フランスを巡って 18: リヨンからボーヌまでの景色


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今日は、車窓からのブルゴーニュ、リヨンからボーヌまでの景色を紹介します。

この日も快晴でした。

 

 

写真について

紹介する写真は、旅行5日目、5月21日(日)、6:20~10:30に撮ってものです。

最初にリヨン郊外のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」付近を早朝散策した時のものです。

次いで私達のバスがホテルを8:30に出発してから、10:30頃にボーヌの中心部に入るまでのもので、すべて車窓からの撮影です。

 

この日、私のバスの席は、前から2列目左側なので、写真は進行方向前方か左側(西側)のみです。

実は、下の地図を見ればわかるのですが、進行方向右側(東側)の方が広い野が広がっています。

またソーヌ川も私達が走る高速道路の右側(東側)を流れています。

 

 

 

 

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< 2. 地図、共に上が真北です >

 

左の写真: ボーヌはブルゴーニュの中心に近く、またフランス南北の中ほどに位置します。

ブルゴーニュから南北に流れる川を行くと、イギリス海峡と地中海に達します。

北へはヨンヌ川からセーヌ川に入り、パリを抜て行きます。

また南へはソーヌ川からローヌ川に入り、リヨン、アヴィニヨン、アルルを抜けて行きます。

 

右の写真: リヨンからボーヌまでのルートです。

ローヌ川沿いに比べて周囲の山々はかなり低くなってきました。

 

地図の赤丸は氷河期の「ソリュートレ遺跡」を示す。

最後に紹介します。

 

 

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< 3. 朝の宿泊ホテル周辺 >

 

朝6時頃から、周辺を散策しました。

周囲は落ち着いた雰囲気の郊外でした。

 

上の写真: ホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」の正面です。

暗くなった10:00頃、歩いたが治安が悪いように思わなかった。

地下鉄駅まで歩いて5分ほどで行けるので市街に行くのに便利だと思う。

 

 

 

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< 4. さあ出発! >

 

 

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< 5. のどかな景色が続きます 1 >

 

 

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< 6. のどかな景色が続きます 2 >

 

 

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< 7. のどかな景色が続きます 3 >

 

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< 8. のどかな景色が続きます 4 >

 

 

 

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< 9.いよいよ高速道路ともお別れ >

 

不思議なことに、ワインの産地で有名なのに、ブドウ栽培の光景をほとんど見ることがなかった。

どうやら栽培は平野部ではなく丘陵部の斜面なのだろう。

 

 

 

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< 10. もうすぐ旧市街に入る >

 

フランスを走っていて、特に郊外に出てから、写真のようなラウンドアバウト(環状交差点)の機能と景観に惹かれた。

 

上の写真は、下の写真下部のラウンドアバウトを下から進入する様子を写したものです。

 

ラウンドアバウトの優れているのは、車は減速するが停止の必要が無いことです。

それ以上に素晴らしいのは、その中央島の景観です。

実に様々な美しい造園がなされており、目を楽しまさせてくれます。

 

 

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< 11. 旧市街が見えて来た >

 

 

これで車窓からの写真は終わります。

 

 

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< 12. ソリュートレ遺跡 >

 

 

ソリュートレ遺跡について

後から分かったのですが、途中の都市マコンから西側に10kmほど入った所に氷河期の遺跡があります。

この遺跡は2万年から1万7千年前のソリュートレ文化の標準遺跡で、ある意味画期的な遺跡なのです。

それは、この断崖の真下あたりに崖から追落されて捕獲された野生馬の骨が10万頭以上あったからです。

当時の人々が、図のように薄く切れ味の鋭い石器を使い狩りをしていたのです。

 

 

車窓からの写真撮影について

私の撮影方法が参考になればと思い記します。

 

先ず、私がバスの席を選ぶ基準です。

選択の基本は車窓からの撮影が逆光にならないようにすることです。

もしその日の午前中、バスが北に向かうなら、東側からの太陽光を避けて左に座り、西側を撮影します。

 

但し、1日中の走行とか、途中で走行の方向が変わるとか、曇りがちの場合は、何を重視するかで決めます。

例えば、ランドマークや重視する景観が走行ルートの左右どちらに来るかによって、決めることになる。

ただ、これは障害物やルートが不明なこともあり予想通りにならないことが多いです。

 

また左側の席には欠点があります。

右側走行の国では、特に高速道路で、左側に数車線の対向車線が視界を埋めてしまいます。

 

一番重要なのは、車窓からの撮影時に、以下のような遮光幕をカメラに着けることです。

これは自作ですが、かなり写真の無駄が減ります。

 

また私は百均で買った窓拭きを持って行きます。

これで窓は素早く十分に綺麗になりますが、結構、恥ずかしい。

私の行為を見て、運転者が笑顔で全部の窓を拭いてくれることもあり、これもまた恐縮するのですが。

 

 

 

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< 13. 車窓からの撮影の道具 >

 

上三枚の写真が遮光幕です。

 

左上の写真: 取り付け前の状態で2個の部品からなります。

灰色の幕は百均で買った車用遮光ネットを改良したもので、折りたたむことが出来て、非常にコンパクトで軽い。

 

右上の写真: 遮光幕取り付け用の部品をカメラに嵌めた状態。

この部品はウレタンゴム板を買い、ナイフでリング状にカットし、マジックテープを縫い付けたものです。

遮光幕取り付けを瞬時に行えます。

これがなくても遮光幕は使えますが、使い難い。

 

中央の写真: すべてセットしたものです。

窓ガラスに対してカメラは垂直が最良ですが、遮光幕を手で押さえて窓に沿わせるなら、傾けても光が入らない。

 

下の写真: 百均で買った窓拭き。

組み立て式で、柄が伸びるので背の高い観光バスの撮影箇所を拭くことが出来ます。

大きいが軽いです。

 

 

これは運次第なのですが、今回のツアーは40名近い参加なので、走行中にバス内の左右の席移動が困難でした。

これまでのツアーは参加者20数名が続いたので、左右移動が自由で、妻と私が左右に別れて撮影することも出来た。

 

 

車窓からの撮影も行えば、それこそ四六時中、観光しているので休む暇はないのですが、その国の自然風土がよく理解出来るので止められません。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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何か変ですよ! 59:  惜しい人


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私は今の首相の豪胆さに感服しています。

端的にはアベノミクスと憲法改正です。

ここまでやれる人物は他にいないでしょう。

事の良し悪しは別ですが。

 

 

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まえがき

私はアベノミクスの意気込みを評価します。

 

成功すれば首相は日本史に燦然と輝いたことでしょう。

それまでの日本の金融トップ―官僚、エコノミスト、日銀とは真逆の施策をぶち上げた。

彼は著名なクルーグマンが唱えた政策を即刻2013年から実施した。

狙い通りに行くと、苦労無く莫大な累積債務は消え失せ、経済は復活するのですから、私も成功を願ったものでした。

 

円安は確かに輸出大手企業を潤してはいるが、いまだに目標インフレ値は達成できず、好況の実感はない。

後5年じっと我慢すれば景気は好転すると信じたいが、当のクルーグマンが2015年秋に異次元緩和は失敗だったと言っている。

 

もともと、私はすんなりとは行かず、行ってもより大きなバブル崩壊を招くだけだと推測していた。

実際、アベノミクス(リフレ策など)の多くは欧米先進国が既に実施している施策で、その結果、欧米の状況は良くなったと言えるでしょうか。

アベノミクス前の日本の経済状況(失業率など)でも経済成長率を除いて欧米より良かったと言える。

今の状況を見ると、クルーグマンの後の指摘が正しいのでしょう。

 

それでも私は首相の豪胆さに感心する。

ひょっとすると自信過剰か無鉄砲なだけかもしれないが。

もに一つ気になるのは、せっかく恵まれた家系や政治基盤を持ちながら、従わない人に対して下品なところです。

惜しいような気がする

 

 

 

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彼の行動パターンに不安がある

国民が望んでもいない憲法改正に、自分の歴史観を前面に押し出し、突き進む姿勢には驚かされます。

 

これに関連し、憲法改正について御贔屓の読売新聞を読んでくれと国会で答弁する神経は凄い。

正に、お友達(加計学園)や右翼の同志(森友学園)への身びいきは強烈だ。

かつて品格ある首相はたとえ思っていても、ここまで贔屓を露骨に言い募ることは避けるでしょう。

明らかに、これは国のトップが自ら公明正大で無いことを吹聴しているのですから。

 

もっとも、彼にとっては自分に付き従うものこそが正義であり、反対するものは偏向している悪なのでしょう。

だが、世界の報道マンは読売新聞を、日本の新聞の中でどう評価しているのでしょうか?

決して上位には見られていません。

 

しかし、ここで一考が必要です。

なぜ現首相は、このようなことが出来るのでしょうか?

よく一強だと言われます。

それはそれで間違いはないのですが。

それは小選挙区制や与党が取り組んできた官邸支配の結果とも言えますが、やはり一番はポピュリズムでしょう。

 

先の民主党の失敗、長い経済低迷、ころころ変わるトップ、さらに加えて先進国の同様の状況があります。

端的な例は、現首相がポピュリズムの権化トランプ大統領と気が合い、さらに大統領はタカ派ルペン党首と気が合うことで、正に右翼ポピュリズムの大合唱です。

 

一番のポイントは、現首相が圧倒的な人気を保持していることに尽きる。

人気があれば、与党議員は当然付き従う。

また官僚も民主党のように敵と見なさいのであれば組みやすい。

 

 

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しかし、ここに問題があります

結論から言うと、国民は真実を知ることが出来ずに、国家が暴走することを防げなくなることです。

既にこのことを危惧している方もいるでしょうが、安心している方に何が問題かを示します。

 

視点は三つあります。

A: 国会審議での政府や官僚の答弁に難点あり。

 

つまらない森友学園や加計学園の問題です。

日本の国家予算は100兆円ほどあり、この両者による無駄な出費は自治体分を入れても200億円以下でしょう。

首相にすれば、たかだか1/5000のロスに過ぎない。

 

そんな小さなことでも政府はまともに答弁せず、また官僚も記録が無いとか、全面黒塗りの資料を出す始末です。

つまり、政府や官僚にとって都合の悪い情報は一切出さなくて良いと開き直っている。

特定秘密保護法がこれに加わるのですから鬼に金棒です。

要は、国民が真実を知る権利より、首相の面子が重要なのでしょう。

 

これがまかり通れば今後、為政者は国民を偽って思いがままに振る舞うことが出来る。

 

 

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B: さらに日本の組織文化が災いを生む。

 

日本人は村意識が強く、トップや集団の意向に盲従し易い。

俗に言う、忖度や気配りで人は動き、悪く言えば「赤信号、皆で渡れば怖くない」に陥る。

企業で働いた経験のある方は、このことに納得できるでしょう。

 

もっとも、これにも良い所があり、組織が一丸となって秩序を維持し、また事に当たることです。

しかし、これがまた問題を生む。

それは、社会正義に基づいた内部告発であっても、組織やトップへの裏切りと見なされることです。

この意識は日本では根深く、加計学園の前前川事務次官でも激しい。

 

つまり、この組織文化は良いこともあるが、トップや組織が悪い方向に向かっているのに是正する力が働かず、大きな災いを生むことになる。

原発や食品偽装の内部告発などにもその例があった。

 

 

C: この問題は幾度も不幸な歴史を生み続けて来た。

 

日本の組織は都合の悪い情報や記録を残さない、出さない傾向が強い。

大戦時、米英は日本より遥かに戦場の情報を国民に流すように努めた。

日本はドイツほどではないが、偽情報を意図的に流した。

また軍部は徹底して記録隠滅を図った。

 

米国政府は政策決定過程を記録し保存し、後に為政者の判断が正しいかを検証する歴史があるが、日本には乏しい。

日本には、お上のやることに口出ししない雰囲気が残っている。

隠蔽状況は、現政権により強化され、昔に逆戻りしている。

 

 

 

 

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今後、何が起きるのだろうか?

このような場合、歴史上、一番起きやすいのは戦争でしょう。

 

世界の戦史を見ると、本当に敵国が一方的に攻めてくることもある。

だが往々にして自ら口火を切った戦争や、小競合いから始まり、互いに戦火を拡大させた戦争もある。

 

後者の場合、国民が些細な戦闘などの事実でもスピーデイに入手出来れば、早期に為政者や軍隊の暴走を防ぐことができる。

当然、マスコミが御用新聞でないことも重要ですが。

しかし、これが政府により捻じ曲げられたり、伝わらなけらばどうなるのでしょうか?

今回の二つの問題や南スーダンの自衛隊日報のような政府答弁では・・・。

 

その先に来るものは80年前に歩んだ道であり、今まだ御存命の戦争経験者の悲願を無にすることになるかもしれない。

歴史は、大惨事に至る道が準備されていることを教えてくれています。

 

 

今、私達に求められているのは先の大惨事を予見することです。

 

 

 

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フランスを巡って 17: 大都市リヨン 3


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今回は、リヨンの今、新市街のベルクール広場とレストラン街を紹介し、街の人々の表情をお伝えします。

この日は、この旅行最初の個人予約したレストランで食事をした。

 

 

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< 2. 地図、右が真北です >

 

Hは今回のホテル「ベスト・ウエスタン サフィール」です。

Pはツアー観光で訪れたベルクール広場です。

Sは旧市街をツアー観光した時の始まりと終わりの場所です。

黄色の線は、夕方に自由散策した通りです。

Rは予約したレストランです。

M1、M2、M3は地下鉄駅で、夕食後、ホテルまで帰るのに寄りました。

 

赤矢印はフルヴィエールの丘です。

こうして見ると、この丘がローマ時代から戦略上、交易上需要な拠点だと言うことが推察できる。

この丘は直ぐ下を流れるソーヌ川から標高差130mほどの高さにあり、川を掘りとした堅固な要塞と見なせる。

ソーヌ川は真っすぐ北に延びる河谷を抜け、フランス中部の平野へと至る。

この地はローマ軍がガリア支配の拠点にするには打って付けだったろう。

その下の川はローヌ川で、この地から東に進路を変え、スイスのアルプス山脈に至る。

この地は温暖で、南北と東への交易の交差点だった。

 

 

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< 3. 旧市街からベルクール広場まで >

 

これらは地図のS地点からバスに乗り、ベルクール広場までの景観です。

この川はソーヌ川です。

 

 

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< 4.ベルクール広場 1 >

 

上の写真: 広場の南西端から中央に向かう。

 

中央の写真: 広場中央のルイ14世像(太陽王)

 

下の写真: 広場の中央北端からフルヴィエールの丘の大聖堂を望む。

 

この日は土曜日で市民らの人出が多かった。

 

 

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< 5. ベルクール広場 2 >

 

広場の南縁に延びる公園でくつろぎ、遊ぶ人々。

 

フランス各地を訪れて行くうちに、様々な人種や民族が違和感なく暮らしていることを知ることになった。

旅行に行く前、マスコミ報道や何冊かのフランス事情の本から得た知識により、移民や人種間に気まずい雰囲気があるように思っていたのですが、どうやら思い過ごしのようでした。

 

 

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< 6. ベルクール広場からホテルへ >

 

上の写真: 広場南西端にあるサンテグジュペリの像。

小説「星の王子様」で有名な彼はリヨンで生まれた。

 

下の写真: ホテル近くのバス停。地図番号M3。

この下に地下鉄駅がある。

夜、ここからホテルまで道を迷った。

 

 

自由散策を始める

自由散策は旅行4日目、5月20日(土)の夕方から夜までです。

この日の夕食はツアーにないので、オプションか自由になっていました。

 

ツアー観光が終わり、皆がホテルに入ったのは18:00を過ぎていました。

私達は一度部屋に入り、直ぐ出ました。

ホテルでタクシーを呼んでもらい、ホテルから予約したレストラン近くまで10分程で着き、時刻は19:00でした。

まだ外は十分明るく、少し暖かった。

 

予約時間まで時間があったので、大型スーパーの「Monoprix」(地図番号M1)まで歩きました。

たしか3階まである大きなスーパーでしたが、この時は何も買わずに出ました。

その後、レストランに向かいました。

 

 

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< 7.証券取引所まで散策 >

 

下右の写真: 証券取引所の建物。地図番号M1。

この前に大型スーパー「Monoprix」、タクシー乗り場、地下鉄駅がある。

 

 

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< 8. 大型スーパー「Monoprix」からレストランへ >

 

上の写真: 左のガラス壁面が大型スーパー「Monoprix」。

 

下の写真: 予約レストランのある通り。

レストランは通りの右側中ほどにある。

この辺り、特に突き当りの左右に延びる通りは著名なレストラン街としてガイドブックに載っている。

 

 

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< 9. レストラン「La Maison Marie」 >

 

上の写真: 予約していたレストラン。

下の写真: 向かいのレストラン。

 

La Maison Marie での食事について

このレストランはトリップアドバイザーで探しました。

ここはリヨンのレストラン2837軒中35位と人気がある店で、コースの値段が手頃で、新市街の便利な所にあったので決めました。

予約はトリップアドバイザーのオンライン予約で19:30を希望し、後に確認メールが届きました。

 

私達は室内よりテラス側を選んで座った。

ウエイターの対応は爽やかで丁寧でした。

料理は店に入ってから注文した。

初めからコース料理「Menu Printanier」を考えていました。

 

 

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< 10. コースメニュー >

 

コースメニューはこれだけで他はすべて単品注文です。

金額は29ユーロです。

どうやらこの料理の組み合わせは数か月間同じようです。

このコースメニューは前菜2種類、メイン2種類、デザートかチーズから選ぶようになっています。

私達二人は、それぞれ前菜とメインで異なるものを注文し、シエアし、最後は同じデザートを注文しました。

上記メニュー内の「ou」は英語の「or」です。

 

今思えば、一人はチーズを注文すれば良かったと少し後悔しています。

フランス人は食事の最後に結構、チーズ「Fromages」を食べるようです。

 

 

 

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< 11.コース料理 >

 

上から前菜、メニュー、デザートと並んでいます。

 

今回の旅行で最もおいしく味わいのある料理でした。

ただ一つ残念なことは、スープが冷製で体が冷えたことです。

テラスに座った頃はまだ外は温かったのだが、日が暮れるにしたがってどんどん涼しくなった行きました。

私達が食事を終える21:00頃には、他の客は皆、室内で食事をしていました。

 

サービスも問題なく、豊かな時間を過ごせました。

 

 

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< 12.食事中の通りの様子 >

 

やはりテラスでの食事は楽しい。

通りを行きかう人や、向かいで飲食し談笑する人を眺めることは興味が尽きない。

ただ、あまり繁々と見ていると、誤解を招くので注意が必要です。

ここでも、またポルトガルのポルトでも少し嫌な思いをさせたようです。

 

一つ楽しい出会いがありました。

食事をしていると、通りの向こうから同じツアーの夫婦が歩いて来ました。

聞くとレストランを探しているとのことで、このレストランを薦め、隣の席で一緒に食事することになりました。

この広い、リヨンで出会えるとは驚きです。

他のツアー客のほとんどはオプションか、ホテル近辺で食事をとっていたのですから。

 

実は、後の観光地でも、夕方以降の自由散策でばったり出会うことになります、

この夫婦は好奇心が旺盛でチャレンジを厭わないようです。

 

 

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< 13.いよいよホテルに帰る >

 

 

来るときは時間を無駄にしたくないことと夜の地下鉄利用が不安だったこともあり、タクシーを利用した。

もっとも、来るときは明るかったが。

タクシーの運転手のマナーに問題はなかった。

 

しかし、先ほどの夫婦は地下鉄で来ており、地下鉄は便利だと教えてくれた。

それで私達も地下鉄で帰ることにした。

レストランから証券取引所まで歩き、そこの自動販売機で切符を買い、地下鉄に乗った。

地下鉄はベルクール広場の駅で一度外に出て、乗り継ぎをしなければならない。

切符はそのまま使えます。

 

この時、地下鉄のホームで、どちらに進むべきかわからず、同じく乗車していた地元の家族に尋ねました。

すると若い男性は、ほんとうに親切に笑顔で答えてくれて、不安そうに私達が行く方向を見届けてくれていた。

これ以降、フランス人の親切と愛想の良さに幾度も出会うことになる。

 

下の写真は、この時、一度ベルクール広場まで出た時、撮ったものです。

この時、9:35でした。

 

この後、ホテル近くの地下鉄駅(地図番号3)で降りて、地上に出たのですが、土地勘がなく、暗かったので道がわからなくなった。

ここでも、近くにいた男性を呼んで、看板の地図で道を聞いた。

この時も、親切に教えてもらえた。

 

その後、幾分道を迷いながらもホテルに無事に辿りついて、やっと1日が終わった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2


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これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。

今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。

次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。

 

 

リヨン観光

観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。

観光した時間は15:45~17:40でした。

観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。

この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

 

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。

街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

 

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。

この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。

中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。

リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。

 

 

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< 2. リヨンの地図 >

 

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。

番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。

番号5の黒四角はホテルです。

 

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。

Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。

Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。

赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。

Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。

写真もその順に並んでいます。

黄色の線は抜け道(トラブール)です。

 

 

 

 

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< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 >

 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。

次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。

この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。

この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

 

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。

 

 

 

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< 4. 展望台からの眺め >

 

展望台は東方向に視界が開けている。

写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

 

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。

このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。

 

 

 

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< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >

 

 

 

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< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

 

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。

しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。

 

 

 

 

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< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

 

上の写真: モザイク画。

教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。

 

 

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< 8. 旧市街の通り >

 

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。

 

 

 

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< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

 

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

 

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。

右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

 

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。

かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。

 

 

 

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< 10. 抜け道2と博物館 >

 

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。

抜け道1と直ぐ近くにあります。

入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。

入口に表示があるようですが、私には理解できません。

 

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma」

地図番号2.

約100年前に、リヨンで映画が生まれた。

 

 

 

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< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >

この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。

上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。

公会議がここで行われたのだろうか?

 

 

 

 

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< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

 

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。

店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

 

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。

元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。

ここだけなら無料です。

菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。

 

 

 

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< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

 

最初、通った広場に戻って来ました。

上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。

下の写真が元証券取引所です。

この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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何か変ですよ! 58:  備えて下さい!


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今、私は現政権の手腕を羨ましく思っています。

おそらくは多くの国民も感服していることだと思います。

もし二大政党が日本にあり、双方がこれだけの力量を持っていれば、

日本の将来は安泰でしょう。

 

 

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まえがき

巷を騒がせている森友学園や加計学園の問題は、今更、取り立ててあげつらうほどの問題でしょうか?

 

日本の政治文化を特徴づける三バン「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」で成り立つ長期政権なら、このようなことは各地で日常茶飯事です。

何を今更、驚くのでしょうか?

多少どぎつい程度でしょう。

 

これは首相の強力なリーダーシップの賜物だと言えます。

中央官僚だけでなく、マスコミ、マスコミの寵児、地方までその影響力は行き渡っています。

今までの官邸や野党では不可能だったのではないでしょうか?

 

直ぐに人気が無くなる首相が相次いぐ中で、むしろ待望の決められるリーダーの誕生、それも長期政権だと喜んでいたはずです。

 

この現象を好意的に捉えるなら、待ちに待った官僚の上に立つ官邸の時代が到来したと言えます。

これまでは官僚が法律を発案し作り、国会での答弁書まで作って、大臣にレクチャーしていた。

これからは逆の本来の姿になるかもしれません。

 

そうは言っても不安がよぎるのも事実です。

私の不安が現実とならなければよいのですが。

 

 

不安とは何か?

一番は経済的なダメージで、大恐慌の到来です。

 

発生する時期を明言出来ませんが、近々起こるでしょう。

問題はその規模の巨大さであり、日本がまともに被害に合うことが予想されるからです。

 

可能性が高いのは中国の崩壊です。

今まで、中国の崩壊について多くのエコノミストが予言して来ましたが、幸い外れています。

これらの指摘に比べれば、中国政府はうまくやって来たと思います。

しかし、現在進行中の経済悪化(国営企業の低迷、過剰設備、巨大な負債、高失業率、格差拡大、成長率鈍化)が国民の不満に火を着ければ、コントロールが効かず、一気に恐慌に陥る可能性があります。

 

私の知り合いで、現地で活躍する二人の中国人は、恐慌が起きても不思議ではないと思っており、資産の海外移転を考えている様子です。

現在、中国は日本の輸出額シェアで18~19%を占め、米国15~20%と肩を並べています。

つまり、以前と違って中国がこけたら日本は大きな影響をうけるのです。

 

 

さらに別の不安要因が幾つかあります、英国のEU離脱もその一つです。

おそらく米国の株価好調と利上げテンポの遅いのが災いする可能性の方が大きい。

 

ここ半世紀ほど欧米を中心にして7年~10年毎に金融恐慌が間違いなく発生しています。

これは米国がリードした経済・金融構造とグローバル化の副産物だが、これは何ら改善されるどころか悪化しています。

残念ながら、2007年の世界金融危機以上のものが再来するでしょう。

現状のゼロ金利であれば、実業に向かうよりも遥かに巨額資金が災いを招く投機に向かい、更なる巨大なバブルが起きるのは必然です。

 

 

 

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*3

 

 

何が問題なのか?

この恐慌の大惨事と、今の政権とどのように繋がるのでしょうか?

二つの事で、今の政権は恐慌の災いをより致命的にするでしょう。

 

一番はアベノミクスです。

現在、ヘリコプターマネーと称して市場に大量の資金が供給されています。

確かに少ないよりは多い方が景気には良いのですが、バブルが弾けた時に被害がより甚大になります。

現在、株式時価総額は600兆円ほどありますが、おそらく下落すれば200兆円ぐらいになるでしょう。

これは繰り返して来たことですが、今回は貨幣供給量が今までと比べものにならないほど増えたので下落率は拡大し、下手をすれば株式時価総額は1/4の150兆円もあるかもしれません。

 

その引き金として海外発、特に隣の中国発の恐慌が起きればひとたまりもないでしょう。

さらに、日銀と政府はこれまでと違って日本株を大量に買い支えているのですから、暴落すれば我々の年金はかなり減額になる。

 

この時、政府は謝罪し、責任を取るでしょうか?

たとえ良心があっても無理です。

なにせ数百兆円が一瞬にのうちに消え、おそらく100兆円の血税をつぎ込んで、やっと大手金融業が助かるぐらいでしょう。

 

もう一つは、首相の仲良し米国大統領が人気取りの為に何をするかわからないことです。

おそらく日本は特定秘密保護法と共謀罪の成立、次いで核兵器禁止条約への不参加と米国に盲従していくことになるでしょう。

 

この先にあるものは、経済と軍事の共倒れでしょう。

なにせ、即決と猪突猛進の首相なのですから。

 

 

最後に一言

恐慌に備え、株から手を引き、タンス預金にすることを薦めます。

もっとも金のある人は既にタックス・ヘイヴンしているでしょうが。

 

詳しくはいずれ連載で扱うつもりです。

 

 

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フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ


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今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。

これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。

すべてバスの車窓からの景色です。

 

 

 

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< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >

左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。

赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

 

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。

アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

 

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。

また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。

撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d’Arc です。

 

 

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< 3. ポン・デュ・ガール付近 >

 

 

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< 4. 今から高速道路に入ります >

 

午後になると、雲が増えて来ました。

一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。

今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。

 

 

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< 5. ローヌ川を渡る >

 

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。

 

 

 

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中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。

13:30に撮影。

 

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d’Arcがあるのでしょう。

上の写真と同時刻に西側を写した。

 

 

 

 

 

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< 7. ローヌ川の景色 1>

 

 

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< 8.ローヌ川の景色 2 >

 

 

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< 9. ローヌ川の景色 3 >

 

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< 10. リヨンに近づいた >

 

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。

 

 

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<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

 

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。

この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

 

中央の写真: 新市街。

 

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。

 

 

 

プロヴァンスに別れを告げて

 

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< 12. プロヴァンスとは >

 

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」

左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

 

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。

彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。

 

 

今回でプロヴァンスと別れることになります。

プロヴァンスについて記します。

 

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。

中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。

この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。

その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

 

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。

不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

 

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

 

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

 

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。

 

 

プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。

そしてローヌ川はその通り道でした。

ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。

やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

 

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。

 

 

このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・

このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

 

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。

それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。

それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

 

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 14: ポン・デュ・ガールの水道橋


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今日は、巨大なロ―マ時代の水道橋を紹介します。

わざわざこの為だけにバスは山間に入りました。

はたして期待に違わぬものなのでしょうか?

 

 

水道橋の観光

訪れたのは旅行4日目、5月20日(土)、11:00~12:40です。

徒歩観光の後半、レストランで昼食をとりました。

この日もほとんど雲の無い、素晴らしい天気でした。

 

 

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< 2. ポン・デュ・ガールの地図、すべて上が真北です >

 

上の地図: 青線がバスのルートです。

赤線は建設当時の水道橋のおおよそのルートです。

 

下の地図: 水道橋の見学コースを示しています。

赤線はバスの駐車場Sから、案内所を通り、そして水道橋を渡り、レストランまでのルートを示す。

青線は昼食後、バスの駐車場Fまでのルートです。

 

 

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< 3. 水道橋の資料 >

 

左の地図: 黒線が建設当時の水道橋のルートです。

この水道橋は町ユゼス近郊の水源から都市ニームまで全長約50kmあり、平均斜度は1kmあたり24.6cmです。

驚くべきは、山や谷を幾度も通り、この少ない斜度で長距離、給水出来ていたことです。

 

右の断面図: 数字の単位はmです。

水道橋は3層からなり、最大高さは水面から47m、私達が歩いたのは下層の上で、その高さは22mです。

 

 

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< 4. アヴィニョンからポン・デュ・ガールまでの景色 >

 

上の写真: ローヌ川。

 

下2枚の写真: ブドウ畑が広がり、進むに連れ標高が上がって来た。

 

 

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< 5. 案内所から水道橋へ >

 

 

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< 6. 水道橋の全貌が見えて来た >

 

下の写真: 今来た道を振り返る。

 

 

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< 7. 水道橋 1 >

 

水道橋を渡っている時、実は、私はそれほど驚かなかった。

なぜならスペイン、ゼゴビアの水道橋の方が巨大で美しいと思ったからでした。

しかし、帰国後、調べて行くうちに勘違いに気付いた。

 

先ず大きさなのだが、確かに渡っている所から見上げた高さは24mで、ゼゴビアの地上高さ30mよりは低いが、水面からの高さは47mもあり、遥かに高い。

またこちらの導水路のある上層の長さは275m(川幅より広い)で、ゼゴビアのは728mもあった。

しかし、建設当時の水道橋の総延長は、ゼゴビアで17km、ポン・デュ・ガールは50kmと、こちらも大きい。

 

だが、ゼゴビアの水道橋の方が美しいと思ったのは、橋脚の基部の幅が2.4mと薄く、今にも倒れると思わせるほどのスリムなスタイルに感銘したからでした。

 

 

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< 8. 橋が架かるガルドン川 >

 

上の写真: 橋から下流を望む。

 

下の写真: 上流を望む。

 

 

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< 9. 水道橋 2 >

 

 

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< 10. 川原に降りて >

 

上の写真: ボート遊びをする人々。

下の写真: 川原で遊ぶ子供達。

 

 

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< 11.水道橋 3 >

 

 

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< 12. レストランでの昼食 >

 

全3品が順に並んでいます。

 

 

追記

 

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< 13. ポン・ダークの洞窟 >

 

水道橋の案内所でパンフレットを漁っていると、下の絵が目に飛び込んできました。

 

これは人類最古の洞窟壁画で、ショーヴェ洞窟300点の絵の一つです。

ショーヴェ洞窟は世界遺産です。

この洞窟壁画を保護するために、この公開を禁止し、この近くのポン・ダークに巨大なレプリカ洞窟を作り、2015年から公開されている。

ポン・デュ・ガールから北方50kmほどの山中にこの展示施設(上の写真)があります。

 

ショーヴェ洞窟の凄いのは約32000年前のもので、有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画よりも2倍ほど古く、多様な動物が描かれていることです。

 

それが、この近くにあるのですが、残念ながら素通りです。

もし、自由な旅行をされるのなら検討されると良いと思います。

 

 

次回に続きます。

 

 

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フランスを巡って 13: 要塞都市アヴィニョン 2


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今日は、アヴィニョン旧市街の今を紹介します。

主に自由散策で見た中央市場や時計広場の光景です。

 

 

 

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< 2. ロシェ・デ・ドン公園 1 >

 

上の写真: 公園の展望台から東側を見下ろしています。

見えているのはアヴィニョン旧市街です。

 

下の写真: 展望台。

写真は展望台の東北端から南側を写しており、右奥、木立の上に黄金の聖母像が見える。

 

 

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< 3. ロシェ・デ・ドン公園 2 >

 

上の写真: ノートル・ダム・デ・ドン大聖堂を後部側面から見ている。

 

下の写真: ロシェ・デ・ドン公園の入り口にある彫刻。

上の写真の大聖堂の右側にある。

 

 

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< 4.時計台広場から自由散策を始めた >

 

9:30から10:20まで自由散策を愉しみました。

最初、レアル中央市場に行き、ショッピングした。

時計台広場から中央市場まで8分ほどです。

後は時計台広場に戻り、集合待ちの間、広場の様子を眺めていました。

 

 

 

 

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< 5.レアル中央市場に向かう 1 >

 

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< 6.レアル中央市場に向かう 2 >

 

上の写真: サンピエトロ大聖堂。

遡れば教会は7世紀に始まるのですが、サラセン人に破壊された後、この大聖堂は14世紀から再建され始めたゴシック建築です。

 

今までの記事で謝らなければないことがあります。

それはイスラム教徒(サラセン人など)との関連です。

プロヴァンスの歴史を調べていると、各地の町や地中海の港がイスラム教徒に襲撃されたとの記述が多くありました。

私は、イスラム教徒が地中海で覇権を握ったのは、東地中海とジブラルタル海峡だけだと勘違いしていました。

これまでの歴史的な解説で、イスラム教徒の進攻を過小評価していました。

 

 

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< 7.レアル中央市場に入る >

 

土曜日の午前9:40頃に入ったが人は少なく、観光客を見なかった。

私達は現地の果物と名物のお菓子を買って、後ほど食べた。

 

 

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< 8.レアル中央市場の中 >

 

見ていると何でも欲しくなり食べたくなるが、お腹にも限度がある。

 

 

 

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< 9.レアル中央市場から時計広場に向かう >

 

上の写真: 中央市場前の花屋。

 

 

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< 10. 時計広場に戻る >

 

上の写真: 時計広場から南側に延びるメインストリートを望む。

この先には立派な城門、その向こうにアヴィニョン国鉄中央駅がある。

前日はこの通りに面したレストランで夕食をとった。

写真はその時のメイン二品です。

 

 

 

 

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< 11.時計広場にて 1 >

 

上の写真: 広場の南側から北側を見ている。

フランスの町の中央広場には必ずと言っていいほど、メリーゴーランドがありました。

 

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

左側は夫婦のようで、黒を基調にした服でゆったりと旅行を楽しんでいるようでした。

右側は地元の人が、あれよあれよと言う内に集まり、談笑を始めた所です。

私はファッションには疎いのですが、着こなしが様になっていると感じました。

 

 

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< 12.時計広場にて 2 >

 

この建物は時計台広場の北端にあるレストラン(Le Lutrin)で、18世紀のスペイン領事館だった。

ふと見上げると、マリア像らしきものがありました。

 

ヨーロッパを旅行していると、キリスト教と言いながら、マリア像の多さに驚く。

そこに根強い聖母信仰を感じ、仏教の観音信仰を思わせる。

本来、観音様は菩薩で男性だが、そこには女神や母性を感じさせるものがあり、根強い人気がかってはあった。

 

この中世の宗教都市は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラとは大きく異なる雰囲気がある。

こちらは教皇庁の聖職者や官僚で富栄えた町だが、サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の人々で栄えた町と言える。

前者は巨大な宮殿と部外者を寄せ付けない城壁に象徴され、過去のものになっているが、後者は多数の教会が建ち並び、今でも巡礼者が絶えない。

 

ここを発って、ローマ時代の巨大な水道橋を見る為に、ポン・デュ・ガールに向かいます。

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 12: 要塞都市アヴィニョン 1


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今日は、巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市を紹介します。

ここで起きた14世紀の事件はキリスト教世界を変えていくことになった。

2回に分けて、謎を秘めた古都と市民が集う市場を巡ります。

 

 

アヴィニョン観光 

アヴィニョン観光は旅行4日目、5月20日(土)の8:30から10:30でした。

この日も快晴で、陽射しはきついが展望台に行けば川風が心地良く、絶好の観光日和でした。

 

 

 

 

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< 2. アヴィニョンの地図、共に上が真北です >

 

上の地図: この町はローヌ川が蛇行して出来た大きな中洲を望む丘の上にあり、その丘の背後ではデユランス川が合流している。

如何にも古くは交易や要塞として最適な場所だったのだろう。

 

下の地図: 城壁で囲まれた旧市街の徒歩観光ルートを示す。

赤線が今回、黄線が次回紹介するルートです。

城壁の長さは5km弱あり、私達が歩いた範囲はせいぜい1/4ぐらいでしょう。

 

S: 観光を開始し、終えた場所。

G: ローヌ門。

B: アヴィニヨンの橋で知られるサン・ベネゼ橋。

C: 時計台広場。

P: 法王庁広場。

R: 眺望がすばらしいロシェ・デ・ドン公園。

M: 自由時間に訪れたレアル中央市場。

 

 

 

 

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< 3. アルルからアヴィニョンまでの景色 >

 

これらの写真は前日、5月19日午後に撮影したものです。

 

下の写真: ローヌ川。

 

 

 

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< 4. 観光の開始 >

 

上の写真: 前日のローヌ川の写真です。

 

下の写真: サン・ベネゼ橋。

これは「アヴィニョンの橋で踊ろうよ、踊ろよ・・・」の歌で知られた橋です。

12世紀に造られた当時は全長約900mあった。

アヴィニヨン旧市街のローヌ門近くから中洲を越えて対岸まで架かっていた。

度重なる洪水の度に修復されていたが、ついには現在のように放置された。

 

不思議に思ったのが大河の護岸のありようです。

上の写真のように、川の堤はほぼ自然な状態で、日本のようなコンクリート製の護岸を見ることは稀で、更に堤の高さが低いことです。

これはフランスを周遊して、大都市部こそ異なるが、各地の大河に共通していました。

おかげで市民はキャンピングカーやボートで川遊を楽しむことが出来るようです。

後に紹介します。

 

 

 

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< 5. いよいよ城内に入ります >

 

これらはローヌ門とその城壁の表側と裏側です。

聖職者の住まいと言うよりは、大要塞です。

 

 

 

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< 6. 坂道を上り、時計台広場に出た >

 

 

 

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< 7. 時計台広場 >

 

上の写真: オペラ劇場。

下の写真: 市庁舎。

 

 

 

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< 8. 法王庁広場 1 >

 

上の写真: 広場の通りの石畳。

古さを感じさせるが歩き難い。

 

下の写真: 法王庁宮殿が見えた。

巨大さに驚いた。

いきなり高い壁面が垂直に立ちはだかる。

宮殿正面全部を1枚の写真で撮るのは不可能だ。

今まで見た事の無いような威圧感があり、冷たさを感じさせる建物です。

 

 

 

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< 9. 法王庁宮殿 >

 

1334年から1352年にかけて建てられた、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿。

壁の高さは50m、厚さ4mもある。

 

ここに宮殿が出来たのは、1309年、ローマの教皇庁がこの地に移転したアヴィニョン捕囚に始まる。

1377年に教皇庁がローマに戻るまで、歴代の教皇はこの地に住んだ。

アヴィニヨンはその後も教皇領であり続け、巨大な官僚機構(法や税を扱う)を引き継ぎ繁栄した。

 

フランス革命の時に内部は略奪と破壊にあい、その後は監獄として使用された。

残念ながら最盛期の様子を伝える調度品は無い。

入場はしていません。

 

 

 

 

 

 

 

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< 10. 法王庁広場 2 >

 

上の写真: 少し階段を上った所から振り返って宮殿を撮影。

 

下の写真: 宮殿の真向かいにある建物。

 

 

 

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< 11. ロシェ・デ・ドン公園に向かう >

 

上の写真: 進行方向を望む。

 

下の写真: 振り返ると、一番手前にノートル・ダム・デ・ドン大聖堂、その向こうに宮殿が見える。

大聖堂の鐘楼の上に黄金色に輝く聖母像が見える。

 

 

 

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< 12. ロシェ・デ・ドン公園からの眺望 >

 

ここはローヌ川岸から垂直に切り立つ40mの岩盤の上にあり、眺望は素晴らしい。

展望台はローヌ川を見下ろす主に北側と東側に開けている。

 

上の写真: 西側のサン・ベネゼ橋を見下ろす。

この橋は写真の右上、対岸に見える白いフィリップ・ル・ベル塔までかつて伸びていた。

 

下の写真: 東側、イタリアとの国境にあるアルプス山脈を望む。

 

 

 

 

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< 13. 展望台から対岸を望む >

 

上の写真: ほぼ北側の対岸の丘の上にある建物は14世紀のサンタンドレ要塞で、す。

 

中央の写真: 二つのローヌ川に挟まれた中洲が見える。

 

下の写真: 少し望遠で撮影。

森が広がっている。

 

 

アヴィニョンの謎

なぜ教皇の捕囚はこの地で行われたのか?

その背景を少し見ておきます。

 

先ず、アヴィニョン捕囚の重大さは、それまでキリスト教圏の聖俗の両世界に君臨していたローマ教皇が、一国の王によって強制的に移住させられたことにあります。

この王とはフランスの王です。

 

 

 

 

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< 14.南仏の役割を示す地図、共に上が真北。 >

 

南仏、プロヴァンスは既に見たように、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン等の国々による支配が度々入れ替わっていました。

アヴィニョン捕囚が起きる直前(13世紀頃)のこの地域の動きを見ます。

 

上の地図: 12~13世紀のアルル王国(Kingdom of Arelat)の領土。

この王国は1032年より神聖ローマ帝国の属国になる。

この北部に隣接しているのがブルゴーニュ伯(Burgundy)です。

この地図から、大司教座(archiepiscopal seat)がローヌ川沿いの都市リヨンやアルルに置かれたいたことがわかる。

 

下の地図: 十字軍遠征のルートを示す。

11~13世紀の間に8回行われたが、その多くでフランスは出兵しており、リヨンやマルセイユなどが起点になっている。

 

つまり、フランスは神聖ローマ帝国などと並んでキリスト教諸国の盟主を自負していた。

第4話の「古都ボーム」で紹介したように、ブルゴーニュでは二つの修道会(クリュニーとシトー)が10~11世紀に創建され、ブルゴーニュは信仰篤き地域であった。

これら修道会はイタリアで創建されたベネディクト修道会(6世紀)の流れを汲むものだが、やがてローマ教皇庁に改革を促すことになる。

また、大司教座のあるリヨンで1245年と1274年に公会議(世界中の司祭が集まる)が開かれた。

 

大雑把に言って、当時、ローヌ川の東側の領域、リヨンとアヴィニョン、アルルなどは神聖ローマ帝国の領土であった。

しかしフランス王は南下を伺っていた。

 

 

 

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< 15.捕囚前後のアヴィニヨン、共に上が真北。 >

 

左上の絵: 1226年、フランス王率いるアルビジョア十字軍がアヴィニョンを攻略している様子(推測)。

これは教皇が呼びかけた、南仏に広まっていた異端のカタリ派を討伐する十字軍です。

フランスはこれにより、南仏の領土を拡大し、神聖ローマ帝国は東に後退することになった。

 

右上の地図: 英仏戦争の前半(14世紀)を示す地図です。

この地図からわかるように、アヴィニョンは教皇領に組み込まれ、その北部はフランスの領土になっています。

しかし、英国の進攻によりフランスは西部、後に北部も領土を失います。

 

実はこの戦争が切っ掛けで、フランスの王はアヴィニョン捕囚を起こすことになった。

この王はこの戦費調達の為に、教会財産に課税しようとしたが、教皇はこれを拒絶した。

批難の応酬の末に教皇がこの王を破門したので、逆に王はこの教皇を捕縛した。

この教皇は憤死し、これに続く教皇はフランスの言いなりとなった。

 

 

下の地図: 1477年の領土を示しています。

ピンク色が教皇領で、その中の左下の小さな黒点がアヴィニョンです。

この教皇領は、フランス革命まで存続した。

両側の赤線はフランスの国境を示す。

 

こうしてフランスは南仏の領土を拡大した。

しかし一度はフランスに下ったアヴィニョンは、捕囚直前(1290年)には、戦火を交えることなくプロヴァンス伯の血を引くナポリ王に継承された。

 

 

なぜアヴィニョンだったのか

先ず、アヴィニョン捕囚はフランス王フィリップ4世が教皇に強制したものでした。

そしてアビニョンと周辺はフランスが十字軍遠征で手に入れた領土の南端でした。

この80年ほど前の遠征でアビニョンは城壁を破壊され荒廃していた。

さらにその上流のリヨンは、大司教座でありフランスの主要都市でした。

これらが、フランス王にとって教皇を従わせ、移住させるには都合のよい所だったのでしょう。

 

最初に移り住んだ教皇クレメンス5世は、フランス出身のボルドー大司教であった。

この後、教皇と教皇を選ぶ枢機卿の多くはフランス人になった。

 

 

 

アヴィニョン捕囚の歴史的意味

イスラム圏が世俗化出来ずにいる一方、キリスト教圏で世俗化が進んだ切っ掛けがこの事件だと思います。

この捕囚には、宗教教団の退廃と聖俗権力との抗争が集約されている。

ここでは捕囚への経緯とその後の展開を大きな流れとして捉えます。

 

キリスト教がローマ帝国の国教となってから、一介の司祭に過ぎないローマ教皇の地位は、長い年月をかけて聖だけでなく俗の頂点にも立つ勢いとなった。

一方、皇帝や各地の王は莫大な財産を扱う高位聖職者の任命に干渉するようになった。

 

教皇は既に皇帝や王の戴冠を行っていたが、この俗権の任命干渉を認めず、意にそぐわない王や皇帝を破門によって制裁する挙に出た。

こうして互いが激しく抗争するようになった。

 

しかしこれには前段があった。

それは高位聖職者達の腐敗、規律の乱れが横行するようになっていたことです。

長年の寄進による富の集中が輪を掛けて腐敗を招いた。

これに異を唱える形で、清貧を求める幾つもの修道会が創立された。

これも多くは百年も経つと、同じ道を辿る傾向にあったのだが、これら修道会の訴えはやがてローマ教皇達による改革を生むことになった。

その中で、綱紀粛正が謳われ、任命権を俗権から取り戻す機運が盛り上がった。

 

また教会の綱紀粛正が功を奏し、教会への信頼が向上した。

一方、12世紀頃から、ヨーロッパの経済(交易と農業)と社会が好転し始めた。

これらが聖地巡礼やゴシック様式の教会建設、十字軍遠征を活発させることにもなった。

こうして教皇の権威は高まった。

 

こうして12世紀には、高位聖職者の任命権(叙任権)を巡り、神聖ローマ帝国皇帝と教皇の争いが熾烈化し、教皇はカノッサの屈辱(王の破門)で帝権(俗権)よりも優位となっていた。

 

こうした中、フランス王(フィリップ4世)が教皇に実力行使し、王権が教権を従えさせた。

この時、フランス王は教皇の公会議(世界中からの聖職者会議)に対抗して、始めて聖職者・貴族・平民からなる三部会(1302年)を開催し支持を得た。

これがフランスの身分制議会の始まりとなり、フランス革命も含めて幾度なく重要な役割を果たすことになる。

 

アヴィニョン捕囚期に、フランス王は教皇を選ぶ枢機卿に多くのフランス人を送り込んでいた。

捕囚は70年後には終わり、ローマに教皇庁が戻った。

しかし、次の教皇選挙で、フランス人枢機卿が擁立する教皇と他の教皇が対立し、

アヴィニョンとローマに分立した。

その後、さらに3人の教皇が鼎立する時代が1417年まで続いた。

 

こうして教皇庁の信頼は失墜し、俗権は教権を凌ぐことになった。

完全な世俗化ではないが、この後、聖俗の分離は深まることになる。

 

また教会の権威失墜、14世紀の黒死病の蔓延、ルネサンスの人文主義の発展を経て、15世紀の宗教改革へと進んでいくことになった。

そして18世紀、フランス革命で政教分離(世俗化)が完成した。

 

 

次回に続きます。

 

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フランスを巡って 11: 古都アルル


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< 1.アルル付近の景色 >

 

 

今日は、古代ローマとゴッホの息づかいを感じることが出来る町アルルを紹介します。

ここはローヌ川に面したなだらかな丘にあります。

深い青空に緑と白い大理石が光っていました。

 

 

 

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< 2. アルルとローヌ川の地図、共に上が北。 >

 

ローヌ川に沿って古くからの都市アルル、アヴィニヨン、リヨンがあります。

かつてローマの軍隊と文明がこの川を遡上していったのです。

そしてローヌ川と、リヨンの北側のソーヌ川沿いにワインの産地が続くようになった。

 

またこの地域にはミストラルと呼ばれる北風が地中海に吹き降ろします。

特にローヌ川谷において、ミストラルは時速90kmの速さに達する。

これがアルル近郊の景観をエクス・アン・プロヴァンスまでのものと異なったものにしています。

 

 

 

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< 3. アルルの地図、共に上が北。 >

 

上の地図: 上部中央がアルルの旧市街。

下側にゴッホの跳ね橋があります。

 

下の地図: 徒歩観光のコースを赤線で示しています。

Sから始め、2から7と巡り、元に戻り、バスに乗って跳ね橋に向かいました。

歩き始めたのは15:10で、戻ったのは16:35ぐらいでした。

 

 

 

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< 4. エクス・アン・プロヴァンスからアルルまでの景色 >

 

下の写真: 北風ミストラルの為の防風林として糸杉が、この地域に入るとがぜん増えて来た。

ゴッホはこれをさかんに描くことになる。

 

 

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< 5. アルルの町に入った >

 

 

 

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< 6. 旧市街に着く >

 

上の写真: アルルの東側を走る鉄道。

下の写真: 車窓から見たムルグの塔。地図番号1。

紀元前のローマの城壁の一部が残っている。

 

 

 

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< 7. 徒歩観光のスタート、地図番号S. >

 

上の写真: 街路樹が林立する大通り。西側を見ている。

 

下の写真: 大通りの東側を見る。

この直ぐ右手にインホーメーションオフィスがある。

 

 

 

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< 8. エスパス・ヴァン・ゴッホに向かう >

 

下の写真: エスパス・ヴァン・ゴッホの入り口。

かつてゴッホが入院した病院で、今は文化センターになっている。

 

 

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< 9. エスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、地図番号2. >

 

ここの庭は、ゴッホの絵のままに再現されている。

 

 

 

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< 10. 市庁舎広場、地図番号3. >

 

上の写真: 中央正面が市庁舎。世界遺産。

ここを入ると、紀元前1世紀に造られたローマ時代の地下回廊がある。

 

下の写真: サン=トロフィーム教会。世界遺産。

11~12世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、かつては大聖堂の地位を得ていた。

 

 

 

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< 11. フォーロム広場に向かう >

 

下左の写真: 左の木立が見えるところがフォーロム広場。

下右の写真: ゴッホの絵「夜のカフェテラス」に描かれた状況を再現したカフェ。

地図番号4.

 

 

 

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< 12. 円形闘技場に向かう >

 

下の写真: 細い通りから円形闘技場に出た。

 

 

 

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< 13. 円形闘技場。地図番号5.世界遺産 >

 

古代ローマ時代の剣闘士競技などが行われた闘技場で、1世紀末頃に建造された。当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみです。

内部の観客席が整備され、数々のイベントが行われている。

私は疲れたので入場しなかった。

 

 

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< 14. 古代劇場、地図番号6. >

 

紀元前1世紀に作られた劇場跡。世界遺産。

中世には採石場とされた後に要塞に転用されたが、19世紀に現在の形に復元された。

残念ながら舞台部分の復元はされていないようです。

 

 

 

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< 15. 夏の庭園を後にして >

 

上の写真:  夏の庭園、地図番号7.

ゴッホの首だけの彫刻が突き出した記念碑が見える。

 

 

 

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< 16. ゴッホの跳ね橋に向かう >

 

上の写真: 跳ね橋が架かる運河。

跳ね橋側から撮影。

 

下の写真: ゴッホの絵「アルルの跳ね橋」を再現したもの。

 

 

 

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< 17.アルルを離れてアヴィニヨンに向かう、車窓から >

 

上の写真: ローヌ川の向こうの丘に広がるアルルの町。

川の手前にたくさんのキャンピングカーが見えるが、フランス各地でキャンピングカーを楽しむ光景に出会うことになる。

 

中央の写真: アルル近くの農家。

この地はミストラルが強いので、北側の窓は小さく造られているそうです。

うまく写真で撮ることが出来ませんでした。

 

下の写真: この地方で有名なカマルグの白い馬でしょうか。

 

 

ゴッホについて

アルルはビゼーの組曲「アルルの女」やゴッホの絵「アルルの跳ね橋」で私達には身近なものになっている。

 

ゴッホはオランダ人だが、画家を目指しパリに出た。

彼はパリで印象派に触発されたが、画壇から認められることはなかった。

彼は日本の浮世絵に惹かれ、1988年2月にアルルにそのイメージを求め、移り住んだ。

彼はアルル滞在の1年あまりの間に200点以上の絵を描いた。

 

この10月に、待ちに待ったゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始めた。

しかし、二人は喧嘩をし、ゴッホは自分で耳を切り落とし、ゴーギャンは去りました。

ゴッホは市立病院(エスパス・ヴァン・ゴッホ)に収容された。

 

1889年5月、彼はアルルから20km余り離れた精神病院に入院した。

1890年5月、退院し、パリの近くに移り住んだ。

この7月、彼はピストル自殺し、37歳の生涯を終えた。

 

 

 

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< 18. ゴッホの絵 1 >

 

絵は制作日順に並んでいます。

 

左上の絵: 「モンマルトル」1886年。

パリで描いた。

 

右上の絵: 「アルルの跳ね橋」1888年3月。

アルルで描いた。

 

下の絵: 「収穫」1888年6月。

アルルで描いた。

 

 

 

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< 19. ゴッホの絵 2 >

 

左上の絵: 「夜のカフェテラス」1888年9月。

アルルにゴーギャンが来る直前に描いた。

 

右上の絵: 「アルルの病院の中庭」1889年4月。

市立病院から精神病院に転院する直前に描いた。

 

下の絵: 「糸杉と星の見える道」1890年5月。

彼が精神病院退院間際に描いた絵で、プロヴァンスで描いた最後の絵となった。

この絵の糸杉は、自然の糸杉とは異なり、大きくうねり、彼の苦悩と不屈の精神がせめぎ合っているようです。

 

後期印象派を代表するセザンヌとゴッホは共に、このプロヴァンスで大きな転機を得た。

 

 

アルルについて

紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し,古代においてはローマ帝国属州の中心であった。

4世紀以降、キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ,6世紀には大司教座の地位を獲得した。

10世紀アルル王国の首都になり、プロバンス伯領に従属する13世紀中頃まで独立を守っていた。

円形競技場、野外劇場、公衆浴場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、「ガリアのローマ」と呼ばれる。

またサン・トロフィーム教会は正面および回廊の石像彫刻で知られ、その豊かさはプロバンス随一です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 10: 古都エクス・アン・プロヴァンス


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今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。

ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。

またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ

 

 

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< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >

 

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。

 

 

上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。

エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。

また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。

黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。

赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。

これらの地名は彼の画題に出てくる。

 

下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。

徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。

この間、12:00に始まり、12:40で終わった。

ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。

私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。

 

 

 

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< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >

 

上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。

 

中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。

 

下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。

 

彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。

そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。

 

 

町の散策

旅行3日目、5月19日(金)。

素晴らしい天気でした。

 

 

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< 4. ミラボー通りを進む >

 

上の写真: ミラボー通りを進む。

進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。

この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。

 

下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。

 

 

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< 5. ミラボー通り >

左上の写真: 温水が湧き出る泉。

紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。

 

右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。

 

左下の写真: 地図の1番。

セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。

 

右下の写真: 地図の2番。

ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。

私達はこの建物の左の道を入って行った。

 

 

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至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。

陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。

 

 

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< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >

 

魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。

 

 

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< 8. 市庁舎広場 >

 

上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。

 

下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。

広場は凄い人出でした。

 

 

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< 9. 大学と大聖堂 >

 

上の写真: 地図番号4.

セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。

 

下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。

彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。

 

 

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左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。

 

右の写真: 通りの建物を見上げた。

柱の彫刻が往時を偲ばせる。

 

 

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< 11. 昼食で入ったレストラン >

 

上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。

看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。

注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。

出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。

店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。

 

 

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< 12. レストランの中から >

 

フランスで初めてテラスで食事をした。

周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。

 

 

 

 

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< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >

 

ほんとうにこの町は賑わっている。

観光のメッカなのだろう。

 

 

 

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< 14. ロトンドの噴水 >

 

こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。

次はアルルに向かう。

 

 

エクス・アン・プロヴァンスについて

紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。

これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。

この山は、この町の守護神とみなされた。

 

4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。

その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。

12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。

1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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フランスを巡って 9: ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め


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今日は、バスの車窓から見たプロヴァンスの景色を紹介します。

コートダジュールの海と崖とは異なるのどかな山野が広がっていました。

青い空に、白い雲が流れる南仏の絶景です。

 

 

ニースを発ってエクス・アン・プロヴァンスまで

旅行3日目、5月19日(金)、9:20頃ニースを発ち、エクス・アン・プロヴァンスに到着したのは12:00でした。

西に向かって走って行くうちに、10:00頃には快晴になりました。

走行距離は178kmで、途中1回、行程の中ほどで休憩しました。

走って行くと、徐々に低い山々の間に平野や畑が広がって行きます。

 

エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌの出身地であり、晩年を過ごした所でした。

途中、車窓から彼がよく描いたサント・ヴィクトワール山を見ることが出来ます。

 

 

 

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< 2. プロヴァンスと走行ルート、上が真北です >

 

上の地図: プロヴァンス全体を示しています。

この地域は、西にローヌ川、北と東にアルプス山脈、南に地中海によって区切られている。

また東でイタリアと国境を接している。

 

下の地図: 青線は今回走行したルートです。

 

 

 

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< 3. 10:00、10:10撮影 >

 

以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

 

 

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< 4. 10:40撮影 >

 

上の写真: 休憩で立ち寄った所。

ここはちょうど中間ぐらいにあり、高速道路にあるガソリンスタンドとコンビニです。

 

下の写真: 休憩した所からの眺め。

この山系はサント・ヴィクトワール山とは異なり、それよりは東南にあります。

 

 

 

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< 5. 10:50~11:05撮影 >

ここまで来ると、ワイン用のブドウ畑が増えて来ます。

フランスを縦断していくと解るのですが、この辺りのブドウ畑は区画が小さいようです。

またブドウの木の背丈が低い。

 

 

 

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< 6.11:10頃撮影 >

 

 

 

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< 7. 11:30頃撮影 >

 

麦畑でしょうか?

 

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上の写真: 高速道路沿いに今を盛りに咲いていた黄色い花。

この花はコートダジュールからプロヴァンスの道路沿いでよく見ました。

 

下の写真: 11:35頃撮影。

 

 

 

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< 9. サント・ヴィクトワール山 >

 

11:35~11:50撮影。

 

この山はバス進行方向の右に見えます。

この山は全長18km、最高点は1011mです。

石灰岩の山で荒々しく、私には美しい山とは思えないのですが、この地域では一際映える山には違いありません。

 

残念ながらセザンヌが多く描いたこの山の絵は、下の写真の撮影位置よりもっと左に回り込んだ所から描いたようです。

つまり、彼はエクス・アン・プロヴァンスの郊外から見たのでしょう。

 

 

 

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< 10. セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山  >

 

 

上の絵: 「サント=ヴィクトワール山」、1886~87年。

 

下の絵: 「トロネの道とサント=ヴィクトワール山」、1896~98年。

 

セザンヌは1880年代から、それまでのパリ暮らしから故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻り制作を行った。

彼はパリ仲間(モネ、ルノワール、ピサロ)の印象派の技法に飽きたらなくなっていた。

 

 

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< 11. エクス・アン・プロヴァンスに到着 >

 

11:55頃撮影。

上の写真: 町に入って来ました。

下の写真: 中心部に近い鉄道の駅。

 

この日は、この後、ローヌ川沿いのアルルを観光し、さらに上流のアヴィニヨンに向かい、宿泊します。

 

これまでの景色とローヌ川沿いの景色はまた異なります。

その違いはゴッホの絵に現れています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 8: 大リゾート地のニース


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< 1. 小雨降るプロム―ナド・デザングレの朝 >

 

 

今日は、フランス最大のリゾート地ニースを紹介します。

エズとモナコに続いてコート・ダジュールの目玉の観光になります。

早朝は小雨が降っていたが観光の途中から止み、やがて快晴になった。

 

 

 

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< 2. ニースの地図、共に上が真北 >

 

上の写真: ニース観光を終えて、Sからバスに乗り青線のルートで次の観光地に向かった。

 

下の写真: ニースで観光した場所。

ホテルからバスでSまで行き、赤線に沿って徒歩観光し、Rからバスに乗り、次の観光地に向かった。

青線はバスのルートです。

 

 

ニースの観光

2017年5月19日(金)、旅行3日目です。

ホテルを8:00に出発し、10分後には徒歩観光を始め、9:10過ぎにはバスに乗りました。

観光したのはニースのほんの一部に過ぎません。

 

 

 

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< 3. 朝のニース >

 

上の写真: 6:30頃のホテル近く。

 

下の写真: ホテルからのバスより。

 

 

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上の写真: マセナ広場、地図のM。2枚共、バスからの撮影。

中央の通りがジャン・メドサン通りで、奥が北側、私達のホテル側です。

 

中央の写真: マセナ広場の海側の噴水。

 

下の写真: 旧市街地と海岸の間にある小さな公園。

この季節、フランス各地で花が咲いていました。

 

 

 

 

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< 5.プロム―ナド・デザングレ >

 

せっかくのコート・ダジュール(紺碧の海岸)とプロム―ナド・デザングレ(英国人の散歩道)が厚い雲と小雨で台無しでした。

それでも、その大きさと林立するホテル群から賑わいを想像することが出来ました。

以前、スペインのマラガで見た紺碧の海岸が目に浮かびます。

散歩する人やジョギングする人、サイクリングする人が行きかっていました。

 

 

 

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< 6. 印象に残ったもの >

 

左上の写真: 海岸沿いの建物の鎧戸。

フランス南部ではこのような鎧戸が必ず窓に付いていました。

多くは古びた木製で、強い陽射し除けだそうです。

 

右上の写真: サレヤ広場から海岸に通じるトンネル。

 

下の写真: サレヤ広場の海側レストラン街の屋上への階段。

屋上には行けませんが、踊り場から次の写真を撮りました。

 

 

 

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< 7. 旧市街のサレヤ広場、地図のSa >

 

上の写真: 踊り場から西側を望む。

奥が旧市街のサン・フランソワド・ポール通り、右手にサン・フランソワド・ポール教会の鐘楼が見える。

 

下の写真: 踊り場から東側を望む。

サレヤ広場の周囲をパステルカラーの建物が囲み、奥には城跡公園の丘が見える。

一番左側のカーキ色の建物はミゼリコルド礼拝堂で1740年のバロック建築です。

 

ここで少し驚いたことがありました。

ドイツの哲学者ニーチェの名を冠したテラスがこの城跡公園にあると後で知りました。

実は紹介していなかったのですが、エズ村の入口近くに「ニーチェの散歩道」の標識があり、海岸までの急峻な山道だそうです。

それを聞いた時は信じていなかったのですが、ニーチェは病気療養のために夏はスイス、冬はイタリアやフランスのここニースやエズで過ごしたことがわかりました。

 

 

 

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< 8.サレヤ広場の市 >

 

妻と期待して花市の自由時間を楽しもうと8:30頃に乗り込んだのですが、まだ店開きを始めているところで、少し拍子抜けでした。

本来は6:00から開いているはずなのですが、雨のせいかもしれません。

それでも果物とこちら名産のお菓子を買い、後で食べることが出来きて満足でした。

 

この市は長さ250mの広場にテント張りの店が3列びっしりと並んでいました。

店の多くは花、お菓子、果物、野菜で、土産物なども売っていました。

困ったのは公衆トイレが閉まっていたことで、フランス旅行ではトイレの場所をいつも把握しておかなければなりません。

無ければカフェなどで借りなければなりません。

ツアーの観光中は添乗員が前もって教えてくれますが、自由散策では注意が必要です。

 

 

 

 

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< 9. サン・フランソワド・ポール通り >

 

上の写真: 右手にサン・フランソワド・ポール教会の正面が見える。

 

下の写真: 中央の建物がオペラ座です。

 

この通りを抜けると二本の道路に挟まれた大きく長いアルベール1世公園に出ます。

ここからバスに乗り、西に向かって次の観光地に向かいました。

 

 

 

 

 

 

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< 10. 高級ホテルが並ぶ海岸沿いの道プロム―ナド・デザングレから >

 

以下の写真はすべてバスの車窓からの撮影で、地図の青線上からです。

 

上の写真: 1913年創業の5つ星のホテル・ネグレスコです。

2016年7月、84名の死者を出したニーストラックテロ事件はこの賑わう海岸の通りで起こりました。

 

下の写真: これらのホテルや別荘群は海岸に沿って5kmも続いています。

西にいくほどモダンな建物になって行きます。

 

 

 

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< 11. ヴァール川を越えて西に走る >

 

川を渡ったのは9:40頃で、最後の写真のように20分も走るとほぼ快晴になりました。

悔しい!!

しかし、この後、当初の長期天気予報が外れ、素晴らしい天気と強い陽ざしに見舞われました。

 

こうしてコート・ダジュールの三つの観光地を後にし、これから陽光溢れるプロヴァンスを2日かけて4つの観光地を訪れます。

 

 

ニースについて

ここは人口34万の地中海に面する世界的な保養地です。

これから訪れるプロヴァンスと異なり、北にアルプスの山々を控え、南仏特有の強風から守られている。

 

ニースは紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、古代には交易植民都市ニカイアとして知られていた。

その後ローマ人に占領され、その後支配者が何度もかわり、多くの戦争に苦しめられた。

中世にはプロヴァンス伯領に属し、その後フランスに帰属した。

また近世にはエズを要塞化したサヴォイア公国やスペインに帰属した。

1860年、サヴォイア公国の後継国(サルデーニャ王国)がイタリア王国の成立をフランスに承認してもらうため、再びニースはフランスに割譲され、今日に至る。

 

この結果、この温暖で気候が安定しているニースが外国人(特にイギリス人)の避寒地として発達し、多くの王侯貴族や文人が訪れるようになった。

この中に19世紀後半に活躍したニーチェがいた。

そして、第2次大戦後はバカンス客で賑わうことになった。

 

 

次回に続きます。 

 

 

 

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フランスを巡って 7: 旅行2日目のまとめ


 

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< 1. ニースのノートル・ダム教会 >

 

 

今日は、旅行2日目、5月18日(木)の他の体験を紹介します。

この日はニースの空港に着いてから、エズとモナコを観光してニースに戻り、中心街のホテルに泊まりました。

時間を追って紹介します。

 

 

 

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< 2.2日目のコースの地図 >

 

上の地図: 青線が行きのバスルートで、赤線がニースに戻るルートです。

上が真北です。

1: コートダジュール空港。14:00頃に到着。

2: エズ村。

3: モナコ。

4: ニース。私達のホテルは中心街にある。

空港からモナコまでの直線距離は19kmです。

 

 

 

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< 3. 空港の様子 >

 

他の空港と違うと感じたのは、出国ゲートで待つツアー関係者やタクシー運転手の多くが黒のスーツを着ていることでした。

 

 

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< 4. 空港からエズ村までの景観 >

近代的なビルが並ぶ空港周辺を過ぎると平野部は無く、起伏のある丘陵地帯の至る所に民家が建っている。

 

 

 

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< 5. エズ村からモナコまでの景観 >

 

バスは断崖絶壁の道を縫うように走った。

 

 

 

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< 6. ニース中心街に向かう >

 

上の写真: モナコから戻って来て、眼下にニースが見えて来た所。

下2枚の写真: ほぼニースの中心部。

 

 

 

 

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< 7. ジャン・メドサン通り 1 >

 

このメインストリートにあるホテルに20:00頃に着いて、夕食のレストランに歩いて向かう時に撮影した。

 

上の写真: ノートル・ダム教会。20:40撮影。

日没まで、まだ十数分ある。

 

下の写真: 今回最初の地元の人の笑顔です。

何処に行っても、フランス市民に親し気な対応して頂いた。

 

 

 

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< 8. ジャン・メドサン通り 2 >

 

この通りにはトラムが走っている。

この通りにはデパートや大型スパーがあるのですが、この時間には皆閉まっていました。

 

 

 

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< 9. レストランで夕食 >

 

今回の旅行で、初めてフランスで食べる食事です。

左の料理はニース風サラダです。

今回の旅行の料理はすべて三品で、最後がデザートでした。

 

 

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< 10. レストランからホテルへ帰る途中 >

 

22:00の撮影です。

 

この季節の旅行は非常に日が長いので、朝も夜もホテル周辺の街歩きが出来る利点がある。

しかし、いい気になってがんばっていると疲れてしまった。

また、夜景やライトアップを撮るには10:00~10:30を過ぎないと行けないので、これがまた疲れます。

 

こうしてフランス1泊目の夜は更けて行きました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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フランスを巡って 6: 小国モナコ


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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。

私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。

ここは旧市街と宮殿などがあるところです。

 

 

モナコ

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。

そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

 

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

 

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。

今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。

添乗員は大勢を従え、苦労していました。

しかし、その後は順調な旅となりました。

 

 

 

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< 2。 モナコの地図 >

 

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。

上が真北です。

王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。

私達は左側のエズEzeから来ました。

 

中央の地図: モナコ公国の全景。

方角を変えています。

赤矢印がモナコヴィルです。

 

下の地図: モナコヴィルを拡大。

Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。

地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。

赤線は徒歩ルートです。

奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。

黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。

 

 

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< 3。 眼下にモナコ、バスから >

 

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

 

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。

 

 

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< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

 

上の写真: モナコヴィルの下。

 

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。

 

 

 

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< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

 

上の写真: 海洋博物館と水族館。

地図のSの直ぐ近く。

 

下の写真: 王家親族の住居。

 

 

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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

 

下の写真: モナコ大聖堂。

古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。

 

 

 

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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。

左中央は裁判所。

 

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。

 

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< 8。 大公宮殿 >

 

上の写真: 大公宮殿。

陽が山際に迫っている。

 

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。

ここから湾が一望に見渡せる。

 

 

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< 9。 展望台からの眺め >

 

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。

湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

 

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。

標高は60mぐらい。

 

 

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< 10。 広場から戻る道 >

 

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。

モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。

 

 

 

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< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

 

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。

不思議の一言に尽きる。

 

 

モナコの不思議

モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。

歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。

半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

 

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。

1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。

現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

 

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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読売新聞は死んだに等しい


Source: 読売新聞は死んだに等しい

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フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ


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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。

このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。

この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか

 

 

エズ村

訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。

ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。

エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。

 

 

 

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< 2. エズの地図 >

 

上二つの地図: 地図の上が真北。

赤矢印がエズ村の位置です。

 

下の地図: エズの観光地図。

黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。

エズの頂上は427mある。

雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 

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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

 

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。

ここをくぐると村に入る。

 

 

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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。

所々に踊り場のような小さな広場がある。

 

 

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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

 

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

 

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

 

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。

平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。

 

 

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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。

クルーズ船も見える。

 

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。

サボテン公園は1949年に造られた。

元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。

 

 

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上の写真: 要塞跡の頂上。

ほぼ360度、見渡せる。

 

下の写真: 村の教会を見下ろした。

その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。

 

 

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< 8. 先ほどの教会 >

 

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。

エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。

私の写真では確認できなかった。

かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。

 

 

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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

 

下の写真: 下っている。

 

 

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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

 

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。

西側を見ている。

 

 

エズの歴史

観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。

それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。

帰国後、この地域に何があったかを調べました。

 

大きな流れを見ます。

エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。

紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。

しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。

この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

 

エズについて

973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

 

1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。

サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

 

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

 

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。

こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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フランスを巡って 4: 古都ボーヌ


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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。

ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。

この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。

 

 

 

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< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

 

上が真北です。

城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。

私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。

黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。

青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。

 

 

ボーヌの町

 

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上の写真: バスのフロントガラス越しに。

ボーヌの旧市街に向かっている。

 

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。

 

 

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上の写真: 施療院オテル・デュ―。

下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。

この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。

 

 

 

 

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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。

No.2の地図の赤線部分です。

 

 

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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。

No.2の地図の青線上で撮影。

 

 

 

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No.8の下の写真と同様。

古い堡塁や城壁、門が残っている。

 

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丘の上のレストランに向かう途中の風景。

旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。

ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。

 

 

ボーヌとブルゴーニュ

後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。

この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。

 

 

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< 11. ボーヌの歴史 >

 

 

左上の地図: フランスのワイン産地。

 

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。

一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。

二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。

上からシトー会、下ってクリュニー会です。

 

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。

 

 

 

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A: ブルゴーニュ公国の紋章。

B: イエスとワイン。

C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。

D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。

 

 

ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。

フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。

一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

 

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。

しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

 

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。

10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。

これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。

だが、この繁栄は堕落を生んだ。

 

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。

これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

 

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。

キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

 

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。

そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。

 

 

いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。

 

 

 

注釈1

フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。

中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。

 

 

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フランスを巡って 3: セーヌ川クルーズ


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今日は、セーヌ川クルーズを紹介します。

乗船するまでは期待していなかったのですが、始まると気分が高揚していきました。

思い出深いパリとなりました。

 

 

クルーズの概要

 

 

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< 2. クルーズの航路 >

 

上の地図: グーグルアースの画像。上が真北です。

下の地図: 主な建物と航路を示します。

 

クルーズはエッフェル塔の下の埠頭Sから始まり、北側のサン・ルイ島を過ぎた所Rで折り返し、戻って来ます。

行きは黄線で、帰りは赤線です。

所要時間は約1時間、30分毎出航。

 

 

クルーズの始まり

10日目、5月26日(金)、20:20頃に出航しました。

写真は撮影時間順に並んでいます。

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

いよいよ出航。

この日は陽射しがきつく暑かったが、夕暮れになると過ごしやすくなり、船が走り始めると川風が心地良かった。

寒くはなかった。

 

下の写真: 結婚披露宴で貸し切られているクルーズ船が数隻あった。

人々は華やかで如何にも楽しそうで、すれ違う時、私達も互いに手を振り、喜びを分かち合った。

 

 

 

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上の写真: すれ違うクルーズ船。

 

下の写真: 私達のクルーズ船。

私は2階デッキの中央で楽しんだ。

進行方向の右側にオルセー美術館が見える。

 

 

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< 5.ノートルダム寺院 >

 

上の写真: 左側はシテ島。

橋の左奥にノートルダム寺院の正面が見えて来た。

 

下の写真: ノートルダム寺院の真横。

 

この時、海外からの旅行客と触れ合うことが出来ました。

 

私達のツアー仲間が、船上である外国人夫婦の写真を撮ってあげました。

するとその外国人男性が、私に「何処の国ですか?」と英語で聞いてきました。

私が「日本」と答えると、彼の奥さんが「東京?」と聞いてきました。

私は「大阪」と答え、逆に、その男性に「何処か?」と聞くと、彼は「カリフォルニア」と答えました。

私は「ロサンゼルス? サンフランシコ?」と聞くと、「サンフランシコ、ナパ(?)」と答え、さらに「ワイン農家」と付け加えてくれました。

私は「ワインで有名な所」(ナパはカリフォルニアワインの産地)と返しました。

 

私は奥さんに「インド?」と尋ねましたが、「イエス」の後の言葉を聞き取ることが出来ませんでした。

最後に握手をしました。

 

その風貌や年齢から察して、おそらくはインドからアメリカに移住し、ワイン栽培で成功し、夫婦でフランス旅行に来ていたのだろう。

苦労の末に成功を得た落ち着きのある夫婦に思えた。

 

今回の旅行では、様々な場面で移民と移民の国を実感できた。

 

英語が出来れば、もっと語り会えるのだが・・・。

 

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上の写真: 河岸には本当にたくさんの人々が春の宵を楽しんでいました。

 

中央の写真: この一角で集団になってダンスが興じられていた。

この並びでは、数か所で異なるダンス、社交ダンスなどが演じられていた。

 

下の写真: ちょうどサン・ルイ島を過ぎた所で、これから左旋回して戻っていくことになる。

前の橋の右側に明日散策するアラブ世界研究所のビルが少し見える。

 

 

 

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< 7. 宵を様々に愉しむ人々 >

 

若いグループが多いのですが、若い男女のカップルや年配の夫婦、様々な人々がラフなスタイルで談笑していました。

その服装から彼らは旅行客ではなく、市民のようでした。

またその顔立ちから察するに、まさに様々な国からの移民の国を彷彿させるものでした。

彼らが飲んでいるのはビールではなくワインでした。

如何にもフランスらしい。

 

このクルーズが最高に楽しめたのは、彼らの多くがクルーズ船の私達に笑顔で手を振ってくれたからでした。

それがずーっと続くのです。

まさにセーヌ―川一体が世界の人々の共感の場になっていました。

 

私は各地での自由散策の度に、多くのフランス人の親切と笑顔に出会った。

まさにフランス人の気安さが最高に盛り上がった時でした。

 

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

サン・ルイ島を抜けたところです。

 

下の写真: 夕陽が水平線に近づいて来た。

 

 

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上の写真: 後ろを振り返った。

右側はシテ島で、写真中央に見える建物はコンシェルジュリー(革命時代の牢獄)です。

 

下の写真: アレクサンドル3世橋をくぐって、振り返った。

 

 

 

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この日の日の入りは21:39だが、21:17のエッフェル塔は茜色に輝いて見えた。

 

 

いずれパリの別の顔を紹介します。

 

 

 

 

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フランスを巡って 2: モンサンミッシェルの朝昼晩


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撮影方向 C

撮影時間 5月24日 21:49

 

 

今日はモンサンミッシェル全景を紹介します。

モンサンミッシェルが太陽の動きに連れて七変化して行きます。

撮影情報をお伝えします。

 

 

撮影情報

 

 

 2無題

< 2. モンサンミッシェルの位置 >

 

二つの地図共、上が真北になります。

赤い矢印がモンサンミッシェルです。

 

 

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< 3. 撮影位置 >

 

上が真北ですので、ほぼ右から陽が登り、ほぼ左に陽が沈みます。

 

撮影日、5月24日の日の入りは21:52分。

撮影日、5月25日の日の出は6:12分

 

三つの赤い三角が固定の撮影地点で、黄線は撮影方向です。

Cはモンサンミッシェルと対岸を結ぶシャトルバスの終点近くで、連絡橋の上です。

シャトルバスは無料で、深夜まで頻繁に出ている。

Dはクエノン河口ダムの上で、ホテルから徒歩8分ぐらい。

CとDでの撮影は短い三脚を手摺の上に置いて行いました。

Eは宿泊ホテル近くの道で、大規模駐車場の北側になります。

白の矢印は宿泊ホテルの「SAINT AUBERT」です。

 

AとBは正午頃、モンサンミッシェルに向かう途中のバスの車窓から撮影した方向です。

 

 

モンサンミッシェル全景写真

撮影時間順に並んでいます。

 

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撮影方向 A

撮影時間 5月24日 12:53

 

モンサンミッシェルに到着した時は、非常に厚い雲に覆われていましたが、14:30過ぎ頃から雲が徐々に無くなって行き、夕方には快晴になりました。

 

 

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撮影方向 B

撮影時間 5月24日 12:55

 

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 13:39

 

 

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撮影場所 C

撮影時間 5月24日 21:46

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:27

 

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撮影場所 D

撮影時間 5月24日 22:32

 

 

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撮影場所 E

撮影時間 5月25日 6:39

 

 

 

撮影の反省点

Cでの撮影は、夕陽がモンサンミッシェルの裏側を照らす為、赤味を帯びた光景を撮れなかった。

昼は暑いが、夜は海風があり寒いので注意してください。

おそらくDでの撮影の方が良い写真を撮れたように思う。

 

 

いずれモンサンミッシェルを詳しく紹介します。

 

 

 

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