地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 29: ローマ3、終わり


 

1

< 1.コンスタンティヌスの凱旋門、4世紀  >

 

 

今日は,この旅行記の最後になります。

ローマを紹介して、この旅行を簡単に振り返ります。

 

 

 

 

2

< 2.サンタンジェロ城、2世紀 >

 

 

 

 

 

 

3

< 3.テヴェレ川沿い >

上の写真: テヴェレ川の向かいにアヴェンティーノの丘が見える。

ここはローマの発祥の地となった七丘の一つで、5世紀に遡る教会がある。

 

中央の写真: このテヴェレ川の右岸がアヴェンティーノの丘。

下の写真: 「真実の口」の彫刻があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

 

 

 

 

4

< 4. パラティーノの丘 >

上の写真: 手前の広場は紀元前の戦車競技場跡、チルコ・マッシモ。

その後ろはパラティーノの丘で、最も歴史が古く、ローマ建国神話に繋がる紀元前8世紀に遡る。

この丘の奥に古代ローマの遺跡で有名なフォロ・ロマーノがある。

 

下2枚の写真: 上記の拡大。

 

5

< 5.コロッセオ >

 

 

あまりにも有名な円形競技場コロッセオです。

左にコンスタンティヌスの凱旋門がある。

 

 

 

 

 

6

< 6. コロッセオとフォロ・ロマーノ >

 

コロッセオの向こうにフォロ・ロマーノが見える。

 

 

 

 

7

< 7. チビタベッキアに向けて 1 >

 

いよいよ帰国の途に着きます。

チビタベッキア港からジェノバに戻り、ミラノから空路で帰国です。

 

 

 

8

< 8.チビタベッキアに向けて 2 >

 

この日は折しも曇天で、旅行の終わりがよりわびしくなりました。

 

 

ローマに思う

イタリアは私にとって古代ローマから中世に至るヨーロッパ史を知るには重要な所と考えていました。

しかし、今回ミラノ、ジェノバ、ローマを観光して、その思いは萎えてしまいました。

特に、ローマの中心部の街並みを見るにつけ、すべてが古いままのたたずまいであることに不安を感じた。

 

これでは観光地としては良いが、発展への妨げになるのではないかと思えた。

 

 

私は人類の未来を知る為に、以前は先史から古代史を理解することが大事だと考えたが、今は直接的に中世以降の世界の紛争や戦争に関心があります。

その意味で、私にはローマが遠い存在になってしまったようです。

 

 

 

 

 

9

*9

 

この旅行を終えて

 

この15日間の旅行、内12日間のクルーズは、私達夫婦にとって貴重な経験でした。

出発前、初めてのことで色々不安はあったが添乗員のおかげで無事、かつ充分な満足感を持って終えることが出来た。

 

数々の思いでが蘇ります。

イタリア3都市、スペイン2都市、モロッコ1都市、大西洋の2島を観光した。

冬の地中海と大西洋を経験し、大航海時代の始まりを告げる2島を見た。

この島では、大自然を感じることが出来た。

アフリカのイスラム圏であるカサブランカを体験した。

二度目のスペインで、ガウデイとピカソに触れることが出来た。

クルーズ船内の生活をエンジョイし、クルーズならでは街歩きを楽しんだ。

様々な遺跡、景色、洋上の朝日夕日を写真に撮った。

そして、海外の人々と船内や町歩きで触れ合うことが出来た。

 

すべて貴重で楽しい思い出になりました。

 

 

 

 

 

 

10

*10

 

 

長らくこの旅行記にお付き合い頂きありがとうございました。

 

10月には、ロシア、バルト三国、ポーランドを巡る旅に行きますので、報告することを楽しみしています。

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 28: about terrorism 8 : terrorists and a conscientious objector


中東、戦争と平和 28: テロについて 8: テロ犯と兵役拒否者

 

1

< 1. a suicide bombing in Israel >
< 1.イスラエルでの自爆テロ >

 

We get to the heart of 3 youths feeling desperate in Palestine and Israel.

今日は、パレスチナとイスラエルの3人の若者の必死の思いに迫ります。

 
Farewell note of a suicide bomber
A youth performed a suicide bombing in a route bus of Jerusalem and had written this note three days ago.


…….
I feel blessed in becoming a member of Hamas being a tolerant organization. (annotation 1)
……
First I am murdered in a bomb, and I feel blessed to be able to murder our enemy at the same time.
This is not because I want to murder but because I wish Palestinian live a life in common with other race.
…….
My father and mother, and all the relatives, I was not forced to go ahead this way.
…….
I pray to God for leading my family to heaven through me on the day of judgment.
…….
Please don’t feel sorrow at my departure, and don’t cry.
If God chooses it, we may meet soon in heaven. ”
(annotation 2)

He learned Islam in a graduate school and additionally aimed at lawyer.
However, he expected the Liberation of Palestine, and murdered 20 private citizens by this incident.

Why did he perform this cruel suicide bombing?

 
ある自爆犯の遺書
この遺書はエルサレムの路線バスで自爆テロを行った若者がその3日前に書いたものです。

「・・・・
ハマス(注釈1)という寛大な組織の一員にして下さり、・・・幸せに思います。
・・・・
まず私が爆弾に殺され、同時に敵を殺せることを幸せに思います。
私は殺人がしたいからではなく、パレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。
・・・
お母さま、お父さま、親戚のみなさん、私はこの道を進むことを強制されたわけではありません。
・・・
最後の審判の日、神が私を通じて家族を天国に導くことを、神に祈ります。
・・・
私の旅立ちを、悲しみ、泣かないで下さい。
神が望まれるならば、私達は近いうちに天国で会えるでしょう。」
(注釈2)

彼は大学院でイスラムを学び、さらに法律家を目指していた。
しかし、彼はパレスチナ解放を望み、この事件で民間人20人を殺した。

なぜ彼は残酷な自爆テロを行ったのだろうか?

 

 

2

< 2. Lebanese refugee camp in where battle continues. in July 2007 >
< 2. 戦闘が続くレバノンの難民キャンプ、2007年7月 >

 

Family of a terrorist
A Japanese photojournalist was making a book of photographs of a Palestinian girl.
He visited her family after four years.
Her house in a camp was destroyed by bombardment, and this family lived at a relative’s house in Beirut.


Her mother protested against right wing militiamen who had ruled the camp, so she was hit with a gun, and underwent major surgery.
Her father received a cannonball of Israeli military and was operated on.
Her eldest brother had worked in a factory in the camp but he was arrested by Israeli military.
He was tortured and ousted, then he went to Africa, and has suffered heavy disease.
Her second brother died during a battle in the camp.
The husband of her eldest sister was hit by bomb fragments of Israeli military, and he has suffered total paralysis.
Her uncle received a bullet of radicals to eyes, but narrowly escaped death.
Her younger brother was killed in bombardment. “
(annotation 3)

There was not her older sister (18 years old) here.
A small group of guerrillas that she led entered Israel, and she was caught by Israel after a battle.
She received torture in a prison, but seems to still live.

Many people may think so.
“I can understand her sorrow and hatred, but why does she fight?
Because, there is surely the retaliation of Israel that is much more severe and indiscriminate.”
Maybe these youths merely be hell-bent on revenge?

These two terrorists of Palestine would maybe think as mentioned below.
” At a crisis of destroying our country, we don’t care our own life.”

 

あるテロ犯の家族
日本のフォトジャーナリストがパレスチナの少女の写真集を作っていた。
彼は4年ぶりに彼女の家族を訪れた。
この家族は、キャンプの住まいを砲撃で破壊され、ベイルートの親戚の家に居候していた。
「母親はキャンプを支配した右派民兵に抗議して、銃で殴られ大手術をした。
父親はイスラエル軍の砲弾を受け手術した。
長男はキャンプの工場で働いていたが、イスラエル軍に逮捕され、拷問され、追放されてアフリカに渡り重い病気になった。
次男はキャンプでの交戦中に死亡した。
長女の夫は、イスラエル軍の爆弾の破片が当たり全身不随になった。
叔父は過激派の銃弾を目に受けたが、命を取り留めた。
弟は爆撃で死んだ。」
(注釈3)

そこに彼女の姉(18歳)の姿はなかった。
この姉が率いるゲリラの小グループがイスラエルに進軍し、交戦の末、彼女は捕まった。
彼女は収容所で拷問を受けたが、まだ生存しているらしい。
この収容所は、国際赤十字もアムネスティも立ち入ることが出来ない。

多くの人は思うだろう。
「彼女の悲しみと憎しみは理解出来るが、なぜ戦うのか?
イスラエルのはるかに過酷で無差別な報復が返って来るのに。」
この若者達は単に復讐の鬼と化したのだろうか?

このパレスチナの二人のテロ犯の胸中にあるのは「亡国の危機にあっては、自分の命を厭わない」ではないだろうか?

 

 

3
< 3. Israeli high school students refused to do military service in 2014 >
< 3.イスラエルの高校生が兵役拒否で投獄、2014年 >

 

a statement of a conscientious objector

“……
Our Israeli nation has extended a pure Jewish residential area by force since the founding of the country.
But I cannot understand how a security of the area becomes supported strongly.
I cannot understand how it is useful for our society to do attack being more cruel and large-scale than Palestinian terrorism, for suppressing the resistance of Palestine.
…..
The majority of Israeli people want to change such a situation.
…….
The Israeli military men and capitalists perform every thing to maintain their authority.
………
Our true enemies are these people.
Jew and Arab should confront them together.”
(annotation 4)

This is a statement that third-year high school students in Israel sent to the prime minister when they refused to do military service.
This youth seems to have understood a sentiment of the above-mentioned terrorist.

 
ある兵役拒否者の声明文

「・・・・
イスラエル国家が建国以来、力づくで造ることに固執している純粋なユダヤ人居住地域が、どのように我々の安全を強化するのか私は理解出来ません。
パレスチナのテロによる抵抗を抑圧するために、テロよりもさらに残酷で大規模な攻撃がどのようにして私の社会のためになるのか、私は理解出来ない。
・・・・
大多数のイスラエル国民が、このような事態を変えたいと望んでいます。
・・・
イスラエル軍人と資本家は権力を維持するためにあらゆることを行います。
・・・・
これらの人々が真の敵であり、・・・。彼らにこそ、アラブ人とユダヤ人は共に立ち向かうべきです。
・・・」
(注釈4)

これはイスラエルの高校3年生達が兵役拒否運動を行い、首相宛に出した声明文です。
この若者には前述のテロ犯の思いが通じているようです。

 

4
< 4. A boy throws a stone at an Israeli tank >
< 4.イスラエルの戦車に投石する少年 >

 

Afterword
From the times of the Ottoman Empire to the beginning of the 20th century, Christian, Jew, and Muslim had coexisted peacefully in same town Jerusalem of Palestine.
But this area was transformed into a horrific battlefield due to a large influx of Jewish settlers.

During the initial stage, the Palestinian side did not almost act terrorism to aim at unrelated private citizens and foreigners.
In addition, it was said that the suicide bombing acts counter to Islam, but it gradually came to be allowable for jihad driving out the invader.

After all, as war escalates, growing inequality of military power differentiated how to fight between both groups.
This continues the next time.

 
あとがき
オスマン帝国の時代から20世紀の始めまで、パレスチナではキリスト教徒、ユダヤ教徒、ムスリマは同じ町エルサレムで平和に共存していた。
それが修羅場と化したのは、ユダヤ人の大量入植後のことです。

初期には、パレスチナ側は無関係な民間人や外国人を狙うテロをほぼ行わなかった。
また自爆テロはイスラム教に反するとされていたが、徐々に侵略者を追い出す聖戦の為なら可とされるようになった。

結局、戦争がエスカレートするにつれ、軍事力の差が両集団の戦いの違いになった。

次回に続きます。

 

注釈1
「ハマス」(HAMAS)は,1987年12月,パレスチナ・ガザ地区で発生したインティファーダを契機に反イスラエル運動がパレスチナ全域に拡大した際,同地区の「ムスリム同胞団」の最高指導者シャイク・アフマド・ヤシン(2004年にイスラエルによる掃討で死亡)が,武装闘争によるイスラム国家樹立を目的として設立したスンニ派武装組織。

注釈2
引用要約、「正直な気持ちを話そう」p141より。

注釈3
引用要約、「パレスチナ」p96より。

注釈4
引用要約、「正直な気持ちを話そう」p95より。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 28: ローマ 2


 1

< 1. トレビの泉 >

 

今日はローマの2回目で、トレビの泉とバチカンを紹介します。

 

 

2

< 2. 多くの彫刻 >

 

一番上左の写真: トリトーネの噴水。ベルニーニ作、17世紀。

一番上右の写真: 十字路の建物の角にあった彫刻。

下から2枚の写真: テーヴェレ河にかかるポンテ ・ ヴィットーリオ ・ エマヌエーレ 2世橋、1886年。

 

 

 

3

< 3. 様々な建物 >

一番上の写真: ヴェネツィア広場のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂、1911年。

上から2番目の写真: テーヴェレ河に建つサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デイ・フィオレンティーニ教会。16世紀。

一番下の左: トラヤヌス市場の傍にある戦士の塔。初期建築は12世紀。

 

 

 

4

< 4. トレビの泉 >

 

古代ローマ時代の泉を改造して1762年完成。

中央に水を司るポセイドーンが立ち、左に豊饒の女神デーメーテール、右に健康の女神ヒュギエイアが配置されている。

 

多くの人だかりで、好位置で写真を撮るのは困難でした。

 

 

 

 

 

5

< 5. バチカン市国 >

上2枚の写真: カトリックの総本山サンピエトロ大聖堂。

下の写真: サンピエトロ大聖堂からサンピエトロ広場を見る。

 

 

 

 

 

6

< 6. いよいよ入場 >

上の写真: サンピエトロ広場のオベリスク。

下の写真: サンピエトロ大聖堂の正面から入場。

 

 

 

 

 

7

< 7. サンピエトロ大聖堂内1 >

 

 

 

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< 8. 大聖堂内の美術品 >

上の写真: ミケランジェロのピエタ。1499年、高さ174cm、大理石。

下の写真: ラファエロの「キリストの変容」。1520年。

 

 

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< 9. 大聖堂内部2 >

 

 

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< 10. 大聖堂内部3 >

 

2本のビデオ映像、大聖堂内20秒、広場17秒です。

https://www.youtube.com/watch?v=UKeoEQzBKac

 

https://www.youtube.com/watch?v=lJlURVcxEuY

 

 

サン・ピエトロ大聖堂  

使徒ペテロの墓所上に建てられたギリシア十字プランを基本とし中央に壮大なドーム(直径42m)を架した盛期ルネサンス建築。

 

旧聖堂はローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって324年に創建された。

1452年教皇ニコラウス5世が改修に着手し,その没後工事は中断したが,教皇ユリウス2世が16世紀初めに工事を再開した。

その後、私達が良く知る芸術家が関わった。

ラファエロが1515年―1520年、ミケランジェロが1547年―1564年(大ドームを設計)、等と監督を務め,イタリア・ルネサンス最大の建築事業となり、1626年に完成した。

 

聖堂の前のサン・ピエトロ広場を囲む半円形の円柱回廊は1657年―1667年にベルニーニが建造。

 

 

ただただ巨大さ、壮麗さ、著名な作家による美術品の多さ、それと観光客の多さに圧倒されました。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

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Bring peace to the Middle East! 27: about terrorism 7 : Love and hate of Mossad


中東に平和を! 27: テロについて 7: モサドの恩讐

 

1

< 1. The bombing incident of a Hotel >
< 1. ホテル爆破事件 >

Why does the Israeli Mossad perform severe terrorism?
We can understand the weight of history and the sadness of the Middle East from the background.

イスラエルのモサドはなぜ苛烈なテロを行うのでしょうか?
その背景から、歴史の重みと中東の悲しみが伝わって来ます。

 

Two hawkish persons
The severe terrorism by Israel has two backgrounds, and it is divided between before and after the founding of Israel in 1948.

For example, a career of Dagan ( the director of Mossad) that I introduced the last time shows it.

He was born in Ukraine in 1945, but his families were almost killed by genocide of Jews ( pogrom and Holocaust) that swept across Soviet Union and Eastern Europe in those days.
He came over to Israel at last in 1950.

However, Middle East war that had already begun, so this area became a place of the battle with Palestine.
He as a soldier achieved distinction on anti-terrorism operation in Gaza Strip and Lebanon, and he as a guerrilla soldier was feared as “an emperor in the world of darkness”.

In this way, he was indispensable for Israel.

 

二人のタカ派
イスラエルの苛烈なテロには二つの背景があり、それは1948年のイスラエル建国以前と、それ以降に分かれます。

例えば、前回紹介したモサド長官ダガンの経歴にそれは現れています。

彼は、1945年にウクライナで生まれたが、彼の一族は当時、ソ連と東欧で吹き荒れていたユダヤ人虐殺でほとんど殺害された(ポグロムとホロコースト)。
彼はやっとの思いで1950年、イスラエルにやって来た。

しかし、既に始まっていた中東戦争により、そこはパレスチナとの攻防の地になっていた。
彼は軍人として、ガザ地区やレバノンにおいて対テロ作戦で功績を挙げ、ゲリラ戦士として「闇世界の帝王」として恐れられるようになった。

こうして彼はイスラエルに不可欠な人物になった。

 

2

< 2. Former prime minister of Israel Begin >
< 2. ベギン元首相 >

The Begin of a hawkish person (holding office 1977-1983) has a similar shadow.

He was born in Belarus ( at that time, a Poland territory) in 1913, but the family was murdered by Nazi.
He participated in Israeli terror organization Irgun in 1942 and became a leader afterwards.

This organization bombed a military headquarters (Jerusalem) of the U.K. that got the evidence of military struggle of Jewish Agency (annotation 1), and caused a catastrophe (annotation 2) in which 91 people were killed .
Because of this, the U.K. came to be cautious about the mediation for Palestine and left this area.

In 1977, he rallied small opposition parties and formed Likud Party, became the first prime minister of the right wing, and adopted a hard-line policy (territory expansion and respecting of Judaism) that formed subsequent Israel.
It shifted away from the reconciliation and coexistence with Palestine that Labor Party of previous ruling party advocated.

After the Fourth Middle East war, in 1979, he concluded a peace treaty with Egypt by a mediation of the U.S., and won Nobel Peace Prize

He showed his real ability as hawkish position afterwards.
In 1981, the Israeli air force bombed Iraqi nuclear sites suddenly, and he made a statement, “I never permit weapons of mass destruction development”.
The United Nations Security Council criticized it with one accord, but the Israeli people strongly supported it.

In the next year, the Israeli military invaded and attacked in Lebanon, and Lebanese Civil War intensified.
The Palestinian refugee slaughter (annotation 3) occurred by Lebanese militia that the Israeli military supported, and several thousand people were slaughtered in two days.
In the next year, he was criticized by people on the invasion and slaughter, and resigned.

 

 

タカ派のベギン元首相(在任1977-1983)にも同様の影があります。

彼は1913年にベラルーシ(当時ポーランド領)に生まれたが、家族はナチスに殺された。
1942年にイスラエルのテロ組織イルグンに参加し、その後リーダーとなった。

この組織はユダヤ機関(注釈1)の武力闘争の証拠を握ったイギリス軍司令部(エルサレム)を爆破し、死者91名の大惨事(注釈2)を引き起こした。
これにより、イギリスはパレスチナとの仲介に及び腰になり、この地から去ることになった。

1977年、彼は少数野党を糾合しリクード党を結成し、右派で初めての首相となり、その後のイスラエルの強硬路線(領土拡大、ユダヤ教尊重)を敷いた。
それまでの与党労働党が唱えるパレスチナとの融和・共存からの方向転換であった。

第4次中東戦争後の1979年、彼は米国の仲介でエジプトと平和条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞した。

その後、彼はタカ派の本領を発揮して行く。
1981年、イスラエル空軍は突然イラクの核施設を爆撃し、彼は「大量破壊兵器開発を許さない」との声明を出した。
国連安保理はこれを満場一致で非難したが、イスラエル国民はこれを大いに支持した。

次の年、イスラエル軍がレバノンに侵攻し、レバノン内戦は激化した。
この時、イスラル軍が加担したレバノン民兵によるパレスチナ難民虐殺(注釈3)が起き、2日間で数千人が虐殺された。
翌年、彼はこの侵攻と虐殺で国民の批判さらされ辞任した。

 

3
< 3. Palestinian refugee slaughter (annotation 3) >
< 3. パレスチナ難民虐殺事件(注釈3)>

 

What happened in the Middle East?
In early phase of the founding of Israel, the people supported an reconciliation with Palestine (the Labor Party), but became supporting the hawkish position (the Likud Party) before long.
It was associated with a tragedy which happened in the Middle East.

As an example, I introduce a rescue operation of the Mossad.
In a night of 1971, an Israeli naval missile boat went on sea of Syria through the Mediterranean Sea raged by bad weather, and anchored off a shore.
Three Mossad agents transferred from the missile boat to a rubber boat, then swam till the beach, changed clothes, and left for Damascus.

They put some Jewish young women and boys in a light truck attaching a canvas top, and left for same beach taking advantage of darkness of the night.
When they arrived it, sent a signal by a flashlight, then a rubber boat came to pick them up, and everybody was able to flee into Israel safely.

The rescue operation of a Jew from Syria was performed approximately 20 times in 3 years from 1970, and approximately 120 people became the Israeli person.

If the agents were caught locally, a torture and ghastly death waited for them.
It was performed in the strict confidence because it might endanger the family that stayed in Syria if their escape was known.

 
中東で何が起きたのか
イスラル建国の初期、国民はパレスチナとの融和派(労働党)を支持していたが、やがてタカ派(リクード党)を支持するようになっていった。
それは中東で進行していた悲劇と関わっていました。

一例として、モサドによる救出作戦を紹介します。
1971年、イスラエル海軍のミサイル艇が悪天候で荒れ狂う夜の地中海をシリアの海岸に向かい、沖で停泊した。
そして、三人のモサド工作員が、船からゴムボートに乗り移り、次いで泳ぎ、浜辺で服を着替えてダマスカスに向かった。

そこで幌をかけた小型トラックに幾人かのユダヤ人の若い女性と少年を乗せ、夜陰に乗じて海岸と向かった。
そこに着くと、懐中電灯で合図を送り、ゴムボートが迎えに来て、皆イスラエルに無事逃れることが出来た。

このシリアからユダヤ人を救出する作戦は1970年から3年あまりの間に約20回行われ、120名ほどがイスラエルの人となった。

工作員は、現地で捕まれば拷問と凄惨な死が待ち受けていた。
また逃亡したことが知れると、シリアに残った家族に被害が及ぶので極秘裏に行われた。

 

4

< 4.  Former prime minister Meir ordered the rescue operation >
< 4. この救出作戦を命じたメイア首相 >

 

5
< 5. Jewish refuge from the Arab countries >
< 5.アラブ諸国からのユダヤ難民 >

 

What made Israel more extreme?
From the old days, Jew took a role in foreign trade etc. in the Arab world, and had lived a life peacefully.
However, after the founding of Israel, the persecution against a Jew was strengthened in the neighboring Arabic countries, and the Jews who ran away to Israel appeared one after another.

These people (Mizrahim) were treated in a low rank in comparison with people ( Ashkenazim) that emigrated from Europe, and had gotten disgusted with the Israeli government.
The Begin, prime minister of Israel, severely criticized the ruling party on a mistake of the Middle East war, gained the Mizrahim to his side, and could take the political power.

Thus, Hatred and discrimination produce further hatred and discrimination, and the chasm between the both is deepened more and more.

This continues the next time.

 
何がイスラエルをより過激にしたのか
昔から、ユダヤ人はアラブで対外貿易を担うなどして平和に暮らしていた。
しかしイスラエル建国以降、周辺のアラブ諸国ではユダヤ人への迫害が強まり、イスラエルに逃げ出すユダヤ人が続出した。

この人々(ミズラヒム)は、ヨーロッパから移住して来た人々(アシュケナジムなど)に比べ下位に扱われており、イスラエル政府に反発を感じていた。
ベギン元首相は、与党の中東戦争の失策を痛烈に批判し、このミズラヒムを味方に着け、政権を奪うことが出来た。
こうして憎しみと差別が更なる憎しみと差別を生み、亀裂は深くなるばかりです。
次回に続きます。

 

 
注釈1 : 1929年に創設されたエルサレムに本部をもつユダヤ人の国際的機関。パレスチナにユダヤ人の本拠を設けるというシオニストの計画の対外機関として,資金集め,パレスチナへのユダヤ移民の監督,イギリスとの交渉にあたり,国際連盟ではユダヤ人の利害を代弁した。

注釈2 : 1946年、キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件。

注釈3 : サブラー・シャティーラ事件。

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淡路島の山上からの夜景


 1DSC04675-1-1

*1

 

淡路島の山上からの夜景を紹介します。

撮影は2016年8月12日、夜9時頃です。

 

 

 2DSC04631-1

< 2.神戸方面を望む >

一番明るいのは須磨方面で、その右側遠方が神戸方面です。

この日は流星群を見るために山上に行きました。

二つの流星を見ることが出来ました。

 

空は晴れていたのですが、この時期、淡路島全体がすっぽりと水蒸気に包まれており、月の光がそれに乱反射し、天空がほんのり乳白色になっているように感じました。

星はくっきりとは見えませんが、味わい深い夜景が広がっていました。

残念なことに、私の写真ではその雰囲気をお伝え出来ませんでした。

 

 

 

 

 

3DSC04632-2

< 3.眼下に大阪湾を望む >

 

 

4DSC04641-1

< 4.月を見上げる >

 

この南の方向に淡路島の山の稜線が伸びているのですが、遠くの山影は写っていませんでした。

 

 

5DSC04644-1

< 5.明石海峡大橋が見える >

 

この町の明かりは明石海峡の対岸にある明石の街並みです。

 

 

いつか鮮明な夜景を紹介したいと思っています。

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Bring peace to the Middle East! 26: about terrorism 6 : maneuver secretly in Mossad


中東に平和を! 26: テロについて 6: モサドの暗躍
1

< 1. Dagan was former Director of the Mossad >
< 1. モサド長官ダガン >

I introduce Israeli Mossad that is famous of the best intelligence service or a terror group of the government.
What does the maneuver secretly to exceed the cloak-and-dagger film bring us?
We look at the subversive activities against the nuclear development of Iran as an example.

最高の諜報機関または政府のテロ集団として名高いイスラエルのモサドを紹介します。
そのスパイ映画を凌ぐ鮮やかさは、何をもたらすのか。
イランの核開発の妨害工作を例に見ます。

 

2

< 2. Iranian president Ahmadinejad and centrifuges >
< 2.アハマディネジャド大統領と遠心分離機 >

Preface
Iran joined the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons of 1970 from the beginning, and aimed at nuclear power generation construction under the cooperation of the U.S.
However, when Iran Islamic Revolution happened in 1976, Europe and America broke cooperating on the atomic plan, and Iran independently continued the nuclear development.
The United Nations with a focus on Europe and America asked Iran to stop it as nuclear weapon development, and performed sanctions.
Above all, Israel decidedly acted to prevent the nuclear development of Iran, and the U.S. tuned to it, too.
In 2015, an agreement was reached between the U.S. and Iran by leadership of the U.S. , and Iran maintained the ability for nuclear development, but reduced nuclear sites.

There is not a conclusive evidence of the nuclear weapon development of Iran, and Iran denies.

On the other hand, Israel has said uncertainly the possession of nuclear weapons strategically, but the world considers it is a nuclear nation and holds more than 100 warheads.
Only Israel does not join the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons in the Middle East and does not accept an inspection of IAEA.
Israel is considered to be a nuclear nation since 1969 by cooperation of France.

 

はじめに
イランは、1970年の核拡散防止条約に発足当初から加盟し、米国の協力の下、原発建設を目指していた。
しかし、1976年にイラン・イスラム革命が起きると、欧米は原子力の協力を反故にし、イランは核開発を独自に継続した。
欧米を中心に国連等はこれを核兵器開発として中止を求め制裁を行った。
中でも、イスラエルはイランの核開発を断固阻止する行動に出て、米国もこれに同調した。
2015年、米国主導でイランとの合意が成り、イランは核開発能力を維持するが核施設を縮小した。

イランの核兵器開発の確証は無く、イランは否定している。

一方、イスラエルは核兵器保有を戦略上あやふやにしているが、世界は核保有国とみなし百発以上を保持するとしている。
中東ではイスラエルだけが核拡散防止条約に加盟せず、IAEAの査察を受け入れていない。
イスラエルの核兵器保有はフランスの協力で1969年からと見られている。

 

3

< 3. fear of Iran’s nuclear development, by Ventura Country Star in 2006 >
< 3.イラン核開発の恐怖、 by Ventura Country Star in 2006 >

 

Mossad produced successful results to prevent the nuclear development of Iran
In 2002, Dagan took up the post of Director of Mossad by being implored.
Israeli Prime Minister Sharon called him ” the man hides a dagger in mouth”.
In 2010 before his retirement, the Egyptian newspaper reported in this way.
”If there is not Dagan, Iran’s nuclear plan would be completed several years ago. There is not person that does not know Dagan in the Iranian national leadership.”

When a man was going to enter his house of south Tehran in 2011, he was shot dead.
He was a physics professor, and seemed to be a head of development of electronic switch of nuclear warhead.
In 2010, two cars that two couples of nuclear scientists and wives separately rode on were running in Tehran, and these cars exploded at the same time.
The head of scientific section in charge of the nuclear plan in Iran died instantly, other three persons got injured, and another scientist became the Vice President after return.
In the same year, a large explosion took place as soon as a professor in Faculty of Engineering opened car door for attendance, and he died.
In 2007, Iranian government announced that a professor of electromagnetism died in an accident at home, but actually he was killed with radioactive poison.
It is said that the two persons were concerned with a nuclear plan together.
This kind of assassination was also carried out in the early 1980s.

The beginning of the subversive activities that Dagan led was February, 2005.
A domestic nuclear site was attacked by missile strike of unidentified plane and exploded.
Furthermore, a facilities of another nuclear power plant and a secret research institute were blown up.
In 2006, a large explosion took place in a underground facility in which many Iranian scientists, engineers and directors of the nuclear plan gathered for test operation of centrifuges.

In 2010, Dagan produced the last great result.
The half of all centrifuges for the uranium enrichment in Iran became unusable.
It was because that the computers of the centrifuges became uncontrollable due to a computer virus invading.

During this time, various subversive activities were carried out.
They captured a uranium ore carrier, sold the centrifuges that break down in using, displaced many people of Iran’s nuclear development by disclosure, corruption, disappearance, exile, or assassination, and caused a crash of nuclear sites, then blasted it.
American CIA and British MI6 supported the Mossad being the practice corps, and the Iran’s antigovernment force joined, too.
Naturally, the top of the U.S. and British would agree it.

 
イランの核開発阻止に成果を挙げたモサド
2002年、モサド長官にダガンが懇請されて就任した。
イスラエルのシャロン首相曰く、彼は「口の中に短剣を隠し持つ男」であった。
彼の退任の前年の2010年、エジプトの新聞は報じた。
「ダガンがいなければ、イランの核開発計画は、数年前に完成していただろう。イランの国家指導部でダガンを知らぬものはいない。」

2011年、南テヘランで自宅に入ろうとした男が射殺された。
彼は物理学教授で、核弾頭の電子スイッチの開発責任者だったとされる。
2010年のある日、2組の核科学者と妻が乗る車が別々にテヘランを走行していたが、同時刻に爆発した。
そのイラン核計画の科学部門責任者は即死し、残り3人は負傷し、内一人の科学者は復帰後に副大統領になった。
同年、工学部教授が出勤の為、車のドアを開けた途端、大爆発が起きて死んだ。
2007年、イラン政府は自宅で電磁気学の教授が事故死したと報道したが、放射性毒物での毒殺だった。
この二人は共に、核計画に関わったとされる。
この手の暗殺は1980年代前半にも行われた。

この一連のダガン主導の妨害工作の始まりは2005年2月であった。
国内の核施設が国籍不明機のミサイル攻撃を受けて爆発し、また別の原子力発電所の関連施設と秘密研究所が爆破された。
2006年、イランの科学者、技術者、核計画の部長らが遠心分離機の試験運転のために集合していた地下施設で、大爆発が起きた。

2010年、ダガンは最後の大成果を挙げた。
イラン国内のウラン濃縮用の遠心分離機の半数が使用不要になった。
これはコンピューターウイルスが遠心分離機のコンピューターに侵入し、制御不能になった為だった。

この間にも様々な妨害工作が行われていた。
ウラン鉱石運搬船の拿捕、故障する遠心分離機の売りつけ、暴露・買収・失踪・亡命・暗殺などによるイラン核開発者の排除、核施設の爆発や故障などです。
実行部隊のモサドを米国のCIAと英国のMI6が支援し、イラン反政府勢力も関わった。
当然、米英のトップは了解してのことでしょう。

 

4a
< 4. Insanity is opposed to each other >
< 4. 対立する狂気 >

 

What do the assassination and subversive activities mean?
Do you praise it as the outstanding job that prevented the possession of the nuclear weapon?
Or, do you consider it as a terrorism by a fanaticism nation or an attack without the declaration of war?

Israel continues to use any relentless non-humanitarian means for own national interest.
The assassination and subversive activities to be carried out backstage have surely scattered hatred and tinderbox in the Middle East, and they hide a true cause to a person outside of the Middle East.
Thus, Palestine and the Arab that became weakened and lacked a leader are driven in at the deep end more and more, and become getting ignored by the world.

In October, 2005, Iranian president Ahmadinejad said “Israel must erase from our map”.
Then, Europe and America and Israel thought it as a collateral evidence of the nuclear weapon development of Iran, but I think it was due to a big anger against the maneuver secretly of the Mossad.
Furthermore, there is a rumor that I S I L (Islamic State of Iraq and the Levant)is a tool of Mossad.
I accept the rumor with consideration for who its opponent is and the presence of founder.

This continues to the next time.
この暗殺と妨害工作は何を意味するのか
あなたは、これを核兵器の保有を阻止したお手柄と称賛しますか。
それとも狂信国家によるテロ、さらには宣戦布告なしの先制攻撃とみなしますか。

イスラエルは国益を守る為には容赦無い非人道的手段を厭わない。
この秘密裡に行われる暗殺と破壊工作は、確実に中東に憎悪と紛争の火種を撒き散らし、さらに中東の部外者に真の原因を見えなくしている。
そして弱体化し指導者を欠くパレスチナ、アラブは益々、窮地に追い込まれ、世界から疎まれて行く。

2005年10月、アハマディネジャド大統領は「イスラエルは地図の上から消し去らねばならない」と発言し、欧米とイスラエルは、これをイランの核兵器開発の傍証としたが、私にはモサドの破壊工作への怒りに思えるのだが。
さらに、イスラム国(ISIL)はモサドの手先だとの噂もあるが、支援者と敵対者から察して納得できる。

次回に続きます。
注釈1
モサドのイランへの妨害工作は、マイケル・バー=ゾウハー「モサド・ファイル」による。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 26: マラガ 2


1

< 1.ピカソの像 >

 

 

今日は、マラガの後半、ピカソに関連するものを主に紹介します。

 

 

 

2

< 2. カテドラルからメルセー広場に向かう >

 

上の写真: カテドラルの北側。

中央の写真: 賑やかな通り。

下の写真: 通りのベランダ。

 

 

 

 

 

3

< 3. サンティアゴ教会 >

上の写真: 教会の正面。

マラガがキリスト教徒に奪還された3年後の1490年に建設された。

ピカソが洗礼を受けた教会らしい。

入場しなかった。

 

下の写真: 教会の尖塔。

尖塔の側面の模様にはイスラム文化(ムデハル様式)の影響が色濃く残っている。

 

 

 

 

 

 

4

< 4. メルセー広場とピカソの生家 >

上の写真: 通りからメルセー広場が見えた。

中央の写真: メルセー広場。

この広場の奥の方にピカソの像(No.1の写真)と生家がある。

ピカソはこの広場で10才まで遊んだ。

 

下の写真: 正面の建物の左側1階に、生家への入り口がある。

入場しなかった。

 

 

 

5

< 5. ピカソ美術館 >

 

美術館のホームページ。

http://www.museopicassomalaga.org/en/history-mpm

 

上の写真: 16世紀の宮殿を改造した美術館。

塔の左側に入り口がある。

ピカソの親族からの寄贈された200点ほどの作品が収められている。

 

下の写真: 美術館内。

 

 

6

< 6. ピカソの美術館作品 1 >

ピカソの作品を古い方から並べました。

 

No.1: OLGA KHOKHLOVA IN A MANTILLA、1917年作。

No.2: MATHER AND CHILD、1921年作。

No.3: WOMAN WITH RAISED ARMS、1936年作。

 

ピカソについて

ピカソは1881年にマラガで生まれ、11歳にはここを出てスペイン内の二か所の美術学校で学んだ。

21歳で、パリに居を構え制作に専念し、その後もフランスで活動し、1973年に死去した。

 

 

彼はキュビスム(No.3、4のような作品)の創始者の一人ですが、彼の作風はめまぐるしく変化した。

その変化の陰に、数多くの女性がいた。

ピカソはその出会いから多くのインスピレーションを受けたが、悲劇的な結末をむかえた女性もいた。

美術館の解説で、多くの妻や子供のエピソードが絵に込められているのが面白かった。

 

 

 

 

7

< 7. ピカソの美術館作品 2 >

 

No.4: JACQUELINE SEATED、1954年作。

No.5: BATHER PLAYING、1958年作。

No.6: BATHER、1971年作。

 

 

8

< 8.アルカサバ >

 

上の写真: パセオ・デル・パルケ通りから見た。

中央の写真: 西側から見た。

下の写真: 埠頭から見た。

 

この城塞は古代ローマの要塞跡に、11世紀中期にイスラム教徒によって建設された。

残念ながら入場していないが、写真で見る限りグラナダのアルハンブラ宮殿と似た造りです。

 

やはり、この地にはイスラム文化が色濃く残っていたに違いないと思った。

 

 

 

 

9

< 9. 市役所の前で >

 

街歩きを終えて戻っている時、マラガ市役所の前で、報道陣に囲まれた一団がいた。

彼らは、テロ犠牲者の家族だそうです。

 

治安が良いこの地でテロがあったことに驚いた。

 

 

10

 

< 10. マラガとお別れ >

 

これでマラガの紹介は終わります。

 

次回に続きます。

 

 

 

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Bring peace to the Middle East! 25: about terrorism 5 : Various assassination


中東に平和を! 25: テロについて 5: 様々な暗殺 

1
< 1. This movie describes scene attacking Osama bin Laden >
< 1.ビンラディン襲撃の映画 >

From now on, I introduce opposite terrorism, the assassination of government.
This terrorism conceals horrible unlike assassination of extremists.

これから体制側が行うテロ、暗殺を紹介します。
これには過激派の暗殺と異なる恐ろしさが潜んでいます。

 

2
< 2. Prime Minister Rabin had set out the promotion of their peace >
< 2. 和平推進を目指したラビン首相 >

Various assassination
The assassination of Osama bin Laden in 2011 is the most well known.
American Special Forces made a surprise attack on his residence of Pakistan, and killed him with his family.
Many countries and people felt a sense of relief as soon as knowing that the maniac was crossed out.

In 1995, Israeli Prime Minister Rabin was assassinated in a peace rally of Tel Aviv.
Rabin signed the Oslo accords (1993) accepting an autonomous government of Palestine with PLO and had promoted their peace.
The criminal was an Israeli student and wanted to prevent the peace that would surrender the land of Israel to them as a religious Jew.
As a result, Israel and Palestine mutually took tough measures, and the peace faded away.
In the past, two private citizens of the both countries that were aimed at achieving the peace together were assassinated by Israeli side, too.

When a Hamas’s leader was driving on a way in Gaza city in August, 2003, a helicopter of the Israeli military attacked it by the missile strike and killed him.
Therefore, ” a pause of attacking against Israel ” that Hamas declared two months ago was canceled.
The United States, EU, Russia, and the United Nations together advanced “road map” for the peace plan in this April, and Israel and Palestine accepted the measures that they should carry out respectively.
However, exchanges of violence were triggered by this accident, and it did not advance at all.

In the 2000s, the assassinations of leaders of Hamas and Hezbollah happened almost every year, and the criminal is unknown.
However, it is widely believed to be the offense of Mossad (Institute for Intelligence and Special Operations).
様々な暗殺
良く知られているのはウサーマ・ビン・ラーディンの暗殺(2011年)でしょう。
これは米国の特殊部隊がパキスタンの彼の邸宅を奇襲し家人と共に殺害した。
狂人を抹殺したとして多くの国と人々は安堵感を示した。

1995年、イスラエルのラビン首相がテルアビブの平和集会で暗殺された。
ラビンはパレスチナを自治政府として認めるオスロ合意(1993年)をPLOと調印し、和平を推進していた。
犯人はイスラエル人学生で、信心深いユダヤ人としてイスラエルの土地を明け渡すことになる和平を阻止したかった。
この結果、イスラエルとパレスチナの双方が強硬策に出て和平が遠のくことになった。
過去にも、共に和平を目指していた両国の民間人がイスラエル側によって暗殺されたことがあった。

2003年8月、ハマスの幹部がガザ市内を走行中、イスラエル軍の武装ヘリコプターのミサイル攻撃により殺害された。
これによりハマスが2か月前に宣言していた「対イスラエル攻撃の一時停止」は破棄された。
この年の4月にアメリカ、EU、ロシア、国連の4者による和平ロードマップが提示され、イスラエルとパレスチナは各自実施すべき措置を受け入れていた。
しかし、これをきっかけに暴力の応酬が続き、現在、全く進んでいない。

2000年代、ハマスやヒズボラ幹部の暗殺は毎年のように起きており、犯人は不明です。
しかし、大方の見方ではモサド(イスラエル諜報特務庁)の仕業とされている。

 

3
< 3. Suspects of assassination of an Hamas’s leader in 2010 >
< 3. 2010年のハマス幹部暗殺の容疑者 >

What is the problem?
When we know the assassination in news, we are preoccupied with the brutality, but have to look at the aim and influence of the assassination.

The aim of the assassination concerning the Middle East is artful and changed.
The assassination by Islamic extremist began with it of important dignitary like Sadat killing in 1981, but went to the direction of killing the private citizens of Europe and America like the September 11 attacks in 2001.
They began it to balk the governmental plan, but understood it was fruitless.
Then they changed the strategy to expel the armaments of Europe and America.
On the other hand, some former extremist’s leaders advocate nonviolence, because the terrorism only invited needless bloodshed of Muslim. Annotation 1.

Their assassination and suicide attack includes the act of a fanatic and a lone murderer in the part, but most of criminals think it as political and strategic means.

Of course, terrorism has been carried out as means of battle for a long time all over the world.

The assassination by government (the White Terror) is particularly strong in the strategic aspect, but we are hard to know it.
It is because most of crimes are performed behind closed doors thoroughly.

 

何が問題なのか
私達はニュースで暗殺を知った時、その残忍さに目を奪われてしまいがちだが、その暗殺の狙いと影響にも注視してほしい。

中東に関わる暗殺や殺害の狙いは巧妙で、かつ変化している。
イスラム過激派による暗殺は、1981年のサダト殺害のように要人殺害から始まったが、2001年の同時多発テロのように欧米の民間人を殺害する方向に向かった。
彼らは体制側の目論見を挫く為に始めたが、効果が無かったのでその背後にある欧米の軍事力を駆逐するためへと戦略を変えたと言える。
一方で、かっての過激派のリーダーの中には、テロはムスリムの流血を増しただけで無益であったと非暴力を唱える人々も出て来ている。注釈1.

彼らの暗殺や自爆攻撃には、狂信的で単独犯らしいものもあるが、実行犯達の多くはそれらを政治的で戦略的な一手段として捉えている。

当然、テロは対立抗争の手段として古くから世界各地で行われて来た。
体制側の暗殺(白色テロ)は、特に戦略的な側面が強いのだが私達には見えにくい。
それは犯行の多くが徹底して秘密裏に行われるからです。

 

4

< 4. Mark and evaluation of Mossad >
< 4. モサドのマークと評価 >

If I look at the conflict between Israel and Palestine, the assassination, interference work, and provocative act by Israeli side ( government, military, or Mossad) are really skillful as strategy.
They carry out terrorism with using newest technology and weapon under the cover of darkness as if not to attract attention, prevent the peace agreement, and expand the rule of Israel.
The activity of Mossad is coveted by person emphasizing intelligence-gathering activity, but the act of tearing the peace along with disrupting a way of knowing the truth is abnormal.

We can understand the actual situation of the conflict by knowing about the terrorism of government.

I introduce a part of the secret maneuvers of Mossad the next time.

 

イスラエルとパレスチナの紛争を見ていると、イスラエル側(政府、軍、モサド)による暗殺や妨害工作、挑発行為は実に巧みな戦略と言える。
彼らは最新技術と兵器を使用し、闇から闇に葬る如くテロを実行し、目立たぬように和平を阻止しイスラエルの支配を拡大している。
モサドの活躍はインテリジェンスを重視する者から見れば垂涎の的だが、和平を引き裂く目くらましの所業は異常です。

体制側の巧みなテロを知ることによって、紛争の実態が見えてくるでしょう。
次回より、モサドの暗躍の一部を紹介します。

 

注釈1
ロジャー・オーウェン著「現代中東の国家・権力・政治」p301より。元過激派の指導者が1997年に非暴力姿勢を公表し、「暴力停止のイニシアチブ」「ジハードにまつわる誤解」など著作がある。

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Bring peace to the Middle East! 24: about terrorism 4 : the background 2


中東に平和を! 24: テロについて 4: その背景 2

1

< 1. al Qaeda >
< 1. アルカイダ >

We again look at the Middle East situation, and the background for intensification of the armed struggle in the Middle East.

前回に続いて、中東情勢と武装闘争激化の背景を見ていきます。

 

 

2

< 2. the Arab Spring in Egypt >
< 2. エジプト、アラブの春 >

A conflict between laicism and Islamic Renaissance
Nasser criminalized groups like the Moslem Brotherhood (belong to Sunni, since 1928) because conventional party politics caused confusion, and started a one-party dictatorship.
This will produce the serious conflict with Islamic groups in the future.

In 1958, Syria founded United Arab Republic (till 1961) together with Egypt to depend on Nasser’s reputation.
The Syrian Moslem Brotherhood also aiming at Islamic Renaissance had opposed Baath party (was active in Syria and Iraq) that advocated modernization, socialism, and pan-Arab-ism.
In 1970, the Moslem Brotherhood moreover resisted it after the military coup occurred by General Assad (father of current President).
The Assad was a secularist and represented Islam Alawites (Shiah) of the minority.
Because Assad repeated severe oppression for the Moslem Brotherhood, the resistance of it declined before long, but a part of it radicalized in Egypt and Syria, and this assassinated Sadat.

In 1979, Iran founded the Islamic Republic from a regal government by rejecting the longtime intervention by Europe and America.
This encouraged Arab of the same Muslim to aim at the Islam Renaissance.
世俗主義とイスラム復興運動の対立
ナセルは従来の政党政治が混乱を招いたとしてムスリム同胞団(スンニ派、1928年~)等の団体を非合法化し、一党独裁に舵を切った。
このことが後々、イスラム教団との深刻な対立を生むことになった。

1958年、シリアはナセルの名声を頼ってエジプトとアラブ連合共和国(~1961年)を作ったことがあった。
シリアのムスリム同胞団もイスラム復興運動を目指し、近代化と社会主義、汎アラブ主義を掲げるバ-ス党(シリアとイラクで活動)と対立していた。
ムスリム同胞団は1970年のアサド将軍(現大統領の父)による軍事クーデター以降、これに抵抗した。
アサドは世俗主義者でかつ少数派のイスラム教アラウィー派(シーア派)を代表していた。
アサドはこの同胞団に対して苛酷な弾圧を繰り返したので、やがて同胞団の抵抗は衰微したが、エジプトとシリアで一部が過激化し、これがサダトを暗殺した。

イランは1979年に、長年の欧米による介入を退けて、王政からイスラム共和国を建設した。
これは同じイスラム教徒のアラブ人に、イスラム復興運動を勇気づけることになった。

 

 

3

< 3. principal roles (?) in the Middle East >
< 3. 中東の主役?たち >

From the top, Assad of Syria, Maliki of Iraq, Abdullah of Saudi Arabia.

上から、シリアのアサド、イラクのマリキ、サウジのアブドゥッラー。
In addition
Triggered by the Gulf War inf 1991 after Soviet Union withdrawal, Al-Qaeda (Osama bin Laden) that had fought for Muslim in Afghanistan turned for anti-Americanism.
After 2003, they made the terrorism radical as anti-Western and anti-laicism in Iraq that came to be confused and impoverishment by the previous economic blockade and the Iraqi War (2003-2011 years).

In the 2010s, the Iraqi autonomous government executed mass layoffs of Sunni (soldier etc.) that held a majority until then.
In addition, the Syrian Assad Administration (Shiah) oppressed Sunni of the majority when a demonstration occurred in the Arab Spring (2011).
Thus, the extremists of the Sunni were connected with Iraqi one and Syrian one.
Then, Islamic nation (ISIL) parted from al Qaeda (Sunni), and extended their influence as if to fill the niche between other extremists and government troop.

It was the United States to have enhanced the military strength of al Qaeda and Iraq.
And it were the U.S. and the U.K. to have begun the Gulf War hastily and the Iraqi War by making up the reason.

It occurred in the Middle East that a fall of Egypt being representative of laicism, a hard battle of the Arabic countries and Palestine, on the other hand, the military intervention by the western, and the Israeli prosperity by the help of the western, too.
So, Arab came to aim at the Islamic Renaissance in the opposite direction from the past.
Then, one part of them radicalized like “a cornered mouse will bite the cat”.
さらに加えて
アフガニスタンでムスリムの為に戦っていたアルカイダ(オサマ・ビンラーディン)はソ連軍撤退後、1991年の湾岸戦争を切っ掛けに反米に転じた。
2003年以降、彼らはそれまでの経済封鎖とイラク戦争(2003-2011年)で疲弊、混乱したイラクで反欧米、反世俗主義でテロを先鋭化させていった。

2010年代になると、イラク自治政府はそれまでの大勢であったスンニ派(軍人など)を大量解雇した。
またシリアのアサド政権(シーア派の一派)はアラブの春 (2011年)でデモが発生すると、多数派のスンニ派を弾圧した。
こうしてスンニ派の過激派はイラクとシリアで繋がることになった。
この中で、イスラム国(ISIL)がアルカイダ系(スンニ派)から分かれ、武装勢力や政府軍の抗争の間隙をぬって拡大していった。

このアルカイダやイラクを軍事強化したのは米国であり、湾岸戦争を性急に、またイラク戦争をでっち上げて始めたのも米国と英国でした。

こうして世俗主義の代表エジプトの凋落、アラブ諸国とパレスチナの苦戦、一方欧米の軍事介入と欧米援助によるイスラエルの隆盛は、アラブに真逆の選択、イスラム復興運動に向かわせた。
その中で「窮鼠猫を噛む」如く一部が過激化した。

 

4

< 4. in a mosque >
< 4. モスクにて >

Further background
I answer following questions and will clear up the main point.

A: “Why is there a lot of military autocracy in Arab countries in the Middle East ?”

This area continues to suffer from heavy damages by the rule (colony) of different ethnic groups for over several centuries, such as late industrialization, low literacy rate, and landlord system.
In addition, many borders that ignored inhabitants were demarcated by some colonial powers in the early 20th century, and most of royal house given by them national territory were only puppets.
Under such circumstances, it was fate to lead to military autocracy from the royal house that lost the trust.

B: “ Why do Islamic groups fiercely conflict with secularist rulers? ”

There is some problems of the Islam as for it, but, in the Middle East, I think it is to due to the fact that the persons that ever contributed to the independence were leaders of Muslim than a simple martialist.

C: “Why can’t the Arab countries work cooperatively for Palestinian independence ? ”

This answer is the same as question A, but an oil generation negatively affect more.

Most of oil-producing countries (Saudi Arabia, Persian Gulf countries) continue an outdated autocracy system by the royal house.
Furthermore, Europe and America supports it, so the Arabic democratization and solidarity in the Middle East fade away by supporting these non-democratic governments.
This situation leads to the oppression against the Arab Spring and to supporting extremists, and the news aren’t leaked outside, too.

Probably, the biggest factor of the intensified struggle is that people cannot trust the domestic government and the Western, and just have to strongly connect together in only local Islamic community.

This continues the next time.
さらなる背景
要点を次の疑問から読み解きます。

疑問A 「なぜ中東アラブには軍事独裁が多いのか」

中東アラブは数世紀も続いた異民族による支配(植民地)の後遺症で、遅れた産業化、低識字率、大地主制などにより、安定した民主的な基盤が育っていなかった。
それに加え、20世紀前半の宗主国による住民を無視した国境の線引きと、あてがわれた王家は傀儡に過ぎなかった。
これでは、信頼を無くした王家から軍事独裁に至るのは宿命でした。

疑問B 「なぜ世俗主義者の支配者とイスラム教団は熾烈な抗争をしてしまうのか」

イスラム世界の問題もあるでしょうが、中東アラブではかつて独立に貢献した人々は、単なる軍人よりもムスリマの指導者だったことが影響している。

疑問C 「なぜアラブ諸国は、パレスチナ独立の為にまとまって行動出来ないのか」

これは疑問Aと同じですが、さらに石油が災いしている。
産油国(サウジ、湾岸諸国)では王家による時代遅れの独裁体制が続いている。
さらに欧米がこれを支援し、非民主的な政体を擁護することで、中東アラブの民主化と団結は遠のいている。
これはアラブの春の弾圧や過激派支援に繋がり、またその事実は外部に漏れることがない。

おそらく闘争激化の最大要因は、人々が政府や欧米を信頼出来ず、地域のイスラム教団でのみ強く繋がるしかないからでしょう。
次回に続きます。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 25: マラガ 1


 

1

< 1.カテドラルの尖塔 >

 

今日から、スペインの太陽の海岸(コスタ・デル・ソル)に位置するマラガを紹介します。

 

 

 

2map

< 2.マラガの地図 >

地図の上が北です。

上の地図: 赤い点がマラガです。

下の地図: 黄色い線が徒歩観光したルート。

Sから徒歩観光を始め、No.2、3、4を巡り、またSに戻った。

 

 

 

 

3

< 3. 早朝のマラガ港 >

 

日の出前に、船は着岸していた。

ここは人口57万人をようするスペイン第6位の都市で、大きな港がある。

 

 

 

 

 

 

4

< 4. マラガの海岸通り >

 

下の写真: マラガ市役所。

海岸に沿って伸びるパセオ・デル・パルケ通り。

 

 

 

 

 

5

< 5. パセオ・デル・パルケ通りからアラメダ・プリンシパル通りへ >

海岸に沿って伸びるパセオ・デル・パルケ通りの歩道にはヤシの木が茂り、朝から日差しが眩しかった。

 

上の写真: マラガ大学。

下の写真: ここを進むとアラメダ・プリンシパル通りに入るが、ここで右に曲がり、マルケス・デ・ラリオス通りに入る。

 

 

 

6

< 6. マルケス・デ・ラリオス通り 1 >

 

ここは大きなショッピング街です。

 

 

 

 

7

< 7. マルケス・デ・ラリオス通り 2 >

ここは市民や観光客で賑わう通りでした。

 

 

 

 

 

8

< 8. 面白いもの >

 

この人形はマルケス・デ・ラリオス通りからカテドラルに向かう道の上部にあった。

 

 

 

 

9

< 9.カテドラル 1 >

 

 

 

 

10

< 10. カテドラル 2 >

 

16世紀に建設が始まったが、資金不足のため右の塔が未完成のまま18世紀中頃に工事が終了した。

 

 

マラガに想うこと

マラガはピカソ生誕の地で、ガウディ生誕の地と同様に地中海に面している。

鮮やかな色使いと時代を革新する大胆な芸風を生む共通の何かが、スペインのこの地域にはあるのだろうか。

マラガは東にグラナダ、北にコルドバに近く、キリスト教徒がイスラム教徒をイベリア半島から追い出すわずか5年まで、イスラムの地でした。

 

今はイスラム文化を遺すものが見当たらないが、貿易で栄えるこの港町は、7百年間のイスラム文化とキリスト教文化が融合し、刺激しあったのだろう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 11:  Visiting Tango Peninsula 3


但馬海岸から丹後半島を巡って 11: 丹後半島を巡る 3

 

1
< 1. Ine bay >
< 1.伊根湾  >

 

I introduce scenes from Ine bay in Tango Peninsula to Amanohashidate today.
This is the end of my itineraries of when I traveled from May 12 to 14, 2016.

 

今日は、丹後半島の伊根湾から天橋立を紹介します。
これで2016年5月12~14日の旅行記を終わります。

 

2

< 2.  Maps show we visited places, its top is the north  >
< 2.旅行したルート、上が北  >
Upper map: A red line shows areas that I already introduced, and a yellow line shows areas that I introduces from this time.
Lower map: a yellow line shows areas that I introduces from this time.
Two red arrows show famous sightseeing areas, Ine bay and Amanohashidate.
上の地図: 赤線がこれまで紹介した所で、黄線が今回紹介する所。
下の地図: 今回、ドライブした所。
赤の矢印が有名な観光地、伊根湾と天橋立です。

 

3
< 3. Ine bay  >
< 3. 伊根湾 >
Upper photo: this is a satellite photo that is a expansion of Ine bey.
The map’s top is the north.
A yellow circle is an observation deck in “Funaya” (boat houses) of Ine bay.
No. 1 and 2 are the shooting locations from the port.
A red arrow shows the direction that I took the lower photo from.

Lower photo:  I watch Ine bay from the south side.

 
上の写真: 衛星写真を拡大。上が北です。
黄丸が伊根湾舟屋群展望台、番号1と2が港からの撮影地点です。
矢印は下の写真を撮影した方向を示します。

下の写真: 伊根湾を南側から見ている。

 

4

<  4. Scenery of When I was crossing a mountain >
< 4.山越えの景色 >

 

This time, the road along the shore from Kyougasaki cape was closed suddenly, so we crossed the mountain and went to Ine bay.

Upper photo: we can see the sea of Tango-matushima distantly.
Lower photo: a stock farm on the way.
There were persons who enjoyed collecting edible wild plants of spring.

 
今回、経ケ岬からの海岸沿いの道が通行止めで、山越えで伊根湾に向かった。

上の写真: 遠くに丹後松島の海が見える。
下の写真: 途中の牧場。
春の山菜採りを楽しむ人々がいた。

 

5
< 5. I am overlooking Ine bay from the observation deck >
< 5.展望台から伊根湾を見下ろす >
These photos are arranged from the top in order of taking the photos from the left side to right side.

The reason why this Ine fishing port is a natural good port is that three elements overlapped.
There is a large volume of fish caught in Wakasa bay.
Then, the bay is oriented to the south that doesn’t suffer from winter angry waves while it faces the Sea of Japan.
Furthermore, the wind has little influence on the big bay because there is an island in the center of the entrance of the bay.

 

上から順番に左側から右側を見ている。

この伊根港が天然の良港なのは三つの要素が重なったからです。
一つは魚影が濃い若狭湾にあること。
次いで、日本海にありながら冬の荒波を受けない南向きにあること。
さらに、湾の入口中央に島があり、風の影響が少ないこと。

 

6
< 6. expansion of boat houses  >
< 6.舟屋群の拡大 >

 

 

7
< 7. Views from No.1 of the map  >
< 7.地図番号1からの眺め >

 

8

<  8. Views from No.2 of the map >
< 8.地図番号2からの眺め >

 
Lower photo: “Funaya” (boat houses).

The first floor is garage-like space at sea level for mooring a boat and families live on the floor above.
It is because the wind has little influence on the Ine bay

 

下の地図: 舟屋の拡大。

舟屋は、1階が船の格納庫で2階が居室になっています。
船を海から直接にこの格納庫に入れることが出来ます。
これも波の影響が少ない伊根湾ならではです。

 

9
<  9.  sceneries between Ine bay and Amanohashidate >
< 9. 伊根湾を出て天橋立まで >

Upper photo: I see the back (the south side) of Wakasa Bay.
Central photo: I see a peninsula at the back of Miyazu bay.
Lower photo: a green thin belt that is extending over the sea is rows of approximately 8,000 pine trees of Amanohashidate.

Thank you for affection you have read this article for a long time.

 

上の写真: 若狭湾の奥(南側)を望む。
中央の写真: 宮津湾の向こうに岬が見える。
下の写真: 緑の細く続く帯が天橋立の約8000本の松並木です。

長らくお読みいただきありがとうございました。

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Bring peace to the Middle East! 23: about terrorism 3 : the background 1


中東に平和を! 23: テロについて3: その背景 1

 

1

*1

We again look at the internal conditions of Egypt, and the background for intensification of the armed struggle in the Middle East.

前回に続いて、エジプトの内情と中東での武装闘争激化の背景を見ていきます。

What was Egypt’s next move?
In 1970, Sadat of the same officer corps took office as the President after sudden death of Nasser.
At the time, Egypt had suffered economically as a result of the complete defeat in the Middle East war of six years ago, and the North Yemen civil war that Egypt sent most troops became bogged down, and it was the worst.
Therefore, he made ready careful and waged the fourth Middle East war in 1973, and he could take advantage during the beginning of the war.
However, as Israel recovered before long, the war reached a cease-fire by the mediation of United Nations and U.S.
Until this time, Sadat had a strategy victory.

エジプトが次に打った手
1970年、ナセルの急死に伴い同じ将校団のサダトが大統領に就任した。
当時のエジプトは、6年前の中東戦争完敗の痛手が大きく、また大半の自軍を投入していた北イエメン内戦が泥沼化し、最悪だった。
そこで彼は周到に準備し、1973年に第4次中東戦争を始め、緒戦を有利に進めた。
しかし、やがてイスラエルが挽回してくると、国連や米国の仲介により停戦を迎える。
ここまではサダトの作戦勝ちだった。

 

2
< 2. Camp David Accord. From the left side, delegates of Israel, the U.S., and Egypt  >
< 2. キャンプ・デービッド合意、左からイスラエル、米国、エジプトの代表 >

And he first concluded a peace treaty with Israel in Arab by Camp David Accord in 1978, and won Nobel Peace prize with the Israel prime minister.
This was impossible without the effort of the U.S. President, but became just like speculation of Israel that provoked it.
With this, he recovered Sinai Peninsula and the Suez Canal, but forsook the Palestinian independence that was an earnest desire of Arab.
Sadat aroused an antipathy of people, the Arabic countries sent a letter breaking off to him, and he was assassinated at last.

そして、彼は1978年、キャンプ・デービット合意により、アラブで最初にイスラエルとの平和条約を締結し、イスラエル首相と共にノーベル平和賞を受賞した。
これは米国大統領の奔走抜きには不可能だったが、誘ってきたイスラエルの思惑通りとなった。
これにより、彼はシナイ半島とスエズ運河を取り戻したが、アラブの悲願であったパレスチナの独立を見捨てた。
こうしてサダトは国民の反感を買い、アラブ諸国から絶縁状を叩き付けられ、ついには暗殺された。

 

3
< 3.  Israeli military >
< 3.イスラエル軍 >

In this time, what was taking place in the Middle East?
The repeated Middle East war caused a vast cost of war burden and internal trouble, and Egypt and the neighboring Arabic countries became weakened.
On the other hand, Israel became more and more great power.
Furthermore, the modernization and the socialist state construction that Nasser promoted caused autocracy and corruption.
Thus, the secularization of Nasser who aimed at the pan-Arabism (unification of Arab) and the complete independence from colony was considered failure.
The fall of leader Egypt showed that armed forces of the Arabic countries could not beat Israel anymore.
Extremists who already fought for liberation in Palestine had to depend on themselves alone.

この時代、中東で何が起きていたのか
度重なる中東戦争は莫大な戦費負担と内紛を招き、エジプトと周辺アラブ諸国は弱体化する一方、イスラエルは益々強国になっていった。
さらにナセルが推進した近代化と社会主義国家建設は、一党独裁と汚職を招いた。
こうして植民地からの完全な独立と汎アラブ主義(アラブ民族の統一)を目指したナセルの世俗化路線(イスラム色を弱める)は失敗だとみなされた。

盟主エジプトの凋落は、アラブ諸国の軍隊がもはやイスラエルに勝てないことを示した。
既にパレスチナ解放を目指して武装闘争を行っていた過激派にとって、自ら戦いとるしか道は無くなっていた。

 

4
< 4. Conference of the Non-Aligned Countries  >
< 4. 非同盟諸国会議 >
Why did Egypt dig itself into a hole?
Nasser regained the rule of Egypt in their own race after 2300 years, abolished a landlord system that was a corrupt practice and pushed forward the modernization daringly.
Furthermore, he repelled the intervention of suzerain Britain and France alone, supported the independence of each Arabic country and fought against Israel for Palestine.

But Nasser was decisively disadvantageous.
His supporting independent movements of the Arabic countries and having nonalignment policy was so obtrusive behavior for the U.S. that wanted to contain Soviet Union, and for Britain and France that had regrets about the Middle East.
Therefore, they not only bother him, but also the financial support and the military aid to Egypt were outrageous even if he wanted.
This let Nasser be nearer to the Soviet Union.
On the other hand, they enough supported Israel with arms supplies and atomic energy, because the Britain and France wanted to suppress Egypt and the U.S. could not go against a Jewish lobby group.
And world Jewish wealth was poured for supporting Israel.
Egypt did not have the prospects of success, because the Industry was undeveloped and only had a small amount of oil production.
Still, Nasser and Sadat fought alone.

Nasser performed the report of the war results being further from the truth in the Third Middle Eastern War in desperation.
He announced that the cause of the defeat was an assistance of the U.S. and hidden strategy.
There was arms supplies from the U.S. , but the hidden strategy was groundless.
This not only dishonored Nasser but also rose more a hatred for the Europe and America.

This continues the next time.

なぜエジプトは墓穴を掘ったのか
ナセルは2300年振りにエジプトの統治を自民族に取り戻し、悪弊だった大地主制を撤廃し、果敢に近代化を進めた。
さらに宗主国英仏の介入に一人で立ち向かい、アラブ各国の独立を支援し、パレスチナの為にイスラエルとも戦った。

だがナセルは圧倒的に不利だった。
彼のアラブの独立支援と非同盟主義は、中東に未練がある英仏にとっても、ソ連を封じ込めたい米国にとっても目障りだった。
したがって邪魔こそすれ、頼まれてもエジプトへの資金援助と軍事援助は論外だった。
このことが、一層ナセルをソ連寄りにさせた。
一方、ユダヤロビーに逆らえない米国とエジプトを抑えたい英仏はイスラエルに充分な武器と原子力で援助した。
世界のユダヤの富がイスラエル支援に注がれた。
これでは産業が未発達で産油量の少ないエジプトに勝算はなかった。
それでもナセルとサダトは孤軍奮闘した。

ナセルは第三次中東戦争の折、苦し紛れに日本の大本営発表と同じ真逆の戦果報告を行い、さらに敗因を米国の加担と陰謀のせいにした(武器供与はあったが陰謀は事実無根)。
これはナセルの名誉失墜だけでなく、アラブの欧米への憎悪をさらに駆り立てた。
次回に続きます。

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Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 10:  Visiting Tango Peninsula 2


但馬海岸から丹後半島を巡って 10: 丹後半島を巡る 2

 

1
< 1. Lighthouse of Kyougasaki cape >
< 1. 経ケ岬の灯台 >

I introduce scenes from Tango-matushima to Kyouga-cape.

今日は、丹後松島から経ケ岬までを紹介します。

 

 

 

2
< 2.  map of places we visited >
< 2.今回の訪問地MAP >
Upper photo: this shows the range that we visited this time.
The map’s top is the north.
We started from the left side ( west side).

Lower photo: this shows the range I introduce with my photos.
The map’s top is the south.

No.1= Inugasaki park. No.2= a cape. No.3=Kyougasaki cape.

上の地図: 今回走った範囲です。上が北です。
左側(西側)からスタートしました。

下の地図: 写真で紹介する範囲です。上が南です。
番号1=犬ケ岬園地。番号2=岬。番号3=経ケ岬。

 

 

3

< 3. Views of Tango-matushima from Inugasaki park >
< 3. 犬ケ岬園地から丹後松島を望む >
A cape thrusting into distant sea is Kyougasaki cape that is the northern end of Kyoto prefecture.
As we rotate around that cape, we go along Wakasa Bay.


It is the video of 19 seconds that I shot here.

遠くに突き出している岬が京都の最北端になる経ケ岬です。
あそこ回ると若狭湾に沿って進むことになります。

この場所から撮影した19秒のビデオです。

 

4
< 4. the cape 1 >
< 4. 岬から 1 >
When we are driving a car, I found a favorite cape.
This cape was shown No.2 of the map.

車で走っていて、気に入った小さな岬を見つけました。
この岬は地図番号2です。

 

5
<  5. the cape 2 >
< 5.岬から 2 >
I was surprised that people have made many fields on top of the narrow cape, and moreover have built their graveyard on the tip.
It was just time of the rice planting.
Their village stretches long and thinly on the mountain-side slope across the road.

私が驚いたのは、海に突き出した細い岬の上に田畑を作り、その突端に墓地を設けていたことです。
ちょうど田植えの時期でした。
村は道路を挟んで山側斜面に細長く広がっていました。

 

6
< 6. the cape 2  >
< 6.岬から 3 >

It is a view of the west side from the cape.
Inugasaki cape is seen distantly.
A small fishing port is seen on the way.

岬の突端から西側を望む。
犬ケ岬が遠くに見える。
途中に中浜漁港が見える。

 

7
< 7. Views from the observation deck on the Kyougasaki cape >
< 7. 経ケ岬の展望台から >
I overlook the west side from the observation deck.
Upper photo: Tango-matushima.
Lower photo: an expansion of the upper photo.
A yellow arrow shows the cape having the graveyard.
The sea side of the graveyard is covered in the trees of windbreak.

展望台から西側を見下ろしている。
上の写真: 丹後松島を見ている。
下の写真: 上の写真の拡大。
黄色い矢印が、先ほどの墓地がある岬を示している。
墓地の海側は風除けの木々で覆われている。

 

8

< 8. at the front of Kyougasaki cape  >
< 8. 経ケ岬の手前から >
Upper photo: a hill of Kyougasaki cape is seen.
We climbed from the parking area to the observation deck being in the top.

Lower photo: I look at the opposite direction (the west side).
A bathing beach and fishing village are seen.

Untouched nature remains on the shoreline that we drove a car along, and this is a wonderful place for sea creature (Takeno Beach etc.).

上の写真: 経ケ岬の山が見える。
私達は駐車場からあの頂上にある展望台まで登った。

下の写真: 逆方向(西側)を見ている。
袖志海水浴場と村が見える。

今回、走った海岸線には自然が多く残っており、海の生き物にとって素晴らしい所(竹野海岸など)です。

 

 

9
<  9. Kyougasaki cape >
< 9. 経ケ岬から >
A parking area is seen at the lower right.
The back of this sea is Wakasa Bay.

This continues the next time.

右下に駐車場が見える。
この海の奥は若狭湾です。
駐車場から展望台に登る途中で撮影した。
次回に続きます。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 24: マデイラ島 2


 

1

< 1. ラヴラドーレス市場の花屋 >

 

 

前回に続いてマデイラ島のフンシャルの街を紹介します。

 

 

 

2

< 2. カテドラル >

1590年代に造られたマヌエル様式の教会。

この様式はポルトガルが16世紀の大航海時代の繁栄の中で生み出した過剰な装飾を施した建築様式で、リスボンのジェロニモス修道院、ベレンの塔が有名です。

しかし、私には外観は質素で素朴な建物に見えた。

 

3

< 3.カテドラルとザルコの像 >

下の写真: アリアガ通りに立つザルコの像。

 

このザルコが、ポルトガルの大航海時代初期の1420年に、このマデイラ島を発見し、半分を領地として与えられた。

 

 

 

4

< 4. サン・ローレンソ要塞とラヴラドーレス市場 >

上の写真: サン・ローレンソ要塞。

15世紀に建てられらた要塞ですが、外観は白亜の宮殿のイメージでした。

 

下の写真: ラヴラドーレス市場の外観。

観光客に一番人気かもしれません。

地上2階、地下1階のスペースにエキゾチックな花、果物、土産品、魚介類が売られています。

 

 

 

5

< 5. ラヴラドーレス市場 >

さすがに地下の鮮魚店には観光客は少ない。

 

 

 

 

6

< 6. 三つの通り >

 

この三枚の写真は、ラヴラドーレス市場を出て、アリアガ通りまでのスナップです。

 

7

< 7. アリアガ通り1 >

上の写真: ポルトガルらしいアズレージョ(装飾タイル)。

下の写真: サン・フランシスコ庭園からアリアガ通りを見る。

 

 

 

8

< 8. アリアガ通り2 >

下の写真: 天測儀の噴水。

 

 

 

 

9

< 9. サンタ・カタリーナ公園 >

 

海を見下ろす丘全体が公園になっている。

 

 

10

< 10. 公園から港を見下ろす >

 

これでマデイラ島ともお別れです。

 

 

次回に続きます。

 

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Bring peace to the Middle East! 22: about terrorism 2 : an assassination


中東に平和を! 22: テロについて 2: ある暗殺

 

1
< 1. Assassination of President Sadat >
< 1. サダト大統領の暗殺 >

From today, I use some examples as a reference and will look at the situation that massacre has been spread over in the Middle East.
This massacre includes battle, and terrorism (assassination, suicide attack) by the government side or the anti-government side.
we see the assassination of an important person by an extremist first.

今日から、中東で殺戮が蔓延していく状況を幾つかの事例を取り上げて見ていきます。
この殺戮には戦闘状態、政府側と反政府側によるテロ(暗殺、自爆攻撃)などがあります。
最初に、過激派による要人暗殺を見ます。

 

 

2
< 2.  Sadat and Mubarak (the later President) at this incident >
< 2. この事件当時のサダトとムバラク(後の大統領) >

The assassination incident
In 1981, the Sadat President of Egypt was assassinated at the commemorative ceremony of the Fourth Middle East War (1973) that he began.
By this war, the Middle Eastern War (since 1948) between the Arabic countries and Israel that had been repeated for four times became the end.
However, Egypt first approved Israel among the Arabic countries by the conclusion of peace accords (1979), and cut off the Palestinian problem.
This seemed like a big betrayal from people and the Arabic countries.

暗殺事件
1981年、サダト・エジプト大統領は自ら始めた第4次中東戦争(1973年)の記念式典で暗殺された。
この戦争で、4回続いたアラブ諸国とイスラエルの中東戦争(1948年~)は終わった。
しかし、エジプトは平和条約締結(1979年)により、アラブで最初にイスラエルを承認し、パレスチナ問題を切り捨てた。
これは国民とアラブからすれば大きな裏切り行為に映った。

 

3

< 3. the Fourth Middle East War  >
< 3.第4次中東戦争 >

I introduce a sentence of a thinker of an Islamic fanaticism that this assassination group had believed in.

“It is important that we fight against a near enemy than a far-off enemy.
We must flow the blood of Muslim until the achievement of the victory by the jihad.

It isn’t useful that we started the battle against the imperialism

It is our duty to concentrate on great cause of Islam, and establish divine law in our country, …

The battlefield of jihad exterminates the leaders of the unbeliever and is to replace it with complete discipline of Islam. ”
( from “What Went Wrong” )

They think that the leaders who held hands with Europe and America made own country and Arab countries confusing and slumping.

 

この暗殺グループが信奉していたイスラム過激思想家の文を紹介します。

「近い敵と戦うことは遠い敵と戦うよりも重要である。
ジハードではムスリムの血は勝利の達成まで流さなければならない。
・・・
帝国主義に対する闘争を開始することは誇るべき有用な仕事ではなく、時間つぶしであっ
た。

 

イスラムの大義に集中するのが我々の義務であり、我々の国に神の法を確立し、・・・。
ジハードの戦場は、不信仰者の指導部を根絶して、完全なイスラム的秩序と置き換えることにある。・・・」
(「イスラム世界はなぜ没落したのか?」p161より)

彼らは自国とアラブが低迷し混乱したのは欧米と手を結んだ指導者によると考えている。

 

4

< 4. Nasser made a coup d’etat succeed >
< 4. クーデターを成功させたナセル >

Why did they go to extremes?
I cannot lump innumerable extremists, but as for the birth, there is peculiar circumstances of Middle Eastern and Arab.
It is Middle East war (between Israel and Palestine), the military intervention by Europe and America (supporting Israel and the Iraqi War etc.), and the despotic governance of Arab countries.
Here, I easily look back on the Egyptian sufferance history.

Egypt had experienced the long history of colonial ruled by different ethnic groups.
After Islamic Empire that achieved great unification, Egypt was ruled by Turkish dynasty since the thirteenth century, then by Osman empire, and was invaded by Napoleon in the 18th century.
Subsequently, it was governed by the Albanian dynasty (Muhammad Ali), next became a colony of Britain in the late 19th century, and became an token independence kingdom in the early 20th century.

An epoch of revolution began before long.
In 1952, an officer corps expelled an king by a military coup and worked on the modernization.
In 1956, President Nasser declared the nationalization of the Suez Canal, and after the second Middle East war against the Israel, Britain and France forces, he obtained this.
He received help of the Soviet Union for Aswan High Dam construction, and pushed forward construction of an Arabic socialist state.
However, in 1967, Nasser was defeated completely by the third Middle East war against Israel and reduced his prestige.

Military regimes like this in Egypt continued in common with other Arabic countries.

This continues the next time.

 
彼らはなぜ激化したのか?
無数にある過激派を一括りに論ずることは出来ませんが、その誕生には中東アラブに特有の事情があります。
それは中東戦争(イスラエルとパレスチナの対立)、欧米の政治・軍事介入(イスラエル支援、イラク戦争など)、アラブ諸国の強権的な政体などです。
ここでは、エジプトの苦難の歴史を簡単に振り返ります。

エジプトは悲運な長い歴史、異民族による支配の歴史を背負っていた。
大統一を果たしたイスラム帝国だったが、エジプトは13世紀からトルコ系王朝、次いでオスマン帝国に支配され、さらに18世紀ナポレオンに侵攻された。
続いてアルバニア系王朝(ムハンマド・アリー)の支配を受け、19世紀後半になると英国の植民地になり、20世紀初めに形だけの独立王国となる。

やがて画期が訪れます。
1952年、将校団が軍事クーデターで国王を追放し、近代化に取り組みます。
1956年、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言し、イスラエル・英仏軍との第2次中東戦争の末、これを手に入れた。
彼はアスワン・ハイ・ダム建設のため、ソ連の援助を受け、アラブ社会主義政策を進めた。
この時、エジプト国民とアラブ諸国は民族の隆盛が間近だと沸き立ち、エジプトはアラブの盟主となった。
しかし、1967年、ナセルはイスラエルとの第3次中東戦争で完敗し、名声を落としていった。

エジプトも他のアラブ諸国と同様に軍事独裁政権が続くことになった。

 
次回に続きます。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 23: マデイラ島 1


 

1

< 1.ボタニカルガーデン >

 

今日から大西洋に浮かぶマデイラ島を紹介します。

我達が訪問したのは2016年3月9日10:00~15:00です。

この日は快晴に恵まれました。

 

 2

< 2. 朝、寄港 >

上の写真: 遠くに島影が見え始めた。

中央の写真: マデイラ島の東側。

下の写真: フンシャルの港から西側を望む。

 

 

 

マデイラ島について

ここはカサブランカから西に900km、テネリフェ島から北に500kmの位置にあります。

この島はポルトガル領マデイラ諸島の主島で、最大長さは57kmあり、人口は27万人です。

今回は、最大都市で首都のフンシャルに寄港し観光します。

 

この諸島はローマ時代から知られていたが、15世紀初め、大航海時代にいち早く乗り出したポルトガルによって植民地とされた。

その後、新大陸との重要な中継地として発展する。

交易で訪れたコロンブスがこの地の領主の娘と結婚し、フンシャルで航海論を学んだ。

現在は、ヨーロッパのリゾート地として、観光産業が主要産業になっている。

 

 

3

< 3.地図、すべて上側が北側 >

上の写真: マデイラ島。

黄色枠が今回観光するフンシャル。

 

下の写真: フンシャルの拡大。

赤い楕円がクルーズ船、No。1はボタニカルガーデン、No.2はラヴラドーレス市場です。

黄色の線はフリーで徒歩観光したルートで、約2.5kmです。

 

 

 

4

< 4. 街並み >

上の写真: 観光するフンシャルの中心部。

中央の写真: 海岸沿いの道路。

下の写真: 上記道路から山側を望む。

 

 

5

< 5. ボタニカルガーデンに向かう >

 

私達のバスは曲がりくねった急峻な坂道を上って行く。

 

 

 

6あ

< 6. ボタニカルガーデン1 >

 

至る所、色とりどりの花が青空に映えていました。

ここはかって個人の別荘だった。

 

 

 

7

< 7. ボタニカルガーデン2 >

 

緑も豊かです。

 

8

< 8. ボタニカルガーデン3 >

 

さすが「大西洋の真珠」と謳われている景観です。

 

https://www.youtube.com/watch?v=rAIY7n2olmM

この公園を映した40秒のビデオ映像です。

 

 

 

9

< 9. ボタニカルガーデン4 >

 

 

 

10

< 10. ボタニカルガーデン5 >

 

ガーデンで出会った人々。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 9:  Visiting Tango Peninsula 1


 

但馬海岸から丹後半島を巡って 9: 丹後半島を巡る 1

 

1

< 1. The island of Taiza fishing village >
< 1. 間人(たいざ)の城島 >

From today, I introduce Tango Peninsula in North Kyoto.
今日から、京都北部の丹後半島を紹介します。

 

2全体地図
< 2. maps of Tango Peninsula and Amino >
< 2. 丹後半島と網野の地図 >
Upper map: the red line is our route of Tango Peninsula.
The top of the map shows the north.
Today, I introduce No. 1 Amino, No. 2 Taiza, and No. 3 Tateiwa rock.

Lower map: this is a satellite photo that is a expansion of Amino (NO.1) in the upper map.
The top of the map shows the south.
No. 1 is the ancient burial mound of Choshi mountain I introduce today.
NO.2 is a peninsula with an ancient burial mound in the lake, NO.3 is the beach, and No. 4 is Amino fishing port that I introduced previous time.

上の地図: 赤線が私達がドライブした丹後半島のコースです。
上が北です。
今日、紹介するのはNo.1の網野、No.2の間人、No.3の立岩です。

下の図: 上図のNO.1の網野を拡大した衛星写真です。
上が南です。
今日、紹介する銚子山古墳はNO.1です。
NO.2は離湖の古墳がある半島、NO.3は八丁浜、NO.4は網野漁港で、前回紹介しました。

 

3銚子山
< 3.  the ancient burial mound of Choshi mountain >
< 3. 銚子山古墳 >
Upper map: this ancient burial mound was built on the edge of the small hill at the end of fourth century.
The top of the map shows the north.
We walked along the brown line.

Lower map: a detailed map of the ancient burial mound.
The large keyhole-shaped tomb mound in the center is 200 meters in the total length, 20 meters in height, and has two small ancient burial mounds at the both sides.
This ancient burial mound is the largest in the Sea of Japan side, and “ three ancient burial mounds by the Sea of the Japan” including it are all in this Tango Peninsula.

It suggests this area were connected to Yamato sovereignty in Nara, and this king had extensive authority.
In addition, we saw this area were connected with the continent at previous time.

上の地図: この古墳は小高い丘の端に、4世紀末に造られた。
上が北です。
私達は茶色の線を歩きました。

下の地図: 古墳の詳細図。
中央の前方後円墳は全長200メートル、高さ20メートルで、その両側に二つの小さな古墳を持っている。
この古墳は日本海側で最大級であり、丹後半島にはこれを含めた日本海三大古墳がある。

如何にこの地が奈良のヤマト王権に繋がり、ここの王が力を持っていたが伺える。
また、大陸とも繋がりがあったこも前回見ました。

 

 

4a

< 4. walking on the top of the ancient burial mound  >
< 4.古墳の頂上を歩く >
Upper photo: walking the northeast side of the burial mound.
You can see the steps at the end of the road.

Lower photo: a view of top like circle mound from under the steps.

上の写真: 古墳の前方部(北東側)を歩いている。
奥に階段が見える。

下の写真: 階段下から後円部の頂上を見ている。

 

5a

< 5. Views from the burial mound  >
< 5. 古墳からの眺め >
Upper photo: a view of seaside from the circle mound.
When it was built, under this mountain was a lagoon.

Lower photo: a view of the mountain side (southeast side) from the road.

上の写真: 後円部頂上から海側を見ている。
これはパノラマ合成写真で、通常より視野角は広い。
古墳が造られた当時は、この直ぐ下が潟湖だった。

下の写真: 前方部から山側(東南側)を見ている。
丘の上は畑作が行われていた。

 

6
< 6. seashore on the way to Taiza >
< 6. 間人までの海岸 >
Upper photo: a small hill thrusting into the sea is around Taiza.
Lower photo: looking back at our road from Taiza.

上の写真: 海に突き出した小山が間人の城島です。
下の写真: 間人側から来た道を振り返る。

 

7

< 7.  Taiza fishing village >
< 7. 間人(たいざ) >
Upper photo: a small island connecting the village with a bridge.
Central photo: a shrine in the island.
Lower photo: the fishing port.

This port is famous for snow crab, and this area has many legends concerning Prince Shotoku ( the 6th -7th century).
In addition, there was once a custom of facing a dead person toward continent and burying it.
This also indicates the connection with an Imperial Court of Nara in ancient times and with the continent.

上の写真: 城島。
中央の写真: 城島の神社。
下の写真:  間人漁港。

この地はズワイガニ(間人蟹)で有名で、聖徳太子に纏わる伝説が多い。
また、死者を大陸に向けて埋葬する風習がかって残っていた。
ここにも、奈良の古代朝廷と大陸の繋がりがあった。

 

8

<  8. inlet of the port >
< 8. 間人の入り江 >
we see colorful seaweeds in pellucid seawater.

透明な海中に色とりどりの海藻が見える。

 

9
< 9.  going a circuit of the island >
< 9. 島を一周 >

 

10
< 10. Tateiwa rock >
< 10.立岩 >
高さ20mの柱状節理の岩が海岸に突き出している。

Impression
I was often surprised when I went round this peninsula without preparing.
This secluded area facing the Sea of Japan had ever the connection with continent and ancient Nara.
I find an ancient romance in original scenery of Japan.

This continues the next time.
感想
下調べもせずに、この地を巡っていると驚くことが多かった。
この日本海に面したへんぴな地が、かつては大陸と古代の奈良と繋がりがあったのです。
原風景の中に古代のロマンを見た。
次回に続きます。

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Bring peace to the Middle East! 21: about terrorism 1 : at the beginning


中東に平和を! 21: テロについて 1: はじめに 

 

1 パリ同時多発テロ

< 1. November 2015 Paris attacks >
< 1.パリ同時多発テロ >

From now, we consider miserable incidents happening in the Middle East and terrorism happening frequently in the world.
We will understand what is necessary to keep on our peace by knowing about the backdrops of these miserable incidents.

これから、中東で起こっている悲惨な事件や世界で頻発するテロについて考察します。
これら悲惨な事件の背景を知ることにより、平和を守るためには何が必要かがわかるでしょう。

 

 

2イスラエル軍

< 2. Invasion of the Israeli military >
< 2. イスラエル軍の侵攻 >

At the beginning
Many suicide attacks are repeated in the Middle East, and terrorism killing many citizens occurs frequently in Europe and America.
We feel resentment at the suicide bomb attacks that kill many citizens and it is above the comprehension to person living peacefully.
Recently, it becomes provocative and increases.
For half a century, in the Middle East, governments in many countries did military incursions and slaughtered many people, against them radical extremists massacred private citizen, and assassinations of main persons occurred also.
There isn’t a sign of their stopping.

There are two measures for this situation.
One of these is to make the arrest or a clean sweep of the radical extremists.
It is necessary to perform this by the armaments and police force, but it falls into the vicious circle, and it shows no sign of the settlement.
There is examples that succeeded by drastic treatment if looking back on history, but in this time the background of the terrorism becomes gigantic and spreads over the world.

Then other one of these is to remove the background generating the terrorism.
It is necessary to cut off the present vicious circle, but very difficult.

In first step, while performing the former measures, we understand the background of the terrorism, and people of the world need to acknowledge what we have to do to cut off the vicious circle.

はじめに
中東で自爆攻撃が繰り返され、さらに欧米で市民が殺害されるテロが続発しています。
私達は市民を巻き添えにする自爆テロに憤りを感じ、平和に暮らす者にとっては理解を越えます。
最近とみに、挑発的になり増加しています。
中東では、ここ半世紀、政権側からの軍事侵攻や虐殺、対して過激派による民間人殺戮が続き、また重要人物の暗殺も起きています。
止む気配はありません。

この状況に対して二つの対策があります。
一つは、テロ集団の逮捕か掃討でしょう。
これを軍事力や警察力で行う必要がありますが、悪循環に陥り、なかなか解決の目途がつきません。
歴史を遡れば、荒療治で成功した事例はありますが、今回はテロを生む背景が巨大化し世界に蔓延してしまっている。

次いで、テロを誘発している背景を取り除くことが考えれらます。
現状の悪循環を断ち切るには必要な事ですが、言うは易く行うは難しです。

とりあえず言えることは、前者の対策を実践しながら、テロ頻発の背景を理解し、悪循環を絶つ為に何をすべきかを世界の人が自覚することです。

 

 

3 過激派

< 3. radical extremists >
< 3.過激派 >

Questions about terrorists
“Why do they do suicide bombing attacks and assassination?”
“Are Muslims brutal?”
“Do they believe to go to heaven by terrorism (jihad)?”

In this serialization, I investigate the darkness of minds of people performing terrors and suicide bombing attack and the historic background where terrorism is repeated on.
As a result, you become to know the truth of the mentioned question, and will be to notice prejudice and preconception.

私達がテロリストに抱く疑問
「彼らはなぜ自爆テロや暗殺をするのか?」
「彼らムスリマは凶暴なのか?」
「彼らはテロ(ジハード=聖戦)によって天国に行けると信じているのか?」

この連載では、テロや自爆攻撃を行う人々の心の闇に迫り、テロが繰り返される歴史的背景を探ります。
このことにより、上記疑問に対する真実が見え始め、偏見や先入観に気づくことでしょう。

 

4ソンミ村

< 4. My Lai Massacre >
< 4.ソンミ村虐殺事件 >

What I would want you to doubt firstly
What does atrocity mean?
Is it a shooting rampage in America that happened recently and a terrorism by reckless driving truck in France ?
Is it one atom bomb dropped in Hiroshima or indiscriminate bombings in Chongqing or Dresden?
By their attacks, many citizens became victimized, but their attacks are different about under a non-wartime or wartime.

Dead people in the Vietnam War reached approximately 8 million people, but a incident when the United States had to withdraw from Vietnam was the slaughter of Son My village generated 504 dead people.
The degree that we cry with anger doesn’t depend on a number of dead people or massacre weapon, instead, depends on situation that we can feel it closely.

For example, it depends on whether the victim is accessible person or you can know the cruel situation by pictures.
In addition, the problem of “under wartime” is delicate, for example, the understanding about the Pearl Harbor attack is the opposite between Japan and the United States, and it is an indignation thing for the the United States.
We often justify own barbarity and try to escape from a sense of guilt.

It is difficult to judge slaughter fairly, and we often capture it superficially and emotionally
Nothing can be done about this, but it becomes to disturb the understanding and arbitration of dispute.

はじめに疑って欲しいこと
悲惨で残虐な行為とは何でしょうか?
最近起きた米国の銃乱射やフランスのトラック暴走によるテロでしょうか。
広島に落とされた一発の原爆、または重慶やドレスデンの無差別爆撃でしょうか。
非戦時下と戦時下の違いはありますが、これらは共に多くの市民が犠牲になっています。

ベトナム戦争で双方の死者は約800万人に達したが、米国が撤退をせざるを得なくなった切っ掛けはソンミ村虐殺事件の死者504人でした。

私達が悲憤にかられる度合は、死亡者の数や殺戮兵器によるのではなく、それが身近に感じられるかにかかっています。
例えば、被害者が身近であるか、残虐な状況が映像などによって知り得るかにかかっているのです。
また戦時下云々も微妙で、真珠湾攻撃は日米で捉え方が真逆で、米国民にとっては悲憤ものです。
人は往々にして、自らの残虐行為を正当化し罪の意識から逃れるものです。

私達は、虐殺を公平に判定することは難しく、多くは感情的で表面的に捉えることが多いのです。
これは仕方のないことですが、紛争の理解や仲裁には妨げになります。

 

5広島原爆

< 5. one atom bomb dropped in Hiroshima >
< 5.広島原爆投下 >

This continues the next time.

次回に続きます。

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地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 22: クルーズ船での愉しみ


1

< 1. レセプション・ホール >

 

今日は、クルーズ船内の楽しみ方を紹介します。

私達は初めて経験したのですが、大いに愉しみました。

詳しく奉公します。

 

 

 

2

< 2.エンタテイメント >

上の写真: 2000名収容のシアター。

中央の写真: たくさんのバーやカフェ、レストランで演奏が行われている。

下の写真: レセプション・ホールでのクラシック演奏。

 

私達夫婦は、ほぼ毎日、シアターで約90分のショーを見ました。

ショーは夜2回あり、夕食の前後で見れるようになっています。

入場は無料で、入退出も自由です。

ショーは歌(オペラのダイジェスト、ポップスなど)とダンス、アクロバットを融合させたもので、人気歌手の物真似もあります。

英語かイタリア語で行われますが、言葉を理解出来なくても楽しめます。

出演者は毎回同じで、新鮮味は欠けますがイタリアのショーを楽しめるのが一番です。

 

小編成のバンド演奏や歌は、毎夜、船内の6か所以上で無料で行われています。

多くの客が連れだってペッボトル(水)持参で、会話と音楽を楽しんでいました。

 

 

 

3

< 3. ダンスレッスン >

https://www.youtube.com/watch?v=NpDaW_FGH3k

ダンスレッスンの18秒間のビデオです。

 

毎日数回、何処かで30分以上のダンスレッスンが行われています。

自由に参加出来ます。

私は社交ダンスを期待していたのですが、多くはスピーディーでリズミカルなダンスが多い。

インストラクターは男女二人で、すべてを指導していました。

彼らは、チークダンス、フォークダンス、コミカルなダンス、はては太極拳まで教えてくれました。

 

私はステップについていくのがやっとでしたが、多くの参加者は楽しんでいました。

ダンスを愉しみにしている日本人客が多かったのには驚いた。

ダンスフロアーのあるバーが数か所あり、夜になるとダンスを楽しむことが出来ます。

外国の方と混じって、ダンスをするのも楽しいものです。

 

 

 

4

< 4. ゲーム >

毎日、何らかのゲームがあり、うまくやれば簡単な賞品がもらえます。

自由に参加できます。

私は一つだけ参加しました。

 

 

 

 

5

< 5. コンテスト >

コンテストも色々ありますが、これは料理コンテストです。

コックの手本を見聞きしてから、三人の参加者が競いました。

脇でいつも場を盛り上げる若いアシスタント達(メキシカンスタイル)が楽しい。

イタリア語が主で、英語も少し喋れるようです。

 

 

 

6

< 6. クラフト >

 

これは台紙と紙のリボンを使って作るクラフトです。

私達は3回ほど参加しましたが、直ぐに外国の人と親しくなれます。

日本人は概して器用なようです。

写真はイタリアの親子です。

 

 

 

 

7

< 7. ちょっと贅沢 >

上の写真: 多くのお客さんは、このようなカフェやバーでくつろいでいます。

中央の写真: 私たちも、フォーマルデイナーにはそれなりの恰好で・・・

下の写真: 船内には常設のショップがあるのですが、クルーズも終わりかけると臨時の売店が並びます。

 

 

 

 

 

 

8

< 8. ジャグジー >

上の写真: 船首側から中央を眺める。

3月中旬なのですが天気が良い日には、デッキは人で一杯になる。

風が無ければ寒くありません。

 

下2枚の写真: 屋根付きプール。

 

私たちは終日クルーズの時に、ジャグジーに2回入りました。

湯温は少し低めですが、写真のような屋根付きジャグジーなら寒くはありません。

部屋で水着を着ておき、サンダルを履いてバスタオルを持って行きます。

何人かと一緒に入るのですが、嫌な思いをすることはありませんでした。

むしろ、世界中の人と気安く声をかけるチャンスでした。

イタリア?やドイツ?、シンガポールの人に声かけ、中には大変喜んでくれる人もいました。

 

 

 

 

9

< 9. デッキを散歩 >

上2枚の写真: 船首側から中央を眺める。

 

下の写真: 船尾側のプールがあるデッキ。

 

このデッキで写真撮影や散歩を楽しみました。

船尾側デッキは、船首側と違って広い視界が得られる。

 

 

 

10

< 10. 出会い >

上の写真: 早朝、写真撮影の為にデッキに出ていると、後ろから声をかける人がいました。

彼は、娘さんが日本人と結婚したことを私達に嬉しそうに話してくれました。

彼はイタリア人ですが、我々と片言の英語と日本語で歓談した。

 

ビュッフェやエレベーターなどでも、幾度が外国の方と言葉をかけ合うことがあった。

概ね気安く応対してくれるのはドイツ人のようです。

これはドイツ人が遠方からクルーズに来ることで客層が異なっているからかもしれません。

 

下の写真: 彼はレストランのボーイで、家族を残して出稼ぎに来ている。

彼の故郷はモーリシャスで、いつか帰って観光業で働くのが夢のようです。

日本人担当のボーイの多くは、東南アジアや南米の人でした。

 

クルーズ旅行とバス旅行の大きな違いは、外国の方と何日間も一緒に暮らすことで、思わぬ出会いがあるかもしれません。

 

 

感想

今回のツアー参加の動機は、大げさに言えば一生に一度、クルーズ旅行をしておきたかったからです。

初めての経験なので、色々不安があり、充分に準備しました。

結果は、スリに2回あった以外は、すべて予想以上の満足が得られました。

 

一方で、三つの事に気付きました。

やはり英語の出来ないことは残念でしたが、たとえ英語が出来ても、世界の人達(イタリア、フランス、スペイン、中国)と交流出来ないことを思い知りました。

もっとも遠方からクルーズに来る外国人は英語が話せる人もいるようでしたが。

 

イタリア人などヨーロッパのクルーズ客の様子を見ていると、寄港地での観光や、船内の楽しみ方に日本人と大きな違いがある。

彼らは日本人のように個人や夫婦がパック旅行で観光を楽しむのではなく、特に地元イタリア人は子連れの家族や親類縁者が大勢一緒に休暇を楽しむようです。

彼らは寄港地でも、徒歩かシャトルバスなどで現地に向かい、自由に街歩きを楽しむようです。

彼らにとってクルーズは贅沢な観光と言うより、皆でのんびり楽しむ船旅のようです。

 

私達夫婦にとってクルーズ旅行は合わないと感じた。

やはり好奇心を満足させる為には、バスで観光地を巡り、朝夕、ホテル周辺を精一杯歩き回り、探索する旅が私達には必要でした。

クルーズ旅行は異なる自然や国を一度に見れるメリットはあるのですが、バス旅行は地域全体の繋がり、自然や歴史、文化を全体で捉えることが出来る。

 

人によっては、食事などでツアー参加者との接触時間が長くなり、面倒臭くなるかもしれません。

結局、クルーズは余暇を楽しむ余裕があり、足腰が弱ってから参加すべきだと思った。

日本からのツアー同行者の多くは、私達よりも高齢でクルーズの常連さんでした。

 

今回は4回の終日クルーズがあり、色々参加して得難い経験をした。

これもまた楽しい旅だった。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 8:  the early-morning view


但馬海岸から丹後半島を巡って : 朝の景色

 

 

 

1 

< 1.  Sunrise of the lake  >

< 1. 離湖の朝 >

 

I introduce the early-morning view of Amino town facing the Sea of Japan today.

I took a walk around two beaches, a lake and port early in the morning.

It was cloud in the morning, but there was attractive atmosphere.

 

今日は、日本海に面した網野町の朝の景色を紹介します。

早朝、池と港、そして二つの海岸を散策しました。

朝は雲が出ていましたが、風情がありました。

 

 

 

 

2 

< 2.  Sunrise of the lake >

< 2. 離湖の朝  >

The circumference of the lake is about 4 km, and it is the largest freshwater lake in North Kyoto.

A small mountain in the center is a peninsula, and is also an ancient burial mound.

An angler fixedly had looked at a surface of the lake.

 

周囲4kmの京都北部で最大の淡水湖で、海岸まで500mの位置にあります。

中央に見えるのが湖中央に突き出た半島部の小山で、古墳があります。

釣り人がじっと湖面を眺めていました。

 

3-1

3-02

 3-3

< 3.  A beach >

< 3. 八丁浜 >

Upper photo:  view of the west side from a center of the beach.

You can find Amino port in the back of the beach.

 

Central photo:  view of the east side from the west edge of the beach.

The scenery over the beach is Amino town that is famous for Tango Chirimen (a high-quality silk).

 

Lower photo: view of the north east side from the west edge of the beach.

Today, we are going to go in this direction and go around Tango Peninsula.

 

This big sandy beach will be full of swimmers in this summer.

 

https://www.youtube.com/watch?v=8e-DImZiZD8

I shot a video of this beach, and the video footage is 25 seconds.

 

上の写真: 浜の中央から西側を見ている。

奥に網野漁港が見えます。

 

中央の写真: 浜の西端から東側を見ている。

丹後ちりめんで有名な網野の町が広がっている。

 

下の写真: 浜の西端から北東を見ている。

今日は、この方向に進み丹後半島を一周します。

 

ここは大きな砂浜で、夏は海水浴客で賑わうことでしょう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=8e-DImZiZD8

これはこの浜を映した25秒の映像です。

 

 

 4 港

< 4.  Amino fishing port >

< 4. 網野港 >

 

This port was made in the mouth of a river.

Upper photo:  view of seaside from a place on the breakwater.

Lower photo:  view of the upper stream from same place on the breakwater.

 

When I took a walk, I looked at a small Shinto shrine.

A signboard standing by the shrine said “here is the place of the Legend of Urashima Taro”.

The Urashima Taroa is a famous Japanese fable, and behind the story were concepts concerning Taoist immortality of ancient China.

I hit on an idea.

There are many ancient burial mounds in this Amino town.

This area is in an inconvenient location facing the Sea of Japan, and furthermore, the scale of the port is small.

Nevertheless, the scale of this Amino town is large.

I guess this area was a sea gateway to Korean Peninsula and Mainland China since ancient times.

I enjoyed thinking such thoughts.

 

On the next time, I introduce a maximum ancient burial mound in this district.

 

ここは河口に出来た漁港です。

上の写真: 防波堤に立ち海側を見ている。

下の写真: 防波堤に立ち、川の上流を見ている。

 

散歩していると小さな祠があり、浦島太郎伝説の地と書かれていました。

思い当たることがありました。

この網野町には古墳が多いのです。

さらに日本海に面した不便な地にあって、漁港が小さいにも関わらず、町の規模が大きいのです。

きっと、古来より朝鮮半島や中国大陸との海の玄関口だったのでしょう。

想像しているだけで楽しくなります。

 

次回、この地方で最大の古墳を紹介します。

 

 

 

 5-1

5-2

5-3

< 5. Kotohiki Beach >

< 5. 琴引浜 >

 

This beach is famous for Naki-suna(the sand making sounds when people walk on it), and a beautiful beach surrounded by a nature.

 

This continues next time.

 

ここは「鳴き砂」で知られた海岸で、自然に囲まれた美しい海水浴場です。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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