私達の戦争 10: 当事者が振り返る戦争とは 9


大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇 

< 1. 著書 >

 

前回、エリート参謀が軍上層の意向に沿い、脇目も振らず邁進する姿を見ました。

しかし、今回紹介する堀栄三氏は、同じ参謀でもかなり異なります。

そこからは日本の敗因が見えて来ます。

 

 堀栄三

< 2. 堀栄三 >

 

堀栄三氏について

彼も陸軍幼年学校、士官学校、騎兵と教官を務め、陸軍大学卒業後、教官勤務。

1943年10月、29歳で大本営陸軍部の情報参謀になり、アメリカ課勤務の後、44年10月から第14方面軍(南方軍)の作戦参謀になる。

終戦後、郷里に帰るが、請われ自衛隊の情報本部を立ち上げ退官後、大学講師、郷里の村長を務めた。

 

台湾沖航空戦

< 3. 台湾沖航空戦の大勝利を伝える >

 

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

 

情報は常に悪戯する(タイトル)

「戦史叢書・・には、『大本営海軍部と連合艦隊は、・・台湾沖航空戦の成果に疑問を生ずるや、・・調査して・・成果を客観的に正確に見ているのは堀参謀のみであるとした』

 

と記述している(堀が新田原(宮崎県)から打った電報は、・・これが握り潰されたと判明するのは戦後・・。大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。」p188

 

説明

彼はこの本で「私」と書かず「堀」と書いている。

この文には二つの大きな意味がある。

 

一つは、後半の( )内に書かれている事実です。

彼は台湾沖航空戦(1944年10月)の戦果報告が誇大であると電信したのだが、握り潰した犯人は「瀬島龍三参謀の昭和史」(保阪正康著)によると瀬島とされている。

前回記したように、大本営陸軍部において、不都合な真実を伝える電信は握り潰されるのが常態化していた。

瀬島が真犯人かどうかは別にして、情報を無視する参謀と情報を生かす参謀がいたことになる。

 

もう一つは、堀が誰よりも米軍の戦力把握と戦法を熟知していることを指している。

彼は、太平洋での米軍による航空戦力と艦砲射撃を使った島伝いの飛び石作戦を検討し、その対策を「敵軍戦法早わかり」にまとめ、現地指揮官らに訓育しょうとした。

例えば、彼は解りやすく、島の防衛では消耗を早める銃剣突撃ではなく艦砲射撃に耐える厚み2m以上のコンクリート防御壁こそが重要と説いた。

これ以降、各師団に軍事作戦が説明される時、現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。

それまでは大本営は攻略せよか死守せよぐらいしか伝えなかったのだろうか。

残念ながら、「敵軍戦法早わかり」が印刷完了したのは終戦の1年前44年の9月であった。

 

 

作戦に先行しなかった情報(タイトル)

「一握りの戦略作定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一戦部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。」p157

 

ペリリュー島の戦い

< 4. ペリリュー島の戦い >

上: 米軍の艦砲射撃と上陸部隊。

下左: 日本兵の捕虜。

下右: 中川連隊長。

 

説明

これは、堀から「敵軍戦法早わかり」の説明を熱心に聞いた中川連隊長が、強固な陣地を構築しペリリュー島で孤軍奮闘したことを受けて、堀が漏らした感想です。

1944年9月、圧倒的な米軍の兵火を前に守備隊11000名は、最後に55名が万歳突撃を行い、捕虜202名を残し他は戦死、中川連隊長は自害した。

上記の戦略作定者とは、立案・作成を行っていた大本営陸軍部参謀本部作戦課作戦班と考えられ、その中心人物の一人は瀬島であった。

 

日本軍とは桁違いの米軍諸教令(タイトル)

「この上陸作戦の米軍野外教令一つを読んだだけでも、日本の作戦当事者は、『治にいて乱を忘れ』て、大正十年以来惰眠を貪っていたと言えよう。米軍と日本軍とは実に二十余年の開きがあった。

『軍人には軍事研究という大へんな仕事があったのに、軍中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって政治介入という玩具に夢中になりだした』と・・寺本中将の言葉であった。」

 

説明

第6話で説明していますが、1920年代以降、日米共に互いを交戦可能国と見なした。

米国は太平洋上の戦闘教義(軍隊の基本的な運用思想)を逐次発展させていった。

一方、日本、特に陸軍は中国戦線、古くは日露戦役の戦闘教義から抜け出すことはなかった。

さらに太平洋戦争が始まっても、大本営は敵の戦略や戦力を正確に掴む努力を放棄し、自ら都合の悪い情報は隠蔽し、結果、自己満足に浸った。

 

その中にあって、堀は独自に工夫して情報分析と活用の道を切り開いた。

それだけでなく、上官(南方軍司令官)に正確な危険性とその対策を上申した。

 

次回、堀が指摘する日本軍の敗因から日本の問題点を見ます。

 

 

 

 

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Summer in Awaji Island : A festival and fireworks of the strait park 


fireworks

*     1

 

Today, I introduce the summer festival that was held by Awaji city July 20.

This main is some events and fireworks that are performed in the lawn open space of Akashi Kaikyo National Government Park.

Moreover, many stalls were set up, and entering the park is free today.

Blessed with weather, many people came from the island outside.

 

今日は、7月20日に行われた淡路市夏祭りを紹介します。

これは明石海峡公園の芝生広場で行われる催しと花火がメインです。         

またたくさんの屋台が賑わい、この日は海峡公園も無料公開されます。

天気に恵まれ、たくさんの人々が島外からも来ていました。

 

stalls and a stage

< 2. stalls and a stage in the lawn open space    >

 

There are eateries that are provided by the professional in these stalls, but stalls that were provided by the local volunteer are amusing.

The performance and the dances were carried out on the stage.

 

これら店舗にはプロによる飲食販売もあるが、面白いのは地元ボランテイアによる店舗です。

舞台では演奏や舞などが行われていた。

 

a eatery by children 

< 3. a eatery by children >

 

The faces selling with a smile were shining in sunlight.

笑顔で一生懸命に売り込む姿は、陽差しに輝いていました。

 

4子供1

< 4. children absorbed in play >

Akashi Kaikyo National Government Park

< 5. a central part of the park >

The scene that was reproduced the forest, the hill, and the valley naturally is the merit of this park.

The trees of the season blossom in various spots.

However, the flower of the park is few at this time.

 

自然の森林や丘陵、谷間を再現した景観が、この公園の良さです。

要所要所に季節毎の木々の花が咲きます。

しかしこの時期、公園全体の花は端境期で、少し寂しい。

 

Akashi Kaikyo National Government Park

< 6. Upper: the park south side. Lower: the park north side. >

There is a very large lawn open space in the end of the park north side, and we watch the fireworks in this side.

公園北側の端に広大な芝生広場があり、花火はこちら側で見ます。

 

flowers

flowers

flowers

*     7,8,9

The flowers in the park

公園内の花々。

 

fireworks

< 10.   fireworks >

I took pictures of fireworks for the first time and it was difficult.

 

I was comfortable, because it was a little cloudy.

After the photography of the park, I was sitting down vaguely at a bench for three hours until the fireworks start.

I had been bringing back the past along with seeing the behavior of families, lovers, and friends.

 

今回、花火を始めて撮影しましたが、難しかった。

 

この日は曇り気味で、陽差しが厳しく無く助かりました。

海峡公園の撮影後、花火開始までの3時間、ベンチでボーッと座っていました。

私は家族連れや恋人達、友人同士の振る舞いを見て、昔を思い出していました。

 

 

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私達の戦争 9: 当事者が振り返る戦争とは 8


1テレビドラマ

< 1. テレビドラマ >

 

今回から、今次大戦の作戦立案を担った参謀達の意識を追います。

陸軍参謀の瀬島龍三氏の著作から始めます。

そこからは兵士数百万の命を扱う官吏の有能さが浮かび上がって来ます。

 

 2東京裁判証人瀬島

< 2.東京裁判で証人となった瀬島 >

 

瀬島龍三について

彼は秀才の誉れ高く、陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学を主席卒業と13歳から27歳(1938年)まで、当時最高の出世であった軍人の道をひたすら進んだ。

直ちに彼は陸軍参謀になり、40年には本部作戦課に配属され、敗戦直前まで大本営で作戦を立案した。

敗戦時、満州在任であった為、ソ連軍によりシベリアに11年間抑留された。

帰国後、伊藤忠に入社し、会長まで上りつめ、後に政財界でも活躍する。

山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公壱岐は瀬島がモデルだが、あくまでフィクションです。

 

3幾山河

< 3. 瀬島の回想録 >

 

「瀬島龍三回想録 幾山河」より

戦後の私の考察(タイトル)

「『支那事変処理重点方針』という従来の国策に『南方問題処理』が加わり、『二元的国策』になった最大の要因は、欧州戦局に対する判断の甘さ、すなわち、ドイツの国力・戦力を過大評価し、英国と米国の戦争遂行力を過小評価したこにあったと思われる。・・・

近衛公は『国民組織による新政治体制』を訴え、・・近衛公の狙いは、国民組織の力によって軍部、特に陸軍を抑えることにあったと言われている。しかるに、組閣から五日後、早々とこのような重大決定をしてしまったことは、今も、私にはよく理解できない。」p87

 

開戦決定と作戦遂行(タイトル)

昭和16年八月頃の情勢と「帝国国策遂行要領」の決定

「8月16日、・・海軍側から今後の国策遂行方針について提案があった。その骨子は・・『十月中旬に至っても対外外交が妥結しない場合には実力発動措置をとる』であった。・・我々(陸軍参謀)もこれを聞いて驚いた。・・、

これらの経緯を踏まえて、9月6日、御前会議が開催された。そこで決定されたのが『帝国国策遂行要領』である。・・・

この決定はまさに、『和戦両用』の決意であった。御前会議の前日の9月5日、近衛首相拝謁の際、陛下は戦争準備が主で外交が従ととれる議案に対し強いご不満を表明された。・・」p105、106

 

書籍 以下の説明に下記略号を使います。

書1:「瀬島龍三回想録 幾山河」瀬島著、産経新聞ニュースサービス、1995年刊

書2:「大東亜戦争の実相」瀬島著、PHP文庫、2000年刊、1972年講演分

書3:「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著、文集文庫、1991年刊、1987年初出

 

4大東亜戦争の実相

< 4. 瀬島のハーバード大学での講演記録 >

 

有能な参謀とは

私が彼の書1を20年ほど前に読んだ時、無味乾燥さに失望し、今回、書2を読んで更にその意を強くした。

彼の著作には、開戦に至る大本営の記録が詳述されているが、ほとんど心情の吐露が無い、当初、彼の冷徹さ故と理解していたが。

述懐する批判や反省の矛先に、彼自身と周辺(参謀から陸軍)はありません。

彼は完璧なのか、自分自身の激情や判断ミス、悔悟について一切触れません。

行間から漂ってくるのは「しかたがなかった」「他者(米国)が悪い」ばかり。

 

彼は、陸軍上層部や参謀本部に重用され、当時多くの作戦立案を自ら書いています。

二十数名の陸軍参謀本部第Ⅰ部作戦課にあって彼は序列5番以内で、最重要な作戦班の補佐でした。

 

6月のドイツのソ連侵攻時、陸軍参謀らは歓喜し、気宇壮大になっていたが、それを上の文では他人事のように書いている。

また下の文では8月、海軍が俄然、参戦意欲を高めて驚いたと、これまた始めて聞き、他人事のように書いている。

書1ではなぜか抜けているが、書2p204では41年6月に「対英米戦争・・ごとき画期的国策案」と彼が絶賛する路線は既に敷かれていた。

ソ連の連敗に勢いづいた陸軍に対して海軍は慎重だったが、8月に石油を絶たれたので、6月の予定路線に従って進めざるを得なかった。

彼の記述は、すべて巧みにしくまれている。

 

参謀達の意識を物語る事件

「・・米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。・・瀬島少佐から・・『既に戦闘が開始され・・』・・を聞いた。・・かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった。」書3のp110

これは真珠湾攻撃の前日、大本営通信課の戸村少佐が、瀬島のアドバイスで、電報を握り潰した記述で、重大な背信行為です。

瀬島は他にも都合の悪い電信を握り潰すことをしている。書3

 

「部内、来栖の飛行機墜落を祈るものあり、いわく、第二課長(瀬島の上司)、第6課長等。当班もまたその気持ちは同様なり」書3のp107

11月に渡米し日米交渉を必死で進める来栖特派大使への参謀本部の気持ちが、内部文書に残っている。

このようなことを間違っても彼は語ることはない。

 

結論

瀬島も含め、参謀達の意識は、戦争続行・拡大である。

特に作戦好きだった瀬島にとって、自分の筆で数十万の兵員を自在に動かせる喜びは何事にも代え難いものがあったろう。

彼らの多くは、国民に対して背信行為だとか、判断ミスとか、兵士に申し訳なかったという感情は無縁だろう。

彼らにとって、与えられ目標に勝利する作戦・用兵を提示することこそが有能の証しであった。

例え兵士の消耗率が10~50%あろうが・・・・

 

次回は、別の生き方をした陸軍参謀を紹介します。

 

 

 

 

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私達の戦争 8: 当事者が振り返る戦争とは 7


 

1大政翼賛会

< 1. 大政翼賛会 >

 

今回も前回に続いて、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した近衛公の振る舞いを重光氏の手記から見ます。

 

日本の行くべき途(タイトル)

「近衛内閣は『スローガン』内閣であり、戦線拡大主義者であり、酷評すれば百鬼昼行の政府である。その第一内閣は陸軍を押して遂に支那事変を惹起して今日の乱脈の原因を起こした。近衛第二次内閣は支那問題を太平洋全面に拡大してここに日本の前途を暗黒に導きつつある。先には日満支新秩序なる『スローガン』を振り回し、今日は新体制を高調して居る。・・特に極論派の強要には何でも応じてもって世論を容れ難物を操縦し得たと感じ、これが最も成功したる政治と心得ているが如くである。」p135、1940年夏

 

2三国同盟

< 2. 三国同盟 >

 

第三次近衛内閣の崩壊

「第三次近衛内閣は、三国同盟締結後の我が国際関係の混乱を日米交渉成立によって救済すべき重大使命を帯びていたと同時に、絶好の機会を握った内閣であった。

・・単に松岡君を追い出してその後に海軍を据えたぐらいでは到底やり切れるはずがない。近衛公は内閣において陸海軍のバランスをとって、外交は日米交渉成立を陸軍よりも熱望する海軍を利用して、実は自らやって行くことにした点は、バランスをとっていく公家式の考え方で極めて浅薄であった。」p297

 

説明

1937年、近衛は期待され、軍部が主導権を握り混迷する政局にあって第一次近衛内閣を率いた。

独走する陸軍、慎重な海軍、独伊か英米かで割れる中で唱えたスローガンは「国内各論の融和」であった。

しかし結局、陸軍に振り回され日中戦争、ノモンハン事件(ソ連との軍事衝突)へと深入りした後、総辞職する。

 

3戦前の双六

< 3. 大東亜共栄圏の双六、戦前 >

 

1940年、1年半の平沼内閣の後を受け、第二次近衛内閣をスタートさせた。

この時のスローガンは「皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であった。

彼は国民一丸を目指し、全政党を解体し大政翼賛会一本にまとめ、政党政治と民主主義を無にした。

一方、松岡外相が裏切られることになったドイツによるポーランド侵攻とソ連侵攻、さら陸軍と共に唱える対ソ戦準備、日米交渉の非協力態度(外されたことにすねる)に、近衛は松岡を切る。

 

かくして41年7月、続いて第三次内閣をスタートさせた。

形では日米交渉を継続していたが、日米共に決戦の腹をほぼ決めていた。

暗号解読で日本政府の言動は米に筒抜けだったが、日本は外交組織を破壊し、米や世界の情報をまともに掴むことが出来なかった。

こうして独り相撲の形で、自ら火の中に、蛮勇をもって飛び込んだ。

 

近衛公は筆頭摂関家に生まれ、25歳で世襲により貴族議員となり、類希な血筋、貴公子然の風貌、革新的な言論で、大衆の人気を集め首相として期待された。

しかし彼の政権運営は、生来の気弱さが災いし、軍部に流されるだけに終始した。

 

4御前会議

< 4. 御前会議 >

 

だが彼一人が悪いわけではない、当時、軍部の独走を防ぐ手立てがなかったと言える。

それは当時の憲法に、軍権は天皇に、政権は内閣にと謳われていたが、軍事費が国家予算の半分を越えるに至っては、その分離は無意味だった。

そこで、国の重大方針は内閣と軍部首脳による天皇臨席の御前会議で行われるようになった。

それは天皇が反対をしないので、軍権に関わる政府議案としてすんなり通すことが出来たからでした。

 

 

次回より、当時、軍事作戦を担った複数の参謀の回顧録を見ます。

そこからは対照的な能吏が見せる軍中枢の惨状が浮かび上がって来ます。

 

 

 

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私達の戦争 7: 当事者が振り返る戦争とは 6


   1広東上陸 

< 1. 日本軍が広東方面に上陸 >

 

今回は、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した指導者達の振る舞いを重光氏の手記から見ます。

 

2 2.26事件

< 2. 軍事クーデターの2・26事件、1936年 >

 

ああ 支那事変(タイトル)

「満州事変が起こって後、るる陸軍方面の人々から聞かされたことがある。日本は政党の為に、資本主義の為に腐っている、日本精神を取り返す為には国内的革命を必要とする、これが為に満州事変から続いて世界を敵とするような困難を招くことも必要である、と言うのであった。・・・

三年を越す支那事変は軍部の連戦連勝にかかわらず、日本の負担として耐え難いものがある。・・国家はこれでよろしいか。国民は枯れて将軍が群がっている現状は果たして皇道であり、国家をやすらかにするものだろうか。」p167、1940年12月

 

説明

日本は第一次世界大戦での軍需景気、軍部による海外領土拡張と好調が続いた後、経済恐慌に見舞われると国民の不満が高まった。

すると軍人による政府要人暗殺とクーデターが頻発し、1937年以降は軍部が政権を握った。

こうして首相といえども陸軍、海軍の同意なしに政治が動かなくなった。

おうおうにして世の軍人は力でもって突き進むことを是とするようで、やがて太平洋戦争に突き進むことになる。

 

3 国際連盟脱退

< 3. 国際連盟脱退時、松岡全権大使が熱弁を振るう >

 

日本の狂乱

「外務省は外交の転換から世論の声に乗じて、いわゆる外交陣の刷新を断行して上層部五六十人の整理をなして、革新派と称するこれまでの不平組を登用した。外交機関は全世界にわたって破壊されてしまったが、これまでの外交機関は現状維持派であるから不必要であると、公然と当局者は言った。出先の報告等は、三国同盟締結の方針が定まって日本は新体制に乗り出したのであるから不必要であると言われて、電信報告無用の訓令が来た。」p205

4 第二次近衛内閣

< 4. 第二次近衛内閣、松岡外相、東條陸相、吉田海相 >

 

説明

これは1940年、第二次近衛内閣誕生の目玉になった松岡外相がとった処置でした。

彼は33年の国際連盟脱退、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を牽引し、結果、太平洋戦争への道を準備し、去った。

彼は外交官、満鉄理事、国会議員を経て、その人気と豪腕を近衛公に買われ入閣した。

三国同盟締結でドイツ寄りを鮮明にすると、それまでの親英米派の外交官を一掃した。

この時、欠かせない重光や数人の外交官だけは残る事が出来た。

元来、彼は英語がたんのうで世界的な視野を持ち、ヒトラーのドイツを信用していなかったが、軍部との主導権争い、後背の憂いであるソ連重視(日ソ中立条約)、彼の傲慢が災いし、その道は袋小路に入った。

彼も政局の渦に巻き込まれた一人だが、最重要な国際情報を途絶するとは如何にも日本らしい政局の乗り切り方だった。

 

次回は、最重要な近衛公について見ます。

 

 

 

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私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5


 1 41年チャーチルとルーズベル   

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

 

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

 

太平洋戦争開始の直近の経緯

1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始

1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。

1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃

 

2太平洋戦争地図

< 2. 太平洋戦争地図 >

 

日本の思惑と動き

日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。

その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。

日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。

その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

 

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。

日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。

また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。

この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。

それが41年7月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

 

3関特演と仏印

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >

日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。

一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。

さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

 

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。

41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。

41年11月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。

こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

 

米の思惑と動き

米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。

しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。

まだ米国内では参戦への反発が強かった。

この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。

日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

 

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。

この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。

米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。

さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。

米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。

日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

 

4艦隊と航空機

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

 

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。

こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

 

最後に

これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。

皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

 

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。

 

 

 

 

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私達の戦争 5: 当事者が振り返る戦争とは 4


1真珠湾攻撃

< 1. 真珠湾攻撃 >

 

はじめに

私が考える、日本が太平洋戦争に至る過程での問題点をあげます。

 

  1. なぜ戦線を拡大させていったのか? 日清、日露、満州、日中、仏印、太平洋へ
  2. なぜ危険な三国同盟を結んだのか?
  3. なぜ国力・兵力が10倍以上勝る米国に戦いを挑んだのか?
  4. なぜ統治者・官吏達(外交官、参謀)は正常な情勢判断が出来なかったのか?
  5. なぜ自他に対して残虐になったのか?

 

既にBは4話で、Eの実態は3話で、他は続いて要点だけ考察します。

重要なことは、これらの問題は国民がそのメカニズムを理解し、原因を是正しない限り、再発の可能性が高いということです。

太平洋戦争開始の直近の経緯

1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始

1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。

1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハルノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃

 

日米の動きを「重光葵 手記」から見ます

 2ルーズベルト大統領

< 2. ルーズベルト大統領 >

 

英米の重圧(タイトル)

「三国同盟論者の他の誤算は米国の態度である。米国は1940年、11月の総選挙によって孤立論者は惨敗して、全面的英国援助論が党派の如何を問わず勝利した。ルーズベルト大統領は当選後全力を上げて被侵略国の英、中、ギリシャ等の諸国に対して留保無き如何なる形の援助をも提供する方針を決した。これが為に、枢軸三国(日独伊)から宣戦布告を受けても意に介さないと決心したのである。このために、・・・、枢軸三国との抗争を最後までやろうと言うのである。」p222

3近衛首相

< 3. 近衛文麿 >

 

第三次近衛内閣の崩壊

「(在外日本資産)凍結令の実行によってジリ貧説が台頭して来た。このままにしていれば敗戦国と同様になるから、力のある内に戦争しなければならぬ、石油は力で取りに行かねばならぬと言う主張が有力になった。まるで子供の議論である。しかし近衛内閣は日米交渉最中(1941年)9月6日に、もし交渉が十月上旬にまとまらなければ戦争を開始すると御前会議に通した。このような交渉が期限付きで出来るはずがない。

一方で平和交渉を行いながら、他方戦争準備を進める。相手方(米国)はそれが平和の為か、戦争の為か分からぬ。恐らく戦争手段に訴える前提としか受け取ることが出来ぬ。ましてや日中戦争以来、同様の手段で既成事実を作られており、(日本の)新聞世論の激しい調子から見て、また例のドイツ流の手ではないかと直感するのも無理ではない。    ・・ここにおいて交渉は益々困難となる。」p298

4東條英機

< 4. 東條英機 >

 

日米交渉

「東条内閣(1941年10月18日~)は初めより喧嘩内閣であって、外務大臣まで(日米)交渉に熱意を示さずして終始挑発言動に出ている。今後の方向はおのずから明らかである。その態度は、開戦の準備は出来ている、長期戦に打ち勝つ計算は出来ている、平和は必ずしも帝国を救うものではないとの態度である。」p312

 

次回は、日本と米国、それぞれの立場から日米開戦への思惑を説明します。

それにより第2話の中條氏曰わく「米は日本を戦争に追い込んだ」真実が見えて来ます。

 

 

 

 

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私達の戦争 4: 当事者が振り返る戦争とは 3


1重光

< 1. 重光葵とチャーチル、1941年 >

 

今回は、第二次世界大戦期の日本外交で活躍された重光葵氏を紹介します。

彼はこの動乱の時代、非常に興味深い政権の内情と国際状況を手記に残しています。

彼の痛烈な批判は、当時の日本の危うさや間違いを明らかにしています。

数回に分けて、主要な問題点を見ます。

 

2手記

*2

 

「重光葵 手記」(中央公論、昭和61年刊)より

この手記は文体が古いので、少し意訳して抜粋要約します。

 

少し難しくなりますが、戦争が起きるべくして起こったと言うより、一つづつの選択ミスの積み重ねであることがお解りいただけると思います。

 

危ないかな日本の外交(タイトル)

「当時、ドイツの意を受けた日本人の主張は、欧州には断じて戦争は起こらぬ、従って日本の参戦の義務は発生せぬ故に防共協定を三国同盟に拡張して、同盟国と共に利益を得るべきであると主張した。次ぎに又三国同盟は欧州戦争を予防する大なる手段であると主張し、開戦後は同盟なきが故に戦争が起こったと説明し更に、戦争は独伊の圧倒的勝利に帰するから同盟を締結すべし、右は米国が参戦しても形勢には変わりはないと主張するのであった」p88、1939年前半期の情勢

3三国同盟

*     3

 

説明

日中間では、1931年満州事変、37年日中戦争が始まっていた。

36年、日独伊はソ連に対抗して防共協定を結んだが、さらなる軍事同盟への格上げで日本は意見が分かれていた。

反対派は英仏と米を刺激することを心配した。

しかしドイツは、39年、独ソ不可侵条約を結んだ後、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発、40年6月にはパリを占領した。

ヨーロッパ制覇近しと見た日本は乗り遅れまいと三国同盟を9月に締結した。

日本はこの三国同盟を含め、日独伊ソ四国協商、日ソ中立条約を締結し、ソ連を味方に付け、その圧力をもって米にアジア(中国)から手を引かせる目論見であった。

しかし突如、ドイツは41年6月、ソ連に侵攻し、この目論見は崩れた。

結局、時流に乗り遅れまいとしたドイツ盲信が、最も恐れていた英米ソを敵に回すことになった。

 

4パリ陥落

*     4

 

三国同盟論の誤算(タイトル)

「近衛公は外交側近者の進言をそのまま採用し、これへの深き理解もなくして実行に移した様である。

その政策の基礎は左の点にある様である。

第一、   ドイツはイタリアと共に即戦即決の方式によって間もなく全勝を得る。

第二、   従って英帝国は直ちに滅亡する。

第三、   ソ連はドイツに軽く扱われるので、日本とは接近親和を欲するはず。中国問題においても日本の意に反して援助を継続しないだろう。

第四、   重慶中国は日本の南京工作により、又独伊の勧奨により日本に降参しなくとも少なくとも和議を提唱するに違いない。

第五、   米国は容易に立たず、三国同盟によってむしろ萎縮して孤立主義の勢力は増大し、漸次英国を見放すだろう。」p213、1941年1月11日記

 

説明

この41年の初頭、ドイツ軍はまだ破竹の勢いで、日本は虎の威を借りて、東南アジアとソ連東部への権益確立(侵攻)をまたもや目論んでいた。

一方で、日本は中国問題で対立し、最も恐れていた米国と和平を模索する交渉を進めていた。

しかし、その日本の交渉態度には、三つの思い込みがあった。

ドイツの世界制覇は近い、米国は高圧的に出ず戦争もしない、さらに不思議なのが日本は大丈夫だと言う安心感のようなものです。

これらが上記の近衛内閣の政策に出ています。

この無知と慢心が、やがて41年の12月7日の真珠湾攻撃につながり、太平洋戦争勃発になった。

 

次回に続きます。

 

 

 

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私達の戦争 3: 当事者が振り返る戦争とは 2


1北支事変

*     1

 

今日は、終戦まで歩兵として北支(北京一帯)で従軍された岡部正美氏の体験を紹介します。

東洋鬼子 

*     2

 

「日本、東洋鬼子」(近代文芸社、1998年刊)

上記著作から抜粋要約し、彼の体験や考えをみます。

 

征途(タイトル)

「『守ってやって下さい、一人息子です。帰してやって下さい』と老女が班長さんと、手を握りしめて、・・ある母親は狂気のように髪を乱し裾が乱れ、・・憲兵に叱られつつも、押しのけて迷い走る姿が目についた。」

これは太平洋戦争開始の1年後、北支に向かって姫路駅を新兵部隊が出征する場面です。

 

3 行軍

*     3

 

弱兵は殺される

「大部隊をもっての攻略がはじまる。・・携帯の弾薬合わせて20数キロの重量に、その疲労は激しく昼夜兼行の行軍にある。・・馬鹿野郎しっかりしろい、と励ましかばいたてに意識朦朧としての落伍に最早かばうことの時間のロスであり、何小隊落伍1名の報告に処分せよの下命に銃殺である。・・路傍に引きよせて、ご苦労じゃった。必ず俺も行く、待っていてくれ。と頭部に銃口して引金の指の震え涙止まらず路傍に逝く。」

行軍は百キロを越えることが多く、落伍者はこうして、その都度、昨日の友や上官らによって始末された。

 

残虐行為

「ある村に野営とあって、炊事に忙しく豚、鶏、卵と他調味材料に鍋、器と手当たり次第の略奪が賑わう掃討に駆け走る。部落民はいち早く逃避して、・・古兵が『オイ、娘が居たら言うて来いよ。女も探して来い』・・纏足の婆がかばうように、藁の前に立って、手を合わせている。藁の中なら・・可憐な娘二人、・・『エエ奴探したのう。来い』・・『殺したか、やっとけよ』」p174

「『なぜ針金で通してあるのですか』『戦の中で捕らえたり部落で集めて逃げんようにしてあるんじゃ。・・取り調べ済んだらスラスラ(殺すこと)じゃ。首切り初めてじゃろ、見せてもろたろか』『ハイ』」p175

当時、日本は資源・食料を朝鮮半島、台湾、さらに仏印(ベトナムなど)で調達していたが、戦場は現地調達であった。味方でさえ処分されるので捕虜は言うまでもない。

 

結文

「ありし日の軍政のウソと隠蔽が許されずあきらかな残虐無慈悲の蛮行に中国民の嘆き苦しみ、そして戦慄と死活に耐えたいろいろと、その真を・・一つでも認識していただいて二度と起こすな戦争、更に独裁政治を行わせしめるな、・・」

 

これが彼の体験した戦争であり、ささやかな願いでした。

 

彼と著作について

彼は尋常高等小学校高等科を卒業の7年後、徴集され、太平洋戦争と同時期、日中戦争を戦った。

彼は歩兵部隊の軍曹で、戦いながら兵士の教育係も担当しており、軍人として優秀だったようです。

復員後、裁判所に定年まで勤務した。

 

彼は79歳でこの本を出版しているが、自費出版だったのではないか。

この歳で出版に踏み切られたのは、これが最後だとの想いがあったからでしょう。

戦地に行った多くの人は、復員後、口をつぐんでしまいます。

例え自責の念がよぎっても、仲間や家族への気遣いがそうさせます。

 

残念ながら、amazon.co.jpで見た分には、この本は人気が無いようです。

文章は長文で古い文体や単語が多く読みづらい。

しかし、真実を伝えたい、遺しておきたい彼の熱意が伝わって来ます。

 

不思議なこと

ほぼ同時代を生きた、前回の中条さんと岡部さんの両著作の人気と考え方の違いは何を意味するのだろうか。

 

 

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私達の戦争 2: 当事者が振り返る戦争とは 1


 本

*     1

 

これから数回にわたり、第二次世界大戦に参加した人が、日本の戦争をどのように見ているかを紹介します。

今回は、陸軍士官学校在学中に敗戦になり、後に企業で成功された中条高徳氏の意見を紹介します。

 

「おじいちゃん戦争のことを教えて」(小学館、2002年刊)より

上記著作から抜粋要約し、彼の考えを見て行きます。

 

戦争の本質について(Ⅲ章タイトル)

「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカ双方にある。日本は中国大陸に戦線を拡大して誤った。アメリカは日本を戦争以外の選択肢がないところに追い込んで誤った。双方がそういう過ちを犯したのだということをきちんと認識しなければならない」p109

 

国益の視点に立つ(タイトル)

「国益最優先が行動原理となるのは当然なのだ。・・だから、二つの国の利益が相反したとき、一方にとっては正義でも、その正義は相手にとっては正義ではない、・・」p113

 

戦争以外に選択の余地はなかった(タイトル)

「日本は追いつめられた。・・ハル国務長官(ハル・ノート)が示した対日要求は呑めるものではない。呑めばこちらは丸裸になって、・・」p125

「日本の選択肢はそんなになかったと私も思う。屈服してアメリカのいうがままになるか、戦って一矢を報いるか。・・とすれば戦う以外にはないではないか。」

 

これが彼の考える「日米開戦の正当性」です。

つまり、双方に非があり、なるべくしてなったとしている。

おそらく、これは愛国心を痛めず、心地良く受け入れ易い説でしょう。

この歴史認識が正しいかは、他の当事者の意見を検証していくうちに判明します。

 

ここでは彼の生き方と考え方を見ておきます。

彼は戦時中、士官学校に学んでいます。

その理由を、世界は帝国主義全盛で日本は富国強兵で成功しており、成績優秀であれば軍人としてお国の為に尽くすのが、当時の風潮だったからとしています。

敗戦後、アサヒビールに入社し、成功し、最後は名誉顧問に就任している。

現在、保守系政治団体の代表委員の一人として「日本民族の誇りと公の精神」等の講演や著述活動を勢力的に行っている。

 

結局、彼は大和魂に憧れ、軍人精神をたたき込まれたが、戦地に行くことはなかった。

この著書は、文章が平易で読みやすく、論旨が明快で、要点が繰り返され、情緒的に訴えるうまさがある。

彼の印象は、熱血漢、行動する人らしくシンプルで、迷いは微塵もない。

「・・神道は宗教ではないからである。・・それは日本の心だ、・・」p224

「日本の精神が失われたとき、天皇は存在し得なくなる」p223

彼の根底にあるのは、「愛すべき、守るべき古き良き国風、神聖にして犯すべからざる日本」でしょうか。

 

少し考えてみましょう

地震によって家屋が大きく倒壊したとしましょう。

一人は、地震に善悪など無い、これはなるべくしてなったものだと見なし、直ちに復興を始めました。

もう一人は、彼の選んだ立地と家屋強度に問題があったとし、家屋強度を上げるだけの現実的な判断をして再建を始めました。

 

通常、後者の態度が多くの災厄や失敗から学び、無難だと言えます。

しかし、ひとたび愛国心や郷土愛が介在すると、事はすんなりと行かないようです。

 

 

 

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私達の戦争 1: 私達に託されたもの


1画像

< 1. 荒れ泡立つ空間 >

 

未来は、今、私達が選んだ道の向こうにあります、自ら下した決断ではなくても・・。

多くの歴史は一つ一つの選択の積み重ねが重大であったことを物語っています。

今、私達は何をしてはならないのか? 何をすべきか? 

判断する上で、欠かせない重要事項を一緒に見ていきます。

 

はじめに

最近とみに、ブログや会話の中で、幾つかの言葉をよく見聞するようになりました。

「攻めてきたら、防ぎようがない。」

「あいつらと話し合うことなど出来るはずがない」

「その国は、もうすぐ消えてしまう。」

「歴史など所詮、過ぎ去ったこと。」

「自虐史観はマイナス思考だ。」

 

これらの発言は一部の人のものかもしれませんが、重要でもあります。

いつの世にも、このような感情のうねりはあります。

これは人間心理の一面、あるいは片面をさらけ出しているからです。

そこには絶望や拒否感、焦りが滲み出ています。

その本質は変化への不安と他者への不安と言えます。

 

私達は、時折、色々な不安に襲われることがあります。

出来れば悪いことは起こらず、良いことだけが続いて欲しいものです。

私達は日々の暮らしにおいて、将来起きる事に不安を感じると、どうするでしょうか?

 

例えば1年後に、人生を左右するかもしれない受験が控えているとします。

一部の人は、不安に耐えきれず受験を諦めるか、受験が無い道を選ぶかもしれません。

そのような拒否の選択も有りです。

しかし多くは、それを受け入れ、過去の試験の傾向を調べ、試験対策を始め、受験に望むことでしょう。

 

何が大事なのか?

一つ言えることは、不安から逃げず、少しでも対策を講じることです。

もしその不安が的中すれば大きな災厄をもたらす時は、特にそうです。

しかし、事はそう簡単ではありません。

なぜならその不安の正体、起きるであろう災厄、その対策、総べてが不明瞭だからです。

 

今回の連載で明らかにしたいこと

私達、日本人が未来の平和を模索するに上で重要な戦争の要素を見ていきます。

例えば、軍隊と平和、防御と攻撃、抑止力、銃社会、軍事同盟などについて語ります。

それらの基本的な論点を少し知った後、日本や東アジア、世界の現状と未来を見ます。

その上で、今私達が採るべき日本の最適な戦略とは何かを考えます。

 

あとがき

申し訳ありませんが、この連載を優先させますので、他の連載や記事を少し中断することになります。

 

 

 

 

 

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Go around the world of Buddha statues 20:  The mystery hidden in Buddha statue


Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura 

< 1. Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura >

 

The mystery is a certain image expression that Buddha statue had already possessed at the occasion of this birth.

It is continuously inherited to the Japanese Buddha statue also.

This time, I pursue the origin moreover.

 

Halo and Abhaya Mudrā

Thing being common in both the Buddha statues of Fig. 1 is expression the form of seated posture, Abhaya Mudrā, and a halo.

From the start of Buddha statue birth in Gandhara, these three expression forms had emerged in the relief engraving that all kinds of life of Buddha was depicted with.

The seated posture derives from yoga (seated concentration).

This seated posture had already appeared in the Indus civilization before Aryan migrated, so its culture was peculiar to India.

The halo or the aureola is something like a disk or a ring attaching to the back of Buddha statues, and symbolizes emission of the light.

The Abhaya Mudrā is usually made with the right hand raised to shoulder height, the arm bent and the palm facing outward with the fingers upright.

In Buddhism, this kind of expression means that Buddha gets rid of fear and uneasiness from people.

However, the India culture before it did not have these two expression forms.

 

謎とは仏像が誕生した時、既に備わっていた図像表現です。

それは日本の仏像にも脈々と受け継がれています。

今回は、その起源をさらに追います。

 

光背と施無畏印(せむいいん)

図1の両仏像に共通しているのは座る姿勢と光背、施無畏印の表現です。

この三つの表現は、仏像誕生の最初期から、ガンダーラの仏伝の浮き彫りにも現れていました。

座る姿勢はヨーガ(座禅)に由来するものです。

この座る姿勢は、アーリア人の移住前のインダス文明に既に現れており、インド固有のものでした。

光背とは背後の円盤状のもので、光りの放射を象徴しています。

施無畏印とは右手を肩の高さまで上げ、手のひらを外に向けている表現です。

仏教において、この手の表現は仏が人々から恐れや不安を取り除くことを意味しています。

しかし、この二つの表現はそれ以前のインド文化にはありませんでした。

 

left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.

< 2. left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C. right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C. >

 

How was the halo born?

“Sun god Shamash radiates rays from the shoulder and appears with the figure that holds a thing like a saw in the hand”.

This is a passage in the myth of Assyria Babylonia.

Shamash in Mesopotamia’s God controls justice or four seasons and influences the outcome of war.

Figure 2 show Shamash God both.

In right fig., the God is conferring Code of Hammurab to the king.

We can see each shoulder emits some rays.

 

光背は如何にして生まれたのか?

「太陽神シャマシュは、肩から光線を放ち、手に鋸の歯に似たものを持つ姿で現れる。」

これはアッシリア・バビロニアの神話の一節です。

シャマシュはメソポタミアの正義、四季を司り、戦争を決する神です。

図2は共にシャマシュ神を示し、右図では神が左のハムラビ王に法典を授与している。

それぞれの肩から数本の光線が放たれているのが見える。

 

.  Mithra God

< 3. Mithra God >

Left fig.: Mithra on the right is meeting Syria king Antiochus 1, at the first century B.C. in Mt. Nemrut of Turkey.

Right fig.: Mithra on the left sanctifies the investiture of Sassanid emperor Ardashir, at the 3rd century in Taq Bostan(neighboring ruins of Bisotun) of Iran.

From heads of both Mithra, emission rays spread in a circle.

Mithra was a sun god that was shared by the earliest Aryan (Indo-Iranian), and described in Hindu scripture of India, and Zoroastrian Scripture of Iran.

This Mithra spread to Rome at the end of the first century A.D., and the iconography expression took root in the empire.

 

左図: 右のミトラ神がシリア王アンティオコス1世と会見。前1世紀、

右図: 左端のミトラ神がササン朝ペルシャの初代王を叙任する。3世紀、ベヒストゥンの近郊、Taq Bostan in Iran.

両ミトラ神の頭からは、放射光線が円形に広がっている。

ミトラ神は最古層のアーリア人(インド・イラン人)が共有していた太陽神で、インドのヒンドゥー経典とイランのゾロアスター教典に出てくる。

このミトラ神は1世紀後半にローマに伝わり、その図像表現が帝国に定着することになった。

 

How was the Abhaya Mudrā born?

施無畏印は如何にして生まれたのか?

 

a form of the ancient oath 

< 4. a form of the ancient oath >

Left fig.: The Behistun Inscription of Darius 1 who administers an oath to the chief deity of Zoroastrianism in the air, at about the 5th century B.C. in Bisotun of Iran.

Right fig.: A noble female statue of fortified city Hatra. Hatra in Iraq were an important trading city of Parthia kingdom that nomad of Iran created after the first century B.C.

 

Forms of such an oath are seen in relief engravings of Assyria and Persia well.

Hammurabi of Fig. 2 also raises his right hand and takes an oath to God.

 

左図: ダレイオス1世のベヒストゥン碑文、王が天空のゾロアスターの最高神に宣誓している。前5世紀頃、Bisotun in Iran.

右図: 要塞都市ハトラの高貴な女性像、ハトラはイランの遊牧民が興したパルティア王国の重要な交易都市だった。前1世紀以降、イラク。

 

このような宣誓の形式はアッシリアやペルシャの浮き彫りにもよく見られる。

図2のハムラビ王も右手を上げて神に宣誓している。

 

Summary

Halo and Abhaya Mudrā were the Mesopotamia origin both.

The halo seemed to symbolize the sun having overwhelming power.

This started in Mesopotamia God, was inherited by Mithra being the oldest god of Indo-Iranian, and was adopted to Indian Buddha statue

Originally, Abhaya Mudrā was a form that a king administered an oath to God.

This was inherited by Parthia kingdom from Mesopotamia, and was assimilated as the form that Buddha promised for the people in India.

 

 

まとめ

光背も施無畏印もメソポタミア起源だった。

光背は圧倒的な威力を誇る太陽を象徴したらしい。

これがメソポタミアの神から、インド・イラン人の最古層のミトラ神に受け継がれ、やがてインドの仏像に取り入れられた。

本来、施無畏印は目下の者、王が神に、臣下が王に誓約する形式だった。

それがメソポタミアからパルティアに受け継がれ、インドでは仏が民衆に約束する形として取り入れられた。

さらに不思議なことに、アフリカで自然に暮らすチンパンジーは、若い雄が大人の雄に対して右手を水平に上げて挨拶をする。

これは服従していることを示す。

 

this map shows some ruins and main kingdoms 

< 5. this map shows some ruins and main kingdoms >

 

Pink frame: a domain of Achaemenid Empire Persia (the 6th – 4th century B.C.).

Brown frame: a domain of Parthia kingdom (the 3rd century B.C. – the 3rd century A.D.).

Dark blue frame: a domain of Greco Bactria kingdom (the 3rd – the first century B.C.).

 

Indian Indus basin and Afghanistan was a place that India culture, nomad’s culture of Central Asia, and west culture of Iran or Greece mixed between the second millennium B.C. and the first millennium A.D.

This significantly influenced Buddha statue birth of India.

 

ピンク枠: アケメネス朝ペルシャ(前6~前4世紀)の領域。

茶色枠: パルティア王国(前3世紀~後3世紀)の領域。

紺色枠: グレコ・バクトリア王国(前3世紀~前1世紀)の領域。

 

インドのインダス川流域とアフガニスタンは、前2千年紀から後1千年紀にかけて、西方文化(イラン、ギリシャなど)と中央アジアの騎馬民族の文化がインド文化と混じり合う所でした。

このことがインドの仏像誕生に大きな影響を与えた。

 

Subsequent deployment

The halo was not the form that was adopted in Buddha statue of India only.

Probably, in the prairie or the desert area, it was a symbol common to human beings.

 

その後の展開

光背はインドの仏像だけが取り入れたものではなかった。

おそらく草原や砂漠地帯において人類共通の象徴だったのでしょう。

 

.  symbols of sun

< 6. symbols of sun >

 

Fig. 1: Re of Egypt being sun god puts the sun on the head.

Fig. 2: A gold coin of Ptolemy 3rd in the 3rd century B.C. in Egypt. Emission rays come out from the king’s head.

Fig. 3: Halo of Apollo God, the 2nd century, Tunisia.

Fig. 4: a picture of Islam. It is halo such as flame at the back of the saints.

 

This iconography that was expressed by solar beam, flame, and disk was used also for God and the Saint of Hinduism or Christianity.

The form of an oath that became the Abhaya Mudrā is remaining as a judiciary oath to raise the right hand now.

 

図1: エジプトの太陽神ラーは頭上に太陽を乗せている。

図2: プトレマイオス王3世の金貨、前3世紀、エジプト。王の頭から光りが出ている。

図3: アポロ神の光輪、2世紀、チュニジア。

図4: イスラム教の絵。聖人の背に炎のような光背。

 

この太陽光線や炎、円盤で表現される図像はヒンドゥー教やキリスト教の神や聖人にも使用されるようになった。

施無畏印になった宣誓の形は、左手を聖書に載せ、右手を挙げる裁判の宣誓として、今に残っている。

 

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Travel to Turkey 8: Caravansary


    main gate     

 

< 1. main gate >

 

I introduce the ruins of the caravansary today.

今日は、キャラバンサライ(隊商宿)の遺跡を紹介します。

 

 central tower in the courtyard surrounded by a castle wall 

< 2. central tower in the courtyard surrounded by a castle wall >

 

The building is in SultanHan located between Konya and Cappadocia.

Such caravansary was built in Anatolia plentifully from about the tenth century.

The caravansary was built in the trade route every approximately 40km.

In those days, the merchants put all loads on horse or donkey, etc., formed a party, and traded between distant places.

In order to encourage trade and to protect the merchants’ party from robbers or thefts, the dynasty made the caravansary like fort and placed security force.

Furthermore, offering of a meal and taking care of the animals were performed to the sojourner for nothing.

 

この場所はコンヤとカッパドキアの中間に位置するスルタンハイにあります。

このようなキャラバンサライはアナトリアに10世紀頃から数多く建てられた。

キャラバンサライは交易ルートに、約40km毎に建てられた隊商宿です。

当時、商人は馬やロバなどに荷物を乗せ、隊を組んで遠方交易を行った。

王朝は交易を奨励するため、商隊を賊や盗難から保護するために、要塞のような隊商宿を作り警護者を置いた。

さらに滞在者には食事の提供や使役動物の世話を無料で行った。

 

Upper fig.: inside of main gate.  Lower fig.:  entrance of room.

< 3. Upper fig.: inside of main gate. Lower fig.: entrance of room.>

 

 a view from roof of the central tower 

< 4. a view from roof of the central tower >

 

The history of this trade route is even older.

The trade route via here linked the Central Asia from the Aegean Sea (close to Ephesus) about the third century B.C. and would have conveyed Hellenism culture.

Furthermore, King Darius of Persia built the highway that reached the Aegean Sea (close to Ephesus) from Iran (Susa) in the 5th century B.C. (this route are a little different from it).

This was able to travel through 2,700 km in seven days.

 

この交易ルートの歴史はさらに古い。

ここを通る交易ルートは紀元前3世紀以降には、エーゲ海(エフェソス近郊)から中央アジアを結び、ヘレニズム文化を伝えたことだろう。

さらにペルシャのダレイオス王が前5世紀に、イラン(スーサ)からエーゲ海(エフェソス近郊)に至る幹線道路を建設した(少しルートは異なる)。

これは当時、最も長距離で完成された駅伝制のルートで、2700kmを7日間で旅をすることが出来た。

 

.  a corridor of courtyard, and old farm implements  

< 5. a corridor of courtyard, and old farm implements > 

 

I seem to hear the neigh of animals and the chat of suntanned merchants of ancient times.

The goods in trade from Rome and Greece might have arrived to China through here, and furthermore to Japan.

 

遙か昔の日に焼けた商人達の談笑や馬のいななきが聞こえてくるようです。

ローマやギリシャからの交易品が、ここを通って中国、果ては日本の正倉院に届いたのかもしれません。

 

 .  beautiful pattern, skillful skylight

< 6. beautiful pattern, skillful skylight >

 

 .  frontal view

< 7. frontal view >

 

 a souvenir shop

< 8. a souvenir shop    >

 

 .  mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field 

< 9. mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field >

 

Unlike the ruins of a royal palace, although there was not a feeling of gorgeousness, I felt the breath of the merchants who got on in the world.

One pleasure of this trip was over.

 

宮殿の遺跡と違い華やかさを偲ばせるものはないが、世界を股にかけた商人達の息吹を感じることが出来た。

今回の旅行の楽しみを一つが終わった。

 

 

 

 

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The society and the information 33:  Information crosses the border 7


 Kremlin

< 1. Kremlin >

 

This time also, following the last time, I see how the Soviet Union reported the nuclear plant accident that happened in Ukraine.

    今回は、前回に続いてウクライナで起きた原発事故をソ連がどう報道したかを見ます。

 

 Gorbachev and Reagan

< 2. Gorbachev and Reagan >

 

In 1985, Gorbachev advocated perestroika (reform), and was inaugurated as the supreme leader of the Soviet Union.

This was just a year before the nuclear plant accident.

He developed the following opinions about this nuclear plant accident at home and abroad and corresponded.

 

1985年、ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を唱えてソ連の最高指導者に着いた。

これは原発事故のちょうど1年前のことでした。

彼はこの原発事故に対して以下の主張を国内外に展開し、対応した。

 

A. The atomic energy is the original sin of the human civilization, and the accident is the wrath of Heaven.

Taking this opportunity, he appealed for the menace of the nuclear weapon and stopping the nuclear test within the country, and then progressed the agreement of the nuclear weapon reduction between the United States.

It proceeded to the conclusion of the Cold War in 1989 year before long.

Probably, the nuclear plant accident was used for an excuse of stopping the arms race that had weakened the national power.

 

A 原子力は人類文明の原罪であり、事故は天罰である。

彼はこれを機に国内に核兵器の脅威を訴え、核実験停止、米国との核兵器削減合意を進めた。

やがて89年の東西冷戦終結へと向かう。

おそらくは国力を削ぐ軍拡競争中止の口実に原発事故が利用されたのだろう。

 

 B.  The western media discharge falsehood reports, and are trying to trample us.

“Thousands of casualties appeared one after another, and all around became full of graves. The whole land of Ukraine was polluted by the radioactivity, and the capital became the wasteland where the trees and plants would not grow.”

He said that he demanded the confidence in the government to the people, because the west had been reporting such lie.

The people will be always exposed to such news that truth and falsity were mixed in, and were different at home and abroad.

 

B 西側メディアは虚偽報道を垂れ流し、我々を踏みにじろうとしている。

「何千もの死傷者が出て、辺り一面は墓だらけになっている。ウクライナ全土が放射能で汚染され、首都は草木も生えぬ荒れ地になった。」

こんな嘘が西側では報道されているとし、国民に政府への信任を求めた。

国民はこの手の内外で対立する真偽が混じった報道にいつも曝されることになる。

 

.  Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins 

< 3. Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins >

 

C. This accident is a maximum example of the bad effect of the old regime.

This accident brought the new government two help.

One thing made the accident liability the incompetence of the local administrative organ (Ukraine) of the Communist Party, and the bad effect of the central old regime.

This made the unskillful handling of the new administration less noticeable.

On the other hand, the government announced that the scientists of the Soviet Union had shut away the radioactivity of the accident and the measures were perfect.

 

C この事故は、旧体制の弊害の最たるものである。

この事故は新政権に二つの救いをもたらした。

一つは、事故責任は共産党の地方機関(ウクライナ)の無能さと中央の旧体制の弊害とした。

これに応じて組織刷新と処罰が進められ、新政権の対応の拙さは目立たなくなった。

一方で政府はソ連の科学者達が事故による放射能を封じ込め、処置は完璧であるとした。

 

Shevardnadze 

< 4. Shevardnadze >

 

The other was a good opportunity to infiltrate the information disclosure at home and abroad.

Shevardnadze that was appointed the foreign minister carried out already the information disclosure partly in Republic of Georgia and had shown the results.

The government showed the details of the accident and the damage, accepted the inspection of the American Nuclear Regulatory Commission, and promoted the nuclear power accident coverage taken by the domestic media organization.

The image of the new government that will sweep away the bad effect due to the secretiveness was able to spread at home and abroad.

 

In those days a chief editor of newspaper “Pravda” talked of complaint that the information disclosure had not really advanced toward.

This newspaper was continuing revealing a lack of a plan of the government about the accident against the governmental bureaucrat-ism and the secretiveness.

 

今一つは、グラスノッチ(情報公開)を国内外に浸透させる絶好の機会となった。

情報公開は外相に抜擢されたシェワルナゼが、既にグルジア統治時代に一部実施し成果を挙げていた。

政府は、事故と被害の詳細を公開し、米国の原子力規制委員会の査察受け入れ、国内報道機関による原発事故の取材を推し進めた。

それまでの秘密主義による弊害を一掃する新政府のイメージを国内外に浸透させることが出来た。

 

当時、新聞「プラウダ」の編集長は、実際には情報公開が一向に進んでいないと愚痴を語っていた。

この新聞は、政府の官僚主義や秘密主義に対抗して、事故をめぐる政府の無能無策を暴き続けていた。

 

Summary

This big accident became the big favorable wind for the new Gorbachev Administration.

On the other hand, in Japan, the nuclear plant accident became a factor that condemned the new government for.

 

まとめ

大きな事故がゴルバチョフ新政権にとっては、またとない追い風となった。

一方、日本において、原発事故は新政権を断罪する要因になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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History of sickness and medical art 28:  China 3


 medical book “Huangdi Neijing”

<1. medical book “Huangdi Neijing”>

 

This time, I look at how people recognized the sickness in those days.

 今回は、当時の人々が病をどのように認識していたかを見ます。

 

 Restored instruments of acupuncture in “Huangdi Neijing” 

< 2. Restored instruments of acupuncture in “Huangdi Neijing” >

 

The oldest medical book “Huangdi Neijing”

This Chinese oldest medical book is written in the form that legendary Yellow Emperor discusses with a subject.

It was written in the first century B.C.

This form resembles the pattern that a legendary wizard had a dialogue with a king in ” Caraka Sanhita” of India.

It consists of pathology, general remarks of physiology, and clinical medicine including diagnosis, treatment, acupuncture and moxibustion.

 

“ People are kept alive by life energy ( Qi ) of nature, and is controlled with the rule of four seasons”

From ancient times, in China (East Asia), people think people being harmonize with nature, and it becomes sickness when balance collapses.

 

最古の医書「黄帝内経」

この中国最古の医書は伝説上の黄帝が臣下と問答する形で著されている。

前1世紀頃に集成された。

この形式は、インドの「チュンカラ・サンヒター」に出てくる聖仙と王の問答に似ている。

病理学、生理学の総論と診断、治療、鍼灸など臨床篇からなっている。

 

「人は天地の気をもって生じ、春夏秋冬の四季の法をもて成る」

古来より中国(東アジア)では、人間は自然と調和しているものであり、バランスが崩れると病になると考えている。

 

this Classic Taoist Taijitu shows “Yin and Yang” 

< 3. this Classic Taoist Taijitu shows “Yin and Yang” >

 

The fundamental theory is in Confucian doctrine” I Ching”.

It is said that people take birth with life energy ( Qi ) of “ Yin and Yang”, and people get sick if the harmony in the body was lost.

Furthermore, it was assumed that the human body is made of wood, fire, soil, gold, and water.

The basic elements of every phenomena and things were assigned to five.

There was 4 body fluid theory in Greece medicine, but there was 5 body fluid theory in China.

Moreover, people recognized that all blood was under rule of the heart, circulated through it continuously, and didn’t stop.

 

 

根本理論は儒教の教説「易」であり、人間は陰陽の気を呼吸しており、体内でこの両者が調和を失えば病気になるという。

さらに人体は木、火、土、金、水から出来ているとし、あらゆる現象と事物を5要素に割り当てた。

ギリシャ医学では4体液説だが、中国では5体液説であった。

また血液はすべて心臓の支配下にあり、絶えず循環し、留まることがないと認識していた。

 

Meridian of “Huangdi Neijing” 

< 4.   Meridian of “Huangdi Neijing” >

 

Moreover, there is the 12 principal meridians in body, and life energy ( Qi ) circulates through this course.

It presupposed that health can be maintained by keeping this circulation normal, and the sickness is treated by giving acupuncture and moxibustion.

Moreover, it presupposed the sickness was divided into two, one of it depended on external factor such as wind, chill, dryness, humidity, and other depended on inner factor of joy, pathos, anger, fear, etc.

 

また体内には12本の経脈と支脈といえる無数の絡脈があり、気はこの経路を循環する。この経路を正常に保つことによって健康が保持できるとし、ここに鍼灸を施すことによって治療するとした。

また、病気は二つに分けられ、風・寒気・乾燥・湿気などの外的影響によるものと、喜び・哀しみ・怒り・恐れなどの内的影響によるとした。

 

     Zhang Zhongling

< 5. Zhang Zhongling >

 

The oldest clinical medical book “Shanghan Lun”

This book was written by Zhang Zhongling of good doctor at the end of the Han dynasty, and was a monument that told the birth of experience medicine.

He was called Hippocrates.

In a preface, he wrote his families had died in large quantities in a short term and 70 percent of it was “Shanghan”, and indicated the motive of writing the book.

He systematically explained the treatment of “Shanghan” from the onset of a disease to the death, and medical treatment was explained mainly by medicines only, but the etiology was not explained.

 

最古の臨床医学書「傷寒論」

後漢時代の名医・張仲景によって著されたこの本は、経験医学の誕生を告げる記念碑であり、彼はヒポクラテスと並び称された。

序文で、彼の一族が短期間に大量死し、その7割が傷寒の病とし、本を書く動機を書いている。

傷寒(腸チフスを含む急性熱病)の治療を発病から死亡まで系統的に述べ、治療は薬物が中心で病因論には触れていない。

彼は臨床医としても優れ、広く各医家の長所を吸収し、経験と知識を統合し独創的な治療法を試みた。

 

 

 

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I saw the film “Hanna Arendt”


 a poster of the film

< 1. a poster of the film >

 

I introduce the unique European film today.

今日は、異色のヨーロッパ映画を紹介します。

 

  Eichmann 

< 2. Eichmann >

 

“Hanna Arendt”

This film is a 2012 German-Luxembourgian-French biographical drama film about German-Jewish philosopher and political theorist Hannah Arendt.

During World War II, although she was taken to a concentration camp, she escaped, and she becomes some American colleges professor after.

She wrote “the origin of totalitarianism” and supposed that the racial discrimination that reinforced imperialism had induced the Nazism of inland Germany, and the Stalinism of Russia.

 

 

「ハンナ・アーレント」

ドイツ・ルクセンブルク・フランスの合作映画/2012年作。

題名のハンナ・アーレントはドイツ生まれの政治哲学者の名前。

彼女はユダヤ人で、第二次世界大戦中、強制収容所に連行されるが脱出し、後に米国の大学教授となる。

彼女は「全体主義の起源」を著し、帝国主義を補強した人種差別が内陸部ドイツのナチズムやロシアのスターリン主義を生んだとした。

 

Arendt sat in on the trial by TV 

< 3. Arendt sat in on the trial by TV >

 

The film

This film begins from her sitting in on the trial of Eichmann who was former Schutzstaffel.

The camera chases the testimony scene of Eichmann that was complicit in Jewish genocide and her attitude of contemplating to grope for truth in the trial.

She finds ” the banality of evil” to Eichmann before long.

Furthermore, she wakes up to the nonresistance of German and the cooperation of Jewish elder council to the Nazis.

In the latter half of the film, the indication in her magazine reports causes intense repulsion by Jew, and she is driven into a difficult situation.

 

映画

映画は、彼女が元ナチス親衛隊のアイヒマン裁判を傍聴することから始まる。

カメラは、ユダヤ人大量虐殺に手を染めたアイヒマンの証言シーンと、彼女がその法廷から真実を模索し沈思する姿を追う。

やがて彼女はアイヒマンに「悪の凡庸さ(陳腐さ)」を見出す。

さらに当時、ナチスへのドイツ人の無抵抗、取り分けユダヤ人長老評議会の協力に思い至る。

映画の後半、これらの指摘が、ユダヤ人による猛烈な反発を招き、彼女は追い込まれることになる。

 

Testimony in the trial 

< 4. Testimony in the trial >

 

I did not know this philosopher before watching the film and expected the miserable concentration camp scene.

However, the camera continues chasing the female philosopher who has sharp and deep eyes and then is like stubbornness.

When the trial scene in Israel began before long, the testimony scene of Eichmann was a then monochrome live-action film.

 

映画を見る前、私はこの哲学者を知らず、悲惨な収容所シーンを予想していました。

しかしカメラは、鋭く深い眼差しを持つ強情そうな女性哲学者を追い続けます。

美しい景色やナチス時代の描写すらほとんどありません。

やがて、イスラエルでの法廷場面が始まると、アイヒマンの証言シーンは当時の白黒の実写フイルムでした。

 

.  Dispute with Jewish friends   

< 5. Dispute with Jewish friends  > 

 

She declares a longtime friend “ Eichmann is not anti-Judea and is only the government official who obeyed the order “.

Then, for the first time, I understood the meaning using the live-action film by the film director.

Who can play Eichmann who doesn’t show a bit of conscience and who makes excuses expressionlessly and indifferently?

 

彼女は長年の友人に「アイヒマンは反ユダヤじゃない、命令に従うだけの役人」だと断言します。

その時、私は始めて、監督が実写フイルムを使った意味がわかりました。

良心の片鱗も見せず、無表情で淡々と言い逃れるアイヒマンを、誰が演じられるだろうか。

 

.  Lecture scenery    

< 6. Lecture scenery    >

 

At the last

This film suggests that not only Nazis but also the state of mind of all aggressors is ecumenical, further teaches the importance of appealing for the truth as having belief.

The truth is to say that the public who became assailants (aggressor) and victims fall into inextricable state of mind in each.

This problem presentation will be confirmed by two psychology experiments before long in the United States.

Eichmann experiment was conducted in Yale University in 1961 in the next year of the trial.

In addition, Stanford prison experiment was conducted in 1971, it became dangerous condition along the way, and it was canceled.

 

Has she only ascertained a truth as a philosopher?

I think it important that she who is victim and Jew declared fearlessly.

I believe that this is a power of surceasing the conflict and beginning to reach peacefully.

 

I am grateful to be able to meet the splendid female and splendid filmmaking.

 

最後に

この映画は、ナチスだけでなく侵略者達の心理状態が普遍的であることを示唆し、さらにその真理を、信念を持って訴えることの重要性を教えてくれます。

その真理とは加害者(侵略者)と被害者になった大衆がそれぞれに抜き差しならない心理状態に陥ることです。

この問題提起はやがて米国で二つの心理実験によって確認されることになりました。

この裁判の翌年1961年、イェール大学でアイヒマン実験が行われました。

また1971年にはスタンフォード監獄実験が行われ、これは危険な状態になり途中で中止されました。

 

彼女は哲学者として真実を見極めただけでしょうか?

私はユダヤ人である被害者の彼女が、恐れず公言したことが重要だと考えます。

このことこそが、争いを終わらせ、平和に向かう始まりの力になると信じます。

 

素晴らしい女性、素晴らしい映画作りに出会えたことに感謝します。

 

 

 

 

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Go around the world of Buddha 19: Birth of statue


 

.  a female image, Cyclades in Greece, the 2500 years B.C. 

< 1. a female image, Cyclades in Greece, the 2500 years B.C.  >

    

Until now, we investigated the birth and the changes of the Buddha statue from various parts of Asia to India in the reverse direction.

The Buddha statue was born in India, was introduced from China to South Korea and Japan, and blossomed in each country.

From now on, I pursue the wonder of the birth of god statue around the world including Buddha statue.

 

今まで、仏像の誕生と変遷をアジア各地からインドへと逆に辿って来ました。

仏像はインドで誕生し、中国から韓国、日本へと伝わり、それぞれの地で開花しました。

これからは、仏像も含めた世界の神像誕生の不思議を追います。

 

one of Four Heavenly Kings in Korea  

< 2. one of Four Heavenly Kings in Korea >

 

The aim of this series

It was to investigate a relation of people and the religion by pursuing the changes of the Buddha statue.

Japanese have deep affinity for Buddha statue and will feel particularly artistic excellence from it.

However, it is not necessarily at one with the doctrine of the Buddhism.

The Buddha statue greatly changed in each country and the times, it was diversified, and it more became individual, and was mixed with other religion.

It may be said that it happened in the dimension being different from the original teaching of Buddha.

 

この連載の狙い

それは仏像の変化を追うことで、人々と宗教の関わりを探ることでした。

私達日本人は仏像に深い思い入れがあり、特に芸術的な味わいを感じておられることでしょう。

しかしそれは仏教の教説とは必ずしも一体ではありません。

仏像は国や時代により大きく変化し、多様化し、個性化し、さらに他宗教と混淆していきました。

それは本来の釈迦の教えとは別の次元で起こったと言えます。

 

.  one of Four Heavenly Kings in Japan, the 9th century A.D. 

< 3. one of Four Heavenly Kings in Japan, the 9th century A.D. >

 

In other words, Buddha statue expression had been changed by the aboriginality culture of each country, the religion movement, the social situation, and the inflow of the foreign country culture.

In Japan, the aspect of the anger of Four Heavenly Kings statue was unique, when people of other country looked at it.

In the Korean Peninsula, the Buddha statue was greatly affected by the invasion of the different ethnic groups and the civil war even in Goryeo period having ardently taken care of the Buddhism.

In Cambodia and Thailand, the leadership struggle between Hinduism and Buddhism brought about the change and the mixture to Buddha statue, too.

 

つまり仏像表現は各国の土着文化と宗教運動、社会状況、さらには異国文化の流入によって変化し続けた。

日本において、四天王像の憤怒の形相は、他地域から見れば特異なものでした。

朝鮮半島において、仏教を篤く保護した高麗も、内乱と異民族侵攻により仏像は大きく影響を受けました。

カンボジヤやタイにおいて、ヒンドゥー教と仏教(大乗、小乗)の主導権争いも仏像に変化と混淆をもたらしました。

 

Buddha statue in Thailand, the 14th century 

< 4. Buddha statue in Thailand, the 14th century >

 

Another aim

I want to know why the production of the sacred statue suddenly began in spite of having been evading it by people.

The similar phenomenon happened all over the world.

These are in Judaism, Christianity, Islam, Buddhism, Hinduism, Shinto of Japan, etc.

As seen in my series ” Birth of primitive art”, human beings were producing and using many images that already had religious implications 30,000 years ago.

However, it did not last long, changed the form and appeared suddenly in many cases.

 

もう一つの狙い

それは、なぜ尊像の製作が最初、忌避されていたにも関わらず、突如として起こったかと言う疑問を解き明かしたいからです。

これと似たことが世界で同じように起こった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、日本の神道などです。

連載「原初美術の誕生」で見たように、人類は3万年前、既に宗教的な意味合いを持った数々の像を製作し、使用していました。

しかし多くの場合、それは長続きせず、途切れ、形を変えて突如として姿を現しました。

 

Venus in Germany, 25,000 years ago

< 5. Venus in Germany, 25,000 years ago >

 

From now on, searching the hint to clear up this mystery, I pursue the birth process of the statue in antiquity around the world.

Probably I may find a mystery of human beings even if I do not lead to deep truth.

 

From next time, I go round mysterious world in antiquity.

 

これからは、この謎を解くヒントを求めて、世界各地の古代を巡り、像誕生の経緯を追います。

おそらく深い真理には至らないでしょうが、何か人類の不思議に出くわせるかもしれません。

 

次回より、ミステリアスな古代、想像の世界を巡ります。

 

 

 

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In Kobe : Persian cuisine


A copper ornamental dish was hung on an indoor wall in the Persian restaurant   

< 1. A copper ornamental dish was hung on an indoor wall in the Persian restaurant  >

 

We ate Persia cuisine in Kobe.

神戸、三宮でペルシャ料理を食べました。

 

Left: The restaurant is the third floor. Right: the street in front of the restaurant.

< 2. Left: The restaurant is the third floor. Right: the street in front of the restaurant. >

 

In Kobe, there are various restaurants serving every country’s cuisine around the world.

Until now, we enjoyed the cuisine of Turkey, India, Korea, Russia, Spain, Thailand, Vietnam, and China.

This restaurant is “PARS CUISINE” near immediately Tor Road.

Eating Persia cuisine is the 2nd time in a long time, and eating in this restaurant is also the 2nd time.

 

神戸には、世界各国の料理を出すレストランがあります。

今まで、トルコ、インド、韓国、ロシア、スペイン、タイ、ベトナム、中国の料理を楽しんでいます。

今回のレストランは、トーアロードの直ぐ近くにある「PARS CUISINE」です。

ペルシャ料理は久しぶりの2回目で、前回もこの店でした。

 

in the restaurant

< 3. in the restaurant >

Arabic music was flowing from speakers in the spacious restaurant.

The person who waited on table was like the Iranian.

 

Course

Our course was Bandari Course.

Because we do not know these cuisines, we generally choose each course.

It is secondary whether the cuisine is delicious, because our purpose is to taste foreign cuisine.

 

 ゆったりとした店内には、アラブの音楽が流れていました。

給仕してくれる人は、イラン人のようでした。

 

料理

料理はバンダリーコース(Bandari Course)です。

料理が分からないので、大概コースを選びます。

私達は異国の料理を味わうのが目的で、美味しいかどうかは二の次です。

 

Left: Khorake Sir Gharche,  Rright: Dolmeh 

< 4. Left: Khorake Sir Gharche, Rright: Dolmeh >

Left:   mushrooms were simmered in garlic oil.

Right:   pilaf was rolled up with grape’s leaf.

左: マッシュルームのガーリックオイル煮。

右: ピラフのぶどうの葉巻。旨いとは言えない。

 

Left: Galiyeh Kebab,  Right: Doogh 

 

< 5. Left: Galiyeh Kebab, Right: Doogh >

Left: A stew of shrimps and herbs.

Right: this yogurt drink is mixed with salt, carbonated water, and dried mint. It was mysterious taste.

左: エビとハーブの煮込み。まあまあの味。

右: 炭酸入りの塩味ヨーグルトドリンク。チャレンジしたが、口に合わなかった。

 

Upper:  Soltani Kebab.  Lower: Chapati

< 6. Upper: Soltani Kebab. Lower: Chapati >

Upper:   two spit-roasted food of comminuted meat of sheep and beef. It was very delicious.

Lower: Baked thin Nan. A left bottle is in order to pour dried fruit over the kebab. It was mysterious taste.

上: クビデ(羊の挽肉か)と牛肉の串焼き。非常に旨かった。

下: 薄焼きナン。薄いのが良かった。左の瓶はドライフルーツで、ケバブにかける。不思議な味だった。

 

< 7.   Upper: Spaicy Loobiya Polo, Lower: Dessert、Chai >

 

Upper:   Pilaf of kidney bean and mutton. It was nice.

Lower:   The dessert was cold and ginger was working. It was delicious.

上: インゲンと羊肉のピラフ。米の形がかなり異なるが、旨かった。

下: デザートは冷たく、生姜が効いて美味しかった。

 

While I had been eating, I imagined dry Iranian Plateau distant from the sea, and Persepolis that I didn’t yet visit.

I judged some dishes hotter tasting by the look of the red color, but these were not hotter tasting.

We were able to enjoy the dinner.

 

食事をしていて、海から離れた乾燥したイラン高原、未だ見ぬペルセポリスを想った。

色から見て辛く見えた料理も辛くなく、楽しめた。

 

 

 

 

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The society and the information 32: information crosses the border 6


.  Chernobyl nuclear power plant disaster

< 1. Chernobyl nuclear power plant disaster   >

 

From this time, we look about the negative side of the information running over the world.

As we have already seen, when the information was true, human-rights abuse was stopped, and conflict was suppressed, and also democratization was possible by inspiring people.

However, if that information were distorted, what would have happened?

The news of Chernobyl nuclear power plant disaste    r was typical example of manipulation of information, and the eeriness was remarkable.

 

今回より、世界を巡る情報がもたらす負の側面について見ていきます。

今まで見てきたように、その情報が真実であれば、人権侵害を食い止め、紛争を抑え、さらには国民を奮起させ民主化を可能にしました。

しかし、それらの情報が歪曲されていればどうなったでしょうか?

チェルノブイリ原発事故報道は情報操作の典型例であり、その不気味さが顕著です。

 

 Pollution range

< 2. Pollution range   >

 

The outline of the Chernobyl nuclear power plant disaster

In 1986, the nuclear power plant disaster of the worst level 7 (it is the same as the Fukushima nuclear power plant disaster) happened in the Ukraine of the Soviet Union.

The origin of the accident was this: when conditions of low output power had occurred at the time of a stress test, because the operating staff was panicked by it, they canceled the safeguard and tried to return it normally.

However, the nuclear reaction adversely was runaway, and several seconds afterward, the reactor core melted down and exploded.

The accident cause depends on the test having been just carried out in a structural unstable condition (defect).

But also it may be said that it was not generated if the judgment and the handling of the control officer are right (it is always the same).

 

チェルノブイリ原発事故の概要

1986年、ソ連のウクライナで最悪のレベル7(福島原発事故と同じ)の原発事故が起こった。

切っ掛けは、ストレステスト時に予想外の低出力状態になり、運転員がそれに慌てて安全装置を解除して平常に戻そうとしたことによる。

しかし逆に核反応が暴走し、数秒後に炉心が溶融し爆発した。

事故原因は、そのテストが構造上の不安定条件(欠陥)でちょうど行われたことによるが、運転の監督官の判断や対応が正しければ起こらなかったとも言える(いつも同じ)。

 

.  Worker after the nuclear power plant disaster

< 3. Worker after the nuclear power plant disaster >

The burst size of the radioactive material was 400 times the atomic bomb of Hiroshima.

After one day, it arrived at Sweden on the wind, and was observed throughout the Northern Hemisphere after half a month.

At first, the Soviet Union government did not respond to the situation seriously, and concealed the accident at home and abroad.

Therefore, with being defenseless, a lot of persons that had been sent to fire fighting or restoration work got heavily bombed.

 

放射性物質の放出量は広島の原爆の400倍で、1日後には風に乗ってスウエーデンに届き、半月後には北半球全域で観測された。

ソ連政府は、当初、事態を深刻に受け止めず、国内外に事故を秘匿した。

為に、消火活動や復旧工事に大量の人を送り込んだが、彼らは無防備で大量被爆することになった。

 

changes in thyroid disease person of neighboring country Belarus

< 4. changes in thyroid disease person of neighboring country Belarus, yellow = adult, blue = young man, red= child, vertical axis = number of patient /100000 people >

 

The clear damage were 33 worker’s deaths at the first stage, people’s migration of 130,000, and the pollution area of 130,000㎢.

However, a large number of the diseases and the deceased persons that were doubted of radiation exposure increased rapidly afterwards among the associated workers or the local inhabitants.

It is assumed that the deceased persons by the accident are from several hundred to hundreds of thousands of people.

But, because the causal relationship cannot be proved, the formal announcement is nothing (it is always the same).

 

明確な被害は、初期に対応した33名の死亡、13万人の移住、汚染地域13万k㎡でした。

しかしその後も関連した作業者、地域住民から多数の死者や放射線被曝を疑われる病気が急増した。

事故による死者は数百から数十万人が想定されているが、因果関係を証明することが出来ず、正式な発表には至っていない(いつも同じ)。

 

newspaper report 

< 5. newspaper report >

 

How would the world report it?

Originally, although the truth should have been reported, the reports were written with respective strong speculation.

For the Soviet Union, the accident was the biggest catastrophe.

This nuclear reactor was an independent developmental technique, and also government management.

The world was in the middle of the U.S. and Russia Cold War.

Moreover, many European and American advanced nations were promoting the nuclear power plant industry, and nuclear power plant industry had grown in greatness.

Once, a prominent American nuclear reactor scholar repeated theoretical calculation, and concluded, “A nuclear power plant disaster is lower than the probability that a meteorite will fall to Yankee Stadium.”

 

Next time, I look at the reports in East and West.

 

世界はどのように報道したのだろうか?

本来、真実が報道されるべきでしょうが、それぞれに大きな思惑が働きました。

この事故はソ連にとって動天驚地の大惨事であり、この原子炉は自前の開発技術で、国営でもありました。

世界は米ソ冷戦の最中でもありました。

また多くの欧米先進国は原発を推進しており、原発産業は巨大化していました。

かつて米国の著名な原子炉学者は理論的な確率計算を積み重ね「原発事故はヤンキースタジアムに隕石が落ちる確率よりも低い」と結論づけていました。

 

次回から、東西の報道を見ていきます。

 

 

 

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A spring of Awaji Island: Awaji Yumebutai3


Hundred step garden 

< 1. Hundred step garden >

 

This time, we look down the whole from elevated hill.

今回は、高台から全体を見下ろします。

 

 A panoramic view of Awaji Yumebutai  

< 2.  A panoramic view of Awaji Yumebutai  >

A red frame is the place having taken the photo.

赤枠が今回の撮影地点です。

 

 a view from the rooftop terrace 

< 3. a view from the rooftop terrace >

Upper fig.: the right is the hotel, and the beach of the shell is located just on the underside.

If it isn’t dim, Osaka and Wakayama are visible beyond Osaka Bay.

Lower fig.: a garden and a fountain are in the rooftop terrace. 

 

上図: 右側がホテル、下が貝の浜。霞んでいなければ大阪湾の向こうに大阪、和歌山が見える。

下図: 屋上の庭園、噴水。

 

Hundred step garden 

< 4. Hundred step garden  >

Upper fig.: the flowers of around the world are blooming in the hundred step garden.

Akashi Kaikyo National Government Park is seen beyond it.

Lower fig.: The long artificial waterfall is seen at the front.

The flowing water is maintaining a fixed rhythm, and falls down the stairs.

 

上図: 百段苑には世界中の花が咲き誇る。その向こうに淡路島国営明石海峡公園が見える。

下図: 手前に人口の滝が見える。水は一定のリズムを保ち、階段を流れ落ちて行く。

 

I looked down the hotel from a top of Hundred step garden  

< 5. I looked down the hotel from a top of Hundred step garden  >

 

 The roof of the Green house is seen at the lower right 

< 6. The roof of the Green house is seen at the lower right >

The other side of the sea is a cityscape of Kobe and Mt. R     okko.

This time, although I don’t introduce it, Akashi Kaikyo National Government Park and the Green house are also wonderful.

 

Introducing about Awaji Yumebutai is last now.

海の向こうは神戸の街並みと六甲山。

今回、紹介していませんが海峡公園と温室の植物館も素晴らしいです。

 

これで淡路夢舞台の紹介を終わります。

 

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