの怒りは頂点に達するでしょう。

この危ない綱渡り状態が日本も含めた先進国で続いています。

 

自由競争を否定しませんが、違法まがいの弱肉強食により正常な競争が出来なくなっていることが問題なのです。

 

結局、現代のグローバル化した経済では、ほんの一握りの富裕者は益々富み、貧者は益々貧しています。

これは隠しようのない現実ですし、そうならざるを得ない経済的メカニズムが確立し、増殖中なのですから。

この歪は、今は目立たない国でも高進するのは時間の問題です。

 

これは主に、1980年以降の自由経済圏の大国が先導して来た政策によるものです。

この政策とは、グロ―バル化に向けた経済・金融・労働・産業に対する規制緩和、企業・金融・富裕者の活性化と称する減税、貨幣供給量と累積赤字の増大の是認、中央銀行の役割改変などです。

それに比べ、不思議なことに労働者の活性化云々の政策や保護はあまり聞かない。

この関係は複雑ですが、大きな流れは前回説明しました。

幾つかの国(ドイツや北欧など)は、危険を認識してこれらの政策採用を抑制気味だが、巻き込まれつつある。

 

実は、今の富裕者の減税は19世紀まで無税が一般的でしたが、20世紀になると政府が強力に累進課税や規制緩和を国民や国家の為に導入したのです。

ところが国民が浮かれ、よそ見している間に中世の社会に戻ってしまったのです。

 

 

 5

*5

 

これから起きる悲劇とは何か

悲劇の第一段階は、B項の「煽動と右傾化」です。

 

もう既に起きています。

各国で差別的な言動を好む人ほど政府を信任していることからも頷けます。

これは数年前から、日本や欧米などで顕著になっています。

 

国民の不満が高まり、何ら改善出来ない政府への不信感が高まると強権的な解決を望む声が高まります。

そこで不満を上手く操る煽動家の出現となります。

これは歴史的に繰り返されて来たことで、必然と言えます。

 

今は、まだほんの始まりに過ぎない。

例えば、今回、北朝鮮の核実験やミサイル発射は何時から騒がしくなったのか。

それは米国のトランプ大統領の誕生前後からでしょう。

始めは、数匹の狂犬の遠吠えから始まったが、いつの間にか周りを巻きんで大合唱となり、ついには何処かの国の地下鉄まで止まりました。

一方の狂犬は脅しが効いたのですから喜んでいることでしょう。

 

実は、歴史上、戦争の始まりの多くはこのような些細ないがみ合いが嵩じて始まっています。

第二次世界大戦前の独仏の状況がその一例です。

両国は、ライン川を挟んで国土の奪い合いを繰り返していました。

フランスは先の第一次世界大戦に懲りて、ドイツの再軍備防止の為にドイツ経済を困窮させる莫大な賠償金を請求し、また賠償として炭鉱地帯を占領しました。

この手の敗戦国への仕打ちは一般によく行われることでした。

 

しかしこの二つの行為が、間接的にドイツ経済をどん底に突き落とし、ドイツ国民はヒトラーに不満を煽られ、軍事力で反撃することを選択するようになった。

一方、フランスはこれに対抗して右傾化して行きました。

こうしてまたも大戦が短期間のうちに再発した。

 

しかし私が恐れる悲劇は、これだけではありません。

私はまだ世界の良識に希望を持っており、多くの国民が直ちに戦争開始に応じることは無いように思います。

 

それでは何をさらに恐れるのか?

 

 

6

*6

 

 

私が想定する第二段階の悲劇

それは、右傾化とナショナリズムにより各国が交流を断ち始めることです。

つまりグローバル化と反対の方向に進むことです。

この結果、たとえ今すぐの戦争開始を逃れたとしても、最終的に世界は益々、混迷と対立を深め、ついには戦争から逃れられない状況に陥ることになるでしょう。

 

これは既に始まっています。

西欧国内のEU離脱運動の盛り上がりや一部首脳による挑発的で利己的な行動に顕著です。

 

EU離脱は、最も象徴的な例です。

EUは独仏が戦争回避を願って、大戦への反省から奪い合っていた中間地帯の鉱物資源を共有する為に始められたのですから。

EU統合の手法に問題があるにしても、EUの分裂は平和と経済に悪影響を与えることは明らかです。

 

さらに間違いが明確なのは、自国優先の為に各国が保護貿易に走り、世界貿易が縮小し、廻りまわって自国に不況の波がさらに大きくなって返って来たことでした。

第二次世界大戦を世界に拡大させてしまったのは、各国の保護貿易が恐慌の傷をさらに深くしてしまい、日独伊の国民が不満を募らせ扇動者の尻尾に乗ったことにある。

この手の危機の兆しはそれぞれの国内で20年ほど前からあったのですが、独裁と暴発は数年の短期間で決定的なものとなったのです。

このような悲劇を幾度も繰り返す愚は避けたいのもです。

 

益々、世界は経済や軍事、外交などで孤立と対立を深めていくことでしょう。

しかし、これもまだほんの始まりにすぎません。

 

7

*7

 

 

何が恐ろしい結末へと導くのか?

私が恐れるのは、世界の平和と繁栄に最も必要なものが反グローバル化によって破壊されることです。

 

皆さんは、グローバル化こそが金融資本家と多国籍企業の横暴を招き、世界の人々を不幸にしている元凶ではないかと思っているかもしれません。

今まで、私がそのように説明をして来たではないかとお叱りを受けそうです。

半分は正しいのですが、半分は問題があります。

 

例えて言うなら、琵琶湖周辺の人々が川に好き勝手に(自由に)汚水を流し、汚染が酷くなったので琵琶湖に流入する河川を遮断すべしと言っているようなものです。

本来は、すべての人々が汚水の排水規制を守れば済むだけのことなのです。

現在の問題は、この規制が無きに等しい為に起こっているのであり、一部の特権層による規制外しの圧力が世界を席巻していることです。

 

 

少し目先を変えて、以下の困難な問題をどう解決すれば良いか考えてみましょう。

 

A: 枯渇する地球の資源(鉱物、石油、水産農作物、水)の持続的な使用。

B: 北朝鮮やイスラム国(IS)などのテロ国家や組織の抑制・制圧。

C: 地球温暖化の防止。

D: 大国の横暴(軍事行動や占領、経済・金融政策)の制止。

E: 多国籍企業や金融家の横暴(タックスヘイブンやヘッジファンド)の規制と取り締まり。

F: 格差の拡大と富の集中を抑制する世界的な規制と税制。注釈3

D: 移民・難民の発生低減と保護、移住先の摩擦低減。

 

これらは手をこまねいている内に拡大し深刻の度を増しています。

 

例えば、どこかの大統領や首相のように国益を重視し、他国を敵視し、特定の大国との従属を深めるならどうなるでしょうか。

結果は明らかです。

上記7つの問題を解決するどころか、戦争へと発展する危険の方が高いでしょう。注釈4.

 

解決するには何が必要なのでしょうか?

それは世界の国々が等しく協力し合うことです。

解決を遠ざけるものは分裂と対立、そして大国の身勝手です。

 

私の連載「中東に平和を!」で紹介していますが、現在世界中で起きているテロや内紛、難民の多くはここ百数十年間の大国の身勝手に起因しています。

この因果関係と責任問題に関してまだ定説はありませんが。

また嫌われるグローバル化の汚点も、大国の庇護を受けた多国籍企業や金融家の横暴が背景にあります。

この問題が見過ごされるのは、世界が共有出来る法意識が未発達なのと、その形成を妨害する情報秘匿やデマの力が大きい為と考えます。

例えば、タックスヘイブンやヘッジファンドの横暴によって、日常的に世界の庶民は多大な害を受けているにもかかわらず、規制が無いに等しく、増加の一途です。

 

 

平和的に問題を解決する手段は、人類が生み出した民主主義を世界に取り入れる以外に道はない。

益々、地球はあらゆる危機に直面しているのですから。

 

残念ながら、これは非常に難しい。

半世紀前の東京裁判の折、インドのパール判事は、いつか世界が一つになり国家の不正義を裁く時代が来ることを願っていた、しかし、当時はまだ機が熟していないと判断した。注釈5.

「あなた方はいつまで惰眠を貪るのか?」とパール判事は悲しんでいることでしょう。

 

 

しかし皆さん、思い出してください!

世界や国内で格差が拡大し、国民が政府に絶望するようになった理由はどこにあったのでしょうか?

 

答えは先進国で1980年代から加速した富裕層の優遇策でした。

極論すると、それは規制緩和と税制変更が元凶でした。

そしてこれが自由経済圏の先進国から地球全域に蔓延していったのです。

この人間(エリート)が行った制度改悪を、人間(国民)の手でより良い制度に戻せば良いのです。

 

これは、各国が個々に解決出来るものではありません。

幾分はドイツやかつての日本、北欧など幾つかの国は抵抗して来ましたが、グローバル化した現在において無傷で難を逃れることは出来ない。

 

一番、目立たない問題ではあるが放置すると、徐々に世界の傷は深くなり、ついには良識が通用しない社会、衰退する地球になると予想されます。

これも歴史が示すところです。

 

残念なことに、危機を予測出来て解決策が見えても、これを世界が実行出来るかは皆さんの手中にあるとしか言えないのです。

 

 

以上で終わります。

どうもお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

注釈1.

ローマクラブは当時、科学的に証拠をもって世界の地下資源が数十年後から枯渇し始めると警鐘を鳴らしました。

世界はこれに対応すべく省資源に取り組み、現在、地球の寿命が伸びています。

 

注釈2.

「世界一の会議」、斎藤ウィリアム著、p30より。

 

注釈3.

世界の貧しい下位50%(36億人)の総資産が富豪上位62人の保有資産に匹敵している。注釈2.

 

注釈4.

B項のテロ対策には軍事力が必要ですが、超大国に頼ることのメリットよりも、超大国の身勝手な軍事行動の方がマイナスです。

 

注釈5.

パール判事は当時、事後法の「平和に対する罪」で日本の戦犯を裁く事に反対しましたが、他の戦争犯罪については同意しています。

彼の意見は法律家としては正しい。

彼の意見と思いから学ぶべきは、「平和に対する罪」が裁ける世界になるべきだと言うことだと思います。

 

 

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Bring peace to the Middle East! 76: Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2


中東に平和を! 76 なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2

 

1

< 1. Leopold II of Belgium >
< 1.ベルギー国王レオポルト2世 >
A king who didn’t look like cruel person left a permanent scar on Congo.

冷酷非情には見えない王が遺したもの。

 

2a

<2. Belgium and the Congo Free State >
< 2. ベルギーとコンゴ自由国 >

 

Dawn and the beginning of tragedy
Here was the Kingdom of Congo with a population of 2 – 3 million people since the 14th century.
In 1482, Portugal, a pioneer in the Age of Discovery, discovered this kingdom and the two kingdoms began diplomatic relations.
The king of Congo became Catholic and began to actively adopt Western civilization (the technology and institution).
However, many slave merchants became working behind the scenes, and conflicts of slave hunts among tribes were intensified for obtaining guns.
The next king that felt a sense of crisis about the slave trade appealed to king of Portugal and but it was ignored.
Before long, the kingdom was adding another layer of confusion due to expanding slave hunts, the spread of guns, and repeating throne succession war.

But this was only a beginning of tragedy.
Eventually the Portugal withdrew, and France replaced it in the 17th century, began to trade of slave and ivory with the Kingdom of Congo.
After Western Europe experienced the industrial revolution, in the end of the 19th century when the slave trade declined, each country began competing for obtaining a colony in the last continental Africa.
In 1884, Western powers decided to divide Africa at the Berlin Conference, this area was divided by France and Belgium, and finally the kingdom of Congo disappeared.

 
黎明と悲劇の始まり
ここには14世紀から続く人口200~300万人のコンゴ王国があった。
1482年、大航海時代に先鞭をつけたポルトガルがこの王国を発見し、両王国は国交を開始した。
コンゴ王はカトリック教徒となり、西欧文明(技術、制度)を積極的に取り入れ始めた。
しかし奴隷商人が暗躍し、銃入手の為に奴隷狩りによる抗争が部族間で激化した。
次の王は奴隷貿易に危機感を持ちポルトガルに訴えたが無視された。
やがて王国は拡大する奴隷狩りと銃の蔓延、度重なる王位継承戦争で疲弊の度を深めていくことになる。

しかしこれは惨劇の序章に過ぎなかった。
やがてポルトガルは撤退し、17世紀にはいるとフランスが進出し、奴隷と象牙の貿易を行った。
西欧は産業革命を経て、奴隷貿易が衰えた19世紀末になると、各国は最後に残ったアフリカで植民地の獲得競争を始めた。
1884年、欧米列強はベルリン会議でアフリカ分割を決め、この地はフランスとベルギーによって分割され、ついにコンゴ王国は消滅した。

 

3

< 3. Atlantic slave trade >
< 3.大西洋奴隷貿易 >

 

In the centuries, the slaves who were taken away from the Guinea bay in Africa ranged from 1,000 million to 20 million people, perhaps the area was robbed of a half of the population and the society was seriously damaged.

The eastern area that occupied the majority of the Congo became the private estate of Leopold II of Belgium (Congo Freedom Country).
At first, the king advanced modernization of the country, but it turned into tyranny when it became a deficit.
The indigenous peoples were forced to be slaves and were thoroughly forced to work to gather ivory and rubber.
At that time, even in European countries that it was natural to exploit colonies, the tyranny was hard criticized.
Unwillingly Belgian government bought the Congo Freedom Country from the King of Belgium and it became colonial Belgian Congo (1908 – 1960).

On the other hand, small areas on the west side became French territory.
France entrusted the development of the Congo to a white company and it carried out exploitation thoroughly.

These tyrannies laid waste to the society and prepared a path that would become a country where violence and dictatorship occurred frequently even if they would be independent.

 
この数世紀の間に、アフリカのギニア湾から連れ去れた奴隷は1000~2000万人にのぼり、おそらくは人口の半数が奪われ、社会は大打撃を受けた。

コンゴの大半を占める東側の地はベルギー国王レオポルト2世の私有地(コンゴ自由国)となった。
当初、国王は近代化を推し進めたが、赤字になると暴政へと転換した。
現地住民は奴隷にされ象牙やゴムの採集に徹底的に使役された。
当時、植民地で収奪することが当然の欧州諸国においても、この暴政は非難の的となった。
しかたなくベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、植民地ベルギー領コンゴ(1908年 – 1960年)となった。

一方、西側の小さな地はフランス領となった。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね、白人企業は徹底した搾取を行った。

これらの暴政が社会を荒廃させ、独立しても暴力と独裁が横行する国家となる道筋を準備した。

 

4a

*4

 

The tyranny of the King of Belgium
In the Congo Freedom country (1885-1908), the King monopolized the trade of ivory and rubber, and gained enormous wealth.

At that time, a demand for Congolese natural rubber for automobile tires was robust.
While eight years of its latter half, the rubber production increased by 24 times, but it was due to the harsh a quota system that indigenous people was imposed on.
If the people could not achieve the quota, their hands and feet were cut.
In addition, the population has decreased to 9 million from 30 million of the initial stage.
The number of people killed was comparable to the Jewish massacre (Holocaust).

The army founded by the king was commanded by white officers and the soldiers consisted of indigenous warriors and slaves.
The purpose of this army was not to maintain security, but to overwork the people (indigenous people that became slave).
The army whipped the people, kidnapped the women and children of those who did not comply with the quota, and burned down the village.
The soldiers had to submit to the superior officers a human hand that was cut as a proof of ammunition that they used for the subjugation.
This purpose was only to prevent using wasteful bullets.

In addition, the King aimed to expand own territory.
When a tribal king of the south side (Zambia) partnered with a British national policy concern, he sent the army, shot to kill the king and changed a puppet king.

This continues to the next time.

 

ベルギー王の暴政
コンゴ自由国(1885-1908)において、王は象牙とゴム取引を独占し巨万の富を得た。

当時、自動車タイヤ用にコンゴの天然ゴムの需要は旺盛であった。
後半の8年間でゴム生産量は24倍になったが、これは先住民の過酷なノルマ制によるものだった。
ノルマを達成出来ない住民は手足を切断された。
また人口は当初の3000万人から900万人にまで減少した。
殺された人数はユダヤ人虐殺(ホロコースト)に匹敵した。

王が創設した軍は白人の将校が指揮し、兵は先住民の戦士や奴隷からなった。
この軍の目的は治安維持ではなく、国民(奴隷にされた先住民)を酷使する為であった。
軍は国民を鞭打ち、従わない者の婦女子を誘拐し、村を焼き払った。
兵は討伐時の弾薬使用の証明として切断した手を上官に提出しなければならかった。
これは銃弾の無駄遣いを防止する為であった。

また王は領土拡大を目指し、南部(ザンビア)の部族長が英国の国策会社と手を結ぶと、軍を送り彼を射殺し、傀儡を据えた。

次回に続きます。

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平成イソップ物語 15: 「津波とモグラ」の補足


 1

< 1.津波で残った一本松 >

 

 

前回投稿した「津波とモグラ」が何を意味しているのか解らないとの意見がありました。

ご指摘の通りだと思います。

ここに陳謝し、蛇足ながら説明したいと思います。

 

 

私が言いたかったこと

 

人々は今ある恐怖や不安に囚われて、往々にして理性的な判断が出来ず、目先の安心に飛びついてしまうことがある。

 

これは危機を先延ばするだけでなく、より深めることになる。

 

この手の愚を、社会は幾度も繰り返して来ました。

 

そして、この傾向は今の日本や欧米で顕著です。

 

 

 

 

2

*2

 

ミサイル防衛について

ここ数日、北朝鮮のミサイルに関して政府や与党からミサイル防衛や日米同盟の必要性が強調されています。

この意味を考えてみましょう。

 

例えば、迎撃ミサイルシステム(サード、パトリオット)を考えます。

日本が無数のイージス艦を日本海に配備し、陸上配備の迎撃ミサイルを全土に20km毎に配備しようが、北朝鮮のミサイルを完全に防ぐことは出来ません。

それはなぜでしょうか?

 

色々、想定できますが、一つは偽装船による近海からのミサイル発射です。

北朝鮮がこの技術を獲得するのは簡単です。

こうなれば、首都ぐらいは守れても本土全体を守ることは出来ないでしょう。

 

この手の落とし穴や矛盾はかつての米ソの核開発競争を振り返れば歴然としています。

核兵器の進歩はその都度、米ソの核ミサイル防衛構想を無に帰して来ました、例えば潜水艦発射ミサイルの普及のように。

結局は、互いに完全に破壊し尽くす体制をとることで、互いが馬鹿な攻撃を自制するだろうと言うことに落ち着いた。

米国の核戦略担当者から見ればこれも立派な抑止力でしょうが。

そして膨大な数の核兵器を作り、現在、大量の核ゴミに困っている。

 

ミサイル防衛は完璧ではなく、その後の多国間のミサイル開発競争を促進させるだけなのです。

例えば、イスラエルに核兵器を持たせたことによりイランが対抗して核開発を望んだように、またインドとパキスタンの関係も同じで、連鎖し拡大するのです。

一方、完全な迎撃ではなく抑止力を高める為に核兵器を保有する話もあります。

そこには相手が良識ある判断をするものと想定している落とし穴があるのです。

例えば、狂気のヒトラーにそれを期待出来たでしょうか?

特に核ミサイルについては、残念ながら物理的な迎撃手段は絶望的でしょう。

 

つまりミサイル防衛システム「モグラの堤」を作って、一時期のミサイルの脅威「津波」を防いだとしても、次の脅威の発生を招くことになるだけなのです。

むしろ抜本的な手を打つべきなのです。

そして新たな危機の前兆が「地中の水の流れ」であり、新たな危機が「洪水」でした。

一番の問題は、一時の安心の為に根本的な解決策を遠ざけてしまうことなのです。

この手の愚行は、かっての世界も現在の世界でもまかり通っているようです。

 

「モグラの母子が高台に逃れた」のは消極策のように見えるが、扇情に惑わされず、「津波と洪水」のどちらに対しても完璧な策を選んだことを示しています。

 

 

それであればどうすれば良いのでしょうか?

私は中国を動かすしかないと考えています。

中国は得体の知れない国ですが、例えば発展途上国への援助姿勢に良い変化が見られるように、私達は中国のすべてを拒否すべきではないでしょう。注釈1.

 

北朝鮮をいままで支えて来たのは、かつてはロシア、そして今は中国です。

中国にとっての北朝鮮は、かつての大日本帝国の防波堤であった朝鮮半島のような存在なので、中国はそう簡単には手放さないでしょうが。

しかし北朝鮮の暴挙を封じ込めるには中国しかないでしょう。

 

残念ながら、今の日本には中国を動かす力もなければ、相手も応じないでしょう。

なにせ現在、最も敵対しているのですから。

 

 

3

*3

 

 

少し全体像を俯瞰してみましょう

今、世界はイスラム国のテロに翻弄され、益々敵愾心むき出しの危険な状況に陥ろうとしています。

 

何がこの状況を作ったのでしょうか?

良く知らているように、この発端は9.11事件後の米国のイラク進攻にありました。

 

要点を言えば、米国がイラクの国家機能を完全に破壊したことにより、無法と無秩序の中からイスラム国が増殖して来ました。

私の連載「中東に平和を」でも解説しています。

この愚かな進攻は、大統領の人気、軍需産業と石油産業に恩恵をもたらしただけです。

これにより中東と世界が混迷しただけでなく、米国自身も莫大な国税(300兆円)を使い、この後、マスコミはホワイトハウスに従順になると言う大きな代償を払うことになりました。

 

リーダーの受け狙いの行動が、世界を困惑させた最も分かり易い例と言えるでしょう。

米国は世界の警察として重要な役割を果たしたこともあるが、一方でベトナム戦争のようにとてつもなく愚かな戦争もしている。

 

この点を鑑みれば、いつまでも米国に盲従して行くことは危険です。

きっとこのように言えば、誰が日本を守ってくれるのだとお叱りを受けることになるでしょう。

 

その答えは、米国が守ろうとしたベトナムの末路を見ればわかります。

米国は、南ベトナムの傀儡政権を守る為に、ベトナム全土を焦土にし、800万人が死にました。

 

なぜなら米国にとって最大の関心事は共産化を太平洋の果てで食い止める事にあったのですから。

もっとも北ベトナムと言う敵があってのことですが。

どちらにしてもこの愚かな戦争拡大の経緯は私の連載「戦争の誤謬:ベトナム戦争」で解説しています。

 

いざ有事の時に何が日本列島で起きるかは容易に予想がつくはずです。

もっとも小規模な衝突で紛争が止まるなら、日米同盟は役に立つかもしれませんが。

 

私が心配する大きな危機の一つがこれです。

 

 

最後に

上記に示したような危機への対応を寓話に例えることに無理がありました。

しかし、理詰めで説明するだけでは、今起きている危機を身近に感じることが難しいとも思っています。

 

これからも世界の歴史、社会、経済、文化について懲りることなく書いていきますが、よろしくご理解のほどをお願いします。

ご意見と批判を歓迎しますので、どしどし御寄せください。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

注釈1.

JICAの研究員が指摘されていました。

この人は、世界各地の開発支援をつぶさに視察されたそうです。

以前は、中国が発展途上国に融資し建設し始めると、多くの中国人労働者が現地で工事をしていた。

その後、現地からの指摘があって中国は方針を変更し、現在は建設現場に中国人がほとんどいないそうです。

中国の融資額は増えているそうです。

私達の知らないところで、中国に変化が起きているのです。

 

 

 

 

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