社会と情報 51: 戦った報道 8


1山本権兵衛

< 1.山本権兵衛第、16・22代の内閣総理大臣 >

 

今日は、国民と報道が続けて腐敗した政権を引きずり降ろした状況を見ます。

そこでは大正デモクラシーが光りを放っていた。

 

勝手ながら10日間ほど、ブログを休ませていただきます。

 

2シーメンス事件の風刺画

< 2. シーメンス事件の風刺画 >

 

この時代

明治の終わりから大正にかけて、多くの馴染みのある文学や事典が出版され隆盛を迎えた。

文学作品では夏目漱石「吾輩は猫である」、石川啄木「一握の砂」、芥川龍之介「羅生門」、事典では三省堂「辞林」、丸善「ブリタニカ」、文庫では岩波文庫、新潮文庫などが発刊された。

まさに出版と報道が一体になって政治と社会に物言い、国民はそれを期待した時代だった。

 

政権はどうなっていたのだろうか

1901年からの内閣を見ると、桂(長州陸軍)、西園寺(公家)、桂、西園寺、桂と元老のお手盛りで首がすげ替えられていた。

前回、紹介した大正政変で桂内閣は総辞職したが、次いで政権を取ったのは山本(薩摩海軍)だった。

それは山本が護憲運動を訴え議会の過半数を制していた政友会を閣僚の椅子を餌に抱き込んだからだった。

これは前任者の陸軍増強から、軍艦建造による海軍増強に代わっただけで、むしろ国庫の圧迫は酷くなり、国民の望んだ減税は遠のくばかりだった。

 

3村田保

< 3. 村田保、貴族議員、法制官僚 >

 

この時、事件が起きた

1914年1月、ロイター電が入った。

「ドイツのシーメンス商会が高地位にある日本の海軍官吏に贈賄したること明である」(「東京新聞」の報)

この1ヶ月後、野党は内閣弾劾決議案を提案したが、多勢に無勢で否決された。

数万の民衆が議会を取り囲み、政友会本部、政府系の新聞社が襲撃され、ついには軍隊の出動で蹴散らされた。

さらに1ヶ月後、議会で一人の貴族院の老議員村田が、山本内閣に訴えた。

「この貴族院が、この海軍補充計画に大削減を加えましたのは、・・・今の内閣は、国家の体面を傷つけ、人民の世論に背き、・・・人民が営業税の苛税に苦しんでいるからです。」

「兵力を用いず凶器をも用いぬ者を、兵力を発して、これを鎮圧するとは陛下に対してもすまぬこと」

最後に、「もし大西郷が生きていたら、閣下も切腹せられるべき一人ではないか」と言い、辞職を迫った。

この発言で、彼は議員を辞めさせられた。

 

4シーメンス事件の号外

< 4. シーメンス事件の裁判を知らせる号外 >

 

新聞は事件をどう報じていたのだろうか

「東京朝日」は連載で海軍の不敗をキャンペーンした。

「海軍の痛嘆すべき不正行為、即ち収賄の源泉は30年前に発している。帝国海軍の最初の大臣に始まり、山本に至っては金の置き場所が日本一国では足らず、遠くイングランド銀行にまで隠しているほど」

 

「東京日日」も連載で海軍の金権体質を指摘した。

「大阪毎日」

「・・建造を海外に依頼しているが、・・・日本のエージェントは日本からの注文には、みな何割かのコミッション(5%?)を贈ることになっている。ゆえに海軍拡張を真面目くさって主張し要求するゆえんのものは私腹と私権を肥やすためと言われても仕方がない」

 

日清日露戦争を通じて、日本軍国主義は確立し伸長した。

国民はその軍国をむしろ助長さえした、しかし、やがて軍政や軍閥の横暴に嫌悪し始めた。報道もそれに加勢した。

 

記者達はどう行動したのか

民衆が議会を取り囲んだおり、警官隊が抜刀しで民衆に切りつけ、「東京日日」の記者も頭部に重傷を負った。

この事件を取り上げて攻撃した新聞はあいついで発禁を命じられた。

 

もはや座視するわけにはいかないとし、同年2月、全国記者大会を開いて言論擁護、原内相弾劾決議をおこなった。

さらに、その代表であった新聞「万朝報」社主が天皇への上奏文を書いた。

彼は、内閣への紙上攻撃を部下に任せ、演説会で弁舌を奮った。

一方、警察は「万朝報」社の門前で張り番し、版を差し押さえた。

この攻防は繰り返されたが、ついに山本内閣は退陣となった。

 

ここに日本の国民と貴族院、報道が力を合わせ、政府の横暴(薩長の軍拡競争、元老の暗躍、増税)に拒否を示し、二度まで内閣を退陣させた。

 

5万朝報と社主黒岩

< 5、 「万朝報」の社主黒岩 >

 

しかし陰りも見え始めた

山本内閣が倒れた後、「万朝報」の社主は出馬をしぶる大隈を説得するために、全面的な協力を申し出た。

そして大隈内閣が誕生した。

しかし、これは彼の信条「反権力新聞」を放棄したことになる。

新聞は大隈の政敵政友会の打破に一役かい、第一次世界大戦の日本出兵を支持した。

こうして「万朝報」は御用新聞化し、読者はみるみる減り、昭和の初めには消えた。

 

次回は、報道の転機となった事件を追います。

 

 

 

Categories: book+ film+drama, culture+society, history+evolution, <japanese language, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , | Leave a comment

社会と情報 50: 戦った報道 7


   1著作2  

  • * 1

 

今日から、1920年代と1930年代にかけて報道が活躍した様子を見ます。

数回に分けて、主に新聞社と記者達の動きを追います。

 

 2著作1

*2

 

参考図書

「戦争とジャーナリズム」茶本繁正著、三一書房、1984年刊。

著者:1929年生まれ、「主婦と生活社」退職後評論活動。

 

「帝国主義と民本主義」武田晴人著、集英社、1992年刊、日本の歴史全21巻の一冊。

著者:1949年生まれ、東京大学教授。

 

この連載の既述の多くは両著作から引用しますが、要約するために短縮し編集しています。

 

 

大正時代のはじまり

「これからの日本の乱れ!」

これは足尾銅山鉱毒事件に一生を費やし戦った田中正造が永眠する時の言葉でした。

 

この前年の大正元年(1912年)、朝日新聞の石川啄木は詩を書いていた。

「はてしなき議論の後の/ 冷めたるココアの一さじをすすりて/ そのうす苦き舌触りに/ われは知る、テロリストの/ かなしき、かなしき心を。」

この詩は多くの社会運動家が処刑された大逆事件(1910年)を歌ったものです。

 

明治時代は、日清・日露戦争と韓国併合によって大陸進出を果たし、天皇崩御で終わりを告げた。

国の財政は戦費の返済で悪化していたが、大陸進出の立役者である軍には勢いがあった。

軍は内閣に更なる軍拡(2個派遣師団の増設)を訴え、聞き入れられないと見るや天皇を巻き込んで(統帥権干犯)、内閣の解散を引き起こし抵抗した。

 

「頑強なる陸軍の要求は、口に国防の本義をうんぬんするも、実は海軍との競争、さらには閥族の権勢維持に努めんとするものにして、国家の財政を考慮せず、国民の善悪を眼中におかざる無謀の行い」

東京日日新聞はこのように指弾し世論を背景にして軍部攻撃を展開した。

 

「(今回の政変は)・・、男女学生より素町人、土百姓、馬丁車夫に至るまで、湯屋髪結床にて噂の種になり、元老会議の不始末に対しては、裏店井戸端会議に上り、炊婦小間使いまでがひそかに罵り合う次第にて、近来珍しき政治思想の変化普及を実現いたし、万一新聞社が教唆の態度に出れば焼き討ち事件の再燃もあることをご高察下さい」

これは大阪毎日の社長が逓信省大臣に宛てた親書で、当時の国民感情と一触即発の様子を伝えている。

 

1913年1月、新聞記者約400名が全国記者大会を開き「憲法擁護・閥族掃討」の宣言を発した。

こうして天皇周辺(公家、侍従)と明治維新の元勲(薩長閥)の軍人らが政治を私物化していると、国民と新聞が一緒になり攻撃し大正政変が起こった。

 

3桂太郎弾劾演説

< 3. 桂太郎弾劾演説 >

 

その年の2月、衆院本会議で内閣弾劾決議案が上程されたおり、議員の尾崎行雄が演説を行った。

「彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の公務文書)をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」

桂首相(長州軍人で元侍従長)も軍部も天皇を利用し、政治的決着を図っていた。

 

4国会に押し寄せる民衆

< 4. 議事堂に押し寄せる民衆 >

 

その5日後、議会は数万の民衆に包囲され、これを排除しようとする警官隊と衝突し、流血の惨事が発生した。

 

大阪毎日はこれを報じた。

「騎馬巡査は群衆のなかに躍り込み、罪の無い良民を馬蹄に踏みにじった。・・都新聞社付近にて一大接戦となり、一巡査は抜刀したのでこれを一大学生が奪い取って非立憲だと大喝する。群衆はソレやっつけろと数カ所で巡査を包囲し、・・・」

激昂した大衆は、御用新聞「国民」「都」・・「報知」「読売」を襲った。

 

後に朝日の記者が語っている。

「群衆の一人が国民新聞の大看板を引きずりおろそうとしたので、副社長が抜刀で飛び出し斬りつける。・・。社長徳富蘇峰の車夫が副社長危うしとみてピストルを撃ち、群衆の一人が死ぬ。」

 

大阪毎日はこう報じた。

「報知新聞襲撃を終えた群衆は、すぐその前の東京日日新聞社前に赴き万歳を唱えた」

 

5政党を風刺

< 5. 当時の政党を揶揄した風刺画、桂屋は桂内閣を指す >

 

この間の事情は石川啄木が前年に書いた日記からわかる。

「万朝報(新聞)によると、市民は交通の不便を忍んでストライキに同情している。それが徳富蘇峰の国民(新聞)では、市民が皆ストライキの暴状に憤慨していることになっている。小さいことながら、私は面白いと思った。国民が団結すれば勝ということ、多数は力なりということを知っているのは、オオルド・ニッポンの目からは、無論危険極まることと見えるに違いない」

 

この焼き討ち事件のとき、新聞は桂派と憲政擁護派に分かれて対立した。

憲政擁護派は新聞と政党が組み、全国記者大会に結集した新聞「万朝報」「時事」「朝日」「東京日日」「東京毎日」などであった。

 

こうして翌日、権謀術策でならした桂内閣は崩壊し、新聞と民衆が初めて倒した内閣であった。

また御用新聞は読者を失い、「読売」は経営的に追い込まれ、主筆が社を去った。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories: book+ film+drama, culture+society, history+evolution, <japanese language, politics, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , | Leave a comment

The society and the information 49: news media has fought 6


社会と情報 49: 戦った報道 6

 

 1 沖縄上陸戦   

< 1. Okinawa landing operation by USA in 1945 >

< 1. 沖縄上陸戦 >

 

There was a portent of a military superpower in the shadow of the Meiji restoration success.

However, news media in those days was not able to play own role at last.

Then we shall think about the relation between Japanese society and news media.

 

 

明治維新成功の影には、軍事大国の萌芽がありました。

しかし、当時の報道はその役割をついに果たせなかった。

ここで戦前の日本社会と報道の関係について考えます。

 

Role of news media

When we think about role of news media, there are two big points.

One from within, what kind of role should news media play for prevention of deterioration in social functioning.

Another, how should news media tackle the organization culture of Japan?

 

Deterioration in social functioning

If I point out that the Asian Pacific War (1941-45) has occurred because Japanese society has deteriorated, someone will feel hostile toward me.

However, 3 million of Japanese public and 19 million in all war areas were dead in this war.

And Japanese public of those days never knew there would be this kind of outcome, and then didn’t have means to stop the war.

If we consider such a society normal and don’t think to need the improvement, this discussion is meaningless.

 

報道の役割

報道の役割を考える時、大きく二つのポイントがあります。

一つは、報道は社会の劣化防止にどのような役割を果たすべきか?

いま一つは、報道は日本固有の社会風土に対してどうあるべきか?

 

社会の劣化

日本の社会が劣化していたからアジア太平洋戦争(1941~45)に至ったとするなら、反発する方もおられるでしょう。

しかし、この戦争の結果を見るなら300万人の国民と全戦域で1900万人の死者が出ました。

そして当時の国民はこのような結果を招くとはつゆほども知らず、また戦争を止める手段を持っていなかった。

このような社会を正常と見なし改善の必要が無いとするなら議論は無意味です。

 

2 戦犯

< 2. Prime ministers in those days of the Asian Pacific War >

< 2. アジア太平洋戦争時の首相 >

 

Responsibility that pushed the war

Historian sometimes may point out that the Japanese leaders were irresponsible in the war process.

This was that the leaders haven’t a responsibility to the failure because the Emperor of Japan decided only by agreeing to policy proposals of the leaders.

Therefore, the leaders could have big authority.

The emperor rarely commanded refusal and correction, but the basis of the decision was agreement.

In such a political system, it is difficult for leaders oneself to prevent the prolonged war.

 

 

戦争を推し進めた責任とは

歴史家は戦争に至る過程で日本の首脳が無責任だったと指摘することがあります。

それは、首脳の政策提言に対して天皇が同意の決裁を行うことで、首脳には失敗の責任が無く、かつ大きな権能が生まれていたことです。

天皇は希に拒否や修正を命じることもあったのですが、基本は同意です。

このような政治体制にあっては、泥沼化した戦争を首脳自ら阻止することは困難です。

彼らにとって、良く言えば皇国と英霊に恥じないようにした、悪く言えばなるようになれでした。

 

3満州事変と首謀者

< 3.Manchurian Incident and ringleader >

< 3. 満州事変と首謀者 >

 

Then, what kind of thing is that leaders take responsibility?

As often happen with the world, is it good to only execute a dictator?

Fortunately or unfortunately, it is difficult to find a dictator in Japan of those days.

Even if people give them punishment such as a compensation responsibility or a purge from public service, it is too late.

 

There are many situations where leaders make the country or the organization hazardous regardless of malice or misstep.

Many problems that we learned from history is that if a leader has begun to go in wrong direction once, he often went more deeply into it in an attempt to recover a loss behind a veil of secrecy.

Particularly, the more war damage is bigger, the more the tendency becomes stronger.

This has happened frequently even in democracy nation.

The Vietnam War was also typical example.

 

The human being brought about various political structures and limitations to prevent this.

The one is press freedom, and it is a minimum role of news media to communicate the truth.

An important thing is to communicate necessary information to people so that the people can judge appropriately whether the government selects proper direction.

Often, the more adverse information is important for the highest functionaries of nation, the more they conceal the information.

News media breaks open it, and have to communicate precise information to people appropriately.

This can keep the damage of nation at a minimum.

 

それでは首脳が責任を取るとはどのようなことなのでしょうか?

よくあるように独裁者を死刑にすれば良いのでしょうか?

幸か不幸か、当時の日本で独裁者を見つけることは困難です。

例え彼らに公職追放や賠償責任などの罰を与えても、所詮、後の祭りです。

 

国や組織の首脳が悪意であれ過失であれ進路を危うくすることは多々あります。

歴史から見える多くの問題は、一度間違った方向に進み始めると首脳は秘密裏に挽回を画策し、往々にして深入りしてしまうことです。

それは特に絶大な被害を生む戦争ほどその傾向が強くなります。

これは民主国家でさえ頻繁に起こっています。

ベトナム戦争もその典型例でした。

 

これを防止する為に人類は各種の政治機構や制約を生みだして来ました。

その一つが報道の自由であり、真実を報道することが報道の最小限度の役割です。

大事なことは、政府が適正な進路選択を行っているかを国民が適切に判断できるように、国民に必要な情報を伝えることです。

国家の上層部は往々にして都合の悪い情報を隠蔽します、それが重大であればあるほど。

そこを報道がこじ開けて、適切に適確な情報を国民に与えることが重要です。

これでこそ国の被害を最小限度に留めることが出来ます。

 

4内部告発

< 4. trouble concealment in Japanese companies, and American whistle blower  > 

< 4.日本の東電や東芝のトラブル隠蔽と米国の内部告発者 >

 

Knowing the characteristics of Japanese society

It is important to know the characteristics of Japanese society that deteriorate oneself.

News media can prevent the deterioration by acting on the bad characteristics of Japanese society well.

 

For example, the bad characteristics are systematic cover-up, undeveloped whistle-blowing, and individual right or law is considered less serious than the continuation of the organization.

Those are the flip side of the characteristics that have a stabilizing influence on society, and make to strengthen a solidarity power, but it is likely to give rise to corruption and reckless things.

This is a remarkable characteristic of Japanese culture, and is common to the present.

Japanese recognize this bad patch and should watch for our news media.

This helps prevent the deterioration in social functioning.

 

From the next time, I introduce the activity of newspapers in those days.

 

 

社会の特性を知ること

次いで重要なことは日本の社会の陥りやすい特性を知ることです。

日本の社会が陥り易い特性に報道が上手く機能してこそ、社会の劣化が防止出来ます。

 

例えば、その特性とは組織ぐるみの隠蔽体質や未発達な内部告発、また個人の権利や法の遵守が組織の存続よりも軽視されることなどです。

これらは社会を安定させ団結力を強固にする特性の裏返しですが、その一方、組織の腐敗と暴走が起きやすい。

これらは日本文化の顕著な特徴であり現在にも通じています。

国民はこの欠点を認識し、報道を見守るべきです。

このことが社会の劣化を防止する一助になります。

 

次回から、当時の新聞の活躍を紹介していきます。

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, opinion, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , , | 2 Comments

社会と情報 48: 戦った報道 5


   1  

*1

 

前回に続いて、明治維新後の社会で重要な2点を見ておきます。

 

 

 2教育勅語

< 2. 天皇が下賜された教育勅語 >

 

 

明治維新に見る日本的な心理

明治維新後、素早く先進国の諸制度を取り入れ、憲法制定も行った。

しかし、「仏を作って魂入れず」だったのかもしれない。

1890年、教育勅語を憲法発布の翌年に発布している。

これは儒教道徳と愛国心を鼓舞する短い文書だが、これには欧米の近代国家が生みの苦しみを味わった憲法の理念「国民の権利を守るために根本の統治機構を規定し、国家権力を制限する」と相容れないものがある。

取り急ぎ西洋の制度を真似たが、すぐに日本古来の思考に戻っている。

組織優先とトップに依存する心理、例えば、天皇を戴くことで国がまとまると期待することです。

この心理は社会の混乱を防ぎ団結力を生むかもしれないが、一方で衰退と暴走を生み易い。

これが弾圧や軍事国家への道をより加速させたのだろう。

天皇への絶対服従を強調する軍人勅諭(1882年下賜)も大戦終了まで軍人の心得として陸軍では全員暗誦させられていた。

 

何でもあることだが、良いと思える国民性が一方で災いすると自覚することが我々には必要です。

 

3西南の役

< 3. 西南の役、1877年 >

 

なぜ戦争へと突き進んだのか

王政復古は世界中で見られる政変劇であり、明治維新は西欧で起こった市民革命とは異なる。

明治維新は軍事クーデターとも言えるが、各藩の改革を担った下級武士達が協働で主導したことが重要でした。

 

しかし、軍事クーデターの主役である武士団が政権を担うと、その出身である薩長閥の専横が始まった。

このことが、富国強兵に始まり軍事独裁から侵略へと進む運命にあったのかもしれない。

解雇され不平を持つ40万の士族を抑える為に征韓論が沸騰し、西南の役で鎮圧せなければならなかった。

結局、徴兵制による大きな直轄軍を編成しなければならず、旧来の武士団は近代的な軍隊に置き換えられた。

 

当時、世界は大国に蹂躙されていた。

日本にとって、欧米、特に隣国のロシアは脅威だった。

食うか食われるかにあって、日本は先手を打った。

そして、弱体化した中国、革命で混乱していたロシアに勝利し、さらに第一次世界大戦で戦うこと無しに中国の領土を得た。

ここまでは順調に見えたが、やがて泥沼にはまり込んで行くことになる。

 

4日露戦争

< 4. 日露戦争、1904~1905年 >

 

日本は一度も侵略されなかったが、次から次へと派兵を繰り返し、広大な領土を手に入れた。

一方で、莫大な戦費は経済の足枷となり、この苦境を脱するには新たな領土と権益が必要になった。

結局、軍首脳は問題解決に外交や平和的手段を省みず軍事的手段に頼った。

 

戦争は侵略国があってこそ起こると信じられているが、戦史を振り返ると往々にして、自ら敵を作っていることが多い。

ベトナム戦争やイラク戦争は、その分かりやすい例です。

 

5満州事変

< 5. 満州事変、1931年 >

 

この過去の戦争が現在に尾を引いているのが隣国への蔑視感情です。

既に政府首脳にはあったかもしれないが、地方の民衆には無縁な感情だった。

この起源はそう古いものでは無く、主に日清戦争以降と言える。

大陸侵攻の過程で、戦地での親族の戦死が郷里に伝わるにつれて、隣国への憎しみが深まっていく様子が、当時の一東北新聞の調査により判明している。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <japanese language, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , | 4 Comments

社会と情報 47: 戦った報道 4


   1日本 

< 1. 日本の位置 >

 

明治維新後の社会変動で重要なポイントを見ておきます。

そこから報道の役割が見えてきます。

今回は、明治維新成功の背景を簡単に見ます

 

2戦艦

< 2. 日本は1910年代に巨大戦艦を建造できるようになった >

 

明治維新が成功した理由

なぜ日本は資本主義国家への転換を素早くこなし、半世紀ほどで日米英仏四カ国条約(1921年)を締結するほどの大国になり得たのだろうか。

 

混乱なく明治維新が進んだ理由

江戸時代末期、幕府と各藩は莫大な累積赤字を抱え、民衆は海外交易による急激なインフレに困窮し、抜本的な改革を望んでいた。

また西国(薩長土肥の4藩)は古来より海外接触の先進地域であり、海外交易の重要性や欧米の脅威と先進技術を最も身近に感じていた。

いち早く西国の各藩は、先進の知識を得た者を登用し革新的な藩政改革を行った。

特に薩摩はいち早く赤字財政を脱却し、欧米の最新産業技術を導入していた。

 

初めこそ、西国はパニックになり幕府の対応を批難し攘夷論を唱えたが10年ほどでこれを取り下げた。

この間、西国は攘夷実行と敗戦を経験し、一方で海外視察と長崎での情報収集を通じて方針を転換していった。

特に、開国で対応を誤ったアジア諸国、特に大国中国の教訓は大きかった。

この若き改革者達がやがて西国の連合による幕府打倒を主導していった。

この4藩の連合軍は最新式の兵器を有し、さらに商人や民衆の協力も得られた。

この時、欧米の参戦が無かったことで内戦の拡大が起き無かった。

これは、南北戦争を抱えていたように欧米各国の事情もあったが、おそらく幕府と西国の連合軍が共に海外勢参入を望まなかったこともあるだろう。

 

3出島

< 3. 長崎の出島は唯一海外との窓口だった >

 

維新後の改革が素早く進んだ理由

なぜ日本はこれほど素早く外国の文物の受け入れが出来たのだろうか。

元来、日本は他国の高度文明(中国やオランダ)を吸収し続けており、受容への抵抗はない。

この時の西国各藩の改革者達が、維新後の改革を主導したことは幸いした。

 

維新後の10年以内に、江戸時代の藩主と武士団はすべて解雇されたが、下級武士団出身の改革者達にとって失うものは少なく、利害関係も希薄だったろう。

外国の革命では、多くの場合、流血と破壊によって過去の支配層を葬ることになるが、日本では徹底的な破壊を避けつつ、大きな転換を成し遂げた。

 4高杉晋作

< 4. 明治維新の完成を見ずにこの世を去った功労者達 >

左から、土佐の坂本竜馬、長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛。

 

さらに日本には好条件が揃っていた。

江戸時代後期、幕府は貨幣経済への対応で遅れたが、多くの地方都市において勤勉で近代的な経済活動が既に定着していた。

 

また空前絶後の改革が皆に共有出来たのは、日本列島の長年の安定で一体感のある文化が育まれていたからだろう。

このことは一重に、大陸の端にあり、適度に狭い海峡を隔てた島国で、大国から適切な距離にあったことが大きい。

それは侵略されず、文化の受容が可能な距離だった。

さらにこの島は大きな人口を、皆が自制することにより養える規模の豊かな自然(畑、森、海)を有していたことに尽きる。

 

さらに、第一次世界大戦の勃発は、日本を一気に経済大国に押し上げることになった。

当時、膨大な軍需物資を賄えたのは米国と発展途上の日本だけであった。

 

 

この成功の影に次の問題が萌芽しつつあった

国内の士族の反乱を押さえる為、徴兵制による直轄軍が誕生し、征韓論の過熱を経て台湾出兵へと繋がる。

最終的に明治政府首脳は4藩の内、薩長閥の軍人が握るようになり、軍主導によるアジア侵攻に繋がっていくことになった。

 

今一つは、この地理的な長所が問題でもあった。

それは国民が隣国の状況を、新聞と政府からの間接情報によってしか知ることが出来なかったからです。

このことが、後に災いをもたらし、いまだに日本を閉鎖的にしている。

 

次回に続きます。

 

 

 

Categories: culture+society, economy, history+evolution, <japanese language, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , , | Leave a comment

The society and the information 46: news media has fought 3


社会と情報 46: 戦った報道 3

1 治安維持法

< 1. the Public Order and Police Law was established in 1925 >

< 1. 治安維持法、1925年成立 >

 

This time, we look at an overview of those days that public opinion became uniformly a mood of war because the newspapers had remained silent on the truth.

 

今回は、新聞が真実に沈黙し、国論が戦争一色になって行く時代を概観します。

 

 2 満州事変

< 2. Manchurian Incident in 1931 >

< 2. 満州事変、1931年勃発 >

 

Since 1930

A Japanese detached unit acted arbitrarily on site, and Manchurian Incident broke out in 1931.

On the other hand, in Japan, military coups happened in succession such as 5.15 incident in 1932 and 2.26 incident in 1936.

From long ago, there was that important persons of the government and business community were assassinated by lone murderer, but many assassinations by armed forces that rose in revolt happened at last.

This backdrop to this is that there was people’s despair due to a gap between the rich and the poor and a political corruption that accelerated in 1930s of a financial crisis.

 

 

1930年以降

1931年に日本の現地派遣部隊が独走し満州事変が勃発した。

一方、国内では、1932年に5・15事件、1936年に2・26事件と相次いで軍事クーデターが起こった。

以前から単独犯による財界や政府の要人の暗殺はあったが、ここに至って軍隊蜂起による多数の要人暗殺が行われた。

この背景に、金融恐慌後の1930年代に加速した貧富の差と政治腐敗による国民の絶望があった。

 

3 グラフ

< 3. In those days, the income gap increased remarkably in Japan. by “Capital in Twenty-First Century” >

< 3. 当時、日本で所得格差が著しく高まった。ピケティ「21世紀の資本」より >

 

4 2・26事件

< 4.  2.26 incident in 1936 >

< 4. 2・26事件、1936年 >

 

After this, the military authorities led Japan by the bayonet and the regulation, and continued to rush until the war defeat.

There wasn’t a dictator in this military dictatorship, but this was caused by a more Japanese style of political culture, and remains ingrained still in now.

In simple terms, the fate of Japan was decided without anyone taking responsibility in the name of Imperial Japan.

 

Many newspapers still had criticized the reckless war, but went down to the pressure of the government at last, and they not only did not convey to people the truth, but also encouraged the people after that.

This treachery of newspapers was same as other journalism.

 

 

これ以降、軍部が銃剣と統制によって日本を牽引し、敗戦まで突き進むことになった。

この軍部独裁には独裁者がいないのですが、これは実に日本らしい社会風土に起因しており、今も根付いている。

端的に言えば、皇国の名の下に誰も責任を取らずに国の運命を決めて来たことです。

具合的には軍部首脳が統帥権干犯問題や軍部大臣現役武官制、御前会議を利用して行われた。

 

まだ多くの新聞は無謀な戦争を非難していたが、ついに政府の圧力に屈服し真実を伝えないばかりか、後には、むしろ国民を戦争へと鼓舞するようになった。

この新聞の変節は他の言論界も同様でした。

 

5 御前会議

< 5. the Imperial Council and an announcement of the military government >

< 5. 御前会議と大本営発表 >

 

In this way, the people took part in the expansion of the war without doubting about the war accomplishment due to the disinformation and the brainwashing by the military authority’s leadership and furthermore the chain of hatred added it.

We had to wait the end of the announcement of disinformation till the war defeat.

 

こうして国民は軍部主導による虚報と洗脳により、戦争遂行に疑念を持つこと無く、憎しみの連鎖もあって、戦争の拡大に加担して行くことになる。

この虚偽報道に終止符が打たれるのは敗戦まで待たなければならず、国民が戦争の真実を知るのは極東裁判以降になる。

 

About the treachery of newspapers

This treachery of newspapers was not at all simple.

 

The biggest factor that newspapers didn’t convey the truth was the pressure of the government, but people could not know it because of the very skillful measures.

The factor of the treachery was not only external pressure such as political pressure and oppression, and the violence of right wing.

There was also own turnabout.

Newspaper company was sensitive about the tastes of readers and the management stability, and as the result of some company overly concerned with the politics, it often chose a wrong path.

Reporter animated by a patriotic spirit may lose his own because he also is a son of man.

This was seen among war correspondents of the United States in the Vietnam War.

 

 

新聞の変節について

この新聞の変節は決して単純なものではなかった。

 

新聞が真実を伝えなくなる最大の要因は政府の圧力だが、それは非常に巧みであり国民から見えないことが多い。

変節の要因は政治圧力や弾圧、右翼の暴力などの外圧だけではなかった。

自らの変節もあった。

新聞社は読者の嗜好や経営安定に敏感であり、時には政治に関わり過ぎて道を誤ることもあった。

また記者も人の子、愛国心をたぎらせ我を見失うこともある。

これはベトナム戦争時の米国の従軍記者にも見られた。

記者は真実を伝えようとするのだが、歪んだ価値判断が入ってしまうことになる。

この連載で、そのいくつの事例を明らかにします。

 

An important thing is the treachery of newspapers is common to every society of the world as well as Japan of those days.

We should think that it is not one-off incident and is repeated many times.

It is important that we understand this process.

This is a main theme of this serialization ” The society and the information”.

 

On the next time, I describe the thing to note about the society after the Meiji Restoration.

 

重要なことは、新聞が変節するのは日本だけでなくあらゆる社会に共通すると我々は銘記すべきです。

けっして一度限りのものではなく、幾度も繰り返すと考えるべきです。

この経緯を理解することは重要です。

これは、この連載「社会と情報」の主要なテーマでもあります。

 

次回、明治維新後の社会で注視すべきポイントを記します。

 

 

 

 

Categories: culture+society, economy, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , , | Leave a comment

The society and the information 45: news media has fought 2


社会と情報 45: 戦った報道 2

   1 第一次世界大戦  

< 1. First World War, 1914-1918 >

< 1. 第一次世界大戦、1914~1918年 >

 

This time, we look at an overview of the final period that journalists braced themselves up.

今回は、報道が最後の頑張りを見せた時代を概観します。

 

 

2風景

< 2. the change from Edo Period to Meiji Period >

< 2. 江戸時代から明治時代への変化 >

Upper two photos: the houses along a main road and farmhouse of local at about the end of Edo Period.

Lower two photos: Yokohama landing bridge and Ginza Tokyo in Meiji Period.

 

上2枚: 江戸時代末期と思われる地方の街道町と農家。

下2枚: 明治時代の横浜桟橋と東京銀座。

 

What happened during 1910s and 1920s?

The Imperial Diet was initiated, but qualified voter was only 450000 of a wealthy class in the nation due to the limited election.

Veteran statesmen of the Meiji Restoration still held the initiative of the politics, before long, it would be held by the army and navy of two political factions that resulted from them.

This situation led up to political sleaze and gigantic war expenditures.

The government had repeated the huge issuance of the paper currency and a tax increase to serve the huge cost by repeated war.

 

 

The development of trade and munitions industry made national power increase, but it caused an unbalance among industries, and a birth of company syndicate.

Farmers and low-income workers became poor because of an accelerated inflation due to an improper financial policy additionally, on the other hand much upstarts were born.

Thus, the gap in income between rich and poor increased remarkably, and the people’s complaint increased.

 

On the other hand, urbanization advanced, and a livelihood of city inhabitants very improved.

Thus, literary arts and labor movement became popular in the urban area.

However, because the government assumed this movement the principal cause of uprising, the government oppressed it thoroughly, and executed the many leaders in 1916.

In this situation, Taisho democracy that aimed at the enforcement of universal suffrage and the establishment of party politics began from about 1916.

 

1910年から1920年代に、何が起きたのか?

帝国議会は開催されたが、制限選挙により投票の有権者は全国で裕福層45万人に過ぎなかった。

政治の主導権はまだ維新の元勲が握り、やがて薩長閥の陸軍と海軍に握られて行くことになる。

これが政治の腐敗と軍事費の巨大化に繋がって行く。

政府は相次ぐ巨大戦費をまかなう為に既に貨幣増発と増税を繰り返していた。

貿易と軍需産業の発展は国力を増大させたが、産業間のアンバランスと財閥誕生を招いた。

不適切な金融政策も加わりインフレが亢進し、農民と低所得層が困窮する一方で成金が誕生した。

こうして貧富の差が著しく高まり、国民の不平不満は増大した。

 

一方で、都市化が進み、都市住民の生活は向上した。

こうして都市部で文芸や労働運動が盛んになった。

しかし政府はこれら運動を社会騒乱の元凶とし、1910年の大逆事件で徹底的に弾圧を加え、運動家の処刑を行った。

この状況下、普通選挙の実施と政党政治の確立を求める大正デモクラシー(1916年頃から)が花開くことになった。

 

 

3映画

< 3. this two films describes the harshness of worker at the time  >

< 3.この時代の労働者の過酷さを描いた映画 >

 

4勢力図2010年ごろ

< 4.area of influence by Japan in about 1910 is red parts >

< 4.1910年頃の日本の勢力範囲、赤色部 >

 

Overseas circumstances

At last, World War I (1914 -1918) happened because of one bullet.

After this, Japan entered a war boom, and easily obtained a Chinese part (a brown part of this map).

 

Japan already had possessed Taiwan, Korean Peninsula and northeastern China, and had got the foothold toward the continent.

This gave people economical benefit and hope, but made people bear each other a grudge and created an explosive situation.

The abandonment of Liaodong Peninsula due to The Triple Intervention in 1895 made Japan people very angry.

Because the people strongly were eager to get the territory that had been gotten by bloodshed, people became to diminish opposition to continuing war.

 

On the other hand, revolutions happened in succession in the world, in China of 1912, in Russia of 1917, and in Germany of 1918.

This heightened the motivation of reformation in Japan, but the government that was afraid of it came to aggrandize the oppression.

 

 

海外の状況

ついに、一発の銃弾から第一次世界大戦(1914~18年)が勃発した。

これを機に、日本は軍需景気に沸き、また中国の一部(山東半島、地図の茶色部)を苦もなく手に入れることになった。

既に日本は台湾、朝鮮半島、満州を掌中に納め大陸への足がかりを得ていた。

これは国民に経済的恩恵と希望を与えたが、相互に遺恨を深めさせ一触即発を招くことになる。

三国干渉(1895年)による遼東半島の放棄は国民を憤慨させ、国民は血であがなった領土への執念を高め、続く戦争への抵抗を無くしていった。

 

一方、1912年中国、17年ロシア、18年ドイツと世界で相次いで革命が起きた。

これは国内に改革への希望を与えたが、恐れた政府は弾圧を強化していくことになる。

弾圧は残念ながら国民が選んだ政党内閣でも強化された。

 

5 関東大震災

< 5. the Great Kanto Earthquake in 1923 >

< 5. 関東大震災、1923年 >

 

As the result, what happened?

Japan experience some critical moments in succession, rice riots in 1918, the Great Kanto Earthquake in 1923, the financial crisis in 1927, and the Great Depression in 1929.

Thus, Japan deepened economic aggravation and political uncertainty.

In this situation, the movement to ask for the democracy gained steam from about 1921.

Newspapers and the press supported this movement, then Universal Manhood Suffrage Act was proclaimed in 1925, and the qualified voters became 12,400,000.

 

However, the enforcement of the universal Manhood suffrage caused corruption due to plutocracy than establishment of party politics.

Thus, Japan had suffered the great depression and the political corruption, and before long assassination and oppression came to rage.

Japan has come to find a little brightness for overseas invasion.

 

Turning point of the press was caused by a proclamation of the Public Order and Police Law.

This law had been proclaimed at the same time as the universal Manhood suffrage Act, after that it was extended, and it perfectly suppressed the press and newspapers.

Thus, the newspapers finished the activity of half a century since the Meiji period, and the revival had to wait for our defeat in war.

 

This continues next time.

 

 

その結果、何が起きたのか

日本は、1918年の米騒動、1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌に相次いで見舞われ、経済悪化と政情不安を深めて行くことになった。

こうした中、民主主義を求める運動(1921年頃から)が盛り上がった。

この運動を新聞や言論界が援護し、やがて1925年の普通選挙法公布へと結実させ、有権者は1240万人となった。

但し、女性が選挙権を得るのは、太平洋戦争後のGHQの命令を待たなければならなかった。

 

しかし、この普通選挙実施は政党政治の確立よりも金権政治による腐敗を招いた。

こうして恐慌と政治腐敗が日本を覆い、やがて暗殺と弾圧が吹き荒れた。

日本は海外侵攻に数少ない明るさを見出していくことになる。

 

報道の転換点は治安維持法でした。

これは普通選挙法と抱き合わせで成立し、後に拡大適用され報道と言論を封殺した。

こうして新聞は明治以来半世紀にわたる活躍に終止符を打ち、復活は敗戦を待たなければならなかった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, politics, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , , | Leave a comment

The society and the information 44: news media has fought 1


社会と情報 44: 戦った報道 1

 

1 徳富蘇峰

< 1. this journalist played an active part in newspapers since the Meiji period >

< 1.明治初期から新聞で活躍した言論人 >

 

So far, we have looked at the problem of Japanese newspaper.

But, if you look at a little the past, you will find many journalists devoted themselves life to news report and changed the society.

We chase up the behavior of their fight from now on.

 

今まで、日本の新聞の問題点を見てきました。

しかし、過去に目を移せば、報道に体を張り、社会を変えた人々がいた。

これから彼らの戦いの様を追っていきます。

 

 2 明治維新

< 2. the eve of the Meiji Restoration, and the five persons that played a huge role in the Restoration. >

< 2.明治維新前夜と維新の元勲達 >

 

Preface

Japanese newspapers began to take an important role since the Meiji Restoration.

The period that I focus on is 1910s and 1920s, and in this period, the politics and society changed suddenly and became confused.

This almost overlaps with the Taisho period (1912 -1926).

In Japan at the period, there were an increase of national power, an elevation of consciousness of people, and a change of the international situation.

Many journalists aimed at the reformation of society, and ran through this period at full power.

 

Their action let popular rights spread, and it can be said to be a victory of news media, but was swallowed into a big flow at the end.

After this, military authorities pulled Japan, and people and news media together progressed to a path of military superpower.

 

The thing that I want everyone to know is a truth that many Japanese newspapers fought taking people’s side, and were defeated at last.

What kind of role did newspapers at the period play?

How did the people behave?

As the result, how did the society change?

After that, what happened to the newspapers?

We will be able to know these through this serialization.

 

Before that, we shall see the summary of this period.

 

 

はじめに

日本の報道、特に新聞は明治維新と共に重要な役割を担い始めました。

私が注目する時代は1910~20年代で、政治と社会が激変し、また混乱した時代でした。

これは大正時代(1912~1926年)とほぼ重なります。

そこには日本の国力増大と国民の意識高揚、国際情勢の変化とがありました。

新聞や雑誌の人々が社会変革を目指し、全力で駆け抜けた。

 

彼らの行動は国民の権利を拡大させ、報道の勝利と言えましたが、最後には大きな流れに飲み込まれてしまった。

この後、日本は軍部に牽引され国民と報道も一体となって軍事大国の道を歩むことになった。

 

皆さんに知って頂きたいことは、かつて新聞が国民の側に立ち戦ったこと、そして破れたことです。

当時の新聞がどのような役割を果たしたのか?

民衆はどのように振舞ったのか?

その結果、社会はどのように変わったのか?

その後、新聞に何が起きたのか?

この連載で、これらが見えて来るはずです。

 

その前に、この時代の概要を見ておきます。

 

3 自由民権運動

< 3. the Freedom and People’s Rights Movement and the oppression >

< 3. 自由民権運動と弾圧 >

 

The passage from the Meiji Restoration to 1910

Japan accomplished the Meiji Restoration in 1869, steered to the capitalist society from the feudal society, and promoted the wealth and military strength and the encouragement of new industry.

Japanese government was grasped by samurai groups that played a huge role in the Meiji Restoration.

The government was far from people because there was the friction of the social reformation, too.

The Freedom and People’s Rights Movement happened in order to defeat this system, and became big movement, due partly to the activity of newspapers and journalists.

As this result, the government that had been unwilling to open the Imperial Diet promulgated the Constitution of the Empire of Japan in 1889, and opened it the next year at last.

On the other hand, the government has begun to suppress people’s social movement by various laws (the libel and the newspaper regulations).

At a major depression, this people’s social movement intensified to armed uprisings, and the government oppressed it by military power.

 

 

明治維新から1910年までの流れ

日本は明治維新を1869年に成し遂げ、封建社会から資本主義社会へと舵を取り、富国強兵と殖産興業を推し進めた。

政府は武士団の薩長閥に握られ、大変革の軋轢もあり、国民から遠い存在であった。

この体制打破を目指して自由民権運動が起こり、新聞と言論人の活躍もあって大きな力となった。

この結果、渋る政府は1889年大日本帝国憲法発布、翌年の帝国議会開催を行った。

一方、政府は各種の法規制(名誉毀損罪の原形、新聞紙条例等)により国民運動を抑圧し始めた。

大不況時、この国民運動が一部の武装蜂起へと激化し、政府は武力でこれを弾圧した。

 

4 帝国議会

< 4. the Imperial Diet >

< 4. 帝国議会 >

 

5 日露戦争

< 5. a scene of Japanese-Russo War and an irony of the Anglo-Japanese Alliance >

< 5. 日露戦争の戦闘場面と日英同盟の風刺 >

 

In those days, while major nations had scrambled for colonies everywhere in the world, each European countries and Russia repeated alliance, and were antagonistic with splitting in two big groups.

By this, Japan concluded the Anglo-Japanese Alliance in 1902, and repeated to conclude a treaty between major nations after that.

Japan won the Japanese-Sino and Japanese-Russo Wars in 1905, performed Annexation of Korea in 1910, and enlarged the colony in the East Asia.

 

On the other hand, a new trend of thought was spreading in Japan.

It was a labor movement and democracy.

This had advanced in Western countries, and the storm of the revolution would rage before long in Eurasia.

 

This continues next time.

 

 

当時、大国は世界各地で植民地を奪い合い、欧州各国とロシアは同盟を繰り返し二大陣営に分かれ反目していた。

この流れで、1902年に日本は日英同盟を締結し、以後、大国との同盟を繰り返すことになる。

日本は日清・日露戦争(1905年)で勝利し、韓国併合(1910年)を行い、東アジアに植民地を拡大していった。

 

一方で日本に新しい思潮が浸透しつつあった。

それは労働運動と民主主義でした。

一言で言えば、それは国民の権利が保障される社会へと国民が民主的に改革することでした。

これは欧米各国において進んでおり、やがてユーラシアで革命の嵐が吹き荒れることになる。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: The society and the information | Tags: , , , , , , , | Leave a comment

淡路島 国営海峡公園 11: 夏の日 2


    1 

< 1.「パームガーデン」のサンゴシトウ >

 

今日は、8月4日の公園の花々を紹介します。

この日は日射しが強く、雲は無いが霞みが淡路島を覆っていた。

 

 

 2

< 2.今を盛りと咲くヒマワリ >

「大地の虹」の北側では27品種、約24000株のヒマワリが順次開花し8月中旬まで見られます。

今、花はヒマワリが一番です。

 

 3

< 3.ヒマワリと「ポプラの丘」 >

ヒマワリの向こうに「花の中海」と「ポプラの丘」が見える。

 

 4

< 4.「大地の虹」の「花火鳥」 >

春はここら辺りでチューリップが目を楽しませてくれた。

 

 

 5

< 5.「ポプラの丘」の下側 >

ピンクや白、黄のポーチュラカなどが咲いています。

 

あとがき

公園内を歩いていると、多くの作業者が花壇の植え替えや手入れを行っていた。

炎天下での作業、ご苦労様です。

平日は来園者が少ないが、それでも海外―香港や台湾、韓国から来られた家族連れを見かけました。

淡路島に来ていただいたたことを嬉しく思います。

 

 

 

 

 

Categories: <japanese language, travel+photo | Tags: , , , , , , | 6 Comments

I introduce Chinese films


中国映画の紹介

 

     1

< 1. “Coming Home” (2014 film) >

< 1. 映画「妻への家路」 >

 

Today, I introduce two Chinese films that I saw.

One is “Coming Home” directed by famous director, and the performance of two players was wonderful.

Other one is “Aftershock “ that portrayed the real giant earthquake.

These portray the conjugal love and the affection between parent and child in the extreme situation.

 

今日は最近見た2本の中国映画を紹介します。

一つは著名な監督と二人の演技が光る「妻への家路」です。

もう一つは実際にあった巨大地震を描いた「唐山大地震」です。

夫婦愛と親子の愛を極限の状況でうたいあげます。

 

 2

< 2. scenes in the film “Coming Home” >

< 2.映画 「妻への家路」のシーン >

 

About “Coming Home” 

This director is Zhang Yimou, and Chen Daoming and Gong Li play the husband and wife.

The story would be carefully watched since when the husband was released for the first time in a couple of decades because of the end of the Cultural Revolution.

Because it is that his wife was anxiously awaiting the husband, but she had lost the memory of the husband for some reason.

The wife treated the husband like a stranger, but he made every effort to have his wife recall his face by one daughter’s supporting.

The last scene has a strong impression.

 

「妻への家路」について

監督はチャン・イーモウで、夫婦をチェン・ダオミンとコン・リーが演じます。

話は、文化大革命終了により20年ぶりに夫が開放されたところから、目が離せなくなります。

妻は夫を待ちこがれているのですが、なぜか夫の記憶を失っていたからです。

夫は他人扱いされながらも一人娘の助けを借りながら、妻に自分を思い出してもらおうと奮闘します。

ラストシーンは胸に迫るものがあります。

 

3

< 3. films of director Zhang Yimou >

< 3.チャン・イーモウ監督の映画 >

The upper is the film “The Road Home”.

The lower is the film “The Story of Qiu Ju”.

上:映画「初恋の来た道」、下:映画「秋菊の物語」

 

About director Zhang Yimou

I found out for the first time about this director at the film “The Story of Qiu Ju” of 1992.

Gong Li of the main cast performed very well as brave housewife in it.

I realized that China just was changing because the story had included some social criticisms.

In the film “The Road Home” of 1999, Zhang Ziyi was selected as the main cast at the first performance, and she performed very well as rural innocent daughter.

The turning yellow of Ocher Plateau in the film had been very beautiful, and the sense of beauty of the director led up to later film “House of Flying Daggers” (the cast are Zhang Ziyi, Andy Lau, and Takeshi Kaneshiro).

 

チャン・イーモウ監督について

私が監督を最初に知ったのは1992年の「秋菊の物語」でした。

主役のコン・リーが気丈夫な主婦役を好演し、社会批判も盛り込まれ、私は中国に変化が起きていることを実感しました。

1999年の「初恋の来た道」では、チャン・ツィイーが初演で主役に抜擢され、田舎の初々しい娘を好演していた。

この映画で映し出される黄土高原の黄葉が非常に美しく、監督の美意識は後の「LOVERS」(チャン・ツィイー、金城武、アンディ・ラウ出演)にも通じます。

 

4

< 4. Gong Li and Chen Dao Ming >

< 4.コン・リーとチェン・ダオミン >

Upper photo: Gong Li of the film “Farewell My Concubine” is left side in it.

I fascinated the female role by Leslie Cheung of the right side in the photo, but he unfortunately committed suicide.

Lower photo: Chen Dao Ming of the television series “Legend of Chu and Han”

 

上: 映画「覇王別姫」のコン・リー。

写真右のレスリー・チャンの女形は鬼気迫るものがあり魅了されたが、残念ながら自殺されました。

下: テレビドラマ「項羽と劉邦」のチェン・ダオミン。

 

About Chen Dao Ming

I was charmed by his acting skill of the “Legend of Chu and Han”

He completely played as hero Liu Bang having coarseness and boldness.

In the film “Aftershock “, he also played the important role.

He is an actor with a wide range of performing skills.

 

About Gong Li

I found out for the first time about this actress at the film “The Story of Qiu Ju”.

I get a strong impression from it.

Later, she became an actress on behalf of China.

She seemed to be good at sturdy role until now, but it was considerably different this time.

 

 

チェン・ダオミンについて

私が彼の演技力に魅せられたのはテレビドラマ「項羽と劉邦」でした。

彼は粗野で大胆な英雄劉邦を完璧に演じていました。

「唐山大地震」でも重要な役を演じています。

実に幅広い演技が出来る役者です。

 

コン・リーについて

私が始めて彼女を知ったのは先ほどの「秋菊の物語」で、強烈な印象を受けました。

後に「覇王別姫」「生きる」などに出て、中国を代表する女優となっていきます。

彼女は今までしたたかな役回りが得意だったようですが、今回はかなり異なった。

5

< 5. Aftershock (2010 film) >

< 5.「唐山大地震」 >

 

About “Aftershock”

I knew neither this supervision nor the cast except one person.

One of the highlights of this film is the powerful reproduction scene of an earthquake. 

The story describes the process from when a daughter had been separated from her mother by an earthquake till when the daughter met her mother again after the passing of many long years.

Various love of families, married couples and parent and child politely was described by many characters.

These became foreshadowing, and it led to the impressive final phase.

The daughter’s enmity was dispelled suddenly by the dramatic scene of the final phase.

 

 

「唐山大地震」について

私はこの監督も出演者も一人を除いて知りませんでした。

この映画の見所の一つは迫力ある地震の再現シーンです。

話は、地震で生き別れた母と娘が、長い年月を経て、ある出来事を切っ掛けに再会する過程を描いています。

多くの登場人物によって家族や夫婦、親子の愛が丁寧に描かれて行きます。

それらが伏線となり、終盤の劇的なシーンによって娘に氷解の時が突如として訪れます。

 

Last

The max characteristic of two films is to have looked at love of family in common.

While I had been seeing two films, my tears didn’t stop.

 

In “Coming Home”, the description of the Chinese Revolution was incomplete, and there seems to be present political circumstances in the background.

Because this director described in detail the extraordinariness of the Chinese Revolution in “To live” of 1994, and other director did same thing in “Farewell My Concubine”.

 

I recommend these films.

 

 

最後に

これら映画の最大の特徴は共に家族の愛を深く見つめていることです。

私は両作品を見ながら涙が止まらなかった。

 

「妻への家路」では文化大革命の語りが不完全ですが、背景に現在の政治状況があるようです。

この監督は1994年「生きる」で、別の監督が1993年「覇王別姫」で、文革の異常さを描いていたのですから。

 

私はこの映画を推薦します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories: book+ film+drama, culture+society, <english language, <japanese language | Tags: , , , | 4 Comments

Night view of Sannomiya in Kobe 


三宮の夜景

    1 

< 1. a view of the west side from an overpass near Kobe Shinbun Kaikan >

< 1.ミント神戸近くの陸橋から西側を撮影 >

The right is JR Sannomiya Station, the left is Sogo department store, and the center is the overpass connecting between them.

右にJR三宮駅、左にそごう百貨店があり、それを繋ぐ陸橋が中央に見える。

 

Today, I introduce the night views of Sannomiya that I took a picture of.

The photographing was around JR Sannomiya Station, and the time was 9:00-10:00 at night on Friday, July 31.

 

今日は、私が三宮の夜景を撮った写真を紹介します。

撮影は7月31日(金)、夜9時から10時にかけてJR三宮駅周辺です。

 

This crossroads of Sannomiya

This area around Sannomiya Station is central area of prosperity of Kobe.

The mountain-side (the north side) is big restaurant districts including various foreign cuisines.

Above that, there is Kitano Ijinkan-gai where foreign merchants lived once.

If we go to the west, we can go to Kobe Harborland through Sannomiya Center Street that is main area of the shopping and the shopping district of Motomachi that is slightly retro.

There is Chinatown in Motomachi.

The sea-side (the south side) is business area and there is a museum.

 

三宮の交差点

神戸でも、この三宮駅の辺りが賑わいの中心になります。

山側(北側)には外国料理も含め様々な飲食街がひしめく。

その上には北野異人館街がある。

西側に行くと、ショッピングの中心になる三宮センター街を抜け懐古調の元町商店街、神戸ハーバーランドに至る。

元町には南京街がある。

浜側(南側)にはビジネス街が広がり、博物館がある。

 

 

2

< 2. a view of the west from Kobe Shinbun Kaikan >

< 2. ミント神戸から西側を撮影 >

There is Sannomiya Terminal Hotel on the right.

右手に三宮ターミナルホテルが見える。

 

3

< 3. a view of the west side from a overpass near Sogo department store >

< 3. そごう神戸本館前の陸橋から西側を撮影 >

There are the elevated tracks of JR and Hankyu on the right.

右手にJRと阪急の高架線路が見える。

 

4

< 4. a view of JR Sannomiya Station from Kobe Shinbun Kaikan >

< 4. ミント神戸からJR三宮駅 >

The Port Liner train of monorail is seen at the under part of JR Sannomiya Station.

JR三宮駅とその右下にモノレールのポートライナーが見える。

5

< 5. a view of Kobe Shinbun Kaikan from an overpass near Sannomiya Terminal Hotel. >

< 5. 三宮ターミナルホテル前の陸橋からミント神戸を見上げる >

 

In a sultry summer night, corporate employees that had been busy and a bit tired hurry back.

There was such day for me once, too.

I was nostalgic for their figures.

 

蒸し暑い中、疲れ気味のサラリーマンが帰宅を急いでいる。

私にも、かつてこのように気負い、追われるように急いでいた頃があった。

その姿に懐かしい熱いものを感じた。

 

 

 

 

 

 

Categories: <english language, <japanese language, travel+photo | Tags: , , , | 2 Comments

何か変ですよ 39: 今を忘れないでください


  1  

*1

 

今の政権運営は実に巧みで、実行力もあります。

安定感があり頼りがいがありそうです。

安部首相の手腕には、さすが政治家の家系だと感心させられます。

一方で長いスパンで見ると気になることがあります

 

 

安保法案を巡る議論

議論が枝葉末節過ぎるように思えます。

 

野党の指摘は間違っていないが現実の防衛に不安を感じる。

事実かは別にして、予想される脅威への対策が聞こえて来ない。

これを無視していると、些細な武力衝突で少しの人的被害が起きても、世論はパニックになり一気に好戦的になる可能性がある。

これが一つの懸念材料です。

 

国を軍事的な脅威から守り、また紛争拡大を防ぐには軍隊が必要であり、軍人の犠牲も伴います。

国として中立の選択肢もありますが同盟が必要な場合もあります。

確かに軍隊と同盟は運用次第でより大きな危険を招きますが、避けて済む問題ではない。

 

2

  • * 2

 

与党の主張は現実の不安に答えているが、将来に大きな禍根を残すかもしれない。

一つは、米国との同盟強化により中国との対立が鮮明になることです。

かつて歴史的遺恨や敵意を煽るに任せて戦争を回避した国がどれだけあったでしょうか。

残念ながら日本列島はユーラシアの二大国と米国の緩衝帯に位置しおり、ベトナムや朝鮮半島の二の舞になる可能性が非常に高い。

 

今一つは、憲法を軽視していることです。

憲法解釈の変更が絶対不可とは言わないが、憲法裁判が機能していない日本では拡大解釈がまかり通る危険性が大です。

拡大適用は明治から太平洋戦争にかけて起きたことであり、法を重視しない体質は今でも変わらない。

 

与野党は惰性(権益)とドグマに囚われて賛否の大合唱に終始している。

おそらく10年後には結果が出て、国民は後悔するかもしれない。

 

3

  • * 3

 

経済運営について

久々に景気が良くなる期待はあるが、どうだろうか?

 

日銀による大量の国債引き受けによるリフレ策は進んでいる。

このところ「何々減税」と色目の変わった経済振興策が数多く打ち出されている。

 

景気が良くなっている情報が増えて来た。

株高や大企業の好決算、就職率の上昇など。

一方で逆の情報もある。

消費財の値上がりや、不安定な雇用形態と賃金格差の拡大など。

 

ここ30年ほど、与党は同じ経済政策の繰り返しで景気は良くなるどころか、日増しに経済と財政は悪化した。

欧米が既に止めた公共投資と国債への依存を続ける与党にあって、今回、大胆にリフレ策を実施したことに驚かされる。

欧米にはリフレ策を実施している国は多いが、長期に行った結果が今の経済状況です。

 

良ければ株高と好景気が来るかもしれないが、必ずバブルが弾けてより深い経済低迷に陥るでしょう。

ここ半世紀の欧米の経済動向を知る人なら、また株投資に関心ある人なら実感出来るでしょう。

それでも莫大な累積債務がインフレで目減りしてくれれば少しはメリットがある。

しかし国債金利が高騰すれば財政破綻は現実のものになるでしょう。

 

根本にある懸念は一つです。

それは日本が米国流の貨幣供給重視に大きく方向転換したことです。

この結末がどうなるかについて断言出来ないが、おそらく今欧米で起きている経済の悪弊がより深まる結果になるでしょう。

それは景気不景気のより深い乱高下、貧富の差、失業の増大です。

 

早ければ、1年以内に潮目の変化が現れ、5年後に国民は後悔するかもしれない。

 

4

*4

 

どうか皆さん、今の分岐点を忘れないでください

国が衰退を深め、激動に巻き込まれる切っ掛けは些細な一歩の積み重ねでした。

過去を振り返れば、法や条約の発効・破棄、憲法の恣意的な解釈が戦争への分岐点になりました。

同様に金兌換や日銀券発行、国債発行の扱いは国の経済を大きく左右しました。

これは世界の歴史に共通しています。

 

皆さんにお願いしたいこと

この分岐点を覚えておいて頂き、数年から10年後の変化を比べていただきたい。

今の舵取りの成否を判断出来なくても、その時に、誤りに気がつけば方向転換出来るかもしれません。

ただ過去の日本では方向転換の努力は水泡に帰しました。

 

 

 

 

Categories: culture+society, economy, history+evolution, <japanese language, opinion, politics, Series: Something is strange | Tags: , , , , , , , | 3 Comments

Go around the world of Buddha statues 29: The beginning of God statue in China 7


仏像を巡って 29: 中国の神像の始まり 7

    1

< 1. a statue of Taoism in Taiwan >

< 1. 道教像、台湾 >

 

This time, we look at the wonder of religion that was behind the background of the birth of god statue.

“The beginning of God statue in China “ is the last at this article.

 

今回は、神像誕生の背景にある宗教の不思議を見ます。

これで、「中国の神像の始まり」は終わります。

 

 

2

< 2. the change of the Chinese human statue for approximately 4,000 years >

< 2. 約4000年間にわたる中国の人物像の変遷 >

 

What had happened to Taoism and Buddhism?

In the despair of troublous times in those days, people didn’t come to refuse Buddhism only because it was a religion of different ethnic groups.

Then, the people became fascinated by the cultivation of mind or the help of the Buddha that Buddhism advocated.

The people received the theory “a never-ending cycle of life and death” to endure temporal unreasonableness.

In addition, many dynasties came to use the influence.

 

On the other hand, Taoism became popular until it was favorably compared with Buddhism, but it was necessary to change to other direction from Chinese alchemy (medicine-making techniques) because of developing poisoning death by the medicine for immortality.

Therefore, Taoism incorporated the cultivation of mind from Buddhism as means of the perpetual youth and longevity.

In addition, Taoism had been necessary to theorization due to argument with Buddhism, and put the philosophy of Doka on a basis.

 

On the other hand, Buddhism adopted a prayer and execration of Taoism, too.

Buddha and Laozi that had been the founder of the each sect were advertised as the same person by both religions.

 

 

道教と仏教に何が起きていたのか

乱世にあって、人々は絶望の中で仏教が異民族の宗教だからと言うだけで拒否しなくりました。

仏教が唱える精神修養や仏の御加護は人々の心を捉えました。

民衆は現世の理不尽に耐える為に輪廻転生説を受け入れていきました。

また多くの王朝はその影響力を利用するようになりました。

 

一方、仏教を凌ぐまで普及した道教でしたが、錬丹術の失敗(不老長寿の薬で中毒死)から方向転換する必要がありました。(「病と医術の歴史30」参照)

そこで道教は不老長寿の手立てとして仏教の精神修養を取り込みました。

また道教は仏教との論争で理論化が必要になり、道家の老子、荘子(紀元前4世紀頃)の思想を基本に据えました。

荘子の思想「無」は般若心経(仏教経典)の「空」に似ていたことも有利に働いた。

 

一方、仏教も道教の祈祷(折伏、呪詛)を取り入れました。

両宗教は、宗祖である老子と釈迦は、同一だと互いに喧伝するようになりました。

 

3

< 3. Laozi of China and “a never-ending cycle of life and death” of India >

< 3. 中国の老子とインドの輪廻転生 >

 

A mystery of the statue birth of Taoism

The supreme god of Taoism should have become clear from those days because sacred books of Taoism were accomplished from about the first century.

However, the statues birth of Taoism was the sixth century, and was 2 centuries later than Buddha statues had spread.

Even if people can make human statue, it seems to have had a hesitation to express supreme god by human image.

 

In many religions of the world, why was there such delay of god statues?

 

There is the hint a little.

In addition, the purposes of the worship were restrictive and intermittent, such as ancestor worship, burial, disease recovery, huge harvest, and exorcism.

 

However, when a unified dynasty was born, the guardian deities of each tribe were systematized, and a personal god like the king came out on the top.

This personal god became the supreme god who can accept all wishes from national prosperity to disease recovery.

 

In this situation, when a religion having the statue of personal god came in, a tendency of the molding of the god statue becomes lively.

In this way, the god statue was independently enshrined and came to be always worshiped.

As for this, not only China but also India and Japan were similar.

 

 

尊像(神像)誕生の不思議

道教の経典は後漢時代(後1~3世紀)に成立し、道教の最高神はこの頃から明確になったはずです。

しかし尊像の誕生は仏像が普及してから2世紀ほど遅れた6世紀でした。

初期の道教では道観(道教の神殿)と仏教の寺を併設することがあり、5世紀頃の記録に、仏像は置いてもまだ尊像を置かなかった記録があります。

人々は人物像を造ることが出来ても、尊像を人間の容姿で表現することに躊躇があるようです。

 

なぜ世界各地の宗教で、このように神像誕生の遅れがあるのでしょうか?

 

そのヒントは幾らかあります。

古くは、人々は超自然の力を期待して、人間の姿よりはむしろ架空の動物を崇拝対象にした。

また崇拝は限定的で断続的なものだった(祖先、埋葬、病気平癒、豊穣祈願、厄払いなど)。

しかし、統一王朝が誕生すると、部族毎の守護神は体系化され、王のような人格神がその頂点に立つようになった。

この人格神は、国家安泰から病気平癒まで、すべての願いを受け入れる最高神となった。

 

この状況で人格神の像を有する宗教が外来すると、その神像を造形する気運が盛り上がります。

こうして人格神の像が単独で祀られ、常時礼拝されるようになった。

これは中国だけでなくインドと日本(三徳山三仏寺の金剛蔵王大権現)も同様でした。

 

 

4

< 4. a crematory of Ganges and the mausoleum of first Qin Emperor >

< 4. ガンジス川の火葬場と秦の始皇帝の陵墓 >

 

It shows that a collision of different cultures further developed the view of society, religious piety and carving skill of people.

For example, by accepting of the concept ”a never-ending cycle of life and death”, Chinese burial culture united with Indian cremation culture that differed in ” view of life and death”, and it affected not only China but also Japan.

 

そこには人々の信仰心、社会観、造形表現力が異文化流入によって大きく発展する姿がありました。

例えば、輪廻転生の受け入れによって、死生観を異にする中国の土葬文化とインドの火葬文化が合体し、中国だけでなく日本にも影響を与えたのです。

 

Afterword

Religion has sublime idea, and particularly there is a power to grow splendid neighborly love.

On the other hand, the more believers’ piety is strong, the more they hate pagans intensely.

However, the syncretism was possible precisely even between the religions caused serious confrontation because there was a truth common to all humankind in those, and spread in the world.

 

From next time, I will treat another theme about god statue of the world.

 

 

あとがき

宗教には崇高な理念があり、特に素晴らしい隣人愛を育む力があります。

一方で、信仰心が強ければ強いほど異教徒を激しく憎悪することにもなります。

しかし対立を生む宗教間にも、人類共通の真理があるからこそ習合を可能にし、世界に広がって行ったのです。

 

次回からは、また別のテーマで世界の神像を巡る予定です。

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , , , , | Leave a comment

Go around the world of Buddha statues 28: The beginning of God statue in China 6


仏像を巡って 28: 中国の神像の始まり 6

 1 茅山  

< 1. A statue of Taoism in one of Taoism’s sacred spots >

< 1. 道教の聖地茅山、大きな尊像が見える >

 

This time, we look at the situation that statue of Taoism was born.

It resulted after Buddhism had become popular.

今回は、道教の尊像が誕生する瞬間を追います。

それは仏教が盛んになった後に起こりました。

 

How was god statue of Taoism born?

Here, I explain it by applying the word “statue of Taoism (Tianzun)” to god statue

 

道教の尊像の誕生

ここで、私は神像に道教像(天尊)を用いて説明します。

 

 2-J-L

< 2. Triad statues >

< 2. 三尊像 >

In fact, one of these is a Buddha statue, and the others are statues of Taoism.

These resemble closely so that we cannot notice the difference.

 

Fig. J: Triad statues of Taoism in the early 6th century.

This was the first thing as single independent statue.

 

Fig. K: Triad statues of Taoism in the middle of 6th century.

 

Fig. L: Triad statues of Buddhism in the 4th – 6th century.

 

The characteristic of the statue of Taoism is a crown on the head, a short staff of bamboo with bundled hair, and a bent desk of three legs.

Fig. K and O show it clearly.

 

実は、この内、一つは仏像で他は道教像なのです。

見分けがつかないぐらいよく似ています。

 

図J: 道教三尊像、北魏、6世紀初め。

単独の像としては初期のもの。

 

図K: 道教三尊像、北周、6世紀中頃。

 

図L: 仏教三尊像、北魏、4~6世紀。

 

道教像の特徴は、頭上の冠、団扇状の払子、脚三本の曲がった机にあります(図KとOで明瞭)。

 

 

3-M-O

< 3. Triad statues of Taoism (The Three Pure Ones) >

< 3. 道教の三尊像 >

 

In Buddhism, Buddha doesn’t stand in line with three persons, but in Taoism, statues of Taoism that are nearly same class (the supreme god) stand in line with three persons.

But after all, the middle statue is the highest class.

There are many kinds of statue of Taoism by the religious sect of Taoism.

In Buddhism, the middle of triad statues is a rule to be the Buddha, but there are many different types in Taoism.

 

Fig. M: Yun Gang cave shrine, the 8th century

There are many huge cave temples in Buddhism, but only there are a few of small cave shrines in Taoism.

This cave shrine consists of 9 caves, but there are 1400 caves in Longmen Grottoes of Buddhism.

 

Fig. N: No. 5 cave in Yun Gang cave shrine, the 8th century

This is the same as Buddha statue except a crown.

 

Fig. O: Triad statues of Taoism in a Taoist temple of Shanghai

 

仏教では如来が三つ並ぶことはありませんが、道教ではほぼ同格の「天」(最高神)が並びます。

但し、やはり真ん中は一番格が高い。

尊像の種類は道教の宗派や道観(寺院)によって数多くあります。

仏教なら、中心にあるのは釈迦像が決まりですが、道教では様々なようです。

 

図M: 龍山石窟、山西省、唐、8世紀。

仏教には巨大な石窟は多いが、道教のものは小さく少ない。

この石窟は9窟のみだが、仏教の龍門石窟(前回の図I)には1400窟もある。

 

図N: 龍山石窟第5窟、8世紀。

冠を除けば如来像と同じ。

 

図O: 道教三尊像、太清宮、上海。

左から太清道徳天尊(老子の神格化)、玉清元始天尊(最高神)、上清霊宝天尊(「道」を神格化)です(三清の場合)。

 

A huge change of Chinese religion occurred

The Buddhism was introduced into China in the first century, but was not accepted very much first.

It was because Buddhism was a religion of different ethnic groups, and had “a never-ending cycle of life and death” as a doctrine that opposed a view of life and death of Han people.

However, after about the 3rd century, the Chinese religion changed during war-torn era.

Confucianism that only preached the morality to government clerk declined, and Taoism became popular because of having preached perpetual youth and longevity, and disease recovery by prayer.

At the same time, some northern people that founded the many nations in the northern part of China adopted logical Buddhism.

 

Afterward, Buddhism and Taoism gained many believers along with competing each, and many dynasties made each a state religion or prohibited the religion.

Thus, Buddha statues had spread in first, and statues of Taoism were made by copying it.

 

On the next time, we look at the wonder of the religion behind the birth of statue of Taoism.

 

 

大きな信仰の変化が起きていた

紀元1世紀に仏教は伝わっていたが、当初、あまり受け入れられませんでした。

それは仏教が漢民族の死生観と対立する輪廻転生説と異民族の宗教だからでした。

ところが、後3世紀頃以降、三国時代(魏蜀呉)の戦乱とその後の異民族(北方騎馬民族)による戦乱が続くと、信仰に変化が起こりました。

官吏の道徳を説くだけの儒教は衰退し、祈祷による不老長寿や病気平癒を説く道教に人気が出て来ました(太平道、五斗米道)。

同時に、中国北部に幾多の国を興した北方民族(北魏など)は理路整然とした仏教を取り入れました。

 

その後、仏教と道教は競い合いながら信者を増やしていき、幾多の王朝がそれぞれを国教や禁教にしてきました。

このようにして、渡来した仏像が先行し普及し、それを真似て道教像も造られていきました。

 

次回は、神像誕生の背景にある信仰と宗教の不思議を見ます。

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , , | 2 Comments

Go around the world of Buddha statues 27: The beginning of God statue in China 5


仏像を巡って 27: 中国の神像の始まり 5

 

1

< 1.  Mogao Caves in Dunhuang is a Buddhist heritage in China. >

< 1.敦煌莫高窟、中国の仏教石窟 >

 

This time, we survey the situation that Buddha statue had been spreading in China.

今回は、中国で仏像が普及する様子を概観します。

 

 

The introduction of Buddhism

The introduction of Buddhism was unexpectedly early, and the 1st century A.D.

Before long, the troubled times of the Three Kingdoms period finished, toward about the 4th century, the predawn of Buddhism came.

From about this time, small Buddha statue for being portable began to be made.

 

 

仏教の伝来

中国に仏教が伝わったのは意外に早く、後漢時代(後1世紀)でした。

やがて騒乱の三国時代が終わり、後4世紀頃になると仏教が黎明期を迎えます。

この頃から携帯可能な小さな仏像が造られ始めました。

 

3 A-C 

< 2. these early Buddha statues were made before the Tang dynasty >

< 2. 初期の仏像、唐時代以前 >

 

A: this gilt bronze statue of Buddha was made in around central Asia in the first half of the 4th century.

This is the earliest Buddha statue of China.

 

B: a Bodhisattva statue of the early 5th century in Mogao Caves of Dunhuang.

The appearance is influenced by India or Iran.

Mogao Caves were dug for a training place of Buddhist during the 4th and 14th century.

 

C: a seated Buddha statue of the early 5th century in the Yungang Grottoes.

The nation of northern people that ruled the north China including Dunhuang engraved the largest statue on a rock like mountain by staking the national’s prestige.

The appearance is Mongolia-style.

 

A: 金銅菩薩立像、4世紀前半頃、中央アジアで製作か。

中国でもっとも古い金銅仏。

 

B: 弥勒菩薩交脚像、敦煌莫高窟第275窟、5世紀前半。

その容姿にはインドとイランの影響がある。

莫高窟(4~14世紀)は修行の場として掘られた。

 

C: 仏座像、雲崗石窟第20窟、5世紀中頃。

敦煌も含む中国北部を支配した北魏が国家の威信をかけてこの巨大な像を作った。その風貌はモンゴル系の容貌です。

 

 

5-G-I

< 3. Buddha statue of mature Chinese-style after the Tang dynasty >

< 3.成熟した中国風の仏像、唐時代以降 >

 

G: Buddha Statues of the 7th century.

 

H: this seating Buddha statue was made of wood in the 12th century.

The figure like a sexy woman is wonderful.

 

I: this large Buddha statue is only one of statues engraved on Longmen Caves in the 8th century.

Big Buddha of Nara in Japan was modeled after this statue.

 

Around this time, these statues became the figure with clothes, hairstyle, and posture of Chinese-style.

 

G: 十一面観音菩薩像、唐、7世紀。

 

H: 木造菩薩座像、金(中国北部の王朝)、12世紀末。

なまめかしい女性らしい姿が凄い。

 

I: 毘盧遮那仏、龍門石窟奉先寺洞、唐、8世紀。

日本の東大寺の大仏はこれを手本に72年後に作られた。

この頃になると、仏像は服装、髪型、姿勢が中国様式を取り入れた仏像になりました。

 

Summary

Until now, we looked at the change of Chinese Buddha statue, god statue, and human statue during 7000 years.

 

Much of human figures in the early stage were half beast and half man, shaman, mountain hermit or ancestor gods.

Around the beginning of the first century, it was considerably drawn like human being.

 

These were for individual purpose or religious faith such as an amulet of grave, a prayer of something, a prayer of eternal youth and immortality.

Until that time, people had not prayed to one statue that was placed in a shrine on the ground each day.

 

Outside Buddha statue, there weren’t all-around God having supernatural power and personal God that was expressed by a statue.

 

On the next time, we look at the situation that statue of noble character of Taoism was born suddenly in the Tang dynasty.

 

 

まとめ

これまで数回にわたり、中国の人物表現や神像、仏像の変遷の7000年間を見ました。

 

初期の人物図像の多くは半人半獣か、シャーマン、仙人、祖先神でした。

紀元前後になるとかなり人間らしく描かれた西王母などが現れました。

それらは墓の魔除けや祈祷、不老不死の祈願など、個別の目的や信仰の為のものでした。

まだ丸彫りの単独像を地上の祠に安置して日常的に礼拝するものではなかった。

 

仏像以外では、超自然の力を持つ万能の神、人格神を像で表現するにはまだ至っていなかった。

 

 

次回は、唐の時代に突如として道教の尊像が誕生する様子を追います。

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , , | 2 Comments

淡路島 国営海峡公園 10: 夏の日 1


1

< 1. 公園から大阪湾を望む >

その遙か向こうに生駒山と金剛山の山並みが見える。

 

今日は、7月14日、快晴に恵まれた公園の景色と花を紹介します。

青空と緑、海が素晴らしい輝きを放っていました。

 

 2

< 2. 「陽だまりの丘」 >

今を盛りに、赤やピンク、白のインパチェンスが咲いていました。

 

3空と海と庭園

< 3. 「移ろいの庭」 >

青空と照りつける太陽、紺碧の海と白い雲が緑の大地を包み込んでいる。

今は訪れる人も少なく、花々に華やかさはないが、清々しい夏のひととき、たぎる命を感じさせる。

 

 

4

< 4.園内で見つけた花々 >

真紅のノウゼンカズラが空に向かって咲いていました。

 

5

< 5. 「せせらぎ橋」から山側を望む >

木々を覆っている橙色のノウゼンカズラが満開でした。

その青さに、私は一瞬、まるでせせらぎの底が抜けて青空が覗いているように思えた。

 

6

< 6. 「大地の虹」から「ポプラの丘」を望む >

ポプラの丘に花は見えない。

しかし、池の右側では、たくさんのひまわりが開花を待って大きな葉を広げている。

手前には、花火鳥の尾の鮮やかな花々が見える。

 

だが、やはり寂しい。

今は人も花も少ない。

やがて春休みになると、子供連れの家族で賑わうことだろう。

 

 

 

 

Categories: <japanese language, travel+photo | Tags: , , , | 2 Comments

Go around the world of Buddha statues 26: The beginning of God statue in China 4


仏像を巡って 26: 中国の神像の始まり 4

 

 

1

< 1. a bronze mirror in a burial mound of the late of the 3rd century A.D. Kyoto >

< 1.三角縁神獣鏡、京都、3世紀末の古墳から出土 >

It is embossed with deities and sacred animals of Chinese image.

中国の神像と霊獣が浮き出されている。

 

This time, we look at the forerunner of god statue.

It happened during the beginning of the first century (the Han Dynasty) and the Tang Dynasty.

 

今回は、神像の前触れについて見ます。

それは紀元前後(漢の時代)から唐の時代に起こりました。

 

The forerunner of god statue

In ancient times, exquisite bronze wares were buried as burial goods in the grave of a person of power.

Before long, it was replaced with dead person’s belongings like bronze mirrors and the walls of picture-etched stones or terra-cotta figures.

And, various human images called gods by documents came to be expressed on these burial goods.

 

神像の前触れ

古くは、権力者の墓に精緻な青銅器(煮炊きや酒の器など)が副葬されていたが、やがて死者の身の回り品(銅鏡など)や画像石(壁画)、俑(土人形など)に替わっていきました。

やがてそれら副葬品に、文献で神と呼ばれる人物像(西王母など)が表現されるようになりました。

 

2n-q

< 2. a bronze mirror and picture-etched stones of grave’s walls >

< 2. 銅鏡と画像石 >

 

The bronze mirror for makeup had begun in around the 5th century B.C., before long it became an important tool of religious services and was buried in large amounts.

This picture-etched stone was line drawing carved on the wall of stone in underground grave, and it was made in large amounts in the era of the Later Han Dynasty.

We can see many figures of glamorous life in life, parade by horses and pedestrians, festival, auspicious image in the grave, and sacred animal, and immortal and supernatural being at the entrance and gate.

 

Fig. N, O: a bronze mirror of 19.6 cm in diameter in the middle of the Later Han Dynasty, the 2nd century A.D.

Simple patterns were described on the backside of the mirror at first, and such deities and sacred animals were described from the middle of the Later Han Dynasty.

These figures reflected the concepts of immortal and supernatural being, and symbolized the ideal of perpetual youth and longevity.

The backside of Fig. N is a mirror, and Fig. O shows the figure of Fig. N.

Two gods are located in the up and down in the center of the mirror, and other three gods are beside each god.

Blue dragon and white tiger of guardian deity are contraposed on central right and left.

 

After that, such mirror describing deities and sacred animals became filled with more many gods.

 

Fig. P: “Seiobo” of picture-etched stones in the 2nd century A.D.

“Seiobo”(The Queen Mother of the West)is a goddess who has a hair ornament on the head, and a god presiding over eternal youth and immortality.

 

Fig. Q: a picture-etched stone in the Han Dynasty

A Seiobo sitting on the dragon and tiger, 9 foxes, a crow with three feet and other animals are described in it.

 

 

銅鏡は戦国時代(前5世紀頃)から始まった化粧用の鏡だが、やがて祭祀の重要な道具となり、たくさん副葬された。

画像石とは、地下の墓室の壁面に線刻された画像のことで、後漢時代に多く造られた。

そこには生前の華やかな場面、車馬行列、饗宴などや、吉兆の図、儒教思想に基づく図、入口や門には神獣、神仙の図が描かれた。

 

図N、O: 神人龍虎画像鏡、青銅製、直径 19.6cm、後漢中期(後2世紀)。

多くの銅鏡の裏面には単純な模様が施されていたが、後漢中期からこのような神獣鏡が多く作られた。

これは神仙思想を反映し、不老長寿の理想を文様化したものです。

実物Nの裏が鏡面で、その浮き彫りを図示したものが図Oです。

中央上下に西王母、東王父が配され、それぞれ3人ずつの侍神が膝座している。

中央左右に青龍、白虎が対置されている。

 

後に、これらの神獣鏡(図N、O)はさらに多数の神々で埋め尽くされるようになった。

 

図P:西王母の画像石、後2世紀。

西王母は頭に髪飾りをいただいた女神で、崑崙山に住む半人半獣であり、不老不死をつかさどる神とされている。

 

図Q: 漢代の画像石。

龍と虎の上に座す西王母と九尾の狐、三足鳥と動物達が描かれている。

 

 

Development of the doll of burial goods

副葬品の人形の変化

 

3-D-F

< 3. Tang sancais made of clay for burial goods in the 7th-8th century A.D. >

< 3.唐三彩、粘土の素焼人形、副葬品、7―8世紀 >

Fig. D: The people of the Western Regions (west of Central Asia) are molded.

Fig. E: The beautiful woman at the time was plump.

Fig. F: A guardian beast was made with scary look for protecting the grave.

 

Using doll for burial goods was actively pursued from the soldier figures in the mausoleum of the first Qin Emperor.

In the Tang dynasty, colorful Tang sancais became popular.

Even if there is part deformed, it became considerably realistic.

People prayed for the happiness of the dead person, and the terrible beast was a protector against evil.

The statues buried with dead person were based on faith to the future life.

 

図D: 西域(中央アジア以西)の人々が造形されている。

図E: 女性像。当時の美人はふくよかであった。

図F: 鎮墓獣。墓を守る為に怖い形相をした人獣が造られた。

 

人形が副葬されるのは、秦の兵馬俑から盛んになったが、唐代になるとカラフルな唐三彩が普及した。

デフォルメされている箇所はあっても、かなり写実的になっています。

これらは死者の冥福を願い、また恐ろしい人獣の像により魔除けを願った。

死者と共に埋葬される像は、来世への信仰にもとづいていた。

 

Summary

Before long, the people came to express the burial goods with the human statue from the symbol of beast to respect a dead person.

However, it was intended to pray for tranquility of dead person, and for perpetual youth and immortality of earthly life.

Tang sancais, this statue was ordinary person, and never an all-around god.

 

It lacked a little something of the development for all-around God’s appearing.

This continues next time.

 

 

まとめ

やがて、人々は死者を敬う為に、供え物を獣の象徴から人間らしい図像で表現するようになった。

しかし、それは死者の安寧や現世の不老長寿を祈願する為のものであった。

唐三彩にしても、像は写実的な市井の人々であり、万能の神ではなかった。

 

万能の神が出現するには、今一歩の発展が必要だった。

次に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , , , | Leave a comment

New fables of Aesop 12: a rabbit and a mole


平成イソップ物語 12: ウサギとモグラ

 

1谷

  • * 1

 

Once upon a time, a rabbit and a mole lived in a valley.

Beautiful transparent crystals came out of the valley.

The rabbit and the mole gathered it and sold to villagers.

 

昔々、ある谷にウサギとモグラが住んでいました。

その谷からは美しい透明な水晶が採れました。

ウサギとモグラはこれを採って村人に売っていました。

 

 2ウサギ

  • * 2

 

Before long, the transparent crystals began to decrease and the crystals that impurities mingled with came to remain in plenty.

In this situation, the crystals to sell would have disappeared soon.

 

やがて透明な水晶は減っていき、不純物が混じった水晶が多く残りました。

このままでは売れる水晶が無くなってしまいます。

 

3水晶

  • * 3

 

One day the rabbit said to a villager.

“You will be able to see brilliant things in this crystal, and this is popular just now.”

Thus, the rabbit sold crystals more than ever.

 

On the other hand, the mole had sold only transparent crystals like always.

Because the numbers of sold crystals decreased, the mole’s living became hard.

 

 

ある日、ウサギが村人に言いました。

「この水晶の中にキラキラしたものが見えるでしょう。今、これが人気ですよ。」

こうしてウサギはこれまで以上にたくさん水晶を売りました。

 

一方、モグラは今まで通り透明な水晶だけを売っていました。

モグラは売れる数が減ってきたので暮らしは苦しくなるばかりでした。

 

4水晶悪い

  • * 4

 

Time passed, one day, a villager visited the rabbit.

” Rabbit! This crystal that you sold is imitations.”

The crystal that the rabbit sold came to include more impurities, so the transparency disappeared at last.

 

The mole said proudly to the villager.

“Only my crystal is genuine.”

The villager

” I do not need it, because I cannot trust the stone that came out of this valley.”

 

Then, all villagers never bought stones of this valley.

 

 

年月が経ったある日、村人がウサギのところにやって来ました。

「うさぎさん、あなたの売る水晶は偽物ですね。」

ウサギの売る水晶は混じり物が増え、ついに透明さが無くなっていたのです。

 

モグラがその村人に自慢げに声をかけました。

「私の水晶だけが本物ですよ。」

村人

「いらないよ。この谷で採れる石は信用出来ないからね。」

 

すべての村人はこの谷の石を買わなくなりました。

 

 

The rabbit

” I think Crystal that included impurities is not bad. This villagers have a hard head.”

 

The mole

“If I was right, I thought it would be enough. I was stupid”

They muttered in this way, and left this valley at last.

 

 

ウサギ

「水晶に不純物があっても良いではないか。村人は頭が固い。」

モグラ

「私は自分が正しければ良いと考えていた。私は馬鹿だった。」

こうつぶやいて、ついにウサギもモグラも谷を去りました。

 

 

Categories: culture+society, <english language, <japanese language, mind, Series: New fables of Aesop | Tags: , , | Leave a comment

Go around the world of Buddha statues 25: The beginning of God statue in China 3


仏像を巡って 25: 中国の神像の始まり 3

 

1 兵馬俑

< 1. the soldier figures in the mausoleum of the first Qin Emperor in the 3rd century B.C.  >

< 1. 兵馬俑、秦の始皇帝陵墓、前3世紀   >

 

This time, we keep track of a change of human statues from prehistoric age to about the first century A.D.

Various feelings were included in these human statues.

 

今回は、先史時代から漢の時代(紀元前後)までの人物表現の変遷を追います。

これら人物表現には様々な想いが込められていました。

 

About the soldier figures in the mausoleum of the first Qin Emperor

The statue A of Fig. 1 that is one of 8000 statues became an epoch-making expression of the human statue in Chinese history.

The appearance of these statues is different each, it is very realistic and these heights are 1.8-2 m.

The burial goods (statue M of fig. 6) in the Imperial mausoleum of subsequent Han dynasty had many numbers, but looked inferior in small size.

But after that, many very expressive human statues started to be made.

 

Before that, human statues had been buried to grave of a lord, but it was rare and was very simple.

In the earlier years, humans and cattle were killed and buried.

 

 

秦の兵馬俑について

図1のA像は中国史上、人物像の画期となった兵馬俑8000体(武士像)の一つです。

この塑像群は、一体一体が風貌を異にし、身長は1.8~2mもあり、非常に写実的です。

これに続く漢王朝の陵墓の副葬品(図6のM像)は、数こそ多いが小型で見劣りするものでした。

しかし、後に表情豊かな人物像が作られるようになった。

 

これ以前も人物像が主君の墳墓に埋葬されたことがあったが、稀であり、簡素なものでした。

さらに古くは人間や家畜が殺されて殉葬されていました。

 

 

Let us keep track of a change of human statues

 人物表現の変遷をたどります

 

2地図2

< 2. the map indicating the excavation site of these fig. >

< 2.図像の出土位置を示す地図  >

 

 

3b-d

< 3. the earliest type of human images >

< 3. 最初期の人物表現 >

Fig. B: a bowl made of painted pottery of about 4500 B.C.

A fish image with a human head drawn inside it means a hope of descendant prosperity that is based on fish laying a lot of eggs.

 

Fig. C: a human statue made of stone with a height of 8.6 cm in about 4500 B.C.

This is a burial good, and seems to be Sherman by the clothes and the style, and had been sewed on a clothing of a religious leader.

 

Fig. D: a nude statue in 4000-3000 B.C.

This clay figure is suggestive of Venus.

This type made of stone was excavated here from about 6000 B.C., and was the earliest nude statue in China.

 

図B:人面魚文彩陶盆、仰韶文化半坡遺跡、紀元前4500年頃。

人面魚文は魚がたくさん卵を生むことにあやかって子孫繁栄を願って描かれた。

 

図C:玉人、玉製、高さ8.6cm、安徽省含山県凌家灘遺跡、紀元前3500年頃。

これは副葬品で、シャーマンを想わせる服装と姿勢をしており、宗教指導者の衣類に縫い付けられていたらしい。

 

図D:裸婦像、紅山文化、紀元前4000~3000年頃。

これは氷河期のビーナス像を連想させる妊婦の土偶です。

この地域で、紀元前6000年頃から石製の裸婦像が出土しており、中国では最初期のものです。

 

 

4e-g

< 4. three figures of stone or bronze >

< 4. 玉と青銅器の図像 >

Fig. E: a ritual implement made of stone in about 3100 B.C.

This was a bracelet of priest at first, and after that, came to play a central role in rituals as implement.

Some animal heads have been engraved on the surface.

In animal heads of the lower side, the eyes and mouth are very clear.

 

図E:玉琮、玉製、良渚文化、紀元前3100年頃。

玉琮は初め司祭の腕輪だったが、祭祀の置物として中心的役割を果たすようになった。

その表面に神人獣面文が施されている。

下段の獣面は目と口が明瞭です。

 

Fig. F: a bronze ware in 1300-1050 B.C.

This bronze ware had been for boiling, but was for rituals and a burial good of the upper class.

Such animal heads often were engraved on this type of wares.

Its figure consists of a central nose, symmetrical big eyes, ears like nail expanding outward, great horns bending overhead, and a greatly below opened mouth.

It seems to have been a charm against evil.

 

Fig. G: a bronze ware originally used for serving wine of 1300-1050 B.C.

Dragons and animals are engraved on the surface of the tiger figure, and it is holding a human being.

In those days, the people thought that the power of animals was necessary for the contact between people and sky, ground, and divine spirit.

 

図F:劉鼎、青銅器。殷後期(紀元前1300~1050年頃)。

この器は煮炊き用だが、これら青銅器は祭祀用であり上層階級の副葬品でした。

この手の器には獣面文がよく描かれている。

それは真ん中に鼻、左右対象に大きな眼、外側に広がり爪状になった耳、頭上に大きく曲がった角、下には大きく開いた口からなる。

これは魔除けの意味があったと考えられる。

 

図G:食人虎卣、青銅器。殷後期。

これは祭器用の酒器で、虎の表面には龍や獣面文が描かれ、人間を抱えている。

当時、人々は天と地、神霊や死霊との交流には動物の力が必要だと考えたようだ。

 

5 三星堆

< 5. statues made of bonze in 2000-1000 B.C. >

< 5. 三星堆遺跡の青銅像、四川省、紀元前2000~1000年 >

There were not such human statures, mask and head in other cultures of the same era.

The face was strongly emphasized such as these eyes, ears and mouth.

The people buried these figures in the underground for worshipping ancestor God.

 

Fig. H: a shaman statue with a height 1.8 m.

 

この遺跡の人頭像や仮面、立人像は、同時期の夏と殷の文化には無いものです。

その人面は目や耳、口などが非常にデフォルメされており、仮面では目が棒状で飛び出したものもある。

人々は祖先神を祀る為にこのような像や仮面を造り地中に埋めた。

 

図H: シャーマン像、人像高1.8m、祭祀と関係した特徴的な手をしている。

 

6k-m

< 6. two statues with wing and a clay dolls  >

< 6. 羽人と俑  >

Fig. K: the statue with wing made of wood has been buried in a grave of 4th century B.C.

The statue stands on a bird on a beast.

The upper body is a naked human, the mouth is a bill, and the lower body is a bird.

These statues with wing showed mountain hermit in old books.

 

Fig. L: a statue with wing made of bronze of from 202 B.C. to 8 century A.D.

 

Fig. M: a woman statue made of painted pottery in the 2nd century B.C.

This is one of the things that were buried in large quantities in the mausoleum of a Han emperor.

 

図K: 羽人、木製漆仕上げ、湖北省荊州市、戦国時代の楚の墓、紀元前4世紀。

羽人は獣形の台座の鳥の上に立っている。

上半身は裸の人間だが、口は嘴で、下半身は鳥の姿をしている。

羽人は戦国時代の神話と地誌の書「山海経」に書かれており、仙人を示した。

 

図L: 羽人、青銅製、陕西省西安出土、前漢時代(前202~後8年)。

 

図M: 彩色女俑、高さ63cm、漢陽陵考古陳列館蔵、前漢時代(前2世紀)。

これは漢の皇帝の陵墓に大量に陪葬されていたものの一つ。

 

Development of human statue

In ancient times, people emphasized the superior characteristic that people were in awe of animal at, and made the statues.

The statues like human had been buried almost always.

This was for using after the death of their load, and for respecting an ancestral spirits.

 

The most important thing is the people did not express the object of their belief as realistic human image, even as people probably had the arts of realistic expression in those days.

 

On the next times, we look at the forerunner of god statue.

 

 

 

人物像の発展

古くは、動物の優れた特徴や畏敬の対象を強調して像を作った。

人間らしい像の多くは埋葬されていたもので、主君の死後に役立つ為か、祖先の霊を敬う為に造ったようです。

 

重要なことは、当時、人々はおそらく写実的な表現力を持ちながら、信仰の対象を写実的な人間として表現していないことです。

 

次回は、神像の前触れについて見ます。

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , | Leave a comment

Go around the world of Buddha statues 24: The beginning of God statue in China 2


仏像を巡って 24: 中国の神像の始まり 2

 

1

< 1. a Chinese dragon in Forbidden City  >

< 1. 中国紫禁城の龍   >

 

This time, we easily see how Chinese myth was born.

God statue is born from the myth, but the converse is not true.

 

今回は、中国の神話が誕生する様子を簡単に見ます。

神像は神話から生まれのであって、その逆はありません。

 

 

2神々

< 2. main gods >

< 2. 主要な神々 >

 

Preface

Chinese gods existed innumerably, and after that, these are systematized by Taoism.

I introduce representative gods.

 

Fig. A: Two gods together created the heaven and the earth.

The female god “ Nüwa“ and the male god “ Fu Hsi “ are expressed as a couple having the shape of a snake and a human head.

Fig. B: “ Fu Hsi “ is expressed alone and is assumed to be the founder of Chinese people.

Fig. C: “ Yellow Emperor” was mentioned in the history of medical art, and is assumed to be the first emperor and the founder of Taoism.

 

 

はじめに

中国の神々は無数に存在し、後に道教によって体系化されていきます。

ここでは代表的な神々を紹介します。

 

図A: 天地開闢の神で、人類創造の女神「女媧」と帝王の男神「伏羲」が同じ蛇身人首の夫婦で表されている。

図B: 単独で描かれた「伏羲」で、中華民族人民の始祖とされています。

図C: 医術の歴史にも出てきた「黄帝」で、最初の帝(架空)にあたり、道家の始祖とされる。

 

A broad stream of the birth of Chinese myth

Many Chinese prehistory cultures were born in a square plain with a side length of 2000 km.

The peoples that created these had peculiar culture and myth, but moved to remote places or deep mountains as Han people became dominant before long.

These peoples didn’t have writing system, and the myth had been handed down orally.

Thus the myths disperse and remained.

Today, 55 kinds of peoples exist.

 

神話生成のおおまかな流れ

中国の先史文化は一辺2000kmの中国の平原に数多く誕生しました。

前回、概説しました。

それを担った様々な民族は、それぞれ独自の文化と神話を持っていましたが、やがて漢民族が優勢になるにつれて、彼らは僻地や奥深い山へと移り住むようになりました。

これらの民族の多くは文字を持たず、神話を口頭伝承しました。

こうして神話は分散して残ることになりました。

現在、55の少数民族が存在し、最大のチワン族の人口は1600万人です。

 

3

< 3. various peoples in China >

< 3. 中国の多様な民族 >

 

4

< 4. mythical animals and gods in “Shan Hai Jing”  >

< 4. 山海経に出てくる伝説上の動物や神々 >

 

Shan Hai Jing is the oldest geographical document, and was written from the 4th century B.C.

In this book, geography and products, animals and plants of the whole land of China were described, but there were many fantastic things.

 

Han people that had initially had writing system began mythical systematization in the middle of first millennium B.C.

For example, Confucius wrote the sacred books (the Nine Chinese Classics) for preaching his teaching with quoting mythical kings and emperors of more than 2000 years ago.

 

And Sima Qian wrote a Chinese history book “Shiki” in the first century B.C.

He described in it that older dynasties began by Yellow Emperor.

They used the myth to give authority to their own opinion and the dynasty.

 

However, Chinese myth is not systematized in comparison with other civilization.

Basically, many dynasties didn’t regard a pedigree of god as important as much as other civilization, because people gave priority to this world life and politics.

And they never have ignored.

In the words of Confucius, a view of Chinese religion shows well.

There was this sentence in the Analects.

” Person concentrates on own task and must respect god, but doesn’t depend on god. This was proper attitude as an intellect.”

This was a posture of the thinker on behalf of China.

 

In addition, in the large country, innumerable myths have been already handed down.

Therefore, the mythical systematization did not advance even if the national unification was finished.

After all, Chinese people took in a large number of gods and myths as necessary, and it kept increasing.

 

On the next time, we keep track of a change of human statues from prehistoric age to about the first century A.D.

 

 

山海経は中国最古の地誌で、紀元前4世紀頃から書かれ始めた。

中国全土の地理や産物、動植物が記述されているが、空想的なものが多い。

 

いち早く文字を持った漢民族は、紀元前1千年紀中頃には神話の体系化を始めました。

例えば孔子は、さらに約2千年も遡る伝説の王や帝である、禹・黄帝・堯・舜などを引用して教えを説き、経典(四書五経)を遺しています。

 

また漢の司馬遷は歴史書「史記」(紀元前1世紀)に、黄帝より五帝を経て夏、殷、周の各王朝が始まったと記した(夏以降が実在)。

彼らは自説や王朝に権威を付与する為に神話を利用した。

 

しかし、他の文明に比べ、中国の神話は体系化されていません。

元来、中国の人々は現世・政治優先であり、多くの王朝は他の文明ほどには神の家系であることを重視しませんでした。

もっとも無視もしませんでしたが。

孔子の言葉に中国人の宗教観がよく現れています。

「民の義に努め、鬼神を敬いて之に遠ざかる、知というべし」

論語にこう書かれており、その意味は下記のようになります。

「人としてなすべきことに専念し、神を尊敬しながらも、これから遠ざかるのが、知者にふさわしい態度である」

これが中国を代表する思想家の姿勢だったのです。

 

また広い国土には、すでに無数の神話が語り継がれていました。

したがって、国家統一が成されても神話の体系化は進まなかった。

結局、中国では数多くの神々と神話を必要に応じて取り込み、増えるばかりだった。

 

 

次回は、先史時代から紀元前後までの人物表現の変遷を追います。

 

 

 

 

Categories: culture+society, history+evolution, <english language, <japanese language, Series: Go around the world of Buddha statues | Tags: , , , , | 2 Comments

Create a free website or blog at WordPress.com. The Adventure Journal Theme.

Follow

Get every new post delivered to your Inbox.

Join 426 other followers