クロアチア・スロベニアを巡って 26: 傷痕の町モスタル 5


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< 1. 「ネレトヴァの戦い」で破壊された橋 >

 

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の背景に迫ります。

そこには民族と宗教の皮肉な歴史がありました。

 

はじめに

写真1は、 1943年の「ネレトヴァの戦い」で破壊され保存されている橋です。

この戦いはネレトヴァ川で行われた。

第二次世界大戦中、劣勢のパルチザンはドイツ軍との戦いで大きな犠牲を出しながら後退していた。

この戦いでチトー率いるパルチザンが全滅を免れたことで、同年の旧ユーゴに誕生につながった。

 

 

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< 2. ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡 >

 

上の写真: スレブレニツァ虐殺記念碑の墓地。

1995年、セルビア勢力がスレブレニツァの町に侵入し制圧を終えると、ムスリマの男性を1週間ほどで即決処刑し、その数は約8000人に及んだ。

この時、国連平和維持軍はいたが無力な為、制止できなかった。

 

中央の写真: 当時の避難する人々。

下の写真: 当時のモスタル郊外の惨状。

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< 3. 戦いの果てに >

 

上の写真: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時のサラエボの惨状、セルビア勢力、国連平和維持軍。

 

中央の写真: 紛争前後におけるボスニア・ヘルツェゴビナ内の民族分布。

緑色はムスリマ(Bosniaks)、赤色はセルビア人、青色はクロアチア人(HRVATI)を示す。

黄色い点はモスタルを示す。

ムスリマへの壮絶な民族浄化は、その後の棲み分けを決めた。

 

下の写真: 現在のボスニア・ヘルツェゴビナは桃色のセルビア人と青色のムスリマとクロアチア人との連邦になっている。

 

悲劇の遠因、歴史の皮肉

この内戦では同じ南スラブ民族の三つの民族が戦ったが、敵味方の識別は宗教の違い、カソリックと正教会、イスラムでした。

最も残虐だったのは正教会勢力(セルビア人)で、その大統領は国際裁判所で戦争犯罪の公判中です。

村を焼かれ多くの青年が殺され追い出されたのはムスリマでした。

彼らは数百年前「ボスニア教会」と呼ばれる異端のキリスト教徒で迫害を逃れ、この地に移り住み、オスマン帝国の時代にイスラムに転じた。

やがて彼らは地主や富裕層になり、キリスト教徒であるクロアチア人やセルビア人を使役するようになった。

 

時は下り、南スラブ人の大連合を成し遂げた旧ユーゴ時代、初代大統領チトーは異なる宗派や民族の融和を図るために、人々の混住化を推進した。

そして平和な半世紀が過ぎた。

しかし、瑣末な意見の食い違いが生じ、やがて指導者の野望と民衆の疑心暗鬼が一体となって戦端が開かれると、一気に憎悪と不安が燎原の火のように広がっていった。

 

彼らは歴史的な怨念を互いに多少持ってはいたが、先日までは仲良く暮らしていたのです。

 

 

次回から、次の観光地を紹介します。

 

 

 

 

 

 

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クロアチア・スロベニアを巡って 25: 傷痕の町モスタル 4


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< 1.石橋は紛争で破壊された >

 

のどかな山間の町が一瞬にして地獄になったことがありました。

それはボスニア・ヘルツェゴビナを民族浄化一色に染めた紛争でした。

 

 

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< 2. ネレトヴァ川と一本の道 >

 

上の二枚の写真: 下流側(南側)を望む。

川の左側(東側)に旧市街があり、ムスリマは旧市街を中心に川を挟んで住んでいた。

川の右側を平行に走る道(一番下の写真)を境にして、紛争時、クロアチア勢力がムスリマの街を攻め、分断するために石橋を破壊した(写真1)。

 

上から三番目の写真: 上流側(北側)を望む。

一番下の写真: 北側を望む。

右側にネレトヴァ川と旧市街があります。

 

 

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< 3. 紛争によるモスタルの傷跡 >

 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995年)について

この紛争は一連のユーゴ内戦(1991~2001年)で最大の被害、20万人の死者と250万人の難民・避難民を出した。

 

ユーゴ内戦は、旧ユーゴを構成する6つの共和国から独立を宣言する国が出たことが引き金になった。

独立の是非を巡って、それぞれの国内の民族と宗派が対立し、セルビアが主導権を握る旧ユーゴ連邦軍が介入し戦争は拡大した。

最初にスロベニアが10日間戦争で1991独立し、ついでクロアチアが内戦(1991~1995)を経て独立することになる。

このクロアチア内戦でクロアチア人とセルビア勢力が戦っていた。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナでは主導権を持つムスリマとクロアチア人、セルビア人が共に暮らしていた。

ムスリマとクロアチア人が独立宣言を模索し始めると、それを阻止する為に国内のセルビア人と隣国のセルビア軍、旧ユーゴ連邦軍が戦端を開いた。

 

ところが分割案を巡ってクロアチア人とムスリマも対立した。

ムスリマは、それぞれ隣国から支援を受けるクロアチア勢力とセルビア勢力に攻められ苦境に陥った。

この時、凄惨な民族浄化が起きた。

 

やがて国連と多国籍軍が停戦に向けて動き、NATO軍によるセルビア勢力への空爆、そして米国の仲介によって紛争は終結した。

その後、難民流入と民族問題で南部のコソボ、マケドニアへと戦火は広がった。

 

 

次回、悲劇の背景に迫ります。

 

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Went around Croatia and Slovenia 24 : Deeply scarred Town Mostar 3


クロアチア・スロベニアを巡って 24: 傷痕の町モスタル 3

 

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< 1. I look at the old city from a riverside restaurant of Neretva >

< 1.ネレトヴァ川沿いのレストランから旧市街を眺めた >

 

A sequel to the introduction of Mostar

モスタル紹介の続きです

 

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< 2. Views of Strai Most (old bridge) from both sides >

< 2. 両側から見た石橋 >

 

Upper photo: A view from the yard of the mosque.

A large cross stands on the top of the mountain.

Lower photo: A view from the riverside on the downstream side.

A man just is going to jump into the river from the top of the bridge.

Each time he gets money, he jumps.

There is the jumping event annually here.

上の写真: モスクの庭からの眺め。

山頂に大きな十字架が立っている。

 

下の写真: 下流側の川辺から。

橋の上の中央から男性が今にも飛び込もうとしている。

彼はお金を貰っては飛び込んでいる。

年一度、ここで飛び込みの大会があります。

 

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< 3. Visit to “Turkish house” in the old city >

< 3. 旧市街の「トルコの家」を訪ねて >

 

Upper photo: The minaret that we climbed can be seen.

Central photo: When we were badly bunkered as we don’t find “Turkish house” at a map of a signboard, somebody called to us from behind and taught the pathway to it.

This kind man is the left side on the photo.

I think the map indicated not “Turkish house” but “Ottoman house”.

 

Lower photo: “Turkish house”

When we arrived on it, we looked at only the entrance and had to return because our free time just was over.

 

上の写真: 私が登ったモスクのミナレットが見える。

中央の写真: 私達は看板の地図に「トルコの家」が見つからなくて困っていました。

すると後ろから声を掛けてくれる人がいて、道を教えてくれた。

その人が、写真左側の人でした。

看板には「トルコの家」ではなく「オットマン・ハウス」と表記されていたように思う。

 

下の写真: トルコの家。

辿り着いた時には戻る時間になっていて入口を覗くだけで引き返した。

 

We left Mostar and went to the next stage.

 

モスタルを出て、次の宿泊地に向かう。

 

 

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< 4. We left Mostar >

< 4. モスタルと別れる >

 

Lower photo: I looked back toward Mostar located in the valley from the downstream side of Neretva.

下の写真: ネレトヴァ川の下流側から谷間にあるモスタルを振り返る。

 

 

 

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< 5. We parted from the Neretva >

< 5. ネレトヴァ川とも別れる >

 

We part from the Neretva at here, passed through the high plateau and went to the Adriatic Sea.

ここでネレトヴァ川とも別れ、高原を抜けてアドリア海岸へと向かう。

 

 

 

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< 6. We passed through the high plateau >

< 6. 高原を抜けて >

 

This high plateau was a dry zone as a whole, but there also were lush green places.

 

On the next time, I introduce another scenery of Mostar, and Bosnian War.

 

高原は乾燥地帯だが、緑豊かな所もあった。

 

次回は、モスタルの新市街とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を紹介します。

 

 

 

 

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桂林を訪れました 15: 最後に


 

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< 1. 少数民族雑伎ショー >

 

今日で、この旅行記を終えます。

書き残したことや雑感を記します。

 

 

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< 2. これまでの記事の巻頭写真 1 >

 

この桂林旅行は2015年9月初旬に3泊4日で訪れたものです。

予想通りに天候に恵まれ、漓江下りと龍背棚田の景色を堪能しました。

また大墟古鎮やヤオ族の村の見学は短い時間ではあったが楽しめました。

 

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< 3. これまでの記事の巻頭写真 2 >

 

少し残念なことは、ヤオ族の風習や宗教などに触れる時間がなかったことです。

それでも得るものはありました。

しかし、思わぬ拾いものが別でありました。

それは下の写真です。

 

 

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< 4. 花山岩画 >

 

これは中国が2015年に世界遺産登録を申請したものです。

私達が穿山岩の鍾乳洞を見学していると偶然、この展示ポスターを見つけました。

これはこの広西省にあって、約2千年前にチワン族の祖先によって岩に描かれた絵でした。

この人物像のデザインは他の大陸では1万年前に遡ることがあります。

中国にはこの手の古い岩絵が少ないので、何だか嬉しくなりました。

 

 

 

5あ

< 5. 桂林 1 >

 

中国の奥地にあって、開発が遅れていると思っていたのですが、そうではなかった。

田園地帯に行っても建設中の家屋や、郊外にも高層マンションが林立していました。

郊外に産業団地があるのですが、研究所や公害を出さない事業体が誘致されていた。

町中を走っている車やバイクはほとんど電動車だそうです、公害防止の為に。

都市部を少し離れるとそこら中、砂埃をあげて道路工事やビルの建設中でした。

 

 

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< 6. 桂林 2 >

 

私達夫婦は毎朝晩、町中を歩き回りましたが、危険や不安を感じることはなかった。

二軒の本屋の店員も、夜、道に迷って宝石店の店員に道を尋ねても、皆丁寧に対応してくれた。

残念ながら言葉は通じなかったが。

 

少数民族の雑伎ショーには私の期待していた少数民族の風習や暮らしを紹介するものはなかった。

それでも巻頭写真にあるような男女の掛け合いの歌は、山岳民族に最近まで続いていた「歌垣」を思わせるものがあった。

この歌による求婚方式は、日本では奈良時代で消えてしまった。

 

ここでは観光業に力を入れることにより、少数民族は肩身の狭い思いをすることなく暮らしているように思えた。

ただ観光化が進みすぎて、保存すべきものが失われているのが残念です。

 

 

最後に

私は中国の訪問が7回目ですが、20年ほど前に比べて中国は力強く発展を続け、人々の振る舞いも変わってきているように思う。

経済格差、古いものと現代的なもの、汚いものと洗練されたもの、ごった煮の状況は変わらないが。

 

やっと念願の奥地の桂林を訪問し、満足して去ることが出来ました。

皆さん、お読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 23 : Deeply scarred Town Mostar 2


 

クロアチア・スロベニアを巡って 23: 傷痕の町モスタル 2          

 

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< 1. Old Bridge made by stones >

< 1.石橋「スタリ・モスト」 >

 

Today, we go for a walk in the old town of Mostar.

This old town is a town of Muslims.

 

今日は、モスタルの旧市街を歩きます。

旧市街はイスラム教徒の町です。          

 

 

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< 2. Go to the old town >

< 2. 旧市街に向かう >

 

Upper photo: We just go out of the parking lot.

We left it at 11 A.M.

 

Central and lower Photos: The street lined with souvenir shops.

 

上の写真: 駐車場から出るところです。

私達は11時に駐車場を出発しました。

 

中央と下の写真: 通りには土産物屋が並ぶ。

 

 

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< 3. Go to the Old bridge >

< 3.石橋に向かう >

 

Upper photo: When I looked back, there were many traces of bullet on the store’s wall.

Lower photo: The gate of the Old bridge.

You can see the top surface of the bridge behind the gate.

 

This bridge was restored in 2004 after its old bridge was destroyed by a civil war in 1993.

This was reproduced in its original condition made in the 16th century.

 

上の写真: 振り返ると店舗の壁に銃弾の跡がありました。

下の写真: 石橋の門です。

門の向こうに階段状の橋の上面が見える。

 

この石橋は1993年の内戦で破壊された後、2004年に復元されたものです。

これは16世紀に造られた当時のままに再現された。

 

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< 4. Views from the top of the bridge >

< 4. 石橋の上から >

 

Upper photo: Downstream side of Neretva river.

Central photo: Old bazaar we are going to go from now is seen. 

 

Lower photo: Upstream side of it.

The minaret of a mosque we are going to climb after this is seen in the center.

 

上の写真: ネレトヴァ川の下流側。

中央の写真: これから行く旧市街のオールド・バザールが見える。

下の写真: 上流側。

これから登るモスクのミナレットが中央に見える。

 

 

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< 5. The Old bazaar >

< 5.オールド・バザール >

 

Mostar had prospered in trade, because it was located on a caravan route that linked the Adriatic Sea and the inland.

Mostar led to the Dubrovnik and Kotor that I already introduced.

The Old bazaar was a craftsman town that many copper craftsmen, tanners and tailors lived in.

There was an oriental atmosphere here.

 

モスタルは内陸とアドリア海を結ぶキャラバン・ルートにあり、交易で栄えて来た。

既に紹介したドゥブロブニクやコトルに通じていた。

このオールド・バザールはかつて銅職人やなめし職人、仕立屋などが住んでいた職人街です。

ここにはオリエンタルな雰囲気が漂っていた。

 

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< 6. Arrived at the mosque  >

< 6. モスクに来ました  >

 

Upper photo: We went into the yard of the mosque.

The central hexagonal building is intended for cleaning up hands and feet.

                                                                                                                    

Lower photo: In front of the mosque.

This Koski Mehmed pasa Mosque made in the 16th century is famous for a beautiful prospect.

 

上の写真: モスクの庭内に入って来た。

中央の六角形の建物は手足を洗い清めるところです。

 

下の写真: いよいよモスクに入ります。

これは16世紀に建てられたコスキ・メフメドパシャ・モスクで、眺めが良いので有名です。

 

 

 

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< 7. Inside the mosque >

< 7. モスクの中 >

 

Upper photo: there are a hollow of wall “ mihrab”, and a step-like preacher’s pew “ mimbar”.

Central photo: The ceiling.

Lower photo: The stairs inside the minaret.

 

上の写真: メッカを示す壁の窪み(ミフラーブ)と階段状の説教壇(ミンバル)が見える。

中央の写真: 天井。

下の写真: ミナレットの階段。

 

 

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< 8. A view from the top of the minaret >

< 8. ミナレットから見た石橋 >

 

It is a view of downstream side.

下流側を見ている。

 

 

 

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< 9. Views from the top of the minaret >

< 9.ミナレットからの眺め >

 

Upper photo: It is a view of upper streamside and the north side.

A spire on the left is a church near our parking lot.

 

Lower photo: I look at the old town of the east side.

 

This continues next time.

 

 

上の写真: 上流側で、北側です。

左に見える尖塔は私達の駐車場横にある教会です。

 

下の写真: 東側の旧市街を見ています。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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桂林を訪れました 14: 龍脊棚田 4


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  • * 1

 

今日で、この村の紹介を終わります。

非常に短い時間だったが、心地良い訪問だった。

 

 

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< 2. さらに上の村を目指して >

中央の写真: 軒先に掛かっている黄色いものはトウモロコシのようです。

 

赤い旗が見える一番高い村を目指して上ろうとしたが、私達には限界だった。

足は震え、心臓は躍っていた。

ここで折り返すことになったが、下りの道のなんと急なこと。

村人が日々、ここを行き来していることに驚かされる。

 

 

 

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< 3. 途中で出会った自然 >

 

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< 4. 村を振り返る >

 

上の写真: 私達は右に見えるの集落の下から半分を越えたに過ぎない。

この下にも集落があり、実に上下に延びる密集した大きな村でした。

日本の急斜面の山村はおそらく広く分散しているはずです。

ここにも中国が氏族や部族の繋がりを大事にしている様子が出ているようです。

 

下の写真: 帰る頃には、晴れ間が少し見えて来ました。

 

 

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< 5. 中国ドラマ「傾城の雪」 >

 

上の写真: 皇宮で行われた刺繍の大会。

下の写真: 雲南の婚礼衣装。

 

私達は旅行に行く前、中国歴史ドラマ「傾城の雪」にはまっていました。

このドラマは明時代の刺繍の名家が舞台で、蘇州の皇宮と雲南の村の文化を描いていた。

 

 

 

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< 6. ヤオ族の婚礼 http://sakuraproject.org/mien.html >

 

今回の旅行では民族衣装を見ることは出来なかったが、中国南部の少数民族の衣装には共通点があるように思える。

上記の写真と中国ドラマの婚礼衣装には、銀の装飾品、豪華な刺繍、黒と赤が基調になっており、服の作りも似ている。

以前、台湾を旅行した時に見た少数民族の衣装とも似ている。

 

私達日本の国生み神話(淡路島誕生)や里見八犬伝のルーツもこの中国南部の少数民族にある。

1万年を遡る稲作誕生、やがて漢民族の優勢によって南下した人々、その文化が台湾や日本に伝来した。

この遥かなる繋がりを感じることが出来た旅でした。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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PALEO DIET: Big Brains Needed Carbs


Ancientfoods

20130515-120149.jpg

Wild Emmer Wild Emmer

The importance of dietary carbohydrate in human evolution

Original Article:

PUBLIC RELEASE: 06-AUG-2015
UNIVERSITY OF CHICAGO PRESS JOURNALS

press.uchicago.edu

Understanding how and why we evolved such large brains is one of the most puzzling issues in the study of human evolution. It is widely accepted that brain size increase is partly linked to changes in diet over the last 3 million years, and increases in meat consumption and the development of cooking have received particular attention from the scientific community. In a new study published in The Quarterly Review of Biology, Dr. Karen Hardy and her team bring together archaeological, anthropological, genetic, physiological and anatomical data to argue that carbohydrate consumption, particularly in the form of starch, was critical for the accelerated expansion of the human brain over the last million years, and coevolved both with copy number variation of the salivary amylase genes and controlled fire use…

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Went around Croatia and Slovenia 22: Deeply scarred Town Mostar


 

クロアチア・スロベニアを巡って 22: 傷痕の町モスタル 1

 

 

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< 1. Župa Svetog Petra i Pavla is a church in Mostar >

< 1.モスタルの教会、Župa Svetog Petra i Pavla >

 

Today, we go to the intermountain town in Bosnia and Herzegovina.

I introduce the scenery between coastal town Neum and the Mostar.

 

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナの山間の町に向かいます。

海沿いの町ネウムからモスタルまでの景観を紹介します。

 

 

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< 2. Root maps >

< 2.地図 >

 

Upper map: It shows Bosnia and Herzegovina.

A black point is the Mostar.

 

Lower map: It shows the way to the Mostar from the Neum that we stayed in.

Red arrows show the two towns, and blue arrow shows the root.

The distance between the Mostar and the Neum is about 60 km.

We left at 9 A.M. on September 3, 2015, and arrived at 11 A.M.

It took much time, because we went through two checkpoints on the border.

 

上の地図:  ボスニア・ヘルツェゴビナを示す。

黒丸がモスタルです。

 

下の地図: ホテルのあるネウムからモスタルへの道を示す。

赤矢印が二つの町を示し、青矢印はそのルートを示す。

ネウムからモスタルまでは約60km。

2015年9月3日、9時に出発し11時に到着した。

時間がかかったのは、2箇所の国境検問所を通った為です。

 

About Mostar

1992-1995, Bosnia and Herzegovina was involved into Yugoslav Wars.

At this time, we have known the capital Sarajevo became the battlefield, and similar tragedy occurred in the Mostar, too.

Race of this nation consists of the most Muslims, subsequently a Croatian of the Christian, and a Serbian of the Greek Orthodox Church.

And this nation has a border with Croatia and Serbia.

By this, this Muslims suffered damage by ethnic cleansing by a Serbian at the time of Yugoslavia’s collapse.

 

モスタルについて

1992~1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴ紛争に巻き込まれました。

この時、首都サラエボが戦場になったことはよく報道されたが、モスタルでも同様の悲劇が起こりました。

この国の民族は、イスラム教徒が一番多く、次いでキリスト教徒のクロアチア人、正教会のセルビア人で構成されている。

かつ、この国はクロアチアとセルビアと国境を接している。

このことにより、ユーゴスラビア崩壊時にイスラム教徒はセルビア人から民族浄化の被害を受けた。

 

 

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< 3. Sceneries between the Neum and downstream of Neretva >

< 3. ネウムからネレトヴァ川の下流まで >

 

Upper photo: People had been enjoying a marine vacation.

Central photo: As going through a mountain pass, I saw a monastery (?) on the hill.

Lower photo: The plains that spread out downstream of Neretva river.

 

上の写真:  リゾートを楽しむ人々の姿が見える。

中央の写真: 峠を通過中、丘の上に修道院(?)が見えた。

下の写真:  ネレトヴァ川の河口に広がる平野部。

 

 

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< 4. We were coming down to the plains >

< 4. 平野部に降りていく >

 

There are lots of dry mountains in this area, but this place is filled with green.

乾燥した山間地が多い中にあって、ここは緑に溢れていた。

 

 

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< 5. Towns along the Neretva >

< 5. ネレトヴァ川沿いの街並み >

 

Upper photo: I saw a mosque for the first time in this trip.

Graveyard of Islam is seen on the left side.

 

Central photo: Neretva.

Lower photo: Soccer seems popular.

 

 

上の写真: 今回の旅行で初めてモスクを見た。

左側に見えるのがイスラムの墓です。

 

中央の写真: ネレトヴァ川。

下の写真: サッカーが盛んなようです。

 

 

6あ

< 6.  We go into the mountain valley >

< 6. いよいよ川沿いに山間地へと上って行く >

 

People are growing grapes as hard as possible at the dry mountain area.

 

乾燥している山間地でも、人々はぶどうなどを精一杯栽培している。

 

 

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< 7. Near Mostar >

< 7. モスタルに近づいた >

 

Central photo: Graveyard of Christianity system.

Lower photo: We can look at innumerable traces of big bullet on the outer wall of the apartment.

 

This continues next time.

 

中央の写真: キリスト教系の墓地です。

下の写真:  アパートの外壁に大きな銃弾の跡が無数に見える。

 

次回に続きます。

 

 

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桂林を訪れました 13: 龍脊棚田 3


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今日は、ヤオ族の村を歩きます。

 

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< 2. 村を行く >

 

私たちは民家を抜けて、もっと上にある村を目指して歩き始めた。

ここに掲載している写真は12:24から12:39に撮影したものです。

 

 

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< 3. 村の門 >

 

多くの民家が集合しているが、上下で村が幾つかに分かれている。

これは、これから登っていく村の門で、風水にかなっているそうです。

この門は清時代の1883年に、繁栄と魔除を願って村人300人が運んで来て造ったものです。

扉の左の武将の胸に陰陽を表す太極図が彫られている。

私は、念願の道教との関連物をやっと見つけることが出来た。

 

 

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<4.橋の風情 >

 

村人の写真は、ガイドさんが相手に了解をとってから撮影しています。

昼の休憩で、村人が談笑しているのでしょうか。

近くのトン族は橋を共有の建物として壮麗に作るが、ここでも屋根付の憩いの場として使っていた。

 

 

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< 5. 人々 >

 

この写真以外にも見かけたのですが、昼でも多くの女性は共同で働いていた。

頭のタオルはヤオ族の習俗のようです。

ここでも高齢化が進んでいる。

 

 

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< 6. 暮らし >

 

石の門扉のあった村の最上部に来ました。

上の写真: 村の中央を流れる川の上流に共同の洗い場が見えます。

その川の下流では数羽の鶏が、村人の流した残飯などをついばんでいる。

 

下の写真: 洗い場です。

ちょうど二人の女性が洗濯をしている。

右の屋根は杵つき小屋です。

 

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< 7. 村の利器 >

上の写真: 洗い場。

右側に竜の形をした流水口が見える。

 

左下の写真: 杵つき小屋。

杵の後ろの容器に流水が溜まると杵が跳ね上がり上下運動を繰り返す。

昔はここで穀物を粉砕していたが、今は使っていない。

右下の写真: 民家の床下の水車。

 

 

次回は、ヤオ族の村の最後の紹介です。

 

 

 

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Glistening white Himeji Castle 2


白く輝く美しい姫路城 2

 

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Today, I introduce the latter half of the Himeji Castle sightseeing.

今日は、姫路城の紹介の後半です。

 

 

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< 2. Views from the castle tower top floor >

< 2. 天守閣最上階からの眺め >

 

Upper photo: The castle walls extending to the west are seen.

Central photo: We can see the open space that was once a building ” Sannomaru”, and the moat to the left side.

Lower photo: “Shachihoko” is placed on the end of the tile roof in the south side.

This statue is made from the head of a tiger and the body of a fish, it stands on its head, and it becomes a charm against evil.

 

上の写真: 西側に延びている曲輪(城壁)が見える。

中央の写真: 南側の三の丸広場、左側に堀が見える。

下の写真: “しゃちほこ”が南側にせり出した屋根に載っている。

この“しゃちほこ”は頭が虎で体が魚で逆立ちしており、魔除けになっている。

 

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< 3. Inside the castle tower >

< 3. 天守閣内部 >

 

Upper photo: The window side of the top floor.

Central photo: The small shrine is seen in the center of the top floor.

Lower photo: The first floor of the underground cannot get sunshine from windows.

Two large pillars are seen.

 

上の写真: 最上階の窓側。

中央の写真: 最上階の中央に神社の祠が見える。

下の写真: 最下層、窓の光がささない地下一階。

二本の大柱が見える。

 

 

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< 4. Dignified appearance of the castle tower >

< 4. 天守閣の威容 >

 

Upper photo: This castle tower consists of a main tower, and three small towers located around it.

One of those is seen to the left.

 

Central photo: An expansion of the main tower.

Lower photo: We can see the moat of the south side, and the main gate to the right side.

 

上の写真: 天守閣は大天守とその周りの三つの小天守からなります。

左にその内の一つが見えます。

 

中央の写真: 大天守の拡大です。

下の写真: 城の南側の堀と右に大手門が見えます。

 

 

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< 5. The castle tower from “ Ninomaru” >

< 5.二の丸付近からの天守閣 >

 

About the Himeji Castle

The history began from a fort of Muromachi era in the 14th century, and military strategist Kanbei Kuroda built the castle here in the last of the age of provincial wars.

After that, lords of the castle changed on several occasions, but the present castle tower leaves a figure of the Edo era.

The castle’ buildings were built as swirling around the main building “ Honmaru” being near the castle tower on a small hill of big plain.

A distance between the east and the west of the moat surrounding the castle is approximately 500m.

 

Afterword

It was very fine.

The admission fee of New Year’s Day was free, there were not the traffic jam of the road, so we could enjoy.

Our castle sightseeing was two hours from 9:00.

I am going to visit again when the cherry tree blooms.

 

 

姫路城について

その歴史は14世紀、室町時代の砦に始まり、戦国時代末期に軍師黒田官兵衛がここを居城とした。

その後、城主は代わっていたが、今の天守閣は江戸時代の姿をそのままに残している。

この城は平野部の小高い丘の上に本丸(天守閣の近くにある)を中心に渦が巻くように作られた城です。

周囲を巡っている堀の東側と西側の距離は約500mです。

 

あとがき

非常に天気が良かった。

元旦は入場料が無料で、道路の渋滞もなく、ゆっくり楽しめました。

城内を見学したのは9時から2時間です。

桜の咲く季節にはまた来たいと思います。

 

 

 

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Glistening white Himeji Castle 1


白く輝く美しい姫路城 1

 

       1 

< 1. Himeji Castle >

< 1. 姫路城 >

 

Today, I introduce Himeji Castle.

I visited the Himeji Castle after major renovations on New Year’s Day.

This is called another name as “White Egret Castle”, and is a world’s cultural heritage and a national treasure.

It is an extreme of the Japanese tradition beauty

 

今日は、姫路城を紹介します。

私は大修理を終えた姫路城を元旦に訪れました。

これは別名「白鷺城」と呼ばれ、世界文化遺産であり国宝でもある日本の伝統美の極みです。

 

 

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< 2. The past and present of the Himeji Castle >

< 2.姫路城の今昔 >

 

Upper fig.: A picture of the Himeji Castle of the early Meiji period.

Lower photo: The aerial photograph before the renovations in 2007.

The top of the both pictures indicates the north, the moat is seen at the under side, and Ote-mon Gate (main gate) is seen at the center of it.

 

上の図: 明治初期の姫路城の絵。

下の写真: 大修理前、2007年の航空写真。

両方共に、上が北で、下側に堀、その中央に大手門が見える。

 

 

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< 3. The Himeji Castle and the castle tower >

< 3. 姫路城と天守閣 >

 

Upper map: A red line shows my visiting route to the castle tower, and a blue line does it from the castle tower.

We can go up to the top floor of the castle tower.

The top of the map is the north direction.

 

Lower fig.: It shows the structure of the castle tower.

The structure of the castle tower becomes a building built on the stone wall of 15m in height that has six floors and is 32m in height, and then there is the first floor within the stone wall.  

This is the best wooden building in all Japan, and two “large pillars” of about 1m in the root diameter are 25m in height, and penetrate through this wooden building from the basement to the fifth floor.

 

The castle tower was increased the white remarkably by virtue of the roofing tiles and plaster coatings having been repaired entirely in “Restoration of Heisei”.

 

上の図: 赤線が天守閣まで、青線が天守閣からの見学ルートを示します。

天守閣の最上階まで上ることが出来ます。

地図の上が北方向です。

 

下の図: 天守閣の構造を示します。

この天守閣は石垣の高さ15m、その上の建物は6階で高さ32m、地下(石垣内)1階構造です。

これは日本最高峰の木造建築で、高さ25m、根本直径約1mの二本の「大柱」が地下から5階まで貫通しています。

 

今回の「平成の修理」によって、天守閣の瓦と漆喰が全面補修されたことにより、一段と白さを増しました。

 

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< 4. Finally, I entry into the castle >

< 4. いよいよ入城 >

 

Upper photo: I pass through Ote-mon Gate, and get a panoramic view of the Himeji Castle from the open space.

Lower photo: I pass through an entrance gate, and enter the first castle gate “Diamond Gate”.

 

上の写真: 大手門を抜けて、広場から姫路城の全景を望む。

下の写真: 入城口を抜けて、最初の城門「菱の門」に入る。

 

5

*5

 

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< 6. Finally, I entry into to the castle tower >

< 6. いよいよ天守閣へ >

 

Upper photo: I stand just under the castle tower.

I go into the building soon.

 

Lower photo: I overlook the west side from the window of the lower floor of the castle tower.

 

上の写真: 天守閣の直ぐ下。

もうすぐ建物に入って行きます。

 

下の写真: 天守閣下層の窓から西側を見下ろす。

 

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< 7. Inside the castle tower 1 >

< 7. 天守閣内 1 >

These are pictures of the 1st floor or 2nd floor.

There were many visitors, so we had to wait our turn for going up on this floor.

 

Seeing this wooden construction, I could feel that many samurais walked through the passageway for several hundred years.

 

これらは1階か2階の写真です。

多くの見学者がいたので、この階で登城の順番を待ちます。

 

この木造からは数百年の歴史、武士が行き交う当時をしのぶことが出来そうです。

 

 

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< 8. Inside the castle tower 2 >

< 8. 天守閣内 2 >

 

Furthermore, I am going to the top floor.

Central photo: “ West large pillar” is seen in the photo, and it is one of “large pillar”.

This floor is the 5th floor, and the part is the top of the pillar.

The iron plate seen in the photo seems the sliding prevention of the pillar.

 

This continues next time.

 

さらに最上階に向けて上って行きます。

中央の写真: 「西大柱」が見えます、これは「大柱」の一本です。

この階は5階で、柱の最頂部になります。

鉄板で滑り防止の補強がなされているようです。

 

次回に続きます。

 

 

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Winter Awaji-island: Suntopia Marina


冬の淡路島 : サントピアマリーナ

 

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< 1. Suntopia marina >

< 1. サントピアマリーナ >

 

Today, I introduce a resort area in a sore of southeastern Awaji-island.

It is Suntopia Marina and Sumoto Hot Spring mainly.

I visited here at 10:00 – 11:30 A.M. on December 20.

 

今日は、淡路島南東部の海岸のリゾートを紹介します。

主にサントピアマリーナと洲本温泉です。

訪れたのは12月20日の10:00~11:30です。

 

 

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< 2. Suntopia marina >

< 2.サントピアマリーナ >

 

This aria is in the Seto Inland Sea National Park, and is sandwiched between a mountain and a seashore facing Tomoga-Island Channel.

There is the Sumoto Hot Spring immediately, and Yura port in the south end.

It is the largest resort area in Awaji-island, and has a big yacht harbor, many tennis courts, hotels, and resort apartment buildings.

Around this area, people can enjoy fishing, yacht, tennis, hot spring, and seafoods with the family.

When my children were small, I came here with my family well, too.

 

 

ここは瀬戸内海国立公園にあり、山と友ヶ島水道を臨む海岸線に挟まれ、すぐ隣りには洲本温泉、南端には由良港があります。

ここは淡路島で最大規模のリゾートで、ヨットハーバー、テニスコート、ホテル、リゾートマンションが揃っています。

ここ一帯で、釣りやヨット、テニス、温泉、海の幸などを家族で楽しむことが出来ます。

私も子供が小さい頃は家族でよく来ました。

 

 

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< 3. The views of Osaka bay from Suntopia marina >

< 3. サントピアマリーナから大阪湾 >

Upper photo: I saw the south side from the outer edge of the Suntopia marina.

The part that there aren’t islands on the distant sea is the Tomoga-island Channel.

 

Central photo: A fishing boat.

Lower photo: I saw the north side.

The north end of Awaji-island can be seen in the distance.

 

上の写真: サントピアマリーナの外縁から南側を望む。

島影の切れているところが友が島水道(紀淡海峡)です。

 

中央の写真: 釣り船。

下の写真: 北側を望む。

遠くに淡路島の北端が見える。

 

 

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< 4. The views of the Sumoto Hot Spring from Suntopia marina  >

< 4. サントピアマリーナから洲本温泉 >

 

We can overlook the Sumoto Hot Spring facing the Osaka bay from here.

ここからは大阪湾に面している温泉街が一望出来る。

 

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< 5. The Tomoga-island Channel >

< 5. 友が島水道 >

 

The photographing is from the shore of the south side of the Suntopia marina.

Upper photo: We can see the Yura Port and the Narug-Island at the end of the shoreline.

One black thing is seen on the sea surface.

 

Lower photo: The black thing mentioned above was a diver diving in without diving equipment.

Probably he caught shellfishes.

 

Blessed with beautiful weather, I strolled in the Suntopia marina, and then had lunch in a hotel of the Sumoto Hot Spring.

It was a calm day in winter.

 

サントピアマリーナから少し南側の海岸にて撮影。

上の写真: 海岸線の果てに由良港と成ケ島が見える。

海面に一つの黒い物が見えます。

 

下の写真: 上記の黒い点は素潜り漁をするダイバーでした。

おそらく貝を捕っているのでしょう。

 

この日は快晴に恵まれ、サントピアマリーナを散歩し、昼食を洲本温泉のホテルでとりました。

冬の穏やかな一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 21: resort area Neum


クロアチア・スロベニアを巡って 21: リゾート地ネウム

      1

< 1. a view from our hotel >

< 1.ホテルからの眺め >

 

I introduce our stage Neum today.

We stayed at a hotel in here for 2 days from Tuesday 1 September.

 

今日は、宿泊地ネウムを紹介します。

ここのホテルに、9月1日(火)、2日(水)と2連泊しました。

 

 2地図

< 2.  location of Neum >

< 2. ネウムの場所 >

A red point is the hotel in Neum and a black point is Dubrovnik.

Black line is the border, and Neum belongs Bosnia and Herzegovina.

The width of the shoreline of Neum dividing Croatia is 9km.

Here is the best resort area of Bosnia and Herzegovina.

This is because Dubrovnik gave this area to Ottoman in 1699 to protect from Venice that possessed the north side shore from it.

 

赤丸がネウムのホテル、黒丸がドゥブロブニクです。

黒い線が国境を示し、ネウムはボスニア・ヘルツェゴビナに属しています。

クロアチアを分断しているネウムの海岸線の巾は9kmです。

ここはボスニア・ヘルツェゴビナきってのリゾート地です。

このようのなったのは、ここより北側海岸を領有していたベネチアとの防波堤にする為に、この地をドゥブロブニクが1699年、オスマンに譲ったからでした。

 

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< 3. inlet of Neum >

< 3. ネウムの入江 >

 

Upper photo: At dusk.

Central photo: Daybreak seen from the hotel.

Lower photo: Inlet seen from the hotel in the morning.

 

上の写真: 夕暮れ。

中央の写真: ホテルから見た夜明け。

下の写真: ホテルから見た朝の入江。

 

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< 4.   In GRAND HOTEL NEUM >

< 4. ホテルで、GRAND HOTEL NEUM >

 

Upper photo: The supper (buffet) at the hotel restaurant.

Sunset from this terrace is splendid.

The hotel was full of visitors, but the visitors from Asia were few.

Central and lower photo: In the lower shore of the hotel at 9:00 p.m.

There were elderly people who had been enjoying sea bathing.

 

上の写真: ホテルレストランでの夕食(バイキング)。

このテラスからの夕焼けは素晴らしい眺めです。

ホテルはお客さんで一杯でしたが、アジアからの客は少なかった。

 

中央と下の写真: 夜9時頃、ホテル直ぐ下の海岸で。

海水浴を楽しむ年配の人々がいた。

 

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< 5. The shore in the morning >

< 5. 朝の海岸 >

At about 8:00 A.M., I walked around the lower shore of the hotel.

There were persons who already were enjoying sea bathing.

 

朝8時頃、ホテル下の海岸を散策した。

既に海水浴を楽しむ人がいた。

 

 

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< 6. I strolled in the morning >

< 6. 朝の散策 >

I took a walk to the west side along the shore.

The water was clear, and the sky was clear, too and I was refreshed.

A woman who embraced a child from the other side came, so I called to her.

“What country did you come from?”

I thought she came from Bosnia and Herzegovina.

But she was a Croatian.

She was able to speak English, but I was poor speaker of English, so I only talked a little.

I early want to talk in English free.

 

I associated the gentle mother and a child with a statue of “Virgin with Child”.

 

This continues next time.

 

 

私は海岸に沿って西側を散策しました。

水は綺麗で空も晴れ渡り、清々しかった。

 

向こうから子供を抱いた女性が来たので、声をかけました。

「あなたは何処の国から来たのですか?」

私は彼女がボスニア・ヘルツゴビナから来た人か知りたかった。

答えはクロアチアの人でした。

彼女は英語が出来たのですが、私がダメなので、少し会話をして別れました。

早く、英語で自由に喋りたいものです。

 

私は、この柔和な母子にマリアの聖母子像を連想していました。

 

次回に続きます。

 

 

 

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桂林を訪れました 12: 龍脊棚田 2


 1

< 1. 昼食を取った食堂 >

 

今日は、棚田を抜けてヤオ族の村まで行きます。

 

 2

< 2. 駐車場から村に向かって >

駐車場から村まで約1kmの平坦な道を歩きます。

 

上の写真: 行き先は道の上側の村です。

中央の写真: 頂上を望む。

下の写真: 下を見ている。

稲穂はまだ黄金色になっていませんでした。

また稲穂の背が日本種より低いように思いました。

 

3

 

< 3. 道の途中 >

上の写真: 来た道を振り返っている。

道のかなたに建物が見えるのは駐車場です。

 

下の写真: 駐車場近くの道端で土産品を売っている。

 

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< 4. 村が見えて来ました >

一番手前の建物で昼食をとりました。

 

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< 5. 途中の景観2 >

上の写真: 急峻な下りの道。

これでは農耕作業はきついでしょうね。

中央の写真: 小川。

特に灌漑用の水路がなく、この小川で代用しているのでしょう。

 

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< 6. 昼食 >

食堂は非常に綺麗な作りで見晴らしも良かった。

非常に観光化が進んでいる。

出されたのは素朴な料理でしたが、私達の舌には合っていた。

特に珍しいものはなかった。

 

私が、「鳥の骨を棄てる器を下さい」と言うと、「下の犬にやって下さい」と言われた。

ここでは昔から家畜とこのように共生している。

 

 

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< 7. ヤオ族の民族衣装。Wikipediaより >

 

瑶(ヤオ)族について

彼らは中国長江以南、ここ広西チワン族自治区や雲南等から東南アジアのベトナム,ラオス,タイなどの山岳地帯にかけて広く分布している。

この村のよう分散しながら、中国だけで約214万人(1990)が暮らしている。

言語的にはミヤオ(苗)族に近い。

彼らは本来無文字であるが,中国文化と古くから接触していたために漢字が受容された。

元・明時代に、漢民族の進出により南下した。

中国王朝の統治政策としばしば対立し,特に明代中期以降大規模な反乱が各地で発生した。

彼ら独特の神話に、古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とする伝承があり、これが史記に取り入れられ後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。

ヤオ族は山間部において焼畑耕作に従事して陸稲やトウモロコシなどを作って移動していたが,現在は梯田耕作や水田耕作,あるいは林業などを行い定住的な村落社会を形成している集団もある。

宗教は基本的にはアニミズムであるが,道教の影響が顕著にみられる。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 20: Kotor 2


クロアチア・スロベニアを巡って 20: コトル2

 

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< 1. The Clock Tower(1602) in open space where we just went through “the Sea gate” (the 16th century) >

< 1. 「海の門」を入った所の広場にある時計塔、1602年建築 >

 

I introduce the Kotor in the castle wall today.

It was a small town, but there was the feature of a harbor city that lived to the Middle Ages from the ancient times in here.

 

今日は、城壁内のコトルを紹介します。

小さな町ですが、古代から中世に生きた港湾都市の面影がそこにはありました。

 

 

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< 2. Heraldic emblems >

< 2. 紋章 >

Upper photo: This Kotor emblem is put on the wall surface of a fortress in the right side of “the Sea gate”

Dower photo: This emblem is put on an entrance of a former noble’s palace, and was built in 1776.

 

上の写真: 「海の門」の右にある要塞のコトル紋章。

下の写真: 元貴族の宮殿の入口上にある紋章、1776年建築。

 

 

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< 3. The clock tower and the square >

< 3. 時計塔と広場 >

Upper photo: We are going through “ the Sea gate”

Central photo: The expansion of the castle wall rounding the mountain behind Kotor.

This castle wall is the total length 4.5 km, and the altitude reaches up to 260 m, the biggest high is 20 m, and the thickness is 2-16 m.

 

Lower photo: “ the Square of Arms” is main town square.

 

上の写真: 「海の門」を入ったところ。

中央の写真: 山の城壁部分を拡大。

この城壁は総延長4.5kmで、標高は最大260mまで達し、壁の最大高さは20m、厚みは2~16mある。

 

下の写真: 「武器の広場」。

 

 

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< 4. Churches >

< 4. 教会 >

There are 14 churches in Kotor.

 

Upper photo: St. Tryphon Cathedral was built in 1166.

Central photo: Serbian Orthodox church of St. Nicholas was built in 1909.

I entered inside, but I was impressed by the sacredness, and I couldn’t take the picture.

Many icons were displayed.

 

Lower photo: This bell tower of church was built in 1221 on fundaments of the old Christian Episcopal basilica from the sixth century.

 

このコトルには14の教会があります。

 

上の写真: 聖トリファン大聖堂、1166年建築。

中央の写真: 聖ニコラス教会、1909年建築。

中に入りましたが、神聖さに打たれ写真撮影を控えました。

ここはセルビア正教会で、イコンが飾ってありました。

 

下の写真: 6世紀建築の古代キリスト教バシリカの上に建てられた教会の鐘楼、1221年建築。

 

 

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< 5. St. Luka Church was built in 1195  >

< 5.聖ルーカ教会、1195年  >

It is an Orthodox church.

 

Lower photo: The backside of this church is older than the front side.

 

ここも正教会です。

 

下の写真: 教会の後ろ側で、正面より古い時代の建築です。

教会の多くは古い教会に改造や増築がなされ、その痕跡が残っています。

 

 

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< 6. The inside of St. Luka Church >

< 6. 聖ルーカ教会の内部 >

It was a very small church, but we were able to look at many icons and crosses.

There was a mosaic fresco of religious painting that was considerably damaged, too.

I saw Orthodox Churches that I had expected in this trip, and I think I smelled a fragrance of the Byzantine culture.

 

非常に小さい教会ですが、多くのイコンと十字架を見ることが出来ました。

かなり痛んでいたが宗教画のモザイク壁画もありました。

今回の旅行で楽しみにしていた正教会を見て、ビザンチンの香りを嗅いだように思います。

 

 

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< 7. The other scenes >

< 7. 町中の光景 >

A top photo: The marine museum was a former palace that was built in 1732.

一番上の写真: 海洋博物館、元宮殿、1732年建築。

 

About Kotor

This city has been appointed to a world heritage for a history inheritance, and became a anchorage site of many Cruise ships because scenic.

This harbor city began the Roman Empire period, was governed by Byzantine and the north race.

And it allied with Ragusa republic (Dubrovnik), or contended against it at one stage.

The present cityscape and castle wall almost were formed during Venice rule period of the 15-18th century, and it experienced two times of Ottoman rule and earthquakes in the meantime.

At the time of World War I, this port became full of the warships of the Austria-Hungary Empire.

This Montenegro was desperately struggling between the large countries of the north and south during 2000, too.

 

This continues next time.

 

 

コトルについて

ここは歴史遺産で世界遺産に指定され、また風光明媚なのでクルーズ船の寄港地になっています。

この港湾都市は、紀元前のローマ時代から始まり、ビザンチン、続いて北方民族の支配を受け、またラグーサ共和国(ドゥブロブニク)と同盟したり対抗したりもした。

15から18世紀のベネチア支配で今の町並みや城壁が形作られ、その間に2回のオスマン支配と地震を経験した。

第一次世界大戦時、この港はオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦で一杯になった。

このモンテネグロの地も2千年の間、南北の大国の狭間で悪戦苦闘した。

 

 

次回に続きます。

 

 

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桂林を訪れました 11: 龍脊棚田 1


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< 1. 龍脊棚田 >

 

これから、桂林の山岳部にある少数民族の村を紹介します。

ここには美しい棚田と少数民族の暮らしがあります。

今日は、桂林から村までの道筋を紹介します。

 

日程の概要

訪問したのは2015年9月18日で、平野部は薄曇りでしたが、山は雲で覆われ一時霧雨が降りました。

それでも十分に自然と村を堪能することが出来ました。

ホテルを8:00に出発し、バスを降り散策を始めたのは11:20から、村で昼食を取り、バスで帰路に着いたのは13:45でした。

 

 

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< 2. 龍背の地図 >

両写真共に上側は北側です。

上の地図: 桂林中心部から目的の村(龍脊古壮寨棚田)までの道筋。

赤丸が桂林、黄丸が村、黄矢印が道筋です。

桂林から龍脊の旅客中心(写真5)まで約80kmです。

白枠が下の地図の範囲。

 

下の地図: 赤丸が龍脊の旅客中心、青丸が龍脊古壮寨の駐車場、黄楕円が目的の村です。

村は山の急斜面にあり、標高670から920mの間で上下に伸びている。

その山頂は標高1200から1400mあり、旅客中心は標高300mの谷底にある。

 

 

龍脊について

この桂林が属する広西チワン族自治区は、名前の示す通りチワン族をはじめ十数以上の民族が漢族と共に暮らしています。

これら少数民族はかつて南下して来て山岳部に暮らすようになった。

現在は各地に定住し、また平野部に暮らす人々も増えています。

龍脊はその山岳部の定住地の一つで、私たちが訪問するのはヤオ族の村の一つです。

この龍脊にはトン族などの異なる民族が周辺に多くの村で暮らしています。

 

ヤオ族は元来、焼畑と狩猟を行っていた民族で、他の山岳民族もそうですがかつては国境を越えて移動していました。

現在は、定住政策により稲作農耕を行っており、それが美しい棚田の景観を生んでいます。

 

私は中国南方の少数民族の村を訪れるのが楽しみでした。

かつて福建省の山岳部にある客家土楼を訪れて、強い絆で結ばれ、昔ながらの素朴な暮らしをしている人々に感銘を受けました。

 

たった数時間の訪問でしたが、彼らの暮らしぶりを紹介したいと思います。

 

 

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< 3.桂林から山岳部に入る手前まで、バスから撮影 >

 

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< 4. 徐々に山岳部に入って来ました、バスから撮影 >

 

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< 5. 龍脊の旅客中心 >

 

ここで一旦バスを降りて、このセンターで入場手続きをします。

そして各自目的の村まで専用のバスに乗り換えて行きます。

 

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< 6. 専用のバスで急峻な山を登って行きます >

下から二番目の写真: 中央の棚に果物の実が沢山生っていました。

一番下の写真: 龍脊古壮寨棚田の駐車場です。

ここから村まで約1km徒歩で棚田を抜けて行きます。

 

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< 7.棚田 >

上の写真: 右手に目的の村が見えます。

左から伸びる人波は村を目指す人々です。

 

中央の写真: 村の全景です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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Went around Croatia and Slovenia 19: Kotor 1


クロアチア・スロベニアを巡って 19: コトル 1

 

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< 1. Kotor gulf photo taken from a moving ferry >

< 1. フェリーから撮ったコトル湾、北側 >

 

I introduce Kotor that is a maritime republic of the Middle Ages and the world heritage in twice.

Today, I introduce Kotor gulf and the castle wall of Kotor.

 

2回に分けて、中世の海洋都市、世界遺産のコトルを紹介します。

今日は、コトル湾とコトルの城壁を紹介します。

 

2map

< 2. Maps of Kotor >

< 2. コトルの地図 >

The upper side of all maps is the north.

Upper map: The tip of a red arrow indicates Kotor, and a black point is Dubrovnik.

The direct distance of Kotor between Dubrovnik is 60km.

 

Central map: A red arrow indicates Kotor, and a red point is a church in an island (photo 4).

Black arrows indicate our bus route to Kotor, and blue arrows do the route on the way back.

We crossed to an opposite shore with a ferry one time on the way back.

 

Lower map: Orange-colored town is Kotor.

There was a maritime republic that continued since ancient times in the back of the gulf.

The triangular port town of a side 60 m was sandwiched between the gulf and the steep mountains that reached an attitude of 1,700 m, so it was protected.

Furthermore, the slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.

 

すべて上が北です。

上図: 赤矢印の先がコトルで、黒丸はドゥブロブニクです。

コトルとドゥブロブニクの直線距離は60kmです。

 

中央図: 赤矢印がコトルで、赤丸は島の教会(写真4)です。

黒の矢印はコトルに行くまでのルートで、青の矢印は帰りのルートです。

帰りの一ヶ所、フェリーで対岸に渡りました。

 

下図: オレンジの町並みがコトルです。

古代から続く海洋都市は湾内の奥深くにありました。

一辺300mの三角形の港町は標高1700mにも達する急峻な山々と湾に挟まれて守られていた。

さらに山の斜面には標高200mまで城壁が巡らされていた。

 

Kotor gulf and the castle wall of Kotor

Here is Montenegro, and only one place that we visited in this country.

The photography was from 12:50 to 17:00 on September 2, 2015.

The following photographs almost are arranged in order of the photo opportunity.

 

コトル湾とコトルの城壁

ここはモンテネグロにあり、今回、この国で唯一の訪問地になります。

撮影は2015年9月2日の12:50から17:00です。

以下の写真は概ね、時間通りに並んでいます。

 

 3

< 3. The first half of Kotor gulf photos taken from moving bus >

< 3. コトル湾の前半、バスから撮影 >

Upper photo: Mountainside scenery before going in Kotor gulf after leaving from Dubrovnik.

Central photo: Going in Kotor gulf.

Lower photo: Going in the back of Kotor gulf.

 

上の写真: ドゥブロブニクから来て、コトル湾に入る手前の山側の景色。

中央の写真: コトル湾に入った。

下の写真: コトル湾の奥に入って来た。

 

4教会

< 4. A church in a island taken from moving bus >

< 4. 島の教会、バスから撮影 >

 

The building of the right island seems to be a church of the Orthodox Church.

右側の島の建物はおそらく正教会の教会でしょう。

 

5

< 5.   The last half of Kotor gulf photos taken from moving bus >

< 5. コトル湾の後半、バスから撮影 >

 

Central photo: The back left of a moving boat is Kotor.

Lower photo: There is Kotor in the back of this gulf.

 

中央の写真: ボートの左手奥がコトルです。

下の写真: 最深部にコトルがある。

 

6

< 6. The castle wall of Kotor >

< 6. コトルの城壁、徒歩で撮影 >

Upper photo: We approached the wall and fosse from the north side.

Central photo: This slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.

A church is also seen.

 

Lower photo: This is the appearance of the back of the fosse.

 

上の写真: 北側から城壁と堀に近づいた。

中央の写真: 裏手の山、標高200mまで城壁が張り巡らされている。

教会も見える。

 

下の写真: 堀の奥側の様子。

 

7

< 7. We are passing through a castle gate of Kotor >

< 7. コトルの城門をくぐっているところ >

 

 

8

< 8. At ferry on the way back >

< 8. 帰りのフェリー >

Upper photo: We are going to board a ferry now.

I look at the back of Kotor gulf (the north side).

 

Lower photo: I look at the south side from the moving ferry.

 

This continues next time.

 

 

上の写真: 今からフェリーに乗ります。

コルト湾の奥側(北側)を見ている。

 

下の写真: フェリーから南側を見ている。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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桂林を訪れました 10: 陽朔と月亮山


1

< 1. 西街 >

 

今日は、漓江下りの下船地、陽朔と近くの観光地を紹介します。

 

 

 2

< 2. 下船地の陽朔 >

 

遊覧船を下りて石造りの「陽朔」の門を目指す。

ここを抜けると、直ぐ西町のショッピング街が始まる。

 

 

3

< 3. ショッピング街の西街 >

たくさんの人で賑わっていた。

多くは中国系ですが、洋人街と言われるだけあって欧米人も見かけた。

ここは直線の1本道で、距離は500mぐらいです。

 

4

< 4. 西街の店 >

この通りの雰囲気は少し変わっています。

ここには中国の仰々しいか古風な店でもなく、だからと言ってモダンでもなく、種々雑多な小さな店が並んでいます。

果物店や土産物店、民芸品店、飲食店が並んでいます。

私は見るだけでも楽しく、妻は果物を買いました。

 

 

5

< 5. マンゴジュースの店 >

通りの店に入り、冷たいマンゴジュースを飲みました。

暑い日だったので、美味しかった。

壁一杯に願い事を書いたメモが貼ってあるようでした。

 

 

 

 

6

< 6. 高田郷と月亮山 >

上の写真: 多くの人が筏で遊覧の楽しんでいる高田郷。

ここはバスで通り抜けるだけでした。

 

下の写真: ぽっかり半月形の穴が空いた月亮山。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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One soul worth more than 15 million views


Mustard Seed Budget

IMG_7379My friend, Dr. Bob, is now officially famous, with 15 million views of his video “The Hold” and appearances on Good Morning America and Dr. Oz. But I don’t think his heart will change. He’s a vibrant Christian.

As an SEO, I helped promote his video so that it caught the attention of some influencer, who reposted it and it caught the attention of massive online media. He’s being called the “Baby Whisperer” for his intuitive way to calm fussy tykes.

I don’t think I want to be famous myself. I’ve found a greater joy, the happiness of saving souls. I work at a Christian high school in Santa Monica. The smiling faces you in the photo are some of the people who have exited the misery of bullying at school and entered the joy of Jesus.

One soul is worth more than 15 million views.

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Went around Croatia and Slovenia 18:  The wonder of Dubrovnik 4


クロアチア・スロベニアを巡って 18: ドゥブロブニクの不思議 4

     1

< 1. Dubrovnik >

< 1. ドゥブロブニク >

 

I see how Dubrovnik coped with the situation change, and what happened in Europe.

This is my last entry in the theme.

 

今日は、ドゥブロブニクが情勢変化にどのように対応し、またヨーロッパに何が起きたかを見ます。

これで終わります。

 

 

 2ネウム

< 2. Neum of dusk >

< 2. 夕暮れのネウム >

 

Skillful diplomacy of Dubrovnik

Hungary kept a patron of Dubrovnik in place of Venice from 1359 until it suffered a crushing defeat by the Ottoman Empire in 1526.

However, Dubrovnik continued to reject the dispatch of governor from Hungary, and started to pay tributes to the Ottoman Empire in 1458.

Because of this, Dubrovnik was allowed for the commercial activity in Balkan and other conquest places, became a counterbalancing power against Venice, and was at the height of the prosperity in the 15-16th century.

Furthermore, in 1699, it devolved territory Neum (photo 2) to the Ottoman Empire and assumed it a shield to the Venice navy.

Small town Neum of a shore belongs to a territory of Bosnia and Herzegovina currently, and has made Dubrovnik the enclave of Croatia.

Here was our accommodation, and I introduce it later.

 

ドゥブロブニクの巧みな外交

ハンガリーは1359年からベネチアに代わり、1526年にオスマンに大敗するまでドゥブロブニクの庇護者であり続けた。

しかし、ドゥブロブニクはハンガリーからの総督派遣を断り、1458年にはオスマンへの朝貢を開始した。

これによりオスマンからバルカンや他の征服地の商業活動を認められ、ベネチアと対抗するまでになり15~16世紀にかけて全盛期を迎えた。

さらに1699年、領地ネウム(写真2)をオスマンに譲り、ベネチア海軍への盾とした。

 

海岸の小さな町ネウムは、現在、ボスニア・ヘルツェゴビナ領で、ドゥブロブニクを飛び地にしている。

ここは私たちの宿泊地で、後で紹介します。

 

 

3

< 3. The Mediterranean Sea >

< 3.地中海 >

1: Dubrovnik 2: Venice 3: Genoa 4: Constantinople(Istanbul) 5: Alexandria 6: Lisbon 7: Ceuta   8: Athen 9: Rome 10: Jerusalem.

 

1: ドゥブロブニク 2:ベネチア 3: ジェノバ 4: コンスタンティノープル(イスタンブール) 5: アレキサンドリア 6: リスボン 7: セウタ 8: アテネ 9: ローマ 10:エルサレム

 

What decided the outcome of Genoa and Venice?

The two countries continued the East-West trade through Ethiopia of Christianity country and Egypt of the Islamic power (annotation 1).

However, this decrepit Islamic dynasty practiced the monopolization of spice in 1428, and the price jumped up.

The purchase price from Egypt increased to approximately 1.5 times than before, and became 16 times in comparison with the direct purchase from India.

 

On the other hand, Genoa defeated by Venice found its way into the Atlantic Ocean, and joined with Portugal.

Portugal that had accomplished Reconquista (annotation 2) captured Ceuta of the opposite shore in 1415, and aspired to trade with India around the west side of Africa.

At last, it became possible by Vasco da Gama’s expedition in 1498

In the early 16th century, most of the spice did not arrive at Egypt from India.

 

Thus, Venice that had been proud of its prosperity by the monopoly fell rapidly.

Spain participated in it and since the Age of Geographical Discovery began, Genoa survived by banking

 

ジェノバとベネチアの明暗を分けたもの

両国はイスラム勢力(注釈1)のエジプトやキリスト教国のエチオピアを通じて東西交易を続けていた。

しかし、弱体化したこのイスラム王朝は1428年、香辛料の専売制を始め、値段が跳ね上がった。

エジプトからの購入価格は従来の1.5倍以上、インドでの直接購入に比べ約16倍にもなった。

 

一方、ベネチアに敗れたジェノバは以前から大西洋に活路を見出し、ポルトガルと手を組んでいた。

レコンキスタ(注釈2)を成し遂げていたポルトガルは、1415年、対岸のセウタを攻略し、アフリカの西回りでインドとの交易を目指し、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの遠征で可能にした。

16世紀初めには、エジプトにインドから香辛料はほとんど入荷しなくなった。

 

こうして、独占で隆盛を誇ったベネチアは急速に没落していくことになる。

スペインが参加し大航海時代が始まるとジェノバは銀行業で生き残った。

 

4

< 4. Renaissance fine art. By “Web gallery of art” >

< 4.ルネサンス美術。「Web gallery of art」より >

 

Two shocks of Europe

One of them is the beginning of the Age of Geographical Discovery, as we have seen already.

 

The other one is the beginning of Renaissance.

Greek classical study flowed out to Italy from the declined Byzantine Empire, and Renaissance flowered in Italy by combining with cities that prospered in trade

The Greek classical study was popular from ancient times in Byzantium, and was also spreading to Islamic world.

Knowledge of Islamic world and the Greek classical study were introduced to Europe via Spain already.

 

After this, European development shifted to the west and north of it along with the Age of Geographical Discovery, and Italy became an economical undeveloped area in the middle of the 17th century.

Three maritime republics of the Mediterranean Sea died out by the armed forces and cannon of Napoleon before long.

 

ヨーロッパの二つの衝撃

この内の一つ、大航海時代の始まりを既に見ました。

 

もう一つはルネサンスの始まりです。

衰退していくビザンティンからギリシャの古典研究がイタリアに流出して行き、交易で栄えた都市と相俟って、イタリアでルネサンスは開花した。

ビザンティンでは古来よりギリシャの古典研究が盛んで、それはイスラム圏にも波及していた。

既にスペイン経由でイスラムの学問とギリシャの古典もヨーロッパに紹介されていた。

 

この後、大航海時代と相俟ってヨーロッパの発展は西部と北部に移り、17世紀半ばにはイタリアは経済の後進地となっていた。

やがてナポレオンの軍隊と大砲によって地中海の三つの海洋都市国家は滅んだ。

 

 

5べレンの塔

< 5. Torre de Belen in Lisbon >         

< 5. リスボンのベレンの塔 >

 

Thing that I think about this history

Venice made the Byzantine Empire weak by the sea power, and got full prosperity, but it hastened the expansion of the Ottoman Empire and came to cut its throat.

Genoa was defeated by Venice, found its way into the west, and got good luck.

 

Small Dubrovnik didn’t depend on the sea power, and crossed between great nations by the trade and the diplomacy.

I think to be because this city had tolerance that absorbs different ethnic groups and heathenism since the beginning.

 

In the world, there are many examples that small countries fight desperately between great nations, such as Israel, Korean Peninsula and Vietnam.

But the success example of Dubrovnik was rare.

 

I introduce sightseeing spots from the next time again.

 

 

 

この歴史から思うこと

ベネチアは海軍力でビザンティンを弱体化させ東地中海で隆盛を極めたが、これがオスマンの膨張を早め、自滅に繋がった。

ジェノバはベネチアに負け、西方に活路を見出し、幸運を掴んだ。

 

小さいドゥブロブニクは海軍力に頼らず、貿易と外交で大国の間を渡り歩いた。

これは、この都市が元々異民族や異教を受け入れる度量があったことによるのだろう。

 

世界には、大国の狭間で小国が悪戦苦闘する例がイスラエル、朝鮮半島、ベトナムなど数多くある。

しかしドゥブロブニクの成功例は希有と言える。

 

次回より、観光地を紹介します。

 

Annotation 1: The Ottoman Empire of Islam isn’t included in the Islamic power.

 

Annotation 2: Reconquista was the continued war that Christian expelled Islamic power that invaded since 711 year from Iberian Peninsula.

The war began at 722, Portugal completed it by 1290, and Spain did it in 1492 by falling Granada.

Through this process, both Portugal and Spain kingdoms were formed.

 

注釈1: ここではイスラム教のオスマンをイスラム勢力に含めていない。

 

注釈2: レコンキスタは、キリスト教徒が、711年イベリア半島に侵入したイスラム勢力を駆逐するために行なった国土回復運動です。

戦いは722年に始まり、ポルトガルは1290年に、スペインは1492年グラナダ陥落で完了した。この過程で、ポルトガル・スペイン両王国が成立した。

 

参考文献

「イスラーム歴史物語」後藤明著、講談社刊。P177,193,227,245.

「東西文明の交流 3、イスラム帝国の遺産」島田襄平編集、平凡社刊。P199,215,217.

「東西文明の交流 2、ペルシアと唐」山田信夫編集、平凡社刊。P395,427.

「図説 世界の歴史4、ビザンツ帝国とイスラーム文明」J.M.ロバーツ著、創元社刊。P105,109,185.

「世界の歴史 8、イスラーム世界の興隆」佐藤次高著、中央公論刊。P277,313,331,341.

「世界の歴史 11、ビザンツとスラブ」井上浩一著、中央公論刊。P19,157,163,185,201.

「世界の歴史 16、ルネサンスと地中海」樺山紘一著、中央公論刊。P79,p115.

「歴史入門」 フェルナン・ブローデル著、太田出版。P49.

「中世西欧文明」ジャック・ル・ゴフ著、論創社。P123,217.

「クロアチアを知るための60章」柴宣弘著、明石出版。P47.

「旅名人ブックス84、クロアチア・・・」日経BP刊。P29.

「図説 大航海時代」増田義郎著、河出書房新社刊。P49.

「知の再発見 黄金のビザンティン帝国」ミシェル・カプラン著、創元社。

「人類の歴史200万年」リーダーズダイジェスト刊。P155,126.

「図説 ビザンツ帝国」根津由喜夫著、河出書房新社刊。P70.

「ヨーロッパ歴史地図」原書房刊。

「最新世界史図表」第一学習社刊。

「世界大百科事典」

「Wikipedia」の記事と多くの写真を使いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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