Our war 16: What are subjects? 


Armed forces and peace

  • * 1

 

Until now, I looked what war of Japan was.

Some problems appeared from there.

I will investigate what is important about “ War and Peace” by using these problems.

 

Introduction

Things that I wanted you to have known in this series were there was considerable basic problem in the war of only half a century ago and our country gave neighboring countries a hard.

The problem includes some old tactical things, but still repeated universal problems, and characteristic corrupt practice of Japan.

There are important problems that may bring us to war by mistake in the future in it.

I raise some problems and examine it from the next time.

 

 

今まで、日本の戦争がどのようなものかを見て来ました。

そこからは幾つかの課題が浮かび上がりました。

それを足がかりに、「戦争と平和」で何が重要かを見ていきます。

 

はじめに

第2~15話によって、私が皆さんに知って頂きたかったことは、つい半世紀前の戦争に考慮すべき基本的な課題があること、かつ近隣諸国に多大な迷惑をかけたことです。

その課題には戦術的に古いものもありますが、今も繰り返されている普遍的な問題、日本特有の悪弊があります。

中には将来、誤って戦争に深入りさせる重要な問題もあります。

幾つかの課題を取り上げ、次回から検討していきます。

 

Alliance (right of collective self-defense)

  • * 2

 

Some problems

Armed forces and peace

Japan as the garrison state that the military authorities controlled began to go out of control, and braking was not effective, and it brought the serious calamity to our country and foreign countries.

On the other hand, the army is indispensable to defend the military threat from a foreign country.

 

Alliance (right of collective self-defense)

The Triple Alliance that Japan entered into to have expected to suppress the Soviet Union and the United States failed very easily, and Japan had to fight against the both countries.

On the other hand, many countries tended to connect the alliance and it tended to make a foreign country abandon the invasion historically.

 

幾つかの課題

軍隊と平和

軍部が掌握した軍事国家、日本は暴走を始め、ブレーキが効かず、自国と他国に甚大な災厄をもたらした。

一方で、軍隊は他国からの軍事的脅威を防衛するには必要不可欠です。

 

同盟(集団的自衛権)

日本が、ソ連や米国を押さえることを期待して結んだ三国同盟は、いとも簡単に挫折し、両者を敵に回し戦争に突き進む結果となった。

一方で、歴史上、国々が同盟を結び、他国の侵入を思い止まらせようとした。

 

Deterrent

  • * 3

 

Deterrent

The big difference of the national power and the armaments of between Japan and the United States must have become a deterrent, and the willingness of war in Japan may have broken, but Japanese military authorities ignored this and began the war.

On the other hand, a country and an army appeal for increase of deterrent effect, when reinforcing the army and the armaments.

 

Backward country about information

The leadership of the war mistook the helm of Japan from beginning to end, because they ignored the war situation and the information of the enemy country and quashed the truth.

People believed it and seem to be depreciating the information of the neighboring country after the end of the war also.

 

 

抑止力

米国の国力や軍備との大差は抑止力となって日本の戦争意欲をくじくはずだったが、日本の軍部はこれを無視し戦争を始めた。

一方で、国や軍は、軍隊や軍備を増強するとき、抑止効果の増大を訴える。

 

情報後進国

敵国の情報や戦況を無視し、真実を握り潰す戦争指導部は国の舵取りを終始間違うことになった。

国民はそれに乗っかり、終戦後も隣国の情報を軽視して来た。

 

information

  • * 4

 

Historical awareness

What does the difference in two historical awareness mean?

Which is significant for the nation?

 

Invasion and atrocity

How should we face the past act?

What should we do the neighboring countries?

 

 

歴史認識

取り上げて来た二つの歴史認識の違いは何を意味するのか?

どちらが国民にとって有意義なのか?

 

侵略と残虐行為

過去の行為にどう向き合えば良いのか?

私達は隣国に対してどうすれば良いのか?

 

Invasion and atrocity

  • * 5

 

What is our demanding peace?

Was what the leadership of the war in those days demanded thing the people demanded?

Or, is there a difference between what the leader demands and what the people demand?

 

Future articles

From now on, I give an account of the main point about the above-mentioned problems, and explain the point that people are easy to misunderstand and believe blindly.

Explaining these problems differs among every scholar, military experts, scholars of peace research, diplomats, historians, and sociologists.

There is still not the established theory.

My wishing is to offer you good indication of right and wrong about the policy that the government sets forth.

 

求める平和とは

当時の戦争指導者達の求めたものは、国民の求めたものだったのか?

それとも指導者層と庶民では、求めるものが異なるのだろうか?

 

これからの記事

今後、上記課題について要点を述べ、誤解や盲信し易い点を説明します。

これら課題の多くは、あらゆる学者、軍事専門家、平和学者、外交官、歴史学者、社会学者らでも意見は錯綜し、定説はありません。

私が望むのは、国が打ち出す方針について皆さんに善し悪しの判断材料を提供することです。

 

 

 

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私達の戦争 15: 他国から見た日本の戦争とは 4


1現在の南京2

< 1. 現在の南京 >

 

今日は、中国から見た日中戦争を紹介します。

気の弱い人は、引用文を読まない方が良いと思います。

 

 2南京城

< 2. 当時の南京城、上下方向約8kmの城郭 >

 

中国(初級中学、歴史教材)より

**戦と南京陥落(タイトル)

「・・。日本侵略者はいたるところで、放火、虐殺、強盗、残虐の罪を犯し、数知れぬ町と村が廃墟と化し、無数の中国人民が惨殺された。日本軍は南京を占領したのち、南京市民に対し6週間にわたって、この世で最大ともいえる悲惨な虐殺を行い、このうえない大きな罪を犯した。素手の南京市民は、射撃の的にされたり、白兵戦の対象にされたり、生き埋めなどで殺されたり、揚子江に投げ込まれ、溺死させられたり、内蔵をえぐられたりされた。・・12月16日、日本軍は5000人あまりの市民を下関中山埠頭に集め、機関銃で射殺した。・・」

 

3南京入場2

< 3. 日本軍の入城 >

 

説明

これは南京事件(南京虐殺)を書いている。

この南京城は当時、約百万人が暮らす首都で、北西で揚子江(長江)に接していた。

 

1937年7月、北京近くの盧溝橋で日中戦争が勃発した。

8月には上海に飛び火し、中国軍に応戦するため日本は陸軍を派兵した。

当初、日本軍は苦戦したが増派により攻略した、しかしここで一部の日本軍は勝手に首都南京に進撃した。

直前に大本営は南京攻略を許可し、12月10日、攻撃が開始されると中国軍は総崩れとなり13日に陥落した。

しかし2月初旬まで殺戮は続いた。

 

4長江

< 4. 長江、左岸が南京城側か >

 

南京大虐殺(北京・外文出版社、徐志耕著、1994年刊)より

この本は、私が旅行中、盧溝橋の抗日戦争博物館で買った日本語の本です。

この中に、上記の下関中山埠頭の事件が詳しく書かれていた。

 

目撃者―今井正剛の証言(日本の従軍記者二人が目撃して、後に記した)

「埠頭は至るところ焼けこげた死体が、折り重なるようにして山を築いていた。そして、その死体の山の間を50人から100人ぐらいの、ゆるゆると移動する人影があり、死体を水際までひきずってゆき、河の中に投げ込んでいた。・・・・

しばらくすると、死体の処理を終えた苦力(使役人夫)たちは河岸に一列になった。続いてダダダ・・・と機銃の音が響き、ある者は仰向けに倒れ、ある者は前にのめって河に落ちていった。」p115

 

生存者―劉永興の証言

「あの日の午後、日本兵が一人、部屋の入口に来て、わたしのほうに手招きするんです。『おい、来い。来るんだ』ってね。わたしはそっちに行きました。・・・、通訳官が、これから使役だ、みんな下関埠頭に荷役に行くんだ、と言いました。

行かんという者が何人か、その場でズドンとやられました。それからみんな列を作って、先頭は黒い制服の国民党の警官、しんがりは日本軍の騎馬部隊に挟まれて行きました。途中は死人がいつぱいだったんです。人を見るとつかまえて、いっしょについてこさせました。駆けだして逃げる奴はみんな撃たれました。

下関埠頭に着いたらもう真っ暗でした。・・、20人ずつ一組に縛って、縛ったら機銃でワーツと撃つんです。私は前にいたもんで、あわててほかの者と一緒に河に飛び込みました。・・・

・・・機銃掃射の後、日本兵が今度は銃剣で一人ひとり突いていくんです。・・その時の突かれた人間の叫び声には身の毛がよだつようでした。

刀で突いたあと今度は火をかけました。・・夜明けちょっと前にあいつらが行ってしまうと、私はようやっと這いあがりました。そん時、岸に上がった者は十何人かおりました。・・・」p116

 

 

虐殺を否定すること

日本軍は皇軍であり虐殺は無かった、そんな非道なことをするはずが無いと信じる人がいます。

上記、三つの記述も否定することは自由です。

ただ虐殺行為は、世界の多くの戦場で程度の差こそあれ起こっています。

加えて、当時の日本軍は自軍他軍を問わず、人命無視が常態化していました。

 

事件前、南京城内には約百万人が暮らしていた。

生き残った人々や直接見聞した中国人は、77年後の現在も多く生きているはずです。

またその体験を聞いた人ならもっと大勢いるはずです。

その人々をすべて無視することも可能です。

 

否定する為の時間と労力を厭わないなら、直接、中国の人に意見を聞いてみたらいかがでしょう。

その方がよほど簡単で実りがあるはずです、否定するにしても。

他者を恐れ逃げていては、益々袋小路に入って行きます。

それこそ太平洋戦争に勇猛果敢に突入した軍部の強者のようです。

米国を恐れるあまり、都合の悪い情報を無視し、現実を拒否して、得たものは何だったのでしょうか?

同じ轍を踏まないことが大切です。

 

次回は、この連載の第2~15話で分かったことを整理します。

 

 

 

 

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私達の戦争 14: 他国から見た日本の戦争とは 3


蒙古襲来

< 1. 蒙古襲来 >

 

今日は、韓国の教科書から日本の統治時代を紹介します。

 

 朝鮮総督府

< 2. 今はなき朝鮮総督府 >

 

韓国(高等学校用歴史教科書、1990年版)より

兵站基地化政策(タイトル)

「日帝の経済的収奪は、1930年代に入って新しい段階に移った。日帝は産米増殖計画が難しくなると、工業原料増産政策へと方針を転換し、綿花の栽培と綿羊の飼育を試みるいわゆる南綿北羊政策をたてて、我が国の農村に強要した。その後、日帝は大陸侵略を画策しながら、韓半島を日本の兵站基地にしょうと試みた。その結果、発電所が建設され、軍需工場が建てられ、鉱山が開発され、重化学工業が育成された。しかし、これらはすべて日帝の戦争遂行のためのものであり、韓半島の経済を植民地経済体制に、より徹底して組み込むためのものであった。」

近代的な建物

< 3. 日本統治時代に建てられた近代的な建物 >

 

説明

この時期は、日本が1931年満州事変を起こし、満州から中国に深入りしていくのと呼応している。

日本の統治時代、確かに莫大な資金投入と新規制度導入によって、朝鮮半島の経済と文化水準は上昇した。

一方で、上記の状況は日本軍が侵攻した国々ではよく似たものであり、特に朝鮮半島では酷かった。

 

「台湾統治はよく感謝されているのに、なぜ朝鮮半島では日本の莫大な投資や近代化政策に恨みを持つのか」といぶかる日本人も多いのではないでしょうか。

 

誤解を招いた要因を箇条書きにします。

  • 1. 日本統治以前(1895年以前)の台湾は中国の圧政に苦しんでいた。
  • 2. 日本統治以前の台湾は文化・教育・産業共に非常に遅れていた。
  • 3. 朝鮮半島には長い歴史と伝統文化が根付いていた。
  • 4. 朝鮮半島は大陸への橋頭堡、防波堤のようなもので、兵站基地としても圧倒的に重要でした。

 

遅れていた台湾で行われた産業振興策(灌漑工事、工場進出)は飛躍的な効果をもたらし、その後の収奪によっても恩恵は残った。

また近代化(創氏改名、日本化など)も、教育や社会制度導入で台湾は恩恵を受けたが、朝鮮半島では伝統を侮蔑されることになった。

しかしこのこと以上に、第4項が日本の支配を苛烈なものにし、よって両国の反応の差となって現れた。

 

台湾の人々が全面的に日本に感謝しているわけではないことは、前回の教科書の記述でも判ります。

例えば忠烈祠に並ぶ遺影の奥に、日本軍が侵攻したおり、台南で戦った戦士達の遺影がひっそりと祭られている。

 

水豊ダム

< 4. 水豊ダム: 統治時代に日本企業が資金を負担し建設 >

 

土地の略奪(タイトル)

「このことによってわが農民は、土地所有に必要な複雑な書類をそろえ、期限付き申告制の煩雑な手続きを終えなければ、所有権を認められなかった。したがって、・・機会を逃した韓国人の農地や公共機関の土地はほとんどすべて朝鮮総督府の所有になった。土地調査事業によって不法に奪われた土地は、全農地40%に達した。朝鮮総督府は、この土地を東洋拓殖会社などに移して、韓国に移住してきた日本人に安く払い下げた。

・・土地調査事業以後多くの農民は、地主に有利な期限付き契約による小作農に転落していった。そして生活基盤が弱くなった彼らは、日本人の高利貸しに苦しみ、生活維持の為に火田民(焼畑耕作)となったり、満州や沿海州(シベリア東南部)へと移住していった。」

 

説明

これは1912~1918年の日本による事業で、代表的な経済搾取の例を示している。

この事業によって水田の65%が小作地となり、農民の77%が小作農・自小作農になった。

これが1930年以降、餓死者が出ても朝鮮から日本への米輸出高50%を可能にした一因となった。

 

まとめ

この教科書には日本の収奪と圧政への批判、民族独立への熱き思いがるる記されている。

大事なことは、見えない、また見たくない事が隣国には起きていたこと、さらに私達は誤解し納得し易い傾向にあることを知っていただきたいことです。

どうしても細かな事件の正誤に捕らわれ易いのですが、大局を見れば、自ずと見えて来ます。

 

気づきにくい朝鮮半島の悲劇の一つは、日本軍に徴用され共に連合軍と戦った人々と独立を目指して連合軍に加わった人々がいたことです。

前者は多数であり、日本の侵略に手を貸したものであり敗戦国の一員となりました。

元寇の折、対馬や福岡を攻めたのは高麗軍を配下にした蒙古軍でした。

かくも悲劇を繰り返して来たのです。

 

次回は、中国について見ます。

 

 

 

 

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私達の戦争 13: 他国から見た日本の戦争とは 2


1台北の忠烈祠

< 1. 台北の忠烈祠 >

 

日本と交戦した三カ国の教科書から紹介します。

1941年の太平洋戦争勃発を解説した箇所を集めました。

 

2ノモンハン事件

< 2. ノモンハン事件 >

 

モンゴル(8年生用歴史教科書、1987年版)より

「ファシスト・ドイツがソ連に侵攻した最初の日から、日本の軍国主義者たちは、ソ連とあいだに結んだ中立条約の違反を始めた。日本は、ソ独戦の過程において日本に有利な戦況になったさい、ソ連に侵攻する準備をしていた。日本軍は、ソ連およびモンゴルとの国境線上に強力な軍事力を終結させた。関東軍の兵力は、1942年には110万人に達し、全日本軍の35%を占めた。1941年から日本は、中国東北地方に防衛施設をきづき、細菌戦の準備を行い、そして多種の伝染病の病原菌を貯蔵した。

日本は、ソ日中立条約のモンゴルに関する条項にも違反していた。日本は、満州に軍の大部分を終結させると、モンゴル国境方面に軍を配置し、・・、戦争に必要な鉄道、道路、飛行場をつくった。・・スパイを送って情報を収集し、国境紛争を生じさせていた。」

 

説明

モンゴルは満州で日本と境界を接しており、1939年、関東軍はソ連・モンゴル軍とノモンハン事件を起こし大敗を喫していた。

41年4月、松岡外相は待望の日ソ中立条約を結んだが、その二ヶ月後、独ソ戦が始まると、7月には、日本はまたも関東軍特殊演習と称して、対ソ戦の準備を始めた。

細菌戦を担ったのは関東軍の石井部隊(731部隊)です。

 

3上海上陸

< 3. 上海に上陸する日本軍 >

 

台湾(高級中学、歴史教科書、1987年版)より

「民国30年4月(1941年)、ソ連は日本と中立協定を締結し、日本の南進を促した、6月、ドイツとソ連が戦争を開始し、日本は後顧の憂い無く、ベトナム南部に進駐した。太平洋の情勢が緊張し、アメリカは中国に対する援助を増強した。8月、シュノーがアメリカ志願空軍隊を組織し、中国に助力するため中国に来た。アメリカの軍事代表も10月重慶に到着した。日本はアメリカの中国援助を阻止するため、アメリカと交渉したが、決裂した。12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を襲撃した。・・

31年1月2日、蒋委員長は連合国の推挙を受け、連合国中国戦線(ベトナム、タイを含む)最高総師の地位につき、・・中国の単独の対日戦から連合国との共同作戦へと移ったのである。」

 

説明

この教科書が発行された時期は、台湾にとって転換期だった。

78年日中平和友好条約、79年米中国交樹立と、日米が台湾から中国になびき始め、台湾独立に影が差し始めていた。

もう一つは戦後から続いていた戒厳令が87年解除され、民主化が動き始めた。

 

日本開戦の経緯は正確ではないようです。

41年から米国は中国支援に大きく傾き始めており、後に台湾の総統になる蒋介石を援助し続けることになる。

ここでは触れなかったが、蒋介石率いる国民党軍は中国各地で日本軍と戦っており、教科書には、その当時の日本軍の横暴や侵略行為が記されている。

細かい虐殺の記述は無く、大局的な流れを書かれているが、学生はやはり否定的な印象を持つだろう。

単純に、台湾が教育に関しては日本びいきとは言えないだろう。

 

4香港侵攻

< 4. 香港に侵攻する日本軍 >

 

香港(学力試験受験生用歴史教材、1988年版)より

「1941年、アメリカは石油輸出禁止という条件をつきつけて、日本が中国から完全に撤退するように主張し続けた。日本の石油貯蔵量は2年間分しかなかった。しかし、中国が自国にとってきわめて利益多しと考えていた日本は、かたくなに中国からの撤退を拒否した。石油を手に入れることでアメリカの要求をのむよりは、インドネシアへの侵略を考えたのである。・・・・

日本軍は、アメリカ敗北を期待したのではなく、長期にわたる東南アジアの支配権を握るために、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えようとしたのである。彼らは、力を誇示することで日本が中国支配を維持し続けるのを、アメリカに認めさせられると信じていた。不幸にも、日本はアメリカの反応に重大な誤算をしていた。・・」

 

説明

香港は、太平洋戦争時、日本軍に占領統治されたが、終戦後、また英国領に復帰し、97年、中国に返還された。

教科書の記述は英国の立場から書かれたもので、概ね太平洋戦争への経緯に誤りは無いように思える。

 

まとめ

上記の記述はほんの一部ですが、概ね太平洋開戦期の経緯を適確に捉えているように思える。

他の記述も合わせて言えることは、日本の侵攻を好意的に捉えるはずもなく、その身勝手さ、侵略目的、横暴さと残酷さを批判していることです。

前回の記述も含めて「大東亜共栄圏」や「独立支援」は、直ぐに虚偽だったと気づいた事が判る。

これらの事実を、これらの国では国民に教育し続けることになる。

 

次回は、韓国と中国について見ます。

 

 

 

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私達の戦争 12: 他国から見た日本の戦争とは 1


1 パプアニューギニア

< 1. パプアニューギニア、かつて悲惨な戦場だった >

 

前回まで、日本人が太平洋戦争・日中戦争をどう振り返ったかを見ました。

今回から、他国が太平洋戦争・日中戦争をどう見たかを紹介します。

そこには私達の気づかない事実や感情があるかもしれません。

 

2水木しげる3

< 2. 水木しげるの戦記ものから >

 

インドネシア(小学校6年用の歴史教科書1973年版)より

「・・オランダ軍はカリジャチで日本軍に無条件降伏した。インドネシア人の気持ちは実に痛快であった。日本軍の到着を我々は両手をあげて喜び迎えた。・・

まもなく日本軍の目的は我々の解放よりは戦略物資の略奪にあることが判ってきた。日本の統治は残酷であり、貪欲であった。米その他の食料は奪われ、油を採るためにはヒマを強制的に栽培させられた。・・多数の人間が労務者として遠くビルマ、タイに連行されて労働させられ、再び故郷に帰れなかったものも多い。さらに青年は兵補に徴集され、・・。

日本の占領時代はかつてなかったほどの苦難の時であったが、インドネシア民族は我慢した。食料は不足し、衣類はボロボロになって椰子の繊維の織物を身にまとう者さえ多くなった。至るところ失望の声が渦巻き、・・公然たる反乱さえ起こった。

・・日本の敗戦となり、・・『待ちに待っていた日が今やってきたのであり、全民族はいせいに立ち上がった』・・」

 

3戦場にかける橋

< 3. 映画「戦場に架ける橋」 >

 

説明

これは太平洋戦争開始翌年(1942年)の日本軍の侵攻を記している。

この国はオランダの植民地支配に既に400年あまり屈していた。

日本は、戦争続行に不可欠な戦略物資を調達するために、侵攻した国々で同様のことを行った。

「連行されて労働させられ・・」は映画「戦場に架ける橋」で有名になった「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道建設だろう。

これにより各国の捕虜・連行による作業者、数十万の内、約半数の犠牲者が出た。

食料の略奪だけでなく、作物の植え替えも多くの餓死者を生むことになった。

日本は協力を得、兵を徴集するために、各国で独立を約束しましたが、これは欧州も同様の手を使いました。

 

侵略された国はどこも、悲惨な体験をバネに民族意識を鼓舞することになります。

おそらく現在の教科書は、日本の国際貢献や経済交流などがあって、きっと変わっているように思います。

 

4水木しげる4

< 4. 水木しげるの戦記ものから >

 

フィリピン(中学2年用の歴史教科書1975年版)より

「フィリピンは日本の戦争の要求をみたすためにただ搾取されただけであった。・・フィリピンに進出した日本人の総数は50万人をこえ、・・我々は彼らの衣食住すべてを負担させられたことになる。日本人は能う限りの食料を我が国から奪い去った。・・

・・すべて疑わしいと見なされた男性はその場所の教会あるいは公共建物に集められ、誰かが自白するまで数日間食べものも水も与えられずに監禁された。拷問や虐殺もしばしば行われた。

・・日本の戦争目的を宣伝することだけは盛んであった。・・検閲が実施された。ラジオも外国の短波放送が聴けないよう、日本人は受信機を改造した。・・日本文化を広めるための組織がつくられたが、・・フィリピン人の心を捉えるには至らなかったのである。」

 

説明

これも1942年の侵攻以降を記している。

第二次世界大戦におけるフィリピン人の死者は兵士、一般市民を合わせて計110万人だった。

 

5水木しげる2

< 5. 水木しげるの戦記もの >

彼の体験を描いた戦記ものや昭和史などは、当時を知るには優れた作品です。

作品中、ジャングルの人との交流、残酷で無謀な日本軍、心優しき兵士、自身の奇蹟の生還などが、悲惨な中にもユーモアと情感を込めて描いています。

 

 

気づきが・・

私達日本人にとって知りたくないことが起こっていました。

 

立派な日本軍人も居ますが、何せ国策が戦略物資調達を目的としていたので、大勢は自ずと決まります。

しかし残念ながら島国は致命傷を抱えており、その事に想いが至り難い。

どうしても海外情報を軽視し、都合良く解釈する傾向があります。

それは江戸時代の鎖国政策が成功したことも一因と言えます。

日本は広大な海と言語の違いにより、大陸からの混乱要因を容易に遮断出来ました。

しかし、この情報遮断は一方で大きな不幸を招きます、太平洋戦争勃発とその後泥沼に入り込んだように。

 

現在、私達は過剰な情報量の中に埋没しています。

しかし、必要な情報が適切に公平中立に本人に届くとは限りません。

情報が偏る理由は、種々あり複雑ですが、詳しくは連載「社会と情報」で扱います。

一つの理由は、マスコミが視聴者の望む情報に偏り、嫌う情報を扱わないことにあります。

 

このことに気がつくことが大切だと考えます。

 

 

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私達の戦争 11: 当事者が振り返る戦争とは 10


 大本営発表

< 1. 大本営発表 >

    

今回も参謀の堀栄三氏の著述を見ます。

日本軍の敗因がそこには記されており、根の深い問題が露わになります。

 

 ミッドウェー海戦 

< 2. ミッドウェー海戦 >

 

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

 

米軍が見た日本軍5つの敗因(タイトル)

「米軍は昭和21年4月(敗戦の翌年)、『日本陸海軍の情報部について』と言う調査書を米政府に提出している。

『日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは

1. 軍部の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積を不当に過小評価してしまった。(注、国力判断の誤り)

2. 不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃がす結果となった。(注、制空権の喪失)

3. 陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることが出来なかった。(注、組織の不統一)

4. 情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。(注、作戦第一、情報軽視)

5. 日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかかり的な日本不滅論繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に協調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。(注、精神主義の誇張)

・・・以上の5項目は、戦後40年経った現在でも、まだ大きな教訓的示唆を与えている。」P329

 

説明

残念ながら米軍の指摘は、あまりにも日本の弱点を見抜いていました。

この連載で取り上げた指摘や人物の行動にピッタリとあてはまりました。

 

著述の中で、彼は多大な損失を生み続けた日本軍の古い体質を随所で批判しています。

彼の批判は適確ではあるが容赦ないものではなく、その歴史的経緯に理解を示しています。

だが彼は所属していた陸軍部参謀本部、特にエリートの作戦課に強く失望していた。

一方で、彼自身の思い上がりやミスも吐露しています。

彼のように自分や所属組織への反省を適確に行い、改革を進めた人がどれだけいたでしょうか?

結局、指摘や批判を拒否し、反省しない人々が組織の体勢を占め、国の命運を左右してしまた。

 

焦土と化した大阪

< 3. 焦土と化した大阪 >

 

米軍が見た日本軍5つの敗因につづく

「作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験無しで陸軍大将になった者は、よほどの例外といって差し支えなかった。

・・堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの1回もなかった。

・・堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、「米軍のルソン侵攻は3月以降である」(1月6日に発生)と打電してきたり、・・電報が没になる(前回指摘)・・。

・・結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかったかもしれない。」P332

 

説明

彼は落ちこぼれと言っているが陸大卒業時5番だった。

しかし彼は希望の作戦課には配属されず、低く見られていた情報課に入った。

当時、陸大の最重要科目は作戦演習で、過去の実戦例について自分の意見を述べ、教官がそれを評価していた。

彼は言う、優秀な生徒(陸大軍刀組)は教官の望む答えを言えることであり、創造性とは無縁だと。

彼が陸大で学んでいた時、情報の科目はおざなりで、現役将校の自慢話であったと記している。

 

ヒトラー

< 4. ヒトラー >

 

まとめ

太平洋とアジアの全陸軍の作戦を統括し命令を出す作戦課は、信じ難いが敵情はもちろん国際状況にも無頓着であった

それは陸軍大学と軍部の驕りとマンネリが生んだとも言えるが、歴史的経緯、さらには日本の精神風土が大きく災いした(事故調の黒川委員長指摘と同じ)。

それは大日本帝国陸軍が誕生してから高々70年(主に後半)で生じたものでした。

 

しかしこれは当時の軍隊だけに起きたのではない。

現在も頻発する組織とエリート官僚の腐敗と軌を一にしている。

例えば、検察庁や原子力安全・保安院の事件は氷山の一角に過ぎないだろう。

この腐敗は資本主義や共産主義を問わず、国家から教団まですべての組織に起こっている。

ただ軍隊の驕りやマンネリ、腐敗から生じる暴走は、一国で数百万から世界で1億近い人々の犠牲を強いた。

 

正に、歴史を学び反省点を得る理由は、これらを繰り返さない為でもあります。

 

次回は、他国から見た日本の戦争を確認していきます。

 

 

 

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私達の戦争 10: 当事者が振り返る戦争とは 9


大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇 

< 1. 著書 >

 

前回、エリート参謀が軍上層の意向に沿い、脇目も振らず邁進する姿を見ました。

しかし、今回紹介する堀栄三氏は、同じ参謀でもかなり異なります。

そこからは日本の敗因が見えて来ます。

 

 堀栄三

< 2. 堀栄三 >

 

堀栄三氏について

彼も陸軍幼年学校、士官学校、騎兵と教官を務め、陸軍大学卒業後、教官勤務。

1943年10月、29歳で大本営陸軍部の情報参謀になり、アメリカ課勤務の後、44年10月から第14方面軍(南方軍)の作戦参謀になる。

終戦後、郷里に帰るが、請われ自衛隊の情報本部を立ち上げ退官後、大学講師、郷里の村長を務めた。

 

台湾沖航空戦

< 3. 台湾沖航空戦の大勝利を伝える >

 

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

 

情報は常に悪戯する(タイトル)

「戦史叢書・・には、『大本営海軍部と連合艦隊は、・・台湾沖航空戦の成果に疑問を生ずるや、・・調査して・・成果を客観的に正確に見ているのは堀参謀のみであるとした』

 

と記述している(堀が新田原(宮崎県)から打った電報は、・・これが握り潰されたと判明するのは戦後・・。大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。」p188

 

説明

彼はこの本で「私」と書かず「堀」と書いている。

この文には二つの大きな意味がある。

 

一つは、後半の( )内に書かれている事実です。

彼は台湾沖航空戦(1944年10月)の戦果報告が誇大であると電信したのだが、握り潰した犯人は「瀬島龍三参謀の昭和史」(保阪正康著)によると瀬島とされている。

前回記したように、大本営陸軍部において、不都合な真実を伝える電信は握り潰されるのが常態化していた。

瀬島が真犯人かどうかは別にして、情報を無視する参謀と情報を生かす参謀がいたことになる。

 

もう一つは、堀が誰よりも米軍の戦力把握と戦法を熟知していることを指している。

彼は、太平洋での米軍による航空戦力と艦砲射撃を使った島伝いの飛び石作戦を検討し、その対策を「敵軍戦法早わかり」にまとめ、現地指揮官らに訓育しょうとした。

例えば、彼は解りやすく、島の防衛では消耗を早める銃剣突撃ではなく艦砲射撃に耐える厚み2m以上のコンクリート防御壁こそが重要と説いた。

これ以降、各師団に軍事作戦が説明される時、現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。

それまでは大本営は攻略せよか死守せよぐらいしか伝えなかったのだろうか。

残念ながら、「敵軍戦法早わかり」が印刷完了したのは終戦の1年前44年の9月であった。

 

 

作戦に先行しなかった情報(タイトル)

「一握りの戦略作定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一戦部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。」p157

 

ペリリュー島の戦い

< 4. ペリリュー島の戦い >

上: 米軍の艦砲射撃と上陸部隊。

下左: 日本兵の捕虜。

下右: 中川連隊長。

 

説明

これは、堀から「敵軍戦法早わかり」の説明を熱心に聞いた中川連隊長が、強固な陣地を構築しペリリュー島で孤軍奮闘したことを受けて、堀が漏らした感想です。

1944年9月、圧倒的な米軍の兵火を前に守備隊11000名は、最後に55名が万歳突撃を行い、捕虜202名を残し他は戦死、中川連隊長は自害した。

上記の戦略作定者とは、立案・作成を行っていた大本営陸軍部参謀本部作戦課作戦班と考えられ、その中心人物の一人は瀬島であった。

 

日本軍とは桁違いの米軍諸教令(タイトル)

「この上陸作戦の米軍野外教令一つを読んだだけでも、日本の作戦当事者は、『治にいて乱を忘れ』て、大正十年以来惰眠を貪っていたと言えよう。米軍と日本軍とは実に二十余年の開きがあった。

『軍人には軍事研究という大へんな仕事があったのに、軍中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって政治介入という玩具に夢中になりだした』と・・寺本中将の言葉であった。」

 

説明

第6話で説明していますが、1920年代以降、日米共に互いを交戦可能国と見なした。

米国は太平洋上の戦闘教義(軍隊の基本的な運用思想)を逐次発展させていった。

一方、日本、特に陸軍は中国戦線、古くは日露戦役の戦闘教義から抜け出すことはなかった。

さらに太平洋戦争が始まっても、大本営は敵の戦略や戦力を正確に掴む努力を放棄し、自ら都合の悪い情報は隠蔽し、結果、自己満足に浸った。

 

その中にあって、堀は独自に工夫して情報分析と活用の道を切り開いた。

それだけでなく、上官(南方軍司令官)に正確な危険性とその対策を上申した。

 

次回、堀が指摘する日本軍の敗因から日本の問題点を見ます。

 

 

 

 

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Summer in Awaji Island : A festival and fireworks of the strait park 


fireworks

*     1

 

Today, I introduce the summer festival that was held by Awaji city July 20.

This main is some events and fireworks that are performed in the lawn open space of Akashi Kaikyo National Government Park.

Moreover, many stalls were set up, and entering the park is free today.

Blessed with weather, many people came from the island outside.

 

今日は、7月20日に行われた淡路市夏祭りを紹介します。

これは明石海峡公園の芝生広場で行われる催しと花火がメインです。         

またたくさんの屋台が賑わい、この日は海峡公園も無料公開されます。

天気に恵まれ、たくさんの人々が島外からも来ていました。

 

stalls and a stage

< 2. stalls and a stage in the lawn open space    >

 

There are eateries that are provided by the professional in these stalls, but stalls that were provided by the local volunteer are amusing.

The performance and the dances were carried out on the stage.

 

これら店舗にはプロによる飲食販売もあるが、面白いのは地元ボランテイアによる店舗です。

舞台では演奏や舞などが行われていた。

 

a eatery by children 

< 3. a eatery by children >

 

The faces selling with a smile were shining in sunlight.

笑顔で一生懸命に売り込む姿は、陽差しに輝いていました。

 

4子供1

< 4. children absorbed in play >

Akashi Kaikyo National Government Park

< 5. a central part of the park >

The scene that was reproduced the forest, the hill, and the valley naturally is the merit of this park.

The trees of the season blossom in various spots.

However, the flower of the park is few at this time.

 

自然の森林や丘陵、谷間を再現した景観が、この公園の良さです。

要所要所に季節毎の木々の花が咲きます。

しかしこの時期、公園全体の花は端境期で、少し寂しい。

 

Akashi Kaikyo National Government Park

< 6. Upper: the park south side. Lower: the park north side. >

There is a very large lawn open space in the end of the park north side, and we watch the fireworks in this side.

公園北側の端に広大な芝生広場があり、花火はこちら側で見ます。

 

flowers

flowers

flowers

*     7,8,9

The flowers in the park

公園内の花々。

 

fireworks

< 10.   fireworks >

I took pictures of fireworks for the first time and it was difficult.

 

I was comfortable, because it was a little cloudy.

After the photography of the park, I was sitting down vaguely at a bench for three hours until the fireworks start.

I had been bringing back the past along with seeing the behavior of families, lovers, and friends.

 

今回、花火を始めて撮影しましたが、難しかった。

 

この日は曇り気味で、陽差しが厳しく無く助かりました。

海峡公園の撮影後、花火開始までの3時間、ベンチでボーッと座っていました。

私は家族連れや恋人達、友人同士の振る舞いを見て、昔を思い出していました。

 

 

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私達の戦争 9: 当事者が振り返る戦争とは 8


1テレビドラマ

< 1. テレビドラマ >

 

今回から、今次大戦の作戦立案を担った参謀達の意識を追います。

陸軍参謀の瀬島龍三氏の著作から始めます。

そこからは兵士数百万の命を扱う官吏の有能さが浮かび上がって来ます。

 

 2東京裁判証人瀬島

< 2.東京裁判で証人となった瀬島 >

 

瀬島龍三について

彼は秀才の誉れ高く、陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学を主席卒業と13歳から27歳(1938年)まで、当時最高の出世であった軍人の道をひたすら進んだ。

直ちに彼は陸軍参謀になり、40年には本部作戦課に配属され、敗戦直前まで大本営で作戦を立案した。

敗戦時、満州在任であった為、ソ連軍によりシベリアに11年間抑留された。

帰国後、伊藤忠に入社し、会長まで上りつめ、後に政財界でも活躍する。

山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公壱岐は瀬島がモデルだが、あくまでフィクションです。

 

3幾山河

< 3. 瀬島の回想録 >

 

「瀬島龍三回想録 幾山河」より

戦後の私の考察(タイトル)

「『支那事変処理重点方針』という従来の国策に『南方問題処理』が加わり、『二元的国策』になった最大の要因は、欧州戦局に対する判断の甘さ、すなわち、ドイツの国力・戦力を過大評価し、英国と米国の戦争遂行力を過小評価したこにあったと思われる。・・・

近衛公は『国民組織による新政治体制』を訴え、・・近衛公の狙いは、国民組織の力によって軍部、特に陸軍を抑えることにあったと言われている。しかるに、組閣から五日後、早々とこのような重大決定をしてしまったことは、今も、私にはよく理解できない。」p87

 

開戦決定と作戦遂行(タイトル)

昭和16年八月頃の情勢と「帝国国策遂行要領」の決定

「8月16日、・・海軍側から今後の国策遂行方針について提案があった。その骨子は・・『十月中旬に至っても対外外交が妥結しない場合には実力発動措置をとる』であった。・・我々(陸軍参謀)もこれを聞いて驚いた。・・、

これらの経緯を踏まえて、9月6日、御前会議が開催された。そこで決定されたのが『帝国国策遂行要領』である。・・・

この決定はまさに、『和戦両用』の決意であった。御前会議の前日の9月5日、近衛首相拝謁の際、陛下は戦争準備が主で外交が従ととれる議案に対し強いご不満を表明された。・・」p105、106

 

書籍 以下の説明に下記略号を使います。

書1:「瀬島龍三回想録 幾山河」瀬島著、産経新聞ニュースサービス、1995年刊

書2:「大東亜戦争の実相」瀬島著、PHP文庫、2000年刊、1972年講演分

書3:「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著、文集文庫、1991年刊、1987年初出

 

4大東亜戦争の実相

< 4. 瀬島のハーバード大学での講演記録 >

 

有能な参謀とは

私が彼の書1を20年ほど前に読んだ時、無味乾燥さに失望し、今回、書2を読んで更にその意を強くした。

彼の著作には、開戦に至る大本営の記録が詳述されているが、ほとんど心情の吐露が無い、当初、彼の冷徹さ故と理解していたが。

述懐する批判や反省の矛先に、彼自身と周辺(参謀から陸軍)はありません。

彼は完璧なのか、自分自身の激情や判断ミス、悔悟について一切触れません。

行間から漂ってくるのは「しかたがなかった」「他者(米国)が悪い」ばかり。

 

彼は、陸軍上層部や参謀本部に重用され、当時多くの作戦立案を自ら書いています。

二十数名の陸軍参謀本部第Ⅰ部作戦課にあって彼は序列5番以内で、最重要な作戦班の補佐でした。

 

6月のドイツのソ連侵攻時、陸軍参謀らは歓喜し、気宇壮大になっていたが、それを上の文では他人事のように書いている。

また下の文では8月、海軍が俄然、参戦意欲を高めて驚いたと、これまた始めて聞き、他人事のように書いている。

書1ではなぜか抜けているが、書2p204では41年6月に「対英米戦争・・ごとき画期的国策案」と彼が絶賛する路線は既に敷かれていた。

ソ連の連敗に勢いづいた陸軍に対して海軍は慎重だったが、8月に石油を絶たれたので、6月の予定路線に従って進めざるを得なかった。

彼の記述は、すべて巧みにしくまれている。

 

参謀達の意識を物語る事件

「・・米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。・・瀬島少佐から・・『既に戦闘が開始され・・』・・を聞いた。・・かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった。」書3のp110

これは真珠湾攻撃の前日、大本営通信課の戸村少佐が、瀬島のアドバイスで、電報を握り潰した記述で、重大な背信行為です。

瀬島は他にも都合の悪い電信を握り潰すことをしている。書3

 

「部内、来栖の飛行機墜落を祈るものあり、いわく、第二課長(瀬島の上司)、第6課長等。当班もまたその気持ちは同様なり」書3のp107

11月に渡米し日米交渉を必死で進める来栖特派大使への参謀本部の気持ちが、内部文書に残っている。

このようなことを間違っても彼は語ることはない。

 

結論

瀬島も含め、参謀達の意識は、戦争続行・拡大である。

特に作戦好きだった瀬島にとって、自分の筆で数十万の兵員を自在に動かせる喜びは何事にも代え難いものがあったろう。

彼らの多くは、国民に対して背信行為だとか、判断ミスとか、兵士に申し訳なかったという感情は無縁だろう。

彼らにとって、与えられ目標に勝利する作戦・用兵を提示することこそが有能の証しであった。

例え兵士の消耗率が10~50%あろうが・・・・

 

次回は、別の生き方をした陸軍参謀を紹介します。

 

 

 

 

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私達の戦争 8: 当事者が振り返る戦争とは 7


 

1大政翼賛会

< 1. 大政翼賛会 >

 

今回も前回に続いて、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した近衛公の振る舞いを重光氏の手記から見ます。

 

日本の行くべき途(タイトル)

「近衛内閣は『スローガン』内閣であり、戦線拡大主義者であり、酷評すれば百鬼昼行の政府である。その第一内閣は陸軍を押して遂に支那事変を惹起して今日の乱脈の原因を起こした。近衛第二次内閣は支那問題を太平洋全面に拡大してここに日本の前途を暗黒に導きつつある。先には日満支新秩序なる『スローガン』を振り回し、今日は新体制を高調して居る。・・特に極論派の強要には何でも応じてもって世論を容れ難物を操縦し得たと感じ、これが最も成功したる政治と心得ているが如くである。」p135、1940年夏

 

2三国同盟

< 2. 三国同盟 >

 

第三次近衛内閣の崩壊

「第三次近衛内閣は、三国同盟締結後の我が国際関係の混乱を日米交渉成立によって救済すべき重大使命を帯びていたと同時に、絶好の機会を握った内閣であった。

・・単に松岡君を追い出してその後に海軍を据えたぐらいでは到底やり切れるはずがない。近衛公は内閣において陸海軍のバランスをとって、外交は日米交渉成立を陸軍よりも熱望する海軍を利用して、実は自らやって行くことにした点は、バランスをとっていく公家式の考え方で極めて浅薄であった。」p297

 

説明

1937年、近衛は期待され、軍部が主導権を握り混迷する政局にあって第一次近衛内閣を率いた。

独走する陸軍、慎重な海軍、独伊か英米かで割れる中で唱えたスローガンは「国内各論の融和」であった。

しかし結局、陸軍に振り回され日中戦争、ノモンハン事件(ソ連との軍事衝突)へと深入りした後、総辞職する。

 

3戦前の双六

< 3. 大東亜共栄圏の双六、戦前 >

 

1940年、1年半の平沼内閣の後を受け、第二次近衛内閣をスタートさせた。

この時のスローガンは「皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であった。

彼は国民一丸を目指し、全政党を解体し大政翼賛会一本にまとめ、政党政治と民主主義を無にした。

一方、松岡外相が裏切られることになったドイツによるポーランド侵攻とソ連侵攻、さら陸軍と共に唱える対ソ戦準備、日米交渉の非協力態度(外されたことにすねる)に、近衛は松岡を切る。

 

かくして41年7月、続いて第三次内閣をスタートさせた。

形では日米交渉を継続していたが、日米共に決戦の腹をほぼ決めていた。

暗号解読で日本政府の言動は米に筒抜けだったが、日本は外交組織を破壊し、米や世界の情報をまともに掴むことが出来なかった。

こうして独り相撲の形で、自ら火の中に、蛮勇をもって飛び込んだ。

 

近衛公は筆頭摂関家に生まれ、25歳で世襲により貴族議員となり、類希な血筋、貴公子然の風貌、革新的な言論で、大衆の人気を集め首相として期待された。

しかし彼の政権運営は、生来の気弱さが災いし、軍部に流されるだけに終始した。

 

4御前会議

< 4. 御前会議 >

 

だが彼一人が悪いわけではない、当時、軍部の独走を防ぐ手立てがなかったと言える。

それは当時の憲法に、軍権は天皇に、政権は内閣にと謳われていたが、軍事費が国家予算の半分を越えるに至っては、その分離は無意味だった。

そこで、国の重大方針は内閣と軍部首脳による天皇臨席の御前会議で行われるようになった。

それは天皇が反対をしないので、軍権に関わる政府議案としてすんなり通すことが出来たからでした。

 

 

次回より、当時、軍事作戦を担った複数の参謀の回顧録を見ます。

そこからは対照的な能吏が見せる軍中枢の惨状が浮かび上がって来ます。

 

 

 

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私達の戦争 7: 当事者が振り返る戦争とは 6


   1広東上陸 

< 1. 日本軍が広東方面に上陸 >

 

今回は、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した指導者達の振る舞いを重光氏の手記から見ます。

 

2 2.26事件

< 2. 軍事クーデターの2・26事件、1936年 >

 

ああ 支那事変(タイトル)

「満州事変が起こって後、るる陸軍方面の人々から聞かされたことがある。日本は政党の為に、資本主義の為に腐っている、日本精神を取り返す為には国内的革命を必要とする、これが為に満州事変から続いて世界を敵とするような困難を招くことも必要である、と言うのであった。・・・

三年を越す支那事変は軍部の連戦連勝にかかわらず、日本の負担として耐え難いものがある。・・国家はこれでよろしいか。国民は枯れて将軍が群がっている現状は果たして皇道であり、国家をやすらかにするものだろうか。」p167、1940年12月

 

説明

日本は第一次世界大戦での軍需景気、軍部による海外領土拡張と好調が続いた後、経済恐慌に見舞われると国民の不満が高まった。

すると軍人による政府要人暗殺とクーデターが頻発し、1937年以降は軍部が政権を握った。

こうして首相といえども陸軍、海軍の同意なしに政治が動かなくなった。

おうおうにして世の軍人は力でもって突き進むことを是とするようで、やがて太平洋戦争に突き進むことになる。

 

3 国際連盟脱退

< 3. 国際連盟脱退時、松岡全権大使が熱弁を振るう >

 

日本の狂乱

「外務省は外交の転換から世論の声に乗じて、いわゆる外交陣の刷新を断行して上層部五六十人の整理をなして、革新派と称するこれまでの不平組を登用した。外交機関は全世界にわたって破壊されてしまったが、これまでの外交機関は現状維持派であるから不必要であると、公然と当局者は言った。出先の報告等は、三国同盟締結の方針が定まって日本は新体制に乗り出したのであるから不必要であると言われて、電信報告無用の訓令が来た。」p205

4 第二次近衛内閣

< 4. 第二次近衛内閣、松岡外相、東條陸相、吉田海相 >

 

説明

これは1940年、第二次近衛内閣誕生の目玉になった松岡外相がとった処置でした。

彼は33年の国際連盟脱退、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を牽引し、結果、太平洋戦争への道を準備し、去った。

彼は外交官、満鉄理事、国会議員を経て、その人気と豪腕を近衛公に買われ入閣した。

三国同盟締結でドイツ寄りを鮮明にすると、それまでの親英米派の外交官を一掃した。

この時、欠かせない重光や数人の外交官だけは残る事が出来た。

元来、彼は英語がたんのうで世界的な視野を持ち、ヒトラーのドイツを信用していなかったが、軍部との主導権争い、後背の憂いであるソ連重視(日ソ中立条約)、彼の傲慢が災いし、その道は袋小路に入った。

彼も政局の渦に巻き込まれた一人だが、最重要な国際情報を途絶するとは如何にも日本らしい政局の乗り切り方だった。

 

次回は、最重要な近衛公について見ます。

 

 

 

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私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5


 1 41年チャーチルとルーズベル   

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

 

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

 

太平洋戦争開始の直近の経緯

1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始

1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。

1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃

 

2太平洋戦争地図

< 2. 太平洋戦争地図 >

 

日本の思惑と動き

日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。

その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。

日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。

その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

 

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。

日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。

また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。

この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。

それが41年7月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

 

3関特演と仏印

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >

日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。

一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。

さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

 

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。

41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。

41年11月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。

こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

 

米の思惑と動き

米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。

しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。

まだ米国内では参戦への反発が強かった。

この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。

日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

 

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。

この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。

米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。

さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。

米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。

日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

 

4艦隊と航空機

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

 

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。

こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

 

最後に

これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。

皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

 

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。

 

 

 

 

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私達の戦争 5: 当事者が振り返る戦争とは 4


1真珠湾攻撃

< 1. 真珠湾攻撃 >

 

はじめに

私が考える、日本が太平洋戦争に至る過程での問題点をあげます。

 

  1. なぜ戦線を拡大させていったのか? 日清、日露、満州、日中、仏印、太平洋へ
  2. なぜ危険な三国同盟を結んだのか?
  3. なぜ国力・兵力が10倍以上勝る米国に戦いを挑んだのか?
  4. なぜ統治者・官吏達(外交官、参謀)は正常な情勢判断が出来なかったのか?
  5. なぜ自他に対して残虐になったのか?

 

既にBは4話で、Eの実態は3話で、他は続いて要点だけ考察します。

重要なことは、これらの問題は国民がそのメカニズムを理解し、原因を是正しない限り、再発の可能性が高いということです。

太平洋戦争開始の直近の経緯

1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始

1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。

1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハルノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃

 

日米の動きを「重光葵 手記」から見ます

 2ルーズベルト大統領

< 2. ルーズベルト大統領 >

 

英米の重圧(タイトル)

「三国同盟論者の他の誤算は米国の態度である。米国は1940年、11月の総選挙によって孤立論者は惨敗して、全面的英国援助論が党派の如何を問わず勝利した。ルーズベルト大統領は当選後全力を上げて被侵略国の英、中、ギリシャ等の諸国に対して留保無き如何なる形の援助をも提供する方針を決した。これが為に、枢軸三国(日独伊)から宣戦布告を受けても意に介さないと決心したのである。このために、・・・、枢軸三国との抗争を最後までやろうと言うのである。」p222

3近衛首相

< 3. 近衛文麿 >

 

第三次近衛内閣の崩壊

「(在外日本資産)凍結令の実行によってジリ貧説が台頭して来た。このままにしていれば敗戦国と同様になるから、力のある内に戦争しなければならぬ、石油は力で取りに行かねばならぬと言う主張が有力になった。まるで子供の議論である。しかし近衛内閣は日米交渉最中(1941年)9月6日に、もし交渉が十月上旬にまとまらなければ戦争を開始すると御前会議に通した。このような交渉が期限付きで出来るはずがない。

一方で平和交渉を行いながら、他方戦争準備を進める。相手方(米国)はそれが平和の為か、戦争の為か分からぬ。恐らく戦争手段に訴える前提としか受け取ることが出来ぬ。ましてや日中戦争以来、同様の手段で既成事実を作られており、(日本の)新聞世論の激しい調子から見て、また例のドイツ流の手ではないかと直感するのも無理ではない。    ・・ここにおいて交渉は益々困難となる。」p298

4東條英機

< 4. 東條英機 >

 

日米交渉

「東条内閣(1941年10月18日~)は初めより喧嘩内閣であって、外務大臣まで(日米)交渉に熱意を示さずして終始挑発言動に出ている。今後の方向はおのずから明らかである。その態度は、開戦の準備は出来ている、長期戦に打ち勝つ計算は出来ている、平和は必ずしも帝国を救うものではないとの態度である。」p312

 

次回は、日本と米国、それぞれの立場から日米開戦への思惑を説明します。

それにより第2話の中條氏曰わく「米は日本を戦争に追い込んだ」真実が見えて来ます。

 

 

 

 

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私達の戦争 4: 当事者が振り返る戦争とは 3


1重光

< 1. 重光葵とチャーチル、1941年 >

 

今回は、第二次世界大戦期の日本外交で活躍された重光葵氏を紹介します。

彼はこの動乱の時代、非常に興味深い政権の内情と国際状況を手記に残しています。

彼の痛烈な批判は、当時の日本の危うさや間違いを明らかにしています。

数回に分けて、主要な問題点を見ます。

 

2手記

*2

 

「重光葵 手記」(中央公論、昭和61年刊)より

この手記は文体が古いので、少し意訳して抜粋要約します。

 

少し難しくなりますが、戦争が起きるべくして起こったと言うより、一つづつの選択ミスの積み重ねであることがお解りいただけると思います。

 

危ないかな日本の外交(タイトル)

「当時、ドイツの意を受けた日本人の主張は、欧州には断じて戦争は起こらぬ、従って日本の参戦の義務は発生せぬ故に防共協定を三国同盟に拡張して、同盟国と共に利益を得るべきであると主張した。次ぎに又三国同盟は欧州戦争を予防する大なる手段であると主張し、開戦後は同盟なきが故に戦争が起こったと説明し更に、戦争は独伊の圧倒的勝利に帰するから同盟を締結すべし、右は米国が参戦しても形勢には変わりはないと主張するのであった」p88、1939年前半期の情勢

3三国同盟

*     3

 

説明

日中間では、1931年満州事変、37年日中戦争が始まっていた。

36年、日独伊はソ連に対抗して防共協定を結んだが、さらなる軍事同盟への格上げで日本は意見が分かれていた。

反対派は英仏と米を刺激することを心配した。

しかしドイツは、39年、独ソ不可侵条約を結んだ後、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発、40年6月にはパリを占領した。

ヨーロッパ制覇近しと見た日本は乗り遅れまいと三国同盟を9月に締結した。

日本はこの三国同盟を含め、日独伊ソ四国協商、日ソ中立条約を締結し、ソ連を味方に付け、その圧力をもって米にアジア(中国)から手を引かせる目論見であった。

しかし突如、ドイツは41年6月、ソ連に侵攻し、この目論見は崩れた。

結局、時流に乗り遅れまいとしたドイツ盲信が、最も恐れていた英米ソを敵に回すことになった。

 

4パリ陥落

*     4

 

三国同盟論の誤算(タイトル)

「近衛公は外交側近者の進言をそのまま採用し、これへの深き理解もなくして実行に移した様である。

その政策の基礎は左の点にある様である。

第一、   ドイツはイタリアと共に即戦即決の方式によって間もなく全勝を得る。

第二、   従って英帝国は直ちに滅亡する。

第三、   ソ連はドイツに軽く扱われるので、日本とは接近親和を欲するはず。中国問題においても日本の意に反して援助を継続しないだろう。

第四、   重慶中国は日本の南京工作により、又独伊の勧奨により日本に降参しなくとも少なくとも和議を提唱するに違いない。

第五、   米国は容易に立たず、三国同盟によってむしろ萎縮して孤立主義の勢力は増大し、漸次英国を見放すだろう。」p213、1941年1月11日記

 

説明

この41年の初頭、ドイツ軍はまだ破竹の勢いで、日本は虎の威を借りて、東南アジアとソ連東部への権益確立(侵攻)をまたもや目論んでいた。

一方で、日本は中国問題で対立し、最も恐れていた米国と和平を模索する交渉を進めていた。

しかし、その日本の交渉態度には、三つの思い込みがあった。

ドイツの世界制覇は近い、米国は高圧的に出ず戦争もしない、さらに不思議なのが日本は大丈夫だと言う安心感のようなものです。

これらが上記の近衛内閣の政策に出ています。

この無知と慢心が、やがて41年の12月7日の真珠湾攻撃につながり、太平洋戦争勃発になった。

 

次回に続きます。

 

 

 

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私達の戦争 3: 当事者が振り返る戦争とは 2


1北支事変

*     1

 

今日は、終戦まで歩兵として北支(北京一帯)で従軍された岡部正美氏の体験を紹介します。

東洋鬼子 

*     2

 

「日本、東洋鬼子」(近代文芸社、1998年刊)

上記著作から抜粋要約し、彼の体験や考えをみます。

 

征途(タイトル)

「『守ってやって下さい、一人息子です。帰してやって下さい』と老女が班長さんと、手を握りしめて、・・ある母親は狂気のように髪を乱し裾が乱れ、・・憲兵に叱られつつも、押しのけて迷い走る姿が目についた。」

これは太平洋戦争開始の1年後、北支に向かって姫路駅を新兵部隊が出征する場面です。

 

3 行軍

*     3

 

弱兵は殺される

「大部隊をもっての攻略がはじまる。・・携帯の弾薬合わせて20数キロの重量に、その疲労は激しく昼夜兼行の行軍にある。・・馬鹿野郎しっかりしろい、と励ましかばいたてに意識朦朧としての落伍に最早かばうことの時間のロスであり、何小隊落伍1名の報告に処分せよの下命に銃殺である。・・路傍に引きよせて、ご苦労じゃった。必ず俺も行く、待っていてくれ。と頭部に銃口して引金の指の震え涙止まらず路傍に逝く。」

行軍は百キロを越えることが多く、落伍者はこうして、その都度、昨日の友や上官らによって始末された。

 

残虐行為

「ある村に野営とあって、炊事に忙しく豚、鶏、卵と他調味材料に鍋、器と手当たり次第の略奪が賑わう掃討に駆け走る。部落民はいち早く逃避して、・・古兵が『オイ、娘が居たら言うて来いよ。女も探して来い』・・纏足の婆がかばうように、藁の前に立って、手を合わせている。藁の中なら・・可憐な娘二人、・・『エエ奴探したのう。来い』・・『殺したか、やっとけよ』」p174

「『なぜ針金で通してあるのですか』『戦の中で捕らえたり部落で集めて逃げんようにしてあるんじゃ。・・取り調べ済んだらスラスラ(殺すこと)じゃ。首切り初めてじゃろ、見せてもろたろか』『ハイ』」p175

当時、日本は資源・食料を朝鮮半島、台湾、さらに仏印(ベトナムなど)で調達していたが、戦場は現地調達であった。味方でさえ処分されるので捕虜は言うまでもない。

 

結文

「ありし日の軍政のウソと隠蔽が許されずあきらかな残虐無慈悲の蛮行に中国民の嘆き苦しみ、そして戦慄と死活に耐えたいろいろと、その真を・・一つでも認識していただいて二度と起こすな戦争、更に独裁政治を行わせしめるな、・・」

 

これが彼の体験した戦争であり、ささやかな願いでした。

 

彼と著作について

彼は尋常高等小学校高等科を卒業の7年後、徴集され、太平洋戦争と同時期、日中戦争を戦った。

彼は歩兵部隊の軍曹で、戦いながら兵士の教育係も担当しており、軍人として優秀だったようです。

復員後、裁判所に定年まで勤務した。

 

彼は79歳でこの本を出版しているが、自費出版だったのではないか。

この歳で出版に踏み切られたのは、これが最後だとの想いがあったからでしょう。

戦地に行った多くの人は、復員後、口をつぐんでしまいます。

例え自責の念がよぎっても、仲間や家族への気遣いがそうさせます。

 

残念ながら、amazon.co.jpで見た分には、この本は人気が無いようです。

文章は長文で古い文体や単語が多く読みづらい。

しかし、真実を伝えたい、遺しておきたい彼の熱意が伝わって来ます。

 

不思議なこと

ほぼ同時代を生きた、前回の中条さんと岡部さんの両著作の人気と考え方の違いは何を意味するのだろうか。

 

 

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私達の戦争 2: 当事者が振り返る戦争とは 1


 本

*     1

 

これから数回にわたり、第二次世界大戦に参加した人が、日本の戦争をどのように見ているかを紹介します。

今回は、陸軍士官学校在学中に敗戦になり、後に企業で成功された中条高徳氏の意見を紹介します。

 

「おじいちゃん戦争のことを教えて」(小学館、2002年刊)より

上記著作から抜粋要約し、彼の考えを見て行きます。

 

戦争の本質について(Ⅲ章タイトル)

「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカ双方にある。日本は中国大陸に戦線を拡大して誤った。アメリカは日本を戦争以外の選択肢がないところに追い込んで誤った。双方がそういう過ちを犯したのだということをきちんと認識しなければならない」p109

 

国益の視点に立つ(タイトル)

「国益最優先が行動原理となるのは当然なのだ。・・だから、二つの国の利益が相反したとき、一方にとっては正義でも、その正義は相手にとっては正義ではない、・・」p113

 

戦争以外に選択の余地はなかった(タイトル)

「日本は追いつめられた。・・ハル国務長官(ハル・ノート)が示した対日要求は呑めるものではない。呑めばこちらは丸裸になって、・・」p125

「日本の選択肢はそんなになかったと私も思う。屈服してアメリカのいうがままになるか、戦って一矢を報いるか。・・とすれば戦う以外にはないではないか。」

 

これが彼の考える「日米開戦の正当性」です。

つまり、双方に非があり、なるべくしてなったとしている。

おそらく、これは愛国心を痛めず、心地良く受け入れ易い説でしょう。

この歴史認識が正しいかは、他の当事者の意見を検証していくうちに判明します。

 

ここでは彼の生き方と考え方を見ておきます。

彼は戦時中、士官学校に学んでいます。

その理由を、世界は帝国主義全盛で日本は富国強兵で成功しており、成績優秀であれば軍人としてお国の為に尽くすのが、当時の風潮だったからとしています。

敗戦後、アサヒビールに入社し、成功し、最後は名誉顧問に就任している。

現在、保守系政治団体の代表委員の一人として「日本民族の誇りと公の精神」等の講演や著述活動を勢力的に行っている。

 

結局、彼は大和魂に憧れ、軍人精神をたたき込まれたが、戦地に行くことはなかった。

この著書は、文章が平易で読みやすく、論旨が明快で、要点が繰り返され、情緒的に訴えるうまさがある。

彼の印象は、熱血漢、行動する人らしくシンプルで、迷いは微塵もない。

「・・神道は宗教ではないからである。・・それは日本の心だ、・・」p224

「日本の精神が失われたとき、天皇は存在し得なくなる」p223

彼の根底にあるのは、「愛すべき、守るべき古き良き国風、神聖にして犯すべからざる日本」でしょうか。

 

少し考えてみましょう

地震によって家屋が大きく倒壊したとしましょう。

一人は、地震に善悪など無い、これはなるべくしてなったものだと見なし、直ちに復興を始めました。

もう一人は、彼の選んだ立地と家屋強度に問題があったとし、家屋強度を上げるだけの現実的な判断をして再建を始めました。

 

通常、後者の態度が多くの災厄や失敗から学び、無難だと言えます。

しかし、ひとたび愛国心や郷土愛が介在すると、事はすんなりと行かないようです。

 

 

 

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私達の戦争 1: 私達に託されたもの


1画像

< 1. 荒れ泡立つ空間 >

 

未来は、今、私達が選んだ道の向こうにあります、自ら下した決断ではなくても・・。

多くの歴史は一つ一つの選択の積み重ねが重大であったことを物語っています。

今、私達は何をしてはならないのか? 何をすべきか? 

判断する上で、欠かせない重要事項を一緒に見ていきます。

 

はじめに

最近とみに、ブログや会話の中で、幾つかの言葉をよく見聞するようになりました。

「攻めてきたら、防ぎようがない。」

「あいつらと話し合うことなど出来るはずがない」

「その国は、もうすぐ消えてしまう。」

「歴史など所詮、過ぎ去ったこと。」

「自虐史観はマイナス思考だ。」

 

これらの発言は一部の人のものかもしれませんが、重要でもあります。

いつの世にも、このような感情のうねりはあります。

これは人間心理の一面、あるいは片面をさらけ出しているからです。

そこには絶望や拒否感、焦りが滲み出ています。

その本質は変化への不安と他者への不安と言えます。

 

私達は、時折、色々な不安に襲われることがあります。

出来れば悪いことは起こらず、良いことだけが続いて欲しいものです。

私達は日々の暮らしにおいて、将来起きる事に不安を感じると、どうするでしょうか?

 

例えば1年後に、人生を左右するかもしれない受験が控えているとします。

一部の人は、不安に耐えきれず受験を諦めるか、受験が無い道を選ぶかもしれません。

そのような拒否の選択も有りです。

しかし多くは、それを受け入れ、過去の試験の傾向を調べ、試験対策を始め、受験に望むことでしょう。

 

何が大事なのか?

一つ言えることは、不安から逃げず、少しでも対策を講じることです。

もしその不安が的中すれば大きな災厄をもたらす時は、特にそうです。

しかし、事はそう簡単ではありません。

なぜならその不安の正体、起きるであろう災厄、その対策、総べてが不明瞭だからです。

 

今回の連載で明らかにしたいこと

私達、日本人が未来の平和を模索するに上で重要な戦争の要素を見ていきます。

例えば、軍隊と平和、防御と攻撃、抑止力、銃社会、軍事同盟などについて語ります。

それらの基本的な論点を少し知った後、日本や東アジア、世界の現状と未来を見ます。

その上で、今私達が採るべき日本の最適な戦略とは何かを考えます。

 

あとがき

申し訳ありませんが、この連載を優先させますので、他の連載や記事を少し中断することになります。

 

 

 

 

 

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Go around the world of Buddha statues 20:  The mystery hidden in Buddha statue


Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura 

< 1. Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura >

 

The mystery is a certain image expression that Buddha statue had already possessed at the occasion of this birth.

It is continuously inherited to the Japanese Buddha statue also.

This time, I pursue the origin moreover.

 

Halo and Abhaya Mudrā

Thing being common in both the Buddha statues of Fig. 1 is expression the form of seated posture, Abhaya Mudrā, and a halo.

From the start of Buddha statue birth in Gandhara, these three expression forms had emerged in the relief engraving that all kinds of life of Buddha was depicted with.

The seated posture derives from yoga (seated concentration).

This seated posture had already appeared in the Indus civilization before Aryan migrated, so its culture was peculiar to India.

The halo or the aureola is something like a disk or a ring attaching to the back of Buddha statues, and symbolizes emission of the light.

The Abhaya Mudrā is usually made with the right hand raised to shoulder height, the arm bent and the palm facing outward with the fingers upright.

In Buddhism, this kind of expression means that Buddha gets rid of fear and uneasiness from people.

However, the India culture before it did not have these two expression forms.

 

謎とは仏像が誕生した時、既に備わっていた図像表現です。

それは日本の仏像にも脈々と受け継がれています。

今回は、その起源をさらに追います。

 

光背と施無畏印(せむいいん)

図1の両仏像に共通しているのは座る姿勢と光背、施無畏印の表現です。

この三つの表現は、仏像誕生の最初期から、ガンダーラの仏伝の浮き彫りにも現れていました。

座る姿勢はヨーガ(座禅)に由来するものです。

この座る姿勢は、アーリア人の移住前のインダス文明に既に現れており、インド固有のものでした。

光背とは背後の円盤状のもので、光りの放射を象徴しています。

施無畏印とは右手を肩の高さまで上げ、手のひらを外に向けている表現です。

仏教において、この手の表現は仏が人々から恐れや不安を取り除くことを意味しています。

しかし、この二つの表現はそれ以前のインド文化にはありませんでした。

 

left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.

< 2. left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C. right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C. >

 

How was the halo born?

“Sun god Shamash radiates rays from the shoulder and appears with the figure that holds a thing like a saw in the hand”.

This is a passage in the myth of Assyria Babylonia.

Shamash in Mesopotamia’s God controls justice or four seasons and influences the outcome of war.

Figure 2 show Shamash God both.

In right fig., the God is conferring Code of Hammurab to the king.

We can see each shoulder emits some rays.

 

光背は如何にして生まれたのか?

「太陽神シャマシュは、肩から光線を放ち、手に鋸の歯に似たものを持つ姿で現れる。」

これはアッシリア・バビロニアの神話の一節です。

シャマシュはメソポタミアの正義、四季を司り、戦争を決する神です。

図2は共にシャマシュ神を示し、右図では神が左のハムラビ王に法典を授与している。

それぞれの肩から数本の光線が放たれているのが見える。

 

.  Mithra God

< 3. Mithra God >

Left fig.: Mithra on the right is meeting Syria king Antiochus 1, at the first century B.C. in Mt. Nemrut of Turkey.

Right fig.: Mithra on the left sanctifies the investiture of Sassanid emperor Ardashir, at the 3rd century in Taq Bostan(neighboring ruins of Bisotun) of Iran.

From heads of both Mithra, emission rays spread in a circle.

Mithra was a sun god that was shared by the earliest Aryan (Indo-Iranian), and described in Hindu scripture of India, and Zoroastrian Scripture of Iran.

This Mithra spread to Rome at the end of the first century A.D., and the iconography expression took root in the empire.

 

左図: 右のミトラ神がシリア王アンティオコス1世と会見。前1世紀、

右図: 左端のミトラ神がササン朝ペルシャの初代王を叙任する。3世紀、ベヒストゥンの近郊、Taq Bostan in Iran.

両ミトラ神の頭からは、放射光線が円形に広がっている。

ミトラ神は最古層のアーリア人(インド・イラン人)が共有していた太陽神で、インドのヒンドゥー経典とイランのゾロアスター教典に出てくる。

このミトラ神は1世紀後半にローマに伝わり、その図像表現が帝国に定着することになった。

 

How was the Abhaya Mudrā born?

施無畏印は如何にして生まれたのか?

 

a form of the ancient oath 

< 4. a form of the ancient oath >

Left fig.: The Behistun Inscription of Darius 1 who administers an oath to the chief deity of Zoroastrianism in the air, at about the 5th century B.C. in Bisotun of Iran.

Right fig.: A noble female statue of fortified city Hatra. Hatra in Iraq were an important trading city of Parthia kingdom that nomad of Iran created after the first century B.C.

 

Forms of such an oath are seen in relief engravings of Assyria and Persia well.

Hammurabi of Fig. 2 also raises his right hand and takes an oath to God.

 

左図: ダレイオス1世のベヒストゥン碑文、王が天空のゾロアスターの最高神に宣誓している。前5世紀頃、Bisotun in Iran.

右図: 要塞都市ハトラの高貴な女性像、ハトラはイランの遊牧民が興したパルティア王国の重要な交易都市だった。前1世紀以降、イラク。

 

このような宣誓の形式はアッシリアやペルシャの浮き彫りにもよく見られる。

図2のハムラビ王も右手を上げて神に宣誓している。

 

Summary

Halo and Abhaya Mudrā were the Mesopotamia origin both.

The halo seemed to symbolize the sun having overwhelming power.

This started in Mesopotamia God, was inherited by Mithra being the oldest god of Indo-Iranian, and was adopted to Indian Buddha statue

Originally, Abhaya Mudrā was a form that a king administered an oath to God.

This was inherited by Parthia kingdom from Mesopotamia, and was assimilated as the form that Buddha promised for the people in India.

 

 

まとめ

光背も施無畏印もメソポタミア起源だった。

光背は圧倒的な威力を誇る太陽を象徴したらしい。

これがメソポタミアの神から、インド・イラン人の最古層のミトラ神に受け継がれ、やがてインドの仏像に取り入れられた。

本来、施無畏印は目下の者、王が神に、臣下が王に誓約する形式だった。

それがメソポタミアからパルティアに受け継がれ、インドでは仏が民衆に約束する形として取り入れられた。

さらに不思議なことに、アフリカで自然に暮らすチンパンジーは、若い雄が大人の雄に対して右手を水平に上げて挨拶をする。

これは服従していることを示す。

 

this map shows some ruins and main kingdoms 

< 5. this map shows some ruins and main kingdoms >

 

Pink frame: a domain of Achaemenid Empire Persia (the 6th – 4th century B.C.).

Brown frame: a domain of Parthia kingdom (the 3rd century B.C. – the 3rd century A.D.).

Dark blue frame: a domain of Greco Bactria kingdom (the 3rd – the first century B.C.).

 

Indian Indus basin and Afghanistan was a place that India culture, nomad’s culture of Central Asia, and west culture of Iran or Greece mixed between the second millennium B.C. and the first millennium A.D.

This significantly influenced Buddha statue birth of India.

 

ピンク枠: アケメネス朝ペルシャ(前6~前4世紀)の領域。

茶色枠: パルティア王国(前3世紀~後3世紀)の領域。

紺色枠: グレコ・バクトリア王国(前3世紀~前1世紀)の領域。

 

インドのインダス川流域とアフガニスタンは、前2千年紀から後1千年紀にかけて、西方文化(イラン、ギリシャなど)と中央アジアの騎馬民族の文化がインド文化と混じり合う所でした。

このことがインドの仏像誕生に大きな影響を与えた。

 

Subsequent deployment

The halo was not the form that was adopted in Buddha statue of India only.

Probably, in the prairie or the desert area, it was a symbol common to human beings.

 

その後の展開

光背はインドの仏像だけが取り入れたものではなかった。

おそらく草原や砂漠地帯において人類共通の象徴だったのでしょう。

 

.  symbols of sun

< 6. symbols of sun >

 

Fig. 1: Re of Egypt being sun god puts the sun on the head.

Fig. 2: A gold coin of Ptolemy 3rd in the 3rd century B.C. in Egypt. Emission rays come out from the king’s head.

Fig. 3: Halo of Apollo God, the 2nd century, Tunisia.

Fig. 4: a picture of Islam. It is halo such as flame at the back of the saints.

 

This iconography that was expressed by solar beam, flame, and disk was used also for God and the Saint of Hinduism or Christianity.

The form of an oath that became the Abhaya Mudrā is remaining as a judiciary oath to raise the right hand now.

 

図1: エジプトの太陽神ラーは頭上に太陽を乗せている。

図2: プトレマイオス王3世の金貨、前3世紀、エジプト。王の頭から光りが出ている。

図3: アポロ神の光輪、2世紀、チュニジア。

図4: イスラム教の絵。聖人の背に炎のような光背。

 

この太陽光線や炎、円盤で表現される図像はヒンドゥー教やキリスト教の神や聖人にも使用されるようになった。

施無畏印になった宣誓の形は、左手を聖書に載せ、右手を挙げる裁判の宣誓として、今に残っている。

 

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Travel to Turkey 8: Caravansary


    main gate     

 

< 1. main gate >

 

I introduce the ruins of the caravansary today.

今日は、キャラバンサライ(隊商宿)の遺跡を紹介します。

 

 central tower in the courtyard surrounded by a castle wall 

< 2. central tower in the courtyard surrounded by a castle wall >

 

The building is in SultanHan located between Konya and Cappadocia.

Such caravansary was built in Anatolia plentifully from about the tenth century.

The caravansary was built in the trade route every approximately 40km.

In those days, the merchants put all loads on horse or donkey, etc., formed a party, and traded between distant places.

In order to encourage trade and to protect the merchants’ party from robbers or thefts, the dynasty made the caravansary like fort and placed security force.

Furthermore, offering of a meal and taking care of the animals were performed to the sojourner for nothing.

 

この場所はコンヤとカッパドキアの中間に位置するスルタンハイにあります。

このようなキャラバンサライはアナトリアに10世紀頃から数多く建てられた。

キャラバンサライは交易ルートに、約40km毎に建てられた隊商宿です。

当時、商人は馬やロバなどに荷物を乗せ、隊を組んで遠方交易を行った。

王朝は交易を奨励するため、商隊を賊や盗難から保護するために、要塞のような隊商宿を作り警護者を置いた。

さらに滞在者には食事の提供や使役動物の世話を無料で行った。

 

Upper fig.: inside of main gate.  Lower fig.:  entrance of room.

< 3. Upper fig.: inside of main gate. Lower fig.: entrance of room.>

 

 a view from roof of the central tower 

< 4. a view from roof of the central tower >

 

The history of this trade route is even older.

The trade route via here linked the Central Asia from the Aegean Sea (close to Ephesus) about the third century B.C. and would have conveyed Hellenism culture.

Furthermore, King Darius of Persia built the highway that reached the Aegean Sea (close to Ephesus) from Iran (Susa) in the 5th century B.C. (this route are a little different from it).

This was able to travel through 2,700 km in seven days.

 

この交易ルートの歴史はさらに古い。

ここを通る交易ルートは紀元前3世紀以降には、エーゲ海(エフェソス近郊)から中央アジアを結び、ヘレニズム文化を伝えたことだろう。

さらにペルシャのダレイオス王が前5世紀に、イラン(スーサ)からエーゲ海(エフェソス近郊)に至る幹線道路を建設した(少しルートは異なる)。

これは当時、最も長距離で完成された駅伝制のルートで、2700kmを7日間で旅をすることが出来た。

 

.  a corridor of courtyard, and old farm implements  

< 5. a corridor of courtyard, and old farm implements > 

 

I seem to hear the neigh of animals and the chat of suntanned merchants of ancient times.

The goods in trade from Rome and Greece might have arrived to China through here, and furthermore to Japan.

 

遙か昔の日に焼けた商人達の談笑や馬のいななきが聞こえてくるようです。

ローマやギリシャからの交易品が、ここを通って中国、果ては日本の正倉院に届いたのかもしれません。

 

 .  beautiful pattern, skillful skylight

< 6. beautiful pattern, skillful skylight >

 

 .  frontal view

< 7. frontal view >

 

 a souvenir shop

< 8. a souvenir shop    >

 

 .  mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field 

< 9. mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field >

 

Unlike the ruins of a royal palace, although there was not a feeling of gorgeousness, I felt the breath of the merchants who got on in the world.

One pleasure of this trip was over.

 

宮殿の遺跡と違い華やかさを偲ばせるものはないが、世界を股にかけた商人達の息吹を感じることが出来た。

今回の旅行の楽しみを一つが終わった。

 

 

 

 

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The society and the information 33:  Information crosses the border 7


 Kremlin

< 1. Kremlin >

 

This time also, following the last time, I see how the Soviet Union reported the nuclear plant accident that happened in Ukraine.

    今回は、前回に続いてウクライナで起きた原発事故をソ連がどう報道したかを見ます。

 

 Gorbachev and Reagan

< 2. Gorbachev and Reagan >

 

In 1985, Gorbachev advocated perestroika (reform), and was inaugurated as the supreme leader of the Soviet Union.

This was just a year before the nuclear plant accident.

He developed the following opinions about this nuclear plant accident at home and abroad and corresponded.

 

1985年、ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を唱えてソ連の最高指導者に着いた。

これは原発事故のちょうど1年前のことでした。

彼はこの原発事故に対して以下の主張を国内外に展開し、対応した。

 

A. The atomic energy is the original sin of the human civilization, and the accident is the wrath of Heaven.

Taking this opportunity, he appealed for the menace of the nuclear weapon and stopping the nuclear test within the country, and then progressed the agreement of the nuclear weapon reduction between the United States.

It proceeded to the conclusion of the Cold War in 1989 year before long.

Probably, the nuclear plant accident was used for an excuse of stopping the arms race that had weakened the national power.

 

A 原子力は人類文明の原罪であり、事故は天罰である。

彼はこれを機に国内に核兵器の脅威を訴え、核実験停止、米国との核兵器削減合意を進めた。

やがて89年の東西冷戦終結へと向かう。

おそらくは国力を削ぐ軍拡競争中止の口実に原発事故が利用されたのだろう。

 

 B.  The western media discharge falsehood reports, and are trying to trample us.

“Thousands of casualties appeared one after another, and all around became full of graves. The whole land of Ukraine was polluted by the radioactivity, and the capital became the wasteland where the trees and plants would not grow.”

He said that he demanded the confidence in the government to the people, because the west had been reporting such lie.

The people will be always exposed to such news that truth and falsity were mixed in, and were different at home and abroad.

 

B 西側メディアは虚偽報道を垂れ流し、我々を踏みにじろうとしている。

「何千もの死傷者が出て、辺り一面は墓だらけになっている。ウクライナ全土が放射能で汚染され、首都は草木も生えぬ荒れ地になった。」

こんな嘘が西側では報道されているとし、国民に政府への信任を求めた。

国民はこの手の内外で対立する真偽が混じった報道にいつも曝されることになる。

 

.  Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins 

< 3. Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins >

 

C. This accident is a maximum example of the bad effect of the old regime.

This accident brought the new government two help.

One thing made the accident liability the incompetence of the local administrative organ (Ukraine) of the Communist Party, and the bad effect of the central old regime.

This made the unskillful handling of the new administration less noticeable.

On the other hand, the government announced that the scientists of the Soviet Union had shut away the radioactivity of the accident and the measures were perfect.

 

C この事故は、旧体制の弊害の最たるものである。

この事故は新政権に二つの救いをもたらした。

一つは、事故責任は共産党の地方機関(ウクライナ)の無能さと中央の旧体制の弊害とした。

これに応じて組織刷新と処罰が進められ、新政権の対応の拙さは目立たなくなった。

一方で政府はソ連の科学者達が事故による放射能を封じ込め、処置は完璧であるとした。

 

Shevardnadze 

< 4. Shevardnadze >

 

The other was a good opportunity to infiltrate the information disclosure at home and abroad.

Shevardnadze that was appointed the foreign minister carried out already the information disclosure partly in Republic of Georgia and had shown the results.

The government showed the details of the accident and the damage, accepted the inspection of the American Nuclear Regulatory Commission, and promoted the nuclear power accident coverage taken by the domestic media organization.

The image of the new government that will sweep away the bad effect due to the secretiveness was able to spread at home and abroad.

 

In those days a chief editor of newspaper “Pravda” talked of complaint that the information disclosure had not really advanced toward.

This newspaper was continuing revealing a lack of a plan of the government about the accident against the governmental bureaucrat-ism and the secretiveness.

 

今一つは、グラスノッチ(情報公開)を国内外に浸透させる絶好の機会となった。

情報公開は外相に抜擢されたシェワルナゼが、既にグルジア統治時代に一部実施し成果を挙げていた。

政府は、事故と被害の詳細を公開し、米国の原子力規制委員会の査察受け入れ、国内報道機関による原発事故の取材を推し進めた。

それまでの秘密主義による弊害を一掃する新政府のイメージを国内外に浸透させることが出来た。

 

当時、新聞「プラウダ」の編集長は、実際には情報公開が一向に進んでいないと愚痴を語っていた。

この新聞は、政府の官僚主義や秘密主義に対抗して、事故をめぐる政府の無能無策を暴き続けていた。

 

Summary

This big accident became the big favorable wind for the new Gorbachev Administration.

On the other hand, in Japan, the nuclear plant accident became a factor that condemned the new government for.

 

まとめ

大きな事故がゴルバチョフ新政権にとっては、またとない追い風となった。

一方、日本において、原発事故は新政権を断罪する要因になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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